悠々会討議レポート


レポート担当 中川 恒雄

■本勉強会までのいきさつと動機
■はじめに
■ドイツ連邦の内閣と地方政府等の問合せ先
■中央集権と連邦制
■戦後の日独産業政策の相違
■円高問題
■システムとしての政治
■選挙制度と任期
■世論とジャーナリズム
■教育制度と文部省
■市民の政治的意識
■終身雇用制に潜む問題点
■開かれた社会と外国人・少数民族の政治参加
■ドイツの憲法と司法
■当勉強会の今後の活動と「さきがけ」
■おわりに

◎高井 三樹郎 氏の付属意見
◎「日本連邦宣言」へのリンク


▲Intro

本勉強会までのいきさつと動機

 細川政権下の11月、福田裕君の松任市議選告示の日、早朝必勝祈願から出陣式第一声までの間、駆けつけた中川外司金沢市議と折からの政局・選挙制度・政治改革を3人で話す機会を得た。国内の御都合主義的議論・詭弁や軸ずらし的駆引きではなく欧米諸国を範に本来あるべき改革を論じあった。その要約が「日本型中央集権への訣別」である。その後今年3月、先ず地方分権の先進国ドイツの政治制度・政治風景をドイツ人ゲストから聞く場をと、中川外司・金沢市議を囲む「つかさ会」を開催。そのイントロダクションとしてしたためたのが「ドイツと日本」である。
 7月初旬「さきがけ」本部訪問から帰沢の中川市議の呼び掛けで、地方政治をよくしようとするメンバーが集り「さきがけ」の主張について討議する。共産党ではあるまいし、「先に党中央ありき」というのは如何か。地方分権は国家行政だけでなく政党も地方主体にあるべきではないか。そこでメンバーの考えかたが一致し、当会を悠々会と名付けた。当面、政見の一致する中央政党と提携する新たな地方政党の在り方も論議した。

 日本の教育では諸外国の政治制度は大統領制のアメリカ合衆国と議員内閣制のイギリス、既に崩壊したソ連という程度の紹介しかなされず。ジャーナリズムにおいても概ねその域をでない報道ぶりであったように思われる。一国の権力の在り方は財政権(徴税権・郵便貯金や各種公的保険金等の運用権)の在り方による。それにより中央集権型となったり、地方分権=連邦制となったりしていることを国民の意識にのせないように意図されてきたのではないだろうか。連邦制などというものは国土面積・人口・資源・歴史が日本と違うアメリカの制度だと錯覚させられてきたようにおもえる。

 「省益の前に国益なし」ともいうべきマフィア化した霞ケ関各省の権益にメスをいれ地方分権化しようという声に、軸ずらし的反論などの抵抗がおこなわれているようであるが、その答は我々の意識外におかれてきた他の「高度に成熟した民主主義諸国」があたえてくれるのではないだろうか。国土面積・人口等が日本とほぼ同程度の欧米諸国と言えばイギリス・フランス・ドイツ・イタリアなどであろうか。なかでもドイツと周辺諸国は歴史上「大ドイツ」と「小ドイツ」の間で、あたかも日本の県の幾つかが独立してしまったような関係にもみえ、日本という国を現在の固定した枠組みだけに限定するのではなく、さまざまな可能性を示唆してくれる。ともに敗戦より奇跡の復興を遂げたドイツと日本だが、片や「生活者大国」、片や「生活者小国」の今日である。

 前に述べた2つの拙文に目を通していただいた中谷氏より「究極の地方分権・連邦制」代表のドイツの勉強会をしたいとのこと。オランダのハンデルスブラット紙特派員カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の著作『日本/権力構造の謎』−THE ENIGMA OF JAPANESE POWER−も参考文献としてとりあげた。
 以下、8月8日の討議のレポートである。限られた時間の討論で各人の口に上らなかった文言や多岐に亘るテーマで失念・割愛した事項のほか、担当者の私見によるバイアス(偏向)がかなり加えられたのではないかと、おことわりしお詫びしておかなければならない。


参考:我々、旧保守に対し旧(?)革新と出自は違うが、「市民新党にいがた」の論文「地域政党の動向」
   北野進・石川県議のホームページの「能登にこだわる市民のための ローカルパーティを考える会」

目次に戻る
▲Intro

はじめに

 8月8日迄の間、ドイツ オーストリアスイスの各国政府発行の和文概説書を取寄せ、各人に配付・通読する。期せずして3ケ国とも連邦制国家であった。オランダからは英文の「選挙・政党システム」編が届く。オランダの英語名は“The Kingdom of the Netherlands”で複数型であり王政国家にして連邦制かと推察する。G7+αの欧米先進国では中央集権国家はイギリス・フランス等意外に少数派で、アメリカ・ドイツに代表される連邦制国家が多数をしめているのではないだろうか。イタリアでも連立政権に参加の「北部同盟」連邦制を要求している。

 オーストリア政府発行の『事実と数字』44ページには

基本的権利と自由は憲法のうちに保証されており・・・この憲法は人権と基本的自由を擁護するヨーロッパ協定の条項によって補われ、完全なものになっている。

とあり、スイス政府発行の概説書35ページには
基本的人権は、人権に関するヨーロッパ協定によって保証され・・・

とある。この「ヨーロッパ協定」−Europäische Konvention−とは何ぞや。我が国ではどのように扱われているのか。日本国民には知らせないほうが都合がよかったのか。
 各大使館からEU(旧EC)の日本事務局と連絡をとり、これは“Council of Europe”関係の文書で日本では国会図書館の官庁国際機関資料室へ文書で依頼するほかないことまでわかった。しかし、この“Council of Europe”も何ぞや。似た名前の“European Council”はEU内部の組織らしいのだが、EFTA諸国も加盟するこのような国際機関は教育を通じても報道を通じても、目にしたこともなければ耳にしたこともない。

 引続き他の諸国大使館とも接触する予定であるが、このことを含め県および各市の議会事務局に資料収集の協力を求めることの必要を感じている。


目次に戻る
▲Intro

ドイツ連邦の内閣と地方政府等の問合せ先

 中央集権の日本と連邦制ドイツの内閣を比較するのは、違いの中から素朴な疑問や具体的な問題意識を掘り起こすのにも意義あることと思われる。また各地方政府は別個に各州の首相のもと内閣および各省庁が組織されている。神戸の領事館より送られたものを添付する。(末尾資料3および末尾資料4


目次に戻る
▲Intro

中央集権と連邦制

 ドイツ政府発行の『ドイツの現状』−Tatsachen über Deutschland−335ページには

文化ほどドイツの連邦国家としての性格が鮮明に残されている分野はない。フランスにおけるパリやイギリスにおけるロンドンのような、国の中心をなす首府はかってドイツには存在しなかった。各々の領邦国家がそれぞれ独自の文化を育て、それが大小の特色ある文化の中心を成立せしめ、現在どんな小さな町でも文化・学問の生活が営まれるに至っている。
文化の多様性(ドイツの実情)
とある。
 領邦国家を藩と読み替えれば明治維新前の日本も同様であった。そしてこれを可能ならしめるものは連邦(中央)からの財政主権の独立にほかならない。
 我が国の中央集権は廃藩置県に始るが、それを決定的にしたのは憲法調査に訪れた伊藤博文へのビスマルクのレクチャーともいわれる。ドイツ帝国統一を果たしたとはいえ、幕藩体制とも見違える分権体制はビスマルクの思うところではなかったであろう。普墺戦争・普仏戦争の大戦に勝利した「輝ける」プロイセン宰相の思いは全ドイツにプロイセン的専制政治(中央集権)を敷きえぬ不満。片や憲法制定を求める自由民権派の理想はフランス・イギリスで、ともに中央集権国家であった。それ以上に帝国主義の華やかな時代にあっては独立を保てなかったかも知れない。


目次に戻る
▲Intro

戦後の日独産業政策の相違

 戦後ドイツの経済復興は国民の持ち家政策によるとも言われる。住宅建設は大工・左官・配管・電気等の技術者に職を与えるばかりではなく、各種の建設資材産業を興し産業連関による波及効果を生んだのである。
 日本では先ず輸出を増やし企業に力をつけ給料が上がるまで我慢を強いてきた。そろそろ持ち家政策と言うときには、力のついた企業は土地投機に走り国民が得るべき富を奪ったのである。

 このドイツの経済運営はアデナウアー内閣の経済大臣・大蔵大臣エアハルトのもとに行われたがドイツの保守党キリスト教民主社会同盟(CDU、CSU)の政権であった。我が国の保守党・自由民主党とのこの政策の違いは何によるのだろうか。
 戦前ナチスやファシストの経済運営手法を学んだ革新官僚と言われる一群が岸信介を筆頭にパージをくぐりぬけ復活し、中選挙区選挙を通して政界に、財閥解体後の財界に、レッドパージの官界に繁殖していった様子が『日本/権力構造の謎』に克明に書かれている。

 米ソ対決の冷戦構造の下、反ソ・反共というだけで自由主義陣営の一員として振る舞えた日本ではあるが、実際は本国ドイツでは絶滅してしまったナチスの残党ともいうべき集団が日本の政治・経済・社会を運営し教育してきたともいえる。
 ここに政財官の鉄の三角形が構成され一種の統制経済により日本の「繁栄」がもたらされたわけである。海外で「異質な国・日本」と呼ばれるのはこの意味においては当然である。今後の日本で中央集権を排除し地方分権=連邦制を希求するのはまさにこの構造を打破せんがためである。


目次に戻る
▲Intro

円高問題

 米ドルに対する為替の動きについても日独両国の比較はあまり丁寧に分析し報道されていないように思われる。この比較は日本政府、殊に大蔵・通産の官僚批判に帰するし、報道機関の姿勢も問われるものではないだろうか。両国ともに大変な貿易黒字国でありながら、なぜ日本だけが実勢を越えた円高圧力にさらされているのか。国民に我慢をさせて貯金させた銀行預金を企業への設備投資資金としてまわし生産能力を増大させ、インフレ過程の時間差で企業の返済を実質軽減し虎の子の貯金を目減りさせる、すなわち家庭の富を企業へ奪うという大変な犯罪を官僚達はおこなってきたとウォルフレン氏は指摘している。
 今、需要と供給が適正バランスを遥かに越えてしまったにも拘らず、生産能力を増大させ国民に高値で買わせ、過剰生産部分を赤字輸出している。赤字輸出により生ずる貿易黒字が更に円高を加速するという悪循環に陥っている。もはや農業だけではなく工業製品においても耐えることのできない円高である。1マルク垂P00円が実勢とすれば1ドル垂P.5〜1.6マルクだから1ドル垂P50〜160円が妥当なところではないだろうか。購買力平価では1ドル垂P70〜180円ともいわれる。
 公正取引委員会が骨抜きとなり市場メカニズムが働かない状態で輸入品・国産品の別なく本来の価格以上の支払いを日本国民は負わされている。ドイツでは何故このような悲惨がおきないのか。日本のどこを改革すべきなのか。


目次に戻る
▲Intro

システムとしての政治

 日本国憲法には「外国移住及び国籍離脱の自由」が銘記されている。しかしウォルフレン氏が言うように、世界に占める日本の影響がこれだけ大きくなっては、日本が一旦おかしくなれば世界中が無事にはすまない。
 永らく「寄らしめよ知らしむべからず」として、己れの容れられた容器を替えることに慣れていない日本人であるが、世界がそれを許さない時代がきている。
 経営の分野には経営工学というジャンルがあるのと同様に政治でも政治工学というか、政治を先ず機械システム或いはコンピュータのシステムプログラム的に捉え、システムコントロール部分では如何に民主的意思を反映させるか、システムがループ・暴走した場合の脱出方法、ウォルフレン氏の言う<システム>のようなコンピュータウィルスやハッカーに侵された状況からコントロール可能状況を如何に回復するかという視点をもつべきである。

 機械システム或いはシステムプログラム的に捉えれば、中央集権か連邦制か。その中で財政権は財政調整(ドイツでは中央政府を通さずに州から州を水平的財政調整−horizontaler Finanzausgleich−、州から市町村を垂直的財政調整−vertikaler Finanzausgleich−と呼んでいる)を含めどうあるべきか。連邦制の場合に立法・行政・司法の3権をどう国・県(州)・市町村に配分されるべきか。第4権ともいうべきジャーナリズムは如何にあるべきか。
 システムコントロール部分としての選挙では短期的・地域利益代表部分(小選挙区部分)と中長期的・良識部分(比例代表部分)の配分はどうあるべきか。国だけでなく県・市町村の各レベルで比例代表を取入れなくてもよいのか。代義制の度合いは現在、国レベルでは非常に大きいが、地方レベルでも首長選挙などは代議制に任せてもよいのかもしれない。

 代議制を論ずるとき国民・住民投票権(レファレンダム)を憲法に盛りこむべしとの主張が聞かれるようになった。スイスの概説書35ページにはそれに先立って国民・住民発議権(イニシアティヴ)を紹介している。議員立法すら殆ど行われない日本にあっては議会外の議案提出権など問題外なのかもしれないが、官僚以外の議案・法案作成が容易にできるシステムを行政の外に用意し役人に頼らなくてもよいようにすべきである。


目次に戻る
▲Intro

選挙制度と任期

 先般の選挙制度改革まで、我が国の選挙は殆どすべて、ただ一人の個人名を書く方式であった。この方式では地味な長期的政策より、短期的利益代表や人気投票の色彩が濃くなり衆愚政治に堕する要素を含んでいる。多くの汚職議員がミソギをうけて返り咲きできるのもこのためである。選挙区で当選しても全国区投票で落とせるようにするのも一案である。また中選挙区制での複数名投票も一案であったかもしれない。
 アメリカの選挙も概ねこの方式で、大統領選挙や中間選挙のために世界中で過去どれだけ多くのしなくてもよい戦争が戦われ、死ななくてもよい人が命を失ったことだろうか。
 一人の政治家が真価を発揮できる案件は何件ぐらいであろうか。それは何年間ぐらいであろうか。員数合せの「並び大名」的議員が多すぎるのではないだろうか。もっと多くの有為の士が、為すべきを為しとげて入れ替わり立ち替れるようにできないだろうか。

 ドイツでは連邦参議院の住民選挙はなく、各地方政府や地方議会から送られる。地方政府首長選出方法は各州の憲法により議員内閣型・大統領選挙型に別れている。5%阻止条項(連邦選挙法第6条6項)で比例代表の5%未満の政党(少数民族などは例外)は排除され、小選挙区でも3人以上、即ち3選挙区以上で議席を取れない政党は排除されることになっている。また「緑の党」では担当案件にもよるが、比例代表議席については4年任期の半分の2年で名簿搭載順位を変更し議員を交替させる制度をとっている。オーストリアでも参議院にあたる連邦議会議員は各州の州議会から送られる。

 選挙制度改革については衆議院に引続き参議院、各県市町村の議会・首長選挙とそれぞれの任期と定年制を日程にのせるべきであるが、どの選挙方法も財政権のありかた、即ち地方分権のありかたにマッチしたものでなければならない。
 イタリアでは永らく比例代表制をとってきたが、なぜあれほどまで政治が腐敗したのだろうか。やはり財政権が中央に集中しすぎていたためではなかったのだろうか。

(この項補足


目次に戻る
▲Intro

世論とジャーナリズム

 民主主義に最も重要なものに世論がある。多くは新聞やテレビのジャーナリズムに依存し、その中立性と専門性が問題となる。ウォルフレン氏は更にジャーナリズムを支配する官僚と巨大公告代理店の存在という日本の特殊性を指摘している。氏の『民は愚かに保て』の副題は「日本の官僚と大新聞の本音」であった。
 英雄待望論で政治的無気力を助長する時代劇、なかでも政財官の汚職のひそかなガス抜きをしているのが「水戸黄門」と「遠山の金さん」であろう。世論調査と称して行われる世論操作。官僚の手先と化した新聞報道。400字制限の投稿欄。各社海外特派員の馴れ合い翻訳報道。ウォルフレン氏などの辛口の論客が大衆メディアから遠ざけられてはいないか?。

 ドイツの新聞の殆どは30万部程度の地方紙で日本の中央紙のような大新聞はない。アメリカでは学生などが運営する無数のラジオ局があり言論の場が確保されている。日本では先ず電波の割り当てなどで行政の規制が強い。小出力のFM局は許可されているが、あまりに小出力にすぎる。
 官僚や資本に左右されない言論の場をいかに確保するか。これからのマルチメディアや情報スーパーハイウェイはこの手段を提供できるだろうか。我々の勉強会も及ばずながら、その場を形成すべきであるが、この分野でも地方の主権回復が必要である。

(報道に関連して)


目次に戻る
▲Intro

教育制度と文部省

 今日の政治社会の状況をもたらした原因のひとつに我が国の教育制度があるのではないか。日本の将来は教育の在り方にあるにもかかわらず、この問題にたいし多くの有権者には発言の場があたえられていないのではないか。日本の教育は落ちるところまで落ちて、このままでは2流国3流国になってしまう。今、最もリストラ・リエンジニアリングが必要とされている分野である。

 最近の高校の数学は問題を幾つかのパターンに分類し、その解きかたを暗記させている。このため女子の数学の点数がのび旧帝大クラスへドンドン進学している。とはある高校の教育現場で聞いた話である。確かにどこかが狂ってしまったようだ。ドイツのアビトゥーア - Abitur - やフランスのバカロレア - Baccalauréat - などの卒業検定制度を導入し大学入試を原則廃止とすべきではないだろうか。(卒業検定試験はオーストリアやスイスではマトゥーラ - Matura - 、フランス語地域ではマチュリテ - Maturité - と称して実施している。そしてイタリア本国でも、マトゥリータ - Maturità - であり、共に英語の maturity の類語である。)

 卒業検定試験では数学・物理等は特定数値を計算させるのではなく定理・公理等の基礎理論の理解度および自由な発想による論理展開能力(そもそも数学という学問は紛れの入りにくい記号論理学なのだから)をみる出題に替え、語学は会話力重視に替えるべきである。計算の必要な場合は電卓使用可能とすべきである。たかだか1,000円電卓にも及ばない計算力の多寡と暗記力で進路を左右しているのが日本の教育ではないだろうか。その後の大学の水準たるや言わずもがなである。

 文系として進路指導される近代経済学などは微分・偏微分・統計学等が論理展開の上で欠かすことはできない。因果関係(凾数関係)が複雑で、それ以上に時間を元に戻しての理論検証の実験を繰り返すことの不可能な社会科学の発展は、その比較的容易な自然科学の発展に触発されてきた。バイアスやフィードバック、エントロピー等の概念が政治学などの社会科学でも用いられるようになったが、もとを正せば電子工学や熱力学の概念である。イギリスの経済学者マーシャルは『経済学の生物学的類同性と力学的類同性』という一文を残している。この社会科学の分野での我が国の水準は世界的に極めて低く、この分野の出身者が我が国の指導的立場を占めてきた。中央集権の官僚養成所(東大)を頂点とする教育制度ではむべなるかなではあるが、高校卒業検定が暗記や計算力・難問奇問ではなく全教科に等しい基礎理解を必要とする所以である。

 また、受験英語が如何に日本の国際化を阻み、実質的な言論統制をもたらし、ウォルフレン氏の「民は愚かに保て」を具現していることか。東欧の自由化は西欧諸国からの放送によるところ大であり、彼等の語学力によることを思えば、「日本の明日は?」と思わざるをえない。会話指導に毎年、多くの外国青年を受入れているが、進学率の高い高校ほど邪魔者扱いしている。図書館は本来の目的からはずれ、受験生の試験勉強の場と化し、ろくな資料も蔵書もない。いたずらに建築業者と発注に絡む政治家の私腹を利するのみ。

 ドイツではナチスの教育統制の反省から文部省は中央政府には無く各州政府に置かれている。大学の殆どは州立で、学生は各市がスカウトする教授達を追って各大学を移り歩く。従って学閥はなく、何を何先生のもとでどの程度修めたかが重要となる。国立大学がなく州立大学が主流なのは同じ連邦制国家のアメリカも同様である。

 日本の大学での外国語の扱いは○○文学科か○○語学科でヨーロッパの大学の Japanologie=日本学のような扱いはない。文化や歴史のみならず、その国の政治・経済・法律・社会の総体を捉えての例えばドイツ学とかアメリカ学のような扱いがなされていれば我々の資料収集も随分らくなのだが。大学の学部・学科の新設・統廃合ももっとテンポラリーに行われるべきである。国立大学を各都道府県に移管し教育行政を地方の主権のもとに置くべきときがきているようである。

悠々会、第2回レポート第3回レポート
松下政経塾16期生の白井智子さんのホームページ
青森県の中学校教諭、前田之人氏の教育の広場

目次に戻る
▲Intro

市民の政治的意識

 最近、金沢でも多くの欧米からの青年達と接する機会が増えた。彼等と話すにつけ何と日本人は引込み思案だろうと思う。極度の受験競争の中で変に「身の程をわきまえ」自由な発想や個性、自信やチャレンジ精神を失ってきたためではないだろうか。
 封建制(お上)「→近代市民社会(個人主義)が今日あるべき状況だが、今の日本は全てに「お上」意識が変っていない。即ち「待ち」と「たかり」と「逃げ」の意識であり、市民みずからの手による変革のシステムは育っていない。議員はおろか閣僚すら「お上」すなわち官僚まかせである。

 政治改革は中央政界の動き(さきがけの連立参加など)だけに依存していていいのか。地方の主権回復宣言(移行期間を定めた)や国税不払い運動などの必要はないのか。財政改革は霞ケ関の解体的統廃合による行政改革にもとずくべきであり、行政改革は地方分権=連邦制によるべきだからである。

 「地方分権」が流行語となり猫も杓子も「地方分権」と言っているが、殆どは「どうせなりっこない」と本気で議論していないと思われる。なったら困るからならない様に主導権を手元に置き骨抜きにするために言っているのではないのか。地方分権論者にして連邦制まで踏込んだ主張をされているのは大前研一氏の他には寡聞にして知らない。他の分権論者は、その思い描いている地方分権の具体像を明らかにすべきである。
(このレポートを書いた時はまだ不明にして恒松先生を存じ上げていなかった。後日、講演にお越し頂いた先生にこのままのコピーをお渡ししたのは、実に汗顔の極みである)

 前田家治政の300年で加賀藩独自の文化の中に飼い慣らされてしまったが、かって加賀は「百姓の持てる国」であり、ハンザ都市に比される堺とともに我が国自治の発祥の地であった。今日の百姓である「生活者の持てる国」を全国に発信すべきではないか。

(この項補足


目次に戻る
▲Intro

終身雇用制に潜む問題点

 市民の政治意識を萎縮させているものに日本の労働市場の特殊性も、その一つとして挙げられるのではないだろうか。日本国憲法には「職業選択の自由」が謳われているが、転職の機会も含め需要と供給の原理・競争の原理があまりはたらいていないようである。
 終身雇用制は労働市場の不活性をもたらし、官・民・学・政間の人的交流を阻害し転職の機会・起業の機会を奪い社会の停滞をもたらしつつある。雇用は延長契約可能な期間限定の年俸契約とし、好条件で契約にのぞめるよう能力開発のための社会人教育(語学や教員免許を含む)と、その期間の雇用保険の給付制度を拡大すべきである。現在集められている雇用保険の基金は何にどのように使われているのか。我が国の雇用保険は経済学に言う「ビルトイン・スタビライザー」−built in stabilizer−としての役割を充分に果たしていないのではなかろうか。利用率の低い施設建設や人件費を含めた施設維持費よりも、雇用保険を支払ってきた個人に直接還元されるべきである。

(この項補足


目次に戻る
▲Intro

開かれた社会と外国人・少数民族の政治参加

 経済学に「解放経済」という言葉があるが、これは鎖国的に一国内で経済活動が完結する「閉鎖経済」に対する言葉である。まさに労働市場も解放経済に対応し、政治もその埒外に置けない状況が生まれつつある。その中で、島根県と滋賀県の「さきがけ」の外国人党員を認める動きは時宜をえたものと言え、ヨーロッパにおける国境を超えた政党の存在にも相通ずるものを感じる。
 ウォルフレン氏は、我が国の社会は職場をはじめすべてに単一民族による「疑似家族の虚構」により曖昧に運営され、窓口指導をはじめとする非公式なコントロールが横行していると指摘している。
 アイヌなどの少数先住民族や、我が国の占領政策のもたらした近隣諸国からの人々の政治参加は早くから公式にシステム化されるべきであった。「ヨーロッパ協定」が紹介されなかったのは或いはこの辺りにもと思わせる。近年の多くの欧米人の到来を機に、国籍や民族にこだわらずに政治参加を認め、彼等の参加によりこの虚構を廃し非公式なコントロールのない社会を実現すべきではないだろうか。ネーションとしての国家からステートとしての国家へ脱皮すべきである。

(この項の関連


目次に戻る
▲Intro

ドイツの憲法と司法

 戦後、ドイツの憲法に相当する「基本法」は何度となく小刻みな修正を行っている。最高裁のほかに連邦憲法裁判所がおかれ、憲法と変化する社会との整合性を保つよう仕組まれている。各州にもその州の憲法があり憲法裁判所がある。別に行政裁判所・財政裁判所・労働裁判所・社会裁判所などが各レベルで設けられている。各政党には政党法による政党裁判所もあるようである。立法権・行政権が分権ならば司法権も地方分権なのである。
 民事や刑事だけでなく立法や行政を通じてのあらゆる不正常な状態、それに対する国民の不満は最終的には裁判によるべきであるが、我が国では裁判官の数も弁護士の数も極めて少なく未分化にして未発達である。そして司法が行政に従属させられている状況をウォルフレン氏は指摘している。スイスの制度もオーストリアの制度も我が国の司法制度の比ではない。地方の主権を回復し三権分立を実効あるものとすべきである。


目次に戻る
▲Intro

当勉強会の今後の活動と「さきがけ」

 「社民リベラル」という定義の曖昧な、時と共に持つ意味が変化するものをもって新党結成させようという動きも散見される。時々に目まぐるしく変る政局に翻弄されることのない、明確な理念と「旗」を考えるべきである。

 今後の活動・運営はそれぞれの分野の人達の参加をえると同時に分野別討論の場を作って貰うべきではないかということになった。
 そして単に評論の場ではなく、現況からどう離陸し連邦制なら連邦制へ如何に軟着陸するか行動する場にしなければならない。企業では単なる評論の場は許されない、とは企業経営者の高井氏。

 期せずして勉強会の打合せ・顔合わせに集ったメンバーは全員が「新党さきがけ」にそれぞれのシンパシーを覚えるものであったが、党中央主導の「さきがけ塾」ではなく、我々地方の勉強会主催の「さきがけ講師」として広く県民・市民の参加を求めるべきである。また一般参加の集会は参加費用をとるべきであり、真剣な議論と行動のおこる場とすべきである。


目次に戻る
▲Intro

おわりに

 戦後50年、明治130年。我が国をめぐる諸問題はいよいよ動脈硬化的様相を呈しつつある。条文の解釈論・拡大解釈で現実管理能力の低下した憲法はこのままでよいのか、行政改革・税制改正、食糧管理制度と農業政策、土地担保に偏った金融制度と土地住宅政策、東大を頂点とする極端な受験戦争と教育の歪み荒廃、東京への一局集中(過密・過疎を解消して国土の均衡ある繁栄)、霞ケ関中央省庁の縦割り行政による硬直した予算配分、遅々として進まぬ地方分権・規制緩和、骨抜きにされたままの公正取引委員会等々の解決は、逐次個別に議論を重ねても、それぞれ中央官僚ほかに骨抜きにされてしまうおそれが強い。何よりも先ず世界・国・県・市町村・ヴォランティアそれぞれの役割分担(財政権の分割を含め)を明確にし、地方分権の行き着くところの連邦制移行によるべきであり、各地方機関の契約による国家機関の再構成によらねばならない。

 一国の政治経済の様々な段階・局面を考えるとき、車のギヤチェンジをイメージすることがある。どんな国も最初からトップギヤというわけにはいかない。我が国も明治維新から敗戦を経て今日にいたるまで何度ギヤチェンジをしたことになるのだろうか。今日またギヤチェンジの時がきているようである。最近の乗用車は殆どがトルクコンバータのオートマチック車となったが、政治のトルクコンバータを何になぞらえるべきか。それは政治改革の新しい「旗」の一つ、住民一人一人のコントロールが効きやすい連邦制こそまさにと思えてならない。


目次に戻る
▲Intro

このレポートは平成6年9月30日、高井氏の付属意見と共に、田中秀征氏を迎える記者発表の席でマスコミ各社に配布された。
また、田中秀征氏を招請するにあたり、菅 直人氏と長年の友人関係にある中谷氏より、菅氏をはじめ当時「さきがけ」の幾人かの国会議員のもとへ届けられた。

できればあなたの意見を聞かせて下さい。
mailto:nkgw@knz.fitweb.or.jp