生物学的類同性
Alfred Marshall | 山田雄三訳 |
ここに訳載せる Mechanical and Biological Analogies in Economics. は、もと Economics Journal. March, 1898. に発表せられたる論文 Distribution and Exchange. より抄録せるもの、本論集においては Memorials of Alfred Marshall, edited by A.C. Pigou. London 1925. に再録せるものを底本として利用した。
静力学(静態)・動力学(動態)といふ言葉は物理学から経済学へ輸入されたものである。この言葉についての経済学者間におけるある種の議論にあっては、静力学と動力学とは物理学の明瞭な部門であるといふ如く考えられてゐたやうである。しかし無論さうではない。近代の数学家は動力学が静力学を含むといふ考へ方に慣れてゐる。数学者が一つの問題を動態的に解決することができたとしても、彼はそれをまた静態的にも解決しようといふ意図をもつものではない。動態的解決から静態的解決を導くために一切必要なことは研究すべき事物の相対的速度を零に等しとなし、かくしてそれらを相対的休止(レスト)の状態に置くことである。しかし静態的解決はそれ自体の要求をもってゐる。即ちそれは動態的解決よりも簡単であって、より困難な動態的解決に対して有用な準備と練習とを与へることができる。更にそれは動態的解決が不可能であるやうな複雑な問題に対し予備的・部分的な解決を期する第一歩であり得る。ここに相対的休止といふ語を注意すべきである−−何故ならばそれは経済学者の所謂静止状態において重要な役割を演ずるものだからである。『絶対的休止』といふことは無意味な語である。静態的問題は相対的休止に関係する。この事実は恐らく『車中の人』にとっては親しみ易いものであらう。汽車が真直ぐの軌道の上を滑かにはしってゐるとする。その時車中の人は網棚の上に荷物を乗せて置くといふ問題を静態的なものとして取扱はうとする−−何となればすべてのものは動いてゐるが、荷物は相対的に休止してゐるからである。しかし専ら静態的条件なる関係の下に客車の上部に載せられてゐる荷物は、もし汽車の運動が阻止されると極めて落ち易いといふことを経験は教へる−−外観的に平静な静態的問題のうちに潜んでゐる破壊的動態的要素を注意すべきであることを経験は教へる。
多くの論者は社会科学中に物理的諸概念を導入した。さうして面白いことには、ミルは『力の合成 (Composition of Forces) の原理』が経済学に適用し得るといふ事実のうちに経済学的方法の鍵を見出したことを喜んでゐる。『精神がこの原理を適用する時、それは単純な加法の運算を行ふのみである。それは一つの力の分離せる結果を他の力の分離せる結果に加へ、これら別々の結果の合計を結合結果と考へるのである。』
この事は正しい−−さうして適当な意味における静態的問題に関してはそれは全く正しい。何となれば、相互に相対的に厳密に休止してゐる事物の均衡を考察する場合には、我々は単純な算術によって一点に種々なる方向において作用する諸力を加へることができ、その合計が零であることを確かめることができるからである。
しかし動態的問題においては、それは正しいとはいへ全部的真理ではない。何となれば一の力が作用して事物を動かす時、それによってその事物がやがて作用するところの力を変化させるからである。地球の引力は金星の運動を変へ、かくて金星が地球に及ぼす力を変へる。−−それは更に地球の運動を変へ、したがって地球が金星に及ぼす引力を変へる。かくの如くして無限にしかし次第に減少する相互的影響がある。他方、二つの惑星は僅かながら太陽に妨害を与へる、太陽の引力は両者に対する主たる統制者である。すべての他の惑星も統制の一部を荷ふ。かくの如き複雑なる関係に対しては算術は役に立たない−−この関係には沢山の数式及び数字を用ひ大なる数量を取り扱ふところの広汎・緻密なる数学的技術の力と巧妙さとを必用とする。しかしこれらの技術は経済学には適用し得ない。経済学への数学の最も有用に適用されるのは短くて単純なものであり、それは僅かな記号を使ふにすぎない。さうしてその目的は大きな経済運動の無限に複雑な関係を示さうといふよりは、むしろそのある少部分に対して輝かしい光を投じようとするにある。
かくの如くであるから、経済問題について物理的意味における動態的解決は到達し得ないものである。もしも我々が苟も物理的類同性に固執すべきであるならば、我々は我々の到達し得るやうなある粗雑・不完全な動態的解決に対して静態的解決のみがそれへの接近の出発点を提供するものであるといはなければならぬ。このことは私がいま論じようとする本体である。しかし私は他の表現を選ぶであらう。
類同性は人を鞍に乗せる助けをするかも知らぬが、それは長い旅行には邪魔になる、といふのは至言である。如何なる時に類同性を棄てるかを知ることはそれよりももっと大切である。二つのものが最初の出発的段階においては互に類似してゐる事がある。二者を比較することはその場合には助けになる−−しかし暫くするとそれらは離れる。さうなると、比較は判断を混乱せしめ歪ませる。経済学的考察の最初の段階と物理的静態の技巧との間には緊密な類同性がある。しかし経済学的考察の後の段階と物理的動態の方法との間にも、果たして同様に有用な類同性が認められるで洗うか? 私はさう思わぬ。経済学の後の段階において一層よき類同性は物理学よりも生物学から得らるべきであると思ふ。したがって経済学的推理は物理学的静態のそれと類同せる方法に出発し、次第にその調子において生物学的になるべきであると思ふ。勿論新しい考察群、即ち貨幣・信用・外国貿易の如きは他のある考察がかなり運ばれた後に導入されることがある。これら新しい関係の最初の取扱ひにあっては物理学的類同性へ一時的に復帰することがあるかも知れない。しかしそれは直ちに過ぎ去るであらう。さうして進んだ段階において新事項が旧いものと共に考察されようとする場合には、その方法は物理学から益々遠ざかり、生物学へ益々接近するやうになるであらう。
さて、いま少し詳しく経済学的推理の最初の段階に対し適当なるものを考察しよう。人の力には制限がある−−自然の謎はいづれも複雑してゐる。人はそれを砕いて、一時に一片づつを研究し、さうして彼の小さい力全体の異常な努力をもって、遂に部分的な解決を結合し全体の謎の解決のある試みを行ふのである。自然の謎を解くについて、人は素朴なしかし効果的な一つの牢屋または檻を適用する。それはセテリス・パリブス (Coeteris Paribus) と呼ばれる。諸傾向のうちのある群を研究するには他の事情にして等しきかぎりといふ前提によってその研究が遊離化される−−他の諸傾向の存在は否認されるのではないが、それらの障碍的影響は暫く無視される。かくて研究の内容が狭まれば狭まる程、それを益々正確に取扱ふことができる。しかし同時にそれは真の生活には密接に対応しないことになる。
狭い内容を精密・確実に取扱ふことは、しかしながら、その狭いものを含むより広い内容を他の仕方でなし得るよりももっと正確に取扱ふのに役に立つ。研究を進めて行く一歩一歩において多くの事柄をその檻から出していくことができる。正確な議論が最初の段階で可能であったよりも一層具体的になされ得るし、現実的議論が一層正確になされ得る。
セテリス・パリブスなる檻は我々が考察の最初の段階において予め考察の外に置こうとする障碍的原因を封ずるに役立つものであるが、それは『制止状態』 (Stationary State) なる有名な擬制態に適用される場合にも役立つ。この状態はそのうちに生産と消費との、また分配と交換との一般的条件が動かずに止まってゐる事実からその静止といふ名前を得てゐる。けれどもそれはなほ運動で満ちてゐる。何となればその状態は生活の一態様だからである。人工の平均年齢は静止的であるかも知れない。しかし各個人は少年から成年へ成長し、更に老年へと降っていく。事業経営の平均規模は静止的であるかも知らない。いかし任意の瞬間では殆んどすべての事業は或は興り或は亡んでゐる。穀物の平均価値は静止的であるかも知らない。しかし現実の価格は次々の収穫の流れと共に動揺する。休止の中心をめぐるかかる動揺の研究は真に動態的な問題である。尤も動態的問題の最も単純な形式は常に『静止状態』の研究のうちに含まれ、またそれは実にかかる状態を擬制的に考へることの主たる誘因を提供する。
その擬制は人口が静止的であるべきことを要求しない。静止的状態のほとんどすべての特質は人口と富とが共に成長しつつある事情にも現れる。即ち人口と富とが略々同一の割合をもって成長し、かつ土地の不足が生じないかぎり、更に生産の方法と産業の条件とが殆ど変化なく、殊に人間自身の正確が常数であるかぎり、さうである。何となればかかる状態の下にあっては生産及び消費、交換及び分配の最も重要なる条件は、量において増加するとはいへ、依然として同一の質をたもち、かつ同一の一般的相互関係をたもつが故である。かくてフラックス (Flux) 氏の私信を引用すれば、『生態的といふ語は我々のいはんとしてゐるところを正確に表してゐない−−我々は流動力学において親しんでゐるところの「恒常運動」なる概念を表現しようとする。個体から例をとるならば、独楽または自転車の場合に見られるところを表現しようとするのである。』
しかしこの静止状態は過去の時代においては実際生活の条件に多少類似してゐたが、今日では殆んど類似してゐない。この点についてはミルの時代以後でも目に見える変化があった。即ち、今日作用してゐる諸要因の多数はミルの時代にもやはり作用してゐたが、それらの相対的重要さは著しく変化し、したがって問題の全貌を変へるに至ってゐる。
ミルの青年時代にはイギリスは尚ほ原料品を獲得する困難に悩んでゐた。さうしてこの事は分配上に不公平をもたらしつつあり、したがって土地を所有するものには有利となり、労働によって所得を獲得しかつ家族を養はなければならぬ者には不利となった。かくて英国の上に投ぜられた暗影は馬鈴薯飢饉において二度目の頂点に達した。それ以来暗影は薄らいだ−−しかしミルは常にリカアドウやマルサスを圧迫したと同じ憂慮に悩まされてをり、彼のか『産業と人口との進歩が地代、利潤及び賃銀に及ぼす影響』に関する研究にはその憂慮が悲調をさへ与へてゐた。注意すべきことは、その議論が賃銀基金説の誤謬から免れてゐることである。この論文は国民所得に純生産物が分配される課程を一つの流れと見て研究したものであって、分析的見地から見ればそれは恐らく彼の仕事の最も進歩せる近代的な部分である。今から一世紀の後には、その章節の本体は今日におけるよりも一層近代的になるかも知れない。何となれば今日の増殖割合をもってすれば全世界は数世代を出ずして人口に満たされるであらうからである。しかし、今のところ、西欧諸国民が原料品供給の便を得つつある肥沃地の面積なるものは人口よりも遥かに急速に増加しつつある。さうしてこの光明に満てる
中間期にあっては分配及び交換に及ぼす一般的進歩の影響の主要方面は特殊な暗影から免れてゐるのである。現代において人口数が生活資料の上に圧迫を加へるといふ事実は均衡なる概念(たとへそれを長期的に考へても)を根本的に改造する原因とはならない。
我々は需要と供給とを共に判断して人口の増殖を許すことができる。ただその判断は壱年たり幾何単位の生産物があるかととふやうな流れの総量についてではなく、一年一人当り幾何単位の生産物があるかといふやうな流れの量について考ふべきである。その修正はまだ完全ではない。若干の小さい訂正がなされねばならない−−しかしこの変化に関するかぎりにおいては、我々の叙述の大要は生活事実に対して新でるだらう。そして全問題の複雑なることを思へば我々はこれ以上に殆んど多くを望み得ないであらう。経済科学の主たる困難は今や別の方面にある。それは人類の悪しき運命からよりもむしろ善き運命から起る困難である。即ち進歩が我々をして自然力の支配を増加せしめれば仕事と生活との条件を急速にかつ多様に変へる。それは経済的並びに社会的の力の性格並びに量を変化せしめる。その変化は各十年間毎に著しく目立つほどであり、『結局においては』全く革命化する程であるといっていい。
勿論、力学においてもこのことに対する類同性がある。なるほど太陽系は安定した均衡にある。しかし極めて僅かな事情変化はそれを不安定ならしめるかも知れぬ。例へば、何時か惑星の一つが太陽から離れて非常に長い楕円形を描いて放出されたり、また他の惑星が太陽中に落込むかも知れない。更に、時計の振子は一般に同一の線に沿って前後に動いてゐるが、しかしその時計が傾斜した棚に置かれたならば、振子の振動のために時計はすべり落ちて壊れて了ふかも知れない。故に、経済的事件が自らを生ぜしめた条件の上に反作用を及ぼすといふ理由をもって、したがって将来の事件は過去の事件と全く同一なる条件の下に起り得ないといふ理由をもって、早急に力学的類同性を排し去るべきものではない。
しかし力学における破壊は作用せる力の量における変化によって惹き起され、その性格における変化によるのではない。しかし生命の事実にあっては力の性格もまた変化するのである。産業的並びに社会的の『進歩』または『進化』は単なる増減ではない。それは有機的生長であり、相互に影響し合う数へ切れぬ要素の衰微によって精錬され、制限され、また時には修正されるものである。さうしてかかる相互影響は各要素が既に達したるその成長の段階に応じて異るものである。
この活動的な面においてはすべての生活科学は互に近接し、物理科学とは趣を異にする。故に経済学の後段階において、我々が生命の状態に近づくにつれて、他の事情にして等しきかぎり、生物学的類同性が力学的類同性よりも選ばれることになる。しかし他の事情が等しくないことがあるかも知れぬ。即ちその場合には力学的類同性がより決定的でありかつ真実に迫る異がある−−例へばある中心の周囲を回りつつある惑星の周囲を更に回りつつある衛星を考へるといふ類同性は多くの経済問題の非常に進歩せる段階においてすら特殊の目的には有用なものである。而して有用なる場合はそれは何時でも採用さるべきである。しかし経済学がその最高の仕事に達するにつれ、かかる機会は愈々稀になり、その調子は愈々生物学的となる。
例へば需要供給の平衡を考察せよ。『平衡』 (balance) 及び『均衡』 (equibrium) なる語は旧き科学たる物理学に起源する。さうして後に生物学によって採用されたものである。経済学の初めの段階においては、我々は需要と供給とをもって互に他を圧する素朴な力であり、力学的均衡に向ふものと考へる。しかし後の段階になると平衡または均衡は素朴な力学的な力の間に生ずるものとは考へられず、生活と衰微との有機的な力の間に生ずるものと考へられる。健康な少年は年毎に強壮になっていく。しかし青年期に入るや幾分軽快さがなくなる。彼の力の絶頂はラケットなどをやる場合には恐らく二十五歳であらう。其他の肉体的活動の頂点は三十歳またはその以後である。ある種の精神的仕事の頂点は更に遅い。何れの場合にあっても、生活力が最初は優勢で、それから結晶力と衰微力とが等値となって、平衡または均衡が起り、それ以後は衰微力が優勢となる。
更に、木の葉は春毎に成長し、全盛に達し、頂点を過ぎて衰へる。然るに樹木そのものは年々に延びて頂点に達し、その後はまた衰へるであらう。さうしてここに我々は商品や用役の価値が中心点の周りを動揺し、その中心点がまた進行して恐らくそれ自体長期にわたり動揺しつつあるといふ生物学的類同性を認めるのである。
需要と供給との平衡または均衡は経済学の一層進みたる段階において愈々かかる生物学的調子をとる。経済学者のメッカは経済的動力学にあらずしてむしろ経済的生物学である。