王権神授説は本当に過去のものか?


かってヨーロッパでは王の権限・権力は神から授けられたものという理論が唱えられた時代があった。いわゆる王権神授説でイギリスのジェイムズ1世や太陽王ことフランスのルイ14世がその代表として知られている。

民主主義の今日、何を時代がかったという思いがするが、同じ様な次元の感覚が今日にあっても地球上に厳然と存在し、我が日本をも支配している。いうならば国権神授説とでも言おうか、先ず国権ありきという感覚であり、「お上」意識そのものである。

そもそも国権は何に基づくものなのか。それは日本国憲法にも主権在民として謳われている国民・住民、個々の権利より生ずるものに他ならない。人が生まれながらに有する基本的な自由と人権をもとに、我々は権限の一部を先ず基礎的自治体である市町村に委託する。市町村は独自に処理できないことがらや他の市町村と協同でおこなうほうが無駄を省けることがらを都道府県(州)に委託し、更に国を通じて国連などの国際機関に委託する。

民主主義の本旨に基づけば、市町村は市民・住民を構成メンバーとする協同組合であり、都道府県(州)は市町村を、国は都道府県(州)を、国連などの国際機関は各国を構成メンバーとする協同組合である。市町村は市民・住民から負託された分だけの主権をもち、都道府県(州)は市町村より、国は都道府県(州)より負託された分だけの主権をもつ。これが国権の本質でなければならない。ここが明確になれば日本の軍国主義化の懸念も近隣諸国より、かなり払拭されるのではないだろうか。

この実体関係を具体化する手続は議会の構成(一院制か、二院制か)と代議員を選ぶ選挙に始る筈である。ドイツ連邦共和国などでは構成メンバーである各州から送られた代表で構成する連邦参議院(Bundesrat)と、国民から直接選挙で選ばれた連邦議会(Bundestag)とで構成されているのは、この原理に忠実であると言えよう。国連の二院制論議もこの考えによるものである。

主権は在民であり、個々の市民には海外も含めて移住の自由があり、国籍離脱の自由もある。市町村、都道府県、各国はそれぞれに加盟する都道府県、国、国際機関から離脱・独立する権利を本来的に有している。独立は単に宣言するだけで有効であるのはアメリカ合衆国ほかの独立宣言を想い起こせば明らかである。日本でも霞ケ関や永田町の改革や規制緩和が一向に埒があかないならば、各自治体単位で独立を宣言するのも自由なのである。地方主権と地方分権はこの意味において本質的に相異なる。

そして財政である。各自治体政府は政治的協同組合であるから各構成員が必要経費を分担する。第一の徴税権は市町村にあり、都道府県、国へと分担金を提供する。ただ個々の政治的協同組合には財政力に差があり財政調整が必要となるが、中央集権を排し国権神授説を復活させないためにも、先進国が後進国に国際援助をするのと同様にBrotherly(兄弟的)な水平的財政調整−horizontaler Finanzausgleich−に心掛けるべきである。

国権神授説ではなく、権源に忠実な政治機構では国・都道府県・市町村は対等でありそれぞれの立法府・行政府・司法府の構成員は同様に優れた人材が供給されねばならない。有権者が選挙権だけでなく被選挙権を積極的に行使できる経済社会を実現しなければならない。政党も各地方独自のものが提携する「受け皿としての党中央」たるべきではないか。


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