鬼の子孫


平成8年は大晦日から読み始めた『ソフィーの世界』の中であけた。北欧神話の国で書かれた、この世界のベストセラーを読み進むうちに以前からの或る思いが凝縮してきた。

ユーラシア大陸の東西両端に二つの島国がある。言うまでもなく東端は日本であり、西端は日本ではイギリスとよばれている。氷河期の海面は現在よりもかなり低く、イギリスも日本も大陸と陸続きであったようである。歴史に残るイギリス最古の住民はネグロ(黒色人種)であったということを耳にした記憶があるが真偽の程は定かではない。
その後、シーザーの『ガリア戦記』のガリア人=ケルト人がアルプス周辺からフランス経由で直接渡来したり、スカンジナビア経由でスコットランド方面に侵攻して先住民を駆逐した。これらケルトの末裔は今でもアイルランド・ウェールズ・スコットランドに彼らの言葉・ゲール語とともにれっきと存続している。円卓の騎士で知られるアーサー王(King Arthur)は彼らケルトの伝説的英雄である。

日本で呼ばれるイギリスは Englishの訛ったものだろうが、その名詞・ Englandはもともと Anglo-Landでアングロ族の土地(国)の意味であると習ったが、ドイツ語の形容詞、エング=狭いからエングラントだという説ももっともらしい。ゲルマン人はローマ人がゲルマニ・ガリ(純粋なガリア人)と呼んだことに因むとも言われるが、このうちアングロ族・サクソン族・デーン人・ジュート族等が相次いでこの地に侵攻した。これらゲルマン諸部族は互いに抗争し、七王朝(Heptarchy)時代を経てウェセックス王エグバートによる統一の時代に入る。

この間、ゲルマン諸部族の言語はそれぞれの共通部分(語幹)を残して各部族特有の語尾変化などを省略するという、部族的情緒よりも部族を超えた伝達を重んじることで、現代英語への過程を歩み出した。このような言語では主語を省略することは困難で、ラテン語やイタリア語などと好対称である。
ドイツ語との比較で見れば、1格は主格、2格は所有格だが、3格(〜に)と4格(〜を)の区別が無くなり目的格だけになった。この民族移動はドイツ語の第一次音韻変化の後であって第2次音韻変化 - Lautverschiebung - 以前のことであった。ただドイツ語で言うラーメン・バウ(枠構造)、即ち動詞部分が全て必ず目的語の前に来るのではなく、目的語の前と後に別れて枠のように囲む文法が英語に無くなったり、名詞に性別が消滅したのは、この時期なのか次のフランス語による征服以後なのかは専門家に教えを乞いたい。ただ後者についてはドイツ語で女性名詞の太陽がフランス語では男性名詞であること、中性名詞の月が女性名詞であることなどを考えると後の時代のような気がする。性別の消滅は冠詞・定冠詞・代名詞・関係代名詞・動詞の語尾変化等々、大変な簡略化につながっている。

大陸のノルマンディー地方でフランス語化したゲルマン人が英王室の相続争いでヘイスティングに戦い、騎馬戦法による勝利の結果、ノルマンディー公ギョームが英国王ウィリアムI世として即位した。世に言うノルマン・コンクェストである。貴族などの支配階級はフランス語の影響を強く受け「イギリスの動物は生きているときは英語で呼ばれ、死んで食卓に上るとフランス語で呼ばれる」ようになった。豚と豚肉を思いだしてもらえれば容易に理解できよう。ただしこの頃の豚は Pigではなく Swine(スワイン)でありドイツ語の Schwein(シュヴァイン)の方言と言ってもよいものである。また豚肉・ Porkの由来の Porcはフランス語辞書によると雄豚の意味である。
ゲルマン語の特徴はロンドン・コクニー(ロンドンの下町言葉)により多く受け継がれ、オーストラリア英語はこの流れをくむものではないだろうか。
このように現代英語はヨーロッパ諸語の中で極めて特殊な言語であり、英語はヨーロッパ諸語のエッセンスであるとの通念をもって日欧の文化比較を断ずることはできない。


『ソフィーの世界』ではないが、人類の歴史は通説・通念との戦いであった。今日の日本において克服されねばならないものの一つが「日本人単一民族説」である。この説(と言うより通念)から「各部族の祖先神の家父長」という皇国史観が形成され、韓国併合以後の半島住民との軋轢や昭和前半の不幸な戦争を惹き起こしてしまった。

「日本人単一民族説」の否定は韓朝鮮人もまた単一民族ではないとの説に通ずる。因みに朝鮮の民族起源説には天孫降臨伝説と、南方からの箱舟伝説があるようである。また多くの日本人はアイヌのイメージの彼方にその存在を意識していないギリヤーク等の北方モンゴロイド諸民族が北海道から樺太・オホーツクに存在する。奥州藤原氏を頂点とする東北文化を築いた民族は朝鮮半島を経由しない、これら北方モンゴロイドだったかもしれない。

文部省教育の徹底や放送の普及した今日では想像もつかないことだが、明治維新の内戦では薩長の官軍と佐幕派の東北諸藩の軍隊との交渉は、たしなみとしての瑶曲の語り口を共通語とせねばならなかった。日本におけるゲール語的な存在を髣髴とさせる。それ程、日本の地域間は言語的に異質だったのではないだろうか。イギリスをめぐる民族・部族の関わりは日本をめぐる周辺諸地域の民族・部族との関わりについて想像をたくましくしてくれる。

ユーラシア大陸の西端の島国は二つの主な島からなり、大陸に面しているのは大ブリテン島だけである。この二つの島を舞台に過去多くの民族・部族の渡来・栄枯盛衰の歴史が記録されている。東端の島国は四つの主な島からなり、大陸に面しているのは本州・九州・北海道の三島もある。西端の島国で見られたより数倍も多くの民族・部族の渡来・栄枯盛衰の歴史が隠されている筈である。更に大西洋にはアメリカまで殆ど島は無い。太平洋には無数の島々が点在し、ここからの南方モンゴロイド或いはそれ以外の民族移動もあったかも知れない。こうした民族・部族の抗争は神話や昔話、或いは日本語の中に隠されているものと思われる。比較言語学や遺伝学等による研究を待ちたい。

それぞれの民族・部族はそれぞれの祖先神をもっていたであろうし、それぞれの祖先神に家父長的な関係はありえない。「日本人単一民族説」という通念の打破こそ、アジアや世界の平和のために果たさなければならない日本人の責務ではないだろうか。明治以降、日本の中央集権・官僚集権はこれらの通念を利用してはこなかっただろうか。「自分は日本の昔話の鬼(異民族)の末裔ではない」と誰が言い切れるだろうか。

1996年2月

▲Intro

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北欧神話、ニーベルンゲンリートはヴァーグナーの『ラインの黄金』・『ニーベルンクの指輪』・『ヴァルキューレ』・『神々の黄昏』を通じて以外、直接は殆ど知らない。が、陰欝なイメージの地底の部族(?)との戦いは、何だったのだろうか?
ギリシァ神話でも北欧神話でも神として扱われている人が、何故神なのか?
日本の神話と比較すると・・・?

中学生ごろから英語を習い初め、雨が降る= It rains. 或いは It is too warm. と it の用法を、何げなしに覚え込まされてきた。ところが受験をドイツ語でと独学(洒落ではない)を初めてからである。 it を es に代えて Es regnet. や Es ist zu warm. と スイスイだったが、 Es gibt--- でハテと引っ掛かった。英語の There is--- There are--- がドイツ語では It gives--- と言うことになる。 ドイツ語では Heute ist zu warm. という言い方もする。英単語に置き換えると Today is to warm. となり it (es) を使わない。この表現方法は日本語に近い。
it も es も、神か何か判らぬ大いなる力を想定しているのか、と思ったものである。神だとしたらキリスト教に接する以前のヤオヨロズの神であろう。週の呼び名も英語では水曜日は主神ヴォータン、英独ともに木曜は雷神トール、金曜は美の女神フリッグと北欧神話の神々である。日本語よりも科学的だと思ってきた国々の言葉が、随分と神秘主義的なものであることが判明したのである。フランス語も il を使うらしい。何かシャーマニズムの名残を感じさせる。日本語の方が文明的ではないか。

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この文章はアングロ族とサクソン族が別個の部族であるという前提で書いた。サクソンはドイツの各地でザクセンの地名で残っている。デーン人はデンマークが「デーンの領土」の意味であり、ジュート族はデンマークの所在地ユトランド半島のユトの英語発音。ではアングロは何処だろうという疑問を以前から持っていた。しかし、アングロサクソンが「狭い土地のザクセン」の意味ならば、サクソン族以外にアングロ族というものは存在しなかったことになる。ドイツ語のエングがラテン語のアングロになったのだろうか?
デンマークが出たついでに、オーストリアは Österreich で、「東の帝国」だが、もとは Ostmark で、ドイツ人たちにとり「東国」の辺境である。

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この時の両軍の用馬方の違いは、ハロルド軍が戦場への移動手段としてだけで、戦場では下馬して戦ったのに対し、ギョーム軍は移動手段はもとより戦場でも騎馬のままであったことは、つとに知られている。このことはゲルマン民族(アングロサクソンも含め)にとって馬との付き合いが、それほど古くからのものではないことを暗示している。
では、日本の戦争史の中で馬の登場はいつごろからであろうか。日本のジークフリート、ヤマトタケルが東国に戦った話に馬はでてきたであろうか。もし馬を常用していれば、焼津での火攻めでは草薙の剣など使わずに、一気に火の草原を駆け抜けたと思われる。攻める方にも迎え打つ方にも馬の存在が感じられない。
しかし、源義家の前九年の役や後三年の役では、安倍貞任などと騎馬戦が戦われているようであり、平家物語でも生食(イケズキ)や磨墨(スルスミ)などの名馬のくだり、鵯越(ヒヨドリゴエ)の奇襲など、馬は大活躍である。
岩波書店の発行の『日本史年表』では西暦666年に「百済人を東国に移す」とある。百済人だけでなく後述の高句麗人など、朝鮮半島からの大量の亡命者が東国の民族構成を劇的に変化させたとも思われる。いわゆる正史では藤原・橘・源・平などの賜姓や地名を姓として記述されてはいても、そうした賜姓は帽子かアクセサリーにすぎない。
平安時代から台頭してきた武士と貴族の対立は従来の日本史の説明が正しいのか。民族部族対立が底流にないか。江上波夫氏の「天皇家の北方騎馬民族説」も疑問である。

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英語の pork は、ドイツ語で Schweinefleisch であるが、その Fleisch =肉は、古い英語で flesh であり、犬はドイツ語で Hund 、古い英語では hound でグレイハウンドの中に残っている。ところが英語のテレビを見ていたら、greyhound dog と言っているので、これでは「灰色の犬犬」だと笑ってしまった。

現代英語で「貴方」は you だけだが、シェークスピアの中ではたびたび thou が登場する。ドイツ語では Sie =貴方と du =お前や君、と区別する。 thou の後の動詞の語尾変化はドイツ語の du の後の -st と同じだそうである。ドイツ語やオランダ語の d が、英語では th に変化しているのもチェックポイントかも知れない。

「貴方」の次は「私」。英語では I (ラージ・アイ)で、ドイツ語では ich (イッヒ)と言うことになっているが、これは標準語の話。ルクセンブルクでは「イッシュ」と ch をフランス語式に発音するらしいし、その他、各地では i (スモール・アイで、発音はイ)が用いられているようである。
日本では音楽の教科書にものり、よく知られている「別れ Abschied 」という歌がある。日本語では

さらば、さらば、我がふるさと。暫しの別れぞ、今は・・・
で始まる。ドイツ語では
Muß i denn, muß i denn, zum Städtele hin aus, Städtele hin aus, und du mein Schatz bleibst hier....
だが、この Muß i denn, を英語に直訳すれば Must I then, であろう。他にもアルプス地方のヨーデルの歌詩でも、 ich ではなく i (イ)である。先日あったサラというオランダ娘によると、オランダ語でも同じく i (イ)だそうである。
恐らく、英語も昔は i (イ)だったと思うのだが、いつから I (ラージ・アイ)で発音もアイになったか。スコットランド貴族の姓をもつピーター君に話したら、多分、チョーサーの頃だろうとの答えであった。

英語で兄は elder brother で、何故 older brother ではないのか。英語だけでは判らない母音の変化がドイツ語などと比較しだすと、もとは ölder で、何でもないウムラウトだと得心がいく。

これらをハワイ大学から金沢に赴任してきたケロッグ氏に話した。氏はフランス語が堪能で、話せないというドイツ語もかなりである。氏は大いに喜んで以下の英語やドイツ語、ラテン語等との比較を示してくれた。

先ずは豚 pig は pigge(ME)
大豚の Hog は Hogge(ME) Hogg(OE)
豚の古語 swine は swin(OE) swin(OHG) sus(L)
雌の成豚 sow は sowe(ME) sugn(OE)
犬は hound(ME) Hund(OE) Hunt(OHG) と dog(ME) docge(OE)
天使 angel は Engel(ME,fr,OE) angele(OF) angelos(LL) angelos(fr,Gk) で messenger の意味。

問題の、アングロサクソンの
アングロ Angles は Angli(L,=Germanic) Engle(OE)
イギリス England は Anglia(LL)
などなど。

面白いのは
馬 horse が hors(ME) hros(OE) hros(OHG) と子音と母音が入れ替わっている。
同じく
鳥 bird も bird(ME) bridd(OE)
と同様である。無知蒙昧のなせる技か?
そうかも知れないが、所詮、言葉とはこんなものである。
ラテン語を引き継いだイタリア語でも blanc- が bianc- と"l"が"i"に変わっている。
何語でもこんな歴史を持っているし、今も過程の中にある。
美しい日本語、綺麗な英語という人たちは何を基準に美しい・綺麗をいうのだろうか?
言葉とは、勝れて社会学であり、歴史学である。

ここで (OE) は Old English 。 (ME) は Middle English 。 (LL) は Late Latin 。 (OF) は Old French の略である。
(OHG) の Old High German は、私にはドイツ語での Alt hoch Deutsche =(AHD)のほうが、お馴染である。

そして England の eng がドイツ語の「狭い」であることを示唆してくれたのである。また It gives--- も、日常英語で、たまに使うことも教えてくれた。日本の試験ではバツだろうが・・・

標準語の件だが、ドイツの標準語はマルチン・ルターがラテン語の聖書を翻訳したドイツ語版聖書の言葉(高地ドイツ語= hoch Deutsche )が標準語とされているらしい。日本の国語審議会やフランスのアカデミー・フランセーズのような機関は聞いたことがない。世界中で、そのような機関があるのはフランスとそれを真似た日本だけではないのだろうか。自国の言葉を「国語」と呼ぶのもフランスと日本だけのようである。現代ドイツでは、国語に相当する授業は各地の「お国言葉」で教育されているとか。
統一した言語はナポレオンに始まる近代国民国家の国民皆兵、富国強兵からの要求であったようである。旧帝国陸軍は長州式、海軍は薩摩式とも聞いた。

ところで、金沢大学では英語以外のドイツ語やフランス語を廃止すると聞いた。他の大学では如何だろうか。東京の代わりにワシントンあたりを中心と想定する、画一的権威主義・中央集権感覚が匂ってくる。「万世一系の天皇」ならぬ「万世一系の英語」だろうか?
このような英語馬鹿とも言うべき手合いが日本には多すぎる。正確な本来の英語で馬をフロス、鳥をブリッドと言ったらどうか?
英語は現在、確かに、あらゆる文化のインターフェースとはなっているが、インターフェースはインターフェース。個々の多様な文化を見ずしてリベラリズムもアカデミズムもありえない。自由な比較こそ通説・通念を打破することにつながる。比較材料を取り上げてはならない。そこからは教条主義しか生れない。

もう一つ、あらゆる文化のインターフェースであるが故に、英語から「神秘主義的な it 」が使われなくなる日が、いつか来るような気がしてならない。それはドイツ語やフランス語よりも速いのではないだろうか。

ここで述べたかった事は、日本人の中央集権感覚が国語などの言語教育を通じても培われ信じ込まされてきたのではないか、ということである。「日本のゲール語を守れ!」

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英国の Oxford 、ドイツの Ochsenfurt ともに漢字にすれば「牛津」である。フランク族の津 Frankfurt はドイツに2ヶ所。大移動でオーデル河を渡ったときの Frankfurt an der Oder と、マイン河を渡ったときの Frankfurt am Main である。何も言わなければマイン河畔のフランクフルトである。an der と am (an dem) の違いからオーデルが女性でマインが男性であることに気が付かれただろうか。ドイツ語でフランスは「フランク族の帝国」を意味する Frankreich である。

石川県小松市は「小さい松」と書いているが、本来は「高麗の津」 Koreanford である。福井の越前から新潟の越後までのコシの国の中に、何故、加賀や能登の国があるのか?。加賀は朝鮮・任那の加耶または加羅が訛ったものかも知れない。能登はアイヌ語と聞いた。では、コシは何語で意味は?
加賀の白山の主峰の横に大汝(おおなんじ)岳があるが、これは大黒様のオオアナムチの命(みこと)が訛ったものである。大黒様は出雲・新羅系とか。本来の意味 Koreanford を隠さなければならない政治状況が、この地方にあったと思われる。
西暦663年、朝鮮の百済が唐・新羅の連合軍に破れて滅亡し、西暦668年、満州南部から朝鮮半島で騎馬に馴れた北方モンゴロイドの多民族国家・高句麗も滅ぼされる。船で逃げることができたのは恐らく、高句麗でもロイヤルファミリー相当の人達であったであろう。多くは満州・シベリア方面へ散ったと思われる。後の渤海国はその子孫達の国であり、たびたび使節を日本へ送って来たのは、ロイヤルファミリーの消息を訪ねてのことのようにも思える。
この Koreanford へ上陸したロイヤルファミリー達の多くは関東へ身を隠したのではないだろうか。山梨県から関東地方にかけて高句麗ゆかりの遺跡や地名が多い。東国武士団こそが北方騎馬民族ではないだろうか。博多は百済の朝鮮発音・ペクチャの訛で、高句麗はコクリョなら、小田急沿線の国領はその当て字と思われる。
しかし、奥州の馬の文化は別ルーツでは?

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日本の古代製鉄の遺跡をタタラの遺跡という。タタラはタタール=韃靼人である。タタールは料理の世界ではタルタルソースにその名を残している。そして日本では間宮林蔵で知られる樺太と大陸間の海峡の名はタタール海峡でもある。多民族国家・高句麗は後世の満州八旗の「旗」ではないが、民族部族単位に「部」をおきタタール部もあったよし。日本の多々良姓が興味深い。
日本の世界史の教科書では中国周辺の部族を匈奴や吐蕃、鮮卑、韃靼など表意文字の漢字だけで書いてある。英語なども併用すると関連をイメージしやすくなるのではないだろうか。ヒッタイトの鉄が韃靼人によって中央アジアを越えて日本へ?。それとも、ウラル=アルタイ語族である我々の祖先が、中央アジアのどこかでタタールから製鉄を習った?

中国の歴代王朝やヨーロッパからの討伐などで、或いは気候の変化などで、ユーラシア大陸の中央を東西に南北に移動し、暴れ(?)まくった幾多の民族・部族の影響が日本列島に無縁だったとは思えない。ビリヤードのように、つつかれた玉が他の玉にぶつかって、何度目かの玉がユーラシア大陸の両端に現れる。インド・アラビア方面にも顔を出す。東欧のハンガリー(フン=匈奴)、北欧のフィンランドにも彼らの末裔が存在している。トルコも、略奪結婚で混血し、コーカソイドの遺伝子が強くなったようだが、原種は中央アジアにあって、モンゴロイドである。インド最後の帝国ムガールもモンゴルが訛ったものである。ゲルマン民族の大移動もそうしたビリヤードの一連の玉の動きの大きな一つであった、とは断言できないが、なかったとも断言できるだろうか。

中国の歴代王朝も北方騎馬民族が、その戦闘力で農耕民族を征服・支配してきたと言われている。まさに「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」であり、人間にブランドなどないのである。ましてや、その他、物においておやである。
中国・朝鮮・日本など、極東アジアの歴史(極東に限らないかも?)は、南方モンゴロイドと北方モンゴロイドの抗争の歴史だと思う。漢民族は絶えず征服されて混血を繰り返し純血ではないと思われる。
ところが日本の古代史研究はいつまでも、日本書紀と古事記そして中国の歴史書ばかりである。聖徳太子が「日、出ずる国」と呼んだのは朝鮮半島のことかも知れないのに。世界大の歴史と、いつ連携できるのだろうか。

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