第3回レポート 【教育】


     日時 平成7年1月26日〔木〕 19:30〜22:30
     場所 金沢市清川町1−10 珀水サロン2階
     出席者 14名

文責 川合 雅文・明子


 「教育」を考える時、教育という言葉の意味を再確認しておく必要がある。広辞苑には@教え育てること。導いて善良ならしめること、人を教えて知能をつけること。A〔教〕(education)社会の持つ機能の一つ。人間に他から意図をもって働きかけ、のぞましい姿に変化させ、価値を実現する活動。それの展開される場によって、家庭教育、学校教育、社会教育などの別がある。と記載されている。教育というテーマをテーブルに乗せて考えるとき、広辞苑にあるようにそれぞれの分野別で考えるべきではないか。各分野で主とする内容と範囲があり、それぞれ担うべき役割と責任が存在するはずだが、全てが「曖昧」になってしまっている今、学校という目に見える存在(最も攻撃しやすい)
に対し、子供本人も含め、親、社会全体が過大な期待をし責任を転嫁しているのではないか。こうした風潮の中で学校自体(特に小、中、高校)も勘違いして本来受け持つ役割以上の働きをしようとして、自己矛盾を背負いこんでしまっているのではないか。
 教育の目的を具体的に考えるとき、大まかな見方ではあるが、本人がもって生まれてきた、体(技能、技術)、脳(記憶、理解、応用)、心(@品性、理性A感性)の3つの要素を鍛え、磨くための「基となる知識」を教え育てることではないか。このことにより、個性が生まれ、様々な「力」(創造力等)が養われると思われる。 人間の優劣を評価し優劣を付けなくてはいけない場合、これら全てが評価の基準にすべきものだが、デジタルに評価できる「脳」だけが(ある程度、理解できるとしても)あまりにも、評価及び価値基準として突出している現在の風潮に「歪み」や「苛立ち」を感じているのではないでしょうか。バランスのとれた姿にもどすため様々な問題を構造化し、何をすべきかを考え行動していくかが課題であると考えます。
 第3回の悠々会はこうした背景のなかで予定時間をオーバーして話し合われました。このレポートは、「家庭」「学校」「社会」の3つと、当日のゲスト、Mr.Chris Daleによる「オーストラリアの教育事情」に分けて纏めました。
 尚、当レポートにおいて、順不同で纏めてあります。また、主旨や意味の取り違いや抜けているところ等がありましたら、訂正を申し出て頂きますようお願い申し上ます。



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【家庭】

 *親は子供にどういう期待をしているか、何故大学にいれるか?、どんな価値観を持っているのか?
 *将来のことを考えた人生設計を作れる価値観を子供にしっかり教育すべきである。
 *親が甘やかしてきた(自分で考えさせずにすべて指図)ことが、思いやりや常識の欠如した子供が多くなり日本を駄目にしている。
 *子供の教育の責任は基本的、最終的には親にある。
 *責任は親にあるかもしれないが、その責任を果たそうとしたとき社会システムが整っていない(学校間の移動等)。そのシステムを変える行動をするのも親の責任かもしれないが?
 *親の教育の責任とはどういう価値観を持たすかということではないか。大学に入学し卒業すること自体にどういう価値があるのか。子供に勉強してくれと頼む親はどこか変なのではないか。頭がいくら良くても自分の力で生活でけなければ無意味である。生活するための能力をつけるのが教育である。
 *我々、日本人は教育の全責任は学校にあると思っている人が多すぎる。いじめの問題でも最初に攻撃されたのは学校であった。親に責任ありといった人は殆んどいなかった。
 *知的なことは学校にお願いする。
 *自分の子供が間違ったことをして他人に迷惑を掛けた場合、親がどのように対処するかで子供も変わってくる。ここで親の教育の姿勢がわかる。
 *大学の費用は子供が自ら負担していくようにすると、大学も活性化する。
 *サラリーマンにとって親が子供に残せる物は教育しかない。未来投資であり、豊かに暮らせる可能性が高いのが現状である。
 



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【学校】

 *大学を卒業後、即先生になるのではなく社会に出て2、3年働いてから本当に先生になりたい人が先生になったほうがよい。
 *今の大学入試制度は個性を無くすと言われるがそんな事はない。そもそも個性とは何か、個性のある人間とはどんな人を意味するのか、その事を明確にする必要がある。
 *教員を採用する際、人間が人間を教育するのだから、教師としての適性の中に人間性も含めどんな人が望ましいかを考えるべきである。(資質が問題)
 *共通一次試験が失敗の原因である。同レベルの人ばかりが集まってしまい個性が無くなる。色々なレベルの人が集まることが教育ではないか。
 *教員の資質も大切だが、いろんな人が学校に来て教えられる教員の自由化が出来ないものか。
 *先生にも企業家精神をもって育ててもらいたい。
 *中央集権の中での教育では越えられない物があり、教育産業との絡みで14期中教審答申に書かれている事が実行できていない。連邦制国家と中央集権国家の日本との違いを聞いてみたい。
 *学校に行かない自由があっても良いのではないか。
 *教師と政治家は本来尊敬される職業であるべきなのに、評価が低いところに問題がある(女子だから「学校の先生でいいわ」といった人がいた。こうした発想になること自体がおかしい)。
 *共通一次にすべて問題があったのではなく、それなりの役割を果たしたと思う。
  問題は運営にあった。
 *子供が問題を起こした時、マスコミに学校名が報道されて、さも学校に責任があるかのように言われるのがおかしい。
 *学校の先生と政治家は辞めたら何もできない人が多い。その原因の一つとして自由に職業のホッピングのできる体制がない。教員採用の制度としての不備のため、優秀な人材の活用が不可能である。教育改革が一連の社会改革の最終段階になると思われるあらゆる職業が終身雇用になってしまい、流動化されないことに問題がある。
 *大学卒業後数年してからでないと教師になれないというのは酷である。その間、教師を志望している人がどういうことになるのか心配である。どんな仕事でも大学卒業後即企業に入り、揉まれて一人前になっていくのであり、学校の先生だけ特別視するのはいかがなものか。
 *教員の契約期間を4、5年のスパーンで設けてみたらどうか。期間終了後、再雇用試験をやってみるとよい。そうすれば先生はもっと勉強をするし、新契約時に嫌になれば他の職業に就けば良い。先生に限っては終身雇用は駄目だと思う。 
 *先生は忙しいと言っているのに、再雇用試験のために勉強が必要となれば、更に忙しくなり、本来の仕事である子供の教育に影響がでるのではないか。
 *小、中、高校の教育内容や学校行事が多すぎる。授業内容を精選すべきである。
  週休2日制の導入でさらに授業時間が減り、現在の文部省の指導要項が消化できない読み書き、ソロバン、歴史、理科ぐらいで充分。音楽、体育は社会教育に任せて良いのではないか。学校は国民の知的水準の維持を組織的な国家の方針に従わなくてはいけないが、内容を見つめなおし、ある程度レベルを下げてもあまり心配ないのではないか。
 *先生を辞めても再び先生に戻れるシステムも作るべきである。これが自由化の良さであり、教育は柔軟であるべきである。
 *最初に就業年限ありきで、できる、できないに係わらず学校に行かなければいけないここに問題がある。「飛び級」や「落第」を復活すべきである。
 *教育の基本は年齢で切らずアチーブメント方式で充分ではないか。
 *知識産業としての学校は今や崩壊してしまっている。物事を教えることだけでは個性や創造性は生まれてこない。この事が今、日本が抱えている一番の問題である。真に能力のある人間をプッシュアップしていくシステムを作り上げていくべきである。
 *受験技術のみを重視し本当の勉強をしていない。(受験英語とコミニュケーション言語としての英語)
 *先生一人に対し生徒の数が多すぎる。現在の半分ぐらいにするべきである。今の状態では、伝える事はできても教えることはできない。
 *先生の視野が狭い。向上心があれば多方面の会合に参加すべきである。もっと世の中のことを知ってほしい。
 *子供の個性を見つけ、延ばし育ててくれる先生の能力評価が今の文部省の体制にあるのか疑問である。
 *イギリスでも学校間の比較が始まった、ただし日本のように入るときに良い生徒を取るということでなく、入学時と卒業時の差(教育効果)で比べる。日本もこうなれば良い。
 *日本は基本的に、実力社会でなく年功序列である。校長もしかりで能力があっても歳がいっていないと成れないところに問題がある。
 *今は勉強したい人が勉強できないシステムである。大量生産のため、平均点の人間を作りだすことには成功したかもしれないが、気がつけば世界的レベルから取り残されてしまっている。
 *東大が頂点とされているが、その卒業生が官僚になって何も改革できないでいる。
 *現在の教育システムは画一的で能力のある人間が能力を発揮できないシステムである
 *日本人は大学に入学時点では優秀であるが、卒業するときはアメリカの大学生とは雲泥の差になっている。
 *大学4年間のなかで無駄も必要。柔軟性が生まれるのではないか。諸外国のように型にはめてしまうのはどうか?
 *日本人の学力は上がっている。今のやり方が一概に間違っている、悪いと決めつけるべきでない。
 *先生の労働条件も企業と合わせるため(週40時間=週休2日制)企業に前倒し制度があるように夏休み、冬休みに無意味に出勤するのではなく時間の有効活用すれば学校の週休2日制は不必要になり、授業の連続性も保てるのではないか。
 *現状学校は、計算すれば年間の半分は休みである。
 *子供が先生を選べるようなシステムがあれば、おもしろい。
 *校長を公募制にすればよい。
 *政治、教育にも国際競争を持ち込まないと変わっていかない。内部から改革することができないので、特に大学は、国際競争をすればよい。例えば外国語の先生などはその外国から呼べばよいが、今の日本では、さまざまな規制があり、できないシステムになっている。
 *AETのシステムも悪くないが、その費用で日本の先生を外国で勉強させればよい。
 *先生を外国等で勉強させるということは大変よいことだが、その為今の教員の倍の教員が必要になる。その経費をどうするのか?
 *入学試験で人を区別する今の試験制度では日本の学校は無意味、塾で充分。
 *日本の先生は良い素質を持っているが今のシステムでは、発揮できない。


 新学期9月制の提案とその理由
今の学校のスケジュールは勉強できるシステムになっていない。
4月新学期制度の弊害としてゴールデンウイーク、夏休みがすぐやってきて、勉強の継続性が保てず、落ち着いて勉強ができない。(休みが多すぎる。)
9〜12月、1〜4月の2タームに分けしっかり勉強する。

 :就職活動はきちんと卒業するまで行わない。そうしないと本来の勉強期間が短縮されてしまい、まともな授業ができない。現在の最大の問題であり、元凶である。
企業の青田買いを禁止する法律を作ってでも規制しないと、学校の存在味が成くなってまっている。



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【社会】(企業含)


 *日本の教育を悪くした原因は企業である、勉強することでなく、どこへ就職するかを目的とした学校に成ってしまっている。これが子供が忙しい原因。
 *青田買いをしているのは一流企業。大手が国からの援助も多くもらっている今のシステムでは、ベンチャー企業は育たない。良い企業とはどういうのかを考えていかなくてはいけない。疑似的な一流企業はもう助けなくてもよいのでは。
 *有名一流校と言われる卒業生を企業がこぞって採用するのは、何かメリットがあるはず、単純に否定すべきない。世の中には牽引車に成るべき人が必要だし、一流校から優秀な人材が生まれてきているのではないか。
 *今回の阪神大震災で被災された人は気の毒だが、子供の教育という観点から見た時、子供たちにとってあのような激変した環境の中で人間としてどのように考え、どのように行動すべきかを実体験を通じて学ぶ貴重な機会であった。これこそが生きた教育ではないか。
 *企業にとっても新人教育を行って現場に帰ったとき、教わったことと上司との間で、くい違うケースが多く見られる。そういった面から見ても、教育とは全体を見て、
一貫した乱れのないことが必要である。(上司も含めての全体教育)
 *仕事を教えることも大事であるが、人間社会の一員として責任ある仕事をしてほしいまた、年功序列を廃すべきだ。
 *近頃、権利と義務という言葉はよく聞くが、責任という言葉があまり聞こえてこないもっと個人の責任とか責任感を重要視して、教育すべきだ。
 *今の若い人から終身雇用が崩れてきている。
 *就職試験は一人一社にして、企業も学生も紳士的に契約する制度に改めたほうがよい
 *21世紀に変わっていかなければ行けないことは、大変苦しいが実力がそのままでる
社会になるべきである。
 *教育三法の機会均等が誤解され、形式的平等になりひずみが生じてきて、日本人を駄目にしている。
 *今の若者は自分に興味あるものだけに反応するが、それ以外のことには反応しないため会議をしていても興味の無い話には無関心であり、会議にならず困っている。全体を見る目を持っていない。
 *大学の先生は、勉強しないほうが楽である。
 *自由化が大事。個性はあるが会社員自ら個性を無くしている(出る杭は、打たれる)社会人を育てるというが、どんな社会人をそだてるのか?
 *日本の戦後(教育を含めて)、東大をつぶさなかったのが失敗であった。
 *今の日本は、個人の考えよりシステムや組織の考え方に従わなければいけない。
 *北陸地域の人間の多くは大学の人間も含めその内部や業界だけ通じる「言語」で喋っていて、まともな「日本語」が通じない。狭い視野と価値観の異常さに気きずいていない。表面的に判かったふりをしているだけで実は判っていない。このため、この流動化の時代に必要な広い視野で話す人が評価されない。学校だけでなく、各業界での評価基準がある、評価自体も改革しなくてはいけない。
 世間一般とのズレがあることや、そういった異常さにそろそろ気付くべきだ。
もっと広い視野とバランス感覚を持った人間を育てる必要がある。特に学校の先生には、こうした人が必要である。
 *現在日本の問題点は、誰かに責任を押しつけて逃げている人が多いことではないか、トップは社員が悪いと言い、社員は責任をとりたくない。企業倒産の多発する中、自分には関係ない、自分は悪くないといったような危機意識の欠如と無責任な考え方を変えなくてはいけない。日本人は本来良い素質を持っているのだから自分自身で行動をチェックする必要があるし、できるはずだ。子供の教育においても、人生観を持たせること、発言できるようすること、こうしたことをするために、必要ならば全体を動かす、教育制度に参加して、その中で自分たちが参加可能なことはなにかを考え、行動していくべきである。そうしたことにより問題をどんどん提起してみて、周りがどんなサポートをしなければいけないのか、どんなサポートが出来るのか、皆で知恵を出し合い、行動に移せる協力体制を構築しなくてはいけない。
 *先生、大学、政治家に年齢制限をいれるべきでない。



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【オーストラリアの教育事情】


*オーストラリアの小、中、高、の先生のレベルは余り高くない。他の仕事が出来ないから、先生になる。能力がある人は、同じ先生でも大学の先生になる。
*オーストラリアは日本の教育システムと似ている。7つの州によって多少異なり、2つのシステムを持っている。5〜6才で教育が始まり、義務教育は10年間である。1年の内2月〜12月が期間であり、夏休みは1〜1.5ヶ月である。
システムA
 最初は6年(日本の小学校に当たる)、次の4年間は2年づつに分けられる。
 前の2年は中学校にあたり、後の2年は専門的な科目が加わる(工業、経済等)義務教育はここで終わるが、さらに2年間勉強できる。前の2年間とを足して計4年間が日本の高校にあたり、大学入試がある。12年の教育で50〜60%の人が就職する。
システムB
 義務教育の期間が7年間と3年間に分けられているだけで、後は同じ。
*勉強のできる科目は能力に応じて上の学年に進めるが、できない科目は進級できない。たとえば、年齢的には4年生に相当しても数学は6年生で、社会は2年生ということもある。
*大学間のレベル格差はなく各大学で個性と専門的分野を持っている。(建設、医学等)
*大学入試は、一つの州で一回の試験で、合否が決定され大学別試験はない。
*各コースはあるが、内容がオーバーラップしており、コースの変更、移動はそんなに困難ではない。



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