戦後50年の国会決議をめぐって、劣等生の日本に対して優等生のドイツをひきあいにだす論調をしばしば目にするようになった。しかし何事にもうつろいやすい日本の論調は人の噂と同様に深い考察や探求なしに忘れ去られてしまうのではなかろうか。そこで“優等生ドイツ”の政治制度について佐瀬昌盛氏の著書をもとにポイントを記しておきたい。 日本政治に見られる頻繁な内閣改造も含め、短命な政権こそ責任の所在を曖昧にし官僚政治に堕するもとである。戦後ドイツの政治の特色を一言で言えば「統治能力を備えた安定的な政府の創出のための明確な秩序構想」に尽きる。 安定した政権を支える秘訣の一つは基本法第67条の「建設的不信任」−Konstruktives Mißtrauensvotum−と呼ばれるもので、連邦首相に対する議会の不信任動議は、それと同時に、統治能力を有するに必要な議会多数を背後にもつ後任連邦首相の推薦がある場合にのみ、提出することができるとしたことにある。議会過半数をもつ後任者があらかじめ選出されるのでなければ、首相は不信任されず、倒閣だけを目的とした、いわば「破壊的な」不信任動議では、首相は退陣に追いこまれない。「議会からの不信任案」と「首相からの議会解散」を濫りに仕掛けられなくしたのである。
もう一つの仕掛けは俗に「5%条項」−Fünfprozentklausel−(連邦選挙法第6条6項)と呼ばれるものである。 次に議員・政治家の質は日本と比べてどうだろうか。ドイツの政党史には、かつて「名望家政党」−Honoratiorenpartei−という重要な概念があった。いってみれば、地方名士連の政党である。この概念は、不思議なことに実態的には今日の日本で生きている。しかもそれは、与野党を問わずにである。世襲議員という現象がそれである。長年の議員経験をもつ人物はその選挙区において紛れもなく名望家となり、当人が死亡するとその名望が個人の妻、息子らによって継承される。この継承者はそれまでは政治のプロである必要はなく、昨日までは商社員、判事、教師など、要するに政治のズブのしろうとであってよい。タレント候補についてはいうまでもない。 ドイツの選挙は、基本的に政党を選ぶ選挙である。候補者は自党の候補者リストで自分の登録順位を上位にもってゆこうと争いはするが、有権者に向かって自分の個人名を連呼するには及ばない。極端なことを言えば、有権者にはまったく名を知られていない候補者であっても、政党によって高い順位が与えられるならば確実に議席を獲得する。ある政党の候補者リスト順位がなにによって決定されるかはかなり複雑で一概には言えないが、確実に言えるのは、ごく少数の大物を別にすれば、政治のなんらかの部門について高度の専門家的能力を備えていることが必須の要件だということである。日本の参議院比例区に見られる見せかけの党員集めと、その党費の肩代わりなどという順位争いなどはもってのほかである。立法能力において巨大な官僚群とある程度まで競い合える秘密は、そこにある。 ナチスの台頭を許したワイマール体制への反省は、国家の構成・主権のありかたにまで至っている。ワイマール体制における大統領は「ドイツ皇帝の代用品」であり、ナチスが政権をとるや、総統としてヒットラーが代用皇帝におさまったのである。戦後ドイツは国家をあたかも一つの小さな国連のように主権をもつ各地方政府(各邦)による連邦とし、権力が中央に集中しないようにしてしまったのである。参議院には各地方議員から送られ、参議院のための住民投票はない。
かくしてドイツ人はあまり投票所へ行く必要がなくなったのである。ワイマール憲法は国民請願と国民投票の制度を導入した。ワイマール憲法がこれらの制度を採用したのは、スイスに対する民主主義的心酔から出た行為であった。ところが、肝心の民主主義の伝統の方は、当時のドイツには完全に欠けていたのである。だから、憲法について分裂していた国民のもとではこの制度が、ほとんど反憲法闘争の中でしか利用されないという結果になってしまった。ボン基本法の制定者たちは有権者不信、あるいは「有権者は賢明でない」という前提から出発して、できるならば有権者にその政治的意思を手をかえ品をかえ、しばしば訊ねない方がよいという考えをとり、有権者に政治的責任を軽減してやるような政治制度を編みだしたのである。そして今日、スイスでもあまりの選挙・投票の多さに投票率は30%台を超えることがなくなっているのである。 |
(2)Antrage(動議)と Wahl(投票)の間は48時間おかなければならない。
旧制金沢第一中学校と後継の金沢泉丘高等学校の一泉同窓会百周年で会員名簿・百年史・国事殉難者名簿の編纂で汗をかいた数人で毎月七日、昼食を伴にしている。平石英雄氏は一中41期。名簿編纂の実質・総監督をなされた方である。
平石氏のライフワークに『F.P.シューベルト全作品目録』があり、昼食会に参加の誼みで恵贈にあずかったものであるが、ソニーの大賀氏のもとでドイツ語訳が進められているとのことである。
以下はその昼食会で配布した上のレポートによせて頂戴した書簡である。
中川恒雄様
平石英雄冠省
「政治の秩序構想」のレポート、大変勉強になります。
私の様に社会構成員としては既に員数外の者に執りましても、日本の政治の無様な現状には心の寒くなる気懸かりで憤ちます。
すべてが無責任な推移だけで繰り返される離合と集散はリポートにある建設的不信任と云われる耳馴れないが成程と合点させる事とは正に対極的な有様です。
常に小生が想うことは、それでは「一体、我々有権者はどうすればいいのか」という事です。
オームではないけれど、若者層が、政治とは一体原点は何だろう?という事をもっとせめて知識として持って欲しいという事です。
一度に飛躍してしまうと荒唐無稽なヘゲモニー思想しか生まれて来ず、その為には最も大切な人間存在をも否定する処へ堕してしまい、民主的社会の建設、即ち正しい政治社会など全く忘れ去られる処へ行ってしまいます。
この仕組をもっともっとやさしい言葉で頻繁なフォーラムが持たれることこそが、遠いが矢張一番確実な道ではないでしょうか。
そうすれば政治に対する極端なノンポリも次第に払拭され、政治が正しく動いているかどうかの目を養う一番のとっかかりにならないでしょうか。
小生が一番初めに「一体、我々有権者はどうすればいいのか」に対する最も初歩的な回答の様な気がしてなりません。
政治の本当の在り方と、日本の現状の甚だしい乖離を早く若い人達に知って貰う事が一番の遠いが近い道であろうと思います。
之には勇気と倦まず撓まずの努力が要求される筈で之等の努力が稔れば、選挙とは老人のセレモニーと云われる事から少しづつ脱却するでしょう。レポートは赤線を引いて克明によみました。
有権者が政治的責任を軽減される政治の在り方など小生には想像も出来ない仕組みですが日本の政党の未熟さの極から考えて、この道は遥かだナと思います。
小生に伝えたいという内容と小生の受け取り方に相当の距離があるかも知れないとは思いましたが、小生の今の能力の限界で一筆しました。市議会で山野氏が発言しましたがもっともっと将来の政治の理想像について発言して欲しいものです。
社会を半身不随にしてしまった官僚機構の打破の為に早く第一歩を踏み出して欲しいものです。
早々葵月二十五日
できればあなたの意見を聞かせて下さい。
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