「自立した市民」の覚悟


市民が、或る明確な意思や理念、目的を持ち、或る程度の同調者も得ると、もっと多くの人たちの結集を呼びかけねばならない場面に遭遇する。インターネットのラインで繋がった人たちだけという訳にはいかない。畢竟、既存のマスコミの力を借りねばならなくなる。

田中秀征氏、恒松制治氏、井出正一氏、鳩山由紀夫氏と金沢へ迎えてきて、内々での井出氏の場合を除き、何度か記者発表の場に座ることとなった。政治家主体の記者発表ならば、役者にことかくことはないだろう。が、市民が「自立した個」として新しい動きを作って行こうとするとき、こんな時だけ政治家に恃むというわけにはいかない。既存の政治家が表に出ては、その政治家の選挙運動と見られたり、国会議員や政党の系列で捉えようとする世論(?)で、本来、白いものが、そうでなくされてしまう。

また、一人だけで発表ともいかない。その都度、誰が席に並び、誰がメインとなって発表し、その後の記者の質問に答えるのかが問題となる。それまで無名だった市民が出てこそなのだが、記者は必ず既存の政治勢力との関連や背景を探ろうとし、職業・肩書きを聞いてくる。

「今、求められているのは、自立した市民でしょう? 職場を離れての生活者の活動です。帰属や肩書きは無用の筈です。皆さんも○○新聞や××放送の記者としてでなく、自立した個として記事を書いて下さい」と繰り返したものである。

記者たちも次第に理解してくれてきたようだが、最低限、書かなければ記事にならない、記事を作れない事柄も当然ある。そして、各種カメラの砲列である。映像・写真・記事を見てプラスに評価する人だけではない。無視を装い、密かにあちこちで、全てがしらべられる。自己の全存在、時には身内の一部始終を明らかにする覚悟がもとめられる。

サラリーマンが、特に会社の顔として営業の最前線にたつ人が、いくら「自立した個」や「生活者」を主張しても生業に支障なしとはいえない。特定の顧客を対象にするルートセールスは特に辛い。多くの従業員を抱えた企業経営者にしても同様である。そしてこうした報道は瞬間であり、断片でしかありえない。

人は誰でも、生活の糧を得る生命線があり、それを左右する天敵がいる。また、子供や身内が質にとられていたりもする。特に、終身雇用で転職の自由を縛られ、護送船団の間接金融で起業の自由を縛られ、管理・規制された株式資本市場で転業の自由を縛られ、こうして職業選択の自由を制限されてきた日本社会では、何をするにも蛮勇に近いものが必要となる。幸か不幸か、これという生命線や天敵のいない業態・業様のため、お鉢はいつもということになる。

こうした中で、サラリーマンであるメンバーの何人かが、「ふっ切れた」、「肚をククった」と会社の名刺以外に、肩書き抜きや、「一般市民」という肩書きの名刺を自費で用意し、渉外等にあたりだしてくれたのには、熱いものを禁じざるをえなかった。また、実現はしなかった選挙だが、準備で東京の民主党本部へ説明会に遊休をとり出向いてくれたメンバーまで出てきたのである。皆、報道カメラの被写体となる危険性を覚悟してくれたのである。

英雄待望論というものがある。しかし、英雄は待っていても、決して現れない。今、スポットライトの当たっている人たち、期待をもって眺めている人たちの中から現れるのではない。多くの、無名の一人ひとりが全存在をかけて、行動を始めるとき、その中からしか現れない。その中から自ずと出てくるものであろう。それはこれを読んでいる貴方自身かもしれない。

「断じて行えば、鬼神もこれを避く」
多くのネットワーカーが、個々に、思うところを述べ合い、互いの意見をリンクしあえる時代になったのは素晴らしいことである。が、次に求められるものは自己の全存在が明らかにされる覚悟ではないだろうか。

そしてこれは、ある意味では、政治家の「バッジをはずす覚悟」の裏かえしで、市民の「バッジをつける覚悟」と言えるのかも知れない。

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