加賀百万石の負の遺産


 毎年、6月になると金沢では「百万石祭り」なるものが催される。加賀土着の民・百姓にとっては、尾張という外国勢力であった前田利家の金沢入城を記念するものである。京都の時代祭りのコピーだろうか。今日は何か車が混んでいると思うと「百万石祭り」で交通規制がされているという程度で、実に実感のわかない祭りである。マーチングバンドを指揮する小学校の女子教員だけが喜々として見える様は実に異様である。東京の「三社祭り」や、河内の「だんじり」、青森の「ネブタ」などのような住民から湧きでた祭りは金沢にはない。同じ石川県でも、能登は天領だった所為か各地に昔からの祭りが残っている。

 金沢城から見て、犀川の外側に寺町がある。その奥の野田山にある前田家の墓地参詣への沿道にもあたる。寺に付き物の墓場は敵の弓矢や銃弾の盾ともなり、進軍を送らせる障害物でもあった。すなわち福井方面からの敵を迎え討つ軍事施設である。徳川幕府の一藩一城政策で出城の代わりに考え出したものであろう。この前戦指揮所として妙立寺(通称・忍者寺)が置かれた。
 この沿道の寺院群の殆どが日蓮宗で残りは禅宗である。幼時から寺町で育った私の記憶・意識には、前田家入城前からの浄土真宗の寺は一つも無い。加賀の一向一揆を恐れた企画であろう。一旦、事があっても真宗門徒が内応できないような配慮であったであろう。前田家にとって日蓮宗は他力本願でお題目を唱えるだけのあまり知的でない共通点からしても、真宗というバイキンに対する抗生物質であったと思える。

 事ほど左様に、前田家は地のエネルギーを恐れ、工芸・技芸・文化を奨励した。書を読み世界や政治・社会を、自分の頭で考え、議論し、その考えに従って自発的に行動を起こすことは「大それたこと」とされた。薩摩の島津家・陸奥の津軽家、中国一体から領民こぞって長州に押込められた毛利家のように地元生え抜きの領主であれば、或いは徳川の親藩や普代の大名であれば心配しなくてもよい配慮が前田家には必要とされた。

 前田家の巧妙な愚民化政策は明治以後も踏襲され、戦後の財界主導の「期待される人間像」でますます磨きがかかる。石川県民は(自戒の念を禁じえないが)本を読まない。物を書かない。本質を考えない。ましてや理想実現の方法論においておや。百姓からしてよく本を読むと言われる、信州・長野の人たちと出会うとき、その県民性の違いに少しく驚かされる。そして自立した多くの欧米の若者達を迎えるとき。

 前田家支配の平和な300年間、そうして作られた雰囲気の中に加賀藩、特にお膝元金沢の人間は去勢されてきた。「待ち」と「たかり」と「逃げ」の日本人の特質が最も凝縮され、明治維新も昭和の敗戦も時の過ぎ行くままに百万石の伝統・遺産にアグラをかいて過ごしてしまった。その間、多くの有為の人材がこの地を捨てた。今また世界都市構想と称して前田家所蔵の尊経閣文庫に頼ろうという。新装したマイホームの応接間に読みもしない文学全集を並べ、どうせ読まないから中味抜きの化粧箱だけというブランド志向の輩と同質でなければよいが。

 地方分権、地方主権の叫ばれる今日、この邦・民を如何にすべきか。先ずは自他ともに、己が愚民化された“特質”を自覚し、今一度「民のもちたる国」に思いを至すべきではないだろうか。加賀百万石のプラスの遺産は遺産として、これらマイナスの遺産を清算する必要がある。政治社会システムの自己改革よりは容易である筈の、個々人の自己改革がなされねばならない。そして「大それたこと」、中央集権・官僚集権を廃して、これから迎える地方の時代に、自立する地方政党・地方政府を近代市民社会の市民として作っていかねばならない。


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