鳩山新党をめぐる流れ


平成8年の年賀状にはこの様に書いたものである

 宮沢内閣不信任の頃から、戦後ドイツやスイスなどの連
邦制のシステムを語りあううちに、ようやく金沢の、石川
県の、そして日本の何かが変わりだしたようです。市民主
権に始まる地方主権の結果としての連邦制なのです。
 「待ち」や「たかり」や「逃げ」を決め込むのではなく、
自ら何ができるかを語りあう様々な市民ネットワークグル
ープが更にネットワークする、言うならばオフラインのヒ
ューマンインターネットの動きなのです。無党派の新しい
動きです。
 さて来年の年賀状はオンラインのインターネットでお送
りするかも知れません。


1月末頃社会党から市民リーグへ移籍された、嶋崎譲代議士から中川へ会談申入れの電話あり。沢 信俊、前 正篤の両氏と嶋崎邸訪問。
嶋崎代議士から1区の嶋崎票を回すから、親「さきがけ」系からの衆議院選候補者を擁立するよう打診される。

2月?日「悠々会」の設立メンバー5人と前氏、会合し申入れ辞退を決定。
その旨、嶋崎氏に回答。

4月20日「第3回県民フォーラム」の終了後、会場ロビーで広岡氏より菅厚相または鳩山氏を金沢へ招くことの提案あり。
「県民フォーラム」では幅広い参加や広がりが期待できないと「悠々会」側で招く方向で検討。

5月初旬鳩山氏の理念の載った『RONZA』6月号が発売され、悠々会メンバーらとコピーを回覧する。

5月14日広岡氏、鳩山氏と面会。「金沢行きを了承」と「悠々会」の席へ架電。
当日のテーマをきりあげ、「悠々会」として迎える是非を議論。
大勢は前向きだが、反対意見は2年前の田中秀征氏を迎えながら政治勢力を結成せず、中川外司市議の引退をもたらしたのではという思いと、田中氏への申し訳なさ等。

 6月3日に井出正一氏、来県との連絡あり。

6月1日頃井出氏の父君、重体で来県を一週間延期。

6月3日井出一太郎氏、葬儀。

6月10日井出正一氏、金沢へ。「悠々会」メンバーに「石川ペンライト21」、「しじゅうから花の会」のメンバーを交え会食。
鳩山氏や堂本氏の来訪の要請に対し、実現するよう努力するとのこと。
菅氏については厚生大臣在任中は難しいとのこと。

6月?日「悠々会」内の一部の不協和音もあったが、無所属市議の「石川ネット」が単なる親睦団体から、声なき多数の旧保守(サイレント・マジョリティー)の結集軸に育つべく、鳩山氏を迎える主体を「悠々会」から「石川ネット」へ移す旨、悠々会メンバーの市議たちへ打診。
「石川ネット」全体としては無理だが、その中の有志議員と市民で行う方向で合意。

6月25日連日の雨で金沢市田上地内に崖崩れ。中川外司・前金沢市議宅を直撃、大破。
中川氏、周辺住民たちと避難所暮しとなる。

7月1日県庁記者クラブで、日程の決まらぬまま、鳩山氏を迎えての「21世紀の政治家像を考える集い」開催の記者発表。(斉官、福田、広岡、中川)
斉官、福田の2市議、ルビコン川を渡るシーザーの心境か?
「賽は投げられたり!」

7月11日広岡氏の折衝だけでは日程が決まらぬと判断、木村、斉官、福田の3市議と2市民上京。
鳩山氏の来県日の明確化を要請し、7月25日に一泊の日程を確約。

7月14日裁判所の決定を受けた珠洲市長選投票。

7月15日県庁記者クラブで木村、山野、渡辺の3市議を交えて、日程決定の記者発表。
休刊日と珠洲市長選のアオリで翌日の新聞報道の扱い、かすむ。

7月16日木村、斉官、渡辺の3市議と中川、小松空港で奥田敬和代議士と会談。
新しい時代のため、奥田氏の引退をも勧告。

 この頃、サラリーマン会員の何人かは、会社の名刺以外に、肩書き抜きや、「一般市民」という肩書きの名刺を自費で用意し、「自立した市民」として渉外等に備えだす。

7月18日夕5時半〜7時、「考える会」の市民と市議ら「ソフトクリームはいかが?」と金沢駅でチラシ配り。

7月20日12時〜13時半、香林坊アトリオ付近で2回目のチラシ配り。市民の反応、良好。

7月20日頃粟森・前参議院議員、(2年前の田中秀征氏の時と同様)会場で鳩山氏との会談を申し入れてきたとのこと。協議の上、再度断る。
粟森氏、直接、鳩山氏に架電、会談の約束を取り付ける。
会談場所と時間、部屋代等、「考える会」側で手配。

7月23日頃粟森氏、今度は「羽咋市長選候補の本吉氏が鳩山氏に代表質問したい」と言っているので、セットしてほしいとのこと。
本吉氏とは部外者を介さずとも親しい人間は呼び掛人の中に何人かいるのに、と思い確認すると「そんなことを頼んだ覚えはない」とのこと。

7月25日日航ホテルで鳩山氏を迎えて「考える会」を開催。参加人員、約400人。
旧保守系政治家も多数参加。アンケート結果
共鳴・賛同者は8月6日に女性会館に集まるよう呼びかける。
井出氏の秘書・小泉氏も交え、ガーデンホテルで会食。
鳩山氏、「全国をまわっているが、どの集会もさきがけの代議士がいるか、社民の代議士がいるか、動員されたものばかりで、金沢のように市民が自主的にというのは初めて。市民の自立を訴えにきたが、その意味では金沢へは来る必要がなかった」と主催者冥利につきる。
河井継之助のページに、エピソードが、もう一つ)

7月26日3区で立候補予定の矢田氏側たっての要請で、鳩山氏との朝食会。
肌合いの違いを感じる。

8月6日女性会館で「考える会」の今後を協議

8月8日石坂県議に「県民フォーラム」への出席を要請。

8月10日樋口恵子氏を迎えて、「第4回県民フォーラム」アンケート結果
終了後の会食の席上「樋口さんは、ことあるごとに何々審議会の委員をしていて云々と言われるが、例えば菅厚生大臣が役人の海に一人で落下傘降下して悪戦苦闘しているが、10の委員職よりご自身が大臣と一緒に部局の長として落下傘降下するべきではないか」と苦言。
「システムが違う!」と樋口氏。
「そのシステムを変えるために、こんな会をやり貴方を招いている」とまでは言わなかったのが悔やまれる。

8月22日「考える会」側、松任の福田事務所で新党準備会(以後連夜)。
「船田など、どうでもよい。小さく産んで、大きく育てるべき」で一致。

 石川の社民党員は 1,000人弱という沢氏の言に大半が、あまりの少なさにビックリ。
嶋崎氏や北小松市長の後援会の重鎮・白石フミヨ氏も社民の市民感覚のなさを披瀝。

8月28日鳩山・武村会談、物別れに終わる。

8月30日鳩山氏、「さきがけ」を離党。菅氏、同調せず。

8月31日鳩山氏離党に関し、桑原氏「思ったよりも幅広い結集になっていない」、
鍵主氏「現状では合流は難しい感じもしている」と報道される。

9月11日「民主党設立委員会」結成の呼びかけなされる。
岡崎トミ子、菅直人、鳩山邦夫、鳩山由紀夫の各氏が、「未来に責任を持つ政治」を志す人々の結集を呼びかけた。同時に、民主党の 基本理念基本政策などを発表。

9月13日大田昌秀沖縄県知事が米軍基地用地の強制収用事務手続きに応じることを表明。
橋本総理、衆議院解散・総選挙のフリーハンドを得て、田中秀征氏、井出正一氏らの新党合流がタイムアウトとなる。

9月14日市民リーグの嶋崎代議士、再度、松任の福田事務所へ。
県内に新党の受け皿が2つ出来ては有権者にわかりにくいので「考える会」側が石川県の民主党の受け皿となるように依頼を受ける。
翌日会合の社民側には嶋崎氏の松任での打合せを秘するよう要請される。

9月15日シティモンドホテルで両派会談。
社民系出席者:桑原、鍵主、山根、稲本の各氏。
考える会市議:木村、斉官、福田、山野の各氏。
市民立合い人:沢 信俊氏(司会)。
       常光利惠、中川恒雄、前 正篤の各氏。
社会党時代からの組織から脱皮し、一人の「自立した個」として新党作りに参加するように要請。
支部設立の呼びかけ方法については、「考える会」側で進めるよう一任される。
今後お互いに話し合いをして、選挙や支部作りをして行きたいと合意。
両派の窓口は社民側を稲本県議、「考える会」側を福田市議と決定。
(社民側は前日の嶋崎氏の松任訪問を嶋崎氏より聞き知っていた)

9月17日民主党設立委員会が結成される。幹事会、総選挙対策本部などの体制を決定。
社民系との話し合いに基づき、ガーデンホテルで民主党石川県支部設立の呼びかけの記者会見。
嶋崎氏、森林調査として家族でカナダへ出発。
向かいの都ホテルでの社民系の会合の終わるのを待つが連絡なし。
福田氏、再三、稲本氏へ携帯電話するも明確な回答なし。
(この後も稲本氏からは連絡なし)

9月18日社民側は事前の相談もなく2区での山根氏の立候補発表。
1区も桑原氏で選考と報道。

9月20日以前から鳩山氏と会う約束をしており木村、斉官、福田の3市議、上京。
北國新聞記者、羽田で待ち伏せ同行取材。鳩山氏、記者の入室取材を許可。
「たとえ離党しても社民系の人物ばかりが立つのは望ましくない。社民党を衣替えしたようなイメージは避けたい」との鳩山発言をスクープ報道。

9月21日民主党石川県支部設立呼び掛人会議、紛糾。
社民系出席者:稲本県議、宮下県議、竹田市議、大舘町議、川島連帯労組議長の5氏。
考える会側に、落合市議と岡田町議が加わる。
宮下氏ら4氏、「9月15日の両派会談も何も知らされていなかった。考える会の方が話し合いに応じないと聞かされていた」と陳謝。
共同記者発表に社民系、出席せず。稲本氏、逃げる。
他の社民系4氏は残って「考える会」側市町議や市民と討論。
「社民執行部は我々をアクセサリーか、社民を中心に回る人工衛星のつもりでいるのではないか?!」との声に、「そう言う体質は確かにある」と大舘町議。
嶋崎代議士「カナダからの国際電話で引退を表明」と報道される。

9月22日折りしもの台風の中、ホテルニューオータニで民主党設立委員会結成記念の集い。
民主党のマークとスローガンも発表される。
衆議院選挙第1次公認決定候補者79名、発表。
石川県関係者の公認発表なし。
「考える会」2区の3市議と2市民、居合せた社民系4氏(桑原、鍵主、山根、粟森)に会釈するも無視される。

9月23日?宮下氏、川島氏らに「1区・2区・3区とも社民系が候補者を立てなさい。考える会は一切、手を引く」旨、通告。
会談決裂で退席途中に、鳩山氏から直接電話で「2区は福田君が出てくれないだろうか?」とのこと。
「新党のイメージを考えると、社民系との混合は良くない」と断る。

9月24日民主党設立委員会事務所びらき。斉官・福田の両市議、上京。
金沢都ホテルで、北信越ブロック協議会。(朝日・今井の両参議が座長格)
社民系以外の出席は石川県の「考える会」、木村市議と中川だけ。
北信越ブロック全体の選対を金沢に要請される。
斉官・福田の両市議、とんぼ帰りで合流参加。

山根氏、今回も事前の相談無く出馬断念を発表。

9月25日前日の「山根氏、出馬断念」の報に、市民たちから、中川の携帯電話へ「よく、やった!」、「頑張れ!」のコール。面会に来られた方まで。
(よくぞ、新聞・ちらしの携帯電話番号を控えておられたものだと感謝する)

新進・一川県議、2区での出馬表明。
嶋崎代議士、カナダから帰国。
川島氏、県連帯労組会議長を退任。

9月26日福田市議、出馬断念。
斉官市議、責任をとり出馬の意向を固めるが、「考える会」の多数がなだめて撤回。
「今となっては、桑原のアクセサリーになるだけでなく、候補者乱立で自民の森氏を利するだけ。山根の替りの当て馬になるべきではない」

9月27日衆議院解散。
民主党、第2次公認決定候補者、発表。
衆院選の公認候補者は計120名に。

9月28日民主党設立委員会は、日本教育会館で民主党結成大会を開き、民主党が正式に発足した。
松任のホテルで「民主党石川県支部設立呼び掛人会議」を解散。
「考える会」側は記者公開を主張したが、選挙へのマイナス影響を懸念する社民側の要請で途中から非公開。

10月6日桑原候補の支持組織的に「県民フォーラム」の名前が報道されたことへの抗議も含め、衆議院選告示前に、「県民フォーラム」も解散の記者発表を提案し、協議する。
前日まで、記者発表に賛成の広岡氏の翻意により、記者発表に至らず。
単に名を連ねた社民系は別として「県民フォーラム」に汗をかき、プラスイメージに貢献した呼び掛人の多数は「県民フォーラム」を解散したものとする。存続を主張するもの2名のみ。
今後、「県民フォーラム」の名で行われる会合は、我々とは一切無縁である。

10月8日第41回衆議院選挙公示、20日投票。


鳩山新党をめぐる一連の流れを中心に、平成8年に限って、まとめてみた。
できれば、「県民フォーラム」のスタート時点(平成7年8月末頃)から記述すべきかも知れないが、資料や記憶が定かではないので後日にしたい。
誰か当時の関係者がホームページを開設して呉れれば、それにリンクしてもよいのだが。ただ、「県民フォーラム」を通じて接した社民系の人たちに垣間見えたものは、組織内の序列意識と動員感覚であった。そして残ったのは彼らのノルマ感覚からくるアリバイ作りの慌ただしさと空虚さだけであった。

我々の活動は、誰かがどうしても国会議員になりたい、したい、と言うものではなかった。「政治は最高のボランティアである」という言葉は鳩山氏の「バッジをはずす覚悟」に通ずるものがあると思う。

対する社民系の動きは議員になることが自己目的化され、その為にはメフィストフェレスとも手を結ぶ行為にように思える。あるいは自分たちがメフィストフェレスなのか?

官僚主導は国家・行政だけではない。軍隊のほか、およそ人的組織のあるところ全てに官僚は発生し弊害をもたらすことを指摘したのはマックス・ヴェーバーの『官僚論』であった。大企業の中は勿論、既成政党や労働組合の中にもまた官僚は発生し存在する。そして自分の所属する組織の終焉が訪れるや、寄生虫よろしく新たな宿主に食い込もうとあがき、市民が主役であるべき生まれたばかりの政党に取りついた事実もマザマザと見せつけられた一年であった。

鳩山氏の理念を説く斉官、福田両市議に「鳩山が何だ。こちらは菅さんだ」というような人物が民主党の国会議員となってはファウストのように最後には・・・とは思えない。

今また、老醜を隠すアクセサリーを集めようとしているようである。


そして、平成9年の年賀状はエトにちなんで、この様に書いたのである

 「自由な市民によって指導されない国家は火牛神モーロ
である。それはドイツでもロシアでもどこであろうと、
自制することを知らない。自分が死ぬまで、己が子供をむ
さぼり食うのである」
 1940年、Gシュトルパーは『1870年以後のドイツ経済』
の序説でこのように書いています。そして日本で、このこ
とを痛感させられた一年であったようです。
 居もしない英雄を待ち望むのではなく、自由な市民が自
律した個としてネットワークし、互いに支えあう、そのよ
うな年の始まりであって欲しいものです。

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