「グローバルスタンダード」考



外国人あるいは外国生活の長い人との出会いの楽しみの一つに、その国の職業について訊けることがある。日本にもある職業、ない職業。あっても、細部の手続きのなされかたの違いもあろう。

ニュージーランドの教員養成の学校を卒業して数年という、可愛い女性ペニーに父親の仕事を訊ねたところ "reinsurance" を自営しているとのことであった。"reinsurance" すなわち再保険である。人口たかだか 300万強のニュージーランドにあって、1億数千万の日本では、ついぞ、これをナリワイとする人を知らない。

私の知る限り、再保険といえば「ルクセンブルクに思う」での「再保険を扱う会社が134社」との記述と、日本の保険会社がイギリスのロイド保険機構で再保険をかけているらしいという程度である。ひょっとすると「グローバルスタンダードな金融システムとは?」と思った一瞬であった。

「通貨とは貴金属で裏うちしきれない今日、誰かの債務である」ということを「軍事力の今日的意義と課題」で書いたのだが、私の得手ではない保険について、誰かからコメントがあるかと期待したのであるが、残念ながら今のところ皆無である。

経済の悪化で、自殺者が増える、というのは欧米ではどうなのだろうか。「土地本位制」とも関連するが、市民のささやかにして、大事な預金をプロパー資金とする銀行金融では、債務者への追求はそれなりに必要なのだが、日本独特の戸籍制度が、その追求に過度に依存したシステムをつくりあげてきたように思える。日本では、これに係る保険は、抵当権(民法369〜398条22)を設定した担保不動産のうち建物の価値が失われた場合の火災保険と、債務者本人が死亡した場合の生命保険で、融資元はこれらの保険へ質権(民法342条〜368条)を設定する。

最近は大蔵官僚が天下るサラ金業界であるが、内実を垣間見た人の話では、滞納はなはだしい口座が、ある日、突然、生保からの振込みで”綺麗になる”事例が、単なる事故とは思えないほどであるという。また、経済の陰りの時期に自らの「いのち」をもって、あがなわれたのであろう悲惨な事例を見聞する。中にはそうでもして返済をすることを示唆する銀行の融資回収担当(彼なら言いそうだ)、その姿が髣髴としてくる。

「金融システムの維持」という言葉が、頻りに言われているが、日本の金融システムの特質は、毎月の給与のきまっているサラリーマンには実感できないだろうが、「債務者個人への追求の厳しさ」ではないだろうか。
(上場企業クラスでは経営者個人への追求は、それほどでもないようだが・・)

不動産売買に伴う登記で、日本の本人特定の形式的厳格さは先刻、承知していたのではあるが、バブル直前のカネ余りの時期に、ある中位生保の資金を不動産担保ローンとして貸しだす業務を代行して、「戸籍の付票」に大きく依存した融資実務をつぶさにした思いがした。また、戸籍の裏付けがとれない外国人の住宅ローンは、殆ど不可能に近い。表向きは可能だと言う銀行も、融資の前提となる保証機関がはねるのであるから実質不可能なのである。これは、外国人に限らず、保証人が日本人でも遠隔地(国内)の場合も融資がされない実態がある。戸籍のない外国人の、しかも海外へ転出した場合の所有不動産の売却の煩わしさというものも疑似体験させられた。

鎖国政策のとられた江戸時代 300年は、同時に海外はおろか国内でも「移住の自由」のない時代でもあった。その名残のなかで戸籍が制度化され、戦後の新民法制定をうけたはずの現戸籍法も、そうした通念をひきずっているようである。

こうした、戸籍制度の不備な、というより、時として個人が国境を超えて国家や行政の管掌下から消えてしまう、欧米では債務を引き受ける保険制度が発達したのではないかと思う。ヒト・モノ・カネが国境を超える時代となった日本でも戸籍に過度に依存したシステムの見直しが必要と思われる。

再保険という業種をめぐる詳細は、業態・業容を含め、何も判らないまま書いてきたし、私の想像するものではないかも知れないが、これを読む誰かが、この業種に挑戦し、体験され、日本社会へフィードバックして頂ければ幸いである。それは既存企業の子会社ではなく、全くのベンチャーとしてバックされてこそ意義がある。

多くの人達は、国情や歴史、文化の違いなどと済ませてしまっている、そうした中に実は日本のシステム上の重大な欠陥が隠されているのではないだろうか。生活の実務を支える微妙な違いは、物見遊山の旅行では判らない。グローバルスタンダードとはこうしたところに隠れているのでは、と思わせてくれた出会いであった。

参考:
不動産登記法
欧米各国の不動産登記制度の比較

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