日本の不動産登記法が参考とした

欧米各国の不動産登記制度の比較


登記制度の調査に材料となったのは、先進資本主義諸国すなわち欧米各国の制度であったこというまでもない。これらのすでに土地改革が完了し資本主義経済に適応した制度のとられた国こそ、わが模範である。この外国制度の摂取あるいは継受はおよそ当時の制度文物のすべてにわたる通有の現象だが、ただ登記制度においては、それら原型間に大なる対立があり、果たしてそのいずれがわが国情に合致するかに関して、立法当局者の考慮が費やされねばならなかった。そこで今明治14年乃至19年(1881年乃至1886年)の外国諸制度を一べつしよう。
この当時にわが国で参酌せられ得べきであったものは大略四つの型に岐れた。それらは各々相異なる形態をとった。一はフランス、二は独墺、三は英国、四は英領植民地及び米国。

フランス

フランス及び仏法を母法とする諸国(イタリー・ベルギー・オランダ等)においては、ローマ法の思想並びに土地所有者の反動的な態度に累(わずら)わされて、登記制度の発達は非常に阻害された。制度改革の先駆者として実体法の領域であらわした仏法の輝かしい進歩は後進日本の仰望するところであったが、登記制度の状態はそれと対立するものである。フランスの古法時代には、登記制度は原則としてなく、ローマ法的の法定抵当権・一般抵当権など公示の原則も無視したものが行われて、不動産取引は甚だしい不安に曚されたので、大革命後抵当制度の改善を中心に土地改革の企図がなされた。その実現として共和7年霧月11日(1798年11月1日)有名な抵当信用法(la loi de crédit hypothécaire)が制定され、抵当権の設定に登記(inscription)、所有権の移転には謄記(transcription)をもって物権変動を公示することとし、特定主義も採用された。いわゆる中間法(droit intermediaire)のこの目ざましい創案の源泉は、実は一は古法の insinuation と、一はフランスの地方的慣行とにある。前者は生前贈与の場合の登録制度(l'insinuations des donations)であり、後者はフランス北部、いわ ゆる pays de nantissementBretagne 両地方に行われた封建制に由来する公示の法であった。1800年いよいよ民法典の制定に入り、委員会は中間法の成果の採否に関して沸騰した。そのあげく、実に不徹底無意義な妥協となり、1804年のナポレオン法典には先取特権及び抵当の章には詳細な登記規定が設けられたのに拘らず(2146条乃至2156条)、所有権取得の部には生前贈与のみ謄記を要し、売買には要せずとし、しかも滌除につき所有権移転の謄記を予想するという、全く不可解な事態を生じた(939条、1583条)。従って不動産公示の理想は結局達せられず、世の批難はこれに集中し、半世紀に及ぶ改正論者の努力の結果ついに1855年5月23日法をもって、謄記は不動産物権の有償移転(永小作権、地役権、質権、使用権、住居権)の設定移転のほか、なお期間18年を超える賃貸借及び期限未到来の三ヵ年分賃料の弁済または譲渡をも包括された。これによって不完全ながら、中間法の原則に立戻ったのである。(1)
こうした経過で、フランスの登記制度は特別法をもたず、中間法、民法、民事訴訟法及び前記1855年法で構成されているが、その内容を略述すると下の通りである。
登記事項及び
登記の効果
上述の通り抵当及び先取特権は固より、所有権・用益物権及び一定の賃貸借の設定移転消滅は登記(又は謄記)をなすべきであるが、登記はただ第三者に対する対抗要件で、当事者間では物権の得喪変更は意思表示のみで効力を生ずる。第三者の範囲は非常に問題で、これに善意悪意を区別せず、また所有権移転の謄記にあっては目的物に権利を有しかつその権利を登記した者に限るとするのが定説である(故に一般債権者は未登記譲受人に対抗し得ない)。なお抵当の登記の効力は10年間に限られ、これを継続するには登記の更新を要する。
登記簿の構造及び
登記手続
主要な登記簿は、先取特権及び抵当権登記簿(le registre des inscription des priviléges et hypothèques)、所有権移転証書謄記簿(le r. transcription des actes de mutation)、不動産差押登記簿(le r. de transcription des saisies immobilières)の三種で、登記及び謄記はこれになされる。他に附属帳簿として受附簿(le r. des remises ou de dépôt)、見出帳(le répertoire)その他があり、見出帳はことに重要で登記検索の必要手段となる。すなわちその左頁は謄記の、右頁は登記及び抹消の参照に供せられ、各頁は数欄に分ち、その各欄を不動産取引をなした各一人に割当て、事件の順で謄記または登記の記載された登(謄)記簿を指示するようになっている。しかしてその排列順序は登記契約者の頭文字の順であるから、フランスの制度は人的編成とよばれるのである。登記簿の公開は間接的で、すなわち直接の閲覧を許さず、登記簿抄本(extrait des registres)の請求を許すのみ。
登記(inscription)と謄記(transcription)との差は、前者が原証書の要点を特記するのに分析的公示(publicité analitique)、後者が全文の謄写(reproduction in extensu)なるにある(2)。そこで、登記においては契約証書の外に抵当の要綱を記載した申請書(borderaux)を提出し、登記吏はこれを謄写するものとする。申請は一方からなす。すなわち謄記の場合では例えば売主かあるいは買主、登記(3)の場合では債権者に限る。登記吏は申請に従いその内容に関しなんらの審査をなさずに登記する。
登記の機関 フランスの登記機関は特有なもので抵当保管吏(conservateur des hypothèques)と称し(4)、大蔵大臣の管下に属する行政官であるが、一定俸給のほか法定の事務取扱手数料(salaire)を受け、この点わが国の執達吏に類する。民法典は登記吏の損害賠償責任を規定し(第2197条乃至2199条)、その担保として登記吏は保証金を積むこととなっている。


独・墺

独・墺等、ゲルマン的慣習法が強く、ローマ法思想の影響に全面的な支配を受けなかった地方では、封建制の遺産としての登記制度が高い段階への発展の下地をなした。発展の沿革は墺がより古く、その起草は明らかに封建的なもので、すなわちボヘミアやメーレンの貴族世襲領に十三、四世紀から公法的忠勤関係を表示する Landtafel が行われ、漸次私法上の権利義務の鏡にも転化し、他の種の土地、他の地域にも伝播し、物的編成の公簿が十八世紀末にはすでに完全にとられている。1811年には一般民法典(A. BGB.)が制定され、従来の分裂した制度を集成統一し、かつ実体的な登記主義を確立した(1)。次にドイツ諸邦では、不動産譲渡への裁判所の関与と記録作成、都市における都市公簿(Stadtbücher)が源泉をなしており、次第に相当の進歩も示されたが、ローマ法継受においてパンデクテン学者の優位は危く固有法の遺宝を破壊しようとした。この危機を未然に救い、そして形式的土地法の偉大な進展を実現したのが、18世紀各邦の開明的専制君主で、土地改革の熱情に燃えたその企図は ヘーデマンをしてこの時期を「計画的世紀」とよばしめた(2)。その代表者は1722年プロイセン王フリードリッヒ・ウィルヘルム一世の抵当破産条例(Hypotheken und Concurs Ordnung)で、他の諸邦もこれに追随したが、同条例の抵当簿(Hypothekenbuch)は未だ簡単な型式を定めたものにすぎず、19世紀に入って登記簿改造運動は大いに進み、1833年のザクセン・ワイマルの不動産譲渡法(Übereignungsgesetz)を魁とし、ザクセン王国の1843年9月9日法に至って、近世的登記簿の諸原則(物的編成の方式、登記の実質的審査、公信主義等)が樹立された。この偉大な躍進が果を結んだのは、墺の1871年7月25日の一般土地登記法(Algemeines Grundbuch Gesetz)及びプロイセンの翌1872年5月5日の土地登記条例(Grundbuchordnung)である。形式的土地法において19世紀は実行の世紀と称すべきであるが、ことにその後半、すなわちわが維新の前後に至って始めて、欧州資本主義先進諸国の登記制度が完成をみたことは注目せられねばならぬ。
独墺の制度、ことにプロイセンの登記法は当時最もすぐれたものの一に数えられ、わが登記法の典例となったが、以下にこれを略述しよう(3)
登記事項及び
登記の効果
登記の目的たる権利の種類は所有権、所有権の制限並びにすべての担保及び用益物権(抵当・土地債務・物上負担・用益権・地上権・永小作権等、賃借権もプロイセンでは用益物権に属す)。墺では例外的に債権たる先買権、再売買権、賃借権をも含む。登記の効力は一般に権利の得喪変更の効力発生要件だが、プロイセン法において用益物権の場合には第三者対抗要件でまた、賃借権、法定先買権等の場合には単に確認保全的の作用に止まる。また例外として相続・婚姻・強制執行・公用徴収による所有権取得には登記を要しない。善意で登記を信頼した者の権利保護、すなわち公信の原則はプロイセン法では認められているが、墺登記法は一種特異な中間的形態をとり、善意者より取得登記の告知を受け、かつ右登記で害を受くべき地位にある利害関係人が、一定の不服期間内に異議記入(Streitanmerkung)を申請し、その後60日内に登記抹消の訴えあるいは旧登記回復の訴えを提起せぬときは、善意者の権利は争い得ざるものとなるとした。またもし右登記の告知が怠られても、3年間登記簿上異議なきときは実体的欠缺は消滅する(4)
登記簿の構造及び
登記手続
登記簿の構造は墺において極めてすくれた進展の跡を残し、その最後の形態としても、プロイセンよりも勝っている。プロイセンは例外的に人的編成を認め(5)、分裂した土地所有等の場合に裁判所の裁量でこれを許している。しかし以下には物的編成のものにつき、両者を一緒に説明する。
登記簿は登記目的物の種類により土地、鉱山、墺ではさらに鉄道の登記簿がある。土地登記簿は土地台帳(Kataster)と連動して確固なる地籍の上に築かれて全ての土地が登記され、各々につき、一不動産は一用紙を備えるのを原則とし、特別な場合に例外を認め、一用紙は次の数欄に分れる。すなわちプロイセンでは、標題(Verzeichnis der Grundstücke)及び三つの区(Abteilung)で、標題には土地の表示、すなわち土地台帳番号、面積、収益価格あるいは地租収入、分筆を、第一区には所有者のほか取得の時日原因並びに価格を、第二区には継続的負担及び所有権・処分権の制限(物上負担・役権・先買権・競売開始等)を、第三区には抵当及び土地債務をそれぞれ記する。墺では土地内容欄(Gutsbestandsblatt od. Besitzblatt)、所有欄(Eigentumsblatt)、負担欄(Lastenblatt)の三に分れ、土地内容欄にはその半ばに土地の構成部分及びその変更、従物を、他の半ばに土地と結合した権利(6)を記し、所有権には所有者に関する事項のほか、所有権の制限たる条件・代償・先買権・買戻等及び未成年破産等による管理権制限を記し、負担欄には凡ての負担となる物(担保・用益)を記する。登記簿は完全に公開せられる(閲覧及び謄抄本)。
登記は主登記の外、独墺法ともに一定の場合に仮登記(Vormerkung, Pränotation, Anmerkung)の制をも認めている(7)
登記及びその変更は常に申立により、任意の所有権移転(Auflassung)には両当事者の出頭を要するが、その他は登記義務者の同意で足る。なお墺では、従来の沿革から主登記簿のほかに証書簿あるいは証書綴込帳(Urkundenbuch od. Urkundensammlung)を設け、契約証書あるいはその謄本を提出せしめ、これを登記所に備えることとした(8)
登記の機関 登記事務は土地所在地の区裁判所判事がこれを管掌する。プロイセンでは特に判事及び登記簿書記(Buchführer)各一人をこれに専任する。登記官吏の故意過失による損害については、登記官吏自身のほか、国家も補充的にその賠償責任を負う。


英国

英国は独特の錯綜した土地制度をもってその国民の保守的な性格を示しているが、ことにその登記制度に至っては、先進資本主義諸国の中で最もおくれたものであったということができよう。しかしその客観的理由は国民性というよりもむしろ土地所有の極端な集中に存するといわれる。すなわち少数者が広大な土地を兼併し、かつ長子相続制がつたえられているので、土地の流通保護の必要がさまで切実でなかったのである(1)。それ故にか、封建的起源の不動産権登録の制度は古くは制定法に存し、またある地方では一種の登記制度が行われながら、前者は廃滅し、後者は他に普及せず、次の不便極まる方法を伝えて来たのであった。すなわちコンモン・ローによれば、英国の土地売買は土地権原証明書(title deeds)の作成と交付によりなされるが、買主は法律専門家を頼んで右の証書を三、四十年前まで遡って調査せねばならず、しかもこの莫大な手間と費用は各取引の都度繰返される(2)。かくては、流石の英国民にも改革論が起り、1828年以来不動産取引改善を目的とする委員会の調査が 始められ、その成果は1862年の土地登記 法(Land Registries Act, 25, 26 Vict. c. 53)となったが、成績甚だ振わず、さらに研究の末1875年土地譲渡法(Land Transfer Act, 38, 39 Vict. c. 87)が制定され、なおも大失敗を繰返し(3)、三度び委員会を設けて1897年面目を一新した土地譲渡法(Land Transfer Act, 60, 61 Vict. c. 65)が制定された。こうした調査研究には、後述のトーレンス制及び独墺の登記法が範とされた(4)。また改革失敗の原因としては、従来の土地譲渡を収入の金箱とした弁護士階級の反対と、権原の調査で却って瑕疵をみつけられることを虞れる地主の懸念があげられる(5)
わが登記法の調査時代に資料となった英国の登記制度としては、右の1875年の土地譲渡法と、それから18世紀初頭以来ミドルセクス(Middlesex)及びヨークシァー(Yorkshire)に行われた証書登録の制度をあげるほかはない。後者は「秘密な譲渡、詐欺的な不動産負担」(secret conveyance and fraudulent incumbrance)の防止のため土地取引の証書及び遺贈につき登録を命じたもので、ミドルセクスでは1708年の法律(7 Anne, C. 20)により、ヨークシァーでは1704年ないし1734年の三法律(2 & 3 Anne, c. 4; 6 Anne, c. 20, 35, 62; 8 Geo. 2, c, 6)によった。その登録の方法は一定型式の覚書(memorial)を証書原本とともに登記に提出し、登記所がその覚書を綴込むこと(fling)である。登録の効力は、専ら第三者に対して取引の効果を対抗する要件である。しかるにミドルセクスで1742年衡平裁判所の判決が悪意をもって登録した者に対 しては保護を拒否する判決を下したので(6)、登録の効果は大なる減殺を受けた。そこでヨークシァーにおいては、右判決を覆滅し詐欺に非ざる限り登録は効を失わずとする立法が1884年行われた(Yorkshire Registries Act, 47 & 48 Vict. c. 54)。
次に土地譲渡法は、右と原理を異にし後述のトーレンス制に則り、権原(title)の審査登記並びに地券の発行をなすもので、その適用はイングランド及びウェールスに限り、また登記は土地権利者の任意で、登記せねば従来の方法で取引がなされるが、いったん登記した後は以後本法の規定に従うを要する(7)。その構造は濠洲の制度を修正したものであるから、大体はこれに譲り、主な特徴を左に略述する。
登記する権原には、濠洲のただ一種なのと異なり、絶対権原(absolute title)、制限権原(qualified title)及び仮権原(possessory title)の三がある(8)。絶対権原は濠洲のものと同様で厳重な調査を経て絶対的公信力を認められるもの、制限権原は絶対権原登記の申請をなし審査によりなんらか権原に瑕疵が発見されたとき申請人の申立によってその瑕疵の原因たる他の権利を記入してなすもの、また仮権原は登記申請者の疏明だけで実質的審査を経ずに登記するものである。右の三者はその効力を異にする。絶対権原は最も完全なもの、制限権原は登記簿及び地券に記入された点について権利が制限されるほか絶対権原と同様であり、最後に仮権原では、最初に登記したときまでにこりに対抗し得た他の権利はその実質的審査を経ていないから登記後も登記名義者に対抗しうるけれども、登記以後に生じた権利はもはや登記なくしては対抗し得ない。それ故仮権原土地の買主は、その始めの登記の時までの事情さえ調査すれば、右の登記以後については安心 オていられる。仮権原は不徹底な方法だが、なるべく土地の登記の機会の増加を図る趣旨で設けられ、その費用及び手続 ノ簡便なため、実際上ほとんど大多数の登記がこれにより行われた。
登記に際し地券の発行される点も濠洲に同じい。これは自由保有地(freehold land)については"land certificate"といい、期間権(lease, 一定期間以上のものに権原登記が許される)については"office copy (of lease)"という。土地に担保権を設定する場合には担保証券(certificate of charge)が附与される。これらの地券には、権原の種類の「絶対」「制限」あるいは「仮」なることが記載され、各内容に従い証拠力を有するのである。
最後に、登記機関はロンドンに土地登記局(Office of Land Registry)を置き大法官(Lord Chancelor)の任命する登記官(registrar)が登記事務を掌る。大法官は国庫委員会(Commission of Herlor)の同意を得て地方登記所(district registry)を設置しうる。


英領植民地及び米(トーレンス制度)

トーレンス制度は、保守的な英国民が遠く海外に新天地を求め運命の開拓を期したとき、故国伝来の采邑法的観念と時代の要求する経済的自由主義との調和をもって作り上げた制度で(1)、1858年1月27日南濠洲に施行されると(Real Property Act. 1857-8, 21 Vict. No. 15)、まもなく英領植民地(濠洲諸地方の外ニュージランド、フィジー植民地、南米英領植民地、カナダのブリティッシュ・コロンビア等)、アメリカ(イリノイ、カリフォルニア、オレゴン、ミネソタ、コロラド、ワシントン等)、仏領植民地(テュニス、マダガスカル、仏領コンゴー、モロッコ等)に採用され、英本国も強くこの影響を受けて前述1862年法、1875年法の制定に至ったのであって(2)、その普及の急速かつ広汎であったこと、史上ほとんど比を見ず、正に19世紀の後世に誇るべき収穫というべきである。ことにこの制度は地券を発行し、地券により土地取引の利便を図るを特徴とする点に、わが維新後の地券制度と似かよったところをもち(3)、登記法制定の際 にも必ずや相当に参照されたものと推測される。
この制度はその骨子を土地所有権原(title)の審査及びその登記と、並びに地券の発行とにおき、大略左の如くである。
登記機関 登記につき登記局(the department of Registrar General)を設け、登記長官(Registrar General)が事務を管掌し、全登記事務をこれに集中して行う。なお権原の審査のため権原審査官(Lands Titles Commissioner)が置かれる。
権原の審査及び
登記手続
登記は強制的ではなく、申請人の任意であるが、申請がなされれば登記官はこれを権原審査官に照会して詳細な実体的審査をなし、さらにこれを公告する。この公告に対し一定期間内に異議なきか異議の訴えが却下されれば、登記官は二通の権原証明書(これに官製地図を添付する)の一通を権利者に下附し、一通を登記簿に編綴する。これすなわち登記である。登記簿の閲覧はなんびとにも許される。
土地取引の手続 先ず譲渡においては譲渡証(memorandum of sale)に地券を添付して登記官に提出し、登記官は登記簿にその譲渡の旨記載し、旧地券はこれを廃棄(cancel)し、新地券を取得者に交付する。一部譲渡のときは、所有者に残部の地券を交付する。次に担保権設定においては、抵当証書(bill of mortgage)を作成しこれに地券を添付して登記官に提供し、登記官は登記簿に担保権設定の諸事項を記載し、次いで同一事項を覚書をもって地券にも記録する。手続完了の後、地券は所有者に、抵当証書の一通は登記済の旨記載して抵当権者に、各々与えられる。
登記の効力 土地の権利変動は登記によって生ずる。そして登記はいわゆる決定的(conclusive)な効力、すなわち大陸法的にいえば公信力を有して、登記された事項は詐欺及び錯誤につき特別の規定ある場合を除き、なんびともこれを争うことを得ない(indefeasible title)。
不正な登記における賠償 前述登記の公信の効力により真実の権利者の利益に生ずる侵害を救済するため、保証金(indemnity fund)を登記の際の支払金(登録税の一部分またはその附加金)をもって積立て、登記官の故意過失による損害賠償にあてることが行われる。


日本司法書士会連合会編 有斐閣
『不動産登記制度の歴史と展望』(現在、絶版)
第2節 登記制度の調査
三 立法資料としての外国制度 より

キーインミスがないように注意したつもりですが、不審な点がありましたらメールください。キーイン原稿で既にミスがあると思われるものもそのままにしてあるものもあります。