イソップのカエルたち

 

ある寓話 Page Top

幼い頃、買って貰った絵本の中にイソップなどの寓話を幾つか収めたものがあった。その中のあるおはなし。たしか『蛙の王様』という題名だったと記憶している。

神様が与えた蛙達の王様は大きな丸太ん棒。何の意志も示さない「デクの棒」を馬鹿にし、王様の頭によじ登ったりの勝手放題。そして神様に、もっと存在感のある強い王様を要求した。
そこで神様は怒って、新たに王としたのはコウノトリだった。この新しい王様は片っ端から蛙たちを食いはじめ、遂には一匹残らず王様の餌食となってしまった。

というものだったように記憶している。イソップ物語は我が国には安土桃山時代に既に「伊曽保物語」として訳され、「ウサギとカメ」などのように、いかにも日本固有の昔話のように伝承されてきたようである。そして数千年の時の経過とともに世界中でさまざまなバリエーションで語り伝えられてきたようである。英語のこのリンクではタイトルが "THE FROGS DESIRING A KING" となっているし、ドイツ語のものでは "Die Frösche und die Schlange" とコウノトリがヘビになっている。
そして英語の方では「残酷な規則より無規則の方がマシ」、ドイツ語の方では「不満がちな人が"昔の方が良かった"と悟るのはいつも遅すぎるものだ」と結んでいる。さて、我々はどのように結ぶべきだろうか。


髣髴とさせるドイツの例−−代用皇帝 Page Top

最近、妙にこの寓話が思い出されてならない。というのは、昨今の首相公選あるいは大統領制についての論議とドイツ政治史の忌まわしい部分が重なるからである。公選の首相=大統領といってもよいのであろう。

たしかに大きなターニングポイントにさしかかった日本において政治が確固としたリーダーシップを発揮しなければならないことは、そのとおりであろう。しかし、ドイツ政治に関心をもってきた私には、この大統領制についてはいささか首をかしげざるをえない。

1867年の明治維新に遅れること3年。1870年にドイツでは、北東の辺境領から勃興したプロイセンが、同じく南東の辺境領から強大化したオーストリアを埒外においての、いわゆる「小ドイツ」的統一を果たし、プロイセン国王がドイツ皇帝となる。神聖ローマ帝国を第一帝国と想定して第二帝国となぞらえる向きもあるようである。

第一次世界大戦の結果、革命によって、この第二帝国は解体し俗に言うワイマール共和国となるのであるが、スイスへの民主的心酔によって作られたとされる、この共和国にも大統領職が設けられたのであるが、民主主義が根付いていなかったドイツでは大統領は、今までのドイツ皇帝の代用品でしかなかった。そして遂にはヒンデンブルク大統領はヒットラーを首相とし、ヒットラーは自ら第三帝国の総統におさまり、まさにイソップのコウノトリとなったのではなかっただろうか。

「ドイツの実情」から「1945年までのドイツ概史」


揺籃期の民主主義の共通性 Page Top

20世紀の前半にドイツ・オーストリアを中心に演じられた惨劇を想うにつけ、これはドイツだけではないのではないかという感を禁じ得ない。すなわち、17世紀イギリスでの清教徒革命後の護国卿クロムウェル、フランス革命後に皇帝となったナポレオン。彼らとドイツでの「代用皇帝」との違いは・・・。クロムウェル、ナポレオンそしてヒットラー。この3人を生んだ英仏独の、時代・世紀は異にするが、それぞれの国で、民主主義の揺籃期における共通性を見ることはできないだろうか。そして、日本における首相公選=大統領論議である。この「共通性」は歴史の必然性であって不可避なものなのだろうか。人間には、日本人には矢張り必然性を克服する学習能力は備わっていないのであろうか。


開発独裁の段階での大統領制、大統領制の弊害 Page Top

今日、大統領といえば誰しも最初に思い浮かべるのはアメリカの大統領であろう。アメリカ合衆国が独立して大統領制を敷きワシントンが初代大統領に就任したのは1789年。300年も昔の事であり、今日の先進民主主義諸国とされるヨーロッパの多くの国が絶対王政の下にあった時代である。また当時のアメリカは統治対象において面積的にも人口的にも、或いは産業構造や社会構造においても今日のように巨大で複雑なものではなかった。

アメリカの大統領制、勿論、今日に至るまで幾多の修正が加えられてきたのであろうが、これも民主主義の揺籃期に王や皇帝の代用品として作られたと言うのは言葉がすぎるだろうか。ハムレット王子のデンマークは、アメリカの本国であった英国とは浅からぬ関係のあった国ではあるが、元は国王は選挙によって選ばれていたという。また、神聖ローマ帝国の皇帝位も選帝侯(Kurfürst)達による選挙ではなかったか。アメリカ大統領旗を見るにつけ、ヨーロッパのもう一つの鷲・「双頭の鷲」の国、オーストリアを連想する日本人は多くはないかも知れないが、アメリカは草創期において多くをオーストリアの「分家」であったハプスブルク家スペインに拠っている。今や世界通貨ととなって久しいアメリカ・ドルも、オーストリアの銀貨ターラーに発するスペインのドレラを輸入したものであった。

この大統領制がどのように機能し、どのような弊害をもたらしているかに我々は思いをいたす必要があるのではないだろうか。それは一つに、候補者個人を投票権者が選択する選挙方法の代表例と言ってよいであろう。議会における小選挙区制も中選挙区制もそうであるが、「投票権を有する人たち」に候補者名を覚えて貰わなければならない、知名度を競う制度である。そのために「地盤・看板・鞄」と政治家の世襲やタレント候補を生んできた。日本では官僚出身候補、労組出身候補、そして族議員や土建議員を生んできた。

そして大統領制の代表格のアメリカですら、その弊害が見聞される。すなわち選挙費用の巨大さであり、その支弁にかかる不透明さ、スキャンダル合戦、ネガティブキャンペーン、人気取りとも思われる軍事行動などなど。最近に至っては大統領の世襲まで取り沙汰されてきている。一方、最近、アメリカと軍事的対立関係を招いた国々も多くが「代用皇帝」制の国々といってよいのではないだろうか。

戦後、アメリカの大統領制を取り入れた韓国の金鍾泌自民連総裁は次のように語っている。

「 内閣制は世界のすう勢 いま大統領制廃止すべきとき」
歴史的に見れば、大統領中心制というのは、一種、独裁制が許されるリーダーシップを意味した。例えば開拓時代、困難な状況で力を集中させねばならなかった時、限られた期間に最大の効果を出す必要があった。これは確かに効果があったでしょう。しかし、余裕ができてからは、桎梏(しっこく)となった。「絶対権力は絶対に腐敗する」という言葉は特に私たち(韓国)の歴史を見ても分かるはずです。

そして次のように述べている。「政治の責任は本来大統領にあるのではなく、多数の支持を受けた政党の党首にある」と。

かように、日本の隣国・韓国では大統領制からドイツ型議員内閣制への移行が議論されるに至っているのである。

韓国政界、内閣制論議が再燃

民主党フォーラムの会議室:「首相公選制は有害無益だ」


日本の小さな大統領たち Page Top

ところで、多くの日本人はあまり認識していないようであるが、日本の政治制度は国の行政トップだけが議院内閣制の首相であって、都道府県の知事も市町村長も、公職選挙法第2条により実は議会とは別に、直接投票で選任される「大統領」なのである。アメリカでは国・州・市町村の何れもが大統領制であることは周知であろうが、ドイツでは逆に全てが議院内閣制なのである。

民主党フォーラムの会議室:「議員(国会、地方)と首長の任期制限を」


大統領制で与党とは? 或いは野党とは? Page Top

与党は英語で "The Government party"、野党は "The opposition party"と辞書にある。このことからして「与党」も「野党」も議院内閣制の用語と言ってよいのであろう。ドイツでは地方政治から政党政治であり比例代表を母体とした議院内閣制である。そうした州首相が行政経験を積んでから、連邦首相として国家行政にあたることが少なくない。文字通り「地方自治は民主主義の学校」なのである。アメリカにおいても州知事出身者が大統領として行政手腕を発揮した例を我々は幾つか知らされてきた。

ところが我が国では「大統領」に対すべき地方議会で議員達が会派を組み、知事の、あるいは市長の与党だ、野党だ、などという。と言うより、何とか「与党」の一員として「大統領」の裁量権や予算執行権のオコボレに預かろうとしているように見るのは私だけであろうか。マスコミも何の疑問も呈さずに「与党だ!。野党だ!」などと書き立てている。そして「地方政治は政党政治に馴染まない」などとのたまって、各党相乗りで分け前に与ろうとしているようである。もし日本で「首相公選=大統領制」を採用したら、国までが「与野党相乗り」で自自公相乗り以上の大政翼賛政治になりはしないか。ようやく芽生えはじめた政党政治への微かな期待さえ、その芽を摘んでしまうことになろう。

「地方自治は民主主義の学校」という言葉はどこへ行ってしまったのだろうか。議員内閣制と大統領制の両制度共存は日本では政党の性格を曖昧にしている元凶といってもよいようである。そして日本人の大統領制への対応能力は上記の現況に鑑みるに、皆無と言ってよいのではないだろうか。


「大統領」を目指した仲間たち Page Top

平成6年に我々市民と、県内各市の思いの近い議員で悠々会という場で語り合い、ともに「汗」もかいてきたが、そうした仲間の中から「大統領」を目指して選挙戦を戦った市議が二人いる。一人は平成7年早々の加賀市長選に挑んだ下口進氏であり、もう一人は平成10年、細川松任市長の贈収賄で逮捕・辞職を受けて、出直し選挙を戦った福田裕氏である。

その両氏の戦いは何であったか。

俗にヤグラ(櫓)という言葉がある。大きな選挙になればなる程、ヤグラの大きさが取り沙汰される。さまざまな勢力が候補者と政策協定を結ぶのは良いとして、多くは利権の裏取引をしてヤグラの「部材」となっていく。ヤグラに登るはしごの一段、一段が取引である。「そのようなヤグラに乗らない選挙で、どこまでやれるか。有権者はどれだけ理解してくれるか」。敢えてどの陣営とも選挙協力の話を進めなかった理由はここにあった、と福田氏から聞いたのは投票日前夜、遊説カーのスピーカーの電源が切れてからのことであった。

「政治は地方からしか変えられない。変えられるのは首長だ。それもヤグラで縛られない今回しかない」


大統領の議会解散権? 議会の大統領不信任? Page Top

さて、ここまでで大統領を「代用皇帝」などと揶揄してきたのだが、その代表格のアメリカ合衆国大統領には議会解散権は付与されているだろうか? 議会とどのような対立関係にあってもアメリカ合衆国大統領が議会解散権を行使した、あるいは行使しようとしている、などという話は聞いたことがない。大統領制をアメリカから輸入したロシア(ソヴィエト時代のゴルバチョフも含め)でさえ、そのような権限を持っているなどとは寡聞にして知らない。第五共和制下のフランス大統領はどうであろうか? ところが日本の「小さな大統領たち」は皆さんが、この大権をもっておられるのである。

また、この解散権の見合いとして考えれば当然かもしれないが、しかしさらに不思議なことに、日本の地方議会は「小さな大統領たち」に不信任動議を提出できることになっている。民主主義の本旨から言えば、大統領に不信任を突きつけられるのは、大統領を選出する投票権を有する人たちであり、日本では当該地方公共団体の住民有権者である筈である。自分たちが選んでもいない議会が、住民有権者の選んだ「大統領」に不信任動議を提出できる、という法理は何であろうか? また、別途に選ばれた議員たちの身分を「大統領」が奪える、という法理は? 

地方自治法第7章第2節第4款 議会との関係


天皇の議会解散権? Page Top

議会解散権が出たついでに、日本では議院内閣制の国会(衆議院)にも一つ解せない解散権が憲法に規定されている。日本国憲法第7条の「天皇の国事行為」の3番目に記載されている。第69条の解散に対して7条解散と呼ばれる。

一見、天皇主権の明治憲法の反省にたつ民主的な規定のように見えるが、これら「天皇の国事行為」は内閣の助言と承認により行われることになっている。すなわち、天皇の名を借りた内閣総理大臣の権限であり、さらには内閣総理大臣の名のもとに、天皇へ議会解散の上奏を画してきた複数の影が見え隠れしていたように思える。

議会制民主主義、議院内閣制をとる先進民主主義諸国で、議会が不信任案も提出していないのに、行政側が議会を解散できる国が日本の他にあるのだろうか? そして、この一項の故に日本では必要以上に選挙のためのカネとエネルギーを用意しなければならなかったし、議員たちが選挙のための知名度と利権を得るために大臣ポストを求めて争い、大臣を短命なものとし、結果として日本国憲法第41条に言う「唯一の立法機関」を有名無実なものとし、官僚支配の基となってきたのではなかっただろうか。そろそろ「内閣総理大臣」から「有害玩具」を取り上げるべきではないだろうか。

平成8年の7条解散に関する河北新報 NEWS


ドイツ基本法における大統領 Page Top

ワイマール憲法での「代用皇帝」としての大統領に懲りた戦後ドイツの基本法では、共和国であるがため、というべきか、やはり大統領職は設けられている。しかし、この大統領は国民の直接選挙ではなく「連邦議会議員、および州の議会が比例代表の原則によって選挙した、これと同数の議員によって構成される」連邦会議によって間接選挙される。(基本法第54条)

かくして連邦大統領はコウノトリでもヘビでもない、「大きな丸太ん棒」となったのである。換言すればイギリス国王や日本の天皇のように「君臨すれど、統治せず」の存在といってよいようである。しかし何の意志も示さない「デクの棒」になったのではない。その好例をヴァイツゼッカーに見ることができよう。


国とは行政? Page Top

国は「クニ」と呼ばれているが、「クニ」には邦という字も当てられている。原始からの日本語のような顔をして用いられている「クニ」であるが、古来、日本人には「クニ」という概念は無かったようで、の音が日本語化して「クニ」となったものらしい。同様に古代中国語から輸入されて元からの日本語のような顔をしているものに梅の「ウメ」や馬の「ウマ」、銭の「ゼニ」などがあるようである。

兎に角、「クニ」は近代国民国家とは程遠い集落的な存在であったようである。今日、「クニ」は立法・行政・司法の三権よりなることは小学生でも習い知っているのだが、それは「クニ」の仕事だ、とすると日本ではその仕事を行政に委ねてきて議会や司法は意識の外に置かれてきたようである。

ドイツの司法を見る時、その多様性に気づかせてくれると同時に、日本で行政が抱え込んでいる裁量を司法へ移す、という選択肢もあることに気づかせてくれる。また、日本国憲法第41条の前段、「国会は、国権の最高機関」という文言は三権分立とはそぐわない。戦前の反省にたったあまり、国会に肩入れしすぎた表現のように思える。同じく第二次世界大戦の反省にたって作られた、もう一つの憲法、ドイツ基本法にはこの文言も後段の「唯一の立法機関」という文言もないようである。すなわち連邦憲法裁判所が議会の決定を覆すことができることになっているためでもあろう。

「ドイツの実情」から憲法に定める機関


議会は先生の指導する生徒会か? Page Top

あるアンケートご意見の中に

基本的な事をよく理解していないのに何ですが、どうして政党や勉強会等ありきで物事がはじまるのか? 個々の主張、意見を基としてその議題毎に考えの同じ人々が集まり協議する事は幼なすぎる考えなのだろうか? あまりにも集団にこだわりすぎなのでは? 全員無所属OKとはいかぬものだろうか?
というものがあった。これを見て、この46歳の主婦という人のイメージする議会政治の原型は、先生の指導する生徒会か、と思ったものである。先生の代わりに官僚(行政)が指導する議会を許してきたのではないだろうか。

冒頭のイソップの寓話でいえば、神さまにも王さまにも頼らないカエルたちの主体性が今、問われているのではないだろうか。と言っても有権者という「カエルたち」の全てが常に自分たちの社会のあらゆる事柄に関心を持ち続け、考え続けることはできない。自己と家族の幸福や豊かさを求めるに、あるいは自己の経営する企業体の存続と繁栄に懸命で、何でもかんでも是非を問うということは、あまり賢明な政治システムとは言えない。そこに代議制による、議員という「カエルたち」による、公論の場としての議会と、議会の前段階で理念や政策を練る政党が重要なのだろう。

ドイツ基本法第21条では政党について、

(1) 政党は、国民の政治的意思形成に協力する。その設立は自由である。政党の内部秩序は、民主主義の諸原則に適合していなければならない。政党は、その資金の出所および使途について、ならびにその財産について、公的に報告しなければならない。
(2) 政党で、その目的または党員の行動が、自由で民主的な基本秩序を侵害もしくは除去し、または、ドイツ連邦共和国の存立を危くすることを目指すものは、違憲である。違憲の問題については、連邦憲法裁判所が決定する。
と規定されている。

民主党フォーラムで政治学専攻の大学院生(KaSa)さんの意見から上記アンケート紹介


市民が指導するシステム Page Top

有権者とは文字通り「権利を有する者」だが、政治的には専ら、その権利とは投票権(選挙権)だけを意味するものとしてしか扱われてこなかった。しかし、有権者とはその大部分が「被選挙権をも有する者」なのである。

住宅金融債権管理機構社長をされた中坊公平氏は「観客民主主義」を排しての「参加型民主主義」を訴えられた。「参加型民主主義」へ市民が被選挙権を積極的に行使していく、あるいはボランティアとして労務を提供していく「積極的な民主主義」。これからの日本が目指すべきはまさしく、と思われる。

市民が本来的に有している、その被選挙権をどれだけの人が行使しているだろうか。いや、できるだろうか。候補者個人を選び、その名前を書かせる選挙制度は全てにカネがかかる。一般有権者が何の気もなしに見ているポスターも選挙区内の全掲示板に貼りおえるだけでも多くの人手を必要とする。足場のよい掲示板ばかりではない。このポスター1枚が一般有権者の目に触れるまでに目に見えぬカネがかかっている。
また、血のつながりもない「他人」が頑張ってくれているのに、家族・親戚はカラダもココロもそれ以上に使わなければならない。候補者の配偶者と親戚との軋轢などは致命的であろう。候補者が核家族たりうる大都市選挙では、この問題からは自由になれるかも知れないが、日本全国9割方は、この問題を抱えている。ここに候補者および配偶者は「自立した個」あるいは「個の尊厳」などとは程遠い存在とならざるをえない。

候補者個人を選ぶ選挙制度では、何十人もの候補者の違いを見分ける一般有権者の苦痛というものもあろう。そこで名前を際だたせる候補者のバカバカしいまでの努力。「出たがり、目立ちたがり」とまで思われても意に介しない狂気の世界がそこにある。その狂気が選挙期間だけでなく日常化して「永田町の論理」という言葉に代表される政治家心理が形成されてきた。常識ある市民のなし得るワザではなくなってしまった。

ヨーロッパ各国は全国どの都市も10〜40万程度の人口しかいないためか、この問題から解放される比例代表制の選挙制度を採用しているようである。政党を選ぶ選挙ならば一般有権者が比較検討する対象はそれ程多くはならないし、政党も理念や政策の違いを明確にしなければならない。日本でも大部分を占める地方で市民型政党が、多くの市民に被選挙権を行使してもらい、議席を増やすのはヨーロッパ型選挙制度しかない、と考える。

「首相公選制=大統領制」とは、この狂気とカネの政治システムとは言えないだろうか? 「個の尊厳」からは程遠い、と思うのは私だけだろうか? 

民主党フォーラム:「チョトだけ選挙制度改革」の中での私のコメント

「ドイツの実情」から選挙制度


「積極的な民主主義」と「闘う民主主義」 Page Top

「積極的な民主主義」とは、常識ある一般市民が、それほどの気負いもカネも要さずに議席を得られる選挙制度に裏打ちされねばならない。官僚達よりも現実社会を熟知した議員達が指導し、みだりに政局が混乱しない安定した秩序構想によるドイツ型議院内閣制。今や「あのイスラエルが最も信頼できる国はドイツ」とするそのベースが「闘う民主主義」と呼ばれるこのシステムによることは言を俟たない。

しかし、ドイツの「闘う民主主義」は連邦制や比例制をベースにした議員内閣制にだけよるものではない。「民主的に非民主的政権を選んでしまった」という反省。それは有権者という「カエルたち」議員という「カエルたち」、その行き過ぎをチェックしブレーキをかける司法をアクティヴにする。限りなく肥大化する行政。法を「補う」規則・通達類。さらには行政の裁量。それらをスリムにし、責任の所在を明確にするための司法の活用。その象徴的存在が最高裁判所とは別個に設けられた連邦憲法裁判所であろう。しかしそれは日本国憲法第41条をもじって「憲法裁判所は国権の最高機関である」とすることではない。憲法裁判所も幾つかの「憲法機関」の一つに過ぎない。

民主党フォーラム:「首相公選制の是非(4)」の中での私のコメント

さて、我々は冒頭のイソップの寓話を、どのように結ぶべきだろうか。余人は知らず、私は「今、日本に問われる司法のあり方と憲法。そしてコウノトリを経験したカエルの国の反省に習え!」と結びたい。そして、政治のシステムを論ずる時は、自分もしくは自分の身近な人が、その議席あるいは職に近づけ得るシステムか、を常に念頭において考えてもらいたい。すなわち「自らの被選挙権を!」


補足−−−ある新聞に Page Top

3月23日の北陸中日新聞に、私のインタビュー記事が載りました。

インタビューはこの原稿を書き始めた時で、書きさしの取り留めのない"デッサン"を記者なりに整理して記事に取り込んでくれたものです。

「今問われること−−'99統一地方選を前に」というシリーズの最終回で、日本金融学会の大御所・蝋山昌一先生を差し置いてのトリで恐縮しました。


■日本は、国が多数派の議員から首相を出す議院内閣制である一方、地方は首長も選挙で選ばれる「大統領制」。地方議員には裁量権、予算執行権がない上、「大統領」は議会の解散権を持っている■

 多数派だとしても、大きな権限を持つ首長に抗しきれる議員が、どれだけいるだろうか。首長の議会解散権をなくさねば、首長や執行部の独断専行をチェックする議会の意味がない。地方議会も政党を主体とした議員内閣制を導入すべきだ。
 戦後ドイツは、国も地方も議員内閣制。小選挙区比例代表制で、比例区では各政党が得た得票に比例して議席を配分する。比例得票が全投票の5%に満たない政党や、小選挙区制の当選者が3人未満の政党は、議会で議席を獲得できない。これで議会内の政党数は少なく、単独政権や連立政権が組みやすくなり、政権を安定させている。
 比例名簿の順位はごく少数の大物を除き、政治の何らかの部門で高度の専門能力を備えていることが必要条件だと聞く。立法能力において、官僚とある程度まで競い合える理由も、ここにあるようだ。(私のHPより
政治の秩序構想
 政党の在り方も日本とは違う。各政党は、河川敷などにテントを張り、議員や党員らが、ビールがつがれたジョッキを片手に政治談義をするイベントを開く。飲み物、食べ物も売られ、その収益は党の活動費の一部となる。(民主党フォーラム:「民主党の日・・・?」

「政治家をつくる」気概で

■個人を選ぶ選挙制度は金がかかり過ぎる■

 多くの人を集める会合を開いたり、パンフレット一つつくるのにも、かなりの支出がいる。現職でも議員歳費をはるかに超えた費用がかかり、「地盤」「看板(知名度)」「かばん(資金)」が欠かせない。しかも、家族や親せきも選挙に巻き込まれるだけに、一般の人が自分の意志だけで立候補することはかなり難しい。
 解決するには、ドイツ方式を見習うといい。投票は比例代表を中心とし、政党で選ぶ選挙とする。政党が候補者を選び、比例名簿に記載する。これならば、知名度がいらず、選挙で個人の名前を連呼する必要もない。金はかからなくなる。
 比例で選ばれた議員は兼業で、仕事をしながら、政治に参加する。兼業だからこそ分かる社会のひずみを党内で討論し、政治の場に生かせるだろう。比例議員はできるだけ多くの人がなれるよう、政党は数年で比例名簿を入れ替えるような仕組みをとるのもいい。

地方議員にも比例代表制を

■理想の政治家像は、ふつうの常識人■

 日本では、そんな人が選挙に立候補することは難しい。しかし、有権者が持つのは選挙権だけではない。大部分には被選挙権もある。多くの人が直接政治にかかわれる機会を持てる「参加型民主主義」を目指すべきだ。被選挙権があることをもっと自覚してほしい。
 統一選では、候補者が掲げる公約に最も注目したい。現職の場合、首長との距離の置き方、すなわち良いことは評価していいが、指摘すべき点をしているかどうかを注視すべき。選挙に金をかけていないかも、ポイント。自分たちが「政治家をつくる」という気持ちをもたなければ。


(聞き手 報道部・川上義則)ということで上記のように、まとめてくれました。紙面の関係で、この程度で申し訳ない、とのことでした。(記事中の括弧書きリンクは中川)


あとがき Page Top

1月31日、朝食を伴にした菅直人氏の口から「首相公選制=大統領制」を仄めかす発言に異を唱えてから気持ちの上で宿題となっていた。途中まで書き始めたのだが生業の厳しさにかまけて中断していたのだが、代表選での鳩山氏の同様の発言で慌ててまた書き出した。たかだかこの程度の拙いものながら、取りあえず書き終えたように思う。印刷物ではないので、気が付いたところは適宜、推敲・添削していこうと思っている。

菅直人さんとの金沢タウンミーティング

この一文を書きながら、つくづくと日本語でドイツ基本法をインターネットで提供されたら、と思ったものである。ということは、自分でやらなければならないのかもしれないのだが、この経済状況で本業の不振に苦しむ身には、如何ともなしがたいところである。然るべきスポンサーなどあれば、などとも思う次第です。



首相公選制に関するフォーラム

ドイツ大使館提供のドイツの実情

ドイツ基本法(独日英対訳)

Any suggestion?