源泉徴収と租税特別措置法



民主主義の学校である「税」と地方分権そして選挙の中で、「税の源泉徴収を原則、廃止すべきではないか」ということを示唆したのは、平成7年の統一地方選挙を前にした2月であった。

その後、「土地担保に偏った金融制度」、「日銀法と外為法」、まだ書き終えていないが「終身雇用に基ずく年功序列賃金制と日本型縦割り労組」など、我々の議論を聞いていたのではないかとビックリするような本に出会った。

平成7年5月初版の『1940年体制』(副題はさらば「戦時体制」)の中で、野口悠紀雄氏は「現在の日本の経済制度を、日本の固有文化を背景にした民族的特性であると考えることはできない」とし、税制については以下のように述べている。

1940年(昭和15年)の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。・・・。また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。さらに、税財源が中央集権化され、それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された。

そればかりではない。アメリカはこの点、日本国民の無力さ、政治家・官僚の安易さを熟知しているものと見え、外務省を通じ、手を変え品を変え、日本から財政援助をひきだしているように思われる。

民主制の国々では、市民の政治参加は選挙の投票だけではない。自主納税というコントロールの手段をもっているといえる。政治が納得して納税に応じ得るものか否か、政治のアカウンタビリティに問題ありとなれば納税拒否権に変化する。

ところで、今の日本で自主納税というと、非常に億劫な思いが先にたつ。それは日本の税法の複雑さであろう。朝令暮改ともいうべき毎年の「租税特別措置法」の改正(?)。日本の国会には政治も政策もなくて、あるのは恒例の「措置法」いじり、といってもよい状況であった。

税制は簡素にして特別措置は極力廃止し、保護対象へは一旦集めたものをどのように給付するのかが本来の政治ではないだろうか。しかも集める所も給付するのも市民よりも他に顔が向いている国ではなく、市民の手の届く市町村など基礎的自治体でなければなるまい。財源の不足する地方政府は、財政主権において対等な、他の地方政府より調達する。この水平的財政調整とは一種の「外交」なのかも知れない。

国は大蔵省主税局を筆頭に毎年、次年度の分担金を「お願い」に各地方を回る。地方は分担金の積算根拠を求める。納得できないものは減額を通告する。国会議員や知事・市町村長は「誰のものとも判らなく」なった税金や財投資金を国にせびるのではなく、誰のものかはっきりしている税を「善良なる管理者の注意義務」−善管注意義務−(民法400条644条)をもって管理運営する。我が国の政治・行政に「善管注意義務」という言葉が死語となって久しいが、その根源は源泉徴収と、それにもたれかかった租税特別措置法といえるのではないだろうか。

そうすれば、地方に頭を下げてお願いする「屈辱」しかないとなれば、試験技術だけの無意味な勉強を頑張って東大を目指す必要はなく、本来の教育・学問の場を取り戻せることになるのではないだろうか。大蔵省、文部省はじめ全ての省庁が今までのような統制力を維持できなくなろう。日本の将来は霞ケ関からの独立、それは税の流れをかえる、上のような「税制の改正」をおいて他にない。今の政府は「清算事業団」とし、各地方政府の監視下に置くべきである。さもなくば「膨大な国家財政の赤字は知らぬ」と規制ずくめの日本という国から独立するが勝ちである。独立論はなにも沖縄だけの特許ではない。

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