日暮らし通信:プレイバック=2/2=

吉田 惠吉

まっくる通信 第17号(90/03/05)
 三月からはじめた、ラジオ講座も二日坊主。それもタイマー録音しててなんだから。タイムスリップしたようなテーマ曲を三回も聴かせてくれた間抜けさ加減には笑ってしまった。メカに強いAが二回もカラ振りするなんて!朝は弱いしこれからいったいどうなるのでしょう。塾へ行くより安上がりだからなんて始めた心意気。ダマッテナガメテイテヤロウ。それにしても二十数年前と同じ演奏、受験地獄だけは変わっていない。病院でまとめて「べっきょつうしん」(?)を読ませてもらった後、娘のことがまだ書き足りないなんてぼやいていた。問題児じゃなし、いまのところ素晴らしいフツーのフッチャンだ。懐をできるだけ深く広くして、だまってみててやるだけ、それ以上のことはとてもじゃないが、出来そうにない。

 2Fを掃除してて、今更ながら本が多すぎると思った。棄てる整理を始めたら読み始めたり、コピーをとったりでちっとも進まない。[ハードカバー本図略]こんなのだんだん読む気がしなくなった。軽くて、面白くて、読みやすいのがどうも残りそうだ。ビデオのコレクションに似ていなくもない。いまは[パラパラ/ペラペラ図略]こんな感じで読めるものがいい。かなり前の「マリ・クレール」に面白い本の分類法が乗っていた。


本には理解もできず、何の役に立つかもわからないのに、そのことで役に立つ本がある。
また逆にとてもよく理解でき、役立ちそうなことがあちこちにばら撒かれているのに、何の役にも立たない本がある。
また本は中味で読みそうになったらすぐに引き返して、そんなやり方で読んだら駄目だと、たえず突き崩し茶々をいれていることで役立つ本もある。



 人それぞれ読み型があっていい訳だけど、本を手にするときどれかのパターンにはまっている。
 ホンのすこしのつまらないホンとのホンのはなしでした。

まっくる通信 第18号(90/03/06)
 仕事をおえてのベッドサイド・カンバセーションもすっかり日課になってしまって七時を回って県道へでてまもなく、いつものバスに乗り損ねてしまった。遅れを覚悟したところで二番手に拾われ、アッという間に駅前に運んでくれた。横断歩道で、嬉しいかな、Aに呼び止められた。すぐそこのチックタックでC用のシャンプーを買って、いつものバスに並んで座った。れいのチョコレートをさっそく破った。一緒のときは、耳栓をして、着いたら起こしてだったのが、きょうはずっと話しながら帰った。両親が別居中?の娘にしてみたらさしずめ父さんを一人じめ、といった気分なのだろう。今はシャワーをしていて、あのイマ風タオルのプレゼントを味わっているようだが毎晩かあさんがいなくて、筑波の科学万博にとうさんと二人でいったときの気分の再現にちかいのかもしれない。

 毛利の伯父さん、いい日和に見送られてよかった。口数も少ないだけに内面ではいろいろあったんだろうけど、善い往生を遂げられたとおもう。

 一昨年から、身近い人、遠い人、忘れていた人、気に懸かっていた人、ボツリポツリと死んでいく。徐々に自分もさしかかって来ているんだな、ということか。何事でも、身を乗りだしてやる時期は過ぎたというか、引き気味で手を抜かない。ひかえめということじゃなく、これまで以上に、抜いた力を込めねば中高年を狂わずに渡ってはいけない。臓器を鍛えて、自在に抜けられる気力、体力、精神力、視力を養い続けられるかが課題だ。

 往路より帰路、登り際より降り際、その微妙な難しさを、たとえば菅谷規矩雄の死に想ってしまう。六十年代、孤立と断絶の時代に大学教師を降りて、どこかで着地に誤ったのではなかったか。風俗や事件に憑いた文体をときおり目にするようになってからは熱心な読者じゃなかったが。シンポジウムの講演者の太鼓持ちみたいな振る舞いを本で知った時には、かっての息せききった文体の、音数律の論者はどこへ?と疑ってしまった。

 [スキャン画像略]

『バナナ・フィッシュ』第三巻「オレはクズどもに軽蔑されたって痛くもかゆくもねえよ」アッシュの台詞

まっくる通信 第19号(90/03/07)
 院内では毎日が冬休み、いまや春休みだろうけど、外はめっきり冷えて雪さえちらついた。補習を削っての体育館での卒業式の予行、そして明日の本番、Aは風邪よけに、長袖のシャツを着込み、カイロを二つも携えて登校している。いかにも早春といった日和が一日たりとももたない崩れ模様の毎日が続く。売店のオバサンの話だと、傘がよくでるそうだ。

 職場じゃチラホラ異動の噂話のハナ咲く季節。人事囃子の音すれど、古漬け匂う倉庫の片隅。いくらヘッドを取り替えたった、ジャムるプリンターの垂れ流し。ボスはうわ滑りし、手下は我関せず。アジア塗りの官製雛が描く人事絵巻。変わりばえせず、もみ手するだけの弥生の蠅。昇進リボンがしおりがわり。職員録にへばりつく。

 [マルクス・ブラザーズのイラスト略]

 目先のこともおさえながら、起源を尋ねる。弥生より縄文、アジア的よりもっとさかのぼって、アフリカ的時代まで視野に繰り込んで、〈現在〉の切り口、入口と出口をイメージする。ビジョンは力、これからは構想力がものをいう。金のあるところイメージに乏しく、イメージがあっても金はない。
 賢治が童話の世界で骨骼を示してみせた。人口の自然、人口の都市の具体的な端緒はどこに?
 秋の関西旅行、できたら西武が造った人口都市、ツカシンへも行こう。

まっくる通信 第20号(90/03/08)
 門扉の外に出た朝、二人とも感嘆符!!になってしまった。早春の淡雪、名残の雪景色では尽せない、ありふれ見慣れた高屋敷界隈。この頃めっきり空いてきた通勤(学)バスの窓の外をいつも以上に眺め、総曲輪で降りたAは花屋で友だちと待ち合わせ。まず卒業生に贈る花束の幾つかの運び人が今朝の勤めなのだ。弦奏では冷たくて乾きすぎた指がポジションを滑り外してトチ狂うんじゃないかと心配していた。まだ式の余韻が漂う校舎外で、花束やテープに小雪が舞う。出番となってここぞと盛り上げる管奏グループ、紫色になった唇はマウスピースに凍りついて離れない。ひび割れて血さえにじむ。先輩に贈る花束もままならず、想いだけが吹きつのる。イエスタデイに至ってこの上なくグルーヴィに仕上げてしまった弦奏グループはまってましたの、お別れセレモニー。これからのご活躍祈ってます、なんていいながら、嫌な先輩が失せてバンザイ!だもんね。

 [川原泉『笑う大天使』のイラスト略]

 ここで、ハヤシマリコにも劣らぬニュースを一発。あの61センターちゃんに彼氏ができたんだって。ヴァレンタインの成果か、春への珍事か。これで彼女のあの性格が変わりうるかも。そうなりゃイーネー!

まっくる通信 第21号(90/03/10)
 二十三時も回ってから二人とも二階にやってきた。今日は本当によく遊んだ。八時十分にAを起こし、二十六分のバスでシネマ2に駆けつけたらナント上映は十時十分からだった。寝ぼけて新聞を見間違えていたのだ。

 笑っている朝日を避けるように喫茶白樺で朝食をとった。朝から外食なんてリッチね、娘はやんわり父のミステークを笑いで拭き取る。バナナ・ジュース、コーヒー、ミックスサンドそして新聞三種に写真週刊誌二種で一時間十分を潰した。

 映画を観てからの遅い昼食は、予定とは違って、西武の八階で春陽に映える北アルプスのパノラマに対面しながら寛いだ。オシャレに決めて映画の後の上気した面持ちを傍らに、冷えすぎていない中瓶が午後のひと時を潤す。満ち足りてエスカレータで降り始める。スーツ買ったら、かあさんも喜ぶよ。紳士もの売り場は目もくれず通過、婦人ものをぶらぶら見る。ソックス安いよ、ウレシイ買っていいの。三足千円。ヴァレンタインのお返し。ついでに同じ階で義理チョコへのお返しもバッチし決めた。

 [イラスト略]

 イラストとは関係ないけど、本命の映画、ワン公物の方は年末に観た「Kー9」の二番煎じ。なにせ小錦ばりのブス犬がよだれをはねとばして頑張るデカ物。トム・ハンンクスが主人公ときちゃだいたい予想がつくでしょう。子供がSFXを舞台に縮んで伸びる「ミクロ・キッズ」は小粒ながらバッチし九十分をハイにしてくれた。とても監督第一作とは思えない出来だ。あの感動物の「隣りのトトロ」の飛行シーンに負けないことを、アニメじゃなく蜜蜂を使ったSFXの実写であっさりやってのけてくれる。金にいとめをつけないアメリカ映画の実力といえばそれまでだが、出演者はB級、ただしあのエディスン・カーター役で売った俳優は今回も冴えていた。西行を想わせる月夜にも誘われて、昨夜からビデオをも含めて四本も娘と楽しんだ。そしてB.H.も。

まっくる通信 第22号(90/03/11)
 日頃のうっとうしさを忘れさせんばかりの週末の日和もあと数時間で終わり。好天気のおかげで裏の雪垣も片付き、ペダル散歩を兼ねたビデオ・レンタルショップ通いも数回に及んだ。何本観たってビデオ・テープは風呂敷みたいになってこちらの感性を包んでくるようなことはない。そこが昔のめりこんだジャズなんかと違う。グルグル回るだけのペラペラ加減が暇つぶしピッタシなのだ。選択の基準らしきものは一、二時間をそれなりに見せてくれるか、ということ以外に見当たらない。だから、三本千円のレンタルにまとめるのに困ったりする。娘の好みを反映させたり、ミュージック・ビデオを混ぜたりして机に向かう時間を奪ってしまった。ノスタルジックな冒険家物「ハイ・ロード」を、ハードボイルド作家物に置き換えたようなトム・セレック主演の「彼女のアリバイ」(ハッピーエンドに流れるランディ・ニューマンが、「潮風のいたずら」や「メジャーリーグ」並みにキメている)、スピルバーグの六十年代ビートルズ・グラフィティ「抱きしめたい」、M.J.F.の「ファミリー・タイズ」2、そしてブルーハーツのビデオクリップ(20分物)などを二人で楽しんだ。

 映画館にしろ、我が家のAV?室にしろ、、作り手に忘れてもらって困るのは、まず観客を100分あまり退屈させないということだ。「ベルリン天使の詩」も、「ゆきゆきて、神軍」も見事に失格していた。久しぶりの「ブルーハーツ」は相変わらず、マイナーのよさにとどまるものだった。あれじゃ中島みゆきの弟分といった域を離脱出来ていない。いずれの世界であれ、メジャーになりおおせることはまっこと、タイヘンなのだ。

 一人オタクして観た「死霊のしたたり2」の後半のマクリはまことに痛快、休日の午後に我を忘れて無意識がオドッタ。宮崎勤効果の為か、劇場公開は無かったらしいが、ビデオになってよかったというシロモノ。ひと昔前のゾンビ物をひっくり返しちゃって、いまやパーツと化したバラバラ肢体がギンギンに暴れまわってくれる。これぞ、無意識の噴出といわんばかりに。

 [イラスト略]

 養生も半ば、アセルナ!

まっくる通信 第23号(90/03/12)
 まっすぐなんて歩けネェー、息をつくのがやっと。ミソもクソももってゆきやがれ、コノヤロー。ドエライ荒れ模様に悪態をつきながら週明けの職場に辿りつく。春を行き過ぎた昨日とは、うってかわって急転直下のドンデン返し。職域、地域、国家のレベル、様々な層いろいろな場面での豹変ぶりになら、天気図の基本構造さえおさえておけば対応のしようもあろうかというもの。それにしても今朝の西の空から迫ってくる雲行きは不気味だったぜ。スティーブン・キングの『霧』なら何度でも読めるが、あんな空にはめったにおめにかかれるもんじゃねえ。この道何十年の百姓もタマゲルはずだ。

 吹きっさらしのわが暮らし向き。生きることが苦痛でないなら、すこやかに暮らせるなら、誰がおもい煩ったりするもんか。


 生活とは隅から隅まで判りきったことの繰返しからはじまって、いつのまにか不気味な物と心の配置に変わってしまう領域ではないか。誰にも気付かれぬうちにすべての判りきったことが不可解なものに変わってしまうかもしれない。その魔的な意味は決して歴史の表層に浮かび出ることはないとしても、歴史はそこから強烈な輻射を受けている。微かに有るか無きかに変えられてゆく生活の仕組みの影響を無視することは命とりになるかもしれない。その変化が理念を規制しないなどとたかをくくった理念がどうなりつつあるかはよく知られている。あるときふと変貌して不気味なものになっている日常性の領域がありうることを詩が指している。(「修辞的な現在」吉本隆明)


 一篇の詩なくして生きることは可能かと問いかける、熱い想いを秘めた一冊。

 [松岡祥男『アジアの終焉』のイラスト略]ハートにきたぜ。

まっくる通信 第24号(90/03/13)
 寒さの中におちついた夜を感じながらの帰宅。Aは夕ご飯を待ちながらTVを見ていた。春のスペシャルと称してコマ切れにしたアニメの過去番組。冬枯れのテレビ局は、豊かな達成を残しているテレビ・アニメの回顧篇の一本さえ構成できないのか。な〜んちゃって、冬場はほとんど見なかったが。アニメは娘の成長に綾なす回路から、少女漫画はつれあいとの余剰の回路から、時には双方が錯綜して、確かな手応えを俺の中に残してきている。

 春三月、とくに高野文子なんか手にすると、極上のウエストコースト・ジャズでもあっちへいってしまう。

 [「ボビー&ハーシー」イラスト略]

 父親はお尻で、娘っこは膝で、そしてこのたび母親が足首で、親子三人それぞれ〈身体障害〉を体験してしまった。どんな現実を渡ってゆくにせよ、生きそびれるように、自分にとって自分の、身体が〈障害〉であったり、精神が〈薄弱〉であったりすることから免れようがない。ここんところといかに折り合いをつけながらやっていくのか。これが実際のアポリアなのだ。ここをまともにくぐれんもんは、しょせん何事にも到達できそうにない。

 まっこと、ゼツボー的な距離感しかない。カッコいいも、わるいもあったもんじゃない。そういう台詞をのたまうレベルにも届きようがない、危うさだけが唯一の取り柄でしかない。

 ワープロソフトZeroByWordを使い込むうち、ゆきあたりばったりで何でも書いてしまいそうだ。こんな粗末なものでも、やってみればわかるが〈書く〉ことはほんとに恥ずかしい。いろんな引用だけで埋め尽くして自分を消し去って、存在感だけで触れられたら最高なんだが。根っからがイイカゲン、機に応ずる蓄積はおろか、語れるものももちあわせていない。テッテ的に意味を抜き去って、リー・コニッツやウォン・マーシュの全盛期みたいに、言葉を置くことができれば、自信を持って渡せるのにナー、なんていってるうちに頁がかわってしまった。引用で〆るぞエー。


 ひとつは消極的な条件で、自分が役割としている場所というのは危ないぜ、ということをとにかくまずわかるということです。つまり俺のいる場所が間違ってないと思っている人はたぶんたいてい間違っていると思います。だから、自分のいる場所はどうも危うくなってきたぜ、と考えることが、まず、かっこよさということに移行する消極的な条件のような気がします。
 もうひとつは積極的な条件です。それは何かというと、本来的な場所はここだということを、直観的にかあるいは論理的にか感覚的にかわかりませんが、そこの場所を自分なりにつかむという課題を自分が果たしつづけることです。
 この二つの条件を兼ね具えていたら、その作品なり、人物なりは、かっこいいのだということになるのではないでしょうか。(吉本隆明講演「岡田有希子の死あるいはカッコいいとは何か」、『鳩よ!』4(7)通号32,1986.07)



まっくる通信 第25号(90/03/14)
 今朝からの新聞・ラジオのニュースは、近くは「公務員給与の遅配必死」遠くは「ソ連のゴルバチョフ大統領誕生」ばっかし。こうも空虚にガタガタ騒がれると、食指も動かねえ。勝手に騒いどれや。

 あ〜寿司が喰いてえ。入院中のつれあいも呼びだして、おふくろも娘も一緒に。高二の頃、試験時直前になると映画が観たくなったのを思い出す。金につまってくるとよけいぜいたくがしてえ。

 [岩館真理子「どんな大人に/なるんだろう/あいつは―――」イラスト略]

 病院の宿直明けに続く仕事は一刻でも早く切り上げ、シャバに出てぇと思う。つまんないTVと、週刊誌と漫画、そして同直者とのだべり。患者が少ないこと、「仏」のでないことを念じてひたすら朝をまつ。夜勤の看護婦だってどうせそんなところだ。リッチな医者との結婚を夢見たりしてヨォ。もっと稼ぎの乏しい教室勤務のパート(秘書なんて呼ばれている)なんザ、もっと切実で悲惨かもしんねェ。いいようにもてあそばれてポィ、だもんね。待合室に、捨て子もあったりして。骨の髄まで小市民的な自足と保身でテンプラになっちまった職域ときちゃ、独力で生活をアップしようとする彼女らの実行力は、多々裏目になっちまう。『ファンシィダンス』(岡野玲子)の男を頼らず、『pink』(岡崎京子)の男を喰いものにする、若い女たちのあっけらかんとしたまぶしいしたたかさを発揮しようとするものもいりゃ、同僚の姿から学んじゃって、さっさと農家に嫁いじまう女もいる。何もせんもん家、それをひっくりかえしたワーカーホリック、パチンコ中年、ごますり男、公務員製ガラスの動物園の小窓からのぞく男の世界はもろくて、漫画にもならない。なんか、お粗末になっちまった。「鮨」から岡本かの子の同名の「短編」の話や、ばななの文体を動かす視点に触れるつもりが‥‥‥、一晩アイタカラカ?

まっくる通信 第26号(90/03/18)
 本通信も存続が危うい。Aがパソコン・ゲーム、今度はいわゆる、RPGにのめりこんじゃった。くるくる空模様がめまぐるしかった街から帰ったのが四時前。昨夜インディジョーンズみたいなゲームもMACのPDSにあるんだよ、といっておいたのが事の始まり。パウンドハウスのブルーベリー・パイに合わせてコーヒーをいれてくれたお礼に、ちょっとしたマニュアルを見せDungeon of DoomのPDSバージョンを覗いたら、夕飯の準備もそっちのけ。インディ教授になりかわって、勘だけを頼りに、経験値を高めアイテムや食料を拾いながら地下へ地下へと降り始めては度重なるモンスターとの戦いに敗れ去る。チョコマカしたグラフィックスとサウンドがマッチした爽やかなノリの操作性も手伝って、春休みはハマってしまいそう。

 愉しい一日をアリガトウだなんてニンマリしながら、キーボードに触らせてくれたときゃ十時をとっくに回っていた。お昼の繁華街は人で一杯、イエ・パンもエンジェルもイタ・トマも見送りの三球三振。待って食べる程のうまいものなし、なんて唱和しながら、本屋の二階でシー・スパ+飲み物にありついた。麺が細く明太子が効いててイカやカニがうまく、いかにも内野安打といった腹持ち加減。本の上で物を喰ったら賢いウンコの人になる?胃袋が欲するように精神は食べたがらず、なんてネ。やっぱりここはスッキリ、センター前のヒットで決めたい。混雑するショッピング・フロアをブラブラ目に食べさせるだけ、頃合いをみてカシラ、ハツ、ジャガバタ、ジョッキのサイクル・ヒットで決まったぜ。

 [高野文子「勝負よ!」イラスト略]

 いま、街で一等元気なのは中学生たち!彼等は一体何と勝負しているのか?

まっくる通信 第27号(90/03/19)
 病院立ち寄り日和の天気にもかかわらずゲームの魅力で、AはMACに直行したのだ。お見舞のドーナツが待っていたのも知らずに。補習の行き帰りにマニュアルのコピーを熟読し、ヘルプ画面の隅から隅まで読むくらい入れ込んで挑戦したのに、昨日の五時間の成果にも及ばなかったのだ。あんなソフトもういらないなどとボヤキながら、ひっくりかえって『YAWARA』を見ていた。勉強する気も失せたみたいに。我が家のゲーム・チャンピオンだからといって、そうそううまくいってたまるかい!カナダからやってきた大食漢のジョディが戦いたいばかりに言葉まで学んでいることをしった「やわら」が、いざ挑戦をうけてたったところで「番組」は続くとなって、Aはまたも八つ当たりのバチアタリ騒ぎなのだ。柔道で一戦交える場を作り出すためにカナダ娘が日本語を身につけるという今週の要もどこ吹く風まかせ、われわれが日常言葉とかかわる意味なんて思ってもみない。

 面白くも可笑しくもない積み重ねの生活の場所にはいろんな意味あいがあるわけだが、強いて挙げれば総合性ということと現実性ということがいつも潜在的な課題として、あるということだ。常に自分の位置や姿勢を押し付けられたり、いつでも大衆的な現象や現実の文化現象にたえず接触しそこからあおりをくらっているのがわれわれの居場所になっている。そこで総合性をつきつめ、ひっかぶっている現象的な波をかきわけようとしている無意識の野にはいつも対象に対する受入の仕方、了解の仕方が立ち働いている。そのまわり続ける独楽の軸になっているのが言葉だ。そして生命の糸で編んだ鞭をさまざまな形で当て続けてやがて死ぬ。たとえば岡本かの子の短編には女流という域を超えた、言葉による見事な達成を窺うことができる。心眼に裏打ちされた言葉が寄せるように地勢を描写し、生命の際立つ型を動かしてみせる。言葉の何が凄いかといえば、人の心を動かすことがあるということにつきる。

 [「ワールド・カップ長野大会」スキャン画像略]

 熊の湯でのスキーは最高だったそうです。今日電話がありました。来年!

まっくる通信 第28号(90/03/20)
 寒い彼岸の前夜だ。辞書登録出来ないなんていっていたが、なんのことはない。いつのまにかユーザー辞書が一杯になっていただけのことだった。ものはためしと、新規辞書を設定して登録してみたらスンナリOK!そこまではよかったんだが、これまで使い込んできた辞書が開けなくなったというか使えなくなってしまった。また語彙を使いこなしながら、シコシコ登録していくよりしょうがない。最初から快適な使用環境を提供してくれるパソコンなんてあるわけないが、無意識に使いこなせる道具にするまでにはとてつもない手続きが要求される。「突然ですが、Aです。お父さんの邪魔をしにきています。では、お父さん続けてください。」ナンジャコイツは!旺文社大学受験講座のテープを流しながら、傍に来てキーボードを叩いていった。自分の出番がないのがつまんないのだ。夕方の電話でたぶん話していないことといえば、ゲームの成果だろう。昼に三十一階までナイトで降りてきていた。夕食後に続きをやって三十三階までクリアしたところだ。あと七階クリアすれば宝珠(オーブ)が手に入るのだ。Aのことだから近日中にやっちゃうだろうね。なんだ、ナンダ、話がそれてしまったではないか。

 [DAのスクリーンショット略]

 これが、いまAのお気にいりのデスク・アクセサリです。画面はアニメです。

 [アニメのスクリーンショット略]

 とっても可愛い動きが見物です。

 樂書か、落書か訳の分からんものになってきおった。退院も決まらんうちに読物のベスト・ワンもできちゃったようだけど、別居というか距離が離れているまたとないときに自家版詩集も暇つぶしにどんなもんだろう。おまけの縦書きソフトがなんとか仕上げてくれたらまず見てもらって、よかったら新潟の山田さん、「試行」の吉本さん、「同行衆通信」の鎌倉さんにも‥‥‥

まっくる通信 第29号(90/03/21)
 “If you build it, It will come.”
 孤立することがどこかで連帯することであり、孤立は自立するための前提であった。そんな六十年代を抜けてきた若者たちもそれぞれの現実の中で、働き、父となり母となって家を営み、家族と交歓し、かっての親たちの年代を暮らしつつある。少なからず死の影を感じたりしながら、世間にしがみつく程の物も見当たらない。隠居も御免こうむるが、身すぎ世すぎにこの執着は何故と問う声がよぎる。そんなとき、人は思わぬ彼岸を描きだしたりする。

 北陸にしてはまぶしいくらいの春の彼岸の休みに、娘と(休みとなれば二人して遊んでばかり)「フィールド・オブ・ドリームス」を観てきた。朝イチだったから入りはまあまあ、市内で環境最悪の劇場だったけど、思い入れや重たさを感じさせることなく、それでいてしたたかな力感でもってみずみずしい幼児性を秘めた一体感をもたらしてくれた。こんな映画体験はあの「E.T.」以来のことかもしれない。黄昏せまる球場(彼岸)に現れ、若かりしころからの野球人の夢を果たした父と、妻と娘が見守るなかで、キャッチボールする主人公。ボールの音がだんだん遠ざかり、やがて灯りのついた球場へと延々と連なる車のライトの列を浮かびあがらせて映画は終る。破産しかけた家業はどうなるんだ、球場の向う側のとうもろこし畑に消えちまったいまはしがないプログラマーののテレンス・マン(原作ではD.J.サリンジャー)はどうなったんだ。巻上ってゆくクレジットを見ながら感じるそういった疑問がまた感動を高めることになる。軽いノリがまたたまらなくいいのだ。

 [スキャン画像略]
 主人公レイ・キンセラの家、そしてシューレス・ジョー。ラスト・シーンは欠けちゃった

まっくる通信 第30号(90/03/22)
 昭和が終わって「平成」二順目ももうすぐ四月、どこもかしこも、どいつもこいつもアジア的遺制がくすぶるなかで負け続けているだけ。暗くなった駅前で「米の自由化反対」だなんて唱えてデモったりしてやがって、うすら寒くなってきたぜ。いったい何のための決起集会なんだ。上部団体のプログラム通り足を引きずってみせているだけじゃねえか。政党とつながり、政治的な問題をくわえこむだけで生き延びてきただけの組織に、戦う労組もまっとうな組合もありはしない。とっくの昔に足が地から離れてしまっているのに、一体全体なにを力みかえっているのだ。思想原則なくして、どんな力が発揮できよう。それもどこかからの受け売り、借り物でなくして、獲得した、あるいは獲得しつつある思想ひとつもたずして、迷妄の網に絡まれることを思想と取り違えて躍るくらいなら、無思想に立ち続けることにエネルギーを費やすことだ。あたりきとされている公式にしたって、てめえが引き寄せかみくだけねえことには、パワーはおろか屁にもなりはしねえ。〈ほんね〉と〈たてまえ〉の自己分裂と二重化なくして渉れぬ渡世だなんていいながら、味噌も糞もいっしょくたにして公私の自己分離さえまっとうできていない。国家あるいは共同制がもたらす疎外の成立とその存続というケジメがつけられているから、何処にいたって個も自己分裂をまぬがれえないし、不可避に二重化せざるをえないのだ。誰だって向う側へ抜けだしたいと思うこともあるさ。だが、共同幻想の彼岸に描かれる幻想はいただけない。あくまでも、こちら側にいて国家のもつ枠組と足枷を離脱してゆく方途を探り続けるべきなのだ。

 [岡野玲子「キュアリアス・ツーリスツ」イラスト略]  やっと、先が見えた。オッシャレーでいこう!

まっくる通信 第31号(90/03/24)
 ザーザー降りの一日、春らしい話題の一つでもと思うが、何もないのナイナイづくし。せんだっての「北日」紙上で、能登のゴルフ場開発反対運動の隠れ蓑だろうが、文学者別荘御用立地と称して大岡信や宮尾登美子の名前が挙がっていた。頼むほうもどうかしているが、それにきちっとした対処の一つもできない「文学者」のほうがもっとたちが悪い。「文学者」の反核運動がポシャってせいせいしたと思っていたら、今度はエコロジスト運動の「地方版」ドサ回りかよ。それを記事にして売っているジャーナリズムなんざアホの上塗りじゃねえか。どんな環境問題にしろ主役はまず地元住民にまかせておけばいいのだ。売名行為にさえなっていないぜ。「作品」を離れた時の「文学者」の醜態だったら、数年前の埴谷雄高が吉本隆明との「アンアン」から「反核」そして「政治と文学」に及ぶ論争でヘドが出るくらいに演じてくれている。二番煎じにもなっていないのに観客なんてつくもんか。そんな暇があったら両巨頭のやりとりでもじっくり読み返してみるんだね。なんもわからんかったら、「朝ジャ」に頼まれたビートたけしの、自発的に打ち上げた松岡祥男の、それぞれ面白くてためになる介添え文を読んでみろ。それでもなんにもワカラン人だったら、「文学者」なんぞやめるこった。ただでさえ「文学」の旗色が悪い御時世だから、ナンチャッテ。こちとらが、悪態ついてもゴマのはえ。誰の目にもとまりゃせぬ。それにしても昨年暮れの牛島町内会の連中はやりました。関東から進出してきたカラオケ軍団を、内輪で話し合って退去に持ちこんでしまった。あたりまえといえばそれまでだが、これが本来の姿だ。

 昨日今日のニュースとて、県立図書館で井口村神職の手だし事件。県教委へも抗議していたというから、口もだす男だったらしいが、公開初日に「’86富山の美術」所収の昭和天皇コラージュ図録を破ってみせた。四十三というから戦後生まれではないか。美術館公開時も今も、公開非公開の公共性をめぐる線上にアジア的専制権力の残存としての天皇制が串刺しになっている。高度情報化社会のただなかだっていうのによ。煮ても焼いても食えない話ばっかり。

 [月夜にワインのイラスト略]

 我が家の愉しい話題はあと一週間の退院ばかり。三十一日に決まって先が見えたおふくろはメチャやさしい。玄関に長靴、風呂上がりに栓を抜いたビールにおつまみつき。バドミントンも楽しくなった。

まっくる通信 第32号(90/03/25)
 日差しのわりに、風がやたら冷たく寒い日曜日だった。午前のスポ少お別れ会への行き帰りと、午後のAとの本屋散歩(クレハ自工前バス往復)ですっかり冷えてしまった。帰宅一番娘の紅茶であったまりながら観た、春場所千秋楽は巴戦による優勝争いとなり、2.5場所分位楽しめた。一時間あまりうろついて店内で一番楽しめたのはルーミン・ワールド。まだインクが匂う『月刊あすか』の「恋はニュートンのリンゴ」が立ち読みの時間を忘れさせてくれた。今月の宿直の晩に読んだ高橋留美子「Lサイズの幸福」のヒマ潰しにしかならないレベルをぐっと超えている。甘木三時子(小二)と泡盛給二(大二)との男と女にゆきつけないかかわりあいをめぐって、双方のとりまきや世間が思い込みのジャブを応酬する展開がいいノリになっている。例によってハッピーにはしょった終り方がいささか甘いが、小説でいえば、『海燕』四月号の吉本バナナ「メランコリア」並みの出来だった。NHKの相撲の後にビニールを破って読んだ。『あすかコミック』大島弓子四冊目の「毎日が夏休み」は、ネームといいコマ割りと言い、トンでて実に実によかった。例えば、その十六ページ


 「‥‥ちょっと休まないか」「あの噴水のとこは?」/しゃら しゃらら しゃら しゃら/なんかかわいそうだなあ 大人の人が ボーッとしてる姿って いつみても かわいそうに なっちゃうんだ わたし/だからつい 登校拒否のことも 偽造のことも ぺらぺらしゃべって しまったんだな あのとき‥‥/仕事なんて したくないけど 「する」なんて いっちゃたのも  この「ボー」のせい なのかも/あーもしわたしが いまの義父の立場だったら パーッとはでにあそんでから パーッとビルからとびおりちゃうけどな/「スギナどうだパーッとやらないか」「しえーつ」[スキャンできないから引用だけ]


 「Lサイズの幸福」に団地暮らしの家庭に棲みついた座敷童が描かれているんだが、村上春樹の「TVピープル」のタウン暮らしの夫婦の隙間に入り込んだそれ[下線部傍点]とは違って、マス・イメージ(都市型共同幻想)の象徴のいち〈マンガ〉表現としてのコミカルさに欠けてしまったのだ。かってのルーミン・ワールドは何処へ、「ばなな」には少女マンガのノヴェライズではとても達成できない〈表現〉の世界がある。最近作では、「朔ちゃん」が妹の「麻由」の自死の後ただ一回だけ泣く場面が良かった。近ごろの少女漫画によくあるスクラップ家族が下敷きになっているが、文体を動かす視線のみずみずしいキレの良さが独特なのだ。たまたまこたつのある一室で弟やいとこの「幹子」と一緒にビデオの「となりのトトロ」を見終わったところで、トイレにたちそこの置物にしてあった、かって妹の恋人だった竜一郎が旅先から送ってきたビクターの犬の切ない傾き加減に「朔ちゃん」はデジャ・ヴュの一歩手前のようなところで「この世のすべての姉妹の失われた時間のために」五分ほど泣く。死者(麻由)からの視線が他者(竜一郎)を媒介(ビクターの犬)して、フツーのひとたちがせき立てられるような生活の断面で無意識に流しているところを、さりげなく刻みこむようにたちあがらせてくれている。いわゆる「女流」の域を超え出ている岡本かの子に代表される文体の動きに見られなかった、新しさの芽生えがあることだけは確かだ。ゴー!ゴー!ばなな!おまえに欠けているのは色気だけだ。エロスも描いて!

まっくる通信 第33号(90/03/26)
 入院リハビリ中のつれあいとベッドを並べる農家を営むおとなりさんからジャガイモを頂くなんて思ってもいなかった。家に着く頃はずっしりと重かったぜ。種芋の芽を切り取った断面に灰をまぶして、一つ一つ丁寧に埋めてゆく手がささくれだったこと、掘り起こしたときのあの湿った独特の匂い。田舎にいた頃、田や畠仕事はいやいやする日常だった。郊外生活者となったいまは、そのひとつたりとも満足に出來ないと思う。体でおぼえたもの、手についたものなに一つない。ときおり農業問題について考えたりするようなところへなりさがってしまった。ところで本論そして各論と二度の吉本・農業論を聴いて以来、序章と言うべきものにどこかで遭遇したことが気になっていたんだが、「柳田国男論」や「共同幻想とジェンダー」と遡って七十年代初頭の講演パンフレットのなかにやっとみつけた。


 高度経済成長政策の標識である重化学工業の、工業的生産性が問題とされたその対極で、農村からの労働力の流出にともない、必然的に農業問題がもうひとつの標識としてせりあがってきた。
 農業(村)問題は、高度成長政策なるものをとってゆくかぎりは、農業生産における資本主義化ないしは資本制化というものが、当然問題として浮上してくる。ここで非常に難かしいのは、農業経営自体を封建的な農業経営から、いわゆる資本主義的な近代的農業経営による農業問題というようなところへ転化してゆけば、農業問題自体は解決されるか、というと決してそうじゃないということだ。
 なぜなら、大なり小なり農業問題自体が、〈土地〉というものに依存しているという単純明解な事柄がある。つまり、生産性のみに依存するのではなくて、その生産―再生産という、生産過程での繰り返しのなかで、土地制というものがどういう意味合いをもつかということが、とてもはかり難い問題になってくる。
 農業経営自体を近代化してこぼれおちた農業人口を、高度成長政策による重工業の方に転化してゆくということで問題が解決されるかのごとく、戦後の日本の政治支配者は、経済問題を考えてきたといえよう。しかし、本当のところ農業問題自体は彼等が考えたように簡単な問題ではなかった。その問題の焦点は、〈土地問題〉自体のなかにある。つまり、土地という問題をはなれて――土地という意味は、必ずしも地代との対比範囲ということに限定されないが、それでも土地そのものなのだ。自然性としての土地ということそのものに農業が全面的に依存している、というそのこと自体の問題がよく解かれない限りは決して解決されない。
 工業化と土地制――農業問題をめぐるアポリアは世界的なレヴェルからもいえる。かっての中共の幹部が世界を三つに区分して、いわば後進国、中進国、先進国みたいに区別して、後進地帯が先進地帯を打倒してゆくことに現在の世界革命の課題があると発言するまでに変質してみせた原因が決してないわけではない。その必然性を生じせしめているものは、実に土地というものの自然性というものと人為性の問題の度重なる矛盾、その土地をめぐる矛盾の累積というようなものに帰着するといえよう。マルクスの理論から言ったら最大限の逸脱であり、まったく問題にもお話しにもならない考え方がなぜ出てきたかといえば、やはり農業問題、いってみれば農業問題の基本に横たわっている土地制の人為性ということ――土地のもっている自然性ということと人工性という、そういう連関をうまく解き得ないというところにそういった理論が出てくる余地があり、また一定の影響力を占める余地がある。マルクスに言わせれば、国家の消滅なしに世界革命なんてあり得ない。あらかじめ、理論的にあり得ないということははじめから決まっているわけだ。
 経済共同体的な高度成長的な考え方のなかには、何ら解放の問題もなければ、階級の問題もないという、ないないずくしへの反発として、例えば、中共が民族独立を含めた様々な闘争を革命の課題とするということで、中ソ対立というのが起こってきた。ここのところをもっと根底的に言ってしまえば農業問題、あるいは農業問題自体が資本主義自体によって、あるいは農業の資本主義化ということ自体によっては、どうしても解決されないということだ。この解決されない問題というのは、いわば世界的な規模で農業問題というものが、一種のさまよえる課題、非常に大きな課題として存在するということを意味する。単に経済現象としてどうみるかというような問題に留まるものでもなく、また単に一国における高度成長にともなう様々な危機の問題なんかじゃない。現在の世界的な規模における危機の集約点 というものが 農業と密接不可分な関係にある土地制というもの、土地の自然性と人為性人工性というもの、そうしたさまよえる農業問題ということに、そしてもうひとつは、技術革新、技術振興にともなう経済共同体的な考え方、そういうものに集約される考え方との両極における激しい激突、対立というようなものとして、生じてきているといえる。これは、経済学者が経済学的に解けるという問題じゃなくて、一種の思想的な課題、政治的な課題というような問題として、現在まことに切実な課題として生じている。(吉本隆明「〈戦後〉経済の思想的批判」の三章の構革論とさまよえる農業問題、『自立と日常ー更に、また現在より起てー』蒼氓社一九七四年発行パンフレット 所収より要約)



 [びっくり箱のイラスト略]

 都市と農村というたちでの分離の時代は終わってしまったのだ。逆に高い次元での混合化というものがせりだしてきている。農村の都市化と、人工化された都市の田園化という都市と人工都市の分離作用、これらに起因したあらたに専門消費センターが先行するかたちでまわりに人を集めるという、まるでSimCityみたいなことが現実になりつつある。

まっくる通信 第34号(90/03/27)
 退院と一緒に復職までとりつけるなんてなにはともあれよかったねだが、その裏には食えるだけ働けば充分さといっておられない現実が口を開けている。傷の痛みを癒すいとまも与えず即刻使い物にならなくなったパートの首を切る。勤め人のやつらは会社や雇い主を喜ばすためならなんでもやるし、どいつもこいつもそれを名誉と心得てはばからない。そして自己と自己保身にあけくれるとりまき連中はさようしからばそうでござるかのしたり顔の一点張り。その奴隷根性がたまらない。いけどもいけども〈私的利害〉は社会的分裂のぬかるみを逃れられない。かくして自己欺瞞の火種はくすぶり続ける。

 たしかに消費の場面では「中流意識」というデカイ顔が幅を利かせるようになり、労働条件の改善・賃金等においてそれなりのアップを許すように日本の社会は力を持ってきている。しかし、その一方ではパート労働の層の強化と常態化に勤しみ使い捨て労働力の形成にも成功してきているのだ。パート労働者と正規雇用労働者とのあいだには総ての点において月とスッポンの格差があり、その固定化は動かし難いものとなってきている。

 党派と派閥の下請け組織に名分にあけくれ名前の取りかえごっこにふける肥満体の既成労働組織は転ばぬ先のわが身の安全を唱えるのが精一杯、対策ひとつみだせない退行のなかにあって、高度資本主義社会の歪みのひとつとしてのパート労働者層の拡大という大問題をとらえきれない。恒常的失業者の排除的吹きだまりにいたってはなにおかいわんやである。その底辺層にあっては、不可抗力の入院を毎日が日曜日とみなしてやり過ごす気楽さや呑気な現実逃避的気分さえも奪いつくされてきている。

 せわしなくいつもハードな時間に追われ続ける日常性のなかにとじこめてはなさないのは、臨界点を高めながらどこまでも増強する生産とその消費を強化する流通にうながされるシステムの加速性なのだ。これこそ不眠の都市の管制塔。滞ることをしらないメカニズム、われわれは何処でどのように癒されるというのか?

 [餌をとる岩魚のイラスト略]

まっくる通信 第35号(90/03/28)
 年度末もあと僅か、本年のわが職場への予算消化のための研修出張は四国からの客人が重なった。今日は高知医大、明日は香川医大だという。

 高知医大の図書館の整理係長の話だと、開学以来十年を超えるそうだが、課内旅行はおろか、アフター・ファイブの和気あいあいを楽しむこともないという。ありきたりの日常性だけが先行し、いかに現状を維持するか、いかに破局を回避し続けるかだけが、最大の課題あるいは関心事となっているのか。

 すべては利害と人事の秤によってのみ計量され、その要件は変更不能と思い慣らされてしまったのか。戦後、経済的にも文化的にも一定方向において行き着いてしまったおとしまえのつけはあらゆる職域を吹き抜けてしまったのだろうか。眼に触れやすい近辺を無造作に見渡しても、高きにありて人を誘うよう存立できなくなった、理想家の夢などことごとく埋没林のように没し去り踏みにじられてしまっている。

 力を合わせ、手をつくし節目が何事かであった、われわれの感性と生活の基底を編みあげていた〈アジア的共同性〉の縫い目がほどけ弛んでしまったのだ。さりとて、人々は、現在の高度化された資本主義の生産形態と社会様式にはまだどこかなじみきれないでいる。そんな心の隙間やおおいかぶさってくる支配システムの収奪と抑圧にいたたまれず、思わず回顧的になったり、心の鞍部で佇むばかりなのだ。そして乗越しからの眺めの様相に従うように、それぞれ慰撫と感じる方向へ吸引されるという仕組みになっているのだ。

 どんなに酷薄化する職域や日常の関係であってもビリッケツの障害物レースのように踏ん張ってかいくぐっていくすべを手放しちゃならない。現実社会の利害の網の目にからめとられたり、そのうわっつらの力関係でつぶされたり、そんなことは承知の上で、なおかつそこで強いられる二重性を甘んじて受けるより手だてがない。けれど、負け犬はゴメンこうむる。小賢しい自足と保身だって悪くはないさ。だが、その居心地がどんなものであるかを知っているだけだ。

 接待で疲れたわけでもないのにネクラッペーみたいになりおってイカン。花よはよ咲け!

[吉野朔実「世界が変わりました」イラスト略]

まっくる通信 第36号(90/03/29)
 昼休み、久しぶりにウオーミング・アップと基本練習、そしてシングルスの真似事で汗をかいた。がらんとした体育館に二人っきり、照明全部点けはなして豪勢なもんだぜ。一昨日の火曜の昼は誰ひとり相手が来ず、さりとて引き返す気にもなれず薄暗いなかでストレッチをやり、ぐるぐる走ってみた。飽きる前に疲れがくるというていたらくだ。ジョギングから帰ったばかりの知人に声をかけられ、二階の卓球フロアにあがったら、窓際になんと立派なウェート・トレーニング機械のセットがデーンと構えているではないか。年度末予算の消化購入品はこれくらいでなくっちゃ、と圧倒されるくらいの威容だ。千人以上の構成員を擁する職場だというのに誰ひとり使っちゃいない。同僚と一緒に、アドバイスを受けながらみようみまねで始めてみた。メニューをいくらかもこなさないうちにアゴがでてしまうではないか。いまにはじまったことではないが、何という非力、五、六年前の打ち続いた不調以来、つくづくおもうのは、生きるってやつは基礎体力の問題ではないかといううらぶれた話でしかない。アジア的な共同幻想の呪縛がうすれゆく一方で生活意識を掘り下げることもままならずおれもおまえも社会システムの圧迫にきつく追いまわされ、のがれるすべもない。それどころか救いの幻影にひたる時も場も奪い取られつつある。せめて基礎体力でも備わっていたら、いささかなりともどうにかなるのではないかと、情けなく思ってしまったりするのだ。

 為政者のご都合で給料が半額支払になったり、遅配になったりけちくさくてやってられネェーぜ。いかにその日の暮らしむきが苦しくさしせまっているといったって、なりわいが生産運動や労働行為の呪海にもみくちゃにされているといったってヨォー。誰がなんとのたまおうと経済活動自体が自己目的になんかなりっこないのだ。誰ひとりとしてお上の政治・財政事情や社会の景気の変動にふりまわされる必然性などもちあわせてなどいないのだ。寝ても覚めても社会様式や日常形態は国家の共同性の掌におさまっている。孫悟空みたいにその強制力および影響からのがれ去ることはできっこない。だが、国家意志による政治支配とおれたちの現存のあわいにはまちがいなく〈キレメ〉と〈ズレ〉が隠されている。この幻想の起源からうちつづく領域があってこそ、否定の根拠が持続するとともに民衆的存在の対象化の契機にとらえられたりするのだ。資本にからめ捕られ、労働力商品として金縛りになることから一歩でも解かれ、生産のメカニズムや労働神話のお目こぼしを吹き飛ばす〈道理〉は明快である。なによりも労働時間の短縮の獲得。電算化の大波小波をかきわけてでも、全生産時間のうちの労働時間の占める割合を減らすことだ。いかなる手段に拠ろうとも、一家全員がやすらかにのびやかに暮らせるように、ガンバレる体力を使え!官僚末端ゾンビや働きレプリカントなぞまっぴらゴメン。遠くまでゆくんだ。

まっくる通信 第37号(90/03/30)
 やってきました最終コーナー、じゃない別居通信の最終回。姉さん一家が夕食後に訪ねてくれて、仮やもめのエンディングも盛りあがってしまった。

 ゆきあたりばったり、なりゆきまかせのパソコン・パフォーマンスもおふくろのかけがえのないバックアップやいてくれるだけでなにものかの娘のA、そしてコントロールもさだかでないくせのあるよれよれ投球をこぼさず受けとめ拾ってくれたつれあいのおかげだ。日頃の、妻子おふくろにささげたわが身の想いもうわっつらだけ、からめてからみればなんのことはない。なけなしの関係なくして何のわが身ぞ、だ。いまの職場にきて明日でちょうど十年、手も足もでずに、ただいたずらに後退するだけ、声や言葉のひとつも放てない不能の歳月の内側で、このひそかな寄る辺に伏せてきた。

 社会的抵抗体としての役割を果たすどころか、停滞と阻害の機関としての弊害ばかりをはびこらせる労組の末端に組み込まれた職場から、いかなる組合とも無縁な職場に放られた感触をじっくり噛みしめながら遠いポーランド情勢を読み捨てられた新聞に見ていた学生食堂の夏。なにかの席で「ほんとうは組合運動なんかやっていたおまえさんは欲しくなかった」といった課長に、「おれなんか来たくてここにきたんじゃない」と返したのはどのあたりだったろうか。例の「カラ超勤問題」でゴタゴタし、独り苦戦を強いられたときも、たとえ組合に身を置くことになっても、現状では思想的に離脱し、止揚の途へ進むいがいにないと思いきめていた。結果は見てのとおり、無為の内実にさらされるだけ。みっともないザマーさらせだ。

 ポーランド問題を軸に動いてきたこの十年、高度化を重ねた資本主義社会は完全にそれも無意識的にプロレタリア革命を社会主義社会をクリアしてしまった。昨年来われわれに届けられてくる、東欧の大激変は確実に民衆の現在を塗り変えるものだ。新たなる未知の〈現在〉に向けて。

 このつぎ、何かすることがあったら、もっと自在に、もっと着実に、と自分にいいきかせてひとまずオワリ。読んでくれて、ありがとう。

[大島弓子「毎日が夏休み」イラスト略]

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「日暮らし通信:プレイバック=2/2=」 kyoshi@tym.fitweb.or.jp  ファイル作成:2012.09.22 更新:2012.10.08