続・本の一言  吉田惠吉

街道と民家(19)
街道と民家(18)
街道と民家(17)
街道と民家(16)
街道と民家(15)
街道と民家(14)
街道と民家(13)
街道と民家(12)
街道と民家(11)
街道と民家(10)
街道と民家(9)
街道と民家(8)
街道と民家(7)
街道と民家(6)
街道と民家(5)
街道と民家(4)
街道と民家(3)
街道と民家(2)
街道と民家(1)
〈対話〉と風向き
「ある編集者」のことなど

続・本の一言:街道と民家(1)

           「姿勢とは、私がこの世界に存在し、世界に触れている、その形である。
            これは、主に人間関係における、いわば水平方向における身構えの形
            の一つだが、人にはもう一つ垂直方向に立ち上がってゆく力における、
            さまざまな在り方がある。」(竹内敏晴)

 故郷に立ち返るお盆の墓参り。1972(昭和47)年の暮れに小矢部市埴生から富山市高屋敷に引っ越して以来、平成の夏の台風の豪雨で一度見合わせたくらいだったのに、令和元年の猛暑が年老いた夫婦の外出をためらわせた。
 庭の雪吊も要らなかったような春先、天気が良ければ彼岸をえらんでお参りしてこようか。夫婦いずれからともなくこと葉を交わしていたところへ、巷では新型コロナウィルス感染騒ぎによる外出自粛の足止めをくらいそうな雰囲気が。

 富山駅を西に向かう列車に乗り込み、神通川、庄川、小矢部川と車窓を三枚めくって富山県西端の石動駅で下りる。目前を横切る県道の向こうのT字路を横カバンに厚歯下駄を履いて中学通いをした旧目抜通りまで行かず、駅前からすぐ西南へ向かい、嘗て福野高校へ通った加越能鉄道の廃線跡でもある道を野端に抜け、幼少期の遊び場の一つだった製材所を右の山側に入るように折れ、少し上った先で左に雑木林を抜け登った頂が吉田家二代の墓所だ。

 1年分の落ち葉をかき分けるように耳をすませば、半世紀を超えて身体を吹き抜けた風の来し方行く末を俯瞰するような鳥の冴えずり。雑木に覆われ南東に広がる散居村の向こうの立山連峰も見通せない。陽当たりが良かった斜面の畑や山間の水が冷たかった田んぼへの曲がりくねった道筋も朧げな景観のはるか向こうへ往時の暮らしぶりとともにかき消されそうだ。

 石動町の西へ、埴生護国八幡宮前でL字型に折れる街道を挟んで民家が並ぶ埴生の入り口の製材所から新しくできた小矢部福光道との分岐点を右に旧街道を入ってすぐ右にカーブする手前左側にわが家、その数軒手前右側に家業の精米作業場があった。グーグルマップでズームインしてもその痕跡すら見分けられない。手作りの仮想ドローンでも飛ばしながら遡行してみたくなる。

 祖父の直次郎(1879[明治12]年7月31日〜1975[昭和50]年7月25日)にその妻(生没年も名前も不詳)、そして母の友栄(1920[大正9]年4月18日〜2010[平成22]年4月12日)と父の正作(1912[明治45年・大正元]年〜1945[昭和20]年4月18日歿、享年33歳)が眠る墓石には1922[大正11]年と刻まれている。おそらくその年に43歳で祖父は妻を亡くしたのだろう。姑と一緒に暮らしたことのなかった母が聞き知った近隣住民の噂話では、髪を結った着物姿でキセルタバコを嗜み、料理や家事などすべて祖父任せだったらしい。祖母の姿形や氏素性もはっきりせず、家政の切り盛りに疎かったのかあるいは病弱だったのかよくわからないなりに祖父から大事にされていたらしい。

 とっくに廃校になった埴生小学校から帰ったある日こと、いつも祖父さんが座っていた囲炉裏の上座に女の人が座っていた。“瓦山”といって登り窯が珍しく遊び場の一つでもあり、家ぐるみ貰い風呂したような仲だった瓦職人の家のおかみさんだった。なんでも離縁されたとかで、とりあえず貧乏我が家に身を寄せたらしかった。元芸者だったらしく眼を泣きはらしてキセルタバコを燻らしながら時おり愚痴をこぼす姿が見えなくなるまで、当たり前のように居候させる祖父の姿に亡き祖母の人となりが気になったりしたが、いつの間にか“瓦山”のおばさんが行方知らずになったように、祖父の口から語られたことは一度もなかった。

 家風呂は未完な家族の象徴のように壊れたままに放置され、精米作業場の裏手に小川を挟んで建っていた村の共同風呂は利用したことがなく、近所の遠い親戚の子どもが夕方近く風呂においでと誘ってくれる両家の釜風呂を交互に家族ぐるみで使わせてもらう習わしになっていた。貰い風呂が立ち消えになった瓦職人夫婦は子持たずだったようだが、なんで離婚に至ったのかなんて幼い耳では知る由もなかった。

 いつもの近所の二軒の貰い風呂上がりには兼業と専業百姓家族それぞれの子どもらと遊んでから夜道を家族一緒に帰ったが、昼日中につるんで遊んだ子どもらは違う家の家族だった。とある昼下がりに兼業農家の子どもの家の裏手で遊んでいて、いかにも勤め人の父親を誇らしげに語る様子になじめない自分を見つけた。虚弱児の貧乏暮らしなんて当たり前で気にもならないのに「父」がいない片親暮らしの何が不足なのかわからないまま、帰った家の囲炉裏端を煙管で叩きながら煙草を燻らし胡座をかく祖父の緘黙が匂った。

 1941[昭和16]年2月に里帰りした高儀の母の実家で生まれた姉はおぼろげながらも京城から引き揚げるまで住んでいた朝鮮総督府の官舎で父に抱っこされた胡座や無精髭の感触を話せたが、京城生まれで2歳下の弟にはそんな体感記憶のかけらもなかった。3歳でようやく掴まり立ちさせてもらった引き揚げ先の埴生の縁側から覗いた富山大空襲の夜空や、父や祖母の月忌参りに訪れた僧侶の胡座の心地のほか思い出せない。立って歩けるようにならないと幼児の体感記憶は残りにくいのだろうか。

 就学前の体感記憶といえば何と言っても5歳になった誕生日の晴れた夕刻の[福井県の]大地震。家の前の街道のカーブのところで歩けず立ちすくんだ背後からしっかり抱きかかえられた。あやすような声とぬくもりから数軒右隣のまだ腰の曲がらない婆さんとわかった。おそらく買い物か何かで出かけた母は荒物屋の前で歩きにくくなり竿竹に陳列した薬缶など金物商品がぶつかり合う音を警鐘のように聞いていたようだ。そのとき祖父さんや姉さんはどうだったか憶えていない。

 家の中でびっくりしたのが日にちまで覚えていないが、鉄瓶が懸かった囲炉裏に落ちて灰神楽になったこと。左肘のあたりにいまでも火傷の跡が残っている。下腹にもあるが母によれば寝間着がはだけた肌に直に“湯たんぽ”が当たった際のものらしい。幼児期の火傷体験は身体的な混沌として我が身に残っている。あのとき、水で冷やすより、熱いお湯で温めるべきではなかったのか?

 その頃で身体生理的に忘れられないのが祖父の癇癪というか打擲だろうか。自分のことは覚えがないが、素っ裸で雪の庭に放り出された幼い姉さんのこと、とりわけ火吹竹が割れるまで殴られながら頭や顔をかばって紫色に腫れあがったた母の二の腕の痛々しさ。いつの間にか腫れ物に触るかのように祖父の機嫌をうかがう日々、野良仕事から帰った祖父が背戸の戸を開ける音にビクつき、小言が聞こえたりしたら母子三人“低気圧”が近づいたかのように目配せしあった。そして暴発したらとにかく鎮まるまでやり過ごすしかなかった。小言は多めでも普段はいばりちらすなんてことも無かったのにあの豹変ぶりはどこからやってきたのだろうか。今風の「虐待する祖父」という存在だったら孫の自分も同様に振る舞われていたに違いなかっただろうが、当時の祖父の「暴力行為」の風当たりは家族間の性差によって違ったものになっていた。

 引き揚げ先が違っていたらとか父が生き残っていたらなど逃げ腰になったり、生前の祖母や父も「折檻」されたんじゃないかという疑問も芽生えたりした。朝夕のお勤めを欠かさなかった祖父は、「おぼくさん」を供えた仏壇の前で孫二人も合掌してからでないと朝飯を食べさせてくれなかったが、妻を亡くすまでの10年余りで授かった一人息子の場合はどうだったんだろう。息子の嫁にしたように妻も打擲したんだろうか。明治末30歳頃に埴生の地で所帯を持つまでの足取りがまるで謎だが、40歳で10歳の息子と暮らすことになった戦前の父子家庭の毎日から、その後の息子の朝鮮行きが芽生えたのだろうが、そんな経緯がわかりそうな手がかりひとつ残されていない。

 還暦も過ぎ越した敗戦の数ヶ月前に埴生の住いに京城で殉職した息子の遺族を迎え入れ養うことになった祖父と、夫を失い暮らしの場が外地から「敗戦」をはさんで内地に急変した母子が協働して営む暮らしに生じた「違和」も祖父の老いとともに薄らぎ「好好爺の家族」にさまがわりしていったようだった。地元の農作業環境の変化によって精米業もたたんで三反百姓仕事にいそしむだけになったていたとある日、大学の附属図書館で働きながら経済学部に併設されていた夜間短大に入学してできた男女数人の学友が訪れたなかには、祖父をニコニコした老人の置物みたいだったと評した者もいた。

 訪問者のひとりだった女子学生Dと仲良くなり山沿いと海沿いそれぞれの家を訪れたりするほどになっていた仲が破談になる出来事があった。もう結婚など縁がないと思い決めていた数年後に学友じゃない文通知人だったEと川沿いの建売団地で暮らすようになってから、結婚前にDから呼び出された喫茶店で「結婚」を思いとどまるよう諭されていたことを知った。
 当時の祖父の居住まいや暮らしぶりから何を感じ取っていたのか、とにかくあのような爺さんを抱えた家に嫁ぐべきじゃないと言わせるような事由があったのだろう。偏屈で意地悪な存在として映るような事があったのだろうか。それぞれが訪れた際には、田舎の老人特有の笑顔で眺めるだけで、ことさら言葉をかけるでもなく、付き合っているのを分かっていたようで、採れた野菜や花などをDの勤め先に持って行かせたりした。
 Eの父がアル中で自宅療養していたのを見計らい、双方の片親姉妹が顔合わせしただけの簡素な結婚の次第を祖父は問いただしたりせず、週末に訪れたEに柿やイチジクや栗など庭の産物を持って帰らせたりしていた。

 Dが住んでいた海沿いの砂丘の集落の二階家をはじめて訪れ、居間の長押をぐるっと賞状が取り巻いていて唖然としたというか、なんだか額縁で鉢巻されたような心地だった。同居の兄は独身で身体障害があり父は病がちで娘の結婚を機にどう家を継ぐかが切実というより具体性をおびたりするうちに交流は途絶えた。
 Dと同じ高校を卒業していたEのお袋さんの弔問で訪れた借家も、父親の仕事の都合で17回目の引越し先となった団地の建売住宅いずれも平屋で、上がりこんで見回した長押には飾り物ひとつなく、目についたものは生花だけだで、アル中の治療で病院と自宅を行ったり来たりの父親と妹の三人家族の家政の切り盛りで手いっぱいの様子だった。

 そんなEとの出会いからお互いの職場に通勤可能な富山市内の土地を探し家を構えるまでに数年の歳月を要した。おそらく母の同意は得られるとしても、狭い山林を見捨て、埴生の宅地や田畑を売り払い富山市の郊外に生活の場を移す事を祖父が納得しれくれるかどうか身構えざるを得なかった。背戸の庭木の松を根切りして移植の準備が整ってきた頃合いに、「この歳になっては孫についていくしかない」と97歳の祖父が同意してくれた。あとは新築と引越しに必要な諸経費をどう賄うかが問題だった。(2021年1月27日公開)

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続・本の一言:街道と民家(2)

           「まあ、どのような病や怪我でも上手く経過させてゆくこと、
            それも自然に経過させてゆくことが何よりである。」
                        (光岡英稔@ツイッター)

 祖父が生まれた1879(明治12)年といえば日本全国にコレラが大流行[約10万人死亡]したようだが、埴生からほど近い松永でおそらく農家の次男として芽生えた「我」の容れ物として、身体的に両親や兄弟からどのように揉まれ[躾け、仕置き、しごき、折檻などにさらされ]ながら育ち、尋常小学校を経てから、大阪で如何なる丁稚奉公をしていたのか、詳しい話は聞いた覚えもない。口癖のような「公界をわきまえろ」という矜持が祖父の大我と小我を行き来するうちに「来し方行く末など語るほどのことでもない」に収斂したのだろうか。

 昭和のはじめごろの東京では丁稚奉公制度に反対して「殴らないこと」名前に「どん」をつけないことなどを要求した42名の少年店員による争議があったようだが、明治中期の大阪での祖父も「直どん」呼ばれてぶん殴られたりして良い思い出などあったのかどうか、1912(明治45・大正元)年に息子(正作)を授かるまでの暮らしの足取りなどまるっきりわからない。

 互いに家族の誕生日を祝って囲炉裏端で一家団欒など稀な埴生で、引き揚げ母子家族が棲みついた小作りな家構えは百姓家というより商家向きだった。近隣の住人からは「直ま」と呼び慣わされていたようだが、子ども心には愛称というより蔑まれているように響いた。ほかに「〜さ」の誰それなどと言い習わされたりしている家もあったりして、小学六年頃からはじめたヤクルト配達で知った屠殺や廃品[鉄屑]回収業者の集落を蔑むような物言いに同調しているように感じた。集金の際などに垣間見た暮し向きを感じさせないそんな集落の家の対応には風評とは相容れない柔らかな奥行きがあった。

 街道に面した埴生の我が家は土足のまま背戸に通り抜けられる風通しの良さがあった。
 玄関の内開きの大戸の左端に拵えた引き戸をくぐると土間の左手が小さな商品棚を置いた板の間と記帳場になっていて、そこを細かい縦桟の障子戸で仕切った奥が母の居間になっていた。反対側の板壁を隔てて納戸があり、続く茣蓙を敷いた板の間[兼食事処]の障子戸を挟んで、竃と井戸と流しが並んだ板の間の背中側には食器棚の隣に米や味噌の甕が並ぶ台所だった。そこを下りた狭い土間が焚き口になった風呂と脱衣場の隣が大小便所だった。背戸の引き戸を開けた左手に手水鉢があり、祖父が剪定する庭木や植え込みを囲い込むように傾きかかった小さな納屋と鶏小屋が連なっていた。納屋の土間には薪が積まれ、漬物樽や農作業や大工道具などで足の踏み場もない狭さだった。

 百坪足らずの敷地の小柴垣で仕切った西南側には榛の木や栗の木や桐の木などが並び立ち、午後の日差しを遮る下が薪割り作業場になっていて、中学生になると薪割りを祖父に手伝わされた。薪材を相手に見よう見まねで斧や鉈の使い方を覚えさせられたが、ルリボシ以外のゴマダラその他のカミキリムシとのたまさかの遭遇ぐらいが楽しみで、なかなか道具と体との相性の良い使い方がのみこめず、指が擦り剥けたり腰がギックリしかかったり虚弱な我が身の自覚が部活の剣道部へ向かわせることになった。寒稽古や暑中稽古も休まなかったが、当時130cm30kgの体が少しは大きくなった程度で、肝心の技の上達にはおよばなかった。ただ力まかせに斧や竹刀を振りまわしていては、やたら疲れるだけで、会得すべき事柄から遠ざかるばかりだった。

 背戸の庭の東南側に広がる他所さまの田畑との境界に植えられ無花果や柿の木のあたりは花菖蒲や仏壇用の花などが咲き乱れていた。祖父は寝所にしていた座敷の床の間に常置した息子の遺影の前の台座に「仁清」の香炉を据え、明かり障子の傍の「木米」の花瓶には花を絶やさにようにしていた。ほかに青瓷の水指や花瓶などの蒐集品が飾られたり、古九谷の揃いの食器など祭りの御膳限定だったが、晩酌用の酒器だけは普段使いされていた。お気に入りの蒐集品を手にした祖父の講釈を聴き分けられる耳も目も縁がなかったようだった。とある独り居の日中に訪ねてきた骨董屋らしき御仁に、祖父さんが持ってるはずの刀の鍔を是非見せて欲しいと迫られ、父の遺品の「軍刀」一振りしか知らない孫は応対に困り果てた。

 手にした小金をすぐ株券に換えて母を困らせていた祖父は、金になるものならなんでも投機の資金繰りに充てる癖があったようだ。道理で埃だらけの納戸にはガラクタばかりしか残っていなかった。月忌に訪れていた檀家の住職は残った数少ない骨董品を愛でていたようで目敏く、床の間以外で飾ったりなどもってのほかだった。祖父の供養になるよう夏の通夜の祭壇に前述の香炉を使ったときなど真っ先に片付けさせられた。前年の秋にさりげなくLPを聴いていた部屋に入って来て、いかにも安心したように飾り棚の愛蔵品を指差し、よろしく頼むと言われていた骨董のひとつだった。同じ頃に盆栽など鉢植えの植え替えのお世話はできませんとお断りした妻には、そうかと頷いて無理強いすることもなかった。

 お年玉以外に小遣いなど縁がなく、小学校へ収める現金に事欠いたりしがちな家計の足しというより小遣い欲しさに雑木担ぎや山菜採りや酢の瓶詰め作業などもやった。夏休みの古綿打ち直しの収集アルバイトは近所の店の主人が業務用自転車を貸してくれたが、町のヤクルト配達業者はそうはいかなかった。
 早朝アルバイトにあまりいい顔をしなかった母の口利きが功を奏したのか、晴れた学校帰りの午後に足を踏み入れた玄関の土間の左手の板の間に、祖父が手配したのであろう村の自転車屋が部品を寄せ集めて組み立てた一台に小躍りした。祖父に手を引かれて出かけた石動町の祭礼で、ブリキ製の舟の玩具“ポンポン蒸気”を買ってもらった喜びに勝ったようだった。

 代金領収も配達担当ということで祖父は集金用に「巾着」をくれた。落としたりひったくられたりしないようにとの気遣いからだったろうが、複数だった配達集落が地元の埴生だけになった頃に集金済みの巾着袋を失念したことがあった。薄暗くなるまで集金先の道筋をたどりなおしても見つからず、家に居合わせた誰かに尋ねるより数少ない部屋という部屋を探し回ったあげくに母の部屋のミシンの上で見つけた。集金から帰宅後に家のどこかでうっかり落としたか置き忘れたのを見つけた家人が何気なくそこに置いたらしく、安堵の思いで握りしめたら祖父手製の巾着ではないのに使い古された祖父の手触りに見いだされた気がした。
 鍋敷きや盆などの木製品から屋根や家屋の修繕まで、祖父は日頃から集めておいたそのうち使えそうな「ガラクタ」類を利用してなんでもやってのけようとしがちだった。たまに手伝わされたが上手くいった時などけっこうご機嫌だった。魚や鳥などの食材の扱いだけでなく、木の根っこや瘤などに手を加えて飾り物に拵えあげた一品などいまだに残っている。

 祖父から明治後半期に大阪で奉公していた頃の話だけでなく年季が明け帰省した埴生で家を構え田畑を耕しながら精米業を営むにいたった経緯など一言も聞いた覚えがなく、とにかく老齢で受け入れた引き揚げ母子家族ともども戦後を生きのびるのにせいいっぱいだったのだろう。明治末期に奉公先の大阪から出戻った埴生で所帯を持ち、長男を授かったのが1912(明治45・大正元)年、祖父33歳の頃の田舎での暮らし向きを振り返ったりなど、埴生から高屋敷に引っ越してからの3年間もとにかく昔語りに縁のない老人だった。ただ一度だけ「埴生の家に帰してくれ」と喚かれて往生したことが忘れられない。たまたま我が家でアル中療養中だった義父と家族で囲んでいた麻雀卓をひっくりかえされたときのことだった。すべて売り払ってきた経緯をなんとか納得してもらえて良かったが、年老いて住み慣れた土地を離れさせたことの重大さを思い知らされた。

 1890(明治23)年前後の経済恐慌で米価が高騰して大阪でも餓死者が出たり、濃尾大地震(M8.4)で14万2177戸が全壊して7237人が亡くなっただけでなく、震災後の岐阜県を中心に農民騒乱が起こったり、日清戦争の影響で活性化した景況下で従軍兵士によるコレラの国内感染拡大に続いて、麻疹、天然痘、赤痢、腸チフスや肺結核の感染流行による死者も多かったようだ。1896(明治29)年6月の三陸沖地震(M7.6)による大津波で1万390戸が倒壊し2500余戸が流失して2万7122人が亡くなり、翌7月の新潟の大洪水では1万余戸が流失破壊され2500戸が浸水して78人が亡くなっている。

 おそらく『大阪毎日新聞』が大阪で奉公していた頃の愛読紙であったろう祖父は埴生の地でも『毎日新聞』以外は見向きもせず、地方紙との併読などもってのほかだった。どうせ「株式欄」しか用がないのにという母の常套句だったが、朝刊が祖父の手を離れてから回し読みする習いだった。埴生の家庭のほとんどが地元紙しか読んでいなかったのに祖父がそのこだわりを手放したのは晩年に高屋敷へ引っ越してからだった。おそらく十数年に及んだであろう祖父の大阪での生活環境と共棲した青少年期に、当時の〈新聞〉をとおして世相を見聞きし感じた〈反響〉のような何かを、出戻った埴生での生活を律する内部の〈声〉のように大阪弁で響かせることはなかった。

 富山弁で叱られたり、小言の多かった祖父の声から遠ざかった今なお読経の響きだけは、埴生の家から持ち越した仏壇を置いた四畳半に残っているような気配がしたり。日々めくりにめくって表表紙や和綴じ半ばのページがボロボロに千切れかかった小本『眞宗 在家勤行集 全』の奥付に富山市の守川聚星堂は編集兼発行1918[大正7]年3月20日発行とあるが、その数年後に妻を亡くしたあたりから勤行が習慣になったのであろうか。ちなみに1964[昭和44]年に買い直されたであろう同書型の『寺院兼用 眞宗改定 在家勤行集 全』も裏表紙やページ半ばに指跡の穴が開いて縁が擦れたりしている。
 朝に朝刊を、夕べに経典をめくるまでの日々の農作業などで働き続けてきた関節痛で曲がった手指で囲炉裏の縁や畳や箱御膳そのほか、手じかなものを叩きながら諭すような語り口も遠い存在になってしまった。

 村人との寄り合いというか宴席で諍いになり、近所の人に宥められながらも激昂おさまらず褌一本で帰ってきた祖父の姿。夜半に精米所の鍵をこじ開けられ、精米が済んで預かっていた近隣者の叺が盗まれた時など、残りの叺を盗りに来るのを予想して村の駐在さんと張り込んだ捕物譚をひた隠しにした祖父の立ち居振る舞い。柿の木から落ちて1年半ほど寝込んだ時も頑なに医者にかかろうとしなかったり。70歳以上無料の老人医療費制度には無縁だったけど、痛いだの痒いだのどこか病あぐらしそうながらも病院嫌いを通した老半生(青壮年期は分からないが)。高屋敷に越して3年目に寝込むようになり、急遽往診に来てもらった女医さんは、高齢男性にしては珍しく消化器系も循環器系も問題が見当たらないようで、普段の祖父の食事内容などを家族から聞き取って帰られた。

 虚弱な孫には何かと滋養強壮になりそうな物をあれこれ工夫して食べさせたように、祖父は好き嫌いなく家人が食卓に並べた和・洋の料理をことごとく入れ歯で食べ、酒は言うまでもなく魚や昆布などをとくに好んだ。
 体調が不良な祖父の場合はとにかく寝て身体を休めること。春夏秋冬の昼寝は欠かさず、馴染みの行商の売薬を服用することはあっても往診医の診断を頼らず、医療に対して臆病なのか無頓着なのか、灸で関節痛を鎮めようとしたほかいわゆる生活習慣病[の区別も分からないが]には縁のない暮らしぶりをまっとうした。
 母の介護暮らしを担当してくれたケアマネらは時系列で係累の病歴などを聞き取った際に、祖父のことを充分でない医療時代を生き抜いた「スーパー老人」として一様に評しただけで、人それぞれ社会的な構成力、人間関係の場を生きる〈病〉の問題に言及しなかった。戦争に駆りだされるような権力とは縁が薄くても、祖父の両肩には成人期や老人期を生きぬく重力が働いたであろう。なのに「老人病」や「成人病」などに悩まされずに済んだのはどうしてだろう。(2021年3月2日公開)

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続・本の一言:街道と民家(3)

           「『ですから、いま新興の団地が日本のそこここ
            に生まれているように、そしてまた団地の中に
            学校もマーケットもあるように、日本中の小都
            市とすこしも違わない日本人の町が朝鮮中に出
            来ていたのです。そして、そこで生まれ育った
            子どもたちは自分が暮らしている所は日本であ
            ると認識していました。おまけに肉体労働はみ
            んな被支配民族がしていましたから、開拓はお
            ろか、買い物も配達してもらい、掃除もお手伝
            いさんがし、学校帰りがおそくなれば迎えに来
            てもらいました。罪深さにおいては、移民や開
            拓団の比ではありません』」
                            (森崎和江)

 街道を挟んで数軒筋向いの精米作業場の裏手の畑のほかに、くねる畦道を上り下りした山際にも田んぼや畑があり、家族ともども農作業に通う曲がりくねった道筋は、独り遊びの子どもにとって街道を外れて「探検」に向かう未知の歩みのとば口でもあった。山菜を採りに裏山の奥へ入ったり、農道を抜けて川魚を釣りに河原に下りたりする上空を爆音響かせ飛び交う星のマークの飛行機の行き先で始まった「朝鮮戦争」が茶の間の話題になったが、昭和20(1945)年4月の父の殉職後に京城の住まいを後にするまでの四方山話から「オモニ」か「ネエヤ」か定かでないお手伝いさんがいたことなど聞き及んで、まったく記憶にない朝鮮総督府の官舎での家族四人の暮らし向きが引き揚げて居着いた埴生でのそれとはかけ離れていたのを知った。

 冬場を迎え祖父が畑から採ってきた白菜で母が作ってくれた朝鮮漬けに朝鮮植民地暮らしの時間が仕込まれていることに気づいたのはずいぶん後のことだった。丼に盛って訪れた客人のお茶請けにふるまったりしていたが、祖父手作りのカブラ寿しともども、いつのまにか囲炉裏端やちゃぶ台から消えてしまった。
 また家族が食前に仏壇にむかって拝むような「食」と「祈り」にまつわる古くからの民間信仰みたいな伝統も薄らぐなかで、家人がそれぞれの願望を祈願するという習慣も生まれず、さりとて「神仏のおかげ」や「村民の営為のおかげ」にとってかわるような朝鮮植民地生活の〈共同性〉の面影みたいなものもなかった。ことさら引揚者意識はなかったものの埴生でくらすようになって「よそ者」扱いを感じるたびに三歳までの出生地が〈空白〉としてせりあがり、子ども心に「父の不在」が「殉職」と「戦死」のあわいで揺らめく影のように見え隠れした。
 その後のことだが、どこからともなく囁かれるようになった「人さらい」に逢わないようにという村の噂話が近所の子どもらの遊びの合間で交わされたりしていたが、やがて世間で「拉致問題」が話題になるに及んで、少年期の“まさか?”の出来事がひっくり返った気がした。

 富山市の郊外に移り住んだ村共同意識の希薄さの彼方に、村意識が残存する埴生でとぼとぼ歩き去る老人の後ろ姿が焼きついた25年間があり、その先に日本統治下の京城での植民地暮らしがあったことを思い起こさせられた。引き揚げ後の埴生とは違って、都市ガスや風呂や電話も普及していたようだ。殉職時の父の本俸は幾らか分からないが、住宅及び家族手当があり、恩給受給期間の1年が2年半分に計算されたらしい。母が持ち帰った父の遺品が朝鮮での生活を支えた象徴のように思えてきた。
 なんでも「犯人」逮捕の際に格闘になった相手からもらった急性感染症で亡くなったこと以外はあまり語りたくないような母の口ぶりで、それ以上朝鮮植民地政策下の警察官としての生活実態に触れてほしくないようだった。父の人となりについてはいつも「いい人だった」でその先が聞けなかった。

 高校三年生の半ばだったか、学費の見通しの立たない進学より就職に傾きかけていたら「警察官だけはやめて」と母からダメだしされたことがあった。理由を聞いたら「占ってもらった」ということだった。ちょっとした紆余曲折を経て就職した大学図書館の目録システム地域講習会の打ち上げで懇意になった韓国出身のK講師から「お母さんが元気なうちに」と水を向けられた訪韓のお誘いにも母は気乗りしないようだった。

 『日本人物情報体系第8回朝鮮編』によれば、朝鮮在留日本人の始まりは明治9(1876)年の釜山港開港以来、日本政府の保護・補助策もあって西日本各地から商人層を中心に多くの日本人が渡航しているが、明治43(1910)年の併合を機に韓国警察事務を日本に委託した「日韓両国政府覚書」に基づいた日本政府による朝鮮総督府の業務に就くという何らかの縁が父を祖父から引き離したにちがいない。

 父母が結婚生活を始めた昭和15(1940)年の在朝日本人数は689,790(女333,564内数)人とピークにあったようで、都市別では京城の日本人人口は124,155人で他を抜きんでていた。職業別の日本人人口割合(昭和5[1930]年)は公務・自由業が31.8%ともっとも多く、次いで商業が25.7%、工業が17.6%とつづき、農業は8.7%だったのに対し、朝鮮人のそれは1.2%、5.1%、5.6%、80.6%となっていた。植民地支配を推進するうえで総督府や地方庁の官吏が数多く在留し、工業化も推し進められたのだろうが、農業中心の朝鮮人との就業人口構成との落差が大きかった。官舎での家庭生活に朝鮮人のお手伝いさんが加わるなど、当時の埴生での平均的生活よりいい暮し向きだったらしい。母が持ち帰った二組の「京城観光絵葉書」セットに写っていない京城の町並みや家並みにどんな物語が隠されていたのだろうか。

 家のまえの街道を行きする草鞋履きの老人を見かけるたびに、どこから来てどこへ行くのか、人の生き死にが気がかりでならなかった中学時代を過ぎる頃には、祖父と兵役の関心は薄らいだようだった。ただ夜の読書を見咎められるようにっなって電灯の傘を風呂敷で覆った下で隠れて本を開くなどしたが、ことごとく家計の切り盛りに口を挟まずにいられない祖父の日常暮らしの端端から孫にはなんとなく戦時中の窮乏生活の名残がうかがえるようだった。

 富山は石川、福井、岐阜の各県を徴兵の管区とする第九師団として、第11師団[高知、香川、徳島、愛媛の四国4県]とともに、第三軍に属して旅順攻囲戦に参加して多くの犠牲をだし、男子人口(本籍地人口)千人あたりの戦没者字数は6.04人で全国6位[1位は高知県の7.72人](大江志乃夫『兵士たちの日露戦争』)ということだが、ときたま村の年長者と場を同じくした世間話から出征体験や満州での開拓生活などを聞きかじったりしたが、祖父にまつわる聞き覚えはまるでない。

 昭和4(1929)年に開設された石動図書館はほとんど利用したことがなかったが、祖父の没後に富山市立図書館で手にするようになった郷土資料の抜刷り広瀬誠「戦時下および戦後の石動・津沢ーー北陸の町と大東亜戦争ーー」によれば、大正13(1924)年11月3日に摂政宮裕仁親王が陸軍大演習御統監のため埴生の御野立所を訪れている。
 昭和7(1932)年1月5日に石動青年団満州時局部が新設されてまもなく第1次上海事変となった翌2月2日に第九師団出動命令が出され、同月7日に富山連隊が石動駅を通過[青年団壮行]した。同年5月4日から31日にかけての軍人帰郷後も非常時が慢性化したようだ。

 昭和10(1935)年6月14日暁闇の埴生護国八幡宮で武運長久祈願祭が行われ、翌年の11月2日に石動町愛国婦人会・婦女会・国防婦人会が北満の山岡部隊の同町出身者30余名に慰問袋を送り、一個1円20銭相当[送料60銭]として各町村でも同様に行われた。支那事変に郷土部隊の第一陣が出征したのは昭和12(1937)年8月21日だった。 
 昭和13(1938)年2月の満州開拓移民第1次先遣隊募集に97名、5月の第2次に100名あった富山県内応募者に埴生村からの入所者が含まれ、6月23日の政府による非常時国民実践事項による衣食住の制限を受け、12月の第2回国民精神総動員運動に際して石動町週間行事として第1:建国精神昂揚の日、第2:生活刷新の日、第3:心身鍛錬の日、第4:非常時経済協力の日、第5:将兵へ感謝及銃後後援の日、第6:廃品供出の日、第7:勤倹力行の日の実施が設けられた。

 昭和14(1939)年4月に各種軍事援護団体を一本化し、各市町村単位に銃後奉公会が結成され、7月7日に愛宕神社で支那事変勃発二周年記念式典が執り行われ、7月9日以降毎月一日を興亜奉公日として一行事、神社参拝、一日禁酒、青年学校生徒による境内剣道試合、花街は一日休業、禁煙、町内各戸では代表一人神社参拝戦勝祈願の実践が掲げられた。

 挙式を済ませた母が父の勤め先の京城で暮らしはじめた昭和15(1940)年の石動[や津沢]では6〜7月に「贅沢は敵だ」の街頭標語が掲げられ、9月には、常会(町内会・部落会)が結成され、隣保班が作られ、回覧板の利用がはじまり、翌10月に天田峠で皇紀二千六百年奉祝文継走行事が行われ、あい前後して大政翼賛会のもとに西礪波郡支部第一回協力会議や石動支部発会式があった。

 里帰り先の高儀で姉が生まれた昭和16(1941)年の9月27日に石動国民学校校庭で地域の大小工場から六百余名の男女従業員を集めた大日本産業報国会第一回体育大会が開催され、12月8日の開戦以降毎月八日を大詔奉戴日とする戦時下の生活の物資統制が日々強化されるようになった。

 小学校時代は三日にあげず休むほど弱かった母が引き揚げ後の生活で、嫁ぎ先の祖父の精米業を引き継ぐほどの体調を維持できるまでになったのには、実家の母の弟妹も驚いていた。米の収穫繁忙期など、早朝から深夜まで精米機を動かし、米俵や叺を扱っていて子どもに手伝わせることなどなかった。

 祖父が体得していたように斧で薪を割るなど道具を使う前に、力と感覚を転倒させるような身体操作法を体感しないことには、ほんとうに道具を使いこなせるようになれなかった孫にとって、祖父や母の日々の作業姿が、小、中、高校期のアルバイトを続ける体力維持の励みにもなっていた。
 中学生になって肥桶の片棒を担がされて祖父との歳の差に気づいたのだが、それまで祖父は一人で住居の裏手の汲み取り口から山間の畑まで天秤棒を担いで往復し続けてきたのだ。
 冬場の家の雪囲いや庭木の雪吊りなど、祖父から教えられた縄の結び方などすっかり忘れてしまった。

 砺波平野を走る城端線の高儀駅の近くの旧地主の長女として育ち、廃線になった加越能鉄道(津沢駅)沿線にあった砺波高等女学校を出て勤めた銀行でタイプ仕事などこなすうちに、母はいかなる縁で埴生の父子家庭の一人息子との縁談がまとまったのだろうか。昔語りのほか和裁が得意だった高儀の実家の祖母が仕立てた着物の納品先のひとつだった石動町の呉服屋あたりを介して地縁的な縁故を想像できない事もないが真相はわからない。昭和15年の9月に母の母校で行われた「大陸の花嫁」奨励[候補者50名、2週間]講習会とはおそらく無縁であったろう。

 「日独伊三国同盟」で南方進出の国策が決定した昭和15年に、20歳で8歳年上の外地[京城]勤務を選択していた父と結婚生活をはじめて5年目、沖縄本島では米軍が上陸し始めた春に突然の殉職で夫を亡くした母は、とにかく“いい人だった”というだけ、「御前会議」が本土決戦方針を採択した昭和20年6月に埴生に引き揚げ棲みついた当時も、そしてその後も多く語ることはなかった。
 あわただしく殉職葬が執り行われ、取るものもとりあえず京城の官舎を引き払い釜山から船で不安に揺られ、下関から乗り込んだ列車も窮屈で果てしないものだったらしい。内地へまとめて送った家財などすべて消え失せたとのこと。敗戦の2ヶ月前だったというが、まだ歩けない3歳の長男をおんぶし、5歳の長女の手を引きながら、持ち帰った遺品の幾つかが今も身近に残されてある。

 祖父が埴生で寝室にしていた座敷の床の間に飾られた遺影の写真でしか会ったことのない父がかぶっていた制帽をひっくり返すと「京城鍾路警察署勤務/朝鮮総督府京畿道警部補 吉田正作」なる名刺が縫いつけた透明ケースに入っていた。
 とにかく朝鮮総督府の警察官だった父が「容疑者」逮捕時に格闘となった[朝鮮人]から感染した伝染病であっけなく亡くなったことがよほど無念だったようで、引き揚げ後の暮らしでときおり漏らす母のため息がおさな心に響くのを紛らすように、幾つか軍歌や『異国の丘』などを歌い覚えた西陽射す母の居間でのひと時が忘れられない。

 幼い手のひらに余るように大きく艶のあったくるみを喜寿過ぎの皺だらけの手にする感触の落差。「平型體温計一号(柏木型)朝鮮総督府」と銘打ったーー使い込まれて外装が擦れ剥げロックも緩んだーーケースに入った体温計。小さな三枚重ねの虫眼鏡。未使用の「朝鮮観光絵葉書」2セットは二人の子どものためのものだったのだろうか。赤と紫の刀袋に入った軍刀一振り。階級の違う制帽それぞれ一個。遺影大小一組。これらを携え「遺骨」を胸に引き揚げてきた姿を母の命日に拝んだ。(2021年4月12日記/2021年4月14日公開)

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続・本の一言:街道と民家(4)

            「人間が太陽の光に包まれ、風に包まれて生き
            ているように、かっての日本の人々は、自然に
            包まれ、共同体に包まれて存在している自己を
            感じていた。だから自分を見つめようとすると、
            そのこと自体のなかに自然や共同体が入ってく
            る。自然や共同体に包まれて成立した『場』の
            ことを風土と呼ぶなら、自己とはたえず風土と
            コミュニケイトするなかに成立するものだった
            のである。」(内山 節)

 新型コロナ禍による外出時の長時間のマスク着用が苦手になってしまい、乗り物での遠出にはかなわないが、グーグルマップのストリートビューによる在宅バーチャル散策や、ご当地風物のユーチューブ探索や見聞などしがちな今日この頃。
 2014年撮影の埴生界隈をたどってみると、砂利道が舗装されて道幅が変わっていないような街道を挟んだ埴生の家並みはすっかり様変わりしている。ただかって住んでいた辺りに立っている防火用水標識と精米所跡地の傍にいまも流れる小川の背景にハッとした。曇天を切り取る杉林と山の稜線が幼少期の眺めそのままに見えたのだ。売り払ってきた宅地や田畑や、放棄した山林などの痕跡など定かではないが、航空写真の高度を上げ下げしながら祖父について歩きまわった田畑や山林のルートをはみだすような幼少時の街道につらなる様々な出来事や体験のかけらが埋まっている。

 天狗のように見えた八幡宮の杜を舞うむささび。鼻の欠けた老婆や巨大な蝦蟇やカモシカに出会って立ちすくんだ山道。中学生の夏の午後の日課みたいだった川釣りの土手[渋江川]の草いきれ。寝そべって見上げた空には昼日中の星が。あちこち釣り場を変えた坊主の川面の流れに透けて見えた女体の背を隠す長い髪。街道沿いの板塀を背に取り囲んだひとりを痛めつけて去っていった若い衆の後ろ姿。砂利道をかける馬の蹄の響きをかき消す自動車の砂埃。焼け石に水の夏の街道の水撒き。豪雪後に各戸総出で街道の雪割作業。子どもの足で付いて回った冠婚葬祭の列が街道の主役だった日々。

 山の端の雑木に覆われた土饅頭のような墓山の眺め。そこに至るまでの街道を山側に枝分かれして入った道の右手にサンマイがあった。嫁入りの列にはあまりついて歩いたりしなかったが、葬列には焼香から火葬場まで一部始終が気になって仕方なかった。井桁に組まれて燃えさかる薪の炎を蹴破るように座棺から火花を散らして躍り立った黒い人影に、出棺時にもらった盛り物を取り落としそうになった。子どもながら近所の長老のように思いなしていた葬儀だった。数日後だったか仄暗い焼き場のあたりから青白い小さな炎が漂っているのを見たときはそんなに驚かなかった。

 先の読めない新型コロナ禍の昨今、脳病の後遺症が残ったりする一方で、“ボケ”が治ったりするという風聞に、ボケずに亡くなった祖父のことが想われた。越中上新川郡の野焼き火葬では山芋を入れて焼き、それを食すると脳病が治るという風習があった(高橋繁行『お葬式の言葉と風習:柳田國男『葬送習俗語彙』の絵解き事典』)ようだが、子どもの頃に木陰から固唾を呑んで眺めた埴生での情景にそんな気配はまったくなかった。昔日の火葬で死者の脳をいただいた名残かもしれないが、ほんとうのところはわからない。
 そんな村の葬送習俗見聞の対極にあったのが、街道を挟んだ筋向いの農家の牛小屋での湯気の立つような出産の光景。産後すぐに四つ足で立とうとする仔牛の動きや、近所の納屋で押し切りで首を切られたひね鷄が血を滴らせながら背戸から田んぼへ走りまわって倒れる姿など。

 我が家の背戸の納屋に逆さL字型に祖父が作り足したみたいな鶏小屋は狭いながらも止まり木や巣箱や砂場もあり、数羽いた白色レグホン種の餌やりや採卵は孫の姉弟の仕事だった。羽目板と土間の隙間を掘って忍びこむイタチの餌食にならないよう祖父と新たに小さな鶏小屋を納屋の軒下で作り直したりしても被害が絶えず、鶏の無残な姿に飼育を続けられなくなった。空き家になった鶏小屋で、祖父が用意してきた原木にシイタケの菌を埋め込む自家栽培を手伝わされたりした。生きとし生けるものをめぐる食の関わり合いを実習させられたような気分だった。
 秋から春にかけてのこと、数少ない遊び仲間から新式や旧式の空気銃を貸してもらったことがあった。母の手になるおにぎり弁当を背に山野の独り歩きで狙いを定めても撃てず、習慣化していた川魚釣りのようにはいかなかった。人気のない空が開けた斜面で手頃な標的を仕立てた距離感と当たり外れを確かめたりして家路をたどった。

 自然林と人工林が入り混じったような山間で見つけたため池で釣り糸をを垂れたりしたこともあったが、イモリぐらいしか釣れなかった。持って帰ったりしたら祖父さんに黒焼きにして食べさせられたであろう。そんなことより転げ落ちたりしたら泳げず這いあがれそうにない斜面が怖くなって近づくのをやめた。
 そんな山際の境を堰き止めた灌漑用水の水場が川や海から遠い夏の子どもらの恰好の遊び場だった。母が用意してくれた黒い三角褌姿で、恐る恐るカッパみたいな村の子どもらに紛れ込んでみたが犬掻きの手前で挫折した。山と違って祖父に連れられて海へ行ったこともなく、中学の夏の林間学校も虚弱なるが故の見学扱いで海に慣れず、その後も夜学や職場で出逢った知人に誘われた海水浴やセーリングの機会があったのに泳げないまま、残念ながら所帯をもって授かった一人娘に教えることもかなわなかった。スキーやバドミントンのように、妻子ともども下手くそながらも上達を楽しめるようなやり方が分からなかったカナヅチは、老の水際で身体操法を稽古してみるしかない。

 近所の農家のように牛や豚など飼う余裕も必要もない家内労働たよりの三反百姓で、田植えなど農繁期に近所の親戚の手助けがあったが、祖父から母へと主役交代で維持した精米業の方は、個別農家の脱穀/籾摺り作業の機械化導入で需要がなくなり廃業するしかなかった。現金収入がなくなって母子ともども働きに出るようになり、田んぼは近所の農家に収穫の半分を物納するかたちで請け負ってもらい、残った畑作作業は祖父がやってくれた。犬や猫を飼う事を好まなかった祖父だったが、鼠除けにとかなんとか母と懇願して飼わせてもらった拾い猫が交通事故で亡くなった際、仏壇に向かって涙声でお経を唱えてくれたのには驚いた。祖父の指図で庭の片隅に穴を掘って埋めた場所はグーグルマッップでも見当がつかない。

 祖父は食にともなういのちをいただいてもむやみな殺生をするもんじゃないというのが口癖だった。米と野菜は家族四人がなんとか食っていける田畑からの収穫がほとんど、鶏小屋の数羽による日々の産卵のほか動物性の食材を山野に求めるようなことはなかったが、向こうからやってきた食べられそうな生き物は何であれ捕らえて調理する癖があった。囲炉裏端の間食で付き合わされた蛇や蛙の蒲焼や雀や鶫などの焼き鳥や昆虫食なども多分そういうことだったのだろう。夏休みの日課みたいだった孫の釣果の雑多な川魚それぞれに見合う前処理と調理法で夕食に供された。働かざるもの食うべからずというより、働きかつ食らうものとしてのいのちの働きからなる公界を実践して見せてくれていたのだろうか。

 今となってはグーグルマップの航空写真でどこからどこまでが山崎町か宮崎町だったか定かじゃないが、町内の獅子方若連衆の踊り子の一人を勤めさせられた時期があった。とりあえず目立つのさえ我慢さえすれば春の祭礼当日に小学校を大っぴらに休めるという具合だった。おそらく祖父の差し金と母の賛意に背を押されたのだろうが、例年巡っていくる夜毎の稽古初め、中入り、打ち上げまでの通いは短期で終わった算盤塾より馴染めた。八幡宮に奉納した後の獅子舞の戸別訪問は祭りの出し物という感じなのに、なんとか踊り子の勤めを終え隊列を組んで帰る夕暮れの道中を飾る笛や太鼓がなんだか村の通過儀礼のように踊り疲れた身体に響いた。性に目覚める中学生半ばで抜けてしまい、祭礼の打ち上げ後に未婚・既婚の若衆が習慣化していたような花街通いを体験するまでにはいたらなかった。

 石動町を流れる小矢部川の近くに村人が訪れる婚外性交公認の場があるのを知った中学生半ばで「赤線防止法」なるものができた時には、なんとなく家業の精米所で捕まったゲタ履き米泥棒のことが思いかえされた。遊興費欲しさの再犯を予想して精米所で待ち構えた祖父と駐在巡査に捕まった愚かさより、長男でないと嫁をもらって家族を営み難い村の次男坊以下の性生活の切実さがあからさまだった。祖父にとっては夜半前にゲタ履きでやってきたような近所の男の若気の至りといったところだったのだろう。山間の農家の次男坊として育ち、尋常小学校を終えたら奉公に出されざるを得なかった祖父にとっても、故郷に出戻って嫁を娶り家を構えるなんて並大抵のことではなかったであろう。

 大阪での奉公の年季明けUターン先を山深い松永の実家より里寄りの親戚筋が住む埴生を永住の地として暮らし始められたのは、村人からの有形無形の生活上の協力や便宜などに恵まれてのことだろうが、新しく家を成す縁談はどのように祖父の元へ運ばれたのてきたのだろう。嫁の出自はとにかく、新婚夫婦には家作料や宅地や田畑となる耕作地など借用の便宜を図ってもらったことだろう。だが村に根を下ろして子孫を絶やさず、家を維持・継承していく営みも、まだ幼い一人息子を残して逝った嫁の死で中折れしたようで、仲人を立てた婚姻を正式とする当時の婚姻規制に棹さすような「馴れ合い夫婦」の影を匂わせながら、その後を生きとおしたようだ。

 囲炉裏端での家族の噂話などから「朝鮮生まれ」を聞き知ったのであろう村の悪童から“ゲイシャの子”などと揶揄されたりして合点がいかないこともあった。後知恵で植民地を女性に喩えたりする「宗主国」の風習から朝鮮生まれを言挙げされたのに気づき、祖父の亡妻が芸者あがりだったことも考えあわせ、幼少期の父が京城へ移住して殉職する前の埴生で受けたかもしれない“イジメ”をより身近に感じた。また若い未亡人として引き揚げ住み慣れたはずの母が時おり晒される村の男衆の視線が気になりはじめ、「父性」の不在と相まって「母」と「女」のあいだで揺らぐ「母性」の実在が陰るようだった。

 年を取ってからの出産を恥じるような村の風習のなかで、男やもめとなった祖父は朝鮮総督府勤務の一人息子の縁談をまとめあげたわけだが、なぜか年頃になった孫二人の縁談などこ吹く風のようだった。それでいて孫に訪れた男女の縁は何も言わずに受け入れ、姉の結納の義には同席しても結婚式には出なかった。結婚前の息子が京城で花街通いをしたりしていたとしても祖父は何の咎めだてもしなかったであろう。孫が話した山中で出会った鼻欠け老婆については「おそらく梅毒にやられた夜鷹の婆さんだったんだろう」と事も無げだった。

 祖父は毎年歩いて出かけていた実家の松永のお祭りには、家族の誰一人として誘うことはなかった。覚えているのは、お正月の和倉温泉や、春の石動町の祭礼や、諏訪神社での鏡里が横綱だった頃の大相撲巡業など。近郷で素封家の家財が売りだされる市にも同行させられたが、姉や母はいつも蚊帳の外だった。埴生の祭りには松永の祖父の実家だけでなく、母の高儀の実家からも客人を迎えていたのに、高儀のお祭りに出かけるのはいつも母子三人だけで祖父が加わることはなかった。田舎料理が上手で「昔話」の宝庫みたいだった高儀の婆さんとの添い寝の記憶が、訪れることも途絶えた母亡き後の実家を象徴するようだ。

 お祭りの御膳ともなると、赤飯から何から何まで祖父が腕をふるって采配し、母はもっぱら手伝いに終始していた。家の外でも冠婚葬祭の仕出し料理を頼まれ腕をふるったりしたようだ。また虚弱な孫を気遣ってか、八目鰻の干物や蝮酒のほか、囲炉裏端でイナゴやカエルやモグラそのほか焼いたものなどいろんなものを食わされた。長じて中学生の夏休みの晴れた午後の日課だった川釣りの獲物や、里山で怪我していたのを捕まえた山鳥など祖父は待っていたみたいに調理したり、いつどこで料理の腕を磨いたのか疑問だった。とにかく食べて、消化して、排泄して暮らす老・幼がお互いの存在を認めあっていたような炉端での場面のあれこれが埋まった囲炉裏の灰も、我が家の糞尿とともに行き来した輪作田畑に撒かれ、鋤き込まれ、分解してしまったようだ。(2021年7月26日公開)

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続・本の一言:街道と民家(5)

           《陽が照って鳥が啼き
            あちこちの楢の林も
            けむるとき
            ぎちぎちと鳴る汚い掌を
            おれはこれからもつことになる》(宮澤賢治/春)

 玄関を入った土間が茶の間の所で狭い通路となり、囲炉裏や座敷や縁側を右手に土足のまま背戸まで抜けられるようになっていたが、家屋の老朽化が目立ってきた1970年代のはじめに床や梁などの補強修繕の際に用済みで塞がれ、縁側の手前まで板張りの廊下になり、囲炉裏横の薪入れ箱の置き場所が消滅したあとあとまでモヤモヤくすぶり続けた出来事があった。

 夕食後の囲炉裏端、祖父に薪で殴りかかった中学生の自分を、背後から叫びながら締めつける母の腕力で抱きとめられたことがあった。その時にかぎって、いつもの母に対する打擲に我慢がならず、とっさに身近な薪箱から掴み取ったのだろう。「それだけはやめて!」の叫びに我が身が金縛りになって身動きならず、震える眼前から瞬きもしない祖父の眼が望遠レンズのように遠のいた。後先のことも忘れてしまうほど一瞬の出来事だったろうに、まるでスローモーションの光景のように記憶に残った。いじめっ子に向かって履いていた下駄をひっつかんで振り上げた場合と違って、祖父と一緒に薪割りした一本を凶器に、狂気の沙汰におよんだ事態から引き離された自分に茫然自失した。祖父に何を言われ、どんな反撃を食らったか、前後のことはまったく覚えがないのに、取り返しのつかないことをやって我にかえった違和感が寝つかせてくれない夜になってしまった。

 部活で剣道を始めた頃だから、竹刀だけでなく木刀や軍刀も茶の間にあったはずだが、「殺意」どころか何の見境もない行動をやってのける自分に出会った驚き。中学校の廊下の陰で苛めっ子から血が出るくらい殴られても、「肥後の守」の折り込まれた刃を伸ばし布切れと針金で巻いて隠し持ったまま何の手出しもでき[し]なかったののとは違う。
 老いたりとはいえ田畑仕事や山仕事を生き抜いた持ち前の技で虚弱な中学生の孫の不意の仕掛など一捻りだったろうに。山道で遭遇した蝮など、素早く拾った棒で一撃し、素手で引き裂いて持ち帰ったり、登っていた柿の木の枝折れで落ちる躰が串刺しにならないよう捻りながら杭と杭の間のぬかるみで躱したこともあった。鎌や鋤や鍬や斧や鉈だけでなく、大工道具などの扱いに力みがなく、長時間働いても疲れを見せないのが不思議なくらいだったが、そのうちまる一日働いたら翌日寝込んだりする老い姿を見せはじめた。祖父亡き後に晩年の母が庭の草むしりに入れ込みすぎたみたいに玄関に倒れこんで這い上がる姿に、我が家の〈老い〉の解体と再生に居合わせる思いがした。

 囲炉裏端での出来事から10年ほど経った半ドン上がりの図書館を後に、バリケード封鎖された富大正門脇を出たところでの「交通事故」体験。青信号T字路交差点の横断歩道上で右折車に撥ねられた一瞬も、その場にいない〈母〉に呼び止められた記憶として残っている。
 とっさに避けようも無く跳ね飛ばされ倒れこむまでに、走馬灯のように幼児遡行記憶が渦巻く渕を「お母さん!」が木霊す響きの漏斗に墜ちたようだった。呆然としているうちにぶつかってきた乗用車で近くの整形外科に運ばれ診察を受け、打撲と擦過傷で済んでよかったねと言われた。メガネは行方知れずのまま、頭に傷はなく左胸に腕時計の跡が痣になって残っていた。対向車線側へ逃げたみたいに、ちょうど赤信号で止まったトラックの前で左腕を胸の下に、右手で頭を抱えるように転がったのだろう。右手が外へと向かい、左手が内を守るように、とっさに心臓と脳を守るかのような身のこなしができていたのは、潜在的に身体が受け継いできたものの発現だったのだろうか。それまで虚弱で運動オンチの自分しか知らなかったのに。ぶつかる肉体意識が薄らぎ、無意識が身体から飛び出したような状態だったからこそ、あんな防御姿勢になったのだろうか。柿の木から落下した祖父が杭を避けて当たりどころを変えたような身の躱しとは次元が違うが。

 座敷で昼寝から覚め、タバコ盆を傍にあぐらをかいた祖父が煙管タバコを燻らしながら、縁側に広がる庭越しに何を眺めていたのだろう。なんとなく近づきがたかったあの後ろ姿の感触からかなり遡った母の実家の夏の縁側での母方の祖母との昼下がりの添い寝の感触まで。田舎暮らしのエアポケットにはまったみたいな〈異界〉体験が語り種になったり。男と女の距離感の違いなのか、祖父の語りは黙したままで祖母の語り口だけが懐かしい響きで谺すことがある。時と所を隔てて、夏場を過ごす祖父のほとんど裸に近い普段着姿と呉服屋から頼まれた着物を縫う母方の祖母の和裁姿が、幼少時に行き来した田舎のイエの対になった情景の一つだった。

 母の実家の泉水と築山に面した座敷の縁側ではなく、居間の縁側に茣蓙を敷き、青田を渡り屋敷森を抜ける風が、腰巻き姿の母方の祖母の昔語りの頁をめくるうちに、二人とも昼寝に落ちた夏休みの昼下がりのひととき。
 母方の祖母の物語を強請れない時など、庭でトンボ釣りをしたり、魚を捕まえたり、雨の日は埃まみれの古道具屋の物置きみたいな2階で薄暗闇を探検して見つけたSP盤を片っ端から手回し蓄音器に載せて聴いてみたり。とにかくなんにもなかった埴生の我が家とはケタ違いで暇つぶしのネタに困らなかった。手に馴染むような本は見つからなかったが、母方の家族が時々読んでいた『キング』や『リーダーズ・ダイジェスト』が雑誌の読み始めになった。

 はじめての本といえば埴生の茶の間で手にした松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(羽田書店)の上・中2冊だ。母が京城から持ち帰ったものではなく、奥付には昭和21年7月発行とあるから引き揚げ直後に石動町の本屋で子ども二人が喧嘩しないよう買い与えてくれたのだろうか。祖父の手擦れ跡を残す和綴じの『経典』ほどの破損はないが、数度の引越しを経て座右の賢治本となっている。帽子をかぶり手をコートのポケットではなく後手に組んで俯き加減に野に立つ姿が際立つ上巻の目次の「やまなし」「貝の火」「オッペルと象」、そして歩行感を留めた「岩手公園」で終わる中巻の目次の「風の又三郎」には当時の鉛筆でつけた印が残っている。「童話」や「詩」にとどまらず「劇」や「歌」まで、盛り沢山に〈心象スケッチ〉なる電信柱に連なった列をたどり歩いた勢いが、手元にない『下巻』探しではなく、小学校の「図書室」へと向かわせたようだった。

 埴生の神社や寺の境内や小学校の講堂で、秋祭りの余興の芝居小屋が掛かったり、映画が上映されたりしていた秋祭りの晩に不思議な体験があった。邦画の現代物の筋が分かりづらいつまらなさから、一緒に見ていた母や姉を後に先帰りした。家並みに挟まれ街灯のある街道ではなく、通学路として通い慣れた農道の暗闇をたどって我が家近くの街道に出たらなんだか辺りが暗くシーンとしていた。手探りで潜り戸を開け、おそるおそる家の闇に忍び込むように下駄を脱いだ。留守番の祖父や祭りで訪れていた母方の祖母の気配がどこにもない暗闇をかき分けるよに手を前に伸ばし、足元を確かめるように奥へと入るほどに、何が何だかワケが分からず、何度も「おばあちゃん!」と叫んだようだ。目を凝らしても何も見えず、だんだん怖くなってきたらいきなりパッと明かりがついて、祖父は座敷で、祖母は茶の間で何事もない様子だった。

 その場でへたり込んでしまって、二人に何をどういったか覚えがない。なんで「じいちゃん」ではなく「ばあちゃん」を連呼したのか自分でもわからなかった。帰った母や姉に何を言っても、チンプンカンプンだったろう。「神隠しにあったんじゃ」が祖母の感想だった。
 我知らず闇を弄っていたいた自分の姿勢が、なんだか獣みたいな四つ足歩行から立ち上がったみたいな感じだった。上半身の前方に両手を泳がせた手触りはなんだったのだろう。何かを見透かそうとしている目玉の感触だったのだろうか。明るさのもとではやったことのない動きをしていたようだ。発育不良で四つん這いから立ち上がるのが遅かったようだが、二足歩行になっても頭では考えられない動きの姿勢が発現する場に居合わせた気がした。目に頼れない状態での手足の動きは、そうでないときの運動条件と異なって、より動物的にならないと通用しないようだった。

 小学校低学年の「体操」の授業で、輪になった左回り歩行行進の列からつまみ出された何人かと一緒にグランドの中ほどを歩かされたことがあった。先生が外側の列に向かって何を説明しているのかわからず、自分も手足がバラバラになったぎこちなさで歩きを見失いそうだった。運動会でもお手本になるような動きは何一つできない生徒だったが、外周と内周とに分けられて歩かされた差異から自分では意識し[でき]ていない身体/肉体の動きの違いを考えさせられたようだ。「虚弱児」にも「健康優良児」にも行き着かない〈身体性〉を認識したり、把握したり、その区別もできないままに。

 身近な歩きや身のこなしのお手本といえば祖父の日々の姿であり、天秤棒をしならせるように水桶や肥桶を運び歩く拍子についていくのが面白かった。畦道や山際の上り下りを半身になって、ときにわ左右の肩を入れ替えたりして、いかにも身のこなしと歩きが一体になっていて、とても真似など出来ないと思わされた。「ナンバの身のこなし」など知る由もなかったのだが。
 とにかく体操の授業時間より、樹木が伐採され運び込まれた原木を加工する製材所を覗きこんだり、製材を大工さんが加工したり、職人が機械や道具を自在に操る身のこなしが面白く、見飽きることがなかった。おぼろげながら西洋式の歩き方と日本古来のそれとの違いに気付かされたのもその頃だった。中学で入った剣道部での構え方は、半身になって鍬や斧を使う身構えと地続きに思えたが足捌きだけは違うようだった。

 匍匐から立ち上がって掴み取れない何かを把握しようとしていた暗闇と、祖父と母方の祖母を見つけた明るさの落差のもとでくらくらしている自分の身体に出会いながら、その場の明/暗を感受した自分自身を家族に説明できないもどかしさは何だったのだろう。祖母の言う「神隠し」が、何を何から隠すというのか見当もつかなかった。祖母から聞いた寝物語のほとんどが物の怪に「化かされたり」すことであったり、何者かから逃げて「迷子になったり」という、そんなふた色の主調音が幼ごころに巣くった〈あてどなさ〉に共鳴したようだった。家屋から畳や建具が取り払われて柱だけになった夏の大掃除の吹き曝し感が裏返ったような床下に迷い込んだ軒遊びの行き場のなさ。やがて民家の縁の下から神社の縁の下へと遠出をしたり、山に入ってコウモリ洞窟を見つけるなど、薄暗闇の手前で遊び途絶えたその先に街道を外れた祖父との里山歩きや母方の祖母と列車で訪れた門前町歩きが待ちうけていた。

 砺波平野に広がる散居村の西のはずれの母方の祖母の実家の前には生活用水の川が流れ、田畑を区切って伸びる農道に木の橋がかかっていたり祠があったりするその先はどこの街道に続いていたのだろう。埴生のような街道沿いの家並みの村とは異なる生活空間の広がりの山と里との間に寝物語で聞いた狢や狐や狸などの姿に託され語り継がれた跡が潜んでいたのだろうか。街道の主役だった馬や間道の主役だった牛が交差するような絵物語の世界から、義仲が戦勝祈願したという埴生八幡宮の佇まいや、牛の角に松明を点けて戦った倶利伽羅の源平古戦場の跡まで、語り継がれた物語から山川草木に分け入って植物や昆虫を採集したりする少年期の活字離れが、読むことから聴くことへ向かわせたようで、鉱石ラジオの組み立てから始まり、アンプやスピーカーの自作を通して放送やレコードに耳を傾けるようになった。

 祖父の小言めいた説教話や母方の祖母の昔語りにも間が置けるようになったが、それぞれが何気ないときに漏らす「なマンダブナマンダブ」や「南無阿弥陀仏‥‥‥」が身にまとわりつくように響いてきた。誰かに触れるとか、何かに触るというのでもなしに、生きつつある事を確かめつつあるように聞こえてきた。己の生き死にの前にも後にも世間は続いているという風に。若すぎて言葉以前の体験のなさと当てどなさをもてあますしかなかったが、それぞれ違った環境で育った二人がいつの間にか似た様な呟きを漏らしたりする土地柄に依存する環境とは何だったのだろう。

 小作農家生まれの幼少期を過ごした田舎娘が嫁いだ先の地主の家柄や家訓に馴染むように暮らしを重ねるうちに夫や長男を亡くしたようだが、二人の「遺影」を飾った部屋もなく、苦労噺の翳りを感じさせない母方の祖母の語り口に病死した家族のことだけでなく、親戚の大学生の冬山での遭難死や高校生の入山自死を悼む思いも溢れるようだった。父は埴生で生まれ京城で死んだように、人は誰しもどこかで生まれ早かれ遅かれどこかで死ぬ。幼少の頃から街道を歩いている老人の背後がなんであんなに気になって仕様がなかったのか。

 呼吸か念仏かもわからないように聞こえた呟きは老人の動作でも肉体でもない頭上の気配のようだった。それでいて足腰のしっかりした身体観を伴う日常の作業姿があった。真っ新な反物を裁断して縫い上げた和服も着古したら解いてそれらの布切れを合わせて新しく縫い上げて別物に作り変えられるのも、木造古民家の“再生”の仕事とに通っているように思えた。工芸品を新しく作るだけでなく、壊れた骨董品を繋ぎあわせたり、使い物にならなくなった別個の部品を寄せ集めて新たな一つの中古品にしたり、祖父も再生手作業が生活の一部になっていた。
 家の外での農作業だけでなく、日頃から庭と同じように里山でも手を入れて活かす自然の寄り道が生と死を繋いでいたのだろうか。その途上をいかようにも輝かせる命の働きを宿した身体の後ろ姿を街道で探していたようだった。(2021年10月24日公開)

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続・本の一言:街道と民家(6)

           「義母がとめにはいってくれなければ、私はなに
            をしていたかわからない。しかし義母がとめに
            はいった瞬間に、急に祖母が小さな老婆にかわ
            り、すべてが散文的に白茶けて、そのなかでい
            きり立っている自分がみじめに見えはじめた。
            義母は祖母にとりすがって必死に詫びながら、
            私にむかって『自分がなにをしようとしている
            かよく考えてみなさい。どうしても切るならわ
            たしをきってからになさい』というようなこと
            をいった。そういうせりふも私はなにかで読ん
            だことがあるような気がした。こういうグロテ
            スクな場面もどこかで見たことがあるようであ
            った。私は吐き気を感じて刀をほうり出し、自
            分の部屋に走って行って泣いた。尊属殺人未遂、
            傷害、感化院、というような言葉が頭のなかで
            ぐるぐるまわっていたが、そのとき私は自分に
            おびえていたというだけではない。なにをしよ
            うとしても自分の外側に網をはっている死んだ
            言葉にからめとられて、自分を理解させられな
            いことに絶望していたのである。」(江藤淳)

 学童期の夏休みに訪れた母の実家のお盆に、田んぼの一画にあった墓参りに連れ出されたりしたが、仏壇や神棚と同じように、埴生の我が家のものとは違って大掛かりな感じだった。一度も連れて行ってもらえなかった祖父の実家との違いなど知らず終いだったが、よそ様を訪れた際には仏壇に手をあわせる習慣みたいなものとして浄土真宗の雰囲気に馴染まされたような気がした。朝晩のお勤めを欠かさなかった祖父と一緒にお寺参りした記憶はないが、母の実家の祖母と訪れた別院の大きなな佇まいと親鸞法要など法会の声明や、手の込んだ巨大な木造建築を目の当りにした耳目の残渣に引きずられたみたいな様変わり。月忌参りに訪れる坊さんの話や忘れた頃にやってくる売薬さんの話がいつの間にやら聖と俗がごっちゃになったみたいに響く場違いな感じが面白かった。

 「いつも鼻柱にお天道様の陽が当たると思うな」などと祖父は、いったい孫に何を言いたかったのだろう。「天道」とは何か、誰の「鼻柱」なのか、両者が関わるとはどういうことなのか。祖父に問い返すこともできなかった。

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」、『宮澤賢治名作選上』の「序」と「目次」の間に挟み込まれたひとくだりを「世界ぜんたいが‥‥‥」と読み間違えたまま、収録作品の頁をめくっていった。虚弱に生まれついた日頃の身体感覚を揉み消すような初読の手触り。
 二疋の蟹の子供の「クラムポン」会話から始まる五月と十二月の谷川の底の心象風景が二枚の幻燈に映しだされた「やまなし」。急降下したかわせみが魚を捕える一瞬の音にはじけたり、落ちて流れて沈んで醗酵するやまなしの分解作用に寄り添ったり、〈蟹の泡〉が自然現象を繋げて点滅する心象風景。
 祖父と家族・親戚ぐるみでやった山田の田植えの合間に近くを流れる川底の石をめくって沢蟹を捕まえてみたり、見つけた木苺を片っ端から採ったり、里田と山田の感触の違いを足裏で感じたり、身体感覚の自然が賢治童話に溢れているようだった。

 小兎のホモイが溺れかかったひばりの子を助けたお礼に、ひばりの親子から宝珠を贈られて家宝としたが、ホモイの日頃の行いをめぐって明滅する「貝の火」を見護って一喜一憂、交叉する兎の親子の擬人化された視線の先に見えたものと見えなかったもの。
 「オッペルと像」では六台の稲扱機械の響きが、母方の祖母が寝物語に語る民話でも聞こえていたようで、働き詰めの像が繰り返し呟く「‥‥‥、サンタマリア」など、祖父や母方の祖母が漏らす「ナマンダブナマンダブ」や「南無阿弥陀仏‥‥‥」そのものに聞こえた。
 初読のざわつき感が忘れられない「風の又三郎」の嘉助は仲間とはぐれた山中の草むらで眠り込んでしまい、夢見の又三郎がガラスのマントと靴の出で立ちでキラリと空に飛び上がったところで目が覚める。
 連れだって水遊びや鬼ごっこに戯れているうちに空がにわかにかき曇り、降ってきた雷鳴混じりの夕立に急かされるように水から上がってねむの木の下に逃げ込んだが、逃げ遅れた三郎の耳に「どつどど どどうど どどうど どどう」ではじまるどこの誰ともわからない叫びが響きわたる。

 宮澤賢治の心象中に実在した「イーハトヴォ」ではあらゆる事が可能で、「人は一瞬にして氷雪の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花林の下を行く蟻と語ることも出来る。罪やかなしみでさへそこでは聖くきれいに輝いてゐる。」ような「ドリームランドとしての日本岩手縣である。」と記された「序」の前頁を飾る外出着の賢治が見ているのは街道ではなく耕作地のようだ。『宮澤賢治名作選』の下巻を母に求めたりしなかったが、その後も賢治本を手にするのを待ってたかのように、帽子に襟を立てたコート姿の宮澤賢治に立ち戻らされることとなった。

 街道の立ち姿といえば杖を手にしてマントに中折れ帽の祖父の出で立ちや、縫い物などの風呂敷包みを背に腰を曲げ加減で歩いていた母方の祖母から聞いたのだが、五街道に準ずる加賀街道にまつわる難所[親知らず・子知らず]を行き来した旅人話が忘れられない。母が語ってくれた家族三人引き揚げ時に制空制海権を失った対馬海峡西水道を航行中の揺れる連絡船室内の怖さにも通じるものがあった。

 亡夫の故郷の埴生村で祖父が稼業にしていた精米作業に勤しむ前の母については、まだ歩けない三歳男児を背に五歳の娘の手を引き、父の遺骨を胸に敗戦直前の植民地朝鮮からの引き揚げ旅姿。姉と違ってまったく憶えがないはずなのに強い印象として残っている。着の身着のまま京城の朝鮮総督府の官舎から持ち帰った父の遺品には制服・制帽だけじゃなく軍刀まで含まれていた。

 仏壇に置かれた小さな遺影では、制服・制帽に白手袋の父が手にしているのはサーベルだ。「父さんの左足の靴の踵が片減りしてしょうがなかった」と母が語ってくれたが、朝鮮総督府に勤めていた生前の父には左腰に吊るしたサーベルの鞘を振り放つような歩き癖があったのだろう。ちなみに朝鮮語の使用が禁止された統治時代を描いた韓国映画の『マルモイ:ことばあつめ』[2019年製作の作品の背景は1941年前後の京城]で朝鮮総督府の警官が携行していたのは警棒や拳銃や小銃だった。
 サーベルは殉職時に朝鮮総督府に返納させられたのだろうか。当時の植民地朝鮮は昭和天皇の直轄だったから、おそらく下賜品だったが故にかけがえのない遺品として母が持ち帰ったのは、日本刀を作り直した「式刀」ということだった。剃刀のようには紙も切れない刃先の仕立てだったが、鞘から抜いだ「軍刀」は本物そのものの見応えがあった。錆のきていない刀身の波模様が晴れた日の埴生から見渡せる立山連峰のシルエットみたいだった。刃文に天皇制の影がまとわりつくような代物に思えなかったが、埴生に引き揚げておちついた母を村の婦人会による立山[雄山神社参拝]登山や皇居の勤労奉仕に行かせたりした祖父の姿が普段とは違うように感じた。

 入学時に130cm、30kgに満たなかった中学生が剣道部に入って初めて竹刀を握った。軍刀を抜いて構えたりしたことのあった身体には奇妙な違和感が先だったようだ。ほどなく小遣いで買った木刀を振ったりするようになったが、長さや形が「軍刀」にそっくりなのに刀身が抜き差しできないからといって、抜刀や納刀を試そうにも非力な中学生に「軍刀」はとにかく重すぎた。とても斧や鉈のように扱える気がしなかった。どんな儀式に使われたのか分からないが、刀身も外装も「式刀」にふさわしい美品のようで、刀身を鞘に収めたときにカチッと駐爪がロックする音がたまらなかった。透かしがない金鍍金の鍔が綺麗なのに、なぜか鉄鞘の感触に馴染めなかった。50年前に28年間住み慣れた埴生から高屋敷へ引っ越しを任せた母が父の遺品の軍刀だけじゃなく、息子が使い古した木刀や竹刀まで運んでくれるなんて思いもよらなかった。あれこれ調べて刀身には陸軍受命刀匠で大業物の「岡田兼義」なる銘が彫られているのではという見当がついたが、竹刀のようにバラして確かめたことはない。

 虚弱なだけでなく体格差もあって身が入らない部活から帰って一人悶々とすることが多くなったとある日の午後、母と諍いになった。いわゆる反抗期にありがちな台詞を吐きだしてしまった後ろめたさ。「産んでくれと頼んだ覚えはない」なんて言うも愚か、この世に存在してしまったからにはどうしようもないことを失念した戯言に母は黙ったままだった。
 親と衝突する前にすでに生きてしまっているから「何のために」は不問にされざるを得ず、生身から悔恨を抜き出された鈍刀のようでどこへも切り返せなくなった。振り上げた斧には薪割り、払う鉈には伐採、というように抜き身の身体は存在していない。

 揺り籠から墓場までを抜刀と納刀に、抜き身を生涯に擬えていたのかもしれない。「軍刀」を振り上げたら落とすだけなのにその前後が気になって身動きならない。抜刀から納刀までの身体の捌き方が刀の通り道を創りだすのであって、刀がどう身体を動かせば良いかを教えてはくれはしない。部活では竹刀を、家の裏庭では木刀など、振れば振るほど〈素振り〉の意味が分からなくなったようだ。剣道部員が少なくて団体戦の先鋒か大将のいずれかで対外試合に臨まされたが、小手で一本取ったら場外にならないよう勝ち逃げ狙いも外れてばかり。個人戦でも小手一本槍だったが、ほとんど負けてばかり。それでも部活はサボらず、暑中稽古や寒稽古では稽古参加者が自発的に、学校裏の夏草を刈ったり校門前の通学路の除雪までやったりした。

 埴生を抜けて石動町と結ばれた街道を数キロ歩いて中学校に通ったが、雨風や吹雪のときの途中で家並みが途切れた通り抜けが小柄な体に厳しかった。雪に埋まった下草径を探すような藁で編んだ深履の感触がやがて汗ばむゴム長にとって変わった頃、履物がどんどん変わっても「道」はそんなに変わらないようだった。街道の両側の建物や土地の所有権がめまぐるしく変化しても、そんな風景をつなぎとめる「道」があって、そこを歩く人の様子は「昔ながら」をくりかえしていたのだろうか。立ち上がって「歩く」をくりかえしくりかえししながら、人は古人の生を追体験しようとする。古文書や古民家を見て在りし日を思いめぐらすのとはちがい、同じ道を〈同じように〉歩くことをつうじて、人はその時代の通り道を一人歩きできるようになるのではないか。祖父の「天道を知るには本など読むな」とは、人間を含めたこの世界の自然全体を掴めと言いたかったのだろう。古きを尋ねて新しきを知るように生を活かす暮らしそのものが稽古じゃないかと気づかされた。

 いじめっ子が志望しないのを見越してだが、母の実家に近い駅から一駅手前の総合高校の普通科への進学後も剣道を続けようと思ったが担任から止められた。文武両道どっちつかずの生徒にしか見えなかったらしい。山岳系の部活など母はもってのほかだった。たまたま同校のラグビー部員だった農業科の先輩の弟から県西部の低山登山に誘われ、なんとなく家族の目には里山や裏山歩きの拡張みたいに映った山歩きが剣道を遠ざけたようだ。ただ〈何か〉を〈稽古〉したいという気持ちは消えなかった。

 田舎の街道を離れて知らない道をたどって高山を目指す物珍しさに加え、どの山に出かけても当たり前のように登山道が開かれているのが〈古き〉を辿りながら〈新しさ〉に至る〈稽古〉の身体感覚を下山してからの実生活にどう活かせば良いのか迷い道に踏み込んでしまった。槍から穂高への縦走に出かけた初日の飛騨乗っ越しで動けなくなった昏睡状態から気づいた一瞬、いったい自分がどこでなにをしているのかわからなかった。起こしてくれた同行のSさんによれば、好天で日没にまだ間があったから寝かせたままにしておいて、ひとまず二人分の荷物を槍の肩の小屋まで運んでから迎えに戻ったという。しばしの昏睡で体力も回復し、屈強で優しいSさんに担がれたりせずに槍の小屋までたどりつけた。その後富山市内の五福キャンパスから高岡市内の中川キャンパスへの配置換えから出戻ってSさんを訪ねたらこの世からいなくなっていた。二人で槍穂高縦走途中の悪天候から避難下山してから間をおいてのこと、Sさんは傘をさして雨の帰り道を歩いていて、背後から来た車にはねられ亡くなられたとのことだった。

 母方の祖母が哀悼していた親戚の高校生が自死した医王山は経験者と同行したが、同じく大学生が冬山遭難死した赤谷山に至る夏の早月尾根筋歩きに初心者と連れだって出かけて霧に巻かれ迷ってしまった。登山路に沿うように潅木に張られたロープの高さが冬場の積雪を忍ばせ、赤く結び垂れた布切れが安心・安全の目印だったのも束の間、みるみるうちに乳白色の霧がとり囲むように湧きあがってきた。帰り道のために新聞紙をちぎって足もとに撒きながら登るうちに目印どころかお天道様も分からずあやふやな方向感覚に立ち迷うしかなかった。まったく風もなく、登ってきた道を引き返しているつもりがリングワンデリングに嵌ったようで時間の経過も分からなくなってしまった。

 夜間短大の同窓生に請われた日帰りトレッキングの初っ端の出来事だったが、とにかく山麓の終バスに間に合うよう聞こえてきた谷川の水音に導かれ、道無き急斜面を膝あたりまで埋まる枯葉を踏みしだき、持ち合わせたナイフが役立たないような藪漕ぎをしてなんとか麓の明かりが見える場所に出られた安堵感が忘れられない。祖父の云う「お天道様の陽」を見失ったような出来事で、水や携行食の不備だけでなく鉈みたいに使えるナイフの持ち合わせなども反省しながら川筋をたどりくだって事なきを得た。帰宅が遅くなったわけを家族の誰にも話さなかったが、濃霧で分からなくなった尾根筋を引き返さずに水の音を聴き分けて下る流域にたどり着けたのは誰かの導きがあったからだろうか。

 その後も春から秋にかけての日帰り独峰登山ルートからやがて梅雨明けの縦走登山ルートへ脚を伸ばすようになり、自炊テント泊登山から点在する峰々の山小屋泊まりへと、縦走期間が延びた高所暮らしで下山してからの体調が変わる身体感覚に励まされるように冬場の立山山麓スキーも習慣化した。夏バテ体質で細った食欲が夏山登山で回復する様子に気づいた母は息子の山歩きに良い顔も悪い顔もしなくなったが、続けようにも職場の製本運び中に突発したぎっくり腰による痛みが慢性化して運動どころじゃなくなった。
 祖父は手足の関節の痛みをまぎらすように、歳をとらないとわからない痛みがあるからその時々を耐えるしかないというふうだった。飛騨乗っ越しでの体調不良は登山前の食い合わせか何かによる内臓の変調による一過性のものだったろうが、平地での筋骨格系の不具合による慢性的な腰の痛みは体内自然のなせるひとつの不調過程として抱えこむしかなかった。
 ひどい時は30分も歩けず、刀どころか箸の上げ下げまでも苦しくなったり、なんとか〈腰痛〉をやり過ごすような体の使い方を探し歩くみたいに、職場の昼休みに近くの整形外科に通うようになり、日によって11時間も続いた小屋から小屋への変幻自在な山道歩きが遠い夢のように思えた。
 腰の痛みが治まって直ったようでもいつなんどき身動きならなくなるかわからない原因不明の不安感から身体の予防運動として職場の裏のグランドを走ってみたが一週間と続かなかった。生え抜きの金槌とは知らない医者には水泳を勧められたが、とある日の昼休みにのぞいた職場の横の体育館でバドミントンラケットを握りはじめた。
 登山から遠ざかることになった身体的要因が持病化した腰痛のほかにもあった。ときおり排便時に痛みを感じるようになってほどなく、通勤時の列車や職場で座っているのも辛くなり、泌尿器科の診察を受けたら遺伝性の脱肛ということで即入院し手術を受けることとなった。祖父や母に訊いても家系に該当するものはいないとのことだったが、術後も便秘時の排便出血が度重なるような痔主となって、植民地朝鮮で父と死に別れた三歳児の空白のままだった父の面影がなんとなく体質的肌触りをともなうものになった。(2022年1月30日公開)

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続・本の一言:街道と民家(7)

           「うまく言えないのだが、私たちはすでに、いのち
           と共生しているのではないだろうか。人が生まれ、
           そして生き、子を作り、死ぬという変化は、根本的
           には、意思や努力や感情といった人間的な事情とは
           関係ないところで起こっている。いのちは自然の営
           みであり、それと並走することはできても、所有す
           ることはできない。生まれるとは、いのちの流れに
           ノることであり、死ぬとはいのちに追い越されるこ
           となのではないか。私たちはすでに、思い通りにな
           らないものとともにある。
                (伊藤亜紗/胎盤とバースデーケーキ)

 母方の祖母だけでなく祖父も亡くなってからだが、在りし日の立ったり歩いたり座ったりなどそれぞれの立ち居振る舞いが不断の稽古姿みたいに透けて見えたりするのは、それだけ自分が〈老境〉に近づきつつあるからだろう。だからと言って〈死〉が近づいたとも思えない。
 おくればせながら歩けるようになった就学前のある朝、あたりがざわついている近所の雰囲気に誘われるように家人の後について入った一軒置いて隣の家の炬燵で生気のない女の子が横たわっていた。思わず頬のあたりに手をだしていたが、何にフれたのか、サワったのか〈実感〉がなかった。引っ込めた指が〈怖さ〉で震えることもなかった。祖父や近所の人が手伝った「葬式」の後になって、伝え聞いていた父や実家の祖母の家族以外の「死」を、はじめて恐れるように身近に感じた。

 同級生とつるんで遊んだりすることの少ない中学生だったが、収穫の秋に砺波の大工[棟梁]のおじさんがひょっこり埴生の我が家を訪れ、富山と石川県境の倶利伽羅山あたりに連れ出されたことがあった。あいにく祖父は不在で山葡萄や茸に不案内な孫が同行せざるを得なかった。おじさんが運転する軽四トラックを山道の傍に乗り捨て、たがいに離れ離れになりすぎないように緩やかな雑木林の斜面へ分入った。あれこれ探すうちに眺望が開けた端の潅木に絡むアケビの蔓を見つけるまではよかったが、たわわに熟した実を見上げながら寄せた体がいきなりスポッと沈んだ。左右両脇がヤマツツジの茂みに引っ掛かっただけで足が地についていなかった。こわごわ俯いた足先に地面はなく、落ち込んだ粘土混じりの土砂崩れ跡の先に瓦礫しか見えなかった。助けを求める声も出ず、宙に浮いてるヤマツツジの崖っぷち側の枝をびくびくしないようにそっと両手で引き寄せ、なんとか身を崩れ残った崖っぷちに届かせた。冷や汗と無事に切り抜けられた思いが鎮まってから何気ない振りを装っておじさんに合流したが、何をどれくらい採ったのかもはっきりしない上の空状態で山を降りた。

 家に帰っても内心が落ち着かないものだから、ヤマツツジの茂みに引っ掛からなかったらすりぬけおちてどうなっていたか分からなかった事態に気づかなかったおじさん同様、家族にも話せなかった。
 低木に両脇が引っ掛かった枝葉の隙間から見えた、真下の赤茶けた土砂が崩れ落ちた底の瓦礫からの高さに、息が止まらんばかりの声にならない身の震えが張りついた光景が夢に現れるようになってしまい、いつの間にか爪先立って縁側から覗き見た三歳児の最初の記憶だった富山大空襲の夜空の夢を見なくなってしまった。
 墜落夢から醒めるたび、見下ろした底の瓦礫が柔らかい堆肥みたいな腐葉土だったらとか、命綱を持ち合わせていたらなどなど‥‥‥取り留めのない想念が浮かんでは消えるように、いきなり足元の感覚が取り払われた恐怖に浮いた身体感覚も薄らいでから、ようやく台風の集中豪雨による土砂崩れ跡の茂みに遭遇した吹けば飛ぶような虚弱児の軽さと弱さにも助けられた気がしてきた。

 祖父や家族と持ち山への往復で歩き慣れた間道からおじさんと一緒にちょっと逸れただけだったのに、地に足が着いている安心感と倒れたり堕ちることへの不安感の間で揺れ動く小心で臆病でしかない卑小な自分が打ち壊されたようだった。家庭内の祖父の打擲だけでなく家の外でのいじめ体験の裏でもひた隠しにしてきた逃げ道のない行き場のなさが、思い掛け無い〈死への恐怖〉に揺さぶられていっそう道無き道に迷い込んだ気分にとらわれるようになった。道に行き詰って前にも後ろにも進めなくなったら這いつくばってでも横に超えるしかない。小学高学年になるにつれてイジメがきつくなってきた頃だが、休み時間になると理科室だったかの図書コーナーの片っ端の本から手当たり次第に最後まで辿ったりしたが乱読にもならなかったようで『おくのほそ道』の感触しか覚えがない。

 街道を旅しながら言葉で景物を接写する老詩人の近寄りがたい姿以上に、軒端や庭の木に網を張る蜘蛛が網を張り上げる糸の順番や粘着糸とそうでない糸の繋ぎ目や、ヤゴや蟻地獄など道から逸れたみたいに変態する虫の姿かたちなどに気を奪われがちだった。

 小さい頃から気になった街道をゆく老人の後ろ姿のイメージからかけ離れた優柔不断なぼやけた自画像の前に座り込むような無為の部屋に面した街道の静けさ。砂利道を踏んで往来する村人の動きは少なくても重箱の隅を探るような視線は確実に米櫃の底まで届いている。家長を除けば家屋内での家族の居場所は流動的だったが、箸や食器だけでなく洗面用具なども家族それぞれ個別に使い分けられていた。庭の草むしりや田んぼや畑仕事の手伝いなどから天候だけでなく季節的に変化する身体感覚に目覚めたようで、移ろう遊び事だけでなく性的な関心も芽生えつつあった。たまたまいじめグループじゃない子どもの家の庭で遊んでいて「寝たきり老人」を見かけたりすると元気な祖父を嬉しく思ったが、「寝ていて人を起こ」したりしがちな祖父がなかなか起きてこない朝など、「ひょっとしたら」と案ずる家族の沈黙が晴れるまで気が気じゃなかった。

 中学に通うようになってから祖父の許しを得て縁側の戸袋がある片隅を毛布で仕切り、母が買ってくれた机と椅子を置かせてもらった。中古自転車を買ってもらった手前、毎朝のヤクルト配達は続けていたが、夏休みの小遣い稼ぎにやった柴[薪用雑木]担ぎや古綿打ち直し集配や酢の瓶詰めラベル貼りと木箱詰めそのほかはほとんど続かなかった。手にした小金で鉱石ラジ作りから管球ラジオ作成へ、深夜放送の物珍しさなど国内から国外へと受信電波の遠隔化にもすぐ飽きてしまった。英作文の練習相手に少年少女向け雑誌に掲載された海外ペンフレンド登録者数名に手紙を出したら英米独の三名から返事がもらえたのに当方の文通力不足でいずれも立ち消えに終わった。たまたま在日米軍向けラジオ放送で身体に心地よく響く音楽を耳にしたのがジャズの聴き始めだったが、まるで演奏者の身体の一部みたいに奏でられる楽器に興味を持つようになり、手当たり次第に音楽室にあった楽器に触らせてもらったりしたこともあった。

 本を手にしても祖父から咎められるようなことはなくなっていたが読書癖にはほど遠かった。息子の同級生に貸本屋の息子がいるのを知った母から指示された本の運び屋に徹して「貸本漫画」には手が届かず、中学卒業までに何冊運んだかわからないが三島由紀夫『美徳のよろめき』の一冊は男と女の関係妄想みたいな手触りがした。
 中学時代の自分が自意識から現実世界への潜り戸を跨ごうとしたように、出生地の京城から引き揚げ先の埴生にかけての幼少期に一つ目が、そしてどう思春期をくぐり抜けられるかが三つ目の関所みたいになって意識と無意識の断層が織り上げられたりするのではないかと。
 なんとか中学そして高校と歩き抜けてからのことだが、同じ著者の『午後の曳航』で洋装店を営む未亡人と十三歳の息子とその仲間らが母の恋人の航海士をめぐって織り成す不気味な物語を読み、蛹繭のような揺籃期と思春期の狭間で意識の来し方行く末の迷路で蠢く幼虫でも成虫でもない制服を着た爬虫類の変形譚を空想した。

 家にテレビはなくプロレスなど近所の農家の数少ない友だちの家で見せてもらえたが,独りで楽しめる小説や漫画など見聞きするものに先行する何故か作り物めいた不自然感が邪魔をしてただの食わず嫌いから抜け出せなかったようだ。
 映画館に入る余裕などなかったのに、たまたま『サムソンとデリラ』(1950年日本公開)を観て、小学校の理科室でナトコの映画で観た『オズの魔法使い』以来の感銘を受けた。燻る囲炉裡のように村の暮らしだけじゃなく学校でも逃げ場のない煙たさに辟易しかかっていた自分に風穴を開けられた気分に酔ったみたいな数日が不思議だった。

 中学のクラスでのいじめも陰湿だったが、体力や知力を身につけようとして入部した剣道部や放送クラブではいじめが無く続けたられたが消極的な受け身姿勢は相変わらずだった。
 滑り落ちそうないじめ関係の隙間で同級の男子生徒と懇ろになったり仲違いしてみたり、学年の違う女子生徒に憧れるようなことをしてみたり、中身と入れ物が合わないような心身の居心地の悪さで姉や母とも衝突しがちだったが、いささか体力が衰えつつある祖父に従う時節の畑仕事の手伝いが日々の和みの句読点にもなった。何事も不潔で窮屈にしか見えない年頃特有の視野の狭まりで昆虫や植物への関心も見失ったように勉強にも身が入らなくなり、祖父の目を盗んで手折った庭木などのスケッチや五七五の真似事を毎晩書き溜めたりしはじめたが破り捨てた感触しか残っていない。

 中学通学の行き帰りはおなじ街道筋なのに田舎家が軒を並べる埴生と多様な小商い店が向きあう石動町とでは大違い。貸本屋とおなじ並びの洋品店のハスキーな女子生徒とはたまに登下校が一緒になったりしたが、村中の街道筋でそんなことは起こりようがなかった。奇妙なことに小・中学期あわせて苛める側にまわった女の子には会わなかった。それとなく男子に気取られないように陰になったり日向になったり、見えない傘を差し掛けられるような気配に救われた場面は一度や二度じゃなかった。2歳年上の姉にいじめがあったかどうかはその気配も感じられなかったが、ほんとうのところはどうだったのだろう。
 小学校の休み時間に黄色いスカートが似合う転校生から『婦人雑誌』を差し出されたことがあった。埴生の街道筋の駐在所に転勤になった警察官の家庭で、埴生出身で敗戦間際の植民地京城で殉職した警察官とその引揚げ母子家族のことが話題にでもなったのだろうか。戸惑いながらも手渡された雑誌を家に持ち帰って見せた母に喜ばれたまではいいが、受け渡しの現場を見咎めたいじめっ子の格好のネタにもされた。

 敗戦後間もなく何らの縁故もなくて都市の引揚者収容所に引揚げてきた家族の子どもらは「外地から転がり込んできた乞食」(李淵植著・舘野皙訳『朝鮮引揚げと日本人:加害と被害の記憶を超えて』明石書店2015年12月刊197頁)と近所の子どもたちから嘲られたり、どこまでも“異種”扱いから逃れられなかったようだ。泣きながら帰ってくる子どもらを見つめる父母たちは植民地暮らしで「現地人を怠惰で、無能で、無知で、不潔で、無謀な抵抗だけに明け暮れる集団と罵倒した。その日本人が、敗戦後祖国に帰ると、同胞から全く同じ罵声を浴びせられたのだった」(『前掲書』201頁)。
 敗戦直前に埴生のような田舎に引揚げてきた家族には、「あなたたちは外地で良い暮らしをしてきたのだから、少しぐらい苦しい思いをしても当然だ」(同前)とばかりに、植民地から着の身着のままで本土帰還した普段着姿が地元にふさわしくないと見咎める視線が待っていた。

 隠しきれないほどの引っ込み思案だったのに、貸本屋と街道を挟んで指呼の距離にあった写真屋の娘とも同級だったよしみからか、買えもしないカメラを触らせてもらえるようになった。いろいろ教えてもらったりしているうちに貸してくれた白黒カメラで写したのが杖を手に作務衣を着て庭で微笑む祖父の立ち姿だったとは。
 母の死後に仏間を掃除していて何気なく開けた仏壇の引き出しの『教典』2冊の下から6×9cmサイズのモノクロ三枚を見つけ、なんとも言えない気持ちになった。中学生の孫が撮った自分のポートレートそんなところに仕舞い込んでいたなんて。戸の桟につかまり立ちして富山空襲を遠望した縁側やその手前の引越移植前の庭木の懐かしさの向こうから幼少時に祖父から受けた払拭しきれない何かが湧いてきて母や父の遺影のように写真立てに飾る気になれなかった。

 母とは違って「毎日新聞」と「教典」しか読まない祖父から「勉強しろ」なんて言われたこともなく、中卒間近な孫の就職か進学の岐路では、黙認するみたいに姉の商業科進学も弟の普通科進学も成り行きまかせ。貧乏家庭なのに祖父のような丁稚奉公や流行りの集団就職などは選択肢になく、母は修学資金制度を利用して高校に通わせてくれた。
 高校の学校林の下草刈りに駆り出された際、サボって桑の実を食べたりしているうちに迷って山の利賀村側に下りたあたりの農家の天井裏だったろうか。そこで飼われていた「おしなもんさま」の卵が「毛蚕」になって桑の葉を食べながら成長して脱皮し、自然下では育たない幼虫は養蚕家のもとで化蛹し、蛹繭の中で体が作り変わって脱皮した蛹になり、羽化すると自ら繭を破って成虫へ、まるで〈民家〉でうろうろさ迷っていてどこにも辿りつけない〈街道〉を紡ぎだしているような幻想に染まる八乙女山を後にした。

 高校へのガソリンカー通学にともない、埴生内の最小範囲に絞った毎朝のヤクルト配達に穴を開けそうになったときなど、近くの自動車学校で働きはじめていた母に配達を頼んで登校するような始末で、やむなく埴生のそれ以外の地域を配達をしていた近所の学生に引き受けてもらった。
 持ち山の管理だけだなく田植えから収穫までの年間作業など年老いてきた祖父は近くや遠くの知り合いに任せるようになって家族労働の機会が減少してしまい、日祭日以外は祖父と擦れ違い家族みたいになってしまった。
 家族連れで外出した頃の幼い目に焼き付いた北陸線の主要駅や賑わう街頭などで戦争で身体を負傷した“白衣募金者”を見かけなくなったのに、進学した県立高校では戦時中の軍隊で心身を負傷したような体育教師がのさばっていた。幸い担任ではなかったからぶん殴られたりしなかったが、全校集会で生徒に怒鳴り散らしたしたり手をあげたり、なすがままを黙認する校長や教頭をはじめとした諸先生の態度にも虫酸が走った。

 石動駅から通学利用していた旧加越線下車駅が乗り換え接続していた福野駅の城端線ホームから一駅と近くなった母の実家へは気の向いた放課後に寄り道することもあったが、その秋の午後はテレビのあった教室で日本シリーズ[大毎vs.大洋/1960.10.12]を観覧していた。いきなり野球中継画面が切り替わって、日比谷公会堂壇上で講演中の政治家[浅沼稲次郎61歳]が下手から駆け寄った若い男[山口二矢17歳]に刺されてよろめき倒れる映像に驚いた。もし体育教師に見つかって「用のない奴はさっさと帰れ!」などと学校から追い出されていたら見逃すところだった。学校が管理する秩序に縛られたような口先だけの自由からどれだけ〈無用の用〉がこぼれ落ちてしまったかだれにもとり返しがつかない。

 当時70代の祖父に比べて若く見えた巨漢[大学では相撲部や漕艇部に在籍]があっさり殺られるなんて信じられなかった。凶器の刃物は家にある軍刀の半分位の長さに見えた。握った刀身と一体になって体当たりするまでに17歳の少年はどんな道を歩んできたのかが謎めいて見え、高校の校舎で行き交う生徒たちにまぎれてなんとなく我が道を行く風な存在感を漂わす〈少年や少女〉を探し見るようになった。事件後の少年の自殺のニュース時にはぼんやりとしながらも母の実家で叔父さんに触らせてもらったことのある白木の鞘の抜き身の感触が甦った。

 実家の長男が病死して持ち上がりの長男だった三人の子持ちの叔父さんから母は物心ともに配慮してもらっていたようだが、進路を決めかねていた高卒間際の甥っ子の大学の学費の負担をかけるなどもってのほか。出戻った子連れの叔母さんが実家で同居していたから家計にはそれなりの余裕があったのだろうが、実父でもないのに生涯に負担を残すような面倒はかけられなかった。実家の祖母はそんな経緯を知ってかしらずか、昔語りみたいに“起きて半畳、寝て一畳。天下とっても二合半“などと茶化すように和ませてくれた。
 いち早く受験しておいた国家公務員の税務職員採用試験に合格していたのにいっこうに採用通知が来ず、縁故就職のあてもなく、クラス担任が勧めた地元の大学の教育学部受験の願書提出にも応じていなかった。戦中戦後の子育て暮らしをやってのけた母の心配とは別に、孫の将来の事など“面々のお計らい”みたいな祖父の存在が何ものかだった。(2022年4月16日記/24日Web公開)


続・本の一言:街道と民家(8)

            「その時期の友情のことを太宰は〈純粋ごっこ〉
            みたいなものだと言ってるんですね。〈純粋ご
            っこ〉とは人間と人間がお互いにどれだけわか
            るかということで言えば、もう骨の髄までわか
            った感じを体験できる時期なんだ、と言ってい
            るんです。つまり、世間的、社会的には通用し
            ない時期だからこそ〈ごっこ〉なんだけど、で
            も、心から自分以外の人をわかった、人間もわ
            かったというふうに思えるのはその時期しかな
            いんだとね。
             僕もそういう感じがしているんです。だから、
            この〈純粋ごっこ〉の時期を除けば、結局、こ
            の世は全部ひとりだよってことなんです。」
             (吉本隆明・聞き手 糸井重里「「友だち」ってなんだ?」/『悪人正機』)
            「以上のように、友だちとか友情を結論付けま
            すと、「じゃあ、人間は歳とともに、生きると
            ともに切なくなるんじゃないか」という意見が
            出てくるでしょうが、実は、その切なさみたい
            なものは非常に大切なことでね、なくさないほ
            うがいい感情なんですよ。
             普通の人間っていうのは、たいてい、幼い頃
            の友だちの存在を忘れたりとか、薄めたりとか、
            利害のことだけが先に来るとかっていうことに
            なっていきますからね。
             実際、その時期の友だち関係をずっと持続で
            きたら、文句なしで、それは本当に本当にたい
            したもんなんです。なおかつ、そういう友だち
            がひとりでもふたりでもいたり、利害とか生死
            とか、そういう際どいものも含めて持続できた
            ら、その友だちはその人にとって宝物みたいな
            もんですね。」(同上)

 総合高校普通科三年の時のクラス担任が卒業後の窮状を見かねて紹介してくれた金沢の税務会計事務所に通い始めたが、不埒な先輩の鞄持ちに我慢がならず、“出勤拒否”で応じた“不始末”の尻拭いを母にさせてしまった。若気の行ったり来たりみたいな紆余曲折を経てありついた大学図書館の仕事にも馴染めず、かといってプー太郎にも戻れない空白を持て余したみたいにラヂオで大学受験講座を聞くなど一年余り朝晩問わず机にかじりついたりした。そんな息子の豹変ぶりを母は持て余したようだったが、夜間の照明を消して回ったりするようになったりしていた祖父からは何のお咎めもなかった。

 一回しか貰わなかった税務会計事務所の給料袋はそのまま母に渡したが、それから数千円目減りした毎月の国家公務員「一般職」の給料袋も同様に扱い続け、年間小遣い銭として手元に残る夏と冬のボーナス袋の中身から学費貯金など積み立てる余裕もなく月日は過ぎた。いざ関西の国立大学の願書を取り寄せたり高卒の成績証明をもらいにいったりしているうちに、やっぱり“家計優先”しかなくなり、勤務先の附属図書館本館があった経済学部の併設校舎で授業が行われていた富大経営短期大学部(夜間3年制1959年設置〜1990年廃止)受験に鞍替えすることにした。遠隔地の志望学部受験を断念した余勢でたまたま仕事と両立できる学び舎に踏み入っただけで、特に学びたい学科や科目もなかった後ろめたさから必須も選択も履修できる科目の単位をすべてとったりした。小学校以来の“学校嫌い”だったのに、木造の教室に高校新卒者から中年の社会人まで集まってくる女性が少ない夜間学生がかもしだす雰囲気は悪くなかった。

 経営短期大学部入学手続きの際に学務担当から授業料減免手続きを勧められたが、その場でほかの入学生にまわしてくれるようやんわり辞退し、すでに高校の修学資金を一括返済してくれていた母には内緒にした。三年後に大学事務局から割り振られた富大卒業式での経営短期大学部代表答辞はどうあがいても辞退させてもらえなかった。どうにか書きあげた原稿を勤め先の和文タイプライターで清書してくれた母に、もう「答辞」は読んでもらったから来ないようにと断わっておいた当日の式次第は大学固有の序列で塗り固められていた。学長以下各学部長および附属各施設長の席順から図書館長は末席扱いと知った。

 埴生からぽっと出の偏見かもしれないが、表向きは“学問の府の中枢”などと言っておきながら、図書館長人事はどう見ても学内の学長や学部長への出世街道から外れた“名誉職”のように見えた。建物は経済学部の間借りだったし旧制師範学校蔵書数なども設置基準に含めた蔵書構成など素人目にも貧弱に映った。
 短大卒資格は「司書補講習」受講免除扱いだけで給与に反映されず、現職からの異動や転職ではなく手取り給与の特別昇級狙いで受験した「中級職採用試験」に合格したら、馴染みはじめた整理係での仕事現場にやってきた本部事務局の人事担当係長や出入りの大手書店の支所長から「図書館にいてもうだつが上がらないから」と引き抜き人事勧誘されたりした。

 5学部からなる地方の総合大学の図書館が受け入れる図書の整理の仕事は無学者にとって難儀だった以上に、なぜか横書きの学術書に違和感を感じた。図書の整理作業の前提となる横書き印刷された和・洋図書の分類のし難さを差し引いたとしても、判読し難い縦書きの和装本や漢籍にはなんとなく親しみを感じた。受け入れ図書の目録カードも横書きだったが、自分の手書き作成カードの筆跡が複製されて各種閲覧目録カードとして利用者に公開されるのが恥ずかしくて堪らなかった。やがて印刷カードの導入に続くコピー・カタロギングシステムの共同利用によって手書き目録カード作成にともなう気恥ずかしさは薄らぐことになったのだが。
 短大在学中の学友会の機関紙や10号ほどで潰れた「同人誌」の編集・発行に携わったりしても“書いたものを晒す”抵抗感から逃れられなかったようだ。数少ない異性との縦書きの手紙のやり取りだけは違和感がなくてよかった。面と向かって目を合わせながら話すのが苦手で、たまたま同じ道の通りすがりに肩を並べて言葉を交わすというような成り行きが気楽だった。

 十代から二十代への曲がり角の春先の気ままなローカル線乗り継ぎ一人旅の夕暮れ、岡山駅前の公衆電話から当夜の宿泊予約がどこも満室で断られて途方に暮れそうになっていたのを見兼ねてか、隣合わせの電話ボックスの女性から声をかけられた。真っ先に断られた国家公務員共済加盟宿を除きまだ未確認のホテルなど優しい声で問い合わせてもらったが空室はなかった。電話帳のページを閉じた彼女の指が回したダイアル番号の相手の了解を得て案内された岡山大学男子学生寮の一室に迎え入れられた。
 富山からの“風来坊”を紹介し終えた岡山市内在住のT橋さんは帰宅の途へ、一夜泊まりさせてもらえることになった熊本出身のS藤君には先ずは夕食でしょうと夕暮れ迫るキャンパス内の学食へと誘いだされた。路線バスが乗り入れているキャンパス風景がもの珍しかった。まさかの成り行きの宿泊に背中を押されるように宇高連絡船で四国に渡った頃から天候が崩れだし、翌日から予定していた瀬戸内海の船旅を諦め、満室でも断られたことのなかった山小屋旅とは違う都会の旅先での一宿一飯の恩義を土産に引き返えすことにした。折しも北上する桜前線に合わせたみたいにのんびり運行されるローカル列車を乗り継ぎながら。

 停車時間が長めの駅構内で特急や急行に追い越されたり、通勤・通学時間帯を外れた客車を出入りする地元の乗降客の会話を耳にしたりしながら、煤けた硬い座席に身を預けた初めての鉄道旅の帰路。山旅の時と同じように借り物の銀塩カメラで何処で何を撮ったかが朧げなように、二泊三日で終わった旅先の人との出会いや風物などは遠ざかるばかり。自分がいま・ここで揺られている鉄道路線を過去に遡った敗戦前、明治生まれの祖父は大阪での奉公生活の年季明けまでに、ともに大正生まれの父と母は海を渡った京城での植民地生活が[父の殉職で]途絶えるまでに、それぞれどんな思いで往復したことだろう。
 登ったり下りたりした山歩きがそうだったように今回は貧乏旅をしてみたということだけが取り得だった。働き始めた職場のアフターファイブや、夜学の放課後の酒場など、村では出会わなかったような顔や癖を隠し持った人たちとの付き合いから祖父に言い聞かされた「公界」の裏表を実感させられるような事柄も学ばされた。

 腰を落ち着けて「図書館職」をこなすにはどうしても「司書資格」を!ということで白山キャンパスの東洋大学でやっていた二ヶ月間の夏期司書講習に行かせてもらった。200名余の受講生のうち男性は30名ぐらいで夜間短大の講義に続く“特別集中講義”という雰囲気だったが、食欲も減退するような都会の蒸し暑さには参った。駒場で下宿していた大学生の従兄弟のアパートから巣鴨まで電車の定期券で往復した通りすがりに“街道”のイメージはなかった。縦並びでも横並びでもなくせかせかと行き交う人々の流れに右往左往しながら新宿あたりで途中下車してジャズ喫茶を探しては、日を改めて出かけたりした。黒いリボンがかけられたジョン・コルトレーンの肖像額に気づいて、お店の人に確かめたらビリー・ホリデーの命日と同じだった。

 司書講習期間中に“ジャズファン”とは出会わなかったが、講義で隣り合わせた山好きな山梨の女子受講生から手作り弁当をご馳走になったり、体操が得意な三軒茶屋の男子受講生に誘われてユニバシアード大会開催中の体操競技[東京都体育館]や陸上競技[国立競技場]を観戦したり、埼玉から通っていた大卒受講生には蕨市の自宅に泊りがけで招待された。壁いっぱいの教育関係の専門書だけでなくマルクスやエンゲルスやレーニンに並んで「吉本隆明」を見つけて話がはずんだが、ほとんど聞き役だった。「60年安保闘争」で吉本さんらと一緒に「敗走」を経験した早稲田の卒業生で、静岡で就職した「高校教師」を辞めてまで「司書講習」を受講する“本気”の人だった。

 田舎住まいの家計や生計のために生きる見極めもつかない中学生半ば、〈いま・ここ〉に在る〈自分とは何か〉に居ついてしまったような“自分”という身体を持て余すしかなかった。なんらの手応えも見つからないまま徒歩とガソリンカーで通い続けた木造洋館建ての高校の本館の風情に別れを告げて間もなく、いかにもにわか作りといった感の夜間短大の木造校舎に通い直したりしたが、先の見えない袋小路に迷い込んだようでなんとか生きている〈時・空〉の隅々まで見通せるような立ち位置の分からなさに焦りながら通勤(学)する北陸線の車内が読書の時間になった。
 1960年代半ばの吉本著作の全貌も掴みきれていない遅れてやってきた未熟な読者で“ジャズフリーク”の自分には、A面が詩集でB面が批評からなる膨大なレコードのトラックに針を降ろすように吉本さんの声と言葉を聴き漁るしかなく、初読の高鳴りだけでなく読後の隔絶感も伴う縦書き〈文体〉から身体に響いてくる射程の奥行きと広がりに魅せられたように引き込まれる手応え。
 〈読み手〉が生きつつある世界[当時の]情況の〈いま・ここ〉を呼吸している〈書き手〉の存在が書き記している先に目指している〈何か〉を追っかけるしかない。当時聞き漁ったジャズ[喫茶]レコードに負けない意気込み。高卒後から読み漁った中原中也や太宰治とは比べようのない惚れ方だった。田舎育ちの手にも目にも余る吉本著作をどこからどう読み込めばいいのか、その表玄関や勝手口もわからないままに。

 1966[昭和41]年秋の『文芸』(河出書房新社)11月号から連載された吉本隆明「共同幻想論」の第1回「禁制論」に、春先に亡くなったばかりの“実家の婆さん”から幼い自分が聴き馴染んだ昔語りの幾つかによく似た“山人譚”が引用されていて近親感が湧いたが、翌年4月号までの各「論」そのものの展開についていけず、数年後の雑誌連載を加筆訂正して後半に書き下ろし各論を合わせた単行本『共同幻想論』は、祖父が日夜頁をめくったよれよれの和綴じ『経典』とまではいかないが、布装ハードカバーの背表紙が判読できないほど剥げ落ちた手元の一冊になった。たまたま就職先が属していた日教組系の教職員組合に籍を置くことになった分会活動からはみ出すように夜学で知り合った「活動家」らが主導する反日共系の「街頭行動」にも「秘密裏」で潜り込んでまるで二足のわらじを履くようなだらしない自分の行動に行き詰まり悩んでいた、人間の生涯が逃れられない〈錯綜する三つの幻想的関係性〉について考える糸口が見つかった気がした。
 明治大正昭和を生きてきた祖父や実家の祖母には“御仏さん”[浄土真宗]が人生のよすがみたいだったが自分にそのような契機は訪れそうになかった。「人として悟りを開く」とはどういうことか?人とは何か、悟りとは得られるものなのか‥‥‥。毎朝玄関で母から弁当ではなく昼飯代を貰って歩いて[時には自転車で]石動駅へ、北陸線の客車にしばし揺られて降りた富山駅前から満員バスで職場へ通う毎日の繰り返し。

 埴生を抜ける街道が北陸線の踏切を渡って石動駅方面へ出る通勤途上で毎朝見かけた一軒家のガラスの入った格子戸や目の粗い木虫籠[きむすこ]を濡れ雑巾で拭いていた“姉さん”の姿。祖父や実家の祖母が言い習わしていたいわゆる村の〈家屋敷〉からほど遠い庭や木立もない平家の一軒家にそぐわない風情でいつも足早に通り過ぎるようにしていた。潜り戸のある大戸に並ぶように目の細かい木虫籠をはめ込んだ村の民家の貌が崩れつつあるように感じたのかもしれない。もっとも大正期に祖父が建てたであろう我が家の木虫籠が子ども心にはよそ様に比べて目が荒く[あるはずのない]正統な民家から外れつつあるように暮らしてきたせいだったかもしれないが。

 1970[昭和45]年前後の吉本[46歳]さんんの著書はすでに70冊を超えていたようだが勤め先の大学図書館の吉本本の所蔵は少なく、手にしたのは富山市内の古本屋で買い求めた詩集や評論集などで、もっぱら定期発行されていた『展望』[筑摩書房1964年10月復刊ー1978年]や『文芸』[河出書房新社1962年復刊ー]そのほか数軒の書店の新着雑誌棚から手当たり次第に目次をめくって「吉本隆明」の掲載作品の追っかけで手一杯。「言語にとって美とは何か」や「心的現象論」が載っていた『試行』は同人誌仲間から回し読みやコピーさせてもらっていた。おりしも勁草書房版『吉本隆明全著作集』[全15巻、1968.10〜1975.12]が刊行中、“四十”そこそこで「全著作集」とはなんて凄い詩人であり批評家だろうと読むのに尻込みしそうだった。そんな背中を押されるように読んだのが各巻末の解題(川上春雄)だった。あれから25年過ぎた2000年3月から2019年12月まで継続購読した『吉本隆明資料集』(松岡詳男@猫々堂)の力仕事には自家発行〈表現〉による〈吉本隆明論〉が刻み込まれている。また現在刊行中の晶文社版『吉本隆明全集』各巻末の解題(間宮幹彦)には編集〈表現〉による〈吉本隆明論〉を読む思いがする。(2022年6月27日記/28日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(9)

          「5億年にわたる土の「変化」は生き物を育むだけでなく、時には生き物
          たちを翻弄しながら、現在の自然の姿を形作ってきた。そのひとつが土の
          「酸性」への変化であり、アジサイの花が青色に染まる理由も、宮沢賢治
          が「雨ニモマケズ」石灰肥料を売り回った理由も土が酸性であったためだ。
          土を含む環境の変化に対応して生き物たちが獲得した多様な姿に、「適応」
          や「変化」を見出したのがダーウィンであった。」
                  (藤井一至/大地の五億年:せめぎあう土と生き物たち)

 遅まきながら見えてきた吉本著作の書誌的履歴を手繰り寄せるようにあれこれつまみ読み状態のさなかに出会ったのが吉本隆明『初期ノート増補版』(試行叢刊第一集)[試行出版部1970年8月、初版は1964年6月刊行。2006年7月光文社文庫版刊行]だった。
 埴生村の民家に住む子どもや老人らが家屋敷の庭から縁側に回って上がりこむような吉本著作世界への手合があったとは!
 自らの〈初期〉に祖父から釘を刺されていた読むことの罪障感、それまで気になってしょうがなかった読み・書きの表口や裏口など敷居の高さを感じさせない手触りの装丁本の冒頭の「姉の死など」に引き込まれ、仏壇に手をあわせるように上がり込んでその先を隅々まで読み進めることになった。


     海風の赤いぐみのせんせいせんせい

  私は何処かで斯んな俳句を聞いた事がある。
(吉本隆明/随想(其の一)【第 II 部 戦中篇1少年期】)

  くものいとに
  息を吹きかけながら
  明日の日の
  小さな声を
  にはとこの
  ざやめきに
  真実きいた
  軒端のくものいと
  くもは居ないよ
  息ふきかけて
  夕焼 小焼
(吉本隆明/くものいと【第 II 部 戦中篇1少年期】)

  唯自分の考へてゐる処を表現しつくして、その時の何とも言へぬ安心から出発してもっと深い自分を見付けて行くのです。文章は少くとも僕達化学者が(化学をするものは皆化学者です。これ以外に化学者の定義はありません)書く時は、そのような安心立命を得るためと、その安心から出発してもっと深い自分を探して行くためであると思ひます。それだから文章を書いたり、書物を読んだりするだけで、自分の人間をより深いものに導くことが出来ます。それ故文章を書いたり読んだりすると、現実を遊離してしまふなどと考へてゐる人間は問題になりません。又文章を書いたり読んだりしながら現実を遊離してしまひはせぬかと不安に思ふ人はやはり駄目なのだと思ひます。僕はその駄目な人間の一人です。僕は僕達が現在持ってゐる大きな問題や決心については何も言ひません。それは余りに大きく、そして真剣な問題だからです。もっともっと深く考へて、その時僕達は日本人である僕達を心ゆくまで語り合はうと思ひます。(吉本隆明/巻頭言【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 「幼い思ひ出」への回想に〈身体性〉が息づいている詩作品に次いで、1943[昭和18]年の若き吉本さんが自分の中の駄目な人間とそうでない何者かを腑分けするように、《化学》をするものとして《自分の人間をより深いものに導く》ように読み書きすることの〈初心〉が率直に語られている。当時の日本人が直面していた《大きな問題や決心》について学友に語ることは慎重に先送りされ、翌年5月に編まれた私家版詩集『草奔』を経て、「哀しき人々」および「雲と花との告別:これによって諸氏に告別せむとす 御元気で」[1945年4月、発表誌不明)]の2編が学友に手渡されたようだ。


  私は帰省の時と帰校の時と、米沢と東京の間を必ず汽車に乗らなければならない。ところが、舟には決して酔はない私であるが、汽車に乗ると、必ず、私の頭に速度の観念が入って来て生理的に大そうむかついて来る。すると時間の観念が伴って来て、その相対性が甚だ頭を混乱させ、かすんだやうな意識の中から赤血球の運動量の変化が気になってくる。そうすると私はもう青くなって、窓を開けたり風を通したりしなければならない。私を汽車で苦しめるのは何時もこの相対性原理である。(吉本隆明/◯汽車の中【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  しんしんとした蒼い空の無方にその花を浮べて眺めることなのだ。きっと、無上に美しいに違ひない。或日私は意識の超絶を随分恐れることがある。(吉本隆明/◯白い花【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  郷愁は論理のない沈黙

  こちらには冷たい灯

  あちらにはあたたかい灯
(吉本隆明/郷愁【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  静かに風が動いていった(吉本隆明/山の挿話【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 相対的な寒暖差の灯に包まれた郷愁の大地[東京と米沢]を行き来する際の“乗り物酔い”で、《赤血球の運動量の変化》に気づかせられるるように身体的な〈他者性〉に目覚め、仮定の誰かから贈られた「白い花」を「緑色の花瓶」に挿した机上からあちこち動かすうち、天井から吊るして空中に浮かべるだけでなく、《蒼い空の無方にその花を浮べて眺める》ような〈意識の空白〉を《静かに風が動いて行った》。〈揺れ〉に対して適正にカラダが反応できないことや景色の変化に焦点(視覚と意識)が定まらない心的状態の描写が人ごとではなかった。
 小学校に上がる前後の数年だが、新年恒例の祖父に連れられた和倉温泉の行き帰りでの“列車酔い”の初体験以来、中卒頃までなぜか自転・公転する大地を動く乗り物上の自己意識感覚のズレみたいなものが気になってバス旅行にも馴染めなかった。
 身体と心は同じもの? 実家の祖母に「心身一如」なんて言われても、そもそも両者の区別がつかず、〈身〉は〈心〉の入れ物というか〈乗り物〉ぐらいにしか思えなかった自分には、揺れや変化にカラダが適正に機能するとはどういうことか見当もつかなかった。同じものを見ているが、視点が違うことに気づけなかった。表裏一体のものかどうか、肉体がないなら精神もないが、身体だけはある。肉体よりなのが身体感覚だとしたら、精神寄りな身体感覚に当てはまるものはなんだろう。何となく考えること、〈思考〉がそうなのかな? と未だに手探り状態、肉体の動きが対象化された身体の感触を張りめぐらしたスクリーンに投影される〈修羅〉の影の行方をどう探るかが謎めいて。


  いまにしておもひきはまりぬ
   友どちよ
  われのいのちに涙おちたり
(吉本隆明/序詩@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  ふう癩病者と紙一重ですが
  それ程呑気な患者ではなく
  瞋りと気焔を吐き散らしながら
  修羅と云ふ表現圏を渡り歩くのです
[原文下線部傍点](吉本隆明/原子番号0番@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  闇色のさびしいマントの襟を立てて
  孔雀のやうに拡がった空を見上げるのは
  灰色吹雪の街を駆けぬけて
  あなたのひと言をしんしんと聴くのは

  斯の通りふるへてゐる私の影です
(吉本隆明/原子番号一番@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 《修羅と云ふ表現圏を渡り歩く》宮沢賢治の言葉に聴き入る《私の影》とは、マント姿に二重化された心情の岐路に佇む苦渋の心象風景にほかならない。


  私はこれは最後の切り札なのですが
   とても苦しい道なのですが
  彼らよりももっと一途に青白くなることにより
  彼らをむざんに踏みつけることにより外に
  どうしてよいか判らないのです
(吉本隆明/原子番号二番@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 ともに戦時下を生きる学友に向けて〈いま・ここ〉にきわまる《おもひ》が涙となって「いのち」を濡らす〈別離〉の深まり。自然的存在からの疎外態「患者」が〈書く〉ことによって生じる表現圏に《道》を求めて渡り歩く心象風景、観念の相対性にさらされ混沌とした原形体が呼吸する〈寂寥〉のとば口を抜けた先の幻想としての〈自然〉を吹き抜ける「第二の風」が作り出した《かぶと山と虚妄列車》。山麓を走り抜ける列車の窓の外では民家も街道も「雲表樹氷の影」に覆われているのだろうか。


  一つの定点を離すまいとする人間の寂しさは
  厳酷な真意の影がそうさせるので
(吉本隆明/銀河と東北@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  たった一言の真言のなかに
  万[角斗]の危機とさびしい諦観と
  傾きかけたわたしの心象と影と
  細々灯ってゐる道があるのです
  瞋りや悲哭もまだとどかない
  念々不断の合掌も通はない
  修羅のひかりの道があるのなら
  何故わたくしは通れないのです

  こんなにさびしい月光のきらめきに
  わたしはひとりで佇んでゐるのです
  わたしはかくれて泣いてゐるのです
(吉本隆明/繚乱と春@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 《たった一言の真言》がもたらす心象風景に《細々灯ってゐる道》があり、万感の想いや不断の合掌も通わない《修羅のひかりの道》があるのに、ひとり佇んでいるのは岐路としての〈惟神の道〉なのだろうか。お盆には仏壇に合掌し、お正月には神棚に手を合わせる人間が「神さながらに生きる」とは、そんな《道》をどこでどのように会得できるのか。


  さあれどんな場合でも
  人間をはなれて「神様」があったり
  人間の外側に「理想」があると思ふのは

  インテリと呼ぶメタ人類の
   淋しい暗い幻覚なのでせう
(吉本隆明/無神論@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)

  われら みづからの小さき影をうちすてて
  神ながらのゆめ 行かんとす
  まもらせよおほきみの千代のさかへ
   われら草奔のうちなるいのり
  まもらせよ祖国の土や風の美しさ
   われらみおやの涙のあと

  われはいのりて
   ひたすらに 道しるべ たてまつる
(吉本隆明/草ふかき祈り@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 《宮沢賢治は常に最も生々しい現実にゐながら常に遠方に眼を注いでゐた それが遠方を見てゐる時は現実の生々しさを忘れ、現実の生々しさを視てゐるときは遠方を視なかったのではなく、二つの意識が同時に働くと言うことが少なくとも彼の場合には正常であったのである》[吉本隆明/農民芸術概論綱要評@「詩碑を訪れて」【第 I 部 戦後篇5宮沢賢治論】]とする態度が貫かれ、不確かな戦況下での現実を見るからには、とにかく自分の現実の外側に出ようとする純粋な姿勢が眩しい。


    我ラハイマ
   各々ノ心ノ中ニ 一ツハ美シイモノヲ抱イテヰテ
  ミンナガ自分ノヤウニナツテ呉レタラト悲願シナガラ
  大イナル祖国ノ闘ヒノ中ニ
   自ラヲ捧ゲテ征カネバナラヌ(
吉本隆明/序詞@詩集『草奔』【第 II 部 戦中篇2米沢時代】)


 戦争期天皇制日本の在野の無名者として《神ながらのゆめ》に連なる《おほきみの千代のさかへ》を目指して祈り奉る《道しるべ》に刻まれた《祖国》へのはなむけ。


  次に私は斯う言った。「頭髪を無造作に刈った壮年の男が、背広を着て、両手をポケットに突込んだまま、都会の街路樹の下をうつむいて歩んでゆく。俺は若しなれるのならそんな者になりたい。」
  私も心にそう思ってゐたことをその通り言ったのだが、あまりすらすらとこれだけの事を言った訳ではない。はにかんだときのくせで、「俺は」といふやうに「」を矢鱈に連発して、これだけ言ふのに自己嫌悪を幾度か飲込まねばならなかったが、言ったあとでは実にすがすがしい気になった。
[下線部原文傍点](吉本隆明/哀しき人々【第 II 部 戦中篇3哀しき人々】)


 気づいたら、〈いま・ここ〉にこうして生きている〈任意性〉のさなかで、刹那的に描かれた一枚の「自画像」を吹き抜ける擬人化された「雲」と「花」の対話、〈いのち〉を営む肉体の動きが対象化された身体像に投影された惜別の調べ。


  雲「おれはともかくも ひとすぢのみちをゆくだらう 蒼い深い空の果てに おれが西の方へ走ってゆくのを見たら おれはみづいろのネハンの世界を求めてゆくのだと思ってくれ 又東の方の日輪のくるくる廻ってゐる辺りに おれが蒼白い曙の相をしてゐるとき おれは おれたちの遠い神々を尋ねてゆくのだと思ってくれ」

  花「おれはこの季節が終ればもうこの世界から別れやうとする おれはおれの生れたところで死なうと思ふ この宇宙がある限り この季節になると おれのゐた茶暗い土からは 生れてくるものがあるだらう 誰が何といってもそれはおれの再生ではない 誰か見知らぬ奴なのだ けれどおまへが 何日の日か その上に戻ってきて 雨を注いでくれたら 矢張りおれは嬉しいと思ふ おれたちは結局すべてのものの幸のために生命を捨てるのだ」
(吉本隆明/雲と花との告別:これによって諸氏に告別せむとす 御元気で【第 II 部 戦中篇3哀しき人々】)


 「国家」や「領土」を尊重する〈心身〉が拠って起つ地平、人々が往き来し生活する大地に訪れた季節を彩る「花」を咲かせる植物の根が伸びる《茶暗い土》の中から《蒼い深い空の果て》まで、水蒸気となって循環する〈水〉を象徴する「雲」、雲行きを左右する風の行方、見上げる〈われわれ〉はどこから来てどこへ行くのか。


  T君よ 宮沢的イデーはわたくしにとっては故郷そのものに外なりません 私は宮沢賢治を踏み越え踏み越え、全ての中に身を燃やしつくすことを自己の念願として来ましたが、祖国の遭遇した情勢は私が迷ひに迷ひ、苦しみに苦しんで築いた体系を根こそぎにくつがへしてしまひました わたくしは今は何も持ってゐません それ故謙虚に宮沢賢治のふところに還ってゆきたいのです
  東北のもってゐる自然と風景こそ彼も持ってゐる肌合に外なりません 私たちは「国破れて山河在り」といふアジアの夜の倫理を味ふべきときに至りました 想像だにしなかったところですが、すべての自然にいこいを見出すことも又やむを得ない倫理として享受しなければならない日を迎へたのです 光栄の道はついえました 日本なくしてアジアなしの言葉の如く、アジアは日本の敗退と共に再び夜を迎へたのです
  文学の精神はみだりに屈従しません まして敵国に遠慮するやうな情勢論は意に介しない所です 私たちは楠木正成の心境を幾許か身をもって理解することが出来ました そして在りし日の隠遁詩人たちの志をほんたうに理解することが出来たやうに思ひます 死ぬか何らかの意味に於て隠遁を事とするか、これは国の正統が行はれないときの日本人の身の処し方であることを知りました 私は宮沢賢治をこのやうな眼からも又眺めてゆきたいと思ひます
  T君よ 宮沢賢治は情勢論などの一指も位置をくつがへすことの出来ない永遠の星座です 私のやうなものから見れば奇蹟のやうなものです けれどこの奇蹟の現実が今日を生きて如何に処したかといふ仮定を設けて見ずには居られないやうな気が致します。私たちは沈むだけ沈まねばならないでせう 真の偉大も又生れねばならないでせう 知の底の方からアジアの霊が叫んでゐます 天は暗く、依るべき存在もありません
  宮沢的イデーは唯絶望的な私の前に青白く巨きく輝いてゐます 天の川だって歴史だってただ人がそう感じてゐるのに過ぎないのだといった彼の言葉も何か別の意味で惻々とと心を叩いて来ます
  [中略]
  日本の敗退は理念を喪失した人々だけが導いたものであることは論をまちません 理に依って動く偏狭な現実主義者は終に決定的な悲劇を導入致しました。 願くは偏狭な国際観念を排して、静かに難局に這入ってゆく豊かな日本の道を得たいと思ふのです。
  T君よ   私が描く宮沢賢治の姿は実に不完全なものにすぎないでせうが すべて私のいこひをそこに懸け、私の生命をそこに打込み、すべての悲しみをそこに交流させて没入した処です
  わたくしはその努力の中から生きてゆく可能性を見出さうとつとめました 願はくばわが歩む道に神よ名があらしめたまへと祈るのみです 何日か君と共に宮沢賢治の「野原の松ノ林ノ陰ノ」といふ詩碑の前に再び立ち、北上川の蒼暗い流れに対して見たいと思ひます あの時味った不思議な虚脱を私は今度は自分の生命として抱く日を迎えたことをどんなにか悲しみながら君へのこの便りを終りたいと思ひます (九・八)
(吉本隆明/宮沢賢治の倫理について@『宮沢賢治論』【第 I 部 戦後篇5宮沢賢治論 】)


 「T君」[1942[昭和17]年の4月に入学した米沢高等工業学校[山形大学工学部の前身]同期の郷右近厚らと回覧雑誌『からす』をつくった田中寛二?]に呼びかけた文末の「(九・八)」は、昭和20[1945]年8月15日の「天皇の詔勅」に動顛した翌月の日付だろうか。
 〈いま・ここ〉に書き表された一行が手のひらの下に隠れ去るように左へ改行され、縦書きの空白の次行が書き表されて現前する文体の呼吸が《奇蹟の現実が今日を生きて如何に処したかといふ仮定を設けて見ずには居られない》切実さとして脈打っている。《宮沢賢治》を触媒として、過去も未来もない、ひたすら〈現在〉に生きるために渦巻くエネルギーと共鳴しているようだ。稀有で無類な〈共鳴〉によって逃れようもなく自らを強化していったに違いない。


    〈関心〉と言ふのは何かを与へるような状態にも思はれるし、反対に何かを奪ふような状態のやうにも思はれる。結論。又悪循環におち入ってしまふだらうか。こんな時はひとつの逃げ手といふものがある。〈交換〉といふものだ。これは物理学や経済学でも便利な定義にやうに思はれる。それは与へることや奪ふことを同時に包摂させることのできる言葉だ。〈関心〉といふのは心情の〈交換〉のことだらうか。心情とは? そして心情の〈交換〉とは?(吉本隆明/一九四四年晩夏【第 I 部 戦後編2覚書 I 】)

  ‥‥‥生まれ、婚姻し、子を産み、育て、老いた無数の人たちを畏れよう。あのひとたちの貧しい食卓。暗い信仰。生活や嫉妬やの諍ひ。呑気な息子の鼻歌‥‥‥。
 そんな夕ぐれにどうか幸ひがあってくれるように‥‥‥。
 それから学者やおあつらえむきの芸術家や賑やかで饒舌な権威者たち、どうかこんな寂かな夕ぐれだけは君たちの胸くその悪いお喋言りをやめてくれるように‥‥‥。
(吉本隆明/夕ぐれと夜との独白(一九五0年 I)【第 I 部 戦後篇2覚書 I 】)


 「自由の第一の必要条件は自己認識であり、そして自己認識は自己告白なしには不可能なことである。」(K.マルクス)とは肌合の違う〈出会い〉の響き。この言葉の異質感はどこからやってきたのだろう。〈箴言知〉とでも言うべき言葉の歩み。


  自由は必然性のなかにある。必然! 僕には無限に底深い言葉だ。僕はと或る日、その言葉をせっせと掘り下げてゐるのを感じる。現実が仮象のやうに遠のいたのはそんな時であった。(吉本隆明/序章【第 I 部 戦後篇3箴言 I 】)

  絶望はその冷酷度を増した。一九四八年から一九五〇年初頭におけるニポニカ。
  アルダンとソルベェジュの対立の激化。アルダンに強制された経済政策。
  エリアンの心は救ひがたいまでに虚無的になってゐる。
         *
  この日、エリアンはひとりの少女を喪なった。夜。雲低くなり、雨がぽつぽつ降る。
         *
  一九五〇年に入り自殺者相継ぐ。プロレタリアートの貧困、中産階級の窮迫は急。電産、全鉱連ストに入る。
         *
  コニミスト、ファシスト共に民族の独立を主張す。エリアンこれに不信。
  祖国のために決して立たず。人間のため、強ひて言へば人類における貧しいひとびとのため。
(吉本隆明/序章【第 I 部 戦後篇3箴言 I 】)


 男と女の関係を決定づけるものは他者存在としての〈家〉が作用し、人間と人間との関係は男・女いずれかとしての交通形態のように営まれてきたのではないのか。


  何故に人間は不完全なものから完全なものへ、人性から神性のほうへーーといふ思考過程をたどらねばならないか。ぼくの精神のうち側に無数の嵐が荒れてゐる。それはみんな不完全な自己を完全な相に昇華しようとしてゐる沢山のナルシストたちがまきおこしてゐる嵐だ。若し僕たちの悔恨、虚偽、不完全‥‥‥が、関係のあいだの歪みとして解されるならば嵐はやむだらう。そして僕はあの呑気さうなアルダンの兵士たちのやうにそれを視なくてもすむわけだ。

  神への信仰と従属。それはやがて権力と貧らんへの奉仕を人に教へるのではなからうか。

  僕は沢山の書物の中から師を見付け出す。だがこの師は問ふただけのことについて応へてくれるだけだ。山彦のやうに。並外れた応へとしてくれることを期待することも出来ない。僕が並外れた問ひを用意してゐない限り。それからひとりでに教へてくれることもない。僕が憂ひに沈みきってゐるとき、何故なら僕はそんな時、書物に向ふこともしないで大方は夜の街々を歩いてゐたから見慣れない家々の灯り。それは唯の灯りであった。僕が様々の意味をつけようとしてもそれは唯の灯りであった。結局地上に存在するすべてのものは僕のために存在するのではなかった。僕がすべてのもののために存在してゐるだけなのだ。可哀そうな僕!

  あゝ貧しい人達! 君達は長い間、すべての美や真実や正義やを、神へ、それから権威へ、それから卑しい帝王へ、あづけてきた。空しくそれを習慣のやうに行ってきた。今こそそれを君たちの間に取かへすのだ。破れ切った軒端や赤茶けた畳の上に。それから諍ひの好きだった君達の同胞達のうへに。僕は血の通った人達だけを好きなのだ。

  帝王はいまも神権につながれてゐる。あの荘厳で無稽な戴冠式や即位式。
  それから支配者の位置につくものが僧侶の前で宣誓する風習。神権と王権。
  立法と行政とが、神と帝王から離れて民衆の手に移されるのは何日のことか。

  あやまってはならない。民衆のために! それは疑ひもなく、生きた具象的な個々の人々のためにといふことだ。祖国のために! こんな空虚な言葉が存在するだらうか。僕らには祖国などといふものはないのだ。やはり個々の人々があるだけだ。支配者はいつもそのやうに人々を架空なもので釣り上げる。
[下線部原文傍点](吉本隆明/エリアンの感想の断片【第 I 部 戦後篇3箴言 I 】)


 自然態としての上昇志向が裏返された自然過程のような〈動的平衡〉である《虚無》を計算し尽くし、人為的自然の風に逆らうように《この世で為すに値しない何物もないように、為すに値する何物もない。それで僕は何かを為せばよいのだと考へる》[吉本隆明/エリアンの感想の断片【第 I 部 戦後篇3箴言 I 】]不可避性を契機とした縦書き詩作行為の必然性へ。〈われわれ〉の内的規定たる時間性と外的規定たる空間性とが構造化された〈批評〉の顕現!


  生存するとは、精神によって判断することを意味する。判断に行為を従はせること。一般にはこれ以外に生存の図式は見つからない。判断とは精神にとって直覚的操作以外のものを指さない。少なくとも生存の原理としての判断なるものは、無数に並べられた諸条件からの抽出作用としての判断はそれ以後の行為を絶対に喚起することは出来ない。換言すれば直覚的操作以外の判断作用は決して行為を触発することはないのである。併るに精神はそれ自体で可能性を持ってゐる。恐らく自己運動としての抽象作用を精神は無限に積み重ねることが可能である。
  一般に自意識の錯乱なるものは、直覚的判断に導かれるべき生存の行為と、抽象的判断により自己運動するべき精神の操作との矛盾としてのみ理解される。
  唯物論とは、決して精神の操作を無視乃至は除外するものではない。それは実在と交換する精神の直覚作用のみを固持することで、かの精神の自己運動としての抽象作用を無視するだけである。あらゆる唯物論者が渋滞を知らない精神、別言すれば意識における苦悩の担ひ手でないといふ、よく経験される事実は、このことによってのみ説明される。
[下線部引用者傍点](吉本隆明/エリアンの感想の断片【第 I 部 戦後篇3箴言 I 】)


 「詩人のノート」[『現代詩』1960年2月号]で吉本さんが、「このノートは、『固有時との対話』という詩集をまとめあげる前後に書かれ」、「こういうノートを一年か半年か、続けているうちに何となしに又詩が書けるようになった」と記されたいきさつの背後からせりあがってくるのは、無地の白紙にまるで古民家の細かい木虫籠[きむすこ]みたいに罫線を引いて〈白日〉を立ち上がらせるような、根源的な書き手[川上の説明を敷衍すると「紙質は40キン位、たんに白い紙といってよいほどの薄いクリーム色の西洋紙」に、天地左右に三、四センチほどの余白を取り、二、三ミリ幅の罫線をおおよその見当で引いて、それを当り線として詩を書く、以後の著者の詩を書く用紙と書き方が初めてあらわれた詩稿群/間宮幹彦@晶文社版『吉本隆明全集』第2巻、解題]となって日々の詩作街道を突き進む姿だ。


  そうしてぼくは啖はれるよりほかない道を、何故に歩まうとするか
  たくさんの憤死をぞろぞろ引具してくる普遍[アルゲマイネ=原文ルビ]、ぼくは激突する
  いづれ死ぬのはぼくなんだが、ぼくは思ひおこすのだ かかる道化の一芝居をうって、たくさ
  んの観客をせしめようと、たくらむことのたのしさを。
  ああぼくにとっておきの帽子や上衣を投げてくれる奴はゐないか
  すでに燃えつくしたぼくの精神にかはって、ぼくはひとすぢの残照だ
  少女も年増女も売女も乾ききったぼくの肉体に、いや肉体の光輝に銭をなげる奴はいないか
(吉本隆明/残照[後半]@【残照篇】/晶文社版『吉本隆明全集』第2巻)

                   (2022年8月28日記/30日web公開)

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続・本の一言:街道と民家(10)

          「日本の社会経済の問題は集約すれば土地問題と住宅問題に帰せられる。
          これは都市部では何とかして大衆の住宅が安く入手できるようにすべきだ
          という課題に、農村部では、いまより縮小された農家で、何とかして農業
          自由化に伴う生産性の高い農業を営み、質の良い農業生産物をつくり出す
          課題としてあらわれる。米国案は確実にこの課題の集約点を包みこんでい
          る。わたしは敗戦後すぐ昭和二十一年(一九四六)にアメリカ占領軍の主
          権で行われた第一次、第二次の農業改革案をすぐにおもいおこした。地主
          の土地を有価で没収し、小作農家を自立させるという明治の地租改正以後
          はじめての画期的な農業革命を、アメリカ占領政策はやってのけた。今度
          の構造協議米国案のようなものは、本来ならば社共、新左翼が中心で提起
          されやってのけるべきはずのものだ。」
                      (吉本隆明/わたしにとって中東問題とは)

 さて、敗戦直後にGHQが主導したとされる1946[昭和21]年10月21日の農地調整法改正公布[第2次農地改革]によって小作地の80%が解放され、自作農が過半を占めるようなった戦後社会で、「国家」とか「天皇」と「個」の関係はどのように変わったのだろうか。
 たまたま図書館で手にしたR.P.ドーア著『日本の農地改革』[昭和40年1月岩波書店刊]の巻末付録に調査対象とした六つの村[長野県小県郡塩田町、山梨県北巨摩郡白州町、山形県東田川郡三川村・平田村、高知県幡多郡月灘村、広島県豊田郡大崎町、神奈川県川崎市堰]から一つないし二つの部落を選んだ地域の農家の男の世帯主とその長男(20歳以上)628人の聞き取り調査査結果が載っていた。

・いろいろな点から見て、戦後の農地改革は行きすぎであった。(55%)
・農地改革は、是非やらねばならぬ大事業であった。(82%)
・概して農地改革は、地主に貸付地の保有を認め、山林所有に触れていないから、真の農地改革ではなかった。(54%)
・農地改革で土地を取得した農民の多くは、その能力がなく、漸次その土地を手放しつつある。ーー農地改革は事実上失敗であった。(45%)
・農地改革は、自分の足で立つことのできる自作農を作ったという意味で成功であった。(84%)
・農業は国のもとになる職業なのだから、国家のために自分の本分をまもって、利益などあまり考えてはいけない。(32%)
・天皇は国の親のようなものであり、親と同じ気持ちで尊敬しなければならない。(87%)
・個人なくして国家なしという人がいますが、国家なくして個人なしというほうが正しい。(72%)
・学校では、子供の愛国心をもっと高めるように努力すべきだ。(86%)
・日本には、万世一系の天皇があるのだから、やはり神の国だ。(55%)
・アジアの指導者となるのは、インドや中国でなく日本である。(81%)
・この前の戦争は、やり方はまずかったけれども、その根本的なねらいは間違っていなかった。(51%)
・憲法を変え再軍備するのはよくない。(53%)

 調査対象となった農家の世帯主およびその長男の8割強が戦後の「農地改革」を肯定している一方で、5割を上下する「行きすぎであった」あるいは「事実上失敗であった」とする回答もあった。
 同じく外圧による明治維新改革後の「廃藩置県」を経た1873[明治6]年の「地租改正」の場合は、その三年後の12月9日に「三重県で地租改正反対の農民暴動、愛知・岐阜・堺県下に拡大。12・23鎮定、5万7千人処罰。」[『決定版20世紀年表』小学舘2001年刊]されたという。富山県下にまで波及することはなかったようだが、17年後の1900[明治23]年「1・18富山市で300人が市役所に押しかけ米価高騰の救済を強訴。以後各地で米騒動頻発。」[同『前掲書』]とある。埴生村で尋常小学校[4年制]を終えたばかりの祖父に当時の記憶があったかどうか、そもそも何歳で大阪での奉公に出かけ、何処で何をどのようにして料理の腕前を上げ、年期も明け、故郷の埴生に出戻って村の仕出し料理を手伝ったりしながら借地で田畑を耕すとともに籾摺り・精米を生業に家を構えるまでに至ったかなど聞いた覚えもなく、1918[大正7]年7〜8月にかけての魚津や水橋での米騒動が「越中の女一揆」として全国に報じられた事件についても聞いたことはなかった。

 山際の埴生よりもいっそう山がちだった祖父の実家あたりで村民は様々な副業で生きていて、飯米は買って補ったりしていたのではないだろうか。
 租税が米衲であろう金納に変わろうが、生活の苦しさはさして変わらなかったのじゃないか。奉公から出戻った祖父が村での自給自足を足場に籾摺り精米業を始めた遠因の一つを幼児期の生活体験に求めたいような気がする。宅地と作業場を合わせて二百坪あまりの土地と山際の三反ばかりの田んぼと畑から遠かった僅かな山林。家の西側を杉小柴で囲い、榛の木や桐や栗の木が西陽を遮り、背戸の庭の端っこの畑けの傍では無花果や柿や石榴が朝陽を和らげていた。
 1912[明治45・大正元]年に埴生の家で生まれた父はどのような幼・青少年期を過ごし、いかなる経緯で外地の朝鮮植民地勤務を選んだのだろうか。1919[大正8]年2月に植民地朝鮮の京城で起こった独立示威運動[3・1運動:万歳事件]が朝鮮全域に拡大、1923[大正12]年9月1日の関東大震災の際に朝鮮人暴動の流言が広まって朝鮮・中国人の殺害、などのニュースも埴生村民の耳目に届いていたことだろう。
 おそらく在阪丁稚奉公の年期が明けたであろう1900[明治33]年前後に実家に程近い埴生村に出戻って〈家〉を構えるまでに、虚弱な孫の目を見張らせるような祖父の生活力が当時では欠かせず、借地とはいえ住居と別に作業場も構えながら自家消費規模の田畑も耕す暮らしも1922[大正11]年頃の芸者を身請けした妻との死別で様変わりしたことであろう。11歳で実母を失った父のその後の就職先が内地ではなく朝鮮総督府勤務の警官になったのは、植民地勤めの方が給料や手当等が魅力だったからだ。京城暮らしの折に母は、父子家庭の貧乏暮らしゆえの職業選択だったと父が語るのを聞いたことがあったという。

 1945[昭和20]年8月15日の祖父や母は、天皇による「玉音放送」は何を言っているのかよく聞き取れなかったが、「戦争に負けた」ことだけはよくわかったらしい。その数ヶ月後[12月9日]には農地改革の発端となったGHQによる「農地改革に関する覚書」が発表され、翌年の10月21日に農地調整法改正交付された。
 父と母が植民地・京城の朝鮮総督府の官舎で結婚生活を始める前年、1939[昭和14]年の国家総動員法に基づく価格等統制令交付で祖父が営んでいた精米・米屋の営みはどのように変わったのだろうか。家屋の間取りの割に玄関が広くて土間と小さな陳列棚を置いた板の間に接して記帳場があり、どう見ても最初から住宅は小商いを営む家の造りだった。開店休業状態の棚に四合瓶入りの入浴剤が並んでいた記憶がある。街道を挟んで別棟になっていた精米作業場で手伝わされることも少なくなり、我が家の精米業は稼働の機会を失っていった。

 戦前の祖父が商売のかたわら、どんな風に「飲む・打つ・買う」をくぐり抜けてきたのか詳細は分からないが、1945[昭和20]年6月に埴生で暮らす祖父のもとへ子連れで引き揚げてきた母にとって、家計そっちのけで有り金を株券に注ぎ込もうとする祖父の投資癖に困り果てたようだ。とりあえず遺族年金は生活費にまわし、5年余りの植民地支配の京城での結婚生活での蓄えそのほか、命からがら持ち帰った夫の弔慰金や退職金その他すべてを土地購入に充てたとのことだった。それも息子名義にしておけば、いくらなんでも義父は孫[名義]には手を出さないだろうと踏んでの企みだったようだ。
 祖父は息子の縁談の際に分かったはずの地主と小作の家構えの違いを孫に知られたくなかったのだろうか。それにしても敗戦直後の農地改革で農地の買受け側にだったとはいえ、行政区域が違う売り渡し側だった嫁の実家に足を運ばなかったのはなぜだろうか。そんな両家が富山県内の農地改革の際にどんな思いをしたか聞き覚えがないけど、「親鸞上人」ほどではないが富山県福光町の「松村代議士」すなわち、現在の南砺市出身で第1次農地改革に農相として貢献した松村謙三(江藤淳『もう一つの戦後史』講談社1978年4月刊310頁:「農地改革の成功」対談相手の大和田啓氣の発言)には一目置いていたらしい様子は孫にも感じられた。

 「かくゝ昭和二十二年七月より賣渡計画の承認を行い、昭和二十五年七月までには30,996町歩の賣渡を終了したのである。」(『復刻版 富山県農地改革史』不二出版1991年4月刊157頁)。目標とされた予定面積32,227町歩に対して40,368町歩の実績を残し、進捗率は124%と記されている。
 第1回農地売買通知書の伝達式は、「昭和22年8月22日上新川郡新保村で挙行され」(同上157頁)、県農地部課長ほか新聞社その他関係者、富山軍政部ルイス農地主任官が臨席し「本日は歴史的な意義有る日である。これで世界のだれにでも、自分の所有する農地だと言明できるのである。」(同上158頁)との祝辞があった。
 買受人代表から「解放された地主さんに感謝するとともに、新しい希望をもって一家そろって増産にはげみ、供出の万全を期する」(同前)との答辞があり、買受人の中の三人の夫人の一人からは「夫は出征中であるが、自力で一町歩を小作していたのである。それが自作となったのであるから、この喜びを早く夫に知らせたい‥‥‥」(同前)旨の談話があった。

 我が家の場合は母がなけなしの有り金をはたいて宅地や田畑を借りる暮らしから、土地や作業場で働く場を所有する暮らしへと切り替えることで、祖父の投資癖の元手を絶って株券購入を断念させるのに都合が良かったようだ。
 祖父や母から当時の我が家の田畑や宅地の購入経緯など詳しく聞いた覚えもないが、田畑や宅地の所有権を得ただだけの三反百姓が自作農として自立できるわけもなく、自営の精米業も立ち行かなくなりつつあるなかで、祖父は相変わらず新聞の株式欄を眺めるのが朝の日課のようだった。衰えた体力で「労働時間」を切り売りする「出稼ぎ」もままならず、“金で金を儲ける”方途に明け暮れるしかなかったのだろうか。
 “三反百姓に何ができる”と揶揄されていたように、「家族労働を完全に農業で利用できる程度の経営」(大和田啓氣『秘史日本の農地改革』日本経済新聞社1981年5月刊25頁)という「小農」の規模からほど遠いのが我が家の現状だったということだ。春夏秋冬を食いつなぐ飯米や野菜などはなんとか自給自足できても、昭和50年代の暮らし向きを変えた“三種の神器”を迎え入れられるだけの現金収入が乏しかった。冷蔵庫や洗濯機は親戚からの払い下げを使っていたが、白黒テレビは村中に行き渡った後まで待たなければならなかった。

 埴生から北西に外れた辺りの倶利伽羅トンネルを抜けて北陸線が街道に並行して東西に走っていて、石動駅を始発としていた加越能鉄道が支線を伸ばし、次の次の高岡駅から枝分かれしていた城端線の福野駅で乗り換え合流していた。東西両砺波郡を三本の路線で仕切ったような環状の内と外に民家が散らばった沿線風景が高校通学の車窓を彩っていた。
 あれが「越中カイニョ式住宅」なるものであったと知ったのは、勤め始めた大学図書館の書庫で藤田元春の『日本民家史』に出会えたからだ。通学や通勤途上の車窓の眺めに呼応するような民家の記述頁を探し読みしたコピーもいつの間にか散逸してしまった。古本で買った手元の『増補版』[刀江書院、昭和17年刊]は囲炉裏の煙で煤けたように赤茶けて装丁も緩み、今にも崩れ落ちそうな古民家の佇まいを今に伝えているようだ。

 敗戦直前に引き揚げてから25年間住み慣れた埴生の民家は神社仏閣を控えた街道沿いに並んだ入母屋の草葺か、切妻の瓦葺きがほとんどで板屋は少なく、散居村とは異なる様相を呈していた。幼少の頃に見飽きなかった近所の村人が草葺の傾斜に群がって行う屋根の葺き替え作業姿が鮮やかに残っている。里田の民家と山田の民家の規模はそれぞれ違っても木虫籠や格子戸などは共通していた。浅く緩い里田と冷たく深い山田の感触の違いも忘れられない。祖父にひ弱な手を引かれて街道をたどった古民家の庭先で競り売りの声が響いていた“市”が古物や骨董品が引き継がれる網の目のように回想される。
 三歳で引き揚げてきたときは掴まり立ちもおぼつかなかったから、それまで住んでいた植民地京城での足が地に着いた身体感触はまったくたどりようもない。二歳ばかり上の姉だと朝鮮総督府の官舎のぼんやりとした佇まいとか、父の胡座や無精髭の感触が忘れられないと言う。母が持ち帰った数少ない父の遺品、握り艶の残る胡桃の実や三枚重ねの小さなルーペを握ったり、日本刀を作り直した式刀を振ったり、遺影に写っている制帽を実際に被ったら窮屈だったりしてなんとなく京城暮らしの父の〈身体〉を感じたような気がするだけだ。その一つ一つが自分の所有物というより母を経由した預かり物としか思えない。埴生から引越しに同意してくれた97歳だった祖父が選んでくれた庭木の一部を高屋敷の自宅前庭に移植した祖父が育てた庭木や数点の骨董品なども同じだ。

 田舎での夏のお盆前の大掃除の際など、幼い日々に行き来した街道から通し柱と棟木と梁だけが透けて見えた民家の佇まい一軒一軒が、それぞれの物語を隠し持っているように思えた。小矢部市埴生の地を離れて14年後の1986[昭和61]年、市内で東に開く小さな谷間の試掘調査により、「今から約12,000年前の縄文時代創期から約2,300年前の縄文時代晩期まで、縄文時代全期間にわたる遺跡」[参照:邪馬台国大研究・ホームページ/ INOUES.NET/ 桜町遺跡]が発見されたニュースを知り、その後もネットで関連情報を覗いたりするようになった。
 「北陸の縄文と観光 環状木柱列を尋ねて06 2014.05.22(木)」によれば、「桜町遺跡」の特徴として「谷川跡から全国初の加工材や道具。動植物の遺体が発見された。特に、建築部材とみられる加工材出土は全国初。」であり、時代的には「縄文早期〜江戸 特に縄文中期末〜後期初頭(4000年前) と 後期末〜晩期中葉(2800年前)」とされ、見所として「水場遺構から出土の木製品や木柱根」があげられていた。
 これらによって当地一帯の民家と共同生活環境の筋道、初源へのルーツをたどれそうな可能性が無きにしも非ずのようだが、そこで暮らしてきた村民が営み築きあげてきた家族や村落共同体の幻想の関係性についてまでは踏み込むことができないであろう。

 田畑をを耕し種を蒔いて世話に明け暮れ、その収穫物を口にして家族を養う村の暮らし。五感を超越するもの、それこそ自己および他者ともに渾然とする領域の感覚、かかる領域では自己と他者が観念[共同幻想]に過ぎなくなり、普段使いしている感覚という言葉とは区別されなければならない。究極のところ国家の状態ははどうあれ生き死には個人的なもの、敗戦直前の植民地[京城]で勤務中に感染した伝染病で殉職した父や、明治期の「スペイン風邪」[1918〜1920足掛け3年で3度も流行し、世界人口の1/3の4,800万人以上死亡]を生き延びた祖父は、「コロナ渦」[「2019年から世界が謎のウィルスに襲われ、これまで世界で五億人以上が感染し六〇〇万人以上の人がなくなり、すべての人がマスクをしている風景など誰が想像できただろう。」(A.クラーク『現れる存在』ハヤカワ文庫版2022年7月刊、監訳者あとがき]の泉下で、「罹患するときは罹患する、罹患しないときは罹患しない、罹患したら罹患したとき」と呟きはしないか。(2022年12月23日記/26日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(11)

            「人に学ぶことはすべてセッションだ、といってもいいが、自然に学ぶ
             のだってセッションである。そして自然よりもさらに自由な、新しい
             自分たちの「自然」をつくるのがセッションの実践というものなので
             あるはずだから。
              賢治があらゆるものに常に耳を澄ませて、そのひとつひとつの存在
             の音を聴き、そこへ丁寧に接していく、そのやさしい接し方こそが、
             賢治流の日々のセッションなのである。」
                          (奥成 達『宮澤賢治、ジャズに出会う』

 十代の終わり頃だが、低い山歩きから高い山登りにのめり込んだように、音楽でもラジオによる手当たり次第の聴き漁りがいつの間にかFEN[Far East Network=米軍極東放送]やNHKの音楽番組に的が絞られ、なんとなくジャズ番組を追っかけてエアチェックしてまで楽しむようになっていった。音源としてのLPレコードは高嶺の花だったが、音響装置の良し悪しより好きな音源を手元に置いていつでも聴けるような民家暮らしが夢になったようだ。
 埴生の宅地だけじゃなく家並みの背後に広がる田んぼや山間の田畑や山林の所有権のことなど、1972[昭和47]年2月の札幌オリンピックの頃まで貧乏暮らしの床下にしまい込まれたままだった。老朽化した家屋の建て直しあるいは場所を変えて新居を持てるかが、自らの「結婚話」に絡めて切実になってきたからだ。
 老朽化した家屋の修繕など一時的な費用の捻出は持ち山の杉の木を売ってなんとか工面できたが、家を建て替えたりするだけの材木を切り出せるような植林の規模にはほど遠かった。管球アンプやスピーカーを自作してまで音楽[ジャズ]にのめり込んでいる様子を見かねた母は杉材の売り上げの一部を、祖父に内緒でオーディオ資金の一部に回してくれたことがあった。母はまさか知らなかっただろうが、引き揚げ時に買い与えた一冊で息子は「ジャズ」という言葉に出会っていたのだ。『宮澤賢治名作選(上)』冒頭の「セロ弾きのゴーシュ」の22頁をめくって「何だ、愉快な馬車屋ってジャズか」のフレーズが目に響いたことがあったのだ。

 仕事から帰ったとある夕方、玄関脇の板の間と記帳場を合わせて改装した鰻の寝床のような個室から隣接する茶の間にはみ出したフロア型スピーカーでジャズを鳴らしていたら、街道に面した玄関戸を開けて通勤帰りの若い男が入り込んできた。てっきりうるさいと怒鳴られると覚悟したら、いつも通りすがりに聴いていたものですが、ちょっと見聞させてくださいと上がり込まれたことがあった。

 古くて小さな民家の造りであれば、四季おりおりに飛来する鳥や朝晩の家禽・家畜の鳴き声に、家族の諍いの気配や性の営みの律動から赤ん坊の産声まで漏れ聞こえてきたりする。村住まいの砂利を敷いた家の前の街道を往来する馬[牛]車のひずめの音が遠のいて自動車のエンジン音に入れ替わるとともに、田畑で牛馬が犁を引く作業音や足踏み脱穀機の響きが自動脱穀機で加速されたような耕運機の内燃機関の唸りなど、化石エネルギー革命のリズムが田舎の音風景を席巻していった。

 おそらくジャズレコードを鳴らすたびに近所に筒抜けだったろうが、それまで苦情や迷惑な顔を見せられたことはなかった。大好きな奴がいる裏には必ず大嫌いな奴がいる。今後は自己都合だけで甘えちゃいけないと肝に命じた。祖父や実家の祖母の口真似ではないが、何事であれ良いも悪いもあざなえる縄の如しだ。いつか防音の効いたリスニング・ルームでジャズやそのライブ映像を楽しめるようになりたいとは念じつつ、とりあえずは勤務地の富山市内の裏通りで見つけたジャズ喫茶通いが積極的な暇つぶしになった。

 古い手帳から抜き書きした1968年のジャズ関連メモから拾ってみると、1/19(土)ソニーロリンズ金沢公演、2/26(火)ニユーポート・ジャムセッション、6/6(木)松浦豊秋ピアノの夕べ@県民会館、8/27(火)ニユーポート・ジャムセッション、9/5(木)アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ富山公演@市公会堂[太鼓好きだった母同伴]などの単独視聴ライブ以外に、サン・ラー『太陽中心世界』、オーネット・コールマン『タウンホール・コンサート』ほか3枚、『グリニッチ・ヴィレッジのアルバート・アイラー』に加え、ジョン・コルトレーンやチャールス・ミンガスの新譜LPや『ミントンズ・ハウスのチャーリー・クリスチャン』みたいな旧作LPを狭い自室の質素な音で聴いたりしていたせいか、やっぱりジャズは新・旧や有名・無名問わず気心通う連れとの“ライブが一番”が習い性になったようだ。鬼籍に入ってしまったジャズ・ミュージシャンの首都圏のみの来日公演など、借金してでも聴き逃さなければよかったのにと独身の頃を振り返ることもしばしばだった。

 行き着けだったジャズ喫茶「ニューポート」では、国内外で活躍中のジャズバンドの新譜LPが聴けたりする時が何よりの喜びだった。出入り客のリクエストなどで聴き慣れ親しんだモダンジャズ畑では、マイルスのトランペットやコルトレーンにロリンズのサックスなどの響き以外にもいろんな楽器による当時活躍中のジャズ・ミュージシャン演奏のスタイルを聴き知って、よりいっそう好奇心が膨らみ、数少ないジャズ雑誌やラジオのジャズ番組などでモダンジャズ以前も聴き漁るようになった。勤め先の大学図書館では理学系キャンパス内の白髪のジャズ好き教授のことなどが噂さになったり、巷ではジャズやロックの区別も曖昧なまま、とにかく“不良少年・少女”が好む音楽の一言で片付けられていた。

 ジャズLP以外をめったに掛けたことのなかったマスターが「こんなのがあるよ」と聴かされた一枚にはびっくりした。日を改めてレコード屋で買い求めて家でAB両面通して聴いたら、ジャズ以外で最初に打ちのめされたロック愛聴LPになった。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND. 東芝/Odeon 0P-8163)をレジに持っていった時の店員の怪訝な顔が忘れられない。クラシック好きの彼女は、まさかジャズ以外のLPを僕が買うなんて信じられなかったのだろう。「淋しい女」が収録されたオーネット・コールマンの『ジャズ来るべきもの』(The Shape of Jazz to Come. Atlantic Record, 1959)に並ぶヘビーローテションの日々がしばらく続くことになった。

 誰の何をどう聴きたいかなど絞り切れない田舎出のど素人にとって、越中売薬業からドロップアウトした雇われマスターO井さんの推薦盤や、客のリクエストが少ないセシル・テイラーのピアノ演奏その他“フリージャズ”とか“ニュージャズ”と呼ばれたLPに耳を傾けるひと時も面白くなってきた頃、好きなレコード持参で下宿に遊びに来てよと、夜間短大で知り合った野Gさんに声がけしてもらったのがカウント・ベイシー[1904.8.21〜1984.4.26ジャズピアノ奏者]率いるビッグバンド・メンバーが演奏するジャッズを聴き込むきっかけになった。ベイシー・バンド・メンバーの中でもとりわけ“クール”で“グルービー”なレスター・ヤング[1909.8.27〜1959.3.15テナーサックス奏者]のプレイとビリー・ホリデイの歌唱の虜になった。ホーンとブラスの掛け合いに挟まれたソロ演奏が魅力だと言うジャズ先輩格の彼のビッグバンド演奏の好みは、疾走感豊かなベイシー楽団より色彩感溢れるデューク・エリントン楽団にあったようだ。

 ジャズ喫茶やラジオなどで滅多に聞けない古い音源はLPで聴くしかないということで、なけなしの小遣いをはたいて買った2枚組LPの1枚目にに針を下ろし、母が買ってくれたJBL製LE8Tから響いてきたテディ・ウィルソン楽団の“ブルース・イン・Cシャープ・マイナー”[Recorded by Teddy Wilson and His Orchestra in 1936/5/14, at Chicago, IL. :Teddy Wilson - piano,Roy Eldridge - trumpet,Leon Chu Berry - tenor sax,Buster Bailey - clarinet,Robert Lassle - guitar,Israel Crosby - bass,Sidney Catlett - drums;Reissued in Japan as the opening number of "The Teddy Wilson"(2 LP-set) by CBS Sony in 1973.=https://www.youtube.com/watch?v=Pegt7etzSJ8 ]の演奏が我がジャズ遍歴で遅れてやってきた“最初の一撃”になった。僅か数分間のスタジオ演奏に込められた参加ミュージシャンの圧倒的な“ブルース”表現。
 大和明の演奏解説には「全編にわたって流れる I. クロスビーのベースが刻む印象的なブルース・コードのリズムに乗って、 T. ウィルソン、R. エルドリッジ、B. ベイリー、C. ベイリー、再び R. エルドリッジを中心とする三者のからみと、いずれ劣らぬ心にくいこむような素晴らしいソロの連続だ。この僅か12小節のソロの中心に、心の底から全表現能力をぶっつけた、ブルージーな濃縮したアドリブが脈打つごとく展開している。最後に残されたベースの音がいつまでも胸の中でうずいているかのようである。/まさに名演中の名演と言ってよいであろう。」と記されたいた。
 主に歌伴を主としていたセッションバンドが器楽演奏に徹した凄さに痺れまくった。若かりし日に自転車乗りやスキー滑走を体得した瞬間に心身の奥底から湧きあがった一回性の嬉びとも違う〈身体〉的な感動とでもいえようか。
 東北の民家をとりまく自然環境と北陸のそれとの違いに気づきはじめる前に、音楽への興味をかき立てられることになった宮澤賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」《https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/470_15407.html》に登場す擬人化された小動物たちと「金星音楽団」の未熟な団員であるゴーシュとの掛け合いは幻想的な「イーハトーヴ」で連夜の音楽現場に立ち会うようだった。
 三毛猫がリクエストした「トロイメライ」には、西洋音楽かぶれを揶揄するかのように荒々しい「印度の虎狩」を弾いて蹴散らし、外国へ音楽修行に出かける前に正確な「ドレミファ」を習いたいといって西洋音楽文化に敬意を払う郭公には生半可な自分の弾き方が間違っているように思わされたり、小太鼓係の子狸に頼まれたジャズ譜『愉快な馬車や』を弾いて二番目の糸の遅れを指摘されてもジャズ的なシンコペーションでオフビートできず、最後の晩に訪れた病気の子鼠を連れた母鼠とのやりとりによって森の中の動物たちが音楽的身体効果をゴーシュのセロ演奏を盗み聴きすることで得ていたことをやっと知る。
 岩手県内の街道を外れた擬人法による四次元植民地的空間では、「兎のおばあさん」や「狸さんのお父さん」や「意地悪のみみずく」みたいにイーハトーブの中で最も気に入った音源を探り当て、それこそ自分にあった〈命を刻むリズム〉だと確信できれば〈身体バランスの崩れ〉から癒えることがあるのだ。
 詩集では『春と修羅』《https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1058_15403.html》の通奏低音のように聴こえるジャズのウォーキング・ベースみたいにリズム化した〈詩的身体〉との共鳴現象があざやかな体験だった。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

                     (宮澤賢治「序」の冒頭/『春と修羅』)

 それにしても横書きにした宮沢賢治の詩はリズムが損なわれるようで性にあわないのだが、〈童話〉から〈詩作〉に変移した「スケッチャー」としての〈歩行〉によって心的リズムが現象化されたように映しだされる「わたくしといふ現象」が「仮定された有機交流電燈」で青く灯す「名辞以前の世界」(中原中也/「宮澤賢治の世界」)を観想できるならば、詩人の「不貪慾戒≠デクノボー」という「修羅」が明滅する。歩き回ることによって「心象スケッチ」された風景や事象で身体化[概念化じゃなく]された言葉に共鳴する〈ほんとう〉とは何かをどこまでも探し求める「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」。長編詩「小岩井農場」ではスケッチの対象が眼に見える自然から眼に見えない幻視の世界へと移っていく。

 わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
 どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
 ひとはみんなきつと斯ういふことになる
 きみたちとけふあふことができたので
 わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
 血みどろになつて遁げなくてもいいのです
  (ひばりが居るやうな居ないやうな
   腐植質から麦が生え
   雨はしきりに降つてゐる)
 さうです 農場のこのへんは
 まつたく不思議におもはれます
 どうしてかわたくしはここらを
 der heilige Punkt と
 呼びたいやうな気がします
 この冬だつて耕耘部まで用事で来て
 こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
 なにとはなしに聖いこころもちがして
 凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
 いつたり来たりしてゐました
 さつきもさうです
 どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は
   《そんなことでだまされてはいけない
    ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
    それにだいいちさつきからの考へやうが
    まるで銅版のやうなのに気がつかないか》

                     (宮澤賢治「小岩井農場 パート九」より抜粋/『春と修羅』)

 人間の感覚では触れられない世界が「der heilige Punkt 」[聖なる地=The holy place]ということなのだろうか。幼虫から蛹をへて蝶になるように、宗教から恋愛をへて性欲へと通底する変態リズムが宮澤賢治の生涯と作品を律する〈場〉としての自然の景物が立ち現れる異次元空間が垣間見られている。「人間の生活には、「労働」と「思索」と「性欲」の三つの要素がある」と「羅須地人協会」を訪ねた森惣一に語った[山折哲雄『デクノボーになりたい:私の宮沢賢治論』小学館、2005年、189頁]とあるが、おそらく宮沢賢治自身はその「三位一体」の有り様を江戸から明治にかけて跨ぎ越した折に取りこぼしてきた事態に敏感であったに違いない。
 食糧増産のために明治政府が岩手山南麓の荒野を開拓し、機械化による効率化の実現を目指した西洋式大農場の現場へ何度か宮澤賢治も足を運んだようだが、「耕耘部」では蒸気機関の力でケーブルに繋がれた犁を引く「スチーム・ブラウ」という英国製大型農業機械などヨーロッパ式の進歩した農機具が積極的に導入されている様相だけでなく、そこで働いている農民の[おそらく小作農とは違う?]労働形態にもに注目したのだろう。
 農場の不思議な「聖なる地」にたいして「聖なるこころもち」でいったりきたりしながら、さっきの仏教的な装身具を身につけたどこかの子らには、だまされがちな異空間の多種多様な存在に気づきながらも考えの過程が固着しているのに気がつかないか、と内的スケッチをほどこさずにはいられない。

 もしも正しいねがひに燃えて
 じぶんとひとと万象といつしよに
 至上福祉にいたらうとする
 それをある宗教情操とするならば
 そのねがひから砕けまたは疲れ
 じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
 完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
 この変態を恋愛といふ
 そしてどこまでもその方向では
 決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
 むりにもごまかし求め得ようとする
 この傾向を性慾といふ
 すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
 さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
 この命題は可逆的にもまた正しく
 わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
 けれどもいくら恐ろしいといつても
 それがほんたうならしかたない
 さあはつきり眼をあいてたれにも見え
 明確に物理学の法則にしたがふ
 これら実在の現象のなかから
 あたらしくまつすぐに起て

                     (宮澤賢治「小岩井農場 パート九」より抜粋/『春と修羅』)

 前述の宮澤賢治が言う人間生活の三要素を音楽的に翻案すれば、“ブルーズ”と“霊歌”と“ジャズ”ということになりはしないか。

 作品の言葉は読むものに意味の表情をつくらせる。このばあい言葉がなにも意味していないのに、意味がひとりでにつくられているのが最上なのだ。言葉が意味を与えることと、言葉が存在の輪郭を与え、その輪郭から意味が湧きあがってくることとはちがう。前者は言葉の機能がつくりだした〈意味〉だし、後者は言葉が存在をつくりだし、その存在がうみだした〈意味〉だといえる。言葉がつくりだした機能の〈意味〉と存在の〈意味〉のあいだには、いくつもの階層があるにちがいない。
                    (吉本隆明「父のいない物語・妻のいる物語」/『宮沢賢治』筑摩書房、1989年、69頁)

 つゝましくいとつゝましくその一一の
 一二平方デシにも充たぬ
 小さな紙片をへめぐって
 或いはその愛欲のあまりにもやさしい模型から
 胸のなかに燃え出でやうとする焔を
 はるかに遠い時空のかなたに浄化して
 足音軽く眉も気高く行きつくし
 あるひはこれらの遠い時空の隔たりを
 たゞちに紙片のなかに移って
 その古い欲情の香を呼吸して
 こゝろもそらに足もうつろに行き過ぎる
                    (宮澤賢治「浮世絵展覧会印象 一九二八、六、一五」部分)

 「浮世絵展覧会」の現場を突き抜けるように透視しているのは、忘れたことさえも忘れてしまって名づけることもかなわない《過ぎ来し方の身体経験の世界》ではないのか。
 かって詩人の菅谷規矩雄が『詩的リズム』(大和書房、1975年、215〜216頁)で、宮澤賢治の詩の原理となるリズムの根源をさぐりだし、「わたしたちは《春と修羅》第一集にいたるまでの宮沢賢治の、詩的リズムの推移を」、イ.五七五七七(短歌)→ロ.7・3・4(短歌的終止)→ハ.3・4・4・3(俗謡系)→ニ.3・3・7(わらべうた系)→ホ.4・4・7(仏教歌系)→ヘ.十五音=律として、その推移をえがいてみせてくれた。
 その『第一集』中の長詩「小岩井農場」では、推移した「十五音=律」のリズム構成を外す破調をシンコペーションにしてよりいっそう〈心象スケッチ〉を深くひろげてみせている。「宮沢賢治における十五音=律は、四拍子四小節から二拍子八小節へとテンポを圧縮してゆくダイナミックな強弱リズムの原型をぬきにしてはありえないものであるーーその意識ののするどさが、かれを他の近代詩人からきわだたせる。《原体剣舞連》のdah-dah-dah-dah-dah-sko -dah-dahにひとつの証左をみてもいいーーとはいえこのリズムを、詩の批評のもんだいとして理論的に説ききることはたやすくないのである。」[同前掲書、216〜217頁]
 かって吉本さんは「ニ」のリズムについて、政治や社会的な主題を失った大正期大衆ナショナリズムの特徴として指摘されていた。

 あゝ浮世絵の命は刹那
 あらゆる刹那のなやみも夢も
 にかはと楮のごとく敏感なシートの上に
 化石のやうに固定され
 しかもそれらは空気に息づき
 光に色のすがたをも変へ
 湿気にその身を増減して
 幾片幾片
 不敵な微笑をつゞけてゐる
                    (宮澤賢治「浮世絵展覧会印象 一九二八、六、一五」部分)

 「昔は時の方が特殊で空間や場、刹那が普通だった。生活、身体観も然り。/夕煙/今日はけふのみ/たてておけ/明日の薪は/あす採りてこむ/日本人はなぜ古文が読めなくなっ‥‥‥」(光岡英稔@ツイッター)たということだ。

 モースは北海道の小樽で、おそるべき体力を持った老婆に出会った。彼女は天秤棒をかついで帆立貝を行商しているのだったが、その荷はモースと彼の日本人の連れが持ち上げようとしてもどうしても上らぬほど重かった。彼らが断念すると老婆は静かに天秤棒をかつぎあげ、丁寧にサヨナラをいうとともに、「絶対的な速度」で往来を立ち去っていったのである。「この小さなしなびた婆さんは、すでにこの荷物を一マイルかあるいはそれ以上運搬したにもかかわらず、続けさまに商品の名を呼ぶ程、息がづづくのであった」。むろんこの老婆は当時の小樽の「魚売り女」の中で、特別の力持ちだったわけではなかろう。
                    (渡辺京二「労働と身体」/『逝きし世の面影』平凡社、2005年、146頁)

 詩集『春と修羅』や童話『風の又三郎』、『注文の多い料理店』、『銀河鉄道の夜』など宮澤賢治作品のあちこちからノイズのように漏れ聞こえる風の音。言葉以前の言葉みたいに、1924[大正13]年8月10、11日の自作劇四本立て公演のなかの「ファンタジー:ポランの廣場」で山猫博士がの「おいおい、そいつでなしにキャッツホヰスカアといふやつをやってもらいたいな。」で始まるオーケストラが演奏する舞台は1920年代の6月30日のイーハトヴォ地方が想定されているが、幕開けのト書きで指定されるレコード「♪ Hacienda, the society Tango」同様、引用音源は当時の「シカゴジャズ」ということだ[参考:賢治の「ジャズ」の情報源はシカゴ?(destupargo’s blog) https://destupargo.hatenablog.com/entry/2022/08/27/093912]。何事も詮索好きだったといわれる宮澤賢治は、そもそも「ジャズ」が発祥の地とされるニューオーリンズのストーリーヴィル地区の娼館での《性的結合》に由来することを知っていたのだろうか。

 当時の日本人にとって、男女とは相互に惚れ合うものだった。つまり両者の関係を規定するのは性的結合だった。むろん性的結合は相互の情愛を生み、家庭的義務を生じさせた。夫婦関係は家族的結合の基軸であるから、「言葉の高貴な意味における愛」などという、いつまで永続可能かわからないような概念にその保証を求めるわけにはいかなかった。さまざまな葛藤にみちた夫婦の絆を保つのは、人情にもとづく妥協と許しあいだったが、その情愛を保証するものこそ性生活だったのである。当時の日本人は異性間の関係をそうわきまえる点で、徹底した下世話なリアリストだった。だから結婚も性も、彼らにとっては自然な人情にもとづく気楽で気易いものとなった。性は男女の和合を保証するよきもの、ほがらかのものであり、従って恥じるに及ばないものだった。
                    (渡辺京二「身体と性」/『逝きし世の面影』平凡社、2005年、321〜322頁)

 1926[大正15]年の作品「ジャズ 夏のはなしです」[参考:雑誌発表形《https://ihatov.cc/haru_2/183_1.htm》]の別テイクみたいな未発表作品「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」に《騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが》とあるが、当時の宮澤賢治はいったいどのような「シカゴジャズ」を聴いていたのだろうか。リスムセクションの一角を担っていたのは息を吹き込む「チューバ」か指で弾く「ダブルベース」いずれだったのだろうか。また同時期当地ではやっていた「シカゴ・ブルース」は宮澤賢治の耳に届いていたのかいなかったのか。レコードだけでなく浮世絵の春画などいずれも収集するだけでなく、コンサートを開いたり、勤務先の職員室で同僚に見せるなど身体的に開かれた関心の構造の先には何があったのだろう。(2023年2月28日記/3月12日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(12)

          「私の考えは少し違う。私たちが音楽から感得するその呼吸と脈拍と起伏は、
           まさに自分自身の呼吸と脈拍と起伏そのものではないか。つまりリズムであ
           る。生命はリズムの循環に支配され、かつ駆動されている。肺の起伏、心臓
           の鼓動、筋肉の収縮のインパルス、セックスの律動、これらはすべて生命を
           刻むリズムであると同時に、私たちに自分のいのちの実在性を確認させる音
           でもある。つまり、音楽とは、私たちが外部に作り出した生命のリズムのレ
           ファレンスなのだ。文字通り、音楽とは生命のメトロノームなのである。そ
           のことについてワトソンと話してみたかった。」(福岡伸一『新版 動的平衡
           3:チャンスは準備された心にのみ降り立つ』小学館新書、150頁)

 台湾や朝鮮半島の支配を強化する一方で日本のシベリア出兵など植民地主義の時代に、アメリカ南部で西洋植民地主義と黒人奴隷制が結びついたクレオール文化を源とするディキシーランドジャズ[宮澤賢治がシカゴ・ブルーズを聴いていたかどうかは不明]が北上してシカゴで開花した響きが、宮沢賢治の「イーハトーヴ」にまでとどいていたのだ。


 宮澤賢治が短編童話「ポラーノの広場」をもとに、1924[大正13]年に自身で戯曲化した「ポランの広場」の幕開けには、当時米シカゴで人気のダンスオーケストラを率いたポール・ピースというジャズマンの曲を流すよう指定がある。
 また、戯曲中に登場する山猫博士が「キャッツホヰスカア(猫のひげ)」という曲をリクエストする場面も出てくる。ディキシーランドジャズ風で、やはりシカゴのバンドが演奏している。

                     (佐々木孝夫「宮沢賢治の愛聴盤を解明◇250枚計113曲を収集・復刻、ジャズ好きの顔も◇/『日本経済新聞縮刷版2022-9』2022年(令和4年)9月14日(木)文化40)


 夜間短大の学生だけでなく、暇を見つけては入り浸っていた地下のジャズ喫茶の出入り客の中には数少ない学生活動家[崩れ]や吉本隆明『共同幻想論』の読者も紛れ込んでいたり、交友が生まれた中には街頭行動だけでなく、同人雑誌仲間やスキー仲間に発展した僅かな人たちもいた。年金生活者になってから読んだ翻訳ジャズ本のちょっとした言葉ーー「自分の現実を忘れる」ことと「自分の現実をとりもどす」ことへの要求には娯楽音楽が送り返してくるものを受け入れること、受けつけないことの両面への要求でもある。ーーが滅多に振り返ることもない当時のジャズ喫茶の雰囲気を思いおこさせた。
 1960年代後半の来日ジャズミュージシャンの北陸公演だけだなく、閉店後のジャズ喫茶での地元ミュージシャンによるジャムセッションにも足を運んだが、ラジオで流れてくるロックミュージシャンなども含め、有名無名を問わず大衆的な人気に程遠いジャンルの演奏家達が将来的にどうやって食っていくのかなど、世間離れしたような若い生き様が気になったりした。国内のあちこちを流し歩いてきて、たまたま「ニューポート」に居ついたというウェイトレスと仲良くなり、彼女が読みたい本が勤務先の図書館にあって又貸ししたりしたこともあった。
 読み終えた本をマスターに預けて、彼女は“さすらい”街道伝いにどこかへ去ってしまい、かって列車と街道伝いに民家に売薬を配って歩いたことのあるマスターは“ジャズ”配置業に乗り換えたみたいに隣県の香林坊でジャズ喫茶をやると言って去って行った。

 当時のジャズ喫茶で掛かるLPは、地元だけじゃなく講習会や出張などで探し訪れた他所の場合もほとんどだったが、名演/名曲が収録されがちだったA面が定番だった。ジャズ喫茶でよくリクエストして聴いていたエリック・ドルフィー[bcl,as,fl奏者、1928.06.20〜1964.06.29]が『ラスト・デイト:ラスト・レーコディング』(マーキュリー/日本ビクター SMX-7009)のB面最後で「When you hear music ,after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again[音楽は終わると空中に消えてしまう。もう一度とり戻すことはできない。前掲レコード解説:油井正一]」と、自身の吹くバスクラリネットやアルト・サックスなどを自在な絵筆のように空に描き終えたドルフィーの言葉が、それまでジャズ的季節を潜っていた自らの〈身体〉を我に返らせるように聴こえた。


      岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)
                  一九二五・七・一九、

   ぎざぎざの斑糲岩の岨づたひ
   膠質のつめたい波をながす
   北上第七支流の岸を
   せはしく顫へたびたびひどくはねあがり
   まっしぐらに西の野原に奔けおりる
   岩手軽便鉄道の
   今日の終りの列車である
   ことさらにまぶしさうな眼つきをして
   夏らしいラヴスィンをつくらうが
   うつうつとしてイリドスミンの鉱床などを考へようが
   木影もすべり
   種山あたり雷の微塵をかがやかし
   列車はごうごう走ってゆく
   おほまつよひぐさの群落や
   イリスの青い火のなかを
   狂気のやうに踊りながら
   第三紀末の紅い巨礫層の截り割りでも
   ディアラヂットの崖みちでも
   一つや二つ岩が線路にこぼれてようと
   積雲が灼けようと崩れようと
   こちらは全線の終列車
   シグナルもタブレットもあったもんでなく
   とび乗りのできないやつは乗せないし
   とび降りぐらゐやれないものは
   もうどこまででも連れて行って
   北極あたりの大避暑市でおろしたり
   銀河の発電所や西のちぢれた鉛の雲の鉱山あたり
   ふしぎな仕事に案内したり
   谷間の風も白い火花もごっちゃごちゃ
   接吻(キス)をしようと詐欺をやらうと
   ごとごとぶるぶるゆれて顫へる窓の玻璃(ガラス)
   二町五町の山ばたも
   壊れかかった香魚(あゆ)やなも
   どんどんうしろへ飛ばしてしまって
   ただ一さんに野原をさしてかけおりる
         本社の西行各列車は
         運行敢て軌によらざれば
         振動けだし常ならず
         されどまたよく鬱血をもみさげ
          ……Prrrrr Pirr!……
         心肝をもみほごすが故に
         のぼせ性こり性の人に効あり
   さうだやっぱりイリドスミンや白金鉱区(やま)の目論見は
   鉱染よりは砂鉱の方でたてるのだった
   それとももいちど阿原峠や江刺堺を洗ってみるか
   いいやあっちは到底おれの根気の外だと考へようが
   恋はやさし野べの花よ
   一生わたくしかはりませんと
   騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが
   そいつもこいつもみんな地塊の夏の泡
   いるかのやうに踊りながらはねあがりながら
   もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
   緑青を吐く松の林も
   続々うしろへたたんでしまって
   なほいっしんに野原をさしてかけおりる
   わが親愛なる布佐機関手が運転する
   岩手軽便鉄道の
   最後の下り列車である



 エリック・ドルフィーのアドリブ演奏後[前掲レコード収録]の「言葉」に共鳴するかのような宮澤賢治の〈鉄道ジャズ〉詩の別バージョンだが、1926[大正15]年8月の『銅鑼』7号に発表された「「ジャズ」夏の話です」では《尊敬すべきわが熊谷機関手の運転する/銀河軽便鉄道の最終の下り列車である》となっていて、1925[大正14]年7月19日付の未発表詩稿「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)の《わが親愛なる布佐機関手が運転する/岩手軽便鉄道の/最後の下り列車である》と異なっているから、それぞれの鉄道ジャズ軌道は重なり合いながらも機関手がまるで《演奏者》のように違っている。いずれも〈身体を〉癒すように響いてくる〈鉄道ジャズ〉詩だが、宇宙とは違う地上の軌道では《騎士の誓約強いベース》がーーこれまで聴いたことのあるシカゴ・ジャズ・ライブCDに例えるなら「Hines/Spanier All Stars “Chicago Dates” sToryville STCD 6037」で聴けるPops Foster(string bass)の演奏のようにーーブンブン駈けぬけるようにリズムを刻んでいるようだ。


   シグナルもタブレツトもあつたもんでなく
   とび乗りのできないやつは乗せないし
   とび降りなんぞやれないやつは
   もうどこまででも載せて行つて
   北極あたりで売りとばしたり
   銀河の発電所や西のちぢれた鉛の雲の鉱山あたり
   監獄部屋へ押し込んだり
   葛のにほひも石炭からもごつちやごちや
   接吻(キス)をしやうが詐欺をやらうが
   繭のはなしも鹿爪らしい見識も
   どんどんうしろへ飛ばしてしまつて
   おほよそ世間の無常はかくのごとくに迅速である模型を示し
   梨をたべてもすこしもうまいことはない
   何せ匂ひがみんなうしろに残るのだ
      この汽車は
      動揺性にして運動つねならず
      されどよく鬱血をもみさげ
         ・・・・Prrrrrr  Pir・・・・・・・・
      筋をもみほごすが故に
      のぼせ性こり性の人に効あり

(宮澤賢治/「「ジヤズ」夏のはなしです」/一九二六・八月『銅鑼』七号掲載の半ば20行)


 残念ながらPC画面の横書きの行間からは響いてこないが、縦書き表示して読み流したりすると、なんだかCメロディサックス奏者フランキー・トランバウアー[1901〜1956]楽団の演奏[『Bix Beiderbeck:Real Jazz Me Blues SME Records SRCS9607~8』に収録]をバックにしたみたいに宮澤賢治のアドリブ・フレーズが心地よく響く。もっとも1920〜30年代当時のSP盤には、宮澤賢治の〈鉄道ジャズ〉詩の軌道を同じくする「銀河鉄道」および「岩手軽便鉄道」両バージョンともアドリブ・ソロは収まりきらなくとも、自然の森羅万象的リズムと天地異変的リズムが輻輳るすスウィング軌道を踊るように疾走する最終便として行き着く先はどこを目指しているのだろう?


 世界はイマージュ〈幻想〉として生成し、人間はその「幻想」を食べて生きる動物となる。生物としての人間は「食物(物質)を食べるが、心的世界(意識界)としての人間は「幻想」を食べ、「幻想」そのものを生きるのである。やがて、そこから抽出されたエッセンスが外化されて「物語」となる。この高次化された幻想は、現在ではありとあらゆる場面において発生し、社会化された現代人の欲望と行動の原動力となり続けている。
          (牧野直哉『リマリックのブラッド・メルドー:〈ポスト・ジャズからの視点〉I 』アルテスパブリッシング、2017年刊、25頁)


 高みを目指す「銀河鉄道」の幻想的視線の眼下には台湾・朝鮮半島から満州、シベリアへと拡大しつつある大日本帝國の植民地支配の触手の影が伸びつつあり、「岩手軽便鉄道」の幻聴的視線がクラシック音楽的な《小岩井農場》の残響とは異なる「ゴーシュ」の民家ならぬ壊れかかった水車小屋から漏れる「セロ」の音を聴いたり、先住山人と植民平地人がやりとりする「狼森と笊森、盗森」を抜け、西洋かぶれした仮初め狩猟青年紳士が先住動物に喰われかかる「注文の多い料理店」で地元猟師にたすけられるなど、植民地的擬人法の逸話豊かなイーハトーブの裏側で不景気さなかの都市部で胎動しつつあるシカゴ・ジャズ[&ブルーズ]の響きにも触れていた。作者のもじりみたいな「ゴーシュ」がセロの練習中に真夜中の水車小屋の扉を叩かれ「ホーシュ君か。」と声にした相手とはいったいどんな〈街道〉からやって来たのだろう?


 わたしは〈ホーシュ〉という名前の響きに注意したい。〈ゴーシュ〉と〈ホーシュ〉ーー一方が他方のパラリゼーションとみなしうるほど類似したこの一対の名称から、わたしは殆ど反射的に作品「双子の星」のチュンセとポーセや「シグナルとシグナレス」を連想するのだが、これらの作品におけると同じように、〈ゴーシュ〉と〈ホーシュ〉という一対になるにふさわしい名前をもった二人はかならず親密な〈二人の世界〉を形成するにちがいない。二人の親密さは、真夜中のノックをきいてゴーシュがとっさに〈ホーシュ君〉だと判断したことに象徴されているし、なによりもこの二人だけが物語の中で固有名でよばれるものの〈閉ざされた集合〉を形成するからである。
          (原口哲也「賢治童話への一視覚ーー「セロ弾きのゴーシュ」の分析(二)」/『試行』No.63,1984年11月、30頁)


 主人公の「呼び名」は、詩集『春と修羅』所収の「樺太鉄道」に「山の襞のひとつのかげは/緑青のゴーシユ四辺形/そのいみじい玲瓏のなかに」とあるように、立体化学で用いられる用語としてフランス語の「gauche?=ねじれた」という意味の語に由来しているようだ。「ホーシュ」についてはなんだか主人公「ゴーシュ」のもじりというより、作中の擬人化された小動物たちとの四つの音楽的エピソードを媒介する影のようにも見える。「一対になるにふさわしい名前をもった二人」といっても、まさか音楽的盟友だった「藤原嘉藤治」や同人誌仲間の一人「保坂嘉内」や音楽鑑賞会仲間以上の仲で別離後にシカゴに渡って旅館経営者との束の間の結婚生活中に亡くなった「大畠ヤス」のことではないだろう。「心象スケッチ」としての詩作の場合とはちがい、ひたすら『法華経』の実践者として何かをしたいという思いにかられて「童話」を書き綴った宮澤賢治のことだからプライベートなことがらはいっさい遠ざけられているといっていい。

 若かった頃は「ゴーシュ」が「宮澤賢治」だとおもわされたのだが、おそらく作中に出てくる擬人化された名前のないどの小動物たちにも〈ほんとうの宮澤賢治〉が「ゴーシュ」同様に分身・投影化された音楽童話として読める。とんでもない時間・空間感覚に満ちた宮澤賢治作品中に出没する多種多様な〈作者〉の影に惑わされてはいけないのだ。読者向けというより自分向けに書き残された「雨ニモマケズ(十一月三日)」の東西南北へ行き来する横の関係に右往左往するしかない〈身体〉を揺り動かし、そして勃たせる縦の関係として音楽的律動を求めて西洋音楽やシカゴ・ジャズのSPレコードを買いあさり、チェロ演奏を学んだりしたに違いない。


 ただより正確に言えば、音楽によって「血のまわりがよくなり、たいへんいい気持ちになる」ためには、響きを感じるだけでなく、響きの作り出すリズムに自然に反応することが必要でしょう。それによって「音楽的リズム」はねずみの子とゴーシュの命を支える「生理のリズム」と呼応し、その呼応のなかでねずみの子とゴーシュは「生きる時間」を共有し、生成する「音楽」と「自己」と「他者」の一体感が形成されることになります。この一体感は、狸の子との共演の場面においてすでに予感されたものでした。ただそこでは互いに楽器をとって合わせることへの意識が、つまり「自己」と「他者」の間の距離の意識が、その十分な実現を妨げたのでした。
               (西崎専一『ジョバンニの耳』風媒社、2008年刊、139頁)


 では、なぜ狸の子との共演がなぜうまくいかなかったのか。


 「鳥まで来るなんて。何の用だ。」
  ゴーシュが言ひました。
 「音楽を教はりたいのです。」
  かくこう鳥はすまして言ひました。
  ゴーシュは笑って、
 「音楽だと、おまえの歌は、かつこう かつこうといふだけちゃないか。

  するとかくこうが大へんまじめに、
 「ええ、それなんです。けれどもむづかしいですからねぇ。と言ひました。
 「むづかしいもんか。おまへたちのはたくさん啼[な]くのがひどいだけで、なきゃうは何でもないじゃないか。」
 「ところがそれがひどいんです。たとえば、かっこう とかうなくのと、かつこう とかうなくのとでは、聞いてゐてもよほどちがふでせう。」
 「ちがはないね。」
 「ではあなたにはわからないんです。わたしらのなかまなら、かつかう と一萬言へば一萬みなちがふんです。」
 「勝手だよ。そんなにわかってゐるなら何もおれの處へ来なくてもいいではないか。」
 「ところが私はドレミファを正確[せいかく]にやりたいんです。」
 「ドレミファもくそもあるか。」
(下線部=引用者)
               (宮澤賢治「セロ弾きのゴーシュ」」/松田甚次郎編『宮澤賢治名作選上』羽田書店刊、昭和廿一年七月廿日第十二刷發行、13〜14頁)


 ゴーシュにはどうしても下線を引いた「かっこう」と「かつこう」と「かつかう」の違いがわからないから、「一萬言へば一萬みなちがふんです。」が「勝手だよ。」ということになってしまう。
 ちなみに『校本宮澤賢治全集第十巻』(筑摩書店、昭和四十九年刊)や『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫、平成元年刊)所収の「セロ弾きのゴーシュ」の前出アンダーライン箇所のひらがな表記も編者の思惑のままというか、〈オリジナル〉を典拠とした用字上の区別や統一ができない恣意的な編集状況がうかがえるが、音楽的スイング感として妥当に思える上記引用に従って話を進めることにしたい。
 擬人化されたかっこうは、スタ_スタ_スタ_スタ_スタと歩いたり、スクタ_スクタ_スクタ_スクタ_スクタと歩いてみたりーー身体的な律動=リズムの区別ができるーーがゴーシュはそれがどうにもできなさそうで、かっこう と かつこう と かつかう の区別がつかない。だから翌晩にやってきた小太鼓係りの狸の子が棒切れ二本で「セロのコマの下のところを拍子をとってぽんぽん叩きはじめた」のに合わせてジャズ楽曲『愉快な馬車屋』をうまく弾きこなせないことになってしまう。
 また、「ところが私はドレミファを正確[せいかく]にやりたいんです。」というかっこうとゴーシュの音楽的なやりとりがうまくいかないのだろうか。
 世の中には、楽器が弾ける人と、弾けない人がいるように、楽器が弾ける人にもアドリブができる人と、できない人のふたとおりがある。アドリブとは即興演奏のことだがそれを可能にしているものが何なのかがもうひとつよくわからない。


 執筆中、私は三十三歳のアラキが残したアルバム「ミッドナイト・ジャズ・セッション」を毎晩のように聴きながら眠りに就いた。郷愁あふれるアラキのメロディは一音一音、譜面に起こせるほど確実に私の耳に届いている。なのに、コード(和音)としては響いてこない。学生時代の苦い思い出が甦った。
 昭和の日本家庭にありがちだが、私は幼少期からピアノを習い、聴音など英才教育を受けた。しかし親の期待を裏切り普通高校に進み、大学生になってジャズに手を染めようとした。ヤマハのスクールで半年間、理論を教え込まれた後、いざ演奏する段になってみると、先生が眉間に皺を寄せ、深くため息をついた。ジャズのリズムとコードのセンスが私に無かったからだ。
 譜面を見てビッグバンドで演奏したジャズメンが戦後すぐにアドリブを要求されたとき、似たような壁に突き当たったのではないだろうか。そこに救世主のようにアラキが舞い降りた。
 もし私がハワイでアラキに巡りあっていたら、どんな助言を与えてもらえただろう。ツボを教わって、もう一度ジャズを勉強しようと奮起しただろうか。

              (秋尾沙戸子「あとがき」/『スウィング・ジャパン:日経米軍兵ジミー・アキラと占領の記憶』新潮社、2012年刊、310〜311ページ頁)


 なんだか宮澤賢治の〈鉄道ジャズ詩〉に乗りあわせて遡行したみたいに、「セロ弾きのゴーシュ」の狸の子だけでなくかっこうとの音楽場面が甦ってくる。「金星楽団で」譜面通りに演奏することがやっとだったゴーシュが、後日「町の公會堂のホール」で成功した楽団公演のアンコールでソロ演奏ができるまでには、初夜の三毛猫と第四夜の野ねずみ母子らとのエピソードを入り口と出口にした四夜にわたる音楽的訓練が必要だった。無我夢中で完全燃焼するアドリブというよりインプロビゼーションに近い「印度の虎狩」の独演も終わってしまえば空中に消えてしまう。もし録音されていたとしても、それは音盤に残されたただの楽譜に過ぎない。

 前出日経新聞記事で知った佐々木孝夫監修のCD『“ジャズ 夏のはなしです”〜宮沢賢治が出会った洋楽はやり歌・ジャズ〜』を聴いた実感としては、音楽的嗜好の多様性というより、聴くだけじゃなく演奏もする人としての〈雑食性〉を指摘したい。戯曲「ポランの広場」からは、トラック2に「当時米シカゴで人気のダンスオーケストラを率いたポール・ピース[Paul Riese=CDジャケット表記]というジャズマンの曲」およびトラック3に「戯曲中に登場する山猫博士が」リクエストした「キャッツホヰスカア(猫のひげ)」という曲」、そして童話「セロ弾きのゴーシュ」で三毛猫のリクエスト「トロイメライ」に反して弾いた『印度の虎刈り』該当曲がトラック8に、狸の子が楽譜を出してリクエストする『愉快な馬車屋』がトラック7に、それぞれ他のトラック収録曲と同じようにSP音源から復刻されていてびっくりした。4曲ともデキシーランドジャズからスイングジャズそしてビバップへの移行期にあったシカゴ・ジャズ・シーンのダンス音楽としての側面をあらわす演奏といっていいだろう。


 とはいえいま中年を迎えた女でも男でも、その生まれたころにはこうした話はまったく存在しなかった。「ジャズ」という名称でさえも、活字になったり活字になるほどの意味をもったりしたのはせいぜい四〇年あまり前、そう一九一五年ごろのことだった。いまの時点からさかのぼってみると、ジャズは人生にあてはめれば高年齢だがそれほど老いているわけではない。一九〇〇年代初期には南部の黒人でもミシシッピ川の河口地帯[デルタ]に不安内なら、この音楽をきいてびっくりしたほどだ。白人のオリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドは「ジャズ」という名称を世に広めた楽団として知られるが、一九一七年にマンハッタンのライゼンウェーバー・カフェに登場したときには、これはダンスのための音楽ですとわざわざ店に張り紙をしなくてはならなかった。それ以降、ジャズはただ驚くばかりの手法で、すべてをその影響のもとにおさめながら発展をとげている。
               (エリック・ホブズボーム/諸岡敏行:訳『ジャズシーン』績文堂、2021年発行、49〜50頁)


 前記トラック7の「Livery Stable Blues 馬小屋のブルース(Nynez/Lee/Lopez)Original Dixieland "Jass" Band」の「ジャス」表記にも注目させられた。数年前に読んだ石塚真一のジャズ漫画『BLUE GIANT:ブルージャイアント』(小学館)のジャズ・トリオ[宮本大(ts)、沢辺雪祈(p)、玉田俊二(ds)]が“JASS”を名乗っていたからだ。なぜか、一流のサックスプレイヤーを目指す宮本大は理解ある彼女もいるのに童貞のような設定になっていた。このジャズ漫画の第7巻に所収の著者インタビューで「ソロでインプロビゼーションで演奏する時は、あなたの頭の中はどうなってるんでしょう?」にこたえて、W.ショーター[ts,ss奏者、作曲家、1933.08.25〜2023.03.02]がトニー・ウィリアムス[ジャズ・ロック・ミュージシャン、1945.12.12日〜1997.02.23]の言葉を紹介していた。「君にそれを話して教えられるのなら、自分はドラムを叩く必要がない」と言ったようだ。常に即興で自己模倣にならないソロ・インプロビゼーションを、演奏のたびに身体から引き出せるか出来ないかの境界線を生きた名ドラマーならではの厳しさと楽しさを併せもつエピソードだ。

 宮澤賢治が愛聴した20世紀初頭からニューオーリンズを中心に発展したディキシーランドジャズの当初は譜面がなかったということだが、トラック7で聴けた「Original Dixieland "Jass" Band」の演奏はバンドメンバー全員によるコレクティブ、インプロビゼーションの響きに満ちている。“メンフィス・ブルーズ”を譜面に書きとめたW.C.ハンディ[1893〜958]は「ブルースの父」と呼ばれていても、クラシック音楽の訓練経験のあるミュージシャンのようで、根っからのブルーズマンではなかったようだ。1900年代の前半世紀間のジャズの目まぐるしい変化の坩堝にあたるシカゴ・ジャズのSPレコードを聴くことによって、ジャズのエッセンスだけじゃなく時代的な響きをも宮澤賢治はつかみ取っていたのではないか。
 二十代半ばの突然の「家出」だけじゃなく折に触れて幾度となく定住を避けるかのように、花巻と東京とを行き来することの多かった宮澤賢治は、誕生時から死の間際にまで地震や津波や旱魃そのほか天地異変の脅威にさらされるなど東北の厳しい自然環境下での土壌・農業技術者としても、大正から昭和にかけて興隆しつつあった当時の産業構造の山嶺から吹きおろす社会的速度からの疎外感もじゅうぶん感じとっていただろう。


 第一にこれからみていくことだが、ジャズの本質はジャズに影響されたポピュラー音楽のばあいとはちがって、規格化とか大量生産をされる音楽ではないことにあるし、第二にジャズは現代の産業とはほとんど関係をもたない。ジャズがこれまでにその音をまねしようとした機械は鉄道の列車だけであり、過去一世紀にわたるアメリカの民衆の音楽をとおし、広く共通していて、もっとも重要な象徴であるし多様なものをあらわすとは研究者たちの分析するところだが、といって機械化のシンボルには一度もなっていない。それどころか自分の思いを鉄道に仮託したレイルウェイ・ブルースの譜面が教えるとおり、自由をもたらす移動の象徴だった。
[ブルースの歌詞の引用部分を省略]
 強いあこがれや深い悲しみのシンボルとしてなら「How I hate to hear that freight train go/blow hoo-hoo大嫌いだよ、貨物列車が泣きわめきながら行くのをきくなんて」というぐあいだった。鉄道建設の重労働の象徴としてはジョン・ヘンリーの伝説を歌った有名なバラードがある。疾走する機関車が男の精力の象徴、性交渉の象徴であり、ベッシー・スミス[一八九四〜一九三七]の“ケイシー・ジョーンズCasey Jones”はその例だ。[ブルーズの引用例略]できかれるとおり、なみはずれた力で鉄道つまり産業革命から生まれ、そのまま詩と音楽にとりこまれた唯一の工業製品の音と興奮を再現している。これが工業化社会のなにかの一面をあらわすとしたら、二〇世紀の大量生産の社会ではなくて一九世紀の終わりの機械化していない社会のほうだ。「鉄道ジャズ」には一八九〇年代に思いつかれなかった要素はなにひとつふくまれていない。
               (エリック・ホブズボーム/諸岡敏行:訳『ジャズシーン』績文堂、2021年発行、53〜55頁)


 身体的〈左右・上下〉スイング感に秀でた宮澤賢治の〈鉄道ジャズ〉詩は、宮澤賢治が農学校教諭暮らしの道を自ら閉ざし、実家を離れ下根子の二階建てを塾のよう改造して「農民芸術概論」の講義や肥料設計など各種農業相談を行う《羅須地人協会》という未踏の領野へ分け入る意気込みに呼応する躍動感のようにも響いてくる。創作や農耕だけじゃなく音楽にまで手を染める息子の労苦を諌める父政次郎の言葉に、宮澤賢治は手紙の中で、文学とくに詩や童話劇の詞の根底になる〈音楽〉がどうしても欠かせないとこたえている。

 幼少の折に何かと世話になった母の実家の叔父さんが建て替える前の民家然とした広い居間の片隅に蓄音機が普段使われないままに置いてあった。実家の祖母から針の交換の仕方を教えてもらい、好奇心にかられるままに家捜しして見つけたSP盤をかたっぱしから回し聴いて遊んだ。宮澤賢治のコレクションにおよびようもなく、どれもこれも邦楽ばっかりでそのうち飽きてしまった。その後も母方の親戚一同が集まる秋祭りの座興の伴奏音源として重宝されていたようだが、いつの間にか壊れてしまっていた。とにかくSP盤による「ジャズ」との遭遇はなかったわけだが、埴生の自宅では、母の好みもあって石原裕次郎や森進一や青江三奈や藤圭子のLPに混じって、次第にジャズのEP盤やLP盤が鳴り響くようになっていた。祖父に咎められることもなく近所からの苦情もなかったが、ジャズ愛好者として何と無く片身のせまい世間の風あたりを風来坊のようにもてあましていた。(2023年5月22日記/23日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(13)

          「いうまでもないことだが、私たちは誰しもなにがしかの形で植民地人である。
           被征服民として植民地勢力に屈しながら生き延びているのか、入植者として征
           服者の権力保持に加担しているのか、輸入奴隷として新天地で繁殖をつづけて
           いるだけなのかの種別は、私たちが等しく植民地人であるという事実に比べた
           ら、きわめて些細なことである。」
             (西 成彦『[新編]森のゲリラ 宮澤賢治』平凡社、2004年刊、12頁)

 富山市内の1960〜70年代のとある地下における〈ジャズ〉を演奏する者とそれを聴く者とが交差する姿が垣間見えたジャズ喫茶通いも1970年の1月19日(月曜日)をもって止まってしまった。富山市内から高岡市内への人事異動に前後する頃だが、夜学生の頃から続いていた女との破局があり、その数年後に縁が生じた結婚にともなう新居の新築移住など諸々の家庭内事情を漕ぎ分けるような日々を過ごした。
 それでも東京出張の際に、銀座ハンターでLP7枚を売って[3,600円]ジョン・コルトレーン[ts&ss奏者、1926.09.23〜1967.07.17]とオーネット・コールマン[as&tp他、1930.03.09〜2015.06.11]とセシル・テイラー[クラシック音楽教育を受けたフリー・ジャズ・ピアニスト、詩人、1929.03.25〜2018.04.05]の3枚を買って帰るなどジャズレコードを買って聴き続けることが生活の一部みたいになりつつあった。
 一年あまりかけてようやく祖父から「この歳では孫のお前を頼ってついていくしかないだろう」の言葉が聞け、埴生の宅地や田畑の売り払いは若輩の孫より村人の信用があつい母と祖父にお願いした。新婚の自分ら夫婦は、富山市内の団地で義父が自宅療養していた建売住宅に転がり込み、妻の勤務先に近い富山市内の宅地の物色と購入後の家の新築に明け暮れた。買った田んぼを整地して新家屋が出来るまでの仮住まいだったが、姉夫婦から結婚祝いに贈られたレコードキャビネットに入るだけのジャズレコードと再生装置を持ち込んだ台所で聴くひと時をくつろげるよう工夫した。
 石川との県境の山際の埴生の民家住まいを離れたせいか、甍の上がすぐ空という富山市郊外で区画整理された団地の一軒家住まいが物珍しいというより、なかなか馴染めなかった。義父に気兼ねしながら北側の台所の板の間にスピーカーを置いて鳴らしたジャズも、隣接するパン職人夫婦の居間まで漏れ聞こえていたに違いないような普請だった。お願いしたわけでもないのに、事情を察した北隣の奥さんから「義父さんの食事の世話をするから新婚旅行に行ってきなさいよ」と背中を押してもらえた。たまたま飛騨の神岡から富山に移住した隣人夫婦のおかげで、北海道の旭川住まいだった義父の弟さん一家に歓待され、初めて休暇を取った息子さんの運転で旭川の町並みだけでなく層雲峡そのほかへも案内してもらった。
 なんとか1年後に引っ越せた高屋敷の新居で同居療養中だった義父の見舞いがてら、北海道から夫婦で訪ねてこられるまでの縁ができてほんとうに嬉しかった。
 その際にわかったことだが、次男の義父には衛生兵として国内での軍隊経験があり、三男の義叔父は樺太で除隊されたとのことだった。敗戦の年の8月に侵攻してきたというロシア兵と戦ったのかどうかなど一言も聞けなかったが、とにかく富山に帰って住む家もなかったから北海道の旭川で戦後を生き延びる道を選ばれたようだった。


 世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてもどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりも一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。会津盆地の片田舎の貧農の家に育った蓮沼門三の自伝をよんでみて、家族内での人々の生き方をみると、われわれの家とはほとんどかわっていない。こうした貧農の家の日常茶飯事についていてかかれた書物というものはほとんどなくて、やっと近頃になって「物いわぬ農民」や「民話を生む人々」のような書物がではじめたにすぎないが、いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や悲痛感がでていないと承知しなかったものである。
           (宮本常一「私の祖父」/『忘れられた日本人』(岩波文庫)1984年刊、209頁)


 敗戦直前に日本の植民地政策下にあった京城から引き揚げ、母子三人が暮らすことになった祖父の民家があった埴生村でも、従軍による戦争経験者だけじゃなく「満州」からの引き揚げ体験者からも「過去話」が聞けたなんてことはほとんどなかった。ただなんかの会話のの切れ端で耳にした「ロスケ」とか「チャンコロ」とか、朝鮮からの引き揚げ者に向かって「芸者の子」だの、北海道の開拓民のことを「シャモ」だの、子どもの耳や心に世間の裏表を聞き分けさせるように響くコトバがあった。
 高卒前後まで何かと訪れたことのある母の実家界隈での人当たりはあくまでもK合家の親戚の者という範囲内にとどまるものだった。小・中学校の夏休みの実家帰りの際など、近所の民家の子どもらから川魚獲りに誘われたりもしたが、どこかよそ者あつかい感がぬぐえなかった。散居村暮らしより里山暮らしの子ども心に映るもろもろの事物というか、忙しい大人が見過ごしがちな森羅万象の訪れが日々の慰安だった。
 亡き父親代わりに母の実家由来の冠婚葬祭の席に幾度となく臨まされたが、たまたま隣合わせになって会話がはずみ酒も美味しかった馴染み人の縊死の報に触れるたびに唖然として嘆いたり、散居村地域として散在する民家の屋敷森に隠された家族関係の歪みや軋みを想わざるを得なかった。出奔、狂気そのほか民家の屋根の裏で演じ隠されつつある物狂おしい現実に圧倒されるように言葉を失うしかなかった。


 どのようなひとことであろうとも、云う人間が籠めて吐く想い入れというものがある。父が「淫売」というとき、母がいうとき、土方の兄たちがいうとき、豆腐屋の小母さん、末広の前の家の小母さんがいうとき、こんにゃく屋の小母さんがいうとき、全部、ちがう「淫売」なのだ。けれども微妙なその発語への、ひとりひとりの思いのようなものは、どこかでひとつに結ばれていた。外ならぬ「淫売」というその言葉によって。淫売であるあの、あねさまたち自体の姿によって。
 淫売という言葉を吐くときの想い入れによって、自分を表白してしまう大人たちへの好ききらいを、わたしは心にきめだしていた。末広の妓[おなご]たちを慕わしくいおもっているわたし自身が、大人たちへのひそかなリトマス試験紙そのものでもあった。大人たちは常にどこででも反応を示していたのである。そのわたしとはいえば、飴事件のようなことをやらかしていたにしても。

           (石牟礼道子「第八章 雪河原」/『椿の海の記』朝日新聞社、1976年刊、209頁)


 聞き覚えによるしかないが、三歳までの朝鮮総督府の官舎暮らしで何かと世話になったであろう朝鮮人のお手伝いさんとの日常会話は「日本語」だったというから、母のように耳で覚えて持ち帰った朝鮮語など一言もしゃべれない。朝鮮語を禁じられ、日本語しか使えない馬車に乗り合わせたたような植民地街道はどのような岐路にさしかかっていたのだろう?


 ものをいえぬ赤んぼの世界は、自分自身の形成がまだととのわぬゆえ、かえって世界というものの整わぬずうっと前の、ほのぐらい生命界と吸引しあっているのかもしれなかった。ものごころつくということは、そういう五官のはたらきが、外界に向いて開いてゆく過程をもいうのだろうけれども、人間というものになりつつある自分を意識するころになると、きっともうそういう根源の深い世界から、はなれ落ちつつあるのにちがいなかった。
            (前掲書、199頁)


 引き揚げ後に読み(書き)ができるようになった頃に何よりも慰めになったのが『宮澤賢治名作選』上、中に収められた童話や詩に触れることだった。たまたま思いついた母が買ってくれた我が家唯一の二冊の蔵書の色あせない魅力のひとつが、作品のあちこちに散りばめられたオノマトペ[擬音・造語の総称]による、例えば《原體剣舞連》[dah-dah-dah-dah-dah-sko -dah-dah]や《オッペルと象》[グララアガア グララアガア]や《風の又三郎》[どっどど どどうど どどうど どどう]で出逢った〈拍子/ビート〉の強調・表出にあった。田舎での陰湿ないじめにさらされる一方でいつの間にか〈性〉に目覚めたというか、作者独特の多様な擬音・造語の世界に未知の〈エロス〉が予兆する音や色や匂いまで盗み聞いていたのかもしれない。実際に「女から湿り気が無くなったらダメだ」と語り合う村の老人の世間話に聞き耳を立てたりしたこともあった。
 幼少期の宮澤賢治作品のオノマトペに共鳴したかのような幼児幻覚《街道を過ぎ行く老人のイメージ》体験を再び呼び覚まされたのが、老境に差し掛かるのを待っていたかのように図書館で手に取った石牟礼道子全集で出逢った「道というものは、もっとも不思議なもののひとつだった。」[『椿の海の記』第七章 大回りの塘」冒頭]の一言だった。


  町の年寄りたちは、朝、孫たちを起こすのに云っていたいた。
 「ほら、もう、ずず、くゎん、くゎんの鳴りよらすぞ。起きてみんかい。今日どま、雨の神様の、来てくれらすかもしれん。ほら、ずず、くゎんくゎん、ずず、くゎんくゎんの‥‥‥聞こゆっぞ」
  夏の早いあかつきに、どこかの峰でもう、雨乞いのドラと鉦が、遠く遠く、切実な祈りをこめてけんめいに鳴る。ずず、とはお腹にこたえてくる大ドラの響きの擬音で、鉦は、かんと鳴らずに、くゎん!と鳴らねばならなかったのである。

 ずず、くゎんくゎん
 ずず、くゎんくゎん
 ずず、くゎん、ずず、くゎん
 ずず、くゎんくゎん

 山の頂までドラと鉦を打ち鳴らしながら登り進んで、祠[ほこら=原文ルビ]がなければ祠を建てて、村の中のいちばんよい井戸から汲んだ清水を天に供え、祈願者たちも一口づつ干あがった咽喉[のみど=原文ルビ]にいただき、幾日もお籠[こも=原文ルビ]りして、まだ雨を下さらぬときは頂を降り、迫迫[さこさこ=原文ルビ]を下って海の方に向かう。
[下線部原文傍点]
           (石牟礼道子「「第七章 大回りの塘」/『椿の海の記』朝日新聞社、1976年刊、178頁)


 引き揚げ地の集落生活で児童参加した埴生村の獅子舞をはじめ、家並み街道を練り歩く冠婚葬祭など当時の習俗にともなった響きの幼児体験が共鳴するかのように、出自としての自然や家族に向き合いつつあった4歳児の「みっちん」が感受した雨乞い行列の特異なオノマトペ表出に揺さぶられた。

 「石ッコ賢さん」とも呼ばれる一方で、宮澤賢治のひたむきな入信や、それにともなう信仰上の家庭内外での「対立」や「奇行、」と家出、その後のギクシャクして見える出処進退など、地元住民の好奇の目や噂話にさらされた「虚像」や「実像」を見守った大家族の〈沈黙〉に彩られた妹トシの病死。
 教え子の就職斡旋のための1923[大正12]年夏の樺太旅行の際に、経由地の旭川に立ち寄った詩的スケッチ「旭川」のなかほどの「おゝ落葉松 落葉松 それから青く顫へるポプルス」のフレーズを読むと「おゝラリックス ラリックス それから青く顫へるポプルス」と読み替えたくなるのにあえて漢字のまま残された気がする。幽明界へと旅立った妹と感官外の交信をするかのように、宮澤賢治のオノマトペ表出は〈ことばを持っている世界を本能的に忌避するような〉幼児感官界へ分け入る扉を叩いているようだ。


 物はうごくとき音にふれる。擬音はこのひとりでにふれる音に、間と切断と持続のパターンをあたえることだ。それは音の幾何学だといえる。さらに擬音を言葉でいおうとすると、もともと意味をつくる機能を第一義にしている言語を、意味以前のところでとどまるように、分節化の以前の「不完全」な機能でつかわなくては由緒ある擬音にはならない。
 ひとつの事象がひとりでにうごくとき、生物が本能的に行動するとき、また人間が無意識に移動するとき、耳にとどく音にふれえないときもある。この音にふれえないうごきは眼でみられることがある。この音にふれないが眼でみえる事象のうごきを、音韻の機能だけであらわしたらどうなるか。これもまた擬音の世界をもたらすにちがいない。うめばちそうの白い花がゆれるさまが「ぷりりぷりり」と表現されると(「十力の金剛石」)、いくらか固い感じのする花の動きがみえるような気がするし、鈴蘭の葉や花が風にふれあうさまが「しゃりんしゃりん」と音化されると(「貝の火」)、わたしたちは花のかたちとうごきを同時に感じられる気がしてくる。かたちとうごきが音像ともいうべき状態で伝わってくるからだ。

          (吉本隆明「擬音論・造語論」/『宮沢賢治』筑摩書房、1989年、318〜319頁)


 富山市郊外の高屋敷で建てた新居での家族生活も落ちついてきた1975年2月14日(金曜日)の夜、留守居を母にまかせて妻と東京・中野サンプラザでのエラ・フィッツジェラルド[アメリカ合衆国のジャズ・シンガー、1917.04.25〜1996.06.15]&トミー・フラナガン[1930.03.16〜2001.11.16]トリオ公演を聴きに行ったときのことだった。舞台左袖からゆったり現れた彼女がすでに身体で拍子を取りながら歌っているようにしか見えなかった。実際は聴衆の歓迎の拍手と歓声しか聞こえていなかったのに。
 その4ヶ月後の6月13日(金曜日)の夜に出かけた市内の県民会館でのアニタ・オディ[アメリカ合衆国出身のジャズ歌手、1919.10.18〜2006.11.23]の公演ではそんなことはおこらなかった。

 結婚するまでジャズ・ライブとは縁がなかった妻と一緒に出かけたセシル・テイラ・ユニット[ジミー・ライオンズ(as)、アンドリュー・シリル(ds)]公演[1973年5月22日(火曜日)東京・新宿厚生年金会館大ホール]の第2部にはいささか面食らってしまった。第1部のホール全体をを埋め尽くすような即興演奏は、富山市内のジャズ喫茶などで聴いていた山下洋輔トリオのライブとは違うスピード感があって、期待してのぞんだ第2部は驚いたことにセシル・テイラーによる奇声と舞踏に尽きる〈演奏〉だった。あれは疾走する〈オノマトペ〉みたいな彼のピアノ演奏を追い越した世界だったのだろうか。フリー・ジャズには時間を追い抜くようなスピード感があるように、オノマトペには通常の意味の世界を突き動かす響の作用だけでなく、森羅万象の出来事の世界に意味を付与するような擬人化の効果をもたらしたりする。
 寝しずまった夜のしじまに耳にするなんの脈絡やイメージもない無意識の露頭のような幼児の片言や家人の寝言など、人が人であることの無意識の闇を探索するソナーのような〈オノマトペ〉が現れたりすることもある。


 この無意識の闇にきえてゆく擬音の物語は、宇宙のなかの現象の音のどれにも似ていなければいい。そんな想像をひとびとに促せばいいのか。それとも何かの音に似ているという想像を促せばいいのか。ここには作者の乳児資質がかくされているようにおもえる。またもしかすると作者がエロスを遂げようとする無意識の語音のようにもおもえる。体内から性液を一滴ももらしたことがなかったものは、世界にじぶんをふくめて三人しかいないと知人に語ったという伝説が、宮沢賢治にはある。もしエロスの情感が性ときりはなされて普遍化でき、その普遍化が幼童化を意味するとすれば、まずいちばんに擬音の世界にあらわれているといえそうな気がする。音の意味はかくされてしまうのに、その意味を解するのは幼童とその〈母〉だけだからだ。あるいはこうもいえる。〈母〉の無声の言葉を理解する体験の記憶と通路をもち、未文節の音声を〈母〉とかわす体験をなまなましく記憶している幼童性は、普遍的なエロスの原型をなしている。宮沢賢治の資質は擬音をつくりだすことで、そこにかぎりなくちかづこうとした。
          (吉本隆明「擬音論・造語論」/『宮沢賢治』筑摩書房、1989年、326頁)


 聴きこめば歌[歌詞]の響きは言葉のそれとは微妙に違っているように、日本語で思考している表現の距離感があるとしても、言葉になりそうでできない表現をオノマトペや音楽に引き受けさせたかのようにみえる宮澤賢治は、生まれ育った地域の地層や堆積した岩石や鉱物などを解き明かすように、「Ho! Ho! Ho!/むかし達谷の悪路王/まつくらくらの二里の洞/わたるは夢と黒夜神/首は刻まれ漬けられ/アンドロメダもかがりにゆすれ」[原体剣舞連(mental sketch modified)]と引用された「悪路王」を退治した東北地方の坂上田村麿将軍征夷の故事を詠みこんでいるが、自分自身の出自や来歴についてはどう掘りおこしていたといえばいいのだろう。


 宗教から恋愛へ、そして性欲へと連続して流れてゆく情操と願望のうつりかわり(変態)という理念は、宮沢賢治の生涯の理念であるとともに、生涯によってじっさいに演じられたドラマだった。この考え方はふつう倒さだ。人間の身体の生理的なうつりゆきの必然的な過程で、性欲がきざし、さかんになり、思春期にはいって、ひとりの異性をもとめる願望に結晶してゆく。この願望がうまく遂げられず、そのあげく宗教的な自己救済や人間救済の願いをもつようになる。そんな過程はありうる。だがこの逆はない。宮沢賢治がスケッチャーとしてここ[「小岩井農場パート九」=筆者注]で展開している考え方は、逆だった。これはただの詩的修辞とみなさないとすれば、宮沢賢治の生涯の謎を理念化したものだといえる。かれには性欲の抑圧や昇華はあったろうが、性や恋愛にまつわる挫折はない。また宗教的な願望に固執するあまり、生涯の生活を挫折させたとはいえるが、生活の挫折のあげく宗教の救済感に変態したことはなかった。そうかんがえていいはずだ。わたしたちは宮沢賢治の心理と生理の発達史を掘りおこして、かれの意識と無意識のドラマを見つけだそうとしても、ガードがあまりにもかたくて、不可能にちかい。
          (吉本隆明「擬音論・造語論」/『宮沢賢治』筑摩書房、1989年、267頁)


   もう決定した そつちへ行くな
   これらはみんなただしくない
   いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
   発散して酸えたひかりの澱だ
  ちひさな自分を劃ることのできない
 この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしよに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない
さあはつきり眼をあいてたれにも見え
明確に物理学の法則にしたがふ
これら実在の現象のなかから
あたらしくまつすぐに起て
明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
馬車が行く 馬はぬれて黒い
ひとはくるまに立つて行く
もうけつしてさびしくはない
なんべんさびしくないと云つたとこで
またさびしくなるのはきまつてゐる
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは透明な軌道をすすむ
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかつきりみちをまがる

          (宮澤賢治「小岩井農場」パート九の終わりの部分/『春と修羅』)


 「パート一」の冒頭で〈わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた〉《宮澤賢治》のこころにさまざまな形象をつくる感官のはたらきを左右する身体の皮膚感覚を透過するように、言葉をちりばめた幻想的空間の記述の終わりで〈わたくしはかつきりみちをまがる〉のはどのような類いの街道だったのだろう。
 軽便鉄道が「殖民軌道」であった「小岩井農場」[1922.5.21]では〈ラリツクス ラリツクス いよいよ青く〉だったが、「殖民街道」に馬車を使っていた「旭川」[1923.8.2]では〈植民地風のこんな小馬車に/朝はやくひとり乗ることのたのしさ/「農事試験場まで行って下さい。」〉と揺られながら〈おゝ落葉松 落葉松 それから青く顫へるポプルス〉のように鉄道を経由した歩行から馬車へとスケッチャーの乗りのリズムが変わっている。当時の宮澤賢治が感受していた日本の外地のみならず国策による奥羽地方をはじめとした内地の植民地化の度合も、開拓民・シャモ[和人]とアイヌと文明開化の二重の植民地化を内包した北海道ではその速度感が微妙に違っていたようだ。

 「兄賢治の生涯」を書いた宮沢清六の孫・宮沢和樹によれば「聞いたところによると、もともとわが宮沢家のルーツは近江商人で、現在の滋賀県、琵琶湖のあたりに住んでいて、京都周辺で商売をしていたといいます。江戸中期ごろにこちら岩手県花巻市にやってきて、その当時は藤井という名字だったのを宮沢に代えたという話です。」[宮沢和樹『わたしの宮沢賢治:祖父・清六と「賢治さん」ソレイユ出版、2021電子書籍@kindle]とある。そのようなな横の関係としての宮沢一族[マキ]のルーツをもっと遡行する試みを賢治自身はどのようにたどってか、「自分は縄文人だ」とか、縄文人になりたいと」と言っていたという。
 「縄文人」と「弥生人」の区別も定かではないが、「みやこ」のあった近畿地方からどちらも征伐される側になる、北[蝦夷]と南[熊襲]に追いやられたとされる縄文人の〈身体/自然観〉を手元に引きよせて身体化するような大地に根ざした想像力を行使する場として〈この不可思議な大きな心象宙宇のなかで〉構想された〈現在性〉として「イーハトーブ」があり、数々の「オノマトペ」や〈心象スケッチ〉による諸作品の改稿や補訂が繰り返されたのではなかったか。そのエネルギー源として、〈‥‥‥われらに要るものは銀河を包む透明な意思 巨きな力と熱である‥‥‥〉[結論/「農民芸術概論」/『校本宮澤賢治全集』第12巻(上)』筑摩書房、昭和50年刊、15頁]とした縦の関係を強調しながらも、〈畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考えがあるのみである〉[前掲書、16頁]となかば打ち消すかのように、より〈ほんとう〉を目指す姿勢が表明されている。(2023年7月9日記/10日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(14)

          「〈格子〉戸や窓の存在は、家屋の占めている空間と戸外の空間とを連結する
           意識を象徴するものであった。つまり〈格子〉戸や窓をとおりぬけるのは天然
           の〈風〉ばかりではなかった。家屋はおなじ露地にあるすべての別の家屋に〈格
           子〉をとおして連隊の手をさしだしていた。〈格子〉戸に裏ガラスを張るように
           なって最初の民家の孤立ははじまった。そして裏ガラスとしていわゆゆる〈スリ
           ガラス〉を総張りするようになってこの孤立は深くなった。そしていま、〈格子〉
           そのものが民家から絶滅しつつある。もちろん、小資産者たちは、ちょっとだけ
           伝統をのぞいて様式として採用したがるモダニストの建築設計家と結託して〈格
           子〉を住居に採用している。しかしかれらは〈格子〉の意識がない。つまり、失
           うべきものももたないものたちの気安さがある。」
             (吉本孝明「都市はなぜ都市であるかーー都市にのこる民家覚え書/『詩的
              乾坤』国文社、昭和49年刊、312頁)

 住み慣れた埴生の地から富山市郊外への移住について96歳の祖父から納得を得られたのは1971[昭和46]年も暮れる頃だった。
 年が明けるのを待ったみたいに、同人誌仲間だった不動産屋に探してもらった3件[富山市西部の呉羽丘陵地域、同北部の化学工場地域、そして同南東部の農業地域]の候補物件からしぼった“田んぼ”の下見を母とすませた。ほどなく坪2.4万円で話がまとまった百坪足らずの宅地造成後の新築家屋完成予定にあわせるように、祖父が愛でた松など埴生の庭木類の選択と移植と庭土の手配も整えねばならなかった。当時騒がれた光化学スモッグなどの公害や、大雨による土砂崩れなどの恐れのある候補地を排除して買った地域はかって洪水を繰り返したことのある常願寺川流域の瓦礫の多い痩せた土地だったからだ。立山河川の砂防工事は進捗していたし、海抜は街中のデパートの屋上と同じくらいの高さだったから、富山湾で地震による津波が起こっても大丈夫だろうなどと軽口をたたいたりした。
 都市ガスや上下水道などの整備区域外だった建築予定地に盛り土をした更地が締まるのを待ち、狭い敷地内での庭や井戸や浄化槽設置の場所を盛り込んだ家屋設計図を何枚も書いたり消したりしたが、その場限りと言うしかなかったような当時の自分にこのような事態が訪れたことが不思議というか、思いがけない新旧の家の成り行きに偶然が必然に変わったような縁を感じた。

   母と祖父に任せていた埴生の宅地の売却は坪3.5万円でまとまったが、預貯金などの蓄えもない資金不足を補ってくれたのが妻の蓄えだった。平家と二階建て取り混ぜて仕上げた数枚の見取り図と前金200万円を携え、兄弟で工務店を営んでいた砺波の大工の叔父さん宅を訪れた。同行した母や妻もとにかく工面できた金額の範囲内を念頭に、兄の棟梁が「通し柱の位置が決まって良い」と指差した「二階屋の見取り図」の一枚で合意した。吹き抜けのある平屋建てにリスニング・ルームを組み込んだ第一希望案は予算不足で検討の余地もなかった。

 どうやって「市街化区域」が決められているのかも知らず、当時の富山市街のはずれあたりで造成中の団地で売り出されている建売住宅を一緒に見て回って写真を撮ったりしてくれたり、“リスニング・ルーム設計”の参考資料を教えてくれたのが当時働いていた富大図書館工学部分館事務室の2階にあった電気工学科のT田という職員だった。
 売り出し中の「モデル住宅」は「民家」の風情などかけらもないいわゆる“文化住宅”的な〈住み心地〉を提供する“住宅産業作品”の匂いがきつく、別途依頼中の工務店の棟梁に提示した「和式注文住宅」の予算の範囲内で〈民家〉の要素をどのように組み込んでもらえるかが“鍵”のように思った。
 採用された図面の“応接間”をリスニング仕様にといっても、工務店を営む兄弟大工いずれも経験がないということで、自前で詳細な建材を含む構造・設計図を暗中模索するしかなかった。幸いなことに“我が家建築”の棟梁が中学生の頃から馴染みの叔父さんになり、吸音材による三方の壁や天井の音の吸収ならびに乱反射構造と窓やドアの遮音構造などお互いに納得がゆくような仕事をしてもらえる運びとなった。

   北陸の冬にしては珍しく晴れた1972年12月16(土曜日)〜17日(日曜日)日にかけて、小矢部市埴生および富山市若竹町からの二世帯の高屋敷の新居への引越しを予定通り済ませてひと安心。運送業社だけでなく、母の実家の叔父さんや叔母さんや友人夫妻や職場の知人の助けに恵まれての首尾だった。
 祖父と母に任せておいた埴生の自宅の庭に残してきた庭木類の高屋敷の新宅の庭への移植は、翌年の春先に小矢部市の庭木職人の手を借り、祖父の意向も汲み、主木の赤松を真ん中に陽当たりと風通しを見越し、その他の庭木も祖父の仏間兼居室から眺められるよう作庭してもらった。

 つまりこれらの樹々は、つたない恋も含めて私の過誤多い青春の生き証人であった。こういうことは私だけのこととは思わないから、お許しを願っていま書きつけたのである。
 ひとが生きるということは樹木と語ることであるといいたくて、私は思い出話をした。そんな特殊な関わりを樹木とはした覚えがないという人がいれば、口をつぐんで引込まざるをえないけれども、そんな人でも車で初めての町を通ったとき、これはいい街並みだなとお感じになったことはあるだろう。思い出してほしい。その街並みには必ず美しい並木があったはずである。

       (渡辺京二「樹々の嘆き」/『未踏の野を過ぎて』弦書房、2011年刊、94頁)

 縁側越しに四季の庭が眺められた埴生の八畳の座敷から、いきなり四畳半住まいになった祖父は愚痴ひとつこぼさなかった。仏壇の扉を開けたままにして朝晩のお勤めを欠かさず、新聞は自室で広げていたが、日々の食事は茶の間ならぬリビングまで歩いてきて家族と一緒だった。晩酌の燗酒は徳利とお猪口からコップ一杯に変わっていた。
 縁側のない六畳の座敷の床柱を撫でるなど、一階の柱や壁や天井などの作りを見て回った祖父に是非二階も見てみたいと言われたことがあった。請われるままにおんぶして階段を昇ったが、あまりの“軽さ”に驚いた。
 目ざとく八畳の座敷と控えの六畳を仕切る天然木の欄間に気づいたようだった。井波彫刻の欄間などの余裕がないのを見越した棟梁がサービスしてくれた逸品だった。
 床の間に飾った祖父の骨董品なども確かめつつふたたびおんぶして降りる際に、埴生の家に住んでて友だちを呼ばなかったのは家が古びて粗末だったからかと耳元で囁かれ、応えに窮した。
 田畑を耕すかたわら、米屋兼精米業を営んでいた祖父が大正の初めごろに建てたであろう埴生の民家は一見平屋風だったのに、店舗部分の天井と屋根の間の“あま”に土間に常置してあった梯子を立て掛けて上がれるようにしてあった。囲炉裏のあった吹き抜けの茶の間との仕切り壁があるだけの煤けた空間のことでも問い返せばよかったのだろうか。

 わたしがみた民家で戸外からみると〈低い二階〉をもったものがあった。この〈低い二階〉は、その屋内の構造をみても、屋根裏部屋、調度置き場、寝床、などの役割しかもたないだろう。なぜ、この〈低い二階〉の様式は造りだされたのかわからない。
 ただ、いかにもありそうな理由を空想できないことはない。幕末慶応年間の解禁まで、二階家造りは公的には禁制であった。しかし、二階家造りはある勢いをもって江戸の町をせきけんしたことを、藤田元春は記している。しかし、この二階の部分だけは、幕府の政策が硬化すると、いつおとがめがくるかわからないという強迫観念の関数であった。そこで様式的に〈低い二階〉は発生したのであろうか? つまり、あれは二階ではなく物置きていどのものだという弁解の根拠をつくるために〈低い二階〉の様式はできあがったのではなかろうか?
[下線部原文傍点]
      (吉本隆明「都市はなぜ都市であるかーー都市にのこる民家覚え書/『詩的乾坤』国文社、昭和49年刊、314頁)

 〈家・屋敷〉の規模として、高屋敷で建てた新居は大正期の埴生村で祖父が建てた「民家」にとうてい及ばず、祖父や母の思い悩みのうちに自然解体するしかなかった精米廃業三反百姓の長男夫婦一家が郊外に移住した共稼ぎ三世代家族のーー祖父や母にとっては手狭だったろうがーー夫婦共棲の家となった。
 日本の農業人口が全就業者の20%を割った1960年代半ばごろだったが、とっくに兼業農家としての生活基盤を無くしていた埴生の我が家にとっての“農業問題”と“土地問題”を家族ぐるみでなんとかくぐり抜けられた成り行きに人の縁を感じた。1973年10月の第一次オイルショック直前ーー着工前に渡した手附金で建材を買い込めてとても助かったと棟梁は喜んでいたーーの化石エネルギー枯渇の噂などで冬季暖房手段の選択に悩まされながらも灯油とLPガスの併用に落ち着くしかなかった。オイル価格が産油国と“セブンシスターズ”の談合で決まるなんて知らなかったが、日本経済は翌74年から戦後初のマイナス成長に転じて共稼ぎの定期昇給など当てにならず、とにかく家計にローンを組み込まないが家訓のひとつになった。

 慌ただしくも家族元気で新居の正月を迎えられて良かったが、遅れに遅れていたリスニングルームの仕上げ作業も棟梁と一緒に三層構造にした床の化粧材を一枚一枚張って有終の美を飾ったとはいいがたかった。
 後日ジャズ向けに新規発注したJBL[LE175DLH+D130]のスピーカー・システムを設置した際に気付いたのだが、床下を掘り下げて浮かした床との共振を避け、地面に直結した作りにしたスピーカー設置部分の高さも幅も微妙に狂っていたり、特注した作りの“遮音ドア”が裏返しになっているのに気付いたりした時など、棟梁が手配した左官屋さんや建具屋さんに文句を言う気分にはなれなかった。

 ようやく出来あがったリスニングルームで待ちかねたようにジャズの愛聴盤を聴いたが、低音から高音まで音がこもらず抜けも良く、ボリュームを上げてもビリつくような共振や歪みも感じなかった。残響時間の数値的な実態についておまけ話みたいな出来事があった。
 なんだか夫婦でジャズを愉しむ部屋というより、まだ試聴室気分が抜けきらない霙まじりの休日だった。電気工学科のT田君を通して了解していた「音響工学」を学んでいる院生のN谷君が“私設リスニングルームの”「残響特性」の実測にやってきてくれたのだ。スターター用の拳銃をぶっ放した測定結果のグラフを示し、部屋の広さに対して音楽的に適切な残響時間になっているとのことだった。測定作業後にN谷君のリクエストに応えて掛けたLPレコードのジャズ演奏を聴いて、彼の耳には「ベースの音が違うなぁ」といことだった。聞けば富大オーケストラでベースを弾いていたらしく、卒業後は就職が決まっていた“ヤマハ”でスピーカーの設計・製作の夢を果たせたのだろうか。

 道幅6メーターの市道の家並み南外れで田んぼに囲まれ、移植した庭木越しの立山連峰の眺めが新鮮だった。三角形の隣の更地に家でも建ったら一階の座敷からの景観が台無しだねと交わしていた夫婦の会話が、数年後に本当になるなんて。狭い敷地に建蔽率も無視しして建てた二階屋の屋根雪降ろしが我が家の背戸に設けてあったたプレハブ物置屋根を直撃破壊しても素知らぬ顔の隣人一家が越してきたのだった。
 大工の叔父さんに相談したら屋根を高くしたらいいだろう、ということで増築することになった。1階の座敷に縁側を設け、そこから通じる二階建ての「離れ」の二階が新たなくつろぎ部屋となった。壁の二方を作り付けの書棚とし、大人と子ども用の机も備えた。1階はクローゼットを備えた物置部分と洗濯物を干す土間部分に分けて使うことになった。

 とにかく民家風の木造建築のいいところは、一家を構成する家族の態様に合わせていかようにでも増改築が可能だということだ。北陸の鄙びた温泉宿を訪れた時など、増築に増築を重ねてまるで迷路のようになった造作に、表立って見えない大工さんの技量をうかがい知るような機会もすっかり遠のいてしまった。
 まさかLPや本が溢れるような暮らし向きになるとは思いもしなかったのに、越してきた隣家の屋根雪下ろし弊害に端を発した増築のおかげで、いつの間にか漸増一途のコレクションの収納問題は大幅に改善されたわけだ。しかし1980年代から聴き漁ってきたCDやDVDなどに至ってはもはやお手上げといったところだ。幸い数千枚のLPに関しては妻がカード目録を残して置いてくれたおかげで探し出すのに苦労はしないが、本やCDなどは手探りの度合いが高まる一方だった。

 物には執着しない祖父が仕立てた小ぶりの紅葉が夜盗に抜かれ、似たような一本をを買ってきて植えたらそれも盗まれた。ツツジの植え込みの枝を幾つか手折って庭土に潜らせ、根がついたのを等間隔に道路沿いに植え、塀ならぬ植え込み代わりに仕立てようとしたが、ある朝見たら根こそぎ無くなっていた。
 庭に面した部屋がアルミサッシじゃなく、木虫篭と呼んでいた格子造りだったら祖父は夜中でも気配でそれとなく気づいたかもしれない。おそまきながら鍵もかけないで寝ていた埴生での民家暮らしからの決別を突きつけられた気がした。
 新居で暮らし始めてしばらくは田舎で地産地消していた野菜や米の味が忘れられなかった。富山市郊外への移住で食生活も一変したのに、和食の腕が確かだった祖父は美味いとも不味いとも言わず、好き嫌いなく何でもよく食べてくれた。1973年1月の70歳以上の老人の医療費の無料化にも無縁で寡黙な祖父の背中に33歳で殉職した息子、面影何一つ知らない父の像が張りついていそうな晩年の気配が忘れられない。

 1970年代半ばごろまでの富山市内におけるジャズ同好会のメンバーが噂を聞きつけ、祖父の居室と廊下を隔てた孫夫婦のリスニングリルームへのジャズ愛好家の出入りが頻繁になっても、明治12[1979]生まれの祖父は物音や気配に敏感だったのに嫌な顔一つ見せず、恵比須顔を絶やさなかった。我流の防音構造を施した効果があったのか、いつも二階の六畳の間でで寝起きしていた大正生まれの母も黙認顏だった。
 大正11[1922]年に妻を亡くし、植民地の朝鮮総督府における外地勤務へと送りだした一人息子を殉職で失うまで、埴生村で建てた部屋数が五つ余りの民家での一人暮らしを経験していた祖父だが、老いて孫の移住に従うしかなかったとはいえ、仏壇と押し入れ付きの四畳半暮らしをどう感じていたのだろうか。

 宮澤賢治が昭和6[1931]年10月上旬から年末か翌年初めまでに使用した「雨ニモマケズ手帳」(『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)筑摩書房、昭和51年刊所収』)の49頁の「唯諸苦ヲ抜クノ/大医王タレ」の書き込みと対になった50頁に仏間と居間が一緒になった四角い平面図が手書きされている。まるで我が祖父の居所と同じように見えたのだが、「手帳」の159頁や164頁に描かれた立体図を見るとそれだけで独立した一軒家のようなのだ。
 大正13[1924]年に同僚の白藤慈秀と生徒を引率した北海道修学旅行の復命書で、賢治は「恐らくは本模型の生徒将来に及ぼす影響極めて大なるべし。望むらくは本県亦物産館の中に理想的農民住居の模型数箇を備へ将来の農民に楽しく明るき田園を形成せしむる目標を与へられんことを。」と認めるだけじゃおさまらず、「早く我らが郷土新進の農村建築家を迎へ、従来の不経済にして陰鬱、採光風通一も佳くなるなき住居をその破朽と共に葬らしめよ。」と、農村建築になみなみならぬ意欲を表していた。
宮沢賢治下根子別宅図
[典拠:『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社);参照:「「みちのくの山野草:1958 宮澤家別荘のことなど」]
 在勤4年4ヶ月の教職を辞し、大正15・昭和元[1926]年に実家を出て下根子桜の別宅に移り住んだが、この改修された二階建て家屋が、農村文化活動の拠点となる「羅須地人協会」として賢治が目指した作庭を施した理想の農村建築の実現形と見ていいのだろう。では、自らの住処としてはどうだったのか。(2023年12月24日記/12月26日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(15)

         「宮沢賢治という身体は、すぐれてリゾート的な身体なのである。彼が
         気象の諸変化に異様なほどに敏感で、かつその内外の委細をつくした記
         録に傾注しているのはなぜか。生来の資質や農業上の心配に加えて、十
         八世紀イギリスの治療日記の書き手たちと同様、気象状態に左右される
         おのれの〈危うい健康〉(ことに吸気の状態)に対する自覚が基底にあ
         ったはずである。爽快な気象だけに価値があるのではない。誤解を恐れ
         ずにあえていえば、健康を害したり不作をもたらしかねない気象や地質
         すら、「心象スケッチ」の水準では新鮮なエネルギーとして享受される
         ことになる。「罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかゞやいて
         ゐる」(広告文ちらし(大))「詩人は苦痛をも享楽する」(「農民芸術
         概論綱要」)」
        (岡村民生『イーハートーブ温泉学』みすず書房、2008年刊、174〜175頁)

 [承前]宮澤賢治は自己像として「でく」を「木偶」→「土偶」とみなし、同じく「雨ニモマケズ手帳」の71頁に「土偶坊/ワレワレカウイフ/モノニナリタイ」と書き込みがあり、その住まいとして「小さな萱ぶきの小屋」を想定していたようだ。これだとまるで鴨長明が六十歳という人生の終わり近くになって、さらに余生を送る家として作った「方丈庵」そのものではないか。広さは三メートル四方[方丈]しかなく、高さはニメートル十センチ[七尺]を越えず、長明三十歳余りの時に作った家と比べてもその百分の一にも満たない広さであったという。
 およそ700年以上も時と所を隔てて、60代の長明と30代の賢治が「終の住処」の構想において似た者同士とはいったいどういうことなのだろう。『方丈記』には長明自らが経験した四つのの天変地異が書き連ねてある。

・安元三年(1177年)の京の火災
・治承四年(1180年)に京で発生した竜巻およびその直後の福原遷都
・養和年間(1181年?1182年)の飢饉
・元歴二年(1185年)に京を襲った大地震

 宮澤賢治の生涯も1896[明治29]年6月の三陸大津浪、7月の大雨大洪水、8月の陸羽大地震、9月の大雨洪水の再来にはじまり、1923[大正12]年9月1日に関東大震災、1928[昭和3]年岩手県7?9月の旱魃、1931[昭和6]年岩手の冷害と豪雨による凶作、亡くなる1933[昭和8]年の3月には三陸地方大地震大津波などに見舞われている。

 いつも御天道様を念頭に抱いていた祖父は1945[昭和20]年8月の富山大空襲の夜空には驚いていたが、1948[昭和23]年6月28日の福井大地震や、1959[昭和34]年の伊勢湾台風や、1963[昭和38]年の38[サンパチ]豪雪などには多少の不安を感じてもさほど驚かないようすだった。生涯に出会う天変地異を天のなす業、自然の災いとして外在化された身体感覚でもって受容していたのだろうか。平生は無意識に内臓感覚を働かせて身体内自然を感受していたように、身体外自然に対しては体外へと遠隔化された内[=外]臓感覚でもって森羅万象の訪れに相対していたみたいだった。

 口癖のように呟いていた“ナマンダブ”[=南無阿弥陀]の裏にはいつも「公界」あるいは「苦界」が織り込まれていたようだが、いずれにしろ孫に人間の業苦など分かろうはずもなかったのに。子供心にうるさかった祖父の「小言」も歳とともに少なくなり、かといって諭すような物言いもしない好々爺然とした老境の姿に変身を遂げたようだった。
 あいかわらず朝晩の仏前のお勤めを欠かすようなことはなかったが、ふとした折に「なかなかお迎えが来ない」と独り言ちたりするようになった。田畑を売り払ってしまって飲食が細くなっても、手入れできなくなった庭の樹木や盆栽への愛着が薄らぐようなことはなかった。かといって新しく出入りするようになった植木職人の仕事に注文をつけたりすることもなかった。亡くなる半年ほど前に家人に盆栽や植木の世話を頼んだりしていたが、今じゃ盆栽は一鉢も残っていない。植木職人も代替わりして今に至るが、月桂樹など枯れた庭木は僅かにとどまっている。


  三一四
      [夜の湿気と風がさびしくいりまじり]
一九二四、一〇、五、

  夜の湿気と風がさびしくいりまじり
  松ややなぎの林はくろく
  そらには暗い業の花びらがいっぱいで
  わたくしは神々の名を録したことから
  はげしく寒くふるへてゐる

      (宮澤賢治「春と修羅・第二集」/『校本宮澤賢治全集 第三巻』筑摩書房、昭和50年刊)


 もし自己というものがあるとしたら、それは田んぼや畑の土壌のようなものであるとして、そこから何が育ってくるか来ないかが問われるだけのことじゃなかったのか。とりあえず人は樹木のようにあるとして、そしてそのようなものしか育てられなかった土壌がその人の自己なのだろうか。
 人それぞれ何を日々の繰り返しとするか、貧弱な土壌を豊かなものに、持続という名の稽古が第一としたら、どのような堆肥を鋤きこんで肥沃化させ続けられるか。やがて土壌自体が虚弱化し、樹木も枯れ果てるまで。

   自分の将来など考えもしない埴生の田舎小僧だった頃、墓石以外どのような写真・資料も残っていなくて見当もつかない祖父の連れ合い[母の話では二人目とのことだった]がどんな女[ひと]だったか気になってしょうがないことがあった。大正11[1922]年に一人息子を残して早死にしたようだから、嫁いだ母も知りようがなかった。近所の年老いた村人の噂話だったが、芸者を身請けし料理や家事など一切させずに若い祖父がすべてを仕切っていた様子が不思議そのもの。思春期頃までの日々接していた癇癪持ちの祖父から思いもよらない夫婦像にどうしたら遡れようか。いつも横座に座って長煙管で煙草をくゆらせている女の姿が村人の語り種から甦るようで、家をなす男と女の関係なんて男次第でどうにでもなるとも思えなくなった。


     作品一〇七一番

  わたくしどもは
  ちやうど一年いっしょに暮しました
  その女はやさしく蒼白く
  その瞳はいつでも*
  何かわたくしのわからない*
  夢を見てゐるやうでした*
  いつしょになつたその夏のある朝
  わたくしは町はづれの橋で
  村の娘が持つて来た@
  花があまりにも美しかつたので@
  二十銭だけ買ってうちに歸りましたら
  妻は空いてゐた金魚の壺にさして
  店へ竝べて居りました
  夕方歸つて来ましたら
  妻はわたくしの顔を見て#
  ふしぎな笑ひやうをしました#
  見ると食卓にはいろいろな果物や
  白い洋皿などまで竝べてありますので
  どうしたのかとたづねましたら
  あの花が今日のひるの間に%
  ちやうど二圓に賣れたといふのです%
      その青い夜の風や星
      すだれや魂を送る火や

  そしてその冬
  妻は何の苦しみといふのでもなく
  萎れるやうに崩れるやうに&
  一日病んで歿くなりました&
       (宮澤賢治[宮澤清六編]『詩集 雨中謝辭』創元社、昭和27年刊)


   出張の折などのジャズレコード探しがが楽しかった独り身の1960年代半ば過ぎ、神田神保町でふと立ち寄った八木書店で衝動買いした宮澤賢治の詩集のことなどほとんど忘れかけていた。『校本宮沢賢治全集』第六巻所収の「[わたくしどもは]一九二七・六・一」では、引用者が付けた*、@、#、%、&の記号の行がひと続きになっていてどっちが異稿なのか、いずれも制作日付が同じなのがほかにもあった。


    装景家と助手との対話

           一九二七、六、一、

     さうさねえ、

 土佐絵その他の古い絵巻にある
 禾草の波とかゞやく露とをつくるには
 萓や丶丶丶すべて水孔をもつものを用ひねばならぬ
 思ふにこれらの朝露は
 炭酸をも溶し含むが故に
      屈折率も高くまた冷たいのであらう

 苗代の水を黒く湛えて
 そこには多くの小さな太陽
 また巨大なるヘリアンサスをかゞやかしむる
   うん、わたくしは
   いままで霧が多く溢出水なのに
   どうして気がつかなかったのでございませう
       Gaillardox! Gaillardox!

       そこを水際園といたしましたら
   どんな種類が適しませうか
 なぜわたくしは枝垂れの雪柳を植えるか
 十三歳の聖女テレジアが
 水いろの上着を着 羊歯の花をたくさんもって
 小さな円い唇でうたひながら
 そこからこっちへでてくるために
 わたくしはそこに雪柳を植える
       Gaillardox! Gaillardae!

     (宮沢賢治「補遺詩篇 II」/『校本宮澤賢治全集 第6巻』筑摩書房、昭和51年刊)


   花巻温泉南斜花壇の設計をしたり、田植えの時期と肥料設計など稲作指導に奔走していた1927[昭和2]年、31歳独身の賢治がなんだか〈兄と妹〉みたいな夫婦像やその仕事柄を無声映画のひとコマのようにスケッチしていた。
 長年連れ添ったらこうなるしかないというような夫婦の疎通界に至ることのない、花を飾ったり料理を作ったりつかの間に終わった夫婦関係に潜む言葉などではかり知れない独得な係わり方が映しだされているようだ。
 村の娘から花を買って妻に渡した作中の「わたくし」の仕事が馴染み少ない「装景家」だとしたら、話さなくとも通じ合っている妻と、夢想が邪魔をするみたいで話が通じ難い助手との対比が面白い。「聖女テレジア」が着飾って歌い出てくるようにユキヤナギを植えるというくだりに、「装景家」たる心意気ーー「光象生産準志に合し 園芸営林土木設計を産む」(「農民芸術概論綱要」)ーーが込められていよう。


 六月の雲の圧力に対して
 地平線の歪みが
 視角五〇度を超えぬやう
 濃い群青をとらねばならぬ
 早いはなしが
 ちゃうど凍った水銀だけの
 弾性率を地平がもてばいゝのである
     Gillarchdox! Gillarchdae!
       いまひらめいてあらはれる
       東の青い橄欖岩の鋸歯
   けだし地殻が或る適当度の弾性をもち
 したがって地面が踏みに従って
 寒天あるいひはゼラチンの
 歪みをつくるといふことは
 ヒンヅーガンダラ乃至西域諸国に於ける
 永い間の夢想であって
 また近代の勝れた園林設計学の
 ごく杳遠なめあてである
    ……電線におりる小鳥のやうに
      頬うつくしい娘たち
      車室の二列のシートにすはる……
 然るに地殻のこれら不変な剛性を
 更に任意に変ずることは
 恐らくとても今日に於ける世界造営の技術の範囲に属しない
       ……タキスの天に
         ぎざぎざに立つ
         そのまっ青な鋸を見よ……
 地殻の剛さこれを決定するものは
 大きく二つになってゐる
 一つは如来の神力により
 一つは衆生の業による
 さうわれわれの師父が考へ
 またわれわれもさう想ふ
      ……そのまっ青な鋸を見よ……
 すべてこれらの唯心論の人人は
 風景をみな
 諸仏と衆生の徳の配列であると見る
 たとへば維摩詰居士は
 それらの青い鋸を
 人に高貢の心あればといふのである
 それは感情移入によって
 生じた情緒と外界との
 最奇怪な混合であるなどとして
 皮相に説明されるがやうな
 さういふ種類のものではない

     (宮沢賢治「装景手記」冒頭部分/『校本宮澤賢治全集 第6巻』筑摩書房、昭和51年刊)


 気象や地殻の様相をたちどころに自然の圧力や弾性のように感受する[できる]宮澤賢治の身体感覚のありようが〈心象スケッチ〉の表出過程の地表の凹凸[転換]のように行分けされている。
 なみはずれて〈気象〉に敏感なだけでなく、地球の陸地を取り巻く林檎の皮のような薄い土が覆っている地殻の剛性を構成する「如来の神力」と「衆生の業」の「徳」の〈配列〉として「風景」を見ている「装景者」の眼がスケッチする二重性の体現。霊[詩]的に体感しうる自然を農業指導家として理想に叶うべきまことの美へと設計・造営する実践家が対峙すべき〈場所〉があった。


     住 居

 青い泉と
 たくさんの廃屋をもつ
 その南の三日月形の村では
 教師あがりの種屋など
 置いてやりたくないといふ
   ‥‥‥風のあかりと
      草の実の雨‥‥‥
 昼もはだしで酒を呑み
 眼をうるませたとしよりたち

     (宮沢賢治「生前発表詩篇」/『校本宮澤賢治全集 第6巻』筑摩書房、昭和51年刊)


 「光象生活準志によりて 建築及衣服をなす」(「農民芸術概論綱要」)以前の「住居」で「眼をうるませたとしよりたち」もかっては、「さう/やまつゝじ!/栗やこならの露にまじって/丘いっぱいに咲いてくれたが、/それも相当咲きほこったるすがたであるが/さあきみはどうしたもんだらう//なによりもあの冴えない色だ/朱もあすこまで没落すると/もうそちこちにのぞき出た/赭土にさへまぎれてしまふ//どうしてこれを[以下空白](「補遺詩篇II」/『校本宮澤賢治全集 第6巻』筑摩書房、昭和51年刊)と問いかける「装景者」としての〈自然〉を感受していたはずだ。

 県境の雑木山裾の街道筋の住居から県庁所在地の郊外に移り住んだ祖父の眼に、移植し根付いた庭の景観はどのように様変わりして見えたことだろう。町からほど遠く人が往来する場所から、山野から都市への〈境界領域〉へ移り住んだことで、埴生村で培ってきた人間関係だけでなく村住まいで感受していた自然観そのものも変容してしまったのではなかろうか。
 宮澤賢治が提示する「装景者」は、風景を〈感受〉するだけにとどまらず、能動的に働きかけ変化させるーー「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」(「農民芸術概論綱要」)ーー生命観の働きを体現する者とみなされよう。賢治にとって〈装景〉とは、自然環境と人との関係を双方向性に満ちた新たな〈場〉として顕現させることなのだろう。だから作庭から完成までのすべての過程において〈造園〉はすべての関係者に開らかれていなければならない。音楽が作曲家と演奏者だけでなく聴衆を不可欠とするように。

 祖父の最初の妻と二番目の妻との間にどんな経緯が挟まれていたのか知る由もなかったが、並々ならぬ先立たれた後妻への対応ぶりに祖父の想いが秘められていそうだ。寡黙な祖父の後ろ姿がよりいっそう深まった気がした。機嫌のいい時は虚弱な孫へのいたわりをあらわしたりした。就学途中まではお正月になると温泉湯治に連れ出された。松でも梅でもない、和倉の竹屋旅館という鄙びた木造の宿の選びがいかにも祖父らしく思い返される。温泉につかるのはいいとしても、しょっぱい温泉水を飲まされるのには閉口したが、液体を口に含んだままの身体の微妙な生々しさだけは後々までも残った。朝もやの和倉の海に近づいたりすると波音に体が同調するようで、遊び慣れた山里では感じたことのない身体感覚に目覚めたようだった。

 どういうわけか祖父との温泉行きは中学生になる前に途絶えてしまった。祖父との年の差は六十五歳ほどだったがあんまり「老齢」ということを感じさせないで中学生になった孫に畑仕事など、虚弱児なりの労力を実行するよう求められるようになった。なんだか加齢による「虚弱化」と生来の「虚弱性」とが向き合うような当たりで「このような気持ちは歳をとってみなきゃわからない」という祖父の言葉が、前後して実家の祖母からも、やがては母からも異口同音に漏れ聞こえるようになった。


  老齢化で一番辛いことは、身体の動きが鈍くなり、足腰が弱くて痛みがともなうといったことではない。自己の意力や意志、そう志向すること、それに従って実現しようとする行為や運動性との「背離」が著しく増大することだ。これは若い人にはわからない。老齢だから身体を動かすのか億劫[おっくう=ルビ]なんだと誤解している。丁寧にいえばそうに違いないのではあるが、真の原因はこの意力と行動との背離性にあるのだ。これは専門と素人、熟練と浅い経験との違いではなく、老齢に固有のものだ。
     (吉本隆明『中学生のための社会科』市井文学株式会社、2005年刊、79頁)


 中学生の自分には気づくどころか、家族の老いの状態について判断するなど身体観察の埒外のことだった。家族に請われるままに線香でモグサに火をつけたり、肩を揉んだり叩いたり、時には足の裏を踏んであげたりするだけで、その先へと祖父との歳の差が関わる老齢の実態に足腰の考えがおよばなかった。


  老齢は身体の生態的な自然を前提とする限り(つまり事故を除けば)、誰でもが体験するのに誰でもが老齢を体験しなければわからない点を含むということだ。つまり自然の「順序」がもたらす差異にほかならないのに社会的な「順序差異」としてしか言葉では表現されないことだ。老齢者自身も、それに大なり小なり接触する場面をもつ人もおなじように「自然の順序」を「社会の順序」に置き換えて考えているとおもう。おまえはどうだといわれれば、即座にわたしもそうだというほかない。これは間違いだということはわかっている。どうすればいいのかもわかっている。社会が全体的に「自然の順位」による差異だけを保存し、社会での個人、個人の心の全体性を「自然の順位」の差異にすればよい。このうちいちばん難しいのは(少なくとも老齢のことについては)、個々人の精神の全体性において「自然の順位」による差異以外のものを廃棄することだと思う。
     (吉本隆明『中学生のための社会科』市井文学株式会社、2005年刊、92?93頁)


 埴生の民家の囲炉裏端で『宮沢賢治名作選』を読み始めた頃に「本など読むな」と怒鳴られたのは、六十五歳あまりも先を生きつつある老境の祖父が、後からやってくるはずの孫に向かって発した言葉なのだ、と自分が老境に差し掛かるようになってやっと気づかされた。ほんとうに分かってもらいたいことは本の中に書いてあるはずがない。そう言いたかったのだろう。実家の祖母とは違って、昔語りや仏教的な教訓話などいっさいしなかった祖父は一人息子にも「本など読むな」と言葉をかけて育てたのだろうか。父を介して祖父の人となりを知る回路はあらかじめ閉ざされてしまっていた。(2024年1月21日記/22日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(16)

   能登はそもそも田んぼが沢山作れるようなバーンと開けた
  地域じゃないから、平野部に比べたら、そういう意味では豊
  かな土地ではない。
   だからこそ自然状況とうまくやってく文化的手立てと精神
  性が屹立して残っている土地なんだ。人のまとまり方、助け
  合い方、人間が連綿とやってきた当たり前が活きているんだ
  な。つまり無形の力が生きているってこと。
   報道側の世界観とはそもそも違う。
   地震によって有形の存在物が崩れたわけだけど、それって
  取り返しのつかないことだっけ ? いやいや人間の内にある無
  形の働きが潰れてなけりゃ大丈夫だろ。
   きっと人間が生きてくのはいつの時代でも大変なんだ。全
  面的な楽なんか訪れやしねえ。ただ、今の時代の大変さは人
  間に潜む無形の力を潰しにかかるような人災的な勢力が強す
  ぎるからだよ。
   そんなご時世にせめて自分の手がとどく範囲は護りたい。
  だからぼくは無形の力を応援する稽古をする。今日の研究稽
  古は親指を能登半島に見立てたところからはじめていく。
   モノとして空間設定に閉じ込められている身体感覚を、コ
  トとして時間の流れに溶かしていく。自己と他者の狭間で自
  ずと運動が起こるように関係を描き出す。
   すると、自分が自身にしがみついて離れない癒着が剥がれ
  るようだ。苦しくて、泣きそうで、2度、3度、諦めそうに
  なるけど流れを捨てない。稽古仲間が寄り添ってくれている
  からできること。
   無形の力の働きを認めていくのは、「イメージ」でも「物
  理性」でもない「経験」を宿して身体と世界を丈夫に結びつ
  けていくことなんだ。
   イメージで世界が変わるかよ。
   物理性で身体が語りつくせるかよ。
   生き物としての人間は無形の流れにいるときこそ輝くんだ
  よ。
     (笹井信吾@[旧Twitter改め]X)

 [承前]そんなわけで一緒に暮らした覚えのない父の生年月日も[忘れ]知らず、同年生まれの有名人のことなど気にしたこともないのに、祖父が生まれた1879[明治12]年生まれの人が眼についたりすると、その人となりというより《読み書き表現》に関心を持たされるようなことがあった。


  九州と北陸の読者が期せずして証言しているように、東京紙・大阪紙の地方進出が各都市で注目されている。大阪紙に関しては『大阪朝日』『大阪毎日』の二紙が代表的で、特に『大阪朝日』の進出が際立っており、その勢いを柏原の読者は「たゞ単に新聞とのみ云えば『大阪朝日』のことで、その勢力のすばらしさは、実に譬ふるにものなき有様であります」とまで表現している。他方、東京紙の中では、赤新聞と呼ばれた『万朝報』の購読者の増加が各地で指摘されている。新聞紙研究の教えるところによると、ちょうどこの明治三〇年代前半に東京紙は関東から甲信越・東北方面へ、大阪紙は近畿一円から中国・四国地方へ、さらには北九州へとその購読圏を拡大しつつあった。北陸・東海地方はちょうど両者のぶつかり合う前線地帯を形成していた。東京紙・大阪紙の地方進出がさらに本格化してくるのは日露戦争以後のことになるが、このように新聞の領域においてはすでに明治三〇年代前半から、東京・大阪を二つの〈中央〉とする楕円的構図が徐々に形成されつつあった。
     (永嶺重敏『〈読書国民〉の誕生:明治30年代の活字メディアと読書文化』日本エデイタースクール出版部、2004年刊、5頁)


 『大阪朝日』の創刊は1879[明治12]年1月25日だが、「裏日本」と呼ばれていた地域生まれの祖父が「新聞」と言えば1876[明治9]年2月20日創刊の『大阪毎日』以外の何物でもなかった。昭和になってから創刊された地元の『北日本新聞』や『富山新聞』は眼中になかったようで、和綴じ経典より字が細かい新聞活字をメガネなしで読んでいるのが不思議におもえた。
 おそらく地元の尋常小学校を出てから大阪で丁稚奉公をしていた明治二十年代から三十年代にかけて『大阪毎日』を読む習慣が身についたように料理の腕を磨いた祖父の青少年期を想像するしかなかった。埴生の民家の囲炉裏を囲んで一家団欒なんてことにまるで縁のない暮し向きだったから。それでいて山仕事や農作業の手伝い以外で、大相撲の地方巡業や村の市や町中の祭礼などに連れていってくれた祖父の手の感触だけはしっかり残った。なぜか親戚だけでなく報恩講での声明の響きに目覚めたお寺詣りに導いてくれたのは同じく明治生まれの母方の実家の祖母だけだった。

 夜間短大に通っていた1960年代半ばの三年間は休日しか祖父と顔をあわせることがなかったが、さすがに学問など必要ないとは言われなかった。三年生のゼミの卒業レポートでマルクス『賃労働と資本』の日本語版の書誌的変遷をたどっていて知ったのだが、当事本邦初訳者とされていた河上肇が祖父と同年生まれだった。著名な「貧乏物語」は1916[大正5]年の『大阪朝日』に連載されていたが、その頃37歳の祖父はとっくに年季明けで地元の埴生に戻ってなお『大阪毎日』の読者だったから眼にしたようなことはなかっただろう。
 河上肇は1879[明治12]年、山口県玖珂郡岩国町(現在の岩国市)に旧岩国藩士の家に生まれで、祖母に溺愛されたようだ。そんな祖母と母についての渡辺京二の祖述[『小さきものの近代1』弦書房]が興味をひいた。

 母はまだ肇が腹の中にいた頃に離縁され[二年後に出戻る]、生まれた肇は河上家に引き取られて祖母の手で育てられたようだ。母はその前に短いあいだ河上家に嫁いでいた女が産んだ子[肇の異母兄弟]を抱いて寝る始末となり、肇がなついて捜し求めるので祖母はゆっくり風呂にも入れなかったようだ。この祖母という女は母が最初に嫁入った頃は、若き燕と一緒に離れで暮らしていて、母が毎日酒肴を届けていたのだった。やがてその燕に似合いの女を見つけて結婚式にも立ち会い、そのうち肇が抱かれて寝ることもなくなると、近所の寡夫になっていた男を離れに引き込んで一緒に暮らして街中も二人して平気で闊歩したようだ。肇はまったく世間体というものを無視して押し強い世渡りをしたものだと語ったように、男に騙されて家を取られるようなこともなくしっかり96歳まで生き延びたという。

 祖父が生まれた明治の初め頃には凄い生きざまの女がいたものだが、肇少年は男女関係に奔放な祖母に可愛がられながら、やがて文才を育み山口高等学校時代は国家主義的で詩人志望だったのが、いかなる契機で東京帝大法科に進み、その後《貧乏物語》を新聞連載後に本にし、1919[大正8]年にマルクス『賃労働と資本』の翻訳本の公刊に至ったのか。それとは別に河上肇自身の学生時代の女性関係はどうだったのか。


  河上さんの義弟末川博氏はいう。「河上は学生時代‥‥‥転々と下宿をかわるんです。というのは、下宿の女中がサービスしてくれると、ええ気持ちになってあぶないという。自分で自粛しないといけないんで転々とかわった。」(『歴史と人物』一九七四年四月号、中央公論社、一〇四頁)
  また友人の画家津田青風氏は、「河上さんはあんなに真面目な人だったから、下卑た話や女の話なんかはてんでしたことがなかった」といいつつ、あるとき河上夫人の口から「河上が下宿してた時の娘がたずねてきましてね、ちょっと困ったことがありましたっけ」と聞いたという(一九四八年世界評論社刊『回想の河上肇』一三七頁)。
  これらは、必ずしも根拠のない話ではない。河上さん自身の文章「社会主義評論」(明治三八年(一九〇五年)執筆、全集三巻八〇頁)にいう。「大学を卒ふるまで、凡そ八九回の転居を為せり、‥‥‥回顧すれば余の恋せし女は大学に入りてより大学を出づるまで前後七人に及び、而して最後の恋に於て余は或る女と一夜〇〇〇〇〇〇(編集者白す、此処六字抹消す)至たりたり。」
  この正直な告白をした河上さんは東大卒業の十余年後(大正四年、一九一五年)有名な「貧乏物語」とほぼ時を同じくして、「婦人問題雑話」と題する文章を書き、大阪朝日に連載する(全集九巻所収)。この論文は、今日の社会科学的観点からすれば、いろいろと問題があるようだが(巻末掲載の参考文献参照)、女性の問題を貧乏と並ぶ二大問題だとして、その解決を迫った視点は、当時にあってはきわめて進歩的なものであった。

    (一海知義「七枚目のリトマス試験紙ーー河上肇と女性問題ーー/『漱石と河上肇:日本の二大漢詩人』藤原書店、1996年刊、118〜119頁)


 わが身を振り返ってみても1960年代半ば頃は、やはり「貧乏」と「女」が未解決の問題であることに変わりはなかった。勤め先の地方大学図書館職員の男女比は半々ぐらいだったし、通っていた地方夜間短大の女は圧倒的に少数派なのに、都会の大学で受講した夏期司書講習の男女比は3対20で圧倒された。暑い盛りの2ヶ月間の休み時間の暇つぶしに、肩身の狭い男有志が嫁さん候補の品定めをしたことがあった。10人にひとりはやっていけそうな女がいるねというところに落ちついた。いずれにおいても男女間はおおらかで友好的であった。
 貧しい母子家庭の来歴を承知の上で、地元地域や職場や関わった組織だけでなく、下宿でも必ずと言っていいほど舞い込む縁談にことかかなかった。田舎から郊外に移り住んだ1970年代半ばまでにそんな男女間の雰囲気も遠のいてしまった。頼まれて知人の結婚や知り合いの図書館就職のお世話をさせてもらったことはほんの僅かに過ぎない。

   卒業レポート作成当時国立国会図書館本館まで出かけて行ったりして調べたのだが、河上肇訳『労働と資本』[初訳]京都、弘文堂書房、1919(大正8年)4月刊は、実のところマルクスの『賃労働と資本』(Lohnarbeit und Kpital)の本邦初訳ではなかったことが後になってわかったのだ。ゼミの恩師だったF原先生からの知らせで笹原潮風訳、賃金労働及び資本(一〜五、承前、承前)、木鐸3(5〜8/9、10/11、12/4(1〜2)、1909(明治42年3月15日〜明治42年12月25日の書誌データを追加した「卒業レポート」の改訂版を自作ホームページに掲載し、その旨を恩師に知らせるまでに数十年の時間を要してしまった。

 文学と農民復興運動に心をくだきつつ宮澤賢治が病没した1933[昭和8]年に河上肇は検挙され、治安維持法違反で懲役5年の判決を受け、4年後の1937[昭和12]年の6月に出獄し、一言たりとも世に公表できない孤立の身を保つような『閑戸閑詠』[「河上肇全集 21」岩波書店]で日録風な漢詩と短歌にはさみこむ「小詩」を書き残している。


   近頃頻りに疲労を覚え、やがて寝付くべきか
   と思ふほどなり、小詩を賦して自ら慰む
 弱いからだが段々に弱くなり、
 残りの力もいよ/\乏しくなつて来た。
 ちよつと人を尋ねても熱を出し、
 書を書いても熱を出し、
 絵を描いても熱を出し、
 碁を打つても熱を出す。
 私は私の生涯のすでに終りに近づきつゝあることを感じる。
 やがて寝付くやうになるのかも知れない。
 だが私は別に悲みもしない。
 過去六十年の生涯において、
 何の幸ぞ!
 私はしたいと思ふこと、せねばならぬと思ふことを、
 力相応、思ふ存分にやつて来て、
 今は早や思ひ残すこともない。
 私は自分の微力を歎じるよりも、むしろ
 力一ぱい出し切つたことの滿足を感じてゐる。
「ご苦労であつた、もう休んでもよいよ」と
 私は自分で自分をいたはる気持である。
 牢獄を出て来た後の残生は、
 謂はゞ私の生涯の附録だ、
 無くてもよし、有つてもよし、
 短くてもよし、長くてもまた強ひて差支はない。
 私は今自分のからだを自然の敗頽に任せつつ、
 衰眼朦朧として
 ひとり世の推移のいみじさを楽む。
                        四月十三日


   われ今死すとも悔なし
 われ今死すとも悔なし。
 懇ろに近親に感謝し、
 厚く良友に感謝し、
 普く天地に感謝し了へ、
 晏如として我が生を終へなむ。
 今われ老いて
 幸に高臥自由の身となり、
 こゝろに天眷の渥きを感ずること頻りに、
 ひとりゐのしゞまには
 しば/\かゝる思ひにひたる。
                       七月三十一日


   時勢の急に押されて悪性の変質者盛んに
   輩出す、憤慨の余り窃に一詩を賦す
 言ふべくんば真実を語るべし、
 言ふを得ざれば黙するに如かず。
 腹にもなきことを
 大声挙げて説教する宗教家たち。
 眞理の前に叩頭する代りに、
 権力者の脚下に拝跪する学者たち。
 身を反動の陣営に置き、
 ただ口先だけで、
 進歩的に見ゆる意見を
 吐き散らしてゐる文筆家たち。
 これら滔々たる世間の軽薄児、
 時流を趁うて趨ること
 譬へば根なき水草の早瀬に浮ぶが如く、
 権勢に阿附すること
 譬へば蟻の甘きにつくが如し。
 たとひ一時の便利身を守るに足るものありとも、
 彼等必ずや死後尽く地獄に入りて極刑を受くべし。
 言ふべくんば真実を語るべし、
 真実の全貌を語るべし、
 言ふを得ざれば黙するに如かず。
                      十月九日



 ほかにも「六月下旬、東京保護観察所よりの来状に本づき、謂はゆる左翼文献に属する内外の図書、約六百四十冊を官に収め、身辺殊に寂寞、ただ陸放翁集あり、日夜繙いて倦まず、聊か自ら慰む」、「老いて菲才を歎く」、「福井君に寄す」、「夏日戯に作る」など《漢詩》や《短歌》を脱ぎ捨てたような「小詩」以外に「六月十九日夢/六月十九日夜、夢に、再び安逸の生活を脱せざるを得ざる必要に迫まられ、また家人と分れ、詩書とも分れざるを得ざるかと思ひ、心せつなく、如何にせば宜しからんと迷ひ居るうち、夢始めて醒め、暫くは果して夢なりしかと疑ふほどなりき」という〈夢見〉まで残している。
 全体的には漢詩や短歌が圧倒的に多いのだが「風のまにまに/詩を読みをればおのづから詩は成り/歌見つつあればおのづから歌生まる/風のまにまに/興のまにまに/きそまたけふ」が「小詩」の姿勢になってもいる。高等学校時代に詩人の志しを断念し、やがて「マルクス主義活動」期をくぐり抜けたその後の紆余曲折を経た着地点を《詩》に見出したといえようか。

 埴生の民家に住んでいた背戸の柿の木から堕ちて頑なに往診医を拒否し、老来の曲がり角みたいに寝込んでいて、ときどき家族を起こすみたいにああしろこうしろと言ってみたり、自らを養生していた祖父の體に去来していたであろうコトとかモノとかがわからなかった。休日の朝なのに早く起こされたりで不機嫌になったりしたこともあった。
 捕まえた亀を入れて叱られたことのある手水鉢の水を替えておけとも言われたっけ。布団にくるまって農作業もできないのに「ボウフラ」の心配などと思う一方で、宮澤賢治の「蠕虫舞手[アンネリダタンツエーリン]」の語呂のいい呪文のような「8[エイト]γ[ガムマア]e[イー]6[スイツクス]α[アルフア]」の《文字映像》の響きが心地よかった。水中に垂れて上下する釣り針の先でのたうつ糸ミミズなども連想したり、川釣り少年の釣果を捌いて料理してくれた祖父の姿がちらついた。生粋の田舎生まれでなくとも、いっとき田んぼの生き物に夢中になったり、にわか昆虫少年や宇宙少年になったり、明滅する命のリズムに触れたようだ。


   蠕虫舞手[アンネリダタンツエーリン]

  (えゝ 水ゾルですよ
   おぼろな寒天[アガア]の液ですよ)
 日は黄金[きん]の薔薇
 赤いちひさな蠕虫[ぜんちゆう]が
 水とひかりをからだにまとひ
 ひとりでをどりをやつてゐる
  (えゝ 8[エイト]γ[ガムマア]e[イー]6[スイツクス]α[アルフア]
   ことにもアラベスクの飾り文字)
 羽むしの死骸
 いちゐのかれ葉
 真珠の泡に
 ちぎれたこけの花軸など
  (ナチラナトラのひいさまは
   いまみづ底のみかげのうへに
   黄いろなかげとおふたりで
   せつかくをどつてゐられます
   いゝえ けれども すぐでせう
   まもなく浮いておいででせう)
 赤い蠕虫舞手[アンネリダタンツエーリン]は
 とがつた二つの耳をもち
 燐光珊瑚の環節に
 正しく飾る真珠のぼたん
 くるりくるりと廻つてゐます
  (えゝ 8[エイト]γ[ガムマア]e[イー]6[スイツクス]α[アルフア]
   ことにもアラベスクの飾り文字)
 背中きらきら燦[かがや]いて
 ちからいつぱいまはりはするが
 真珠もじつはまがひもの
 ガラスどころか空気だま
  (いゝえ それでも
   エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)
 水晶体や鞏膜[きようまく]の
 オペラグラスにのぞかれて
 をどつてゐるといはれても
 真珠の泡を苦にするのなら
 おまへもさつぱりらくぢやない
    それに日が雲に入つたし
    わたしは石に座つてしびれが切れたし
    水底の黒い木片は毛虫か海鼠[なまこ]のやうだしさ
    それに第一おまへのかたちは見えないし
    ほんとに溶けてしまつたのやら
 それともみんなはじめから
 おぼろに青い夢だやら
  (いゝえ あすこにおいでです おいでです
   ひいさま いらつしやいます
  (えゝ 8[エイト]γ[ガムマア]e[イー]6[スイツクス]α[アルフア]
   ことにもアラベスクの飾り文字)
 ふん 水はおぼろで
 ひかりは惑ひ
 虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字かい
    ハツハツハ
  (はい まつたくそれにちがひません
    エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字)
                    (一九二二、五、二〇)

     (宮澤賢治「真空溶媒」/『校本宮澤賢治全集 第2巻』筑摩書房、昭和51年刊)*[ ]内は原文のルビ=引用者注


 しびれが切れるまで水たまりの御影石にに腰掛け、水中を上下する《一匹のボウフラ》の動きを観察するスケッチャーの自己問答がなぜか面白いのだ。自分の中にいる他人に見せるというより、もうひとりのほんとうの自分を納得させるような書き方が〈心象スケッチ〉の装飾文字として踊っている。そのリズムはラグタイム。
 水中から空中にスケッチャーの視線を転じれば、「鳥はまた一つまみ 空からばら撒かれ」るリズムも「ラッグの音符ばら撒」きなのだ。


  火薬と紙幣

 萱の穂は赤くならび
 雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい
 鳥は一ぺんに飛びあがつて
 ラツグの音譜をばら撒きだ
    古枕木を灼いてこさへた
    黒い保線小屋の秋の中では
    四面体聚形[しゆうけい]の一人の工夫が
    米国風のブリキの缶で
    たしかメリケン粉を捏[こ]ねてゐる
 鳥はまた一つまみ 空からばら撒かれ
 一ぺんつめたい雲の下で展開し
 こんどは巧に引力の法則をつかつて
 遠いギリヤークの電線にあつまる
    赤い碍子のうへにゐる
    そのきのどくなすゞめども
    口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば
    たれでもみんなきのどくになる
 森はどれも群青に泣いてゐるし
 松林なら地被もところどころ剥げて
 酸性土壌ももう十月になつたのだ
    私の着物もすつかり thread-bare
    その陰影のなかから
    逞ましい向ふの土方がくしやみをする
 氷河が海にはひるやうに
 白い雲のたくさんの流れは
 枯れた野原に注いでゐる
   だからわたくしのふだん決して見ない
   小さな三角の前山なども
   はつきり白く浮いてでる
 栗の梢のモザイツクと
 鉄葉細工[ぶりきざいく]のやなぎの葉
 水のそばでは堅い黄いろなまるめろが
 枝も裂けるまで実つてゐる
    (こんどばら撒いてしまつたら……
     ふん ちやうど四十雀のやうに)
 雲が縮れてぎらぎら光るとき
 大きな帽子をかぶつて
 野原をおほびらにあるけたら
 おれはそのほかにもうなんにもいらない
 火薬も燐も大きな紙幣もほしくない
              (一九二三、一〇、一〇)



 たとえばスコット・ジョプリン[1867or1868〜1917]の「The Entertainer」[https://www.youtube.com/watch?v=Fxk9qwCFf8s]や「Maple Leaf Rag」[https://www.youtube.com/watch?v=s_nBSSXiG9w]など一連のラグタイム演奏をバックにいっそうせり上がってくる詩作品や童話がほかにもありはしないか。
 宮澤賢治の音楽的背景としてだが、1922[大正11]年頃にはSPレコードや楽譜などで西欧のクラシック音楽だけでなく、19世紀末から20世紀にかけてアメリカで流行したラグタイムのリズムとシンコペーションに幻想的で多様な躍動感と生命力に溢れた魅力を感じとっていたといえそう。

 郷土民謡なども滅多に口にすることのなかった祖父と同じ1879[明治12]年生まれの「水中」ならぬ「海中」の“ヒーロー”がいた。1910[明治43]年4月、広島湾での潜航演習訓練中の事故で10数名の乗組員とともに殉職した第六潜水艇佐久間勉艇長のことだ。この事故のニュースと沈みゆく艇内で死の直前まで書き綴られた「遺書」に心動かされた夏目漱石が『東京朝日新聞』において、1910[明治43]年7月19日付「文藝とヒロイック」、続けて翌20日付「艇長の遺書と中佐の詩」の二篇を発表している。『大阪毎日新聞』派だった祖父がリアルタイムで読んでいたかどうかはわからないが、佐久間勉は福井県三方郡の神職の家の生まれだったというから日本軍人としての背景もキャリアも当時としては異色だったのではないだろうか。


  彼等[自然主義者=引用者注]にしてもし現實中に此行為を見出し得たるとき、彼等の憚りも彼等の恐れも一掃にして拭ひ去を得べきである。況や彼等の軽蔑をや虚偽呼はりをやである。余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を讀んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によって、器械的の社會の中に赫として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである。自然派の諸君氏に、此文字の、今日の日本に於て猶眞個の生命のある事實の上に於て證拠立て得たるを賀するものである。彼等の脳中よりヒロイツクを描く事の憚りと恐れとを取り去って、随意に此方面に手を着けしむるの保證と安心とを與へ得たるを慶するものである。
     (夏目漱石「文藝とヒロイツク」/『漱石全集 第十一巻 評論・雜篇』岩波書店、昭和50年刊)


  其上艇長の書いた事には嘘を吐く必要のない事實が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チェインが切れた、電燈が消えた。此等の現象に自己廣告は平時と雖も無益である。従って彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだので、他[ひと=ルビ]によく思はれるがために、徒らな言句を連ねたのではないと云う結論に歸着する。又其報告が實際當局者の参考になった効果から見ても、彼は自分のために書き残したのではなくて他の爲に苦痛に堪へたと云ふ證拠さへ立つ。
     (夏目漱石「艇長の遺書と中佐の詩」/『漱石全集 第十一巻 評論・雜篇』岩波書店、昭和50年刊)


 これらを書きながら「病院生活をして約一ヶ月になる」漱石は、「さうして重荷を擔ふて遠きを行く獣類と選ぶ所なき現代的の人間にも、亦此種不可思議の行為があると云ふ事を知る必要がある。自然派の作物は狭い文壇の中にさへ通用すれば差支ないと云ふ自殺的態度を取らぬ限りは、彼等と雖も亦自然派のみに専領されてゐない廣い世界を知らなければならない。」[前掲書]と「文藝とヒロイック」を結んでいるが、ほんとうのヒーローは決して歴史の表街道や再生した古民家などから垣間みることすらできはしないだろう。
 明治・大正・昭和を生きた祖父や実家の祖母と一緒に過ごした時間のなかのどこを探せば混沌とした《明治維新》の翳りなどを嗅ぎとることが出来たのだろうか。二人が過ごした民家のどの部屋にも「軍人」や「天皇陛下」の額が掲げられてはいなかった。(2024年2月11日紀/13日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(17)

         「道路がわれわれの故郷を改造した力は、大き
         すぎるというほどに大きかった。古い話だから
         ただ簡単に述べておくが、官道すなわち国普請
         の往還というものは、これを開鑿[かいさく]
         するばかりが行政庁の事業ではなかった。必ず
         その両側に若干の間隔をもって、これを管理す
         る民家を配置しなければならなかった。これが
         前代の公式の駅逓[えきてい]法であったので
         ある。最初は地子[ちし]の免除と人馬の賦役
         とがちょうど向き合いになって、いくぶんか住
         民に有利であったのが、後には二者は関係のな
         いものになって、馬の徴発ばかり繁く、さらに
         助郷までにその迷惑は及んだのであった。だか
         ら以前改めて新道を附け変えるということは、
         並木を惜しまずとも実際はできることでなかっ
         たのである。」
         (柳田國男『明治大正史 世相篇(上)(講談社
          学術文庫)171〜172頁)   

 丁稚奉公のためいったん生まれ故郷の松永を離れ、大阪という〈世間〉に出てしまった祖父の故郷感はいかなる変貌を遂げていったかについては知る由もない。ただ年季明けで出生地の松永より多少町寄りの埴生に住み着いたのは、「弱い小さな部落の独立を止めさせようという方針」[前掲書170頁]が全国いっせいに実行された、1888[明治21]年の新町村の結合という事態をへてのことであったろう。なにせ「いつからあるとも知れぬ十七万幾千の村と町とを、大まかに一万二千ほどに縮めてしまった」[同前]というから。
 大阪での都市生活の心細さを振り返ったり、新しく埴生で始めた村生活の清しさにひたったりする余裕などなく、とにかく裸一貫から身過ぎ世過ぎ、ひたすらなりわいに邁進するしかなかったであろう。母方の実家に比べておおよそゆとりとか余裕というか遊び心の薄い祭りの座興の差、子供心にその隔たりを楽しんでもいた。祖父が松永の実家の祭りに家族の誰一人として連れて行かず、母方の実家の祭りにも決して加わらなかった理由にうすうす気づくような年頃になるとある侘しさも感じていた。

 大正〜昭和期の邦楽にはどのような興味を抱いていたのかがよくわからない宮澤賢治だが、郷土芸能を愉しんだように祭りにも関心を寄せていたのだろうか。
 毎年母子三人で出かけた高儀の実家の祭りの座興は面白かった。叔父さんを軸に芸達者が競って愉しませてくれた。幼い頃に実家の手回し蓄音機で掛けまくって聴いたSP盤の響きが、端唄か小唄か都々逸かも聴き分けられなかったのに、それらが祭りの余興として実際に演じられていたのだ。化粧した女形の踊りや、“ひょっとこ”仮面のどじょうすくい[後に「安来節」と知った]だけでなく浪花節までなんでもありの座興に時間の経つのも忘れていた。就職してから一つぐらい覚えて宴席の座興に供したいともおもったが、浪曲の真似事が関の山で諦めてしまった。
 江戸期の芸能の一端が昭和の民家の村祭りの御座敷芸として永らえていたわけだが、祖父の生まれ年の1879[明治12]に文部省・音楽取調掛が設立されていたとは知らなかった。母方の祭りの列席者の中にはピアノなど楽器店経営者の家族もいたはすなのに、その場の座興に明治・大正期の洋楽の何一つとして演じられたことはなかった。


  明治初期の音楽制作における最重要人物は、文部省・音楽取調掛の初代長官、伊沢修二[1851-1917]である。彼はアメリカ留学後、彼の地で学んだ「唱歌」教育法を輸入して、日本のドレミ音楽教育を定礎した人間として知られている。音楽取調掛の設立は一八七九年、『小学唱歌集』刊行のスタートは一八八一年、ということで、彼が活動を始めた時期はちょうどぴったりニューバージョン《君が代》の誕生と重なっているんですね。なので、当然、二代目の制作にも伊沢らは関与している‥‥‥かと思いきやそうではなくて、伊沢の名前は《君が代》のエピソードにはまったく出てこない。「唱歌」と「国歌」はどちらも国家主導の「明治のあたらしい歌」であるが、実はその作り手の主体はそれぞれ違っていて、「唱歌」は文部省が、そして「国歌」は宮内省と海軍省によって作られた歌なのである。
  [中略ー吉田注]
  というわけで、音楽取調掛=文部省が活動を始める前から、軍楽隊と雅楽者のタッグによって省庁主導のニューミュージックの試行はすでに行われていたのである。唱歌に関しても先行は宮内省で、彼らは一八七八年に「保育唱歌」と題した教育用の音楽の作曲を試み、また、一八七九年には《君が代》の歌詞をそのまま使った《サザレイシ》という歌もリリースしている。「国歌の改訂作業」もこのライン上にあった、というわけだ。
     (大谷能生『歌というフィクション』月曜社、2023年刊、169〜170頁)


 埴生小学校に上がるまではもっぱら母の口から「唱歌」だけでなく「軍歌」まで教わったというか、よく一緒に歌ったりしていた。時には二歳上の姉も加わったが、祖父とは無縁だった。たぶん「尋常小学校唱歌」の幾つかは習い覚えさせられていたであろうに。とにかく「文部省唱歌」と「尋常小学校唱歌」の区別も知らずに母子で唱和するのが子供心に音楽の授業よりも開放的で面白かった。「赤とんぼ」、「われは海の子」、「ふるさと」、「蘇州夜曲」、「大きな古時計」、「夏はきぬ」、「朧月夜」、「紅葉」、「故郷」、それに「琵琶湖周航の歌」などである。
 「軍歌」にはさほど馴染めなかったが、アイ・ジョージの歌う「戦友」の背伸びするようなリズムや、美空ひばりの「戦友」の横へ超えゆくようなリズムに聴き惚れた。そんな行進的リズの対偶で聴いたのが「船頭小唄」のたゆたうように停滞するリズムであった。
 長じて母の好みの歌い手の歌謡曲のLPを一緒に聴いたりするようになっていたが、十代の終わり頃に目覚めた“ジャズ”には家族の誰一人として関心を示さなかった。

 私事だが自分の音楽的ルーツを振り返させられる出来事があった。猛暑だった昨夏に妻を亡くし、娘の言によれば「父はショックで葬式躁になり、警察沙汰で、精神科に医療保護入院していました。」とのことなのだが、入院当初の前後数日間の記憶が飛んでしまっていて未だによく思い出せないのだ。気づいたら「保護室」とは名ばかり、映画によく出てくるベッドとむきだしの便器しかない“独居房”みたいな部屋で高い窓をぼんやり見上げていた。今になって思い返せば、たとえば実家の祖母口伝の「明日ありと思うこころの徒桜夜半に嵐の吹かぬものかは」[親鸞?]の心境だったような気もする。
 実家の祖母だけでなく母や祖父からも習い覚えた「巳は皆んな、已に半ば、己は下に」が浮かんだかと思うと、唐突に《病院は監獄の始まり》[M.フーコー?]に突き動かされたり、食事もろくに喉をを通らないながらも数日で相部屋に移された。同室の男は元ボクサーのパンチドランカーみたいな患者で夜昼問わずシャドウボクシングのリズムで院内廊下のロードワークに明け暮れていた。

 そうこうするうち“デイルーム”で何かと寄り添うように言葉を交わすようになった先輩格のH田氏とのご縁に恵まれ、とにかく“快食・快眠・快便”を目指そうとする自分を見出せたようだ。欠かさず参加した平日の午前と午後の1時間のOT[Optional Therapy]の最初の「音楽鑑賞」で“場違い”を気にしながらもリクエストしたテディ・ウィルソン楽団の“ブルース・イン・Cシャープ・マイナー”が心身に染みるように響いてきたのには我ながら驚いた。
 次回の「音楽観賞」でたまたま隣りあわせたT内女史が当方のリクエスト曲に関心を持たれたようでご縁が生じ、H田氏退院後の会話を豊かなものしていただいたのだが、とりわけ夫婦ともども抑鬱的で老々介護状態だった妻の自死に、気づきもしていなかった深い言葉を寄せられたのにはただただ癒やされ、もがき苦しんだ深い闇から救いだされる想いがした。20人のスタッフで100人余りの患者の世話をする隔離病棟でよもやあのような言葉に出会えるとは何とした事だろう。実のところ入院に至る前に日ごろの僕ら夫婦の暮らしぶりに長きにわたって接してこられたK岡女史からも、実生活面から踏み込みこんだ言葉をかけてもらって救われていたのだが、平静を装いながらも内心取り乱していてさっぱり気づけなかったのだ。また退院後に知ったのだが、娘が喪主入院で四十九日法要の会席をキャンセルするために事情を話した長い付き合いのある店主の短い一言も、又聞きとはいえホッとするほどありがたかった。

 邦楽のキャリアもおありのようだったT内女史が茨木のり子のアンソロジー詩集を置き土産に早々と退院された後、OTの「音楽療法」が新鮮に響いてしょうがなかった。明治・大正期に作られた西欧的な唱歌だけでなく、大正期の口語的な童謡など、リクリエーション室で模造紙に手書きされた歌詞を、キーボードの伴奏付きで唱和するだけだったのに、なぜか落涙しそうなくらい體が緩みながらも整うというか、これまでのジャズライブ体験とは一味も二味も違う出来事になった。
 ネットワーク接続ノートPCとヘッドホンで「ユーチューブ」のジャズ&ブルースを聴き放題にさせてもらったリクリエーション室でのOTをはじめ、コロナ禍ですべての週間スケジュールが取りやめになった時など、もっぱらM病院四階隔離病棟廊下からの窓景色を便箋の裏に鉛筆スケッチするようにしていた。暗くなると借り物の鉛筆で何か書こうと試みたりしたが何もまとまらなかった。

 二百数歩で行き来できた四階直線廊下の東の端の窓からは若かりしころに縦走した北アルプスの稜線が懐かしく聳えて見え、西の端の窓からは能登半島に囲まれた富山湾が一望できた。その手前左湾沿いに亡妻とサイクリングや地鉄電車で何度か訪れたことのある“ミラージュランド”の観覧車や水族館が郷愁を誘い、左手湾沿いの直円錐屋根の「日本カーバイト」の建物が「敗戦の日の吉本さんの勤労動員先」だったことを思い起こさせ、と同時に自分がこうして〈いま・ここ〉に立ち至った経緯が偶然なの必然なのか立ち迷ってもいた。たまたま心神喪失状態に陥った時の緊急当番病院の収容先が魚津市の当病院で良かったというか、少しづつ正気がもどるにつれ生じたりする不都合などで自宅に近い富山市内の病院への転院など、治るものも直せなくなるような気がするのだった。

 四階病棟内直線廊下を迂回する南側廊下一面ガラス張りの眺めも終日飽きることがなかった。夜の帳が下りるころ、ここにワインバーがあればいいのにと囁いて母と暮らす実家へ戻られたT内女史とM病院に隣接するN川ホーム住まいに移られたH田氏に娘夫婦を交えて近所のM寿司で“退院祝い”なる約束事もまだ果たせていないが、退院時に持ち帰った中の一枚のゆる〜く傾斜した山と海にはさまれた扇状地に立ち並ぶ甍の眺めのスケッチを予定実行メモのように自宅の壁に掛けておいた。そんなことでもしないと先の見通しが立たなかったのだろうか。
 高すぎて窓がのぞけなかった保護室から相部屋に移された時には、その病室の北向きの窓の眺めにギョッとした。目の粗い格子状のコンクリートブロックが張りめぐらされ、横並びの病室の窓にあたる部分がそれぞれ矩形にくり抜かれた“塀の内”を感じさせる設計に視線を半ば遮断されたのだ。数センチほど開閉できるようにしてある四階病室の窓の隙間がかろうじて下界を感じさせた。噂によれば古いビルを病院にリフォームしたとのことだったが、古民家に残る〈格子〉の佇まいをめぐる趣や風情も知らない建築屋が手掛けたのだろうか。

 何がどのように正常か異常かの境界も判然としない“コロニー”内にそれとなく張りめぐらされた監視の眼、日頃の医師やスタッフの応対をないがしろにするようなカメラ視線が、見られている〈身体観〉をよりささくれ立ったものにしてくれたようだ。夕闇迫る食事前の“ディルーム”の内景が両側の窓ガラスにくまなく映し出されるようにしてある仕組みとその情景がまるであの世の入り口に臨んでいるように感じさせられたことが何度もあった。


  一人の人間の魂がぜったいに相手の魂と出会うことはないようにつくられているこの世、言葉という言葉が自分の何ものも表現せず、相手に何ものも伝えずに消えて行くこの世、自分がどこかでそれと剥離していて、とうていその中にふさわしい居場所などありそうもないこの世、幼女の眼に映ったのはそういう世界なのだ。
     (渡辺京二『もうひとつのこの世ーー石牟礼道子の宇宙』弦書房、2013年刊)


 入院早々に娘が差し入れてくれた翻訳「自己啓発本」の言葉がなかなか我が身に馴染もうとしなかったのに、なぜかT内女史に借りた非世間的な「詩の言葉」だと何度でもすんなり読めるのだった。S井主治医の初診時の予定より一ヶ月も早く退院できた今にして思えば、入院などしたことのない祖父にとっては、称名を唱えることによって世間を相対化して生きたというより、浄土真宗を信じることがこの世を渡ることになっていたのではないだろうか。
 退院間近を見計らってお世話になった挨拶をしたら「お会いできて嬉しかったです」と返された I 城係員と、当方の「退院の喜びよう」がイマイチ足りないネと云われたS井先生に病院玄関の外まで見送られ、娘夫婦の車でM病院を後にしたときの我が身のあてどなさがどこか中学生の頃の“身体/存在の不思議”に目覚めた〈身体観〉に通底するようだった。


  なぜこの人の顔立ちにそれほど引きつけられたのか。答えはあきらか。〈わたし〉という存在とその身体とのあいだが整合せずに、いつもぎしぎし軋みあっていたからである。わたしのなかには隙間とか亀裂みたいなものが走っていて、わたしが一箇の身体としてここにあるということがひどく心地悪いこととしてあった。それは七十をとうに超えた今も、ほんとうに変わっていない。
     (鷲田清一「ひきずり、もてあまして」/『文學界』、78(3)、令和6年3月号、48頁)


 「あるロマンポルノ女優」を引き合いにして語られた身体感というより、身体観といったほうがよさそうに思うが、人は他者に会うように自分に出会えない軋みみたいなものを生涯引きずらざるを得ないのだろうか。
 入院当時の病棟内の喧騒が潮を引くように切り替わったほぼ2ヶ月ぶりの静まり返った我が家。父の法要に、祖父と母と妻の葬式を経てきた築五十数年の時間が流れる住み慣れた家屋と庭の感触に“妻の不在”が際立ってくる。どこを何をどう探ろうとも、見事なほどに何の痕跡も残さず逝ってしまった。いつものように二人分の食事を用意し、ワインボトルにグラス二脚を添えた食卓がせめてもの精一杯の最後の挨拶だったのだろうか。
 数年前の秋の午前の買い物帰りに自転車で転んで利き腕の左鎖骨を折って以来というもの、それまで当たり前だったすべてが徐々にそうでは無くなってきた生活上のさまざまな身体的不如意。とりわけ大好きだった料理と食べることが痩せ細ってしまい、家事を引き受けながらもっぱら味わうだけの相方の自分まで食が進まなくなってしまった。コロナ禍もなんとかやり過ごすように二人で買い物をし、週一の外食も細々とこなし、図書館ならびに近所のかかりつけ医通いも絶やすことはなかったのだが。

 銀行勤めを辞めたときは、それまで生活の一部みたいに二人で聴き漁った数千枚におよぶジャジズレコードのカード目録をすべてタイプし終えたり、日々相方が管理・運用するHPの朝一の読者兼アップロード原稿の校正もやってのけた。漱石の『門』』に出てくる「宗助」と「御米」夫婦がいいと言ってみたり、アップロード前の校正を省いていた「十字路で立ち話」を欠かさず読んでいたらしく、書き間違いを指摘するだけでなく「ここんとこは絶対に私にしかわからないというか通じないよ」と自信ありげだった。「拙文」をWeb公開することなど、妻に読まれるのも恥ずかしい自分はいつも素知らぬ顔を決め込んでいた。
 数週間前、リスニングルームのLED電球を取り替えた際に動かしたソファーの後ろに隠れていた引き出しの亡妻が仕舞い忘れた手帳にメモ書きが挟まれていた。


  [九十九折]

 やりようもなく
 途絶えてしまう
 不意の死の訪れ

 掃除ロボットや
 PCのOSならば
 アップグレード

 どうしようなく
 もがきつづける
 日々の繰り返し

 使い古す老体が
 向き合う介護に
 悔悟や達成なく

 乳胎児期を経て
 屈折した青春を
 埋葬できようか

 伴走しようにも
 ゴールなど無く
 寄り添うだけに
    二〇一五年二月二四日



 書き忘れたみたいな『十字路で立ち話(あるいはワッツニュー)』の自作が丁寧に書きとってあった。「メモ」にして年を改めるたびに「手帳」の栞のように引き継がれていたのだ。どんな人間関係にあろうとも決してお互いに覗き込むことも共有することもない底知れない深淵があるのではないか。だからこそいっそう寄り添おうとして第三者を寄せつけないような閉ざされた極面や修羅場を生きざるを得なくなったりする。お互い恵まれなかった家庭のことなど何処にでもあったであろう相対的な事情に相違なかった。しかしそれぞれの家族を構成するひとりひとりの生き様がどのようであったとしても、それぞれにとってかけがえがないほどに重たかったり尊いものとなったりするであろう。
 自分のHPに掲載している文章など間違っても本当の読者に出会えるような代物ではないが、この時だけはかけがえのない“ひとりの読者”でもあったような気がしてならなかった。結婚するまでには日本だけでなく、ロシアやヨーロッパの名作や古典を読んでいたから、相方が文才など持ち合わせていない事などとっくに見抜かれていたであろう。同人誌に関わったりしていた頃にやさしく「決して“小説”を書いたりしないでね、できたら“出世”などもしないでね」と念を押されたことがあった。
 お互い会うたびに話したりなくて一緒になったようなものだったが、娘が母から聞いたところによれば「俺の子供を産んでくれ」が決め台詞だったという。またよくぞこんな自分を選んでくれたと感謝していたが、娘には「きつい三角恋愛関係の中で選んでもらえて‥‥‥」と嬉しそうに話していたようだ。なるほど時々思い出したように「あの女[ひと]はその後どうしているだろう」と消息を案じていた。自分は亡妻と一緒になるにあたって一つだけ覚悟していた。家族と諍いになったら何が何でも妻の味方をして、どうしようもない時は二人で家を出ればいい。


  ここまで書いて来て、私を育ててくれたのは、これまで出会った人々だったのだと、また繰り返したくなった。私は女の人のことを書かなかった。女の人は男以上に私を鍛えてくれたのかもしれない。でもこの文章では最初から、女性のことは書かぬ方針だった。女は私にとって、友というのとはちょっと違う存在のようだった。たとえ友だちだとしても、男友だちと女友だちはずいぶん違うもののような気がする。
     (渡辺京二「ひと[原文傍点あり]と逢う」/『父母[ちちはは=原文ルビ]の記』平凡社、2016年刊、149〜150頁)

 ずいぶん〈女運〉がよかった男の発言のようにも聞こえるが、とにかく居合わせる[た]ことがお互いにとって稀有のことになって暮らせたら何も言うことはないのだ。
 M病院入院中も退院後のクリニックでも自身の今後の暮らし向き、金銭的な裏付けと日々何をどのようにしてきた[いく]かについても具体的に事細かく尋ねられた。主に午前中はHP作業に当ててきた[いく]ことなども話したら、その内容についても訊かれたりした。簡単に『高屋敷の十字路』だけでなく『隆明網』や『猫々堂』などサブページのことなども話したが、手伝ってくれていた亡妻のことには触れなかった。H田氏やT内女史との会話の中であれこれ話しあえたことの方がなんだか想定外のカウンセリングみたいな開放感があった。退院前夜に今後の生活項目などのアンケートの聞き取り担当だったMK保係員から最後に「入院当夜に立ち会っていたのわかっておられましたか」と確かめられ、まったく身に覚えがないことばかりだが、しでかしてしまったことの恥ずかしさだけが繰り返しよみがえる心地がして何にも言えなかった。(2024年3月8日記/11日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(18)

           「ある場所にあって生きているということは、
            自分の重さと、自分の力と、自分の身体の重さ
            に対応した力しかもっていないばあいには病の
            概念はあてはまらなくて済むわけでしょう。多
            少とも重力以上の力がかかる場所にいれば、い
            いかえれば地面以外の場所に観念がおかれてい
            たら、急速か徐々かっていうちがいはあるけど、
            かならず病気の問題と関連してきます。心臓病
            であるか、糖尿病であるのか、胃の病気だとか、
            癌だとか、かならず成人病として出てくるみた
            いな、ある場所がある。精神的な病としても、
            肉体的な病としてもそれは出てくるということ
            がいえるんじゃないでしょうか。それがきっと
            成人病、老人病の問題のような気がしますね。」
            (吉本隆明「ハイ・エディプス論(下)」/『吉
             本隆明資料集191』57頁) 

[承前]ちなみにM病院で問診やカウンセリングをされた医師やスタッフに「吉本隆明」をご存知の方はなく、没後10年以上過ぎた時の流れを感じさせられたが、なんと退院後に通うことになった心療内科の医師お二人とも「名前」だけでなく過去に「著作」などもよまれたことがおありのようだった。
 現在の日本の医療現場でどのような〈老体論〉のレベルに基づいた老人医療が繰り広げらているのか、いたずらに馬齢を重ねてきたにすぎない一介のにわか独居老人には皆目見当もつかない。

 自分にははっきりした覚えがない「入院当夜の有り様」をつぶさに観て取られたであろうMK保係員から退院前夜の「聞き取り」で開口一番、「こんなところに長いこと居られてなんの社会勉強にもならなかったでしょうが‥‥‥」と挨拶され、なんとも返しようがなかった。かろうじて小さな声で「いえいえいろいろ考えせられたようで」のあとが続かなかった。退院予定が決まるまでは、入院患者の家族関係を象徴するような「面会機会」の少なさなどいろいろ考えさせられたりしていたのに、“明日”からいきなり独居暮らしに切り替えられるかどうかが気になってそれどころじゃなかったのだ。

 何回かのカウンセリングで、よくわからないけどHPの維持・管理みたいな面倒臭いことを?‥‥‥なんて顔をされたこともなかったとはいえないが、誰しも生きざるを得ない〈現実〉と切り結ぶような〈表現〉を持続してきた書き手の著作書誌を作成するだけでも面白いというか、仕事としての図書館での目録作成とは比べものにならないくらい我が身について考えることの対象化作用を滞らせないような刺激ともなるのだ。
 たとえば『吉本隆明資料集1〜191集』の刊行を追いかけながら収録著作の書誌作成&Web公開をやってきて見え隠れする〈ヒトの生まれてから死ぬまで〉への〈身体的〉な“こだわり”とそれへの吉本さんの言及姿勢を公開時の年齢にそうようにたどってみると、〈あのとき・あそこで〉口ごもってしまった〈社会勉強〉になったかならないかを左右するような事柄がつぎつぎとみえてくるようだ。


(1)▼資料集148:「思想としての身体」日本医科大学 第12回千駄木祭1969年10月29日講演[著者44歳]

(2)▼資料集56:「身体論」 I〜VII@『試行』第30〜36号1970〜72年[著者45〜47歳]
 「人間の個体が描く生誕から死への生命活動の曲線を、人間はなによりも〈手〉の働きによって超えようとする。これは、たんに歴史を文字に刻み、文字や音楽や美術の作品を刻みこみ幾世代にわたって保存させるという意味でいうのではない。環界を〈技術〉化して、たんなる天然の〈物〉を整序された〈物〉へと構築するとき、この構築物が経済的なあるいは社会的な範疇で〈生産物〉あるいは〈商品〉とよばれるとしても、この構築作用の働きそのものは〈時間〉の拡大と構築自体を意味しているようにみえる。それは外化された〈了解〉であり、いずれにせよ個体の生涯が限る〈時間〉を超えようとする作用に根ざしている。〈手〉がつくりあげるのは物質的であっても観念的であっても〈了解可能〉あるいは〈了解期望〉の系であって、このことは、結果的につくられたものがどのカテゴリーで解釈されるかということとは、一応別問題であるといっていい。いまこの問題をつきつめるまえに〈足〉とはなんであるかについて触れておくべきであろう。
  〈手〉の作用からすぐに連想されることは、〈足〉が〈身体〉に則した〈空間〉の限度を意味するということである。〈足〉についても〈手〉のばあいとおなじように〈かもしかのような足〉とか〈ふっくらとした足〉とかいう感性的な比喩をあたえることができる。このばあい〈足〉の比喩は観念作用の比喩ではあっても、知覚のほかの概念をあたえることができないことに気づく。たとえば、〈恐縮〉しているさまを〈もみ手〉をしているということはできても〈もみ足〉をしているということはできない。〈手〉を擦り〈足〉を擦るという表現は〈蠅〉についていわれるだけである。それは〈足〉が〈空間〉の拡大と構築の働きに特異性をもっているためであるようにみえる。〈足〉に観念の作用をおわせても、感性的にしかおわせることができないのだ。
」(66頁)

(3)▼資料集71:《「詩人にとっての〈身体の思想〉》「現代詩の思想」『別冊無限 無限ポエトリー』第7号1980年1月10日発行[著者55歳]

(4)▼資料集148:「身体論をめぐって」紀伊国屋ホール1985年10月18日講演[著者60歳]

(5)▼資料集23:「ことばへ・身体へ・世界へ」1985.1.29『現代詩手帖』1985年3月号)[著者60歳]
僕はあなたほど持ち駒はないけれど、いつか、あんまり老いぼれないうちにからだをきたえてね、二十四時間講演というのを一度やってみたいんだ。体力もいるしさ、そう簡単にはできないんだけれども、ジョギングなんかしてきたえておいてね。二十四時間、自分の持ち駒を全部出して、一度やってやろうという思いはありますね。まもうかるかどうかはわかんないですけど。」(50頁)

[(6)1987(昭和62)年9月12〜13日[今、吉本隆明25時]東京品川の寺田倉庫で行われた24時間連続講演と討論集会[著者62歳]]

(7)▼資料集93:「心と身体の物語」『教育と医学』1987年10月号[著者62歳]

(8)▼資料集186:「身体のイメージについて」1990年9月6日「アイコンとしての身体」における発言[著者65歳]

(9)▼資料集126:〈身体生理と言葉〉「言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移(1994年10月14日)『iichiko』第39号1996年4月20日発行[著者69歳]

(10)▼資料集126:〈落合「野茂評価」の見識〉「私の野茂茂雄論」『正論』1995年11月号[著者69歳]

(11)▼資料集137:〈自分の身体への関心〉「日本の小説が変わる」[石黒達昌氏との対談]『本の旅人』1995年12月号[著者70歳]

(12)▼資料集156:〈階段を下るように身体が弱くなる〉「老い、障害、呆け、死とは?」[聞き手 大高智子]『オンライン ブックストア』2001年7月9日[著者76歳]

(13)▼資料集180:「現代スポーツとテロリズムに見る玄人性と素人性:現在への発言」[聞き手 山本哲士2001年11月15日]『吉本隆明が語る戦後55年』第8巻2002年5月31日発行[著者76歳]

(14)▼資料集182:「家族・老人・男女・同性愛をめぐって:現在への発言」[聞き手 内田隆三・山本哲士 2002年10月7日]『吉本隆明が語る戦後55年』第10巻2003年3月10日発行[著者77歳]

(15)▼資料集166:「移行する身体ー歌や言葉のことー」[森茂哉氏との対談]『舞台評論』第3号2006年6月30日発行[著者81歳]

(16)▼資料集168:現代の「老い」:漂流する風景の中で[著者81歳]
年をとるとなにが一番つらいか。
 それは、自己の意思と、現実に自分の体を動かすことができる運動性との間の乖離が、健康な人には想像ができないぐらいに広がるということだ。思っていることや考えていること、感じているここと、実際に体を使ってできることの距離が非常に大きくなる。
 そんな老人を前にすると、ともすれば医者は「この人は返事だけはいいけれどこちらの指示したことはやろうとしない。少しぼけてきたな。」と思い込んだりする。
 ところが運動性において劣るというのは、例えばアルツハイマーになったりするというのとはまったく違う。自分の気持ちは少しも鈍くなってはいない。それどころかある意味ではより繊細になって、相手の細かい言葉にいちいち打撃を受けているのに、そのことを表す体の動きは鈍くなっているという矛盾、そしてそれを理解されないジレンマ。その点に絶望している老人が多く存在するという現実を、医師や看護師、介護士はどの程度知っているのだろうか。
 そんな老人を表現する際、僕は、老人たちを励ます意味も込めて「超人間」と呼んではどうかと考えている。
 動物は、目に見えた何らかの変化にすぐに反射的に行動を起こす。これに対し人間は、感覚的に知覚したことと、行動との間に時間的距離があるのが特徴だ。となると、老人という存在はその時間的距離をもう少し大きくした「人間以上の存在」なのだから、それは「超人間」だ、と。
 人類の歴史には、政治や社会にまつわる問題が属する「大きな歴史」と、個々人の身体や精神の問題を扱う「小さな歴史」がある。そして「超人間」を含めた小さな歴史の中に人類史の問題が全部含まれている。大きな歴史だけを「歴史」と考えるのは不十分だ。
」(73〜74頁)(聞き手 松本一弥@『朝日新聞』2006年9月19日)

振り返れば、こうした政治や社会の問題については自分なりに考えてきたつもりだったが、老人が直面する問題はやっぱり老人になるまでわからなかった。いい年をしていろいろな目にあって、ようやくそれが見えてきた。
 「もう一個違う系列の問題があった。」そう新鮮に感じながら僕は日々を送っている。
」(75〜76頁)[同前]

(17)▼資料集168:老い見つめ未踏を思索:吉本隆明 大病からの復活[著者81歳]
発達心理学では身体の運動機能が向上していく青年期までについては、人間の精神の成長を論じていますが、壮年期から老年期、つまり身体の運動性が衰えていく時期の精神の活動については扱おうとしない。それなら自分が老年期まで伸ばしてやってみよう、という考えです。今は、それをやっておく必要があると思っています。」(90頁)(聞き手 宮川匡司@『日本経済新聞』2006年7月18日)

それ[八十歳を超えて自らを追いつめるように原理的な仕事を続けること=引用者注]は、食っていかなければいけませんから。それに、現代は流れる時間の速さが違う。谷崎潤一郎や川端康成や志賀直哉といった古典時代の鬱然たる大家のような生き方は、高度に産業が発達した現代の物書きには、もう無理なのではないか」(91頁)[同前]

(18)▼資料集169:〈身体に詰まった歴史〉「〈心的なものの根源へ〉ーー『心的現象論』の刊行を機に」[聞き手 山本哲士・高橋純一]『週刊読書人』2007年6月15日号[著者82歳]
『奥の細道』の終わりの方に、「暑き日を海に入れたり最上川」という句があります。それを読んでいると、太陽が海に沈んだ時に水が蒸発してジューっと音がするみたいな、そういうところまで彷彿させる。「海に入れたり」でなくても、『海に入れり」とか「海に沈めり」とか、表現の仕方はいろいろあるわけですが、最上川が夏の暑い夕陽を自分の体の中に入れたというい意味に取れるような表現をしている。芭蕉のいい句は必ずそうなっています。」(57頁)

人間の身体というのはそれぞれ個人でみんな違うわけですが、人類史を身体で見れば、誰でも身体に人類の全歴史を孕んでいるわけです。それは普遍的なものです。今は後進国であるとか先進国であるとか言っていますが、それぞれの身体はチンパンジーの時から同じ年数を経ている。習慣とか風俗とか気候・天候とか、そういうのが違ってしまったから、今でこそ未開の社会と文明の社会とが分かれていますが、一人ひとり取ってくればみんなお同じだけの歴史が身体の中に詰まっている。これが普遍性ですよ。」(58頁)


 要介護状態にあった家族の手触りから足触りまでが、ヒトの手・足の〈了解〉の時間性や空間的な〈関係〉として蘇ってきそうな読みごたえに浸ってばかりもいられない。詳しくはないのだがここ十数年、武術(道)界でも数人の探求者による武道の考古学的な見直しが深いところで進められているのではないか。
 昨秋のM病院入院中の事例をひとつ、4F病棟廊下を散歩[徘徊]中に“お漏らし”した患者の報を聞いてスタッフルームから駆けつけた数人の看護師は何ごともなかったように手分けして床をキレイにする一方で患者の着衣を取り替える。またある患者の罵詈雑言が止まなかったり、悪態が甚だしい場合もなども、咎めるでもなく優しくするでもなく患者の身体の様相が見守られていたようだ。ときには介護士が喧嘩腰に出てみたり力づくでなだめたり、派遣清掃スタッフからも評判の良い4F病棟内看護・療養ネットワークが営まれていたようにおもう。それとは別に特に目立ったのは家族から見限られて快復しそうにない中年から老年にかけての男性患者の孤立。どんなに患者にとって好ましいスタッフでも家族の代わりにはならない。自然治癒の無意識的な見護りとなるであろう家族関係が崩壊してしまっているようでは、最終的な受け皿が断たれてしまって何ともし難いのではないか。とはいえ、“入院”という措置に立ち至るまでの老齢患者個々の生き様が、やり直せない壁のように立ちはだかっている事態に言葉を失うしかないのだが。

 昨年暮れに手続きした「入院給付金申請書」に添付したS井主治医の「診断書」には「妻との死別による心因性」とだけ書かれていて以前の「葬式躁」なる言葉はなかった。退院に引き続き「心療内科」に通っていても一過性の「煩い」だったのか、再発性のある「患い」なのかも判然としない心身状態でもあるし、とても自身の老体状況について確たることなど言えない。そこで同じく自作Web公開してきた吉本さん晩年の「著作書誌」内容からも、先に引用した《老体論》と相関関係にある〈表現〉を引用しておきたい。


(19)▲『<老い>の現在進行形:介護の職人(PT)、吉本隆明に会いにいく』(三好春樹との対談集) 春秋社, 2000.10[著者76歳]
ぜったいにといっては語弊があるかもしれませんが、最終的には配偶者にはいかないのではないでしょうか。性もなくなった、男女のべたべたもなくなった、ただ同じ家に住んでいるから家族ではあるんでしょうが、それ以上のものがなくなって、何でつながっているのかという段になったら、言いようがない。誰かを媒介にして、子どもを媒介にして、孫を媒介にして、それはあるのかもしれませんが、直接関係としてあるかといったら、それは「なくなるよ」となってしまうのではないでしょうか。
 ときどき老夫婦で、いかにも仲のよさそうなのがテレビに出たりしている。あれはすごいと、たいしたもんだとおもったりするんですが、うそなんですね(笑)。あれは一人ひとりになってしまうんですね。一人ひとりがどこにいくかというと、やっぱり母親というか、生まれたところというか、胎内というか、そういうところでないかという気はします。
」(36〜37頁)

ぼくが体験的に大事だとおもうのは「呼吸」ですね。呼吸があぶなっかしいとすぐ息が詰まってしまうというか詰めてしまう。息が詰まるとすぐに転んだりします。いまは息を無意識にしようとおもっているんですが、なかなかできないところなんです。」(66頁)

しかし、ほんとうにその人にとって認識できる限りの、いちばん切実で実感の伴っている〈死〉というのは何かといったら、どうしても「生まれてきたことに責任はない」という、じぶんの責任ではないのに、親が産んだから生まれてきてしまった、生まれてきたから生きてしまったんだということとかかわらなければなりません。そしてじぶんの責任ではないというのは赤ん坊のときのことについてはいえるが、それがぜんぶじぶんの責任だとおもえてきて、そのことと身体の衰えがどうしても切り離せなくなったら、それを〈死〉というよりしょうがないのではないか。いちおうぼくはそうおもっています。」(92頁)

(20)▲『老いの流儀』[構成:古木杜恵] 日本放送出版協会, 2002.6[著者78歳]
ぼくは少し疑うんですけで、こういう[強いとされる空手選手が一〇〇人を相手に戦う=引用者注]強さは嘘じゃないかと。つまりほんとうに強かったら、そんなことはしないのではないか。何人か相手にしたら、「もうそのくらいでやめておけ」と言うに決まっている。それをぶっ倒れるまでやる。「そんなの強いわけないよ」と思うんです。K1の試合でも日本の極真空手の選手は勝てない。ブラジルとか第三世界で鍛えた選手が必ず勝ちます。どうして日本人選手が負けるかというと、相手の体が大きいからではありません。K1や空手をやっている外国の武道家は、日本人より日本人なんです。武道の極意みたいな「道」があるんです。ところが、日本の武道家には多少の信念みたいなものはあるけど「道」はない。信念と運動だけです。ブラジルの武道家のほうが、昔の日本の武道家が持っていた「道」が残っているし、そういう修練をする。だから日本人がかなうわけがない。東京オリンピックの柔道でもそうでした。重量級で優勝したオランダのヘーシンクを見ても、野山に行って大木を相手に投げの練習をする。昔の武道家がやっていたような稽古をやっているんです。だからノー・ハングリーになった日本人選手がかなうわけないですよ。』(24〜25頁)

自然に対して抗わない老齢など成り立ちません。」(29頁)

精神労働あるいは知的労働と、肉体的労働が絡まって区別できな部分があるとすれば、その部分が老人に残る。僕はそう思えて仕方がない。老人の持っている肉体的衰え、惚けというか精神的な衰えは、どちらも単独ではないんです。精神科の医師に言わせれば、老人はみんな精神的に病んでいる。その病は精神的な衰えなのか、肉体的な衰えなの判断しにくい。逆に言うと、老人の病気あるいは病的な状態や肉体的な衰えの治療は、整形外科的な療法でも精神的な療法のどちらでもいいんです。」(42頁)

赤ん坊だって「死ぬ」わけだし、若い人も交通事故で「死ぬ」こともある。年齢なんて関係ないということになります。だけど、老人は「死ぬしかない」となると、そうかもしれないということになっちゃう。そうすると、人から「老人性うつ病」といわれる状態に陥ってしまうんです。若いときは「老い」と「衰え」の二つのことばで語れたとしても、老人の域に達すると曖昧模糊とした形で絡み合って、本質的には分けて考えたほうがいいのですが、「老い」と「衰え」がうまく分けられなくなるということですね。」(55頁)

ある程度実感的に分かることは、歳をとった老夫婦が一緒に杖をついているというのは、まだ高齢化社会ではないときのことですね。では、高齢社会がもっと進めば性の問題はどうなるかについては誰も言っていない。歳をとって性の意識はだんだん薄れていって、友達的な関係といいますか、そういった人たちもいるだろうが、その後がどうなるかというと、最後の段階は誰もまだ考えていないと思います。最終的には配偶者にはいかないのではないでしょうか。」(123頁)

若いときには過剰な生命力の発現は自然にまかせたほうがいいかもしれませんが、老齢化してからは自然に意志して「自然」に逆らわないと、スムーズな扱い方を「自然」のほうがしてくれないのではないでしょうか。」(129頁)

今は過度期だから、あらゆる矛盾がすべて親子の関係、夫婦の関係に出る。両方が本気で正面からぶつかったら必ず壊れます。それを知恵でかわしたり、利害関係でかわしたりとかしながら、なんとか関係を維持していると思います。」(142〜143頁)

マルクス流にもっと言うなら、経済的理由が第一の原因だと思います。資本主義か高度化して社会生活の形態や現象が超資本主義社会になりつつあるのに、政治や金融機関、企業は旧態然として資本主義制度の直線上の延長だと思っていますね。そうした矛盾が、今大きく噴き出している。とくに日本は典型的だと思います。そういうことが原因で金属バットで親を殺したり、逆に子供を金属バットで殺したりする事件が起きる。」(143頁)

伝達手段の発達というのは、言語でいうと意味の増加なんですね。意味量の増加というのは、価値量が増加するかどうかはまったく分からないわけですね。専門家がよくよく考えて言わないといけないんですけどね、簡単な比喩で言えば、部屋の中でゴロゴロ寝ころんでいるのを外から見て、「あいつは休んでいるとか、遊んでいる。あるいはさかんに寝転んでいろんなことを考えているとか」というのは、おそらく分からないわけですよ。つまり、外から見ると寝転んでいるだけで、休んでいると解釈してもいいし、考え事をしていると解釈してもいいということになるわけです。外から分かることは、少なくとも意味だけであった、寝転んで何をしているかはぜんぜんわからない。」(158〜159頁)

(21)▲『家族のゆくえ』[書き下ろし] 光文社, 2006.3[著者82歳]
それぞれ性格も生育環境も異なった、一組の男女の性の関係から家族はつくられる。人間は個々人をもとにいえば、どんな人間も、個人個人としての個人、家族の一員としての個人、社会のなかの個人、という三つの面をもっている。現在のような家族関係の危機状況や、独身主義生活者や同性愛者が増加しても、危機による崩壊や変形が増大しても、これは変わらない。  これを観念(精神)の問題としていえば、「一人の人間」と他の「一人の人間」のあいだの対幻想[ついげんそう=原文ルビ](性観念)が家族の本質である。これは相手が異性であっても同性であっても、一夫一妻(夫)で生涯を経ても、相手が複数に変化しても変わらない。また子供をもうけてももうけなくても、共棲してもしなくてもしなくても変わらない。もっと丁寧にいえば、先進地域でも混信地域でも、人種のいかんでも、現在までの歴史では変わらないといえよう。」(13頁)

この人間の発達線に注釈を加えると、第一に移行期を加えたことだ。これがなければ発達線は人間の生涯の年齢の区切り線に過ぎなくなってしまう。この移行期の扱い方が種族や地域の特殊性と生活風習の因習性の伝統(つみかさね)につながることになる。次に、発達心理学が成人期と老年期について考察したものを、わたしの知見の範囲では見つけられない。もちろんわたしは自己の実感以外には、基礎となる考えをもっていない。それにもかかわらず、身体の運動性の減退とともにはじまる生活心理と観念の流転のすがたは充分な考察に価するとおもえる。  もうひとつ、ここでは「死」を老年期の後にもってくる考え方をとっていない。死は胎児のときから老齢までのどの時期にも存在する。それは、それは、どの時期にも存在しないということとはほぼ同義の可能性だからだ。」(14〜15頁)

信仰や法律、社会(共同幻想)とも、また一個人(自己幻想)とも異なる位相にあるのが「家族」なのだということを最初に指摘しておきたい。」(17頁)

わたしは、子育ての勘どころは二か所しかないとおもっている。そのうちの一か所が胎内七〜八か月あたりから満一歳半ぐらいまでの「乳児期」、もう一か所は「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期だ。この二か所で、母親あるいは母親代理が、真剣な育て方をすれば、まず家庭内暴力、けた外[はず=原文ルビ]れの少年殺傷事件のような深刻な事態には立ち至ることはないとおもえる。もちろん、悪ガキというか悪童ぐらいにはなるかもしれないが、しかし、いきなり他人を刺してしまったり、あるいは親を殺したりするということにまでは至らないはずだ。」(28頁)

とにかかく、胎児期から乳児期の母と子の関係はきわめて重要だという、こうした見方はわたしの理論的な考え方のとても大きな核になっているといっても言い過ぎではない。でも人間は、胎児、乳児に母親としてどんな影響を与えるかは、母親だけのせい[下線部原文傍点]でもなければ、家族のせいだけでもない。またその時期、どんな家庭であるのかも予見できるわけでもない。親と子の関係、家族の状態は予想できることではない。ただ親と子を中心にして平静に切りひらいてゆけばいいことだ。」(35頁)

お母さんのお乳を飲んで可愛がられて育って、それからごく自然に離乳食に移っていく普通の人は、その後の人生で何か衝撃的に辛[つら=原文ルビ]いことがあっても、それに耐えられるだけの「壁の高さ」のようなものがあるとおもう。ちょっと苦しい目に遭ってもおかしくならないで、「壁」のところで引き返すことができる。いってみれば、なんらかの衝撃が壁を越えてこころの中心を直撃することがない。衝撃によって異常をきたすことがない。そうした壁は、乳幼児期の母親ないし母親代理との自然なかかわりあいのなかでつくられるといえる。」(39頁)

老齢は社会通念とも倫理的な善悪感ともかかわらない。だからもちろん生存は屈辱でも誇りでもないし、敬[うやま=原文ルビ]いでも侮蔑でもない。わたしにはよくいえないが、「身体」についても考古学という概念が成り立ちうるとすれば、老年期は乳児期、幼少年少女期(学童期)、前思春期、成人期とまったく同じように、充分に学問的に、また文学・芸術的に探求するに耐える内容をもっているのではないだろうか。ただ実感的にも、観察的に客観視しても、まだ幼稚な段階にあるというだけだ。老齢者自身もせめて実感的に嘘をついたり、我慢して馬鹿げたミス・リードに迎合したりしないようにする責任があるとおもいたいところだ。」(160頁)

したがって老齢者の定義はーー「頭や想像力で考え感じていること」と、それを「精神的にか実際的にか表現すること」とのあいだの距離が普通より大きくなっている人間、となる。そう定義するなら、まず間違うことはないとおもう。」(165頁)

辛うじて残る共通点といったらーーもうすぐアウトだ。自分は死ぬかもしれないという不安、苛立ちだけだ。それはほぼ共通だとおもいたいが、お年寄りがそういうことを巧みに隠してしまえば、お年寄りのこころの深い部分はちょっと若い人間にはわかりきれないのかもしれない。」(175頁)

(22)▲『老いの超え方』(インタビュー・編集協力:佐藤信也) 朝日新聞社, 2006.5[著者82歳]
つまり、自己としての自己と、社会的な自己というのは分離しないと駄目なのです。その分離がシュムペーターにはできていない。だけど、マルクスはできているんですよ。それはすごく違う。個人としての自分と社会的個人としての自分が区別できていないと、どっちかに行ってしまう。つまり、個人としてお金持ちになりたいと思おうが思うまいが、そんなことは勝手。自由なんですよ。誰かが大金持ちになってもそれはよかったじゃないかという以外何もない。」(46頁)

そうだと思います。でも、概して言えば、ある年齢以上は男性も女性も、性交欲が第一位に来ることは珍しい。少数の人しか、第一位にならない。でも、性欲というのはずっと死ぬまであると言えるのではないでしょうか。人さまざまだし、生態もさまざまですから、一般論では性交欲はある年齢以上は第一位にならない、女性も男性も関係なくそうだと思います。ただ、女性はいいと言えばいい、でも男性はそれ自体ができなくなるということがあります。そこが違いますが、生欲はどんな年寄りにもあります。かといっていくら老人ホームで男性と女性が仲良くなっても、若い人の乱交パーティみたいなものが起こるはずがありません。おかしなことが起こるというのは、僕の考えでは、ないと思います。」(98頁)

[入院することは=引用者注]比喩としてはそうで、実際問題としては書いた通りで、これは一般社会の中にある真空の場所みたいなもので、生活もないし何もない。外との接触は見舞いや家族が来るだけで、道路一つ隔てただけで全然違う。これが続くと耐え難いと、僕は思いましたね。真空地帯、あるいは中立地帯と言っていいのかもしれません。あまりいいという思いもないけれども、それほど凶悪なものでもないといえばその通りですが、ちょっと特異なところなのではないでしょうか。」(107頁)

少なくとも社会的人間としては、それは[代償を求めるなというビジョン=引用者注]非常に重要なことです。社会的人間と個人的人間というのは、同じ一人の人が二重に持っているわけです。それは、やはり初めは分離ができていない。分離ができていないというのは、思想問題だからいいけれども、生態的な問題だとすれば動物と人間の違いぐらい違います。それが分離できていなければ動物です。身体性、運動性はいいでしょうけれども、ほかのことは動物と同じになってしまう。でも、分離しているから人間だ、自分の理念として分離しているとそれがよく分かるとか、幅が広がったとか、そういうことが分かります。そうすると、対応の仕方が違いますから。」(155頁)


 幼少期の〈軒遊び〉からはじまって、人間の「発達線」に〈移行期〉を設けるだけでなく、さらに〈死〉は胎児から老齢までのどの時期にも存在する[しない]とするところに〈身体〉を立たせたとても大切な考えが述べられている。
 老若男女老いも若きもいずれの〈身体〉の〈移行期〉にもとどくように、〈書く・話す〉ことと〈為す〉ことが乖離していないというか、「人のからだ」について方法的に明らかになるように五体を駆使してきた〈身体的表現〉が試みられている。


  しかし現在のわたし自身を顧みれば、自分の身体を素材に考古学的な発掘をやっているような気がしている。考古学者が日本列島と周辺を全部掘りかえすのは大変なように、一メートル七〇〜八〇センチの自分の身体とその周辺を掘りかえすのも大変だと思う。幸いにも身体については、男女の専門家が古代から現在まで沢山のことを解明してくれている。そして現在も発掘にたずさわる人たちの探求はつづけられている。わたしは発掘される方の身体として、他人には見たり聴いたりできないかもしれないしんたいのつぶやきや独り言を洩らせばいいことになっている。      (吉本隆明「あとがき」/『老いの超え方』(インタビュー・編集協力:佐藤信也) 朝日新聞社、2006年刊、270頁)


 自分が自分の身体についてどう思うかということより、どう思えばいいのかを第一に考えるようにして多くなった《引用》の向こうから、自分の身体が浮き彫りになってくればいいのだが。
 思いつくままに「引用」した吉本さんから《自分に問うというか、そういうものがあるあいだは、《HP作成と持続》は生きた“雑誌”になる。それがなかったら、わざわざHPを作る意味なんてない》などと言われかねないが、HPを続けることで“AI”流行りの状況にめげない呼吸法をつかみたいものだ。それが身体と言葉をつなぐ何のことでもない見通しにもになればいい。
 幼少期に街道と民家を行き来したであろう幻の父の老いゆく背中を見たかったようなきがする。
            (2024年3月20日記/23日Web公開)

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続・本の一言:街道と民家(19)

           「動法理解の鍵は解剖学無き時代の身体観にある。解剖学的区分を忘れ、
           素直に自らの身体を内観し、その感ずるがままの内観から得られる身体
           像を、私は内観的身体と呼ぶ。それは単なる客観的身体の認知像とは全
           く異なり、気体化した身体像とでも言うべきものである。今仮に座して
           軽く閉眼し、自らの腹部の輪郭をとらえてみる。するとそこに腹の像が
           浮かぶだろう。或る処は不明瞭にぼやけて居り、明瞭になっている処を
           辿ればそこに様々な形、例えば瓢箪、或るいは半月の如き形を呈してい
           る。次に腹の表層から深層へと内観を転じてみる。最深層は背の裏であ
           る。背の裏まで内観が届く者にはそこに立体性を有する腹の全貌が観え
           よう。このように内観的腹部は立体性と複層性をもつのである。」
           (野口裕之「動法と内観的身体」/『体育の科学』第43巻第7号、19
            93.7)

 1972[昭和47]年に二十代後半まで過ごした小矢部市埴生の地を引き払い、富山市高屋敷に移り住んだ三年目の夏に明治(12年)生まれの祖父を亡くし、その35年後の春に大正(9年)生まれの母を亡くした。そして昨夏、昭和(47年)生まれの妻も亡くした。今年の元旦の夕刻に激しい地震[令和6年能登半島地震]の揺れに遭い、娘夫婦や姉夫婦の安否が確かめられるとともに、被害が最小限に過ぎた一軒家で、今は亡き家族一人ひとりの體に働きかけたであろう〈重力〉が安堵の思いを彩るようだった。地震で倒れることなく動か[け]ない庭木がそれを象徴するように。

 「父親」については、物心がついた頃だったか、仏壇の一柱として知っただけで〈父性〉は未体験のまま、引越しと前後して結婚し子を授かった。女の子でよかったというか、もし男の子だったら〈父〉を知らない自分はどう対処してよいものやら戸惑っていたに違いない。それほど〈母〉の存在は大きいのだ。

 長患いもなく百歳目前に町内葬で見送った祖父の位牌に毎朝手を合わせるようなことはなかったが、季節を重ねた介護暮しから身を退いたような母の家族葬の一周忌を前に原発事故を伴う東日本大震災があり、その一年後に吉本隆明さんの訃報に接したこともあって、気づけば朝に仏壇で手を合わせないと一日が始まらないようなことに。そして妻亡き後も。

 鄙びた庭付き二階建て「独居老人」という一人暮らしになって、さぞ身が軽くなったであろう、なんてことにはならないようだ。次々と亡くなってゆく家族の〈引力〉が〈場所〉を無くした分だけ、身体的に手触りできない隙間が生じたというか、軽くも重くもならない《心もとなさ》のグラデーションが、ともに過ごした各部屋ごとに違うという塩梅なのだ。

 妻の葬儀以来、二ヶ月ちょっとの《入院》というエアポケットを挟んで、一階の六畳の座敷の床の間に設けたままの祭壇の位牌と遺骨と遺影とともに寝起きするのが当たり前になりつつある。カーテンを引いたままの縁側越しに障子が明るんでくる頃にひとり寝の目覚めが家人の不在を確かなものにする。


  一人でご飯を食べるほど虚しいものはない。やはり、美味しいねと言い合える人とでなきゃ、美味しくない。一人だと高級品を食べたいとも思わない。外食で一人で食べるのも寂しい。美味しくない。気の合う人となら、なんでも美味しい、公園のベンチで食べても美味しい。
    (早川義夫「10.天使の羽」/『女ともだち:静代に捧ぐ』(ちくま文庫)2024年3月刊、86〜87頁)


 男女の仲で営まれる食欲ほど内的快楽をもたらすものはないといいたげである。場合によっては食前の「スパークリング」で乾杯し、食中に「赤or白ワイン」があり、そして食後が「ジントニック」や「オンザロック」の締めにでもなれば言うことなし。食の相性が二人の生涯をより一層豊かなものにしてくれていたに違いない。


  スーパーの肉売り場を歩くと、食欲がなくなってしまう。こんなことを言ってはいけないかもしれないけれど、牛肉、豚肉、鶏肉、赤身のマグロが人肉のように思えてしまうのだ。
  「自殺の方法」をネットで検索してみた。苦しまない方法、後片付けをする人になるべく迷惑がかからない方法があれば知りたかった。けれど、どれも無残に思えた。
  奥様を乳がんで失った西岡恭蔵は、三回忌の前日に首吊り自殺をした。五十歳だった。江藤淳は奥様をガンで亡くされてから、八ヶ月後に自宅の風呂場で手首を切って自害した。六十六歳だった。西部邁は奥様をガンで亡くされてから、三年十ヶ月後に多摩川に入水自殺した。七十八歳だった。

    (早川義夫「26.最終章」/『女ともだち:静代に捧ぐ』(ちくま文庫)2024年3月刊、190〜191頁)


 [歴史的に実在したであろう]「人肉嗜食j」と、「自殺」実行後の後始末への「配慮」、そして「生き方としての死に方」の難しさが、まるで三段跳びのように表出されていて、かえって行間では奥様への追慕の情が抑制されている。
 挙げられている自死者お三方ともいわゆる“ボケ老人”からほど遠く、頭が働きすぎるくらいで、かえってそのことが老齢期にさしかかったそれぞれの“心身一如”に固有の齟齬をきたしてバランスを崩されたのだろうか。個人的な自己と社会的な自己とが引き裂かれすぎたら、自然的な〈待つ〉ことができなくなり、生き[死に]急ぐことになってしまった。

 心身ともに両輪違えず衰えがやってきてやがて食べられなくなり、ついに息絶える。


  福岡 ベルクソンの「物質の下る坂」というのは重力で、単位系が違いますが、高エネルギーの状態がエネルギーを放出してやがては低エネルギーの状態になること、あるいは、秩序の高い状態が徐々に崩壊して秩序の低い状態に陥るエントロピー増大の法則と重なると言えます。そこで、私が動的平衡を理論化するにあたり、エントロピー増大の法則を、万有引力によって引き戻されるもののアナロジーとして、思考実験をしてみました。
     (坂本龍一 福岡伸一「動的平衡の理論モデル」/『音楽と生命』集英社、2023年3月刊、137頁)

ベルクソンの孤
[図 ベルクソンの孤](同前、138頁)

  [福岡 前略] このようにして、生命が常に合成と分解をすることによって成り立っているというモデルを考えて、私はこの動的円弧を「ベルクソンの孤」と名付けました。
  坂本 今のご説明を聞いて思ったんですが、昔の日本人は、同じ側の手と足が一緒に前に出るナンバ歩きというものをしていましたよね。手と足が交互になる西洋式の歩き方と違って、ナンバ歩きだと速く走れないけれども、飛脚が東海道を江戸から京都まで三〜四日で走り続けたといった話も残っている。それは嘘[うそ=原文ルビ]ではなかったと言っている人がいるんです。手を振らず、常に前傾姿勢で走っていくと速く走れるということなんですが、これはつまり、倒れるから前に進めるという点で、福岡さんのこの図はナンバ走りと同じなんじゃないでしょうか。

     (同前、140頁)

  坂本 なるほど、この分解と合成のバランスが維持されながらも、徐々になくなっていき、時間が経てば、はい、終了というのは、なかなか良い生き方だというふうに見えてきますね。
  このモデルを見ると、生命が生まれて死ぬというのは納得がいきます。円弧が全部なくなったら死ぬわけですけれども、途中で病気になるというのは、どのように考えたらよいのでしょうか。
  福岡 おそらく、合成と分解の速度のバランスで、合成のほうが少し勝ってしまて、分解が追いつかなくなることにより、登り返していたものが下向きに下りそうになる、あるいは、どこかで静止してしまっているなど、動的平衡のバランスの乱れということから説明できるかもしれません。

     (坂本龍一 福岡伸一「死を受け入れる」/『音楽と生命』集英社、2023年3月刊、145〜146頁)


 そんな〈いのち〉という生命活動の「動的平衡」が消滅するような「還化」の例が現在でも稀にはあるようだ。


  まさに『行くべきところへ行く』という姿は、本当に見事なものでした。ベッドの周辺には医療器具も薬品も何もなく、本当にさっぱりとしたものでした。『一度しかない人生の本舞台の最後を、余計な干渉なく納得のいくように終わらせる』ということが、現代ではどうしてこんなに困難なのでしょうか?
     (甲野善紀@[旧Twitter改め]X)


 甲野師の「ツイート」に出会って、1975[昭和50]年の7月25日の夜に仏間で妻といっしょに看取った祖父の亡くなり方が蘇ってくるようだった。
 杖をついてトイレを使い、風呂も自力で入っていたのが、やがて這うようにして居室からリビングにきて食事をするようになり、晩酌も飲まなくなると食べるほうも進まなくなり寝込むようになった。
 介護していた母が医者に診てもらったらというので、医者要らずで生きてきた祖父に無断で、家から近くで開業されていたC鳥女医に電話して来ていただいた。祖父には医者を拒むような気力もなさそうで、診たところでは消化器系にも循環器系にもなんら問題がなくて驚かれた様子だった。帰りがけに祖父の食生活について事細かにメモして行かれた。
 やがて生命反応が弱くなったようなので、二度目に来ていただいたC鳥女医は「今夜あたりでしょう」と言いおかれたが、まさにその通りになった。
 昼間の介護疲れの母には休んでもらい、妻と二人で付き添った。呼びか掛けに応じなくなり、ぜいぜいと息が苦しそうで、脱脂綿や綿棒で黒ずんだ痰を拭きとるようにしたが、水も受け付けないようで、時刻を見て約束してあったC鳥女医に電話して来ていただいた。「ご臨終です」の言葉に、あと一週間で百歳だったことを思ったりしたのも妻といっしょだったようだ。
 C鳥女医が帰られてもにわかにその場を立つ気になれず、二人とも祖父の体がだんだん冷たくなっていくのを感じとっていたら、ところどこ手足や顔の皮膚が痙攣するようで、なんだか無精髭まで伸び続けているような気がしていた。

 後に母が要介護状態になって男女のケアマネージャーからこれまでの家族の介護状況を尋ねられた際、1970年代半ばの祖父の在宅大往生の様子に驚き、信じられないというか、「スーパー老人」とまで言われた。また、呆けたり要介護老人を抱えた家庭を悩ます食べ物や金銭的なトラブルなどが一切なかったこともケアマネージャーになかなか信じてもらえなかった。
 田舎の家屋敷や田畑一切を売り払って郊外の新居に移り住んで間もなく、一度だけ、田舎の民家[家族/家]に帰らせてくれと祖父から難題を吹っかけられて困り果てたことがあった。

 祖父亡き後、母はそれまで朝鮮から引き揚げてきてこのかた縁の薄かった“ひとり時間”を取り戻すかのように、足元がおぼつかなくなるまで高山から京都そして奈良へと春秋の季節を愉しむかのように一人旅を遊びにしていた。
 退職した銀行から「パートタイマー」で呼び戻された妻に代わってご飯を用意してくれるだけでなく、午前は抹茶を点ててくれたり、午後にはコーヒーを淹れてくれたりもしていた。職場のごたごたで体調を崩して早期退職した息子を気遣ってくれていたのだ。

 そんな母も一度だけおかしなことに。階下からなにやら壁をドンドン叩いて泣き叫ぶ気配に、いったい何事と下りてみたら譫妄状態の母がいて、とっさに自傷行為にならないよう静まるまでしっかり抱きとめていた。夕刻にパート仕事から帰った妻ともども、しばらくは様子を見ようということにしていたら、午後の同じ時刻に同様の症状が二三日余り続いてほどなく治って再発することはなかった。

 敗戦直前に京城[日本統治時代のソウルの呼称]から母子三人で引き揚げてきて、埴生で祖父が一人暮らしていた民家が受け皿になった始まりの十数年間あまり、難癖をつけては母に当たり散らす祖父の暴力をともなった癇癪の暴発に姉弟ともども恐れおののく日々だった。
 過去にそんな仕打ちを受けていた母が短い間だったとはいえ、下の世話をはじめ何のわだかまりもなく祖父を介護するのには、引っ越しする前に嫁舅のあいだで何か変化が起こったのだろうと後々になって納得できた。

 在宅介護状態になった母が余りにも息子の手による下の世話をいやがるものだから、赤ん坊の時に何から何まで世話してもらったお返しだと思えばいいじゃないかと言ったら、そうかと呟いて素直に世話を受けてもらえるようになった。
 そうこうするうちに過去のエピソード記憶などを語り合ったりするようになったとある日、埴生から高屋敷に移住する間際になって祖父から過去に打擲したことを謝ってもらえた、とさも嬉しそうに母が語ってくれたのだ。過去の家庭内暴力による肉体的な傷跡は癒えても、身体的なダメージはやった方もやられた方も體内記憶のようにいつまでも尾を引いていたのだ。
 祖父のその時々のストレスなど発散して溜め込まないのがいかにも当たり前といった身の動かし方に、それゆえに当然のような身の終わらせ方に、我が身の処し方だけでなく来し方行く末などが問われているような気がしてならなかった。

 日本文化の流れにあって、さまざまな分野の底流で見え隠れする基層のような身体運動の伝統とはどのようなものであったか。木造校舎の教室や廊下の雑巾がけ。泥の深さが違う山田と里田での足指使い。田畑や里山での農具等の使いこなしと手入れ。冬には屋根の雪下ろしや道路の雪割り。夏には道路の水撒きや薪割り。中学部活での剣道と冥想。そういった事など、虚弱ながらも経てきた身体のいま・こことは祖父たちが受け継いできた伝統的な身体運動とは大きく隔ってしまっている。
 タバコ盆を傍らに、ゆったりと刻み煙草を燻らす所作など、当時の祖父の年齢に達した自分には到底できそうにない。一事が万事、祖父や先人たちが日常生活で示した身の処し方から何一つ学んでこなかった、身の整え方があって初めて生じてくる感覚や意識についてあまりにも無頓着だった気がしてならない。

 箸の持ち方からその上げ下ろし、食器の持ち方だけでなく、食べる所作などなど、実家の祖母だけでなく母からもそれとなく躾けられた。急須の持ち方とお茶を注ぐ時の指遣い。畳の縁を踏むな。鋏や刃物の受け渡し方や研ぎ方。紐や縄の結び方など祖父は教えるというより、それらが必要になる仕事を手伝わせるといった風だった。
 1922[大正11]年に妻を亡くした祖父が、1912[大正元]年生に授かった一人息子ーーまったく見覚えのない父でもあるーーとの母なき父子暮らしでどのような身体使いの躾け方をしていたかわからないが、外地勤務となる朝鮮総督府の警察官として送りだしたまではいいとして、まさか朝鮮人の犯人逮捕の格闘で罹患した伝染病で殉職するなど思いもよらぬことだったろう。


  躾という文字は漢字ではない。国字である。身ヲ美シウスルと書く。ここに古人の抱いた教育観がある。端的に言えば日本の教育は身体の教育であった。頭で憶えることより、「身体で覚える」ことに重きが措かれ、頭で理解することより、「身体で感じとる」ことが尊ばれたのである。学習とは思考の鍛錬ではなく、身体の行法であった。したがって教育の第一義は、身の律し方であり、それは即ち動法の規範と型の伝承だったのである。
    (野口裕之「動法と内的身体観」体育の科学.43(7).1993.)


 一度だけ父の死と葬儀について母が語ってくれた時、子ども心に「犯人」を恨むというより、警察官としての父が相手を一撃で制圧できるような技の使い手だったら事態は変わっていたのにと悔しく感じた。多分にその頃は村の小学生からの“いじめ”の渦中だったことも影響していたかもしれない。
 中学校に上がった部活で“チビ”に不似合いな剣道を選んだのも強くなりたい憧れがあってのことだったろう。寒稽古や暑中稽古もサボらずに励んだようだが、確か七段だった顧問の先生からどんな稽古をつけてもらったのかさっぱり覚えがない。足捌きに変な癖がついたようで、30歳半ばに腰痛と痔のリハビリに始めたバドミントンでは、先輩からお前のフットワークは剣道みたいだから直さないとラリーが続かないよと言われてしまった。

 練習方法を間違えると間違った身体裁きが上達の妨げになるということだ。生前の父は柔剣道などもやっていたそうだがどんな稽古をやっていたのか母に聞いてみたことがある。わからないけどいつも腰に下げたサーベルのせいで左足の靴の減り方が歪だったと話してくれた。三十歳過ぎて亡くなる間際の父にはそんな癖が身についていたのだ。

 小柄で野良仕事や調理の身のこなしが超自然に見えた祖父にはこれといった身体動作の癖がなかったようだが、白寿になり家の中で床をコッツンコッツンと杖をついて歩くようになったリズムが老いた癖のようにも聴こえた。母は祖父と違って杖をつくようになって間もなく車椅子生活になってしまった。寝たきり老人にはなりたくなかったようで、どんなに時間がかかっても日々着替えて座椅子か車椅子で起きているようにしていたのには感心した。


自分自身に関心がないんです
92歳を迎え、車椅子を使う生活になった
もう90歳を超えてね、いまがいちばんいい、なんて思うことはないんですよ。足がヨタヨタしてるしね。前はテキパキ動くのが好きだったし、できればちゃんと歩きたいとも思いますよね。自分の身体の状況は、どっかで詩に影響してるはずなんですよね。
車椅子は便利だけど、吉本隆明のようには乗りこなせないね。
講演中、舞台の上で車椅子をグルグル回しながら話していたように記憶してますね。彼は、肉体を持った存在として、作者そのものにも少し目を向けてほしいと思ったんじゃないかな。
僕にはそういう気持ちはないんですね。わりと昔から、自分自身に関心がないんです。
いまは、生きている意味もなくていいと思える。

     (谷川俊太郎「未来を生きる人たちへ:premiumA」/『朝日新聞デジタル』2024年4月4日、https://www.asahi.com/special/tanikawashuntaro/?ref=culture_mail_top_20240404)


 晩年の母は通い慣れた近所の寿司屋に誘っても、見苦しい姿を晒したらお店やお客にもよくないからお土産に作ってもらってきてと言うだけ。家にいてばかりじゃ面白くないだろうから、たまにには姉夫婦の家で厄介になってみてはの誘いに、そんなことするくらいなら「施設」の方がいいと応えるばかり。戦中戦後のどさくさを生きのびてきたからかもしれないが、見るからに身動きなどに不都合を抱えていても最期まで「いまここがいちばんいい」が口癖だった。

 智香恵[亡妻]も結婚するまでに警察官だった父の人事異動で県内を17回も引越しで大変だったらしい。我が家に落ち着いてからは、ここがいいからもうどこにも行きたくないね、が決まり文句になっていた。長旅などで家を留守にするなどしたことがなかった。四十代半ばに日帰りスキーをした晩のバドミントン練習で断裂したアキレス腱の治療で一ヶ月あまりが家を空けた最長になった。


  私と妻が入院した後は、いずれ遠くない時期にK子が伸一とマヤを一足先に島に連れ帰ってくれるはずであった。月曜日、朝食をすませた私と妻は、簡単な手まわりの品物を風呂敷に包んで家を出た。伸一もマヤも寂しそうな顔は見せなかった。あっけないぐらい父と母の入院を納得しているようであった。途中の車中はふたりともに気が抜けたようにだまりこくっていた。妻がいつもの緊張を持ちこんでこないと、かえってたよりない気分になるようであった。病院に着くとすぐ神経科の婦長に案内され、精神科の病棟に連れて行かれたが、遠巻きにして望み見ていた時に濃くただよっていた異様な気配は感じられず、かえって気抜けしたほどであった。
     (島尾敏雄「第十二章 入院まで」/『死の棘』新潮社、昭和52年刊、345〜346頁)


 2000[平成12]年5月5日の晴れた日に妻と魚津水族館&ミラージュランドを目指してサイクリングした観覧車の山手側の眺めに、その23年後の夏に妻を亡くした自分が入院することになるM病院が見えていたのかどうか不思議に思うことがある。
 数年前の左腕鎖骨骨折がきっかけみたいに体力・気力が衰え始めた妻に合わせたみたいに熱中症になったり、たがいに摂食嚥下障害を起こすほど食べられなくなったり、風呂が使えないくらい体力が落ちたヘタヨレの毎日を老老介護状態で細々と繋いでいたのだが‥‥‥、どこかに無理があったのだろうか。
 妻亡き後の入院生活を経た一人暮らしの身になってはじめて気づいたのだが、ふたりとも家族/家[民家]に居着き過ぎていたのかもしれない。抑鬱共存状態に陥ったような毎日にどこかで見切りをつけ、ふたりして入院するなり施設に入るなりして、そこまでの日常生活そのものをいったん遮断するというか、とにかく隔絶できる距離を保つようにしていたら、今のような〈現状〉とは違った道[街道]が開けていたのではないだろうか‥‥‥。(2024年4月8日記/12日Web公開)

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続・本の一言:〈対話〉と風向き

               《なにか悪いことがあった時、ぼくはまずそれを受け入れる
               そして徐々にその状況と和解する
               良いことが起こると、ぼくは自失する で、混乱する
               だって、そんなこと滅多にないから》ポール・サイモン
               (小田嶋隆@ツイッター)
比嘉 加津夫 様

 「猫々堂」の大事業を終えた松岡さんがほっと一息ついているであろう高知よりもっと向こう、海を隔てた那覇市の「脈発行所」から、どんな風の吹き回しなのか、やってきた封書を開けた戸惑いと喜び。
 松岡さんがときおり寄稿されてきた地元紙『高知新聞』での扱われかたが気がかりだったところへ、『脈』105号で「『吉本隆明資料集』と松岡祥男」特集」を組まれるとのこと。
 「待ってました、どんどんやってください」の気持ちは人一倍ですが、「松岡さんとの関わりを中心に書いて」のご依頼に、ハタと気づかされました。お前は松岡さんの人となりについて何にも知らないじゃないか。思わず「謝絶」の二文字がよぎりました。だって、数回の電話以外お会いしたことも、語れるような「交渉史」や秘匿すべき「エピソード」などないのです。購読していた吉本さん主宰の『試行』掲載広告を見て申し込んだ同人誌で〈松岡祥男〉を読むようになったのがそもそものはじまりです。
 まず『同行集通信』に『風のたより』そして『怪傑ハリマオ』など同人誌上で拾い読み、商業出版された《単行本》を追っかけ、行間から高知で生まれ育ったリズム&ブルースが聴こえる6冊それぞれ固有の感性で彩られたページをめくってきた矢先に、猫々堂の《資料集》との出会いが待っていました。
 そんな途上で、松岡さんの〈表現〉に出会ったときの〈身体感覚〉について触れていた藤井東「『論註日記』(松岡祥男)を読む」(『詩の新聞midnight press(季刊)』no.14.1993年12月刊)があり、それより前に吉本さんの「松岡祥男について」(跋文、松岡祥男『意識としてのアジア』深夜叢書社1985年11月刊)があり‥‥‥といったところです。
 東京在住で人間そのものの生き方を根こそぎ問い直す書き手のほかに、とにかく書かれたものそのほか何でも読みたくなる書き手が高知からも現れるなんて!愛聴してきたジャズピアニストで言えば、一夜限りのステージの上手にセロニアス・モンク、下手にアーマッド・ジャマルの演奏に遭遇したみたいな「双手に華」の追っかけファンのひとりに過ぎません。〈購読〉を起点に東京ー高知ー富山を結ぶ〈読む〉三角形がかたちづくる架空の書棚に、吉本さんの著作書誌につづき、松岡さん編集・発行《資料集》の書誌をならべ、吉本さんや松岡さんの〈言葉〉に生涯縁のない人が圧倒的な現実を低次化するような居場所を探し、誰に頼まれたのでもない一方的な関わりかたをしてきました。ですから、同人誌暦豊かな『脈』主宰者のさすがな「執筆依頼」文面に誘われながらも、《吉本隆明資料集》と〈松岡祥男〉のあいだで言葉に窮したというのが、正直なところです。

 これを機会に、大風呂敷を広げたようなサイト名も気恥ずかしい「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」[サイト読者だけでなく、松岡さんや、京都の三月書房宍戸さんから多大な吉本著作資料情報をいただいております]の更新ログから、時系列で《吉本隆明資料集》アップデート記録を抜きだしてみましょう。

(1)鼎談・座談会篇:第1集(2000年3月)〜第27集(2002年12月)

(2)吉本さん主宰の『試行』の「全目次・後記」及び「資料」:第28集(2003年2月)

(3)『試行』バックナンバーの一部復刻:第29集(2003年4月)〜第41集(2004年11月)

(4)初出・補遺篇[単行本未収録の著作・講演・対談・談話等を網羅]:第42集(2004年12月)〜191集(2019年12月)[それぞれ収録作品から選びとられた各集のタイトル名を省略]

(4ー1)吉本さんが「身体と心体について」書き継がれた「心的現象論」の未刊となっていた『試行』連載46回分を復刻収録
第56集:眼の知覚論・身体論
第59集:関係論
第65集:了解論 I
第68集:了解論 II
第72集:了解論 III

(4ー2)宿沢あぐり氏による新発見吉本作品収録書誌
第108集:「わたしの地名挿話」(1987年);「『林檎園日記』の頃など」(1988年)
第112集:「岸上大作宛書簡」(1960年);「「ずれ」を生きる良寛」(1992年)
第122集:「「未来元型」を求めて」 樋口和彦・吉本隆明(『プシケー』第8号[日本ユングクラブ会報]1989年6月25日発行)
第126集:「室生犀星」(東京・日本近代文学館・犀星忌講演・1988年3月26日『高原文庫』第3号1988年8月1日発行)

(4ー3)『吉本隆明資料集』第139〜191集/宿沢あぐり「吉本隆明年譜」(1〜24)分載収録年/月・年齢一覧
第139集:1[1924〜1950]零歳〜26歳
第143集:2[1951〜1959]26歳〜35歳
第146集:3[1960〜1962]35歳〜38歳
第149集:4[1963〜1966]38歳〜42歳
第152集:5[1967〜1970]42歳〜46歳
第155集:6[1971〜1974]46歳〜50歳
第158集:7[1975〜1978]50歳〜54歳
第161集:8[1979〜1982.4]54歳〜58歳
第164集:9[1982.5〜1985.9]57歳〜61歳
第167集:10[1985.10〜1987.10]60歳〜63歳
第170集:11[1987.11〜1989.10]62歳〜65歳
第172集:12[1989.11〜1992.4]64歳〜68歳
第174集:13[1992.5〜1994.8]67歳〜70歳
第176集:14[1994.9〜1996.3]69歳〜72歳
第178集:15[1996.4〜1997.12]71歳〜73歳
第180集:16[1998.1〜2000.1]73歳〜76歳
第182集:17[2000.2〜2001.4]75歳〜77歳
第184集:18[2001.5〜2002.11]76歳〜78歳
第186集:19[2002.12〜2004.3]77歳〜80歳
第187集:20[2004.4〜2005.3]79歳〜81歳
第188集:21[2005.4〜2006.9]80歳〜82歳
第189集:22[2006.10〜2008.4]81歳〜84歳
第190集:23[2008.5〜2009.5]83歳〜85歳
第191集:24[2009.6〜2012.3]84歳〜87歳

(5)別冊1:松岡祥男「ニャンニャン裏通り」(2019年12月)
収録書誌
  ニャンニャン裏通り[初出:「猫々だより」第157〜167号連載7回分]
  村上春樹『1Q84』をめぐって[初出:「怪傑ハリマオ」創刊号]
  鎌倉諄誠さんのこと[初出:「怪傑ハリマオ」2号]
  吉本詩にはじまる雑話[初出:「怪傑ハリマオ」3号]
  「荒野のイエス」にあやかって[初出:「怪傑ハリマオ」4号]
  二番煎じの話し[初出:「怪傑ハリマオ」5号]
  北川透徹底批判[初出:「怪傑ハリマオ」6号]
  北川透の頽廃[初出:「怪傑ハリマオ」7号]
  「反原発」は正義か?[初出:「怪傑ハリマオ」9号]
  芹沢俊介批判、その他[初出:「怪傑ハリマオ」10号]
  あとがき

   (6)別冊2:松岡祥男「吉本さんの笑顔」(2019年12月)
収録書誌
  吉本隆明と沖縄[初出:「脈」81号]
  ある日の吉本さん[初出:「脈」82号]
  傲慢な加藤典洋[初出:「脈」83号]
  中沢新一編著『吉本隆明の経済学』批判[初出:「脈」84号]
  『「反原発」異論』をめぐって[初出:「脈」85号]
  言葉の森の歌[初出:「脈」86号]
  川上春雄さんのこと[初出:「脈」87号]
  吉本さんの笑顔[初出:「脈」88号]
  『最後の親鸞』について[初出:「脈」89号]
  『アジア的ということ』をめぐって[初出:「脈」90号]
  『全南島論』の射程[初出:「脈」91号]
  『成吉思汗ニュース』の松岡俊吉[初出:「脈92号]
  鶴見俊輔と吉本隆明[初出:「脈」93号]
  「川上春雄宛全書簡」にふれて[初出:「脈」94号]
  瀬尾育生「〈吉本隆明 1949ー1969〉のための改題」批判[初出:「脈」95号]
  言葉の力を信じて[初出:「脈」96号]
  北島正さんを悼む[初出「:脈」97号]
  『追悼私記 完全版』に向けて[初出:「脈」98号]
  「エリアンの手記と詩」について([初出:「脈」99号]
  「情況への発言」の背景[初出:2011年洋泉社刊『完本情況への発言』解説]
  根柢にあるもの[初出:2012年刊『蟹の泡1』(編集・発行/長谷川博之)所収]
  吉本隆明さんと高知[初出:『高知新聞』2013年3月18日号]
  「好きにやってください」[初出:2015年筑摩書房刊『吉本隆明<未収録>講演集』第4巻月報]
  あとがき

 全27集で参加者144名[第25集に収録した『菊屋まつり』フリートーク」の「事後承諾」による「掲載」にたいし北川透と瀬尾育生の2名によるクレーム1件あり]に及ぶ65本を収録した「鼎談・座談会篇」(1)を皮切りに、『試行』関連資料及び一部復刻(2〜3)と続き、未刊行「心的現象論」の復刻(4ー1)と新規一次資料の発掘(4ー2)だけじゃなく、今じゃ入手し難い単行本収録吉本〈対話〉資料の〈初出形〉へ往来できる新道が何本も拓かれ(4)、第139集から断続連載された「吉本隆明年譜」(4ー3)は宿沢あぐり氏がひとつひとつ現物にあたって書誌事項を確かめ、新たな考証と関連文献の参照を注記し、とにかく現物(一次情報)を典拠にしたいわゆる情報の情報(メタデータ)に頼らない画期的な二次情報化作業に拠る日録的な年譜になっている。

 (1)〜(4)は吉本著作にたいする〈読者〉としての〈試み〉が成し遂げられた191冊であり、長期《資料集》購読者へのお礼として配布された(5)と(6)は〈表現者〉として、第113集と114集の発行のあいだ[2012年3月16日]に逝去された吉本さんの墓前に捧げられた2冊となっている。

 (5)に未収録だが、松岡祥男「読捨ニャンニャン日録」(「怪傑ハリマオ」8号2011年12月20日発行)によれば、ほんとうは「猫々堂主人」というのは松岡家の猫の〈タマ〉[1998年5月18日〜2019年6月28日]で、《資料集》の封入作業などその手のことは松岡夫妻まかせ、ベンチに座っているだけで負けないダブルス・チームの監督みたいな眼差しを注いでいたようです。好物はエビだったようですが、本業のネズミ以外に庭の小動物や昆虫など、捕獲して得意げに見せたり、どのような春夏秋冬を過ごしていたのでしょう。日本海に沿う富山とちがって太平洋に面した高知の冬の寒さは〈タマ〉にとってやわらかかったことでしょう。松岡さんが〈対話〉形式で書かれる〈相の手〉をつとめたりするくらいですから、きっと《資料集》のテキスト打ち込み〈写本〉作業の日々の充実感も共有していたにちがいありません。

  窓を[火共=アブ]る愛日 気 蒸すが如し
  覚えず 書を抄して灯を灯すに至るを
  誰か哀翁と此の喜びを同じくす
  硯池浅き処 冬の蝿有り

        (『江戸詩人選集 第5巻:市河寛斎 大窪詩仏』 岩波書店1990年7月刊)

 たぶん犬は飼っても猫を飼ったことのないであろう市河寛斎(59歳/1807年)が詠んだ「冬温かし」の最終行に「蝿」ならぬ、南国土佐の「猫々堂」の作業PCの傍らで毛づくろいする〈タマ〉が透けて見えるようです。

               《広く言えばこの一、二年、ぼくの感覚としては半年くらい前から
               日本の天候を考えると風の向きや潮の方向が変わってきたような
               気がする。日本の天候現象というのは以前と同じように考えちゃ
               いけないんじゃないか。そういった変化のひとつの結果として今
               回の震災があったと考えられると思う。》吉本隆明
               (吉本隆明「風の変り目ーー世界認識としての宮沢賢治」[聞き
               手 編集部]、『ユリイカ:詩と批評』青土社、2011年7月号)

 今冬の富山は県内での1月の冬季競技を他県で開催するほど雪が降りませんが、江戸に生活の拠点をおいたまま隔年で越中・富山藩への出仕(43歳/1791年〜63歳/1811年)を繰り返さざるを得なかった寛斎は「雪中雑詩」、「客中記事」、「北海道中」など越中の厳しい冬の自然詠に向きあうように、「傲具詩」や「憶夕」そして「歳杪縦筆」で我が身の内的自然の衰えを詠み、その中間に骨董などの詠物詩を残している。詩作と稼ぎを両立させる〈不安定な安定〉を生きる道すがら、飛騨への旅路で遭遇した農婦の言葉に触発され「窮婦嘆」で富山藩を流れる神通川の洪水被害による農民の窮状を詠んでいるが、地勢的に上流で豪雨があればそれ以上に氾濫被害を繰り返したであろう常願寺川流域の窮状には触れていない。富山藩を致仕した寛斎の没後数十年経った「安政の洪水」で二年にわたって秋の収穫がなくなったり、日露戦争後の不況や人口増加による就職難に見舞われた明治三十年代は北海道への移住者が多く、「天井川にして、日本一の荒廃河川」(『山室郷土史』山室郷土史刊行委員会1993年)の氾濫で荒れた山室江口からも小樽そのほかへ渡ったとのこと。

 日本が敗戦する直前、朝鮮半島[京城]から着の身着のまま引き揚げてきた一女一男の母子家族が、明治12年生まれの祖父が独り住まいしていた富山県の西の端(旧埴生村)の兼業三反百姓家で30年余り暮らし、長男の結婚を機に敷地や田畑を売り払い現在の山室[高屋敷]の家並みの端っこの田んぼを買い家を建て一家が移り住んだ。そんな界隈の散歩でひときわ目にとまった母屋のたたずまい。江戸時代から山室江口があった加賀藩の庄屋の家系の山崎家が大きな樹木の陰から見え、そこが『9.11の標的をつくった男』(飯塚真紀子著、講談社2010年8月刊)に詳しい「ミノル・ヤマサキ」の父・山崎常次郎の生家であると教えられたのは、人間存在の倫理的風向きを変えた2001年9月11日の《テロ事件》報道直後に訪れた引越し以来近所で馴染みの寿司屋のカウンターだった。
 1886年9月2日山崎家の家督を継げない四男として生まれた常次郎は1909年23歳で自活の道を北海道ではなく、すでに五歳年長の三男鶴次郎の渡米先シアトルに求め、待ちうけていたのが人種差別など苦労の日々だったようだ。1911年東京出身の伊藤ハナと結婚した翌年に授かったミノル(1912〜86年)の建築家としてのその後が前掲書に綴られている。

 いかに外地[朝鮮総督府勤務]での稼ぎが内地に比べて良いからといって、祖父が戦前の埴生村から送りだした一人息子が結婚生活5年目で殉職し、5歳と3歳の孫を引き連れ嫁が引き揚げてくることになるなんて思いもよらなかっただろう。発育不良で歩けもしない3歳男児が生きのびるなんて母のほか誰も信じていなかったと、後日近所の婆さんが当人に耳打ちしてくれた小学生の頃には、同級男児からよそ者ゆえのいじめが待っていたが、貧乏一家なりのひとり息子ということで近隣の大人たちからはわりとまともに遇された。いじめを避けるため同級生が行かないのを見越して進学した高校卒業時にはちょっとした手違いが。

 会社より国の方が潰れにくいだろうし安定した稼ぎが見込める国家公務員試験を受け税務職の採用者名簿に載っていたにもかかわらず不採用になり、しかたなく金沢国税局に出かけて問いただしても要領を得ず一般職の名簿に回されてしまった。同行してくれた母から、片親で財産や名のある係累もないから‥‥‥と慰められ、みかねたクラス担任がせっかく斡旋してくれた税理事務所勤めもいろいろあって一ヶ月と持たず、菓子折りを携えた母に謝りに行かせたような不始末も。

 高卒プー太郎の日々に東海・北陸各地からたらい回しされたように舞い込む一般職各種業務の面接案内など祖父は本など読むな公界を悟れが口癖でいっさい無視、けっきょく当時の住居から通勤可能な一件を選んで面接を受けることに。地方の国立大学の事務では傍系だった図書館の仕事を選んだわけだが、男子職員が居着いて欲しいということで東京の大学の2ヶ月間の司書講習に出張扱いで上京させてくれたり、今じゃ考えられない待遇だった。

 引き揚げ児童の身の上を思いやられたのか、富山大空襲の夜に神通川原へ逃げた体験のある女性司書から目をかけられ、教育学部の某先生や、夜間短大に通った3年間では冬の下宿先だったお寺の幼稚園長先生から、地元では近所の遣り手婆さんから幾つか縁談が持ち込まれたり、豪雪の下宿時には老人しか男手がないということで近所の家長が屋根の雪下ろしを引き受けてくれたり、田植え時期や暮れの餅つきそのほか近所や親類縁者の手助けが欠かせなかったその裏で妬み嫉みなどの陰口もたたかれ。

 農作業用の牛馬なども飼っていた専(兼)業農家のほか日常生活用品小売店や鋳掛け屋に大工その他自営業だけじゃなく在日家族の仕事も混じった狭い村の暮らしから、都市の郊外暮らしへと引っ越した頃には戦後日本の経済成長も頭打ちになり、引き揚げ里山・田舎暮らしの身体生活感が揺らぐ風向きにさらされて地産地消で賄ってきた生活過程を埋め合わせる外的自然観や内的自然観が変容するサラリーマン世帯暮らしに、話し言葉にも書き言葉にも行きつかないジャズ中心の音楽三昧から読むことにのめり込むように。

 一年がかりの説得で納得してもらって売り払ってきた土地に戻りたいと責めたてられた時はなすすべもなかった祖父が引越し三年目の100歳の誕生日を前に亡くなった葬式では狭い自宅が町内の会葬者であふれ、その35年後に介護暮らしから身を引くように亡くなった母はセレモニーセンターの家族葬でみおくることに。花の四月だったがなぜか1960年代半ばの同じ頃に逝った実家の祖母の柳田國男『遠野物語』を読むきっかけにもなった昔語りまで思いだされ涙ぐんだ。

 今日もテレビが伝える武漢発の新型コロナウィルス感染報道に、正月に遊びにいった折に祖母が語った「七草なずな、唐土の鳥が渡らぬうちに‥‥‥」が呼び覚まされ、春先の大陸からの黄砂飛来だけじゃなく、翼の間に毒を挟んだ妖鳥[姑獲鳥など]が日本に渡ってきてから落とすその毒も混じっていそうな風向きが、インド洋からアジア大陸経由で日本列島にまたがる気候を変容させ、祖母口伝で覚えた江戸期からの「お祓い言葉」に由来する季節感も薄らいでしまった。

 洪水を繰り返し粗米しか育たないような常願寺川水域の大改修が1891年に、次いで用水合口化が1893年に実施され、その後も立山砂防事業として改修が積み重ねられたこの頃では田畑も潤い、鉄砲水の瀬先だった常願寺川縁を河川敷公園とした土手が好サイクリングコースになったり、立山山系を背景にクマやイノシシが下りてきていそうな雰囲気がなきにしもあらず。1969年の集中豪雨被害の3年後、幸いなことに高屋敷に住みついて50年余り豪雪で屋根の軒が折れたり台風で棟瓦が崩されたりしたぐらいだが、ここ数年は日本列島北から南まで地震や豪雨・土砂災害が顕著になり、阪神大震災やとくに東日本大震災以降の日本列島はどこに住んでいても表や裏といった二色刷りの温和な気候をときおり乱す自然災害といった認識を払拭するような天候現象の異変を知らせる風向きに。

 吉本さんがどこかの講演で、気狂いじみたファンもそうでないファンもひとしく受けとめる発言をされていたようですが、ファンレターひとつ書いたことのないまま、習慣化していた「猫々堂「吉本隆明資料集」“ファン”ページ」更新作業が無くなってしまい、ただのファン、でもなく‥‥‥なんだか作業PCに向きあう椅子の座り心地もちがってきて、高知の猫々堂の松岡さんが二本指打法[鍵]で収集した吉本〈対話〉テキストを読み解くように打ち込み続けて成し遂げた《資料集》がカバーした吉本著作の歳月(1956年〜2011年)が、本棚に並ぶ『吉本隆明全集』(晶文社刊行中)の間を吹き抜ける風のように映えます。

 これまでの歩みを折り返すいきおいで〈老い〉の坂道に抗しながら猫々堂を歩ませ、同人誌時代から培ってきた〈文学する身体〉が渾身で成し遂げた編集・発行作業と、それによって編みだされた『吉本隆明資料集』との間合いに、松岡さん固有の〈吉本隆明論〉がこめられています。話し言葉でもない、書き言葉でもない、なんの規範にもよらない思考の手足による未知の手探りが、未踏の一歩一歩を刻みつつあるようで、さまざまな数値で計測されるような擬似体感では読めず、読者それぞれ固有の〈身体〉感覚がそのページをめくらせてくれるようです。
 引用とそれに対するコメントという形で書きはじめられた松岡祥男『論註日記:〈世界史〉と日常のはざまから』(學藝書林1993年10月刊)で日記の有効性を認め「そして、すぐに、これは声のない対話なんだとおもいました。」(前掲書「はじめに」)と語られた地平につらなる〈写本〉の領域に影を伸ばす猫々堂『吉本隆明資料集』の立ち姿があり、松岡祥男詩集『ある手記』(1982年1月25日自家版)以来37年ぶりの自作冊子『ニャンニャン裏通り』と『吉本さんの笑顔』のあいだに、話し言葉にも書き言葉にもゆきつかなほんとうの「猫々主人」の〈身振り〉があるようです。


2020年2月12日

                                  吉田惠吉 拝

 昨年12月10日に逝去された比嘉加津男さんのご冥福をお祈りします。

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続・本の一言:「ある編集者」のことなど

 《ただ、わたしにも、対話のばあいに、課している戒律はある。〈じぶんを低くすること〉、〈相手をひき立てること〉。この戒律は、わたしの〈書いた〉ものでは、反対に〈確信のあることだけを確信をもって〉ということになる。》吉本隆明「あとがき」(『どこに思想の根拠をおくか:吉本隆明対談集』筑摩書房1972年5月25日刊)

 吉本さんの『共同幻想論』(河出書房新社1968年12月5日初版)の序文[全24頁]に、本書執筆を試みた「この間の事情について、まえにある編集者の問いにこたえた記事がのこされているので、それを再録することにする。」に続く21頁におよぶ引用の注記に(『ことばの宇宙』67年)とだけ記され、「ある編集者」が不明なのがちょっと気がかりだった。
 川上春雄編集『吉本隆明全著作集11』(勁草書房1972年9月刊)の解題には、「聞き手・編集部』による「対談」とあり、晶文社から刊行中の間宮幹彦編集『吉本隆明全集』第10巻(2015年9月刊)の解題では、「聞き手・編集部』による「インタビュー」となっている。また宿沢あぐり「吉本隆明年譜[1967〜1970](『吉本隆明資料集152』猫々堂2016年1月刊所収)での記載は、後者と同様であった。
 『脈』88号(脈発行所2016年5月20日発行)掲載の松岡祥男「『最後の親鸞』についてーー吉本隆明さんのこと(9)」に併載された「吉本隆明対話リスト(1956〜1986)」の1967年(昭和42年)には、おそらく「聞き手の氏名」がないものとしてリストアップされなかったのだろうが、著者からご恵贈いただいた「吉本隆明対話リスト:1956年(昭和31年)〜1986年(昭和61年)」(2019年3月改訂)では「*表現論から幻想論へ(?)『言葉の宇宙』6月号→『共同幻想論』序」と記載され、当該年の「聞き手」不明のインタビューとして載せてあった。
 吉本さんと親交のあった谷川雁の「テック」が出していた『ことばの宇宙』の第2巻第6号[1967年6月号]に「表現論から幻想論へー世界思想の観点からー」が掲載され、小田光雄の「吉本隆明『共同幻想論』と山口昌男『人類学的思考』」(『古本屋散策』(論創社2019年5月刊所収)に拠れば、そ当時の編集長が久保覚だったようだ。
 「1968年に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』には24ページにわたる長い「序」が付され、それが吉本へのインタビューをベースにして構成されていて、本論よりもそのことを記憶している読者はかなり多いのではないだろうか。[中略]吉本による『共同幻想論』のモチーフとコアが簡略に述べられ、また六十年代後半における『共同幻想論』に向けられた視線や理解の動向も浮かび上がる構成になっている。」と評したうえで、「聞き手」を明記せず「ある編集者」としかできないなんらかの事情を勘案し、川上春雄の「解題」での書誌的あつかいや「吉本の出版スタイル」を参照しながら、「もはやここで「ある編集者」=「聞き手」が久保覚だと断定してもかまわないだろう。」と「明記」されているではないか。
 1989年夏のほんのひと時だが、吉本さんと講演会場の講師控え室で同室になったことがある。講座「吉本隆明・農業論」の2回目(7月9日)で、主催の世話役の女性に「吉本さんにサインを‥‥‥」と勧められるままにお茶をいただいた教室で、吉本さんは廊下側の座席に腰掛けられ、離れて反対の窓際に立たれた「編集者」とおぼしき人と、講演会場とはずいぶん違った「独り言」でも「対話」でもない口調で話されていた。連れ合いと居合わせた長岡技術科学大学の明るくなごやかな昼下がり、携えた一冊が『言葉からの触手』ではなく『共同幻想論』であったら、著者署名をお願いしながら件の「編集者」についてお尋ねできていたら、なんと応じていただけただろう。



 2011年1月の「ラジオ版 学問のススメ:吉本隆明(思想家)」[ポッドキャスト:(その1)2011.01.04配信(その2)2011.01.11配信]でインタビュー[聞き手:蒲田健]に応じる吉本さんの肉声が今なお聞けるが、ほかに吉本さんのインタビュー音源のアーカイブなんてあるのだろうか。数ある吉本さんのインタビューの録音媒体の保存等について、立ちあった「編集者」はご存知なのだろうか。
 青土社の《全対談集》や深夜叢書社の《インタビュー集成》から時を経て、このほど完結を迎えた猫々堂の《資料集》によって既刊本未収録の〈対話〉が数多く読めるようになった。
 小林秀雄が「文章というのものは人間の手足みたいなものだろう。」と話している鼎談「文学と人生」その他を収録した『旧友交歓:小林秀雄対談集』(求龍堂1970年1月発行所収)巻末の「〈付〉戦後主要対談一覧(昭和21年ーー昭和54年)」に記された83件に、不明とされている戦前の対談を合わせたとしても、松岡祥男版「吉本隆明対話リスト」の収録件数にはおよばないであろう。
 身体をはった文筆家としての吉本さんの〈時間〉との格闘の過程(表現)は書き(語り)下ろしにとどまることなく、ある時ある場所での〈時空〉の闘いとして、さまざまな対話(インタビュー)や講演(談話)が書き起こされてきている。

《ある指定された時期に、任意の寒々とした部屋で、あるいは多少の飲食と一緒にしつらえられた対談が、時間に耐える仕方みたいなものをかんがえさせる。対話は相対する者ふたりの間にあるのでもなければ、何れか一方にあるものでもない。ただかわされる言葉の緊迫と弛緩のゆれのあいだにある気がしてくる。もちろん「わたし自身」も緊迫したり弛緩したりするものとしての揺れの波形とおなじ次元におかれる。そして時間というものが理念としてみられた対話者を扇形に分散させるように流れ、おなじように、感性や表象や像[イメージ]としての対話者を、おなじ場所、おなじ位置、おなじ資質のところに固定して動かさないことを痛感する。》吉本隆明「あとがき」(『吉本隆明全対談集1』青土社1987年12月17日刊)

 おそらく座談会やインビューを含めれば400件を超えるであろう吉本さんの対話の全てが時系列で集成されたら、〈相対する者ふたりの間にあるのでもなければ、何れか一方にあるものでもない。ただかわされる言葉の緊迫と弛緩のゆれ〉が、即興演奏で時間に耐えるJazzミュージシャンが残したデュオやスモール・コンボによるライブ・コレクションを聴き通すかのように、感じとれることになるだろう。ところで著者(そして編集者)にとって対談とインタビューの違いとは?

  《インタビューというのは、慣例ではあらかじめ何々の項目について意見を聞きたいという形で、申し込まれる場合と、即興的にはじまり、その場で出来上がった流れに沿って行われるばあいとある。うまくいかないで、改めて項目をくわえれて、手書きで答えを補足するというばあいもある。ここには何れのばあいも含まれているが、即応するように、どの形式よりも本音の言葉が生々しく含まれているといっていい。校正の過程で、くだくだしいその場の言い廻しを削り落として、できるかぎり判りやすく話の趣旨が露出するようにとこころがけた。でも即応性は消えていないと思う。インタビューの特色は、独白の要素がひとりでに意見(見解)のなかに入りこんでくることだ。しかもそのばあい対話という形式をはなれることができない。この特色のために、意外なほど編み目がこまかく、重たい手ごたえが生まれている。インタビューで問われるのは、知識よりも見識や叡智だといっていい。そして問う方と問われる方とが合作で見識や叡智はつくられてゆく。》吉本隆明「あとがき」(『世界認識の臨界へ:吉本隆明インタビュー集成』深夜叢書社1993年9月15日刊)

 戦前の《手習い》からはじまった吉本さんの〈書く〉世界は、日本の〈敗戦〉体験を生きながらえる〈時間〉との格闘の過程(表現)をより深め、1960年代に入って〈情況的な課題と本質的な課題を裏づけながら提出することは、ここ六、七年来、わたしが意識的にやってきたこと〉として、『自立の思想的拠点』をはじめとした評論集に対応する『言語にとって美とは何か』や『心的現象論』が書き継がれ、〈この世界には思想的に解決されていない課題が総体との関連で存在しており、その解決はわたしにとって可能である問題を提起しているようにみえたという契機〉を生きとおした〈時間〉の闘いの枝流が、吉本さんの対談やインンタビューの奥底に流れていて、本流たる思想的過程に呼応している。
 この読み(聴き)どころについては、「対談相手が変わっても、話題や論点がその場限りのものではなく、内在的な思想過程がその基底に脈々と流れていて、ひとつの大河をなしているからだ。だから、どんな小さなインタビューでも、ないがしろにすることはできないのだ。それは対話やインタビューに限らず、吉本隆明の〈全表現〉を貫く、著しい特徴」として、数ある対話のなかから選んで1冊の文庫本(『吉本隆明対談選』講談社文芸文庫)を編んだ松岡祥男の解説で強調されている。
 とりわけその時々の現実の動きに対するに的確な情況判断と、その意識的問い直しによる考える根拠の持続が吉本発言を追いかけさせてやまない魅力の源泉だが、いつどこでどのように言葉で表現する身体的修練を積み重ねられたのだろうか。

 《(1)足並みを揃えない(2)口並みを揃えない(3)すべてを疑えというのはマルクス流の言い草だが、わたしは消極的に、じぶんで確かめないことについては流布された言説を信じないくらいにしておきたい。》吉本隆明「あとがき」(『マルクスーー読みかえの方法:吉本隆明インタビュー集成』深夜叢書社1995年2月20日刊)

 文筆家のみならず何事かを極めようとするものにとって言うは易しく、実践するにはずいぶん難しい稽古法だが、その技で鍛えた〈身体〉を術に自在な手足を養い、書き、話し、そして講演する〈姿勢〉が際立っている。

   《講演を依頼されると、大抵はすぐ逃げることにしているが、それでも幾つかの依頼のなかで、どうしても行くことになる場合があった。その理由は二つある。ひとつは、まったく私的なもので、この人の依頼ならば、だまされても、誤解の評価をうけてもいいという契機がある場合である。もうひとつは、大なり小なり公的なものである。かって、戦争中から戦後にかけて、わたしは一人のなんでもない読者として傾倒していた幾人かの文学者がいた。かれらが、この情況で、この事件で、どう考えているかを切実に知りたいとおもったとき、かれらは、じぶんの見解を公表してくれず、沈黙していた。もちろん、それぞれの事情はあったろうが、無名の一読者としてのわたしは、いつも少しづつ失望を禁じえず、混迷にさらされた。もしも、わたしが表現者として振舞う時があったら、わたしは、わたしの知らない読者のために、じぶんの考えをはっきり述べながら行こうと、そのとき、ひそかに思いきめた。たとえ、情況は困難であり、発言することは、おっくうであり、孤立を誘い、誤るかもしれなくとも、わたしの知らないわたしの読者や、わたしなどに関心をもつこともない生活者のために、わたしの考えを素直に云いながら行こうと決心した。それは、戦争がわたしに教えた教訓のひとつだった。わたしは、まだ、この教訓を失っていない。》吉本隆明「あとがき」(『敗北の構造』弓立社1972年12月15日刊)

 1956年11月23日の「「民主主義文学批判」戦後責任の問題をめぐって」(早稲田大学第3回早稲田祭・同実行委員会)から2009年9月22日の「宮沢さんのこと」(花巻市主催第19回宮沢賢治賞・イーハトーブ賞贈呈式)まで、まるで全国行脚したかのような、日本各地における吉本さんの講演記録が残されている。
 350タイトルを超える吉本講演のわずか3本(1987年11月8日、1989年7月9日、1991年11月10日の長岡における農業論)にでかけて聴いたにすぎないが、それでもおだやかな導入からやがて熱のこもった佳境をぬけて質疑応答までの場の響きに魅せられた。用意周到に準備し、典拠とした「資料」を挙げ、模造紙をつないだ手書き「レジュメ」を背に、〈はなし〉のかなめにさしかかって興がのった〈ことば〉が渦巻く語り口があざやかに残っている。1960年代の富山市内で聴いたのだが、颯爽とした詩人の西脇順三郎(黒田講堂)や苦みばしった文芸評論家の平野謙(電気ビルホール)の話しぶりとはずいぶん違っていた。
 農業論[二回目]の講演中に「ダイカキ」と聞こえた響きに、あぁ「代掻き」とその場で分かったが、吉本さんが1945年に大学とは別のところからの農村動員の要請により、埼玉県の大里村での農作業の時期がちょうど6月[宿沢あぐり「吉本隆明年譜」(1)」参照『吉本隆明資料集139』猫々堂2014年刊所収]だから、田植えにつらなる一連の作業として体験された可能性まで思いいたらなかった。宮沢賢治の農作業にも似て、吉本さんが「言葉」を紡ぎだされる手作業は、自身の「本」を編む作業姿勢でもあるようだ。

 《本を編むのは毛糸を編むとか布を織るとか紙を漉くとかいうのとおなじにそれ自体がさまざまな作成の意図の集まりと重なりであろう。わたしにとってこの書物はなにを編んでいることになるのかと云えば言葉で〈初源〉への〈姿勢〉を編んでいるということになりそうである。〈姿勢〉ということにはさまざまな意味が含まれている。手や足の位置、気分のおきどころ、構え、予防、準備そして終了のあとの間合いなど、すべてが〈姿勢〉に関与している。『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論』の軌道のうえで外部からと内部からと、わたしを待ちうけていたものは、それらの軌道を動的に根柢的に揺さぶること(あるいは揺さぶられること)、展開すること、そして収斂させることなどの課題であった。〈姿勢〉はすべてそのことに関していた。わたしは気息を整えてさまざまの麓からひとつの課題へととりつこうとしてきた。ここには道すじが脇道や支道を生みという問題と、あまりに早急にモチーフに直通したために起った行き詰まりをたどり直すという問題と、そのままよそみせず、だが遅々としてすすまない本道の問題とが錯綜している。》吉本隆明「あとがき」(『初源への言葉』青土社1979年12月28日刊)

 雑誌のグラビア写真などで見かけた吉本さんの書斎がなんだか独り稽古の道場のようで、そこで〈書く〉ことに取り組まれる息づかいや脈打つ響きをともなう〈身体〉像が、言葉で〈初源〉に向き合うさまざまな作業姿勢を集約しているようだ。言葉を武器に物事に立ちむかい、〈ほんとう〉と〈うそ〉の考え方がが交差し錯綜する場に〈体〉をあずけ、〈身〉をもって〈真〉に至る〈術〉で磨きあげた数々の書物が生みだされた。
 そんな著者の「乱取り」ぶりが、〈編集〉という影の立役者を得て、見事に発揮された一冊が『重層的な非決定』(大和書房1985年9月20日刊)であろう。「そのときどきに起こった主題に対応する身体のこなし方をみようとすれば、わたしの理念と感性の本音は、この本のなかにいちばんあらわな形で書きこまれているのではないか。」(「あとがき」)とあるが、未知の読者がふと手にとりみずからの関心事にそうように読みはじめれば、言葉でどこまで〈身体〉を捌けるようになれるか、感性的な出稽古の受け皿となる多層性に満ちている。その一方では頭でっかちな読み手が増えたのか、ツイッターで「読書」を「インプット」などとつぶやかれるほどに〈現在〉は読書から遠ざかり、その身体性も見失われつつあるようだが。[下線部原文傍点]
 晩年の小林秀雄とおなじように、多方面にわたる専門家との対話本として、「ただの便利屋みたいな気持ちにならぬよう自分なりに努力したのだが、さすがにおもうにまかせなかった。」と「あとがき」に記された『さまざまな刺激』(青土社1986年5月25日刊)において、「主観的にいえば、激しく動きまわり、さまざまな分野から未知の衝撃波を浴びようとして、こういう対談に進んで出かけていった」(同前「あとがき」)吉本さんの言葉による他流試合のあとで、「まだまだ身体の動かし方が足りないために、対話に応じて下さった諸氏の足手まといになった箇所もたくさんある。こんど未知の対話の旅をするときがあったら、これよりもっといい旅の記録をのこせるように、」(同前「あとがき」)さらに〈対話〉の技を高めた次なる《対話集》の達成をめざす稽古姿勢を未知の読者に向けられている。
 《講演》にあたって「たぶんその殆どが事前に書く寸前といえるほど周到な準備がなされ」(「講演メモ」『言葉という思想』弓立社1981年1月30日刊)ていて、さらに数度の手を入れ著作として編まれたようだが、それが叶わない〈著者の没後〉にあっても、吉本さんの〈対話〉を探し求めて編集・発行し続けた「猫々堂」の《資料集》の存在が大きい。
 『白熱化した言葉:吉本隆明文学思想講演集』(思潮社1986年10月刊)の背後に、『空虚としての主題』(福武書店1982年10月刊)を軸にして『悲劇の解読』(筑摩書房1979年12月刊)から『マス・イメージ論』(福武書店1984年7月刊)そして『ハイ・イメージ論 I〜III』(福武書店1989年4月〜1994年3月刊)におよぶ〈書かれたものとしての文学論〉が控えているように、『吉本隆明資料集』(猫々堂2000年3月〜2019年12月刊)には『吉本隆明全集』(晶文社刊行中)未収録の〈語られたものとしての文学・思想・情況論ほか〉が収められている。吉本さんが書き言葉と話し言葉による批評性の〈結合〉を試みられた格闘の息づかいやリズムがその〈身体性〉を浮かびあがらせ、双方の言葉を架橋する〈思想〉が〈発語〉する姿勢がきわだっている。(2019年11月25日)

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「続・本の一言」  ファイル作成:2019.11.27 最終更新日:2024.04.10