漱石とモデル

「坊っちゃん」について

 漱石とモデル問題という課題を、ここでは「坊っちゃん」だけにしぼって述べてみたい。理由は、それが漱石の小説のモデル問題の本質にせまる近道だと考えるからであり、また、最近おこったマドンナのモデル問題に、私自身多少関係したからである。
 「坊っちゃん」のマドンナは「遠山のお嬢さん」だが「モデルは軍人さんの遠田さんのお姉さんのことだろう、派手な美しい方だったから」というのが、漱石のころの松山を知っている広瀬敏子(旧姓横地)さんの意見だった。それを聞いた私が松山へ伝えたのがきっかけになって、マドンナは遠田ステさんであることが確認されるにいたった(十月二日付朝日新聞)。
 マドンナ詮議(せんぎ)は、松山でさらに展開し、最近は、ステさんの妹の遠田トヨさんが梅木某氏と結婚したことが問題になっている。これは英語の梅木先生ではなかろうか。彼はうらなり君のモデルだと言われた人である。二人の結婚式に、松山中学校の教頭−校長だった横地石太郎氏が列席したとしても、それはおかしくない。この点について私は、当時のことをよく覚えておられる広瀬さんに問合せてみた。広瀬さんは横地氏の次女である。広瀬さんは次のエピソードをもらされた−−。梅木さんは面白い先生で、千船町の横地家(校長時代)で酒に酔い、ワイシャツの上に姉の紫絞りちりめんの被布を引っかけ、金だらいをお箸(はし)でたたきながら、日清談判ハレツしてと騒がれたと。「坊っちゃん」では、それと同じ大騒ぎを、野だいこが、うらなり君の送別会でやらかす。両者の一致は果して偶然であろうか。
 すでに松山には「坊っちゃん」の名所や名物がある。そこへさらに今度のモデル詮議がおこった。それは松山に熱心な好事家がおられるからだろうか。私は、「草枕」などと異なる、風刺小説「坊っちゃん」の思想内容とその構造に原因があると思う。

 横地石太郎氏は金沢の人である。その横地家の墓へ私が詣(もう)でたのは、今年の春の花が散ってからである。禅寺の奥へ入ってゆくと、そのひとすみ、葉桜のかげに、大小十数基の古い墓石が静まりかえって並んでいたのは印象的であった。由緒ある加賀藩士の家に生れた彼は、その関係で英国留学から帰った旧藩主の学友に召し出され、十六歳の明治八年に上京、金沢を去る。その後、東京帝大応用化学科を卒業、七高教授をへて、松山にくる。そして都落ちの漱石と出会う。
 そのころ、広瀬さんは父の用事で、同じ二番町の漱石の下宿へ、姉と一緒によく行った。それで同家の久保より江さんと友だちになり、より江さんが横地へ遊びにくるようになった。「小さき妹にてもあれかし」と願った末っ子の漱石は、ここで三人の妹にかこまれる。明治二十八年のより江さんは十二歳、横地姉妹は九歳と八歳である。明治の娘は、十歳に近づくと、もう大人の行儀を仕込まれた。三人とも、漱石と狂言を見に行ったことを覚えている。また彼は朝早く横地家へ来た。横地は、昼食用の米を持って彼と海釣りに出かけた。二人の釣ってきたギゾ(ベラのこと)が、たらい一杯になった。そのような思い出を広瀬さんは大正四年、漱石に書き送った。晩年の彼の広瀬さんあての手紙がやさしいのは、想起された美しい記憶が、文面に反映したからであろう。
 ところで謹厳な横地は、世上自分が赤シャツのモデルにされたことを苦にし、ひそかに漱石に対して憤慨した。これに対して漱石は「赤シャツは文学士のおれだ」とうそぶいている。坊っちゃんがギゾを釣ると、野だは一番ヤリはお手柄だがゴルキじゃ、といい、赤シャツは、ゴルキと言うとロシアの文学者のような名だね、と洒落(しゃれ)る。それは、フランス二月革命のギゾーを、ロシア革命でレーニンと組んだ作家ゴルキーにかけたのである。また赤シャツは、あの松を見給え、幹がまっすぐで、上が傘(かさ)のように開いて、ターナーの絵のようだ、と野だに言う。ターナーの「ウィンザーの眺め」などは、そのような樹木を描く。それを漱石はテイト・ギャラリーでながめ、留学生活のわびしさをなぐさめた。彼は海釣りの場面の赤シャツになっているのである。
 同時に、漱石は坊っちゃんでもある。校長が坊っちゃんに、生徒の模範となり、一校の師表と仰がれよ、と説くと、彼はそんなことは自分にできないから、この辞令は返上すると言うが、同じ趣旨を、漱石は高等師範の校長に述べているのである。
 さて、どうして「坊っちゃん」にモデル論議が集中し、マドンナや赤シャツ論がむし返されるのか。それは作者が、人間性に関する普遍的問題を読者に納得せしめんがために、自由自在に才腕をふるったからである。そのねらいがあたり、「坊っちゃん」の読者は、探偵、スリ、ハイカラ野郎、ペテン師、岡っ引を知り、それを現実の世界のだれ彼に適用しようとする。モデル論がむし返されるのは当然のことである。この手法を漱石はスウィフトから学んだと私は思う。
 最後に、夏目と横地の両家が、漱石の結婚によって間接の親戚(しんせき)になったことを、最近私は知った。それはもちろん松山時代以後のことである。その委細を広瀬さんに報告し、かずかずの教示に報いた次第である。

これは、大久保純一郎氏(当時、金沢経済大学教授・英文学)の文章で、
昭和46年(1971年)10月27日 水曜日の朝日新聞からの切り抜きです。
冒頭の見出し以外に、

影うつす作者自身

“史実”と合う数々の場面

の見出し(?)や山口高商校長時代の横地石太郎氏の写真があるが
当方が Win.95 以上に対応するまでお待ち下さい。
横地家や大久保氏の御遺族か、朝日新聞がホームページにして、
当方がそれにリンクできる日まで、暫しの居候(いそうろう)をご覧頂く。

他の『坊っちゃん』のモデルたちも愛媛大学図書館で。校長の隣の和服が横地石太郎氏か?
大学関係の sinet と民間商用ネットとの接続回線が細く、電話代が気にかかる。もっと太くしてもらいたいのだが・・・
旧・松山女学校(現・松山東雲中・高等学校)は商用ネットなので、マドンナの写真だけご覧になりたい方は、こちらへ!
建設省松山工事事務所の『坊っちゃん』のイラスト集
何年振りかで検索したらテイト・ギャラリーのホームページができていて、ターナーの作品も数多く見られるようになっているが、どれが「ウィンザーの眺め」なのだろうか。
ロンドン漱石記念館


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