吉本隆明1990年著作リスト


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刊行形態 Magazine Article
著者 吉本隆明
刊行年月 1990
標題 《ハイ・イメージ論》エコノミー論(4)
掲載誌(紙・書)名 海燕
巻 9
号 1
掲載頁 290-298
掲載年月日 1990.1.1
区分 ハイ・イメージ論
キーワード 産業次元構成/大衆的貧困/大衆的な富裕
見出し・語録
「わたしは、利子つき資本の考察まできたとき、マルクスは労働者(いいかえれば労働力を売るヒト
と労働力を所有するヒトとの分裂)という概念の行方が、わかっていたのではないかという気がする。
ひとくちにいえば労働者という存在の上半身(労働力の売り手としての労働者)は、産業の高次化と
ともに貧困から離脱してゆく。ただマルクスは第二次産業が第一次産業を侵蝕してゆく時期しか視て
いなかったので、その像はいまからみて誤差をふくんでいた。もうひとつの方の労働力の所有者とし
ての労働者は、貨幣資本の所有者をのぞいたすべての所有者といっしょに、所有の浮かない表情をも
った存在の系列に組みいれられる。」
「ところで万人が(ということは一般大衆が)経済人の理想像としての貨幣資本の所有者にちかづい
ているかどうかを量る指標はどこにもとめればいいのだろうか?かれが居ながら[傍点あり]にして貨
幣量GからGプラスΔGを生みだす存在だというところからすれば、手易くいくつかの指標が見つけ
られる。
(一)「居ながらにして」という条件を充たすためには、週休が3日を超えなくてはならない。かっ
てわたしが労働日について論及したとき、週休3日を超えることなどありえないと称した馬鹿がいた
が、もちろんないとおもう方がどうかしているのだ。
(二)その貯蓄の年間利子額が年間生活(家計)費用を超えなくてはならない。因に過去十年間の平
均貯蓄額の推移を掲げてみる(第2図参照)と、図のようになり、現在ほぼ1000万円の平均額になっ
ている。また1500まん延以上の貯蓄額をもつ世帯は全体の20.8%を占める。
(三)家計支出のなかの食料費の割合(エンゲル係数)が、所定の水準を下廻らなくてはならない。
言ってみれば食費支出が50%以下であれば、「食うために働いている」のではないことを意味する。
因に過去二十年の食料費の支出割合は、つぎの図表から読みとれる。(第3図参照)
 すでに平均としていえば、わたしたちは、「食うために働く」段階を超えている。だが貨幣資本の
所有者としてわたしたちが描いた画像では、食料支出はゼロまたはマイナスということになったとき
を理想像としている。いいかえれば食料費の支出が、そのまま収入につながっているものを指標にし
ている。(この項未完)」

刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 《ハイ・イメージ論》幼童論(1) 掲載誌(紙・書)名 海燕 巻 9 号 2 掲載頁 178-187 掲載年月日 1990.2.1 区分 ハイ・イメージ論 キーワード グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』『兄と妹』/童話/森/宮沢賢治『グスコーブドリ の伝記』『わたくしどもは』/柳田国男『山の人生』/幼童性/反復
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 《ハイ・イメージ論》幼童論(2) 掲載誌(紙・書)名 海燕 巻 9 号 3 掲載頁 200-208 掲載年月日 1990.3.1 区分 ハイ・イメージ論 キーワード キルケゴール/アドレッセンス(思春期)/面白いもの/可換体(とりかえばや)/生と 死の転換/幼童
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 《ハイ・イメージ論》幼童論(3) 掲載誌(紙・書)名 海燕 巻 9 号 4 掲載頁 304-314 掲載年月日 1990.4.1 区分 ハイ・イメージ論 キーワード 「ヨブ記」/トルストイ『イワンのばか』/アンデルセン童話/倫理 見出し・語録 「ヘーゲル的にいえば、自然は、理性によって観察されるようになったとき段階化する。いいかえれば 人間、動物、植物、無機物のように区別されてくる。幼童は乳児をそれほどでないうちは自然を段階に わけはしない。わけたとしても名辞としてだけわけているので、いつでもじぶんとおなじようにみなし て、擬人化している。人形でも、動物でも、道具でも、自在にじぶんと同じ類としてあつかうすべを、 ひとりでに知っている。幼童の世界を描写し、しかも人間も動物も植物も無機物もおなじように生命あ る存在のように描こうとすれば、まず語り手がいて、擬人化によって段階をうち消された段階的な存在 [傍点あり]を描くよりほかない。語り手は自然の段階を人間、動物、植物、無機物のように区別しなが ら、しかも幼童の心性である段階化されない以前の世界を描かなくてはならないからだ。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 《ハイ・イメージ論》消費論(1) 掲載誌(紙・書)名 海燕 巻 9 号 5 掲載頁 244-252 掲載年月日 1990.5.1 区分 ハイ・イメージ論 キーワード ヘーゲル/自然/段階化/マルクス/組み込み/生産/消費/遅延/高次の自然(人工)/ 高次の人間(情報機械化)/産業の高次化
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 《ハイ・イメージ論》消費論(2) 掲載誌(紙・書)名 海燕 巻 9 号 6 掲載頁 244-251 掲載年月日 1990.6.1 区分 ハイ・イメージ論 キーワード 消費社会/第三次産業化/価値の高次化/企業系列の網状化 見出し・語録 「わたしたちが分析し解剖したいのは、消費社会と呼ぶのがふさわしい高度な産業社会の実体なのだが、 この画像はふたたび動物一般の、社会にも似ているようにおもえる。動物一般の社会は(ほとんど)意 図的な生産をやらないで消費行動だけをやって、あとに残余として昨日とおなじ身体状態をのこす。わ たしたちがそのなかに生活し、対象としてとりあげている高度な消費社会でも、意図的な高度な生産を あたかも生産が(ほとんど)行われていないかのように考察の彼方へ押しやり、消費行動だけが目に立 つ重要な行為であるかのようにあつかおうとしている。これはラセン状に循環して次元のちがったとこ ろで動物一般の社会に復帰しているような画像にみえてくる。相違はわたしたちのなかにメタフィジッ クが存在するということだけだ。このメタフィジックによれば消費は遅延された生産[傍点あり]そのも のであり、生産と消費とは区別されえない[傍点あり]ということになる。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 《ハイ・イメージ論》消費論(3) 掲載誌(紙・書)名 海燕 巻 9 号 7 掲載頁 198-208 掲載年月日 1990.7.1 区分 ハイ・イメージ論 キーワード ボードリヤール『消費社会の神話と構造』/産業高次化社会 見出し・語録 「第三次産業以後において、わたしたちは生産が物(商品、製品)の手ごたえ、感覚的な反射から距て られたところからうまれる不定さ、視覚的、触覚的な物の、映像化による非実在感などに由来する不安 に対応する方法をもち合わせていないこと。ボードリヤールの見解と反対に、消費行動の選択に豊かさ や多様さ、格差の縮まりなどが生じていること。そこに核心があるようにおもえる。もっといえばこう いう消費社会の肯定的な表象の氾濫に対応する精神の倫理をわたしたちはまったく編みだしておらず、 対応する方途を見うしなっているところに核心の由来があるとおもえる。わたしたちの倫理は社会的、 政治的な集団機能としていえば、すべて欠如[傍点あり]に由来し、それに対応する歴史をたどってきた が、過剰や格差の縮まりに対応する生の倫理を、まったく知っていない。ここから消費社会における内 在的な不安はやってくるとおもえる。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 笠原芳光 刊行年月 1990 標題 都市、時代そして自然:イメージとしての都市 掲載誌(紙・書)名 正論 号 1990年4月号 掲載頁 154-158 区分 討論 キーワード 天然よりもいい自然/どこにゆく日本の都市 見出し・語録 アジア的な都市、あるいは地域は、多分、西欧的な場所、あるいは地域に 突入していく以外にもう救いようがない。だが、アフリカ的段階(国家)の自然というの は、人類の理想的な設計図に基づいて人工都市を草原ないし森林につくってしまうという 可能性はある。 注記等 尼崎市の「つかしん」で行われた「ことばをひらく会」主催の吉本隆明氏の講演 と討論とに加筆されたもの。
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 笠原芳光 刊行年月 1990 標題 ポストモダンとは何か 掲載誌(紙・書)名 正論 号 1990年5月号 掲載頁 138-148 区分 対談 キーワード ポストモダン/マルクス主義/国家(社会)主義の解体/知識・理念の解体 /広義の資本種義ー階層的な差異/社会主義ー国家を開く/ヒューマニズム/人間ー動 物・植物性 見出し・語録 ヒューマニズム、科学技術、近代国家、資本主義。そうした近代の産物の 見直しのなされる今、改めて、「ポストモダンとは何か」。 近代を超えて/最終段階のマルクシズム/国家は死滅するか/ヒューマニズムを超えて/ 「内蔵感覚」ということ 注記等 尼崎市の「つかしん」で行われた「ことばをひらく会」主催の吉本隆明氏の講演 と討論とに加筆されたもの。  産業の意識が国家を超えてしまうということ=現在の欧州共同体が、部分的にそういう 場面に当面しつつある。  個人の自由な意志や活動というものは尊重されなければならないというヒューマニズム と、階級的なヒューマニズムという二つに分裂した形でのヒューマニズム、その空隙、中 間をうめる新たな人間性をうちたてうるかという課題が現在これからの問題としてありう る。  人間は動物性や植物性を体内に含んでおり、自然の中の代謝循環というか、生物の代謝 過程のなかのどこかに位置づけられる。そこでは内蔵感覚というよりしかたのない感覚が ある。  二十世紀の現在は「知の迷信が死んだ」といいたい。  知識は知識でないものより下位にあるという認識まで、わたしたちの知識の主体が進ん でゆくよりほか、この世紀末を脱出する方法はない。  「宗教的な超越とは違い、またたんなる現実の地面でもないところに、どんな理念や信 仰の党派や立場の「神」も見わたせる場所が、きっとあるはずだと考えています。その場 所が、知識がこれからさがし当てるべき場所ではないでしょうか。この場所がおぼろげに 見えるようになったこともまた、二0世紀末の特長のような気がしています。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 社会主義国家体制の崩壊と一般大衆の理念 掲載誌(紙・書)名 オルガン 号 9 掲載頁 10-27 掲載年月日 1990.6 区分 インタビュー キーワード ポーランド/連帯/市場原理/国家/軍隊/労働者運動/大衆 注記 (聞き手 小坂修平)
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 辻井 喬 刊行年月 1990 標題 1990年代の文化 掲載誌(紙・書)名 新潮 巻 87 号 3 掲載頁 p168〜194 掲載年月日 1990.3 区分 対談 キーワード 文化 見出し・語録 カウンター・カルチャーの登場/新しい知識人の課題/活字、映像、音楽、 美術/臓器が関与する言語/テレビの歴史意識/資本主義国、社会主義国/ペレストロイ カの文化/エコロジーと終末感/マルクスの思想とマルクス主義/人工都市の可能性/近 代国家の消失/1990年代の文化の行方
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 イメージとしての都市:講演と討論 掲載誌(紙・書)名 正論 号 1990年4月号 掲載頁 144-153 区分 講演 キーワード 都市問題/アジア的/人工都市/産業構造/アフリカ的段階/高度資本主義 的段階 見出し・語録 「都市とは何か。都市のイメージとは何か。産業構造が劇的に変換した時 代の都市の役割、都市の可能性を探る。」/アジア的都市と西洋的都市/人工都市とは何 か/都市と脱イデオロギー/都市の実験/イメージの力 注記等 尼崎市の「つかしん」で行われた「ことばをひらく会」主催の吉本隆明氏の講演 と討論とに加筆されたもの。 「高度資本主義段階という人類の文明の最先端の場所と、それから人類が歴史のなかに初 めて登場してきたアフリカ的な段階、その両方で人工都市が可能だということは、いいか えればこの二つは対立の問題ではないんだ、共通の問題なんだ、(中略)二つをどこで通 底させるのかというのは、それはもう人間の問題、あるいは思想の問題なんです。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 転向論のひろがり 掲載誌(紙・書)名 中央公論文芸特集 巻 7 号 3 掲載頁 216-225 キーワード 転向/ソ連・東欧問題/大衆/理念 見出し・語録 「現在、ソ連や東欧をはじめ、いわゆる社会主義圏で世界的な規模で現実そのものが描き つづけている事態が、どんな文学の物語よりももっと生々しい画期的な物語であり、無数 の中野重治や無数の宮本顕治が、無名の大衆と確執をかもしている境界面に登場して「転 向論」のひろがりのなかで手易くは記録されえないが手易く想像できるふかいふかい井戸 のような物語を紡ぎだしつつあることは、まったく明瞭だからだ。」「もし現在この『転 向論』の概念をひろげて、昨年来のソ連、東欧などの社会主義圏でおこっている根本的な 激動とアクシスの喪失現象のあとでも、そのまま適用できる転向の概念をつくるとすれ ば、「日本の近代社会の構造」の代りに「現在の世界の構造」を置きかえればよいことに なる。そして現在、ソ連や東欧をはじめ世界の社会主義圏で共産主義者や共産党員や同伴 インテリゲンチャのあいだでおこっている思考変換や思考の無変換、耻しらずな居直りな どは、転向の特殊な一形態だとみなせばよいことになる。わたしは旧稿で「封建的な遺 制」とか「優性遺伝の総体である伝統」とかいう言葉をつかっているが、現在の世界の構 造をいうばあいには、西欧的とアジア的とアフリカ的という三つの段階概念におきかえる ことが、さしあたり必要になってくる。そしてたしかでない心理的なモチーフなどを排除 したあとでこの段階概念に対応するのは、第一次産業(農業、漁業、林業など自然を整序 することで成り立つ産業)、第二次産業(製造業、建設業など自然を加工するこことで成 り立つ産業)、第三次産業(サービス業、流 業など物の生成や加工変成とかかわりない ものの扱い方自体の産業)のうち、その社会の主要部をなす産業がどれか、あるいは第一 次産業以前の第零次産業(採集産業)を主要部とするかといった配置だということができ よう。」 「こういう『転向論』のひろげ方は、現在避けて通れない必須の課題なのに、論議を有効 な水準にもってゆくには、あまりに未解明の部分をのこしすぎている。たとえばわたしは 旧稿の『転向論』で、転向することで日本の社会の劣悪な部分がもっている優位さと必死 のおもいで切実に対立しようとした中野重治の態度を、いちばんすぐれたものだと評価し た。だが『転向論』を拡張して、ソ連、東欧など社会主義圏と、それに追従する大江健三 郎、柄谷行人ら進歩主義同伴者のあたらしいモダニズム(ポスト構造主義)の思考変換が すでにはじまっているいまでも、そのまま適応できる「転向」概念にまでひろげたらどう なるのか。」 「日本の社会の内部の視野から、世界的な視圏にまでひろがることは、たんに空間的な拡 大ではない。それは同時に段階の拡大を意味し、日本の近代社会は優性も劣性も含めて、 この段階のひとつのなかに封入されてしまうことだ。また昭和十年(一九三五)前後から 現在(一九九0)にまで『転向論』をひろげることは、たんに歴史的な時間を半世紀延長 することではない。理念が成立するための基盤を、政治的なエリートや知的なエリートた ちの閉じられた共同性から、世界の構造の大半を占めるようになった一般大衆の知的な社 会経済的な基盤に変換することを意味しているのだ。こういうことを理解しない柄谷行人 の転向論議などが、存立しうる余地はどこにもありはしない。中野重治が「革命の党を裏 切りそれに対する人民の信頼を裏切ったという事実」を主観的に「消えぬ痣」と感じたか いなかとかかわりなく、世界的な視圏のなかの「革命の党」は自身がそのためにこそ存在 している称してきた労働者や一般大衆から、はげしい反撥とリコールを浴びつつあるのだ といっていい。裏切り転向したのは革命の党や政治的あるいは知的エリートであって、一 般大衆ではない。そのなかで中野重治の「降伏の耻」も宮本顕治の非転向の転向の無意味 さも、どこにも支柱がなくなって宙に迷っている。これが現在の世界的な視圏にまでひろ げられた「転向論」の要にあるものだということは疑いない。この要にわたしたちは耐え なければ、どうすることもできないのだ。」 注記等 中野重治「敗戦前日記」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 一九七0年代の光と影 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 7 掲載頁 277〜287 掲載年月日 1990.7 区分 情況論
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 十七歳 掲載誌(紙・書)名 ヤングサンデー 号 16 掲載頁 3 区分 詩
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 吉本隆明語録一九九0年―夏― 掲載誌(紙・書)名 ヤングサンデー 号 16 掲載頁 3-5,51-53 区分 Live Idol Rocks 11「十七歳のための壱萬字」 キーワード 西欧/東欧問題/社会主義/住宅問題/農業問題/日米構造協議/理想/論争 見出し・語録 「さしあたって社会主義を作るには、二つの条件があれば十分だ」 「日本が早急に解決しなければならない問題は二つ。住宅問題と農業問題だ。しかし、ア メリカから強制されたという形で二、三年後に解決すると思う」 「日本の国民の七割は中流だと思っている。もう十分立派な社会じゃないかと。それはそ れでいいと僕も思う。だけど人間には理想ってのがあるんだぜ」 「論争に勝つ秘訣は、この人とは論争を契機に一生口もきかないっていう覚悟を絶体にく ずさないってことなんだ。そうなっても悔いはない」 「僕はものかきとして、何か問題が起こったときにそれを考えつくしたいと思う」 「僕が現在の頭で17才に戻れるとしたらやるんじゃないでしょうか」 「自民党とか日本の各政党が賛成してやっていることなんか、何にも意味が無いから止め た方がいいぞ」 「今、おまえが一番関心があるのは?ってきかれたら、西欧、東欧の話。作家が書いたも のよりも、もっと面白い」 「現実に欧州で起こっていることは、あと二、三年で日本に跳ね返ってくる」 注記等 ―十七歳―きょう/言葉がとめどなく溢れた/この生涯にわが歩行は吃りつづけ /思いはとどこおって溜りはじめ/とうとう胸のあたりまで水 があがってしまった// きょう/言葉がとめどなく溢れた/十七歳のぼくが/ぼくに会いにやってきて/矢のよう に胸の堰をこわしはじめた Young Sounday No.16-8/24 '90 Live Idol Rocks 11 パパばなな 吉本隆明 YOSHIMOTO RYUMEIという名の革命
刊行形態 Book Section 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 世界認識の臨界へ 掲載誌(紙・書)名 エイティーズ:八0年代全検証 出版社 河出書房新社 出版地 東京 掲載頁 54-61 区分 インタビュー キーワード 高度資本主義/日本/エコロジー/世界資本主義/国家/現在/認識 見出し・語録 一般的な社会の現状は、産業構造と国家の問題で計ることができる。近代 資本主義社会が未知の段階に入ったとすれば、近代民族国家もまた未知の段階に入ったと 考えるべきだ。現在当面しているソ連、東欧、東独問題は何なんだ、国家がどうなれば歴 史は意識的に変えられたと結論できるのか、そして意識的に歴史を変えようとする理念が だめなら、歴史は無意識のうちに変わる以外にないとかいうことを判断したことになりま す。欧州共同体をよく見ててごらんなさい。これのやり方の良さと悪さは、逆に歴史の無 意識の問題になります。
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 現代において宗教は可能か 掲載誌(紙・書)名 仏教 号 13 掲載頁 154-171 掲載年月日 1990年4月14日 区分 講演 キーワード 宗教 見出し・語録 実体としての浄土の水準/親鸞の考える浄土のレベル/一遍の浄土レベル /逆説は思想の時間を延長する/一遍のもつラジカルさとは/思想が時間に耐えるという こと/思想の問題として死を追いつめる/緊急の課題と永遠の課題 注記等 本稿は平成二年四月十四日、法蔵館「仏教フォーラム」で行われた同題の講演に 加筆したものです
刊行形態 Book Section 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 ここはどこの 掲載誌(紙・書)名 大陸の細道 出版社 講談社 出版地 東京 掲載頁 266-277 区分 作家論 キーワード 木山捷平
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 檄のあとさき 掲載誌(紙・書)名 新潮 号 1990年12月号 掲載頁 184-190 掲載年月日 1990 区分 作家論 キーワード 三島由紀夫/楯の会/文学/乳胎児期/言葉/肉体/資質/天皇 見出し・語録 「ここに行動様式が文化概念としての〈天皇〉と結びつくいちばん緊密な きずながある、とかれはみなしていた。そこに〈伝統〉とか〈民族〉とかいう概念が周辺 からまとわりついてくる根拠があった。かれは生涯のじぶんの資質の悲劇を、乳胎児期の 不在と欠如からくる無意識にゆだねることを潔しとしないで、どこにも隙間のないよう全 身に論理の鎧をつけようとした。その結果、かれはじぶんの宿命をもてあそんだのか、宿 命からもてあそばれたのか不分明になるところまで、徹底して生涯を意識化していったと おもえる。」
刊行形態 Book Section 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 戦時中の恋愛心理ドラマ―『暖流』について 掲載誌(紙・書)名 洋画・邦画ラブシンーン ベスト150 編集 文藝春秋 出版社 文藝春秋 出版地 東京 掲載頁 160-164 区分 映画評
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 吉本隆明「五つの対話」 出版社 新潮社 出版地 東京 区分 対談集 キーワード 言語/聖書/身体 見出し・語録 対話について 吉本隆明/1.身体と言語 養老孟司/2.新共同訳「聖書」 を読む 小川国夫/3.なぜ太宰治は死なないか 高橋源一郎/4.『とりかえばや物語』の 謎 河合隼雄/5.一九九○年代の文化 辻井 喬
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 柳田国男論集成 出版社 JICC出版局 出版地 東京 区分 思想家論 キーワード 柳田国男/民俗学 見出し・語録 1.柳田国男論/体液の論理 序にかえて/1.1.縦断する「白」/1.1.1.海 の流線の方位/1.1.2.「白」の神の担い手/1.1.3.「白」という言葉をめぐって/1.2.動 機・法社会・農/1.2.1.動機の鏡/1.2.2動機の濃淡/1.2.3.動機の根拠/1.2.4.舞台の 意味/1.2.5.農/1.3.旅人・巡回・遊行/1.3.1.旅人とはなにか(1)/1.3.2.旅人とは なにか(2)/1.3.3.巡回と遊行(1)/1.3.4.巡回と遊行(2)/2.柳田国男の周辺/ 共同幻想の時間と空間:柳田国男の周辺/わが歴史論:柳田思想と日本人/2.柳田国男 2.1.折口学と柳田学2.2.無方法の方法/《遠野物語》別考/あとがき 注記等 JICCらしからぬ出版物、といっては失礼か。大和書房で詰腹を切った小川哲生編 集者の復帰第一作か。見事なもんだ。
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 著者 赤坂憲雄 刊行年月 1990 標題 天皇制の基層 出版社 作品社 出版地 東京 区分 対談 キーワード 天皇制論 見出し・語録 1.天皇制論の視座/2.象徴天皇制をめぐって/3.大嘗祭の本質と天皇制の深層 注記等 〈立場について〉p.29-30「それから象徴天皇制が民衆のなかに一般化していると いうのはそのとおりだし、それが現在日本の市民社会の基礎になっていて、また市民主義 的理念の基礎になっていると思うんです。つまり大多数が象徴天皇制を意識的に、あるい は無意識的に承認している。そうすると、浅田彰の理解も皇居前で砂利の上に座って伏し 拝んでいる人たちも、たぶん市民社会の象徴天皇制からいえば、そこからはみ出してしま う小数派です。僕も少数派だと思うんですけれども、僕の少数派という立場はもう少し 違っています。それを説明いたしますと、こうだと思うんです。僕にとっては象徴天皇制 は無意識の基盤としては肯定的だ、ということなんです。けれども、理念としていったら 全般的に否定します、ということになります。  つまり、どういうことかといいますと、理念として天皇制についての考え方を取り出し ていくと、象徴天皇制を含めて天皇制にたいして全否定だ、もちろん憲法の条項からも、 これはとっちゃったほうがいい、という僕なんかの考え方になります。だけど、大多数が 象徴天皇制を承認し、戦後の憲法を承認しているという現状にたいして自分のなかでどう いうふうに処理しているのかといと、僕は象徴天皇制という戦後憲法の規定を承認しな い、だから戦後憲法に反対である。僕は憲法擁護というのはいったことがないし、いつで も新憲法反対だといってきたと思います。  それは理念としては歴然とそうなんです。だけれども肯定するんじゃなくて、無意識の 基盤としてそれを認めるっていうふうに、僕のなかではなっています。この認め方という のは、象徴天皇制を規定に含む新憲法擁護というのに反対であるといいながら、しかし象 徴天皇制として機能している市民社会というのを無言のうちに認めるのはおかしいじゃな いか、ということになるわけです。でもそれは、ちっともおかしくない。僕は無意識の基 盤としてそれを受け入れているんで、承認しているわけではないし、承認か非承認かとい うことを理念化していけば、もちろんこれは否定します。新憲法の規定のなかに軍事力の 否定というのがあります。軍事力の否定を擁護するために新憲法を擁護するといういい方 には、僕はまったく反対なんです。ただ無意識ならば受け入れますよ、というのが僕の少 数派という意味です。 〈権力〉p.44「それは支配共同体としての政治機能を発揮しているわけではない。ただ 目の前を通っただけで、畏怖する存在だということ自体は、やっぱり権力だと僕は思いま す。つまり、権力という概念は、可視的なものとか機能的に有効であるかどうかというこ とに限定して考えるべき問題じゃなくて、政治的機能など何もなくても畏怖する存在、あ るいは威圧を感じさせる存在というものは、権力だ考えるべきです。天皇は威圧する、畏 怖する存在としては最大の存在だったといえそうな気がするんです。そのはかのことはあ まり関心がないんです。天皇個人をむき出しに取り出してきてどうだとか、人格がどうだ ということは、別にどうってことない。 〈動機〉p.72-74「何が天皇制論議のモチーフなのかというばあい、赤坂さんは天皇制の 問題なんだと自己同一的に回帰するだろうと思います。僕はそうでなくて、どんな人が日 本列島に住んでいて、どんな宗教をもっていて、いま存続している天皇家の祖先は、支配 権を確立したとき先住的にあった宗教とか住民にたいして、どんなふうな制度的な組織の 仕方とか調整の仕方をしただろうとかいうのが、天皇制論議のモチーフになります。そう いうモチーフが天皇制の問題で、主体はあくまですでに日本列島に分布していた住民がど ういう種族で、どういう言葉をしゃべり、どういう宗教をもっていたのかが基礎にあっ て、そこからしか天皇制の問題の論議は始まらないと僕は思っています。そのモチーフが 赤坂さんとはじめから違うと思います。  だから、その後の問題が全部違ってきます。宗教としての天皇制とか、精神的な絶体帰 依の対象としての天皇信仰とか、民俗としての祖先祭祀に通底する天皇制とかの問題は捨 象できるとおっしゃいますけど、僕のモチーフからいえば、それは捨象できるかできない かの問題じゃなくて、精神的な絶体帰依の対象はすでに日本列島に存在していて、それを 天皇、あるいは天皇制というものが、どういうかたちで天皇信仰にまで集約したかという 問題になるわけです。捨象できるかできないかいうことには、はじめからなりません。  民俗としての祖先祭祀の問題も同じです。それは制度の問題、つまり共同幻想の問題 じゃないから捨象できる、あるいは権力の問題じゃないから捨象できる、ということには なりません。天皇制の問題は天皇制の問題から始まり天皇制の問題に終るというモチーフ からはそういえるとしても、僕のモチーフからはそうはいえない。民俗としての祖先崇拝 や日常祭祀は、すでに縄文時代、あるいは縄文時代以前から日本列島に存在しているわけ です。天皇制は、それにどうやってじぶんを合わせていったのかという問題です。これは 捨象できないと思います。つまり本末が、モチーフがまるで違うのだから反対になるわけ です。支配権力に正統性を与えている宗教的な権威の源泉の問題でも、僕は天皇制の論議 は天皇制の問題に終わるという論議の仕方自体をモチーフとしてもっていません。それは 本質的な問題を構成しないとおっしゃいますが、天皇制の本質的な問題は何かというと、 宗教としての天皇制の問題だけでいっても、日本列島の住民、つまり常民大衆の宗教的な 信仰のかたちを、どうやって天皇制が接ぎ木したかという問題になるから、本質的な問題 を構成します。」  《赤坂の発言》 p.100「僕は少なくとも、天皇制の問題も文学・文芸批評の問題も、そういう問題意識の もとに全般的にやってきました。すべてはそこに集約されちゃうのです。つまり「俺は何 をしたいんだ、戦後何をしてきたんだ」といえば、ひとつの大きなモチーフは、この自分 の体験も最も偉大な人の体験も含めまして、これを全部底のほうからさらっちゃいたい、 さらってここに出してしまいたいということですね。どうせやるのなら、そのモチーフの ところまで入っていただきたいと思いますし、また入らないんならば、それは学問だから それでいい、それだけのことのような気がします。僕はエリート知識人から超モダンなこ とをいわれても、どんなに偉大な人がいっても、信じないのです。そんなことですむこと なら、もう戦前に小林英雄がやるだけのことはやり、柳田国男がやるだけのことはやり、 折口信夫がやるだけのことはやってるんですよ。だけどもそれは全部だめだったんで す。」 〈動機〉p.102「天皇制の論議はひとつの象徴的な論議で、僕にいわせれば、日本の明治 以降の文化文明の受け入れ方も天皇制の権力の問題も全部含めて総ざらいしなければ、 ちょっと先には行けないんじゃないか。そんなモチーフがあるから、そのモチーフのとこ ろからいろんなところへ派生していきたいのです。」 〈動機〉p.108「僕は何をモチーフとしてもっているかというと、そういう僕の怨念とか 体験を含めた天皇制論議を、ある記述の仕方、ある表現の仕方をすれば、そんなのは全然 念頭にないような世代が、たいへん面白く書いてあったから読んじゃったよっていう、そ ういう記述の仕方、表現の仕方ってのはありうる、ということが根本的なモチーフだと思 うんです。」 〈田吾作のこだわり〉p.154-155「きっといまでも同じようなきがします。僕は太平洋戦 争の敗戦を迎えたとき、国家的規模でさんざん苦心させられた、泣いたよっていう体験が あります。いま現在は、世界史的規模でまず左翼が泣かざるをえないときだって思ってい ます。必ずしも社会主義理念と社会主義国というのは同一ではないわけですが、しかし社 会主義国と資本主義国とが、民衆の解放戦争といいますか、どちらが民衆を解放するかみ たいなことで戦争してみたら、社会主義国のほうが歴然と負けたっていうのがいまの段階 です。その敗戦処理をいま社会主義国はやってるっていうのが基本的なパターンだと思い ます。現在みたいな情況に対して、理念としては左翼は正面からかぶらないけれども、全 部かぶらなかったかというと、そんなことはないんで、やっぱりかぶった分だけはまた泣 かなくっちゃいけないみたいな感じがします。負けてねえ、負けてねえと思っていた、戦 争終わった直後の僕らと同じように、中国みたいに俺は負けてねえと思ってるところもあ るわけだけど、それは固守してるんだと思いますね。負けたと気がつくのに何年もかかっ て、これはとことんだめだっていうのはまた何年かあとだって気がします。いまはそうい う段階のようです。ここをまた、二、三年固守すれば収まるみたいなところで固守して も、なんか実りのない気がするんです。」 〈怖さの解明〉p.158-160  「天皇の問題について、そこまでは誰も解いていないんじゃないかと思えるのは、その 怖いっていう源泉はどこからくるのかということですね。それについては、直接いわなく ても他のことについていえばいいので、つまりお化けが怖いとか妖怪が怖い、ホラー映画 が怖い、とおなじとみなしたらどうか。怖いものってのは な意味では、怖いんだけど見 たいとか体験をしてみたいんだとか遭遇してみたいんだっていう、両方の観念があると思 うんです。つまり、お化けでもなんでもいいんです。その怖さがどういう人にどういう場 合にあるのかというのと、どういう資質の人にどういうふうに大きく怖さってのがあるの か類推してみると、論理化されていない空白の中心のところにあるのが、母権制とか、母 系制とかの怖さなんじゃないか。もっと卑俗にいっちゃえば、女の人が怖い、好きなんだ けどまた怖いんだというのと同じ怖さに帰着するんじゃないかなっていう感じをもってる んです。  つまりその問題もまた、王の問題、つまり天皇制の問題として論理的に解いてもらいた いんです。それを解いてもらうと、なぜ老いたる老大家たちが象徴天皇、象徴だけはのこ すために必死になったか、なぜまた利害関係からいって象徴的な天皇のあり方をつぶした り、処刑したりしないほうが占領はしやすいんだと考えたかとか、そういう問題の実感的 な根柢にあることがわかるのではないでしょうか。どうもそんなような気がする。そうす ると、それを論理的に解いてくれないと、だめじゃないかなっていうことがあるんです。  それじゃ、平成の天皇でもこれからあとから出てくる天皇でもいいですが、なぜそんな 怖さなんか感じないのか。僕らでも感じないんだから、ましてや若い人たちは感じないと 思うんです。人によっては親しみは感じるという人はいるでしょうが、怖いって人はいな いと思います。それはなぜかっていうと、平成の天皇自身が自分を怖いと思っているとこ ろがなんにもないからだと思います。でも前の天皇はあったと思うんです。自分でじぶん が怖い、つまり現人神でもいいんですけど、自分が置かれている場所が自分で怖くてしよ うがない、自分は魚とか微生物の研究をやったり、猪瀬直樹によればゴルフでもやりたい とか、あるいは田んぼかなんか入って草取りしたいとか、そういうことがほんとうだった ら一番楽しいんだ、でも自分で自分が怖いような場所を自分がひとりでにもっていて、じ ぶんを怖いって思いながら、周りの人間にはいうことはできないで、生涯死ぬまで自分の 死と共にその怖さを葬ってしまうくらいまでやったと思うんです。自分でじぶんが怖いっ ていうのはたぶん、僕らが怖いっていうのと一致するような気がするんです。  なぜ、そんなに怖いという体験を天皇はもったかっていうと、それは現人神だからで、 現人神というのは、そういう場所なんですね。要するに母性の欠如体験っていいましょう か、それをどんな人よりも一番体験したということになるのではないかと思う。単純化し ていうとそういうことになると思います。どんな人間よりも、授乳のときから母親から遠 ざけられて、「お前は神だよ」といわれ続けて、それに耐えてきた。だから自分でじぶん が怖い、自分はそんなものじゃないんだ、これこれして楽しみたいんだとか、いろいろ あったのにそれを耐えて、怖いって場 を少なくとも敗戦のときまで固守せざるをえな かった、固守してきた、どうもそこのところに帰着してしまうような気がします。」 〈神話の理解〉p.226-227「つまり祭の仕方というのがまず先にあって、それを物語化し たのが神話なんだっていう理解の仕方があるわけです。僕の神話的理解の理念からすると そうじゃなくて、神話というのは民話が洗練されて共同体の制度の敷居をどんどん越えて いき、そして国家単位まで――その国家がどんなに小さな国家でもいいんですけど――上 昇していったのが神話だという理解をするわけです。民話が共同体の敷居をいくつ越える かっていうのは、その段階によって違うんです。古代ギリシャだと共同体の敷居をいくつ も越えなきゃいけないんだろうし、日本では村落に起こっている民話をひとつか二つ敷居 を越えると神話になっちゃう。  物語というのは村落の物語、つまり説話とか民話とかです。それが神話的にどんなに洗 練されても、そこには現実の生活行為の痕跡がないはずがないっていう理解になります。 これは神話理解の理念の問題ですね。そうすると天皇の大嘗祭の場合にも、折口さんのよ うに磐座の祭儀みたいなものから類推していくとき、磐座の祭儀、つまり祝の祭儀という のは、元を正せば農耕祭儀に類するものなのか、農耕以前の祭儀なのかよくわからない、 うまく理解できない、それが僕などひっかかるところです。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 天皇―その位置を考え直す 掲載誌(紙・書)名 仏教:別冊 号 2 掲載頁 2-28 収録年月日 1989年8月21日 区分 対談 キーワード 天皇制/仏教/現人神/エコロジスト 見出し・語録 仏教と関わりあってきた天皇/天皇ー神祗官にして仏教の首長/現人神主 義をどう受けとめてきたか/現人神という共同幻想の下に/変革思想の基底にあるもの/ アジア的専制君主と天皇/法王としての天皇のイメージ/母系制か双系制かー天皇家を貫 くもの/日本の原イメージをどうみるか/天皇像のゆくえー立憲君主制の中の役割/名誉 と虚栄ーシンボル天皇のゆくえ/農耕型社会と運命を共にする天皇制/おそろしいエコロ ジストの発想
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 定本言語にとって美とはなにか1 掲載誌(紙・書)名 角川選書 出版社 角川書店 出版地 東京 巻 199 区分 言語論 キーワード 言語/表現/文学理論 見出し・語録 選書のための覚書/序/1.言語の本質/1.1.発生の機構/1.2.進化の特性 /1.3.音韻・韻律・品詞/2.言語の属性/2.1.意味/2.2.価値/2.3.文字・像/2.4.言語 表現における像/3.韻律・選択・転換・喩/3.1.短歌的表現/3.2.詩的表現/3.3.短歌的 喩/3.4.散文的表現/4.表現転移論/4.1.近代表出史論(I)/4.1.1.表出史の概念/ 4.1.2.明治初期/4.1.3.「舞姫」・「風流微塵 蔵」/4.1.4.「照葉狂言」・「今戸心 中」 /4.1.5.「武蔵野」・「地獄の花」・「水彩画家」/4.2.近代表出史論(II)/ 4.2.1.自然主義と浪漫主義の意 味/4.2.2.「それから」・「ヰタ・セクスアリス」/ 4.2.3.「網走まで」・「刺青」・「道草」/4.2.4.「明暗」・「カインの末裔」・「田園 の憂欝」/4.3.現代表出史論/4.3.1.新感覚の意味/4.3.2.新感覚の安定(文学体)/ 4.3.3.新感覚の安定(話体)/4.3.4.新感覚の先端/4.4.戦後表出史論/4.4.1.表現的時 間/4.4.2.断絶の表現/4.4.3.断絶的表現の変化/4.4.4.断絶的表現の頂点/解題(川上 春雄)
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 定本言語にとって美とはなにか2 掲載誌(紙・書)名 角川選書 出版社 角川書店 出版地 東京 巻 200 区分 言語論 キーワード 言語/表現/文学理論 見出し・語録 5.構成論/5.1.詩/5.1.1.前提/5.1.2.発生論の前提/5.1.3.発生の機構 /5.1.4.詩の発生/5.1.5.古代歌謡の原型/5.2.物語/5.2.1.問題の所在/5.2.2.物語の 位相 /5.2.3.成立の外因/5.2.4.折口説/5.2.5.物語のなかの歌/5.2.6.説話系/5.2.7.歌物 語系/5.2.8.日記文学の性格/5.2.9.『源氏物語』の意味/5.2.10.構成/5.3.劇/ 5.3.1.成立論/5.3.1.1劇的言語帯/5.3.1.2.舞台・俳優・道具・観客/5.3.1.3.劇的言 語の成立/5.3.1.4.劇的本質/5.3.1.5.劇の原型/5.3.1.6.劇の構成 /5.3.2.展開論/5.3.2.1.「粋」と「侠」の位相/5.3.2.2.劇の思想/5.3.2.3.構成の思 想(I)/5.3.2.4.構成の思想(II)/5.4.内容と形式/6.1.芸術の内容と形式/6.2.文 学の内容と形式/6.3.註/6.4.形式主義論争/7.立場/7.1.言語的展開(I)/7.1.2.自 己表出の構造/7.1.3.文学の価値(I)/7.2.言語的展開(II) /7.2.1.文学の価値(II)/7.2.2.理論の空間/7.2.3.記号と像/解題(川上春雄)/索 引
刊行形態 Book Section 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 近代詩の歩み 掲載誌(紙・書)名 現代詩文庫第II期近代詩人篇 出版社 詩潮社 出版地 東京 区分 帯文 キーワード 近代詩 見出し・語録 「少年から脱けでて青年期の方へ走りだしたころ、藤村の『若菜集』を暗誦するようによみはじめ た。なぜか七五調の詩がもどかしくて、じぶんの白日夢の世界の核心のところに触れられないとお もいはじめたとき、ある先生がこれをよんでごらんと、『現代詩集』をだしてきてくれた。その詩 集の世界は驚きであった。こういう身近な詩の書き方がありうるのか。いまも、誰かがどこかでそ ういうふうに心のなかに近代詩の歩みを通したり堰とめたりしているのかもしれない。」 注記 「現代詩文庫第2期近代詩人篇」(詩潮社刊)の帯文
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 渦巻ける漱石(1)―『吾輩は猫である』― 掲載誌(紙・書)名 ちくま 号 236 掲載頁 8-20 掲載年月日 1990.7.31 区分 作家論 キーワード 夏目漱石/『吾輩は猫である』 見出し・語録 「移動する耳という設定と、移動する眼という設定が、作者である漱石にとってどんな意 味をもったかといえば、なかなかに重要な意味があります。たとえば移動する耳という 『猫』の役割が高じていきますと、作者漱石にとって一種の幻聴だったとおもわれる音 声、つまり、何も声を発していないのにそう聞こえているといったことが、猫が聴いたこ ととして記述されます。(中略)『猫』が移動する眼に転化しますと、作品は緊迫して、 記述者が『猫』なのか、作者自身が身をのりだして言っているのか、あるいは、この『吾 輩は猫である』の物語をくりひろげている語り手が言っているのか、その三者が全部一緒 に混融してしまうような白熱した文明批評をはじめてしまうのです。」 「ゆるぎない軌道をみつけだしたあとの作家と、作家以前の漱石との、その中間の混沌と 渦を巻いている漱石を象徴するものといってよいとおもいます。その渦巻のなかには、知 識あるエリートとしての漱石がいたり、やや異常な神経に時として陥ってしまう漱石がい たり、孤独で人間嫌いで世間嫌いな漱石がいたり、それらが全部ごちゃ混ぜに、秩序な く、混沌としてふくまれた内省的な自意識の多様な表出として存在するというふうに読め てきてよろしいわけです。」 「自分に関することもそうですが、文明批評に関することでも、他者の批評に関すること でも、あるいは世間に対することでも、全部、枠組みを超えて言いきってしまうことがあ ります。しかも言い方が大胆で率直なものですから、すこしも悪感情をもたせないんで す。しかし常人だったら、ここでとめるというようなところを、はるかに枠を超えて言い きってしまいます。しかし、常人だったら、ここでとめるというようなところを、はるか に枠を超えて言いきってしまいます。そういうところでやはりこの作家の偉大さを感じま す。」 「作家としての軌道が定まるまでの漱石を、すべて総合した作品だと見ることができま す。逆にいえば、『それから』という作品で作家としての軌道が定まっていくまでに書か れた作品、小品のたぐいは、『吾輩は猫である』で、部分的にあるいは断片的にいったこ とを、一つずつ拡大して一編の作品に仕組んでいったものだという解釈もできるかとおも います。『吾輩は猫である』という作品、とても多面的な作品です。」 注記等 本稿は、日本近代文学館主催、読売新聞社後援により、読売ホールで開催された 「明治の文学・作家と作品」における七月三十一日の講演「夏目漱石―「吾輩は猫であ る」「夢十夜」「それから」―」のテープ・リライトを整理・加筆したもので、三回に分 載の予定です。―編集部注
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 渦巻ける漱石(2)―『夢十夜』― 掲載誌(紙・書)名 ちくま 号 237 掲載頁 10-21 区分 作家論 キーワード 夏目漱石/『夢十夜』 見出し・語録 「人間の宿命はどこで決まるかといいますと、まず第一次的には、母親の胎内か、あるい は乳児のときの母親との関係のなかで決まっていきます。そして無意識のいちばん基底の ところに入ります。それでも宿命というのは、何もそれに従わなければならない生涯の決 定因ということではありません。内在的に人間というのを理解した場合には、宿命を超え ることが人間にとって生きるということだということになります。またその生きるという ことを絶えず引っぱっていくのが宿命だというふうにいえます。もちろん誰もがこの宿命 が第一次的に形成される時期のことを、じぶんで知らないわけです。知らないのに無意識 の底からそのひとの自己史をたえず引っ張っているものだと理解されます。漱石にとっ て、この『夢十夜』は、そういう意味で、自分の宿命についての物語だというふうに読む のが、いちばん妥当な読み方だとおもうのです。」 「この『夢十夜』と『三四郎』とを、宿命と反宿命の物語だというふうに言うとすれば、 『三四郎』あるいは『夢十夜』以降の漱石というのは、徹頭徹尾その宿命に逆らう物語を つくり続けていきます。漱石神話というのがありまして、『明暗』のところまできて、天 にのっとって私を去るという境地にたどりついたと言われています。つまり、晩年に漱石 は再び、自分の宿命を受け入れようとした兆候がみえるという解釈の仕方も、成り立って います。実際は漱石が人間をすべて相対的な距離からながめて描くことを、『明暗』まで きてなったということのようにおもわれます。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 西部邁 刊行年月 1990 標題 自決から20年:三島由紀夫の思想と行動 掲載誌(紙・書)名 文芸春秋 巻 68 号 13 掲載頁 p306〜321 掲載年月日 1990.12 区分 対談 キーワード 自決/三島由紀夫/思想/行動 見出し・語録 左翼的思想と右翼的発想/三島由紀の「仮面」の論理/「言語のほうが 先にあった」という悲劇/「知行合一」をどう考えるか/イメージとしての庶民・大衆/ 「後生畏るべし」と思うべし 『それで僕が唯一理念化できたことは何かといいますと、契機がなければ人間は死ねな い、そして死なないほうがいいということです。戦後生きているかぎりは、生きているこ とを合理化する論理として「契機がなければ人間は死ねない」「契機がなかったら死なな いほうがいいよ」、この両方が僕の原則になっていきました。三島さんは、少なくとも晩 年はそうじゃなくて、死が前提である、契機があろうがなかろうが遮二無二死ぬというこ とが理念の根底にあります。そこがダラダラ生きていく論理と、三島さんのような理念と の違いだし、生と死の分かれ道のような気がするんです。』 「はい。言葉は言葉、行いは行い、両者はまったく別次元なんだよという観点から出てく る自己拡散、その究極のイメージはどこにあるかといいますと、大衆というイメージに なっちゃうんです。自己拡散の極限はこれだ、もっといえば一番価値のある生存の仕方は ここにある。それにもかかわらず現実の大衆自体も、それから僕自身も、究極の価値から それていかざるをえないわけです。」 『もう一つ敗戦だと思ったのは、これは今年でしたか、日米構造協議があって、米国案の 全部の要旨が朝日新聞に掲載された。僕は一行一行、一生懸命読みましてね、日本の社会 構造の問題点についてこれだけ正確な分析をやられたらこれは終わりだ、これは三度目の 敗戦だなと感じたんです。これを実行すれば住宅問題も解けるぜ、農業自由化問題も解決 できるぜというふうに、「文句ないよ」というところまで正確に分析されている。おまけ に銀行のカードを二十四時間、休日なしで使えるようにしろという条項まで入っているん ですよ。日本で、ここまで正確に、レントゲン写真を撮ったみたいにアメリカについて分 析できる人たちなんかいない。まいったね、鉄砲を持ったときも負けたけど、また負けた ねという感じで大変な衝撃を受けました。』
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 鶴見俊輔 著者 河合隼雄 刊行年月 1990 標題 宗教と科学の接点を問う:世紀末を読む 掲載誌(紙・書)名 潮 号 373 掲載頁 p230〜243 掲載年月日 1990.5 区分 鼎談 キーワード 世紀末/宗教/科学 見出し・語録 生きている姿に死を入れ込む日本人/「今日は死ぬのにとてもよい日だ」 /あらゆる神が見える場所を見つけたい/ねじ曲げられる超経験のデータ/意味のある偶 然の一致は起こる/信仰と科学を対立させる必要はない 注記等 『吉本隆明資料集 26』(猫々堂、2002年10月発行)に収録。
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 養老孟司 刊行年月 1990 標題 身体と言語 掲載誌(紙・書)名 新潮 巻 87 号 5 掲載頁 p212〜233 掲載年月日 1990.5 区分 対談 キーワード 身体/言語 見出し・語録 動物的と人間的/眼の世界、耳の世界/仏教漬けの思考法/赤の意味を説 明するのは難しい/ニヒリスティックな眼の世界/脳の中の言語の位置/漫画は漢字であ る/言語を構成する三つの感覚/ソシュールの座 /“a”は「は」、“the”は「が」/ 臨死体験の視野
刊行形態 Journal Article 著者 吉本隆明 著者 中田平[訳] 刊行年月 1990 標題 L′Illusion commune-3- 掲載誌(紙・書)名 金城学院大学論集 巻 138 掲載頁 p57〜91 区分 共同幻想論 キーワード Illusion/commune 注記等 未見。
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 岡井隆 刊行年月 1990 標題 賢治、短詩型、南島論:現代日本詩集・1990<特舜> 掲載誌(紙・書)名 現代詩手帖 巻 33 号 1 掲載頁 p9〜39 掲載年月日 1990.1 区分 対談 キーワード 宮沢賢治/短詩型/南島論 注記等 未見。
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 河合隼雄 刊行年月 1990 標題 「とりかへばや物語」の謎 掲載誌(紙・書)名 新潮 巻 87 号 1 掲載頁 p194〜214 掲載年月日 1990.1 区分 対談 キーワード とりかへばや物語 注記等 未見。
刊行形態 Book Section 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 漱石をめぐって 掲載誌(紙・書)名 夏目漱石:新文芸読本 出版社 河出書房新社 出版地 東京 掲載頁 169-193 区分 作家論 キーワード 夏目漱石 注記等 未見。
刊行形態 Book Section 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 創造と宿命 掲載誌(紙・書)名 宮沢賢治 出版社 小学館 出版地 東京 掲載頁 15-22 区分 詩人論 キーワード 宮沢賢治 注記等 未見。
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 マチウ書試論・転向論 叢書名 講談社文芸文庫 出版社 講談社 出版地 東京 区分 思想論 キーワード マタイ伝/転向 見出し・語録 I 恋唄 エリアンの手記と詩 異神 マチウ書試論 II 西行小論 宗祇論 蕪村詩のイデオロギイ 鮎川信夫論 戦後詩人論 III 芥川龍之介の死 芸術的抵抗と挫折 転向論 戦後文学は何処へ行ったか 著者から読者へ 解説 月村敏行 作家案内 梶木 剛 著書目録 注記等 本書は、各々以下を底本とし、多少ふりがなを加えた。 「恋唄」「エリアンの手記と詩」『吉本隆明全集撰1』(1986・9 大和書房) 「異神」『吉本隆明全著作集1』(1968・12 勁草書房) 「マチウ書試論」「転向論」「戦後文学は何処へ行ったか」『昭和文学全集27』(1989・3 小学館) 「西行小論」「宗祇論」「蕪村詩のイデオロギイ」「鮎川信夫論」「戦後詩人論」「芥川龍之介の死」『吉本隆明全著作集7』(1968・11 勁草書房) 「芸術的抵抗と挫折」『吉本隆明全著作集4』(1964・4  勁草書房) (巻末注記)
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 未来の親鸞 出版社 春秋社 出版地 東京 区分 宗教論 キーワード 親鸞 見出し・語録 変容論:三願転入 親鸞思想の到達点 浄土論;正定聚の位 ほんとの〈死〉からの言葉 自然論:善悪の転倒 親鸞の声にならない声 還相論:二つの慈悲 比喩としての親鸞 解体論:理念と思想 未来に生きる親鸞 補(註・引用原文) あとがき 初出メモ 注記等 変容論――第1回緑陰講座「親鸞・不知火よりのことづて」による鹿児島県出水市泉城山西照寺における講座[1983.8.21](原題「親鸞論(付)鹿児島親鸞メモ」)『親鸞 不知火よりのことづて』日本エディタースクール出版部所収 浄土論――真宗大谷派宗務所同期の会「報恩講」による京都本願寺白書院における講演[1983.11.29](原題「親鸞について―否定する言葉」)『白熱化した言葉』思潮社所収 自然論――武蔵野女子学院「第261回日曜講演会」による武蔵野女子学院紅雲台大広間における講演[1984.6.17](原題「親鸞の声」)『超西欧的まで』弓立社所収 還相論――真宗大谷派東京教区教化委員会「課題別育成員研修会」による同教区会館における講演[1988.11.1](原題「親鸞の還相について」)未収録 解体論――東京北区青年サミット主催「機工街にて親鸞を語る」による昭和町区民センターにおける講演[1989.6.7](原題「未来の親鸞」)未収録 *今回、本書を編むにあたって、大幅な加筆訂正が行われました。
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 西行論 叢書名 講談社文芸文庫 出版社 講談社 出版地 東京 区分 詩人論 キーワード 西行 見出し・語録 I 僧形論 II 武門論 III 歌人論 著者から読者へ 解説 月村敏行 作家案内 佐藤泰正 著書目録 注記等 「本書は、1987年10月大和書房刋『吉本隆明全集撰6』を底本とし、多少ふりがなを加えた。」(巻末注記)
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 著者 中上健次 著者 三上 治 刊行年月 1990 標題 解体される場所:20時間完全討論 出版社 集英社 出版地 東京 区分 鼎談 キーワード 天皇/家族/文学/政治 見出し・語録 第1章 天皇および天皇論について 立憲君主論の矛盾/実存の全体にかかわる天皇/農耕社会の滅びつつある現状の中で/南 島論の新展開/アフリカ的段階論/アフリカ的王権について/壊れていく国境と文化/難 民問題が映し出すもの/映像と天安門事件/家族と自然の変容/家族の変容について/ フェミニストたちへの違和/壊れる家族形態/宮崎事件について/天皇の崩御の日/天皇 の醸し出す思想の根底 第2章 家族および文学の周辺をめぐって 文学は今、どのあたりに向かっているか/文学と人倫/人倫から左翼へ/左翼性からの脱 却/戦後派の作家たちはいま/若手作家についての雑感/吉本ばななは五十五点 第三章 政治の現在と批評 政治批評のあり方が問題/政治評論と一般大衆/政治的構想力が・・・・・・/柄谷行人 の場所/全共闘運動とその後/大嘗祭について/土井たか子の象徴するもの/米の自由化 について/本当の農業問題はどこか/保守すべきもの 注記等 『初出誌 「すばる」1986年11月号・12月号に本書の一部が掲載されました。』(巻末注記)
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 源実朝 叢書名 ちくま文庫 出版社 筑摩書房 出版地 東京 区分 詩人論 キーワード 源実朝 見出し・語録 I 実朝的なもの II 制度としての実朝 III 頼家という鏡 IV 祭祀の長者 V 実朝の不可解さ VI 実朝伝説 VII 実朝における古歌 VIII 〈古今的〉なもの IX 『古今集』以後 X 〈新古今的〉なもの XI 〈事実〉の思想 実朝における古歌 補遺 実朝年譜 参考文献 実朝和歌索引 文庫版によせて 注記等 『この作品は1971年8月28日、筑摩書房より「日本詩人選」12として刊行されたも のに、「実朝論補遺」(『吉本隆明全著作集(続)6』所収)を「実朝における古歌 補 遺」と改題してつけ加えた。』
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 ハイ・イメージ論 II 出版社 福武書店 出版地 東京 区分 ハイ・イメージ論 キーワード ハイ・イメージ 見出し・語録 拡張論 幾何論 自然論 分散論 パラ・イメージ論 段階論 普遍喩論 視線論 表音転移論 あとがき 「現在では、社会からあたえられる主題も、批評として内から発生してくる主題も、だん だんとひとつの言ってもいい輪郭を、おぼろげにあらわしてきている。それをひとくちに 要約してしまえば、どんな緊急で突発的にみえる主題も、永続的な根本的な主題のすがた をはらんでいるかとおもうと、どんな永続的な悠久の貌をした主題も、かならず緊急で、 突発的なすがたをはらんであらわれるということだ。」 注記等 「海燕」掲載年月号 拡張論      1987年6〜10月号 幾何論      1987年12〜88年2月号 自然論      1988年3〜5月号 分散論      1988年6〜7月号 パラ・イメージ論  1988年8月号 段階論      1988年9月号 普遍喩論     1988年10月号 視線論      1988年11月号 表音転移論    1988年12〜89年3月号
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 ハイ・エディプス論:個体幻想のゆくえ 出版社 言叢社 出版地 東京 区分 インタビュー 見出し・語録 「ほんとうのこと」の起源:第1日・胎児期1 生まれたことの意味/人間の「生」と「食」のあり方、転換について/女性の「養う」経 験について/飢餓感の根源は〈母との物語〉のなかにある/人間はなぜ家族をつくるのか /家族制度と出産に関するバロウズの言葉をめぐって/家族の公共的管理および福祉の理 念について/事物の現実感の起源と乳胎児期/視触覚的な受容と了解について/「ほんと うのことをいったら世界が凍る」とは/「ほんとうのこと」の追及が払底される場所/自 分が悪であるより少し余計に悪ぶる/親鸞とシモーヌ・ヴェイユの思惟 〈母〉との物語:第2日・胎児期2 胎児期の第一義的重要性と女性への負荷について/胎外で子どもを産むことをめぐって/ フーコーの個体生命論について/睡眠・夢・労働の生物史的意味/人間的な規模の善悪や生 死がみえるところ/〈大衆の原像〉と〈社会の死〉/〈個人の死〉と〈社会の死〉/乳胎 児期での〈母との物語〉と出生・出自について 視線の病理:第3日・乳児期 乳児期の断絶性・連続性をめぐって――ラカンとドルト/反映論的な心の層と構造的な心 の層/思春期――第二の胎児から乳児への転換/パラノイア論――フロイトとラカン/ 「視線」の過剰あるいは過少、「視線」の根源/ベイトソン――乳児の「高原状態」につ いて/二分割される心の層は性しかない 倫理の起源:第4日・幼児期・学童期 「軒遊び」と「外遊び」/「学校」と「遊び」の同一化/最初の記憶の意味/ふたたび 「遊び」について/悪の意識の起源/学童期というのは 権力・重力から〈無効の生〉へ:第5日・思春期・成人期以後 近親憎悪と友情/「育ちが悪い」という感情/純粋な友情、葛藤としての友情/学校の起 源と秘密結社/「種族の母」観念の起源/〈党派性〉と〈無効性の観念〉/思春期と成人 期以後の精神の病/〈権力〉と〈重力〉/精神だけの領域での死/「安楽」の伝統をめ ぐって 個体と社会の臨界:第6日・まとめ 「現在を止揚する視座」と「死からの視線」/現代ファシズムと一般大衆の理念/「普遍 化された理念」としての神/実体化されない死の場所について/親にだんだん似てくるの は/まったく新しい精神の形態への臨界/人間はなんのために生きるのか あとがき 島 亨 注記等 インタビュアー 島 亨
刊行形態 Book 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 島尾敏雄 叢書名 筑摩叢書 出版社 筑摩書房 出版地 東京 区分 作家論 キーワード 島尾敏雄 見出し・語録 I 作家論 〈原像〉 〈戦争〉 〈家族〉 〈日常〉 II書評・作品論・肖像・その他のエッセイ 『夢の中での日常』と『書かれざる一章』 恥について 『日を繋けて』 『琉球孤の視点から』 〈関係〉としてみえる文学 島尾敏雄―遠近法 聖と俗―焼くや藻塩の 『死の棘』の場合 島尾敏雄の光と翳 挫折の宿命を芸術に 哀しい不朽 島尾敏雄の世界 III 対談 島尾文学の鍵   島尾敏雄・吉本隆明 傍系について   島尾敏雄・吉本隆明 鬼伝承      島尾敏雄・吉本隆明 平和の中の主戦場 島尾敏雄・吉本隆明 年譜 あとがき 初出一覧 注記等 〈原像〉(原題「島尾敏雄の原像」)  『われらの文学8 島尾敏雄』講談社、1967年 4月15日 〈戦争〉(原題「島尾敏雄の世界――戦争小説論」)  「群像」1968年2月号(『詩的 乾坤』国文社、1974年9月10日、所収) 〈家族〉  『吉本隆明全著作集9』勁草書房、1975年12月25日 〈日常〉(原題「島尾文学の源流」)  「國文学 解釈と教材の研究」1978年10月号 『夢の中での日常』と『書かれざる一章』(原題「島尾敏雄『夢の中での日常』井上光晴 『書かれざる一章』」)  「近代文学」1956年12月号 恥について  『島尾敏雄作品集1』月報1、晶文社、1961年7月20日 『日を繋けて』(原題「崩壊しつつある“世界”――島尾敏雄『日を繋けて』)  「群 像」1968年9月号 『琉球弧の視点から』(原題「南方に対する特異な熱気――島尾敏雄『琉球弧の視点か ら』)  「群像」1969年4月号 〈関係〉としてみえる文学  『現代日本文学大系90』月報75、筑摩書房、1972年10月5日 島尾敏雄―遠近法  「UR」第三号 1973年9月10日 聖と俗  「海」1974年11月号 *『死の棘』の場合  「カイエ」臨時増刊号 1978年12月15日(『初源への言葉』青土 社、1979年12月28日、所収) *島尾敏雄の光と翳  「島尾敏雄全集内容見本」1980年4月 *挫折の宿命を芸術に  共同 信配信 1986年11月13日 *哀しい不朽  「南日本新聞」1987年11月11日 *島尾敏雄の世界  島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』講談社文芸文庫、1988年8月10日 島尾文学の鍵  吉本隆明対談集『どこに思想の根拠をおくか』筑摩書房、1972年5月25日 傍系について  「海」1970年5月号(同上、所収) *鬼伝承(原題「天翔ける言葉――対談・鬼伝承」)  「野性時代」1976年3月号(吉本隆明対談集『素人の時代』角川書店、1983年5月10日、所収) *平和の中の主戦場  「波」1977年10月号(島尾敏雄対談集『平和の中の主戦場』冬樹社、1979年7月25日、所収) 「本書は、1975年12月25日に勁草書房から刊行された『吉本隆明全著作集9 作家論 III』に、*印のものを増補し、 再編集したものです。今回あらためて著者の手直しが入りました。」(巻末注記)
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 古井由吉『仮往生伝試文』(新・書物の解体学〔37〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 1 掲載頁 372〜373 掲載年月日 1990.1 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 荒俣 宏 刊行年月 1990 標題 恋愛小説の新しい効用(特集・ラヴ・ロマンスの魅惑) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 2 掲載頁 130〜140 掲載年月日 1990.2 区分 対談
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 西郷信綱『古事記注釈』全4巻(新・書物の解体学〔38〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 2 掲載頁 276〜277 掲載年月日 1990.2 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 前田英樹編・訳・著『沈黙するソシュール』(新・書物の解体学〔39〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 3 掲載頁 316〜317 掲載年月日 1990.3 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 高田爾郎訳『トロツキー自伝』(1・2)(新・書物の解体学〔40〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 4 掲載頁 420〜421 掲載年月日 1990.4 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 ユルゲン・ハーバマス/三島憲一他訳『近代の哲学的ディスクルス』1・2(新・書物の解体学〔41〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 5 掲載頁 420〜421 掲載年月日 1990.5 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 ジャック・デリダ/飯吉光夫・小林康夫訳『シボレート―パウル・ツェランのために』(新・書物の解体学〔42〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 6 掲載頁 382〜383 掲載年月日 1990.6 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 H・S・サリヴァン/中井久夫・宮崎隆吉・高木敬三・鑪幹八郎共訳『精神医学は対人関係論である』(新・書物の解体学〔43〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 7 掲載頁 380〜381 掲載年月日 1990.7 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 盛田隆二『ストリート・チルドレン』(新・書物の解体学〔44〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 8 掲載頁 268〜269 掲載年月日 1990.8 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 藤田博史『精神病の構造―シニフィアンの精神病理学』(新・書物の解体学〔45〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 9 掲載頁 312〜313 掲載年月日 1990.9 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 家庭総合研究会編『昭和家庭史年表』(新・書物の解体学〔46〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 10 掲載頁 452〜453 掲載年月日 1990.10 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 水村美苗「続明暗」(新・書物の解体学〔47〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 11 掲載頁 438〜439 掲載年月日 1990.11 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 飯島洋一『光のドラマトゥルギ―20世紀の建築』(新・書物の解体学〔48〕) 掲載誌(紙・書)名 マリ・クレール 巻 9 号 12 掲載頁 408〜409 掲載年月日 1990.12 区分 書評
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 情況への発言:さまざまな応答 掲載誌(紙・書)名 試行 号 69 掲載頁 1-16 掲載年月日 1990.3.30 区分 状況論 キーワード 三浦つとむ/内村剛介/小山俊一/天安門事件/社会主義諸国 見出し・語録 「おれの見方を大胆に率っ直に簡単にいえば、ロシア政治革命以後、70〜80年間に わたって社会主義『国』と資本主義『国』とは、労働者と一般民衆の解放の平和戦争を、政治制度 、経済生活、文化の自由度すべてにわたってやった結果、紆余曲折はあったが、資本主義『国』が とくに後半で勝利を得た。そして敗れた社会主義『国』は、現在、敗戦処理に大わらわになってい るということだと思う。」
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 心的現象論――了解論―― 掲載誌(紙・書)名 試行 号 69 掲載頁 149-159 掲載年月日 1990.3.30 区分 幻想論 キーワード 心的現象 見出し・語録 100 了解以前(6) 101 了解以前(7)
刊行形態 Generic 著者 吉本隆明 刊行年月 1990 標題 まれな批評的存在 出版社 小沢書店 出版地 東京 区分 推薦文 見出し・語録 「磯田光一は、学問の研究者だけがもつ理路の緻密さと中正と、現場の批評家だけがもつ臨場感性と を、文体のなかに融和させたまれな批評的存在だった。かれを中道で失ったとき現在の文学の世界は、 すみずみまでゆき届いた理解の魔力を失ったのだといっていい。けばだたない孤独で、他者に甘える ことをいつも抑制していた端正な魂を宿した、あの病気がちな痩身をおもいうかべると、いつもかれ の批評的な業蹟の天からふりそそいでくる柔らかさと温もりを感じた。」 注記等 『磯田光一著作集』小沢書店、1990年の内容見本に掲載。
刊行形態 Magazine Article 著者 吉本隆明 著者 後藤正治(文) 刊行年月 1990 標題 現代の肖像:吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 AERA:アエラ 巻 13 号 16 掲載頁 54-58 掲載年月日 1990.4.10 区分 取材記事 キーワード 髪型/資質/老い/死/超老齢化社会 見出し・語録  東京の下町にあるごくありふれた理容店の四十年来の客。伏し目がちに、とつとつと話す。 ときにべらんめえ口調が交じる。論敵を矯激なる筆法で論破する強面の人というイメージとは 違っている。論理の背後にある詩的情念。思索のうねりはとどまらない。  老いのなかで一層解き放たれる。吉本隆明 子供のころは強情っぱり。論理の勝った男だとは自分じゃ思ってないですが/顔から火の出る 質問に答え方がすごく丁寧だった。一個の人間を馬鹿にしない/見当のつかない問題が高度消 費社会のなかでせりあがっている 注記 冒頭に吉本氏の自筆署名 写真 八重樫信之
「吉本隆明1990年著作リスト」/kyoshi@tym.fitweb.or.jp 2002.11.1 改訂:2010.04.28