吉本隆明追悼記事(文・特集)一覧/書誌


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日付順掲載誌(紙・書)名/タイトル一覧

[*印は現物未確認のため「追悼記事(文)書誌」未収録]
  1. 120316 毎日新聞[東京夕刊] 吉本隆明氏死去
  2. 120316 毎日新聞[東京夕刊] 大衆に寄り添った巨星:吉本さん死去
  3. 120316 毎日新聞[東京夕刊] 吉本隆明さん死去:哲学者・梅原猛さん、内田樹・神戸女学院大 名誉教授らの話
  4. 120316 東京新聞[夕刊] 吉本隆明さん死去 詩、評論「戦後思想の巨人」 87歳
  5. 120316 東京新聞[夕刊] 吉本隆明さん死去 「在野の評論家」貫く
  6. 120316 中日新聞[夕刊] 吉本隆明さん死去:社会へ果敢に発言;在野の評論家貫く
  7. 120316 朝日新聞[東京夕刊] 吉本隆明さん死去:戦後思想に多大な影響 87歳
  8. 120316 朝日新聞[東京夕刊] 市井に生きた知の巨人:下町から世界論じる;吉本隆明さん
  9. 120316 読売新聞[東京夕刊] 吉本隆明さん死去:87歳 戦後思想家に似影響
  10. 120316 読売新聞[東京夕刊] 時代へ先鋭的発言:吉本隆明さん死去
  11. 120316 読売新聞[大阪夕刊] 吉本隆明さん死去:「共同幻想論」戦後の思想界担う 87歳
  12. 120316 読売新聞[大阪夕刊] 世論にこびない批評精神 島田雅彦さん/こういう人もう出てこ ぬ 加藤典洋さん
  13. 120316 The iZa オウム、サブカル…時代論じた「思想の巨人」吉本隆明さん死去
  14. 120316 The iZa 吉本隆明さん死去 大衆とともに歩んだ「知のカリスマ」
  15. 120316 47News[共同通信] 【吉本隆明氏死去】 戦後思想に圧倒的な影響 時代と格闘した カリスマ 若者を引きつけた吉本思想(石森洋・共同通信元文化部長)
  16. *120316 [共同通信インタビュー] 何があろうと一人で立つ――時代が呼んだ奇蹟の思想家 (芹沢俊介)
  17. 120316 J-CASTニュース 「知の巨人」吉本隆明さん死去 糸井重里、猪苗代湖ズら追悼コメン ト続々
  18. 120316 日本経済新聞[東京夕刊] 吉本隆明氏 死去:87歳
  19. 120316 京都新聞[夕刊] 吉本隆明氏 死去:87歳
  20. 120316 京都新聞[夕刊] 吉本さん死去:全共闘世代のカリスマ
  21. 120316 zakzak 吉本隆明氏が死去…戦後思想に影響力
  22. 120316 ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン[吉本さん。こういう日がくることは、ずっとわか っていました。]
  23. 120316 読書倶楽部通信ブログ版[松本孝幸] 吉本隆明さんの死
  24. 120316 Newsweek日本版 追悼、吉本隆明氏を送る(冷泉彰彦)
  25. 120316 極東ブログ 吉本隆明が亡くなった
  26. 120316 渋谷陽一の「社長はつらいよ」 吉本隆明さん、亡くなる
  27. 120316 カラマーゾフ 吉本隆明さんを悼む 「廃人の歌」という奇跡
  28. 120316 西谷修―Global Studies Laboratory 吉本隆明氏の逝去に合掌
  29. 120317 毎日JP 社説:視点・吉本さん死去 高みに立たない思想=論説委員・重里徹也
  30. 120317 読売新聞 「最高のお父さん」吉本隆明さん死去 ツイッターで心境つづる:次女のばな なさん
  31. 120317 ホスピタリティの場所【山本哲士公式ブログ】hospitality/place/capital 吉本隆明さん への感謝:追悼
  32. 120317 朝日新聞 天声人語
  33. 120317 朝日新聞 終生発信 貫いた庶民の姿勢
  34. 120317 読売新聞 編集手帖
  35. 120317 読売新聞 吉本隆明さん死去:「批評の時代を築く」
  36. 120317 読売新聞 時代へ先鋭的発言:吉本隆明さん死去
  37. 120317 日本経済新聞 吉本隆明さんを悼む
  38. 120317 The Japan Times Literary critic Yosimoto dies at 87
  39. 120317 読売新聞 吉本隆明さんと日本(三浦雅士・内田 樹)
  40. 120317 日刊スポーツ 吉本隆明さん死去:「戦後思想の巨人」87歳 肺炎
  41. 120317 スポーツ報知 吉本隆明さん死去
  42. 120317 京都精華大学 吉本隆明氏のご逝去をお悔やみ申し上げます
  43. 120317 高知新聞 吉本隆明さん最晩年まで世論に一石:原発放棄文明発展に逆行
  44. 120317 豊田企画制作舍 谷中銀座の吉本隆明さん:徒然にスロー32(豊田素行)
  45. 120317 芦田の毎日 追悼・吉本隆明
  46. 120317 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 吉本隆明さん、ありがとうございました。(めい)
  47. 120317/18 世川行介放浪日記 吉本隆明の死 (1)〜(2)
  48. 120318 朝日新聞 思想の「後ろ姿」見せてくれた:追悼・吉本隆明さん
  49. 120318 The iZa 追悼・吉本隆明さん 科学と詩人の魂が結合(はしづめ だいさぶろう=東京 工業大学教授・社会学)
  50. 120318 book.asahi.com 吉本隆明の経済学 中沢新一さんが選ぶ本
  51. 120318 ちきゅう座 吉本隆明さんを悼む(三上 治)
  52. 120318 革命思想家 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の死 に 際して(副島隆彦)
  53. 120319 奈良県立図書情報館[http://eventinformation.blog116.fc2.com/blog-entry-769.html]  図書展示 「追悼 吉本隆明氏」 平成24年3月17日(土)〜4月1日(日) 
  54. 120319 毎日新聞[夕刊] 吉本隆明さんの死に際して:「誤り」「遅れ」から戦後思想築く(加 藤典洋)
  55. 120319 毎日新聞[夕刊] 吉本隆明さんを悼む(中沢新一)
  56. 120321 毎日新聞 吉本隆明さんを悼む(北川 透)
  57. 120321 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ <追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になった(めい)
  58. *120322 東京新聞 日常営む大衆の一人――私と吉本隆明さん(芹沢俊介)
  59. *120322 時事通信 現代の親鸞――大衆の救い、一人で考える(芹沢俊介)
  60. 120324 『初期ノート』解説 言い慣らされてゐる言葉のやうに僕もやはり有りふれた言葉をつげよう。再び出遇はない星に対しては〈アデユ〉を、また遇ふべき星に対しては〈ルヴアル〉を用ひて。(エリアンの感想の断片) (依田圭一郎)
  61. 120325 毎日jp 今週の本棚・この人この3冊:吉本隆明=渡辺保・選
  62. 120325 月刊未来まんが研究所 時評 吉本隆明私論(大塚英志)
  63. 120325 日本経済新聞 詩人・歌人に喪失感:吉本隆明氏の追悼相次ぐ;本の小径(宮川匡司)
  64. 120325 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ <追悼・吉本隆明さん(2)> 「苦しいときに、吾妻連峰の山肌をおもいうかべた」(めい)
  65. 120326 Newsポストセブン 吉本隆明氏 麻原擁護発言時に産経新聞に抗議電話殺到した(週刊ポ スト2012年4月6日号)
  66. 120327  京都新聞 徹底した単独者のすごみ:吉本隆明がいた1(中島岳志)[4/6「高知新聞」 掲載時のタイトル:徹底した「自立」のすごみ]
  67. 120327  空瓶通信19 吉本隆明の死(近藤洋太)
  68. 120328 京都新聞 不思議で幸せで怖かった:吉本隆明がいた2(大塚英志)[4/7「高知新聞」 掲載時のタイトル:大衆から学ぶ“知の巨人”]
  69. 120328 毎日新聞 引用句辞典 不朽版 鹿島茂 吉本隆明さん 大思想家を規定した人生最大の 事件
  70. 120328 Newsポストセブン 吉本隆明氏 「バカなことさせる番組はいい」と電波少年出演(週 刊ポスト2012年4月6日号)
  71. 120328 Newsポストセブン 吉本隆明氏撮り続けた写真家「実篤も岡本太郎も撮ったが…」(週 刊ポスト2012年4月6日号)
  72. 120329 京都新聞 眼前を疾駆するような迫力:吉本隆明がいた3(三浦雅士)[4/9「高知新聞」 掲載時のタイトル:眼前疾駆するような迫力]
  73. 120329 週刊新潮 「吉本隆明」の遺言「反原発」で猿になる! 
  74. 120329 週刊新潮 吉本隆明 吉本隆明が「都はるみ」を歌った「在りし日」
  75. 120329 週刊文春 吉本隆明 娘のために作り続けたお弁当
  76. 120329 Yahoo!ニュース - 雑誌 田原総一郎 「吉本隆明さんは麻原彰晃を認めると言った」
  77. 120330 京都新聞 “存在”からの直接的発語:吉本隆明がいた4(瀬尾育生)[4/10「高知新 聞」掲載時のタイトル:生きることが倫理]
  78. 120330 しんぶん赤旗 大手紙讃美の吉本隆明の実像(三浦健治)
  79. 120330 Newsポストセブン 吉本隆明氏 岸田秀氏に「私の理論、そのうちわかるだろう」
  80. 120330 週刊金曜日 思想界の巨人の頭脳を借りて親鸞の言葉と思想を辿る:『吉本隆明が語る 親鸞』(坂本慎平)
  81. 120330 週刊金曜日 吉本隆明氏はアニキだった(北村 肇)
  82. *120330 週刊朝日(P.134) <思想界の巨人>吉本隆明逝く。少年のような「おとうちゃん」
  83. 120331 図書新聞 戦後の呼んだ奇跡(芹沢俊介)
  84. 120331 BANANA YOSHIMOTO OFFICIAL SITE 人生のこつあれこれ 2012年3月[今月の 事件と言えばひとことにつきる。「父親が死んだ」]
  85. 120331 雑誌 VAV(ばぶ) 吉本隆明氏、逝く
  86. 120401 Newsポストセブン 呉智英氏 吉本隆明の「大衆の原像」の理解に一週間かかった(週 刊ポスト2012年4月6日号)
  87. 120401 詩編第57号 浮海啓個人詩誌 さようなら 吉本隆明さん(浮海 啓)
  88. 120401 チヨダ・サケ・デザインニング前川事務所 追悼 吉本隆明
  89. *120401 Fonte No.335[全国不登校新聞社] 論説「吉本隆明の遺したもの」(高岡健)
  90. 120401 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ <追悼・吉本隆明さん(3)> 宮沢賢治と<大衆の原像>(めい)
  91. 120402 AERA(P.9) 内田樹の大市民講座:吉本隆明は、ただ一人だった(内田 樹)
  92. 120402 本の話WEB 吉本隆明は最期まで精力的な言論活動を続けた(連載 文春写真館 あのと き、この一枚)
  93. 120402 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ <追悼・吉本隆明さん(4)> 「どうみても、20世紀、世界で最大、最高の思想家である」(めい)
  94. *120403 SPA! (P.132) これでいい/最後に反原発を批判して逝った<裏知識人>、吉本隆明のこと
  95. 120404 毎日新聞[東京夕刊] ことばの周辺:吉本隆明さんの孤独 原点にあった「喪失」体験
  96. 120404 madameFIGARO.jp 吉本隆明さんのこと。:『十五歳の寺子屋 ひとり』に寄せて。(Harumi TAki)
  97. 120405 週刊文春 夜更けのなわとび:だけど私は(林 真理子)
  98. 120405 週刊文春 吉本隆明さんの死去:本音を申せば(小林信彦)
  99. 120406 週刊朝日(P.125) お代は見てのお帰りに:家族を維持するのは国を治めるほど難しい (小倉千加子)
  100. 120406 週刊読書人 大塚英志・宮台真司対談 「追悼 吉本隆明」
  101. 120406 くまにち.コム 新生面
  102. 120407 新潮 5月号 追悼 吉本隆明
  103. 120407 群像 5月号 〈追悼〉吉本隆明
  104. 120407 文學界 5月号 追悼 吉本隆明
  105. 120407 創 5/6月合併号 思想家・吉本隆明さんがいなくなった切なさ(大塚英志)
  106. *120408 サンデー毎日(P.56) 満月雑記帳:吉本隆明の著作を「学究の徒」のごとく読んでい た日々(中野 翠)
  107. 120408 日本経済新聞(P.23) 党派退けた『自立』の思想:危機と日本人(山折哲雄)
  108. 120408 各駅列車 やっぱり!そうか 【吉本隆明】 (今気になる 吉本隆明 の動画です!!)
  109. 120408 朝日新聞[朝刊] 朝日歌壇(桑内繭、吉竹純、三井一夫、加藤宙、武藤敏子)
  110. 120408 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ <追悼・吉本隆明さん(5) 「ほんたうのほんたう」の到達点(めい)
  111. 120409 毎日新聞[東京夕刊] 座談会:吉本隆明氏の思想を語る 橋爪大三郎、松浦寿輝、 田中和生/上
  112. 120409 通信文化新報 “戦後最大の思想家”吉本隆明逝く:春秋一話(乾坤)
  113. 120410 毎日新聞[東京夕刊] 座談会:吉本隆明氏の思想を語る 橋爪大三郎、松浦寿輝、 田中和生/下
  114. 120410 中央公論 橋爪大三郎「追悼・吉本隆明 マルクスvs.吉本隆明」
  115. *120410 フラッシュ(P.89) 俗流ニッポン伝:5分でわかる、吉本隆明はここがすごかった!
  116. 120410 文藝春秋(P.516) 蓋棺録:文芸評論家・詩人・吉本隆明、歌舞伎役者・中村雀右衛門
  117. 120412 MSN産経ニュース 全共闘世代の「教祖」吉本隆明 「大衆の時代」を先導
  118. 120412 朝日新聞デジタル 〈甲乙閑話〉吉本隆明さんの贈り物(吉村千彰)
  119. 120413 週刊ポスト 読売は朝日に仕返しで「甲子園の猫ひろし」を追求しろっての!:ビート たけしの21世紀毒談
  120. 120413 週刊読書人 大西巨人氏に聞く「吉本隆明君のこと」/植田康夫『週刊読書人』での吉 本隆明氏
  121. 120413 BSフジLIVE プライムニュース 追悼・吉本隆明の思想 芹沢俊介と三浦雅士が 語る吉本の現代的意味(午後8時〜9時55分)
  122. 120414 週刊現代 リレー読書日記(後藤正治)
  123. 120414 図書新聞 追悼特集・吉本隆明“さらば!吉本隆明”
  124. 120415  サンデー毎日(P.36) 時評:五木、佐伯、吉本が書く「幸福論」(岩見隆夫)
  125. *120415 Fonte No.336[全国不登校新聞社] 論説「吉本隆明のひきこもり観」(芹沢俊介)
  126. 120416 熊本日日新聞 骨太の体は船大工の父譲り:「吉本隆明と天草」(石関善治郎)
  127. 120416 山形新聞 吉本隆明が米沢で得たもの(斎藤清一)
  128. 120419 高知新聞 定型の持つ現代的意味:岡井隆の森鴎外論(吉川宏志)
  129. 120420 FACTA online 吉本 隆明(思想者・詩人):青空のような謙虚さ(岡田哲也)
  130. *120420 週刊朝日 (P.206) マガジンの虎:吉本隆明と<大衆>との愛憎(亀和田武)
  131. 120421 毎日新聞 <悼む>思想家・詩人、吉本隆明さん=3月16日死去・87歳(重里徹也)
  132. 120421 毎日新聞[高知] 「大阪」を優しく語った(重里徹也)
  133. 120423 高知新聞 いつだって率直、真剣:吉本隆明さん3月16日死去、87歳:戦後思想に大き な影響を与えた詩人・評論家[5/21「北日本新聞」掲載時のタイトル:自らを偽らぬ剛直な姿]
  134. 120427 日本経済新聞[夕刊] 詩人・思想家吉本隆明さん――今と対峙、市井の巨人:追想録 (宮川匡司)
  135. 120427 ユリイカ(5月号) 追悼吉本隆明(辻井喬/北川透/瀬尾育生/水無田気流)
  136. 120427 現代思想(5月号) 追悼吉本隆明(磯崎新/高橋順一)
  137. 120427 高知新聞 被災地へ『稼ぐ仕組み』:聴流(糸井重里)
  138. 120428 現代詩手帖(5月号) 追悼総頁特集 吉本隆明
  139. 120430 iichiko(No.114) 吉本隆明さんを悼む(山本哲士)
  140. 1205 OAG Notizen(Mai 2012) Nachruf auf Yoshimoto Takaaki (1924-2012) (Prof. Dr. Reinold Ophuls-Kashima)
  141. 120512 日本経済新聞 吉本隆明と向き合う:追悼企画相次ぐ(宮川匡史)
  142. 120514 実話時報(6月号) 特別追悼企画・吉本隆明 思想界の巨人の遺言が指し示す新たな る形:斗え!!「新左翼」
  143. 120515 河出書房新社 さよなら吉本隆明 KAWADE夢ムック
  144. 120515  脈発行所 『Myaku』12号:吉本隆明追悼号
  145. 120520 鬣(2012年5月第43号) 吉本隆明の死:俳句時評(外山一機)
  146. 120521 北日本新聞 自らを偽らぬ剛直な姿:吉本隆明さん;戦後思想に大きな影響を与えた詩 人・評論家[4/23「高知新聞」掲載時のタイトル:いつだって率直、真剣]
  147. 120521 綜合看護(5月号) なんごう つぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講 義(54)(南郷継正)
  148. 120523 吉本隆明についてのメモ([編集長日記]図書出版 花乱社)
  149. 120525 春秋(2012年6月号[No.539]) 特集・追悼 吉本隆明
  150. 120525 「吉本隆明さんを悼む」、『永遠の吉本隆明 増補版』(橋爪大三郎)
  151. 120531 BANANA YOSHIMOTO OFFICIAL SITE 人生のこつあれこれ 2012年5月[まだま だ弱っているが、父の死にまつわる何かを少しだけ超えた気がする。]
  152. 120531 週刊新潮 “月島人”としての吉本隆明:がんの練習帳 連載第152回(中川恵一)
  153. 120601 菅原則生のブログ 吉本隆明さん追悼:浄土からの視線1〜2
  154. 120601 ちくま(2012年6月号) 書と文学の関係をめぐって(石川九楊)
  155. 120601 日本裁判官ネットワーク 追悼 吉本隆明:「共同幻想論」に寄せて(石塚章夫)
  156. 120607 週刊新潮 “月島の先輩”を見習って:がんの練習帳 連載第153回(中川恵一)
  157. 120612 猫びより11(4) 連れてっちゃたよ:ハルノ宵子のシロミ介護日誌 その42(ハルノ宵子)
  158. 120613 現代思想(7月臨時増刊号) 総特集=吉本隆明の思想
  159. 120615  流砂(5号) 特集【追悼】吉本隆明
  160. 120615  やま かわ うみ(vol.5) 吉本隆明へのオマージュ(大日向公男。増子信一)
  161. *120616 表現者(7月号) 吉本隆明 戦後詩の偉大な時代が確かに終りました(正津勉)
  162. 120619  ダ・ヴィンチ[電子ナビ](7月号) 糸井重里、吉本隆明への追悼の思いを語る(糸井重里)
  163. 120620 「まえがき」、「吉本隆明さんのこと」、『「すべてを引き受ける」という思想』(茂木健一郎)
  164. 120625 中央公論新社 吉本隆明の世界:中央公論特別編集
  165. 120625 撃論(5号) 追悼 さようなら吉本隆明先生(板花基)
  166. 120625 短歌(7月号) 吉本隆明さんの「さよなら」(岡井隆)
  167. 120626 産経新聞 詩作「今が盛りと思って」:吉本隆明さんの言葉;和綴じ本で復活
  168. 120628 現代詩手帖(7月号) 吉本隆明に出会うために――吉本隆明追悼特集(2)
  169. 120702 情況(8月別冊) 追悼・吉本隆明
  170. 120710 雲よ―原点と越境―(第7号) 連帯を求めて孤立を恐れず、自立を求めて共同を恐れず (松本輝夫)、最後の吉本隆明(とよだもとゆき)
  171. 120716 LEIDEN―雷電(No.2) 吉本隆明追悼
  172. 120725 「吉本隆明の死」、『宿業の思想を超えて――吉本隆明の親鸞』(芹沢俊介)
  173. 120730 「最後に反原発を批判して逝った“裏知識人”吉本隆明のこと」坪内祐三、福田和也『不謹 慎:酒気帯び時評50選』(扶桑社)
  174. 120802 毎日新聞[夕刊] ことばの周辺:相次ぐ吉本隆明氏追悼特集 文体の独自さと「対幻想」 (大井浩一)
  175. 120830 飢餓陣営(38号) 「追悼総力特集 吉本隆明を新しい時代へ」
  176. 120921 死の吉本隆明さん(菅原則生のブログ)
  177. 120925 吉本隆明の核心を救い上げる小論-平野織著『吉本の思想的態度』(☆句の無限遠点☆)
  178. 121203 週刊現代 「戦後思想の巨人」その根柢にあったもの:年末特別企画「墓碑銘2012また逢う日まで(芹沢俊介)
  179. *121207 角川短歌年鑑 平成25年版 吉野昌夫、吉本隆明両氏を悼む(篠 弘)
  180. 121209 吉本隆明追悼その3 問われ続けた《革命とは何か》(菅原則生のブログ)
  181. 121230 日本経済新聞 床屋からみえた吉本隆明:黙って座っているだけですが(後藤正治)
  182. 130119 図書新聞 吉本隆明にとって「3・11」から死までの一年が最後の時間だった:中上健次歿後二十年;新 連載(1)吉本隆明と中上健次(三上治)
  183. *130121 短歌研究(2月号) 吉本隆明・最後の仕事『詩歌の潮流』(新海あぐり)
  184. 130205 LEIDEN―雷電(No.3) 吉本さんから――(吉本さんへのきれぎれの手紙):吉本隆明追悼(安田 有)
  185. 130219 吉本隆明さんを囲んで[2010年12月21日、上野に住む前川の働きかけでわたしは二十数年ぶりで吉本 さん宅を訪れた。以下に掲出した文章は、そのとき吉本さんを囲んで話し合われたものを文字に起こしたものだ]  (菅原則生のブログ)
  186. 130316 流砂(2013年/第6号) 【追悼特集】吉本隆明その重層的可能性
  187. 130318 高知新聞 吉本隆明さんと高知:所感雑感(松岡祥男)
  188. 130319 MSN産経ニュース 「吉本隆明さん―逝去一年の会」(17日、東京・一ツ橋の如水会館)
  189. 130321 毎日新聞[東京夕刊] 吉本隆明さんをしのぶ会:故人しのび「逝去一年の会」開催 親交のあった約90人が集う
  190. 130427 現代詩手帖(5月号) 特集II「吉本隆明――歿後一年」
  191. 130902 「追悼・吉本隆明―機能主義批判として言語の〈像〉概念」、『努力する人間になってはいけない:学校と仕事と社会の新人論』(芦田宏直)
  192. 131125 游魚(2013年NO.2) 追悼 吉本隆明
  193. 131230 『吉本隆明 孤独な覚醒者』(上村武男)
  194. 140210 脈(2014.2/79号) 琉球弧とオホーツク:吉本隆明先生をしのびつつ(吉田 純)
  195. 140316 『追悼 吉本隆明さん』(東出 隆)
  196. 210522 「吉本隆明さんの思い出」、『世界の凋落を見つめて:クロニクル2011−2020』(四方田犬彦)

追悼記事(文・特集)書誌
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明氏死去 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「共同幻想論」「最後の親鸞」戦後思想界を牽引 87歳 独創的 稀有な存在 共著がある哲学者の梅原猛さんの話 「 1960年代の新左翼運動で教祖的存在と目され、独自の思考に根ざした文化・社会批評で戦後思想 界を牽引(けんいん)した詩人、評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが16日午前2時13分、 肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。87歳。葬儀は近親者のみで行う。喪主は未定。  24年、東京・月島に生まれた。東京工業大電気化学科在学中、動員された富山県魚津市で終戦を迎え た。47年に同大を卒業後、中小工場の技術労働者として労働組合運動により失職を繰り返し、この間、 執筆活動を始めた。  長編詩「固有時との対話」(52年)、詩集「転位のための十篇」(53年)を発表し、54年に「荒 地」詩人賞を受賞。詩壇で活躍する一方、「高村光太郎」(57年)などで文学者の戦争責任を論じた。 転向論をめぐって花田清輝と論争し、注目を集めた。  60年安保闘争に参加し、61年に雑誌「試行」を創刊(97年終刊)。独自に左翼思想を分析・解明 し、「擬制の終焉」(62年)などで旧来の前衛諸党派を批判した。言語論に基づく斬新な思想形成を進 め、「言語にとって美とはなにか」(65年)、「共同幻想論」(68年)、「心的現象論序説」(71 年)などを書いた。外来思想に依拠した文化全般に痛烈な批評を続け、60年代後半の大学紛争では著作 がバイブル視されるなど、60?70年代の青年層に広く影響を及ぼした。  80年代以後は、サブカルチャーを含む文化・社会の変化を多面的に探究。「マス・イメージ論」(8 4年)、「ハイ・イメージ論」(89?94年)など、消費社会に生きる大衆の実相に寄り添う評論を発 表した。「最後の親鸞」(76年)などで宗教を手掛かりに日本人の精神構造を問い、95年のオウム真 理教事件についても積極的に発言した。  「吉本隆明全著作集」「吉本隆明全集撰」があるほか、著書は膨大な数に上る。03年に「夏目漱石を 読む」で小林秀雄賞、「吉本隆明全詩集」で藤村記念歴程賞。09年には宮沢賢治賞を受賞するなど最晩 年まで旺盛な著作の発表を続けた。作家のよしもとばななさんは次女。  1月にかぜをこじらせて入院していた。」 注記等 http://mainichi.jp/select/person/news/20120316k0000e040164000c.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 大衆に寄り添った巨星:吉本さん死去 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 15 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「現在」問い続け:全共闘世代の「教祖」 権威主義に反骨通す 吉本隆明さんの主な著作 「 戦後最大の思想家、吉本隆明さんが亡くなった。晩年まで衰えることなく独自の思考を重ね、筆を執 り、日本と世界の状況に鋭いまなざしを向け続けた。思想界の「巨星」にふさわしい87歳での大往生は、 「戦後」と呼ばれた時代の完全な終わりを告げるものといえる。【大井浩一】  終戦時、20歳だった吉本さんは文字通り青春を戦争の中で送った「戦中派」だ。自分がかつて皇国青 年だったことを、戦後も一貫して公言していた。文学活動は詩作を通じ、生きる意味を徹底して問うとこ ろから始まるが、背景には敗戦に伴う深い喪失感と、一転して民主化を掲げた周囲への違和感があった。  「時代のイデオローグ」と見なされるようになったのは、1960年代の学生運動を通じてだった。6 0年の安保反対闘争では反日共系の全学連主流派と行動をともにした。運動の挫折体験を通じ、「自立」 「単独者」と表現される隔絶した思想的立場を固めた。60年代末の大学紛争では、全共闘の学生たちの 間で「教祖」的な絶大な影響力を持った。  吉本思想の特徴は、日本のアカデミズムにありがちな西欧からの“借り物”の学問と異なる点にある。 そして、常に「現在」の問題を取り上げ続けた。70年代以降、批評の対象は心理学や宗教、古典など幅 広い領域へ拡張を続けたが、民衆の立場に寄り添う「大衆の原像」という思考の立脚点は揺るがなかった。  ソ連・東欧崩壊のはるか前に社会主義体制の行き詰まりを喝破する一方、消費中心への資本主義の変質 にも早くから注目し、先鋭な分析を加えた。豊かな文学性と生活感情からくみ出された批判の情熱と詩的 な論理は、若い世代を含む広範な読者を魅了し続けた。  晩年は糖尿病による視力の衰えに悩まされたが、年に数冊の本を出し続け、思考の健在を示していた。 2011年12月には石川啄木没後100年をめぐる毎日新聞の取材に応じたが、その後、体調を崩した。 12年1月刊行の「吉本隆明が語る親鸞」が事実上の最後の著作となった。  ◇評伝=誠実で穏やか 庶民的な雰囲気  記者が吉本隆明さんに初めて会ったのは1997年。既に70代だったから、晩年と言っていい。以来、 2度の聞き書き連載などで度々話を聞いたが、偉そうなところはまるでなく、不思議なくらい肩の凝らな い人だった。  語尾に「ぜ」や「さ」が付く東京の下町言葉で、話し出すと止まらなかった。誰が相手でも、誠実で穏 やかな熱を帯びた話しぶりは変わらない。初対面の人は決まって「これが、あのヨシモトリュウメイなの か」と驚き、庶民的な雰囲気にひかれた。ある世代の人々にカリスマ的な影響力を持った秘密は人柄にも あったに違いない。  突き放した言い方になるが、世代を超えた「吉本人気」は、意外と自身の提供する話題性にも支えられ ていたのではないか。新進批評家として戦後論壇に登場した最初、当時はインテリ層の間で権威の高かっ た日本共産党や、花田清輝らの論客を相手に、舌鋒(ぜっぽう)鋭く論争を挑んだ。60年安保で学生と ともに行動し、警官隊に追われ飛び込んだ先が首相官邸で、逮捕されたという話も有名だ。  サブカルチャーの分析を通じ消費社会の意味を論じた80年代には、盟友だった作家の埴谷雄高とも論 争した。ブランドファッションを身に着けた吉本さんが女性誌「アンアン」に出たのを、埴谷から「資本 主義擁護」と非難されたが、逆に倫理主義的なインテリの視線そのものに批判を加えた。96年には海水 浴に訪れた伊豆の海岸でおぼれ、辛うじて一命を取り留めるという事故も報じられた。  熱烈に支持する読者の存在から“吉本教”などとも呼ばれたが、本人は組織の束縛を嫌い、あらゆる権 威主義に反骨を通した。安保闘争の敗北後、谷川雁らと同人誌「試行」を刊行し(61?97年。途中か ら吉本さんが単独で編集)、主要な発表の場としたのもその表れだろう。  2011年の原発事故後も「反原発」批判の持論を変えなかった。「大衆の原像」に寄り添い、独自の 道を歩んだ吉本さんの生涯は、独立した知識人の生きざまとして人々の注目を浴び続けるものだった。 【大井浩一】  ◇吉本隆明さんの主な著作◇ 「固有時との対話」(詩集)1952年▽「転位のための十篇」(同)53年▽「マチウ書試論」54年▽ 「文学者の戦争責任」(武井昭夫と共著)56年▽「高村光太郎」57年▽「転向論」58年▽「芸術的 抵抗と挫折」59年▽「擬制の終焉(しゅうえん)」62年▽「丸山眞男論」63年▽「日本のナショナ リズム」64年▽「言語にとって美とはなにか」65年▽「自立の思想的拠点」66年▽「共同幻想論」 68年▽「心的現象論序説」71年▽「書物の解体学」75年▽「最後の親鸞」76年▽「初期歌謡論」 77年▽「戦後詩史論」78年▽「悲劇の解読」79年▽「世界認識の方法」80年▽「空虚としての主 題」82年▽「『反核』異論」82年▽「マス・イメージ論」84年▽「重層的な非決定へ」85年▽ 「記号の森の伝説歌」(詩集)86年▽「宮沢賢治」89年▽「ハイ・イメージ論1・2・3」89、 90、94年▽「母型論」95年▽「アフリカ的段階について」98年▽「日本近代文学の名作」200 1年▽「夏目漱石を読む」02年▽「現代日本の詩歌」03年▽「吉本隆明全詩集」03年▽「詩学叙説」 06年」 注記等 http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120316dde041040014000c.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去:哲学者・梅原猛さん、内田樹・神戸女学院大名誉教授らの話 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 15 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  ◇独創的、稀有な存在ーー共著がある哲学者の梅原猛さんの話  現代日本において、独創的で稀有(けう)な思想家だった。世間の風潮にこびることなく、従来の常識に 冷や水を浴びせ、自分の言葉で語った。だから若者への影響力が強烈だった。「共同幻想論」には、当時み な夢中になった。幅広く活動したが、どんな話題でもどこかで一面を鋭くえぐっていた。中沢新一さんと鼎 談(ていだん)したときには私の「縄文論」を批判し、彼の主張には全面的に賛成はできない部分もある。 だが、彼の論は晩年まで変わらず光っていて、根本的に尊敬している。(ばななさんら)娘の話になると、 いかつい顔が突然、うれしそうな表情になった。  ◇思想的アイドルーー内田樹(たつる)・神戸女学院大名誉教授(フランス現代思想)の話  1960年代後半、吉本さんの著作を読んでいる高校生はまだ少なく、読んでいると分かれば、友達にな れた。初めて買って読んだのが「自立の思想的拠点」。以来、私にとって思想的アイドル。吉本さんの言葉 には身体性があった。貧しさや飢餓といった生活者の実感に基づいた思想だ。最後の戦中派の思想家。吉本 さんが亡くなられたことで戦中派の時代は完膚なきまでに終わった。時代は軽くなっていくでしょう。  ◇「剛腕」な批評方法ーー詩人・作家の松浦寿輝さんの話  小林秀雄が原生林から切り開いた近代的批評というジャンルを、ブルドーザーでならして太い道路につく り上げた人だと思う。批評の方法から言えば、詩人としての詩的な直観と強力な論理とで対象をねじ伏せて しまう剛腕の持ち主だった。攻撃的な論争もたくさんやったが、そういう中にも下町・佃島育ちの柔らかな 少年の感性のような詩心がいつも感じられた。それが私自身を含め、多くの人々を引きつけたのだと感じる。 詩と批評の間を橋渡しした書き手として他に類を見ない存在だった。  ◇偉大な先輩、尊敬ーー吉本さんに特任教授を頼んだ東京工業大の橋爪大三郎教授(社会学)の話  偉大な先輩として憧れ、尊敬し、私がいつも背中を見て仕事をしてきた人物。最大の業績は冷戦後を見す えて、自由主義経済の下で知識人が社会主義を理想とする、日本のねじれた状況を突き崩したことだ。初め て会ったのは1986年。私が「権力は悪いものではないのでは」と言うと、少しイヤな顔をされたが、い つも気さくで優しいおじさんといった感じだった。 注記等 http://mainichi.jp/enta/art/news/20120316dde041040040000c.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去 詩、評論「戦後思想の巨人」 87歳 掲載誌(紙・書)名 東京新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  戦後文学、思想に大きな影響を与え、「共同幻想論」などの著書で知られる評論家で詩人の吉本隆明(よ しもと・たかあき)さんが十六日午前二時十三分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。八十七歳。東京 都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は未定。   今年一月に肺炎で入院し、闘病を続けていた。長女は漫画家ハルノ宵子(よいこ)さん、次女は作家よし もとばななさん。東日本大震災後も、科学技術と原発をめぐり発言していた。  一九四七年東京工大卒業後、詩誌「荒地」同人として詩作、詩論活動の傍ら、文学者の戦争責任や転向の 思想的意味を問う旺盛な評論活動を展開。評論家花田清輝氏らとの論争を通して、戦後民主主義やマルクス 主義の枠にとどまらない新たな領域を模索した。一九六〇年の安保闘争では当時の全学連主流派とともに国 会突入を果たすなど、若者たちの理論的な支柱となった。  詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。七〇年代にかけて全共 闘世代の圧倒的な支持を受け「戦後思想の巨人」とも呼ばれた。  八〇年代以降は、音楽や漫画、ファッションなどサブカルチャー全般にも考察を広げ、「マス・イメージ 論」「ハイ・イメージ論」などの著書で、時代の変化を取り込んだ思索を重ねた。一方で八二年には文学者 の反核運動を批判する「『反核』異論」を発表、埴谷雄高氏とも論争した。他の著書に「戦後詩史論」「最 後の親鸞」「宮沢賢治」「アフリカ的段階について」など。  一九九六年八月、静岡県の海岸で遊泳中におぼれたが一命をとりとめ、その後も幅広い領域で活動を続け た。二〇〇三年、「吉本隆明全詩集」で歴程賞を受賞。 注記等 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012031602000185.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去 「在野の評論家」貫く 掲載誌(紙・書)名 東京新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 9 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 果敢に発言、論争の達人 注記等 評伝(大日向公男)
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去:社会へ果敢に発言;在野の評論家貫く 掲載誌(紙・書)名 中日新聞[夕刊] 出版地 名古屋 掲載頁 13 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 ばななさん「最高の父」 文明衰弱の中の死去は「運命的」 吉本さんと親交が深かった歌人の岡井隆さんの話 吉本隆明ブーム再検証すべきだ 評論家の呉智英さんの話 注記等 評伝(大日向公男)
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去:戦後思想に多大な影響 87歳 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  戦後日本の思想界に大きな影響を与え、安保反対や全共闘運動に揺れた1960年代に「反逆する若者た ち」のカリスマ的存在だった詩人・評論家の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが、16日午前2時13 分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。87歳だった。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長女多子(さ わこ、漫画家のハルノ宵子)さん。作家よしもとばななさんは次女。  大学に足場を置くことはほとんどなく、在野の立場から国家や言語について根源的に考察する思想家とし て知られた。  東京生まれ。戦時中に米沢高等工業学校(山形県)から東京工業大へ進み、在学中に敗戦を迎えた。卒業 後、働きながら詩作を進め、詩集「転位のための十篇」などを発表。1954年に荒地詩人賞を受けた。労 働運動で会社を追われた経験もある。  戦時中に軍国主義に染まっていた自身の経験をバネに、50年代半ば以降は評論でも頭角を現す。戦争協 力した文化人の責任を追及した「文学者の戦争責任」(共著)、共産党幹部が獄中で思想的転向を拒み続け た姿勢を“転向の一型態”と断じた「転向論」で反響を呼ぶ。  60年安保闘争では、抗議する若者たちを支持。既成の革新勢力を批判する「擬制の終焉(しゅうえん)」 を発表し、丸山真男ら進歩派知識人への批判者として脚光を浴びた。  続けて60年代には「言語にとって美とはなにか」「共同幻想論」で、国家や家族、言語などを原理的に 考察した。欧米からの輸入品ではない思想を自立的に展開。切れ味鋭い言葉で権威に切り込み、68年の全 共闘運動に携わった若者を始め、言論や表現にかかわる人々に強い影響を残した。  大衆消費社会への批判が高まった80年代には、消費資本主義の持つプラスの可能性を提唱。漫画などの サブカルチャーや広告などにも分析の目を向けた。市井の生活者としての「大衆」の意味を問い直し続ける ことで、敗戦から経済成長、成熟へと移り変わった日本社会での、ユニークな問題提起者であり続けた。  近年は、糸井重里氏との対談を含めた新著の発刊や時事的なテーマについての発言は続けていた。今年1 月に肺炎で倒れ、入院していた。(塩倉裕) 注記等 http://www.asahi.com/obituaries/update/0316/TKY201203160011.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 市井に生きた知の巨人:下町から世界論じる;吉本隆明さん 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 17 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 共同幻想・自己表出‥‥独自の用語で築いた思想 思想の原理は不滅 社会学者の見田宗介さんの話 家族に愛された最高の父でした よしもとばななさん 注記等 記事署名 藤生京子
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去:87歳 戦後思想家に似影響 掲載誌(紙・書)名 読売新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  戦後の思想界を代表する評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)さんが、16日午前2時13 分、肺炎のため東京都文京区の日本医大付属病院で亡くなった。87歳だった。  告別式は近親者で行う。喪主は長女で漫画家の多子(さわこ)=ペンネーム・ハルノ宵子=さん。  東京都生まれ。東京工大電気化学科卒。インキ会社などで労働組合活動をしながら執筆。1952年に 私家版詩集「固有時との対話」、翌年には「転位のための十篇」を刊行。54年には「マチウ書試論」で 思想界にもデビュー。大衆とのかかわりを見据えながら思想の自立性を目指し、「文学者の戦争責任」 (共著)や「転向論」で注目された。  60年の安保反対闘争に参加し、従来の左翼思想を批判する「擬制の終焉(しゅうえん)」などで、新左 翼の理論的支柱として教祖的な存在になった。61年には詩人の谷川雁(がん)と思想・文芸同人誌「試行」 を創刊。辛口の同時代評を通し、多くの論争をする一方、「言語にとって美とはなにか」「心的現象論序 説」「共同幻想論」などを発表。言語表現と、社会と個人とのかかわりをめぐる論考もまとめた。  「西行論」「宮沢賢治」などの文学評論から「最後の親鸞」などの宗教論まで、多彩な批評活動を行う 一方、80年代からはテレビCMやファッションなどサブカルチャーにも目を向け、表現論と大衆論を融 合させた「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を発表。96年に海水浴場でおぼれ、体調を崩し てからも、老後の問題など時代への発言を続けた。2003年には「夏目漱石を読む」で小林秀雄賞を受 賞した。今年1月から、風邪をこじらせ入院していた。  作家よしもとばなな氏は次女。 時代の幻想に冷や水 『対話 日本の幻像』などの共著書がある哲学者・梅原猛さんの話 注記等 http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120316-OYT1T00108.htm
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 時代へ先鋭的発言:吉本隆明さん死去 掲載誌(紙・書)名 読売新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 19 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 孤高貫いた生涯/核、宗教 無数の論争 福沢諭吉と並ぶ 文芸批評家・加藤典洋さんの話 詩人としては難解 歌人・岡井隆さんの話 町工場のおやじ 橋爪大三郎・東京工業大教授(社会学)の話 注記等 記事署名 文化部 鵜飼哲夫
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去:「共同幻想論」戦後の思想界担う 87歳 掲載誌(紙・書)名 読売新聞[大阪夕刊] 出版地 大阪 掲載頁 19 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 時代の思想に冷や水 『対話 日本の原像』などの共著書がある哲学者・梅原猛さんの話 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 掲載誌(紙・書)名 読売新聞[大阪夕刊] 出版地 大阪 掲載頁 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 世論にこびない批評精神 島田雅彦さん/こういう人もう出てこぬ 加藤典洋さん 作家・島田雅彦さんの話 文芸評論家・加藤典洋さんさんの話 歌人・岡井隆さんの話 橋爪大三郎・東京工業大教授(社会学)の話 注記等 記事署名 文化部 鵜飼哲夫
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 オウム、サブカル…時代論じた「思想の巨人」吉本隆明さん死去 掲載誌(紙・書)名 The iZa 出版地 東京 掲載頁 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/other/550213/ 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  日本の戦後思想に大きな足跡を残した吉本隆明さんが16日、亡くなった。1960年安保、学園紛争 時代には若者たちの“教祖”と目されたかと思うと、80年代以降はファッション、サブカルチャーまで 論じ、常に時代の若者を引きつけ、多方面に影響を与え続けた「思想の巨人」だった。  既成左翼を批判する理論的指導者として学生の教祖的存在だった吉本さん。昭和43年に出版された 「共同幻想論」は、学生の間でベストセラーとなり、読んでいなければキャンパスの中で肩身の狭い思い をしたほどだった。  高度消費社会を積極的に評価した80年代には、人気女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンのフ ァッションで登場したこともある。しかしその姿勢を批判した、作家の埴谷雄高(はにやゆたか)さんと、 資本主義や消費社会について激しい論争を繰り広げた。  その思想には、「大衆の原像」と呼ばれた吉本さんの理念があった。「大衆の存在様式の原像をたえず 自己の中に繰り込んでいくこと」。常に大衆とともに歩み続けた。  ただ、決して大衆に迎合していたわけではない。オウム真理教事件については、平成7年9月の本紙 「宗教・こころ」欄などで、麻原彰晃被告の存在を「評価する」と発言、大きな反響と議論を呼んだ。 そこには、宗教問題として考えたいという思いがあった。  15年、「夏目漱石を読む」で小林秀雄賞を受けたときは、車いすで授賞式に登場、スピーチでは漱 石論を延々と語り、主催者側がやむなく止めに入ったほど。集中的な思考の力は晩年になっても衰える ことがなかった。  アニメ、マンガに至るまで広く関心をもち、批評を続けた。時代と格闘し、大衆とともに歩んだ知の カリスマだった。                    ◇  ■次女・ばななさんツイート 遺志つぎよい仕事を  吉本隆明さんの次女で作家のよしもとばななさん(47)は16日午前、短文投稿サイト「ツイッタ ー」で吉本さんが亡くなったことに触れ、「私も姉もいちばんそれぞれらしいことをしているときに亡 くなり、父らしいなと思いました。父はいつでもひとりではなかったし、家族に愛されていました」と 心情を吐露。「最高のお父さんでした。私を最後にばななさんと呼んだ遺志をついでよい仕事をします」 と父を悼んだ。                    ◇  ◆名実ともに戦後終わった  「吉本隆明1968」の著書がある鹿島茂・明治大教授の話「貧困を大義名分に『金権ブルジョア』 を攻撃していた1950年代の世界の左翼陣営で、吉本さんはそうした手法が貧者の足の引っ張り合い を招くと厳しく批判した。知識の習得など個人的な努力や工夫で貧しさを抜け出すことを肯定する『自 立』の考えは、後の思想的潮流を圧倒的に先取りしていた。吉本さんがいなければ、日本はまともな国 にならなかった。亡くなられたことで名実ともに戦後が終わった」                    ◇  ◆自前の言葉、希有な思想家  宗教学者の山折哲雄さんの話「一般に言われるような『反体制の思想的リーダー』というレッテルで は捉えきれない思想家だった。日本の思想は戦後、数多く外国に紹介されたが、吉本さんの言葉は独創 的なために翻訳されにくく、同じく翻訳が少なかった柳田国男や折口信夫に通じる。戦後、知識人の思 想や運動と大衆文化の間には常に深い溝があったが、そのギャップを懸命に埋めようとした人だった」 注記等 産經新聞
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん死去 大衆とともに歩んだ「知のカリスマ」 掲載誌(紙・書)名 The iZa 出版地 東京 掲載頁 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/550242/ 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  「思想の巨人」と呼ばれた吉本隆明さんが16日、亡くなった。幅広いジャンルを大衆の側から論評。 大衆に寄り添う姿勢は時代を超え、人々に支持された。  1960年代には既成左翼を批判し、学生の“教祖”とあがめられ、80年代には高度消費社会を評 価。批評の対象は国家から、アニメ、漫画にまで及んだ。  思想の根底には大衆の存在があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこ と」と常に大衆と歩んだが、迎合ではなかった。オウム真理教事件について、麻原彰晃死刑囚の存在を 「評価する」と発言し、世論の批判にさらされたことも。オウム真理教をあくまで宗教問題として考え たいという思いがあった。  平成8年に海でおぼれ、一時重体となった後も、精力的に創作、発言を続けた。昨年の東日本大震災 についても「文芸春秋」の昨年5月号で寄稿を発表。被災者が負った精神的なショックを心配し、目に 見える「経済的な復興」と「精神の治癒と回復」に齟齬(そご)をきたしていないかに注意を払うべき だと主張した。  時代と格闘し、最後まで大衆とともに歩んだ知のカリスマだった。 注記等 産經新聞
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 【吉本隆明氏死去】 戦後思想に圧倒的な影響 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想 掲載誌(紙・書)名 47News[共同通信] 出版地 東京 掲載頁 19 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よし もと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。 87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。 喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子= よいこ)さん。  今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。 次女は作家よしもとばななさん。  1947年東京工大卒。 中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで時代 を捉える骨太の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らがそれま での主張を変えた転向の問題で評論家花田清輝(はなだ・きよてる)氏と論争した。  既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争や全共闘 運動で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁(たにがわ・がん)氏らと雑誌「試行」を刊行し 「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を本質的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序 説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。  80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘 り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運 動の考え方も批判した。  宗教への関心は深く、「マチウ書試論」「最後の親鸞」で信仰の在り方を問い、オウム真理教事件も宗 教の「臨界点」として積極的に論じた。  激烈な言論と謙虚な人柄で、教祖的存在とされるほどの影響力を持った。晩年、藤村記念歴程賞、小林 秀雄賞、宮沢賢治賞を受けた。  96年に遊泳中におぼれて以降、体調を崩し、病に苦しみながら著作を続けた。東日本大震災後も科学 技術の進歩を肯定する立場から原発を容認する発言をしていた。 ◎時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想   16日亡くなった評論家 吉本隆明 さんは、常に時代と真正面から向き合い、格闘を続け、鋭い言論で若 者たちに大きな影響を与えた「カリスマ」だった。  既成の左翼運動を徹底批判して新左翼の理論的支柱になった吉本さん。1968年に刊行した「共同幻 想論」は難解な思想書でありながら、全共闘世代の若者に熱狂的に支持され、同書を抱えて大学のキャン パスを歩くのが流行した。  高度消費社会を積極的に評価した80年代には、女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンの服を着 て登場。その姿勢を批判した作家埴谷雄高さんと資本主義や消費社会をめぐって激しく論争した。  若者を引きつけた吉本思想の根底には、一般の人々の生活を立脚点とする「大衆の原像」と呼ばれる理 念があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこと」。自らも含めた知識人の 思想的課題をこう定めた吉本さんは、60?70年代の新左翼運動でも、消費社会化という時代の転換点で も、常に「大衆」と共にあった。  戦後知識人の転向問題からアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に至るまで、批評の対象は驚くほど多岐 にわたり、文学も思想もサブカルも同列に論じた。残された数々の著作は、一貫して時代と格闘し、「大 衆」と共に歩んだ「知のカリスマ」の足跡でもある。(多比良孝司) ◎大衆の側に立った巨人 言葉発し続けた吉本さん   初めて 吉本隆明 さんのお宅に伺ったときのことを、鮮明に覚えている。雑然と置かれた本に囲まれた 書斎で「戦後最大の思想家」と評された人は、伏し目がちにとつとつと話し、時折はにかんだような笑顔 を見せた。1982年のことだ。  難解な思想、論敵を批判する激しさノ。文章から受ける印象と、あまりに違うので驚いた。こちらの質 問に「僕ならこう考えますけどね」と言ってから、実に丁寧に答えてくれた。徹底して大衆の側に立った その思想同様に、権威的な振る舞いがみじんもなかった。  詩人として出発したが、「大衆の原像」「自立」「共同幻想」などの概念で、社会に異議を唱える若 者を引きつけ、60年安保闘争や全共闘世代のカリスマ的存在と言われた。しかし自らは「人を過剰に 引きつけるのは、文体に問題があるのではないか。いけないところだ」と気にしていた。  評論家としての原点は自らが軍国少年だったことの内省にあった。「敗戦で混迷していたとき、意見 を聞いて、生きる支えにしたかった文学者たちが口を閉ざした。僕は求められればでき得る限り発言し ようと決めた」。言語や共同体への原理的な考察を進める傍ら、その姿勢は亡くなる直前まで変わらな かった。  吉本さんの考えは、時として世の「常識」や「正義」と対立した。反核運動が盛り上がったときは 「誰も反対できない正義」を掲げた運動のうさんくささを批判し、オウム事件では「宗教の問題として 考えるべきだ」とした。  こうした発言は激しい反発も引き起こした。孤立感があったようで「いつも吹きさらしの中に立って いるような気がする」と言っていた。しかし、吉本さんの「異論」がなければ、戦後日本の思想界は随 分味気なかったと思う。   96年の夏、西伊豆の海でおぼれて重体に陥ったことで、吉本さんの晩年はつらいものになった。若 いころから患っていた糖尿病もあり、視力が極端に衰え、足腰も弱った。読むのも歩くのも驚くぐらい 速い人だったから、急に襲った老いに戸惑っていた。「こんなことでは生きていても仕方がない」と弱 気になっていたときもある。それでも晩年まで拡大鏡で活字を追い、精力的に発言を続けた。  若いころ「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる/もたれあうことをきらつた反抗がたおれる」 と詩にした。徒党を組まず、戦後という時代に向き合いながら、幅広い分野に骨太な思想を組み立てた 稀有(けう)な存在だった。だが、その人柄は「知の巨人」といったイメージとは遠い、優しく、一徹 な下町の職人のようだった。(石森洋・共同通信元文化部長) ◎戦後が終わった     「吉本隆明1968」の著書がある鹿島茂・明治大教授の話 貧困を大義名分に「金権ブルジョア」 を攻撃していた1950年代の世界の左翼陣営で、吉本さんはそうした手法が貧者の足の引っ張り合い を招くと厳しく批判した。知識の習得など個人的な努力や工夫で貧しさを抜け出すことを肯定する「自 立」の考えは、後の思想的潮流を圧倒的に先取りしていた。吉本さんがいなければ、日本はまともな国 にならなかった。亡くなられたことで名実ともに戦後が終わった。 吉本隆明氏の主な著作      吉本隆明氏の主な著作は次の通り。  1952年 「固有時との対話」(私家版)  53 「転位のための十篇」(私家版)  57 「高村光太郎」  59 「芸術的抵抗と挫折」  62 「擬制の終焉」  65 「言語にとって美とはなにか」  68 「共同幻想論」  71 「心的現象論序説」  76 「最後の親鸞」  84 「マス・イメージ論」  89 「ハイ・イメージ論」  95 「わが『転向』」  98 「アフリカ的段階について」  2002 「夏目漱石を読む」  03 「吉本隆明全詩集」  08 「貧困と思想」 注記等 http://www.47news.jp/47topics/e/226748.php
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 「知の巨人」吉本隆明さん死去 糸井重里、猪苗代湖ズら追悼コメント続々 掲載誌(紙・書)名 J-CASTニュース 出版地 東京 掲載頁 http://www.j-cast.com/2012/03/16125765.html?p=all 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  戦後を代表する評論家の吉本隆明さんが2012年3月16日、亡くなった。87歳だった。  文学や思想の世界のみならず、幅広く様々な分野に関心を持って発言を続け、長年にわたり戦後世代 に大きな影響を与えた吉本さん。多彩なジャンルの有名人がその死を悼むコメントを発表し、改めてその 存在のすごさを見せ付けた。  「ほぼ日刊イトイ新聞」のトップに  吉本隆明さんの死去は新聞各紙でも大きく報じられた 「みなさん、ありがとうございます。父は最後まですごくがんばりました。父が危篤なことを言えずつら い一か月でした。一時はもちなおしたのですが」  次女で作家のよしもとばななさん(47)は16日、滞在先の香港からツイッターで、吉本さんの最近の 様子をつづった。 「最後に話したとき『三途の川の手前までいったけど、ばななさんがいいタイミングで上からきてくれて、 戻れました』と言ってくれました。もう一度、話したかったです。『としよりは、同じ話ばかりで情けな い』と言うので、そんなことはない、いるだけで嬉しい、と言うと、『そう思えたらいいんですけどね』 と笑いました。最高のお父さんでした」  吉本さんとの共著もある糸井重里さん(63)は運営する「ほぼ日刊イトイ新聞」のトップページに、 写真付きで追悼のメッセージを掲げた。「ぼくは、何年も前から、吉本さんがこの世から亡くなること を、惜しまないようにしようと、じぶんを慣らしていました」という糸井さんだが、 「ただ、ほんとうに帰ってこない日が来るとは、思っていなかったのかもしれませんね。吉本さんのい ない世界に生きていることを、ぼくはさんざん練習してきましたから、平気です。あとは、とても健康 な悲しみばかりです。思っていたのと全然ちがって、ずいぶん悲しいです」 とショックが大きい様子だった。 全共闘世代だけでなく若い世代にも影響  糸井さんのほかにもいわゆる「全共闘世代」では、思想家の内田樹さん(61)が、 「先日も高橋源一郎さんと中沢新一さんと立て続けに吉本さんから僕たちの世代が受けた影響について 話し合ったばかりでした。ご冥福を祈ります」 とつぶやいたのを始め、音楽家の坂本龍一さん(60)、音楽評論家の渋谷陽一さん(60)、漫画評論 家の夏目房之介さん(61)などが相次いでツイッターやブログで追悼のコメントを発した。作家の高橋 源一郎さん(61)はただひと言、「ほんとうにありがとうございました。さようなら」。  若い世代でも、ロックバンド「サンボマスター」「猪苗代湖ズ」の山口隆さん(36)が、 「『マチウ書試論』や鮎川信夫さんとの対談本など、皆さんと同じく読みました。芥川論のドキドキは いまだに覚えています。梅原猛さん、中沢新一さんとの対談本『日本人は思想したか』は学生時代に最 もビリビリきた本のひとつです。吉本さん有り難うございました」 とつぶやき、「サカナクション」の山口一郎さん(31)も吉本さんからの影響の大きさを吐露した。  このほか、吉本さんを「電波少年」に出演させたテレビプロデューサーの土屋敏男さん(55)や、 評論家の中森明夫さん(52)、歌人の俵万智さん(49)といった人々が生前の思い出をツイッターに 投稿している。  新聞各紙でも16日の夕刊で、「戦後思想界に大きな影響」(朝日新聞)を与えた人物として、吉本 さんの死を一面、および社会面のトップで報じた。 その名は「60年代」の別名  吉本さんは1924年、東京の下町生まれ。実家は小さな工場を経営していた。米沢高等工業を経て、 47年、東京工大卒。もともと文学に関心があり、戦後まもなく詩誌「荒地」に参加。勤め先の工場を 組合運動で追われたたあとは、大学の恩師(数学者の遠山啓氏)の紹介で特許事務所に勤めながら思 索・評論活動を続けた。  20歳で敗戦を迎えたことで大きな衝撃を受け、あらゆる「擬制」から「自立」を目指すという姿 にこだわった。とりわけ既成左翼や、関連する大衆運動に手厳しかった。60年代は「擬制の終焉」 (62年)、「言語にとって美とは何か」(65年)、「共同幻想論」(68年)などの問題作を立て続 けに発表し、高橋和巳、埴谷雄高氏らとともに特に全共闘世代に影響力をもった。  「60年代に青春を過ごしたものの多くにとって、その名は時代の別名だろう」と、評論家の三浦 雅士さんは「朝日人物事典」で書いている。  文学、思想のみならず、民俗学、宗教、精神病理学など幅広い領域をカバーし、独自の思考を続 けた点でも際立っており、80年代に入ってからテレビはもちろん、アニメ・マンガなどのサブカル チャーなどについても積極的に論評し、話題になった。 「反原発」は間違いの姿勢変えず  アカデミズムとは距離を置いて在野の立場を貫いたのも特徴で、そうしたスタンスからか、長く 全国紙に寄稿したり、取材を受けたりすることを良しとしなかった。99年に読売新聞が成功したが、 当時、担当の鵜飼哲夫記者は、「これまで全国紙のインタビューは拒否してきた吉本氏に、現在の 思想とその歩みを聞いた」と、わざわざ記している。  コピーライターの糸井重里さんとは親密で、東京糸井重里事務所から「吉本隆明 五十度の講演」 というCD集を出している。これは吉本氏の講演から50回分を選んでCD115枚に収録したもので約1 15時間。「世界一長いオーディオブック」としてギネス世界記録に認定されている。  論争を繰り返したことでも知られ、特に50年代後半の、文芸評論家の花田清輝氏との激しい論争 は「戦後文学史上もっとも重要な論争」とも言われる。  戦争が終わって価値観が根底から崩れた体験から、「世間で通用している考え」を信じることに は常に懐疑的だった。以前から、反核・反原発には批判的だったが、2012年1月5・12号の「週刊新 潮」では2時間のインタビューに応じ、事故後もその立場を変えないと明言、「反原発」は間違い、 と断じていた。 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明氏 死去:87歳 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 15 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 思想家「共同幻想論」 「大衆の原像」知の未踏へ:評伝 道は違えど尊敬 哲学者の梅原猛さんの話 常に自前の言葉 宗教学者の山折哲雄さんの話 注記等 評伝署名 宮川匡司
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明氏 死去:87歳 掲載誌(紙・書)名 京都新聞[夕刊] 出版地 京都 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 評論家 戦後思想の巨人 「自前の言葉、希有」宗教学者の山折哲雄さんの話 「独創的な思想家」 哲学者の梅原猛さんの話 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本さん死去:全共闘世代のカリスマ 掲載誌(紙・書)名 京都新聞[夕刊] 出版地 京都 掲載頁 9 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 徹底した大衆目線 評伝(石森洋・共同通信元文化部長) 「いつも導かれた」橋爪大三郎・東工大教授の話 吉本隆明氏の主な著作 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明氏が死去…戦後思想に影響力 掲載誌(紙・書)名 zakzak 出版地 東京 掲載頁 http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120316/dms1203161226009-n1.htm 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よ しもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去し た。87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は未定。  今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。長女は漫画家、ハルノ宵子さん、次女は作家、よしもとばな なさん。ばななさんはツイッターで「父は最後まですごくがんばりました。父が危篤なことを言えずつら い一ヶ月でした」とコメントした。  1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位 のための十篇」などで時代を捉える骨太の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追 及し、共産党員らがそれまでの主張を変えた転向の問題で評論家、花田清輝氏と論争した。  既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争や全共闘 運動で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美と はなにか」を連載。国家や家族を本質的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を 切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。  80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘 り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運 動の考え方も批判した。宗教への関心は深く、オウム真理教事件も宗教の「臨界点」として積極的に論じ た。  96年に静岡・伊豆で遊泳中におぼれて以降、体調を崩し、病に苦しみながら著作を続けた。東日本大 震災後も科学技術の進歩を肯定する立場から原発を容認する発言をしていた。 ■吉本隆明氏の主な著作  1952年 「固有時との対話」(私家版)  53 「転位のための十篇」(私家版)  57 「高村光太郎」  59 「芸術的抵抗と挫折」  62 「擬制の終焉」  65 「言語にとって美とはなにか」  68 「共同幻想論」  71 「心的現象論序説」  76 「最後の親鸞」  84 「マス・イメージ論」  89 「ハイ・イメージ論I」  95 「わが『転向』」  98 「アフリカ的段階について」  2002 「夏目漱石を読む」  03 「吉本隆明全詩集」  08 「貧困と思想」 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120316 標題 今日のダーリン 掲載誌(紙・書)名 ほぼ日刊イトイ新聞 出版地 東京 掲載頁 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 ・吉本さん。  こういう日がくることは、ずっとわかっていました。  ご本人といっしょに、そういう日のことについて  話したことも、何度かありましたよね。  「町内会で、小さいテントみたいなものを借りて、   簡単にやってもらえたら、それがいちばんいい。   吉本家の墓は、この駅で降りて、   入り口からこうしてこうして行けばわかります。   途中に誰それの墓があるから、   それを目印にすればいいや」  なんて事務的なことを、伝言のように聞いていました。  「死っていうのは、じぶんに属してないんですよ。   じぶんは死んじゃうんで、わからねぇから、   家族とかね、周りが決めるものなんです」  死んでやろうかと思ったときそのことに気付いた、  と、闘病がはじまったころに言ってましたよね。    ぼくは、何年も前から、  吉本さんがこの世から亡くなることを、  惜しまないようにしようと、じぶんを慣らしていました。  だから、お会いするごとに少しずつ少しずつ、  そっちの方に近づいている兆しを見つけても、  わりあいに平気でいたつもりでした。  病院に入られてからのお顔や姿も、  しっかり目では見ていられました。  前回は、意識がなかったように見えました。  見てつらかったけれど、落ち着いていたつもりです。    ただ、ほんとうに帰ってこない日が来るとは、  思っていなかったのかもしれませんね。  吉本さんのいない世界に生きていることを、  ぼくはさんざん練習してきましたから、平気です。  あとは、とても健康な悲しみばかりです。  思っていたのと全然ちがって、ずいぶん悲しいです。  誰かが亡くなったとき、あんまりことばはでません。  こんなふうになにか言うことは、初めてです。  まだ、吉本さんに聴いてもらえてると思って、  ぶつぶつ言ってるのかもしれません。  「ありがとうございました」とか  過去形で言うのはやめておきます。  ぼくがそっちに行ってから、そこでお礼を言います。  でも、中締めっていうのもありますものね。  じゃ、また。 今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 人は変わって変わっていかなきゃいけねぇなぁと思うです。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さんの死 掲載誌(紙・書)名 読書倶楽部通信ブログ版[松本孝幸] 出版地 山口 掲載頁 http://dokutuu.blog106.fc2.com/blog-entry-953.html 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 もう報道などでご存じの方がおられると思いますが、 吉本隆明さんが亡くなられました。 今日は、アップを休んで、吉本さんの死を惜しみたいと思います。 もうご高齢なので、 いつかはこの日が来るとは思っていたのですが、 いざやってくると、 やはり、とてもとても寂しいですね。(T_T) 吉本さんは、ミッシェル・フーコーが亡くなったとき、 「現存する世界最大の思想家の死」だと書かれました。 現在で言えば、吉本さんの死こそが、 「現存する世界最大の思想家の死」だと思います。 フーコーは、西洋の人ですから、 もともと西洋の知的な累積がある所から出てきた人です。 でも吉本さんは、そんなものがほとんどない日本という所から、 アジア(アジア的以前も含む)を内側に包括しながら、 <世界思想>に到達した人です。 時々、インターネットで、吉本さんを小バカにしている学者さんがいますが、 そういう人の論調は、たいてい、 吉本の言っていることは、欧米の思想家より低レベルのものだ、 というものです。 こういう人は、実際には、吉本隆明を「読んで」はいないんですよね。 「わからないんだったら、黙っとけ!」とでも言うほかありません。 西洋の誰かのモノマネではなく、 オリジナルで、自分の言葉で語れ、と吉本さんは、ずっと言っていると思います。 国家、宗教、文化、サブカルチャー、から、個人の生活に至るまで、 吉本さんの言葉は届いています。 もうこれほどの規模を持った思想家は、現われないのではないでしょうか。 今の僕があるのは、大学時代に、 カール・マルクスと、吉本さんの言葉に出会ったからです。 何に一番驚いたかと言うと、 「個と共同の逆立」、という言葉です。 こんな考え方があるのか! とビックリしたのをよく覚えています。 それから、僕の「マンガ表現論」は、 吉本さんの「言語にとって美とは何か」に、全的な影響を受けています。 また、大学から下関市に帰って、 中学校の非常勤をしている頃に、何のあてもなく書いた文章(「二重化しゆくアイドル」)を、 吉本さんの雑誌「試行」に送ったら、 「情況への発言」に掲載していただきました。 ある日「試行」が送られてきて、 何だろうと思って開いてみたら、 僕の書いた文章が載っていて、 ひっくり返るくらい驚きました。 嬉しかったですね。 その日は、枕元に「試行」を置いて寝ました(笑)。 残された僕たちは、頑張るしかないのですが、 吉本さんがいないと思うと、気持ちが萎えます。 とりあえず、今日は、吉本さんの死を悼みたいと思います。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 冷泉彰彦 刊行年月 120316 標題 追悼、吉本隆明氏を送る 掲載誌(紙・書)名 Newsweek日本版 出版地 掲載頁 http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/03/post-412.php 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  87歳という高齢になるまで例えば糸井重里氏との対話など、批評家として時代を見つめていた活力もこ の方らしかったように思いますが、その一方で、静かな亡くなり方にも吉本さんらしさを感じます。エネル ギッシュな言葉の奔流が暖かな余韻を残す一方で、ふっと立ち去るような訃報が不思議にバランスしている ように思うのです。  バランスという意味では、60年近い間、厳しい発言を続けると同時に、言葉への責任感を忘れない方で した。吉本さんの言葉はこれからも日本の「戦後」の記録として古びることはないと思いますが、その説得 力も責任感ゆえだと思います。  古びないということでは、私は吉本さんの再評価というのは必要だと思います。漠然と学生運動や左翼運 動の理論的支柱だったというようなイメージで、冷戦型の対立が消えたのと同じように、吉本さんの思想も 時代遅れになっていったと社会的には思われています。批評家の吉本隆明というより「よしもとばななさん のお父上」という言われ方をすることも多くなりましたが、私は吉本さんの思想は古びてはいないと思うか らです。  吉本さんの思想は一言で言えば、近代という概念を戦前の日本が獲得に失敗したことを前提に、改めて近 代という考え方を紹介しようとした、この一点に尽きると思います。その意味では、吉本さんは一度たりと も「独裁を許すような共産主義者」ではなかったのであり、近代主義者として1950年代から2000年 代まで見事なまでに一貫していたと思います。  例えば、自費出版していた雑誌『試行』に連載されていた「情況への発言」などがいい例ですが、60年 代から70年代にかけての舌鋒は非常に鋭いものでした。論敵を「お前」呼ばわりして「だから駄目なんだ」 という調子で徹底的に叩きのめす文体は、当時の若者は「左翼よりももっと左翼的な人が厳しいことを言っ ている」と思って心酔していたわけです。  そのように「左翼以上に左翼的な」というイメージは、例えば吉本さんの50年代の詩句をもじった「遠く まで行くんだ」という表現に託したりしながら、ロマンチックな「理想主義の果てまで行きたい」という若者 の心情にシンクロして行ったのでした。  その主張ですが、中身としては「文化大革命はスターリンと同じ独裁志向」であるとか「日本赤軍がイスラ エルでテロを起こしたのは、最も不幸な被害者に同伴すれば救われるという誤った思想の悲惨な末路」という ような内容でした。今から考えると、こうした考え方は良い意味での近代主義であるわけです。冷戦が終わっ ても思想として死なないのは当然でした。  宗教や文学への理解も同じです。吉本さんの宗教理解というのは、「信じてしまう」という「一線を越える か越えないかの境界が大事」という話でしたし、文学に関しては「社会主義の普及のためにまず価値観ありき」 である「プロレタリア文学」は「美」ということでは劣るんだという明快な主張でした。これも非常にクリアー な考え方で、宗教論の方は近代の側から前近代に潜む本質を最評価しようという試みですし、文学論は近代主 義そのものだったように思います。  主著と言われる「共同幻想論」は難解だと言われていますが、徒党を組むと徒党から外される人間ができる、 そこに様々な問題が発生するという考えは一言で言えば「近代の個人主義」を裏返して言っていただけです。 個人主義というと「ブルジョワ的な西欧の概念」だとムード的に反発する若者の多い時代に、「共同性」がダ メだから「自立せよ」というメッセージに置き換えていたのです。結果的にシンプルな考え方ゆえに、欧米の 国民国家が陥ったナショナリズムの問題も越えてしまう迫力を持っていたようにも思います。  こうした普遍的な仕事の他に、吉本さんの真骨頂とも言える他の誰にも真似のできない領域が2つあります。 1つは人の行き方の核にあるのは核家族という思想、突き詰めればカップルという関係だという思想です。漱 石論もそうですし、「共同幻想論」「心的現象論」にも一貫していた思想ですが、今、人々の孤立が問題になっ ている時代に、改めて読み返す価値があるように思います。  もう1つは、思想的な「転向」への批判です。周囲の状況が変化したり、自分が成熟することで人間は考え方 を変えることはあります。ですが、そのように変化した事情を自他に説明できない形で突然に保守派が左翼にな ったり、国際主義者が排外主義者になったりするのはダメであり、「思想の一貫性」を全うしなくてはならない というのです。一方で、実社会と隔絶したまま思想だけ維持してもダメという批判も含めているところが吉本さ んらしいと思います。  政権交代によって野党的な人が権力を握ると強権化してみたり、下野した政治家が政権政党の時には決して口 にしなかったような無責任な言動に走ったりする現代、この「思想の一貫性」ということは以前にもまして重要 な問題になっているように思うのです。  これに付随して「大衆の原像」から乖離することで、思想の足元が揺れてしまい転向に至るという知識人の脆 弱性についての指摘も吉本さんの独壇場であり、戦前の一部の共産主義者から90年代の米国のネオコンまで普 遍的な意味を持つ批判として、21世紀の現在でも有効な考え方だと思います。  吉本さんには『追悼私記』という追悼文をまとめた一冊があるぐらいで、妙な表現ですが、オビチュアリの名 手と言えます。中でも文庫版に収められている江藤淳に対する追悼文は、読む者の心の中心を突き刺すような痛 切さを持っています。それはともかく、吉本さん自身の訃報に接して、その『追悼私記』の中の政枝さんという 実の姉への追悼文(1948年)を再読してみました。 「無類に哀切な死を描き得るのは、無類に冷静な心だけである。転倒した悲嘆の心では如何にしても死の切実さ は描き得ない」  で始まる文章は24歳にして、吉本さんの才能と誠実な人柄がよく現れています。思えば、このような「冷静な 心」のあり方そのものを私は吉本さんに教わって育ったように思うのです。「転倒した心」では駄目だというこ ともそこには含まれます。今はただ感謝の念しかありません。 注記等 :コラム&ブログ:プリンストン発 新潮流アメリカ
刊行形態 Blog Article 著者 刊行年月 120316 標題 吉本隆明が亡くなった 掲載誌(紙・書)名 極東ブログ 出版地 掲載頁 http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/03/post-1cb1.html 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  吉本隆明が亡くなった。未明に地震があり、あの震源はどこだったんだろうと思ってテレビの音声を聞いて いるときに、訃報を聞いた。  まあ、お年だからなと思った。糖尿病を抱えヘビースモーカーで87歳というのは大往生の部類ではないか。 彼の死についてはかねて理解している以上のことはないなと思って、ぼうっとしていたら、自然に涙が出て来 た。ツイッターにも吉本の死のことは書くまいと思ったが、堰を切ったように連投してしまった。  僕は吉本さんに個人的に会うことはなかった。知人が吉本さんの本の編集などをしていたので会うこともで きないものでなかったけど、まあいいかと思っていた。自分が若い頃、自暴自棄になって自分の学んだことを すべて放り出したいと思ってプログラマーになって、ヴェイユのひそみもあって工場でファームウエアのアセ ンブラプログラムとかしているとき、吉本さんの本の、宮沢賢治に触れたところで、知識人は知性を罪責と思 い自分を滅ぼしたいと願うものだがそれはダメだ、というようなことが書かれてたのを読み、それではっとし て人生の転機になった。それが救いのようなものだったかどうかは、わからないけど。  大学院にいた頃、教授の指示もあって反核ビラを撒いたことがある。世界から核兵器をなくそう、それがど んなにいいことかと思ったが、奇妙な違和感にぶつかり、それだけが原因ではないが、さまざまな青春の蹉跌 といったものに遭遇した。その中心にある違和感のようなものは、その後、吉本さんの「反核異論」(参照) で心に形を作るようになった。吉本隆明の本を読むようになったのは、20代の後半、80年代半ばだったと思 う。  パソコン通信を通して知り合った全共闘世代のかたから、その時代のことを伺い、そしてその時代に生きて いた吉本隆明の姿も知った。雑誌・試行は新宿の紀伊国屋でも販売しているので毎号買っては読んだ。それか ら、どんどんと吉本隆明に傾倒した。たぶん、団塊世代的な吉本隆明への傾倒の、いちばんしっぽにあるのが 私ではないかと思う。自負とかではぜんぜんなく、時代的な文脈で理解できた最後ということ。  吉本隆明がどういう人だったか。友だちの奥さんをかっさらって、60年代安保闘争で拘置所にぶちこまれ、 70年代には昼寝をしていたという人。戦後、おまえさんはなにをしていたのかと問われたら、二人の娘をせ いっぱい育てていたという以上はないな、と言った人。買い物かごをさげて、近所のスーパーでほうれん草 をかっておひたしにし、味の素をふって醤油をかけるのが旨いという人。そういう人だった。そういう人で あることの意味を問いかける人だった。  吉本隆明が格闘した思想家は、親鸞と夏目漱石を上げることも可能かもしれないが、なによりマルクスで あったと思う。吉本隆明という人は思想的にはコジェーヴにも近いヘーゲリアンで現代でいうなら、フラン シス・フクヤマに近い。だからその根から分かれたフコーを早期に共感から注目もしていた。しかし、なん といっても吉本さんの中心にあるのはマルクスである。千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨 匠とも彼は評した。  吉本隆明が仮に戦後最大の思想家だとしても、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠にか なうものではない。では、その巨匠の生涯というものは何か。吉本隆明は、「市井の片隅に生き死にした人 物の生涯とべつにかわりはない」とした(参照)。 市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、 千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。 市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単 純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろし いことである。  吉本隆明という人はその恐ろしさをずっと表現しつづけた。奥さんの和子さんは、そうした夫を、あなた の背中で悪魔の翼がばたばたと音を立てていると言った。そのとおりだろう。その和子さんがなぜ隆明を選 んだのかというと、あの人は立ち小便をしない人だから、とも言った。同じことかもしれない。  千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠も戦後最大の思想家も市井の片隅に生き死にした人 物と変わるものではない、ということはどういうことなのか。  そこから吉本隆明特有の難解さが始まる。彼の難解さには、東工大出の化学屋さんでニートになって遠山 啓のもとでカントールを学びなおしたような、鳩山由紀夫風理系頭のせいもあるが、思想というものを、そ の人の自立に問い詰める本質的な難解さもある。 人間が知識――それはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為である――を獲 得するにつれてその知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然 の経路である。  彼がカール・マルクスについて述べたその評は、そのまま彼の後の親鸞像に繋がっていく。知識がどこま でも高度化する往相が意味を持つのは、歴史の、無数の市井の片隅に生き死にした人物に帰る還相にある。 余談だが、吉本さんの頭ではこれは化学のイメージで描かれているだろう。  思想家というのは、愚かなものでもある。が、幻想としての価値もあるのではないか。悪魔の翼をばたば たとはためかせて。 そして、これをみとめれば、知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、 記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるもので あると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域 に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないこ とがすぐにわかる。  思想がどのように現実への小道を降るかが思想というものの課題である。ヒッキーが歌う「山は登ったら 降りるものよ」である。吉本隆明は親鸞に触れ、それは人が渾身の生涯をたどれば不可避の一本道として現 れるとした(参照)。ヒッキーなら「自分を認めるカレッジ・私の内なるパッセージ」である。  だが、その道を避けるのが知と呼ばれるものであり、生半可なインテリが夢想する知の擬制であり、市井 への道を閉ざすことで形成された王国であり、知識人ぶって罵倒をコメントしまくる臣民が集う。  吉本隆明は、そうした風景に、柄谷行人や浅田彰、蓮実重彦、中沢新一らを置いた。前三人については、 くずれインテリが崇拝するにふさわしい三馬鹿トリオと言った。それは吉本という食い詰め江戸っ子のユー モアでもあり、蓮実は苦笑しつつも、うっすら畏れた。  吉本隆明の著作は、多少なりともアカデミズムに触れ学んだものには、田舎素人の馬鹿丸出しに見えるも のだ。が、それゆえに馬鹿と呼ぶものは馬鹿なんだということくらい蓮実は賢かったのかもしれない。中沢 はその後、糸井重里の実質的な仲介で吉本派に転向し、吉本自身もそれを受け入れていたが、あれは、老醜 というものだな。  宮台真司が出て来たときは、本当の馬鹿というものが現れたと吉本は言った。反面、福田和也は肯定的に 評価した。いや、その馬鹿度は同じではないかと私はうっすらと思ったが、ネットの社会だといろいろご信 者様の活動も盛んだし、私は吉本さんの芸風を継げるわけでもないので、しだいに口をつぐむことにした。  吉本さんは、80年代、急に知識人化したビートたけしを横目で見つつ、トークバトルでもしてみませんか と編集者に問われ、もう少し話芸を磨いてからと言っていたが、そこは年には勝てない部分があった。吉本 さんの罵倒芸は、からからと快活に市井の人を笑わせるものがあり、それ自体が彼の思想の健全性でもあっ たのだが。  あのころ吉本さんは、吉本25時というイベントもやってみた。まあ、失敗でしょ。僕は行かなかったけど、 行った知人に吉本、どうだったときいたら、ボートピープルみたいに舞台のわきでお山座りをしているのが よかったよと言っていた。いいかも。いやいいな。その横にじっと座っていたいものだ。  死というものを問い詰めた吉本さんだが、現実的には死は無だと言っていた。幻想としてはそうでもない のかもしれない。  ありがとう、吉本さん。倶会一処。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 渋谷陽一 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さん、亡くなる 掲載誌(紙・書)名 渋谷陽一の「社長はつらいよ」 出版地 掲載頁 http://ro69.jp/blog/shibuya/65361 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 いつかこの日が来ると覚悟はしていたけれど、何か自分を支えていた大きなものが失われた喪失感が重くの しかかっている。これまで何度も書いて来た事だが、僕は吉本さんに影響されなかったらロッキング・オン を創刊しなかった。創刊してからも、これは吉本さんが見たらどう思うのだろう、叱られないだろうか、と いつも誌面を作りながら思っていた。 無論、大学生の作るロック評論の同人誌を吉本さんが知るわけもなく、アマチュア・ミュージシャンが自分 の曲をジョン・レノンが聞いたらどう思うか妄想しているのと全く同じレベルである。 でも、それは自分にとってとても大切な事だった。 それから何十年後、直接お会いする事ができるようになっても、その気持ちは変わらなかった。 僕と同じ気持ちの人達はたくさんいると思う。 その人達の吉本さんに影響された仕事は、今の日本の表現状況に於いて決定的な存在感を持っていると思う。 多くのロック・ファンにとって、吉本隆明の名前は身近なものではないかもしれない。ただ吉本隆明がいな ければロッキング・オンも、ロッキング・オン・ジャパンも、ロック・イン・ジャパンもなかったと考える と、この巨大な思想家の存在がどんなものか感じてもらえるのではないだろうか。 ご冥福をお祈りします。 この本を作れた時、本当に嬉しかった事が思い出されます。 60歳になって父親を失い、その父親から自立せよと言われているような気持ちだ。 でも、きっとこれからも何かを作る度に、吉本さんはどう思うのだろうと僕は考え続けるのだと思う。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 カラマーゾフ 刊行年月 120316 標題 吉本隆明さんを悼む 「廃人の歌」という奇跡 掲載誌(紙・書)名 カラマーゾフのブログ 出版地 掲載頁 http://ameblo.jp/mrbean19680206/entry-11194718427.html 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 西谷修 刊行年月 120316 標題 吉本隆明氏の逝去に合掌 掲載誌(紙・書)名 西谷修―Global Studies Laboratory 出版地 掲載頁 http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2012/03/post_142.html 掲載年月日 2012.3.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2012/03/post_142.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 社説:視点・吉本さん死去 高みに立たない思想=論説委員・重里徹也 掲載誌(紙・書)名 毎日JP 出版地 東京 掲載頁 http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/archive/news/20120317ddm005070009000c.html 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  <市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、 千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである>  戦後を代表する思想家、吉本隆明さんが死去した。冒頭に掲げたのは著書「カール・マルクス」(光文社文 庫)の一節。吉本さんの基本的な考え方を示していて、よく引かれる文章だ。  アカデミズムに属さず、いつも権威に対抗し、考え方の違う相手とは容赦のない論争を繰り広げた。下町育 ちの感覚と言葉を生涯持ち続けた人だった。  吉本さんの特質を二つ挙げておこう。一つは自立の思想だ。政治や芸術のさまざまな党派主義を排し、借り 物の考え方を捨てて、自前の考え方、自身の思考によることを求め続けた。  もう一つは大衆の側に寄り添ったことだ。どんなに最先端の思想を知っても、それを普通に暮らしている生 活者の人生に照らさなければ、意味がないと考えた。新しい知識を得ても、高みから説かず、平凡な日々の生 活を大切にし続けた。  吉本さんが、詩や小説の立場を守る人だったのは、こんな姿勢からも説明できるだろう。イデオロギーや国 家権力はもちろん、表現の内実を見ない倫理の強制も、激しく批判した。  1970年代以降、吉本さんは新しい文学である村上龍さんや村上春樹さんを肯定するだけでなく、アニメ やマンガの表現にも理解を示した。広告のコピーや服飾デザイン、ポピュラー音楽も積極的に論じた。  サブカルチャーは大衆の夢や願望を映し出していて、それは単なる個人の表現ではなく、現在という時代を 鮮やかに示しているというのが吉本さんの考えだった。若い世代の表現にも、敏感に対応する人だった。  昨年の東日本大震災後、雑誌「文芸春秋」の5月号に言葉を寄せ、被災した人たちの負った精神的な傷を心 配した。そして、働く人たちの間に広がる労働時間の格差を問題にしていた。震災がそれを悪化させないか憂 慮していたのだ。  生身の吉本さんは、どんな質問にも答える人だった。何を聞いてもすぐに考え抜いたような答えが返ってき た。「それは、アレじゃないですかい?」といった感じで、粘り強く説明してくれるのが常だった。  そんな時にも、権威を嫌う自立の思想と、大衆に寄り添う姿勢が一貫していた。グローバル化が進み、社会の 格差が広がる中で、吉本さんの柔軟で揺るぎない思想が持つ意味は、今後も大きい。 注記等 毎日新聞 2012年3月17日 東京朝刊
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 「最高のお父さん」 掲載誌(紙・書)名 読売新聞 出版地 東京 掲載頁 31 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 吉本隆明さん死去 ツイッターで心境つづる:次女のばななさん 注記等 記事署名 棚田秀行
刊行形態 Blog Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さんへの感謝:追悼 掲載誌(紙・書)名 ホスピタリティの場所【山本哲士公式ブログ】hospitality/place/capital 出版地 掲載頁 http://hospitality.jugem.jp/ 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 http://hospitality.jugem.jp/?cid=14
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 天声人語 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 終生発信 貫いた庶民の姿勢 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 吉本さんを悼む声 吉本さんの主な作品 吉本さんの語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 編集手帖 掲載誌(紙・書)名 読売新聞 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等 14版
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さん死去:「批評の時代を築く」 掲載誌(紙・書)名 読売新聞 出版地 東京 掲載頁 38 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 関係者から悼む声 特設された、吉本隆明さんの著作などを集めたコーナー[和田康司撮影] 注記等 14版
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 時代へ先鋭的発言:吉本隆明さん死去 掲載誌(紙・書)名 読売新聞 出版地 掲載頁 36 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 市井貫いた生涯:核、宗教 無数の論争(文化部 鵜飼哲夫) 「最高のお父さん」ばななさんのコメント 時代の幻想に冷や水 『対話 日本の幻像』などの共著書がある哲学者・梅原猛さんの話 注記等 13版
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さんを悼む 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞 出版地 東京 掲載頁 44 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 思考の自立貫いた生涯 橋本大三郎 悼む声相次ぐ  西欧思想に抵抗 文芸評論家の加藤典洋さんの話  詩人の言葉持つ 詩人の北川透さんの話 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 Literary critic Yosimoto dies at 87 掲載誌(紙・書)名 The Japan Times 出版地 東京 掲載頁 2 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等 KYODO
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さんと日本 掲載誌(紙・書)名 読売新聞 出版地 掲載頁 31 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「対幻想」終らない 三浦雅士 「大衆」避けない思想 内田 樹 注記等 12版
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さん死去:「戦後思想の巨人」87歳 肺炎 掲載誌(紙・書)名 日刊スポーツ 出版地 大阪 掲載頁 16 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 ばななさん「最高のお父さんでした」 「三途の川の手前で戻れた」香港から最後のツイート 1月から入院/脱原発に一石/「共同幻想論」/サブカル発掘 「反抗、対抗の論客」石原都知事悼む 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さん死去 掲載誌(紙・書)名 スポーツ報知 出版地 大阪 掲載頁 25 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 87歳肺炎/脱原発に一石 慎太郎知事悼む「権威に反抗するオピニオンリーダー」彼を継ぐ論客現れてこない ロック、アニメも語る「思想の巨人」 次女ばななさん「最高のお父さん」 ずいぶん悲しい 糸井重里さん 「自立」を先取り 鹿島茂・明大教授 新刊発売日に 注記等
刊行形態 Web information 著者 京都精華大学 刊行年月 120317 標題 吉本隆明氏のご逝去をお悔やみ申し上げます 掲載誌(紙・書)名 京都精華大学インフォメーション 出版地 京都 掲載頁 http://www.kyoto-seika.ac.jp/info/info/post_167/ 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 「戦後最大の思想家」と称される詩人で思想家の吉本隆明氏が3月16日にご逝去されました。 吉本氏は、京都精華大学が1968年の開学以来開催している公開講演会「アセンブリーアワー講演会」に、 1975年から9回にわたり講師としてご登壇いただきました。また、京都精華大学が創立40周年を迎えた際 には、本学名誉教授で元学長・笠原芳光氏(宗教思想史家)を聞き手に、「思想を生きる」をテーマに自ら の人生論や若者へのメッセージを語っていただきました。 謹んでお悔やみ申し上げます。 京都精華大学人文学部開設時に吉本隆明氏よりいただいた言葉をご紹介します。 「はじめて出会った大学らしい大学。」 大学は紙と石と言葉でできた塔で、先生がたはこわい番人の集まりだ。学生になったら、できるだけ内壁や 飾り窓に手を触れずに、そっと入って、そっと出ちまうのがいちばんいい。大学は敵役としてだけ存在の価 値があるのだ。ながいあいだそう思ってきた。でも、この京都精華大学は、はじめから印象がすこしちがっ ていた。普段着のまま入って、目いっぱい自由に壁に落書きしたり、飾り窓に垢をつけたりして、いい気分 で出てゆける雰囲気を生み出している。これはもしかすると、はじめて出会った大学らしい大学だという気 がする。 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さん最晩年まで世論に一石:原発放棄 文明発展に逆行 掲載誌(紙・書)名 高知新聞 出版地 高知 掲載頁 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 技術開発で克服を 「最高のお父さん」次女ばななさん 喪主は長女多子さん 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 豊田素行 刊行年月 120317 標題 谷中銀座の吉本隆明さん 掲載誌(紙・書)名 豊田企画制作舎 出版地 掲載頁 http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub5/sub5-32.htm 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub5/sub5-32.htm
刊行形態 Blog Article 著者 刊行年月 120317 標題 追悼・吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 芦田の毎日 出版地 掲載頁 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-17 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 「特に彼の文章(文体)が大好きでした。引用の文(=他者の思考)と地の文(=自分の思考)と の処理の仕方が絶妙で、幼い私は彼に思考の内容にというよりは、その引用の文体に、あるいは読 書の仕方に惚れ込んでいました。  彼の引用は、被引用者の全体の思想(その核)をつかんだかのような引用でした。彼の引用する 文章の全ては、部分というよりは、その部分が被引用者の思考の臍であるような体裁をいつも醸し 出していました ー その臍となる部分のことを彼は後の著作で〈作品〉の「入射角」「出射角」 と呼ぶようになっていました。 彼の引用批評は、いわば人格批評と紙一重の緊迫感がありました。人と思想とはメ同じモなんだと。 「関係の絶対性」はぐるっと一周してそういう思想だったのだと私は思います。だからこそ、時と して排外的、時として寛容という振幅を持っていたのです。  現在の検索主義の引用とは正反対の思考がそこにあった。こんなふうに本が読めたら、どんなふ うに自由になれるんだろう、と私はいつも思っていました。」 注記等 http://www.ashida.info/blog/2012/03/post_414.html
刊行形態 Blog Article 著者 めい 刊行年月 120317 標題 吉本隆明さん、ありがとうございました。 掲載誌(紙・書)名 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 出版地 掲載頁 http://www.ashida.info/blog/2012/03/post_414.html 掲載年月日 2012.3.17 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 先ほど9時のニュースで吉本さんの訃報を聞いた。今日の午前2時13分とのこと。実は今日は私の母親の満2年の 命日だった。母親の父親、つまり祖父の命日も3月16日。祖父が亡くなったのは昭和13年だったと思うので、75 回目の命日か。 最近昔のことを思い起こさせられることが多く、目の前に昭和43年から44年のノートがあった。その最初のペー ジに吉本の言葉が書き連ねてある。今あらためて読み返した。 ≪逃げることによって困難な状況をやりすごし、一貫性を見せかけるな。≫ ≪重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをするのではなく、敗北につぐ敗北を底まで押して、底か ら何ものかを体得することである。私たちの時代は、まだどのような意味でも、勝利について語る時代に入ってい ない。それについて語っているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。≫ ≪たとえ百万人がひとつの方向へゆくのを望見したとしても、欲しないならば、ただ単独で別な方向へゆけ。ただ し、これにはかなり困難なひとつの条件がひつようである。かならず、自らのなかに単独者と大衆との二重性を保 持しつづけるということ、というのがそれである。≫ ≪告白はもともと内的な確執がやんだときに成立つものだ。≫ ≪現実の危機ということは決してそのまま精神の危機ではない!≫ ≪思想はそれ自体の力で、現実的になにを擁護すべきでありなにを擁護すべきでないかを充分に知っている。しか し、現実的な運動のうちなにを支援するか、またなにに支柱をもとめるかという問いかけは、思想にとってはいつ も第二義以下の問題である。≫ ≪かれ(柳田國男)は、人間の本質指向力が、つねに土俗からその力点を抽出しながら、ついに、その土俗と対立 するものであるという契機をつかまえようとはしなかった。総じて、知識というものが、はじめに対象にたいする あり方を象徴しつつ、対象と強力に相反目するものであり、これをになう人格が、つねに共同性からの孤立を経て しか、歴史を動かさないということを知ろうとはしなかった。≫ ≪何よりも抽象力を駆使するということは知識にとって最後の課題であり、それは現在の問題に属している。柳田 國男の膨大な蒐集と実証的な探索に、もし知識が耐ええないならば、わたしたちの大衆は、いつまでも土俗からの 歴史の方に奪回することはできない。≫ 44年6月からの次のノートにも。最初のページに書き記した吉本の言葉。「初期ノート」からだ。 ≪結局はそこにゆくに決ってゐる。だから僕はそこへゆこうとする必要はないはずだ。ここをいつも掘下げたり切 開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。≫ いまノートをめくっていて見つけたのだが、47年の1月1日に吉本と夢で会っていた。まったく覚えていない。うれ しかったのだろうか、走り書きで記録してあった。当時の気分を思い出せそうなので、解読しつつ引き写しておきま す。当時は卒論に取組んでいたときで、学校に行く子供たちの声を聞きながら布団に入って、昼すぎに目覚める生活 だったように思う。午前の11時半に目覚めて書いたらしい。 ≪吉本隆明と会っている。 おれが、M-P(メルロー・ポンティ)やっているんですが、というと、吉本は、少々身をのりだしてくる。ここでの 吉本は、写真なんかで見ている吉本のイメージだ。つぎにおれが、吉本さんが、M-Pなんかについて時々書かれてい ますね、という。 場所は本屋だ。新装なった本屋で、スーパー式にカゴをもって買ってゆくような本屋。次々に書棚に店員によって本 が並べられると、その本に、文科の学生、とくに学生運動やっていた連中たちが、ワッと殺到してゆく。そして、吉 本は、その間を待つためにあるイスに坐っているようだった。 おれも(書棚の方に)おもむろに行ってみる。「畏怖する環境」というのを、その中に見出していたからだ。おれは 「畏怖する人間」を注文したはずなのに違っていたかな、と思いつつ、柄谷のものだと思う。注文はしているが、あ と6日まで待たんならんとすると、ここで買ってしまってもいいな、と思ったからだ。ところが、おれがいくかいかな いうちに、また、人の波が、おれを越えて押し寄せ、それがひいたあとは、もう「畏怖・・・」はなくなってしまっ ている。だれかもおれより先に柄谷を読もうとしているのがいると思って、少なからずショックを受けたようだった。 しかしそのまま帰るのも手もちぶさたでもあるので、その辺に学生運動のビラのような文字で書かれた背表紙がズラッ と並んでいる中から「磯田光一も上層部を毒した」云々の意味の本があるのを取り出して、パラパラめくる。中味は、 運動のビラ調のもののようで、宇和宮出版とかいう出版社のものであるようだった。それを、再び書棚に返して、戻っ て席に座り、そこで吉本を左側にみて、なにか考えるようにして、すわっているのだが、なんとなく決心して吉本に話 しかけるのだ。 さて、おれが、先のようにいうと、吉本は、あのイメージから少々ずれてくる。おれは、吉本と話しているということ に感謝しつつ、調子にのったまま、このごろ吉本さんとM-Pのずれが見えてきつつあるんですけどね、という。その態 度は、いささか、吉本へ媚びる態度と密かな傲慢さを秘めたものである。 このあたりから、吉本の表情は笑いめいたものに代わる。 たしか「孝行だね」、といった様だ。 それと共に、おそらく学生運動をやっているとおぼしき人たちの間から少しずつ笑いの渦が捲きおこりはじめる。その 渦の中心は吉本にあるようだ。そして、それは、おれに向けられている。吉本の表情は、写真でみる吉本のイメージと は全く別人である。周囲の笑いに溶け込んだ笑顔だ。そして、その笑いは、おれのほんとうのくだらなさを、心底から 笑っているような笑いであった。 「朝、勝手に都合のよいときに起きて、気が向いたら勉強して、また寝たくなったら眠る。」 また、 「20年も30年も一心にそれをやってきた人のことを、おまえのような何の葛藤もなく、ただ、自分の自然さを追って いるだけのやつに、何がわかってたまるか。」 といった意味のことが、吉本を中心にした笑いの渦から発せられたようだ。 また、吉本を話の中心にして、 「戦いだ、戦いだ」といいながら、テーブルを思いっきり揺すっている。 S(学生結婚した同級生)が女房を連れているようだが、そうしておれの側に、「おれは戦ってきた」という自信をも って坐っているようだった。 おれは、おれに対する嘲笑を、最初は、卑屈な笑いで耐える。しかし、その卑屈さに自分で気づいて、こりゃまずいな、 このおれの卑屈な笑いは、周囲の嘲笑がやむまでつづきそうもない、と思うと、下を向いて、それらの嘲笑を、己れの 一身にひきうけ、十分じぶんなりに反省しているような態度をとる。 しかし、吉本の、卑小ながら、心底からおれを笑ってしまわずにおれぬような顔が、おれに迫り、また、M(同級生)ら によってなされる笑いは、一層強烈になるばかりなのだ。 おれは、丸い紙一枚と、それと同じ型のアルミ箔2枚を手にもって、あと少しの辛抱だと思ったようだ。ひたすら、耐え ること、耐えること、と考えていたように思う。 そして、それと共に己れの卑小さを痛感し、何とかせねばと思っていたようにも思う。こんなに苦しいことがまたとあろ うか、と思っていったようだ。時間の経つのが遅かった。12分ぐらいすぎたころ、は耐えることにおれの気持ちも慣れて、 その時、耐えることの必死さが、少しずつ対象化されてくるころ、目がさめたのだ。≫ その後の1月8日にあらためて吉本について書いていました。 ≪吉本の思惟のすごさ。沈黙に拮抗しうる思惟、生活に拮抗しうる思惟とは、表現され、対他的様相を与えられた瞬間、 己れの相貌を失ってしまうような思いつき的なものではなく、その表現そのものが、己れのものとして、思惟世界に生き る己れという肉体をもつものとしてあらわれてくるゆえなのではなかろうか。 あとでふりかえって、おれもこんなこと考えていたんだなあ、と思って自己満足に陥ってしまうような思惟ではなく、そ の思惟そのものが肉体をもって世界に存在してしまうような思惟。その時の私に還元してはじめて理解しうることばでは なく、肉体をもっているがゆえに、世界の中に確固とした、独立した姿をもってあらわれてくるような思惟。 表現というものを、自然におのれのうちから流出してくる、たとえば、いまおれがこうしているようなものではなく、己 れの意志的な力によって表出すること、そこに、言語による表現の極があると、吉本は考えているのではなかろうか。・ ・・≫ そのあともつづくが、最後の方は何を言おうとしたかよくわからない。 ともあれ、吉本は私にとって、ほんとうに師であった、と今あらためて思う。吉本に出会った後の自分が今の自分にその ままつながっている。こっぱずかしい自分からあたりまえの自分へと導かれたのは、ほんとうに吉本のおかげであった。 (吉本さんに型どおりは似合わないが) 吉本隆明さん、ほんとうにありがとうございました。 衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。 合掌  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 死によってより身近かになる存在がある。私にとって、吉本さんはそういう存在にちがいない。 もっとも、これまで十分 身近かではあったのだが、身近さの質が変わる。生きておられるうちに夢のことなど書けなかった。亡くなることで、吉 本という人が私にとっては夢の世界と同等のところにおられるようになったのだなあ、と思う。時間が経つと当時の現実 より夢のほうがよりリアルに思えることだってある。 注記等 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-17
刊行形態 Blog Article 著者 世川行介 刊行年月 120317/18 標題 吉本隆明の死 (1)〜(2) 掲載誌(紙・書)名 世川行介放浪日記 出版地 掲載頁 http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/a9f6bce21da1bed14ab537d4b086692e 掲載頁 http://blog.goo.ne.jp/segawakousuke/e/8cdc9674db4d84ef1c7d8dd8bb3e6d33 掲載年月日 2012.3.17/18 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明の死 (1) 今さらあらためて書くまでもなく、  僕は、19歳から42歳までの23年間を、  鈍い頭脳にもかかわらず、  ただひたすら、吉本隆明の著作を耽読して過ごした。  彼の個人誌『試行』から、単行本、掲載雑誌まで、買い漁って読んだ。  北川透流に言うなら、  吉本隆明の書いたものなら、便所の落書きでも読みたい、といった風な、ミーハーファンだった。  人は誰にも影響を与えることはできない、と書いたのは太宰治だが、  青年期から壮年期初期までの僕は、吉本隆明からは、多大な影響を受けた。  言い方を変えるなら、  吉本隆明は、驚こうとする僕の心に驚きをもたらせてくれた文学者だった。  昨日、吉本隆明が死んだが、  87歳というその年齢からか、格別の哀しみの感情は湧かなかった。  自然死を受け入れるような心で彼の死を受け止めた。  この偉大な思想家にして文学者と会話を交わしたのは、  後にも先にも、41歳の時、一回きりだ。  松江市から車を飛ばし、講演依頼に千駄木の自宅を訪問し、  1時間ほど文学の話を聞いた。  その時、  吉本隆明が、どこかに、山本周五郎のことを、  わが国でたった一人の異色の作家だ、と書いていたことについて、  あれはどういう意味でしょうか、と尋ねたら、  山本周五郎は、大衆文学から純文学に登りつめたたった一人の作家だ。  と山本周五郎への高い評価を聞かせてくれ、  高校時代から山本周五郎作品にのめりこんで、  『おさん』や『あとのない仮名』に高い文学性を感じてきた僕は、  自分が褒められたみたいに嬉しかったのを、今でも覚えている。  あなたね。若手の作家で、誰が一番いいと思いますか?  と訊かれ、考え込んでいると、  それはね、  親馬鹿から言うのではなく、娘の「ばなな」です。  娘は素晴らしい作品を書いています。   いま、一番注目すべき作家です。  と断言した。  僕は、自分の父親にただの一回も褒められたことなく生きてきたので、  娘を絶賛する父親に、何をどう答えていいのかわからず、  ただ黙ってうなずきながら、  なんか、微笑ましくていいなあ、と、それだけを思っていた。  それか数ヵ月後に、僕は、彼から、大叱責を受け、  このままでは、<知>に拠って立つ人間として生きていけない、  と、考えるに至り、  彼の視線や思考の届かない、<この世で一番卑小な場所>に行こう、と決心し、  職を捨て、家庭を捨て、日本国家を捨て、  今日までのこの生活を選んだ。  しかし、  それまでも、それ以降も、  僕が<生>に向かう姿勢の岩盤は、吉本隆明の言葉だった。  それは疑いようがない。  つまり、僕は、59年間、吉本隆明の掌(てのひら)の上で七転八倒していたに過ぎない。  それを認めることには、実に素直な僕だ。    そうした彼の言葉の一つに、  彼は長年にわたって<自立>の思想を説いてきたが、  その<自立>について、  <自立>とは、自分の出来ないことを他に求めないことだ。  何でも、自分でやれ。  というのがあって、  それは、生きる僕の<何か>であり続けたように思っている。  もう遠望するだけの存在になってからしばらくして、  伊豆かどこかの海で溺れて死にかけてから、  吉本隆明の思考に文学体での作品が少なくなり、  たまに本屋で立ち読みをすると、  話体の本ばかりが増えていった。  その頃の僕は、彼から遠ざかろうと走っていた時期だったが、  話体の本を眺めながら、彼の<老い>を感じ、  一層遠ざかっていったように思う。                         (この項、続く) 吉本隆明の死 (2) 隆慶一郎、という時代小説作家がいた。  東大の文学部か何かを出て、  永く脚本家として生き、  昭和末期か平成初期に、60歳にもなって、突如として小説世界に登場し、  堰の切れた川のような激しい勢いで、  『吉原御免状』、『影武者徳川家康』、『捨て童子・松平忠輝』、  といった、  <まつろわぬ(権威に服従しない)人々>をテーマにした傑作を書きなぐったが、  たった五年間で、病気で死んだ。  どこまで本当の話かは知らないが、  彼は評論家小林秀雄の、大学と就職先の『弟子筋」にあたり、  (小林秀雄の存在感が大きすぎて)小林秀雄が死ぬまでは何も書けなかった、  と述懐していた、  らしい。  嘘半分にしても、その心理はよくわかる。  今後、吉本隆明に対して、隆慶一郎の小林秀雄へと同じような思いの人たちが、  さまざまな吉本隆明論や思い出話や「秘話」を書き綴ることだろう。  もっと言うと、  おそらく、死を契機として、「吉本隆明の相対化」が始まることだろう。  中には、その呪縛から解き放たれ、  「小林秀雄の隆慶一郎」的文学者が誕生するかもしれない。  それでいいのだ。  『反核異論』で、奥野健男や島尾敏雄といった多くの友人と決別してまでも、  日本の<良心的文化人>たちの欺瞞に真っ向から立ち向かい、  彼らを完膚なまでに論破し、  思想貧困なこの国において、不世出の<思想家>としての見事な立ち姿を見せてから数年後、  宗教家としての麻原彰晃を高く評価したものの、  麻原を教祖と戴く「オウム真理教事件」で、無差別殺人という事態に直面し、  すべての主張が「言い訳」と受け取られるようになってから、  吉本隆明は急速に<孤独>になっていった、  と、僕には見えた。  吉本最後の「弟子筋」と思えた小浜逸郎までもが叛旗を翻した時、  もう、その時分の僕は、吉本隆明の「良い読者」ではなくなっていたが、  彼の周辺が急速に狭まっていくように感じた。  あの強靭な意志の持ち主であった吉本隆明にとってさえも、  <孤独>は、やはり、耐え難いものだったのだったろうか?  それとも、それは、<老い>が原因だったのだろうか?  僕には、よくわからないが、  <孤独>になった彼は、  コピーライターの糸井重里に急接近され、糸井と二人三脚みたいな出版活動を始めた。  糸井の作と思われるキャッチコピーの華々しいコーナーが書店に置かれ、  かつての緊張感に満ちた論理を水で薄めたような「話体」の単行本が並び、  昔々の著作が新装本で出た。  当時の僕は、彼方から遠望しているだけの放浪者だったが、  見ていて、痛々しかった。  こういうことを言うと、糸井重里から叱られるかもしれないが、  糸井重里の頭脳で、吉本隆明の<思想>の全貌が、理解できるわけがない。  人には、能力の限界、というものがある。  僕たちは、吉本の著作から、  真理は難解である。  と教えられたが、  糸井は、「難解の絵解き」に情熱を傾けていて、  その作業に吉本隆明をつきあわせていた。  それは、  時代的と言えば、実に時代的な光景ではあったが、  自分の倫理の最高部を理解できない人間に、自分の売出しを任せなければならない、  そんな吉本隆明が、少し哀しく思えたのは事実だ。    淋しい人になっているなあ。  それだけを思った。  吉本隆明の新作を、身銭を切って買う行為は、  もう、それは、ある時期から自分に禁じていたから、  何ヶ月かに一回、書店で立ち読みの流し読みをするだけの間柄になっていたが、  どの新刊本も、従来の論理の焼き直しとしか読めず、  しかも、詩集などは、文庫本であるにもかかわらず、1000円を優に超える価格設定で、  彼が昔、どこかの文学者を本の価格で批判していた時の文章を思い出し、  そりゃあないぜ、と思った。  しかし、  そうした晩年の彼への思いは思いとして、  ある時期の僕が、吉本隆明の「一番次元の低い信者」であったことは、  疑いようのない事実だ。  僕は、吉本隆明の文章から、多くを吸収し、  彼が説くような<生を>生きようと必死に生きた。  文学や思想とは、実に残酷なものだ。  福永武彦の処女作である『風土』にも描かれていたが、  その魔力にとり憑かれれると、  自分がどんなに無能であっても、それ以外の生き方が選択できなくなって、  苦悩の坂を転げ落ちなければならない。  僕の59年間などが、その最たるものだ。  しかし、吉本隆明は、  そうした無能な僕たちに、  才能が何なのだ。人は選んだその<生>を努力をする以外にないのだ。  とことんやって見せてから泣き言を言え1  と、辛口の激励を投げ続けた。  彼のその言葉に慰められ決意を新たにした人間は、大勢いたはずだ。  時が一つの場所に留まることがない限り、  人は死に、  作品の多くは、人々の記憶から忘れ去られ、  いつか、「古典」となって、  骨格だけが語り伝えられるのだが、  吉本隆明という思想家にして文学者は、  権威への隷属が当たり前のこの国で、  権威への反逆(あるいは不服従)を心に期する数少ない民に、  これからも読まれ続け、  そうした人々の心に、<何か>を与え続けることだろう。 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 高橋源一郎 刊行年月 120318 標題 思想の「後ろ姿」見せてくれた:追悼・吉本隆明さん 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞 出版地 東京 掲載頁 http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201203180195.html 掲載年月日 2012.3.18 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  いま吉本さんについて書くことは、ぼくにはひどく難しい。この国には、「わたしの吉本さん」を持っ ている人がたくさんいて、この稿を書く、ほんとうの適任者は、その中にいるはずだからだ。  吉本さんは長い間にわたって、多くの人たちに、大きな影響を与えつづけてきた。けれども、その影響 の度合いは、どこでどんな風に出会ったかで、違うのかもしれない。  半世紀以上も前に、詩人としての吉本さんに出会った人は、当時、時代のもっとも先端的な表現であっ た現代詩の中に、ひとり、ひどく孤独な顔つきをした詩を見つけ驚いただろう。そして、この人の詩が、 孤独な自分に向かって真っすぐ語りかけてくるように感じただろう。   六十年代は、政治の時代でもあった。その頃、吉本さんの政治思想に出会った人は、社会や革命を論じ る思想家たちたくさんいるけれど、彼の思想のことばは、他の人たちと同じような単語を使っているのに、 もっと個人的な響きを持っていて、直接、自分のこころの奥底に突き刺さるような思いがして、驚いただ ろう。  あるいは、その頃、現実にさまざまな運動に入りこんでいた若者たちは、思想家や知識人などいっさい 信用できないと思っていたのに、この「思想家」だけは、いつの間にか、自分の横にいて、黙って体を動 かす人であると気づき、また驚いただろう。  それから後も、吉本さんは、さまざまな分野で思索と発言を続けた。そこで出会った人たちは、その分 野の他の誰とも違う、彼だけのやり方に驚いただろう。吉本さんは、思想の「後ろ姿」を見せることので きる人だった。  どんな思想も、どんな行動も、ふつうは、その「正面」しか見ることができない。それを見ながら、ぼ くたちは、ふと、「立派そうなことをいっているが、実際はどんな人間なんだろう」とか「ほんとうは、 ぼくたちのことなんか歯牙にもかけてないんじゃないか」 と疑う。  けれども、吉本さんは、「正面」だけではなく、その思想の「後ろ姿」も見せる ことができた。彼の思 想やことばや行動が、彼の、どんな暮らし、どんな生き方、どんな 性格、どんな個人的な来歴や規律から やって来るのか、想像できるような気がした。どんな思想家も、結局は、ぼくたちの背後からけしかける だけなのに、吉本さんだけは、ぼく たちの前で、ぼくたちに背中を見せ、ぼくたちの楯になろうとしてい るかのようだった。  ここからは、個人的な、「ぼくの吉本さん」について書きたい。ぼくもまた、半世紀前に、吉本さんの 詩にぶつかった少年のひとりだった。それから、 吉本さんの政治思想や批評に驚いた若者のひとりだった。 ある時、本に掲載された一枚の 写真を見た。  吉本さんが眼帯をした幼女を抱いて、無骨な手つきで絵本を読んであげている写真だった。その瞬間、 ずっと読んできた吉本さんのことばのすべてが繋がり、腑に落ちた気がした 。「この人がほんものでない なら、この世界にほんものなんか一つもない」とぼくは思った。  その時の気持ちは、いまも鮮明だ。大学を離れ、世間との関係をたって十年後、ぼくは小説を書き始め た。吉本さんをたったひとりの想像上の読者として。  その作品で、ぼくは幸運にもデビューし、また思いがけなく、その吉本さんに批評として取り上げられ ることで、ぼくは、この世界で認知されることになった。  ぼくは、生前の吉本さんに何度かお会いしたが、このことだけは結局、言いそびれてしまった。おそら く、それは「初恋」に似た感情だったからかもしれない。ぼくが、この稿に適さぬ理由は、そこにもある。 吉本さんの、生涯のメッセージは「きみならひとりでもやれる」であり、「おれが前にいる」だったと思 う。吉本さんが亡くなり、ぼくたちは、ほんとうにひとりになったのだ 。 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 橋爪大三郎 刊行年月 120318 標題 追悼・吉本隆明さん 科学と詩人の魂が結合 掲載誌(紙・書)名 The iZa 出版地 東京 掲載頁 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/550478/ 掲載年月日 2012.3.18 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  吉本隆明氏は、科学の精神と詩人の魂の人だ。その業績を、この2つの光源から照らしてみる。  日本は敗れた。軍も解体したが、人は生きなければならない。軍国少年だった吉本隆明氏は、大人たちの 手のひらを返すような変節と知的不誠実をみる。そしてできあがった戦後日本は、戦後知識人(不戦勝のに わか横綱)と大衆(啓蒙(けいもう)される平幕)からなる階層構造だった。このいかがわしさを暴いたの が、転向論である。転向して、それをなかったことにしたのが、戦後のからくりではないか。加えて、非転 向は偉いのか、を問うたのが吉本氏の創意だ。非転向は言うなら「原理主義」、世界にはごろごろしている。 情勢の変化を無視して、原則にしがみつく。日本人はそれを倫理的で真正な証しと誤解した。それでは一億 玉砕と変わらない。情勢に照らし原則を問い直すほうが知的に誠実だ。マルクス主義の教条から人びとを解 放したのだ。  それでは、戦後の日本でものを考え社会を生きる起点は何であるべきか。「大衆の原像」だと吉本氏は言 う。知識人や専門人も、大衆も、頭の中身はおんなじだ。社会的地位や役割を、権威と勘違いしてはいけな い。専門家も間違える。大衆も間違える。だから科学の合理性を大事にしよう。そして、教科書よりも現場 の経験を大事にしよう。こういう中小企業の製造現場みたいな感覚で、吉本氏は仕事を進めていった。  戦後しばらく、格差やギャップは当たり前だった。都市と農村が違い教育程度が違い、山の手と下町が違 い食事や服装が違った。消費文化が均一化し、総中流の意識が一般化したのは、高度成長のあと、1970 年代になってからである。その感覚をいち早く、吉本氏は思想の原則として唱えた。小説家の村上春樹の作 品が、均質な都市消費文化の感覚で時代を先取りしたのと、同様の構図である。  吉本氏の仕事は、『言語にとって美とはなにか』に代表されるように、文学と科学を融合している。宮沢 賢治に注目するのも、科学の精神と詩人の魂の結合した稀有(けう)な作家であることに共鳴するからだろ う。同時に吉本氏は、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』で、大衆の生きる高度消費社会の最前 線に旺盛な関心を示す。知識人にとって、人びと大衆の生きる現実が、ものを考える現場になるからだ。で も大衆はすぐ間違える。『「反核」異論』のように、人びとの大勢が一方向に流れる場合は、必ず逆向きの 声をあげる。戦争の経験に裏打ちされた本能のような姿勢だ。  吉本氏がこうして権力と距離をとる姿勢は、団塊の世代に影響を与えた。政治など町内会の当番のような ものだ。そう言われると、政治の専門的訓練をしようとか、リーダーとしての意思決定の技量を磨こうとか いう気になりにくい。だから日本が悪くなったという声もある。吉本氏のせいにしてはいけない。日本がだ めなのは、自分たち大衆がだめだからだ。そういう成熟した場所に、吉本氏は生涯をかけてわれわれを導い てくれたのである。(はしづめ だいさぶろう=東京工業大学教授・社会学)                   ◇  詩人で評論家の吉本隆明さんは16日、肺炎のため死去。享年87。 注記等 産經新聞
刊行形態 Newspaper Article 著者 中沢新一 刊行年月 120318 標題 吉本隆明の経済学 中沢新一さんが選ぶ本 掲載誌(紙・書)名 book.asahi.com 出版地 東京 掲載頁 http://book.asahi.com/reviews/column/2012031800006.html 掲載年月日 2012.3.18 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 ■「価値一般」を串刺しにする思考  吉本さんには、まとまった経済学の著作といったものはない。しかし経済の問題は、文学や政治の問題 と並んで、吉本さんの重大な関心領域であり続けた。スミスやマルクスの経済学を学ぶことから出発しな がら、現代の新しい現実と格闘しているうちに、吉本さんは独力でひとつの体系をつくってしまった。  その体系はいわばヴァーチャルなもので、目に見えるかたちでは、折にふれての思考としてしか表現さ れなかった。それでも、それらをつなぎあわせてみると、とても未来的な可能性を秘めている、ひとつの 経済学の一貫した考え方が、浮かび上がってくる。  初期の『言語にとって美とはなにか』の中で、吉本さんはマルクスが経済の研究から着想した「価値」 の概念を、文学の領域に創造的に転用することで、言語学や文学理論のはるか先を行く視点を、切り開い てみせた。増殖するというのが、価値の重要な特徴である。じっさい私たちの生きている経済では、商品 の交換がおこなわれ、価値が増殖していっている。  ことばの世界の中で、それとよく似たことをしているのが文学であるというのが、吉本さんの考えだ。 「これは上着です」と言ったとき、ことばはなにかを「指し示す」働きをしているが、価値の増殖はおこ っていない。ところが「これは天使の上着(のよう)です」というときには、価値の増殖がおこって、文 学表現の領域に入り込むことになる。 ■ことばとの関連  経済の世界でおこっていることと、ことばの世界でおこっていることの間には、密接な関連がある。そ のため資本主義の本質を研究することで、ことばだけではなく芸術や大衆文化のような、じつに広大な領 域にまたがるさまざまな表現の本質を、深く理解する鍵が手に入るはずである。  吉本さんはそうやって、あらゆる形態の「価値一般」を串刺しにできる思考を、生み出そうと努力した。 そこからじつにユニークな「経済学」が成長した。この経済学がもっとも威力を発揮したのは、現代資本 主義のウェイトが「生産」から「消費」へ転換しだした時期であった。そのとき吉本さんは、同時代の世 界中のどんな思想家をも凌駕(りょうが)する、斬新で大胆な思考を展開してみせた。『ハイ・イメージ 論』の連作に結晶する、驚くべき仕事がそれである。  農業の問題も、吉本さんにとっての大きなテーマだった。農業では貨幣が介在しないところで、自然の 循環をもとにした生産がおこなわれている。そのために農業地帯はおしなべて貧困で、農業人口もどんど ん減少している。しかし人間は農業が生み出す食料がなければ生きて行けない。この矛盾をどうするか。 ■交換から贈与へ  交換経済ではなく、贈与経済だけがその矛盾を乗り越える可能性を持つ、と吉本さんは考えた。農業者 から食料を得るために、都市生活者は等価交換によらないで積極的に自分の富をあげてしまう、贈与のや り方を採用する必要がある。そうなると経済世界は、根底から変化していくことになるだろう。未来の経 済学は、このような新しい贈与論を組み込んだものにならなければならない(このあたりの議論は『マル クス――読みかえの方法』などに出てくる)。  「吉本隆明の経済学」は実在する。それはヴァーチャルな空間の中に隠されていて、いまだその全貌 (ぜんぼう)をしめしていない。しかしそこには未来への宝が埋蔵されている。合掌。  ◇なかざわ・しんいち 人類学者 50年生まれ。『日本の大転換』など。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 三上 治 刊行年月 120318 標題 吉本隆明さんを悼む 掲載誌(紙・書)名 ちきゅう座 出版地 掲載頁 http://www.chikyuza.net/ 掲載年月日 2012.3.18 区分 キーワード 見出し・語録 いつかはこんな日があるのだろうとは覚悟はしていた。また、何度も想像したことはある。吉本さん<さ ようなら>と声にならない声で呟いてみても、声は深く沈んでいくだけである。僕の中には吉本さんは生 きている。だから、僕はこのままでいようと思う。本棚には吉本さんの著作が一杯ある。その一冊一冊に 様々のことが思い出されるが、また、ありし日の吉本さんの表情や声も自然に浮かんでくる。 僕が友人と吉本さんをはじめて訪ねたのは1960年の9月か10月のことだった。正確な日は定かではない が、まだ、安保闘争の余燼の残る日だった。あれからもう50年の歳月が過ぎるが僕は何度吉本さんを訪 ねたことだろう。ある時は何人かの友人と。ある時は一人で。ある時は恋人と。また、昂る気分を抱えて 、また、暗い気分にうちひしがれながら。けれども、いつも。吉本さんは優しく接してくれた。吉本さん はこちらの気持ちを察して対応してくれた。奥さんと一緒に玄関まで見送られると、僕は自然に元気にな っていた。そんな一齣々々が思い出されるのであるが、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。 僕は高校生のころから太宰治が好きだった。そして吉本さんと太宰は僕の中ではいつも重なっていた。だ から、吉本さんも太宰が好きだと聞いた時は嬉しかった。確か、1960年代の初めの方のことだったと思 うが吉本さんは太宰から聞いたとされる「男の本質は優しさ(マザーシップ)だ」と言う言葉を紹介して いた。これは吉本さんの本質そのものだと思った。誰も吉本さんに接したときの印象でもあったと思う。 1980年代の半ばも過ぎたころに、中上健次と一緒に吉本さんのうちに出掛け三人で24時間集会をやろう という話を持って行った。 僕もそれに似た事を考えていたのだが、発案は中上健次だった。これは「今、吉本隆明25時」として寺 田倉庫で開かれた。この集会で吉本さんは『大阪しぐれ』の一番を歌った。中上健次が二番を、都はる みが三番を歌った。中上健次が休業中の都はるみを歌手として復帰させることを目論んでの「日本歌謡 コーナー」でのことだった。吉本さんは初めから教えておいてくれたら、練習でもしてきたのにと照れ くさそうに小声で語った。吉本さんは美空ひばりだと言っていたが,都はるみも好きだったように思う。 これはもうむかしのことだが昨日のことのように思う。僕は今日もまた明日も明後日も、吉本さんのこ とを思い出すだろう。また、夢で出会えると思う。だから、糸井重里も言っていたが、僕も<さような ら>とは言わないでおきたい。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 副島隆彦 刊行年月 120318 標題 革命思想家 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の死 に 際して 掲載誌(紙・書)名 重たい掲示板 出版地 掲載頁 http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/2576 掲載年月日 2012.3.18 区分 キーワード 見出し・語録 副島隆彦です。 今日は、2012年3月17日です。 昨日16日の朝の2時13分に、思想家の吉本隆明(よしもとりゅうめい)が死んだ。   私は、吉本隆明の死を以下のネット記事で知った。この知らせを聞いた初めは何の感慨も湧かなかった。 ついに吉本さんも死んだか、87歳だ、と思っただけだ。  私は、今も吉本主義者(よしもとしゅぎしゃ)である。  私は、自分が18歳の時(すなわち今から丁度40年前)から、ずっと吉本主義者だ。このように公言 して憚(はばか)らない。私は、吉本から多くを学んだから、ウソをつかないで本当のことを書いてきた 知識人だ。他の多くのうそつき有名知識人たちとは違う。  私は、この吉本主義者という、自己規定を隠したことはないしそのように表明してきた。 他の言論人 たちで、今、自分の内心に恥じることなく、このように言える者はいないはずだ。 皆、ある時期に、歴 史的な事件のあるごとに、吉本を批判し、裏切った者たちだ。  以下の新聞記事にあるとおり、吉本は、私たち60年代、70年代世代の 政治発言を嫌(いや)がら ない政治青年たちに、圧倒的な影響を与えた。 私はこのことを今になっても隠さなさい。吉本隆明の本 をついに全く理解できなった、新左翼のくせに、頭の悪い人間たちもたくさんいた。 吉本は、激しい論争をしたとき、かつて書いた。「民衆とは何か。それは、私の本なんか読まない人たち だ。だが、お前の本も読まないよ」 と相手に言った。 (転載貼り付け始め) ・「吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響 」 スポニチ  2012年3月16日 (金) 6時49分配信 ■2010年、東京都文京区の自宅でインタビューに答える吉本隆明氏  文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よし もと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。  87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子= よいこ)さん。今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。次女は作家よしもとばななさん。  1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位の ための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員ら の転向問題で評論家花田清輝氏と論争した。  既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争で若者たち の理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。 国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想 の巨人」と呼ばれた。  80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り 起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も 原理的に批判した。 (転載貼り付け終わり)  副島隆彦です。 私は、自分の人生に決定的な影響を与え続けた吉本隆明という人の死に際して、これか ら書くべきことをすべて書いて公表しよう、と思う。彼の死から丸2日がたって、そのように思うようにな った。それは、私一人の思い出話ではない。その内容は、日本国民にとっての公共領域(パブリック・ドメ イン)における公共の課題(パブリック・インタレスト)に関わる大事なことばかりだ。だから、すでに  ここの学問道場の掲示板の 下の方で予定しているとおり、 来たる6月2日の 「政治思想、政治の歴史  講演会」で、思想家・吉本隆明 のことも しっかり話そうと思う。  私は、今、不愉快である。むっとしている。 さっき、ようやく新聞各紙の吉本への訃報(ふほう)の記事と追悼コメントをひとおおり、読んだ。それで 不愉快になった。 皆、いい気なもんだなと思った。  どの新聞も一様に、ひとしなみに、「戦後思想に大きな影響を与えた思想家の死」 と横と並びで書いて いた。それでおしまい、か。死者を鞭(むち)打つ必要はない、か。あれほど吉本の言論の存在を嫌った者 たちが。自分たちの悪の所業を言われることを、いやがった者たちが。  私は、はっきりと書く。 吉本隆明は、モ過激派の教祖モと呼ばれた人物である。そして、本人は、このこ とをあまり好かなかったと思う。しかし、遠くから仰ぎ見るようにして、吉本の本を熟読し(この40年間 で、その冊数、実に300冊を超える)、吉本が話す講演会に機会をとらえて参加した自分がいる。だから、 私はそれらの訃報記事を読んで不愉快になった。  浅田彰(あさだあきら)は、なぜ吉本の死に際して、従来通り、一言はケンカを売らないのだ。    吉本隆明は、たしかに文学者であり詩人であった。本人もそのようにして穏(おだ)やかな渡世(とせい) を一面ではしたかっただろう。だが、吉本の半分の顔は、明らかに革命家の顔でありつづけた。 そして、 それは、日本で民衆革命に何度も 失敗した失意の革命家の人生だった。    彼は、この50年間に、おのれの激しい言論のために、事あるごとに、孤立し、保守・体制派どころか、 左翼、リベラル系のあらゆる政治勢力からも忌避され、いやがられ、政治言論人としては、おのれの思想と 見識を堂々と発表する機会と場を奪われ続けた、日本で一番すぐれた政治知識人(ポリィティカル・インテ レクチュアル)だった。   この吉本の 深い孤立感と「これでは 自分が筆一本で食べてゆくのさえ、なかなか困難だ」という生活 者としての恐怖感を、私はいつも肌身に感じて、彼のそばで見ていた。   吉本は、日本共産党や、社会党や、その他の大きな労働組合とか、社会団体とかから、忌避されて、自分 の言論の影響力が、なかなか大きく外側に、一般国民のところにまで、届かず、広がらないで封殺されるこ とへの焦燥感と、苛立ちをずっと持っていた。彼の表面の穏やかな物腰の、誰に対しても温和な達観(たっ かん)の姿とは程遠いものだった。 革命が挫折し続けたことへの、絶望感をずっと、彼は背負い続けた。 吉本の悲劇はいつもそうして有った。私は、ずっと彼のこの姿を目撃していた。吉本は、明らかに日本の カール・マルクスだった。  いつも大衆のいるところにいて、大衆と共に生きて、大衆の愛するものを愛して生きた人だった、と皆、 声をそろえて、彼の死後になって、吉本を形だけ称賛するが、なあ、おまえたちよ。   たしかに、吉本が言った「大衆の原像へ向かう生き方」は、私たち吉本主義者の教理(きょうり)の一つ だ。「共同幻想の解体」と、「擬制(ぎせい)の終焉(しゅうえん)」などと共に吉本思想の柱を成すもの だ。 だが、日本の大衆が勝利することは一度もなかった。最近の小沢一郎革命(国民のための無血革命) も同じような感じで、いまにも圧殺されそうな感じだ。 私たちが感じるのは、またしても激しい幻滅と絶 望感だ。  民衆革命、民衆・国民のための政治革命は、いつもいつも敗れて、敗北して、今に至る。 だから、本当 は革命家であり、敗北した革命家としての吉本隆明の、真の姿を、私は、この40年間ずっと見つめ続けた と、吉本の同行(どうぎょう)の衆(しゅう)としても言える。  終始一貫して過激な言論人であった吉本隆明の発言や思想表明は、ほとんど国民大衆にまで届かず、理解 されることなく、いつも、いつも日本の悪辣(あくらつ)な大メディア(テレビ、新聞)から意図的に、隅 に追いやられ、どかされ、忌避され、押しつぶされてきた。  吉本の言論と発言が、あらゆる議論の最中に、圧倒的に強力であり、正当であり、正義であった。 だか ら、日本の公共言論(商業メディアと体制メディアを含む) は、吉本隆明を心底、毛嫌いし、敵対視し、 危険視して、彼が大衆、国民に影響を与えることを、封殺した。自分たちが国民をあやつり、欺き、洗脳し、 上から押さえつけている、この国の支配者なのだと、自覚していたからだ。   吉本の激しい孤立感と焦りを、私は何度も近くで見ていた。  吉本隆明は、300冊以上もの本を書いた(対談本や講演記録を含めて)人だから、日本国でもっと正当 な評価と、有力な立場を占めるべき人だった。彼は、呼ばれれば(招かれれば)どこへでも行って、どんな ことに対しても、「状況への発言」をし、おそらく 国会の場へでも出て行って、そして、その場から、日 本国民に、大声て、必死に真実を訴えかけたかった人なのだ。そして国民が自分たち自身のために、決起す べきことを。私には、そのことが痛いほどわかる。  本がたくさん出ていたから、それなりにも認められていたのだから、それで、いいじゃないか、と冷淡に 人々は思うだろう。 それでは済まないのだ。問題は、吉本一個の生き死にのことではないのだ。   吉本隆明は、この国で、不当に低く取り扱われた、不遇の言論人だった。そして本当に不遇に終わってい ったのだと、私は断言する。  今はすっかりアメリカの手先になりはてて変質をとげた朝日新聞は、岩波書店もそうだが、吉本隆明に4 0年間、絶対に、書かせなかった。徹底的に無視し続けて干しあげた。全く発言させなかった。1960年 安保闘争のあとから、ずっとそうだった。 以来、52年間になる。彼の言論を、日本のメディアは完全に 封殺した。吉本の方が、あらゆる政治問題、社会問題において、発言を拒んだことは一度もない。  ただひたすら、発言させなかったのだ。 それなのに、吉本が70歳を越して、1996年(16年前) に海で溺(おぼ)れて病気になって、体が弱くなったと見たら、吉本に近寄って、ほんのすこしだけ発言さ せるようになった。もうそろそろ牙(きば)も毒気(どくけ)も抜けて、自分たちに、襲いかかってくるこ とはなくなったろう、と踏んで。  本当の 危険思想家であり、生来の 過激派の言論人である吉本の発言を、そのまま全部、はっきりと掲 載する商業出版物は無かったのだ、と私は思う。吉本が死んでから、「戦後最大の思想家だった」という献 辞を一様に訃報として、新聞各紙は書く。が、彼らこそは、日本の民衆革命を圧殺した側の、張本人たちだ。 自分たちが、日本国をあやつる支配者、権力者の側にいることを、彼ら自身はよくよく知っている。その中 の、個々の記者や編集者が、自分は 善良であり、善意であり、吉本の思想をよく理解した、などというふ りなどしてみても、何の言い訳にもならない。  日本の戦後もまた、ずっと裏切られた革命と、民衆の生活苦と、喘ぐように生きるサラリーマン大衆の苦 しい日常が続いている。自分がいつ会社を首になるか分からない恐怖感の中で、大企業エリート社員たちま でが、脅(おび)えなら生きている現実が続いている。ちっともいい国にはならなかった。  過激派の教祖として、永遠の革命家(マルクス・レーニン主義者)として生きた吉本隆明が、不遇のまま 終わった、というのは、それはそれで当然のことだ、という冷酷な判断も一方でなりたつ。戦いに負けた方 の人間なのでありその理論指導者だったのだから。  日本の戦後を生きた すべての政治知識、政治運動への関与人間たちは、すべて敗北者であるのに、その 自分たちの敗北を今も全く、自覚せず、その責任を感じて引き受けようとした者は今も少ない。どうせ頭の 鈍い人間たちなのだ。自分のことしか眼中にないで、ペラペラと話す者たちだ。 この吉本が言った、「敗 北の構造」を抱きしめたまま、私たち吉本に後続(こうぞく)する世代までが、無残な夢破れた、あれこれ の政治参加のあとの、慙愧の無念の 残生(ざんせい)を生きているのである。  私は、もっともっと吉本隆明について、彼の死を契機にして、書きたいことがある。追い追い書いてゆく。 それに連れ添う一人一人の同時代の日本知識人たち(今や、私の同業者たちだ)への素描や、厳しい評価も これから書いてゆく。私は、なにごとも隠さないで自分が知っている限りのことを正直に書いて残してゆく つもりだ。  吉本が死んだ知らせを受けて、私は、すぐに彼の家に行こうと思った。が、親しい編集者から「家族だけ で、ひっそりと葬儀をするそうだ。騒がないで静かにしていてほしい」と言われたので、私は、吉本隆明の 家に弔問に行く時間を昨日、逸した。 ところがその編集者は、自分は吉本の家に上手に入って、吉本の死 に顔を、昨晩、拝んでいるのだ。しまった、と私は思ったがもう遅い。他の編集者たちは、メディアの人間 たちと一緒に吉本の家の前で、ずっと昼過ぎまで立っていたという。   その人からも話は聞いた。 そして自分の知るかつての吉本主義者たちに、連絡を取ってみた。が、ほと んどは、もう耄碌(もうろく)ジジイになり果てていて、自分自身が、70歳が近くなって、身動きが取れ ないような状態の者ばかりだ。老いさらばえたかつての活動家たちの姿だ。  今日17日の夜がお通夜で、明日が告別式(葬式)だと聞いた。どこの斎場で式が行われるのかも、まだ 分からないが明日は、私も出かけてみようと思う。  死者を送る、野辺送りが、「本人と家族の意思で、そっとしておいてほしい」ということであれば、その ようにしてあげるのが、たしかに思慮のある人間の取る行動だ。しかし、本当にそれでいいのか。 吉本隆 明の遺体(死体)は、その家族(遺族)のもの(所有物)であるから、その処分の判断に従わなければどう せ済まない。 吉本隆明自身は、「家族葬か、出来れば町内会の主催でやってほしい」と言っていたという。 もうそういう時代でもない。  だが、密葬で、家族・近親だけで静かに執り行いたい、と言われて、はい、それに従います、というだけ では、私はどうも済まない気がする。公人(パブリック・パーソネッジ public personage )には、公人と しての 果たすべき役割がある。いくら敗北した民衆革命の悲劇の指導者、革命家の死であると言っても、 ひっそりと済ませて、葬儀の場所も公表しない、ということでいいのだろうか。  すすんで自分も葬儀に参加したい、というかつての吉本隆明の本の熱心な読者たちを葬儀場に受け入れる だけのことは、するべきではないのか。 往年の吉本主義者たちは、今は、もうほとんどが65歳以上のジ ジイ、婆(ばばあ)たちだ。それを全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)という。   そういう人が、まだ少なくても一万人ぐらいは生きている。 私は、今58歳で、吉本主義者の下限の年 齢の人間だ。本当に私より若い歳の人間で、過激思想家・吉本隆明に のめり込んだ者はあまりいないはず だ。糸井重里(いといしげさと)と坂本龍一(さかもとりゅういち)でも私より数歳は、上だ。  社会的に公人(こうじん)の死者の死体(遺体)は、本当に家族、血縁者たちだけの所有、処分物でいい のか、と私は思う。 言論人、作家、芸能人 も民間人であるから、公職にないから、私的な私人としてのひ っそりとした死に方を選ぶなら、それでいい。 だが、敗北した民衆革命の偉大な思想家の死 を(そう思 う人たちが現に、一万人ぐらいは今もいる以上 )それを、国民的な課題として大きな葬儀が行なわれない、 というのは、私は、どうも間違った考えだと、今、思うようになった。  死んでしまった吉本を、偉大な思想家でしたと、称賛するだけなら、それは口先だけのことだ。ふざけた 連中だ。 しんみりとしてみせるだけの、自分が温厚で、世間体(せけんてい)と秩序を大事にする常識人 として振る舞いたいだけの 偽善有名人たちの 偽善者の追悼のコメントを、私は、読んで、本当に腹の底 から不快がこみ上げた。   石原慎太郎というアメリカへの買弁(ばいべん)人間の元文学者 ( 三島由紀夫とは比べ物にならない、 愚劣な、反革命の右翼人間だ )までが、吉本を褒めて追悼していた。吐き気がする。どうして、石原は、 あれほど毛嫌いしたはずの、敵の吉本を、褒めるのだ。お前は民衆を毛嫌いする反革命なのだ。それが、死 者を弔うに当たっての、大人の態度だからということになるの、か。本当に、ここまで悪質な完全な政治人 間にまでなりあがったものだ。自己愛しかないくせに。  今の、ひどい不況下(本当は恐慌のさなか)の日本では、「もう葬式はいらない、戒名(位牌、いはい) もいらない、坊主のお経もいらない、墓もいらない。骨は砕いて草木に撒けばいい(樹木葬)」という時代 である。そういう本が、何冊も出て理解者を増やしている。  ごくごくの近親者だけの、内密の密葬(みっそう)で家族葬だけでやっておしまい、というのは、一般人 の場合は、それでいい。もう葬式どころか、家族もいなくて、アパートで孤独死して、死体を市役所の職員 が片づけに来る、という死に方が増えてゆくだろう。 だが、吉本隆明までも、そのような貧しい庶民の葬 式でいいとは、どうも私は納得がゆかない。 一切の華美で派手な形だけの葬式は、もう贅沢で醜悪なだけ だ、という時代なのか。    だが、私は、この考えと風潮に逆らう。そのようにたった今、決めた。 吉本隆明の魂(たましい)を十分に引きずっている私は だからこそ自分の葬式は、公然と、きちんとやっ てもらおうと思う。今のうちから家族(奥さんと息子)と、それから弟子たちに頼んでおく。これからその 手順の希望を彼らに提出する。    自分の死体が、病院から出されたら、そのまま葬儀場(メモリアル・ホール)に運んでもらって保冷剤で 冷やしたまま、3日間、通夜と告別式まで、ずっとそこに置いて、棺桶の中の死体を、衆参者に見せるべき だ。  それが世界基準(ワールド・ヴァリューズ world values )の葬式というものだ。 だから私の場合は、 3日間の間、葬儀場に死体があるから、時間の都合のつく人で来たいという人には全員来てもらいたい。 そして、そこに、そまつな食事と安い酒をふんだんに準備して、盛大に3日間、宴会をやってほしい。葬儀 場は料金さえ払えば、これぐらいは当然してくれる。  そこには、私の筆で、「ここでは余計な話はしないで、副島隆彦のことだけ話してください。悪口はいく ら言ってもいいです。マイクを準備しておきますから、発言したい人はどんどん発言してください 」 と 書いて遺しておこうと思います。それが、人が集まってこその葬式(野辺の送り)というものだ。    私は、今、「阿弥陀如来(あみだにょらい)と、観音菩薩(かんのんぼさつ)と、弥勒菩薩(みろくぼさ つ)というこの3人の モ女神モは、一体、何者なのだ。どこから来た人たちなのだ。お釈迦様(ゴータマ・ ブッダ)と別人じゃないか。  本当は、イエス・キリストの奥様だった、マグダラのマリアさまだろう。この2千年間、ウソばっかり、 民衆に教えるなよ」という本を書いている。この本は、絶対に夏までに出す。  阿弥陀さま、観音様に、すがりついて「助けてください。助けてください。私たちを、動物みたいに残酷 に扱わないでください」 と、「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」にすがりついた、貧しい民衆を、キリ ストも 釈迦(ブッダ)も 「よし。助けてあげよう」 と、必死で闘った。 ・・・・そして、実は、民 衆を救済(サルベーション)することは出来なかった。   裏切られた革命だ。 人類の歴史は、そのようにして、ずっと悲しく、みじめに続いて、今に至る。 吉 本隆明は、この他力本願(たりきほんがん)の、浄土門 の親鸞上人(しんらんしょうにん)の 、民衆救 済 の思想を生きた思想家だ。   それに比べて、中国で、7世紀に起きた 禅宗(ぜんしゅう)は、日本にも伝わったが、その本態、本性 は、小乗(しょうじょう、ヒーナーヤナ)仏教であり、「民衆の救済などできない。ありえない。自分一人 を救済するための修行に打ち込め」という自力(じりき)の思想の、いやらしい エゴイズムの仏教である。 こっちが金持ちと、支配者のための仏教となる。   この世は、自力(じりき)だけであり、他人の救済など知ったことではない、という悪意の 十分に、真 この世の、大人(おとな)たちの支配する世の中である。  私は、吉本隆明から、40年間、学ぶだけ学んだから、何でも受け継いでいる。 吉本隆明を支えた革命 への幻想、あるいは幻想の革命 から、少し離れて1994年からは、自分の足で歩き始めた。革命はもう 無いあとの、自分の生き方を必死で切り開いた。ここでは、私は、自力本願に学んだ。   だが、それでも、私、副島隆彦もまた、吉本の後に続いて、最期まで、民衆救済のための知識人、言論人 として生きて、死んでゆこうと思う。   自分は、権力者や支配者の冷酷な自力(自分だけの救済で十分だ)の思想の方には行かない。だから私の ために、集まってくれる人が集まって、私の葬式をにぎやかにやってもらいたい。   日本が生んだ悲劇の民衆思想家として、その恵まれず、かわいそうだった 吉本隆明 の魂を、私は引き 継いで、ひきずってもうあとしばらく生きよう。そして、次の世代に、日本における 真の過激派の思想と いうものの 強靭な遺伝子をあとに繋(つない)いでゆく。この灯を消すわけにはゆかない。   追悼、吉本隆明 先生 。 副島隆彦拝 (転載貼り付け始め) ・「 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想  」 2012年3月16日 スポニチ   16日亡くなった評論家吉本隆明さんは、常に時代と真正面から向き合い、格闘を続け、鋭い言論で若者 たちに大きな影響を与えた「カリスマ」だった。  既成の左翼運動を徹底批判して新左翼の理論的支柱になった吉本さん。1968年に刊行した「共同幻想 論」は難解な思想書でありながら、全共闘世代の若者に熱狂的に支持され、同書を抱えて大学のキャンパス を歩くのが流行した。  高度消費社会を積極的に評価した80年代には、女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンの服を着て 登場。その姿勢を批判した作家埴谷雄高さんと資本主義や消費社会をめぐって激しく論争した。  若者を引きつけた吉本思想の根底には、一般の人々の生活を立脚点とする「大衆の原像」と呼ばれる理念 があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこと」。自らも含めた知識人の思想 的課題をこう定めた吉本さんは、60?70年代の新左翼運動でも、消費社会化という時代の転換点でも、 常に「大衆」と共にあった。  戦後知識人の転向問題からアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に至るまで、批評の対象は驚くほど多岐に わたり、文学も思想もサブカルも同列に論じた。残された数々の著作は、一貫して時代と格闘し、「大衆」 と共に歩んだ「知のカリスマ」の足跡でもある。 (転載貼り付け終わり) 副島隆彦拝 注記等 http://www.snsi.jp/bbs/page/1/view/2576
刊行形態 Blog Article 著者 奈良県立図書情報館 刊行年月 120319 標題 図書展示 「追悼 吉本隆明氏」 平成24年3月17日(土)〜4月1日(日) 掲載誌(紙・書)名 奈良県立図書情報館イベント情報 出版地 奈良 掲載頁 http://eventinformation.blog116.fc2.com/blog-entry-769.html 掲載年月日 2012.3.19 区分 図書展示 キーワード 見出し・語録 図書情報館では、3月16日に亡くなられた吉本隆明(よしもと・たかあき)さんの業績を偲び図書展示 「追悼 吉本隆明氏」を開催します。戦後の思想界に大きな影響を与えた評論家で詩人の吉本隆明さん の著作を展示し、足跡をたどります。 吉本氏は、1952年に私家版の詩集『固有時との対話』を刊行し、1954年には「マチウ書試論」で思想 界にもデビュー。1960年代や70年代にかけて「自立の思想」にもとづいて発表された『言語にとって 美とはなにか』、『共同幻想論』や『心的幻想論序説』などは、当時の学生を中心とした若者やマスコ ミ、思想界ほか各界に大きな反響を呼びました。80年代からは、文学評論、宗教論などの幅広い評論活 動の他に、サブカルチャーにも目を向け、表現論と大衆論を融合させた『マス・イメージ論』や『ハイ・ イメージ論』を発表しました。2003年には『夏目漱石を読む』で小林秀雄賞を、『吉本隆明全詩集』 で藤村記念歴程賞を受賞しています。 本展示では、氏の代表作の詩集、論考・批評をはじめ、各界の第一人者との対談などを取り上げ、その 足跡の一端を紹介します。 注記等 「追悼 吉本隆明氏」展示資料リスト http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/memory_of_Takaaki_Yoshimoto.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 加藤典洋 刊行年月 120319 標題 吉本隆明さんの死に際して 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[夕刊] 出版地 掲載頁 掲載年月日 2012.3.19 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 「誤り」「遅れ」から戦後思想築く 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 中沢新一 刊行年月 120319 標題 吉本隆明さんを悼む 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[夕刊] 出版地 掲載頁 8 掲載年月日 2012.3.19 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 跳躍を埋める忍耐強い思考 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 北川透 刊行年月 120321 標題 吉本隆明さんを悼む 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞 出版地 東京 掲載頁 26 掲載年月日 2012.3.21 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 冬の圧力の真むこうへ  吉本隆明さんの訃報を受けて、長い瞑目の時を持った。そして、あらためて吉本さんの生涯は詩人だっ た、と思う。 《世界は異常な掟てがあり 私刑(リンチ)があり/仲間外れにされたものは風にふきさらされた》  これは吉本さんの詩「少年期」の二行だ。少年期における仲間外れ。それを経験しないまでも、怖れた ことのない人はいないだろう。詩人はこれを追憶として書いているのではない。家族、友人仲間から教団、 党派、国家にいたるまで、人は様々なレベルの掟や法を内在させた、共同の関係から逃れられない。それ を視野に置いた関係の違和、不服従、追放の惨劇をたどる少年期の原型を、ここに見定めようとしている。  これと同時代の『転位のための十篇』や『固有時との対話』などの詩集も含めて、吉本さんが、まだ二 十代の半ばから、三十代の初めに書いた詩篇が、いまに甦るのを感じるのは、東日本大震災後のウソのな いことばを求める状況があるからだろうか。それだけと思えないのは、吉本さんが、以後、展開する思想 的・理論的なモチーフの強度が、ここに孕まれてるからだ。  その逆の見方も、また可能だ。吉本さんほど、詩や文学が成立する土壌としての、基盤としての、自前 の思想や構築に生涯を費やした詩人はいない。わたしは一九五七年、大学の四年生になった頃、初めて吉 本隆明の著作『文学者の戦争責任』を読んだ。その昂奮がなければ、(旧)書肆ユリイカ版の『吉本隆明 詩集』を求めることもなかった。それは凄い本だった。私の詩や文学への甘っちょろい夢を吹き飛ばした。  ヨーロッパの最先端の意匠で装うモダニズムの詩も、マルクス主義や、近代的な自我の詩も、戦争下に おいてすべて無惨に崩壊したという、戦慄すべき事態。そこでは、いかに新しそうでも、いかに恰好よく 見えても、輸入された付焼刃の知識や感覚の遊戯、孤高を誇る自意識では、役に立たないことが語られて いた。新しい知識や感覚自体が駄目なのではない。それを身につけようとする時、遅れた底辺の社会に浸 透する法や制度、意識やモラルと格闘しながら、自前の思想、感覚、方法を身につけるたたかいをして来 なかった。そこに日本の詩の脆さがある。それをしなければ、戦争詩や翼賛文学は繰り返される、という 強い自覚、開眼。  ここから始まる一九六〇年以降の思想のたたかい。確かに吉本さんは、詩「ちいさな群への挨拶」でう たったように、たった一人、手ぶらで《冬の圧力の真むこうへ》と出ていった。吉本思想のキー・ワード 〈自立〉は六〇年安保闘争における旧左翼との訣別・。擬制の終焉から出てくるが、すでに五〇年代の詩 のモチーフや、詩人の戦争責任を問う論理に内包されていた。そして、何ものからも独立する表現の場の 確保のために、『試行』の創刊。  そこにすべての党派的な文学観を否定した、『言語にとって美とはなにか』の連載。一方、戦争下にお いて、ほとんどの詩や文学が、回帰していった庶民意識や国家の問題は、『共同幻想論』として原理的に 探求される。さらにそれは意識と無意識、狂気と正気、悪はなぜ根拠を持つのかなど、心的現象のすべて を解明する終わりのない試みに引き継がれる。『心的現象論』、『最後の親鸞』等々。  わたしが吉本さんと『現代詩手帖』誌上で対談したのは、ソ連、東欧の社会主義の崩壊した後の世界認 識を先取りして書かれた、『マス・イメージ論』と『ハイ・イメージ論』の中間、一九八四年十二月だっ た。吉本さんが変質する高度資本主義のなかで、多元的な文化の在り方について、大胆な仮説を展開して いた時だ。吉本さんについてのわたしの印象は、大きな耳を持った人。  むろん、自説は、訥々とした口調ながらも、断乎として主張されるが、わたしなどのつまらぬおしゃべ りにも、じっと耳を傾けられた。その感銘を思い起こしながら、「ちいさな群への挨拶」の二行を噛みし めたい。  《ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる/もたれあうことをきらった反抗がたおれる》  (きたがわ・とおる=詩人)  ◆  *詩人・評論家、吉本隆明さんは16日死去、87歳。 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 めい 刊行年月 120321 標題 <追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になった 掲載誌(紙・書)名 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 出版地 掲載頁 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-21 掲載年月日 2012.3.21 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  ネットで好悪入り乱れた吉本に対する評価を読んでいるうち、あらためて吉本への自分なりの思いを整 理したい気持ちになって書いた。    *   *   *   *   * <追悼・吉本隆明さん> あなたのおかげで大人になった 訃報を知ったのは亡くなった3月16日午後9時のNHKニュースだった。翌日の山形新聞には1面と社会面と に大きく取り上げられた。訃報そのものには、そういうときが来たかということでさほどの驚きはなかっ たのだが、世の中の扱い方に驚いた。いつの間にか世の中にここまで認められる存在になっていたのか。 関わった自分の昔を思い、いささか晴れがましい気持ちにもなった。 吉本との出会いは21歳の頃だった。何よりも揺るがない自分を求める時期だった。当時の主著『自立の思 想的拠点』は、まさにその求めにふさわしい書名だった。当時持ち歩いていたノートから自分の思考のあり 方の過程をたどってみると、明らかに吉本以前と吉本以後に分けられる。吉本以前のものは今読むとこっぱ ずかしい。吉本以後になってはじめて今の自分に通ずる自分が見えてくる。大人にしてもらったのだと思う。 忘れられない一節が、初期作品「エリアンの手記と詩」にある。 《エリアンおまえはミリカを愛しているだろうが、色々な事は考えない方がよい 心の状態だけを大切にし なさい おまえがミリカと結ばれるかどうか、それはお前の考える程、簡単には決められない 運命がそれ を結べば結ばれようし、結ばれなければそれまでだ 人の世はそのように出来ている≫  心の状態だけを大切にしなさいーーこのフレーズをどれだけ胸の内で繰り返してきたことか・・というこ とはともかく、この一節に、私が思う吉本的感覚の原点が凝縮されている。そこをヒントに、広大な吉本思 想の根っこにあるいわば思考の原理とでもいえるものを乱暴承知で三つ抽き出してみると、 @ひとりで思えば思うほど、思いは世の中からはなれていって、いずれ世の中に対立してしまう。(自己幻 想と共同幻想の逆立性) Aふたりのあいだの思いは無理なく溶け合わせることができる。細胞レベル、遺伝子レベルで呼び合う恋愛 はその極致である。(対幻想) B自分でどう思ったからどうなるというものではない。自分の意思に先立つ人と人とのつながりというもの がある。(関係の絶対性) である。 吉本思想の難解さが言われるが、論理の積みかさねを解きほぐしてゆく類(たぐい)の難解さではない。詩 人として出発した吉本が、自分の感覚にこだわりつつ繰りだす造語による議論の展開につきあうことはたい へんなことだ。私もどこまでつきあいきれたか、積読ばかりで読者を名乗るもおこがましい。しかし、その 向こうには、かならず信頼に足る吉本の<感覚>があった。吉本に惹かれたのはその<感覚>への憧憬であ り共感だったのだと思う。  「初期ノート」に次の言葉がある。 《結局はそこにゆくに決ってゐる。だから僕はそこへゆこうとする必要はないはずだ。ここをいつも掘下げ たり切開したりすることの外に、僕に何のすることがあるといふのか。≫ いま自分がいる場所をひたすら深く掘下げることが吉本が自らに課した仕事だった。吉本を読むことは、読 者自身が拠って立つ場所を掘下げることを強いられることだった。そしてある時ふと気づく。吉本が言って いたのはこのことだったか、と。そして吉本の言葉は読む者の中で生命が吹き込まれ肉体を持つ。吉本のす ごさはそこにある、そう思えた。   生きておられるうちは、こんなわかったようなことはとうてい書く気持ちにはならなかった。生きているう ちは、どこにどう行くか、どう変わるかわからない。その主導権は本人にある。そうして、いま完結した。 その結果どのような外からの勝手な解釈も可能になった風だ。ネット上にはいろんな吉本に対する言葉が飛 び交っている。 25年前、もうこれで吉本は卒業しようという思いもあって「吉本隆明25時ー24時間講演と討論」と題する イベントに行ってきた。初めて吉本の生の声を聴いた。しかし、そのイベントの吉本は「私にとっての吉本」 からはもうだいぶ距離があった。広大な吉本の思想領野を見晴るかすことなどとうてい自分の及ぶところで はない。次第に思い出の人になっていった。しかし、亡くなって後、よくも悪しくもいろんな吉本評価を目 にして、あらためて、おれにもおれの吉本がある、と思うようになっていた。その思い入れがこの追悼を名 目にした文を書かせている。(つづく) 注記等 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-21
刊行形態 Blog Article 著者 依田圭一郎 刊行年月 120324 標題 言い慣らされてゐる言葉のやうに僕もやはり有りふれた言葉をつげよう。再び出遇はない星に対しては 〈アデユ〉を、また遇ふべき星に対しては〈ルヴアル〉を用ひて。(エリアンの感想の断片) 掲載誌(紙・書)名 『初期ノート』解説 出版地 掲載頁 http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20120324/1332559973 掲載年月日 2012.3.24 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明が亡くなった。3月16日の金曜日だそうだ。私が働いているデイサービスの近所の日本医科大学病 院に入院していてそこで亡くなったらしい。なにも知らなかった。 吉本さんが亡くなったと知ったのは18日の日曜で副島隆彦の学問道場というホームページの副島隆彦の追悼 の文章で知った。一瞬動揺した。吉本さんの思想が生み出されない世界が始まるということに動揺したのだ と思う。しかしどうなるものでもない。 わたくし事だが昨日高校時代の友人が昨年末に亡くなっていたということを知った。私は彼をちゃん付けで 呼んでいたが、成人になってもちゃん付けで呼んでいたのは彼ともう一人の小学校時代からの友人だけだっ た。そして二人とも亡くなってしまった。 吉本さんの死とその友人の死で自分のなかの何かが落っこちてしまったような気がする。しかしどうなるも のでもない。 吉本隆明の死に対して一読者としての私が言う言葉を探してみたが、心から言えるのはやはり「ありがとう ございました」という感謝だと思った。吉本の表現や思想に出会えなかったら、どんなにか生きづらかった だろうとほんとに思う。いや生きづらいのは同じかもしれないが、現実に対して考えるという構えを持つこ とができるということが、心の苦しみとしては半分解決したようなものだ。その考える構えをもつことを吉 本隆明に教わった。吉本が考えたことを追うときに、考えるということが自分を取り巻く社会に対しても、 もっと大きく歴史や文化に対しても、また自分の処世の卑小なさまざまな悩みや疑問に対しても、家族や男 女の苦しみや喜びに対しても、そしてもっと自分の内奥の心や身体につきまとう不可解さに対しても浸透し ていくことが分かった。これは吉本さん自身の根本的な感覚なんじゃないかと思うが、自分という存在が赤 ん坊のように不可思議な環界にぽつんといて、環界のすべてが異和であるという感覚である。その不可思議 な環界はすべて等価に考える対象とならざるをえない。ひとりでゼロから考えるように考えることをせざる をえない。学問の対象だから考えるとか、仕事の対象だから考えるとか、時代の思潮だから考えるというこ とではない。生きていること自体が異和を感じさせてしょうがないからいつのまにか考えているというよう な感じだ。吉本の本を読むときにだけそういう赤ん坊のようなぽつんとしたあてどのなさに触れることがあ る。きっとそれが私という一読者の心を癒した。そして自分の根底にある感覚を基にして考えることをする ことをするようになったと思う。それがたぶん「自立」ということだ。私は凡庸なにんげんに過ぎないし、 吉本の思想にも誤りはあるであろう。しかしそのことはさほど問題ではない。自分を基にして考えることが できるという構えを身につけることの重要さに比べればだ。 副島隆彦の追悼文は優れたもので、学問道場というホームページの「重たい掲示板」というところに述べら れているから興味のある方は読んでみてください。これが政治的知識人であり、一文筆家、一大衆という立 場を守っていくたびも社会現実に立ち向かい敗北を繰返した吉本隆明の姿を描いた一級の文章だと思う。た だ私には政治的知識人であった吉本を描く資格はない。それができるのは政治的支配層から忌避されいじめ られ冷飯を喰わされ続けるほど影響力のある政治的な主張を貫いた人物だけだと思う。この世にはそんなに んげんもいる。 昨年の福島の原発事故についての吉本の主張が最後の吉本の社会的主張になったのではないかと思う。それ については前に書いたので触れないが、さすがに吉本の主張の正しさと一貫性は各種の原発論議のなかで群 を抜いていた。吉本隆明は思想的に衰えることなく、にじるように這うように進み続けてその人生を終えた。 そのことがとても大きい。こういう人生があるのだということを同時代に体験できたことが一読者としての 私にとっての宝ものだと思う。その原発問題の主張が載っていた週刊誌で吉本はたしか「原個人」という概 念を使っていたと思う。「個」という言葉は吉本がよく使ってきた用語だが、原個人というのは新たに用い た造語だと思う。原個人というのは、その人の育ちや生き様や個人的な感覚のすべてがこもったような個人 の概念だと思う。そこに立ちかえって考えることの重要さを語っていた。それがつまり自立という概念なん だと思う。私はなんとなく吉本がいいたかったことがわかる。私の仕事であるデイサービスのなかで下町の おじいさんやおばあさんがやってくる。しわのなかにシミのなかに長い人生がしみこんだような人たちだ。 こうした人たちは原個人というような気風をもっている。しかしそんなおじいさんたちおばあさんたちが語 ることがすべて原個人的であるわけではない。(それはテレビや新聞で支配層が植えつけた考えにすぎない よ)と思うような考えを述べたりもする。もしもいつかこの世界がましになるとすれば、こうしたおじいさ んおばあさんが語るこの世界のすべてに原個人というものが生き生きと投影される世界になることだと思う。 吉本はそうした世界を生み出すながいながいたたかいの中で前を向いたまま倒れたのだ。それはかって吉本 が賞賛した夏目漱石の生き様と同じものだった。 あ、そうか初期ノートの解説だったんだよね。しまった。アデユというのはフランス語で「さよなら」でし ょう。それは知ってるけどルヴァルというのは知らない。たぶん「またね」みたいなことじゃなでしょうか。 まあこれはロックの歌手が「イェー」とか「ベイベー」とかいうのと同じで外国語がカッコイイと思ってる んだよな。若いんだからしょうがない。 「母型論」を書く余裕がなくなってしまった。まあでもまた書いてみたいと思います。吉本の思想の展開を もう読めなくなったというのはとても悲しいことだけど、吉本が残してくれた存在の感覚が自分にあるうち は考えることができるはずだから。吉本隆明さん、ありがとうございました。安らかに。 注記等 http://d.hatena.ne.jp/syoki-note/20120324/1332559973
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120325 標題 今週の本棚・この人この3冊:吉本隆明=渡辺保・選 掲載誌(紙・書)名 毎日jp 出版地 東京 掲載頁 http://mainichi.jp/enta/book/news/20120325ddm015070036000c.html 掲載年月日 2012.3.25 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  <1>定本 言語にとって美とはなにか 1・2(吉本隆明著/角川ソフィア文庫/1巻780円、2 巻740円)  <2>改訂新版 共同幻想論(吉本隆明著/角川ソフィア文庫/620円)  <3>南島論 家族・親族・国家の論理(吉本隆明著『<信>の構造3』所収/春秋社/2625円)  三月十八日に亡くなった吉本隆明は、私のように六〇年代に青春を送り、多少とも芸術表現について 考えていた人間には避けて通れない人であった。もっとも私は詩に興味がうすく政治運動にもほとんど かかわらなかったから、その著作を選ぶとすれば以下の三冊になる。  <1>は、言語の構造を論じて、そこからどうして芸術的価値が生まれるかを論じた名著。私が興味 を持ったのは当然第二巻の「劇」であるが、それ以上に第一巻の言語の本質論の方が衝撃的であった。 ことにその各論として「万葉集」から円朝、逍遥、紅葉、鏡花から現代作家に至るまでの文学史が私に ものの考え方の基本を教えてくれた。先(ま)ずものの本質をつかむこと、既成概念にとらわれずに広 い視野をもつこと。こう書けば当然に聞こえるが、吉本隆明は、その粘液質な文章で、あるときは粘り 強く、あるときは下町ッ子らしい砕けた書き方で、その困難な作業を進めた。体で思想を書いたのであ る。それが読者に感染した。彼の魅力はそこにあったといってもいい。少なくとも私は、思想は筆で書 くものではないということを教わった。  <2>は、文化の持つ幻想力の総体を「共同幻想」という魅力的な方法でとらえた画期的な著書。私 は自分の本でこの概念を使って山本健吉に「人が苦労して作った方法を簡単に使うべきではない」とた しなめられた。しかしこの方法は魅力的であり、私はその虜(とりこ)になっていたのだ。  ことにこの本の白眉(はくび)は天皇制の核心を論じた「祭儀論」である。天皇制の核心はその即位 儀式にあるが、この儀式の本質は折口信夫や西郷信綱を読んでもよくわからなかった。もう一つピンと こない。ところが吉本隆明の、この儀式を通して天皇が神と農民に向けて二つの別の顔を見せる二重化 を行っている、という指摘ではじめてその本質がわかった。アッという驚きであった。むろん「祭儀論」 はこの本の一部に過ぎない。しかしこの古代儀礼分析によって吉本隆明は社会全体の幻想力総体の解明 に成功した。  <3>は、沖縄の歴史的文化的位置を論じる。この論文を雑誌『展望』で読んだ日のことを私は忘れ ることが出来ない。それは沖縄こそ日本の始源であるという逆転の思想であり、その後沖縄が問題にな るたびに、私はこの論文を読んでからモノをいえといいたくなる。  以上三冊。この三冊がなければ私自身の仕事もなかったろうと思う。 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 大塚英志 刊行年月 120325 標題 時評 吉本隆明私論 掲載誌(紙・書)名 月刊未来まんが研究所 出版地 東京 掲載頁 https://gumroad.com/l/PfD 掲載年月日 2012.3.25 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  「さて吉本隆明の思想についてぼくの小さな関心の中から理解してきたことはそれぞれ重なりあうが以下 の四つに集約できる。  一つは、「大衆」というものを全面的に信頼し肯定する思想であった、ということ。  二つめは、戦後日本社会の大衆たちの達成としての八〇年代の「総中流社会」を肯定する数少ない根拠あ る思想たりえたこと。  三つめは、「大衆」を「啓蒙する」のではなく、大衆から「啓蒙される」ことに真摯であった、というこ と。「大衆を啓蒙する」知識人や前衛はいても、自らが「大衆に啓蒙され続ける」知識人や前衛などこの国 の戦後社会にいかほどいたことか。  四つめは、しかし、大衆に煽動される知識人、あるいは知識人が「空気」流されることや、その「空気」 そのものに常に批判的であったこと。」 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 宮川匡司 刊行年月 120325 標題 詩人・歌人に喪失感:吉本隆明氏の追悼相次ぐ;本の小径 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞 出版地 掲載頁 掲載年月日 2012.3.25 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 めい 刊行年月 120325 標題 <追悼・吉本隆明さん(2)> 「苦しいときに、吾妻連峰の山肌をおもいうかべた」 掲載誌(紙・書)名 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 出版地 掲載頁 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-25 掲載年月日 2012.3.25 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明という名前をはじめて知ったのは、中核派バリバリの先輩が書いたアジビラでだった。理解するに はほど遠い文章だったが、その中に「吉本の米沢時代」という言葉が出てきて、気になりつつ「まさか吉本 が米沢に関係あるなんて・・・」の気持ちが勝っていた。吉本が確かに米沢に住んでいたことが、「らしい」 から確信に変わったのは、吉本を本気で読み出してまもなくだったと思う。「エリアンの手記と詩」の中に 次の文章を見出したときだった。 ≪僕の居る盆地の街は東北と西南の方位に街を両断する大路が走っている そのひとつの片隅に駅があるの だ≫ 次の文もあった。 ≪西南の大路を街外れまで歩むとすすきの峠がある 峠の切通しからは盆地の街が一望に眺められる また 丁度反対の山並を見渡すとゲガン峠のあたりが遠く蔭っている そのむこうにミリカの居る都があるのだ  僕は哀しい日にはすすきの峠に立つ するとどんな懐かしい人たちの面影にも出遭うこと出来るように思わ れるのだった・・・≫  母の実家も、通った高校も米沢の自分には、これらの文章から斜平山や吾妻の山並みに抱かれた米沢の風 景が懐かしく思い浮かんだ。他ならぬ吉本によって、遠く離れた異郷の地で故郷を思い起こす感傷を得るこ とができたのだった。  吉本は、昭和17年から19年の夏まで米沢高等工業生として多感な時代を米沢で過ごした。『初期ノート』 に吉本が自らの歩みをたどった「過去についての自註」がある。その中に、吉本が置賜に住んで感じ取った 東北の自然が記されている。 う253米沢遠景.jpg ≪東北の「自然」は、けつして巨きくもなければ、けわしくもないが、やはりそれ独特の風貌をもっている。 ・・・一言にしていえば、動きやけわしさが、つぎの瞬間にはじまるかもしれないのに、それ以前に冷たく 抑制している「自然」とでも言おうか。身をすりよせようとすれば、少しつめたく、怖れを感じさせるには、 何となく親しい単純さをもちすぎているといった感じである。街をとりまく丘陵から、その後方に並んでい る吾妻連峰にいたるまで、この感じはかわらない。≫ 「自然」にことよせて言っているが、私には、米沢で暮らすことで感じ取った置賜の人々への印象のように 思えてならなかった。   う252米沢時代の吉本.jpg 10数年前、吉本の米沢時代を調べて私家版にまとめられた方が米沢におられることを知ったときはうれしか った。九里学園高校の斎藤清一先生だった。早速吉本への私なりの思い入れを手紙に認め、2冊になった冊子 を送っていただいた。その後の発行分も含め、『米沢時代の吉本隆明』という単行本になって平成16年梟社 から出版された。この本によって吉本の米沢時代をつぶさに知ることができる。当時の吉本の数々の写真から 学籍簿までもが収録されている。吉本が残した米沢についての文章も多い。先の「過去についての自註」から の文章のあとに、昭和32年同窓会誌『親和会』に寄せた「昭和十七年から十九年のこと」からの引用がある。 うれしい文章だ。  ≪米沢の自然の印象は、そのあともわたしを随分たすけた。都会で育ったせいもあるかもしれぬが、色々な 苦しいときに、日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかにおもいうかべた。人間と人間との入りく んだ心の関係、人間と社会との矛盾の奥深くのめりこんでどうにもならないとき、その風景の印象は、私の思 考を正常さにもどしてくれた。これからもそうであろう。≫ 実は、私も吉本氏と電話でだが言葉を交わしたことがある。昭和60年前後、宮内幼稚園を会場に『詩人の会』 という催しが数年にわたって開催されたことがある。谷川俊太郎、吉野弘、大岡信、團伊玖磨といった方々の お話をワイングラスを傾けながらお聴きするという贅沢な集いだった。しばらく途絶えた後、段取り役の足立 守園長に吉本氏を提案したのだった。渾身の依頼状だったはずである。しかし、電話でお伺いしたご返事は 「詩人なら私よりももっとふさわしい方がいる」という素っ気ないものだった。詩人の名前をふたりほど挙げ られたのだが記憶にない。今は吉本氏の気持ちがわかるような気がする。「詩人」の会では心を動かすことが できなかったのだ。斎藤氏の「あとがき」に、吉本氏が昭和61年に奥様と共に半日だけ米沢で過ごされたこと が記されている。しかし、置賜で講演していただく機会はとうとう逸してしまった。あのときのことを思うと、 悔いとともに責任を感じる。東京まで出向いてでもお願いすべきだった。しかし正直に言えば、そこまでする には、私にはあまりに畏れ多い存在だった。(つづく) 注記等 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-03-25
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120326 標題 吉本隆明氏 麻原擁護発言時に産経新聞に抗議電話殺到した 掲載誌(紙・書)名 Newsポストセブン  巻 号 掲載頁 http://www.news-postseven.com/archives/20120326_97190.html 掲載年月日 2012.3.26 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  3月16日に息をひきとった「戦後最大の思想家」吉本隆明氏(享年87)。全共闘運動の思想的支柱だっ た吉本氏は、80年代に入ると大衆消費社会を肯定的にとらえる思想家となった。その一つの象徴が、雑誌 『an・an』1984年9月21日号に掲載された2ページ記事である。    もんぺや軍服、あるいはヌードに言及しながら展開するファッション論とともに、コムデギャルソンの 服を身にまといモデルをつとめる吉本氏の写真が載っている。なお、この記事は後に作家・評論家の埴谷 雄高氏から「資本主義のぼったくり商品を着ている」「それ(記事)を見たらタイの青年は悪魔と思うだ ろう」と批判した。吉本氏はこう答えた。   〈先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような 消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです〉(『重層的な非決定へ』)    同じ1984年に刊行した『マス・イメージ論』では、中島みゆきや糸井重里氏などを取り上げながら、 マスメディアに登場する言葉やイメージを解読した。その頃、糸井氏とも親交を結ぶ。    1980年代から1990年代には、吉本氏は大衆から批判を浴びる存在にもなった。    1982年1月に作家36人の連名で掲載された新聞広告「文学者の反核声明」に端を発した反核運動は、 同年5月には2000万人もの反核署名を集めた。この運動を吉本氏は批判した。東京工業大学大学院教授 の橋爪大三郎氏が指摘する。   「科学者の訓練を受けた吉本氏は、科学が時代を拓く先進性を持っていること、同時に危険と限界を持っ ていることを弁えていました。ナイーブな反対に見えて、政治的文脈を隠し持った当時の反核運動に反対 したのはそのためです。大勢がバランスを欠いて一方向に流れる時に、氏の危機意識が働いたのでは」    1995年3月に発生したオウム真理教による地下鉄サリン事件について、9月5日の産経新聞のインタビ ューではこう答えた。   〈うんと極端なことを言うと、麻原さんはマスコミが否定できるほどちゃちな人ではないと思っています。 これは思い過ごしかもしれませんが、僕は現存する仏教系の修行者の中で世界有数の人ではないかという くらい高く評価しています〉    この“麻原擁護”の発言は知識人の批判を呼び、産経新聞社には抗議の電話が鳴り止まなかったという。 注記等 週刊ポスト2012年4月6日号
刊行形態 Newspaper Article 著者 中島岳志 刊行年月 120327 標題 徹底した単独者のすごみ:吉本隆明がいた1 掲載誌(紙・書)名 京都新聞 出版地 京都 掲載頁 15 掲載年月日 2012.3.27 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 その態度自体が思想そのもの 注記等 2012年4月6日「徹底した「自立」のすごみ」として「高知新聞」に掲載
刊行形態 Blog Article 著者 近藤洋太 刊行年月 120327 標題 吉本隆明の死 掲載誌(紙・書)名 空瓶通信 出版地 掲載頁 http://blog.livedoor.jp/kondoyota/archives/50347915.html 掲載年月日 2012.3.28 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 本分[PDF]URL:http://kondoyota.com/aki019.pdf
刊行形態 Newspaper Article 著者 大塚英志 刊行年月 120328 標題 不思議で幸せで怖かった:吉本隆明がいた2 掲載誌(紙・書)名 京都新聞 出版地 京都 掲載頁 掲載年月日 2012.3.28 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 サブカル談義 気迫に圧倒され 注記等 2012年4月7日「大衆から学ぶ“知の巨人”」として「高知新聞」に掲載
刊行形態 Newspaper Article 著者 鹿島 茂 刊行年月 120328 標題 引用句辞典 不朽版 鹿島茂 吉本隆明さん 大思想家を規定した人生最大の事件 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞 出版地 東京 掲載頁 掲載年月日 2012.3.28 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  わたしは五年生になると早速、親たちから知合いの先生の私塾に行けといいつけられた。なぜ率直に応じ たのかよくわからない。 (中略)  わたしはあの独特ながき仲間の世界との辛い別れを体験した。別れの儀式があるわけでも、明日からてめ えたちと遊ばねえよと宣言したわけでもない。ただひっそりと仲間を抜けてゆくのだ。もちろん気恥ずかし いから勉強へ行くんだなどと口に出さない。すべては暗黙のうちに了解される。昨日までの仲間たちが生き 生きと遊びまわっているのを横目にみながら、少しお互いによそよそしい様子で塾へ通いはじめた。私が良 きひとびとの良き世界と別れるときの、名状し難い寂しさや切なさの漢字をはじめて味わったのはこの時だ った。これは原体験の原感情ともいうべきものとなって現在もわたしを規定している。 (吉本隆明『背景の記憶』から「別れ」 平凡社ライブラリー)  吉本隆明さんが亡くなった。「偉大なる」という形容詞が掛け値なしに当てはまる唯一の戦後文学者であ った。  私はさきに『吉本隆明1968』という本を上梓しして、私たち団塊の世代が吉本隆明をどう読んできた かを明らかにしたつもりだが、そのさい、読者から「フランス屋」の私が「吉本主義者」であったとは意外 だという反応が多々あった。これに対しては、家に一冊も本がない家庭に育った人間がフランス文学なんて 縁遠いものをやろうと決心するには、吉本隆明を徹底的に読みこむ必要があったのだよと答えるほかないが、 それだけでは説明になっていないかもしれないので、右の文章を解説することでその代わりとしよう。  月島で船大工の息子として生まれた吉本隆明にとって、人生最大の事件は小学五年生になった早々に起こ った「良きひとびとの良き世界」との別れであった。昨日まで日が暮れるまで遊んでいたがき仲間からひっ そりと抜けて塾通いを始める。それは、実家が豊かになり、三男なら工業学校にでも進学させようかという 親の配慮だったのだろうが、この選択が後の大思想家を生むと同時に、「原体験の原感情というべきもの」 を与えることになる。というのも、親から命じられて塾通いを始めることにより、吉本隆明は、生活以外に 徹底して無関心である大衆から離脱し、最終的には世界認識の最高水準にまで到達する大知識人となるわけ だが、これは彼にとってはかならずしも「良きこと」とは映らず、「名状し難い寂しさや切なさの感じ」を 呼び起こすことになったからだ。  この意味で、吉本隆明の全著作は、ひとりの人間が知識を得て、大衆から離脱し、知的営為を行うという ことの意味を徹底的に考えることに費やされたといっても言い過ぎではない。そして、そこから引き出され た結論の一つが「もしすべての現実的条件がととのっていると仮定すれば、大衆から知識人への上昇過程は、 どんな有意義性ももたない自然過程である」(『自立の思想的根拠』)ということである。  私になりに言い換えると、自分の損得しか考えない大衆が良くも悪くもないのと同様に、生活外のことば かり考える知識人も良くも悪くもない。また前者から後者への移行も良いとか悪いとかいった倫理的な意味 が付与されるべきものではなく、ある種の必然である。だから、いったん知的過程に入ってしまったものは、 「大衆はバカで知識人は偉い」とも「大衆は偉くて知識人はバカだ」とも考えず、ひたすら自らの知的営為 を深めて、世界とはなにか、人間とはなにかを徹底的に考えるほかはない。それしか、社会から与えられた 富を社会に還元できる方法はないからだ。  ただし、そのとき、知識人にとって、自分と家族の損得しか考えない大衆の原像を自らの思想の強度の試 金石として織り込んでいくことが絶対に不可欠だ。これなくしては、どんな高尚な思想も無効だからである。  以上が『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』等の代表作に向かう前に吉本隆明が 総括した思想、すなわち「大衆の原像」なのである。  というわけで、フランス文学者となったいまも私は「日本人」が「日本語」でフランス文学やフランス文 化のことを語ったり書いたりするという浮ついた営為の意味を、かつての大衆たるもう一人の自分に問いか けずには一行も書くことはできないのだ。  若き日に吉本隆明を読んだという「原体験の原感情」が「現在でもわたしを規定している」のである。合 掌。(かしま・しげる=仏文学者) 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120328 標題 吉本隆明氏 「バカなことさせる番組はいい」と電波少年出演 掲載誌(紙・書)名 Newsポストセブン  巻 号 掲載頁 http://www.news-postseven.com/archives/20120328_97500.html 掲載年月日 2012.3.28 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  吉本隆明氏(享年87)は、夏の休暇は必ず西伊豆の土肥で過ごしていた。水泳は得意だったが、1996 年8月には土肥町の海岸で遊泳中におぼれて一時意識不明になった。当時の新聞は、診察した医師によれ ば「事故のあった付近は水深1.2メートルと浅く、飛びこんだ時に海底で頭を打って脳しんとうを起こし た可能性が強い」と伝えている。  後に作家・辺見庸氏に語った。 〈少し離れたところを子供が浮き輪や浮き板を使って泳いでいたのはわかっていたんです。それに近付い ていって掴まれば溺れずにすんだのかもしれないけれど、そうはしなかった。あ、あっちは違う世界だな。 俺がこんな死ぬか生きるかみたいな顔をして、いきなり子供の浮き輪にしがみついたりしたら悪いな、こ れはぜんぜん違うことだよな、なんて思って〉(『夜と女と毛沢東』)  生死の境で子供を思いやるやさしさは、吉本氏の人柄を象徴しているのだろう。  事故後、『進め!電波少年』(日本テレビ系)が、「二度と溺れないように」と透明の水槽に顔をつけ て練習させようと自宅に押しかけた。吉本氏と30年来の親交があり、2冊の共著がある藤井東氏が語る。 「自分を偉くする番組には出ないが、バカなことをさせる番組はいいんだ、といっていました。お宅に伺 っても自分でお茶を出してくれるほど気取らない。2008年の忘年会では、糖尿病で眼や足腰が衰えて立っ て歩くのが難しく、這って座敷に入ってこられました」 注記等 週刊ポスト2012年4月6日号
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120328 標題 吉本隆明氏撮り続けた写真家「実篤も岡本太郎も撮ったが…」 掲載誌(紙・書)名 Newsポストセブン  巻 号 掲載頁 http://www.news-postseven.com/archives/20120328_97493.html 掲載年月日 2012.3.28 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  3月16日、戦後の思想界を代表する“巨星”・吉本隆明氏が亡くなった。享年87歳だった。  その半生を43年にわたってフィルムに収め続けてきたのが写真家の吉田純氏(77)だ。同氏が初めて 吉本氏を撮影したのは1968年。全共闘世代を熱狂させた『共同幻想論』を発表したまさにその年だった。 「ある編集者から『怪物を撮ってほしい』と依頼されたのが最初でした。話し方は誠実で穏やか。相手に 緊張感を与えない。でも、ファインダー越しに見ると、編集者が怪物と呼ぶ理由がわかった。得体の知れ ない深さを感じるんです。撮影のたびに私は『今回も納得がいかない。また撮らせてください』とお願い し続けることになりました」  休暇の家族旅行にまで吉田氏は随行し、シャッターを切り続けた。 「私は武者小路実篤も岡本太郎も撮ったけど、撮影していて飽きを感じないのは、吉本隆明ただ一人でし た。普通、もうこの人はいいやって思うのだけど、それがない。人柄も素晴らしかった。知り合って間も ない頃、文芸誌の仕事をご一緒したんですが、格安のギャラはきっちり折半。吉本先生の原稿あってのペー ジなので、私は辞退を申し上げたのに聞いてくれなかったんです」 注記等 週刊ポスト2012年4月6日号
刊行形態 Newspaper Article 著者 三浦雅士 刊行年月 120329 標題 眼前を疾駆するような迫力:吉本隆明がいた3 掲載誌(紙・書)名 京都新聞 出版地 京都 掲載頁 13 掲載年月日 2012.3.29 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 世界的文脈で位置づけを 注記等 2012年4月9日「眼前疾駆するような迫力」として「高知新聞」に掲載
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120322 標題 「吉本隆明」の遺言「反原発」で猿になる! 掲載誌(紙・書)名 週刊新潮  巻 57 号 12 掲載頁 60-62 掲載年月日 2012.3.29 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 反核署名運動に猛反発/誰でも家にあげた 注記等 コメント:鹿島茂/石森洋/ハルノ宵子/齋藤愼爾/山折哲雄
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120322 標題 吉本隆明が「都はるみ」を歌った「在りし日」 掲載誌(紙・書)名 週刊新潮  巻 57 号 12 掲載頁 161 掲載年月日 2012.3.29 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120322 標題 吉本隆明 娘のために作り続けたお弁当 掲載誌(紙・書)名 週刊文春 巻 54 号 12 掲載頁 160 掲載年月日 2012.3.29 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 廊下を這って見送り 注記等 コメント:芹沢俊介/大塚英志/岡田哲也/松岡祥男
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120329 標題 田原総一郎 「吉本隆明さんは麻原彰晃を認めると言った」 掲載誌(紙・書)名 Yahoo!ニュース - 雑誌 掲載頁 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120329-00000305-jisin-peo 掲載年月日 2012.3.29 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 3月16日に亡くなった吉本隆明氏。87歳の評論家の死を多彩なジャンルの有名人や文化人が悼んだ。最近 は『よしもとばななの父親』としてメディアに登場することも多かったが、何がそれほどすごかったのか。 田原総一郎氏が語ってくれた。 「日本中に自称”吉本隆明の弟子”がいる。じつは僕もそのひとり。吉本さんとの出会いは『擬制の終焉』 という本だった。この本で従来の左翼運動を激しく批判。それまでの東大教授らインテリやエリートたち が頭で考えた運動を”ええかっこしい”のインチキだと言ったわけ。それじゃ革命なんてできっこないと。 それが当時の若者に支持された。その後の全共闘運動は、石を投げてゲバ棒を振り回して体制をぶち壊せ という運動になった。行動することにお墨付きを与えたのが吉本さんだったんだね」 80年代に入ると、資本主義が生んだ大衆消費社会を積極的に評価するようになる。 「これは普通の人々の生活が大事だという彼の『大衆の原像』という思想につながる。転向したわけでは なく、柔軟性があり自由奔放だったということなんだけど、そのために批判も浴びた。例えば、彼はオウ ムの麻原彰晃を認めると言った。オウムはチベット仏教が背景にあり自分自身を極限まで追いつめる。あ る意味で宗教として”本物”なんだと」 吉本氏は「反核」や「反原発」にもかみついている。その姿勢は今回の福島での事故後も変わらなかった。 「原発事故を契機に、科学技術は限界にきていると主張するのが脱原発・反原発。たしかに原発の事故は たいへん深刻な問題だけど、人間が猿と違うのは科学技術を発達させたところ。それを全否定するのは猿 に戻ることだと吉本さんは言っている。東工大を卒業した科学者としての視点を持っていたんだね」 吉本氏の代表作といわれるのが「国家とは、みんながあると思い込んでいるだけだ」と喝破した『共同幻 想論』だ。 「僕も読んだけど、難しくて途中で投げ出してしまった(笑)。でも、今の民主党を見ていると共同幻想 という言葉が浮かんでくるんだよ。吉本さんが批判してきた、エリートやインテリによる頭でっかちな” ええかっこしい運動”としか思えないんだよ」 注記等 週刊FLASH4月10日号
刊行形態 Newspaper Article 著者 瀬尾育生 刊行年月 120330 標題 “存在”からの直接的発語:吉本隆明がいた4 掲載誌(紙・書)名 京都新聞 出版地 京都 掲載頁 13 掲載年月日 2012.3.30 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 全世界を凍らせるように 注記等 2012年4月10日「生きることが倫理」として「高知新聞」に掲載
刊行形態 Newspaper Article 著者 三浦健治 刊行年月 120330 標題 大手紙讃美の吉本隆明の実像 掲載誌(紙・書)名 しんぶん赤旗 出版地 掲載頁 9 掲載年月日 2012.3.30 区分 キーワード 見出し・語録 進歩派に対するアクロバット的攻撃 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120330 標題 吉本隆明氏 岸田秀氏に「私の理論、そのうちわかるだろう」 掲載誌(紙・書)名 Newsポストセブン  巻 号 掲載頁 http://www.news-postseven.com/archives/20120330_97688.html 掲載年月日 2012.3.30 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「戦後最大の思想家」と呼ばれる巨星が87歳にして墜ちた。心理学者の岸田秀氏(78)が「吉本隆明」 と過ごした時間を振り返る。  * * *  吉本さんの考え方に出会ったのは1970年代、40歳を過ぎてからでした。すべての著作を読んだわけ ではありませんが、『共同幻想論』や『言語にとって美とはなにか』に影響を受けました。    国家や社会は確固たる現実的基盤の上に立っているのではなく、多くの人の共同幻想で成り立ってい る――吉本さんの共同幻想論に触れたとき、思わず「そうなんだよ!」と膝を打ちたくなるほど共感し ました。    かつて日本がアメリカを相手に起こした日米戦争にしても、日本人は共同幻想によって誰一人疑うこ となく、じつに真剣に戦いました。しかし、戦争が終わるとその幻想はきれいに消え去り、誰もが「何 をやっていたんだ」と我に返った。共同幻想で考えればストンと腑に落ちるのですが、当時、そんなこ とを考える人はいませんでした。国家を幻想という概念で捉える??独創的な理論ですね。    10年以上前に一度だけ対談をしたことがあります。私の考え方を評価してくれまして、「大雑把だけ ど自分の頭で考えている」と仰っていただきました(笑い)。    でも、100%意見が一致したわけではありません。考え方が食い違うこともあって、互いに歩み寄る ことのない議論にもなりました。吉本さんは、その後どこかで「岸田さんは私の理論を理解していない が、そのうちわかるだろう」なんて書いていましたが、今となってはいい思い出です。 注記等 週刊ポスト2012年4月6日号
刊行形態 Magazine Article 著者 北村 肇 刊行年月 120330 標題 吉本隆明氏はアニキだった 掲載誌(紙・書)名 週刊金曜日  巻 20 号 12 掲載頁 9 掲載年月日 2012.3.30 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 坂本慎平 刊行年月 120330 標題 思想界の巨人の頭脳を借りて親鸞の言葉と思想を辿る:『吉本隆明氏が語る親鸞』 掲載誌(紙・書)名 週刊金曜日  巻 20 号 12 掲載頁 42 掲載年月日 2012.3.30 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 きんようぶんか
刊行形態 Newspaper Article 著者 芹沢俊介 刊行年月 120331 標題 戦後の呼んだ奇跡 掲載誌(紙・書)名 図書新聞 出版地 東京 掲載頁 1 掲載年月日 2012.3.31 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明は、これからの時代を拓く不可欠な存在として、現代の親鸞になった 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 よしもとばなな 刊行年月 120331 標題 人生のこつあれこれ 2012年3月[今月の事件と言えばひとことにつきる。「父親が死んだ」] 掲載誌(紙・書)名 BANANA YOSHIMOTO OFFICIAL SITE  掲載頁 http://www.yoshimotobanana.com/diary/ 掲載年月日 2012.3.31 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 「今日のオレ」
刊行形態 Web Site 著者 刊行年月 120331 標題 吉本隆明氏、逝く 掲載誌(紙・書)名 雑誌 VAV(ばぶ) 出版地 掲載頁 http://10206269.blog.fc2.com/ 掲載年月日 2012.3.31 区分 追悼文 第18号=編集後記 ▼あの「三・一一」を再び迎えて間もない去る三月十六日の午後、〈それ〉は飛び込んできた。正午の NHKニュース。わが携帯ラジオのイヤホンから流れてきたのは、吉本隆明氏死去の報であった。遠か らずやって来るであろうこの冷厳な事実をどこかで予期していたためか、「ああ、遂に」という思いが 先ずやってきた。が、しかし、時が経てば経つほどその寂しさは深まるばかりである。吉本さんはもう いないという当たり前の事実への驚きと狼狽。そして、この「いる/いない」という境界の痛切に今あ らためて思い至るのである。 ▼それにしても、かのドストエフスキーが言ったとかいう「われわれはみんなゴーゴリの『外套』から 出てきた」の伝で言えば、われわれは皆、六〇年代以後、「吉本隆明」という磁場の中から生れてきた と断言していいのではないか。そして、あえて言えばその磁場はある感情によって満たされていた。そ の感情を今単刀直入に《原信頼》とでも呼べば、この無尽蔵の岩盤こそ思想者吉本隆明をして他の有象 無象とを分つ真骨頂であったと思える。 ▼ここで「信頼」とは、われわれが思想の難所に遭ったとき、吉本思想が必ずその〈解〉を与えてくれ るといった意味ではない。われわれが氏の著作や言行から受け取ったのは、その難所に対する対応の仕 方に、間違いなく氏の全生涯が懸けられているという確信と、氏が築いた思想的伽藍や知的達成もこの 岩盤と無縁でないことの了解であったと思えば、吉本隆明を読むとは、ほかならぬこの「幻想の共同体」 への信憑であったような気がしてくる。 ▼「俺が死んだら世界は和解してくれ」とは、かつての吉本詩のことばである。吉本さんが逝った日、 春の風に梅の花が静かに散っていた。合掌。(3・19/S) 注記等 「VAVばぶ No.18」(2012.4)の編集後記
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120401 標題 呉智英氏 吉本隆明の「大衆の原像」の理解に一週間かかった 掲載誌(紙・書)名 Newsポストセブン  巻 号 掲載頁 http://www.news-postseven.com/archives/20120401_97780.html 掲載年月日 2012.4.1 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「戦後最大の思想家」と呼ばれる巨星・吉本隆明氏が3月16日に亡くなった。評論家の呉智英氏(65)が 「吉本隆明」について振り返る。  * * *  戦後の思想家でベスト3とかベスト5を選べと言われたら、客観評価として私は吉本隆明を入れるだろう。    全共闘世代の学生、左翼思想傾向の知識人に、確かに大きな影響力があったからである。だが、私は吉本 に影響を受けていない。むしろ懐疑的であった。    先日の死去に際し、多くの論者が、大衆の視点という言葉で吉本を語った。吉本の言う「大衆の原像」を 踏まえたものである。これは「大衆の真の姿」という意味の造語であるが、当の大衆に「大衆の原像」とい う言葉が分かるだろうか。    四十数年前、大学生だった私はこの言葉を理解するのに一週間ほどかかった。    もっとも、大衆の原像を組み込まない政治は駄目だという見解は、その通りだと思った。全共闘にしろ、 その前の全学連にしろ、「目覚めた大衆」しか考えていなかった。だが、実際、大衆は別に「目覚め」ては いなかったのである。    しかし、そうなると、大衆の原像を最も確実に組み込んでいるのは、吉本が敵対したはずの自民党であり、 アメリカだということになる。北朝鮮政府も、大衆は脅迫と瞞着に弱いということを熟知しており、見事に 大衆の原像を組みこんでいるのではないか。    ははあ、吉本は「俺だけが真の大衆を知っている」と言いたいのだなと気付いた。これはキリスト教と同 じである。神を組みこまない人生は駄目だ。そして、真の神とは何かを我々だけが知っている、という神学 である。大衆を模索していた学生や左翼的知識人がこの神学に飛びついたのである。    吉本の「大衆の原像」が完全に破綻したのはオウム事件の時だった。「麻原彰晃を高く評価する」という 珍論を発表し、大衆を唖然とさせた。吉本の「大衆の原像」は「大衆の幻像」だったのである。この頃から、 吉本の本は学生たちにも(もちろん大衆にも)全く売れなくなった。ただ、全共闘時代に吉本愛読者だった 言論人だけが、吉本の新刊を褒めちぎった。    ああ、吉本隆明はこの人たちの「共同幻想」なんだなと、私は妙に納得した。 注記等 週刊ポスト2012年4月6日号
刊行形態 Magazine Article 著者 浮海 啓 刊行年月 120401 標題 さようなら 吉本隆明さん 掲載誌(紙・書)名 詩篇:浮海啓個人詩誌  号 57号 掲載頁 1-4 掲載年月日 2012.4.1 区分 追悼詩 キーワード 見出し・語録 注記等 非売
刊行形態 Blog Article 著者 古賀英二 著者 前川藤一 刊行年月 120401 標題 吉本さん追悼 掲載誌(紙・書)名 チヨダ・サケ・デザインニング前川事務所  掲載頁 http://chiyoda-sd.com/news/tsuitou.html 掲載年月日 2012.4.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  「横超」を飲みながら<横超>を考える座談会は、平成22年12月21日吉本氏宅で開かれました。当日 北上野の当事務所に共同代表の野村女史、友人の写真家倉持承功、座談会出席者元ブンド叛旗派菅原則生が集 まり、私を含め4人で「横超」と摘みの乾き物を携えタクシーで7、8分の吉本氏宅に向かいました。座談会 の客間には、日本酒に合う料理が見事に準備され、長女多子(さわこ)さんに恐縮いたしました。 座談会は、乾杯から始まり、前半は、菅原(通称横目)は全く喋らず、私は「横超」をひとりで飲み続けなが ら進行し、吉本さんは、にこやかに対応していたように感じられました。後半私の馬鹿話に痺れを切らした横 目が加わり少しそれらしくなっていきました。予定では1時間半位を考えていたのですが、終了は2時間半を 超える形となりました。(座談会の模様はビデオ録画し、2枚組みのCDで保存されていますので、ご希望の 方は当事務所にご連絡下さい。非売品です。) 当初、立教大叛旗の古賀英二氏が加わる予定でしたが、私と横目が考えた趣旨と彼が聞きたいことの間にずれ があり、拡散してはいけないと気を使い出席を辞退しました(酒を飲みながらの座談会で、酔っ払いの私のこ となので充分拡散しているのですが・・・)。  古賀氏の吉本氏への追悼文を掲載いたします。合掌というより有難うございました。(前川) 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 内田 樹 刊行年月 120402 標題 吉本隆明は、ただ1人だった:内田樹の大市民講座 掲載誌(紙・書)名 AERA 巻 25 号 14 掲載頁 9 掲載年月日 2012.4.2 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 めい 刊行年月 120401 標題 <追悼・吉本隆明さん(3)> 宮沢賢治と<大衆の原像> 掲載誌(紙・書)名 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 出版地 掲載頁 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-04-01 掲載年月日 2012.4.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明、井上ひさし、ますむらひろし、この3人が存在することで、置賜には宮沢賢治がよく似合います。 川西町小松生まれの井上ひさしにとって、賢治はあこがれの人でした。賢治の生涯を描いた伝記劇『イーハ トーボの劇列車』や、架空インタビュー『宮澤賢治に聞く』といった作品があります。「コーガイニモ/ホー シャノーニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ」という井上版「雨ニモマケズ」も作っています。25年前小松で 始めた「遅筆堂文庫生活者大学校」の第二回目のテーマは宮沢賢治でした。 米沢に生まれ高校まで米沢で育った漫画家ますむらひろし。米沢市内を走る漫画のバスでおなじみです。猫 で描いた賢治の世界、昭和60年公開の映画『銀河鉄道の夜』は100万人動員の大ヒットでした。今年の夏に は映画『グスコーブドリの伝記』が全国公開されることになっており、再び大ブレークが期待されます。 置賜でこのふたりに先駆けたのが吉本隆明でした。 吉本は昭和17年から19年の米沢高等工業高校生の時代に生涯傾倒する宮沢賢治の作品と出会いました。入学 間もない頃、賢治の故郷花巻に近い宮城県古川出身の寮友が紹介したのです。『宮沢賢治名作選』(松田甚次 郎編) が回覧されるやたちまち寮のみんなが賢治ファンになりました。賢治の死後10年、置賜の一隅で賢治 ブームが沸き起こったのです。最も熱心だったのが吉本でした。「過去についての自註」にこうあります。 ≪この土地では、書物が間接の師であった。・・・(高村光太郎、小林秀雄、保田与重郎、太宰治・・・とい った)影響のうち、病がこうじて、それを模倣した詩をかき、ついに花巻の詩碑までおとづれさせるほどわた しを誘ったのが宮沢賢治であった。≫ 寮の自室天井には「雨ニモマケズ」の詩を墨書して貼っていました。「俺もこの人とおなじような人になれる んじゃないか、ということが、ぼくの青春時代の夢でもありました。」と後年語っています。 一時期まで書店で「吉本」の名前を見ると、読みもしないのに買うくせがありました。書棚からその中のひと つ「賢治文学のユートピア」と題する論考を見つけ読んでみました。(『国文学』昭和53年) 「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」、ということへの賢治の執着を問題にします。 「いったい僕は、なぜみんなにいやがられるのだろう。・・・僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがな い。(巣から落ちためじろの赤ん坊を助けたときには)赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかえすように僕か らひきはなし・・・それからひどく僕を笑った・・・」この『よだかの星』 の述懐に吉本は「イジメラレテイ ルモノ、ナイガシロニサレテイルモノガ示ス歯牙ニモカケラレナイヨウナ善意デナケレバ善意トシテノ意味ガ ナイ」という暗喩を読み取ります。そして言います。 ≪あくまでも弱小なもの、さげすまれているものの<善意>や<無償>でなければ意味がないということだ。 あるいは<善意>や<無償>の行為は、行為するものが弱小であり、ないがしろにされているときにだけ均整 がとれるものだという思想だといいかえてもよい。≫ 高みからの<善意>や<無償>の行為は、賢治にはむしろ疎(うと)ましく感じられるのです。  昭和54年に上梓された『宮沢賢治 (近代日本詩人選)』の中では、『猫の事務所』のかま猫も例にとりつつ、 ≪宮沢賢治が関心をよせ救いを願い、じぶんもまたその場所にゆき、それらとおなじでありたいとおもったの も、そういう存在だった。≫と言っています。 私はここに、吉本の<大衆の原像>への通底を感じとりました。 吉本は上昇志向的に政治化してゆく情況に、<大衆の原像>の理念と<自立>の思想を呈示することで楔(く さび)を打ち込みました。 ≪生涯のうちに、じぶんと職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできないし、離れようともしないで、ど んな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ぬというところに、大衆の「ナショナリズム」 の核があるとすれば、これこそが、どのような政治人よりも重たく存在しているものとして思想化するに価する。 ここに「自立」主義の基盤がある。≫(「日本のナショナリズム」昭和39年) 知識があるとか、ものが書けるとかでえらいと思うのは大間違い、日常当面する問題についてしか考えないふつ うの人(<大衆>)にはとうていかなわない、というのです。 吉本にとっての<大衆>は、決してその時その時の欲求に流されて漂うような存在ではありません。『初期ノー ト』にこんな言葉があります。 ≪倫理とは言はば存在することのなかにある核の如きものである。・・・それは言ひかへれば人間の存在が喚起 する核である。≫(吉本は存在理由を外部にもつ<道徳>と、存在そのものの核たるべき<倫理>を峻別します。 たいせつなのは<倫理>です。)  人間は互いに関わりあって生きている以上、根底には「お互いよかれ」の気持がごくあたりまえのこととして存 在します。吉本にとっての理念としての大衆、すなわち<大衆の原像>とは、そうしたあたりまえをあたりまえ のこととして生きている、そのことでホメラレることを求めもしなければクニモサレることもない、あたりまえ の人たちです。吉本はそうした境涯を目指しました。吉本は宮沢賢治によってその導きを得たのではないでしょ うか。 注記等 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-04-01
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120402 標題 吉本隆明は最期まで精力的な言論活動を続けた 掲載誌(紙・書)名 本の話WEB  掲載頁 http://hon.bunshun.jp/articles/-/849 掲載年月日 2012.4.2 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「ヨシモトリュウメイ」と人は呼ぶ。吉本隆明(よしもと・たかあき)は大正十三年(一九二四年)生まれ。 東京工業大学卒業。詩人として出発し、昭和二十九年(一九五四年)、「マチウ書試論」で思想界にデビュー。 六〇年安保以後は、新左翼運動の精神的支柱の役割を果たし、その著作集がバイブル視された。 <ただ六〇年安保のときは、主役の全学連のシンパとして(中略)くっついていくという、それこそ受け身で。 (中略)だから、全学連の指導者だとか、安保のときの神様と言われると、まったく照れる以外にないですけ どね><公的な評価がそうだったら、俺はそうじゃないと思っていても、引き受けようじゃないかっていう のがあるわけです。それは非常に重要なことなんだなっていうのは、そのときの体験で初めて得たことです ね>(「週刊文春」平成十年=一九九八年三月二十六日号「阿川対談」より)  西行や宮沢賢治などの文学評論から、ファッション、サブカルチャーにも関心を寄せ、幅広い評論活動を 展開した。オウム真理教事件でも積極的に発言したが、このときは激しい批判にさらされた。 <オウム真理教っていうのは、単なる殺人集団だって片付けちゃダメだぞ、(中略)と主張したつもりなんだ けど、世間では「あいつはオウム真理教を擁護した」って言われたんですよ><ハァーと思うんだけど、 「俺、擁護しなかった」って言っちゃいけないということは、あのとき(六〇年安保)の体験だと思いますね。 だから、言わなかった>(同)  最期にいたるまで、原発問題など精力的な言論活動を続けた。平成二十四年三月没。 注記等 連載 文春写真館 あのとき、この一枚
刊行形態 Blog Article 著者 めい 刊行年月 120402 標題 <追悼・吉本隆明さん(4)> 「どうみても、20世紀、世界で最大、最高の思想家である」 掲載誌(紙・書)名 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 出版地 掲載頁 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02 掲載年月日 2012.4.2 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 「自ら学ぶ」という自立的行為を取り戻すために、「教えられ、学ばされる」学校という制度を乗り越えて ゆかねばならないという、イワン・イリイチの『脱学校の社会』はかつて本気で読んだ本だった。そのせい かどうか、子供の不登校で苦労させられた。子供は親のホンネを生きるものだと思い知らされた・・・、と いうのは余談で、そのイリイチの紹介者で知られる山本哲士氏は、吉本を「どうみても、20世紀、世界で 最大、最高の思想家である」として、次のように言っている。 《吉本思想は、フーコーやラカンよりも、高度である、かつて吉本さん自身が明言したように、サルトルな んぞよりはるかに深い。20世紀、世界最高峰の思想である、それを日本語で読めるわたしたちは、知的に すごい財産をもっている、しあわせである、それがまだまだ活かされていない。20世紀最高の思想が、2 1世紀において、本格的にいかされよう、それはこれからだ。≫ もし存命だったら会いに行ったかもしれないほど、その人柄にほれ込んだメルロー・ポンティという哲学者 がいる。フーコー、ラカンについては何もいえないが、ただ、サルトルはメルロー・ポンティに比べたら問 題にならないと私は思っている。そのメルロー・ポンティについて吉本が書いた文章を読んで、思想家とし ては吉本のほうがはるかに勝っていると思わされたことがある。要するに拠って立つ基盤の違いなのである が、メルロー・ポンティはヨーロッパの哲学的伝統に則ってメルロー・ポンティでありえたのに対し、吉本 は吉本自身の課題の切実さによって吉本になった。そのちがいが、<本質>についてのおさえ方に如実に現 れていたのだ。吉本は「メルロー・ポンティのいう<本質>は<形式>にすぎない」と喝破した。<他者> の存在を問題にしたとして、メルロー・ポンティは、その図式(関係)を呈示するにとどまる。吉本から見 れば、そんなのは何の問題の解決にもなってない。吉本にとって<他者>が問題となるのは、たとえば次の ような課題に直面しているからだ。 《かつて〈私は足が悪くて正常に歩いたり活動したりすることができない。そのためにいわれのない差別を 受けることがしばしばである。これに対してどうすればよいか。〉と問われて応えることができずに立ち往 生したことがある。また、〈自分は交通事故で利き手を切断した。そして今まで考えたこともないような混 乱を感じている。どういうふうに自分を納得させればよいのかまったくわからない。どうすればよいのか。〉 と問われて、どんな助言をしても、私はあなたに入り込むことができないと思う。そこで何も云うことがで きないと応えるほかなかったことがある。しかし、この体験は、私にとって内心では衝撃であった。/この 問題に倫理的にあるいは善意で接近しようとすると、どうしても〈他者〉の身体は〈自己〉の身体ではない という絶対的な壁につきあたるようにみえる。つまりこの壁のところで、倫理は、傍観者や非体験者のやく ざな傲慢な〈同情〉や〈親和〉感に、いはば宗教や公共体の〈事業〉に似たところに転化する。あるいは 〈心情〉は他者の身体に同化し、利己心だけは棚に上げて、たれからもふれられたくないという分裂と矛盾 に見舞われる。》(「心的現象論?身体論」」) そして次の文章につづく。 《そこで迂遠なようでも、この問題に接近する回路を手探りしたほうがよいように思われる。≫と。 その探求の成果が昭和40年から平成9年まで32年にわたって書きつがれてきた『心的現象論』だ。おそらく まだだれも正面きった評価の仕様がないような大著だが、一般知識人レベルではなく、実際に心の問題に直 面する精神科医や臨床心理士などの間に本気の読者を獲得しているようだ。問題解決の視野は児童虐待、ひ きこもり、自殺願望から臓器移植問題などの難題に及ぶという。問題山積の現場にとってきっと宝の山なの だ。吉本思想の理解はまだまだこれからなのだと思う。吉本思想のすごさは、理解が進むにつれて明らかに なってゆくに違いない。 吉本の<自立>思想を語る上で忘れられない言葉がある。 《井のなかの蛙は、井の外に虚像をもつかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中 にあること自体が、井の外とつながっている≫(「日本のナショナリズム」) 吉本は、一度も日本を出なかった。膨大な読書も外国のものはすべて日本語に翻訳されたものだったという。 ひたすら自分の足元を掘り進むことで、いつのまにか世界最高の思想水準に到達していたのが吉本隆明とい う、われわれの思想家だった。 注記等 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-04-02
刊行形態 Newspaper Article 著者 大井浩一 刊行年月 120404 標題 ことばの周辺:吉本隆明さんの孤独 原点にあった「喪失」体験 掲載誌(紙・書)名 毎日JP 出版地 東京 掲載頁 http://mainichi.jp/feature/news/20120404dde018040006000c.html 掲載年月日 2012.4.4 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  3月に87歳で亡くなった詩人・評論家の吉本隆明さんには、本紙もたびたび登場してもらった。鮮やか に浮かぶ姿の一つは、20世紀末の1999年12月におこなった文芸評論家の加藤典洋さんとの対談「2 000年を前に」である。  晩年は歩行が難しくなった吉本さんだったが、当時はつえを突きながらも、しっかり歩いていた。会場は 東京都台東区にある森鴎外ゆかりのホテル。終了後に場所を移しての懇談の席で、お笑い芸人について話し たのを思い出す。  この時の対談で吉本さんは、「文芸の関与する人間の心や精神」が1000年前の平安朝とあまり変わら ないのに対し、コミュニケーション手段の変化などによる「感覚文明の進歩の仕方はわれわれの想像を絶す る」と話した。   要するに表層の感覚や表現の仕方は時代に応じ変わっていくが、奥底にある人間の心や精神は1000 年単位の長い時間を経ても、そう変わらないということだ。「ことば」の表現を、言語の発生にまでさかの ぼって考えた彼自身の関心をうかがわせる発言だった。  吉本さんの文学と思想については今後、さまざまな角度から論じられるに違いない。ここでは、多方面に わたる仕事の原点にあった「孤独」に注目しておきたい。  「わたしの制作した小さな礎石の上を、多様な構想を抱いた人々が踏みこえてゆくことを願う。もちろん、 たれよりもわたし自身が、わたしの試みを踏みこえて、ゆけるところまでゆくつもりである」  代表作の一つ『心的現象論序説』(71年)の「あとがき」の末尾だ。大学時代に出た文庫版で読み、衝 撃を受けたのを覚えている。著作そのものは難しかったが、誰よりもまず自分が荒野を切り開いて進むとい う姿勢に打たれた。  こうした孤独な相貌は最初の詩集『固有時との対話』(52年)に、既にはっきりと表れている。  <わたしは自らの隔離を自明の前提として生存の条件を考へるやうに習はされた だから孤独とは喜怒哀 楽のやうな言はばにんげん(、、、、)の一次感覚の喪失のうへに成立つわたし自らの生存そのものに外な らなかった>  孤独が「生存そのもの」であるという苛烈(かれつ)な自覚は、青少年期の戦争と敗戦の体験から生まれ たものだ。同じ詩に、<生存の与件がすべて消えうせた後にんげんは何によって自らの理由を充(み)たす か わたしは知りたかった>とも記されている。  軍国少年として戦争に没入し、敗れた後、亡国の日本で「生存の与件」を失ったと感じた人は数多くいた だろう。だが、誰もが「喪失」を抱え続けられたわけではない。20歳で敗戦を迎えた吉本さんほど、すべ てを失った地点から考え抜いた人はいなかった。その厳しさが孤独を深めもし、彼の思想に人々の目を向け させる力の源にもなった。  では、戦争(敗戦)を体験しなければ、言葉は力を持たないのか。決してそうではあるまい。第2詩集 『転位のための十篇(ぺん)』(53年)には、次のような詩句もあった。  <ぼくたちのこころはうけいれられないとき/小鳥のやうなはやさでとび去り/そのときぼくたちをとり まいている微温を/つき破ってしまうのを知っている>  周囲と折り合うことができず、「もう生きていられない」と人が感じることは、どこの国であれ、どの時 代であれ、経済的に豊かな社会であっても常にあり得ることだ。孤独な魂から発した言葉が通りいっぺんの 「連帯」の掛け声よりも、よほど人々の心を捉え、動かすというのも時代や場所によらずあり得るだろう。  吉本さんの生涯は、そうした言葉の可能性を語っているともいえる。自らの築いた「礎石の上を、多様な 構想を抱いた人々が踏みこえてゆく」との彼の未来像は、いま不思議と希望を抱かせる。 注記等 毎日新聞 2012年04月04日 東京夕刊
刊行形態 Magazine Article 著者 Taki Harumi 刊行年月 120404 標題 吉本隆明さんのこと。:『十五歳の寺子屋 ひとり』に寄せて。 掲載誌(紙・書)名 madame FIGARO.jp  掲載頁 http://column.madamefigaro.jp/culture/iihon/post-1006.html 掲載年月日 2012.4.4 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  まさかこんなに突然お別れがやってくるとは思わなかった。3月16日、吉本隆明さんが肺炎で亡くなった。 87歳だった。  初めてご自宅にうかがったのはおととしの春。  15歳の男の子ふたり、女の子ふたりを連れて、1か月に1度、吉本さんにお話をうかがいに通った。『15歳 の寺子屋 ひとり』はその時の記録である。  年齢差70歳。初対面の時、ぎこちなく自己紹介した彼らに吉本さんは言った。 「さあ、どうぞ。もっとお楽に。お行儀悪くなさってください。  どうぞ。なんでも聞いてください。悪いことでも何でも。  正直にお答えします。それが僕の唯一の取り柄です。  どんなことを聞かれてもいいし、どんなかたちの質問でもけっこうですよ」  この言葉通り、吉本さんは相手が子どもだからといって、ちっとも見くびったりはしなかった。進路のこと、 恋愛のこと、才能のことや生きていくことについて、彼らの率直な質問に真っ向勝負で答えてくれた。いっぽう、 15歳の彼らにとって「戦後思想界の巨人」という重々しい肩書や経歴はいまひとつ、ピンときていなかったに違 いない。それよりも自分たちが今まさに思い悩んでいることにこれほどまでに言葉を尽くして真正面から向かっ てくる大人がいること、それ自体が新鮮な驚きだった。  だって「生き方を決めるのは消極性だと思います」なんて言われて、すぐに納得できるわけがない。「積極的 にしろ」とか「前に出ろ」ということなら散々言われてきたけれど。  吉本さんはそんなふうに世間で言われていることとはまるで反対のことをよく言った。といって、それははっ たりでもなんでもない、生きてきた実感に裏打ちされた言葉なのだ。ひとたび吉本さんが語り出すと、私たちは 毎回たっぷりと水をたたえた大河に放り出されたような心持ちがして途方にくれる。けれど、しばらくじーっと 耳を傾けていると、やがてひとつの流れのようなものが見えてくる。おそらく吉本さん自身、語り出した時には どこにたどりつくのか決めていなかったのではないか。考えて、考えて、考え続ける。その思考の流れを目の当 たりにすることが出来たことが何よりの得難い体験だった。  だいたい3時半頃にうかがうのが常だったが、気がつくといつも6時半をまわっていた。全部で何回とも決めな かった。「じゃあ、今度はその話のつづきをしましょうか」と次の約束をして別れた。そうして1年も通ったのだ から、振りかえると、なんて贅沢な時間だったのかとあらためて思う。後日、吉本さんは言った。 「聞かれたことに何でも正直に答えようっていう心掛けだけはありましたけどね。 僕なんか、それ一点張りだから。講演と違って、前もって原稿を用意するわけでなし。 その場その場でやっていきましたから、仕事のやり方としては一番疲れるかたちだったかもしれません。聞かれる に任せて自分なりに回想したり、ときどきはこっちからもへんなことを聞いてやろうと思ったりしながら、つない でいった。取材としても今までで一番長かったかも知れませんね。お互い言いたい放題とまではいかなかったけれ ど、 対話のひとつの試みとしてはたいへんうまくいったほうだなと思います」  東京の下町、新佃島に生まれた吉本さんは小学校4年から工業高校の4年になるまである私塾に通っていた。寺子 屋のようなこの私塾の先生、今氏乙治さんのことはいくつかの著書でも繰り返し書いている。今氏さんこそ吉本さ んに初めて文学の手ほどきをしてくれた人だった。15歳の彼らと向き合いながら、吉本さんの胸中にはこの忘れが たい恩師のことがあったという。当時の吉本さんは、やんちゃなガキ大将だったけれど、しゃべることが苦手な子 どもだった。 「だからみなさんもよくごぞんじの小説で、夏目漱石の『坊っちゃん』。あれを読むと 主人公の坊っちゃんの気持ちが、わかりすぎるくらいよくわかって泣けてくるんですよ」  親譲りの無鉄砲で子どもの頃から損ばかりしている坊っちゃんに、吉本さんは少年時代の自分を重ねた。 「『坊っちゃん』は痛快な青春小説だといわれているけれど、僕はそういう坊っちゃんのことがわかりすぎて、か わいそうで、今でも読んでいると泣きべそをかきたくなるくらいこたえます。あの小説を書いた夏目漱石も「人に わかってもらえない」って経験をたくさんしてきた人なんじゃないか。『坊っちゃん』には漱石が抱えていたもろ もろの悲劇みたいなものが全部出ている気がするんです」 「人にわかってもらえない」という思いがあったからこそ詩を書き始めた。15歳は、吉本さんにとってものを書く ことを始めた年齢でもあったのだ。 「樹で言ったら、地面の上に見えている枝はじゃなくって、根っこの部分が言葉にもある んですよ。地面の下の見 えない部分がね」  いまどきの15歳も、KYという言葉があるくらいだから「人にわかってもらえない」という気持ちを等しく抱え ているに違いない。だからこそ吉本さんは彼らに言った。へんにものわかりよくしないで、誰にも言わなくっても、 わかってもらえなくってもいいから、自分が本当はどう感じているか、繰り返し自分自身の実感を探ることを諦め てはいけない。 「人は誰でも、誰にも言わない言葉を持ってる。沈黙も言葉なんです。 沈黙に対する想像力が身についたら、本当の意味で立派な大人になるきっかけをちゃんと持っていると言っていい。 僕は、うまく伝えられなかった言葉を紙に書いた。 届かなかった言葉が、僕にいろんなことを教えてくれた。 自分や誰かの言葉の根っこに思いをめぐらせて、それをよく知ろうとすることは、 人がひとりの孤独をしのぐ時の力に、きっとなると思いますよ」  最後にお目にかかったのは、去年の暮れだった。  その時にうかがったのは編集者と私で、大人しかいなかったのに、帰り際「お菓子はちゃんと食べましたか?」 と聞かれて「はい。お話をうかがいながら、こっそり食べました」とみんなで笑った。晩年の吉本さんは目がよく 見えなかったので、いつもそう聞いてくれたのだ。テーブルの上にお菓子が残っていたりすると「さあさあ。みん な、ポッケに入れて帰りな」と言って、必ず玄関まで見送りにきてくださった。 「この頃、よく思うのは今の人たちは何か中間にあることを省いているんじゃないか。 本当は中間に何かあるのに、原因と結果をすぐ結びつけることで それを解決だって思おうとしてるけれど、それは違うんじゃないか。 今の考え方は何でも結論を急いでつけようとしている気がしてならないんです」  吉本隆明という人の考え方には、いつもたっぷりとした「中間」があった。  最新刊は『吉本隆明が語る親鸞』である。  この本にはCDがついているので、語る吉本隆明、その肉声にぜひ触れてみてほしい。  かつて宮澤賢治に憧れた少年が、親鸞にひかれる大人になる、その「中間」に戦争があった。「宮澤賢治のよう な聖人君子に憧れたけど、自分にはとうていなれないと知って、悪人でも救われると説く親鸞にひかれたのかも知 れない」と吉本さんは言った。「平和がよくて、戦争が悪いなんて単純な考え方は僕にはとてもできません。かつ てこの戦争は正しいことだと信じていた時代があったし、僕もいっぱしの軍国少年でした。戦争が悪なら、俺だっ て悪人だ」と。その「中間」にどう橋をかけるのか。吉本さんは生涯考えて、考えて、考え続けたのだと思う。  人は思い描いた理想通りには生きられない。誰もが受け入れがたい現実を、それでもどうにか受け入れながら、 その先を懸命に生きている。 『十五歳の寺子屋 ひとり』の最後の授業で、吉本さんは言った。 「人はみんな、かわいそうなもんだ。宮澤賢治もかわいそうだし、夏目漱石もかわいそうだし、そういうお前はど うなんだっていわれたら、そりゃあかわいそうだ、ひでえもんだなと。人間っていうのはかわいそうなもんですよ。 生きるっていうのはかわいそうなもんだ、それはもう、いたしかたのないもんだと思います。  それでもなんで生きていくのかっていったら、それは先があるからでしょう。  先があるっていうのは、そこからいつでもどうやって生き延びていくかみたいな糸口みたいなもんだ。だからと ても大切な宝物みたいなもんなんだよ。どんなふうにでも、先があるんだ。このことを忘れてはいけない。生き延 びていくことをばかげているととらえる考え方は、本当には存在しえないと僕は思っています。どっかでちゃんと 道を見つけて、そこをたどっていくことを、誰もが本当は待ち構えていて、それは越えがたくとも越えられるし、 また越えていかなくてはならない」  訃報はあまりに突然で、すっかり元気になるものと決めてかかっていた私はお見舞いの品とお手紙を送ったとい うのに、それが届く前日に吉本さんは逝ってしまった。ふとお手紙を書こうと思ったあの時が吉本さんの「さよな ら」だったのかという気もするけれど、記憶は暮れにご自宅の玄関で次に会うお約束をした時のままで、亡くなっ たことがまだ信じられない。いつものようにあの角を曲がると、玄関先に猫がいて、吉本さんがニコニコと迎えて くださるような気がしてならない。 注記等 http://column.madamefigaro.jp/culture/iihon/post-1006.html
刊行形態 Magazine Article 著者 林 真理子 刊行年月 120405 標題 夜ふけのなわとび:1260だけど私は 掲載誌(紙・書)名 週刊文春  巻 54 号 13 掲載頁 64-65 掲載年月日 2012.4.5 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 小林信彦 刊行年月 120405 標題 吉本隆明さんの死去:本音を申せば 連載 第694回 掲載誌(紙・書)名 週刊文春  巻 54 号 13 掲載頁 66-67 掲載年月日 2012.4.5 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 小倉知加子 刊行年月 120406 標題 家族を維持するのは国を治めるほど難しい:お代は見てのお帰りに 連載204 掲載誌(紙・書)名 週刊朝日  巻 117 号 16 掲載頁 125 掲載年月日 2012.4.6 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 大塚英志 著者 宮台真司 刊行年月 120406 標題 追悼 吉本隆明:大塚英志・宮台真司対談 掲載誌(紙・書)名 週刊読書人 出版地 東京 掲載頁 1-3 掲載年月日 2012.4.6 区分 追悼対談 キーワード 見出し・語録 読書体験と思想的成長/関係の絶対性/曖昧さの擁護/八〇年代の吉本/啓蒙される思想家/後に続く人間 の怠惰/「空気」に水を差す差す 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120406 標題 新生面:4月6日付 掲載誌(紙・書)名 くまにち.コム 出版地 熊本 掲載頁 http://kumanichi.com/sinseimen/201204/20120406001.shtml 掲載年月日 2012.4.6 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  風はなくともざわざわと降るように葉が落ちてくる。落葉するアコウの大木を初めて見上げたとき、不思議 な感じを受けたものだ。春、ちょうど今ごろの時分である。新葉を出す前、この常緑樹は古い葉をすっかり落 とす。幹からヒゲのような気根を垂らした、生命力あふれる木だ▼苓北町の志岐八幡宮には「隆明」「真秀子 [まほこ]」と名付けられたアコウが立っている。先ごろ亡くなった思想家吉本隆明さんと、娘の作家よしも とばなな(本名真秀子)さんにちなんで植えられた。志岐は吉本家の父祖の地だ▼「白色光がまばゆく輝き、 水面に乱反射してまるで異世界」と詩人でもあった吉本さんは天草の海を表現している。父祖の地を訪ねたの は2度きりというが、季節はいつごろだったろうか▼早期米産地の天草では今が代かきの真っ最中だ。泥と水 を滑らかにかき回され、茶褐色になった水田があちこちに広がっていく。この週末には田植えも本格化するは ずだ▼詩人の高橋順子さん著『雨の名前』によると、春の雨を「万物生[ばんぶつしょう]」と言うらしい。 生きとし生けるものに新たな生命力を与えるという意味。年々歳々、衰えては盛り返す、生命の循環を感じさ せる呼び名だ▼大津波であぜの崩壊した福島県南相馬市の水田地帯を思い出す。今年は水を張れるまでには回 復しないだろう。しかし「2年で必ず復旧させます。ぜひ見にきてください」という地元農家の力強い言葉を 聞いた。来春にはきっと元の一面鏡[かがみ]のような水田風景が広がっているに違いない。 注記等 熊本日日新聞
刊行形態 Magazine Article 著者 中沢新一 刊行年月 120407 標題 「自然史過程」について:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 新潮  巻 109 号 5 掲載頁 226-233 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 加藤典洋 刊行年月 120407 標題 森が賑わう前に:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 新潮  巻 109 号 5 掲載頁 234-235 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 松浦寿輝 刊行年月 120407 標題 疲労と憤怒:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 新潮  巻 109 号 5 掲載頁 236-237 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 福嶋亮大 刊行年月 120407 標題 ごわごわしたものの手触り:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 新潮  巻 109 号 5 掲載頁 238-239 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 三浦雅士 刊行年月 120407 標題 吉本隆明の悲哀:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 群像  巻 67 号 5 掲載頁 236-237 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 竹田青嗣 刊行年月 120407 標題 正しさから見放される体験:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 群像  巻 67 号 5 掲載頁 238-239 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 大澤真幸 刊行年月 120407 標題 「四回戦ボーイ」の原像:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 群像  巻 67 号 5 掲載頁 240-241 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 山城むつみ 刊行年月 120407 標題 ごく単純なこと一点だけ:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 群像  巻 67 号 5 掲載頁 242-244 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 蓮實重彦 刊行年月 120407 標題 「握力」の人:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 文學界  巻 68 号 5 掲載頁 119-121 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 芹沢俊介 刊行年月 120407 標題 吉本さんとの縁:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 文學界  巻 68 号 5 掲載頁 122-125 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 大井浩一 刊行年月 120407 標題 最後の取材:追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 文學界  巻 68 号 5 掲載頁 126-132 掲載年月日 2012.5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 大塚英志 刊行年月 120407 標題 吉本隆明さんがいなくなった切なさ:吉本隆明さん追悼記 掲載誌(紙・書)名 創  巻 42 号 5 掲載頁 102-107 掲載年月日 2012.5/6月号 区分 追悼談話 キーワード 見出し・語録 文藝春秋から対談本を出すために4回会った/「大衆」を全面的に肯定していく思想/「啓蒙された」が思想の 根幹/埴谷雄高とのすれ違いの論争/反原発に対して「反」と言う/ぶれていったのは世の中のほうだ 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 山折哲雄 刊行年月 120408 標題 党派退けた「自立」の思想:吉本隆明氏の仕事;危機と日本人 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞 出版地 掲載頁 23 掲載年月日 2012.4.8 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 刊行年月 120408 標題 やっぱり!そうか 【吉本隆明】 掲載誌(紙・書)名 各駅列車  掲載頁 http://b00003.jugem.jp/?eid=39812 掲載年月日 2012.4.8 区分 Audiovisual Material キーワード 見出し・語録 今気になる 吉本隆明 の動画です!! 『宮台真司 「吉本隆明の思想と限界」 2012.03.16』 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=8ZK0YHi5JvE 『吉本隆明が語る親鸞 その1』 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=mBVuKjWccpM 『吉本隆明「ほんとうの考え」014』 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=bUJQrH9zCNM 『【直言極言】吉本隆明氏の「言葉」を振り返る[桜H24/3/23]』 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=l-nicnAHjfc 『故吉本隆明氏に贈る言葉』 http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=EEvca2VVDxU 注記等 その他ユーチューブより 富岡幸一郎「吉本隆明氏を偲んで」[桜H24/3/21] http://www.youtube.com/watch?v=cVqDzxCNegw TBSラジオ・荒川強啓デイキャッチ!:宮台真司さんのデイキャッチャーズボイス。 「吉本隆明の思想と限界」 2012.03.16  http://www.youtube.com/watch?v=8ZK0YHi5JvE&feature=related
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120408 標題 朝日歌壇 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞 出版地 東京 掲載頁 9 掲載年月日 2012.4.8 区分 追悼歌 キーワード 見出し・語録 キャンパスを吉本隆明の本抱え君と歩いた青春の日々(高松市)桑内繭 千駄木の蕎麦屋に偲ぶ買物かご提げて歩きし吉本隆明(東京都)吉竹純 若き日に吉本隆明勤めたるインキ工場の青き廃液(三重県)三井一夫 巌を噛む蟋蟀(こおろぎ)の如き貌をして『言語にとって美とはなにか』を(日立市)加藤宙 読みもせず捨てもしないで四十年手もとに置きし『共同幻想論』(仙台市)武藤敏子 注記等 選者:永田和宏、馬場あき子、高野公彦
刊行形態 Blog Article 著者 めい 刊行年月 120408 標題 追悼・吉本隆明さん(5) 「ほんたうのほんたう」の到達点 掲載誌(紙・書)名 移ろうままに:変わらぬ何かに逢いたくて・・・ 出版地 掲載頁 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-04-08 掲載年月日 2012.4.8 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 1回目を読んだ友人が「何を書いているのかわからない」と言っていると、別の友人を通して聞こえてきた。 私が40年近く前この地に戻ってから行動を共にすることの多かったごく親しい友人の言葉だ。考えてみて、 吉本のことなどこの地で話題にしたことは一度もなかったことに気づいた。そもそも、学生時代吉本を知っ てからだれかと吉本について語り合ったことなどあったろうか。 25年前東京品川のウォーター・フロントにある倉庫で行われた「いま、吉本隆明25時?24時間講演と討論」 と題するイベントに、もう吉本とのつきあいも卒業、その前に一度生の話を聞いておきたい、そんな気持ち で参加した。そこで何が話されたかはあまり記憶にない。当時引退中の都はるみさんが中上健次さんと一緒 に出てきて、アカペラでアンコ椿を熱唱してくれたのを聴いて、来てよかった、得したと思った。終わって 帰途、みんなひとりづつで、誰も何の会話もなくただ黙々と駅に向かう様子がなにか異様だった。私もその 中のひとりだった。吉本という人はこういう人たちに支持されているんだなあとあらためて思ったことだっ た。 本来吉本思想は<秩序>に立ち向かう思想だった。というよりむしろ、世の<秩序>に服(まつろ)えない 自己にこだわり続ける思想だった、と言った方がいい。『転位のための十篇』の「廃人の歌」の中に「ぼく が真実を口にするとほとんど全世界を凍らせる」という言葉がある。私は吉本思想の第一原理ば「個人幻想 は共同幻想と逆立する」だと思う。吉本体験はこの個人幻想のレベル(自分で自分にどう折り合いをつける か)での問題である。あえて表に出して波風立てることもない。吉本体験なんぞはしまっておいてそのまま 墓場までもってゆけばそれはそれでちょんのはずだった。吉本の思想と本気で関わった人の多くはそうして 心のうちに閉じ込めておいたのではなかったか。「世の中に受け入れられない」、そのはみ出し部分で吉本 に共感していたのだから。 ところが、吉本の生が完結したとたんに、<秩序>そのもののような大マスコミが大きく取り上げだした。 ネットでは好悪とりまぜた吉本評価が行き交う。いったい自分にとって吉本とは何だったのか。なぜかいた たまれない気持になって置賜タイムスに電話した。「おとしまえをつけたい、書かせてくれ」と頼んだ。 「おとしまえ」とは、ネットでの評価に対してでもあったが、もう遠くなっていたはずの吉本に対するもの でもあった。ほんとに決着のつもりだった。 数十年ぶりに吉本にのめりこんでみると決着どころか、吉本とのつきあいはまだまだこれからであることに 気づかされた。だいいち、まだ読んでない吉本本の山を見よ。何本も線を引いて読んだ本にしてもいったい どれだけわかっているのか。 たまたま宮沢賢治から入ってみた。その豊饒さにいまさらながら驚いた。必要あってレジュメをつくってみ たのだが、吉本が掴んでいるもののうちどれだけ掴みきっているか心もとない。目の前には気に満ちた鬱勃 たる森がある。 だれとも話したことがなかった吉本について、他人に読んでもらう目的で書くことを通して、私の中で圧し 込められていた吉本的なものが解放されたようだ。これはおそらく私だけに起こっていることではない。吉 本はその思想のうちに、起爆の装置を仕込んで置いたのかもしれない。吉本の死とともに、日本中のあちこ ちでそれらが次々に作動し火が噴きだしつつあるのではないだろうか。そんな気がする。その向かう先は< 精神の自由>である。ただし、<精神の自由>とは何でもありの闇雲なものではない。宮沢賢治が言う「ほ んたうのほんたう」を求める心だ。吉本が最も忌避する<党派性>、すなわち「自分たちだけにとってのほ んとう」を超えた「ほんとうのほんとう」。 《「ほんたうの幸」、「ほんたうのひかり」、「ほんたうの力」というような言葉で繰りかえし作品にあら われる作者じしんの情熱、熱弁、懐疑と追及とに、じしんの生涯をつぶす思想があると、かれはみなしてい た。≫ 賢治はそのために生涯を懸けていたと吉本は見た。その吉本も、そのために一生をささげた先達者だった。 (糸井重里的感覚では吉本をとらえきれないとする世川行介さんの論を支持する) ・・・・・・・・・・・・・・ と、賢治と吉本の威に圧されつつ、いささか肩肘張って書いてみたが、最後に、娘のばななさんとの対談で の発言を紹介して、追悼に名を借りた、私の心の整理のための文章を閉じさせていただきます。「ほんたう のほんたう」のとどのつまりです。 ?・・・残念なことに、どうも俺は?外・漱石に比べたら平凡な物書きに終わりそうだな・・・傍から見ても、 そばへ寄って話を聞いても、「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的 として、それで一生終わりにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。・・・それ以上 のことはないんです。・・・それがいかに大切で、素晴らしいことかというのは、僕ぐらい歳をとれば、わ かりますよ。・・・一生を生きるというのは、結局、そういうこと以外に何もないんだと思います。それだ けは間違いないことだから。(2010.6.4)≫(「書くことと生きることは同じじゃないか」『新潮』平成2 2年10月号)    <完> 注記等 http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2012-04-08
刊行形態 Newspaper Article 著者 橋爪大三郎 著者 松浦寿輝 著者 田中和生 刊行年月 120409 標題 座談会:吉本隆明氏の思想を語る 上 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 8 掲載年月日 2012.4.9 区分 追悼座談会 キーワード 見出し・語録  戦後の文学と思想に巨大な足跡を残した詩人・評論家の吉本隆明さんが3月、亡くなった。幅広い分野に 及んだ仕事はどんな特徴をもち、60年を超える文業はいかなる変化をたどったのか。社会学者の橋爪大三 郎さん、詩人・小説家の松浦寿輝さん、文芸評論家の田中和生さんの3人に、縦横に語ってもらった。【構 成・大井浩一、棚部秀行】  ◇異なる二つの要素を抱え――橋爪さん  ◇文学に奉仕する視線一貫――田中さん  橋爪大三郎さん 吉本さんの逝去を聞き、私に近い世代の人にはそれぞれ自分なりの受け止め方があると 思います。でも、若い世代はピンとこなかったり、よしもとばななさんのお父さんというイメージしか湧か なかったりするだろう。世代間のギャップが大きいのを感じます。  松浦寿輝さん 少しずつ世代の違う私たちも「吉本隆明の読み方」は三人三様だと思います。吉本さんは 時代の状況に深く根ざしながら発言し、思考してきた批評家、思想家でした。私自身は全共闘世代より少し 下なので、ややクールな受け止め方になります。87歳で亡くなったのは、なすべき仕事を終えた大往生と いえるでしょう。  田中和生さん 僕が吉本さんの著作を読んだのは1990年代以降で、本人と話したこともありますが、 完全に活字で読んだ対象というイメージです。彼の文章からは常にフェアなまなざし、文学に奉仕するまな ざしを感じていました。それは60年代から近年に至るまで一貫した視線でした。  松浦 吉本という人はオールラウンドプレーヤーというか、あらゆる主題について思索を巡らせ、旺盛に 発言し続けました。彼自身は、戦争中に考えを知りたかった文学者や知識人が沈黙したことに失望し、自分 は沈黙しないようにしたと言っていました。それにしてもマルクスからコムデギャルソンまで、現代詩から 建築までを論じた。なぜだったのでしょうか。  橋爪 異なる二つの要素を自分の中に抱え込んでいました。一つは詩人であり、芸術的表現者であるとい うこと。もう一つは科学者の訓練を受けたことです。また、知識人と大衆をいつも意識していた彼は、自分 を大衆そのものではないけれども、ただの知識人でもないと理解していた。そこで知識人の役割を果たそう とする際には他の知識人を攻撃し、批判した。でも大衆を全肯定して寄り添うかというと、時々あまのじゃ く的に反対を向く。だから、ただの大衆でもない。では何なのかというのは謎ですが、そういうスタイルを 最後まで貫きました。  田中 僕は吉本さんの中にあるのは一貫して詩人だったと思います。だから時に全く論理的ではない。彼 が抱えていた課題は敗戦後に、敗戦を繰り返さないような思想を、沈黙している大衆の考えを繰り込んだう えで、文学として構築することでした。その信念が、あらゆることに興味をもって思想を練り上げていくス タイルを取らせたのではないでしょうか。  橋爪 戦前は軍や政府が主導する国家総動員体制があり、軍国少年だった吉本さんはそれに同一化してい た。その体制が音を立てて崩れる体験をしたので、自分に対しても何か許せない部分があったのでしょう。 これをどう解決するかという課題がエネルギーとなり、生涯持続したと思います。  松浦 彼は戦時中の日本文学報国会の文学者たちを許せなかったように、戦争直後の共産党系の左翼イン テリも許せなかった。そこで「自立」の思想といい、孤独な思考者として道を切り開いたのですが、その際 概念や教養ではなく、生活の実感、手触りのある庶民の生をよりどころにしようとしました。でも状況はど んどん変わっていきます。共産党的な思考の枠組みが解体した後まで同じ姿勢が持続していたために、拳が 空を切るような無用な知識人批判や過剰な大衆礼賛になったという気もします。  ◇80年代以降「現状肯定」に――松浦さん  田中 逆に、なぜ60年代の政治運動の中であれだけ絶大な支持を集めたのか、よく分からないところが あります。大学生がみんなキャンパスで吉本さんの本を抱えて歩くというようなことが、どうして起きたの か。生活の実感のある場所から思想の言葉を繰り出そうとした構えが学生にも届いたのかなと、想像しては みるのですが。  松浦 ただ、『言語にとって美とはなにか』も『共同幻想論』も実際読むと、大衆とも生活とも縁遠い難 解な文章ですよね(笑い)。吉本さんは東京・月島の船大工の子供ですから、高等教育を受け知的な世界に 入っていった時に、下町から乖離(かいり)していく感じがあったと思います。でも、その世界を自分の原 点として手放さず、抽象的な思弁と生活の実感との折り合いの付け方を考え続ける持続力があった。同じ東 京の下町出身の私も親近感があります。  橋爪 住まいも終生、下町界隈(かいわい)を離れませんでしたね。下町に住みながら政府と無関係に物 事を考えるのは江戸時代以来の伝統です。江戸の儒学者も町人や下級武士のほうがむしろ名が知られ、オリ ジナルな学説を述べていた。儒学がマルクス主義になっただけで、似ていると思います。詩人の魂かもしれ ませんが、吉本さんには、戦争後の現実は持続しないという直観があり、将来の像を幻視して批評の言語と して語ったのではないでしょうか。例えば東西冷戦のさなかに、ポスト冷戦のことを語り続けていました。  松浦 80年代以降、日本が豊かになる一方で、世界的にもマルクス主義が力を失い、91年にソ連が崩 壊します。この頃になると、吉本さんの発言が単なる現状肯定に見えてしまうというさびしさもありました。  田中 彼自身、70年代に入ってどうも時代が変わってきたようだと感じ、「もう少し広いところに出て、 今までと違う形で語りかけようとした」と言っていました。漫画や広告などあらゆることに興味をもって発 言し、考察しましたが、それは出てきたものに反応しているだけで、現状を肯定しているようにも見えまし た。  松浦 きっかけは『マス・イメージ論』(84年)です。現代詩の最も尖鋭(せんえい)な詩が、さだま さしや中島みゆきの歌詞と同じ平面にあり、すべては「修辞的な現在」の中に平たくならされていくという 挑発的な視点を打ち出した。当時の若い詩人として、私に反発がなかったわけではない。ただ、時代を見る 目として正しかったのは、今にしてみれば疑う余地がありません。  田中 結局、繰り込もうとした大衆の層が、80年代以降は膨大になり、とりとめもなくなってしまった のではないでしょうか。  橋爪 結果的に、それでよかったと思います。知識人が「大衆の原像」を繰り込んだらどうなるかという と、知識人も大衆も、自分が知識人なのか大衆か分からなくなり、一種類の人間しかいない状態になる。そ れは吉本さんが言った通りだったし、知識人が大衆を啓発したり、党が指導したりするよりもマシではない か。ただ、吉本さんは一貫して、そういう一種類のフラットな人々が作るはずの秩序や現実について述べる のを禁欲していた。ヒントぐらいくれてもよかったかなと感じます。  田中 ひょっとしたら、本当は反対のことを言いたいのに、彼を形作ってきた思想が言わせない場面が多 々あったのではないでしょうか。=<下>に続く 注記等 http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c.html http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c2.html http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c3.html http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c4.html http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c5.html http://mainichi.jp/feature/news/20120409dde018040098000c6.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120409 標題 “戦後最大の思想家”吉本隆明逝く:春秋一話 掲載誌(紙・書)名 通信文化新報 出版地 掲載頁 http://www.tsushin-bunka.co.jp/?p=2346 掲載年月日 2012.4.9 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  3月16日に亡くなった吉本隆明さんを悼む各種の記事に共通するのは“戦後最大の思想家”と評する点だっ た。精神的父親のように敬う人も多い半面、敵意を持つ人も少なからずいた。しかし、彼が思想的な巨人であ り、戦後最大の思想家であったことは、誰もが認めていたことであるように思う。吉本さんに初めて会ったの は19歳の頃であり、それ以来、公私にわたりお付き合いさせていただいた。その恩恵をどのように考えていい のか、未だ測りかねている。それほど大きなものだったが、自分自身の中では最後まで分からないのかも知れ ない。  若い頃、思想的な迷路に落ち込んでいた私たちに、吉本さんは「精神の闇屋の特権」を行使しろというメッ セージを送ってくれた。若い時代を人間は誰でも経るものだが二度と戻っては来ない。その意味や重要さが分 かった時には、若い時代はもう失われている。どんなに悔み反省しても戻れない世界だ。青春という言葉は美 しいし、青春をするという言葉には輝きがある。しかし実際のところ、青春と呼ばれる時期に多くの人は苦し むものであって、ここから早く脱したいと願う。  多分これは、内から沸騰するように湧き出た自意識を了解できず、それに規範も与えられず苦しむからだ。 過剰な自意識(自我)の地獄を経るような経験である。吉本さんはこの時、私たちが経験しているものは精神 の自由であり、青春の特権であり、それを味わい尽くせと言ってくれたのである。精神の闇屋とは何処にも価 値づけられず、公的に評価されなくても自由であるその貴重さを失わない存在だ。誰でも自己という精神的な 存在が公的なものとして評価されることに焦り、それがいつの場合も自由の喪失と引き換えであることに気が 付かない。  吉本さんのこのメッセージは、今でも青春期の若者に与えられた最高のものであると思う。吉本さんが、精 神としての人間を誰よりも深く理解していたからだ。人間は自然的な存在であるが、同時に精神的存在である。 この精神的存在は大きく、豊かで広がりのあるものだ。しかし人間は、この精神としての人間の深さと広さ、 その大きさに気が付かないか、そこに近づくことを怖れ、タガをはめて抑制しようとする存在である。  精神としての人間を探索し生きた者は、かつては宗教家と呼ばれた。何故なら、思想が宗教の形でしか存在 し得なかったからだ。精神としての人間を探索し、それを生きるのは現在では思想においてであり、思想家と 呼ばれる。吉本さんは、それを遠くまで探索し生きた存在だった。300冊を超える著作と世界的に評価される 知見を残した。その総合性と独創性において戦後最大の存在であり、人々が戦後最大の思想家と評する所以だ。  吉本思想は、これから多くの人に検討され、受け継がれていくであろう。しかし精神としての人間を、あん なにまで遠く深く探索していく人間は、もう現れないかも知れない。  吉本さんに接した多くの人が魅了されたのは、吉本さんの生そのものが思想的な存在だったからである。彼 にとって思想は生きていることそのものだった。精神の輝き、精神の自由、精神としての人間の姿がその存在 に具現されていたのであり、私たちは接する度に驚きつつそれを感得していた。吉本さんのこの姿は、書かれ たものや記録されたものからも窺えるが、生きた吉本さんからしか得られないところもあった。  吉本さんは、思想が固有の人間に属するものであり、人とともに失われるほかないところがあることをよく 知っていたと思う。多くの人たちが吉本さんの死に接し、深い喪失感にさらされているとすれば、この精神的 な存在の喪失を感じているからでもある。 (乾坤) 注記等 2012年4月9日号
刊行形態 Magazine Article 著者 橋爪大三郎 刊行年月 120410 標題 マルクスvs.吉本隆明:追悼・吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 中央公論  巻 127 号 8 掲載頁 148-151 掲載年月日 2012.4.10 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120410 標題 蓋棺録 掲載誌(紙・書)名 文藝春秋  巻 90 号 8 掲載頁 516-517 掲載年月日 2012年5月号 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 [文芸評論家で詩人の吉本隆明は、常に戦後日本における思想論争の中心に立ち続けた。] (3月16日没、肺炎、87歳) 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 橋爪大三郎 著者 松浦寿輝 著者 田中和生 刊行年月 120410 標題 座談会:吉本隆明氏の思想を語る 下 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 6 掲載年月日 2012.4.10 区分 追悼座談会 キーワード 見出し・語録  3月に死去した詩人・評論家、吉本隆明さんの思想を考える橋爪大三郎さん(東京工業大教授・社会学)、 松浦寿輝さん(詩人・小説家)、田中和生さん(文芸評論家)による鼎談(ていだん)の後半。最近の仕事 に見られた問題や科学者としての側面、さらには吉本論の展望へと、議論は広い範囲に及んだ。【構成・大 井浩一、棚部秀行】  ◇「上から目線」で批評せず−−松浦さん  ◇戦後の屋台骨の役割果たす−−田中さん  松浦寿輝さん 1980年代からずいぶん時間がたち、今は貧富の格差も激しくなって、大衆という言葉 でくくれない状況になっています。同時に、さまざまな意味で管理化の進んだコントロール社会になり、目 に見える権力とは違う形でのしかかってくるシステムの支配の怖さが出てきました。しかし、こうした新し い状況について、吉本さんはあまり有効なことを言ってくれなかった気がするんです。  橋爪大三郎さん 文学者の新しい仕事に批判めいたことを言わず、まず受け入れる姿勢を、吉本さんは意 識して取っていました。それは文学の原理です。もう一つ手放さなかったのは科学の原理で、科学的根拠が あって合理的なことならば、誰にでも必ず分かるはずだという信念があった。例えば原子力発電に反対する のは反動に他ならない、科学や技術のもたらした問題は科学や技術で乗り越えるしかないというスタンスも、 この原理から出てきます。でも、文学と科学の中間に社会科学があり、大きな政府か小さな政府かなど、自 然科学と違い、結論の出しにくい問題を議論しているわけです。  松浦 普遍的な真理がありませんよね。  橋爪 議論がいくつかの立場に分かれた場合、当面どちらかを選ばないといけません。でも、吉本さんか らはそれが党派闘争に見えてしまい、一方にくみすることができなかったという気がします。  田中和生さん 思想に殉ずる姿勢は、一貫して敗戦の体験からきていると思います。大衆の欲求を深いと ころで肯定する姿勢は、戦後日本の平和と繁栄と歩調を合わせていて、戦後思想の中で屋台骨のような役割 を果たした。その思想を手放さずに亡くなったのは貴重です。  松浦 吉本さん以外の批評家は「上から目線」です。彼は多くの激しい論戦、論争をやりましたが、これ はむしろケンカのような、同じ土俵での素手の殴り合いです。大文字の観念、イデオロギーを盾にとって上 から批判したり断罪したりしたことは全くなかった。  橋爪 今の状況に届く言葉を持てず、感受性が鈍ったのではないかという話がありましたが、吉本さんは 戦中戦後の苦しい修羅場をくぐり抜けてきた人なので、こんなふうに考えていたのではないか。人にはいい 時も悪い時もあるのだから、ずっとどん底にいるわけでもない。今の自分は確かに一番どん底の苦しい当事 者ではないかもしれないけれど、決してそこから距離を置いたり背を向けたりしてはいない、と。自身でで きることをやり、自身でできることには責任をもつというスタイルです。そうやって自分は持ち場を守る、 だからあなたも持ち場を守りなさいという考え方で、これは一つの倫理だといえます。  ◇直観を固有の方法論で示す−−橋爪さん  田中 共感能力が非常に高い人という印象があります。彼は「他者」という言葉を使いませんでしたが、 ごく日常的な世界で沈黙している者への寄り添い方には圧倒されました。それだけ強く他人に共感できるこ とが、吉本さんの思想を支えていたように感じます。  松浦 「一人は一人だ」というスタンスで、なおかつ権力とも政府とも無縁の生活の場所を持っていまし た。そこで頼りになるのは家族で、「対(つい)幻想」という概念もここから生まれたのでしょう。  田中 奥さんが身体を悪くして、ずっと晩ご飯を作っていた時のレシピを書いた文章が面白い。何と何を 用意して、最後に「グルタミン酸ソーダの類(たぐい)を入れる」と出てくる(笑い)。いろいろ試した結 果、手の込んだ料理はお客として食べるもので、普段の食事は簡単で手早くできるものがよろしいという結 論に達したと書いています。やっぱり理系の人、科学者の精神を持つ生活者だな、と。  松浦 東京工業大に学んだ科学者としての知的訓練が、どういう形で著作や批評に生きたのかは、よく分 からないところがあります。『言語にとって美とはなにか』も『共同幻想論』も、詩人的な直観が勝ってい る文章だと思いますが。  橋爪 証拠と論理を大事にするスタイルで書かれていると思う。『共同幻想論』も『言語にとって美とは なにか』も確かに詩人の精神、直観の産物ですが、「個体幻想」「対幻想」「共同幻想」は理論物理学のよ うな概念ですし、「自己表出」と「指示表出」を座標軸で図解するのも、解析幾何学のようなやり方です。 批評をそこまで学問的にしようとしたのは、マルクス主義などのイデオロギーに対抗しようという意味合い があったにせよ、固有の方法論だと思います。  田中 生きておられる間は、愛憎を抜きにした吉本隆明論を書くのは無理でしたが、これから決定的な論 が出てくるでしょうね。  松浦 吉本さんの著作が歴史に組み込まれたところで、彼の言語論や幻想論の中で何が有効な理論概念と して残るのか問われ始めるでしょう。一方で、人間・吉本隆明の魅力、中でも文学者として詩を取り巻く生 活や体験を焦点に読み直す動きが出てくるのではないでしょうか。誰かが評伝を書いたら、本当に面白いも のになると思います。  橋爪 三島由紀夫とほぼ同年代で、戦後に対する違和感を生きたという点では共通するところがあります。 今の高校生以下のぐんと若い世代から優れた批評家が出て、吉本思想に全力で取り組んでくれるのを楽しみ に待ちたいですね。  田中 戦後の文学者にとって最大の課題は、現実の変化に耐える言葉を作ることでした。吉本さんが特異 なのは、戦前の軍国少年だった自分からもつながる形で時代を超える言葉を作ろうとしたところにあります。 そういう思想のあり方は残していかなければいけないと思います。  橋爪 在野で、幅広く質の高い仕事をする人を、日本人は割と好きな気がします。でも、専門家の時代の 今は、そういう人が出にくくなっている。今後、吉本さんのような人が出てくるのだろうかと考えます。  松浦 吉本さんの文体の迫力はすごいと思う。時として混乱もあり、あまり論理的とは思えないところも ありますが、圧倒的な情動のうねりがある。それが対象をねじ伏せようとする思考の力と絡み合って、合理 主義とは程遠い、しかし異様な説得力のある文体になった。そんな個性的な文章が、批評の世界に出てくる といいですね。 注記等 http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c.html http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c2.html http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c3.html http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c4.html http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c5.html http://mainichi.jp/feature/news/20120410dde018040009000c6.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120412 標題 全共闘世代の「教祖」吉本隆明 「大衆の時代」を先導 掲載誌(紙・書)名 MSN.産経ニュース 出版地 掲載頁 掲載年月日 2012.4.12 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  3月16日に87歳で死去した詩人で評論家の吉本隆明(たかあき)さんは、「戦後最大の思想家」と呼 ばれ、「ひとつの世代の象徴的な存在」(石原慎太郎都知事)と評されるほどの教祖的な支持を集めた。そ のファンの中心は、1960年代後半から70年代初めに大学生活を送った「全共闘世代」だ。なぜ吉本さ んは、この世代の心をとらえたのか。(磨井慎吾)  「吉本隆明の偉さというのは、ある一つの世代、具体的にいうと1960年から70年までの10年間に 青春を送った世代でないと実感できない」と、若い世代の読者を想定した吉本論『吉本隆明1968』(平 凡社新書)で語るのは、仏文学者の鹿島茂・明治大教授(62)。学生運動の全盛期だった当時、大学を中 心とした知的世界は左翼一色だった。「国内外の貧しい人々を引き合いに出し、現状を批判する左翼インテ リの禁欲主義に対し、それは(ソ連型の悪平等主義の)“収容所群島”の論理だ、と喝破した。こういうこ とを言った人は、世界で他にいない」。鹿島教授は吉本さんの一番の「偉さ」を、こう指摘する。大衆から 遊離し、行き詰まりつつあった既成の左翼党派に違和感を覚える大学生にとって、特に魅力的だったようだ。  「吉本が大学生の間で“教祖”的な影響力を持つようになったのは、1960年代半ばから」。こう話す 社会学者の竹内洋(よう)・京大名誉教授(70)が京大に入学したのは、1961年。当時、学生にとっ ての知的アイドルは、“進歩的文化人”の代表格として知られる東大教授の丸山真男(1914?96年) だったが、その人気は在学中に急落。代わって大学生の知的アイドルとなったのが在野知識人の吉本さんだ った。  竹内名誉教授は、背景として高等教育のエリート段階からマス(大衆)段階への移行を挙げる。高度成長 による国民所得の増加を背景に、60年に8・2%だった4年制大学進学率は70年には17・1%に達し、 世代人口自体の多さと合わせて、大学生の数が短期間に膨れあがった。「大学進学率が低かったころの大学 生はエリート知識人の道筋を歩む未来を想定できたが、全共闘世代にとっての未来はただのサラリーマン」 (竹内名誉教授)。丸山のような知識人は、もはや共感から遠い存在だった。  吉本さんは大衆をエリート知識人の高みから啓蒙(けいもう)の対象とみる丸山を批判し、自らの生活し か考えない「大衆のあるがままの存在」を受け止め、思想の試金石とすることを掲げた。社会が豊かになり エリート段階からマス段階への移行期にあった大学生の実感に合致した論理だった。  今後、吉本さんのような一世代を象徴する思想家は現れるのだろうか。  鹿島教授は「出ないと思うよ」と否定的だ。「最大の問題は飢餓。60年代の日本のように、一つの国が 経済的に発展して飢えを克服すると、人々はただ食べるだけでは足りなくなり、もっと豊かに、幸せになり たいという欲望を抱く。インテリはそれをとがめるが、吉本はその論理を徹底的に批判した」と、吉本さん が活躍した背景として、日本が貧しさから脱する移行期にあったことを挙げる。  しかし、「インテリが大衆に禁欲主義をふりかざす構図は、たとえば現在の原発問題でも変わらない」と 語る鹿島教授は、今も“吉本主義者”を自任する。40年以上を経ても、色あせない思想の強さ。われわれ の時代は、こんな思想家を持てるのだろうか。  ■追悼寄稿も目立つ全共闘世代  吉本隆明さんの死去を受けて、新聞各紙は追悼寄稿を掲載した。寄稿者で目立つのは、吉本さんの著作の “直撃”を受けた60代の「全共闘世代」で、吉本さんから受けた深い影響を語る内容が多い。  吉本さんを追悼したブックフェアを開催する書店も相次いでいる。八重洲ブックセンター本店(東京都中 央区)は、3月17日から社会・人文書フロアの一角に特設コーナーを作った。同店販売課の北哲司・4階 フロア長によると、売れ筋は『言語にとって美とはなにか』(角川ソフィア文庫)といった主要作のほか、 講演録『吉本隆明が語る親鸞』(東京糸井重里事務所)など比較的最近出た本も好調で、主な購買層は60 代だという。 注記等 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120412/art12041208180001-n1.htm http://sankei.jp.msn.com/life/news/120412/art12041208180001-n2.htm http://sankei.jp.msn.com/life/news/120412/art12041208180001-n3.htm
刊行形態 Newspaper Article 著者 吉村千彰 刊行年月 120412 標題 吉本隆明さんの贈り物:甲乙閑話 掲載誌(紙・書)名 朝日新聞デジタル 出版地 掲載頁 掲載年月日 2012.4.12 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  「朝日新聞らしい人、と言われないように気をつけて」。せんだって亡くなった吉本隆明さんにお目にか かった時、こんな言葉をもらった。4年前のことだ。  「風俗や習慣、遺伝子から交際などみんなすっ飛ばしたら自分に何が残るか、自分は何なんだろう、と考 えた方がいい」とも言われた。折にふれて思い出している。  白状すると、著書を読み通したことはなかった。太宰治についてのインタビューだったので、難しい話に ならないよう祈りつつ、心の中で謝りながら、おどおど会いに行った。しかし、吉本さんは、太宰に会った 日の喜びを昨日のことのように語ってくれた。「良い悪いではなく、いかれちゃったからしょうがない」な どと、にこやかにおっしゃる。気持ちがほどけた。  「常識的に良いことばっかり言うところに自分が入ると、こりゃいかんと思うんです。表面だけは良いと 取られても、逆に、その時の情勢に便乗していると取られることはありうると。そうならないよういつでも 反省している」と言う時は真剣な表情だった。権威から離れ常識を疑う姿勢を伝える情熱に、切迫感さえあ って驚いた。  自分について考えることは難しい。エネルギーもいる。言われたように自省できている実感はない。ただ、 忘れられない言葉をもらった、その恵みと重みを大事に抱えていきたいと思っている。(吉村千彰) 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 大西巨人 刊行年月 120413 標題 大西巨人氏に聞く「吉本隆明君のこと」 掲載誌(紙・書)名 週刊読書人 出版地 東京 掲載頁 1-2 掲載年月日 2012.4.13 区分 追悼インタビュー キーワード 見出し・語録 「大本を断つ」思想/吉本・花田論争/武井昭夫と吉本隆明/同じ地平で考える 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 植田康夫 刊行年月 120413 標題 『週刊読書人』での吉本隆明氏:昭和30年代の論文、対談、座談にみる 掲載誌(紙・書)名 週刊読書人 出版地 東京 掲載頁 2 掲載年月日 2012.4.13 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 ビートたけし 刊行年月 120413 標題 読売は朝日に仕返しで「甲子園の猫ひろし」を追求しろっての!:ビートたけしの21世紀毒談 第1114回 掲載誌(紙・書)名 週刊ポスト  巻 44 号 16 掲載頁 66-67 掲載年月日 2012.4.13 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Audiovisual Material 著者 刊行年月 120413 標題 追悼企画 吉本隆明の現代日本における意味 掲載誌(紙・書)名 BSフジLIVE プライムニュース  掲載頁 http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d120413_0 掲載年月日 2012.4.13 区分 追悼番組 キーワード 見出し・語録 追悼・吉本隆明の思想 芹沢俊介と三浦雅士が語る吉本の現代的意味 http://www.bsfuji.tv/primenews/movie/index.html?d120413_0  先月16日、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明が87歳でこの世を去った。詩人にして文芸 評論家、そして思想家。吉本は、文学や芸術だけでなく、政治・経済、宗教、家族や大衆文化まで、人 間社会のあらゆる事象を縦横無尽に論じ、“戦後最大の批評家”と評された。そして、鋭い言論で世相 を斬る吉本の存在は、1960年代の全共闘運動に携わった若者らに強い影響を与えた。  生前の吉本隆明と親しく、吉本が亡くなる前日に面会したという評論家の芹沢俊介氏と、編集者とし て吉本の言論活動を間近で見てきた文芸評論家の三浦雅士氏を迎え、知のカリスマ・吉本隆明は現代日 本にとってどのような意味を持つのか、改めて考える。 注記等 2012年4月13日午後8時〜9時55分(生放送)
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 120414 標題 追悼特集 吉本隆明:さらば!吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 図書新聞 出版地 東京 掲載頁 1〜5、7・8 掲載年月日 2012.4.14 区分 追悼文集 キーワード 見出し・語録 日本の思想家・吉本隆明:権力について考え続け、最長不倒距離を刻んだ 橋爪大三郎 土台から崩れ始めた資本主義:大衆は思想的に「繰り込む」べきではなかったか? 笠井 潔 大人の論理と子供の感受性と:吉本氏には「子供たちが感受する異空間の世界」への感性が並外れてあった  山城むつみ 思想も実践もわかっちゃいない:繭玉のように表現を紡ぐには、蚕のように静止しなければならない 最首悟 大河小説としての吉本隆明:この稀代の作家を、疑似原生林のようなものとして、遠く崇拝する 丹生谷貴志 半世紀の時の向うに:国を覆っていた党派性の支配にたたかいを挑む力業に、声援を送っていた 栗原幸夫 「転位」、転向を続けた生涯:吉本さんの氏を悼む 月村敏行 思想の自立を妨げた思想家:吉本氏の思想の態度が、思想という言葉を自立させるとともに、思想は魔語となっ てその後の若い人たちの言説を縛る罠となった 長崎 浩 吉本隆明さんを悼む:とても〈さようなら〉なんて言えない 三上 治 巨木、ついに倒る:生き生きした好奇心と、長年にわたり積み上げ練り上げてきた思考 粟津則雄 詩人吉本隆明:吉本隆明の「死後の名声」のために 野村喜和夫 壮絶な孤独:吉本が身を置き続けた「境目」は「底なしの深淵」にほかならない 合田正人 〈疎外〉としての心:吉本隆明追悼 金森 修 世界に単独で対峙する文体:吉本隆明は、近くて及びがたい思想家だった 平川克美 孤独と母型:ある種の強固なナショナリストでもあった吉本隆明 宇野邦一 隆明[リュウメイ]先生を弔う:東日本大震災を契機として試されている“自立化” 川村邦光 「死の思想家」吉本隆明:吉本隆明追悼 神山睦美 長いお訣れ:「吉本・花田論争」に対するわたしの選択 松本昌次 幻想論の最後の堺位:吉本隆明の『共同幻想論』と『最後の親鸞』 高橋順一 三度現れた大衆主義原像:60年安保闘争がもっとも高揚しているのに、寒そうにしていた吉本隆明 足立正生 吉本隆明主要著作リスト 木畑壽信・作成 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 後藤正治 刊行年月 120414 標題 リレー読書日記 掲載誌(紙・書)名 週刊現代  巻 54 号 14 掲載頁 66-67 掲載年月日 2012.4.14 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 国家はなぜ共同幻想なのか。〈知〉の最後の課題とは何か。「私の吉本隆明」を回想する 遠い昔に記した死についての貴重な一節 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120415 標題 サンデー時評:五木、佐伯、吉本が書く「幸福論」 掲載誌(紙・書)名 サンデー毎日  巻 号 掲載頁 掲載年月日 2012.4.4 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  書店に入り、新刊書の棚を見る。経済本が圧倒的に多い。景気の低迷を反映しているのだろう。次いで、 サスペンス、ミステリーものが目立つ。社会不安から逃れるために刺激を求めているのではないか。  最近は題名に〈幸福〉の二文字が含まれているのが目につく。自分は果たして幸福だろうか、不幸ではな いか、と考え込んでいる人たちが幸福本を買うのかもしれない。私はこれまで深刻に考えたことがなく、多 分これからもない。特に幸福と思ったことはなく、不幸を嘆いたこともなく、ほどほどに生きてきた、とい ったところだろうか。  しかし、〈幸福〉というテーマには大いに興味があるのだ。書店から三冊買い求めてきた。三月末新刊の 五木寛之『新・幸福論−青い鳥の去ったあと−』(ポプラ社)、佐伯啓思『反・幸福論』(新潮新書・二〇 一二年一月刊)、そして吉本隆明『老いの幸福論』(青春出版社・一一年四月刊)である。三冊とも〈論〉 がついている。  なぜいまごろ幸福論を書く気になったのか。作家の五木さん(七十九歳)は、 〈ここに書いた文章は、明日の幸福の設計図ではありません。私の正直な実感を手さぐりしながら、幸福と いう、いささか気恥かしい主題を追いかけてみた足跡です。  青い鳥はすでに飛び去ってしまった。そのあとに私たちは立ちすくんでいる。しかし、そこから始めるし かないのです。もし、希望があるとしたら、それは何だろう、と自分に問いかけるなかからこの一冊が生ま れました〉  と記している。新しい青い鳥を求めての執筆だ。戦後、最初の幸福のモデルはアメリカ、その次はヨーロ ッパ、韓流ブームも、ブータンへの憧れもその名残かもしれない。しかし、いま私たちは外国に幸福のモデ ルを探すことは意味がない、と次第に感じはじめている、とも五木さんは言っている。  次に京大大学院人間・環境学研究科教授の佐伯さん(六十二歳)はこう書いている。 〈本書では、今日の日本で起きた出来事を素材にして、今日の日本人が忘れてしまった価値観について考え てみたいのです。日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。 少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありま した。  それがすべていいとは思いませんが、かつての日本人がどうしてそのように考えたのか、そのことも思い 出してみたいのです。だから本書はあくまでも『反・幸福論』なのです。『反・幸福』という視点から幸福 というものを見てみたいと思うのです。それはまた、今日の日本人の精神状況の自画像にもなっているはず だと思うのです〉  戦後日本はいったい何をしてきたのか、〈個人の自由〉は拡大すれべするほどよい、〈経済的な富〉も拡 大すれば拡大するほどよい、という戦後日本の価値観に大きな錯誤があったのではないか、というのが佐伯 さんの考え方のベースにある。  ◇曲がり角に差しかかっている日本人の精神生活  そして、先日、八十七歳で亡くなったばかりの詩人、思想家の吉本さん。 〈老いとは何か、幸福とは何かを定義することは簡単なことではありません。唯物的には言えるかもしれな いけれど、それは個々人のなかにしか考えがないと思います。したがって、幸福というのは、日々の生活の 中で小刻みにとらえていくよりほかないというのが、僕の変わらぬ考え方です。  老いについていえば、生と死の分かれ目に近づいているとは思います。でも、これが幸福なのか不幸なの かはわかりません。幸福とは言えないだろうけど、そんなに不幸だという感じもしない。生きていても、い いことも嫌なことも数限りなくある。だから、生きている苦労や不幸に比べてみて、死ぬことが不幸とばか りは言えないと思うんです〉  と書く。  三人に共通しているのは、戦後とは何だったのか、という視点である。五木さんは外国にモデルを求めた 戦後の幸福感の時代が終わり、新たな日本的幸福を探求する時がきたという認識のようだ。佐伯さんも戦後 の価値観を否定し、日本の伝統的な幸福感に光をあてるべきだと考えている。  吉本さんは戦後を特徴づける高齢社会の幸福とは何かを追った。一九五〇年、平均寿命が女性六十一・四 歳、男性五十八・〇歳だったのが六十年余でそれぞれ二十歳前後延びている。幸福感も変わって当然だ。  三冊の本を通読してみて思うことは、日本人の精神生活が大きな曲がり角に差しかかっているという一点 である。どう曲がるのか、〈新しい幸福〉をどこに見いだせばいいか、は本をお読みいただくしかないが、 読んでも、これだ、と明快に示されているわけではない。幸福とはそういう定義とか線引きできない、不確 かな対象なのだろう。  敗戦による虚脱のあとの時間的経過と、プラス3・11東日本大震災のショックが転機を誘っている。佐伯 さんは3・11に触れているが、それが反・幸福論とどうリンクするかは示されていない。ただ、被災地の知 人から佐伯さんは手紙をもらい、それには、 〈家を流され故郷は崩壊したが、家族だけは無事だった。千年に一度の大地震だといわれているけれど、こ の災害が降りかかってきたのが、まさにいま、自分の身の上であってよかった。この大変な苦痛を受けるの が自分でまだしもよかった。子供や孫の世代でなくてよかった。自分の責任は、この経験を子供や孫に伝え ていくことだけだ〉  としたためてあったという。どうしようもない理不尽な事態のなかからしぼりだしてきた心情である。 〈大悲劇のなかの幸福〉を考えなければならない宿命に、日本人はさらされているのだ。  次々に幸福本が発刊されるのを願っている。せっかちに答えを出す必要はない。ただ、世紀の世直しに幸 福論をはずすことはできないからだ。 <今週のひと言>  東電から盗電したくなる。 (サンデー毎日2012年4月15日増大号) 注記等 毎日jp http://mainichi.jp/opinion/news/20120404org00m010047000c.html http://mainichi.jp/opinion/news/20120404org00m010047000c2.html http://mainichi.jp/opinion/news/20120404org00m010047000c3.html http://mainichi.jp/opinion/news/20120404org00m010047000c4.html http://mainichi.jp/opinion/news/20120404org00m010047000c5.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 石関善次郎 刊行年月 120416 標題 骨太の体は船大工の父譲り:「吉本隆明と天草」 掲載誌(紙・書)名 熊本日日新聞 出版地 熊本 掲載頁 掲載年月日 2012.4.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 斎藤清一 刊行年月 120416 標題 吉本隆明が米沢で得たもの:都会にない自然、言語 掲載誌(紙・書)名 山形新聞 出版地 山形 掲載頁 掲載年月日 2012.4.16 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  戦後日本の思想・文学に多大な影響を与え“知の巨人”と評された吉本隆明がこの3月16日、他界した。 彼は1942(昭和17)年、山形大学工学部の前身・米沢高等工業学校に入学、44年に卒業するまでの2年半、 この米沢で多感な青春時代を過ごしている。吉本に、この地での生活が何を与えたかということを考えてみ たい。  彼が生まれてからずっと生活してきた東京から離れたわけであるが、それはなによりもまず第二の乳離れ を意味した。米沢高等工業入学と同時に寮生活に入り、そこで寮生の一人から宮沢賢治の作品を紹介され、 ついに賢治の生誕の地花巻まで訪れることになった。  また米沢の地を取り巻く丘陵から、その後方に並んでいる吾妻連峰にいたる「自然」の印象は、東京での 生活にはなかったもので、米沢の生活からはなれてからも「人間と人間との入り組んだ心の関係、人間と社 会との矛盾の奥深くのめり込んでどうにもならないとき、その風景の印象は、わたしの思考を正常さに戻し てくれた」と述べている。また「峠」というものは東京ではどういうものかわかっていなかったのだが、米 沢に来てはじめてそれがちゃんとわかり、彼は時間にゆとりがあると学寮から白布温泉に続く船坂峠によく 出かけたという。  雪への思い  彼はまた雪の思い出として次のように書いている「東京では雪は珍しく、なんとなく子どもの頃をおもい 出して、浮きうきした気分になったものだが、ここでは雪は人に笑いを浮かべさせたり、愉しませたりする ところは微塵もなくて、遊びなどこの世にないんだ、真面目にやれと凄まれているような気がした。おなじ 雪がこんなに違うものなのかとはじめて合点した。だから三月のおわり、どことなく周囲がざわめき、あか るさがまし、天候がゆるみはじめると、ながい冬の蟄居から解き放たれる感じが、どんなに嬉しいものかは じめて体験した。何かいいことがありそうな気分になり、春というのはこんなにもいいものなんだという実 感がわいた。これもまた東京では切実でないものが、こんなにも痛切なのかというおもいにつながった」 (「米沢の生活」)  飲酒の習慣  米沢の学校へ行って覚えてよかったと振り返る大きな体験は、飲酒だった。「飲酒の習慣がなかったら生 涯はだいぶ味気なくなったにちがいない」と書いている。そのときのことを次のようにつづっている「入学 と同時に一年間全寮制の寮生活がはじまったが、はじめの十日間ぐらい、毎晩のように深夜になると酔って 酒の一升ビン入りをもった上級生から叩き起こされて、あまり内容のない説教をくわされながら、酒のまわ し飲みを強要された。飲みっぷりがいいと、そうだ、よし!とほめられる。無理矢理のまわし飲みだが、不 愉快でなかった。これは飲まなければやりきれない過剰なものの処理法みたいなもので、何でも意味がつい てしまう若い上げ潮みたいにおもえて愉しかった。一晩に二組も三組も上級生がやってきて、説教しては酒 のまわし飲みを振舞って去ってゆく。十日間くらいはろくに眠ることもできないほどだったが、それでも実 家を離れた淋しさが、まぎれるおもいで愉しかった」(「お酒の話」)  時間の遅さ  寮の食事の米もなくなったとき、吉本は町を外れた農家へ買い出しに行く。米沢市内の言葉だったら全部 わかり、自分でもしゃべれると思っていた吉本だったが、農家の人にべらべらしゃべられたら、全然理解で きない。同じ日本語ならわかるなどと思っていたのは大間違いだという経験があり、そういう言語感覚が、 後日の言語論のスタートになったと彼は話している。さらに米沢では都会で流れている時間とくらべて、時 間の遅さというものを初めて体験したという。  そして後年、彼は知人と酒宴などの時にはよくアカペラで現在の県民歌「最上川」を歌ったという。「広 き野をながれゆけども最上川 うみに入るまでにごらざりけり」というこの歌は、寮の近くにあった小学校 の校庭から響く児童の歌を耳にしておぼえたものだった。 (元九里学園高教諭 米沢市) 注記等 米沢興譲館同窓会 http://www.yonezawakojokan.jp/event/news/20120419.html
刊行形態 Newspaper Article 著者 吉川宏志 刊行年月 120419 標題 定型の持つ現代的意味:岡井隆の森鴎外論 掲載誌(紙・書)名 高知新聞 出版地 高知 掲載頁 掲載年月日 2012.4.19 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 岡田哲也 刊行年月 120420 標題 [ひとつの人生] 吉本 隆明(思想者・詩人):青空のような謙虚さ 掲載誌(紙・書)名 FACTA online  巻 73 掲載頁 http://facta.co.jp/article/201205038.html 掲載年月日 2012.4.20 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  吉本隆明が亡くなった。出先で訃報を聞いた。が、私の心は、騒がなかった。このところたいした付き合い も無かったせいか、それとも九州で田舎わたらいを続ける私にとって、東日本大震災がそうであったように、 彼の死もどこか遠いよその出来事としか感じられなくなったのか、すっかりヤキが回っちまったと思いつゝ、 私は目の前の雑事に出精した。  しかし、帰宅後居間に掛かっている彼の自筆の額を、私はしばらく眺めていた。  「ほんたうの考へと うその考へを 分けることができたら その実驗の方法さへ決れば 吉本隆明」  一九八三年、私が住む鹿児島県出水市の西照寺で親鸞について話しをしてもらった折、私が差し出した芳名 録に、彼はこう書いた。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中の言葉だ。  お世辞にも流麗とは言えず、意志そのものといった筆のはこびを見ながら私は、この人は文人墨客というよ りは ……… 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 重里徹也 刊行年月 120421 標題 <悼む>思想家・詩人、吉本隆明さん=3月16日死去・87歳 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞 出版地 掲載頁 http://news.goo.ne.jp/article/mainichi/life/20120421ddm004070019000c.html 掲載年月日 2012.4.21 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  ◇「大阪」を優しく語った――吉本隆明(よしもと・たかあき)さん=肺炎のため、3月16日死去・87歳  接するたびに、驚くほど率直にすべてを教えてくれる人だった。どんな質問をしても、決して話をそらさなか った。  2000年4月から01年3月までと、02年4月から03年4月までの計約2年間、日本文学を語る企画を 本紙に連載してもらった(今では「日本近代文学の名作」「詩の力」の2冊の新潮文庫になっている)。  吉本さんの話を同僚と2人で聞き、まとめたものだが、活字になったのはごく一部だ。数週間に1度、東京都 内の自宅を訪ね、私は自分の関心に基づいて質問を重ねることも多かった。  たとえば、大阪の笑いと東京の笑いはどこが違うか。「突然、上半身裸になって、パチパチパチと腕を振り回 す人(島木譲二さんのこと)がいるでしょう。あれが大阪の笑いなんじゃあないですかい。無意味が露出して解 放感を与える。東京の笑いには理屈があるんです」  織田作之助について。「(同じ無頼派の作家でも)太宰治や坂口安吾はどんなに戯作者ぶっても大知識人の面 影を引きずっていました。織田作はそれが全くない。下等に見えれば見えるほど喜んだ。西鶴の影響でしょうね。 僕はとても好きでした」  司馬遼太郎については、私が何度も名前を出すので「空海の風景」を読んでくれた。「(著名な現代作家の名 前を出して)彼の本より空海がわかりました。特に出自に関する記述がいい。でも、空海ってどの程度の思想家 だったのでしょうか?」  藤田まことのファンで、色紙を部屋に飾っていた。「てなもんや三度笠」から「はぐれ刑事純情派」まで、謙 虚を映した芸が好きだったと著書に記している。  「大阪的なもの」について語る時、優しい表情になることが多かった。 注記等 gooニュース 高知版のタイトル=「大阪」を優しく語った:吉本隆明[よしもと・たかあき]さん 思想家・詩人;肺炎のため、 3月16日死去・87歳
刊行形態 Newspaper Article 著者 細田正和 刊行年月 120423 標題 いつだって率直、真剣 掲載誌(紙・書)名 高知新聞 出版地 掲載頁 掲載年月日 2012.4.23 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明さん 3月16日死去、87歳 戦後思想に大きな影響を与えた詩人・評論家 注記等 2012年4月21日「自らを偽らぬ剛直な姿」として「北日本新聞」に掲載
刊行形態 Newspaper Article 著者 宮川匡司 刊行年月 120427 標題 詩人・思想家吉本隆明さん――今と対峙、市井の巨人:追想録 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞[夕刊] 出版地 掲載頁 掲載年月日 2012.4.27 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 辻井 喬 刊行年月 120427 標題 野に詩人あり 掲載誌(紙・書)名 ユリイカ 巻 44 号 5 掲載頁 48-49 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 追悼・吉本隆明
刊行形態 Magazine Article 著者 北川 透 刊行年月 120427 標題 アングラからクラックへ:吉本隆明さんを悼む 掲載誌(紙・書)名 ユリイカ 巻 44 号 5 掲載頁 50-51 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 追悼・吉本隆明
刊行形態 Magazine Article 著者 瀬尾育生 刊行年月 120427 標題 吉本隆明からはじまる 掲載誌(紙・書)名 ユリイカ 巻 44 号 5 掲載頁 52-54 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 追悼・吉本隆明
刊行形態 Magazine Article 著者 水無田気流 刊行年月 120427 標題 結節点の喪失を悼む 掲載誌(紙・書)名 ユリイカ 巻 44 号 5 掲載頁 55-56 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 追悼・吉本隆明
刊行形態 Magazine Article 著者 磯崎 新 刊行年月 120427 標題 アイロニイをいわない吉本隆明さん 掲載誌(紙・書)名 現代思想 巻 40 号 6 掲載頁 246-249 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 追悼・吉本隆明
刊行形態 Newspaper Article 著者 糸井重里 刊行年月 120427 標題 被災地へ『稼ぐ仕組み』:聴流 掲載誌(紙・書)名 高知新聞 出版地 高知 掲載頁 掲載年月日 2012.4.27 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 高橋順一 刊行年月 120427 標題 「禁制論」から見えてくるもの:吉本隆明とフロイト 掲載誌(紙・書)名 現代思想 巻 40 号 6 掲載頁 250-253 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 追悼・吉本隆明
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120428 標題 追悼総頁特集 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 現代詩手帖 巻 55 号 5 掲載頁 13-293 掲載年月日 2012.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 追悼鼎談 詩人思想家のたゆみない歩み:未来の吉本隆明 岡井隆+北川透+野村喜和夫 討議 羊は反対側に走っていく:吉本隆明の現在 橋爪大三郎+瀬尾育生+水無田気流 対話 吉本隆明という生きざま:〈大衆の原像〉をまっとうして 齋藤愼爾+勢古浩爾 追悼 I 辻井喬、長谷川龍生、谷川俊太郎、佐藤泰正、粟津則雄、笠原芳光、河野信子、宇佐美斉、 古橋信孝、最首悟 追悼 II 秋山基夫、南川隆雄、倉橋健一、藤井貞和、佐々木幹郎、福島泰樹、石川九楊、坪内稔典、 道浦母都子、阿木津英、山崎哲、高取英 追悼 III 湯浅博雄、宇野邦一、大澤真幸、富岡幸一郎、安藤礼二、村瀬学、渡辺和靖、高橋世織、 佐藤幹夫、檜垣立哉 追悼 IV 福間健二、倉田比羽子、細見和之、河津聖恵、山嵜高裕、近藤洋太、横木徳久、酒井佐忠、 大井浩一、樋口良澄 論考 芹沢俊介、月村敏行、神山睦美、石関善次郎、山本哲士、高橋順一、宮川匡司、渡辺武信、 吉田文憲、添田馨、田中庸介、及川俊哉、高塚謙太郎 [復刻・現代詩手帖]1962年6月号――特集「吉本隆明の詩と現実」 [資料]吉本隆明詳細年譜(2003-2012)/略年譜/書誌(高橋忠義編) 注記等 [特別付録CD]吉本隆明――2009.6.20 講演「孤立の技法」(現代詩手帖創刊50年祭より)79分32秒
刊行形態 Magazine Article 著者 山本哲士 刊行年月 120430 標題 吉本隆明さんを悼む 掲載誌(紙・書)名 iichiko 巻 Spring 2012 号 114 掲載頁 3 掲載年月日 2012.4.30 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 Ophuls-Kashima, Reinold 刊行年月 1205 標題 Nachruf auf Yoshimoto Takaaki (1924-2012) 掲載誌(紙・書)名 OAG Notizen 巻 Mai 2012 掲載頁 http://www.oag.jp/jp/publikationen/notizen/2012/ 掲載年月日 2012.5 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 Nachruf-Yoshimoto.pdf
刊行形態 Newspaper Article 著者 宮川匡司 刊行年月 120512 標題 吉本隆明と向き合う:追悼企画相次ぐ 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞 出版地 東京 掲載頁 44 掲載年月日 2012.5.12 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 大衆として生き多彩な批評/気鋭の書き手、厚く意識 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120514 標題 吉本隆明追悼・特別企画:思想界の巨人の遺言が指し示す新たなる形;斗え!!「新左翼」 掲載誌(紙・書)名 実話時報 巻 6 号 5 掲載頁 3-13,34-39 掲載年月日 2012.5.14 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 さまよえる「新左翼」:激動の過去、寂寞の現在[グラビア] 赤の時代 植垣康博[グラビア] 「新左翼」総力特集:あの日、渦巻いていた熱きパッションの根源を探る;光と影の交錯 沈黙を聞け 正津勉 思想の核を継ぐ 三上治 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120515 標題 さよなら 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 文藝別冊/KAWADE夢ムック 号 掲載頁 掲載年月日 2012.5.30 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 父の死 よしもとばなな(公式ツイッターより転載) 吉本隆明の死に関連して 大西巨人 吉本隆明の経済学 中沢新一 幸福追求の徹底的肯定者として 鹿島茂 吉本隆明はそれでもデートをキャンセルしない 大澤真幸 態度の思想家・吉本隆明 中島岳志 時のなかの死 齋藤愼爾 吉本隆明さんについて――「存在を懸けた」思想 大日方公男 吉本隆明――戦後を受け取り、未来から考えるために 加藤典洋 吉本隆明の最後の一年 瀬尾育生 全体性と無限 合田正人 吉本隆明――その固有性 小沢秋広 私的短歌論ノート――『初期歌謡論』に寄せて 友常勉 吉本隆明におけるテクノロジーと生 檜垣立哉 喩の贈り物 池田雄一 「マルクス者」吉本隆明、その史的可能性の方法 マニュエル・ヤン 注記
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120515 標題 吉本隆明追悼号 掲載誌(紙・書)名 『Myaku』 号 12 掲載頁 掲載年月日 2012.5.15 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 〈弱さ〉の人 鈴木智之 吉本隆明さんのこと 三上治 『マチウ書試論』をめぐって 仲本瑩 幸運な出会い 岡本定勝 吉本体験は、まだ終わらない 黒島敏雄 吉本隆明さんのかすかな思い出をたどって――畏友多和田辰雄と吉田純さんの「聖父子像」 田中眞人 吉本隆明の貢献 松島淨 私にとっての吉本隆明 勝連静子 私的断面ポイント=吉本隆明 親泊仲眞 にんげん吉本隆明 内田聖子 追悼 吉本隆明 鈴木次郎 沖縄と吉本隆明 松島朝彦 その日の記憶 梓澤登  吉本隆明との出会いと別れ 高良勉 一九七O年私の吉本隆明 高橋秀明 追悼 達悟の――人吉本隆明 田場由美雄 ポクは、埴谷派だった 今帰仁太郎 吉本隆明および上原生男 喜納正信 吉本隆明と南島論 宮城正勝 「知の巨人Jの仕事――吉本隆明を読み返す 川満信一 吉本隆明が残したもの 比嘉加津夫 注記
刊行形態 Magazine Article 著者 南郷継正 刊行年月 120515 標題 なんごう つぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(54) 掲載誌(紙・書)名 綜合看護 巻 47 号 2 掲載頁 85-92 掲載年月日 2012.5.21 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記
刊行形態 Blog Article 著者 刊行年月 120523 標題 吉本隆明についてのメモ 掲載誌(紙・書)名 [編集長日記]図書出版 花乱社 出版地 掲載頁 http://karansha.exblog.jp/15909597/ 掲載年月日 2012.5.23 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 http://karansha.exblog.jp/15909597/
刊行形態 Magazine Article 著者 外山一機 刊行年月 120525 標題 吉本隆明の死:俳句時評 掲載誌(紙・書)名 鬣 号 43 掲載頁 84-85 掲載年月日 2012.5.25 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120525 標題 追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 春秋 号 539 掲載頁 掲載年月日 2012.5.25 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 永遠の考える人 笠原芳光 吉本さんの詩「夢の位置」注解 岡井 隆 死なない吉本 北川太一 吉本隆明さんから受けたもの 佐藤泰正 問い続け、探し求め続けた吉本隆明 島園 進 注記等
刊行形態 Book Section 著者 橋爪大三郎 刊行年月 120525 標題 吉本隆明さんを悼む:〈増補版のための「はじめに」かえて〉 掲載誌(紙・書)名 永遠の吉本隆明[増補版](新書y) 出版者 洋泉社 出版地 東京 掲載頁 ix-xxxvi 区分 追悼文 見出し・語録 思考の自立貫いた生涯(「日本経済新聞」2012年3月17日付) 科学と詩人の魂が結合(「産經新聞」2012年3月18日付) 吉本隆明が残した宿題(「Voice」通巻413号[2012年5月号]、p.17-19、2012年3月21日稿) マルクスVS.吉本隆明(『中央公論』第127年第8号 1541号[2012年5月号]、p.148−151、2012 年3月24日稿) 日本の思想家・吉本隆明(「図書新聞」3058号、2012年4月14日付) 注記等 2003年11月に刊行された旧版を増補したもの。
刊行形態 Blog Article 著者 よしもとばなな 刊行年月 120531 標題 人生のこつあれこれ 2012年5月[まだまだ弱っているが、父の死にまつわる何かを少しだけ超え た気がする。] 掲載誌(紙・書)名 BANANA YOSHIMOTO OFFICIAL SITE  掲載頁 http://www.yoshimotobanana.com/diary/ 掲載年月日 2012.5.31 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 「今日のオレ」
刊行形態 Magazine Article 著者 中川恵一 刊行年月 120531 標題 “月島人”としての吉本隆明:がんの練習帳 第152回 掲載誌(紙・書)名 週刊新潮 巻 57 号 21 掲載頁 62 掲載年月日 2012.6.7 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 菅原則生 刊行年月 120601 標題 吉本隆明さん追悼:浄土からの視線1〜2 掲載誌(紙・書)名 菅原則生のブログ 掲載頁 http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/2012-06.html#20120601 掲載年月日 2012.6.01 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 石川九楊 刊行年月 120601 標題 書と文学の関係をめぐって 掲載誌(紙・書)名 ちくま 号 2012年6月号 掲載頁 8-9 掲載年月日 2012.6.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 石塚章夫 刊行年月 120601 標題 追悼 吉本隆明:「共同幻想論」に寄せて 掲載誌(紙・書)名 日本裁判官ネットワーク 掲載頁 http://www.j-j-n.com/su_fu/120601/kyoudo.html 掲載年月日 2012.6.01 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録  「へくそかづら国家といふは虚か実か」 角川春樹(句集「JAPAN])  同句集の裏表紙の作者紹介欄に「平成17年3月7日、11年半にわたる法廷闘争終結。」とある。さ らに「あとがき」に「愛国者である私が司法の罠によって陥れられた。その時、財産、権威、社会的地位 といった形あるものを全て奪われた。・・国を愛する者が国によって不当な裁判が行なわれ、獄中の海鼠 となる生活を余儀なくされた。」と書かれている。冒頭の句は、この体験に基づいた問いであることが推 測される。  「国家とは、ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体 である」(マックス・ヴェーバー「職業としての政治」)。これが、社会科学の分野での一般的な国家の 定義であり、したがって、角川の問いに対する答えは(国家とは暴力行使を独占する)「実」であるとい うことになる。  しかし、角川は別のところで「私にとって日本政府は生涯の敵だが、私は日本をやっぱり愛している。」 と書いている。この、角川が愛している「日本」が日本政府と別物であることはわかるが、では国家とし ての「日本国」とは同じなのか違うのか。違うとすれば、どこがなぜ違うのか。この問いに答えようとし たのが本書である。吉本は、古事記と遠野物語の二つのテキストのみを材料にして、国家とは、そこに住 む人たちの共同の幻想の産物であり、その幻想は機構としての国家よりも先に存在していたと解き明かし た。この「共同幻想」のひとつ前の段階に恋愛を生み出す「対幻想」(愛し合う男女が共有する観念の総 体)という概念を配置したことが、「共同幻想=国家」を情緒的にとらえる契機となり、本書は七〇年代 全共闘世代のバイブルともなった。この国家理解の一つの例を挙げれば、大日本帝国は「万世一系の神で ある天皇が統治している」という「共同幻想」の産物ということになる。帝国臣民の幻想という「虚」が、 あの戦争を遂行した日本国という「実」を底辺で支えていた、否むしろその幻想そのものが戦争をしたと もいえるのである。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」という渡辺白泉の句は、この「虚」が「実」に転換 したときの恐怖感を見事にとらえている。  では、現在の日本国をこの「共同幻想」というツールで見るとどうなるのか。吉本に言わせると、幻想 が国家を作り上げるのは民主主義的な選挙制度の有無とは無関係である。しかし、国家の「実」の部分を 構成しているのは、国会と政府だけではない。警察ー裁判所ー刑務所という広い意味での司法もその重要 な構成部分である。国民が裁判員としてその中に加わることは、その国民の持つ国家についての幻想内容 に大きな影響を与えることだろう。「副検事われハンカチを手に対す」(T)の句の作者がもし裁判員とな ったとき、その思いは果たして俳句を生み出すほどの「虚」の部分を持っているだろうか。  先にTさんの句を引用して、『「副検事われハンカチを手に対す」の作者がもし裁判員になったとき、 その思いは果たして俳句を生み出すほどの「虚」の部分をもっているだろうか』と書いた。これについて、 当のTさんから葉書を頂いた。「エッセーはいつも楽しみにしています。私の頭では少し難しい所もあり ますが・・・。合同句集一〇周年記念号の石塚さんのエッセー「俳句と社会」も又読み直しました。それ でもピタッと来る程にはわからなかった。・・・』  以下は、私のTさんへの返事である。(なお、Tさんは、母上が交通事故死し、そのことで東京地検の 副検事から事情を聴取された経験があった。)  『エッセーをよく読んでいただいてありがとうございます。確かに、末尾の部分は言葉足らずのところ がありました。  この部分を補足すると次のようになるのでしょうか。  Tさんが対峙した「副検事」さんは、家へ帰れば普通のお父さんです。でも、検察庁の建物の中で机に 座ると、「国家」そのものに変身します。そのときの「国家」は、法律による機構として合法的に出来上 がっているものですが、同時に、Tさんという国民の「幻想」ー目の前にいる男が「副検事」であって一 介の「お父さん」ではないという思いーに支えられています。このような思いの総体が国家全体を支えて おり、これが吉本のいう「共同幻想」の中身です。  Tさんが、ハンカチという極めてささやかな「実」を頼りに「副検事」なるものと対峙したとき、その 「副検事」の中に、右で述べたような幻想性(「虚」の部分)があることをTさん自身が無意識に嗅ぎ取 っていたのではないかと私は思いました。ですから、「副検事・・・」の句は、このような意味での実と 虚を象徴しているものだと解したわけです。  このようなことを私が書けるのは、私自身が、この「副検事」の側に身を置いている人間で、「裁判官」 という幻想の対象であると同時に「お父さん」「夫」「俳句を趣味にする人」といった個人でもあるから だと思います。私にとって「裁判官」とは、ハンカチを手に対峙するような幻想性はなく、「実」なる存 在なのです。つまり、幻想の対象の側に身を置けば幻想性は消滅してしまうのです。その極限の姿を体現 しているのが天皇でしょう。「日本国民の象徴」として全国民の幻想の対象となっているこの人は、自分 が一介の男であるとの自覚は消え、虚実が混沌として一体となって実たる「天皇」そのものになっている のではないかと想像されます。  Tさんが裁判員になったら、少なくとも司法の場面では、ハンカチを手に対峙するような幻想としての 国家機関は消滅して国家はすべて実の存在になるのではないか、そうすると「詩」の世界も消滅してしま うのではないかというのがあの一文の最後の意味です。』   (平成24年4月) 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 中川恵一 刊行年月 120607 標題 “月島の先輩”を見習って:がんの練習帳 第153回 掲載誌(紙・書)名 週刊新潮 巻 57 号 22 掲載頁 62 掲載年月日 2012.6.14 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 ハルノ宵子 刊行年月 120612 標題 連れてっちゃったよ:ハルノ宵子のシロミ介護日誌 その42 掲載誌(紙・書)名 猫びより 巻 11 号 4 掲載頁 66-67 掲載年月日 2012.6.12 区分 追悼文、マンガ キーワード 見出し・語録 気がすむまで/耳は忘れない/どこだって同じ 父が亡くなる4、5日前のことでした。 父の病室に入ると、その日は興奮気味らしく、 父は手をミトンで拘束され、目を見開いたまま、 何やらうめいていました。「ヤレヤレ」と思いつつ、 私は洗濯物などを回収しながら「早くうちに帰って来てね。シーちゃんもさびしがってるよ」と言うと、 父は大きな声で振り絞るように「◯×△□※!」と叫びました。 入れ歯が入っていないので聞き取れず、「え? 何だね?」と聞き返すと、父は再び「◯×△□※!」と、 同じ言葉を叫びました。気にかかっていたものの、 それっきりそのことは忘れていました。 父が亡くなって2週間ほどたった頃です。 父の祭壇の前で猫たちと一緒にグダグダとうたた寝していた時、いきなり殴られたように 「ガツン!」と、あの時の言葉と、その意味が降ってきました。 それは『どこだって同じだよ!』でした。 そうか!どこだっておなじなんだ‥‥‥。 病院だろうが、畳の上だろうが、 コンクリートの地面だろうが、犬も猫も人も、 すべての生き物は、死ぬ時は必ずたった“独り”。 場所はどこだって同じなのです。孤独死が問題にされたり、 病院ではなく家で死ぬためにはーーなどと、 そろそろ自分の身体がアブナクなってきた「団塊の世代」が 言い出した昨今の生ぬるい風潮に、 父はまた最期に、見事に水をぶっかけて逝っちまいました。 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120613 標題 総特集 吉本隆明の思想 掲載誌(紙・書)名 現代思想 巻 40 号 8 掲載頁 66-67 掲載年月日 2012.6.25 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 【エッセイ】 人間の本義における運命について 大西巨人 アイロニイをいわない吉本隆明さん 磯崎新 【思想の原像】 煉獄の作法? 宇野邦一 イエスと親鸞 安藤礼二 【討議】 未完の吉本隆明:「修辞的な現在」 における倫理の可能性 芹沢俊介×高橋順一 【関係】 大衆の玄像 最首悟 「関係の絶対性」 に殉じた思想 大澤真幸 【詩的言語】 二二年目の答礼 前田英樹 〈現在〉 と詩的言語 友常勉 肉月の詞 長原豊 【幻想・イメージ】 『共同幻想論』 はどういう書物か 橋爪大三郎 イメージとその運命 池田雄一 【自然・意識】 エリアの小さな斧傷? 合田正人 吉本隆明と自然史:マルクス・ランボー・宮沢賢治 檜垣立哉 【証言】 「花田清輝‐吉本隆明論争」 の頃 松本昌次 【自立・大衆】 野良猫とノガン:吉本隆明とE・P・トムスンを巡る比較史的断章 マニュエル・ヤン 「自立の思想」 とは何だったのか 松井隆志 【資料】 吉本隆明著作 [図書] 目録 吉田惠吉 [再録テキスト] 頽廃への誘い 吉本隆明 [解題=高橋順一] [再録テキスト] 情況とはなにか(抄) 吉本隆明 [解題=高橋順一] [再録テキスト] 「四季」 派の本質 三好達治を中心に 吉本隆明 [解題=高橋順一] 注記等 7月臨時増刊号
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120615 標題 特集【追悼】吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 流砂 巻 号 5 掲載頁 掲載年月日 2012.6.15 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 吉本隆明さんを悼む 三上治 思い出す度に 三上治 思想の文体――吉本隆明氏追悼 栗本慎一郎 吉本本質論理の歴史的転容へ 山本哲士 吉本「歴史」論の展開 伊藤述史 吉本隆明が遺したもの――言語の初源から限界まで 宮内広利 吉本隆明の遺言――吉本隆明・小阪修平・両氏を悼む:吉本隆明を巡る私にとっての諸問題 5 柴崎明 幻想疎外論の革命性――吉本隆明のために 新田滋 「世界認識の方法」について――吉本隆明とミシェル・フーコー 山家歩 吉本隆明リローテッド――幻の革命への助走 清家竜介 たとえ法然上人にだまされても 中村礼治 吉本主義者と吉本さん 桂木行人 インテルゲントの道を盡して往生す 柏木信 ひとつの直接性がたふれる 佐竹靖邦 「定石」破る 西澤朝登 世界思想としての吉本隆明 宿沢あぐり 吉本隆明著「エリアンの手記と詩」について 平田重正 浄土からの視線 菅原則生 吉本隆明の実朝論 高岡健 普遍悪の概念をめぐって――親鸞と吉本隆明 森村修 わが吉本隆明 高橋順一 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120615 標題 吉本隆明へのオマージュ 掲載誌(紙・書)名 やま かわ うみ 巻 5 号 2012.夏 掲載頁 68-77 掲載年月日 2012.6.15 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本隆明さんの「自然」ノート 大日向公男 吉本さんのだんまり[下線部傍点] 増子信一 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 糸井重里 刊行年月 120615 標題 糸井重里インタビュー 掲載誌(紙・書)名 ダ・ヴィンチ 巻 2012年7月号 号 219 掲載頁 122 掲載年月日 2012.6.19 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 糸井重里、吉本隆明への追悼の思いを語る 湊今年3月16日、思想家・詩人の吉本隆明が肺炎で亡くなった。 生前親交が深く『ほぼ日刊イトイ新聞』でも対談を重ねてきた糸井重里が、『ダ・ヴィンチ』7月号で追悼 の思いを語った。 「どう考えたらいいかわからなくなった時に問いかけることができる人でしたね。神様って声を出してはく れないけど、吉本さんは隣のおじさんみたいな場所にいてくれたから」  98年に『ほぼ日』を開設してからは吉本さんとの対談は人気コンテンツのひとつになった。講演の肉声を 収録したDVD付きの本『吉本隆明が語る親鸞』の巻頭にも昨年7月29日に行われた対談が掲載されている。 「僕が初めて本当の意味で読んだ吉本さんの本は『最後の親鸞』なんですよ。記憶の中では18〜19歳の夏休 みなんだけど、実際にあの本が出たのはもっと後らしい。夏で田舎に帰ってたんだから、とにかくいろんな ことがうまくいってなかった時期ですよ。人って、生き方がわからなくなると故郷に帰ったりするじゃない ですか。そういう夏のある日に所在なく本屋に行って、ふと手にとったその本を立ち読みしたら、もう飛び 上がるくらいに面白かった。『吉本隆明が語る親鸞』も、これから吉本隆明と出会う人にとってそういう本 になるかもしれないって思ってるんです。あの時の僕みたいに途方に暮れてる人に、今悩んでることの答え は全部ここにあるよって言いたい。そうして吉本さんの肉声に触れてみてほしい。  肉声って凄いもんですよ。あの声聞くと、ほっとするんだよね。あのしゃべり方を聞けば、吉本隆明って 人が本当は不器用で口ベタな人だってことがすぐにわかるんじゃないか」    対談する時は角に座って斜めにしゃべるのが常だった。 「僕も吉本さんも向き合うのが苦手だったから(苦笑)。質問すると、直接の答えじゃなくて、必ず少し遠 回りの答えが返ってきた。それは“なぜその質問をしたのか”に対する本質的な答えだったからで、そうい う答えって、そのパターンのあらゆる物事に対する答えになってる。吉本さんの考えって、だから自分の問 題に代入できる、道具みたいに使えるんですよ。v  戦争の時は軍国少年だった吉本さんは、戦後あれは何だったんだって思いをして、そこから先はそれを考 えることに一生を費やした人だった。生き方が、もう時代を投影しているんです。だから吉本隆明が生きて るってことがひとつの支えだったって人がいっぱいいるんですよ」 注記等 ダ・ヴィンチ電子ナビURL:http://ddnavi.com/news/64319/ 取材・文=瀧 晴巳(『ダ・ヴィンチ』7月号「2012上半期 BOOK OF THE YEAR」より)
刊行形態 Book Section 著者 茂木健一郎 刊行年月 120620 標題 まえがき、吉本隆明さんのこと 掲載誌(紙・書)名 「すべてを引き受ける」という思想 出版者 光文社 出版地 東京 掲載頁 3-5、204-216 区分 追悼文 見出し・語録 注記等
刊行形態 Book 著者 刊行年月 1206 標題 吉本隆明の世界:中央公論特別編集 掲載誌(紙・書)名 掲載頁 掲載年月日 2012.6.25 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 吉本隆明とは何者なのか【対談】  吉本隆明を未来につなぐ 見田宗介×加藤典洋   吉本隆明と江藤淳――最後の「批評家」 内田樹×高橋源一郎       宗教と〈アジア的なもの〉をめぐって【対談&インタビュー】  『最後の親鸞』からはじまりの宗教へ 吉本隆明×中沢新一対談1*  〈アジア的なもの〉と民主党政権の現在 吉本隆明×中沢新一対談2*  “剣豪”思想家・吉本隆明の核心 中沢新一インタビュー 聞き手・大日方公男 情況への視座と批評の軌跡【単行本未収録発言】   世紀末を解く 吉本隆明×見田宗介[対談]*  批評は現在をつらぬけるか――私の文学[インタビュー] 吉本隆明 聞き手・田中和生*   吉本隆明という体験【エッセイ】  田舎者の吉本体験 長谷川宏  〈非知〉への着地のあとで 松本健一  けふから ぼくらは泣かない 石川九楊  高度消費社会と社会主義 細見和之  エリアンへの挽歌 齋藤愼爾 吉本隆明を読む【同時代書評】  埴谷雄高『芸術的抵抗と挫折』  鶴見俊輔『丸山真男論』  江藤淳『言語にとって美とはなにか』  谷川雁『自立の思想的拠点』  磯田光一『最後の親鸞』  橋爪大三郎『アフリカ的段階について』  山口昌男 幻想・構造・始原――吉本隆明『共同幻想論』をめぐって 中央公論・吉本隆明アーカイヴ  戦後世代の政治思想[論考]  転向論のひろがり[論考]  天皇制・共産党・戦後民主主義[インタビュー] 聞き手・大日方公男*  岡本かの子――華麗なる文学世界[講演]*  小林秀雄について[追悼文] 吉本隆明略年譜 注記等 *印は吉本氏の単行本未収録作品
刊行形態 Magazine Article 著者 板花基 刊行年月 1206 標題 さようなら吉本隆明先生:追悼 掲載誌(紙・書)名 撃論 号 5 掲載頁 176-177 掲載年月日 2012.6.25 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 岡井 隆 刊行年月 1206 標題 吉本隆明さんの「さよなら」 掲載誌(紙・書)名 短歌 巻 59 号 8 掲載頁 134-137 掲載年月日 2012.6.25 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 角川学芸出版発行;角川グループパブリッシング発売
刊行形態 Newspaper Article 著者 伊藤洋一 刊行年月 120626 標題 詩作「今が盛りと思って」 掲載誌(紙・書)名 産経新聞 出版地 大阪 掲載頁 14 掲載年月日 2012.6.26 区分 追悼記事 キーワード Kototoi 見出し・語録  3月に87歳で亡くなった戦後最大の思想家、吉本隆明さんのメッセージが、和綴(と)じ本でよみがえ った。季刊文芸誌「Kototoi(こととい)」第2号の中で、「(残りの)時間があると思わず、いま が自分の盛りと思ってやるのがいい」などと詩作への思いを多弁に語っている。  「Kototoi」は、フリー編集者の菊谷倫彦(きくやともひこ)さん(34)が創設した菊谷文庫か ら出版。「手作り感覚にこだわりたい」と紙や文字、印刷方法まで厳選し、仕上げは妻と2人で絹糸で綴じ た。昨年末に出た創刊号500部は完売。4月には第2号(2250円)も送り出した。  昨年6月、約4時間かけた吉本さんのインタビュー「固有値としての自分のために」のほか、創刊号では 芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さん(56)の脱成長社会に向けたエッセーを、第2号は歌 手で画家の友川カズキさん(62)、詩人の蜂飼耳(はちかいみみ)さん(38)らの詩を掲載している。  20代の頃、労組活動しながら詩集を発表している吉本さんは、創刊号で自らの詩作について「下手くそ っていうか、まずいなっていうのがある」と分析。一方で「批評に深入りしているうちに詩がお留守になっ ているが、あと5、6年あれば自分なりの詩の表現が確立できるかもしれない」と意欲をみせていた。  続く第2号では、見た風景をそのまま素早く描写する宮沢賢治の詩作能力を絶賛。その域に達するには相 当な練習をしているはずと推察し、「詩も年食うと理屈で書いてるようになる。若いと跳ね返すことできる が。(残りの)時間があると思わず、いまが自分の盛りとやるのがいい。できるできないはともかく、書い てめちゃくちゃに頑張ってくださいよって」と、メッセージを送っている。  発行人の菊谷さんは、哲学を研究した大阪大学大学院の3年間で、吉本さんに関する著作を約200冊読 んだ。修士課程修了後、思潮社(東京)などの出版社に勤務し、吉本さんと接した。その後、フリー編集者 として活動していたときに発生した東日本大震災が、文芸誌発刊のきっかけになった。  「昔の人にとって、言葉は詩だった。文明と引き換えに言葉である詩を失った。精神的な復興には、詩を 取り戻さなければならないと思ったんです」。誌名には「言葉を問いかける」のほかに「言葉を贈る」意味 も含んでいるという。  創刊号(1850円)は和綴じでない版の在庫がある。問い合わせは菊谷文庫のHPへ。 注記等 吉本隆明さん 和綴じ本に詩への熱情 あと5、6年あれば自分なりの表現…(MSN産経ニュース) http://sankei.jp.msn.com/life/news/120621/art12062107570001-n1.htm
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120628 標題 吉本隆明に出会うために――吉本隆明追悼特集2 掲載誌(紙・書)名 現代詩手帖 巻 55 号 7 掲載頁 86-134 掲載年月日 2012.7.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 つぎの呼吸を造るために――日時計ノート 吉増剛造 エッセンス吉本隆明 水無田気流編・解説 宛名のない葉書 橋本真理 「「道案内人」への謝辞:インタビュー「大衆の原像」のことなど 脇地 炯 吉本隆明をめぐる断言肯定命題 野沢 啓 虚無と方法:吉本隆明の初期詩論 笠井嗣夫 偉大なる、吉本思想の身近な存在(下) 山本哲士 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120702 標題 追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 情況 2012 8月・別冊 巻 第4期1 号 4 掲載頁 掲載年月日 2012.7.1 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 巻頭  思想の巨人・吉本隆明 小嵐九八郎(聞き手・横山茂彦)  吉本隆明・その人と思想 松岡祥男  吉本さんの足の裏 上村武男   天皇制国家の向こう側:クラフト国家論 室伏志畔 吉本隆明さんから島成郎さんへ  島成郎さんあての私信(水難事故報告、1996・8・31)  島さん追悼「将たる器」の人 特集〈吉本隆明 60年安保・全共闘論〉  『戦後世代の政治思想』  『擬制の終焉』  『反安保闘争の悪煽動について』  『収拾の論理』  『権力について』  『七〇年代のアメリカまで』 特集〈マチウ書試論〉  関係の絶対性の射程 大窪一志  王はどこから来たか 友常勉  関係という絶対性 最首悟  超越性と内在性 高橋順一  カラマーゾフ「大審問官」と『マチウ書試論』 小野田襄二 〈追悼・吉本さんを語る〉  『吉本隆明 全マンガ論』からの縮合 安西美行  吉本隆明・マンガ・自閉症 松本孝幸  吉本隆明と菅谷規矩雄 長谷川博之  自己表出という思想 北島正     *  吉本隆明著書年表(1924年〜2012年5月) 宿沢あぐり 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 松本輝夫 刊行年月 120710 標題 連帯を求めて孤立を恐れず、自立を求めて共同を恐れず――谷川雁が「ひと筋固執した〈実践〉」 (吉本隆明)の核心とは【物語・谷川雁の全体像・本論第四部】 掲載誌(紙・書)名 雲よ―原点と越境―(谷川雁研究会機関誌) 号 7 掲載頁 4-35 掲載年月日 2012.7.10 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 とよだもとゆき 刊行年月 120710 標題 最後の吉本隆明――原発事故と「第二の敗戦期」 掲載誌(紙・書)名 雲よ―原点と越境―(谷川雁研究会機関誌) 号 7 掲載頁 52-61 掲載年月日 2012.7.10 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120716 標題 吉本隆明追悼 掲載誌(紙・書)名 LEIDEN―雷電 号 2 掲載頁 18-69 掲載年月日 2012.7.16 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 思想の姿について 吉田 裕 「普遍喩論」から「等価」論へ(上)――詩の言葉とはなにか(3) 高橋秀明 愚禿親鸞――吉本隆明の軌跡 築山登美夫 心にしみいる文の魅力 寺田 操 そして、像は転移する 日下部正哉 注記等
刊行形態 Book Section 著者 芹沢俊介 刊行年月 120725 標題 吉本隆明の死 掲載誌(紙・書)名 宿業の思想を超えて――吉本隆明の親鸞 出版社 批評社 出版地 東京 掲載頁 11-37 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本さんとの縁(「文学界」2012年5月号) 戦後の呼んだ奇蹟――吉本隆 明は、これからの時代を拓く不可欠な存在として、現代の親鸞になった (「図書新聞:追悼特集 吉本隆明」3058号、2012年4月14日号) 吉本隆明の“ひきこもれ”(「フォンテ」不登校新聞社、2012年4月15日) 日常営む大衆の一人――私と吉本隆明さん(「東京新聞」2012年3月22日) 何があろうと一人で立つ――時代が呼んだ奇蹟の思想家(2012年3月16日、共同通信インタビュー) 現代の親鸞――大衆の救い、一人で考える(2012年3月22日、時事通信) 注記
刊行形態 Book Section 著者 坪内祐三 著者 福田和也 刊行年月 120730 標題 最後に反原発を批判して逝った“裏知識人”吉本隆明:VOL.46 2012.03 掲載誌(紙・書)名 不謹慎:酒気帯び時評50選 出版社 扶桑社 出版地 東京 掲載頁 325-331 区分 対談 キーワード 見出し・語録 大手メディアに出ないマイナーのスターだった/サラリーマン思想家で娘の弁当まで作ってた人/現代詩を フックにナンパができた頃 注記 構成/石丸元章 初出:「週刊SPA!」2012年4月3日発売(P.132)連載「これでいいのだ」
刊行形態 Newspaper Article 著者 大井浩一 刊行年月 120802 標題 ことばの周辺:相次ぐ吉本隆明氏追悼特集;文体の独自さと「対幻想」 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[夕刊] 出版地 東京 掲載頁 掲載年月日 2012.8.2 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  詩人、評論家の吉本隆明氏の訃報から4カ月余りが経過した。この間、文芸各誌はもちろん、さまざまな 雑誌などが追悼特集を組んだ。文学のみならず、政治、宗教、社会などの幅広い問題で批評活動を展開した 人らしく、談話や文章を寄せた人々も多分野に及んだ。  まとまったものとしては『現代詩手帖(てちょう)』5月号の「追悼総頁(ページ)特集 吉本隆明」 (思潮社)、『現代思想』7月臨時増刊号「総特集 吉本隆明の思想」(青土社)、『流砂』第5号「特集 【追悼】吉本隆明」(批評社)がある。ムックの『文芸別冊 さよなら吉本隆明』(河出書房新社)、『吉 本隆明の世界』(中央公論新社)なども出た。  膨大な追悼の言葉の中には、故人の思い出や業績を語るものだけでなく、辛口の、時にはあからさまな否 定的評価を含んだものも目立つ。これも数々の論争を繰り広げ、相手を舌鋒(ぜっぽう)鋭く罵倒(ばとう) することもあった吉本氏らしいというべきだろう。  評価のいかんにかかわらず追悼の多くに共通して見られた特徴を2点、挙げたい。一つは吉本氏の「文体」 への注目であり、もう一つは吉本思想の鍵となる概念の一つ「対(つい)幻想」への注目だ。  例えば、経済人類学者の栗本慎一郎氏は、『流砂』の特集に「思想の文体」と題する追悼文を書いている。 栗本氏といえば、1980年代のニューアカデミズムブームの代表的論客の一人で、吉本氏との対談本『相 対幻論』(83年)も出版している。  栗本氏は、吉本氏の主著『言語にとって美とはなにか』(65年)を読んだ時、「異常に感動」したもの の「内心ひどく戸惑った」と回想する。なぜなら「論じられていることに反対だと感じることも多かった」 からだ。「要するに、吉本氏の思想の最大のインパクトは、思想する姿勢だ、ぎりぎりと自分に迫っていく 文体だ」「いわば文体が思想そのものであった」と栗本氏はつづる。  思想自体に違和感や批判をもつ場合でも、吉本氏の文体に異様なまでの魅力を感じたという人は多い。こ のことは、まさに詩性と論理が混然となった「詩人思想家」の独自さに直結している。  もう一つの主著『共同幻想論』(68年)で打ち出された対幻想は、簡単にいうと男女の関係を指す。国 家などを指す「共同幻想」、文学などの芸術表現の場を指す「自己幻想」とともに、人間の生活世界を形作 る三つの軸として設定された。  例えば、評論家の三浦雅士氏は、対幻想を「吉本の提起した概念のなかでもっとも重要なもの」と書き (『群像』5月号)、『共同幻想論』の明快な読みを示した社会学者の橋爪大三郎氏も、対幻想を「発想の 芯部」とみる(『現代思想』臨時増刊号)。確かに、共同と個人の領域の区別はよくありそうだが、中間に 男女や性の領域を設けたのが斬新だったのは分かる。  とりわけ興味深いのは、社会学者の見田宗介氏と文芸評論家の加藤典洋氏の対談「吉本隆明を未来へつな ぐ」(『吉本隆明の世界』)だ。東日本大震災と原発事故後の状況を踏まえ、吉本思想の読み直しを探った ものだが、ここでも見田氏は「吉本隆明さんの魅力の核」に文体を挙げている。  見田氏が提示した地球大の「有限性」の問題を手がかりに、二人は今が近代社会の転換期にあると語る。 その「近代以後」への過渡期は、「少なくともこれからあと一〇〇年以上」は続く(見田氏)という。こう した長い歴史の射程の中で「突破力をもった」吉本思想の核心とされるのが、やはり対幻想なのだ。  よく言われるように、吉本氏の幻想論の根っこには文学の擁護がある。自己幻想に加え、対幻想の世界も また豊かな文学を育む場所だ。文学から出発して広大な領域を覆い、独自の文体で語られた吉本思想の意味 は、長い時間をかけて探究されるべきだと思う。【大井浩一】=毎月1回掲載します 注記 http://mainichi.jp/feature/news/20120802dde018040016000c3.html
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 120830 標題 追悼総力特集 吉本隆明を新しい時代へ 掲載誌(紙・書)名 飢餓陣営 号 38 掲載頁 掲載年月日 2012.8.30 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 吉本隆明、最後の文学談義 夏目漱石と太宰治(遺稿) 森崎和江(特別寄稿)「吉本隆明さんの笑顔」 I『試行』のころの吉本隆明 月村敏行「思い出すままに」 村瀬学「吉本隆明さんとの出会い」 浮海啓「〈魂〉は暁闇の彼方へ」 矢野武貞「吉本さんと、私の吃音論」 高岡健「〈資質〉を倫理に変えるとき」 高堂敏治「「大衆の原像」から「思想としての菜園」へ」 【特別掲載】西尾幹二(特別掲載)「吉本隆明氏との接点」 II 吉本思想の源流をめぐって 佐藤通雅「「姉の死など」にふれて」 長谷川三千子「ひゆうひゆうと吹き渡る風」 近藤洋太「戦争と聖書」 寺田操「ことばの花びらを播く詩人」 浦上真二「吉本隆明と保田與重郎」 III 舞台裏の演出者たち (聞き書き・120枚)宮下和夫と弓立社―「吉本隆明の講演のことなど」 田中紘太郎「吉本隆明雑感」 脇地炯「「衆議院」はお断りだ」 齋藤愼爾「〈アジア的なる〉編集者私記 (聞き書き・100枚)編集者=小川哲生「八〇年代、『吉本隆明全集撰』のころを中心に IV 吉本隆明断想 勢古浩爾『吉本さんの空に向けた両手」 宗近真一郎「ミシェル・フーコーのパリで吉本隆明の訃報を聞く」 水島英己「影のすべてを」 V 吉本隆明を新しい時代へ 北川透「『最後の親鸞』という思想詩」 秋山基夫「『言語にとって美とはなにか』再読」 瀬尾育生「夜の銀河鉄道」/神山睦美「無限世代の輪廻転生」 齋藤祐「『超戦争論』再び」 西脇慧「吉本隆明のオウム言説をめぐって」 VI 「反核・反原発」異論から考える 添田馨「”大震災後”の吉本隆明」 由紀草一「『「反核」異論』をふりかえって」 本田徹「未来としての歴史に寄せて」 倉田比羽子「「私の本はすぐに終わる」?私たちの本もすぐに終わる」 築山登美夫「吉本隆明と原子力の時代」 島亨「反核・反原発異論、私注」 「執筆者が選ぶ吉本隆明のこの一冊」+100字コメント VII 北明哲+佐藤幹夫「吉本隆明の遺した宿題?三島由紀夫の戦後と吉本言論」 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 菅原則生 刊行年月 120921 標題 死の吉本隆明さん 掲載誌(紙・書)名 菅原則生のブログ 出版地 掲載頁 http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/17751367.html 掲載年月日 2012.9.21 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 平野織 刊行年月 120925 標題 吉本隆明の核心を救い上げる小論-平野織著『吉本の思想的態度』 掲載誌(紙・書)名 ☆句の無限遠点☆ 出版地 掲載頁 http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20120925/1348590111 掲載年月日 2012.9.25 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 吉本の思想的態度 ーー大衆に対する吉本隆明の愛について                        大学院人文学研究科   平野 織 吉本隆明は自らの敗戦体験を始発点として、さまざまな題材を選びつつ、ある共同体における個の在り方を 力強い筆致で書き記し、戦後においてひとり「個別的なものから一般的なものへ登りつめる覚悟」(マルク ス『経済学批判』序言)をきめていた思想家であるといえるだろう。 とはいうものの、彼の書く文章は非常に読みにくい。マルクス的な辛辣な罵倒、要所における詩的章句の多 用。こういった一言一句に対する読み難さのほかに、彼の思想の繙読を困難にしているのは、テクストに以 下のものが混在しているためにほかならない。つまり、吉本のテクストのいたるところに〈日本〉への問題 意識、〈日本〉という土地とそこに住む人々への強い愛憎が織り込まれており、この捻じれが、覚悟を決め た読者の判読の意志すら迷わせるのである。 情念の強度 ただし、このように個人の実存と公共の問題が絡んで在ることは、思想や研究の場において特別な事態では ない。吉本と他の思想家を隔てるのは、彼の情念が誰よりも強く存在することにある。この公私の絡み合い の強度こそ、吉本の文章を読みにくくさせている当のものではないだろうか。そのため、吉本と距離をとり ながら彼の思想を査定してやろう、あわよくば論破してやる、という邪な気分で彼のテクストに向き合おう ものなら、それは単なる罵倒の応酬にしかなりえない。 思想家への迎接とは 根底で吉本は何を考えていた思想家なのか。このことを問うためには、彼のテクストに向き合う工夫を私た ちがしなければならないだろう。それを一般化して言えば、読み手は、思想家の問題設定を時代背景も含め て丁寧にとりだし、その問いに対して彼が如何に応えようとしたのかを真摯に理解するように努めなければ ならない、ということになる。つまり、私たちは、可能なかぎり各々の思想家がもつ思考の体系のなかに自 らをおくように努めなければならないのである。その挙措によって初めて、読み手は思想家の息遣いある応 答に触れることができるのであり、さらには思想家と自身の問いとが接続可能になるのである。吉本のテク ストは、彼の強い情念である愛憎がみずからの核心の判読を困難にしているために、まず私たちは吉本を優 しく迎接せねばならず、また、彼との非対称性に、つまり私の記した文字列を読んで理解してみよという理 不尽な要請に苦心せねばならないことになるのである。  吉本が熱心に愛したのは、ロマンチシズムとリアリズムを併せ持った日本の〈大衆〉であった。私が何と かして吉本を読もうとするのは、いかに彼が不器用であろうと不器用なりに、大衆に対して大真面目に向き 合い続けたからにほかならない。 吉本の思想には、おおよそ次の事情のために、広義の意味での〈政治〉にかかわるもの、あるいは知によっ て〈政治〉へアプローチする知識人に対する強い意識が感じられる。すなわち、人の感覚や経験を超えて存 在している大規模な社会に、個人が分析的に接近するとき、少なからずその方法は、自らの経験的なものを 措いて理念的なものに頼らねばならず、その結果、しばしば現実から乖離した状態にいたらざるをえない、 ということに対する警戒がそれである。このことから、吉本は現実からかけ離れた認識によって政治にかか わろうとするものに対して、批判を向けることになる。蓋し、この吉本の批判は、みずから論争をけしかけ ようとして他の知識人へ向けられたというよりも、知によって政治に接近しようとした吉本自身に向けられ ていたという自戒の意味合いが強いのではないだろうか。現実を離れては政治は体をなさない。しかし、理 念なくして社会を捉えることはできない。吉本はこのことに自覚的であるがゆえに、その方法の模索と、政 治の対象である〈大衆〉への恋慕を、自身のもとに抱きかかえたのである。 相対的他者としての大衆 たとえば「日本のナショナリズム」(一九六四年)において吉本は、〈日本〉批判の根拠を国外の虚像とそ の理念においた鶴見俊輔を批判している。次に引用する一節は、その批判の直後に現われる、彼が抱えた模 索と恋慕にかかわる、吉本の告白文である。   インターナショナリズムにどんな虚像ももたないことを代償にして、わたしならば日本の大衆を絶対に 敵としないという思想方法を編みだすだろうし、編みだそうとしてきた。井の中の蛙は、井の外に虚像をも つかぎりは、井の中にあるが、井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっ ている、という方法を択びたいとおもう。これは誤りであるかもしれぬ、おれは世界の現実を鶴見ほど知ら ぬのかも知れぬ、という疑念が萌さないではないが、その疑念よりも、井の中の蛙でしかありえない、大衆 それ自体の思想と生活の重量のほうが、すこしく重く感ぜられる。 (『自立の思想的拠点』所収。以下の引用も同じ) ここで吉本が核心として?んでいるのは、虚像として現れる絶対的他者への依存ではなく、現実において現れ る相対的な他者との絶対的なかかわりである。この相対的な他者である〈大衆の原像〉を?まなければ政治の 位相へ移ったところで、「大衆それ自体の思想と生活の重量」を知らない政治は価値あるものとならないこと を、吉本は心得ているのである。 私はこの場において〈政治〉について論じることは差し控えることにしたい。その代わりに、政治の手前にあ るような吉本の大衆への態度を追いかけてみたいと思う。 内観をとおして世界へ さて、そこで注意を促しておきたいのは、大衆の実相は再現不可能性の中にあると吉本がみなしていることで ある。それでもなお、ある程度の実像としてそれを再現するには、吉本によれば「わたしたち自体のなかにあ る大衆としての生活体験と思想体験」の〈内観〉から始める以外にないという。そのことを先の引用における 〈井の中の蛙〉の比喩に引きつけて言い換えてみれば、井の外に虚像を持たず、むしろ井の中に在って内観す ることこそが、井の外つまり世界や大衆とつながる契機である、ということになる。この手法は、不器用な吉 本は社会性に欠けるのだということを意味したとしても、内部において吉本と大衆との対峙および擦り合わせ が起こっているかぎりは、彼の社会からの隔絶は意味しない。 命がけの飛躍 しかし、みずからの生活の基底の部分で大衆の姿態を視認し、そのうえでそれを?みあげることは容易ではな く、?んだと感じても次の瞬間にはするりと零れ落ちてしまう。この行為の繰り返しが知識人という存在の様 態であろう。みずから大衆であると認識していながら、集合体としての〈大衆〉を自称するには、両者をつな ぐための〈命がけの飛躍〉(マルクス『経済学批判』および『資本論』)が伴わなければならない。それは、 私たち自身が、個人的な生と、社会的あるいは歴史的な生という異なるレベルに生きつつ、その隔たりにつね に引き裂かれ続けているからである。しかも、「大衆それ自体としては、すべての時代をつうじて歴史を動か す動因であったにもかかわらず、歴史そのもののなかに虚像として以外に登場しえな」かった存在である。 大衆を敵としない 「愚衆」にしろ「善衆」にしろ、大衆を一元的に虚像としてみなす態度にはけっして逸れないこと。この困難 を引きうけつつ、省み、問いただすことを吉本はみずから選び、何とかしてその実相に触れようとしつづけた。 絶対的な隔たりに対して命がけの飛躍をかけ、安易に虚像へと遁走しないように吉本を立ち向かわせたのは、 「絶対に敵としない」ことを決めた大衆への信頼であり、〈愛〉であった。その愛はときとして鋭く相手を突 き破り、ときとして柔らかく包みこむものとなったのである。大衆の生活思想に社会の在り方を求めること、 これが吉本の根底にある思想的態度である。 今歳桜月、吉本隆明は遠逝した。そのことは、同時に吉本の思想も失われたことを意味するのだろうか。 断じて違う。思想の生命について、吉本はこう書いている。「思想が生きつづけるために、かならず死者の思 想を包括しなければならない。包括したうえで、止揚する過程がその生命に外ならない」と??。吉本自身の方 法の問題、彼が対峙した問題は今なお山積している。しかし、これらさまざまな吉本の問題提起を受け止め、 包括し止揚せんとする者はこの世界に残っている。ならば、吉本の思想は失われてはいない。遁走せずに〈大 衆〉と対峙した吉本の思想の止揚が、いかなる方向性をもち、いかなる価値を帯びるのか。それを予見するこ とが困難だとしても、その過程自体として吉本の思想は生き続けるであろう。 愛と政治 最後に、本稿の関心から彼の思想の可能性を述べることにしたい。現在は、知識人と大衆という単純な構造お よび、それに伴う上意下達型の啓蒙が以前のようには反復可能ではない時代であり、大衆そのものの呼称さえ 過去のものとみなされるなか、吉本の持ち続けた大衆への愛というものを取り上げたところで、それが現代に も相通じる態度と見なしうるのか、という疑問が残る。それでもなお。そもそも、本稿で記した吉本の大衆に 対する愛とは、私が、愛は公的な動機として政治に導入できないことを承知しながら、吉本の大衆への両義的 な執着を前にして、端的に言えば自身の現在の力量ではそう呼ぶことしかできなかったものである。愛自体も 問われ直さなければならない。そして、その愛に支えられて大衆の原像を繰り込んだ政治の方法とは、もはや 初めから転倒しているのではないか、と考えられるのである。それでもなお。 杣道であろうと ーー私はこの世界から大衆がいなくなったとは思わない。おそらく、現在の多元性への注目の中にあって、そ れは以前に見られた大衆の姿と同様ではないであろうし、あえてそれを大衆と呼ぶ必要はないのかもしれない。 とはいえ、大衆を地球市民、国民、市民、公衆、消費者などと殊更呼びかえることの方が好ましいのだろうか。 ただし、そしてやはり、吉本の大衆への配慮と同様に、現在の大衆なるものを一元的な虚像とはみなさないと いう条件においてこそ、大衆という言葉遣いは現在でもいくらか有効である、と私は判断する。 擱筆にあたって繰り返せば、吉本は〈井の中の蛙〉であるしかないと腹を決め、自身の内側を見つめる内観か ら、外の世界とつながろうとした。見つめ続けた対象は日本という名を冠したものであったが、吉本の営みは、 個から何らかの複数形のものたちへの架橋の可能性を示している。その媒介となったのは、日本の大衆への愛 であった。関心のないところに、気遣いは生まれない。吉本ほどの愛を、そもそも愛自体を強要することはで きないにせよ、他なるものへの関心と自己への関心、そして未来への関心とが相まってこそ〈政治〉への可能 性はふたたび拓きうると考えられるのではないだろうか。それは未だ杣道であろうか。 注記等 京都精華大学人文学部編集論学生原稿集『蒼青』Vol.12(2012,9,19発行)所収-
刊行形態 Magazine Article 著者 芹沢俊介 刊行年月 121203 標題 「戦後思想の巨人」その根底にあったもの 掲載誌(紙・書)名 週刊現代 巻 54 号 45 掲載頁 31 掲載年月日 2012.12.15 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等 肖像写真 '65年10月、撮影/野上透
刊行形態 Blog Article 著者 菅原則生 刊行年月 120909 標題 吉本隆明追悼その3 問われ続けた《革命とは何か》[(1)〜(3)] 掲載誌(紙・書)名 菅原則生のブログ 出版地 掲載頁 (1)http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/20895757.html (2)http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/20895952.html (3)http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/20896099.html 掲載年月日 2012.12.9 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 後藤正治 刊行年月 121230 標題 床屋からみえた吉本隆明:黙って座っているだけですが;ひと言の余韻9 掲載誌(紙・書)名 日本経済新聞[朝刊] 出版地 東京 掲載頁 掲載年月日 2012.12.30 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 三上 治 刊行年月 130119 標題 吉本隆明にとって「3・11」から死までの一年が最後の時間だった:中上健次歿後二十年;新 連載(1)吉本隆明と中上健次 掲載誌(紙・書)名 図書新聞 出版地 東京 掲載頁 1-2 掲載年月日 2013.1.19 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 安田 有 刊行年月 130205 標題 吉本さんから――(吉本さんへのきれぎれの手紙):吉本隆明追悼 掲載誌(紙・書)名 LEIDEN―雷電 号 3 掲載頁 70-77 掲載年月日 2013.2.5 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Blog Article 著者 吉本隆明 著者 前川藤一、菅原則生(聞き手) 刊行年月 130219 標題 吉本隆明さんを囲んで[(1)〜(3)] 掲載誌(紙・書)名 菅原則生のブログ 出版地 掲載頁 (1)http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/24703611.html (2)http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/24704107.html (3)http://blog.livedoor.jp/sgwrnro/archives/24704147.html 掲載年月日 2013.2.19 区分 座談会 キーワード 見出し・語録 《2010年12月21日、上野に住む前川の働きかけでわたしは二十数年ぶりで吉本さん宅を訪れた。以下に 掲出した文章は、そのとき吉本さんを囲んで話し合われたものを文字に起こしたものだ。 呑んべえの前川は自身が造った酒「横超」とビールを持参していた。初めから飲みながら吉本さんと話が したいという前川の願望が実現したかたちになった。そして、わたしにとっては、前川の計らいがなけれ ば吉本さんに会うきっかけはついに訪れなかったかもしれない。わからない。もういちど吉本さんに会っ て話がしたいという願望がつねに心の何処かにあり、その思いが前川に、吉本さんに伝わったのかもしれ ない。かつて20代の初めに、講演する吉本さんに中野公会堂で出遭ってしまったことが必然だったとすれ ば、この日、吉本さん宅を訪れたのも必然だったようにおもわれる。なぜならば、訪問する途次と、吉本 さん宅を辞去したあと、わたしは言いようもなく孤独だったからだ。そして、わたしのなかで、切れてし まっていた過去と現在が少しずつつながっていった。 前川は数年前から上野に移り住み、タクシー運転手をやっていた。盆暮れに福岡に帰郷した折には土産も のを買い、それを吉本さん宅に持参し、玄関先で吉本さんととりとめのない話をしていた。吉本さん宅に 伺った後に、高揚した気分でわたしに毎回のように電話してきた。前川のその高揚した気分はわたしにも わかるような気がした。前川によれば当初、長女多子さんからは素姓のわからない怪しい男とみられ、敬 遠されたようだ。それでも、前川のあけっぴろげで、あぶなっかしい、遠慮のない、近所の小父さんのよ うな性格にしだいに関係はほぐれていったようだ。おそらく、吉本さん宅を訪問する多くはわたしと同じ ように暗く神経質なひとびとであり、それらのひとびとと前川の資質はちがっていたようにおもわれる。 吉本さん、多子さんからみるとおもしろかったのかもしれない。わたしと吉本さんの距離と、前川と吉本 さんの距離が微妙にずれていて、そのことが興味深く、また、なにごとかを暗示しているような気がする。 吉本さんがこの会話でみせた笑顔は、ひとえに前川のその資質によるものだったとおもう。 吉本さんにお聞きしたかった主たるテーマは、1976年 6 月18日の三上治主催の品川公会堂での吉本さん の講演会をめぐってのことだった。わたしと前川は叛旗派の一員として、この講演会を妨害するために出 かけて行き、壇上に上がり、吉本さんの眼前までつめよっていた。》 注記等 2010年12月21日
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 130316 標題 特集【追悼特集】吉本隆明その重層的可能性 掲載誌(紙・書)名 流砂 巻 号 6 掲載頁 4-220 掲載年月日 2013.3.16 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 三島由紀夫と吉本隆明 三上治 革命的思考と吉本隆明の思想――左翼的思考の閉塞を突き破る 山本哲士 吉本隆明の哲学的思考 新田滋 吉本隆明の彼方へ――もうひとつの時間のゆくえ 宮内広利 吉本隆明と原発 中村礼治 脱原発と社会主義の構想への探究――吉本隆明『「反核」異論』について 山家歩 吉本親鸞論への問い――宮沢賢治論から 伊藤述史 吉本隆明の西行論 高岡健 世界視線としての放射線の夢と胎生防御装置――吉本隆明なるものを巡る私にとっての諸問題VI 柴崎明 吉本隆明のまなざし、死生観 佐竹靖邦 大衆よりの自立 柏木信 吉本隆明へのアプローチ 平田重正 吉本思想との出会い――吉本さん追悼 古賀英二 吉本隆明と小林秀雄――「第二の敗戦期」と「現代の超克」 とよだもとゆき 問われ続けた《革命とは何か》 菅原則生 〈関係・資質・異和・成熟〉という問題 高橋順一 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 松岡祥男 刊行年月 130318 標題 吉本隆明さんと高知:所感雑感 掲載誌(紙・書)名 高知新聞 出版地 高知 掲載頁 掲載年月日 2013.3.18 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 130319 標題 「吉本隆明さん―逝去一年の会」(17日、東京・一ツ橋の如水会館) 掲載誌(紙・書)名 MSN産経ニュース 出版地 東京 掲載頁 http://sankei.jp.msn.com/life/news/130319/art13031908210002-n1.htm 掲載年月日 2013.3.19 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録 「横超忌」として定着を  昨年3月16日に87歳で亡くなった詩人で思想家の吉本隆明さん。“戦後思想の巨人”“全共闘運動の 教祖”と評されるなど、1960年代から70年代にかけての知的世界で絶大な影響を及ぼした。その没後 1年を機に、生前交流のあった関係者約80人が吉本さんの思い出を語り合った。  参加者の中心は、60歳代の全共闘世代。多くの人が口をそろえて語ったのは、吉本さんの飾らない温か い人柄と、人間的なスケールの大きさだ。  中央大で学生運動の活動家だった評論家の三上治さんは、逮捕や失恋などが重なり悩んだ時期に吉本さん の家をたびたび訪れ、「人は何で生きなければならないんだ、人は愛することができるのか、といった愚問 を突きつけた」。吉本さんはいつも困ったように頭をかきながら、にこにこと話を聞いてくれたという。  吉本さんの本を約30冊手掛けた編集者の小川哲生さんは、誰に対しても偉ぶらない吉本さんの態度を語 る。会社の大小で出版社を差別せず、“ちょっとおかしな人”からの電話でも、書いている原稿を中断して 20分でも30分でも応じたという。「自分の仕事なんか遅れても構わない、彼が話を聞いてくれて助かっ たなあと思ってくれる方が大きいんだ、と。こんなことを言った思想家はいない」  祭壇には、亡くなる前年に撮影された遺影と詩集、それと吉本さんゆかりの日本酒「横超(おうちょう)」 があった。横超とは吉本さんが傾倒した浄土真宗の開祖・親鸞の言葉で、横飛びに超越する、というほどの 意味。吉本さんの人柄や思想のあり方は、大衆救済を生涯のテーマにした宗教者親鸞にも重なる。参加者か らは、「横超忌」として来年以降も定着させよう、との声も上がった。(磨井慎吾) 注記等
刊行形態 Newspaper Article 著者 刊行年月 130321 標題 吉本隆明さんをしのぶ会:故人しのび「逝去一年の会」開催 親交のあった約90人が集う 掲載誌(紙・書)名 毎日新聞[東京夕刊] 出版地 東京 掲載頁 http://mainichi.jp/feature/news/20130321dde018040076000c.html 掲載年月日 2013.3.21 区分 追悼記事 キーワード 見出し・語録  昨年3月に死去した詩人・評論家の吉本隆明さんをしのぶ「逝去一年の会」が17日、東京都内で開かれ、 親交のあった詩人や評論家、編集者ら約90人が出席した。没後に「お別れの会」などは開かれておらず、 知人ら有志が企画した。  献花と黙祷(もくとう)の後、呼びかけ人の一人の文芸評論家、月村敏行さんがあいさつ。60年安保闘 争の後、吉本さんのもとを訪ねた多くの「吉本家出入りの若い衆」がおり、「僕もその一人だった」と話し、 雑誌『試行』の発行が始まった当時を振り返った。  詩人の吉増剛造さんは、吉本さんが20代の頃、毎日のように書いた詩群「日時計篇(へん)」の魅力を 語り、その一編「冬の遺書」を朗読した。歌人の福島泰樹さんは2010年5月、吉本さんに最後に会った 時の模様を紹介。その際、「僕はあと2年しか生きません」と発言した通りになったと述べ、初期の詩集 『転位のための十篇』から代表作「ちいさな群(むれ)への挨拶(あいさつ)」などを朗読した。  文芸評論家の川村湊さんは、若い頃に文芸誌の企画で初めて対談した時の印象を「私にとって吉本さんは カッコいい思想家だったが、実際に会い、その話し方や風貌を目にしたら、あまりカッコよくないなあとい う印象だった」とユーモアを交えて話した。また、「自分が批評家になったのは、吉本さんや江藤淳さん (故人)、柄谷行人さんという仰ぎ見るような人々がいたから。吉本さんは社会と世界の基準になる言葉を 書いてくれる人で、心の師だった」と存在の大きさを語った。【大井浩一】 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 130427 標題 吉本隆明――歿後一年:特集II 掲載誌(紙・書)名 現代詩手帖 巻 56 号 5 掲載頁 104-142 掲載年月日 2013.5.1 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 この日まで:横超忌決定のことなど 月村敏行 「コム デ ギャルソン論争」の背景:「ファッション論」まで 石関善次郎 吉本隆明の初期とは何か 瀬尾育生 注記等 「吉本隆明の初期とは何か」は、2013年2月16日朝日カルチャーセンター新宿でおこなわれた 講演「詩人としての吉本隆明」をもとに、加筆・再構成されたもの。
刊行形態 Book Section 著者 芦田宏直 刊行年月 130902 標題 追悼・吉本隆明――機能主義批判としての言語の〈像〉概念 掲載誌(紙・書)名 努力する人間になってはいけない:学校と仕事と社会の新人論 出版社 ロゼッタストーン 出版地 東京 掲載頁 394-423 区分 追悼文 キーワード 見出し・語録 ■吉本隆明、NHK出演その後――自己表出の「沈黙」は唯物論的であることについて 「自分にしかわからない」と思わせたら一流/〈表現〉は不可能なものに賭ける営み/柄谷も蓮見も「お勉強 好きの学生」/吉本隆明尾行 ■「検索バカ」と「自己表出」の反ファンクショナリズムについて 「検索バカ」な人たち/著作を理解することは「沈黙の解説」 ■追悼・吉本隆明‥‥‥ 吉本から離れて行き着いた先は‥‥/ちひさな群への挨拶/廃人の歌/涙が涸れる 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 刊行年月 131125 標題 追悼 吉本隆明 掲載誌(紙・書)名 游魚 号 2 掲載頁 114-184 掲載年月日 2013.11.25 区分 追悼特集 キーワード 見出し・語録 1吉本隆明氏に聞く 訊きて=安達史人 (A)「文学者の課題」(B)「宗教と思想/親鸞から現代まで」 2「ある彫刻家の〈近代〉とその過程」ーー『高村光太郎』から 高島直之 3吉本隆明『マチウ書試論』と福音書の〈思想〉 安達史人 注記等 初出 1=(A)(B):『現代の知軸ーー吉本隆明ヴァリアント』北宋社、1985
刊行形態 Book 著者 上村武男 刊行年月 131230 標題 吉本隆明 孤独な覚醒者 出版社 白地社 出版地 京都 区分 追悼書 キーワード 見出し・語録 序 一年遅れの報告の手紙 第一章 初期吉本隆明に関する趣向 第二章 高村光太郎と吉本隆明 第三章 埴谷雄高と吉本隆明 第四章 吉本隆明の光太郎研究誌への一瞥 第五章 言葉なき声、形象なき形 第六章 連祷三十首詠 第七章 死と思想と生活者 第八章 吉本さんの足の裏 初出一覧 あとがき 注記等
刊行形態 Magazine Article 著者 吉田 純 刊行年月 140210 標題 琉球弧とオホーツク:吉本隆明先生をしのびつつ 掲載誌(紙・書)名 脈 号 79 掲載頁 4-8 掲載年月日 2014.2.10 区分 特集・吉本隆明と沖縄 キーワード 見出し・語録 注記等 平成26年1月8日(本文末記)
刊行形態 Book 著者 東出 隆 刊行年月 140316 標題  追悼 吉本隆明 出版社 共育舍 出版地 札幌 区分 追悼書 キーワード 見出し・語録 追悼 吉本隆明さん 吉本隆明不在の日々 続・吉本隆明不在の日々:一周忌に寄せて 注記等 「本書は、投稿誌「よりみち仲間」及び「よりみち」に寄稿したものを再編集したものです」(目次注記)
刊行形態 Book 著者 四方田犬彦 刊行年月 210522 標題  世界の凋落を見つめて:クロニクル2011−2020 叢書名 集英社新書1068B 出版社 集英社 出版地 東京 区分 情況論 キーワード 吉本隆明 見出し・語録 [略]  2012 日本に戻ってきたときの印象 吉本隆明さんの思い出 出雲で考えたこと [略] 注記等  書き下ろし

「吉本隆明追悼記事(文・特集)一覧/書誌」/kyoshi@tym.fitweb.or.jp 2021.06.23