十字路で立ち話(あるいはワッツニュー)
最終更新日:2008/07/01舞妓ファンをめぐるギャグとコントで綴って
道楽を乗り回す映画(DVD)を観たりすると
野球拳どろこか運動不足を解消する愉快さが。
身体との共鳴はそれぞれどのように
たとえば手風琴と自鳴琴の違いなどは
耳目がそれぞれどう出会ってきたかに。
下手なコーチが下手を相手に何が面白い
なんて言い草に関わらず心身を細かくする
無言の自然との向き合いを取り逃がすな。
暗くなった農道を思いっきり飛ばし
通り抜け駐車場には人目がないから
ぐるぐるコーナリングで隅々乗り回し。
スポーツ中継観戦中にそう遠くない
本屋のお取り寄せ雑誌が届いた知らせに
雨も上がって自転車お出かけタイム。
専門的な雑誌の最新号にに載ってる
いくつか読んでみたい記事があっても
行きつけ図書館に無くコピーも頼めず。
晴れ間の多かった6月前半の午前は
窓際の老人みたいに朝日の当たる
2階の窓辺に観葉植物を置いてみた。
なんだか陸に上がった昆布みたい
狭い鉢をそっと押し広げるように
脇から新しい緑が背伸びしはじめ。
迷わずさっと小さいうちに抜いて
そこらに転がっていた適当な鉢に
移植した2枚葉がどうなることやら。
元株の姿形とのあまりにも大きな
違いを黙って確かめる成長の姿に
繰り返される暗黙の対話が揺らぎ。
買い物帰りにパンクした古自転車を
引きずりながら有り得べき日常から
引き抜かれたように帰宅することに。
近所で言葉を交わした古株は逝って
週一訪れる体育館や教室で会う子らや
学生から新しく株分けされることも。
わが家や近所の紫陽花が咲きそろい
ようやく梅雨の仲間入りで湿っぽく
どこか管楽器を抜ける響きが似合う。
雨の日に矢野沙織クインテットの
“砂とスカート”がイヤホンから流れ
海辺の乾いた湿り気で開いた傘のよう。
男の子育てには縁がなかったのだが
久しぶりに男子学生が抜けてしまった
担当授業の教室はなんとなく単色っぽい。
同性婚が認められカップルが抱きあう
海外ニュース画面からはじき出されて
ますます難しくなる異性と関わる物語。
身の丈に縛られた生活視線でうろうろ
さ迷う姿を見下ろせる視線をどうやって
獲得してきたか調べることが俯瞰の次元に。
南こうせつとかぐや姫の「神田川」や
さだまさしの「関白宣言」をどこでどう
口ずさんできたか6月の雨に濡れた耳に。
西日本では梅雨前線による大雨が
東北には地形も崩れる大地震の被害が
その間で北陸は梅雨を忘れる天気続き。
日常生活の切り口には様々な穴が
無数に開いているのに蓋をしたり
落ち込んだり心身を拭きとる言葉。
風呂場は使う度に掃除できても
トイレやサイクリング車となると
汚れが目立たないうちにできるか。
やったりやらなかったり気ままな
日常の穴ぼこだらけに飛び込むか
塞いでしまうかそれともほっとくか。
生殖器を舐めるように花を写し
庭に這いだす蜘蛛や虫も少ない
夕風が吹き抜ける庭の草むしり。
手あかで汚れるくらいボディと
レンズが手に馴染んだようでも
どこかすり抜けてしまう残像が。
昼前に素足で庭をうろうろ虫刺され
昨日はキャンパスの行き帰りの空と
緑がひときわ爽やかで空梅雨みたい。
授業を休む学生らの司書職に縁がない
畑違いの就職活動の現状など資格免状を
与えている当局のボスは知らないふり。
学生の理工系離れをいいことに国外進出の
IT企業が中国政府の国策に乗せられたのか
技術者を現地調達して日本国内の若者を排除。
書店は新刊棚が「格差社会」や「貧困」の積ん読
だけじゃなく大宰に続いて小林多喜二の「蟹工船」や
ドストエフスキーの長編が売れているそうじゃないか。
秋葉のホコ天の殺傷事件の続報が次から次へ
耳目に触れる数が増えても事の焦点はぼやけ
新しく開いた貧乏の傘の裏に隠されていそう。
遠ざかる救急車のサイレンが合図みたい
屋根を濡らす雨にテレビで見たばかりの
開いた傘の裏で広がる青空に浮かぶ雲。
夜明けとともに起き暗くなったら寝る
近所に出没する雉みたいなその日暮らし
できたら真似ようにも身体が許さない。
先週土曜日はいつもより早く起きだし
スポ少のバドミントン交流戦に参加する
子どもらにつきあったら寝起きがよくない。
待ってるのが退屈とこぼす男の子は
練習にも集中できないのがそのまんま
試合に反映したみたいなスコアに。
敗者戦を待ちながら話してくれたのは
身体を使うことに集中しろといっても
勉強なら1時間位だがゲームなら一晩でも。
だったらバドミントンも手足を身体の翼に
羽を操るゲームみたいに数十分は集中できたか
二戦目はすんなり勝って三戦目はまたボロ負け。
試合中の子どもらにああしろこうしろ
監督やコーチだけでなく親まで口を開き過ぎ
子どもなりの持続を分断しない流れも途切れる。
ちょっとした外出にシャツだけじゃ
何となく心もとないようでベストの
小物入れに折り畳み傘も入らないか。
なんだか梅雨の晴れ間みたいに
抜けきらない空模様の庭で見かける
猫や雉にデジカメを向けても素知らぬ顔。
苔を下に寝そべったりブロック塀に
止まってひとしきり鋭く鳴いたりして
いつの間にかどこかへ消えてしまう。
民家の建ち姿も様変わりしてしまい
ツバメが飛びははじめたというのに
いったいどこで巣作りしているのか。
家屋を上手に着こなしたような庭を
見かけたりすると住んでる人が世間を
隔てるクッションにしているみたいだ。
庭をつぶして車庫にするなどしても
シャッターを開け放し孵った雛を狙い
蛇の一匹や二匹どこからでも現れる。
6月の富山市街散歩は山王さんの祭り
というか縁日の賑わいからはじまり
デジカメを向けるすき間もない露店界隈。
わが家の庭では縁側の雪よけ用に
重ね置いた用済みの洗い張り板から
ちっちゃな蟻の大群が溢れるごとく。
めくった板の両面を埋め尽くす微動に
いつも庭木職人がやってくれている
春の薬剤散布の盲点を突かれたみたい。
中学生になったスポ少バドミントンの
子どもらに出会って挨拶されたりして
言葉を交わし行き違ってからとまどう。
中島みゆきがただ一度なりたいと唄った
狼になりたい若者は男か女いずれだったか
ひとり子どもから大人へのグレイゾーンで。
人それぞれ踏み外して分かる立ち位置に
ひとり立ちできるかどうかも分からない
行く手に自分にしか聞こえない歌声など。
あざやかに萌え揺らいだ木々など
ひと雨ごとにフツーの緑に染まって
すき間からカッコーの鳴き声が響く。
落ち着き払って托卵などしやがって
この“人でなし”などと言うまでもなく
鳥獣のなせる仕業がまかり通る季節に。
ビンボーで多感な青春を持て余した
昭和30年代に殺人事件が多発したが
今じゃ事件数は減って極端な様変わり。
婆さんの昔語りから童話や小説へと
読み聞きしてきた変身譚を忘れても
胎生がはらむ獣から人へのマッピング。
人間としての架橋を孕みようもなく
何も聞こえず届かず凶器も及ばない
互いを隔てながら共に生きるよすが。
気づけばこの世でどんな橋を渡った
とにかく生き延びるためにあれこれ
どこから何まで人間として問えるか。
満艦飾になったのや丸坊主のままも
今年は極端な庭のツツジの茂みだが
花付き具合は吹き抜ける風も知らない。
母の日に娘から生きる意味を問われ
産んだ母親は娘の涙を涙で流しつつ
共に溺れることもならない五月雨に。
ビル街を背景に噴水広場の吹き上がり
写した写真のバックに窓拭き作業姿や
アップで撮った草花に写り込む昆虫が。
安物ワインだからといって階段の下に
転がしておくよりワインセラーに寝かし
飲み頃を見計らって栓を抜いてみたら。
読み疲れ本の隙間に埋め込むように置いた
パソコンミュージック用スピーカでiPodの
講演音源をシャッフルすれば書架が喋りだす。
夕暮れ散歩買い大型家電店からHDは消え
白か黒かもはっきりしないいい加減な
二大政党傾向なんてほっとくしかない。
若葉の網戸越しに風が爽やかな2階の
窓際に観葉植物の鉢を置き知人宅の庭の
開花模様を撮ったヨメのデジカメ写真印刷。
ディスプレイで見る写りの良し悪しに
関わらない画像情報が写真にくっついた
データから写した動機はうかがい知れない。
心身で感じるしかない情報はICTじゃ
読めも聞き取れもしないからと知ってて
つい可視・可読調べだけでどうなるものか。
自分を殺したい関連キーワードを
入力した検索サイトが返す一覧画面の
冒頭には「自殺予防サイト」の表示が。
自分との関わりから異性を含めて
世間まであの手この手の間に合わせばかり
情報探索で調べられない過換情報症候群。
どんなささいな関わりであろうと
なんとか開くように変えていけば
不可知情報のメタデータが花開くか。
寝起きのラジオで“火山‥‥休止”と
聞こえたのが「サザンが活動休止」なんて
アジアの風水害や地震災害報道とゴッチャに。
地区センターでの健診もさぼった
風邪をひきなおしたみたいな週明け
庭の緑も吹き千切れそうな荒れ模様。
元気な時は家族の鼻摘み者を演じがち
祖父は医療費がタダだろうが大の医者嫌い
健康診断や生命保険などどこ吹く風だった。
飲む打つ買うを地で行ったようだが
身請けした嫁が亡くなり先立たれた
息子の嫁や孫のヨメとの同居暮らし。
老いて好々爺に成り果せわが家の
畳の上で遺してくれた自然死の沈黙が
語り明かす事もなかった個の生涯を描く。
メモったり記録を調べたりノートに
まとめたりする作業も紙に触ることなく
やれたりする身体相互の浸透性や馴染みは?
五月晴れの見本みたいな日和にそっと
足を引っ張られ背中を押されたり昨日は
風邪がぶり返し冴えない教室への往復。
年取るほどに気分は体調に左右されそう
自分自身だけでなく家庭の事情に引きずられ
世の中のことなども晴れ間が見つけ難くなる。
昼間の仕事に引き続き夜学で恋のまね事など
組合運動じゃ収まらず街頭の反権力デモへ
寝に帰るだけの家は諍い事で荒れたことも。
人が関わる場の違いをどう読み込むか
情報とはメディアに接する時間体験としたら
その有り様の違いが錯綜しもつれるばかり。
遺伝子情報は誰の個人情報なのだろう
週末婚なら熟年離婚を先取りして裏返すか
散歩は起伏も無くのっぺらぼうな逆立ち時空へ。
流動し浮遊する足場を均質化するスイッチが
物語を捻り潰しテレビのチャンネルをいきなり
四季の風物の眺めなどから遠くへ変えてしまう。
廃屋の荒れ地が宅地造成され
追い出された雉が里山へ戻れず
近くの家主のいない庭地に出入り。
自らに悪いことはすべて他者の所為に
曖昧な健常者かどうかにかかわらず
人々はいかように幸せ不幸せを生きる?
いずれも似たような庭木や草花が
小雨に濡れ萌える若葉の裏にひそむ
過ぎし田植え時期の肌寒さが遠ざかる。
育った結果を誰の所為にもしない
物心ついて手伝わされた田畑の
野菜や山の植林の出来の良し悪し。
雨上がりの四畳半の障子を開け差し込む
日差しが朝の散歩がわりのおふくろが
畳焼けを気遣う裏側で親子間の殺伐化。
近親間だけじゃなく地域や職域までも
つかみ所が無くなるばかりの生活感に
裏打ちされた日めくりカレンダーの破れ目。
風にそよぐ柔らかい緑に
誘われるように水辺や滝に
身体を連れ出したくなる。
ガス警報器の交換ついでに
来月から義務づけられたとはいえ
火災警報器も家庭内に取り付け。
さて住んでる者の身体に食い込む
検知しようのない社会的ストレスを
放置したみたいに消火器は埃まみれ。
身ぐるみ剥がされズレるしかなく
人それぞれ遅れをとるか早回るしか
時代に棹さす我が身を取り戻しようなく。
衣食住を保つにはどのような
読み書き算盤が出来ればよいか
答え合わせもままならぬうちに。
無名の滝の流れを写しとるみたいに
向き合う相手の動きよりゆっくりした
動きで迎えられるか手の内は読めない。
爽やかさを行き過ぎた5月連休は
ちょっと身体を動かすと汗ばんで
夏場に向けての修練の繰り返しを。
スポ少バドミントンの子どもらは
ほぼ3年周期で司書過程の学生は
2年周期で顔ぶれが入れ替わるが。
学ぶこと教えることが交差する
それぞれの身体性がどのように反復し
お互いの上達にかかわるのだろう。
P.F.ドラッカーが出会った人たちから
学習についてどのように学んだかが
「ミス・エルザとミス・ゾフィー」に。
誰しも生活時間が分断されそうに
どこまでも追いまくられるばかりで
心身の座から季節感も薄らぐばかり。
言葉を絶する大工道具の写真集に
作った職人の身体の動きはどうか
問いかけに答えられうる体内感は?
辺りの新緑の濃淡をなぞるように
蝶が舞いはじめ体調も落ち着くと
5月の健診が無駄なことのようで。
出先から帰ると玄関に筍が置かれ
在宅だったのに甥の結婚祝い物が
玄関灯に吊るされてあったりして。
人と人との交わりは濃くも薄くも
要らぬおせっかいや無駄な押し付けを
分けあうくらいなら関わりなきこと。
しょせん人ごとに首を突っ込む先を
いかにおのれに向け掘り下げられたら
ひょっとして何かを分けあえるかも。
情報を調べるなんて授業で喋ってきて
集めようもなく感じるしかない何かと
なんとか探しだせることとの裂け目が。
それぞれのバカさ加減がどのような
局面に張り付くことになっているか
どんなにか物事の流れを妨げることに。
年がら年中シルバーウィークでも
ゴールデンがつくと庭の草むしりや
休日のスポ少バドミントン練習など。
体育館に出向いてくる子どもらの数は
一昔前とたいして変らないが練習前の
準備から終わりの掃除まですっかり違う。
ウォーミングアップゲームで転んで
膝を打った子どもを囲んで本番練習も
そっちのけみたいなことになってしまう。
子どもらの親の世代の身体的感受性が
あふれかえる情報で欲望の箍を無くし
めったなことでひたむきになるなんて。
数年前にリレーで国立競技場で走った
子どもらもネットを挟んで前後だけでなく
左右に動くフットワークが上達できず。
盗塁が上手いスタートの足使いや
ロングボールをスローインする腕使いなど
いろいろやってみて達成感を味わえる練習を。
夏日の植物園に咲きそろった
野生の桜や里桜の園芸品種など
まるで春雷を聞くような眺め。
中学校の剣道部で走らされた
裏山の山桜みたいに身体に響く
花の眺めってのもあったが。
立礼から竹刀を抜き合わせる
やり直しの繰り返しは忘れず
足の運びだけは今でもできる。
花びら散る小学校の運動場で
行進の輪からつまみ出された
数人と一緒になぜか歩かされ。
骨盤が後ろに傾くほどに
胸が狭まり首がしゃがみ
窮屈そうなおふくろの姿。
あんなふうになる節々で
まともに立ち居振る舞う
身体感覚の更新作業は?
先週末からの陽気で新緑が芽吹く
というより吹き出す勢いに乗って
野球観戦に出かけたら向かい風が。
ギアを落とし気味に体軸を前に傾け
両脚に連なる腰の外側を回し膝へ
力を逃がすようにペダルを漕いで。
三本の体軸を意識しなかった頃だと
やたら踏ん張って尻がサドルから離れ
吊り上がった肩で喘ぐように力んで疲れ。
今シーズンは週一が月一になったスキーだと
左右の体軸がそれぞれ膝の両側から両足の内側と
外側の二面に分割されて抜けるよう腰が左右に割れ。
一本の棒みたいに持て余す身体に
感じ通せる体軸が細かく割れるほど
蛹から蝶へと運動の愉しみが羽搏く。
骨と筋肉の動きを分けるように
発語をつなぐ沈黙が心身の繋ぎ目で
力まず弛まず呼吸の律し方も変って。
小雨に煙る市内をバスで西から東へ
葉桜から梨花へのグラデーションに
ふと通り過ぎた結婚記念日に気づく。
聖火リレーを追いかけるように
不穏な気流に煽られているのは
燻る民族と国民国家の捩れなのか。
75歳以上を対象とする保険料をめぐり
始まったばかりの長寿医療制度のガタツキ
政府は1300万の高齢者をどうしたいのだろう。
99歳で逝った祖父もそうだったが
米寿を迎えた母も家猫とどのように
関わったなんてとても窺い知れぬ。
思いがけない問わず語りに聞き耳を
なのに家族それぞれの生い立ちなど
老いるほどに根掘り葉掘りなんて。
頬や顎を家猫の肉球で撫でられる
ほどよい剃り心地のよさが得られて
使い古した電動シェイバーも壊れ時。
山沿いの名所は訪ねそびれたが
今年の桜は“四月馬鹿”を忘れさせ
不気味な“四月危機”を開花させたか。
さまざまな生活関連物価の値上がりに
1970年代のオイルショックのような
トイレットペーパーや洗剤不足パニックはない。
日替わりスタンプみたいに線路への
投身や洗剤を混合して発生させたガスで
中毒死のニュースがディスプレイを凍らす。
書きたいことも写したいものも食い潰し
辿り着いた所から書いたり描いたりなんて
日々生きてあることだけでも奇跡のよう。
新野菜がヨメの手料理で口当たりが好いから
ペットに馴染めないならロボットで遊んだり
PCサウンドの耳当たりも変えてみたくなる。
やれ選択消費が必需消費を上回っただけ
どうやら窮屈になった身の振り方をつなぐ
発語をより細かくして通り抜けられるか。
濡れそぼって散りはじめた色香に
惑わされるように出かけ2カ月ぶり
若さではち切れそうな学生の教室へ。
さて相手を上手に向きあえるような
姿勢が決まれば呼吸も落ち着くように
今どき過換気ならぬ過情報に向きあえる。
心身を一枚岩のようにして崩され
ひっくり返らないよう心身を柔らかく
隙間だらけで受け流せる構えをとって。
力を抜いてラケットを振り抜くには
手に馴染んだグリップの握力を小指から
薬指中指人差指と小刻みに伝えないと。
身体の内外に向け開いたファインダーに
いま・ここしかないセンサーの素早い働きを
シャッターチャンスに動きを決められるか。
やってくる速さを迎えられるよう
できる限りじぶんの流れをゆっくり
相手を細かな被写体に見極められるか。
先週末に訪れた松川縁の花日和だが
今年はペット連れで散策する人が増え
なんとイヌだけじゃなくネコの姿も。
展望台から見下ろせば左岸と右岸の
花屋根の傾きを色分けしたみたいで
ゆっくり川面を滑る遊覧船も見え隠れ。
花見ごろの人出にまぎれてゆったり
家に帰ればShelby Lynneの新作LPに
腰を下ろしたみたいに寛げる愉しさ。
使い古した掃除機を買い替えただけで
掃除気分も新調されたみたいに模様替え
見つけた薬図協の依頼原稿をWebに変換し。
デジタル化してiPodで聴けるように
好みのLP音源だけじゃなく古びた
吉本講演テープなどのA/D変換作業など。
撮ってきたデジカメ画像データの処理や
音源データの処理にもたついている机上の
たかがPCの処理速度なんかに苛立つなんて。
新年度の立ち位置を探すみたいに
柔らかい日差しの庭の緑を揺らし
吹き抜ける風ににおい立つ花のかげ。
花見どころか外出ひとつままならぬ
大正生まれのおふくろのこの頃にふと
後ろ向きの幼形成熟みたいな面影が。
物事を調べるとはどういうことなの
数年前の検索演習で学生に尋ねられ
いまだに確かに応えられるかどうか。
飲食排泄にはじまるすべてが親がかり
物心つくまでの自らを位置づけられず
遅れてやってくる了解で触覚を遠隔化。
青年から壮年を経て老年へと辿る
それぞれ節目に潜む不安定を心身の
座の力として立ち位置を探る面白さへ。
遠く離れて日教組への会場提供を断ったホテルや
それに抗議して系列をボイコットした労働団体や
ドキュメンタリー映画上映を自粛した映画館主の拠り所は?
芭蕉の句に聞く思い様々桜だが
早春の青空を見失った天気巡りに
松川べりの開花予定も狂ったみたい。
遅咲き綾戸智恵10周年ライブを聴き
いつの間にか桜一本の咲き具合を
気に留めたりするようになったり。
物狂おしく忙しないこの10年を
女手一つで息子と母を養いながら
ファンに元気を与え続けた歌の力。
やり続けることによってぶつかった
いかなるプラスやマイナスが合わさり
いまここでひとり立ちさせているか。
ありふれた生業の日々を綴って
時には生老病死の谷間を踏み迷い
もらったいのちをどううけつぐか。
大したことないのに手を叩いて笑い
悪受けを狙ったみたいに毒づいたり
書き換えられた長屋の花見で踊れるか。
天気予報を彩りはじめた花便り
さぁこれからという意気込みの
対岸に色んなリタイアの姿や形が。
新年度の学年歴や時間割が届くたび
次から次と司書課程を選択し続けた
学生らの後ろ姿が少しづつ遠のいて。
削減予算とたすき掛け人事でなんとか
持ちこたえている図書館を民営化すれば
図書館で働きたがっている卒業生の受皿に。
数十年関わっている校下のスポ少バドだが
このほど三代目の監督へと若返ったところで
できる子できない子それぞれが伸びる指導を。
公務員制度によらない図書館サービスみたいに
型にはまらないノンキャリアならではのコーチは
怒声やしごきに頼らない心身のコミュニケーションで。
辣韮の皮をむくような自分探しみたいに
浅はかさを脱ぐには自らの身体性を探り続け
細かく折り畳んで他者の察知になじまないと。
庭木が緑づき雑草もむっくり
日が長くなるにつれ朝方には
二度寝や夜更かしの愉しみも。
昨年DVDで再発された談志ひとり会や
読み聴き忘れた時代小説やLPなど
しばし時の窓を閉め忘れさせてくれ。
飲食排泄に風呂やゲームプレー中ほか
ところ構わず着信音が割って入る風景を
凍らせる発作的な無差別殺人が横行し。
気づかない無線LANエリアが広がり
高次化された時の流れが高波となって
予期せぬ地震から誰も逃れようがない。
落語と一緒にiPodに詰め込んでいるCD音源
弓立社版「吉本隆明全講演ライブ集」なる
労作の続きが「ほぼ日」10周年記念事業で。
昨夏いったん締めくくられた宮下さんの仕事を
糸井さんがデジタルアーカイブとして引き継ぐ
吉本さんの60年代からの語りが聴ける寺子屋へ。
引っ張り出したサイクリング車で
初乗り立ち寄り先の一つが県美の
「戦後美術の断片:昭和は遠くなりにけり」。
昭和三、四十年代の高度経済成長期の作品や
実際に使用されたモノから観る者の様々な
生活感情まで無音のパントマイムのようだ。
引き揚げ先が兼業三反百姓の手伝いに
小遣い稼ぎは中小製造業のおこぼれで
義務教育から高校までどうにかしのいだ。
僅かな会計事務所勤めに引き続き
図書館業務のような虚業で生計を
持ちこたえさせてくれた手応えが。
モノ一つ作ることなく稼ぎを得て
結婚と同時に家を建て子をもうけ
借金を返せばあとは何ごともなく。
すっかり変わってしまったのが
いいことなのかどういうことか
どこへも後戻りできないのも確か。
毎朝の鴬に梅がほころび
スキーに出かけて転んだら
溶け出した雪に溺れかねない。
黄砂で水辺が見通せないのか
大柄なアオサギが向かいの屋根に
あたりの越冬状況を見渡せるか。
高次化した産業構造に急かされ
あちこちの窓口に殺到しはじめ
口を開くクレーマーの喉越しに。
減ってきた物盗りに入れ替わり
血を血で洗いはじめた親子関係が
日常茶飯事のように繰り返され。
戦後のあばら家の庭に伸び放題で
払い落としたビンボーを肥やしに
咲き続けた水仙もどきの暮らし。
何ごともなかったような流れに
いらだちをぶっつける落語家が
語り続ける岸辺から崩れ落ちそう。
三日続きのぽかぽか陽気で
裏の雪囲いを外して干したり
家も身体も冬の殻を抜けだす。
ラケットでシャトルを打つのに
どう馴染んでいくかが気になる
スポ少バドミントンの新人さん。
入団してくる子どもらの体つき
身のこなしがまちまちとしても
それぞれが気づく習得の面白さ。
コートで足裏や腰はどんな構えで
素早く打ち返すラケットを振り抜く
グリップが決まる手首と指の使い方。
そんな問いかけをコーチ仲間や
子どもらとどんなふうに共有し
答えを探し求め続けられるか。
練習あい間の縄跳そのほか抜群の
身体能力を発揮している6年生も
上達の成果なしに退団することに。
梅もほころびそうな陽気に恵まれ
春先の縁側に腰掛けたみたいな昨日の
立山山麓ゲレンデのリフトの乗り心地。
スキー場の運営母体が黒字見通しなんて
昼時に地方紙の1面見出しで見かけたが
相変わらず駐車場に穴ぼこやトイレは水漏れ。
なんとかスキー場周辺で営業を続けている
お店の人たちやスキー客の様子などそっちのけ
いつも大小各紙が判で押す企業主体の景況判断。
雪吊りを外し庭木に防虫剤を撒いたり
その時々を見通したような記事が書かれ
いつになったら読めるようになるのだろう。
週1が月1になってスキーシーズンもおしまい
充電が働かなくなったiPodを新調して中味を
更新するような情勢の変化なんて当面なさそう。
占領中のマッカーサーに中学生並と見なされ
その後の日本のマスメディアは老化あるいは
幼児帰りでどちらも墓場に近づく社会的風景か。
昨夜来の新雪がとけてくると
黄砂でまだらになった屋根は
吸着汚染物質の波打ち模様に。
ちょっと見えたかなと思ったとき
探し当てたい道筋を見失いやすく
その先へ進めない足踏みしがち。
年季を務めあげたり歳をとるって
何やら未知の領域に入り込むから
ゆきあたりばったりのしがみつき。
打ち合わせや乗り物の席取りは
まずベンチシートの真ん中は避け
一人がけじゃなかったら端っこに。
真ん中だけじゃなく行きがけ
帰りがけのバランスそれぞれ
どう違うか気づかないことには。
ベッドに空きのない病棟で
書架から本が抜けない図書館で
患者も利用者も一筋縄じゃ立行けぬ。
降り積もった雪が溶けるたび
庭や遠くの景色が違って見え
日差しの向こうへ抜ける道が。
早過ぎるか遅れているのか
いつの間にか違う場所を歩き
通り過ぎれば道は消えゆく。
付かず離れずいつものように
体育館や教室での向きあいから
卒業式やお別れ会の案内まで。
教えるものと学ぶもの間で
私は何を知らないかを知り
問いかたの違いを体認する。
生まれ育ったとこからいまも
どのように問いかけられるか
その場かぎりの動きを身上に。
そこにいるだけで心地よい
からだ感覚から家族も他人も
わけへだてる柔らかな息つぎ。
体内に木の芽時が差し込むように
日ごとに寒暖の差がはっきりして
2月の雪も瞬く間に消えてしまう。
シーズンに延べ400キロの滑走も
いつの間にかおぼつかない有り様で
身体のバランス運動を暇つぶしに。
踵を上げれば引ける後傾姿勢や
つま先を浮かせば押せる前傾姿勢が
スキー板の踏み方以外でも役立つ。
製本雑誌でギュウギュウ詰めの台車も
両足をハの字に開いた踵で立ち把手に
手を触れ身体を預けるだけで楽に動いた。
バドミントンは三十代半ばからスキーは
四十代から続いてる虚弱体質の当たり障り
体つきも変わって生涯運動みたいになって。
いつの間にか刑事責任を持たされてしまう
14歳までに神経系統だけは成人の8割以上も
完成に近づくのに見合った心身の橋渡し運動を。
二月もあとわずかになりシーズン2回目に
期待して滑りに出かけた昨日の立山山麓は
バドミントン練習日の大先輩も見逃さない。
日曜日に高波被害をもたらした富山湾が
寒く霞んで見えまぶしいゲレンデの雪を
踏みしめると鳴る音に身体も静まり返る。
老いも若さもとかく頭でっかちになりがち
なんで働き盛りにもっとアタマをからだにして
からだをアタマみたいに使いこなせなかったか。
天地の律動に呼応してるみたいなフラダンスを
骨盤でする心身の呼吸から性的な営みの構成まで
今どきの保健体育はどう繰り込めるのだろう。
夢を見ても見なくても日常はとかく人それぞれ
無意識のありようが手癖足癖になじまぬうちに
身体を裏返すように第二の身体へひっくり返す。
背中を鳥のように広げてストックを握り
スキー板を竹馬のように履いただけで
斜面の水気で違う雪質の違いが愉しめる。
お天気を読み損なってスキーに行きそびれ
昨日みたいな散策日和はなにをやっても
どこかずれたみたいな身体感覚に戸惑う。
たまたま集まりが皆無だった夜の体育館の
一人練習で不得手な技が使えそうになって
いざ翌日にゲームで使うとぎこちなさが。
酸素を吸収し二酸化炭素を排出する呼吸を
整える中半身を体軸に革袋で包んで脈動し
上半身から手腕が伸び下半身を脚足で支え。
頭脳と心肺消化と性や生殖を包む骨盤の
三つのエネルギー作用を二本の線で絡ませ
卵形の線で包み外界と接触している人形か。
過「換気」も過剰性そのものが過度的だから
社会の多様化に決まり文句だけでどこまで
現在が持ちこたえられるか危なっかしい。
トイレや台所やお風呂そのほか伝い歩き
わが家のちょっとした段差も上り下り
米寿間近なおふくろのかけ声が通り抜け。
日曜日に30センチを超える積雪があっても
本格的な冬にはほど遠い季節感が際立たせる
様変わりした隣近所や職域での人との関わり。
公界か苦界かとにかく祖父さんの口癖だった
まわりとの人それぞれの関わりをとりもった
身過ぎ世過ぎを彩る暮らしの歳時記はどこへ。
別れられない核家族として面突き合わせる
狭苦しさが携帯電話で息抜きするみたいに
生き死にに関わるやり取りに及ぶことも。
学問に縁遠い場で呼吸しているみたいな
斜陽の書店員と同じように図書館員だって
現実の波をかぶるから総合性だけは手放せまい。
吸ったら吐かなきゃならない逃げ場が
どうにもならないから間がとれるよう
ゆったりした心身のありようを求めて。
小学5・6年生から英語が必修だなんて
川原や里山で遊んだりいろいろ運動して
家で好きなものを読み聴き愉しんでこそ。
立春過ぎから寒い日が続くようで
明け方に降り積もった雪どけが
日の移ろいを影絵のように流す。
いつの間にか通り過ぎた十代から
二十代への曲がり角がどうだったか
過ぎて気づく男道と女道の行き帰り。
行き交う両端は方や「もの」としたら
その一方で「こと」としてかろうじて
現れるような対のかかわりだろうか。
夜間教室での授業が街頭デモになったり
女とのデートの続きで家庭に入り込んだり
日々の賃仕事も長続きしたようでお開きに。
買えないLPが聴けたジャズ喫茶通いで
数あるピアノトリオの一つでしかなかった
アーマッド・ジャマルを今になって聴き漁る。
聞き漏らしたり見損なっていたものなど
いつどこで姿を現したり聞こえたりするか
DVDで観た「アヒルと鴨のコインロッカー」みたいに。
今シーズンは滑る体感から遠いようで
晴れてきた連休中日はスキー場のある
町の体育館でバドミントンの大会に参加。
寒い体育館内でこわばりそうな身体を
体幹を揺するように手足をぶらぶらさせたり
iPodに仕込んだ楽曲のシャッフルしながら暖まる。
寒くなるほどに甘味が増す冬野菜は
齧ったり噛んで食べて初めてわかるように
技ある人が漲らせる存在力に居合わせないと。
無心に楽しめるスポーツの良さを超え
日常の身体使いだけでは気づき難い
その人なりの体感に切り替わる難関が。
ノーマルからカービングにスキー板を
乗りかえた身体が覚えた快感みたいに
五体で技を身につけ使いこなす練習を。
行き帰りに乗っけてもらった車窓から
蕗の薹が根を張り芽吹きはじめた匂いが
漂ってきそうな季節感を誰が知るだろう。
雪が降り止んだ町内のゴミ出しで東の
朝空に輝く雲を帰りがけにデジカメで
撮ろうとしたときすでに朝日にかき消され。
後期担当科目の採点表や平成20年度の
担当授業科目書類を出し終えてしまえば
時間講師にもそれなりの春休み気分が。
2007年吉本著作リストのデータから
昨年度の吉本年譜事項を拾いだしても
生涯現役で考え書き貫く姿勢が垣間見え。
とにかく心身でやろうとする何ごとであれ
いかなる段階でも基本が基本でなくなる型を
見つけては忘れるという動きがともなわないと。
この世に生まれ家をもうけ親や子として地域で
つながりを持つことはどこかで罵りあったり
毒気に当てられたり吐き出したり畏怖することに。
部屋で過ごしながら紙くずや鼻紙など立って
遠ざけたクズカゴへの投げ入れは膝を抜き
手首の立て方と柔らかい角度が決め手。
降っては溶けてしまう冬日が続くようだと
屋根雪下ろしや雪かき仕事の身体使いを
忘れてしまいそうな感触の今日この頃。
Google Earth目線を動かし数十メートルの高さから
人気のない町内を見下ろせるようになってその昔
生徒の登校前に雪かきした通学路を辿ってみたり。
今どきの雪かき仕事はどこかで誰かが
どのように成し遂げつつあるのか見とどける
人それぞれの立場で息の長い自問自答の持続が。
時おり食い物中毒みたいなことをやらかし
自ら掛け声をかけながら食後の洗い物など
僕らの分まで家事を手伝おうとする以外は、
ご飯や風呂時や掃除その他で覗くたび
暮れに新調した座椅子で温もったまま
じっとして老いたる猫みたいな母の姿が。
下馬評を覆した逆転で決着がついた昨日の
スーパーボウルテレビ中継でカウチポテトに
はまりこんだ僕ら夫婦も似たようなものか。
ここ数年は決まったようにこの時期になると
毎日の郵便配達で学生が出し遅れたレポートや
演習課題がちゃんと届くかどうか気になってくる。
最終授業時間内にやることにしている期末筆記の
提出に合わせた締め切りに間に合わないというか
忘れた学生には郵送締め切りを設けわが家で待機に。
受けた図書館学の授業の中で特に難しかったとか
いろいろ発見できわくわくするほど面白かったとか
期末筆記に書きつけられた感想すべてを飲み込んで。
料金未納不足で行きつ戻りつしたのもあったり
成績票の提出締め切りに間に合うように届いたが
遅れた分だけしっかりした出来栄えだったりして。
待つ身に発送漏れになっていた予約本が速達で届けられ
吉本氏の母校・東工大での集中講義「芸術言語論」を
集成した『日本語のゆくえ』を読みはじめその凄さが。
生涯をかけて追求しているモチーフの一歩先を
考え抜いて準備したことを学生に提示し続ける
姿勢の豊かさに聴講生ならずとも元気をもらえる。
あらひょっとしてシーズン始めじゃない
ラーメンが美味い休憩&食堂の女将さんに
声かけられたように昨日は立山山麓で初滑り。
校下の小学校のスキー実習日ということで
予想した通りゲレンデ整備も行き届いていて
移動性高気圧のおまけもついて言うことなし。
閑古鳥の昨シーズンまでとは違って土・日には
なんと駐車場が混みあうような忙しさだなんて
ガソリン高で県外お出かけスキーヤーも地元滑り?
昼下がりのゴンドラ山頂で出会った6年生に
週末のスポ少バドミントンでの顔なじみもいて
怒鳴るだけの監督やコーチはダメと耳の痛いこと。
一本目のリフト降り場で後ろから両スキーを払われ
ものの見事に二枚とも外れてアイスバーンに尻餅を
つかされてしまったけどまだ立ち方が出来ていない。
午後の滑りでヨメがリタイアしてしまったのも
いつの間にか体形が変わってきてスキーパンツや
ブーツが合わなくなってきたのに無頓着だったから。
冬場の雨があたりまえみたいになって
外出時に洋傘を手放せない日が多いが
吹雪いてきたりするとビニール傘かな。
安くて壊れそうな軸を風に傾けながら
寒気が郊外の家並を包み隠しはじめる
冬景色に溶け込むような歩行の行き先。
透明な円窓が四つも開いた洋傘で
小雪をかき分けキャンパスに消えた
女子学生はどんな冬景色を見越して。
親は子どもが見つめた自分の背中が
どうなっていたかまったく分からず
先生の背中は生徒にしか見えなかろう。
授業の最後を期末筆記で締めくくる
冬場のコンピュータ教室は乾燥しすぎ
3階の窓越しに積もる屋根雪が時を計る。
いろんな足跡も融雪放水にかき消され
水たまりを避けて歩くようにしながら
走り去る車の水しぶきも傘で防がないと。
いちだんと寒くなってきて家族で
囲む鍋物がますますおいしく気の
流れに身体を緩めるような暖かさ。
正月休みにでも読もうかと二人で
目論んだ宮部小説を図書館から借り
ヨメが上巻を読む間に下巻を読んだ。
人様々に生き延びることはそれぞれが
なくてはならない型に染め上げられた
毒までも呼吸しなきゃならないようだ。
善悪二元論だけじゃ人様の善し悪し
すべてを包み込んでなお余りある
やさしさなんてものがはみ出しそう。
バラされたNHK記者やディレクターの
インサイダー株式取引容疑で得たらしい
はした金なんて不祥事の日常化そのもの。
役得が当たり前みたいに唐変木がのさばり
どれだけインチキでつぎはぎされようが
どこか生きるための切なさに裏打ちされて。
祝日や学校行事とも重ならならなかった
後期の授業カレンダーを経て履修学生の
名前と顔が一致しないのは何故だろう。
これまで名前を呼んで出欠をとってたのに
コンピュータ教室の学生端末ログインで
出席確認したりするようになったからか。
花の女子高生を脱皮したばかりの
年ごろへの距離の取り方が定まらない
わからなさが邪魔をするのだろうか。
週一回通ってくる30人足らずのスポ少
バドミントンの子どもらの名前と顔を
取り違えるなんてことはめったにない。
幼い子どもらでも身体の使い方の癖の
違いが発揮される体育館とは違って
成人前の学生とは教室で向き合うだけ。
漫画の図柄を読んで吹き出しを聞く
そんな関わりで授業ができないものか
なんて考えてるうちに後期授業は15回目に。
ぱっとしない空模様で立山山麓での初滑りを見送った
三連休明けの外を眺めたら絶好のスキー日和だったが
マイカー夫婦じゃないしもう電車には間に合わない。
コンディションの好いゲレンデだと寒くないのに
昨日のスポ少バドミントン練習は体育館が冷たくて
打てない子どもらが暖まるような練習をしないと。
素振りやフットワークはすぐ飽きて止めちゃうし
基礎打ちのラリーも出来ず続かず寒がるだけなのに
やる気があるのかないのか何が楽しくてやって来る?
ネットの白帯に使い物にならなくなったシャトルを
子どものフットワークのタイミングに合わせるよう
バック側フォア側と上向きに挟んで打たせたり。
上気した笑顔で上着を脱ぎだしたりした
子どもを練習ラリーに切り替え相手を続けても
動いて打って汗ばむにはまだまだ積み重ねが。
動いて打ち続けられるようインプットする基礎打ちが
練習で続かないとアウトプットされるのは手癖足癖ラリー
隣のコートでは月末の試合を控えて下級生相手に
上級生が寒々としたダブルス・ゲームを繰り返す。
静に部屋で寛いでいたりしている時など
ふと物音に気づいて老母の部屋を覗いたら
転んでいたなんてことがちょいちょいある。
足首を捻挫したり持病の膝痛が出てた
娘が階段で転んで滑り落ち尻打ち痛く
尾てい骨がひび割れたなんて電話も。
老化や心身の異常性を生きなきゃならない
日常生活を取り巻いてくる落ちこぼれ感を
どう開かれた生活実感へ橋渡せられようか。
それぞれの暮らしで培ってきた免疫力は
おのおのの身体内で働きつつあるだろうが
自然治癒力は心身と環境との形成作用から。
昨秋に時間講師継続打診がなかったりして
後期の司書課程授業を済ませたら解放されるか
見込みが外れたみたいで来年度も続けなきゃ。
志望しても就職が見込めない現状とはいえ
司書課程を選択していない学生も働きたくなる
図書館環境がキャンパス内に培われていないとね。
聴きたいもの読みたいものが見つからないか
年末年始も休まないオンラインショッピングで
いつの間にか初売りの雰囲気から遠のくばかり。
内蔵地上波チューナーが壊れてしまったビデオデッキに
デジタル対応チューナーをつないだオーディオシステムと
アナログモニターテレビでVHS再生録画が年末に不能に。
正月三が日の晴れ間の散歩がてら近所の家電量販店で
おふくろの部屋の暖房器具の買い替えついでに売り場に
残っていたビデオカセットレコーダーを買ってつないだ。
地デジ対応に煽られたみたいにビデオやオーディオ機器も
デジタル対応となると手持ちのVTやLPなどA/D変換
機器さえ揃えばデジタル化できようがとても踏み切れない。
あれこれやってて気が滞ったみたいに不調でも
ヨメやおふくろが側にいてくれたりするだけで気も
いつの間にか流れがよくなって持ち直せそうに。
人によっては二進も三進もゆかずどうにもこうにも
直面できない現実を回避するみたいに自らのいま・ここを
どう了解し関係づけるかに異常性が加担するような事態も?
どうやら縁談がまとまりそうな甥っ子や
雑煮が食べたいといってきた養生娘らも加わり
恒例の姉夫婦との新年顔合わせで飲んで食べて。
食べることが楽しみみたいなおふくろだが
時としてむちゃ食いをしたり片づけ食いに
なんだか無意識の満たされなさが見え隠れ。
歳とともに身体が欲しがらなくなるのか
食が細くなったらなったなりにいろんな
食べ方で老いる双六の賽の目が振られる。
年末年始のテレビ特番視聴の合間を縫って
読みながら聴いたのはルーツミュージック
聴くことは遠隔化する触覚の心地よさか。
おせちの中に入っていた鮭の粕漬けを
板昆布で巻いた鮨やヨメが作ってくれた
大根おろし入りのとろろが忘れられない。
かすかに土と太陽が匂う格安ワインや
チーズに誘われたりする食欲は心身の奥へ
内向する旅の道連れみたいに果てしない。
大晦日めがけたように降り積もった
雪明かりの夜回り当番を隣近所とこなし
桑田佳祐ライブ中継を見ながら新年に。
もう交通弱者みたいなおふくろに習い
初詣を見送り今年も届けられた賀状に
書きつけられた数少ない文面からは
少子高齢化社会の暮らし難さが滲む。
女っ気無しだった甥が昨年末に二人で
訪れたサプライズがあったが経済的に
自立したカップルならではの難しさも。
善いこと悪いこといつどこでどうなるか
とりあえず先人の暮らしから受け継いだ
やり方を頼りに異常性が加担した現実に
右往左往しながら何とか向き合えても
自らの無力にどうにもならず立ち往生。
ゆきあたりあばったり偶然と必然が
やりくりされるみたいな心身を座に
ほどけるような力が湧き上がらないか。