十字路で立ち話(あるいはワッツニュー)
最終更新日:2007/07/03加速する老化みたいにノートPCや
iPodのバッテリーの持ちが落ちてきた昨夕
帰った玄関で入院中の娘からとどいた生花の
シンプルでシャープなアレジメントに見とれた。
ぶっ叩くような雨足が遠ざかるごとに
網戸の外が明るくなったり暗くなったり
年金受給直前のおじさんたちの耳に響くは
「64歳になっても必要としてくれて、まだ飯も食わせてくれるか?」
40年ほど前に1ヶ月あまり毎日聴いたビートルズのLP
「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で
ポール・マッカートニーが尋ねていたようだったが。
梅雨の中休みみたいな午前のバス乗り継ぎで
待ち合わせにバス停近くの公園をぶらぶら歩けば
間を空けて散歩する老夫婦が近づいてきたり
携帯で話しつづける女や酔っぱらったホームレスが
ときたまファインダーに入り込んでくる静けさ。
ときおりまばらな笹舟観光客を乗せて上り下りする
船頭よりもっと低く飛ぶツバメの姿は一枚も写せず。
オンライン注文の24時間対応のよさに
慣れてしまったせいか毎日使う給湯器など
とりわけ週末故障時の業者の対応がはがゆい。
ここんとこネット注文の発送漏れも
重なったりしてるからいずこも同じか
払い込んだ年金の記録漏れじゃないが
わが人生最初の〈漏れ〉記憶は採用試験合格後に
なぜか採用予定者リストから落ちていたこと。
高卒初任給が他職種より高かっただけでなく
採用時に1年東京で学ばせてくれるのも魅力で
選んだ税務職の採用通知は待てど暮せど
引揚げ母子家庭の高卒予定者に届かなかった。
おふくろと連れ立って金沢の国税局で
もはや税務職新規採用はならぬと押し切られ
一般職にたらい回しされてからも音沙汰無し。
見かねた担任教師が斡旋してくれたのに
税理事務所の先輩の鞄持ち修業ができず
税理士への道も閉ざしたぷー太郎に採用案内が。
東海北陸の通勤不可能な財務局や税関など
見送ってばかりの勤務地に混じって地元の
国立大学の面接を受け働いた図書館も中退に。
梅雨入り前の夏日を洗い流すみたいに
降りしきる雨の中につち音が響き渡り
わが家の裏手でしっとり家が建ちはじめ。
くたびれてきた身体をほぐすように試み
続けてきた体操や呼吸法のおかげかどうか
治ったみたいな肩や腰の痛みも疼きだしそう。
空調の効いた教室だとなんともないのに
蒸し暑い図書館だと身体が落ち着かず
じっくり読んでもいられないなんてことも。
でも新着棚の握り損ねたおにぎりみたいな
新書判のWeb2.0本につき合ったりしたら
『思考のための道具 : 異端の天才たちはコンピュータに何を求めた』や
『新ネットワーク思考ー世界のしくみを読み解く』など
書架から取りだしてきて口直しできるのが図書館のいいところ。
学んだり教えたりは年金暮らしのようにいかず
手を上げたり寄ってきたり学生に質問されると
なんとも自分の喋りが届いてないのは毎度のこと。
いつの間にかたて混んだ家並の向こうに
北アルプスの稜線も隠れてしまい山並みの
どのあたりから日が出てくるか見えにくい。
日曜の朝早く近所の田植えをしていない
水田に飛来したサギを撮り逃がしついでに
写した日の出は毛勝三山のまだ北寄りから。
いつになく刈り込み過ぎたような庭にも
緑が茂ってこれまでの双眼鏡に持ち替え
小さな昆虫をデジカメのマクロレンズで。
小学生の頃の虫ピンで標本できなかったような
小さな蜘蛛の巣が朝露に輝いているファインダーの
ピント合わせがなんだかネット宇宙を覗くようだ。
幾つになっても田舎住まいのガキ時代から
ちっともかわり映えのしないようなことを
どこか隠し持ちつづけてきたみたいだが。
季節を巡って部屋に差しこむ陽射しが
伸び縮みするように見え隠れするから
定まらない影を追いつづけるしかない。
梅雨入り前の空模様に惑わされたように
手もとに読みさしが何冊もあるのに
つい図書館ではまった本を借りたり。
食卓を飾った山菜についで果物が
おいしくなってきたように季節を
喉ごしの風景みたいに味わったり。
家を出てアパート住まいもつかのまに
うつがひどくてわが家に戻って半年余り
病院へ居場所を移した娘のメールの後味。
家の外へ出歩けなくなったおふくろは
どう食い気を消化するか持て余しぎみ
どんな妄想も徘徊も人間だけがすること。
親や師が老への吸い込み口を開き
子や弟子が幼への吐き出し口へ導き
かろうじて当面の風通しが保てようか。
どんな端っこに見えようとも五臓六腑を
ひっくり返すみたいに入り口と出口を
見つけて保てないと真ん中が見えない。
昨夕は隣で郭公が鳴いているよとヨメに
呼びだされて飛び立つ姿を撮ったつもりの
画像には屋根のテレビのアンテナがくっきり。
泳ぐ魚や羽ばたく鳥の見事な動きが分かる
そんな一瞬を写すかわりみたいに庭を飛ぶ
小さな昆虫を写そうとして失敗してばかり。
飛んでる距離にピントを合わせておいて
捉えたつもりでもなかなかうまくいかず
飛び回る虫の後追いに呼吸も乱れそう。
ある距離だとヨメと掌や足裏の気が通じるみたいに
見かけた野鳥や昆虫の気を読むにはどうしたらいい
iPodなんかしていると邪魔になってきてしまう。
何らかの型にはまってしまうと身心ともども
そこで居着いてしまって動きも窮屈になるから
気が滞ったみたいに交感できなくなってしまうのか。
托卵から孵った郭公の雛が養い親の卵を
目も見えないのに巣の外へはじき出して
居座り続けるような気働きもあるというのに。
なんだか老いて死ぬ理想の形みたいに
10年あまり使い慣れたPCがポックリ
ウンともスンとも動かなくってしまった。
さて処分する前に内部データを消す
ソフト処理作業が出来そうにも無いから
解体してハード的に壊すしかないみたい。
手持ちPCすべてネットに繋いでどれでも
作業データを双方向同期保存できて便利だったが
個人がらみのデータなどPCに残すべきじゃない。
かって図書館に職を得て図書整理作業をやりはじめ
作った目録カードすべて担当係長の点検を受けたし
その目録ケースへの配列も他係員に組み込み点検された。
民間の金融機関などそこまでやるかみたいな
人名表記や読みそのほか取扱データの精査や
ペナルティまで作業に組み込まれているようだ。
社保庁の年金関連データ処理のシステム化で
どのようなチェック機能を組み込んできたか
カード目録からコンピュータ目録作業になった
書誌データ作成現場では入力と精査のワンマン化だ。
甥とか姪とかあるいは孫連れじゃなく
ヨメと二人で祭り見物なんて久しぶり
800余りも並んだ露店番も国際化していた。
神社の境内から路地へと埋め尽くすように
香具師が軒を列ねた雑踏を行き来したりすると
市内でも日本古来の独特な感触が甦るようだ。
郊外を散歩してて行き交う車に追い立てられ
あぜ道みたいなところへ入り込んだりするが
かって住みなれた田舎の手触りは見つけにくい。
遠くのものや近くの細かいものを眺めたり
いろんな道具が増えるのも楽しめていいけど
その時々の標準となるフツーを見失いがちに。
家庭を営み仕事に出かけたり時には病で
入院したりしながら食や性や物への欲望を育む
バランスが狂ったり無意識の座が歪むからか。
格安の交換レンズを手に入れたのはいいが
老眼で遠近両用メガネを使いはじめたみたい
デジイチの足元が危なっかしく妙な写り具合だ。
国内のどこかの公共図書館の資料購入費が
今年度から9割削減なんてニュースには
実質ゼロじゃないかと言うしかないけど
財政難で公共図書館すべて閉鎖なんて報道も。
図書館目的税なる増税を課すことによって
図書館再開館の是非を問うジャクソン郡の
住民投票では6割弱の反対で存続ならず。
米国オレゴン州ではジャクソン郡以外でも
ことごとく同様な否定があいついだようだが
インターネットそのほか図書館によらない
情報サービスで間に合うとする住民の判断か。
ネットワーク社会の図書館サービスだけじゃなく
日本の図書館の開館時間や人員の削減のその先も
アメリカの図書館がが実現してしまっているようだ。
教卓を挟み学生と向き合いながら図書館の
情報サービスの授業をしていたりすると彼らの
父兄がどう思っているかこっちが聞きたくなる。
かなり長かった会社勤めをおっぽり出し
専業主婦やパートを繰り返したヨメはだいぶ前に
社保事務所に出かけ年金記録の確認修正したという。
まさかそんなことが五千万件を超えていたなんて
この危なっかしさはそもそも国家の施しめいた
カネを頼りに食い繋ぐあてど無さに由来しないか。
定年退職者それぞれが長年培った様々な技能と
肩書きじゃなく退職金の一部を持ち寄った地域で
会社経営の分担に応じた見返りを手にする夢物語。
破綻しかけた制度や家族のしがらみに拠らず
生計が営めるような老い先の生活設計どころか
身体を壊してリタイアするしかなかったていたらく。
テレビのスタジオ・ライブで見かけた
P.サイモンは優れたメンバーと共に
いいパフォーマンスで老いを演じていた。
自らの曲作りがあっての歌作りにおいて
同世代のディランやヤングとも話したことも
なさそうな気構えがみなぎっていたようだ。
三日続きの夏日に海辺のサイクリングに
出渋ってて連日出現したらしい蜃気楼を
見逃し写し損なったのがちょっと残念。
ぶらぶらデジカメ片手に散歩してたりしてて
いま・ここ撮りたい呼吸が合わないというか
間合いをやり過ごし気付いたときはもう遅い。
田舎少年の頃の夏に家の床下に潜り込み
蜘蛛の巣の迷路をひんやり動き回ったり
自在な木造家屋の縁の下感覚を思いだした。
地面に流し込んだ型枠コンクリートに
木材をボルトで締めつけた土台に建てて
木造家屋に住んでるように思い込んだり。
日々を暮らす立ち居る舞いの座である
身体操作もそんな縛りに捕われていては
思い込みに居着いた分だけ自在な動きの妨げ。
身体のどこも滞らせたりしない動きで
腰や肩の痛みも消し去るような毎日なら
気働きの歪みや不愉快も洗い流されよう。
去年のように予約し忘れなんてこともなく
地区センターで定期検診を済ませたけど
元痔主としては造影剤の排泄が気がかり。
明治生まれ医者嫌い祖父は検診無し99歳で往生
ひと頃病院の薬袋と一体だった大正生まれのお袋は
ここ数年通院も止めたし検診にも関心がなさそう。
リタイア後の息継ぎがはっきりしないみたいな
過呼吸について聞けそうもない複数問診の場では
共同トイレ待ちみたいに流れない受診者の列がギクシャク。
圧倒的に女性が多かった昭和生まれ受診者だが
親の世代と子どもの世代の双方とのぶつかり合いで
修羅場のひとつもくぐり抜けて身につけた捌き方を。
ワンマンカーの許容定員内の乗車混雑ぶりだったら
後乗り前乗りかまわず前後のドアを開けたりできる
運転手と乗り合わせたら積み残されず遅れもあるまい。
それでも駄目なら紋切り型のマニュアル発言より
奥に詰めてみんなが乗り終えるまで発車できませんから
とかなんとかその場のみんなの気持ちも身体も動かさないと。
授業帰りのキャンパス・バス停も高校生や短大生で
混雑時のバス乗車マナーはほめられたものじゃないが
北のJRローカル駅で通勤通学時の乗客を積み残し
車内奥へ詰めようとしない高校生が全国ニュースに。
車両を増やせと言った高校教師には生徒の振る舞いが
これまで規律でがんじがらめにされてきたことへの
無言のパスワークになっているのが見えないのだろう。
教室内での飲食や携帯使用禁止もどこ吹く風
私語を絶やさず授業を聞いているのかいないのか
とにかく拒否姿勢維持が彼らのチームプレーなのだ。
会津若松で高校生が切断した母の頭部を携え
ネットカフェでマリリン・マンソンのDVDを観賞し
その後にタクシーを呼んで警察に自首だなんて。
「酒鬼薔薇聖斗」あるいは「少年A」によって
10年前に神戸の中学校校門前に置かれた生首が
コースを変え蹴り込まれたらギョッとするしかない。
中学生や高校生が家庭や学校からはみ出す
パスワークでつながれるボールが目指している
敵陣を守るキーパーの後ろにどんなゴールがあるのか。
大雪の時は雪捨て場だった背戸の空き地へ
日除け風除け樹木の枝が伸び放題になって
近所づきあいの甘えを刈り取らなくちゃ。
塀を跨ぐ下枝を何本か切り落としたが
高いところは不得手だし落葉樹と違い
丸坊主にでもしたら針葉樹は枯れそう。
軒先に持ち込まれた第二の自然みたい
屋内の猫や犬そのほかの生きものには
同居する家族関係が反映していやしないか。
まるで抜け毛のように落ち葉がつもり
ほどなく雑草のように獣臭も蔓延って
寡黙をしまい込むように染み入るのか。
自転車で家から走り出したりすれば
市内の更地に見合うように郊外では
屋敷森が切り倒され空き地に何が建つ。
人と人との一次体験が錯綜を重ねるほど
逃げ込むあたりで二次体験はどのように
動物や植物と向きあうようになるだろう。
ポリタンやタンク内の残り灯油をカラにする
肌寒い朝晩を飛び越したみたいに暑くなったり
ピッタリ使い尽くして次に備える暮らしの舵取り。
空き家だった隣家に住みはじめる若夫婦や
裏の空き地に新築の運びになった老夫婦の
挨拶が新緑の風とともにわが家の呼び鈴を押す。
生き抜く稼ぎを最優先して子どもに残さず
日常の立ち居振る舞いから生涯運動まで
身体的な遊休地を残さない柔らかな日々。
家族みんなで同じ食事を囲み続けてつきない
話題がデザートのように繰り返される毎日から
それぞれの持ち場へ出かけいつでも帰ってくる。
通える道場がなかったら独り稽古しないと
どのような気付きがあるやなしやわからず
ろくでもない人や組織に惑わされる暇は無い。
過ぎたことや先のことなど端っこばかりに
気を使いすぎ倒れないよう真ん中探しは
手近に与えられた場でやり尽くすことから。
雨をたっぷり受けた新緑が日盛りには
陽射しにしんなり垂れて風にそよいだり
デジカメでは撮れないような揺らぎが。
連休中にも2度ばかり手足が冷たく
首筋から肩にかけて強張り気力も抜け
呼吸が不安定になったりした時など
身体をゆるめ下腹からゆったり息をし
視界に庭木の緑があれば眼まで休まる。
中学生の頃だといかに剣道で強く
喧嘩でも負けないようにするには
なんてことを思っていたようだけど
今じゃ日常の立ち居振る舞いがどうよ
みたいなことが身体的な関心事になって。
練習に来てない子どもが出来ないからといって
参加した子どもの前で欠点としてあげつらうより
コーチならそんな子も上達できる道を示さないと。
投げたり打ったり飛んできただけじゃなく
止まっているものもすべて打ち返すのに左右の
股関節で構えとインパクトのタイミング合わせ
何とか出来たとしても子供らにどうやって見せるか。
連休だからといって取りたてて何をするでもなし
昨日は飛び入りのスポ少バドミントンの朝練へと
遅れないよう自転車を漕げばメッシュ帽が爽やか。
日本刀の刃をつぶした指揮刀を抜く動きを
久しぶりに試したあとラケットの振り抜きも
おかしくなったようで全身の使い方に問題が。
ようやく暑くも寒くもない日々にはコシアブラほか
ヨメがもらってくる山菜の天ぷらにワインなど
運動したあとには酢を活かした季節食が身体に和む。
18歳未満の子どもがいなくなってしまった“近未来”を
扱ったSF映画(DVD)の人工的な自然(不妊)による
外され方にどれだけ身心の起源に遡った対応ができるか。
なんだか改憲を前提にしたような憲法報道が目につき
赤ちゃんポストが設置される一方で点滴針を子どもに
刺したりする家族が逃げ回っているような胸くその悪さ。
国益が必ずしも国民の生活に役立つとは限らず
政治的判断だけが優先されたみたいな風潮に
さまざまな考えがどう突き詰められていくのか。
朝方の雨で洗われたように揺れる庭の緑が
富山サンダーバーズのチームカラーになって
雷鳥といえば白か茶色のイメージを覆したな。
連休初日のアルペンスタジアムで鈴木康友監督の
国歌独唱や中畑ゲストによる“幸せになろうよ”が
北信越BCリーグのホーム開幕戦を飾ろうとは!
残雪の北アルプスを背景にハナミズキが映え
野球小僧や小父さんに混じってペダルを漕ぎ
久しぶりにバックネット裏で飲むビールも格別。
ハラハラドキドキ信濃グランセローズと1点を争い
好プレーでなかなか得点させない相手チーム選手に
拍手と歓声が吹き抜けた内野スタンドに6500人も。
連休めがけ受け持ち科目の履修生に課題を出す
なんてしたことないがそれぞれがやりたいことを
やりつくすところから他人を思いやる行為が生まれる。
優れた思想には親兄弟や他者がどう織り込まれるか
高橋紀子氏の「兄隆明の思い出」の「兄妹の永訣の日」で
照らし出された情景から溢れる温もりと切なさは何処へ。
バス乗り継ぎ待ち合わせついでに散歩写真でもと
途中下車したのを待ってたみたいなにわか雨で
手持ち無沙汰なところを遅れてきたバスに拾われ。
ヨメがまだ見てない花盛りにさしかかった梨畑や
キャンパス内バス停の藤棚の眺めをパパッと写すみたいに
図書館にない雑誌記事なんかもネットで簡単に読める。
出勤簿に押印しレターボックスも覗く
講師控室はなんとなく落ち着かないから
授業待ち時間はほとんど図書館で過ごす。
新聞や雑誌を拾い読みするみたいに新旧いろいろ
参考図書のページをめくったり時にはコピーなど
館内であれこれ手足を動かす身体の動線が描く空間。
図書館の資料を仲立ちに図書館員と利用者が
どこかで交差する場が定かじゃなくなったのか
なんだか閉じられつつあるみたいに見えにくい。
“電子図書館”なんて質問者と回答者と情報源による
三角関係をどうやって解消するか見極めにくいようでも
男女が描き出す人間の三角関係の解決ほど難しくはない。
毎年提出がてんでんばらばらなのにはじめて
履修生がピッタリ全員揃って一度に演習課題を
提出してくれたりすると出来過ぎでつまんない。
足並みそろえて一糸乱れずなんて嘘臭いから
かろうじてどうにかこうにか収まりがついて
とりあえずよしとなってくれれば儲けもの。
たまたまTVのサミュエル・フラー特集で
「鬼軍曹ザック」と「赤い矢」を見比べたら
戦争ですぐ死ねる歩きと生き延びる走りの場面が。
図書館の新着棚にあったIT企業コンサルタントと
芥川賞作家との対談本の噛み合わせ加減に拍子抜け
ICT社会のドン・キホーテを演じるボケとツッコミは何処に。
月曜の昼前に帰った娘は勤め先の社長の
支店転勤命を通勤できないからと断ったら
首を切られてしまったなんていっていたが。
それぞれ病を抱えたり時代に足をすくわれても
力んで踏ん張りすぎ大怪我しないようほどほど
緩みすぎない中腰でしっかり呼吸できる歩きを。
100年前の蝋管録音の再生に成功した
芸者衆や大隈重信やナイチンゲールの
お喋りに共通するゆったりした響き。
まだ聞き取りにくいとか声が小さいなど
文句は言われてないけど自分はせっかちな
しゃべりをしてきたに違いない往復の繰り返し。
教室へ出かけるバスで葉桜から梨花に眺めが
様変わるように当日の授業テーマをあれこれ
転がすように図書館でブラウジングしていたら
教育基本法の改正と図書館サービスのかかわりを
うっかり見落としていたことに気付いて準備したり。
さわやかな日差し溢れる昼下がりの教室の
窓際から見下ろす学生らが教えてくれたのが
今年度から始まったとかいう在学生のイベント。
女子学生も加わったストリートバスケなど
なかなかの組織プレーを見せてくれたりして
思いがけないナイスショットをデジイチに。
アメリカのバージニア工科大学の一学生による
銃乱射の惨劇が示すのは独立戦争当時の植民地の
市民を守った銃が今じゃ彼らの組織を壊す武器に。
レコードなるものがこの世にあって
A面が終わったらB面を表にすることを
覚えたのは小学生になる前に母の実家で。
SP盤からはじまり10インチ盤から
12インチ盤となじんだLPからCDへ
変化した感触も薄らぐダウンロード聴き。
買った新譜をターンテーブルに載せ針を下ろす
喜びと不安が裏表に張り付いているかのように
ひっくり返しながら音楽を呼吸してきたのか。
人間にもいったいどんな面が隠されているか
家庭内暴力で発散していた祖父も最晩年には
好々爺の見本みたいな姿に立ち返って力つきた。
〈超人間〉(吉本隆明)として語られる一方で
〈新老人〉(日野原重明)なるグループ活動など
前期や後期もない高齢者の表現が目につくように。
毎日の立ち居振る舞いをハアハア持ちこたえ
年ごとに浅く短くなってきている母の息づかい
老いも生きやすい呼吸を保つ身体操法の体得は?
昨日の年度はじめの授業に出かけついでにCiNiiの
キャンパスネットワークによる継続利用手続きを忘れたが
Googleで調べてもNIIが囲い込んだ文献データが読めるようだ。
絵空事に見えた「インターネットは世界の図書館」を
本当らしくするかのように検索サイトとしては後出しの
Googleがやけにネット上の情報源の組織化に力を発揮。
情報源の組織化と運用について本家本元を自称した
図書館の肩身がかっての政治家と官僚の関係のように
狭く偏ったものに見えてきそうな教室の窓からの眺め。
数ヶ月ぶり学生や職員と交わす挨拶も春めいたが
今年もシラバスに連なる名前をネットで調べても
大学図書館業務の傍ら論文を書くなど二足の草鞋を
履けなかった者の業績など何一つ見つかりっこない。
そんな者に声がかかり続けるなんてことは
ひょっとして業界に人材が足りないのかもしれず
受けたからにはただ場数を踏むだけでは勤まらない。
シラバス提出はいい加減で授業評価アンケートは
しなくとも教壇への登場の仕方に連なる準備から
毎回の授業の終わり方を見抜いているのは学生だけ。
先週末の花便りに川べりの自転車散策も
デジカメを持ち歩くとスキーと同じように
なんとなくiPodがお留守になってしまう。
酒屋にヨメが立ち寄った合間に写した桜並木の根元に
ひとり蹲る子どもからちょっと離れて立話の大人たちと
積まれたビールケースの傍らのドラム缶にワインの空き瓶。
花見弁当を買ったデパ地下周辺の商店街も
人通りの切れ目を待って何枚か撮ってみたが
それでも誰かが写っていると悪いことをしたみたい。
お面を並べた露店を撮りたくなって香具師に
一言頼んで一緒に撮らせてもらおうにも昼寝中で
勝手に写してしまったけど横に立ってもらいたかった。
桜並木に立つオブジェの裏側に二人並んで腰掛け
飲み食いしていたら隣のベンチの二人連れご婦人に
写真を頼まれたり通りすがりのロシアの団体さんが
観光写真に撮りたがってあわてて画角の外へ逃げたり。
仕事や用事以外の電話になかなか馴染めなかったが
どうせ散るなら花は西行のように紅葉は良寛のように
見知らぬ人と挨拶を交わしながら撮りたくなった人の
自然体を被写体にするなんてことはとてもできそうもない。
もうめったに会うこともない孫っ子が
小学生それも全学年あわせても百人余りの
一人として昨日から通うようにになったはず。
親それぞれの思惑なんか見透かすように
家庭の事情そのほかすべて感じてしまって
いるってことをゆめゆめ忘れるなかれ。
たまたまテレビで観た小津安二郎の
映画のように腹の坐った呼吸を下地に。
よくぞ出会えたというような叔父さん
叔母さんにあやつられる脱線なんてのは
今どき薄らいできてるんじゃなかろうか。
そろそろ中年にさしかかった甥っ子から
地震見舞いがてらの便りとお菓子が届いて歳を
数えたらわが家は1972年に建てた家なので
震度7だったらひとたまりもない造りだろう。
なぜか今に起こるかもしれないと思っていた
事態がやってきたようで家族も家も無事だったのが
何が起こってもおかしくない時代を生きている証。
ものすごい雨風と雷が3月を締めくくり
目くらましのような黄砂で4月の幕開け
相変わらぬ季節の変わり目の体調不良みたい。
地震で揺れ動いた書棚から出っ張った本の間で見つかった
吉本講演DVDを「吉本隆明[Audio-visual Material]2次資料」に
追加記載したり今年度も受け持つことになった前期司書課程の
担当科目のWeb教材を見直したりしながら体調も持ち直し。
スキャンした図書をネットで検索して読めるように
講演なんかもアーカイブ化しておけばいつでも聴ける
そんなサイトを夢想しながら吉本講演を聴いたり新著の拾い読み。
瑞龍鉄眼『鉄眼禅師仮名法語』を読んだ吉本解説にいわく
《身体性からみた個々の人間は、その時期までの人類史を身心の活動性として内包している。
これを「小」人類史とすれば、いわゆる人類史(政治、社会、文明、文化の歴史等)は、
生物を含めた世界の各地域の人類の身心の活動性から見られた現在までに至る外在の「大」人類史として存在する。
この「大」「小」の人類史を媒介するものが遺伝子(種の要素)、地域言語、地域風俗習慣などの地域活動性だとおもう。
精神活動からみれば、個人幻想、対幻想、共同幻想類と、外在自然史との関係が人類の存在根拠であると思える。》
幼〜青〜壮〜老年期へと節目を踏みこたえ続ける
身体性を発揮する軸となる“読み・書き・算盤”の高度化に
対応できる能力の伸び代を保つにも健康で金が続かないと。
常葉菊川ー大垣日大・選抜高校野球決勝戦を見てたら
ピンチでもチャンスでも打って走って投げて守って
普段から練習してきた力を出し切った両チームに笑いが。
梅が散って鴬の初鳴きで目を覚ましたりする
朝がめぐってきたように能登半島地震被災から
数日にして朝市を再開した年配者の立ち姿は
お互い自立しながら助け合う地元復興の手始め。
阪神大震災直後に店舗を再開し生活物資を
安く売った中内ダイエーが忘れられないけど
まず地域に根ざした商いによる立ち直りだね。
衣食とりわけ住はその場しのぎになりがち
数年前の風速40メートルの台風で大屋根の
棟瓦が捲れ飛んだわが家もそろそろ築40年に。
増改築やあれこれ改修工事を重ねるより
娘を嫁に出してリタイアする前に思いきって
災害に強い平屋に建て替えるべきだったと
震度5弱で揺すぶられたように気づいても
資金繰りの手だてもない年金その日暮らし。
遠い昭和の高度成長期サラリーマンをすっぱ抜いて
「無責任男」を歌い切り「延命措置は要らない」と
端折って逝った芸能人の心意気で花見を飾りたい。
昨日みたいな余震が今日に続かなくて
とりあえずやれやれといったところだが
身体には一昨日の朝の「震度5弱」の余韻が。
例年にない暖冬で屋根雪などの積雪が無かったとはいえ
能登半島地震被災地は雪かき仕事に比べられない大変な事で
福井と新潟の間で起こりにくい言い習わしもひっくり返った。
朝飯をすませ建増し二十数年の納戸の2階の木造書斎で
内田樹著『下流指向』を手にテレビで高校野球を見ながら
ヨメからコーヒーカップを受けとって卓上の受け皿に載せ
口にする間もなくグラグラッときて下へ落ちそうに揺れた。
椅子から立って暖房を消し治まるのを待って震源地を聞き
まっさきに今じゃ能登半島の先端で暮らしている孫らの安否が
気になったがいつの間にやら娘が車を走らせていて電話してきた。
高齢だが元気そうな被災者の姿をテレビで見かけると
血縁や地縁を大切に暮らしを営まれる方々のようで何かと
知恵を働かせ助け合って切り抜けられる最後の世代みたい。
昭和40年代の半ば過ぎ新婚ホヤホヤの団地住まい
同居していた療養中の義父の食事は何とかするからと
隣のパン屋さん夫婦のお世話で新婚旅行に出かけられた。
立山山麓スキークーポンがお終いになる
春分の日の晴れ間に板や靴など陰干ししたり
デジカメに写したりして今シーズンの使い収め。
家事を手伝い小6からアルバイトで小遣いや
学費を稼いで小・中学校を通り抜け育英資金で
高校を出たりしたせいか夜学の授業料減免は
無視して自費で卒業した引揚げ母子家庭育ち。
スポーツなど奥手というより3〜40代になって
ようやく道具を得て見様見真似の手習いが面白かったが
今どきケータイもあたりまえな小学生の学びの場はどうか?
いっこうにバドミントン練習の準備をしない
子どもらに声をかけ待っていると若いコーチや
父母会の体育館の鍵当番がネットを張り暗幕を引く。
あらかじめ何でもかんでも用意されているみたいで
くじを引く前に当たり景品が分かってしまっている
としか見えないやり取りが家庭と学校を行ったり来たり。
情報検索演習の簡単な課題に何をどうしたらいいのか
ある事柄について調べるということそのものが分からないと
言てくれた選択履修学生にどんな言葉をかけてやれただろう。
雪囲いを仕掛けてどんな冬か過ごしてみないことには
どう役に立ったかなんて誰にも分からないからこそ
ほんとうに近づく学びはまずやり始め続けることから。
小雪降り積む塀の内と外に樹木が傘を開き
その下を番傘をさした着物姿の数人が歩く
そんなCDジャケット写真を見かけた記憶。
似たような写真家の視線をネットで見つけ出し
当たりをつけて買った写真集でめぐりあえたり
ふと目にした偶然がきっかけで本物に出会えた。
何かと過ぎしざわつきの残渣が泡立ったり
人それぞれ処世さまざま身を立ち行かせる
来し方行く末をあれこれ戸惑う3月もあと少し。
そんな時テレビの「コメディUK」が面白くて
「リトル・ブリテン」のほんとうは歩ける車椅子の
男の難癖にあたふたする男の姿がイギリス紳士か。
「ハイっ、こちらIT課」の落ちこぼれ男のオタク社員二人と
やる気まんまん女マネージャーがイギリスのIT社会を
いじくりまわすように笑いとばして見せてくれる。
不良少女や謎の青年に変な秘書や村唯一のゲイなど
キャラクターを研ぎ澄ましえげつないまでにイギリス生活を
ネタに仕立てた「ザ・スケッチショウ」の笑いも壺にきたな。
昨日の全日本モーグル選手権を見がてら
スキーに出かけた間に庭の雪吊り外しが
済んでいたのを今日の昼になって気づいた。
急なこぶ斜面を滑り降りたエネルギーを
エアーに仕上げ2回とも着地を決める選手の
スピードと高さはとてもテレビじゃ伝わらない。
おそらく全日本クラスの試合観戦だと
たいがい金を取られるのに世界レベルの
男女選手が出ているのにこれはタダなんて。
ギャラリーの数もたいしたことないし
急な斜面に立ったまま見上げる姿勢が
きつくならないよう公式練習や予選や決勝の
合間に滑って身体をほぐすように温めながら。
エルニーニョが撤退して雪不足は何処へやら
3月半ばにしては上々のゲレンデコンディションで
スキーの妙技を見たり滑ったり交互に愉しめた。
決勝の凄さを讃えたスキーパトロールの声にも
日頃の地道な作業の中でいろんなスキーヤーを
見続けてきた経験からこぼれる響きが見え隠れ。
日曜(3/11)あたりからめっきり寒くなって
スポ少バドミントンの子どもらがやった
お別れ会にも温もりが演出されたようだ。
旧知のお誘いに乗っけてもらって出かけた
昨日の立山山麓のゲレンデ整備は時間券千円引き
だけあって雪に埋まったり連れを掘り上げたり。
二人ともカービングスキーの体得がイマイチを
納得させられながらも降り積もる山雪にまみれ
思いがけなくこれぞ冬の姿みたいな滑りが愉しめた。
誰か身体を傾け犬を散歩させていた土手の桜並木に
雪が吹きつけていた行きがけの眺めにもすんなり
暖冬でしたで終わらなそうな3月半ばの雲行きだね。
モーグル全日本選手権の会場を兵庫から富山に
代替開催しなくともよかったお天道様の気紛れに
関係者は大変だろうが大会当日は晴れるといいのに。
お別れ会の余興で子どもら全員が“たらこダンス”を
若木の列のようにそろえた姿にはちょっとビックリ
バドミントンの準備や練習や掃除だってやればできる。
これぞ泡雪なのか淡雪なのか今朝から
屋根や庭が日向か日陰かで雪解け具合が
ここ数日来の寒暖入れ替わり図解のよう。
陽を照り返す雪斑や水浸しの庭が眩しく
見慣れた眺めなのについついデジカメを
持ち出したりして偶感雑写の繰り返しに。
机周りや書棚とおんなじように片づかない
撮り駄目がどんどん貯まって悪ガキの頃に
日光写真に振り回されたのと同じじゃないか。
写したすべての画像の細かな撮影条件を
表わす説明がメタデータとして読めるが
なにが良し悪しを左右したかがよくわからない。
映画でも見たルワンダで起こった民族を異にした
殺戮を危うく生き延びた女性が書いた『生かされて。』で
刑罰の鼎が善悪色を失ってしまう〈許し〉は何処から?
写してしまったものはもうどうにもならず
足したり引いたり取捨選択してアルバムは
もう撮り直せない日光写真と同じことに。
昨日は明け方から昼前にかけて突風が吹き荒れ
久しぶりに古びた家の揺れを愉しみながらも
吹けば飛びそうなやりくり家計の脆さがバタバタ。
住んでもいない家屋の大補修工事をやる人もいれば
あちこち老朽化に伴う木造家屋の部分補修の繰り返しで
リタイアする頃には新築の目処が立たないような人も。
今どき真面目に働いて結婚し子を授かり
共働きで土地を買ったり家庭を励みに勤め上げ
とりあえず年金生活に不時着できようか?
昨年あたりフリーターやニートの数が減ったようでも
「現状」からの出口をもう「戦争」に託すしかないとする
31歳のフリーターの月刊誌での物言いをめぐる話が。
日本国民の平均所得層から落ちこぼれざるを得なくて
頼れるものなど何一つ見つからなくても日銭でつなぎ
生き甲斐のなさに踏みとどまるしかない毎日だとしても
いつ何がやってくるかとにかく生き続けるしかなさそう。
“隣の貧乏雁(鴨)の味”を常食する既存秩序の逆転弾を
世代間のギャップに撃ち込み続け運良く経済的弱者から
抜け出し一丁上がった足踏みを繰り返さない方途は?
背戸の軒と庭木の間で夕陽を浴びて羽虫が群がり
時間が留まったように蠢く塊をデジカメで撮ろう
としたが手持ちレンズキットじゃどうにも寄れない。
リタイアしたりして常勤から非常勤に変わって
空いた時間のありったけを授業準備につぎこむ
先輩の話を聞いたりすると他人事じゃないね。
明治生まれの祖父は常夜灯を消してまわったが
大正生まれの母も似たようなことをやるようになったり
“働かざるもの食うべからず”がひっくり返される余裕のなさ。
道具の持ち腐れにも入れ込み過ぎた道楽にも
なってしまいがちな人それぞれの趣向のありようで
本人や取り巻き連中にとって毒になったり薬になったり。
何かと情報化が進んで世の中が便利になるにつれ
ひとやものごととの関わり方が崩されあいまいなだけに
どこまでが正常か異常かわからない境界領域であたふた。
梅林に小鳥を見かけて鴬といったりメジロといったり
眺める立ち位置がちょっとズレただけでもモノの見方が
しらけたり引きずられたり独りの時間が先細る夕暮れ。
日曜の晩は札幌からのジャンプ団体戦の中継録画で
梅が4本咲きそろった日本チームに鴬がやってきて
銅メダルをかけてもらったような季節感を味わえた。
卒業と入学をひかえた学科の懇談会に出て
めったに会うこともない常勤や非常勤の
諸先輩とのひと時から持ち帰らされたものは?
いっこうに図書館就職のめどが立たない
現実を知ってか知らずか司書課程の選択を
してくる学生の生真面目な若さもまぶしいが。
高学歴のステイタスはとっくに失われても
小・中・高とは違って先がない不安定さをバネに
社会現実を見通して卒業するには2年は短いか!
いつの時代も教育現場は良過ぎても悪過ぎても
自分自身や異性やそして他人との関わりをどう斬り結ぶか
もつれないよう保てればなんとかまともに抜けられよう。
どっちみち偏った一職業人としてやっていくしかないから
見渡せず何かが待ってたり起こったり当てにならないものばかり
もがいたりもぐったり自分の手足を頼りにやっていくしかない。
ゲレンデもすっかり雪溶けが見込まれ
快晴三日目の昨日は雪囲いをしていない
縁側からサイクリング車を2台運び出し
スキー板から二輪へと日和を漕ぎ分けた。
雪が積もらなくて庭のモグラが起きたみたい
例年になく水かさが増した川べりを走れば
水鳥の影も薄くデジカメが手持ち無沙汰に。
先週の日曜に久しぶりのバドミントン大会に
デジカメ持参で参加した山麓の体育館辺りも
雨上がりの雲が愚図つき雪景色ひとつ写せず。
試合の合間に定年退職が近づいた知り合いから
どうやって家庭を維持しているか問われても
この期に及んで“悠々自適”だけは縁がなさそう。
さて持ち合わせた金を係累に残すなどもってのほか
それとも営んできた家の履き心地をやり直したいのか
寡婦暮らしの高齢独居老人が家を建て直すなんて。
あり過ぎてもなさ過ぎても困る音沙汰みたい
どんな響きでなにが聞こえるか老いゆくアルバム。
昨日滑りに出かけた立山山麓から帰らないで
一泊して滑り続けたくなるような日和も下り坂に
ゲレンデ下部ではブッシュや石ころを噛みやすく
ゲレンデ上部はスキーヤーの技術を試すみたいに
圧雪バーンは午前がカチカチで午後はシャーベットに。
平野部に根雪がなく今年はさぞ田畑や庭に害虫が
なんて噂をしていたら例年より早い薬剤散布を業者が
済ませたようで庭木がなんだか親父の体臭みたいに匂う。
部屋から庭を眺めるぐらいで散歩もままならない
おふくろがスキーの昼飯代をくれたりしてびっくり
遊び回れるうちに愉しんでおけと言われてるようだ。
朝のひと滑りを愉しんだ親父スキーヤーが10時前に
缶ビール片手にひと休みしたりしていたけどマイカー族
じゃない僕ら夫婦だとスキー板や靴を片づけてから
白ワインを雪で冷やして帰りのガラ空き電車内で
飲もうにも二人ともコルク抜きを入れ忘れお預け‥‥
日々の贅沢忘れず時には苦笑いするようなひと時も。
なんだか雪吊りや雪囲いも取っ払いたくなる
ポカポカ陽気の翌日に春一番みたいな突風が襲い
その翌朝になったら吹雪くほど冷え込んできて
屋内に取り込んだ鉢植え植物の水やりも狂いそう。
馴染んだ冬籠もり季節感とのズレや食い違いを
際立たせるように出戻り娘を監禁したあげく
亡き者にしてしまった家族のニュース画面が。
家族や他者に何を求めるかモチーフはさまざま
としても嫁いでうつを病んだ娘の遺書を破り捨て
ほどなく子を連れ実家に舞い戻った息子の離婚を地縁に
ひた隠し嫁親が説明に来て謝れと電話で呼び出そうとし
身近にふってわいた孫の相手をもてあましたみたいに
仕事も辞め年金生活でどうせひまだろうからあんたが
とにかく養育をと迫られた茶の間を訪れたのは去年の冬。
そのようにしかならなかった事実をまず見つめ合い
どうなってるか当事者やとりまきが認め会わずして
どんな話の取っ掛かりにもならずもつれて疲れただけ。
うつによる自殺念慮から何度も実行を繰り返し
そのうちどんな手段でも選んでしまいそうなの、
言ってる方も聞いている方もまるで「死」を楯に
脅迫関係に陥っているようなものじゃないか。
老いて祖父が弱ってきた時もそうだったけど
朝起きてこないおふくろを「もしや」と感じて
覗いて見たりする日々が避けられない日常とは違う。
おそらく還暦を迎えるまでにほとんどの人は
自死の瀬戸際に引き寄せられたに違いあるまいが
踏み止まれたのは「死」が自分のものじゃなかったから。
どこか〈自然〉が加担しないことには家族や
見守る他者も受けとめられないくらい「死」は
誰のものでもないから〈自然死〉を目指すことに。
3連休は今シーズン夫婦ともども再開できた
スキーに出かけるよりこの一年いろいろあった
娘の誕生日を一緒に祝えたことが何より嬉しい。
まさかと思うような命にかかわる事態になっては
そこから抜け出そうと謝ったり感謝や信頼の言葉を
寄せてくれたのを良いことに胡座をかいてばかり。
身内に限らず他人事でも何かと頼られそうな
成り行きにかまけあれこれ物申すようなことを
恥ずかしげもなくぬけぬけいけしゃあしゃあと。
なんとか中学/高校をくぐり抜けるように
働きだしても続けていた「偶感雑記」ノートは
いつ何処でどのように途切れたのか切れ端も見失った。
撮り置くだけハードディスクの肥やしにもならないが
買って一ヶ月ちょっと毎日のようにデジイチ写真を玩ぶ
ひと時を繰り返すうち見直せばなんだか「偶視雑写」が。
まるで我が事のように大宰や漱石を読み耽ったりした
遠い思春期でもないけど吉本隆明の語りがいま・ここに
ピッタリした文体で編まれた『真贋』を読み迷えるか。
とにかく何処へ出かけるにしても足場が良い
今年の冬は尋常じゃないというかだらしなく
冬装束を着込んだ世相は何処へ行こうとしてるか?
冬場を写した習作にもならない駄作ばかりだが
デジイチ写真を見直すのにうってつけみたいな
Webアルバムサイトを利用した整理が面白い。
若者が学んだり働いたり積極的になれない
風潮にもかかわらず後期の出講を締めくくる
期末筆記や遅れた演習課題などの片づけに手応え。
マークシートの塗り潰しからデータ入力へ
成績提出が変わっても教育効果は相変わらず
安価で手軽な家庭内LANが使えるのはいいが
家族のコミュニケーションはどうなっているの。
人数だけは賑わっている週一スポ少バド活動も
子どもらの背後の家庭や学校の現状を反映してか
目立ってきたほころびをどう繕えばいいのやら。
期末データ提出を終えた散歩日和をヨメが察し
誘い出された先で一服して通年作業の打ち上げ。
ラグビーのトップリーグの決勝戦や日本選手権の
放映が何故無いなど不満を漏らしたりしながらも
昨日みたいに晴れたらスーパーボウル実況中継を
見逃してでも立山山麓での滑りは今しかできない。
かってスキー場が混みあっていたにもかかわらず
思いがけない知人と予期せぬ出会いがあったりして
今じゃ人影まばらな昨今のゲレンデの晴れた日に
出会えば立話したり一緒に滑ったりしていた
シーズン券スキーヤーを今年はまだ見かけていない。
時おり年配のカップル・スキーヤーを見かけ
なんだか自分らの鏡を見るような風景だが
滑りは人それぞれ男・女すべて違ってこそ。
一芸に秀でたからといって人品は如何なもの
何ごともその人間を保証しないのが世の習い
なのに同窓や肩書きそのほか伝を頼みのバカ話。
男の内実がわからなくなるような発言を
繰り返している厚労相の姿から最初に母と
長じて女とどのように出会ったすきま風が。
2月に入り明日からのインターハイ・スキー競技に
間に合わせたみたいに雪が積もったけど35年前の
高屋敷に引っ越した冬はほとんど降らなかった。
新居で生まれたばかりの娘を写すのに買った
フィルムカメラは何処かにしまい込んだまま
コンデジからデジイチへ乗り換えた見応えは?
手当たり次第にパソコンでモニターというか
お気に入りをサムネール付きWebページに
埋め込んでブラウザというよりFirefoxの
ズーム機能を使ってあれこれ見るのが面白くて。
勢い余ったみたいに「十字路の眺め」を3年半ぶり
更新しようとしたら画像ファイル転送がうまくいかず
なんとも中途半端なネット曝し具合がみっともない。
何をやっても付いてまわる気恥ずかしさだが
稼ぎ仕事からリタイアしたり年だけ食ったら
やがておさまるどころか授業に引きずり出され
学生の課題や筆記の期末作業で強まるばかり。
先だっても猫々堂「吉本隆明資料集」のWeb案内の
移転・開設を知ってご挨拶をいただいた猫々堂ご主人の
お便りを勘違いというか読み違えた反応をしてしまった。
昨日はひとシーズンに数えるくらいの山日和で
やりかけの期限付き仕事や家事の手を休めて
通勤・通学の人波に逆らうように立山山麓スキー場へ。
毛勝三山と大日岳の間からのぞく
旭岳や白馬岳のくっきりした姿に寛ぎ
富山平野を翔んで富山湾へ浮かぶ滑り心地。
通い慣れた志賀高原や二日滑った蔵王は遠い彼方へ
馴染んだiPodもコンデジやデジイチも下界に置き忘れ
もうワンシーズンの延べ滑降距離なんてどうでもいい。
これまで当たり前のことが覚束なくなり
出かけて滑りを愉しめる技を維持したり
使いこなすだけの気力や体力が心許ない。
馴染の女将さんの弁じゃシーズンには雪に
埋まった小屋の掘り起こしが大変な一方で
2月で小屋を閉めなきゃならないことも。
午後の陽射しの窓の外にはカンジキを履いた
山歩きで見事に雪焼けした年配の夫婦らが佇み
幾つになってもときめく姿がゲレンデに映える。
期末筆記を実施した後期最後の授業でも
あれこれ問いかける学生がいたりしたが
三期に渡った教室時間もこれでおしまい。
あとは採点票を教務に出すだけで二度と
顔を合わせることもないだけに将来ある
学生らの見納めっていう積み重ねは残る。
最近見た若い顔では卓球の全日本選手権の
決勝を戦っていた女子選手が対戦相手や
コーチに向けていた目の力が際立っていた。
やがて本人が顔に表われるにしてもその前に
持ち堪えるように親が秘めてきた宿命の毒が
子に受け継がれて花開こうとするみたいに
親との合わせ鏡を生きるようなことになりがち。
逃れようもなく死にたくなる凹みの裏側に
処世の手がかり足がかりを求める膨らみが
張り付いたメビウスの輪がもつれて解けない。
母なる川床が父なる水流で転がされた
石ころで刻まれた痕跡だけが残されている。
昨シーズンは通わなかった立山山麓の
雷鳥バレースキー場の経営破綻対応で
県営から市営へ存続された滑り心地は?
ニートみたいな暮らしぶりになってからは
平日の晴れた日を選ぶシーズンを過ごしてきて
久しぶりに晴れた土曜日に滑りに出かけたら
バスや電車の運行ダイヤを読み違えてばかり。
スキークーポン2枚お願いした窓口のお姉さんが
当日の営業を確かめただけでなくもし営業して
いないようでしたら払い戻しますだなんて。
県営だった頃は窓口でクーポンを売っておいて
着いてみたら強風でゴンドラ・リフトが動かず
滑られないから払い戻すなんて一度もなかったのに。
ゲレンデから見とれた暖冬の山並みは樹影が
織りなすグラデーションをどう写しとれるか
まだ使い慣れないデジイチの格好の風景だったが。
デジタル通信技術がどんどん拡がり高速化してきても
大会当日なのにジャンプ台が雪不足で滑ることも飛ぶことも
ままならなくなってきているような社会的現実への対応はまだまだ。
家を出てバスの乗り継ぎがうまくいくと
だいたいCD1枚分を愉しんだくらいで
キャンパス内に足を踏み入れることに。
5000曲を超えるiPodのシャッフルが
独身の頃に聴いたボブ・ディランで始まり
たまたま彼の最新作で終わったりすると
行きがけの通勤でもう一つ旅をしたみたい。
読み聴きそのほか年間ベストものから
すっかり遠ざかってしまったままだが
去年はデレク・トラックス・バンドの
I Wish I Knew How it Would Feel to be Freeに始まり
ディランのBeyond The Horizonで歌い終わったかな。
そんな1年の間にあんなことこんなこと
どうにもこうにもいろいろあったなかで
片づけものをしていたヨメが見つけた
亡き祖父さんの株券がどうやら売れそうに。
放ったらかしてきたままの山林がそのうち
何かの開発にひっかかるなんてことがありゃ
せんだろうが権利書はどこへいったのやら?
年暮れに雪がひと降りしそうになってきて
庭の散水蛇口に融雪ホースをつないだまんま
無用の長物になってしまいそうな暖冬だが。
相場値じゃ売れないもんだから小売店が
ダンピングしなきゃ灯油がさばけないなんて
ご用聞きがぼやきながら庭のタンクに給油。
今日もそうだけど昨日なんか冬を抜けたような
陽気を待ってたみたいにデジイチを携え散歩に出て
まだ滑りに行けてない立山山麓のゲレンデ風景や
近所の冬枯れ空き地などはじめて戸外で試し撮り。
室内撮影じゃあんまりわかんなかったけど
老眼はともかくブレない見た目以上の写りを
パソコンでモニターしていたら画像にゴミが。
テレビ画面ではまるでゴミ扱いの配偶者殺し
夫婦間のもつれ具合に絡んだ家計の負担から始まった
人間ドラマは処世の津々浦々で演じ捨てられていよう。
さてゴミ防止装置でも取れないようだがノイズも
見つけ方が違ったり視線が変わればどんな見え方に。
なんだか手持ちコンパクトデジカメで写した
画像が愉しめなくなってきた今日この頃だが
ほとんど毎日欠かさずといっていいくらい
ネットでいろんな作例を見ていたりしたら昨秋に
売り出されたデジイチの虜みたいな成り行きに。
実物触れてみたさに新年3度目の散歩で覗く
近所の家電量販店のカメラ売り場は相変わらず
入荷1ヶ月待ち表示なのによっぽど物欲しげだったのか
レンズキットでよかったら昨日入ったのがありますよ!
年末宝くじ外れで諦めていたのにヨメが助っ人で
あっという間にお年玉付き素人デジイチバカ親父誕生。
小学生の夏の来る日も来る日も網を張り上げる
蜘蛛の様子や折り取った庭木の小枝を紙と鉛筆で
写し取ったりしたぐらいで借り物カメラを手に
一人旅や山歩きを愉しんだのは十代の曲がり角。
手始めに手ブレ補正なしでヨメが作った料理と
それを食べるおふくろに続いて手ブレ補正設定をして
不調続きで入院待ち状態の娘を写させてもらったり。
待たされ届いたKeb' Mo'の新作をそんな日の夜に
二人で聴けばまるで湯加減ピッタリの温泉みたい
湯気の立つような1枚を撮り下ろせるのはいつのこと。
ここ数年来の年末年始の散歩で
目立ったのは普通の民家のベランダや
軒先のイルミネーションと路地伝いに
民家の3軒に一つもない正月の飾り物。
かろうじてメンツを保ってきたわが家の
年賀の集いからカルタ取りや福引きほか
その場の座興も消えて久しいのだが。
食も酒量も細くなってきた“松の内”を
あれこれお酒のフルコースで飾りながら
荒む一方の家族絡み事件報道テレビを横目に
“幻界ー現世”物語や“ゾンビ”映画の追っかけも。
高度化を追求する産業社会の目まぐるしさと
変わりようのない時空間に停滞する家族関係との
ズレの臨界点で家庭は崩壊を加速するしかないのか。
どっしり落ち着ける老後など約束されないし
つかの間の安堵に緩むというよりむしろ歪んだ
ひと時を計り続ける計測器を頼りに手探り足探り。
家族の数だけ太く短く細く長く願いはさまざまに
交差しながらそれぞれ“幸せ”仕込む暮らしの扉を
開け閉めする日々の狂気を繰り返し続けられるか。
おんなじ米なのに電気釜が違ったら味変わり
したりするのは何故なんだろうと思ったくらい
内釜を弾き比べた響き方がまるで違うのだ。
よく分かろうとしても分かりにくいようで
何となく男と女のかかわり具合はトレードオフ
っていうか情報検索の再現率と精度のせめぎ合い。
内釜を取り出して指の関節で“コン”と触れた
倍音の響きがいいのとそうじゃないのとでは
炊き上がり加減が似ててもご飯粒に違いが。
もともと男女は心身ともども関係が成り立ち
にくいというか不可能めいた悲劇性を背負った
男女の親和性という距離が極端になればなるほど
男から女がわからなくなり女から男がわからなくなる。
倍音をうまく鳴らそうとドラムスティックで
できるだけ軽く叩いても駄目だけど触れるように
そっと内釜を突いたりするとうまく響いてくれる。
男女のすべてのかかわりが成就する響きは
倍音を奏でるごとく隔たりを解消しつくし
包み包み込まれる親和性そのものが無くなるとき。
どことなく古さと手狭さが身丈にあっている
わが家の暮れの煤払いのやりがいもなかったのに
年が明けてみればどことなくスッキリした感じが。
年末のゲレンデをじゅうぶんにぎやかにした
雪も止んだ穏やかな大晦日の夜回りや元旦の
初詣の往復散歩が1年のおわりとはじまりに。
境内の長くも短くもない待ち行列に流されつつ
何でこんな寒い時期が1年の始まりになったか
そこにはおそらく何事かの時季としての謂れが。
帰り道で写した路地の向こうの山並みの雪渓の
新雪も時と所を変えれば砂漠の草の川に
見えたりする映像が撮れるデジカメがあれば。
時には授かった生命の軌道から外れたくなる
季節を過ごすような心体のかかわりが長引けば
楽しく過ごせるはずの年末年始に魔がさしたり。
生命物質の誕生を感じさせる海底火山の
噴火写真を図柄に年の初めのカレンダーを作り
飾ったリビングで味わったお節料理は撮り忘れた。