十字路で立ち話(あるいはワッツニュー)

最終更新日:2002/01/01

月から眺める十字路で(01.12.30)

師走といえばなんだか過ぎ来し方を振り返るようで
年末というと日頃の暮らし向きのつけを数えているみたい

朝の買い物の行き帰りに鍬崎山の稜線が雪煙をなびかせ
雪の山岳が赤く染まった東の空を登る月の夕暮れ
慌ただしかった一年がつかの間背伸びをし
ひと揺れしてうっすらと沈黙の影に沈み込めば
やがてあたりの家々の窓や玄関から灯りがこぼれ

仕事納めの午後に訪ねてくれた知人と話せば
久しく職域や地域にもガス抜きする場なんか跡形もなく
点いたり消えたりする街灯のような物言いと
様々なやりくりとなし崩しの事象だけが喧しく

階下で飛んだり跳ねたり一歳半過ぎの
あくなきいのちもざわめく暮らしの渚で
この一年の漂着物を洗い流すように
いくつも良い年のカレンダーを出力し
ご縁をいただいた方々にお届けしたい

今こそバランスが大事(01.12.27)

やりすごした物事のかたづけや
掃除に疲れた午後のひととき
テレビ放映のクリスマス映画の
指定席に座ったかのようで
「スモーク」(1985年、米)が無性に懐かしく
私的なある日の紫煙の別れが甦ったりする

仕事で訪れた7年前の12月
仙台のビル街から夜景を観ながら食後のバーボン
しめしあわせた二人が燻らす
スモークがとても邪魔になったよう
百円ライターも「マイルドセブン」も
静かなレストランのテーブルに置いたまま
二人ともなんとなく今日までタバコは吸わない暮らし

祖父さんがコウモリの絵柄のタバコを
吸わせてくれた十代もおわりの二つ目の職場の毎日
なぜか38歳まで働いて後は気ままな
その日暮らしを夢想してたようだが
やがて異動した新設医科大の図書館勤めで
キリキリ舞ううちに14年をやり過ごし
古巣の総合図書館に舞い戻って間もなく
タバコを止めたように2001年夏に仕事を辞めた

よせばいいのにどうでもいい無駄なことでも
のめり込んじゃう無償なひととき
さまざまに積み重ねこれ以上もうどうしようも
なかった場所から還ってこられなかったら
身近な事柄で手一杯でとても遠くまで
自在にあたまやからだが働かないだろうから
まずは暮らしの歳月の両面をどれだけ
ひとり自在に行き来できるかを楽しみにして

ひとまず人生設計や儲け話なんて糞食らえとは言わないが
きちんと働くことだけは貧乏人でもできるということ

極道をつらぬき99才で死ぬまで嗜んだ酒とタバコのように
晩年はいつも「南無阿弥陀仏」が口癖だった祖父さん
その遠ざかった暮らしぶりのAB両面が
馬に乗るようにバランスよく聞こえてくるようだ

こんな距離感もあっていい(01.12.23)

馴染みのスキー場オープン・フェスティバルに
出かける気にならないような窓の外をうかがいながら
朝のネット散歩でふらり知人のサイトに立ち寄ったら
新作のパステル画で見事に更新されたページに
またも見事な手さばきで退職後を飾る絵筆が息づき
飲み慣れた食後の温かいコーヒーも格別にうまい。

洟垂れ小僧がはじめて作った鉱石ラジオでキャッチした電波の世界みたいに
パソコン通信からWWWへの移りゆきはリタイア組にも
くたびれそうな茶飲み話や回顧談を忘れさせるくらい
未知の隔たりに潜む広がりに分け入る手触りが新しい。

パチンコ玉やゴルフボールでコントロールできる距離の長さで
面白さの優劣を説いた詩人は手元の端末から瞬時に地球大の
網の目を駆け抜けて有象無象にアクセスする距離感を何と言うだろう。
仕事頑張ってますや今月末で退職しますメールなどが行き交うのもいいけど
きままに調べ読み打ち買い聴くだけじゃなく
自分の言葉や表現を自前のサイトに載せてみたり
なんでもありのネットの触手にはまり込むひとときの浮遊はどうだ。

この秋に身近な医薬大まで出向き学生さんとの交流記も鮮やかだった
ほぼ日新聞画面の「癌爺」さんの連載「ガンジーさん。」が
その後の入院で途絶えて間もなく12月20日午後12時40分に永眠された
ネット上での一方的な出会いと別れに不思議な距離感の哀悼の意を
その詳細は知らない独特なご老人の葬儀の日に捧げたい。

年末に日を繋ぐ(01.12.21)

もう忘年会とは縁が切れたと思ってたのに
急きょご近所で鮨ネタと酒を用立て、
言い出しっぺのこぶつき娘夫婦が
握ったお鮨と白&赤ワインで年末の夕べが愉しい。

新しく見つけたばかりのスペイサイド産の封切りが
香しいスコッチを片手に「新・猿の惑星」のビデオ鑑賞、
あっというまに猿のように眠ってしまって2次会はお開き。

しこたま摂取したカロリー消費といわんばかりに
着古したダウンのパーカーで着膨れしてたら、
体育館通いで車のお世話になりっぱなしの奥様が笑って、
“とてもバドミントンに出かける恰好に見えないネ”。

隣家の屋根越しに覗く山並みも雪化粧で眩しい晴れ間、
雪囲いでサイクリング自転車も休眠に入ったもの静けさ。
20年前に読んだ大原富枝『アブラハムの幕舎』を手にしたくて、
ハードカバーを探せど見つからない離れの2階が日中の居場所。

どうしても見つからないものは見送ればいいけど、
「イエスの方舟」の千石剛賢の訃報が読み直しを勧めたのだろうか。
人知れず持ちこたえる家族の営みを鮮やかに浮かび上がらせるように
類のない“おっちゃん”の宗教性が暮らしの影を横切っていったのだ。

ものぐさにかまけて講談社文芸文庫版を買いに行ったりせず、
発売ほやほやの「グッド・ロッキン・トゥナイト〜サン・レコード・トリビュート」、
とんでもないCDをひたすら聴きまくったりしている年暮れのひととき。

今年のスポ少練習も終わって(01.12.17)

県内スキー場の一部のゲレンデも開放され
冬のスポーツへと気持ちが切り替わってきた12月半ば、

通学路の田んぼや畠が白くなった
土曜の午後の体育館にやってきて
コートの準備を済ませ並びはじめた
スポ少バドミントンの子どもたちが
あんまり寒そうだったんで、

左端から並ぶ低学年の前で教えたことのない
簡単なチャイニーズステップをやって見せたら
あっというまに右端の高学年にまで伝染した。

あまりの反応の良さに図にのって
膝つかみ手首交叉屈伸やらルンバの横反復リズムなど
イチ・ニー・サン・ハイ回って飛んで
子どもたちと暖まるまでステップしてたら
ふと壁際から見ているお母さん方に気づき
恥ずかしくなっていつものストレッチに切り替えてしまった。

今年は怪我でコーチの一時中断があったりしたけど
一緒にラケットを振ってきた純な子どもたちだと思いつきで遊べるのに
どうも大人の視線が入ると20年近くやっててもそうはいかない。

まるで塾みたいなジュニアクラブの子どもの技には及ばないけど
かすりもしなかったシャトルが打てるようになった瞬間は
赤ん坊が歩いたり泳いだり子どもが自転車に乗ったり
とにかく子どもがはじめて何かをやったりできたりした時みたいで
女の子が多いから遠慮してるが抱きしめてやりたいくらいだ。

土曜のコーチがオレ一人になってしまった頃から手伝いはじめた
オレのヨメともどもアマチュアの域にも届かないドシロートのコーチに
ダブルスゲームの練習試合を挑む幼いペアが名乗をあげてくれたりで
そのうちヘボコーチをどんどん追い抜いていってくれてこそ嬉しい
子どもたちのこれからの姿を見るのがなによりだねなどと
低学年相手のラリーでいささか疲れ気味のヨメと言葉を交わしたり
なんだか打ち上げをやりたいような暖かい気持ちで帰ってきた。

よれよれ電脳事情(01.12.14)

ときおり白いものも舞い狂う荒れ模様の窓の外を見やりながら、
まるで猫みたいに温々と蟄居を決め込みメーラーを立ち上げたら
今日も届いていた“ウィルス”メールはこれで何通目になるだろう?!
なんと12月に入って日に何件もゴミ箱に棄てたこともあった。
「高屋敷の十字路」を通りすがりの方々のマシンは大丈夫だろうか?

とにかくメールをはじめインターネットがらみはMacOSマシンでやってるから、
実害はないとはいえ不意にかかってくる利殖勧誘電話みたいに迷惑きわまりない。
たぶん毎日読んでるML登録のWindows使いか誰かの汚染が原因だろうけど、
これこそネットワークにつながったセキュリティ無自覚者の“迷惑ばらまき行為”見本だネ。
まぁ嫌ならこんなML抜けるしかないけど欲しい情報が読めなくなるのが困るんだな。

“ウィルス”被害を防ぐには当たる確率の高い製品を使わないのが一番だろうけど、
使い勝手がよくMac版が無いシェアウエアはWindowsOSマシンで動かし、
そこで得たデータを家庭内LANを使ってMacOSマシンで受けて処理したりするしかない。
もちろんその逆のケースのほかLinuxにまで手を出したりしてるけど、
これ1台あればすべてOKになる魔法の杖みたいなマシン&ネットワーク道具が夢だ。

嫁に出た後インターネットをしたくなった娘がきっかけで父はホームページを開設したり、
互いの近況を伝える手紙や電話にとってかわった電子メールも今じゃ、
娘が書き続けている日録風まがいのホームページをブックマークしておき、
ときおり母親が近況確認メール代わりに開いたりしている今日この頃。
暮らしの便利屋さんの通販より手軽なオンラインショッピングにも染まってみたり、
いうことなしの在宅暮らしで何かと足場の悪い冬場の楽しみにも事欠かない。

大学の図書館が学内LANからインターネット利用へと転換しつつあった1994年、
医薬大から富大の学情係へと首をつないだ頃にまさにネットワークパソコンにはまった。
そのころから歯が弱くなったヨメはきっと老眼の進んだ亭主も小金も
よせばいいのに面白くもないパソコン&通信に寝取られ気分だったに違いない。

それが今朝なんかインターネット配信ゲームを楽しんでから仕事に出かけたヨメの
パソコン画面を借りた在宅亭主は富山空港からB777-200の離陸に励んだりしている。
黄色いウレタン仕様のラジコンを走らせて見せたらマー君がヒコーキヒコーキなどと言うし、
アウトドアがダメな冬場はフライトシミュレーターで孫と遊ぶ魂胆なのだ。

気分はカウチおやじ(01.12.10)

なぜか「五番街のマリーへ」(歌手:ペドロ・カプリシャス 作詞者:阿久悠)の名残みたいに
BSハイビジョンスペシャルで高橋真梨子の30周年ライブ番組(12/5)を観てたら、
なんとその英語バージョンが新鮮に響きすっかり得をした気分になってしまった。
綾戸智絵や小林克也の英語による歌やトークもそうだけど、
わざとらしさや臭みのない響きが“若さ”から意味を抜くように
芯を細くして中年を迎えた歌唱の一つとしてこころに残った。

昨夏のNHKホールのライブ(DVD)でアンコールに“真っ赤に燃〜えた〜”と
はじめて日本語で歌った「智絵おばはん」がテレビ東京の“誰ピカ”(12/7)で
ビートたけしとご一緒したようだけどKNBでのローカル放映が待たれる。
またニューヨークのボトムラインでの渡辺香津美のライブを紹介した番組(12/7)
「魂に聴け」(BS−i)みたいなグループとゲストの演奏を国内でも聴けたらいいのに。

サッカーJリーグのチャンピオンシップシリーズ(12/2&12/8)で
ジュビロ磐田と鹿島アントラーズのイレブンがテレビ中継画面を通して熱く、
わくわくさせてくれた国内サッカー界とっておきの感動に糟糠の嫁は洗濯も忘れ、
FIS・W杯スキー「男子回転」第1、2戦(BSジャパン12/8&12/9放映)で
皆川賢太郎の健闘ぶりに加えてスキー板の短小化と滑走技術の変(進?)化には
各国選手の滑りを追いかけながらため息が出るくらい呆気にとられてしまった。
夫婦ともども斜面のポールをかき分け100/1秒を競うスケートを楽しんだ気分。

なんだかテレビ番組の週間モニター話みたいになっちゃったけど、
NHKハイビジョン(12/9)のドキュメンタリー放映なんか見ながら録画してしまった。
番組名“イチローとICHIRO「2001大リーグ挑戦全記録」インタビュー”にそそられ、
誰もが予想し得なかったイチローの軌跡とその舞台を盛り上げた観客によるアメリカ野球の楽しさ、
30チーム130年の米・大リーグの底の深さと広がりに支えられた
今シーズンのイチローの活躍と彼を取り巻くアメリカ野球人の言動に感銘するとともに、
あらためて一ヶ月ちょっと前にこころ躍らせた2001ワールドシリーズの展開の背景まで偲ばれてしまった。

たまたま今朝6時に起きて見たハイビジョントーク(BS朝日)で知ったんだけど、
マイナーからメジャーを含むアメリカ野球6,000人の月給(換算額)が10万〜2億円だなんて、
べらぼうというか日本じゃ真似のできない貧富の差の構造を象徴しているね。
日本の国立大の図書館司書の数とたいして違わないだろうけど月給にそんな差は考えられないよ。
まァ単純に比較できるような事柄じゃないんだけどチョット混ぜっ返してみたくなった。

ホントに酒がうまいとき(01.12.07)

出勤前のかみさんに念を押された11月もおしつまった金曜の夕方、
高屋敷に移り住んだ時から暮らしのメニューに書き込まれてきた
ご近所の鮨盤で待ち合わせていたらいつもさわやかな女将さんが
これから“忘年会”が入ってて賑やかになるかも、と二階を指さした。

たぶんこのお店で家族みんなが馳走になったなが〜い積み重ねがなかったら
ぼくにとっての酒と肴のほんとうの味を知らない暮らしだったかもしれない。
だけどお酒がほんとうにうまい“時”を知ったのはここ数年来のことだ。
車窓を洗う五月の緑と日本海の青さが映える連休に能登半島の最北端へ走り、
前夜の酒宴も醒めやらぬ娘婿の実家でいただいた朝酒には夫婦して仰天した。
“禁断の酒の味”を知ってから休日ともなると朝のターンテーブルに
レコードが載せられるようにもっとも酒のうまい“時”がめぐることがある。

漁師の食卓にお刺身と酒が並ぶのは朝飯前のことだったんだけど、
何回か娘婿のおやじさんと酒席を重ねるうちにご本人の口から
“朝飲む酒が一番うまくてこたえられない”を耳にした時なんか、
この歳になってようやくわかりましたと相槌を打つたりするようになるまで、
冷や酒が口に生臭かった小学3年坊主からよちよち歩きだしたぼくの酒道は、
あってもなくてもいいような失敗談がいっぱい転がってたりする。

最近では12月はじめの日曜の朝のことだけど、
ローカルなバドミントン大会への校下チームの員数揃えの要員参加が
前日になってパートナーの事情で出なくてもよい運びになり、
これは好都合とばかりに“朝酒”くらって映画なんぞ観はじめたとたん、
電話一本で道具一式かつぎ会場へ駆けつける羽目になってしまった。

バドミントンだとゲームは主審の“ラブ・オール・プレイ”という
判ったようで判らない一言で始まるけど酒をめぐってのぼくの人生の些事は
ふとしたきっかけからとんでもない広がりや味わいをもたらしてくれたりする。

あんな道こんな道どんな道(01.12.03)

映画『ハリーポッター』の初日に行きそこなってしまった
12月1日の曇りがちで暖かな土曜の午後3時過ぎ、
スポ少バドミントンの子どもたちに遅れないよう自転車で、
高屋敷界隈の押しボタン信号の三叉路を渡りきったところで、
どこかから“Yさ〜ん”と女の人の声が弾けたような気がした。

なんと信号待ちの運転席の窓から手を振っている元気なお顔はTさん、
ちょうど3ヶ月前に僕が辞めた図書館の閲覧業務を引き継がれたお方。
すばやく信号が変わる前に手を小さく振って応えただけだったが、
思いがけない高屋敷の三叉路での自動車と自転車との奇遇で、
なんか現役の“素直で元気に明るい”仕事のモットーを交わせた気分。

はずかしながら“高屋敷の十字路”なるサイトを始めてからは、
未知の方からメールで“素直で元気に明るい”気分を分けてもらったり、
数百万円はたいてリスニングルームに入れたオーディオ装置で聴いていた
1980年代中頃に買ったLP『峠のわが家』(矢野顕子)にはびっくりというか、
15年後に数万円でつなげた「加藤晴之さんの紙筒スピーカー」を待って、
はじめてそのレコードに込められた彼女の歌声とバックバンドの凄腕たちの
100パーセントがわが部屋に届いて響きわたった些細な道筋なんてのもいい気分。
加えて師走のトップを飾ったMさまのお子さま誕生ニュースは遠いけどほど良い道筋に。

なんだか深く沈んだ無意識の層から生まれ出た赤ん坊の一つの道筋は、
やがてさまざまな岐路をまたぎいろんな道筋を辿ってどこかに渡る。
それぞれ学校と職場へ向かう娘と一緒だった明るい朝の日差しの道すがら、
思いつく限りの「道」を二人で数え尽くしたあげくに一致したのは、
いろいろ時を過ごしわが家へ帰り着く道筋こそが一番ということだった。

やがて嫁いだ娘は子育てに励み父は父で余暇にはまりこんだり、
モバイル片手にいろんな地図サイトを検索利用しながらの旅筋や、
紀行的な要素のある読み物などもインターネットで地誌を調べながらの読み筋で、
なんだかよくわからない筋道を解きほぐしたりもつれたりするのも道草の楽しさ。

コンパクトな「加藤晴之さんの紙筒スピーカー」みたいに飾らず主張せず、
与えられた内容をすべて解き放ってはその存在すら感じさせない響きに、
消え去ることによって伝わる復路の道筋が見えたような気がした。
とにかく幸せで健康な挨拶が交わせるっていうことはとってもいいことだ。

本を読む浮遊感がたまらない(01.11.30)

もう11月もおわりで「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」の更新作業、
吉本氏の新刊『読書の方法:なにを、どう読むか』(光文社)の
書誌データを打ち込んだりしていて仕事で膨大な量の本に触った割には
自分の貧しく乏しい本との出会いを思い起こしたりしてしまった。

図書館勤めを辞めてしまったとたんに図書館は
まったく利用しなくなり出版情況や業界動向もどこ吹く風。
むかし足繁く通った古本屋詣ではとっくに途絶え、
古書展もずいぶん前に歩いた京都の寺の境内が最後となっている。

ちょうど1年前の千葉大図書館訪問の帰り、
池袋のリブロ店の書棚を見て回ってその品揃えの凋落ぶりと
手にとって読ませる魅力が消えていた棚揃えに愕然としたことがある。
近くに寄ったら必ず足を運ぶのは京都の寺町二条にある
地べたのS書房だけというのもちょっとさみしい。

安くて便利で料理人の人格を感じさせない外食産業みたいに、
棚揃えに本の目利きを感じさせず平積み台にも読ませる
工夫が乏しい書店のコンビニ化だけが目立ってしょうがない。

出版不況だとはいえ新書の新刊ラッシュが続く昨今、
たぶん一日に150〜200冊に及ぶ新刊の配本の流れから
売りたい本を確かな腕で掴みだしてどのように棚に並べるか、
限られた店内スペースをやりくりしながらどの本を返品にまわすか、
それはそれできつい毎日の作業が書店員についてまわることだろう。

忙しく図書館資料の処理に手一杯でそれを利用する人にまで
手が届くようなサービスの姿勢を示せない図書館員がいるように、
モノとしての本を動かすのに追われ読ませたい人の手にとらせ
買わせてしまう書店サービスができない店員もいるにちがいない。

“病気”だけを診て“患者”を診(られ)ないヤブ現象ばかりじゃない。
現物に触れないオンラインショップだがbk1のサイトで
A氏がやっているバーチャル書架の品揃えの切り口が面白い。
ところでラジオの「話題のアンテナ日本全国8時です」で聞いた話、
町田駅4分の高原書店の在庫はとんでもない量を誇っていて、
その支店が新宿大久保南店として100万冊もの古本を商い、
また池袋(東口)のジュンク堂では150万冊の新刊本を取り揃え、
そこのタカハシクミコ店長ほどの本の目利きはチョット見あたらない、
というのが図書館を利用しない読書家で詩人の荒川洋治氏の言葉だったか。

そういえば図書館の読書は為にする読書の範疇をたいして超えられず、
何の役にも立たない純粋無垢の無償の行為としての読書の端緒は
どこか人生の違うところにひっそり転がっているかもしれない。

ほくほくと日を歩みたい(01.11.27)

過ぎたばかりのあったか連休が懐かしいくらい寒くなって、
雲間から覗く立山連峰の麓近くまで白くなってきている。

ベビーシッターと2001バドミントン日本リーグ高岡大会と
町内のバドミントン大会の審判と買い物や映画につき合ったりで、
三連休もアッという間に通り抜けたらもう冬気分に近づいている。
庭木の雪吊りも済んであとは裏の雪囲いを晴れ間にやるだけだ。

ここんとこ週に3回ぐらい運動を連続しても左膝や右腕に支障が出ず、
1月に予定している志賀のスキーツアーも楽しめそう。
歳を重ねるほどに気力や心持ちが体調に左右される度合いがきつくなるようだ。
濃いめの料理やきつい酒やアクの強い人間関係を避け気味になったり、
変わることを恐れて新しいことに手が出せなくなったりしてきたら、
あとは老化のなんだ坂こんな坂をぼやきながら一気に転がり落ちるだけだろう。

お袋の老化と一緒に暮らす時間がたっぷりになっていとしいというか、
あらためて<老い>にその人が経てきた生活習慣のツケのすべてが
突きつけてくる避けられない何かから目を逸らすわけにはいくまい。
花より団子といった処世だけじゃ受けきれない関わりもあるし、
どんなに金を積んだって渡りきれない橋というものもこの世にはある。

リストラが打ち進むオトコ社会の老化現象が際だってきた年末にむけ、
戦後50年を過ぎてからの日本の現状を「第二の敗戦」と捉える情況にあって、
日本の社会を支えてきた中年の価値体系もすっかりぐらついてきている。
NTTの11万人リストラ計画を呑んだ労組のパートタイマー化で
なしくずしの年功序列&終身雇用システムの終焉に判が押されてしまった。

さて孤立し無力にさらされた中年は手ぶらでどこへ歩み去ればよいのか?

ほんの小走り(01.11.22)

濡れ落ち葉なんてどこ吹く風というふうな小春日和の晴天続きで、
今週は昼飯の友の「笑っていいとも」の番組終了がお出かけの合図。
昨日は東に今日は西に自転車を転がしては愉しい午後のひとときから
その日の風向きや眺め具合で北回りや南回りで帰ってくる。

ひとしきり働いた医薬大や富大の図書館が遠くに見えたりしても
あっけないくらい何もなく走り抜けるだけなのにローカルニュースで
建物が映ったりすると内部の汚れ具合なんかが気になったりする。
夜間の学校解放で使わせてもらっている小学校の体育館なども
なんでまああんなに埃とゴミだらけなんだろう。
バドミントンコートを使う前と終わってから二度もモップがけ、
それでも滑りやすく無理せずゲームを楽しむように気遣ったりで、
掃除がゆきとどいて床のクッションもいい県総合体育館と大違い。
建物のなかで働いている人たちや出入りの業者そして利用者の違いが
ますます普通じゃない様子を醸し出しているのか、
なんだか汚さ醜さへの外しっぷりが目立つ今日この頃。

揺れる街路樹の紅葉や薬師岳から毛勝山へと転がる真珠の輝きにつられ、
いつもの見慣れた風景を際だたせて回転する銀輪から疲れもぬける。
四面不景気みたいにくすぶり続ける世相のオアシスみたいにやってきた、
今週の目玉は何と言ってもア・リーグMVPに輝いた“イチロー”、
どことなく“ブラピー”の風貌に似てきて“ピカチュー”している。
こんな“おめでとう”の気持ちになれるなんて久しぶりでいいね。

さて明日からの三連休にどんなうまい物にありつけるだろうか。

“かみ”のみぞ知る音(01.11.19)

この11月の運はどうなってるんだろう。
ご招待案内があって応募した「ほぼ日ブックス」創刊記念イベント
紀伊國屋ホール(新宿駅東口)で11月3日(土)に行われた
『言葉はだれのものか』と題した豪華なトークショーにハズれ、
11月10日(土)2000年体育館でのスポーツ少年団のバドミントン
新人戦で我が校下の子どもたちは2回戦で全滅するし、
今朝(11/19a.m.2:24〜3:19)方のしし座流星群 にもふられ、
年末にむけ宝くじを買う気力も失せた。

もう星に願いをなんて歳じゃなしせめていい音楽を!
この夏にふられて以来待ち続けた「加藤晴之さんの紙筒スピーカー」が
やっと11月の第3木曜解禁のボージョレ・ヌーヴォーと味わいを競うようにやってきた。
隠居中の自作管球アンプを引きずり出して埃を払い暖気運転も済ませ、
買ったばかりのヴォーカルCDの響きに浸ること数十分。

“かみ”のお告げならぬ妙なハム音と変な匂いに目を開けたら
なんとなんと管球アンプの出力管が赤熱しているではないか。
あわててコンセントを引き抜いたがアンプカバーで餅も焼けそう。
あぁ〜スピーカーコイルを飛ばしちゃったかもしれない!?

ジョーシンのピットワンに走って一番高いスピーカーコードを買い求め
使用中の石のパワーアンプのB端子に「紙筒スピーカー」を繋ぎ直せば、
やおら出てきた音にあれあれくたびれたリスニングルームの空気も入れ替わった。
見たところ住宅用の配水管ぐらいの太さの紙筒に大人の拳大の
スピーカーユニットをはめ込んだだけの「「加藤晴之さん」あんたは凄い、
凄すぎる!(試聴せずに買ったのも初めてだが)

中学生のころ一枚の硬い硬い板に錐で両手をマメだらけにして穴を開け
はめ込んだ六半スピーカーから聞こえてきた音に震えた「少年の日」が聞こえ、
お世話になった職場のつき合いやカミさんとのつき合いよりもなが〜い
つれづれのコンサートや聴きあさったLPにCDの感触を吹き抜け、
いま・ここで自分の音楽に遭遇し浮遊する臨場感に包まれている
僕の姿をデジカメで撮ったらたぶん数ミリ飛翔していたことだろう。

暮らしの耳にとどき続け貯まってしまった僕の数千の音楽コレクションは
古びたリスニングルームに紙でできたま新しい音楽メッセンジャーを得て
着慣れた装いで呼吸する衣服や肌を新たにやさしくつき抜け、
どこまでも柔らかく内臓にゆったりとこの1枚この1曲が響き渡る季節を彩る。

たまたまその文体から聴き取らせる寺島靖国なる御仁の好みの
ジャズサウンドとはたぶん対極にある響きにちがいなかろうが、
それぞれが聴きたかったにちがいないまたとない出会いが
“かみ”の導きですんなりと約束されてしまうなんて。
とっくに聴き飽きたはずのアナログレコードを回してみてことのほかびっくり、
われら夫婦なんかじゃとても真似ができない相性の良さにたまげることしきり。

「レコードマーケット」のジャズが縁で仲良くなったご主人にゃ悪かったが
葬式でジャズを響かせ先に逝っちゃったあんたに売り払わなくてよかったよ。
中古ジャズアルバム商品の仕入れに困った故の誘いにウンと頷いたら、
またとない“かみ”の響きの御利益を聞き逃すところだった。
あんたのゾウさんのようなからだに「紙筒スピーカー」のジャズがもし届けられたら
まるでダンボのようにしし座流星群のなかを飛び回っているのではないだろうか。

味覚の秋をくぐって(01.11.15)

11月の第2月曜は県総合体育館の大アリーナでの
スポーツに興じるご婦人方の賑わいに圧倒され、
昼をご一緒した焼き肉屋の中ジョッキが
なんと一杯88円にはいささか驚いた。
価格破壊の焼き肉も美味さ倍増といったところだった。
若くて元気な奥さん連中はお店選びも巧い!

ビールでほろ酔いの午後は今が旬の綾戸智絵の新譜(ビッグバンドライブ!)と
新刊ムック(文藝別冊「綾戸智絵:ジャズを越境するエンターテイナー」)で
ひとり盛り上がっているところへ娘から電話。

あ〜、こんなことならお昼は控えめにしておくんだった。
はるばる珠洲から車でお出ましのご両親が海の幸畠の幸に銘酒まで。
漁師の三男の娘婿がさばいたお造りが大きな寿司桶に見事に盛られ、
これ以上はないわが家一番の大鍋で茹でたてのズワイガニの湯気が匂う。
解禁直後に海が荒れ続けたとかで蛸島漁港へ水揚げされた
今年の初物は姿もよく熱々の味が格別だ。

ほどよく冷えた吟醸酒が後口をスッキリ引き締め箸の進むこと!
「松の司」陶酔手づくりラベルはいつ拝んでもはうまい!
実は数日前も久しぶりに連休を取れた娘婿が腕を振るってくれ、
冬場のネタが揃った鮨を肴に「松の司」をメインの酒にしたばかりだったのだ。

漁船を休ませる冬場は関西で酒造りに精を出すおやじさんによれば
一俵三万円の兵庫産の山田錦を磨いて米粒が三割五分くらいに磨きあげ、
上等の酵母を用い酸がつきすぎないよう低温でアルコール度16パーセントに
醗酵させるのが至難の技のようでそんなに量は仕込めないみたい。
なるほど近所の「やまや」にも出回らず高くてうまいわけだ。

わが家に訪れた味覚の秋は旬の食材に恵まれたとびきりの美味さだが、
取り置いた蟹ゆで汁や活魚のザンやアラで食のセカンドステージも味わえる。
とりあえずワインに合う料理やホットポットがいいだろう。
テレビの料理番組だけじゃなく巷を眺めても料理の下手な女性には
妙な色気があって可笑しいというのも僕が感じる“食の七不思議”のひとつ。
うまいものを作ってお酒とともに愉しむひとときというのはほんと人を選び、選ばれる。

田舎の煮物や卵料理に和え物の良さを覚えさせてくれた母方のおばあちゃん、
ゲテ物から慶弔時の御膳料理までいろいろ食べる楽しみを示した父方のじいさん、
いろんな食に出会うたび二人への想いが郷愁のようにやってくる。
そしてまた岡本かの子の短編『鮨』とともにマラソンランナー円谷幸吉の「遺書」も
生きることの深みを探り当てた舌触りのように甦ってきたりする。

「はだかの肌をするする撫でられるようなころ合いの酸味」を引き立てた
赤ワインで遠路の客人との名残を惜しみ、話が及んだ
この秋のボージョレ・ヌーヴォーもそろそろ届きそうな
11月中旬に獅子座流星群が近づく秋の夜を待ちうけながら。

暮れなずむ揺らぎのなかへ(01.11.12)

お天気まわりもなんだか不揃いで薄ら寒く、
ジントニックにかわってスコッチウィスキーが
恰好のひと時をもたらす冬への入り口。

まるで霧に閉ざされたように
出生地の大陸の半島での3年は何にも覚えちゃいない。
引き揚げ育った富山の西のはずれから富山市内へ、
それにしても戦後日本の25年は凄い。
田中角栄の日本列島改造論で土地ブームに、
僕のような出来損ないにも土地を買わせ家まで、
1972年の秋には高屋敷にわが家を建てつつあった頃だった。

札幌オリンピックでは日の丸飛行隊のメダル独占が光り、
グアム島のジャングルから“恥ずかしながら”と帰った
横井庄一元軍曹の姿勢がまぶしく、
浅間山荘に籠城した連合赤軍と包囲した警官隊との
こぜりあいを終日中継するテレビ画面の袋小路。
仕事場でガス自殺した川端康成の途絶。

イスラエルのテルアビブ空港では日本人ゲリラが
自動小銃を乱射し26人を殺害し、
連続ドラマの木枯し紋次郎は“あっしにはかかわりのねえことで”
と呟きながらバッタバッタと斬り殺し、
トイレットペーパー騒動に巻き込まれ、
暮らしの冷や汗を拭き取っていた生活水準。
売り上げで三越を抜き小売業のトップだったダイエーも
今じゃマイカルに続く落ち目の三度笠じゃないか。
1ドル=360円の円を1ドル100円前後まで、
強い通貨に変えてしまった日本経済の力も底をついてしまい、

かろうじて「ローン」も「蓄え」もない
棲み馴染んだ我が家のどこを見回しても、
「家計の安泰とそれに連なる事柄」
に左右された安普請が惜しまれる。

とにかくすべて“かみさん”任せの「その月」暮らしで、
とっくに家の補修費用が建築時の総費用を超えた
屋根の葺き替えに続く外壁の張り直しついでに、
この正月に壊れたBSアンテナの取り替えに合わせ
デジタル放送受信チューナーを衝動買いしたんだが、
BSジャパンの「Jプラス1」の「20世紀の暮らしを変えた商品」
(日系リサーチ調べ)で放映されたランキング商品が、
自分の予想と余り違って無かったというかそれぞれ
我が家の生活史にしっかり食い込むモノばかり。

5位 コンピュータ
たぶん1988年頃、中学3年だった娘にせがまれ、
“かみさん”がポンと出してくれた軍資金で一式揃えて以来、
取っ替え引っ替え我が家に電子の灯が途絶えたことはない。

4位 テレビ
田舎住まいの超貧乏だったから我が家のテレビ購入は村で最後だったが、
街に移り住んだ今じゃ4台あって、衛星・デジタル放送も受信可能と相成った。
もちろんビデオも、レーザーディスクもDVDもすべてワイド画面で
観ることができるようになっている。

3位 電子ネット
とにかくネットワークにつながっていないコンピュータは一人前じゃない、
ということでパソコン通信に取って代わったインターネット
常時接続が我が家での触手の一つとなっている。

2位 携帯電話
電話嫌いで持つことはないと思ってたが、どっこいモバイルにはまって
PHSを使い初めて以来、手放せなくなってしまった。

1位 コンビニエンスストア
バブル全盛期からいろんな郊外店がご近所に出揃ったのに、
コンビニだけが散歩コースになくて何となく肩身の狭い思いをしていたが、
数年前に近くに出店したときは嬉しかったね。
一昔前の万屋が現在に甦ってこうなりました、
という佇まいに出入りできるのがいいのだ。

ちなみに8位は車(我が家に車は無く、
もっぱらバスとタクシーが頼りなんだが、
自転車とスキーの年間走行距離は半端じゃない)で、
9位がクレジットカード(自分は滅多に使わないが、
夫婦で何枚か持っている)だった。

生きていくうえでは、どれもこれも、
あってもなくてもどうでもいいモノばっかり。
だけどどれもこれも身近にないとなんかつまんないというか、
寂しいというか、とにかく自分の時間が保てないような気がするのだ。
とくに自分のようなひきこもり型人間にとってはみんな必需品に近い。

地域の住民も人さまざまのように、暮らし向きもさまざまだが、
生活必需品以外の消費に暮らしの主体がシフトしてしまっていることで、
いろんなモノを扱うお店が多彩にご近所の近景に溶け込んできている。

四季折々の高屋敷の風情を屏風のように映しだす北アルプスの
山々の姿を変わらぬ遠景としながら、
現場の見えない「戦争」のニュースも流れる今日この頃。
築30年の我が家も、我が身のほどにくたびれてきたとはいえ、
リハウスなんか、何するものぞ。
わずかな係累も家屋もあてになんかしていない。宅地も老後の
生活資金の一部として使い尽くして二人一緒に死ねたら本望かな。

寒さに向かう折から悪い風邪などひかぬようどうぞご自愛を!

“まだ”と“もう”のあいだ(01.11.6)

寒気が日本海を抜ける11月特有の雨模様に
高屋敷界隈の深まる秋の景色も夜空もだいなしだ。
ようやく身体の不調から抜けだせたとはいえ、
近くの小学校の体育館に出かけるのがなんとも億劫。

三十代からの腰痛と痔疾のリハビリにシャトルを追いかけ、
この年までラケットを振って子どもたちと遊んだり、
四十代からはスキーで滑り続けられるなんて、
大陸の半島生まれの虚弱児のなれの果てにしては
いささか上出来かもしれない。

かって田舎暮らしの洟垂れ小僧の眼には
家督を守る四十〜五十代の“おやじ”ぶりが焼き付いた。
当時の村人たちの年齢をとっくに並び超えたはずなのに
幾つになっても彼らの存在感にはかないっこないというか、
あの明治・大正生まれの“おやじ”が身につけた“成熟”には無縁だ。
もちろん彼らがあの歳でスポーツに興じる姿なんか
とうてい想像できないということを差し引いての感じ方。

たとえば読んできた世界に目を転じてみれば、
北村透谷や石川啄木の夭逝には驚くべき「早熟」が裏打ちされ、
どうしようもない家庭の事情に生まれ落ちた漱石の
死ぬ51歳までに書き残した広さと深さに唖然とする。

父性どころか親父の背そのものに縁がなかった僕は
どんな“おやじ”を生きつつあるか?
いま・ここで働き終えそして暮らす居心地は
つかの間の“まだ”と“もう”に差しかかった年齢の所為か?
生まれ、婚姻し、子をもうけそして老いてくたばり、
というまっとうな生き方から外れたりはぐれたり逸れたりで、
とにかく身丈にあった振幅を繰り返すだけだろう。

大学の図書館勤めでいっぱい元気をもらった学生たちの
「若さ」が「性」の力によるものだったように、
バドミントンに興じてスポーツ少年団を通過していく
子どもたちが分けてくれる生粋さは「性」を知らないが故に、
だとしたら中〜老年を生きるリタイア組にはいったいなにが?

そのままわからないことはわからないままに、
秋のトンボのように飛んで急がず失速せず、
今は窓も暗い雨雲の向こうに隠れて
猫又・釜谷・毛勝山と北に延びている
なだらかな秋の“成熟”を遠く遠く思い描けるだろうか。

“ツキ”の変わり目で(01.11.02)

もう11月なのにまだ野球が楽しめるなんて、
N.Y.ヤンキースとD.バックスのBS中継に合わせて寝起きしてる今日この頃(嘘)。

早起きしてキーボードを叩く手を止めたら、
立山連峰72峰の北の端っこがちょいちょいちょいと3つばかり、
連なって見える2階の眺めから窓の外へと誘い出されてしまった10月末日。

やさしく抱いて放さない日差しを滑るアキアカネに導かれ、
麓の紅葉から仰げば稜線の頂で冠雪が輝きそして宙へと舞い上がる
デジカメじゃ撮りきれなかった今生の秋のグラデーション。

11月初日に持ち越した『隆明網(リュウメイ・ウェブ)』の更新をなんとか済ませ、
お茶もそこそこBS野球観戦に滑り込めばまるで本なんか読んじゃいられない展開。

初球の一振りでツキを変えたマルチネスの九回裏二死一塁からの同点2ランホームラン、
3−3で迎えた延長十回裏二死に粘って9球目をサヨナラホームランしたジータが、
米大リーグ2001ワールドシリーズのミスター11月と呼ばれるまでに盛り上がった
劇的な第4戦はシリーズの行方をどこへどう導くか?

10月に撮り貯めたデジカメ画像を選びだすパソコン日録から、
ただ1枚だけ加工しプリントしたわが家の11月のカレンダーの余白へ
いったい誰が何を書き込んでいてくれるだろう。

寿司の日の夕食後ふとBS放送を覗けば、
「BBC地球伝説」の“アフルエンザ”っていったい何のこと?

米シリコンバレーが排出した多数の億万長者の多くが
大金を手にして仕事を辞めたとたん
子育てを持て余し異性とのつき合いも巧くできず
寛ぎもままならないくらい想い悩むほど
「生きがい」を「喪失」した映像が流れ・・・

まさか新種の流行風邪なんかじゃなかった!
涙なしには“パン”が喉を通らなかった事のない人のことなんか信じない
ちょっとした馴染みのお店に恵まれるにも長い長い時があった
それぞれが暮らしの“穴場”に逃れたり逸れたり
こだわる何事かに憑きそして捨てられ
また戻って来られなければ日付も変わらず
いつまでたっても何処へも着きようがない

24時間後に始まったシリーズ第5戦も2−0と追いつめられた九回裏二死2塁から、
N.Y.ヤンキースのこんどはブローシャスが同点2ランホームラン。
ワールドシリーズも10から11へと月をまたいだ連夜のミラクル野球で延長戦へともつれ込み、
きっと雨上がりで遠くの眺めも良い午後の散歩もしばしお預け。

「木の葉の子守歌」が聞こえる(01.10.30)

曇りがちで風も強い秋の日曜に、
明るく広い市の総合体育館でほぼ1年ぶりの
バドミントン大会で時を過ごした。

メンバーが若返りつつある参加チームのなかには
数ヶ月前まで職場が一緒だった懐かしい顔も見え、
挨拶を交わしたり思いがけぬ旧交も暖まって、
とにかく終わった後の脱力感がなんとも気持ちよく、
疲れなんかかなり遅れてやってくる年頃なのだ。

運河を遡る足取りに背を押すビル風まかせ、
辿り着いた娘夫婦が住むマンションのドアを開けたら
留守番兼子守婆さんの元から一歳半が駈けてくる。
“マゴのつかいやあらへんで”とは言わないが、
なんだかんだの声を発し歓待のご様子。

たぶんマー君が生まれる前のこと、
珠洲のお祖父さんに秋祭に呼ばれたときかな、
荒れた海に漁船を出して用意された鯛をご馳走になったり、
3歳ぐらいの従兄弟と戯れたことまで思いだした。

娘の時もそうだったけど3歳ぐらいまでの子どもには、
こんなに見せてどうすんのといいたくなるくらい。
どれもこれも初めてだわ!の連発をかませられ、
どんなにぶっつけられても持て余すことのない、
二人にしか見えない大入り袋は日に日に増える。

今日も人々の到着と出立を仕切る富山駅を見下ろせば
7階あたりの窓の外まで枯れ葉が舞っている夕暮れ、
シャワーを浴びようと脱いだスポーツソックスに
あいていた穴から小鳥が飛び立っていった。

「ほぼ日」的ご挨拶!(01.10.25)

知ってた?「ほぼ日刊イトイ新聞」が日速的なこと。
たぶん1998年の6月頃から無料なのに飽きず、
モモクリ三年も付かず離れずアクセスしてるよ。

私的なタダほどつまんないとは無縁で、
ひたすら「インターネット的」だから
日に一度はあやかりたい「ほぼ日」画面。

聴けるわきゃないコトバがミュージックしてる、
ほんと目で聴いているデジタル系生ものってわかるかな。
たとえば村上春樹の作品を読むってことが、
とどのつまり彼の文体を聴くことになってしまうように。

楽屋裏まで見せてるようでホントは見えないところで、
ミーティングなどと称した凄い音合わせや、
スタッフそれぞれの独習なども隠されているから、
ありがちな不快な濁りや得体の知れない意味ありげから
どこまでも徹底して逃げ通せている乗組員の力量。

編集長の隠し味が通奏低音みたいに響き
いろいろ聴き終えた後も心地よいから、
やがては愉快な無駄に支えられた広がりと深さに、
日に一回は近づいては遠ざかったりしている
「ほぼ日」的リズムに呼応するぼくらのいのちがある。

今日も共鳴しているさまざまな書き手や対談者との
文体の協奏曲や合奏が響くま新しい広場に、
出かけしっかり聴き入るぼくのこころとからだ。

ときにはパソコンを離れて街に出たりしても
「ほぼ日」はリンク・フラット・シェアのトリニティで
きみらやぼくらが出会う広場を演出し続けているから
昼夜かまわず“「ほぼ日」気分”を遠投してみる
気軽な“「ほぼ日」グッズ”なんてのも繁殖する日常から
ほぼ現在進行形的魅力が羽ばたくネットまで
まるで偶然なのにそれでいて事件のように賄っている
「ほぼ日」暮らしでほぼ元気さ

原っぱあるいは広場のひととき(01.10.22)

好きなサイクリングコースの一つは常願寺川に沿って
山に向かうなら左岸、海に出るなら右岸
ちっちゃな子が本装備でミニバイクを操るエンジン音
不登校の生徒や、本番中のカップルがいたり
ラジコンに興じるおとうさんたちの滑走路まで
ペダルを漕げばいろんな人影も風景に溶けて流れる

秋の日曜ともなるとバーベキューで賑わう河川敷公園
校下のバドミントン少年団恒例の行事に自転車で辿り着けば
あれあれ今年はなんだか配役が違うじゃないか
初対面のお父さん方はひたすらせっせと焼き続け
ときには練習や試合につきあうお母さん方は
テーブルを囲みひたすら食べて飲んでお喋り
ああこれがパパとママ、若い夫婦のやり方なんだ

発泡酒と鶏から牛まで肉と野菜のフルコースはいかが
紙コップに“吉田パパ”と書いて渡してくれる配慮
朝練を済ませてきた子どもたちよ勝手に遊べ
焼きそばがメインのこの日を準備したママは憩い
日頃の帳尻あわせで疲れたパパは芝生で酔いをさます

陽が傾く前に散会したらおいしい魚を求め
ほどよい秋の夕暮れの酒に会いに行こう

道路や街並みはしっかりしているようなのに
なんだか顔なしが衰えさせているような富山市の顔つき
活気が乏しくなった街路を自転車で逆走するように
通勤の行き帰りに通り抜けた1970年代の高岡古城公園を抜け
1950年代の埴生で最初に自転車に跨った砂利道に疲れ
原っぱに倒れ込んだ記憶の広場まで

なんとなくテネシーワルツを口ずさんで迷わず帰ってきた
今日も僕がデジカメで切り取ってきた明るい風景の路地裏から
出かける原っぱや広場があったらいったい誰に会えるだろう

方言みたいなモノローグ(01.10.20)

今日から巨人抜きの2001日本シリーズ、
ヤクルトスワローズ対近鉄バファローズの戦いは
はたしてテレビで全試合を中継するのだろうか。

昭和30年代の半ばに立教大学の野球部員だった
長嶋茂雄選手が呉西のとある高校にやってきた。
そこの生徒だった僕は彼が何と言ったかは聴けなかったが、

彼が打った球が外野グランドに隣接した校舎をとびこえ、
全校生徒の神話になってからというもの、
巨人ファンならずともちょっと気になっていた。

現役選手を引退するとき、「私は今日、引退しますが、
わが巨人軍は、永久に不滅です」と言い放った。
そこでまた僕は長嶋茂雄選手の言動が気になった。

それから27年過ぎた2001年秋に長嶋茂雄監督は、
かってのような引退の挨拶を超えるメッセージもなく、
原監督への引き継ぎの言葉だけを残し、

さらりと巨人軍の監督を辞めた後に、
どんな不滅のなかへ、あるいは外へ?
外国語を方言のようにあやつって活躍する若い選手たち、

今年もアメリカ野球界では野茂が三振をとり続けたし、
イチローは昨日も見事なヒットを打っていた。
そしてマラソンランナーが残したことばのヒット、

「金メダルや世界最高記録がうれしいのではありません。
今回、自分が立てた目標を達成できたことがうれしいのです」
さわやかに言ってのけた高橋尚子の笑顔が新しかった。

このまえBSハイビジョンスペシャルで観たプールの
水を使ったO(オー)の舞台に出会って飛び込んでいった
シンクロメダリスト奥野史子の競うから見せるへの変身。

この夏に図書館を現役引退できた僕はおいしい生活!
秋の午後の日差しに誘われるまま自転車を転がし、
常願寺川を馳せ下って海を眺めてはひきかえしている。

秋の夕陽が木洩れる各室露天風呂の宿!(01.10.17)

高速を走って1時間ちょっとでその温泉宿に着いて、
傾いた日差しと庭木の影を横長の窓で切り取る土間のロビーにハッとし、
座ってジュースをいただいたり宿帳に書き込むうちに4階に通された。

ドアを開けた向こうに全面ガラス張りの敷居で明るく隔てた
木造の露天風呂のお湯が庭木の梢や空に届きそうに溢れ、
土間がすっきりとベッドのある寝室と座敷を左右に解放していた。

てきぱき行き届いたスタッフの説明のとおり考えぬかれた、
テレビや冷蔵庫や水屋のありかにウオーキングクローゼット。
わざとらしさも押しつけがましさもない空間のもてなしが、

とくに風呂あがりに足触りが心地よい竹敷きの部屋まで続いていて、
連れの1歳半のマー君なんか寝転がって頬ずりしたりしているご機嫌さ。
下に降りてみたら1階には広いライブラリやギャラリーまであったり、

こんな温泉旅館の斬新さはどこから来たの?

やわらかいスポット照明のテーブルに部屋食の料理が届きはじめ、
工夫の品々やお酒を運ぶスタッフに語ってもらった当温泉旅館の由来。
貧乏な家なのになぜか温泉だけは小学校にあがるまえから縁があった僕は、

大衆旅館の三代目とその湯屋に縁もゆかりもなかった女将さんが
とにかく持ちこたえ見事に造り変えてきた姿に触れたような湯加減で、
なんだかまるで北陸の秋の一隅で温泉物語の客人のような座り心地。

まあまあの値段で買えた20時間がまるで別世界のよう、
なまくらもんの僕を風呂に足を半分つっこんだように甘やかしてくれ、
居ながらにしていいお湯を愉しめる温泉こそお湯好きの快楽の極みかもしれない。

最初の記憶(01.10.12)

今朝は5時過ぎに目が覚めてBS中継で米大リーグのプレーオフ地区シリーズ、
ア・リーグのマリナーズ×インディアンンス第2戦を観ることができた。
昨日観たヤンキース×アスレチックス第1戦もそうだったけど、

あきれるくらい球場を埋め尽くした老若男女がベースボールを楽しんでいる。
今年のレギュラーシリーズを勝ち抜くだけの個性を持ったチームの強者が
力量を尽くしてぶつかり合う短期決戦だけにとても面白い。

なんだか居心地のよくない職場のように世の中がささくれ立ち、
疲れ気味な時こそ身近で楽しめること、打ち込める小さな事柄が救いだ。
アメリカの大衆は生活のオン・オフ、切り替えが巧いのだろうか。

それにしてもイヤなことを想い出させる場面は繰り返される。
まるで十年前の湾岸戦争時のように、今週から始まったアフガン空爆の映像が
引揚者の僕がすっかり忘れていた最初の記憶をあざやかに呼び覚ます。

田舎屋の頭上をゴウゴウと爆音が飛び去っていく東の方角に、
三歳の夏の夜の縁側から爪先立って見つめていた赤い赤い輝き。
あれが米軍による富山大空襲だったなんて知る由もなかった。

行く先が気になるくらい頭の上をブンブン飛び交っていた朝鮮戦争時の
星のマークの軍用機の影も遠のき、旅客機の乗客にもなったりする今になって
飛行場に隣接した体育館でママさんバドミントンに混じったりしていると

なんだか離着陸する国内便の機体や轟音が妙に生々しく、
にぎやかに昼を一緒に愉しむファミレスの窓からも、
見知らぬ乗客を乗せて遠ざかる見慣れたはずの機体が
かすかに異物のような痕跡を残していく。

誰かの肩を持つこともなく姿の見えない敵を判断する季節。
昼からの雨も上がりそうだし自転車散策で眠気を覚まし、
手頃なワインでも仕入れて傾ける秋の夜をゆっくり愉しめばいい。

なんかもう冬の感じ(01.10.08)

しっかり好天に恵まれたこの3連休だけどなんか気分はもう冬だね。
スポーツ少年団の子どもたち相手にバドミントンをしたり、
文化祭のシンクロナイズドスイミングで弾ける男子高の

水泳部員のひと夏を描いた「ウォーターボーイズ」を観たり、
チューンナップしてもらったスキーの仕上がり具合に満足したりで、
もう自転車はかたづけていちはやくゲレンデを滑りてえってとこかな。

あ〜っ、それにしても男のシンクロ、よくぞ見せてくれましたね!
観終わって外に出たら何かやってみたい気にさせてくれる映画でしたよ。
現実の文化祭以上に楽しいノリで文化祭している矢口史靖監督/脚本作品で、
「台風クラブ」や「 バタアシ金魚」に続いて久しぶりに青春映画を楽しめた。

で、連休三日目にしてアフガニスタンをめぐって緊急ニュースが流れている。

無関係のままに米中枢同時テロ事件に巻き込まれ、
犠牲となった日本人をはじめ多国籍の無辜の人たちへの
謝罪や賠償といった基本的な事柄を曖昧にしたまま、

今度は米英がアフガニスタンに対して軍事攻撃を始めた。
これがブッシュ米大統領のいう「新しい戦争」だとしたら
ほんとうに「報復」という目線だけで事を終わらせることができるのか。

逸らさず、固まらず(01.10.05)

昨夕(10/4)ふと家で、うまい白でスッキリしたいな〜、などと言ったりしたら、
近所でトリフをあしらった魚介料理ととっておきの白ワインに出合えて、
フィニッシュを愉しむあまり、メインの“握り”をいただかずおいとました。

中古車が混みあう雨上がりのファミレス駐車場を抜けたら、
ふわふわした夜風のようにお袋への寿司折を運ぶ心地よさ。
箸休めにカウンターを飾った世間話の接ぎ穂をこぼしながら。

さまざまな「生きててよかった!」的ひとときがあるだろうけど、
これ以上はないという具合に食欲、性欲、物欲いずれかに満足した直後が一番だろうなぁ〜。
三つともうまくかみ合ってて言うことなしなんてそれこそウマい話だ。

昨夜も立ち上がりタイガース相手に3−0とリードしながら、
チャンスにことごとく決め手を欠いたまま優勝の手前でヨレまくって足踏みする
ヤクルト的モヤモヤ症候群が食肉業界やアメリカ主導の外交関係を覆っている。

僕のコンピュータはウィルス感染を免れているし、
相変わらず家でも外でも気にせず牛肉を食ったり、
「あれは戦争ではなく、国際的犯罪」といった政治家の記事に注目したりしている。

今朝は郵便局に出かけて自動ドアの具合や窓口の応対が気になったり、
ちょっとした妖怪より弱いような中東の政権の不確かなニュースを疑い、
行き過ぎた規模とネーミングで力瘤を誇示している虚仮猿を笑っている。

なんだか浮き足立ってきた日本の秋はどこへ行こうとしているのだろう。

スポーツ観戦を楽しみながら(01.10.01)

昨日(9/30)はいろんなスポーツでわくわくどきどきした。
シアトル(29日)ではイチローが大リーグの新人最多安打記録を更新し、
ニューヨーク(29日)で行われたミドル級王座統一戦では、

WBC・IBF王者のバーナード・ホプキンスが、3階級制覇して勢いに乗る
スーパースターWBA王者フェリックス・トリニダードを12回1分18秒、
TKOで破り、マービン・ハグラー以来、14年ぶりのミドル級統一王者となった。

ベルリンマラソンでは高橋尚子(積水化学)が世界最速・最高の走りを披露し、
2時間19分46秒という驚異的な世界最高記録で優勝したあと、
フジテレビ中継のインタビューで「お疲れさまでした」と答えていた。

日本のプロ野球では、王監督の記録が破られるのを嫌がったホークスが
ローズと勝負しなかったみたいだが、気色悪いやりかたがなんとも情けない。
今シーズン限りでお辞めになる監督の皆さん、お疲れさまでした(いちファンより)。

テレビで疲れた目で「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」の更新をしていて、
あらためて川上春雄氏(9/9逝去)の業績が偲ばれたので【最初にお読みください】に
コメントを書き加えましたが、何か言い尽くせない思いが残ったようです。

吉本隆明氏が語る親鸞ということで新しく企画された『今に生きる親鸞』
(講談社+α新書)のページを紐解いても、「生死は不定」という思いを
ますます禁じ得ない今日この頃、宙ぶらりんの人生をまっとうしたい。

ノリ加減はディラン節で(01.09.28)

大阪近鉄バファローズのドンデン返し野球は面白かった。
日本ハムに立ち上がりで0−5とリードされた開幕戦を10−9でひっくり返し、
マジック1で迎えた対オリックス戦は9回表に1点追加されて5−2となり、
いよいよ防御率どおりの展開かなというところで、
代打逆転サヨナラ満塁ホームランでリーグ制覇。

予想外ということでは阪神タイガースの優勝に負けない面白さだった。
枠組みなんか少なければ少ないほど伸び伸びできて、
型から抜け出せば抜け出すほど楽しくなる。
大リーグ入りを見事に飾っているイチローにだってスランプがある。

発売がちょうどあの事件とダブったとかでかすんじゃったが、
久しぶりの★★★★★も納得のボブ・ディランの新譜“Love And Theft”。
ここんとこ日に1回はトリップしている憎い出来栄え、
老いてますます磨きのかかる悪声が凹凸のある暮らしに染み入る。

かって夜学生だった頃も、そしていま裏返した学生のようになってまた、
気の向くままやりたいように遊び呆けるマーちゃんとまるで一緒だ。
往きがけ帰りがけのあてどなさに往生きわまることも忘れんばかりに、
枯れた花のように咲き誇っている一枚の絵の中へ出入りする日々。

グループで大皿仕立ての料理に出合ったときなど、目立たず手際よく
それをささっと取ってくれる女の人ってなんて素敵なんだろう。
逸らさず生きるってことはできそうでできないから、
とりあえず格好良く死ねることを密かに心がけてみたいだなんて。

01年7月17日の対ロッテ戦も4−9で迎えた9回表に8点を入れ、
2001パ・リーグ前半戦を首位で折り返した大阪近鉄バファローズ。
さあここからは楽住楽虚にお引っ越し・・・
生誕60周年、デビュー40周年となった年に傑作新譜を聴かせるディラン。
虚を突かれ、楽しみにケリを入れる日々を彩る演者達の季節。

まっすぐ、やさしく(01.09.26)

それと目立たない季節の変わり目が好きだ。
初夏と初秋には庭先に暖かな日差しが、
ゆっくり動いて柔らかな影を縫い合わせている。

五月の緑も眩しい「子どもの日」の朝の庭に
投げ込まれていた第一面に「朝の詩」。
「小さな宇宙飛行士」のお母さんからの
やさしくやわらかい手触りで目覚めた。

「子宮という
神秘的な宇宙の中で
魚類、両生類、爬虫類
鳥類、哺乳類へと
進化の道のりを一気にたどる赤ちゃん
まるで宇宙遊泳を
楽しんでいるかのようにくるくるとまわっている
私は大きなおなかに
そっと 声をかける
元気に生まれておいで
小さな宇宙飛行士さん」(「産経新聞」2001.5.5)

本それぞれ、人それぞれにさまざまな出会いがある。
出会い頭でおわるモノから、
抜き差しならぬ場合まで数えあげれば百人百様であろう。
誰しもそれぞれ想い入れの人、忘れられない書物があり、
その一つ一つに生きてきた時と所が関与しているに違いない。

十数年前、人はともかくそのような想いを際だたせてくれた
書物との出会いとして、三木成夫という名前が真っ先に浮かんでくる。
おそらく医学・薬学系の図書館で働くことがなかったら、
生涯手にすることは無かったかも知れない。
総合図書館や、工学系図書館勤務の頃とは手にする本の傾向も変わり、
目配りする書評への関心に生命科学系のモノが入り込んできた頃に
手にしたのが、中公新書の『胎児の世界』というとてつもない
奥行きと広がりを隠し持ったペーパーバックであった。

妻のどうしようもない悪阻におろおろするしかなかったとき、
やがて生まれたわが子の成長にただただ驚くしかなかったとき、
そして自らのへその緒に思い惑うしかなかったころ、
もっと早くに三木成夫の著述に巡り会っていたら
少しはましな対処の仕方ができていたかもしれない。
孫ができるような年になっても、そんな想いが尾をひいている。

言葉を話し始める前の乳幼児はどうしてひたすら母音を唸っていたり、
あきれるくらいに子音だけを囀っていたりするのか。
こころの温かい人は手が冷たい。あるいは、入浴は食後30分。
こういった成長にまつわる現象や言い古された言葉を手始めに、
こころとからだを起点にした知恵について
いかに無知であったかを悟らされた。

庭先から立山連峰まで、古びた双眼鏡を取り出して見れば
「北国の少女」や「五番街のマリー」とともに
忘れ去った季節はアルバムの埃のように遠ざかっていく。

暮らしを一緒に営む家族のこころや身体のありように加えて、
猫や犬に、季節を彩る庭の草木など
いのちの仕組みをめぐる僕の言葉の宇宙飛行士は
今日も木々の真上からその高さを覗くばかり。

Living' On Easy(01.09.21)

日本のテレビ局がハイジャックやテロリストを扱った
映画番組の放映を自粛してしまったが、
アメリカのラジオ局では約150曲の放送自粛曲を決めたという。

約1200局のFM、AM局をもつ米国最大のラジオネット
「クリア・チャンネル・ラジオ」は、事件後、約150曲の
放送自粛曲のリストを作った。

リストには、ピーター・ポール・アンド・マリーの
「悲しみのジェット・プレーン」やジョン・レノンの「イマジン」、
フランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」などが含まれる。

雑事も片づきラッキー・リタイアメントの感触に浸っていたのも束の間、
米国同時多発テロ以後、報道は「報復」と「自粛」をめぐって揺れ動いている。
連れ合いともども「海外旅行」など想いもしない出不精が幸いしたかも。

足腰衰えたお袋と昼飯を挟んで向き合う茶の間の毎日、
グラス片手に二人であれこれ観聴きする夕食後のリスニングルーム、
娘と歩き出したばかりの子どもが賑やかさを出前する週末の定番、

ほんとうにのんびりぼんやりし続けるって難しい。
テレビやパソコンや自転車で一日なんかアッという間に過ぎてしまう。
おまけにお気に入りのCDやDVDがあったりするともっと加速してくれる。

九月の雨の散歩としゃれて銀行と郵便局で用事を済ませたらもうお昼、
ご近所で昨日の夕方開店したばかりのお店でランチタイムに傘を畳み、
お皿を取りかえっこして別メニューのパスタを食べ比べしていた平日の午後。

サラリーマンからの転向だなんて言われるとびっくりしてしまう。
若さから見放され、老いから落ちこぼれている通過点にまっすぐ響く、
見たこともない奈良美智@the MUSEUMからの呼びかけ。

I DON'T MIND, IF YOU FORGET ME.
BECAUSE, YOU NEVER FORGET ME.
I NEVER FORGET YOU.

Leaving On A Jet Planeを歌う綾戸智絵を聴きながら、
横浜、芦屋、広島そして旭川と巡回する個展を記念する
真新しい冊子を閉じたら夜の雨足が駆け抜けていく。

やりきれないときゃ、ホッとしよう(01.09.13)

なんかやりきれないな〜、などといってみてもどうしようもないのだが。
そう、またも起きた無辜の人々への殺戮行為、米国での同時多発テロ(9/11)報道が
もたらした感触は、近いところではあの地下鉄サリン事件にどこか似ている。

物心ついてからも場所や形を変え、まるで直接的な関係がない人々への無差別で
何がなんだか分からない殺傷が繰り返されてきているが、今度の出来事は
もう、いつ、どこで、何が起こってもおかしくない<現在>にあっては

起こるべくして起こった、と納得させてしまうほどの切り口を覗かせてくれた。
パックリと切り裂かれた中空の楼閣で一瞬のうちに焼き尽くされ、瞬く間に
崩れ落ちたマンハッタンの一角にわれわれが見届けなければならないものを。

何処かで誰かがやったとしても、その行為をほんとうに
正当化しうる根拠などあり得るのか?

たまたま事件にほど近い医療施設に居合わせたスタッフの見事な仕事ぶり。
今はもう無いWTCビルに近いNYの病院で働きつつある本田美和子さんの
『ほぼ日』連載レポートを読んだりして、ホッと一息ついたりする昼下がり。

耳目の秋へ(01.09.08)

月曜日にクエルテン(ブラジル)とミールヌイ(ベラルーシ)による
びっくり仰天、驚異的な逆転試合を観たりしたもんだから、
今週は毎日、朝から昼過ぎまでは何もかもがおろそかになったようで、
テニスの全米オープンのナイトセッションのライブ中継にはまってしまった。

とりわけ木曜のサンプラス対アガシ戦の3時間半はアッという間だった。
年間にボクシング中継も100試合くらい観るけど、お互いのコンデションもよく
その場で発揮される両者の技術やテンションが高い試合は滅多にお目にかかれない。

ネクタイ族を抜けて、電話やメールに縁が無くなって心底嬉しいけど、
やろうと思っていたことにじっくり浸るというのはなかなかできにくい。
図書館での書架整理作業でふと目にとまって買い込んでおいた、
アイザック・B・シンガーの数少ない積ん読の山もほとんど崩せなかった。

週の半ばに買い込んだCDもあんまり聴けなかったが、
初耳のRebecca Kilgoreの「Moments like this」(Heavywood)は
この秋の愛聴盤になりそう、バックのピアノトリオも良かったし。

初めて聴いたRandy Porterというピアニストも徒者じゃないね。
まぁ、自分が知らなかっただけのことだけど、こんなのを聴きながら、
ワイン片手に・・・う〜ん、『罠におちた男』をゆったりと読み終えたい。

得たものと失ったもの(01.09.02)

8月末は身辺整理でドタバタしたもんだから、
「隆明網(リュメイ・ウェブ)」の更新にもたついてしまった。
さて、「吉本隆明著作リスト」の8月分の「語録」から、

「日本人の欠点は、物事をなんでも『役に立つかどうか』で表面的に
判断し、役に立たないことはやりたがらないことだと思います。
そして誰もが自分のやっていることは、世の中の役に立っていると思い込んでいる。
往々にして、他人からすると傍迷惑なだけですが。
だいたい人の人生が有意義か無意義かなんて、誰に決められるんか。
本当は他人の目を気にしているだけで、自分がないんですね。」
まぁ、それぞれ固有の関わりの中の一人として生まれ、
一人としてしか死ねないわけですから、
自ずから、やりたいようにやればいいって事でしょうか。

過ぎてみて分かったことだけど、職場にも家庭にも属さない
通勤時間って貴重ですよ、長すぎるのも短すぎるのも困るっていう程度ですが。
それと気づかぬ内に深く静かに積もっていたのは目立たないところで輝き、
人知れず息づいている珠玉のような人達との触れあい。

仕事を辞めて得たものは、家庭内時間というより、深さですかね。
以前とたいして変わらないというか、とりとめのない過ごし方なのに、
目覚めや、くつろぎや、なにげない日常のひとこまひとこまが充足している。
この年まで生きて、味わえて良かったことの一つ。

「アクセスポイント案内」や「情報探索デスク」のメンテナンスも
ぼちぼちやってるから、リンク切れやリンク先移動への対応も進行中です。
新規アクセスポイントも8月中にいくつか追加してあります。

夏をめぐる詩片(01.08.29)

今年の暑い夏の午後、雑誌の移動作業で汗を流していたら
「以前に詩を書いておられたようだけど、いまは
どうですか、書いておられますか。」と尋ねられたりした。

「なんか、エネルギーが弱くなってきたようで・・・」と答えたんだが。
思いもよらない利用者の問いかけにどぎまぎしてしまったんだろう。
自信を持って「書いてます」といえる作品は書けた試しがない。

生涯に「ある動き」を込めた詩作ができたら言うこと無いのだが
いつまでたっても駄目なんだな〜、それが。
そんな証拠品にしかならないようなものばかりですが、
とりあえず投げ出しておきましょうか。

語って自転車、走って十字路

なんで読むことより、聴くことが好きなのか
目覚めの時はいつも聴覚が一番なのに、
何かを聴くことはいつも遅れてやって来る
といってもいっとう最初に何を聴いたか覚えちゃいない
読むことの幕開けは松田甚次郎編『宮沢賢治名作選』
上、中2冊の古ぼけた手触り
繰り返し何度も読み返したのに、
下巻を探さなかったのは
活字の中より、ちょっとだけ
田舎暮らしが面白かったからか
気がつけば視界の中にいつも
老人を捜していた幼年の日々

なぜ車は、どうして免許は持っていないの?
別に主義主張がある訳じゃなし、
ただただ縁がなかっただけ
それともいつまでたっても、
自転車から卒業できないのか
今世紀最後のゴールデンウィークのサイクリング日和は
同居人と魚津までペダルを漕ぎ
北アルプスも眩しい観覧車で休めば
眼下に戦後日本の思想家が泳いだ
敗戦の日の富山湾もせり上がってくる
蜃気楼サイクリングロードを抜け
夕暮れの十字路に帰ってきた

老人と自転車がかっこいいだなんて
まるで上等の干物のようにロフトに吊されて
ひっそりくつろぐクイックシルバー

2000きれぎれの夏

仕事帰りのくたびれた耳と汗ばんだ手で
つまみあげた音楽とともに
今年の夏はやってきた

39km地点で着ていたものを脱げば
身のほどに合わせた椅子はありやなしや
買ったばかりのE.C.&B2.K.がひょいと
抜かせるコルク栓の囁き

春先に張り替えた我が家の外装を震わせ
週末ごとにやって来る初孫の名残も
大陸から抜けてきた幾夜の寝苦しさも言わぬが花
底の見えたジンで飲み干せば焼ける焼ける

十九回目の同窓会で走り抜けた浜名湖は
楽器に砂丘に何だっけ
植物と都市計画を混ぜ合わせ
魚眼レンズの夕陽に溶かしてさようなら

ポケットGPSで掴みだしている居場所で
サングラスに涼をため込んで待つワンナイトスタンド
生い茂る庭のエロスはスポーツ後のセックスで燃やしてみます
目深にかぶった新しい帽子の縁で渦巻く風のように

日盛りのサイクリングで駆け抜けて
喉と胃袋を唄わせる寿司屋のカウンターに
一夏の立ち話も寝転がっていた
夏の扉からエヴァンゲリオンの夏まで

名札を取り外したくなった夏

掛け損なった表札のように夏はやってくる
遠い夏休みの昆虫や植物はカラカラに乾いて
今朝の散歩で見上げた雲のよう

そう、夏がくるたび
常願寺水系の凍った井戸水をカラカラ響かせ
二人分のジントニックで冷やしてきた熱帯夜

たったひとりの夏祭りで三行半を書いた
なんて便利な「一身上の都合」との出会い
稼ぎと暮らしをつなぐ名札も揺れている

いま・ここで人生の寝返りを打ってみれば
気兼ねなんていらない僕なりの休み方があるはず
見つからなかった表札のように僕の夏はやってくる

AとYが出会うとき(01.08.25)

あ〜ホントにいいモノを見せてもらったというか聴かせてもらった。
なんと綾戸智絵と山下洋輔の二人によるライブが3月に錦糸町であったんですね。
それをよくぞBS2がライブドキュメント仕立てで放映してくれたもんだ。

昨年の6月(小杉のラポール)と11月(富山のオーバードホール)に
ようやく綾戸智絵の内臓を震わすようなジャズボーカルを堪能できた。
山下洋輔ピアノトリオの脳天を貫くようななパワーにはじめて痺れたのは
1960年代の富山市内のとある喫茶店であった。

日本に現存する、はらわたを痺れさせる最高のジャズシンガーと
脳髄を打ち鳴らす最高のジャズピアニストとのジョイントコンサート。
思っただけでわくわくするような出来事が衛星放送で体験できるなんて。

別々に追っかけて聴きあさったLPやCDそれぞれも素晴らしかったが
日本のジャズシーンのこころとあたまを代表する二人が遭遇する現場の
映像体験からそれこそまたとない元気をもらってしまった。

もはや内臓も智絵袋

綾戸智絵のCDやライブに
ほんとにおまけがあるみたい
十枚買ったからといって
一、二回足を運んだからといって
な〜んの特典もありゃしないけど

インターネットを流れる噂に
見つけたCDに耳を貸しただけなのに
ここんとこ僕のどこを探しても
「要観察」や「要精検」が消えちゃった
毎年お定まりだった健康診断結果の
「誤診」続きが愉快

ジャズ喫茶通いの青二才から
定年間近い今日この頃まで
取っ替え引っ替え回し続けた
ご利益なんぞあるわけないが
ここに来て綾戸智絵の唄声が
もろ内臓に来てしまった

身の程知ったか堪忍袋
ついに縁なし知恵袋
やぶれかぶれで未だに頬被り
我が身に降って湧いた
自由自在な袋詰め
聴いても利いても聞いても訊いても
いつのまにかとりこまれて智絵袋

夏を横切った合羽姿(01.08.22)

昼前に家庭婦人の皆さんとのバドミントンを楽しんできた。
県の総合体育館まで送り迎えしてもらった車の外は、なんと
台風11号の爪痕ひとつない曇り加減の風景が流れていた。

自転車なみのスピードで、
太平洋側を台風が通過した今は低い灰色の雲に隠れてその雄姿は見えないが
富山の東部に屏風のように位置する北アルプスの存在が大きい!
台風シーズンともなると山の神を祀った立山連峰は
まるで風雨をしのぐ特大の雨合羽のよう。

雨合羽姿といえば映画『アンブレイカブル』(DVDで観た)のコミック
ヒーローばりの不可壊男デヴィッド役ブルース・ウィリスも印象深かった。
ただ単に「ダイ・ハードな男」として売ったイメージを包み隠すだけじゃなく。

でもこの夏最大の合羽姿に唸らされたのは、なんといっても宮崎駿監督の
『千と千尋の神隠し』の湯屋に集まってくる「神さま」のイメージだ。
そう、さまざまなこころを包む身体としてのいろんな神さまが画面いっぱい、
八百万の神が見事としか言いようのない合羽の姿でリズムを描いてた。

自転車で朝イチに駆けつけて観た者の気持ちなんかもくるむように受けとめ、
やがってどっかでやさしく吐き出させてくれるようなひと夏の出来事。
なんか観終わったらすぐに観返したくなる映画で、まさに映画の神さまも
びっくりする出来栄え。

『千と千尋の神隠し』OFFICIAL SITE http://www.sentochihiro.com/
千と千尋の神隠しSpirited Awayhttp://www.asahi-net.or.jp/%7Ehn7y-mur/chihiro/index.htm


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「十字路で立ち話(あるいはワッツニュー)」kyoshi@tym.fitweb.or.jp