「八重洲レター」十九〜二十三号連載/吉本隆明の視点 五〜九(1995-1996)


  • 政治・社会・経済を讀む―サリン・オウム事件- 吉本隆明
  • 政治・社会・経済を讀む―まだ不況圏にあり- 吉本隆明
  • 政治・社会・経済をを讀む―景気の成り行き- 吉本隆明
  • 政治・社会・経済をを讀む―宗教と政治と社会と- 吉本隆明
  • 政治・社会・経済をを讀む―「日米防衛協力のための指針」について- 吉本隆明
    政治・社会・経済を讀む―サリン・オウム事件- 吉本隆明

     阪神の大震災を天然が突然ひきおこした大災害とすれば、サリン―オウム殺傷事件は現在の社会の集団の病気や、葛藤から派生する人間の心の歪み・思い込み・信念・信仰などのうち、不健康な要素が集団として発現されてひきおこした人災だといえる。そしてこの人災は阪神の大震災とおなじように、これからつぎの世紀のはじめにかけて、日本の政治・社会・文化・生活にたくさんの傷跡をのこし、その影響が尾をひいてゆくおおきな出来事だといえる。この事件がおおきな影響を残すわけは、つぎの幾つかの点に帰するとおもう。

    (1)いままで、敵対する国家のあいだに戦争が起こって武力衝突の結果、直接に戦闘員が死傷することはたくさんあった。またそれに巻きこまれて非戦闘員が殺傷されることもあった。いわゆる国家間戦争の武力の役割がそうだった。だがこんどの松本サリン事件、とくに、東京の地下鉄サリン事件は、国家間の戦争でもないし、敵対している人間や勢力の争いでもない、まったく関わりのないただの無辜な民衆を承知のうえで殺害している。これはサリンという猛毒性の気化物質の無差別な拡がり方からおこる無差別な殺傷力がつかわれたからだ。それと一緒に、〈人間を人間が殺そうとする〉動機や理由に、かつて無い意味をつけくわえた。もちろん結果だけからみれば殺傷行為にかわりない。だがある事柄に関わっていないし、関わる気持さえもっていない者が殺傷されることがはじめからわかっている、天災とおなじ不意打ちの行為を意味している。言いかえれば殺傷行為をする人間または集団組織)はゼロであるように雲隠れしながら、ほんとは「人間」全部を殺傷し、抹殺しようとするモチーフをもった行為だと見做してよいことになる。これはたとえば狂気の人間が、機関銃を乱射したり、車の中で放火したりして無差別に狙いを定め、その結果なんの関わりもなく偶然そこに居合わせた人間を殺傷してしまったというのと同じようにみえて、実はまったくモチーフの次元が違っている。もちろん人が人を殺傷するというのは、どんな場合でもよくないに違いない。だがそれはサリン(や原子爆弾)による殺傷とはまったく次元の違うことだ。

     わたしはサリン事件は無差別に、しかも何の関わりもない無辜の人たちを殺傷する行為だから許し難いと書いたら、それなら敵対している人間だったら殺傷してもいいのか、とまぜかえされた。そんなことは言っていない。敵対している人間を殺傷する行為は、口で言い争うことからはじまって、腕力沙汰になって傷つけ合うという喧嘩の延長線で考えられることだ。サリン(や原子爆弾)による殺傷は、まったく次元の違う殺傷行為だと、言いたいわけだ。おなじように人間を殺傷するのだから、結果はおなじじゃないかという考え方を、とるべきでないとおもう。次元が違う殺傷だということが重要だ。なぜかというとサリン(や原子爆弾)は、無限に多様な殺傷行為に道をひらく糸口をつけることになるからだ。人類はやがて人間どうしの殺傷を止めるところから始まって、すべての殺傷行為を止めるのが理想だ、という「理想」というイメージを、阻止してしまうことになる。松本サリン事件・地下鉄サリン事件は、わたしたちに無限に多様な殺傷行為がありうることを示唆して、衝撃とやりきれない絶望感を与えてしまった。これは重大に考えて考えすぎることはないとおもう。

    (2)もう一つ言うべきことがある。サリン事件が、潜在的にはじぶん(たち)は覆面で顔を隠しながら、ほんとは人間全部を無差別に殺傷する行為に等しいことを意味しているため、現在の社会・政治・経済、それから個々の人たちの生活感情に、おおきな限界の光景を露出させてしまった。そのため後遺症をのこすことになったとおもう。これもまたとても重大なことだ。思いつくままにどんなことか挙げてみる。

    (イ)第一に新聞やテレビをはじめとするマスコミ関係者は、ふだんニュースを報道し、わたしたちの娯楽や愉しみを案内しているときは、こんなに便利な頼もしいものはないとおもえていたのに、いったんサリン事件のような極度のパニックを与える事件に当面すると、限界を露呈してしまった。いつもは才智ある美人の女性アナウンサーも、話術にたけたニュース・キャスターだとおもえる人々も、そこに登場する専門家と称するコメンテーターの知識人も、〈何だこんな幼稚な見識しかもっていなかったのか〉という限界の顔を晒してしまい、いたくわたしのような熱心な視聴者を落胆させた。それほど狂態一色といっても過言でない言説や画像を口を揃えてふりまいた。まるで誰かに教唆されているようだった。

    (ロ)ヨーガ・禅・ヒンズー教・チベット密教など、いちばん平穏で平和的なこころの修業団体とおもえるものが、もっとも怖るべき人間の殺傷行為であるサリン撤布事件との関わりを、次第に明らかにされようとしている。大げさに言うとおなじような修業を僧侶たちがやってきた日本の古代からの仏教の宗派が、どんな殺傷とも結びつく可能性があることを示したことで、これは日本の全仏教の存立を根底から震撼させ、危うくしていることを意味している。

    (ハ)どんな高度な知識や理性を身につけていても、おなじ宗教信仰や理念信仰をもつ集団が内閉されたまま追いつめられたときは、相互殺傷や自己殺傷や無関係な人間の殺傷に陥り、どんな蒙昧よりも蒙昧な振舞に及ぶことがありうることを改めて見せつけた。これは大は国家の戦争から、小は政治の集団・宗教の集団・家族にいたるまで例外はない。またどんな立派な理性的な個人でも、ある事態にはまりこむと免れないとおもえる。これを防御する装置を人間性(ヒューマニティ)は持っていないし、その理由も解明されていない。あるとき偶然に当事者となったものが殺傷者として指弾をうけ、偶然の部外者となった者が犠牲者や非難者や観察者となるにすぎない。究極的にはそうとしかわたしには言えない気がする。この人間性にたいする絶望や希望の喪失ははかりしれない。これをなだめてくれる唯一の言葉は、人間は機縁がないところでは一人の人間さえ殺すことはできないけれど、契機があると、そう意志しないでも、百人、千人の人を殺すこともありうるのだ、といった親鸞の言葉だけだという気がしてくる。

    (ニ)地下鉄サリン事件からしばらくのあいだ、ひとりでに地下鉄のような閉ざされた場所へ近づくのを敬遠する気分から逃れられなかった。映画館や賑やかな繁華街でも、ふと最悪の光景が頭をよぎって、われながら舌打ちしたくなった。嫌な辻占だが、戦争中、いつどんな様で死ぬかもしれぬという吹き晒しの感じで、東京下町に生活していたときの心理状態が蘇って、戦後50年ののんびり平穏な生活感情のほんわかした気分が、嘘の生活意識のようにおもえてきた。そしてこれはいけない、もっと平穏な生活感情を取り戻さなくては、と内心で言いきかせたりした。わたしのこの感じは大なり小なり東京の住人に兆したにちがいないとおもう。

     総体的にいって、サリン―オウム事件がわたしにのこしたものは、普段はヴェールがかかっていて分らないが、極限の事件がおこると、おなじ市民社会のなかに住んでいる住民が、それぞれどんなに多様な価値観をひとりでに信念にまで作り上げて生活をしているかが判明して、驚き、あきれ、相互に理解し難いことが絶望感を強いることが、第一の衝撃だといってよいとおもった。わたしはふだん、新聞テレビなどマスコミと、結構愉しい和解の気分で生活しているが、今回のサリン―オウム事件で、巨大マスコミがすでにマスコミ価値序列ともいうべき強固な価値観を形成していることを垣間見て驚愕し、これは怖い、よく分析していないととんでもないことになるなと、改めて気づいた。また政治的な宗派とおなじように、宗教的な宗派もまた、他の宗派が侵しうる愚行や悪行はじぶんの宗派も侵す可能性があるものだという内省力を喪失してしまっていることがわかって衝撃をうけた。まして宗教学者、宗教ジャーナリストにはそうおもえた。また人間の心の動きとはどんなもので、どんな奥深さをもつものであるかも知らない専門家が、精神医学者を名乗って、マスコミに出てきた事態にも衝撃をうけた。政府や政府機関である警察当局もひどい正体をみせてくれた。国際語に長じ、国際的な知識人のような振舞いを、ふだんしていた知識人らが、じつは国家を超えて普遍的な倫理を語る器量をまったく持っていないことも露呈してくれた。こういった重大なことがサリン―オウム事件がのこした影響のうち、長く尾をひいてゆくものだとおもう。
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    政治・社会・経済を讀む―まだ不況圏にあり- 吉本隆明

     まえに、このひと続きの、文章のなかで現在の不況(現在といっても三年越しのばあいもある)に触れたとき、不況からの回復はもうスーパーやコンビニの消費規模のところまできていて、もうすぐ百貨店の規模の消費まで回復していきそうな明るい気配がしてきたと述べたことがある。(※編集注)そこで少し、そのときの見通しを修正しながら、もう一度、現在の不況に触れてみたくなった。

     まずそのとき景気回復の指標として採用したコンビニの既存店では、95年(平成7年)の8月中旬決算をとると

    前年同期比売上高増減(「日経新聞」95・9・6)
    セブンイレブン 約0.2%▼
    ファミリーマート 約2.0%▼
    ミニストップ 約2.0%▼
    カスミコンビニエンス約3.0%▼(▼印は減)
     これらの数値は既存店だけをとって、売上高の前年同期にくらべた減収をあらわしたものだ。すくなくとも、スーパーやコンビニの次元では、明瞭に不況を離脱しつつあると言いきってよかった明るい新鮮な見通しは、屈折を余儀なくされていることを示している。このぐしゃぐしゃしている屈折は、出店数をふやしたり、利益率をこまかく整合することで経常利益は、前年同
    期比として増加していることで(カスミコンビニを除く)不透明度を増していることがわかる。もっと不況の不透明度を増している要素は95年8月の百貨店の売上高が、3年半の不況指数である売上高減が、売上高増に転じたところにあらわれている。

    前年同期比売上高増減(「産経新聞」95・9・6)
    三越 0.3%増
    伊勢丹2.5%増
    高島屋3.0%増
    松坂屋0
    大丸 約1.0%▼
    東急 約1.0%▼
    東武 約1.0%▼(▼印は減)
     スーパーやコンビニの次元で不況指数である売上減があらわれているのに、百貨店の次元で不況離脱の指標である売上増が、3年半ぶりにあらわれるということは、ありえないはずだ。だが95年度の100年ぶりの猛暑という条件が、この結果にあらわれたとみらる。夏物の衣料・雑貨・冷房・冷蔵機などの売上増によっているとされている。

     これらの本末転倒や季節要因からくる一時的な消費好況は、不況の状態としてみれば、複雑骨折による不透明度の増加や、見通しのきく不況離脱の指数も、不況停滞の指数も得られない迷宮状態を表象している。これはとても重要な社会経済の状態のようにおもえる。百貨店が8月売上高の3年半ぶりの前年同期比の増加を、不況からの離脱の前兆だと見るほど楽天的な観測は、誰にも不可能なのだ。だがそれと裏腹に、スーパーやコンビニの既存店の売上高の前年同期比の減少は、あきらかにいったん不況から離脱する勢いにあった消費の活性が、陰りをもちはじめた兆候だということは、誰もが認めるにちがいない。

     ではなぜこういうスーパーやコンビニと百貨店の売上高のうえに、一時的にしろ逆転現象が起こるのだろうか。

     わたしの主な理由についての答えは簡単だ。ひとつは現在の不況、停滞、屈折が消費主体にかんがえれば、余裕のある不況だからだ。そしてもちろんこの不況は消費を主体に考察され、分析され、対応がなされるべきなのだ。もうひとつは、現在の不況が消費大衆にとっても、企業体にとっても過剰防衛のもたらしている虚数の不況だからだ。とくに第二次産業である工業や製造業の企業体は、もともと高度な消費資本主義の社会では、第三次産業に重点が移ってしまっているため、平常時でも危機感と不安感をもっているので、不況の兆候には過敏で過剰防衛に陥り、働く人員と施設のリストラをはじめて、ますます危機感を増幅してしまっている。また企業体に働く人たちは、企業体の怯えからくるリストラの強要がいつ来るかわからないとかんがえて、消費をできるだけ手びかえて過剰な自己防衛をするために、虚数の不況をますます拡大する方向に屈折させている。このことがどんな兆候としてあらわれているか、思いつくままに挙げてみる。

    (1)家計調査(95年7月)
    全世帯消費支出(1世帯当り) 34万353円
    (前年同月比 1.3%▼)
    (実質    1.1%▼)
    勤労者世帯消費支出(1世帯当り)37万四149円
    (前年同月比 0.3%増)
    (実質    0.5%増)
    (「読売新聞」95・9・22)

     この表がいちばんはっきり語っているのは、ひとつのことだ。それはサラリーマンや労働者だけとってくれば不況を離脱しているという言い方をしても大過ないが、勤め人以外の自立経営者(中小企業主など)を加えて平均すると、やや不況に落ち込む兆候をしめしているということだ。中小企業とくに製造業や工業の下請け的な企業では、やや低迷状態は深刻になりつつあることの象徴が表に示されている。もっと細かいことをつけ加えてもいいのだが、それよりもこの第一現象さえつかんでいればさしあたり充分だとおもう。勤め人は不況から脱する傾向を示しているのに、自営の中小企業は不況の側に逆戻りしつつある。これは現在の不況離れしない低迷の不透明感を増す要因になっている。もう幾つか言ってみたいことがある。

    (2)貯蓄額
     95年(平成7年)の1世帯当りの貯蓄額(預貯金、有価証券、年金など)は、
    貯蓄額
    94年1300万円
    95年1287万円(1.0%▼)
    (「貯蓄広報中央委員会」)
     この貯蓄額の減少は、郵貯や銀行預金の減少ならば、とても重要な不況の指標になりうるものだ。だがこの場合は有価証券や株券にたいする不信からくる減少なのでそれほど重大にうけとらなくていいとおもえる。

    (3)消費心理動向(95年6月〜7月)
     東京と大阪に住んでいる住人を対象に、大都市の消費大衆がどんな気持でいるのか、買いたいモノが無い理由をアンケートした結果が出ていた。
    第1位(33%) 欲しいモノはだいたいそろえたから
    第2位(29%) 物を買う以外にお金を使いたいから
    第3位(27%) 自分のモノへの欲求が薄れたから
     〃 (27%) 買っても置く場所がないから
    (「日経新聞」95・8・29)
     これはいずれも日常の場面で必要な物について飽満していることを示している。解説をみるといくらか別の言い方で「これといって特に買いたいモノがない」という項目に「当てはまる」と「まあ当てはまる」と答えたものは、あわせて50.8%に達し、半分を超えたということになる。これはとても重要な指標だとかんがえるべきだし、
    (2)の貯蓄額の大きさとその減少をあわせるともっと重要な意味をもっている。
     さしあたりとても常識的なことを並べてみよう。
    (1)貯蓄額の平均1287万円は、たぶん平均家族人員で1年半くらい失業状態のまま生活が持続できることを意味している。

    (2)半分以上がまたとくに買いたいものが日常生活でない(ほしいものはだいたいそろっている)ということは、ほとんどすべての消費が選択消費(選んで自由に使える消費)の飽和点に近づきつつあることを意味している。つまり食費、光熱・水道・電気費、住宅費などをのぞけばすべてが自由裁量の消費にまわることになっている。このイメージは経済生活の極限に近いイメージというべきものだ。この極限の閾値を超えたところから、消費の意味は大なり小なり形而上学的なところに転化されるほかないことになるとおもう。いわば消費の壷をぶちまけたとき金銭的な振舞いの奔放な自由を獲得することもできるし、知識・教養・芸術の節度と厚みに静かに浸ることもできるし、魔王のような悪を空想し、オウム真理教のように実行することもできるというわけだ。結論的にわたしは何を言いたいのかというと、現在の高度な消費資本主義の社会では、不況が個々の消費者を襲って破産させることは、理論上不可能になりつつあると言いたいらしいのだ。 (※編集注―八重洲レター17号掲載。)
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    政治・社会・経済をを讀む―宗教と政治と社会と- 吉本隆明

     昨年もおしつまってから、普通の市民生活には関わりが少なくて、切実な関心をひかなかったかも知れぬが、そのわりに重要な政治的な決定が、ふたつあった。ひとつは宗教法の改正、もうひとつはオウム真理教に破壊活動防止法の適用が決められようとしていることだ。要点だけ説明してみる。

     一般市民の場所から宗教団体を眺めわたすとふたつの特徴がすぐにみつけられる。ひとつは熱心に信心の勤めをやっていて、よほど信仰心が厚くなければ、ああは精進できないなとおもえるほど、信者はそれぞれの宗派や団体で修練や勤行をやっている。これは感心するにせよ、正気なのかと疑うにせよ、普通のひとにはできない献身的な、信心なことは確かだ。もうひとつは家や財産や土地など所有物をお布施として寄進したりすることに惜し気のない人がたくさんいて、その教団や宗派を支えていることだ。もちろんわたしなどのような無信仰のものでも、お盆や年の暮れや初詣のとき、お寺や神社にお賽銭を投げ入れることはある。これらの収入は宗教法人では無税だとされている。これが無税というのは特権的でないかと普通の市民はどこかで感じているにちがいない。

     いま述べてきた特徴が宗教団体や組織に、だれでも感じていることだ。どんな宗教をどんな風に信じようと、それは人間ひとりひとりの自由に属している。もちろん信じないのも自由だ。この自由はいちばん源泉のところで、信仰がそれぞれの人の心の内部のあり方に関わっていて、こころのなかでどんな風におもって何を信じているかは、外から誰がどう覗いてみてもわからない。その人の秘められた固有のものだから、自由であるほかはないし、外から制約を加えても人の心のなかまでは制約が及ばないから、禁止することもできない。これが宗教を信ずる自由というもののいちばん奥にある根拠で、憲法はそれを保証している。普通の無信仰な人には理解できないだろうが、家や土地や財産を寄進して無一物になることが信仰にとっていちばん大切で幸せだという心の状態は、人間にはありうることなのだ。信仰が細々と狭く走りすぎてこわいところも、感動的なところも、場合によっては正気の沙汰でない愚かしいことだと思えることも、信仰の精神状態が法悦のよろこびだということが、人間にはありうるところからきている。市民社会の常識になっている善悪の判断が、ときにより撥ね返されてしまうのも、信仰を誤解するのもこんなところに由来している。

     今度の宗教法の改正は、いままで地域の自治体に届け、承認される条件があれば、宗教団体や組織は法人として存在できた。今後は文部省に届け出て管理をうけるように変った。いいかえると国家=政府の文教政策が介入することになった。滅多に介入するような事態はないからたいして差支えないともいえる。またわたしのように家は宗派をもっていても、信仰心などないから直接かかわりはないともいえる。でも政府の文教府が宗教に関わることは、逆に宗教団体が政府として国政に関わることを容認することを含んでしまう。これを考えると、今度の宗教法改正は、許してはならないことだ。村山政権も青島都政も宗教的無智のため無造作にこの改正を進めてしまった。社会民主主義や市民主義は迷妄でないが、宗教は迷妄だと勘ちがいしているからだ。そのくせに寄進やお布施やお賽銭に課税すべきではないかという市民の胸のなかに匿された要望については、何も論議したり、決定したりしなかった。宗教についての政治家や知識人の無智はおそろしい。またこの無智を真にうけてマスコミがやっている世論操作はおそろしいとおもう。

     勢をかって村山政権はオウム真理教に破防法を適用する決定を容認するまでに至った。公安調査庁が掲げた「オウム真理教に対する破壊活動防止法の適用について」という文書から要旨を拾ってみる。

    (1)オウム真理教は暴力主義的破壊活動を殺人行為を含めて行った。
    (2)この団体はこれからも継続・反復して暴力的破壊活動を行うおそれがあると認められる。しかも団体活動の制限規定ではこの破壊活動のおそれは除去できない。
    適用の理由はこの二つに尽きている。わたしがこの文書を読んで感じたことは二つある。

    (一)公安調査庁文書はオウム真理教の教義を「原始仏教、小乗仏教、大乗仏教、秘密金剛乗等を混淆した独特の教義」だと規定している。そして、シバ神の化身である麻原教祖が統治する国をつくるため、「手段を選ぶ必要はなく、武力の行使も殺人も許されるという、極めて危険な教義」であると述べている。わたしはこういう教義をオウム真理教が開示していることを知っていない。またこれだけで危険な教義だというのなら、国家=政府が自衛隊を合憲と解釈し、海外派遣し、他国の内戦に介入して「武力の行使も殺人も許される」として死者を出すに至ったのも、極めて危険な教義憲法解釈)」だとしなければならない。  わたしは今までのところオウム真理教の教義なるものが教祖麻原彰晃から開示されたことはないと思っている。またわたしの視点はこの公安調査庁文書の観点とちがって、無差別・無関係・無辜の市民の殺傷を前提とした地下鉄サリン事件との関わりをもっとも重大だという場所に立っている。そしてこの場所だけが、市民そのもの(市民主義ではない)の場所だと確信する見地にたっている。

    (二)公安調査庁文書によれば、当然のように松本サリン事件の方が重要だとみなされている。理由として「サリンの大量生産に道を開き、反対勢力の抹殺という意味では初めて多数の無差別殺人を敢行した事件」と述べている。この見解は大手新聞をはじめとするマスコミの論旨と一致している。しかしわたしは再三書いてきたように「反対勢力の抹殺」ということなら、国家の戦争行為、政治組織の内ゲバ、外ゲバ、市民のあいだの愛憎と利害の対立などで、時を択ばず行われている。これを軽視するつもりはないが、同文書が付け足しのように「地下鉄サリン事件を惹起して現に都市部を攻撃」と述べているだけなのに、真っ向から反対だ。地下鉄サリン事件こそが重大なのだという見地に、オウム・サリン事件の核心は帰するものだ。同文書の見解は、わたしには不当な、馴染まないものだとおもえる。国家公安調査庁もオウム真理教とおなじように、いい気になって対立者だけに眼を置き、無関係の無辜の市民の殺傷こそが重要だという視点を忘れている。政府を背景にして驕るべきではないとおもう。

     わたしにはオウム真理教の反国家も国家公安調査庁の国家政府の法を金ピカだとおもっている安易さも、時代遅れの産物のようにおもえる。もうすぐ国家は国民大衆のリコール権にさらされ、国民に向っても、国際的にも、開かれてゆくことを余儀なくされるとおもう。

     ところでとても滑稽におもわれたのは、今まで散々にオウム真理教を凶悪殺人鬼の集団だから速やかに首を吊して抹殺してしまえ、その教義がどうかとか、麻原彰晃のヨガ宗教家としての修業の高さがどれくらいかなどと、論ずる必要はないといわんばかりに、世論を煽りたててきたオウム真理教を脱会した信者を救済する会の弁護士たちや、日本共産党や、日弁連会長の土屋公献などが、破防法の適用に反対だなどと言いだしたことだ。大手新聞の編集委員などがそれに追従している。わたしにいわせれば、世論の七割程度も破防法賛成にもっていったのは、マスコミの煽動の結果だというのは、誰の眼にも明らかなことだ。またぞろいい子になりたがっていて、みっともないとおもう。宗教法の改正も破防法の適用も、歴代内閣のうちいちばん保守反動的だというほかない村山政権とその支持母体が、その責任を歴史に対して負うべきものだ。この連中も同様だ。

     わたしはオウム真理教の麻原彰晃の宗教家としての力量を評価すべきだ、短絡して凶悪殺人鬼とその集団として片づけて、世論をとんでもない方向に誘動すべきではないと再三述べてきて、マスコミの攻撃とデマにさらされた。いささかえげつない政治現象の解釈になったのはそのためだが、御海容のほどを読者の方にお願いしたい。
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    政治・社会・経済をを讀む―景気の成り行き- 吉本隆明

     いま景気の成り行きはどうなっているか、ながい間、不況だ、停滞だといわれてきたが、それはどうなっているのか。まず企業家の見方からすれば、経常利益の率が前の年の同月と比べて上がるとか、同じ年の前の月に比べて上がるとか、設備投資がおなじように増加しているとかの兆候が、何ヶ月か続けば不況を脱しつつあると判断するにちがいない。一般の市民はどうかといえば、賃上げ率が前年よりも増加し、個人の消費が増えていくのが眼にみえてきたら、不況から脱しつつあると判断していいことになる。大蔵省や経済企画庁や経済学者やエコノミストは慣例上、企業家の判断に同調する結果になってしまう。何といっても、大局から企業体の全体を見わたしている現場で、現役の専門家だからだ。

     上昇の兆しが出ている   四四・七%
     上昇の局面に入っている   四・五%

    景気回復が実感できる時期
     九六年四月〜六月  二九・六%
     九六年七月〜九月  二五・七%
     九七年以降     二三・五%
    (「東京新聞」九六・一・五)

    これにたいして個人の消費の増減が、いちばん直にあらわれる百貨店やスーパーの売上高はどうだろうか。平成八年(九六年)の一月に発表された九五年の年間売上高は、スーパーで三年連続、百貨店で四年連続減少している。ちなみに平成七年(九五年)の十二月の売上高だけをみてみる。

    スーパー  前年同月比 二・一%減
     百貨店   前年同月比 一・八%減
    (「読売新聞」九六・一・二五)

    この二種のデータは、すくなくとも本年(九六年)一月の時点で、主要企業体の首脳は半数くらいが景気は回復の兆しをみせていると判断しているのに、市民の個人消費は減少していて、すこしも景気回復を実現していないことがわかる。経済企画庁は二月はじめに、ゆるやかな景気回復の動きがあると、政府として言明した。そして理由として設備投資・住宅建設が上向いている。輸出の下げ止まり。鉱工業生産の増加をあげている。わたしの素人判断では企業体首脳や経済企画庁の景況判断はお話の外だとおもう。いつもそうおもうのだが、政治も経済も市民や大衆の消費に出口と入口を開いて呼吸するのでなければ無意味だ。なぜならば、市民や大衆一般の消費に口を開いていないことは、いつでも酸素吸入装置を手離せない状態とおなじだからだ。もういい加減にそういうことを勘定にいれてもいいはずなのに、そこまで到達するのにまだまだ長い年月がかかるかもしれない気がする。

     スーパーや百貨店の売上高にあらわれた個人消費の減少と対応している家計費のなかの消費支出の動きをみてみよう。

     平成八年(九六年)の二月二十六日に総務庁が発表した一九九五年度の家計調査のデータが示されている。

    全国全世帯の消費支出(一世帯当り月平均)
     三十二万九千六十二円
     前年比  一・四%減(名目)
     前年比  一・一%減(実質)

    勤労者世帯の消費支出
     三十四万九千六百六十四円
     前年比  一・〇%減(名目)
     前年比  〇・七%減(実質)
    平均消費性向(収入に対する消費の割合)
     七二・五%(前年比〇・九%減)

     こういう家計費のなかの消費支出の減少は、百貨店やスーパーの売上高の減少と見合っている。常識的にいって被服費などのように買わなければ買わないで済む任意支出や、娯楽費などのようにひかえようとすればひかえやすい選択支出などが減少したためだとかんがえることができよう。

     ところでわたしたちは景気と個人消費の成り行きについて、もう少しデータをもっている。平成八年(九六年)の一月に入ってから日本百貨店協会は、一月の売上高が、前年同月に比べて五・四%増になったと発表した。そして二月も引き続いて売上高は増加の傾向にあって、これは景気がほんとうに回復しつつある兆候とみてよいという見解を披瀝している。

     また日本チェーンストア協会は、一月の全国スーパーの売上が、前年同月比で〇・二%増と発表している。しかし食料品や衣料品の売上が減少気味で、ダイエーなどスーパー六社が元日から営業した効果もあまり上がらなかったというコメントを付けている。百貨店のほうが景気の先き行きにたいして少しスーパーより楽観的なのはおかしい気がするが、これは企業体のような大口の消費が、道具や家具や事務用品などで百貨店に向けて集まり、また住宅事情のやや好転ということも、道具類の購入が百貨店に向かって集まっていることによるのではないかとおもわれる。

     これと対比させるために、主な製造業の業況判断指数をみてみよう。この指数は業況が上向きという企業の割合から下向きという企業の割合を差し引いたものだが、主な製造業では二ヶ月まえのマイナス一四からマイナス十二に好転した。主な非製造業ではマイナス二十二からマイナス十八で指数四だけ好転した。中小企業でも製造業はマイナス二十五、非製造業ではマイナス十三で、これでも好転した数字だとされる。しかしマイナス指数であることには変わりないから、好転したというのもまだ希望的な観測の域を出ていないと言えばいえる。

     さしあたって現在わたしたちがもっている景況判断の材料はこのくらいで充分だといえよう。わたしたちはこの材料から全体として一言で総括するとすれば何というべきかをかんがえてみる。企業体を主体としてかんがえれば雨や雪模様の陰翳な天候はおさまって薄くもりの空だが、すかっと晴れわたり、すべて活力をもちはじめるところへゆくには、まだまだいくつかの障壁を越えなくてはならないとおもえる。そしてこのいくつかの障壁のなかには企業体がリストラとして人員の削減や配転で切り抜けることが、いちばん頭脳を使わずに済むために、慣例のように企業体に蔓延していく危惧や不安がいつでもつきまとっている。

     わたしなどの主観的な判断では企業体の好況の兆候が、サラリーマンや労働者の所得増に反映し、その所得増が個人の消費支出の増加につながっていく連鎖の筋が確かな形であらわれたときに、はじめて景気は不況を脱しつつあると言うべきだとおもう。この意味からは金属労協のメンバーである電機、自動車、鉄鋼、造船重機などの大きな企業体が一様に前年を少額でも上回る賃上げをうちだしたのは、ほのかな不況離脱の兆候を意味していると言える。だがほんとうに不況を離脱するのは、過半数を超えたサラリーマンや労働者が働いている第三次産業(卸小売・保険・運輸・サービスなど)の企業体が、前年を上回るような賃金増を構想できるようになったときだというのははっきりしている。そしてこれには産業としての活力と企業体の首脳の革新的な見識とが二つとも集約されなければとてもおぼつかない。これが金属労協の傘下の旧企業体とまったくちがう新しい課題だといえよう。
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    政治・社会・経済をを讀む―「日米防衛協力のための指針」について- 吉本隆明

     村山富市社民党委員長が首班だった連立内閣から自民党総裁橋本龍太郎首班の連立内閣に変わった。そこでじぶんの関心がどう変わったか自問してみた。おなじ自民・社民・さきがけの連立が下半身で、ちっとも変わりないのだから、大きな相違があろうはずがないと言うほかない。だがもう少し微妙な気持の変化をかんがえてみると、何となく関心がまえよりも薄くなったような気がする。村山首班のときには、彼は以前社会党反体制派のときもあったのに何ということをするのかとか、何を言うのかとかいう反撥が批判の気を起こさせた。橋本龍太郎首班では批判しようという意欲が起きるほどのひっかかりすら感じられない。内緒話では、彼の容貌は眼が煙ったようでのっぺりしていて、古典的な女ったらしの表情をしているなどと悪たれてみせるくらいが関心のせきの山だった。

     ところでそんな馬鹿話にふけっていてはいけないという強引さが、すこしあらわれてきて油断ならないという感じになった。そのことを政治現象としてメモしておきたいとおもう。沖縄で駐留兵士たちによる日本人少女の暴行事件がおこった。たぶん今までもそれに類した事件は度々あったのかもしれないが、今度の暴行事件は駐留基地の縮小や撤廃の要求にまで発展する沖縄地域民の抗議の運動にまで発展した。この種の抗議運動はスケジュール運動家の先導で線香花火みたいに盛りあがって、すぐに消えてしまい、「はい次ぎ」ということで終ってしまうことがおおいのだが、今度の事件への沖縄県民の抗議の声には政党に先導されて腰をあげたというところからはみ出して、もしかすると進歩政党や市民主義運動が当惑してしまうかもしれない直撃な県民の声がわたしのような遠隔地のヤジ馬にも聞こえてきた。また沖縄の行政の首脳の声のなかには、米軍基地の半分近く(約三十五%くらい)が民有地の強制接収地だということへの瞋りと、日本国内の米軍基地の大部分(約七十数%)が沖縄に集中し、沖縄の県民が不自由をしのび、被害を蒙っている実情を知りながら、この不公平を是正しようともしないで、犠牲を沖縄県民におしつけたままで恥じない日本政府にたいする瞋りとが二重に含まれていて、この行政主脳(大田知事に象徴される)の瞋りが、並たいていのことでは収まらない強固な本物だということが、橋本内閣の行政指令を拒否する態度のなかにあらわれていた。基地とは違う米軍の影響も全国的にあらわれている。(表1、2参照)

    表1 米軍艦艇の民間港への寄港状況(1995年)

    駆 逐 艦   オブライエン 鹿児島 1月
           エリオット    下 田 5月
    フリゲート艦  ロドニー・M・ 新 潟 2月
            デイビス
           同 上        呉 7月
            ティーチ    鹿児島 12月
    戦車揚陸艦   サン・ベルナル 横 浜 4月
             ディーノ
    揚陸指揮艦   ブルー・リッジ 東 京 3月
            同 上    長 崎 9月
            同 上    鹿児島 9月
    掃 海 艇   パトリオット 徳 山 2月
            ガーディアン 高 知 7月
            パトリオット 高 知 7月
            同 上    稚 内 9月

    表2 主な民間空港の米軍機着陸回数

    年 次 91 92 93 94 95
    旭 川 19 16 4 23 2
    帯 広 54 53 26 0 0
    新千歳 4 8 2 11 0
    仙 台 0 34 135 104 22
    新東京 0 0 0 0 0
    東 京 9 7 0 0 0
    名古屋 22 11 11 25 28
    大 阪 2 35 0 0 84
    関 西 ー ー ー 0 23
    広 島 32 49 55 7 2
    松 山 2 11 14 13 11
    高 知 2 2 5 28 8
    福 岡 114 98 90 112 177
    北九州 0 6 15 4 16
    長 崎 294 308 310 365 292
    熊 本 1 0 4 15 50
    那 覇 0 0 0 0 2
    その他   700 822 884 866 926
    含む計

     わたしたちはその直後に行われた日米首脳会談で、アメリカ政府の責任者が謝罪の気持を公言し、日本政府の橋本首相がそれ相当に強い抗議の意志を表示し、その成果として「普天間基地」が廃止されることが決定し、基地兵員や施設を本土に移すという合議が成立して、まずはよかったということになったとおもってきた。

     ところが事態はその正反対のものだった。アメリカ政府がこの安保再確認の首脳会談で日本側に要求として提案してきたことは、日米が防衛協力することについて、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」に記されている「極東」の地域の「有事」を「日本の周辺域」というように拡大し、日本が侵略をうけたばあいの「自衛権」というところから「集団自衛権」ということに改めて、「日本周辺地域」に起こったことすべてに集団的に「自衛隊」を行使するというように拡大しなくてはならないということだった。

     橋本龍太郎首相は何の抗弁もせずにアメリカ政府のこの要請(指示といってよい)を受け入れ、五月十七日(九十六年)に「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」をこの拡大解釈の方向に改正することに決めた。そして「日本の周辺地域」というのを「日本に重大な影響を及ぼし得る中東やマラッカ海峡、南沙諸島なども含まれる」というように拡張して解釈する見解をうち出した。もちろんこの「有事」の拡大も、「集団自衛権」をこの拡大された「有事の地域」へ適用できるという解釈も、はっきりと憲法違反・第九条の侵犯にあたっている。

     さきの村山首相も自衛隊は合憲であるという言明を国家の予算委員会での答弁ひとつで決定してしまい、カンボジアやルワンダに派遣して、他国の内戦に国連軍の一員として参加し死者と負傷者の犠牲を仕出かしてしまった。この重大な憲法第九条を実質上無効にするような重要な決定を国民にできるだけ知らせないような形でやった。そして護憲派と称する知識人も国民の全般もこのことが何を意味するのか受けとれないで、ぼんやりと気づかずに、眼の前を通りすぎるのを見送ってしまった。そしていまも憲法は無傷のまま、今でも護憲などと言っている。この鈍感さはどうしようもないし、運用論だけで憲法の非戦の事項をつぎつぎに変えてしまう日本人の性格に根ざした政治家や知識人の狡さもどうしようもない絶望感にかられる。わたし自身だって諦めの方が先に立ち、じぶんが諦めても当分何ごとも起こるまいという安きを盗む気持を持っていることを匿せない。だが村山内閣がやったことは、もっと大穴をあけられる形で、橋本内閣でもやられた。日米首脳会談で「有事」の範囲を中東やマラッカ海峡や南沙諸島にまで拡大し、「自衛権」を日本国が侵略を受けたときどうするかの課題から、日本の利害関係がかかわるところならば世界中どこでもという範囲に拡大されてしまった。これが沖縄少女にたいする暴行事件の見返りだという重大な変更が、国民にできるだけ眼を覚まさせない既成の、また自明の事実のように行われてしまった。もちろん、この安保再確認という形での変更をいい事だという受けとり方をする国民はいるかも知れない。むしろ大多数派をつくるほどいるのかも知れない。この数年来、自民のような最保守派から社会民主党の進歩派にいたる連立が成り立ち、共産党がシンパにつくようになってから、いつも重大な折り目のときに繰返されてきたことだ。また新聞、マスコミも宣伝機関として世論のようにそれに迎合してきた。異を称えるためには多少の勇気を必要とするようにもなってきた。

     でも北朝鮮と韓国のあいだに境界線の小競り合いがあったり、北朝鮮が核弾頭ミサイルをもっている疑いがあるとか、中国が核実験を繰返しているとか、中国本土と台湾のあいだに相互の示威的な武力移動があったりすることが、「有事」であると貴方は思いますか? また「有事」にたいする範囲を「極東」から日本の利益に関する事件が起こった世界中の全域にひろげるような事件だと思いますか? わたしはじぶんの戦争体験の反省に照してみて、こんなことは日本国にとって「有事」であり得るはずがないと思っている。それよりもアメリカを説得して軍事的に世界中のお節介の善意を押しつけるよりも、真っ先に核兵器の保有量を縮小し、廃止する音頭をとり、武力が物を言う国家「間」の価値観を無効だとする模範を示すようにしてもらうほうが、ずっと早道だと認識してもらうのがいいと思う。どっちが「現実的」か「非現実的」か考えてみて欲しい。

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