『吉本隆明資料集』のこと

             [『吉本隆明〈未収録〉講演集 4』挟み込み「月報 4」4-8p.]
松岡祥男

 先日、大阪の人から電話がかかってきた。
 その人は「いろんな吉本論が出されているけれど、『吉本隆明資料集』を読まずに書かれたものは、みんな〈モグリ〉だと思う」と言われた。
 「私はそういうふうには思っていません。じぶんにとって必要だから出しているだけです」と答えた。
 そして、「ただ、派閥的に〈黙殺〉したり、また地方のマイナーなものは〈無視〉していいというような傲慢な態度が、出版業界や研究グループの間で罷り通っていることは、悲しいことです。自分たちが偉いと思っている面々は、普通の読者より狡く〈閉鎖〉的なような気がします」と言った。
「私が『吉本隆明資料集』の自家発行を始めたのは、2000年3月です。発行にはさまざまな動機と事情があったのですが、いちばんの動機は『吉本隆明全著作集』(勁草書房)の収録対象から外れた、鼎談や座談会の記録を誰でも読めるようにしたかったからです。その中には、花田清輝との論争の直接的な発端となった「芸術運動の今日的課題」や、六〇年安保闘争の渦中の発言とその総括をめぐる討論もありますし、比較的新しいものでいえば、加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣との討議「半世紀後の憲法」などもあります。その数は七十くらいにのぼっていたのです。」
「それが〈鼎談・座談会篇〉ですね。吉本隆明の了解がよく得られましたね」と、彼は言った。
「私は当然上京して、吉本さんの承諾を得るつもりだったのです。でも、西伊豆の海の事故以降、体調がすぐれないということで、電話でお願いすることになりました。
 吉本さんは〈本を出したいということですか?〉と聞かれました。私が〈はい〉と答えると、吉本さんは〈好きにやってください〉と言われたのです。それだけです。
 じぶんが心血を注いできた著作や発言を〈好きにしていい〉といえる人がいるでしょうか。私は吉本さんの破格のスケールの大きさに圧倒されました。それが吉本さんなのです。」
「一人でやっているのですか」と聞かれた。
「ええ、妻に手伝ってもらっていますが、基本的には一人でやっています。
 でも、資料蒐集については、藤井東さんや宿沢あぐりさんの協力がなければ出来なかったことです。入力や構成、版下作成までじぶんでやっています。ただ、校正については、私は適性を欠いているところがあって、いまは北島正さんに最終の閲読をお願いしています」
「そうですか。長い間やっていると、くたびれてきませんか」
「年齢のせいでしょうが、最近は疲れ易くなりました。でも、〈作業〉自体は充実しています。私は不器用で、入力といっても、ブラインドタッチができないんです。だから、とても遅いんですけど、その分、一字一句、丹念にたどるわけですから、無学な私でも、よく解かります。それに、吉本さんの〈モチーフ〉と〈ハートのありか〉が如実に伝わってきますから、なんか吉本さんと対面しているような感じなんですよ。これはなにものにも代えがたいものです」
「吉本隆明の代表作を挙げるとすれば」
「いやぁ、難しいのですが、やっぱり『共同幻想論』、詩集でいえば『転位のための十篇』ということになるんでしょうね。でも、私はその〈思索の全過程〉だと思っています。
 愛着のある一冊となれば、『吉本隆明歳時記』です。初めてお邪魔した時、持参してサインしてもらいました。それには日付も記されていて、昭和59年9月9日です」
「松岡さんはその後、《『試行』総目次・編集後記》《『試行』第16号〜第28号復刻版》《初出・拾遺篇》という形で継続して、もう15年、第142集まで出しているのですが、なにか印象深いことはありましたか」と問われた。
「そうですね、『試行』の復刻版を作る時は上京しました。
 お会いして、その話をすると、吉本さんは〈『試行』のことは、ぼくの一存ではいきませんので〉と言われて、台所におられた和子夫人と多子さんに聞きに行かれました。即答だったのでしょう。すぐ応接間に戻ってこられて、〈大丈夫です〉と言われました。
 要件が済んで、私もキッチンの方へ行ってビールをご馳走になったんですが、奥さんが〈松岡さんは『試行』のバックナンバーをお持ちですか〉と聞かれた。〈川上春雄さんが復刻された第十五号までと、第二三号からは全部持っています。欠けているものは古書店で探すつもりです〉と答えると、多子さんと相談されて、〈それなら後日提供します〉と言われたのです」
「それはなによりでしたね。しかし、いろいろ困ったこともあったでしょう」
「私は、購読してくれている方々をもっとも〈尊重〉しています。そのお陰で出せているんですから。長い間続けていると、その中には亡くなった人もいます。宮城賢さんや梶木剛さん、奥村真さんをはじめ、お名前は挙げることはできませんけど、訃報が届くと、ほんとうにつらいです。殊にじぶんより年下の人の場合は、ふさぎ込むような感じになります」
「吉本さんご本人が亡くなってしまいました。それでも、発行を続けている理由はなんでしょう」
「私は、ものすごくお世話になっています。吉本さんは、私たちが発行していた『同行衆通信』という雑誌の広告を毎号のように『試行』に無料で掲載してくれました。また、私の詩や評論を認めてくださり、いろんな編集者に推奨してくれたのです。それで『意識としてのアジア』(深夜叢書社)という私の最初の著書が出版されたのですが、吉本さんはその本に強烈な跋文を寄せてくれました。私は、その〈好意〉を決して忘れることはありません。
 主要な著作の初出と、単行本に未収録の著作や講演、対談、インタビュー、談話までのすべてを網羅することを目指しています。上野千鶴子が言ったように、吉本さんは「戦後最大の、そして空前絶後の思想家」です。私の望みは、吉本さんが世代を超えて読み継がれ、本格的に検討されることです。そのための基礎的な資料の一つとなればいいなあと思っています。
 吉本さんは、まことにオープンで、どこまでも根源的な人だったと思います。
 それに倣えば、少部数の粗末な発行物にすぎませんけれど、これが活用されることを期待していますし、メジャーな版元が踏み台にすることも吝かではありません。現に『吉本隆明全集』(晶文社)の刊行にも少しは役立っているはずです。小さな推薦文なども、できる限り収録してきましたから。
 また、主著のひとつである『心的現象論』においても、地元の川村寛さんの尽力もあって、野口宏『トポロジーー基礎と方法』などの引用の点検もやりましたし、連載三五回目の「了解の水準」は推敲のうえ、「色の重層」というタイトルで雑誌『is』増刊の「色」の特集号に再発表されています。これは、既刊の文化学院高等研究所出版局版では全く考慮されていません。それも今後、生かされるでしょう」
 彼は「最後に」と言って、「トラブルはなかったですか」と聞いた。
「小さなミスはいっぱいあります。まあ、資料を探しながらですから、編集も蕪雑なものになっています。
 最大のトラブルは、瀬尾育生と北川透の抗議でした。
 不慣れなせいもあったのですが、鼎談や座談会の出席者の中には、吉本さんと政治思想的に対立している人や論敵も多くいましたので、収録を拒否される可能性もあります。そうなれば〈すべてを収録する〉という当初の目的は頓挫してしまいます。それで叱られるのを覚悟のうえで「事後承認」という手段を選んだのです。もちろん、発言者全員に挨拶文を添えて、現物の冊子を送りました。私の懸念をよそに、岡本潤や野間宏のご遺族や、安保ブントの書記長だった島成郎さんなどからは、感謝のお便りや贈物までいただきました。
 そして、第二五集に「菊屋まつり・フリートーク」(『菊屋』第三四号)を収録したところ、瀬尾育生から抗議があり、北川透は抗議を通り越して、いきなり松岡批判と『吉本隆明資料集』を中傷する文章を各方面へ送ったのです。
 私はこれによって、吉本さんにご迷惑が及んだものと判断し、お詫びの手紙を出しました。
 そうしたら、吉本さんから速達で返事がきました。北川透の行為は〈不当〉であり、いつでも〈特別弁護人〉を引き受けるとありました。そのうえ、

一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や社会常識は時代によって変わります。文芸、一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは永続を目指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集まりに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。
                (吉本隆明 松岡祥男宛書簡2002年10月7日消印)

 と書かれていたのです。」
「やっぱり、吉本隆明は凄いな。頑張ってください」と、彼は言った。
 私も「ありがとうございました」といって、受話器を置いた。
                               (評論家)

「高屋敷の十字路」に戻る
「『吉本隆明資料集』のこと 松岡祥男」 kyoshi@tym.fitweb.or.jp  2015年9月29日著者掲載許諾