高知で松岡祥男氏が主宰する猫々堂から2003年7月30日発行の『吉本隆明資料集31』(「試行」第18号復刻版)に挟み込みの「猫々だより28」に掲載

「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」のことなど

吉田 惠吉

 好天に恵まれた5月連休の午前に自転車で郊外を走り、トイレ休憩をかねて立ち寄った本屋で、吉本隆明書き下ろし「解説」が載った中沢新一『チベットのモーツアルト』(講談社学術文庫4月新刊)を見つけ、機嫌よく帰った午後に読み終え、まず吉本書誌DBにその書誌事項を打ち込む。今回みたいな飛び入りデータはその都度、通常は月末に出力した書誌データの見出し変換を済ませ、著作リスト用のHTMLに流し込んでアップロードしたらひとまず終わり。
 こんな単純作業の繰り返しからできている「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」(http://www.fitweb.or.jp/~taka/ryuweb.html)について何か書こうとすると、気恥ずかしさが先走りしそう。
 この春にお便りをいただいた松岡氏の手になる『同行衆通信』が届くのを心待ちにしていた頃のこと、お気に入り作品の「索引(抄)」を作ったり、作品掲載ページのコピーと綴じ合わせたりしていたこともあったから、読むことの地続きで著作リストを作ったりしがちな傾向が自分にはあったのかもしれない。
 4代を引き継ぐパソコンのハードディスクに、1970年代の吉本書誌データも眠ってるが、吉本著作の刊行とリアルタイムで書誌DBに打ち込み始めたのは1980年代の後半から。その頃は私家版の個人誌に著作リストを打ち出し、少部数をコピーしてばらまいたりしていた。
 1990年代半ば、たまたま転勤になった大学図書館のWebサイト立ち上げをまかされ、さしあたってインターネットで発信できそうな蓄積が館内に見つからず、持ち合わせていた吉本著作書誌データをインターネット版(http://www3.toyama-u.ac.jp/lib/ytbib.html)として公開したら、私的な冊子体では得られない反応もあったりした。吉本著作の原点『初期ノート増補版』の時代背景に影を落とす山形大学や東京工業大学の図書館が何かやりそうな気配も無くて踏み出せた。
 やがて職場の係替えでWeb担当じゃなくなった際に、業務としての引き継ぎなどとても考えられず、富山大学附属図書館のサーバに置いた著作リストを凍結し、書誌データを私的に契約していたプロバイダーのディレクトリへ移行した。
 冊子から電子化へと吉本著作リストの形もサイトの場所も変わったが、書誌データの打ち込みからHTML化まで常に在宅作業だったのが幸い、体調不良で仕事を辞めた後も、サイトの訪問者に支えられ月毎の更新作業が続いている。
 ただ、吉本著作の黄金時代を掘り起こして世に出し、その後の年譜・書誌・解題作成を持続された川上春雄氏の偉業を前に思わず力こぶが入り、「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」などと大風呂敷を広げたまんま、いまだに名前負け状態なのがなんとも歯がゆい。そのうちなんとかと暢気に構えていて、一昨年の秋に氏の訃報に接し、吉本著作の書誌作業を軸にどのような幅と深さで「網」を膨らませていこうか踏み迷っているというのが正直なところ。
 病で逝った父の書斎を整理してはじめて吉本著作に触れた若者から、「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」を探し当てたメールをもらったが、僕の吉本著作との出会いはインターネットの存在など知る由も無かった1960年代半ば。引き揚げ母子家庭の唯一の蔵書『宮沢賢治名作選』を読み返し、稼ぎで『太宰治全集』を買い込み、復刊された『展望』(1965年)の予約購読で、「自立の思想的拠点」や「戦後思想の荒廃」のページに刻まれた著者の文体の感触がはじまり。物事の地勢を見抜く著者と一緒に“敗走”したのに、塀を1枚よけいに乗り越えたりしないで大学を卒業したひとりの吉本読者との一夜語り、そんな偶然が2年後の夏の東京での司書講習で待ち受けていて、暮らしの中で吉本著作を読み続けたい“追っかけ”にいっそう拍車がかかった。(2003.5.9)

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「隆明網(リュウメイ・ウェブ)」のことなど kyoshi@tym.fitweb.or.jp  2003.07.22