本の一言:『吉本隆明資料集』[猫々堂2000年3月〜]をめぐって

吉田 惠吉

顔もわからない読者よ
わたしの本はすぐに終わる 本を出たら
まっすぐ路があるはずだ
埃っぽい日がな一日かけても おわりまで着かない
しまいは蟻の行列のように
あちらからも こちらからも
あつまってきた一隊で
くたびれはてた活字のように
また一冊の本ができそうだ

(吉本隆明「わたしの本はすぐに終わる」第1連)[1993年3月1日『新潮』3月号])

 たゆみない思索の航跡が息づいている吉本著作を遠望する書誌的な海から、対話をはじめとした未読や既読の初出を収集・積載した舟の漕ぎ手が現れ、まるで二本指のキーボード操作で一字一句をたどる写本作業のような日々の労力から、初読・再読の海域へ誘う新たな継続刊行物の背表紙の眺め。

 吉本さんの〈好きにしていい〉という奥深い了解が得られ、猫々堂主人(松岡祥男氏)が2000年3月から自家発行しはじめた『吉本隆明資料集』は、吉本さんが猫々堂主人に印象深いと語られた、「鼎談・戦後文学白書 平野謙×磯田光一×吉本隆明」(『図書新聞』1964年6月27日号)ほか2篇を収録した第1集を皮切りに、「マイ・ブックレット」とサブタイトルを記したカバーをかけ、2002年12月の第27集をもって、その「鼎談・座談篇」が完結した。

 『吉本隆明全著作集』(勁草書房)未収録の数多い鼎談や座談会内容を誰もが読めるようにと、「掲載」についてはそれぞれの出席者の「事後承認」による編集・発行作業が続けられる途上、2002年9月の第25集に収録された「「菊屋まつり」フリートーク(1986.10.19) 加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・成田昭男・小浜逸郎・北川透・瀬尾育生・吉本隆明」(『菊屋』第34号 1987年2月)の無断掲載が、その出席者の瀬尾育生氏から「無断転載」の抗議を呼び、もう一人の北川透氏からは抗議を踏み外して、猫々堂[資料集及び編集・発行者]をまるごと誹謗・中傷する文章がバラまかれた。
 北川透氏の「吉本隆明氏の名前を騙ってさえいれば、何をしてもいいんだという甘え、あるいは傲慢さがあります」などと猫々堂主人だけでなく、『吉本隆明資料集』の購読者をも足蹴にした物言いだが、かって北川透氏の主宰雑誌『あんかるわ』の一購読者でもあった耳には、その後の大学勤めで学会的風潮に染まった言い掛かりとして届いた。

 さまざまな雑誌に掲載された対話記事の収録・編集につきものの著作権処理作業の煩雑さを回避した見切り発行故に生じた「トラブル」に際し、公開・表現された文芸・芸術上の文章表現の原則的なライフラインをめぐって、猫々堂主人の「北川透氏の「抗議文」について」だけでなく、猫々堂主人宛の書簡で吉本さんが語られた原則かつ本質的な考えに癒されるしかない一読者の想いというものもあるのだ。

 「鼎談・座談篇」の収録対象外だが、1959年から1986年までの対話を収めた『吉本隆明全対談集』(青土社)の第2巻の「傍系について」(1970年5月1日、『海』第2巻第5号 5月号 通巻12号 中央公論社発行[対談時期は、1970年2月14日])で、当時の鹿児島県立図書館奄美分館長でもあった島尾敏雄氏に、吉本さんが尋ねている。

吉本 「図書館」というのはなんでしょうか。
島尾 仕事の内容ですか。
吉本 業務としてと、それからもうひとつ、「図書館」というのはいったいなんですか。なんですかといってもおかしいけれど。


 吉本さん流の、いきなり本質的な問いかけだが、

島尾 ぼくは図書館には二つの面があると思うんですよ。それは、資料を保存する面とそれを利用させるという二つですね。これがちょっと矛盾していると思うんですよね。保存というのは、たとえば、ごく少数の人のためになるわけですよね。そうすると、利用の場合は、これは多数の人にね。だから、保存ということはあまり考えないわけですよ。本を消耗品として扱うということですよね。一応公共図書館といわれているようなところは、そのへんがあいまいですね。ことに戦後は、利用してもらうための奉仕ということに非常に一生懸命になっているんですが、これはどういうもんですかねえ。読みなさい、読みなさいという具合に働いているわけですが、片方には、本なんか読まないほうがいいんじゃないかというふうな気持も働いたりしてね。なんか、どうもすっきりしない仕事ですね。

 「すっきりしない仕事」と言われた図書館の業務関連でいえば、東京工業大学の特別研究生だった吉本さんの指導教官だった稲村耕雄助教授の『研究と動員』(1944年日本評論社刊)が十進分類法やカードやUDCについて章をついやし、「研究の組織化にはカードが,あまりバカにできない役割をもつてゐる。カードを生かさうとすると問題になるのは分類である。現在わたくしが直接戦力増強のために全力を注いでゐるのも実はこの分類法の完成である」とは、ブログ[古本おもしろがりずむ:一名・書物蔵]の引用だが、そのほか「稲村耕雄(やすお・耕男とも)研究動員関係文献目録」として、「研究者とカード」『化学の領域』5(5)p.268-273(1951.5)、「有機化学からみた国際十進分類法」『化学の領域』第2巻第3号p.120-129(1948.3)、「読書の科学化:科学の方法から」『日読ニュース』第6号(1948.2)、「科学技術総力の組織化」『科学主義工業』8(3)p.40-45(1944.3)など図書館資料の組織化に関連した文献が挙げられ、文献探索の重要性とその検索結果の組織化をたいせつにする当時の化学研究動向がうかがえる。
 吉本さんの『現代日本思想大系.第4:ナショナリズム』[(吉本隆明編) 筑摩書房, 1964.6]や『宮沢賢治』[年譜,テキスト及び参考文献: p355~368](近代日本詩人選.13) 筑摩書房, 1989.7]など「編著書」にうかがえる徹底した文献参照作業の下地は「東京工業大学無機化学教室」時代に培われたのではないだろうか。

 島尾対談では図書館資料の保存と利用の矛盾が語られ、公共図書館現場で「図書館の初源」への遡行や「図書館の自由」にからめて「表現の自由」が取りざたされるようなことが島尾館長にあったかどうかわからないが、図書館資料を構成する「著作物」の運用に関わる「著作権」などに触れられていない。そんなことより、「蔵書」への執着や図書館の蔵書構成や全集に話がおよんでいる。

吉本 個人の場合、自分の蔵書の中のある種の本にたいしてたいへん執着がありますね。これはあんまり人に貸したくないとか、他人には意味がないんだけれどもなんともいえない執着というのが、ある本についてはあると思うのですが。島尾さんは図書館で図書を管理している場合に、執着といいますか、図書館にある本あるいは資料等と、そこで管理している自分との関係というのは、自分の個人的な蔵書に対する関係とは違いますか。
島尾 ぼくはあまり違いませんね。だから貸したくないという気持が強いんですよ(笑)。個人の場合もそうですが、本を買い集める時に、おのずと蔵書構成というのが問題になりますね。つまり、ある傾きが出てくるでしょう。ぼくはそれぞれの図書館でそういう傾きが多いにあっていいと思うんですよ。まあ実際には、そういう傾きがないように集めているのですが‥‥‥。
吉本 ということは、図書館というのは、全集みたいなものはほんとうはあまりいらないので、あることについてならば、そこにとことんまで資料の本があるという方が望ましいわけですね。
島尾 極端に言えばそうです。そういう図書館が望ましい気がしますね。一般的にはそうじゃなくて、そこに行けば、浅いけれども一通りなんでも用を足すことができるというふうな蔵書構成が好ましいと思われていますけれどもね。まあ、予算がないということもあるんでしょうが。図書館もいろいろあって、ぼくのところのような図書館は、奉仕区域が非常に複雑で広いんですよ。鬼界島だとか、徳之島、永良部、与論といったいろいろな島に箱をかついで行くわけです。なんと言いますか、かつぎ屋みたいな性格があるので、ほかの図書館とちょっとまた違いますが。


 履歴上の質問として島尾対談での図書館談話はここまでだが、その後も吉本さんが図書館の蔵書というより書物に傾けた言葉がある。

 図書館にゆくと、すべての書物は、誰かによって手をつけられていることがわかる。けれど、たぶんほんとうに読まれたのではなく、なにかの役にたてようとして読まれる方がほとんどなのだ。余裕もなく、はやく結論がみつけられないかどうかと焦りながら。そして、書き手もまた、読み手のせき込みに応じようとして、なにかに尻をたたかれながら書物をつくりあげたという書物が、ほとんどであるかもしれない。
(吉本隆明「なにに向って読むのか」1972年年3月30日『文京区立図書館報』50号)

 仕事場の本のあり様から、書き手と読み手の視線を交差するように積み上げられ密集した〈都市〉をイメージ[吉本隆明「活字都市」(1986年1月1日『黄金時代』第2巻6号)]した吉本さんの蔵書のある種の本へのこだわりにくらべ、発行部数や権威に頼らない様々なメディアで語ったり書いたり考え続けることに忙しく、ひょっとして自筆原稿や掲載誌の現物やその書誌的記録の保存に無頓着だったのではないだろうか。
 ともすれば発表したあとは読み手や聴き手まかせなところへ差しのべられた川上春雄氏(2001年逝去)の手になる初期吉本詩篇や手稿の掘り起こしと年譜や書誌解題が手放せず、駆け出し吉本読者の道標となった、

 川上春雄「吉本隆明年譜」『現代詩手帖』1972年8月号(思潮社)所収
 川上春雄「吉本隆明年譜」『吉本隆明を<読む>』(1980年、現代企画室発行)所収
 川上春雄「著作別吉本隆明参考文献目録」『国文學:解釈と教材の研究』第6巻4号(1981年、學燈社)所収
 川上春雄「<解題>爆風のゆくえ」『改訂新版共同幻想論』(角川文庫)吉本隆明著(1982年、角川書店)所収
 川上春雄「川上春雄編年代抄II 吉本隆明年譜 吉本隆明論集成」『現代詩手帖12月臨時増刊:吉本隆明と<現在>』(1986年、思潮社)所収
 川上春雄「作家案内ー吉本隆明」『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫)吉本隆明著(1992年、講談社)所収
 川上春雄「吉本隆明年譜」『埴谷雄高・吉本隆明の世界』斉藤愼爾責任編集(1996年、朝日出版社)所収
 川上春雄「吉本隆明年記」『吉本隆明の文化学ープレ・アジア的ということ』(1996年、文化科学高等研究院)所収

  などが忘れられない。

 2002年12月『吉本隆明資料集』の[鼎談・座談篇]全27冊をもって、一歩たりとも図書館の雑誌の山をかきわけたりすることなく、1956年から1995年までの40年間に吉本さんが参加された65件におよぶ鼎談・座談を読むことができ、読者冥利に尽きる3年あまりを過ごさせてもらったあと、吉本さん主宰の『試行』の「全目次・後記」及び「資料」を収めた第28集にに引き続き、『吉本隆明資料集』は新たな展開を見せた。
 2003年4月15日付け発行の「吉本隆明資料集29」が届き、そのカバーを外した一瞬、はるか彼方から『試行』の人「吉本隆明」をめぐる感触がよみがえったようだ。紙質こそ違え、あまりにも当時のままに再現されていたからだ。
 今は疎遠になった友人や知人と回し読みしたりしているうちに散逸してしまった『試行』バックナンバーの欠落を補ってくれた猫々堂・復刻版の刊行が、2004年11月の「吉本隆明資料集第41集」でその第1期が終り、次集から「初出・補遺篇」が開始された。
 多方面にわたっている吉本さんの執筆の書誌的把握事情を察し、その散逸を懸念した猫々堂主人が「単行本未収録リスト」の作成にふみだし、吉本さんの〈表現〉をリアル・タイムで読み・聴きし尽くせていない読者の〈未読〉頁が、「初出・補遺篇」として活写され、ときには書店で見開いた「初出」の既視感へと誘う。

  活字を叱りつける活字を
  おぼえ さっそくはじめた いま
  いちばんいけないのは
  なにかありそうに
  じぶんで紙のうえにやってきて
  並んでしまうことだ
  入りたいと囁いたって
  字体ごと拒めばいい
  活字をのせた
  紙たちは
  枯れ葉のように
  しずかにしずかに 世界を朽ちさせる

(吉本隆明「活字のある光景」第1連[1985年12月25日『ユリイカ』12月臨時増刊号])

 2004年12月の第42集収録の「文学者の戦争責任」(1956年9月)をはじめ必要とされる吉本著作の初出の復元だけでなく、単行本や全集で読めなかった既発表諸著作から談話記事まで編年的に網羅する猫々堂主人と少数の協力者の手によって、どれほど吉本〈資料〉の書誌的な散逸が免れてきたかはかりしれない。初出を読む高鳴りが、なみなみならぬ吉本さんへのこだわりに貫かれた猫々堂主人の手作業で写しとられ、手渡された読者の胸のうちで共鳴するように、「初出・補遺篇」の継続発行が新たな吉本さんの「作品」や「発言」を呼び集める流れに乗り合わせた購読者と猫々堂主人の〈現在〉を浮かび上がらせる頁の活字。
 『吉本隆明資料集』で吉本著作の〈初源〉を遡るように、「初出・補遺篇」に収録の著作から談話記事まで、一字一句をたどる活字の手渡しが必要とされる猫々堂主人の状況があり、それが同時に読者自身の支えにもなるのだ。

  過剰なにんげんが集まってゐたとしても独りはやっぱり独り
  おれの複本は何処にもない
  おれの仲間はどこにもゐない
  時間がおれを何と呼ぶか
  おれにはわからない
  先づおれ自身を販りこむために模型をこしらへる必要がある
  模型には動勢はゐらない
  だからおれはやっぱり何処へいつて生きていいのかわからない

  [「にんげん」に傍点=引用者注]
(吉本隆明「〈複本〉」後半部分[「日時計篇II」1951年])

 第4集[?]から毎度資料集挟み込みの「猫々だより」51号(2006年4月)に掲載された、「自閉症」の次男の子育てについて尋ねた読者への返信の終わりに、「やっとこの位のことを身体と心体について言えるようになりました。」 (「2000年1月10日付石田孝宛吉本隆明書簡」)とあり、当時76歳の吉本さんが書き続けてこられた「初出」を複本化する『吉本隆明資料集』における活字化の船出は、その数ヶ月後のことであった。
 吉本さんが「身体と心体について」書き継がれた「心的現象論」の未刊となっていた『試行』連載46回分を、独力で「資料集」の第56集:眼の知覚論・身体論、第59集:関係論、第65集:了解論 I、第68集:了解論 II、第72集:了解論 IIIとして入力し、完成した「全5集」が猫々堂による『試行』復刻の「第2期」にあたる。著者校閲を経たものではないとはいえ、特に「形式論理的な〈関係〉」の項の「引用」など、他社刊行の〈『試行』連載再録〉にはない「校訂作業」がなされ、これからの吉本読者にとって読み外せないだけでなく、版元にとっても「主要作品の初出復元と、単行本未収録の著作・講演・対談・談話等を網羅」[資料集(「初出・拾遺篇」)の編集方針]した「収録内容」の活用が期待できる。

 飼い猫に原稿を汚されようがなんだろうが、表現したものに執着しない吉本さんの書きっぷりが、追っかけ読者にとっての魅力のひとつだが、こういうところにも読者の多寡を問わず、〈書く〉行為だけじゃなく〈読む〉という行為にも投影される自己対象化の場として〈有用性〉を超えようとする『吉本隆明資料集』購読の営みが成り立っていると言えそう。
 容赦ない資本のリストラ攻勢に直面した一人である猫々堂主人が、その後の失業状態から「資料集」の発行に打って出ざるを得なかった「社会情勢」はというと、収奪の強化をはかる市場原理主義に手綱を握られた社会システムの高度化で、人心は経済的な乱気流に煽られ、労働者の権利も抵抗も骨抜きになり、有効な反撃組織も運動もない。今日の第三次産業就業者層における離婚、身心不調、自殺(未遂を含む)が目立つ傾向は他人事ではない。本質的な対応策もないまま、どこまでも人々の間を分断し孤立化する後退戦の場として文字通り体を張るしかない。
 「資料集」は質素な作りに見えて読みやすい文字の大きさといい、その一冊一冊は猫々堂主人の情況に対峙する〈身体性〉が創出した技の集成になっているのだ。生活者として日常の諸事を端折ったり、やり過ごしたりしない徹底した暮らしをまっとうしながら、自作した吉本さんの「著作リスト」順に入力を毎日続け、所定のページ数に達したところで一集分にまとめた自力発行を積み重ねる。
 十数年を越えた今もつづいている姿勢が、吉本さんが言われた「二十五時間目」の営みに渉るものであろう。生活のいっさいをひきうけながら紡がれた思想や作品のことばに感動をおぼえる。

 わたしは、ここで〈時ー空性の指向変容〉という概念を提出したいとおもいます。もちろんこの〈指向変容〉というのはわたしの造語で、〈インテンシブ・モディフィケーション〉とでもいっておきます。これはどういう概念かといいますと、身近なことについてなら、起ってくる事象をわりあい包括してとらえることができやすいが、身近でないところの問題の場合には、こぼれおちてくる事象があり、その事象はまったく偶発的な〈事実〉としてしか存在しないかのようにみえてしまう、という矛盾のあいだの〈距離感〉、〈誤差〉というものをはっきりさせるための概念です。
(吉本隆明「南島論ーー家族・親族・国家の論理ーー」[1970年12月『展望』通号144])

 ときめくようなはじめての「ことば」に出会い、「あらゆる時間性というもの、あらゆる歴史的段階というものは、あらゆる地域的空間に、そしてあらゆる地域的空間というものはあらゆる歴史的な段階に、あるいは、あらゆる世界的な共時性というものは、あらゆる世界的な特殊性というものに、相互転換すること」(同前)で新たなものの見方考え方ができる喜び。

 空間と時間、あるいは地域と歴史的な時代性とは、この[その情報をひきおこした未知の出来事に関するかぎり、ヨーロッパは認識における〈未開〉の社会に転化する。=引用者注]ようにして相互に認識のなかでは変換することができる。だから、この現在の共時的な世界は、それを志向性のさまざまな変容として統括的にとらえられるべきであるようにおもわれる。わたしたちはこの志向性の変容を、関係の仕方の構造をあきらかにすることによって、明確にしうるものとみなすのである。
(吉本隆明「南島論 I 前提」[1989年8月『文藝』秋季号])

   「日本列島の村落の起源」をイメージした吉本さんの「南島論」を収めた第99集(2010年10月)に続き、2002年9月の第25集に収録された「「菊屋まつり」フリートーク(1986.10.19) 加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・成田昭男・小浜逸郎・北川透・瀬尾育生・吉本隆明」(『菊屋』第34号 1987年2月)の「無断掲載」をめぐるトラブルに決着をつけるべく、《文芸の〈本質〉は「人がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しい」》と言わしめた吉本さんの感銘深い猫々堂主人宛書簡(2002年10月7日消印)が掲載された『吉本隆明資料集100:ハイ・イメージ論(初出)6』(2010年11月)の発行が、『吉本隆明資料集』継続10年の節目を飾った。

一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や社会常識は時代によって変わります。文芸、一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは永続を目指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集まりに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。
(吉本隆明 松岡祥男宛書簡[2002年10月7日消印])

 とにかく吉本さんが書かれたものなら、何でもかんでも読みたくなるのは、書き手の体壁で仕切られた〈内部〉と〈外部〉を行き来して「じぶんの直腸を通り社会的な腸管として存在している「労働者」や「大衆」に、いわばじぶん自身に、問いかける以外には、世界史への共同性への通路は存在しないということを確認できるならば、彼は戦後文学の範疇にあるということができます。」(吉本隆明「戦後文学論の思想」[1963年6月10日『日本読書新聞』])というように往還する〈文体〉によって、読むものの〈内的自然〉と〈外的自然〉が出会う〈内観〉を呼び覚まされたりするからではないのか。

 大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、再現不可能生のなかに実相があるものと見なされる。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての時代を通じて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのものなかに虚像として以外に登場しえない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたしたち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することからはじめる以外にありえないのである。
(吉本隆明「日本のナショナリズム1前提」[1964年6月『現代日本思想大系4ナショナリズム』筑摩書房])

 内観と客観あわせもつ身体という無意識の表現と、言葉や芸術という意識的表現が、たがいに浸透しあって、文化という一つの〈表現〉を形づくる。社会の都市化傾向はあともどりすることなく、意識的表現を拡張し、無意識かつ身体的表現を縮小するようにはたらき続けていて、いまや生そのものまで均質化されてしまう〈未知〉なる現在を解き明かそうとする立ち位置の視線がある。

 〈書物〉を著述するもの書きとしてのわたしが、いちばん大切にかんがえている声や視線は、けっしてわたしの〈書物〉を読まない人々の声や視線であり、一般化していえばけっして〈書物〉を読まない人々の声や視線である。
 もちろんそれらの人々の姿はわたしには視えないし、その声はわたしには聞こえない。しかし書き手としてのわたしのほうがその視線を感じその声を聴こうとするのである。それらの〈書物〉を読まない潜在的な人々をおそれるのである。

(吉本隆明「書物の評価」[1971年年11月1日『出版ダイジェスト』第700号])

 さまざまな表現に定着した意識が、世代交代によるな身体的な感受と表出による継承を繰り返すなかで、定着したり消失したり、文化や伝統と呼ばれるものを創出する。意識はその再受入れを重ねる内部で繰り返し吟味し、その結果が更なる表現として定着され、無限ループ状に文化は膨大なものとなる。そのような意識のもっともピュアな表現が〈沈黙〉による表現ではないか。詩がもっとも純粋であるために、文字は表現としての容れ物を排除しようとする、と同時にそれは、みずから持つ固有の自然、〈沈黙〉自体を生み出した身体そのものとのズレをまぬがれない。内観的身体は自己の死とともに失われるが、客観的身体は自己の死後も存続し、他者の身体のなかで生き続けることがあるように。

 吉本さんが逝去された2012年3月16日、その日は朝早くヨメと出かけた立山山麓スキー場から帰った夕飯時のNHKニュースで耳にしたのだが、食欲が細ったみたいに読めなくなってしまい、命日に供えたみたいに刊行された石川九楊との共著『書 文字 アジア』(筑摩書房)などいまだに読み切れていない。
 それから一年あまり間をおいて、死の三ヶ月前の語りを収めた『フランシス子へ』(講談社)を手にしたときは吉本さんの視線がよみがえるようだった。長岡での農業論の講演会場でだが、ときおり吉本さんの目は聴衆の目を通り抜けて遥か彼方を見つめる猫のように光った。その先で猫の目が永遠を見ているのか、人の目が闇を見ているのか、猫同士でも人間同士いずれでも成り立たない関係が、おそらく猫と人との間では成立することがあるのだ。

 あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。

 自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、ちょっとほかの動物ではたとえようがない気がします。

 僕は「言葉」というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。

(吉本隆明「自分の「うつし」がそこにいる」[2013年3月『フランシス子へ』講談社])

 もしかすると人間には、人類の枠組みではどうにも収まりきらない何かがあって、ふだんの生活では押さえ込んでいる別の自分、本能的というか野性的というか猫類の自分がいるんじゃないか。
 猫さんと一致しているときだけ、そういうはみ出している自分がまったく解放されている。
 そういうことまで感じられるようになったら、これはもう、無類の状態と言えるんじゃないでしょうか。

(吉本隆明「猫になればいい」[2013年3月『フランシス子へ』講談社])

   猫型人間を自称する吉本さんが、最晩年の自宅で「言葉」として和歌などに定着してしまっているほととぎすの「実在性」を疑いだし、知人の医師とふたりで「ホトトギスの会」を立ちあげて調べながら、『夏は来ぬ』を口ずさみ、「本当かねえ」とつぶやく姿が、房総半島の先端で「浄土はあるのか、ないのか」を問う渦潮に巻き込まれるように佇む親鸞の姿に重なるようだ。

 その頃のこととして次女のばななさんが「死ぬ一年くらい前から、父はくりかえし言うようになった。」と書きおこしたエッセイ(吉本ばなな「ほととぎす」[2016年4月『イヤシノウタ』新潮社]のなかで、「いちばんはじめは一の宮♪」からはじまる手まり歌が吉本さん口癖のようになっていたのを読んだときは、はるか彼方になった「吉本隆明・農業論・パート2」[1989年7月9日長岡短期大学]で世話役の女性に案内された講師控室から、[某編集者]と話されていた吉本さんの声が聞こえてくるようだった。

 吉本さんに生きていてほしかったという思いに水をさすような「訃報」や「追悼文」の数々を手にしたり、読みたくもないのにいつのまにかそれらの書誌データを「隆明網〈リュウメイ・ウェブ〉」に打ち込み続けたりしている間も、猫々堂『吉本隆明資料集』は途切れることなく持続していて、ぼちぼち読むことも回復できた。
 いかに吉本さんが偉大な存在であったか、二百件ほど確認できた「吉本隆明追悼記事(文・特集)一覧/書誌」がその影響力の凄さを物語ってくれたとはいえ、数の多さに比してこんな際にそんなことを?!みたいな「発言」も少なからず、表立って何も言わない渡辺京二氏のような〈沈黙〉が吉本さんの存在に相渉っているような気がした。

 ところで「猫々だより78」(2008年12月)の【猫やしき】で「吉本さんの学校時代に関する談話が幾つか挿入されています」と紹介された川端要壽編著『東京・深川 府立化工物語』(東京都立化学高等学校化工同窓会・1994年6月26日刊)を見つけた宿沢あぐり氏による吉本さんの〈書きもの〉すべてを網羅するような探索と蒐集に目を見張る。
 2011年3月に起きた東北から関東にかけての大震災と原発事故による凄まじい被害の重苦しさが漂う猫々堂の気を晴らすように宿沢あぐり氏から新発見吉本緒作品が寄せられ、「資料集」の第108集で「わたしの地名挿話」(1987年)と「『林檎園日記』の頃など」(1988年)、第112集で「岸上大作宛書簡」(1960年)と「「ずれ」を生きる良寛」(1992年)などが初めて読めることになった。
 その後も宿沢氏の驚くべき探索力によって「室生犀星(東京・日本近代文学館・犀星忌講演・1988年3月26日『高原文庫』第3号1988年8月1日発行)」[吉本隆明資料集 126]や「「未来元型」を求めて 樋口和彦・吉本隆明(『プシケー』第8号[日本ユングクラブ会報]1989年6月25日発行)」[吉本隆明資料集 122]が見出され、ますます猫々堂「資料集」を豊かなものにした。

 「吉本ファン諸氏よ! 私はあなた方とはなんの関係もないのだ。」(ハルノ宵子「鍵のない玄関」[2013年3月『フランシス子へ』講談社)とは、ご両親を介護し相次いだ死を看取られた長女のハルノ宵子さんの言だが、吉本さんを訪れる読者にはそんなにめんどくさい人が多かったのだろうか。
 ことほど読者層の幅と奥行きがありすぎて、「私は訪れる方々に、これからも父の生前と変わらずに対応していこうという気持ちと、父の蔵書も資料も原稿もろともすべ、ブルドーザーでぶっ潰して更地にしてやりたいという、“黒い誘惑”との間を振り子のように揺れている。」(同前)想いを振り切らせたのが、主をなくした「書斎」を擁する吉本家の美しいたたずまいであろう。そしておそらくそんな「更地」にしたとしてもやってくるであろう読者を想定したうえで、住宅をリフォームした「猫屋台」でのもてなしなのだろう。
 ハルノ宵子さんがいっとき想起された亡き父の仕事場のなにもかも「ブルドーザーでぶっ潰して更地に」するなんてのは、本の整理法の一つとして、いかに書物にもそれを読むことにも物神性を認めない生前の吉本さんでも思いつかなかったのではないか。

 むかし東京市の歌というのがあって、小学校の式などのとき唱わされた。「月影入るべき山の端もなく、昔のひろ野の面影いずこ」といった文句があった。東京はそのあと、手がつけられないほど発達しすぎて、いまやエコロジストたちのひんしゅくの的になるほどになった。
 わたしの仕事場もごみためのように不潔で、駄本の山積みのために出入りの交通も危うくなるほど密集して、手がつけられなくなった。この有様をみて、東京のビル街の縮尺をみているようで、さまざまなシミュレーションを頭のなかで試みて、模擬的な都市論をやるときのイメージを作っている。

(吉本隆明「いずれもの書き自身を廃棄処分にする時代が来るだろう」[1994年8月10日『私の「本」整理術』メタローグ])

 本を売っぱらったりせずに「もの書き自身を廃棄処分にする」にはどうしたらいいか。廃棄処分した「更地」丸ごとアーカイブ化することだ。たとえば『吉本隆明資料集』なら、猫々堂主人の手によって全テキストがデジタル・データ化されてしまっている。パブリックドメインとして公開し、閲覧者からのドネーションによってサーバーの運用その他を賄う‥‥‥などと非現実的な夢想をよそに、待望していた吉本さんの全集(晶文社)が2014年の春から刊行開始された。

 同年の秋には、吉本資料の蒐集を続けてこられた宿沢あぐり氏の労作「吉本隆明年譜」の「資料集」への掲載がはじまった。第139集にその1[1924-1950]、第143集にその2[1951-1959]、第146集にその3[1960-1962]、第149集にその4[1963-1966]、第152集にその5[1967-1970]、第155集にその6[1971-1974]、第158集にその7[1975-1978]、第161集にその8[1979-1982.4.]と断続連載中で、吉本さんの著作活動の書き下ろしドキュメンタリーのページをめくり続ける新鮮さがたまらない。
 あたりまえのこととはいえ、ひとつひとつ現物にあたって書誌事項を確かめられていて、新たな考証もあり、ゆきとどいた関連文献の参照が読ませる。
 行きつけの市立図書館の書架に『吉本隆明全集』(晶文社)の第1期分がならんだが、隣接して『吉本隆明資料集』(猫々堂)も手にできるほどゆきとどいていない公共図書館の吉本さんの本の選書[国立国会図書館は所蔵]ならびに閲覧環境はまだまだなのだ。もとより「考え続けた人」として図書館の書庫におさまるより、「考える方法を見つける人」として巷で溢れるように読まれるほうがいいのだが。
 ずいぶん前のこと、昼休みの職場の売店の雑誌棚で『マリ・クレール』を見つけ、書き出しに引き込まれるように吉本さんの「母型論」を読んだことがある。

 わたしたちの区分では、幼児期が意識の領域にむかって拡がるのといっしょに無意識の中間層がつくられる。この中間層は言語的な発現と言語にならない前言語(ソシュール的にいえばシニフィアン)的な発現との葛藤を通じて形成されるものだとみなされよう。無意識がかかわっている行為は、正常心であっても異常であってもこの層のスクリーンで、はじめて写しだされる。ほんとうは無意識の核がかかわっているばあいも、無意識の表面層がかかわっているばあいもあるのに、中間層に葛藤や錯合があるかのように集約されるといってよい。
(吉本隆明「母型論(ハイ・イメージ論〔1〕)」[1991年5月『マリ・クレール』第10巻5号])

 母親との関係を生きる前言語的な乳胎児期から言語発現的な幼児期、血縁関係のなかで意識領域が拡がる学童期から思春期にかけて錯綜し形成され、そして階層化される無意識の三つの層からなる光源に照らしだされたような読み心地が忘れられない。数年後のインタビュー本でも、人間の心や精神を決める三要素として語られている。

 ぼくはいま、人間の心なり精神を決定している要素をおおざっぱに三つに分けてかんがえています。ひとつは、人間の心の「核」にあるのは、幼児の時と一歳未満の時のあいだでの母親との関係、その時の母親との関係の障害が無意識のいちばん底のところに収まっているだろうとおもわれます。そのつぎは、乳児の時から幼児期までに、これも主として母親ですが、それと家族とか、もうすこしひろげれば親戚とか、近親者との対人関係のなかで形成されるものがかんがえられます。それは無意識に入っていたり、意識の方に出てきたりという出方をする心の「中間層」にあたります。そして三つめの「表面層」のところの大部分は、その手前の無意識のところから規制されていく面があって、だいたい意識的な振る舞いとか、意識的なそのひとつの性格を形成しています。
(吉本隆明・田原克拓[聞き手]「心のなかの三つの層」[1993年5月『時代の病理』春秋社])

 十代から二十代への鞍部を越えたあたりで吉本さんの著作に出会い、否応なしに生きざるを得ない〈心身〉の感性的な対象化ではなく、その体壁で仕切られた外的空間および内的空間を考察するのに、どのような対象に対してどのような了解の時間が可能であるかを発見することばの旅を見失わないように吉本さんを追いかけてきた。
 すっかり書棚になじんだ『吉本隆明資料集』の既刊各集タイトルを順に眺めたりすると、遠くなった暮らしの曲がり角で見え隠れする吉本著作の読書履歴が二重写しに浮かぶ。そんな道中で出会った古くからの吉本さんの読者には、書き下ろしからインタビューや語り下ろし本への様変わりが食い足らないといって、離れていった人もいた。去りゆく読者も新たな読者もことばが自在に行き来できる読書の場の出会いと別れ。
 身体・生理的な不具合にみまわれながら、吉本さんご自身の〈老い〉を生ききるように紡がれたことばの射程は広く深く、内部から遥か彼方まで照らしだしている。

 宮沢賢治は、自分は銀河系の一員であり、銀河にある太陽系の中の地球にある陸中、イーハトーブである、というようなことを言っています。となりの人や家族、社会といった人間同士の横の関係よりも、真っ先に天の星と関係していると考えていたように思います。そして、宮沢さんの考えを突き詰めていくと、人は銀河の寿命と同じだけ生きていける、という考えに行き着くと思います。宮沢さんははっきりとそうは言っていませんが、そういうことになると僕は思うんです。
(吉本隆明「新書化にあたってのあとがき」2011年3月[2011年4月『老いの幸福論』青春出版社])

 遠からず平均寿命が百歳以上になるのは自明の理だと思います。人間や人類はどこで終わるかを考えれば、宇宙が壊れたら終りです。そのことをきちっと考えてゆけば、そんなに悲観することもないよということになると思います。個人的には、いいことは一つもないよと言いたいところですが、そのなかで希望があるとすればそのことだと思います。
(吉本隆明「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」2011年4月22日[2011年6月『思想としての3・11』河出書房新社])

 2017年3月発行の『吉本隆明資料集163:中原中也について/イエスとはなにか』は、2005年7月号雑誌掲載原稿が載っていて、その後の収録対象となる未収録著作や談話記事も少なくなり、いよいよ大詰めが近づいてきているといえよう。付きすぎず離れすぎず、絶妙な距離を保ちながら物事を成し遂げることは大変なことだと思う。
 既刊分の各集タイトル[猫々堂「吉本隆明資料集」“”ファン”ページ:http://www.fitweb.or.jp/~taka/Nyadex.html"参照]を眺めてどれかが読むきっかけとなれば、そこから間口が広く奥行きも深い吉本著作群に分け入りやすく、価格的にも持ち歩きにも手頃な『吉本隆明資料集』だが、残念なことに本屋でも図書館でも未知の読者が手にし難い壁がある。
 猫々堂は既刊分も増刷して在庫を切らしていないようだが、これからの刊行予定分も含め、一冊でも多く読者の手にわたって欲しい。吉本さんの六回忌にあたる日のツイッターで次女のばななさんが「たかあ忌」と呟いているのを見かけ、よりいっそう願いが強まった。(2017年春分の日に)

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「本の一言:『吉本隆明資料集』[猫々堂2000年3月〜]をめぐって」 kyoshi@tym.fitweb.or.jp  2017.03.24