最終更新日:2017/03/22

十字路からの発言(2017/03/22)

本の一言:『吉本隆明資料集』[猫々堂2000年3月〜]をめぐって
	顔もわからない読者よ
	わたしの本はすぐに終わる 本を出たら
	まっすぐ路があるはずだ
	埃っぽい日がな一日かけても おわりまで着かない
	しまいは蟻の行列のように
	あちらからも こちらからも
	あつまってきた一隊で
	くたびれはてた活字のように
	また一冊の本ができそうだ
(吉本隆明「わたしの本はすぐに終わる」第1連)[1993年3月1日『新潮』3月号])
 たゆみない思索の航跡が息づいている吉本著作を遠望する書誌的な海から、対話をはじめとした未読や既読の初出を収集・積載した舟の漕ぎ手が現れ、まるで二本指のキーボード操作で一字一句をたどる写本作業のような日々の労力から、初読・再読の海域へ誘う新たな継続刊行物の背表紙の眺め。
 吉本さんの〈好きにしていい〉という奥深い了解が得られ、猫々堂主人(松岡祥男氏)が2000年3月から自家発行しはじめた『吉本隆明資料集』は、吉本さんが猫々堂主人に印象深いと語られた、「鼎談・戦後文学白書 平野謙×磯田光一×吉本隆明」(『図書新聞』1964年6月27日号)ほか2篇を収録した第1集を皮切りに、「マイ・ブックレット」とサブタイトルを記したカバーをかけ、2002年12月の第27集をもって、その「鼎談・座談篇」が完結した。
 『吉本隆明全著作集』(勁草書房)未収録の数多い鼎談や座談会内容を誰もが読めるようにと、「掲載」についてはそれぞれの出席者の「事後承認」による編集・発行作業が続けられる途上、2002年9月の第25集に収録された「「菊屋まつり」フリートーク(1986.10.19) 加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・成田昭男・小浜逸郎・北川透・瀬尾育生・吉本隆明」(『菊屋』第34号 1987年2月)の無断掲載が、その出席者の瀬尾育生氏から「無断転載」の抗議を呼び、もう一人の北川透氏からは抗議を踏み外して、猫々堂[資料集及び編集・発行者]をまるごと誹謗・中傷する文章がバラまかれた。
 北川透氏の「吉本隆明氏の名前を騙ってさえいれば、何をしてもいいんだという甘え、あるいは傲慢さがあります」などと猫々堂主人だけでなく、『吉本隆明資料集』の購読者をも足蹴にした物言いだが、かって北川透氏の主宰雑誌『あんかるわ』の一購読者でもあった耳には、その後の大学勤めで学会的風潮に染まった言い掛かりとして届いた。
 さまざまな雑誌に掲載された対話記事の収録・編集につきものの著作権処理作業の煩雑さを回避した見切り発行故に生じた「トラブル」に際し、公開・表現された文芸・芸術上の文章表現の原則的なライフラインをめぐって、猫々堂主人の「北川透氏の「抗議文」について」だけでなく、猫々堂主人宛の書簡で吉本さんが語られた原則かつ本質的な考えに癒されるしかない一読者の想いというものもあるのだ。
 「鼎談・座談篇」の収録対象外だが、1959年から1986年までの対話を収めた『吉本隆明全対談集』(青土社)の第2巻の「傍系について」(1970年5月1日、『海』第2巻第5号 5月号 通巻12号 中央公論社発行[対談時期は、1970年2月14日])で、当時の鹿児島県立図書館奄美分館長でもあった島尾敏雄氏に、吉本さんが尋ねている。
吉本 「図書館」というのはなんでしょうか。
島尾 仕事の内容ですか。
吉本 業務としてと、それからもうひとつ、「図書館」というのはいったいなんですか。なんですか
といってもおかしいけれど。
 吉本さん流の、いきなり本質的な問いかけだが、
島尾 ぼくは図書館には二つの面があると思うんですよ。それは、資料を保存する面とそれを
利用させるという二つですね。これがちょっと矛盾していると思うんですよね。保存というのは、た
とえば、ごく少数の人のためになるわけですよね。そうすると、利用の場合は、これは多数の人にね。
だから、保存ということはあまり考えないわけですよ。本を消耗品として扱うということですよね。
一応公共図書館といわれているようなところは、そのへんがあいまいですね。ことに戦後は、利用して
もらうための奉仕ということに非常に一生懸命になっているんですが、これはどういうもんですかね
え。読みなさい、読みなさいという具合に働いているわけですが、片方には、本なんか読まないほう
がいいんじゃないかというふうな気持も働いたりしてね。なんか、どうもすっきりしない仕事ですね。
 「すっきりしない仕事」と言われた図書館の業務関連でいえば、東京工業大学の特別研究生だった吉本さんの指導教官だった稲村耕雄助教授の『研究と動員』(1944年日本評論社刊)が十進分類法やカードやUDCについて章をついやし、「研究の組織化にはカードが,あまりバカにできない役割をもつてゐる。カードを生かさうとすると問題になるのは分類である。現在わたくしが直接戦力増強のために全力を注いでゐるのも実はこの分類法の完成である」とは、ブログ[古本おもしろがりずむ:一名・書物蔵]の引用だが、そのほか「稲村耕雄(やすお・耕男とも)研究動員関係文献目録」として、「研究者とカード」『化学の領域』5(5)p.268-273(1951.5)、「有機化学からみた国際十進分類法」『化学の領域』第2巻第3号p.120-129(1948.3)、「読書の科学化:科学の方法から」『日読ニュース』第6号(1948.2)、「科学技術総力の組織化」『科学主義工業』8(3)p.40-45(1944.3)など図書館資料の組織化に関連した文献が挙げられ、文献探索の重要性とその検索結果の組織化をたいせつにする当時の化学研究動向がうかがえる。
 吉本さんの『現代日本思想大系.第4:ナショナリズム』[(吉本隆明編) 筑摩書房, 1964.6]や『宮沢賢治』[年譜,テキスト及び参考文献: p355~368](近代日本詩人選.13) 筑摩書房, 1989.7]など「編著書」にうかがえる徹底した文献参照作業の下地は「東京工業大学無機化学教室」時代に培われたのではないだろうか。
 島尾対談では図書館資料の保存と利用の矛盾が語られ、公共図書館現場で「図書館の初源」への遡行や「図書館の自由」にからめて「表現の自由」が取りざたされるようなことが島尾館長にあったかどうかわからないが、図書館資料を構成する「著作物」の運用に関わる「著作権」などに触れられていない。そんなことより、「蔵書」への執着や図書館の蔵書構成や全集に話がおよんでいる。
吉本 個人の場合、自分の蔵書の中のある種の本にたいしてたいへん執着がありますね。これ
はあんまり人に貸したくないとか、他人には意味がないんだけれどもなんともいえない執着というの
が、ある本についてはあると思うのですが。島尾さんは図書館で図書を管理している場合に、執着と
いいますか、図書館にある本あるいは資料等と、そこで管理している自分との関係というのは、自分
の個人的な蔵書に対する関係とは違いますか。
島尾 ぼくはあまり違いませんね。だから貸したくないという気持が強いんですよ(笑)。個人の場
合もそうですが、本を買い集める時に、おのずと蔵書構成というのが問題になりますね。つまり、あ
る傾きが出てくるでしょう。ぼくはそれぞれの図書館でそういう傾きが多いにあっていいと思うんで
すよ。まあ実際には、そういう傾きがないように集めているのですが‥‥‥。
吉本 ということは、図書館というのは、全集みたいなものはほんとうはあまりいらないので、ある
ことについてならば、そこにとことんまで資料の本があるという方が望ましいわけですね。
島尾 極端に言えばそうです。そういう図書館が望ましい気がしますね。一般的にはそうじゃなくて、
そこに行けば、浅いけれども一通りなんでも用を足すことができるというふうな蔵書構成が好ましい
と思われていますけれどもね。まあ、予算がないということもあるんでしょうが。図書館もいろいろ
あって、ぼくのところのような図書館は、奉仕区域が非常に複雑で広いんですよ。鬼界島だとか、徳
之島、永良部、与論といったいろいろな島に箱をかついで行くわけです。なんと言いますか、かつぎ
屋みたいな性格があるので、ほかの図書館とちょっとまた違いますが。
 履歴上の質問として島尾対談での図書館談話はここまでだが、その後も吉本さんが図書館の蔵書というより書物に傾けた言葉がある。
 図書館にゆくと、すべての書物は、誰かによって手をつけられていることがわかる。けれど、
たぶんほんとうに読まれたのではなく、なにかの役にたてようとして読まれる方がほとんどなのだ。
余裕もなく、はやく結論がみつけられないかどうかと焦りながら。そして、書き手もまた、読み手の
せき込みに応じようとして、なにかに尻をたたかれながら書物をつくりあげたという書物が、ほとん
どであるかもしれない。(吉本隆明「なにに向って読むのか」1972年年3月30日『文京区立図書館報』50号)
 仕事場の本のあり様から、書き手と読み手の視線を交差するように積み上げられ密集した〈都市〉をイメージ[吉本隆明「活字都市」(1986年1月1日『黄金時代』第2巻6号)]した吉本さんの蔵書のある種の本へのこだわりにくらべ、発行部数や権威に頼らない様々なメディアで語ったり書いたり考え続けることに忙しく、ひょっとして自筆原稿や掲載誌の現物やその書誌的記録の保存に無頓着だったのではないだろうか。
 ともすれば発表したあとは読み手や聴き手まかせなところへ差しのべられた川上春雄氏(2001年逝去)の手になる初期吉本詩篇や手稿の掘り起こしと年譜や書誌解題が手放せず、駆け出し吉本読者の道標となった、
 川上春雄「吉本隆明年譜」『現代詩手帖』1972年8月号(思潮社)所収
 川上春雄「吉本隆明年譜」『吉本隆明を<読む>』(1980年、現代企画室発行)所収
 川上春雄「著作別吉本隆明参考文献目録」『国文學:解釈と教材の研究』第6巻4号(1981年、學燈社)所収
 川上春雄「<解題>爆風のゆくえ」『改訂新版共同幻想論』(角川文庫)吉本隆明著(1982年、角川書店)所収
 川上春雄「川上春雄編年代抄II 吉本隆明年譜 吉本隆明論集成」『現代詩手帖12月臨時増刊:吉本隆明と<現在>』(1986年、思潮社)所収
 川上春雄「作家案内ー吉本隆明」『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫)吉本隆明著(1992年、講談社)所収
 川上春雄「吉本隆明年譜」『埴谷雄高・吉本隆明の世界』斉藤愼爾責任編集(1996年、朝日出版社)所収
 川上春雄「吉本隆明年記」『吉本隆明の文化学ープレ・アジア的ということ』(1996年、文化科学高等研究院)所収
 
などが忘れられない。
 2002年12月『吉本隆明資料集』の[鼎談・座談篇]全27冊をもって、一歩たりとも図書館の雑誌の山をかきわけたりすることなく、1956年から1995年までの40年間に吉本さんが参加された65件におよぶ鼎談・座談を読むことができ、読者冥利に尽きる3年あまりを過ごさせてもらったあと、吉本さん主宰の『試行』の「全目次・後記」及び「資料」を収めた第28集にに引き続き、『吉本隆明資料集』は新たな展開を見せた。
 2003年4月15日付け発行の「吉本隆明資料集29」が届き、そのカバーを外した一瞬、はるか彼方から『試行』の人「吉本隆明」をめぐる感触がよみがえったようだ。紙質こそ違え、あまりにも当時のままに再現されていたからだ。
 今は疎遠になった友人や知人と回し読みしたりしているうちに散逸してしまった『試行』バックナンバーの欠落を補ってくれた猫々堂・復刻版の刊行が、2004年11月の「吉本隆明資料集第41集」でその第1期が終り、次集から「初出・補遺篇」が開始された。  多方面にわたっている吉本さんの執筆の書誌的把握事情を察し、その散逸を懸念した猫々堂主人が「単行本未収録リストの作成にふみだし、吉本さんの〈表現〉をリアル・タイムで読み・聴きし尽くせていない読者の〈未読〉頁が、「初出・補遺篇」として活写され、ときには書店で見開いた「初出」の既視感へと誘う。
  活字を叱りつける活字を
  おぼえ さっそくはじめた いま
  いちばんいけないのは
  なにかありそうに
  じぶんで紙のうえにやってきて
  並んでしまうことだ
  入りたいと囁いたって
  字体ごと拒めばいい
  活字をのせた
  紙たちは
  枯れ葉のように
  しずかにしずかに 世界を朽ちさせる
(吉本隆明「活字のある光景」第1連[1985年12月25日『ユリイカ』12月臨時増刊号])
 2004年12月の第42集収録の「文学者の戦争責任」(1956年9月)をはじめ必要とされる吉本著作の初出の復元だけでなく、単行本や全集で読めなかった既発表諸著作から談話記事まで編年的に網羅する猫々堂主人と少数の協力者の手によって、どれほど吉本〈資料〉の書誌的な散逸が免れてきたかはかりしれない。初出を読む高鳴りが、なみなみならぬ吉本さんへのこだわりに貫かれた猫々堂主人の手作業で写しとられ、手渡された読者の胸のうちで共鳴するように、「初出・補遺篇」の継続発行が新たな吉本さんの「作品」や「発言」を呼び集める流れに乗り合わせた購読者と猫々堂主人の〈現在〉を浮かび上がらせる頁の活字。
 『吉本隆明資料集』で吉本著作の〈初源〉を遡るように、「初出・補遺篇」に収録の著作から談話記事まで、一字一句をたどる活字の手渡しが必要とされる猫々堂主人の状況があり、それが同時に読者自身の支えにもなるのだ。
  過剰なにんげんが集まってゐたとしても独りはやっぱり独り
  おれの複本は何処にもない
  おれの仲間はどこにもゐない
  時間がおれを何と呼ぶか
  おれにはわからない
  先づおれ自身を販りこむために模型をこしらへる必要がある
  模型には動勢はゐらない
  だからおれはやっぱり何処へいつて生きていいのかわからない
  [「にんげん」に傍点=引用者注]
(吉本隆明「〈複本〉」後半部分[「日時計篇II」1951年])
 第4集[?]から毎度資料集挟み込みの「猫々だより」51号(2006年4月)に掲載された、「自閉症」の次男の子育てについて尋ねた読者への返信の終わりに、「やっとこの位のことを身体と心体について言えるようになりました。」 (「2000年1月10日付石田孝宛吉本隆明書簡」)とあり、当時76歳の吉本さんが書き続けてこられた「初出」を複本化する『吉本隆明資料集』における活字化の船出は、その数ヶ月後のことであった。
 吉本さんが「身体と心体について」書き継がれた「心的現象論」の未刊となっていた『試行』連載46回分を、独力で「資料集」の第56集:眼の知覚論・身体論、第59集:関係論、第65集:了解論 I、第68集:了解論 II、第72集:了解論 IIIとして入力し、完成した「全5集」が猫々堂による『試行』復刻の「第2期」にあたる。著者校閲を経たものではないとはいえ、特に「形式論理的な〈関係〉」の項の「引用」など、他社刊行の〈『試行』連載再録〉にはない「校訂作業」がなされ、これからの吉本読者にとって読み外せないだけでなく、版元にとっても「主要作品の初出復元と、単行本未収録の著作・講演・対談・談話等を網羅」[資料集(「初出・拾遺篇」)の編集方針]した「収録内容」の活用が期待できる。
 飼い猫に原稿を汚されようがなんだろうが、表現したものに執着しない吉本さんの書きっぷりが、追っかけ読者にとっての魅力のひとつだが、こういうところにも読者の多寡を問わず、〈書く〉行為だけじゃなく〈読む〉という行為にも投影される自己対象化の場として〈有用性〉を超えようとする『吉本隆明資料集』購読の営みが成り立っていると言えそう。
 容赦ない資本のリストラ攻勢に直面した一人である猫々堂主人が、その後の失業状態から「資料集」の発行に打って出ざるを得なかった「社会情勢」はというと、収奪の強化をはかる市場原理主義に手綱を握られた社会システムの高度化で、人心は経済的な乱気流に煽られ、労働者の権利も抵抗も骨抜きになり、有効な反撃組織も運動もない。今日の第三次産業就業者層における離婚、身心不調、自殺(未遂を含む)が目立つ傾向は他人事ではない。本質的な対応策もないまま、どこまでも人々の間を分断し孤立化する後退戦の場として文字通り体を張るしかない。
 「資料集」は質素な作りに見えて読みやすい文字の大きさといい、その一冊一冊は猫々堂主人の情況に対峙する〈身体性〉が創出した技の集成になっているのだ。生活者として日常の諸事を端折ったり、やり過ごしたりしない徹底した暮らしをまっとうしながら、自作した吉本さんの「著作リスト」順に入力を毎日続け、所定のページ数に達したところで一集分にまとめた自力発行を積み重ねる。
 十数年を越えた今もつづいている姿勢が、吉本さんが言われた「二十五時間目」の営みに渉るものであろう。生活のいっさいをひきうけながら紡がれた思想や作品のことばに感動をおぼえる。
 わたしは、ここで〈時ー空性の指向変容〉という概念を提出したいとおもいます。もちろん
この〈指向変容〉というのはわたしの造語で、〈インテンシブ・モディフィケーション〉とでもいっ
ておきます。これはどういう概念かといいますと、身近なことについてなら、起ってくる事象をわり
あい包括してとらえることができやすいが、身近でないところの問題の場合には、こぼれおちてくる
事象があり、その事象はまったく偶発的な〈事実〉としてしか存在しないかのようにみえてしまう、
という矛盾のあいだの〈距離感〉、〈誤差〉というものをはっきりさせるための概念です。
(吉本隆明「南島論ーー家族・親族・国家の論理ーー」[1970年12月『展望』通号144])
 ときめくようなはじめての「ことば」に出会い、「あらゆる時間性というもの、あらゆる歴史的段階というものは、あらゆる地域的空間に、そしてあらゆる地域的空間というものはあらゆる歴史的な段階に、あるいは、あらゆる世界的な共時性というものは、あらゆる世界的な特殊性というものに、相互転換すること」(同前)で新たなものの見方考え方ができる喜び。
 空間と時間、あるいは地域と歴史的な時代性とは、この[その情報をひきおこした未知の出
来事に関するかぎり、ヨーロッパは認識における〈未開〉の社会に転化する。=引用者注]ようにし
て相互に認識のなかでは変換することができる。だから、この現在の共時的な世界は、それを志向性
のさまざまな変容として統括的にとらえられるべきであるようにおもわれる。わたしたちはこの志向
性の変容を、関係の仕方の構造をあきらかにすることによって、明確にしうるものとみなすのである。
(吉本隆明「南島論 I 前提」[1989年8月『文藝』秋季号])
 
 「日本列島の村落の起源」をイメージした吉本さんの「南島論」を収めた第99集(2010年10月)に続き、2002年9月の第25集に収録された「「菊屋まつり」フリートーク(1986.10.19) 加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・成田昭男・小浜逸郎・北川透・瀬尾育生・吉本隆明」(『菊屋』第34号 1987年2月)の「無断掲載」をめぐるトラブルに決着をつけるべく、《文芸の〈本質〉は「人がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しい」》と言わしめた吉本さんの感銘深い猫々堂主人宛書簡(2002年10月7日消印)が掲載された『吉本隆明資料集100:ハイ・イメージ論(初出)6』(2010年11月)の発行が、『吉本隆明資料集』継続10年の節目を飾った。
一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思
考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や
社会常識は時代によって変わります。文芸、一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは
永続を目指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしま
ったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集ま
りに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。
(吉本隆明 松岡祥男宛書簡[2002年10月7日消印])
 とにかく吉本さんが書かれたものなら、何でもかんでも読みたくなるのは、書き手の体壁で仕切られた〈内部〉と〈外部〉を行き来して「じぶんの直腸を通り社会的な腸管として存在している「労働者」や「大衆」に、いわばじぶん自身に、問いかける以外には、世界史への共同性への通路は存在しないということを確認できるならば、彼は戦後文学の範疇にあるということができます。」(吉本隆明「戦後文学論の思想」[1963年6月10日『日本読書新聞』])というように往還する〈文体〉によって、読むものの〈内的自然〉と〈外的自然〉が出会う〈内観〉を呼び覚まされたりするからではないのか。
 大衆のナショナルな体験と、大衆によって把握された日本の「ナショナリズム」は、再現不
可能生のなかに実相があるものと見なされる。このことは、大衆がそれ自体としては、すべての時代
を通じて歴史を動かす動因であったにもかかわらず、歴史そのものなかに虚像として以外に登場しえ
ない所以であるということができよう。しかし、ある程度これを実像として再現する道は、わたした
ち自体のなかにある大衆としての生活体験と思想体験を、いわば「内観」することからはじめる以外
にありえないのである。
(吉本隆明「日本のナショナリズム1前提」[1964年6月『現代日本思想大系4ナショナリズム』筑摩書房])
 内観と客観あわせもつ身体という無意識の表現と、言葉や芸術という意識的表現が、たがいに浸透しあって、文化という一つの〈表現〉を形づくる。社会の都市化傾向はあともどりすることなく、意識的表現を拡張し、無意識かつ身体的表現を縮小するようにはたらき続けていて、いまや生そのものまで均質化されてしまう〈未知〉なる現在を解き明かそうとする立ち位置の視線がある。
 〈書物〉を著述するもの書きとしてのわたしが、いちばん大切にかんがえている声や視線は、
けっしてわたしの〈書物〉を読まない人々の声や視線であり、一般化していえばけっして〈書物〉を
読まない人々の声や視線である。
 もちろんそれらの人々の姿はわたしには視えないし、その声はわたしには聞こえない。しかし書き
手としてのわたしのほうがその視線を感じその声を聴こうとするのである。それらの〈書物〉を読ま
ない潜在的な人々をおそれるのである。
(吉本隆明「書物の評価」[1971年年11月1日『出版ダイジェスト』第700号])
 さまざまな表現に定着した意識が、世代交代によるな身体的な感受と表出による継承を繰り返すなかで、定着したり消失したり、文化や伝統と呼ばれるものを創出する。意識はその再受入れを重ねる内部で繰り返し吟味し、その結果が更なる表現として定着され、無限ループ状に文化は膨大なものとなる。そのような意識のもっともピュアな表現が〈沈黙〉による表現ではないか。詩がもっとも純粋であるために、文字は表現としての容れ物を排除しようとする、と同時にそれは、みずから持つ固有の自然、〈沈黙〉自体を生み出した身体そのものとのズレをまぬがれない。内観的身体は自己の死とともに失われるが、客観的身体は自己の死後も存続し、他者の身体のなかで生き続けることがあるように。
 吉本さんが逝去された2012年3月16日、その日は朝早くヨメと出かけた立山山麓スキー場から帰った夕飯時のNHKニュースで耳にしたのだが、食欲が細ったみたいに読めなくなってしまい、命日に供えたみたいに刊行された石川九楊との共著『書 文字 アジア』(筑摩書房)などいまだに読み切れていない。
 それから一年あまり間をおいて、死の三ヶ月前の語りを収めた『フランシス子へ』(講談社)を手にしたときは吉本さんの視線がよみがえるようだった。長岡での農業論の講演会場でだが、ときおり吉本さんの目は聴衆の目を通り抜けて遥か彼方を見つめる猫のように光った。その先で猫の目が永遠を見ているのか、人の目が闇を見ているのか、猫同士でも人間同士いずれでも成り立たない関係が、おそらく猫と人との間では成立することがあるのだ。
 あの合わせ鏡のような同体感をいったいどう言ったらいいんでしょう。

 自分の「うつし」がそこにいるっていうあの感じというのは、ちょっとほかの動物ではたとえよう
がない気がします。

 僕は「言葉」というものを考え尽くそうとしてきたけれど、猫っていうのは、こっちがまだ「言葉」
にしていない感情まで正確に推察して、そっくりそのまま返してくる。
(吉本隆明「自分の「うつし」がそこにいる」[2013年3月『フランシス子へ』講談社])


 もしかすると人間には、人類の枠組みではどうにも収まりきらない何かがあって、ふだんの
生活では押さえ込んでいる別の自分、本能的というか野性的というか猫類の自分がいるんじゃないか。
 猫さんと一致しているときだけ、そういうはみ出している自分がまったく解放されている。
 そういうことまで感じられるようになったら、これはもう、無類の状態と言えるんじゃないでしょ
うか。
(吉本隆明「猫になればいい」[2013年3月『フランシス子へ』講談社])
 
 猫型人間を自称する吉本さんが、最晩年の自宅で「言葉」として和歌などに定着してしまっているほととぎすの「実在性」を疑いだし、知人の医師とふたりで「ホトトギスの会」を立ちあげて調べながら、『夏は来ぬ』を口ずさみ、「本当かねえ」とつぶやく姿が、房総半島の先端で「浄土はあるのか、ないのか」を問う渦潮に巻き込まれるように佇む親鸞の姿に重なるようだ。
 その頃のこととして次女のばななさんが「死ぬ一年くらい前から、父はくりかえし言うようになった。」と書きおこしたエッセイ(吉本ばなな「ほととぎす」[2016年4月『イヤシノウタ』新潮社]のなかで、「いちばんはじめは一の宮♪」からはじまる手まり歌が吉本さん口癖のようになっていたのを読んだときは、はるか彼方になった「吉本隆明・農業論・パート2」[1989年7月9日長岡短期大学]で世話役の女性に案内された講師控室から、[某編集者]と話されていた吉本さんの声が聞こえてくるようだった。
 吉本さんに生きていてほしかったという思いに水をさすような「訃報」や「追悼文」の数々を手にしたり、読みたくもないのにいつのまにかそれらの書誌データを「隆明網〈リュウメイ・ウェブ〉」に打ち込み続けたりしている間も、猫々堂『吉本隆明資料集』は途切れることなく持続していて、ぼちぼち読むことも回復できた。
 いかに吉本さんが偉大な存在であったか、二百件ほど確認できた「吉本隆明追悼記事(文・特集)一覧/書誌」がその影響力の凄さを物語ってくれたとはいえ、数の多さに比してこんな際にそんなことを?!みたいな「発言」も少なからず、表立って何も言わない渡辺京二氏のような〈沈黙〉が吉本さんの存在に相渉っているような気がした。
 ところで「猫々だより78」(2008年12月)の【猫やしき】で「吉本さんの学校時代に関する談話が幾つか挿入されています」と紹介された川端要壽編著『東京・深川 府立化工物語』(東京都立化学高等学校化工同窓会・1994年6月26日刊)を見つけた宿沢あぐり氏による吉本さんの〈書きもの〉すべてを網羅するような探索と蒐集に目を見張る。
 2011年3月に起きた東北から関東にかけての大震災と原発事故による凄まじい被害の重苦しさが漂う猫々堂の気を晴らすように宿沢あぐり氏から新発見吉本緒作品が寄せられ、「資料集」の第108集で「わたしの地名挿話」(1987年)と「『林檎園日記』の頃など」(1988年)、第112集で「岸上大作宛書簡」(1960年)と「「ずれ」を生きる良寛」(1992年)などが初めて読めることになった。
 その後も宿沢氏の驚くべき探索力によって「室生犀星(東京・日本近代文学館・犀星忌講演・1988年3月26日『高原文庫』第3号1988年8月1日発行)」[吉本隆明資料集 126]や「「未来元型」を求めて 樋口和彦・吉本隆明(『プシケー』第8号[日本ユングクラブ会報]1989年6月25日発行)」[吉本隆明資料集 122]が見出され、ますます猫々堂「資料集」を豊かなものにした。
 「吉本ファン諸氏よ! 私はあなた方とはなんの関係もないのだ。」(ハルノ宵子「鍵のない玄関」[2013年3月『フランシス子へ』講談社)とは、ご両親を介護し相次いだ死を看取られた長女のハルノ宵子さんの言だが、吉本さんを訪れる読者にはそんなにめんどくさい人が多かったのだろうか。
 ことほど読者層の幅と奥行きがありすぎて、「私は訪れる方々に、これからも父の生前と変わらずに対応していこうという気持ちと、父の蔵書も資料も原稿もろともすべ、ブルドーザーでぶっ潰して更地にしてやりたいという、“黒い誘惑”との間を振り子のように揺れている。」(同前)想いを振り切らせたのが、主をなくした「書斎」を擁する吉本家の美しいたたずまいであろう。そしておそらくそんな「更地」にしたとしてもやってくるであろう読者を想定したうえで、住宅をリフォームした「猫屋台」でのもてなしなのだろう。
 ハルノ宵子さんがいっとき想起された亡き父の仕事場のなにもかも「ブルドーザーでぶっ潰して更地に」するなんてのは、本の整理法の一つとして、いかに書物にもそれを読むことにも物神性を認めない生前の吉本さんでも思いつかなかったのではないか。
 むかし東京市の歌というのがあって、小学校の式などのとき唱わされた。「月影入るべき山の
端もなく、昔のひろ野の面影いずこ」といった文句があった。東京はそのあと、手がつけられないほど
発達しすぎて、いまやエコロジストたちのひんしゅくの的になるほどになった。
 わたしの仕事場もごみためのように不潔で、駄本の山積みのために出入りの交通も危うくなるほど密
集して、手がつけられなくなった。この有様をみて、東京のビル街の縮尺をみているようで、さまざま
なシミュレーションを頭のなかで試みて、模擬的な都市論をやるときのイメージを作っている。
(吉本隆明「いずれもの書き自身を廃棄処分にする時代が来るだろう」[1994年8月10日『私の「本」整理術』メタローグ])
 本を売っぱらったりせずに「もの書き自身を廃棄処分にする」にはどうしたらいいか。廃棄処分した「更地」丸ごとアーカイブ化することだ。たとえば『吉本隆明資料集』なら、猫々堂主人の手によって全テキストがデジタル・データ化されてしまっている。パブリックドメインとして公開し、閲覧者からのドネーションによってサーバーの運用その他を賄う‥‥‥などと非現実的な夢想をよそに、待望していた吉本さんの全集(晶文社)が2014年の春から刊行開始された。
 同年の秋には、吉本資料の蒐集を続けてこられた宿沢あぐり氏の労作「吉本隆明年譜」の「資料集」への掲載がはじまった。第139集にその1[1924-1950]、第143集にその2[1951-1959]、第146集にその3[1960-1962]、第149集にその4[1963-1966]、第152集にその5[1967-1970]、第155集にその6[1971-1974]、第158集にその7[1975-1978]、第161集にその8[1979-1982.4.]と断続連載中で、吉本さんの著作活動の書き下ろしドキュメンタリーのページをめくり続ける新鮮さがたまらない。
 あたりまえのこととはいえ、ひとつひとつ現物にあたって書誌事項を確かめられていて、新たな考証もあり、ゆきとどいた関連文献の参照が読ませる。
 行きつけの市立図書館の書架に『吉本隆明全集』(晶文社)の第1期分がならんだが、隣接して『吉本隆明資料集』(猫々堂)も手にできるほどゆきとどいていない公共図書館の吉本さんの本の選書[国立国会図書館は所蔵]ならびに閲覧環境はまだまだなのだ。もとより「考え続けた人」として図書館の書庫におさまるより、「考える方法を見つける人」として巷で溢れるように読まれるほうがいいのだが。
 ずいぶん前のこと、昼休みの職場の売店の雑誌棚で『マリ・クレール』を見つけ、書き出しに引き込まれるように吉本さんの「母型論」を読んだことがある。
 わたしたちの区分では、幼児期が意識の領域にむかって拡がるのといっしょに無意識の中間
層がつくられる。この中間層は言語的な発現と言語にならない前言語(ソシュール的にいえばシニフ
ィアン)的な発現との葛藤を通じて形成されるものだとみなされよう。無意識がかかわっている行為
は、正常心であっても異常であってもこの層のスクリーンで、はじめて写しだされる。ほんとうは無
意識の核がかかわっているばあいも、無意識の表面層がかかわっているばあいもあるのに、中間層に
葛藤や錯合があるかのように集約されるといってよい。
(吉本隆明「母型論(ハイ・イメージ論〔1〕)」[1991年5月『マリ・クレール』第10巻5号])
 母親との関係を生きる前言語的な乳胎児期から言語発現的な幼児期、血縁関係のなかで意識領域が拡がる学童期から思春期にかけて錯綜し形成され、そして階層化される無意識の三つの層からなる光源に照らしだされたような読み心地が忘れられない。数年後のインタビュー本でも、人間の心や精神を決める三要素として語られている。
 ぼくはいま、人間の心なり精神を決定している要素をおおざっぱに三つに分けてかんがえて
います。ひとつは、人間の心の「核」にあるのは、幼児の時と一歳未満の時のあいだでの母親との関
係、その時の母親との関係の障害が無意識のいちばん底のところに収まっているだろうとおもわれま
す。そのつぎは、乳児の時から幼児期までに、これも主として母親ですが、それと家族とか、もうす
こしひろげれば親戚とか、近親者との対人関係のなかで形成されるものがかんがえられます。それは
無意識に入っていたり、意識の方に出てきたりという出方をする心の「中間層」にあたります。そし
て三つめの「表面層」のところの大部分は、その手前の無意識のところから規制されていく面があっ
て、だいたい意識的な振る舞いとか、意識的なそのひとつの性格を形成しています。
(吉本隆明・田原克拓[聞き手]「心のなかの三つの層」[1993年5月『時代の病理』春秋社])
 十代から二十代への鞍部を越えたあたりで吉本さんの著作に出会い、否応なしに生きざるを得ない〈心身〉の感性的な対象化ではなく、その体壁で仕切られた外的空間および内的空間を考察するのに、どのような対象に対してどのような了解の時間が可能であるかを発見することばの旅を見失わないように吉本さんを追いかけてきた。
 すっかり書棚になじんだ『吉本隆明資料集』の既刊各集タイトルを順に眺めたりすると、遠くなった暮らしの曲がり角で見え隠れする吉本著作の読書履歴が二重写しに浮かぶ。そんな道中で出会った古くからの吉本さんの読者には、書き下ろしからインタビューや語り下ろし本への様変わりが食い足らないといって、離れていった人もいた。去りゆく読者も新たな読者もことばが自在に行き来できる読書の場の出会いと別れ。
 身体・生理的な不具合にみまわれながら、吉本さんご自身の〈老い〉を生ききるように紡がれたことばの射程は広く深く、内部から遥か彼方まで照らしだしている。
 宮沢賢治は、自分は銀河系の一員であり、銀河にある太陽系の中の地球にある陸中、イーハ
トーブである、というようなことを言っています。となりの人や家族、社会といった人間同士の横の
関係よりも、真っ先に天の星と関係していると考えていたように思います。そして、宮沢さんの考え
を突き詰めていくと、人は銀河の寿命と同じだけ生きていける、という考えに行き着くと思います。
宮沢さんははっきりとそうは言っていませんが、そういうことになると僕は思うんです。
(吉本隆明「新書化にあたってのあとがき」2011年3月[2011年4月『老いの幸福論』青春出版社])


 遠からず平均寿命が百歳以上になるのは自明の理だと思います。人間や人類はどこで終わ
るかを考えれば、宇宙が壊れたら終りです。そのことをきちっと考えてゆけば、そんなに悲観する
こともないよということになると思います。個人的には、いいことは一つもないよと言いたいとこ
ろですが、そのなかで希望があるとすればそのことだと思います。
(吉本隆明「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」2011年4月22日[2011年
6月『思想としての3・11』河出書房新社])
 2017年3月発行の『吉本隆明資料集163:中原中也について/イエスとはなにか』は、2005年7月号雑誌掲載原稿が載っていて、その後の収録対象となる未収録著作や談話記事も少なくなり、いよいよ大詰めが近づいてきているといえよう。付きすぎず離れすぎず、絶妙な距離を保ちながら物事を成し遂げることは大変なことだと思う。
 既刊分の各集タイトル[猫々堂「吉本隆明資料集」“ファン”ページ:http://www.fitweb.or.jp/~taka/Nyadex.html"参照]を眺めてどれかが読むきっかけとなれば、そこから間口が広く奥行きも深い吉本著作群に分け入りやすく、価格的にも持ち歩きにも手頃な『吉本隆明資料集』だが、残念なことに本屋でも図書館でも未知の読者が手にし難い壁がある。
 猫々堂は既刊分も増刷して在庫を切らしていないようだが、これからの刊行予定分も含め、一冊でも多く読者の手にわたって欲しい。吉本さんの六回忌にあたる日のツイッターで次女のばななさんが「たかあ忌」と呟いているのを見かけ、よりいっそう願いが強まった。(2017年春分の日に)

十字路からの発言(2014/03/31)

本の一言:体育館と教室の間で
 寒かったり暖かかったり、雪が降っても、積もるようで積もらず、暖冬とも寒冬ともいえない今年の冬をなんと呼べばいいのか。
 寒い体育館でスポ少バドミントンの子どもらの相手をして三十数年、暖かい短大の教室で前・後期数コマの授業も十年を過ぎ、年々向き合う相手との年齢差が広がるように遠ざかっていく手触り。バドミントンをやり始めた子どもや司書科目を選択履修する学生たちのやる気そのものが動機の画一化と持続の拡散の間で揺らいでいる。
 かって山中スポ少バドの三羽烏と言われた男子団員が退団後も優れた現役選手として活躍を続けながら新規コーチとして力量を発揮しているが、彼らが在籍していた昭和59年度の団員名簿はは53名(女42・男11)を数えた。以来右肩下がりで増減を示してきた団員層から彼らを凌駕するプレーヤーはまだ出ていない。試合に負けた直後の練習で特訓を申し出たり、ダブルスゲーム練習の最中にラリー展開とプレイヤーのフォーメーションを問い質される、なんてこともめったになくなった。
 団員が多く練習時間が短かった当時は父母送迎などなく、歩いて早めにやってきて体育館で競うようにネットを張って合成シャトルを打ち合う姿を前に、2時間しかない練習の開始を何度か繰り下げさせられたりしたことも。素振りと壁打ちとコート外運動に終始させられ、コート内練習が不十分なまま大会に臨まざるを得なかった当時の団員たちの奮闘ぶりが懐かしい。
 山中校下スポ少バド立ち上げから渉外事務全般を一手に引き受けていた初代監督の自宅にコーチが集まり、各年度毎に練習方法など話し合ったりしたこともあったが、コートも時間も足りない練習環境で工夫するしかなかった。それでも試合でがんばっているわが子を見守る親の姿はほとんどなく、連絡や鍵当番そのほか役員を分担する父母会なんてのができたのは二代目の監督になってからだ。
 女子団員にリレー県代表チームとして国立競技場で走ることになる生徒がいた平成14年度のバド団員は31(うち男5)名いた。たまたま6年生団員が1人だったりして、5年生女子団員が率先して練習メニューを進行させ、手分けして後輩の基礎打ち相手をしたり、コーチが不足がちだった土曜午後の練習条件が幸いしたようなことも。1人で多数の学生に相対する教室でも回を重ねるうちに、状況を察して授業の進捗を助けになるような学生の行為が見られたり。
 数年前に体育館が新しくなり、三代目の監督のもと若く優れたコーチ陣が加わって指導法も見直され、より高いところを目指せるスポ少バド活動の場が整いつつある反面、年々入団希望者が少なくなる裾野の狭まりが。北海道から沖縄まで50年を超えるスポーツ少年団の平成23年度の登録団体は3万6千(83万人)で、約70種目ある競技団体数の上位10番目にバドミントン(733団数・15,106団員)が位置している。我が校下の小・中校の学級数などからスポ少予備軍の子どもらは減っていないようだが、バドミントンを選ぶ子どもが稀なのだろう。わが子の練習レベルアップのためにも、父母会メンバーによる団員掘り起こしに期待したいところだ。
 2003年から、山中スポ少バドメンバー構成と似通った男女比率で、20〜30名をはみだすように推移している短大の担当司書科目の教室をふりかえれば、履修生が多かった年度は脱落学生が出たりする反面、初回のレポートから見違える内容を最終回に読ませてくれる学生も現れ、どっちつかずの中間学生層の学習成果を引き揚げてくれたりしたことも。そんな背景には、図書館で働きたいと意気込んでいた学生があまりにも狭き門に直面し、就活で鞍替えしたみたいに教室に来なくなる学生もいたり、司書職に就ける受け皿の貧しい現実が。
 短期的な成果を上げるには、少数精鋭グループもありだろうが、定期的にメンバーが入れ替わってゆくスポーツ少年団や学習活動の場が永続するには、生徒や学生として体育館や教室にやってくる未来の主人公を育む裾野の広がりが欠かせない。かって5校下で持ち回り開催していた第7ブロックの大会も、今じゃ残った2校下のスポ少バド対抗戦に様変わり。
 富山女短大開学5年目、昭和43年に設置された司書養成課程を選択した科目履修生が50名を超えていたこともあったようだが、これまでに司書資格を取得した二千余名のうち何名が図書館で職を得られたか。卒後の実績も問われようが、富短在学時に附属図書館への不満を抱えながら司書科目を学んだ学生の声が、これまでの附属図書館運営に届いていないようだ。専任教官に恵まれず時間講師に頼らざるを得ない司書課程の現状ではあるが、平成25年秋の開学50周年記念事業に図書館の充実や改善策を盛り込むような働きかけがあったのかどうか。
 5年あまり近所の中学のバド部活につきあっていた体育館で、ネットで仕切った床半面を練習前に雑巾がけしながら肩甲骨や股関節を働かせて体幹を養う女子部員が見られたが、なぜか男子部員の雑巾がけ姿は皆無だった。昭和三十年代はじめに入部した中学の剣道の部活でも体育館の雑巾がけから始まったが、寒稽古では校門の除雪が、暑中稽古では夏草刈りが加わったりしていた。
 野山や川原遊びからはじまった幼少年期の畑仕事に草むしり、田植えや稲刈り、夏の水撒き、冬の除雪や屋根雪下ろし、肥桶や雑木担ぎ、薪割りそのほか手伝い作業が虚弱児の部活以前の体力作りや道具を使う身体捌きに役立ったかもしれない。
 生活風土が違ってしまった現代っ子が体軸を通した動き、股関節や肩甲骨に連なる道具の使い方に目覚める機会はどうなっているのだろう。体育館で取っ組み合いの喧嘩をする団員も、教室で口角泡を飛ばして講論する学生など滅多にいない。附属図書館に勤めていた大学のスポーツ各部対抗バドミントン大会を制したのがバスケ部員だったことがあったが、なるほど彼らは肩甲骨や股関節を働かせる体幹の使い方に秀でていた。
 小中学生が技を身につけるのに必要な身体捌き、とくに肩甲骨や股関節の柔らかさを活かす練習も工夫しないと。脚を折り曲げ踵を床に着けて片足開脚ができにくく、膝頭をつま先より前に出さないよう上半身を前傾しないスクワット(屏風座りともいう)となるとほとんどできない。
 団員の練習や試合会場など体育館の出入りや学生の教室や図書館の入退室でも、言葉や会釈で挨拶する姿勢も遠のいてきている。場の切り替わりを無意識に読み込めない身体の置き所なさとでもいおうか。50名以上は坐れる教室での20名足らずの履修生の席取りだが、出入り口から遠い窓際と廊下に近い壁側に別れ、その中間では奥の壁側と手前の真ん中あたり、まるで性格分類したように四つの離れ島に座る。
 わからない時は先送りしないで、その場で手を挙げ質問をみんなで共有したいのだが、なかなかそうはいかない。授業開始前や、演習課題を解いている合間や、授業終了時に教卓までやってきて質問しがち。提出課題やレポートの余白に予期しないコメントを書き込んだりする学生は窓際や壁側から。意外と奥の方から授業を盛り上げてくれたり。居てくれるだけで教室を明るくする学生がまん中のあたりに。
 「答えはどこに書いてありますか」でなかったら「本を読んだり勉強していないからわかりません」というのがこれまで富短の教室で学生とかわしたやりとりの定番になってきている。同調性圧力が働きがちな小・中・高の教室で習い覚えた身の振る舞いから脱皮するには短大の2年間じゃ足りなさそう。
 なぜやるかという動機づけがはたらかない練[学]習のための練[学]習にならないようにするにはどうすればよいか。やりすぎないよう練[学]習時意欲が途切れる手前でやめ、練[学]習時間外に持越した意欲であれこれ試すうち、次回の練[学]習が待ち遠しくなるような繰り返し。
 練習や授業で〈体育館〉や〈教室〉へ「お願いします」と入り、あるがままの身体を溶け込ませた時空をそれぞれが体験化することによって、それまで知らなかった関係に目覚めた身体が知覚する新たな身体性によって得られた関係性に「ありがとうございました」と一礼して退室するまでの団員や学生の姿勢の強弱が各人の学ぶ力を掘り起こす。とても「試合結果」や「学力テスト」などで測れるようなものではないが、体育館や教室以外でも自らにとって〈師〉となる出会いが〈学力〉を起動させ、教えを乞う心身の座をはたらかせ、さまざまに思考をめぐらす場へといざなう。(2014.03.31)

十字路からの発言(2011/10/11)

本の一言:司書の卵
 司書課程を修めて卒業する学生が全国で毎年どれくらいか数えてはいないが、本と人とのあいだをめぐって読ませる玉川重機の『草子ブックガイド1』の吹き出しに、司書有資格者としての就職率が1%未満とあった。
 普及率では全国平均に劣っていない富山県の公共図書館で働く正規雇用者の割合は、平成21(2009)年度に20.1%になり、非正規化率は79.9%で全国3位だったようだ。
 例年20〜30人の学生が選択履修をしている、地元短大の司書課程で前期後期それぞれ2コマ、4科目の時間講師として一本釣りされて9年目になる。
 頭数で女子が男子を圧倒する履修生の、年々右肩上がりの真面目度に反比例するように、就活欠席者のない年度授業日は減少傾向にある。この頃の学生はインターシップで図書館を体験できても、司書として正規雇用への道は閉ざされているにひとしい。
 「コネで図書館を紹介してもらえませんか」と声をかけてくる女子学生や、「どうしたら図書館に就職できましたか」と尋ねてくる男子学生を前にした時のとまどい。企業に内定していたのに書店でアルバイトしながら、委託や派遣による図書館勤めへの迂回路をたどるような卒業生もいたりして。
 1960年代に東大図書館が「近代化」を掲げて路線改革にとりかかりはじめた頃、地方の大学図書館にまず公務員として就職し、在職のまま東京の大学でひと夏の司書講習を修了し、司書職を続けられたりした。今じゃ地方で司書の卵として孵化できる受け皿が選択でき、司書課程を巣立っても、図書館を目指すルートがない閉塞した網から、出るに出られぬカゴの鳥たちの教室に出向くことに。
 ところで、平成23(2011)年度2学年前期授業で学生が書いてくれた「司書をめぐる作文」から抜き書きしてみよう。
○司書として働く喜びをどのように思うか?
・さまざまな形で本との出会いを作り出す場に関われる。
・パスファインダーの作成などで利用者の情報探索の便宜を図れる。
・館種の異なる図書館サービスを実現したり生涯学習の場の形成に携われる。
・地域住民へ情報[未組織化古文書や地域資料の存在]を発信する図書館サービスができる。
・知的好奇心に応える膨大な書物が織りなす圧倒的な知的空間に介在する司書としての存在感。
・「成長する有機体としての図書館」に共鳴する司書としての「進化」と「成長」。
○司書として働くつらさをどのように思うか?
・図書館の現場における身体的ならびに知的対応能力の不足。
・業務委託による正規司書業務範囲の縮小と非正規雇用の不規則な労働時間や低賃金。
・利用者のクレームやマナーの悪さへの対応。
・貸出・返却のセルフサービス化により高度化する情報要求に、単なる本好きを超えた幅広い知識が必要とされること。
・収集資料の情報次数の高次化により組織化したコレクションの付加高次情報次数を低次化するようにして利用者を1次情報へ導くこと。
・顕在化していない情報要求への対応。
○司書となるために自分に何が足りないと思うか?
・館種を異にする図書館で働くのに必要な幅広い知識・情報・視野。
・子供への応対や利用者との幅広いコミュニケーション能力。
・利用者に奉仕する心構え。
・レファレンスサービス対応能力。
・興味や関心を持てる分野の偏りの無さ。
・情報アクセス環境の変化に対応できる柔軟性。
・コンピューター・リテラシー。
・語学力と知的経験。
○司書となるために自分が適していると思うこと!
・本好きじゃないと勤まらない仕事の領分に向き合う意欲と持続力。
・子供を含む利用者とのコミュニケーション能力。
・特化した専門性を有する司書能力形成願望。
・情報次数の高次化と低次化による資料・情報サービスのシステム処理対応能力。
・体力や根気や協調性や記憶力。
・調べることへの関心力。
 図書館の情報組織的というより、情報サービス的な業務に片寄りがちな目線だが、来館利用者から非来館利用者まで、スニーカーネットワークからインターネットまで遠隔化された、司書の立ち位置が感受されているといえようか。
 司書課程で学びながら「自分が何を知り、何を知らないか」という知識についての知識をわきまえるのが「メタ情報」だとしたら、履修生の「情報リテラシー」はしっかりしているようだ。数年前に情報検索演習の終盤にさしかかったところで、学生のひとりに「調べるということそのものがわからない」と問いかけられたこともあったが。まだ言葉になっていない学生の声を聴き、それについて語ったり、質問をやりとりできる教室にはまだまだ手がとどかない。
 平成8(1996)年8月の図書館法施行規則の一部改訂によって司書科目構成が見直され、平成15(2003)年度から受け持つことになった「情報機器論」の授業では、使っていた教科書が難しいとか、科目内容ががわかりにくいなどと言ってくる学生もいた。今年3月の地震と津波による福島原発事故の時には、原子力エネルギーを利用した図書館システムの仕様書のひな型を提出した学生のことが思い浮かんだりした。
 担当してきた司書科目の授業の始まりと終わりで、学生それぞれに刷り込まれた司書のイメージが、多少なりとも更新されたり、あるいは型破りであればあるほど良しとしなければなるまい。
 だが、本と人との間を司る編集者的な資質があるか、司書としてどのような間接的なお節介焼きができるか、そのほか図書館の内定を得て思いめぐらしたりできる機会など、司書資格取得学生からほとんど奪われてしまっている。
 今年の6月に参議院決算委員会で片山総務大臣が司書や学校司書の正規化を答弁したようだが、毎年1万人いると言われる学生の司書資格を認定してきた歴代の文部科学大臣は、取得学生のその後の狭き門についてどのような答弁を用意してきただろうか。
 平成24(2012)年4月から実施が予定される司書養成課程の一部変更にともなう新規教育課程の授業科目担当を打診され、関係書類を前に時間講師から身を退く潮時到来とばかり、学科長ならびに関係教官との話し合いに臨んだのだが‥‥‥。たとえ寄り切られようとも、これからの司書科目履修生に空手形を振り出すような真似はしたくないし、担保もないのに教壇の保証人にになるようなことなどもってのほか。
 図書館情報学を専門に入学した学生においても、卒業と同時に図書館員になれる割合よりも、留年や休学や退学などで4年で卒業できなかったりする割合の方が高いだなんて、図書館の将来を担うべき人材のロジステックそのものを見直さないことには司書の卵は孵らない。(2011.10.10)

十字路からの発言(2011/2/22)

喪主挨拶
 本日はお参りいただきありがとうございます。
 「我れ食べるゆえに我れあり」みたいに食べていたお袋でしたが、
その次に好きだったのが、本を読んだり何か書いたりすることでした。
 そんな風だったお袋の真似をして、
お通夜の後でメモをした「作文」を読ませていただきます。
 先週末にテレビで「わが家の歴史」という、
戦後を生きた無名の家族のエピソードを綴ったドラマをやっておりましたが、
ここ5、6年、わが家で介助というか、介護生活暮らしだった、お袋の口癖は、
“家(うち)が一番いい”でした。‥‥‥
 お袋の最後を迎えて、昨日からいろいろ話させていただきましたが、
「家族葬」という形でみおくらせていただけて、ほんとうにありがとうございました。
 かけがえのないお袋へのおもいを皆様と分かち合えますよう、
これからもよろしくお願いします。
                               平成22年4月14日 吉田惠吉

十字路からの発言(2010/2/16)

平成21年度卒業生@山中女子バド部活へ
 部活コーチとしては2年の秋から退部までの短いおつきあいでしたが、
入学以来3名で部活を続けられたことは凄いことだと思います。
 何事も珍しく面白い初心者レベルまでは持続できても、
たいがいは練習のための練習みたいな繰り返しに飽きてしまい、
その先の上達レベルの辛さ楽しさを知らずに終わってしまいがち。
 中学の部活という限られたコート内で、
一歩先を読むフットワークやラリーの組み立てを
充分に練習できなかったかもしれませんが、
与えられた状況で自問自答しながら部活を維持し、
バドミントンの面白さを新入生に手渡せたのはお見事です。
 これからも「自問自答」の応用練習をしながら、
新しい春を迎えてください。
                               平成22年2月  K.Y.

十字路からの発言(2001/3/4)

 高校の担任教師がせっかく世話してくれて入った会計事務所で「先輩」とゴタゴタがあって出勤拒否をやってしまい、ちょっとのあいだだけプー太郎を味わい、たまたま持っていた公務員の初級試験合格を頼りに大学の図書館の仕事にありついた。
 1962(昭和37)年の5月だったと思うが、入ってみたらちょうど「協議採用」とかで定員化された大学職員があちこちで働いていて、自分のような試験で入った者は少なかった。
 それから40年余り過ぎた今になって、大学図書館の若輩管理職らが、定員削減の穴を埋めるようにサービス現場で頑張っている事務補佐員を斬って捨てようとしている。
 図書館で働く者の自主性と労働の自由を侵害する、こんな図書館管理職の不当な行為については、本来ならば当事者双方が自主的に話し合って円満に解決すべき事柄であって、無力な一図書館員が口を挟むのはいかにもさしでがましいことであろう。
 が、余りにも身近なところでやられては、いくら何でも黙っておれない。
 さしあたって、どうしても言いたいことを以下の拙文にまとめ、当の管理職の一人や、大学の図書館で働く仲間宛に送った勢いで、一人でも多くの図書館で働く人々や利用者の方々に読んでいただけるよう、ここ(http://www.fitweb.or.jp/~taka/perform.html)に書き置くことにしました。
図書館で働くみなさんへ

 富山大学附属図書館における管理職の不当労働行為に抗議する

                             吉田恵吉(情報サービス課情報サービス係)
 情報サービス係の2名の補佐員が「平成12年度いっぱいで首を切るといわれた」と耳打ちしてくれたのが、確か昨年(平成12年)の9月20日(水)にサービス課全職員を対象とした人事ヒアリングがあった後のことだった。
 このことについて直属の情報サービス課長や、情報管理課長や事務部長とも、現場のサービス業務を預かる者として言葉を交わすような場面はなかったのだが。
 管理課長から「予算がないから3月いっぱいで辞めてもらいます」と言い渡されたんだけど係長はなんか聞かされてました?、と係内の補佐員の一人に尋ねられたのが今年(平成13年)の2月7日(水)の夕方だった。翌8日(木)の朝、もう一人の係内の補佐員からも同じことを聞かされた。
 同日の係長会議で配られた「進行メモ」で、平成13年度の補佐員の雇用並びにサービス業務の委託体制という事項が目についていたが、それについて管理課長が具体的に話したのは継続係長会議となった2月9日(金)の午後の席であった。
 お金(予算)が無いという理由を挙げ、サービス課長の了解を得ていると前置きしたうえで、本館サービス係の2名の補佐員の雇用をとりやめて現行の外注1名の窓口業務委託を2名とし、また週1回(毎週火曜午後4時間)の書架整理業務委託を週2回とするという、管理職側の趣旨がこの時に初めて確認できた。
 管理課においても2名の補佐員の雇用をとりやめ、工学専門図書室の窓口業委託1名の体制は維持するとのことであった。
 現場の担当係長であろうがなかろうが、なんとも納得のいかない話である。係長会議の後、直属のサービス課長に「どうしてサービス係の補佐員2名の首を切ったうえ、1名の業務委託でその後を埋めるということになるのか、自分はとても納得できないので了解されたその根拠を示してください」と尋ねたところ、
 「書庫整理作業がだいぶ進んで、資料環境はかなり良くなったが、自動貸出や入退館システムが入るというような目途はまだないな。まあまあ、来週にでも理論武装をして、その話はまた後で・・・・・・」と言い残したまま、3連休を利用した実家帰りに向かってしまった。
 中途半端に終わったやりとりの後、これを書いている2月末日までサービス課長からは一言も返ってこなかった。この間、稼ぎの手段を断たれることになった心中を察してあまりある当事者二人に対して、直属のサービス課長からまともな言葉一つ無かったことも確かめた。
 見られるとおり図書館の管理職のやり方はただ一つ、金がないことを理由に管理職のエゴに乗っかった強権を発揮し、年度雇用という補佐員の制度的弱みにつけ込んでむりやり「了解」を取り付け、後は黙り戦術でごり押しする気だ。
 係長会議では、管理課長の特定の補佐員に的を絞った首切り報告を引き継ぐように、事務部長から「このことについて何か意見がありますか」とあったが、補佐員を「特定」した根拠も外注化業務「選定」の理由も明らかにしない(できない?)まま、あらかじめ異議申し立ての場を断っておいて、バカも休み休みにしてもらいたいものだ。  図書館勤務継続10年のベテラン補佐員といえども、いきなり事務部長と管理課長(直属のサービス課長は同席せず)の前に引き出され、だしぬけに引導を渡されてとっさに自在に振る舞ったり、人間的にまともな対応ができるわけがないだろうが!
 一介の現場担当係長が異議申し立てをしたところで、管理職側は「本人の了解を取っているのに今更何をぬかすか」で切り捨てゴメンも糞もないのかも知れない。
 だが、どのように管理職が言いくるめて特定の補佐員の「了解」を取ったのかは知らないが、金がないことを理由に特定の補佐員が首を切られなければならない根拠はどこを探してもあるわけがない。これこそ巷に溢れ返っている「リストラ」風潮に乗っかった「不当労働行為」そのものだ。自らの管理・経営能力の無さを現場で働く者に転嫁しただけの無為無策。図書館の管理職が拠り所としているのは、末端官僚エゴをさらけ出した「不当労働行為」としか言いようがない。
 「司書資格を持っていないから」、あるいは「働きが悪いから」、または「ヘマばかりで使い者にならないから」とか言うような難癖のつけようならまだしも、たまたま富大の図書館の管理職の椅子に束の間だけ流れ着いた者が、言うに事欠いて「金が無いから辞めてもらいます」とは、どんな形であれ地元で働く者の生活の維持・確保という基本的な原則すら知らないのだ。
 首切り理由としてあげている「金が無い」ということの責については、コスト管理能力もないことが露見した管理職こそが負うべきであって、特定の事務補佐員が辞めることによって償わなければならない理由はもちろん、管理職が勝手にその首を切っていいという筋合いは人倫に照らしてどこにもない。(平成13年3月1日)

十字路からの発言(2001/3/5)

 3/2(金)朝の配架作業から戻った事務室で「抗議メール」を宛てた当の管理職から声がかかったが、メールのことは某管理職が(出張中で)いないから後でと言われ、それからは当面の仕事についての確認に終わった。
 
 3/2(金)昼休みに富大教職組の役員から、「抗議メール」の内容について事実確認をさせて欲しいということで、いくつかの指摘があり、当方の記述に間違いが無いか確かめられた。
 3/5(月)係内の午前の定例としている書庫内作業中に、管理職の一人から呼び出され、「抗議メール」を宛てた管理職も同席した。
 開口一番、コミュニケーションの面で欠けていたとの反省の弁に続いて、「抗議メール」の文面にとうてい許せない不当な「言葉」があると言われた。
 記憶を頼りに「抗議メール」の文脈にそって、指摘された「言葉」が含まれるフレーズを列挙しておこう。
1.「金がないことを理由に管理職のエゴに乗っかった強権を発揮し、年度雇用という補佐員の制度的弱みにつけ込んでむりやり『了解』を取り付け、」

2.「補佐員を『特定』した根拠も外注化業務『選定』の理由も明らかにしない(できない?)まま、あらかじめ異議申し立ての場を断っておいて、バカも休み休みにしてもらいたいものだ。」

3.「自らの管理・経営能力の無さを現場で働く者に転嫁しただけの無為無策。図書館の管理職が拠り所としているのは、末端官僚エゴをさらけ出した『不当労働行為』としか言いようがない。」

4.「たまたま富大の図書館の管理職の椅子に束の間だけ流れ着いた者が、言うに事欠いて『金が無いから辞めてもらいます』とは、どんな形であれ地元で働く者の生活の維持・確保という基本的な原則すら知らないのだ。」

5.「首切り理由としてあげている『金が無い』ということの責については、コスト管理能力もないことが露見した管理職こそが負うべきであって、特定の事務補佐員が辞めることによって償わなければならない理由はもちろん、」

 これらのフレーズのどこが、固有の管理職を誹謗・中傷するために書かれているというのか。「抗議メール」のどこに、筆者の実名以外の固有名が含まれているというのか。拙い文章であることは認めるが、管理職としての「不当な行為」を指摘し糾弾する「文体」を形作るために「言葉」を使って「表現」したのだ。
 筆者が責任を持つのは「抗議メール」として書き表した「表現」そのものであって、読み手の受け止め方に関しては責任をとれない、というかまったく関与できない。
 管理職の意に沿わない言葉が使われていると言われようが、当方が精一杯の「意」を込めて書いた「抗議メール」なのだ。今さら書き方が悪かったと言われても、もうとう撤回できない。「抗議メール」が握りつぶされたり、圧殺されないように周到に言葉を選んで書いたつもりだ。
 現場では「抗議メール」の「文脈」として使われた「言葉」ではなく、「単語」として使われた「言葉」について終始しただけ、「どうしてサービス係の補佐員2名の首を切ったうえ、1名の業務委託でその後を埋めるということになるのか、自分はとても納得できない」という肝腎の論点もかみ合わないまま、どこまでも平行線を辿るしかなかった。

十字路からの発言(2001/3/7)

 富大教職員組合の役員に求められて了承しておいたところ、「抗議文」が「組合ニュース」に掲載されることになったようだ。一人の図書館管理職と、課内の人達と、一つのメーリングリストだけに宛てた抗議行為だったのに、拙い「抗議文」に望外の「場」を与えてくださった方々に心から感謝します。
 朝の開館前、閲覧業務機器類の立ち上げ作業をしていたら、カウンターの雑巾掛けをしている隣の島(係)の同僚から「出勤簿にハンコを押せなんて、なんか検査でもあるの?」と声がかかった。「検査なんて聞いてないけど、何もないはずだよ」と返した。
 館内の係長以上登録メーリングリストに、出勤簿に押捺漏れが無いように、休暇願は休む前にきちんと出すよう図書館職員全員に周知してください、との通知メールが流れたのだ。
 何らかの検査前ならいざ知らず、こんな事は前例がない。管理職は「有給休暇闘争」の影にでも怯えているのか?これまでめったに休まず、人一倍頑張っていた(12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員の一人が今週に入って有休を取っていることは事実なのだが。
 組合の動きが本格化したこともあり、館内で(12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員の一人一人にどのような管理職のあの手この手の「工作」が始まっているのか、いないのか綿密に調べて明らかにすべき段階なのだが、日常業務をこなすのに精一杯でとても対応できない。
 どんな場に引きずり出されようとも、相手の「肩書き」や「ブランド」に惑わされることなく、(12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員のそれぞれが、自分がこれまで富大の図書館で働いてきたことを拠り所に対応されることを信じている。ここでは、図書館の管理職よりも、(12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員の「経験」年数の方が断然長いのだから。

十字路からの発言(2001/3/8)

 3月だというのに真冬に戻ったような雪の富大キャンパスで、富山大学附属図書館長に宛てた教職員組合による「私たちは、図書館パート職員の雇い止めの撤回を要求をします。」という署名運動が始まった。趣意書の「図書館パート職員の雇い止めに反対します!」が「図書館の現状」を正確で丁寧に汲み上げていて、真っ先に署名させていただいた。
 「十分な議論や現場の事情の検討もないまま、今回の決定がなされたことは否定しがたいところです。予算と人員配置に関わる重要事であるにもかかわらず、図書館運営委員会がこの件に関与する必要はないと判断した図書館事務局の見識」(趣意書)とあるが、たかがその程度の「見識」で押し切ろうとしている図書館管理職の手によって、学内はもとより地域社会の利用者へのサービスを担ってきたサービス係の事務補佐員の首が切られようとしているのだ。負けてはいられない、絶対に許すな!

十字路からの発言(2001/3/9)

 今年(平成13年)の2月7日(水)に図書館の事務補佐員を呼び出し、お金(予算)が無い事を理由に平成12年度限りでの雇用打ち切り通告をした際に、学内の他の部局にも雇用の余地はまったく無いとダメを押した管理職が、今日になって手のひらを返すように当の事務補佐員に「学内の他の部局ではどうか」と声をかけてきた。それも館内の事務用階段での通りすがりに。
 これが図書館管理職による現時点での、図書館の労働者たる一人の事務補佐員に対する遇し方なのだ。この事務補佐員は昨年(平成12年)の9月20日(水)の人事ヒアリングの際に、(2年がかりでやってきてもまだケリがつかない書庫内整理業務もあるので)今の仕事続けさせて欲しいとお願いしていたことを確認している。
 閲覧・貸出サービスの基本となる、所蔵資料環境の整備状況をはじめとした富大図書館固有のサービスの現状を見極め、配慮することなしに業務委託した図書館サービスなどたかが知れている。「どうしてサービス係の補佐員2名の首を切ったうえ、1名の業務委託でその後を埋めるということになるのか、自分はとても納得できない」という問いかけからかけ離れたところで何をやっているのだ。
 図書館の事務補佐員の雇用面で身勝手なリストラをやろうとしている図書館の管理職は、自分たちこそ先頭を走っていると勘違いしているのではないか。一番前にいるのは利用者であり、その後押しをするのが図書館で働く人達の仕事ではないのか。
 「図書館パート職員の雇い止め撤回」署名運動や富大教職員組合との館長交渉を前に図書館の管理職はいらだっているのかも知れないが、ぶり返した寒さで頭を冷やして自らやっていることを見直してもらいたい。  他の平成12年度限りでの雇用打ち切り通告を受けた図書館の事務補佐員にはどんな管理職の仕掛けが行われているのかいないのか、とても気になって仕方がない。

十字路からの発言(2001/3/18)

 3月16日(金)午後、4月1日付け図書館の人事異動の内示が公表された。情報サービス係長を担当した平成11年度から、利用者が確実に所蔵資料にアクセスできる資料配架の再構築作業(午前90分間の日常業務として維持し、これまで約30万冊動かしてきた)を、この1年間担ってきたサービス係員も入れ替わることになった。
 書架から溢れ返っている資料を前に困っている利用者を顧みず、書庫内利用サービス面でまともな所蔵資料の配架・運用を維持してこなかったことに、数年前の図書館の増・改築時にきちんとした配架・運用指針が伴なわなかった資料の移動作業が加わり、それが今日の富大の図書館のお粗末な(OPACが提供する書誌・所蔵データ中の現物との不整合を含めた)所蔵資料へのアクセス環境となっている。
 この積年の「つけ」を支払うため、2年前からサービス係がとりかかっているシフティングや重複チェックを中心とした未整理資料を含めた館内資料の移動・整理作業の要となっているのが、平成12年度限りでの雇用打ち切り通告を受けたサービス係の事務補佐員だった。なぜなら、館内資料の所在の現状を誰よりも把握し、利用者や、ILL担当者のリクエストに応えられる人間はサービス係の事務補佐員以外にいなかったのだから。
 図書館サービスの基本となる自館の所蔵資料による閲覧・貸出サービスを立て直そうと、館内で初めて企画・実施してきた自館の所蔵資料の配架・整備作業も中途半端のまま、お金(予算)が無いという理由で、富大図書館のサービス現場の状況も顧みることなく「サービス係の補佐員2名の首を切ったうえ、1名の業務委託でその後を埋める」ことになろうとしている。

十字路からの発言(2001/3/20)

 3月19日(月)の残業時に図書館管理職から声がかかり、図書館の管理職部屋で話を聞いた。
 事務補佐員を3年を超えて雇用しないという、昭和55年度の富大の事務局長裁定(これまで学内のどの部局でも守られておらず、実質的には空文化している=筆者注)を拠り所に、図書館業務の合理化計画の一環として今回の「サービス係の補佐員2名の首を切ったうえ、1名の業務委託でその後を埋める」ことの(3月5日に同じ管理職に呼び出されて聴かされた時とまったく変わらない)趣旨説明を前置きとして、これは一部局(図書館事務部)の問題ではなく大学の事務局が取り扱うべきこととして(3月19日午後)事務局管理職から、サービス係の(図書館管理職から12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員2名に対し学内の他の部局での平成13年度の雇用の提示があった旨の説明を受けた。
 これに対し、現時点での富大図書館の「窓口サービス」に関わる諸条件がサービス係の(図書館管理職から12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員2名を必要としていることを繰り返し説明するしかなかったし、なぜ二人の平成13年度の受け入れ先が図書館で継続されないのか、まことに残念で納得できない意を表するしかなかった。

十字路からの発言(2001/3/30)

 急遽3月19日の午後に事務局管理職から提示のあった学内の他の部局での平成13年度の雇用に対し、サービス係の(図書館管理職から12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員2名はタイムリミットの3月23日(金)にきっぱり断りの意思を表示したとのことだ。
 図書館管理職によるサービス係の事務補佐委員2名に対する「リストラ」を繕うように割って入った事務局管理職による「首つなぎ策」が、当の二人によってものの見事に「リストラ」されたのだ。これこそ富大の図書館管理職の身勝手な「リストラ」に対抗した、サービス係の事務補佐員2名による「快挙」といえよう。
 さりげなく「断ってきました」と教えられたとき、我が心は声なき「バンザイ」を叫んで小躍りした。組織や制度によって仕組まれ与えられる順位のついた「快挙」などではないから、まったく目立たない仕事・生活の現場に根ざした生老病死の一回性を生きようとする心眼にしか映らない「快挙」でしかないが。
 わたしたちを取り巻くきびしさを増すいっぽうの情況にあって、どうしても手放すことのできない生活者の姿勢の一つがここに示されたといっていい。
 誰の目にも、お金(予算)がないから「サービス係の補佐員2名の首を切ったうえ、1名の業務委託でその後を埋める」という図書館管理職の思惑通りにことが運んだように見えるかもしれないが、サービス係の(図書館管理職から12年度限りで雇用打ち切り通告を受けた)事務補佐員2名は、事務局管理職から提示のあった学内の他の部局での平成13年度の雇用を拒否することによって、これまで富大の図書館で働いてきた労働者としての自主性と労働の自由を守りとおすとともに、お金(予算)がないという理由を盾に、その労働者としての自主性と労働の自由を侵害する図書館管理職の不当性を、自らの生活をかけて明らかにしたのだ。
 彼女らの将来に祝福を!

その後の風信から

その1

吉田@富山市高屋敷です。あ〜会えなくて残念!

 8/31(金)の夕方、富大バド班の暑気払い&送別会に出かけたすぐあとですれ違って
まことに残念。溢れるようなお心遣い、多謝!です。一つあとのバスにしてたらな〜!

 出がけに自宅のマシンから職場のメールを覗いたときもびっくらこいた。
 「吉田さま」というメールタイトルでなかったら、知らない名前の迷惑メール?
 はたまた流行のウィルス添付メールと間違え即ゴミ箱行きだったかも。

 開いてびっくり、結婚でもして丸ごと名前を変えたんか?と一瞬勘違いしたくらい、
もらって嬉しいメールなのでした。
 これからももし書いていただけるんなら、そうしてもらえたら嬉しいけど
kyoshi@tym.fitweb.or.jp
をお忘れなく、近況報告、待ってますよ。

>20日過ぎに吉田さんが”体をこわされて退職される”と

 夏場に入って腱鞘炎もひどくなるし、これ以上持ちきれないな〜という具合で、
前期の授業の終わるのを待って(7/25)部長に退職届を出しました。
 震えた字しか書けないありさまで、なんと縦書きワープロ字体でね。
 8月末付まで有休としてもらうことの了解もその場でもらいました。
 
 もちろん家人の了解だけは事前にとりましたが、あとは部長一本槍でした。
9月になったらKさんにいうつもりだったのに、知れてましたか。

>足のけがの具合はいかがですか?体調もとても心配ですが、

 有休休暇中は週に2〜3回ご近所の整体へ、なんか自分に合ってるみたい。
 お盆過ぎからは、週に2回のバドミントン(子ども・ご婦人さんと)で、
とにかく血流をよくするようにしてました。

 腱鞘炎の痛みはすっかり引いて何となくしこりが残っているかな。
 震えない字も書けるし、もう雑巾を絞ったりできます。
 左膝の怪我の後遺症は抜けない痛みだったんですが、バドのぎこちなかった
フットワークも気にならなくなってきたから、あとは自転車も大丈夫だし、
スキーシーズンを楽しめればそれで十分です。

 近眼と老眼の合併症みたいな視力の不都合からくる現場作業時のストレス、
これだけはしょうがないとあきらめてます。閲覧端末の画面表示確認も結構
きつかったわ。とにかくおかしくなったらまず休養してみること、でしたね。

>私の解雇の件でずいぶんとご迷惑もおかけしましたし、本当に

 それはない、Kさんがいてくれたから示せた行為で、当局の不当性が
 より明白になったんで、「迷惑」だなんて事は一切無かったことですよ。
 こちらこそ、おかげで得難いものを経験できました。

>申し訳ありませんでした。大学自身、いい話はなにも聞こえてきませんね。

 お礼はこちらのせりふ、です。
 管理職に負けてしまったことは、交通事故だったと乗り越えましょう。
 以後の大学のありさまは見えてる範囲だけでも、ぶざまに腐りきってます。
内輪受けしか考えられないと言うか、仲間内しか視野に入らない対処で何を
どうしようとしているのかちっとも見えませんでした。
 本省からも査定を受けたんだろうけど、学長裁量経費の配分なんて無くなって、
サービス課の懸案だった当面10万冊の書架増設なんてやれるわけがない。
 ま、われわれにはもう関係ないですから、あとはT&Nコンビにお任せです。

 図書館も9/1付でS部長が東京工大に転任で、内心は1年5ヶ月で富大と縁が
切れ万々歳というところじゃないのかな。手を着けてたことはみんな中途半端のまま。
 後任部長は、僕が医薬大でシステム導入をめぐって喧嘩になったこともあったお方、
東北大のA課長の抜擢人事でした。金大の課長も経験してますから、北陸版国立大の、
統廃合を目指した図書系人事と読めなくもないけど、あっこれももうカンケイナシです。

>沈むゆく船ですね。

 図書館の現状がその象徴かも。ここでも内輪受けを狙った事業優先みたいで、
管理職は現状を見極めながらのサービス拡充なんてどこ吹く風だったですね。
 現場を預かるものの心がけも決して良かったとは言えませんが。(反省)
 この際、受験生の大学選びに図書館の資料&サービス充実度でも加わらない限り、
これからの大学の図書館をよくしようとする動きは出てこないかも知れないね。

 後任のTサービス係長に8/30の午後引継を終えましたが、Tさんの後へは
医薬大からTさんが昇任になったようでした。なんかお二人とも気乗りしない感じ。

 なんかもう二人に関係ないことを書いてしまったようです。
 とにかく富大図書館での僕らの時代はジ・エンドということです。

 いつもどこでも、いなくなった図書館員を惜しむ利用者がいましたが、
信州大の医学図書館のIさん、いまガンと闘病中の医薬大の元図書館員Uさん、
そして富大図書館ではKさんみたいに、会ったこともない他大学の図書館員や
利用者から賞賛される方と働けてホント良かったです。

 過ぎた39年を振り返っても素晴らしい立ち姿を残してくれた、数少ない、
珠玉のような人とのふれ合いはうまく言えないけど、忘れられません。

>この夏は冷房のない職場で一ヶ月あまりを過ごしました。私も

 暑かった書庫内作業の無駄話で言ったかも知れませんが、仕事選びは
やっぱり建物・地勢を含めた環境選びが一番でしょう。
 その点僕は、医薬大から富大図書館に移れたから昨日まで長続きできた、
と感謝してます。

>気分転換をしています。夏休みには南紀白浜の方へ出かけてきました。

 僕も行って、静養したかったなぁ。よかったね〜。

その2

 富山も爽やかな日和に誘い出される自転車&散歩がまことに愉しい季節になりました。平日の午後など、比較的車の少ない時間帯だとけっこう遠出を楽しめます。  走り疲れる前に郊外の大型書店、家電量販店、オーディオ・ショップなどを覗いて散策するのが休憩になったりしますね。  初冠雪の立山連邦を眺めた時など、スキーシーズンが待ち遠しいくらいでした。
 
 せめて今年いっぱいは家で何もせずにぼんやり、ぼ〜っとして過ごせたら、なんて思ってたのに体調が戻るにつれ、いつのまにか目や耳や手足を使っているようで、せっかく無為徒食の輩に落ち着いたのに、今日はなんか時間が足りなかったぞ、などと感じたりしている自分に苦笑いすることもあります。
 定年まであと数年、途中下車みたいに仕事を辞めて1ヶ月あまりの気分は、前途のない学生みたいで宙ぶらりんの心地よさといったところでしょうか。
 39年続いた図書館勤めなど、遥か彼方に遠ざかってもう振り返ることもないのは、打率3割で仕事をこなした自負のなせるわざというより、本質的に自分は働くことが嫌いだったんだと気づいたり、
 3年ぶりに顔を見せた中秋の名月を眺め、巨人やヤクルト相手にしぶとい戦い振りを見せた阪神タイガースの試合を見ながら、シーズンを通してこんな野球ができれば近鉄バファローズ相手に、大阪はキタとミナミの頂上決戦が楽しめたのにな〜、などと夢想したり、
 なんだかお気楽な毎日の今日この頃です。
 昭和30年代の青臭い小・中学生以来、とにかく稼ぎ続けてやっとひとつの通過点を過ぎつつある者のたわごとにチョットお付き合いください。
 サラリーマン稼業が庶民の生計の立て方の主流となってそんなに歴史を経てはいないのに、さも当たりまえのように人生の王道に位置付けられてしまっている。  社会の産業構造がこんなになってしまったからにはどうしようもないのだけど、途中下車した者にはもう人生の余白しか残っていないような扱いしか待っていない。
 世の中に偏った見方がはびこりがちなのは、とにかく職業で人を見てしまう、また見ざるを得ないという具合に育てられたからだ。とっくに飢えることから解放されてしまっているのに。
 いろんな生きかたの選択肢があり、どれをとろうが等価だよといった見方が欠けてしまうのは、家庭、学校そして職場のあり方にゆとりがなく、とにかくその時々の流れに身を委ねてよしとせざるを得ないところに押し込められてきたからに違いない。
 そう十人十色、いろんな場面でさまざまな年代の男や女たちが悪戦苦闘しながら、生業のなかからつかみ出した声に出会える機会なんて稀になったというか、そういう事態に立ち会うことを本能的に回避してしまうまでに追い込まれている。
 重くなりそうになったり、負担になってきたり、お手本がなくてどうしていいか判らなくなる前に、とにかく手持ちのエゴしかないもんだからそれをぶっつけるように投げ出してしまう。だから現状を把握し、見通しを立てて事にあたるといったことができにくいし、またやろうとする奴は利用された挙句に煙たがられ、多勢から敬遠されるのがオチだ。
 表向きは何もないように見えて、家庭も、学校も、職場も、いったん水面下を覗けばどこもかしこも人間関係がささくれ立ってしまっている。かろうじて似たもの同士が、群れや徒党を組んで噂話や陰口、中傷から足の引っ張り合いといったせこいガス抜きしかできないもんだからますます悪臭に満ちてくる。やがて幾分かは病気やキチガイや偏屈者といった合併症をを演じないでは済まされなくなっている。
 昨年の秋だったか姪の結婚披露宴で、今を生きていて人間関係に恵まれることほど希で素晴らしいことはないとスピーチされた、小学校教師の姿がとても鮮やかだった。
 
 男も女も組織の中の人と人との関係を縫い合わせるように生きるしかないのに、さまざまであるべき関わり合いを受けとめ、育むはずの無意識の受け皿そのものまでがおかしくなっている。親子関係をはじめとして職域や地域における世代間の受け渡しが狂ってきているとしか言いようがない。
 家系や、学歴が仕事をしてくれるはずがないのに、他との比較の中でしか拠りどころを保てないものだから、プライドとコンプレックスだけで組織の中でハンドルを取ろうとしては職場関係で事故っている。
 てめえのおかげで流された血や涙に気づけないほど感覚が腐りきって、気色悪いくらい悪臭を放っているのに気づかない。挙句の果ては世間知らずの不器用さだけが不恰好に花開いた箱庭で自己満足といった按配だ。未来の子どもたちからノーを突き付けられた形でしか他者との関わりを保てない働き盛りの男女ほどブザマでムザンな姿はない。
 時には仕事をめぐって角突き合わせ、やりあう現場があってこそ伝わる固有の職域ならではの現場教育といったものにも頼れなくなってしまった。勤続年数以外に取り柄の無い常勤者の穴を、たまたま仕事のできる非常勤や外注職員が埋め合わせるという不自然きわまりないイビツさも慣れてしまえば常態となってしまう。そんな澱みの上澄みしか見ようとしないドサ回りの管理職が渡り歩くだけの任期中にやれることなんてタカが知れている。
 現場に立つ者が日々の現場体験から学ぶことを忘れ、手垢にまみれた薄汚い下着をありあわせの仕事着で取り繕っているだけ、ひたすら勤務時間をやり過ごし、けっきょく口先だけの何もセンモン家に仕上がっていく。子が見て育つべき親の背中が薄らいだように、その存在感で部下に仕事をさせてくれるような上司も影が薄くなってしまった。
 誰がどのようにあげつらおうがもうなるようにしかならない。なるべく近くで、比較的いい環境で、そこそこ稼げればそれで十分。職場に過剰な期待などそれこそお門違いというものだ。嫌なら自分の懐具合と相談して辞めるしかない。できない相談ならするなと、職場や世間が厳しく教えてくれている。
 平成十二年度末に有能な部下が二人リストラされたりしたのですが、自分はラッキー・リタイアメントに恵まれたのに、なぜかネガティブな物言いになってしまいました。
 私事ですが、善き部下に恵まれていい仕事ができたし、善き上司に恵まれて最良の条件で退職金をもらえたり、自ら不意の退職届にしては絶妙のかたちとタイミングで退職できたすべてに対して感謝いっぱいです。
 だけどね〜、悪意を含まない善意なんて相手にできないように、不幸を含まない幸福なんか信じられないという現実が手放せないから、こんな書き方になってしまいます。
 
 数年前から、自前で「高屋敷の十字路」名のホームページを開き、吉本隆明著作リストや図書関連情報のアクセスポイント集などをアップデートしてきてるんですが、アクセスしてもらえる環境にあるでしょうか。行き付けの図書館にインターネット端末が公開されているようでしたら、http://www.fitweb.or.jp/~taka/index.htmlのURLでアクセスできます。
 そこでは「十字路からの発言」で図書館管理職に対する抗議行為の経緯を書きました。  また、8月下旬から「十字路で立ち話し(あるいはワッツニュー)」で不定期な書き込みを継続してます。
 手紙では書けないようなことも書いたりしていてなんとも恥ずかしいページですが、たまには訪れてもらえて、メールなどもやり取りできたらいいかなとも思います。
 足腰衰えたお袋と一緒だと泊りがけで出かけることもあんまりないし、雨の日なんか一日中ネットサーフィンを楽しむこともあります。そんななかで見つけアクセスした山代温泉のひとつを予約し、娘夫婦一家ともども我が家の秋の行楽を月半ばに楽しむ予定にしてます。
 雑多で雑駁な便りになりましたが、こんなところで失礼します。  これから寒さに向かいます、どうかご自愛ください。

「十字路からの発言」kyoshi@tym.fitweb.or.jp 2001.03.04ファイル作成