以前の〈発言〉の中から

【最終更新日:2017.11.15】
大の学校嫌いだったけど、
暮らしの中で、職場で出会った
現実そのほか、そして時には
向き合ったりした書物などからも
色んなことを学ばせてもらった。
いつかはお返しをしなきゃいけないと感じつつ、
とりあえず過去に書き置いたいくつかを取りだし、
並べて色の褪せ具合を眺めてみた。

歩行と韻律(2017.11.15追加)
短抄三題 この秋見かけた二つの父親像 学術情報センターシステムを利用して――富山医科薬科大学附属図書館の場合 教育と私の現在―研修レポート― スポーツ少年団(バドミントン)コーチに携わってみて ホモ・インフォーマティクスはいまどこにいるのか ひとつの反応と見解―カラ超勤問題をめぐって― 仕事にまつわる本のひと言 昭和56年度大学図書館職員長期研修を終えて 中原中也:消去と遠近 中原中也:歩行と韻律 運動方針(案)と経過報告 夜間短大風景

短抄三題

 [1993年]

       跳  出


      誰にも見えない

      母の後姿はほんとうだった

      めぐりあわせた母国語のように


      出会いの産着にくるまれ

      はじまりのはじまるまえの

      母子の物語に

      築かれた防波堤の高さ


      誰にも量れない

      波動の影はほんとうだった

      喉にうめこまれた母音のように


      どうにも手におえず

      始末のつかないところから

      ヒトの夢は始まっている

      ほころびくりかえし

      母と探りあてた井戸にこだまする

      子音の震え


      誰にも読みとれない

      不在のかたちの刻印はほんとうだった

      はじめに聞こえた映像のように


      舌と手で織りあげる感覚の糸

      外界に開かれた内蔵の地図に目覚め

      縫込まれる身体図に眠る




       失 愛 の 唄


      かってのいのちのであい

      きみはどのくらいぼくを必要としていたの

      どんなにきみを欲していたかぼくは伝えたかった

      いっさいの弁解もなかったきみに


      彼(女)はどうすることもならなかった

      天をあおぐことさえも

      きみが彼(女)から得たすべては

      失敗した愛だけ


      言葉以前の受容の海で

      聴くだけがすべての愛は

      とらえどころのない悲嘆の波頭に

      どんな助けもとどかぬほど

      荒れて弄ばれるだけ


      ぼくはどうすることもならなかった

      天をあおぐことさえも

      ぼくがあなたから得たすべては

      失敗した愛だけ

      ただそれだけ


      きみも納得している

      彼女のほどよい今の暮らしぶり

      あのときあなたがどんなに

      ひどくぼくを損なってしまったか

      よくも知らんぷりでいられるものだ


      ぼくはどうすることもならなかった

      天をあおぐことさえも

      ぼくが彼女から得たすべてといえるのは

      失敗した愛だけ

      失敗した愛だけ




       子 守 唄


      はじめて聞いて

      くりかえし聞いて


      疲れたら

      休めばいいという囁き

      いや戦うべきだという掛け声

      右手と左手 足を交互に

      遊べ 心よ


      根こそぎ忘れてしまうまで


      暮らしが揺れる

      胎児の影が躍る

      船床の響き

      光で刻む船縁を跨ぎ

      映れ波動よ


      コトバを覚え

      コトバで覚え


      あてどのない海が

      さすらいの鳥が

      母によって決められた姿が

      ひたすら漕ぎだす

      宿命の子よ


      はじめて聴いて

      くりかえし聞いて


      声をかぎりにつむぎだす

      ――おそれにおののきがなら


      根こそぎ忘れてしまうまで


      生命の糸を掴まえる

      ――エロスの核に迷いながら


      コトバを覚え

      コトバで覚え


目次に戻る

この秋見かけた二つの父親像

 [1993年12月]

 この秋の初めと終わりに、二つの父親像を見かけた。
 ほかでもない、国連名誉大使として“初仕事”に出かけた中田武仁(55歳)おじさん、そしてアメリカでの銃砲規制署名運動の推進活動から帰った服部政一(45歳)おじさんのことだ。
 ことの始まりはおやじさんそれぞれの息子、カンボジアでの国連ボランティア活動をしていた中田厚仁さん(当時25歳)、アメリカのルイジアナ州バトンルージュで交換留学生としてホームスティしていた服部剛丈君(当時16歳)の海外における射殺事件として報道されていた。
 留学生殺人事件については、アメリカというところは何が起こるかわからんからおっかないねというのが、また日本人監視員射殺事件については、名目はともあれカンボジアの国民が自力解決するしかない事柄におせっかいをやいて殺されたんじゃたまんないねというのが最初の印象だった。
 息子の死を聞き、出張先の金沢から帰宅して「最悪の事態は覚悟していた。これから桜の花を見るのはつらいだろうが、息子にはよくやったといってやりたい。」と語った厚仁さんのおやじさんは、二日後にプノンペンで「大切な家族の一員を失ったが、これで国連ボランティアたちがひるみ、崇高な理想を達成できなかったら大きな悲しみです。」と訴え、二十日あまり後には商社を辞し、息子の遺志を継いで国連ボランティアになる決意をしてしまう。
 事件から一ヶ月後には、大阪市中央区に国連ボランティア活動支援事務所を開き、「中田厚仁記念基金」を設けて本格的な活動を、積極的に始めていた。
 梅雨の頃に、国連ボランティア計画(UNV)から「国連ボランティア名誉大使」に任命されたおやじさんは、秋風とともに飢餓に苦しむソマリアなどを歴訪する海外活動へと飛び立った。
 昨年秋の服部君射殺事件の後、息子の通夜の席から時を経ずして日本で「アメリカの家庭から銃の撤廃を」訴える署名運動を始めた剛丈君の両親は、冬が来る前にアマコスト・アメリカ大使に働きかけるとともに、アメリカ国内での署名集めにも取り組み始めていたようだ。
 今年の秋までの粘り強い活動で集めた日米での署名の成果を携え、クリントン新大統領に直談判して訴えるまでやりおおせた。
 この夏の東京サミットに来日したクリントンからの電話の折に、訪米時の会見の約束までおやじさんは取り付けていたという。
 それぞれの思いや判断は別として、どちらのおやじさんも無理なくスムーズに行動を連ねてここまでやってきているように見える。
 新聞やテレビの報道をたどっていると、ホゥやるもんだね、という感想をもらしてみたくなった。
 服部君のおやじさんのやり方には、一介のサラリーマンが既成の人脈などに頼らずに始めたアメリカへの異議申し立てとしての新しさがイメージされているようだ。
 日本とアメリカでの銃器所持に対する考え方の落差がどのように媒介された運動となっているのかが不透明で、実効性に疑問符が打たれるとしても、ここまでのフットワークは従来のフツーのサラリーマン像を踏み越えてしまったように見える。
 また、厚仁さんのおやじさんのことを“この子にしてこの父親あり”とか“日本の父”などと手放して持ち上げてみせた新聞ガミなど破いて捨てるほかないが、春から秋にかけてきれぎれにみせてくれた行為の裏には、そのような言い回しでは括れない、日本の定番サラリーマン像を逸脱した新しさが含まれていそうだ。
 たまたまテレビに出ているどちらかのおやじさんを見かけたりすると、いよいよというか、とうとうというか、ゼニにならないことに本腰を入れてやってしまうおやじさんが現れてきたもんだネー、という気がしてならない。
 それぞれの物腰や喋り方に対する好き嫌いも含めて、とにかく本気なんだなと思わせられる。
 秋風以上に身にしみる不景気風にゆすぶられながら暮らしを算段しているサラリーマン像にダブらせてみると、二人のおやじさんがやっていることは戦後の生活の機軸である欠乏の倫理に基づいた行動態から抜け出していることがよくわかる。
 この秋に出た佐貫利雄の『日本経済・新論』をたまたま読み進めていたら、ここ百年あまりの日本国内の経済・社会構造の変動過程が先進諸国のそれとも絡めてものの見事に分析されていてとても感心した。
 それとともに、このような急激な就業構造・職業構造・学歴構造の変化をともなった経済成長による無形の背景の積み重ねがあって、はじめて今回の二人のおやじさんの立ち姿がせりだしてきたんだなとも感じた。
 所得の半分以上を消費にまわし、その消費も半分以上が生活の維持とはかかわりのないところにつぎ込まれるのが一般的となったところでは、生まれ、働きながら結婚して子を育て、そして老いて死んでいくというフツーの生き方のどこかに痣のようにしみこませてきた欠乏の倫理が現在に対して半分以下の意味しか持ちえなくなってしまう。
 けっきょく、それぞれ重たいか軽いかにかかわらず、大衆の懐具合も様変わりしつつあるといわざるをえない。先進国化し産業構造(およびそれぞれの産業内部で)の高次化にともなう、所得の消費構造の様変わりがおやじさんたちに欠乏を基点としない倫理を呼び寄せようとしているのだ。
 そうなってしまえば、習い覚えた賃労働の意味なんてもはや怪しいもんだ。
 漸増する余暇時間こそが所得に意味を与える貌としての固有性を主張し始める。
 おやじさん二人が並走するかのようにして、ここまで見せてくれた「ボランティア」や「署名運動」はそれぞれの固有性を彩る欲求の一つの現れとして位置づけられそうに思える。(1993年12月4日)
目次に戻る

学術情報センターシステムを利用して――富山医科薬科大学附属図書館の場合

 [1990]

吉田惠吉*
*Keikichi YOSHIDA
富山医科薬科大学附属図書館
〒930-01 富山市杉谷 2630

1.はじめに

 昨年(平成元年)の夏(7月1日)に富山医科薬科大学附属図書館システム(K-ILIS)[以下「医薬大システム」という]はK-ILISによるローカル目録作成から、学術情報システムのなかの図書館支援システムとでもいうべき目録システム(NACSIS-CAT)による共同分担目録作成へとその作業形態を移行させた。北陸の一作業場からいきなり全国区の大部屋にひきずりだされたシャイなカタロガーにいったい何が視えるようになったのか。
 当時の昼下がりのピーク時には、300台の目録端末がいっせいに稼働しはじめ、30秒に1件の速さで書誌をつくり出し、7秒ごとに1所蔵データが付加され、1書誌あたり平均74所蔵館データがくっついたという。この全国版(仮想)大部屋目録室で書誌作成に入ったカタロガーはお茶を一杯どころか、トイレにさえたてない。流用書誌データも見つからない、まっさらな画面に書き込む場合など、思わず、顔も姿も見えず声もかけられないカタロガーからの入力を待とうかという気にもなったりする。
 過去にJapanMARCやLCMARCの印刷カードを発注して目録作成に役立てた経験を持っていたとしても、オンライン目録・所在図書館システムの仮想画面(Virtual Screen)をデスク・トップに見立てた目録作業はカタロガーにとってまったく新しい未知の体験である。この質のちがい、次元がちがうという感じはいったいどこからやってくるのか。
 全国の大学図書館(496館)が所蔵する資源(164,319千冊)のネットワーク化という観点から見ても、学術情報センターの分散型目録ネットワークのシステム・データベース構築データ(1990年6月現在)の規模は、その参加率としては26.4%、そして目録・所在情報登録率としては2%という数値に示されるようにまことに小さい。また目録システム(NACSIS-CAT)の月々の登録件数を10万と見積もっても全国の大学の年間受入図書総数(7,217千冊)の16.6%にすぎない。
 新規入力や遡及入力に、オンライン目録端末を実際に叩いてみると、センター側とローカル側とのあいだでの書誌構造の相違などによる目録データ処理上のつなぎのわるさや受け渡しのズレがつきまとい、カタロガーは双方の目録情報および構造の基準をクリアすべく仮想画面上でのフィールド・データ操作とコードやコマンドの取り扱いといった面で、マニュアル操作時にはなかった濃度と色合いの作業環境の場面に入り込むことになる。まばたきも少なくなるほど視覚と注意の極端な集中をしながら身体の動きは指先にとどまるといったアンバランスな労働を強いられるといってよい。また熟練を積めば積むほど目録作業の速度も強度も加速度的に高まる。以前に丸一日を要した目録処理を、たとえば数時間でこなしてしまうというように。
 現時点では、共同分担目録プラス総合目録データベース構想の展開においていささか未成熟なレベルにあるとはいえ、「装置」としての学術情報システムを利用した図書館の目録システムには、目録作業の飛躍的な次元転換をもたらすたしかなイメージが読みとられる。書誌情報のオンライン・データベースとして640万レコード(1990年6月21日現在)を超える各種MARCファイルの書誌部分にアクセスし制御を可能とする通信技術のコンピュータ・システムに支えられた図書館ネットワークのユーザー・インターフェース(UIP)によって展開されるマルチラテラルな目録作業の方向性をとりあえず読み込んでおくこと。これが数年前、学術情報センターでの「接続説明会」に出席したときの感想であった。K-ILIS固有のシステムによるローカル目録作成からVTSS接続方式によるオンライン目録ネットワークを介したそれへの移行を果たした現在、カタロガーの手の経験に置き換えられるオンライン分担目録(処理)システムを構成する集合体に一枚加わったという意味を超えて、共同で目録を処理する普遍視線の「経験」を制御する世界視線のシャワーにさらされた次元での集積システムの展開というイメージにとらえられている。
 目録作成作業現場への鳥瞰(Bird's-eye)視線の導入というイメージで、目録・所在情報処理手段の高度情報化が表象されるが、このイメージの変容を背後で押し進めているのが現在進行しつつあるエレクトロニクス技術の導入による産業革命とみなされているものの核心にある手段の集積化という総合力にあるとみなされる。第三次産業の人口が人口構成の半分を超えるように産業が高度化するにしたがい情報産業が経済社会構造の前面に立ち、重層情報社会の形成を促すとともに通信技術の高度化をもたらしている。盲目的とはいえ、このたしかな社会像の様変わりに対して情報の流通にかかわる図書館サイドからその本質を問う明快な姿勢はまだ打ち出されていないように見える。
 直接的な生産の現場を離れた場所、学術情報の流通という非生産現場で実現されつつある高度情報化の一典型としての学術情報センターシステムが存在する。その一翼を担う分担目録システムの本質的課題は、システムの機能や性能面にあるのでもなくまた学術研究情報の一元的管理にあるのでもない。
 学術情報資料の収集(選択)ー蓄積ー組織化および配布という、従来の図書館(員)に見慣れたプロセスの高次化と言う傾向はいったい何に由来するのか。高度情報化社会への転換にともなう不可避性のなせるわざに含まれるとしても、それはカタロガーに、利用(研究)者・大衆にとっていったいどんな意味をもつのか。またその価値づけはどこで判断されるべきなのだろうか。身近なところで学術情報センターシステム以前の、図書館・情報システムの高度機械化と、以後のその高度情報化との差異にひそんでいる世界方向からの認識の場所を確かめ見つづけることがいちばん考えやすいし、「高度情報化」の価値概念の正確なイメージに近づき得る。

2.医薬大システムの概要

 1975年10月医学部新設とともに富山大学から移行した薬学部をあわせて国立の富山医科薬科大学が設置され、附属図書館業務のあゆみが始まった。1978年6月に和漢薬研究所が富山大学から本学に移行併設されてまもなく、1979年10月には本学附属病院が開院の運びとなり、より一層医学・薬学情報サービス拠点としての性格を色濃くしながら附属図書館は今日に至っている。医薬大システムの環境とシステム化のあゆみの概要を以下に示す。

3.医薬大システムの現況

 当面の運用を意図していた受入サブシステムが現行の機器構成(図1)では走らないという事態に直面している。Mシリーズ(大規模図書館用)からKシリーズ(中小規模図書館用)へのILISの移植が不完全なのかどうかはっきりしないが、とにかく商品とし未完成な面をともなうパッケージ・ソフトウェア(なんという矛盾した言い方)を採用しているつけは高くつくと言うべきか。システムのカスタマイズにあたって突きつけられた受入端末そのものの台数不足や現有受入端末のハードディスク(20MB)の容量不足への対応も終わらないうちに、今度はホスト・コンピュータのCPU(3MB)の容量不足という追い討ちをかけられている。ワーキング・グループでまとめた医薬大システムの基本機能を実施に移しコンパクトな形で運用できる自主開発の能力も基盤もなく、さりとて本学の使用の具体化にあたってメーカーやシステム・ベンダーからのしっかりしたサポートも望めないままこう着状態にはまり込んで次の一歩が踏み出せないというのが偽りのない姿だ。機械処理(図書・製本雑誌貸出)とマニュアル処理(未製本雑誌貸出)の二足のわらじを履いたままの貸出システム。お世辞にも良くなりつつあるとはいえないユーザー・インターフェースのオンライン閲覧目録検索システム。おそらくこういったところが利用者から見られている医薬大システムの今の素顔に近いであろう。
システム構成図
 図書および雑誌の価格の高騰による1館当りの充足率の低下傾向が一般化しているなかで、図書館資料(情報メディア)は多様化の度合を加速し、増え続けるいっぽうの収集すべき情報とは時間的にも空間的にもズレ(遅延)の存在が無視できないものとなってきている。実際にはとても錯綜していて見極めがたいことだが、図書館をめぐる情報環境との落差を無化する方向性を見失わないような医薬大システムの維持とこれからの展開がどうしても必要とされる。コンピュータ・システム用に周期的に必要な経費への支出は増え、各種の電子情報サービスの導入や維持も本格的にやろうとすればかなりの出費が見込まれる。学術情報システムの利用という点ではほとんど目録システムが中心となっていて、情報検索や電子メールシステムに関してはほとんど実績を残してきていない。情報検索システムのデータベースが充実しコマンド検索方法がもっと容易になれば研究室からの利用が見込まれよう。それに相互貸借(ILL)業務処理機能を学術情報センターシステムに依存できるとなれば、図書館における経費増加の抑制とともに資源の共有化という“学術情報センター効果”も実効性をもってくるかもしれない。

4.VTSSによる目録作業の実際

 特に中小規模の図書館におけるシステム向けに開発されたVTSSという通称は、DDX網を使って学術情報センターからデータを画面単位で受取り、その画面を端末側で編集加工したあと、同様に画面単位でセンター側に送る接続形態というほどの意味である。医薬大システムではK-ILISが提供するVTSSシステムを使っているため、目録作業は端末独自で実行する目録システム(NACSIS-CAT)接続部分とホスト(K−270R)側へデータを本登録するVTSS後処理部分の二つのサブシステムで構成されている。それゆえ図書館ネットワークのサービス時間内で目録端末さえ立ち上げればいつでもそのシステムが提供するオンラインサービスを受けた目録作業にとりかかることができる。目録システム(NACSIS-CAT)とローカル側とのデータの送受信はフルスクリーンモードデータの送受信であるため、仮想画面の考え方をとっていて目録システムの画面上でデータを変更したとしてもそれはローカルシステム内の仮想画面データを変更したことにしかならない。カタロガーはこのような機能を利用して目録データを編集し、オンラインアップロードあるいはダウンロードと呼ばれている機能を組み合わせて、いわゆる共同分担目録作業に連なる実務遂行の端緒につくことになる。通説に従えばオンラインアップロードとは、仮想画面上にローカルデータを表示させ目録システム(NACSIS-CAT)のデータベースへ送信することである。前述のような仕組みが施されているため画面にデータが表示された後でも、目録システム(NACSIS-CAT)データベースへの送信前ならばどのようにでもその修正およびキャンセルが可能となる。またオンラインダウンロードとは、目録システム(NACSIS-CAT)側に送信される直前の仮想画面データをローカルデータとして取り込むことを名づけて言われている。このような特性を利用してローカル仕様の目録データを作成しながら、目録システム(NACSIS-CAT)仕様の登録をも済ませてしまう目録作業の重層化とでもいうべき高次処理が維持されている。以上のような筋書きにそってカタロガーは、図書館ネットワークを利用したオンライン目録作成作業に参加しながら、ローカル目録情報データベースを構築し続けるレールに乗せられる。
 学術情報センターのVTSS接続による目録所在情報サービス(無料)を利用したデータ受け渡し環境としては、NTTのDDX-P(X.25 1976年版)という第1種パケット交換サービス(有料)によって確保された図書館ネットワーク機能の上に図書館業務向け画面型インターフェースUIP(User Interface Program)がのり、その上で目録システムが動くという形態がとられている。
 ネットワーク上で展開されている。データーベースの構造やデータ項目やコード類に対してカタロガーは注意を怠らないであろうが、そのほかにシステムの運用開始時にまずセンター側とローカル側との文字コードの整合性を保つ設定が第一条件となる。とにかくローカル側のそれを図書館ネットワークの基準、JISコードと対応しそれに数百もの拡張文字(EXC)があるNVTコードが使われていてNVTコードとネットワーク上のデーターベースには1バイト文字と2バイト文字が混在する状況(ナンノコッチャ)、に合わせなさいということだ。
 カード目録ウン十年のカタロガーにとってまことに、手で触ってそれとわかる具体感の乏しいことだらけではあるが、図書館ネットワーク接続端末のキーボードを叩いて行う目録登録(図書・雑誌)作業は、(1)総合目録にヒットしたら所蔵入力をする(2)参照ファイル(各種MARC)にヒットしたら処し流用入力を済ませて所蔵入力をする(3)いずれにもヒットしなかったら書誌新規入力を仕上げてから所蔵入力をする、常にこの三つのパターンのどれか一つを選択しながら実行に移してゆくことになる。そして特に(2)や(3)の書誌作成にあたっては、1書誌1レコード、書誌レコードの階層化、典拠管理といった目録システム(NACSIS-CAT)のポリシーを踏み外さないような作業手順が要求される。目録講習については学術情報センターが準備してくれてはいるが、細部にわたる書誌データの取り扱いについてはやはり接続図書館側において準備しておかなくてはならない。ただ現行のNCR1987年版とAACR2とを併用しながら目録情報の基準をたてているやりかたが、オンライン目録実務カタロガー(利用者)に無意味な負担をかけている部分があるのはどうしたものだろうか。オンライン目録上でのアクセスポイントに基本記入や副出記入といった違いを意識させる必要はないし、満足のゆく参照機能をともなった典拠管理がなされていればそれでオンライン目録情報の流通にとって十分であろう。いっそのことオンライン目録を主体とした目録規則が採用されていれば、などとボヤいてみてもはじまらないが。あとローマ字以外の文字の扱い方、中国文字その他の処理に関わる問題などが解決されれば目録処理上の言語の間口も広くなり、より広範囲な書誌を含んだ目録・所在情報のデータベースへの収納が可能になる。
 目録端末上の中間ファイルに取り込まれた書誌・所蔵データ(書誌仮想画面と所蔵仮想画面による画面単位形式)をひとまとめにして仮登録(K-ILISファイル仕様に変換)し、医薬大システムの目録データベースに本登録するためにはVTSS後処理をしなければならない。この学術情報システムとローカル業務とのつなぎにあたる部分で必要に応じて、ダウンロード画面リストや診断リスト、そして目録点検リストを打ち出したり、目録カードを印刷したりすることができる。ただしここでは目録データの再編集といったことにはいっさい触ることができない。処理速度も遅いし(1件あたり3分前後)また処理中はそれ以外の作業に端末を使えない(K-ILISはマルチタスクをサポートしていない)ので、この目録の仮登録作業を昼休みやときには開館前の時間帯にもっていくというかたちになりがちである。またリスト出力も目録データの点検に必要な最小限の範囲に絞るようにして処理時間の短縮がはかられたりするようになってきている。目録端末台数が少ない(図書および雑誌用にそれぞれ1台)こともあるが、K-IKISのローカル目録作成の画面数が多くその展開に時間がかかりすぎるし眼にもよくないということで画面によるチェック作業はほとんどやっていない。目録検索の効率を左右するアクセスポイントと貸出情報や統計情報に影響するローカル所蔵データ項目に比重をおいたリスト上での点検によって、VTSS接続時の書誌・所蔵データの処理に間違いが発見されればセンター側とローカル側双方に対して適切な修正処置をとらなければならない。VTSSを立ち上げ目録システム(NACSIS-CAT)データーベースの当該目録データを呼び出して修正を施し、書誌仮想画面のみをダウンロードすればローカルデーターベース内の同一学情書誌番号をもっている目録情報も書き変えてしまうから、書誌データの修正作業は一度で済むことになる。所蔵仮想画面に分割入力して取り込んだローカル所蔵データ項目の修正は、医薬大システムの目録作成/修正機能を使って処理している。
 オンライン図書館ネットワークを利用した目録作成によって形成されるローカルデーターベースの維持に必要なのは、日々新たに本登録された目録データに利用者がアクセスできるようにする処理作業と、ローカルシステムのトラブル時に備えたデーターベースのバックアップ作業ということになる。いずれの作業もローカルシステムのオンライン稼働時には実行できないのでシステムの運用にあたっては立ち上げ時か終了時に組み込んでおかなければならない。
 医薬大システムの一日の運用スケジュールでは、朝のホストコンピュータの自動電源ONに連動してバックアップ作業が機能するように設定している。バックアップが正常終了していることを確認してシステムを立ち上げると付帯バッチ処理が実行され、前日に本登録されたすべての目録データの記述の一部と標目から自動的に索引語が切り出され、いわゆるアクセスポイントが作成されてローカルデーターベースが更新された状態になる。したがってオンラインスタートまでの所要時間はその時の付帯バッチ処理の実行件数によってかなり左右される。
 そのほかVTSS後処理には、フロッピーディスクに図書選書ファイルを作成して目録端末上の中間ファイルに取り込まれた書誌データを図書選書データとして登録し、受入システムの選書業務での利用を可能にしているが、文字通りスニーカーネットワークのレベルにとどまるもので、基本的には受け入れレベルの所蔵データから目録レベルの書誌データへの柔軟な連動という機能の実現が待たれる。
 データの通信に際して仮想画面が数画面におよぶような場合、送受信のときに画面がロックしたのではと勘違いするくらいレスポンスが悪くなったり、目録システム(NACSIS-CAT)からの取り込みがK-ILISのデーターベースの項目長(最大512バイト)や項目数(最大100)に制限されたりするなどの不都合を抱え込みながらも、医薬大システムにおけるVTSS目録作業は新規入力はもちろん遡及入力にも実用上かなりの成果をあげつつあるといえよう。
 従来のカード体目録の維持と運用においては、種々のトゥールないしは印刷カードを利用したりすることはあっても、その書誌情報の品質は作成者である個々の図書館の(カタロガーによる)基準にふさわしいものであればよかった。オンライン共同分担目録作業にかかわることによってカタロガーが覗くことになる書誌情報の世界は、それぞれの参加館の立場で保持される目録の条件にうらうちされた視線と、参加館が利用するビブリオグラフィク・ユーティリティ・サービス(目録所在情報サービス)の理念に貫かれた目録体系を構成する視線との交点で二重化された像としてイメージされる。したがってカタロガーが維持しなければならない書誌情報の品質管理の照準は、ユーティリティが目的とする総合目録の書誌入力基準にも、ユーティリティを利用する接続図書館の目録データベースの入力基準にも、どちらかへ片寄り過ぎるということなく好ましい作業スタンスを保ちながら、双方ともにピタリと合わせられる水準にあることが運用上の第一条件と考えられる。学術情報センターの総合目録データベースは、図書館間の協力によるILL・相互利用サービス用のトゥールとしても機能するように考慮されている。そのための当然の措置として採用されている書誌構造や典拠コントロールへの対応は、参加図書館における目録業務の効率化といううたい文句に反して、書誌や典拠のリンク作業の負荷というかたちでカタロガーに相当の労力を要求する結果となっている。

5.図書目録作成への利用

 これからの学術情報センターシステムの利用を検討している医学および薬学系の図書館にとって、目録データ品質や入力作業時間にもまして関心のまとはなんといっても図書目録作成指標としてのヒット率にあるのだはないだろうか。参考までに医薬大システムによる図書目録作成作業の一年間の処理状況を比率で表してみた(表1)。
 和図書遡及入力のMARC(流用)およびオリジナル入力ともに0%となっているのは、ローカル目録作成を急いだあまりNCデータベースにヒットした図書の所蔵登録を先行させ、書誌の新規作成を後回しとした事情によっている。
 MARC(流用)というのはMARCレコードを流用して書誌レコードを作成し所蔵を付けた場合、オリジナル入力というのはまったく新規に書誌レコードを作成して所蔵を付けた場合をさしている。目録作成に際して同一書誌レコードにヒットしなくても類似レコード(near copyといわれている)を手直しして書誌レコードを作成した場合も、操作上は流用入力にそっくりであるが、カタロガーにしてみれば新規書誌レコード作成の便法であるからMARC(流用)には含めないでオリジナル入力として扱っている。NCデータベースとあるのは目録所在情報データベースの書誌レコード(NCファイル中の書誌レコード)に所蔵を付けただけのものである。
学情登録
 この表の期間中に約3,500件の和洋図書の書誌レコードが医薬大システムの図書データベースに取り込まれた。洋図書の使用言語は英語がほとんどで、つぎがドイツ語、まれにフランス語が混じるといった程度の内訳になっている。また遡及入力分の図書の発行年は必ずしもその受入年度の幅に近似していなくて1990年代の発行のものもかなり含まれている。
 総合目録データベースへの入力対象として処理しない(できない)重複図書、中国語図書(和図書扱い)、そしてNC登録になじまない図書館資料などはローカル目録作成/修正によって目録処理をしている。
 1年あまりの実績しかないが、新規入力だけでなく遡及入力作業も含めて、全体として医薬大システムにおける学術情報センターシステムを利用した図書目録作成機能は満足すべき展開を示しつつあるといえよう。雑誌等に報告されている事例にみられる他大学におけるヒット率に比べて幾分か低めの結果を示しているが、利用上の問題としてレポートすべきほどの事柄とはなっていない。またILISその他の図書館業務用パッケージ・ソフトウェアを採用してい学術情報センターの目録・所在情報システムと接続してそれぞれ図書目録作成を行った場合の、両者のデータベース上の図書の書誌データの持ち方の違いによって生じる不整合その他のデータ記述上の問題点についてもすでに先行館の実績をふまえた事例報告がなされている(参考文献4〜7などを参照)。それらについてここで重ねて指摘することは控えるが、医薬大システムではローカル目録作成/修正によってしらみつぶしに不整合を修正するようなことはしていない。オンライン閲覧目録の検索効率に響いてこない箇所はそのまま放置している。
 和漢薬領域に多い中国語図書(中文資料)については、カード目録を凍結していることもあって、簡体字を繁体字に直して入力するという条件つきのローカル目録作成/修正による処理でまにあわせている。全国的な書誌情報の標準化からはずれるだけでなく、カタロガーにも負担のかかるやり方にはちがいないが、現状の文字処理システムではなんともいたしかたない。遡及入力分に含まれた中国語図書の入力も、繁体字で記入したワークシートを作成し、外注による一括登録処理に頼った。
 全所蔵図書の8割近くをデータベース化している医薬大システムにおいて、オンライン目録作成した新規および遡及入力図書の書誌データと、一括登録処理により作成した初期遡及入力図書の貧弱なデータとの書誌情報の差異が画面検索でかなり目立つようになってきている。図書目録データベースの書誌情報の標準的な品質を保つために、遡及入力の作業形態もバッチ処理による簡易目録データの一括登録から、目録・所在情報サービスを利用したオンライン登録へと移行させたわけである。もちろんこの切り換えが可能となったのは、何よりも図書の目録作成に要する処理時間の短縮が可能になったことにあるが、一括登録に要する外注コストの高騰への対応策としても踏み切らざるをえなかった。
 図書館におけるカード目録作成作業は、農家における田の草取り作業みたいにいささかしんどい作業といえよう。だがそれなくして図書館も稲作農家も成り立ってこなかった。除草剤を中心とした農薬の利用と機械化が農作業(労働)の大幅な軽減をもたらしたように、“コピー・カタロギング”を主軸としたオンライン目録処理システムの導入はカタロガーの書誌データ作成作業の省力化とオンライン閲覧目録の編成の自動化に威力を発揮しつつあるといってもよい。
 日本薬学図書館協議会および日本医学図書館協議会へのそれぞれの加盟館からのCIPデータ(タイトルページおよびその裏面コピー)の提出による専門外国語図書目録は、ゆくゆくは学術情報センターの書誌・所在情報システムに発展的に吸収されるべき性格のものと考えられる。全国総合目録データベースの形成を充実させるとともに、加盟館の負担を軽減させるためにも、関係機関における統合への取り組みを期待しておきたい。

6.雑誌目録作成への利用

 医薬大システムにおける雑誌の書誌・所蔵データは、当初から学術情報センターの登録データを利用する方向で、雑誌書誌および一括所蔵ファイルの構築がはかられてきた。すなわち、学術雑誌総合目録[以下「学総目」という]データベースから、本学所蔵分にあたる書誌・所蔵情報を磁気テープの形で抽出した学術情報センターの個別版サービスの提供を受け、しかる後医薬大システムの初期雑誌目録データベースとして一括登録処理をするという簡便な手段をとったのである。このようにして創成した雑誌書誌・一括所蔵情報を基礎に、館内配架されている製本雑誌の所蔵情報(登録番号、管理区分、図書ID、登録月日などの)データを学情書誌番号とリンクさせて、外注により一括登録した。これで製本雑誌の貸出は可能になったのだが、貸出問い合わせや巻数・刊年単位の検索に不備な部分が残ってしまった。製本雑誌所蔵ファイルの遡及データの一括処理にあたって、表示形式として必要な巻号数や刊年データの一括入力をとりこぼすという不手際があったためである。以来、これら一括登録済みの1987年以前の製本所蔵データに、巻数、刊年などのデータを付加する作業が、雑誌目録の維持作業のひとつとして続行されている。
 一方、1988年度からの製本雑誌については、医薬大システムの雑誌目録の仕様を満たすように、製本雑誌データの入力を進めてきている。また、個別版磁気テープを利用した一括登録から洩れてしまった雑誌書誌・一括所蔵データについては、学総目全国調査などを機会にオンライン取り込みを行った。厚生省関係研究報告書や中国語の雑誌など、学術情報センターに書誌のない雑誌については、医薬大システムを運用させるため、ローカル側の雑誌目録データベース上にテンポラリな書誌を設定することにして、センター側のデータベースへの登録は避けている。
 図書目録システムの場合と同様に、雑誌目録システムにおける学術情報システムの利用は、雑誌目録運用面での多少の混乱を示しながらも、安定化の方向をたどりつつある。
 本学図書館が雑誌目録の運用面で準拠していた日本医学図書館協会の『医学雑誌総合目録』[以下「医総目」という]と、学術情報センターシステムとの、雑誌目録体系上のズレをクリアしながら雑誌目録システムを動かすことも問題点の一つであった。たとえば、学総目では和文・欧文で書誌を区別しているが、医総目では国内・国外で書誌を区別している。雑誌名の排列にしても、和文の場合、学総目は50音順であるが、医総目ではローマナイズしたアルファベット順である。また、同一書誌なのに、誌名の採り方が相違している例が少なくない。これらのことや、総合目録の形成と運用のシステム化ということを考慮した場合、将来においてこの2種の雑誌総合目録は、目録システム(NACSIS-CAT)の方向へ融合しゆくのが望ましい。
 医薬大システムでは、学術情報センターとの接続を機に、雑誌目録体系をいわゆる学総目方式にシフトしつつあるが、雑誌扱いの資料そのものの排列は医総目のそれに準じており、製本雑誌に与える登録番号も和文・欧文という使用言語に関係なく国内・国外の発行地で区分けしているので、全面的に学総目を踏襲するわけにはいかない。現在までの運用形態に混乱を来さない形で、図書目録から雑誌目録への参照機能を含めた雑誌目録体系の整備をしてゆきたい。

7.おわりに

 長い間なれ親しんできた国際標準カードから、オンライン目録端末への画面へと、カタロガーのエネルギーの注ぎ先もすっかり変わってしまった。このような手段の変化とともに、カードからディスプレイへの後戻りできない変容に象徴される、利用者と図書館とのかかわり方においても新たな展開が見通せるようになってきている。医薬大システムのような小型のハードウェア資源では不可能なためにいささか具体性に欠けるが、キャンパス内の研究室や図書館開放地域からのOPAC(オンライン利用者目録)によるアクセスなど、開かれた図書館システムの実現ということが、システム化の経験から学んだ最も大切な事柄であった。
 図書館資料の配置スペースの確保と再配置作業がルーチンワークとなっている現在、スペース問題の緩和と、アクセスの迅速化が図書館界における緊急の課題だといえよう。図書館の目録の運用現場におけるそのような課題への対応策の一つとしても学術情報システムの目録・所在情報サービスの利用は一定の成果を見せ始めている。
参考文献
(原稿受付け:'90.9.24)
(『薬学図書館』,Vo.35,No.4,1990.12,p228-237. )
目次に戻る

教育と私の現在―研修レポート―

 [1987年]

 研修テーマを与えられたときの我が身体の浮き具合が気になった。
 まったくの受け身とはいえ、「臨教審」がらみで「我が国の高等教育について」発言する自分に対し、予想以上の抵抗感を覚えた。
 じかに教育・研究を担っているわけでもない者にとってあまりにも近そうで遠い事柄ではないのかと。 こんな風にしか思えないところに、すでに問題とのかかわりは始まっていると考えるべきなのだろう。
 子供が小学校高学年から、とくに中学校に通うようになって思い知らされたことは、学校に対してとても前向きにはなれないけれど、かといってまったく後ろ向きにもなれないといったヘンテコリンな姿勢以外におさまりどころがないといったことだ。
 マジに情熱的になろうとすればどこか自分を偽っている感じにとらえられて仕方がないし、だからといってまったくの無関心を決めこむことは子供の現状が許さない。
 そこで、あさってのほうを向いてしかかかわれないわけだ。
 この独特なスタンスの視座から見るとき、現在かまびすしい教育論議、学校談義はイマイチどころかミッツもヨッツピンとこない。
 こうした親の気持ちが強いられている学校―教育への向かい方を、家族を中心に据えて、議論の基盤として繰り込むことに成功している労作には何冊かであったが、「高等教育」にまでじゅうぶん手のとどいたものは稀だったようにみえる。
 大学の現在といったものが大衆的なレベルで圧倒的に噴出したのが[一九]六十年代後半にかけての大学紛争期であった。
 事態が進行するなかで、研究はともあれ、教育の担い手としての主体はことごとく底をつき、まったくの手ぶらとなってしまったのではなかったか、というのが今も残されている判断である。大学の自治なるものにあっては、大正デモクラシー期をピークにして、戦中戦後を経過するうちに実体を無くしてしまい、もはや信仰以外のなにものでもない。
 以来、経済社会構成の高度化と世界化に寄りそうようにせり上がってきた学校―教育のシステム化に身を預けつつ大学は制度としての側面を肥大してきたのだった。
 小学校から大学にいたるまで厚く重くなった教科書の手応えに比べて、学校―教育の手触りはますますとらえどころがなくなってきているといえよう。放送大学という現象が象徴しているように。
 親と子という関係を原形とする一対一の対応の次元から離れ、最高位の包括的な共同性(国家)との絡みにおいて学校―教育は制度的な概念として成り立ち、実践されてきたといえよう。
 いま、高等教育自体の困難は、その理念が、断片的にしか存在しえないことと、それが様々の登録商標を持った(持たされた)何々大学というあたかも商品のような要素を通してしか現実に流通しえないことに起因しているように見える。
 「高等教育の改革等」に読みとれる答申内容は、大学をひたすら高等教育的な実効性の処方箋の場としてほじくりまわし、それを切実な急務であると言い張っているだけのようだ。
 アジア的な古典性や封建性を、みずからの世界性、先進性と併存させつつ、現在の日本が国家として成り立っている。
 このいまどきの存りようと、避けようもなく、未経験のまま直面しなければならなくなったところに、学校―教育の情況があるに違いない。
 大学の現在は、このような情況に対し、個々の主体が対応せざるをえないことの表われなのだ。(1987年秋)
目次に戻る

スポーツ少年団(バドミントン)コーチに携わってみて

 [1985年2月]

◎はじめに
 校下の小学校の体育館へ歩いていく日曜日の朝の6時過ぎ、晴れていれば春から秋にかけて申し合わせたようにかわいた打ち音を耳にする。
 通学路からさほど外れていない公園とは名ばかりの空き地で、もう老人たちがゲートボールに興じているのだ。
 彼らの姿を目にするたび、スポーツ少年団でバドミントンの相手をしている子どもたちと同じ年ごろに遊び呆けていて、何度も見かけた光景を思いだした。
 片田舎に住んでいた当時、どこかの家の裏庭でさまざまな遊びごとにのめりこみながらも、どの家にも決まったように寝たきりの年寄りの姿があるのをまるであたりまえのように感じていたのだ。
 むろん、小学生相手のバドミントンコーチの行き帰りに見かけるお年寄りだってそのようにして死んでいった老人たちの事を心のどこかに秘めているはずだ。
 だからこそといおうか、あるいはなおさらゲートボールに励む老人たちの風景を掛け値なしに肯定したいと思う。
 日曜の早朝練習に、あるいは土曜の夕方にかけての練習に出かけてくるスポーツ少年団の子どもたちをあるがままに受けとめてやりたいと思うのと同じように。
 そして、学校開放の明りのともった体育館に集まってスポーツを楽しむ成壮年層の背後には、身体生理的にも観念的にもきつくなってきている社会生活の現在の一側面を見ずにはいられない。
 生活過程におけるスポーツや運動処方が健康への信仰とはうらはらに語られるようになってきたのは、それだけ身体生理的存在に及ぼす生活環境の時代的変化の影響がせりあがってきていることを表している。
◎教えることと学ぶこと
 用具や施設の点検をし、整列した子どもらと挨拶をかわし、ともに準備運動やランニングにとりかかる前に、(1)昨晩は良く眠れたろうか、(2)好き嫌いなく食事をおいしく食べているか、(3)下痢などで体力が抜けてはいないか、(4)熱があったり、頭痛がしたり、イライラしたり普段とは違っていないか、すばやくチェックするように一人一人の様子をうかがう。
 週1回2時間あまりの積み重ねでバドミントン技術を創る訓練を充分にやるには、技を大きく憶えさせ、着眼点を良くし、コート内外での基本的姿勢を乱さない、といった基本と形を大事にしなければならない。
 したがって、指導者はバドミントン全体を客観視できているとともに、技術が完全になる過程をきちんと見きわめる能力が要求される。
      指導の目がゆきとどく少年少女バドミントン教室のあり方としては、
 (1) 人数が多すぎてはいけない。
     目立って上手な子どもだけが大事にされがちだから。
 (2) 将来の楽しみのために現在の苦を楽しむという限界を超えない。
     しごきはほどほどに。
 (3) 体力以外の苦しみを与えてはいけない。
     技術の向上と平行して負荷を少しずつ増やす。
 (4) 基本技術を大切にする。
     バドミントン習得の初歩的過程にあるということを忘れない。
 (5) 練習試合ばかりではよくない。
    あくまでも上達の過程の一環として試合を位置づけ勝敗のみにこだわらない。
 (6) きちんとした服装で行う。
     これが意外と徹底されていない。
      などが留意されよう。

  いかに学ぶべきか――いかに教えるべきかという生徒と指導者とのおろそかにできないかかわりにおいては、
 (1) 常に目的をはっきりさせる。
 (2) バドミントンの本質を忘れない。
 (3) 易より難へは全体の順序であって、けっして個別の技術のことではないこと。
  以上三点がポイントである。
 教えるほうも学ぶほうも何のためにこれをやるのかという絆なしには、ともにひまつぶしということになりかねない。
 バドミントンの本質については指導者の考えを一方的に生徒におしつけるものではなく、学びのなかから考えだされてくるものでなければならない。
 (3)の個別の技については、全き初心の時から、最高最上の技であることが必要不可欠、という超一流の武道家の至言がある。
 ラケット・ハンドルの握りにしてもグリップは五体そのものに憶えさせるものであるから、いかなるグリップといえどもそれを憶えたからには憶えてしまった五体がさまたげとなってなかなか新しい似たようなグリップは憶えさせてくれない、つまりモデル・チェンジがなしがたく、一般的には不可能に近いというところに落ち着く。
 実際、小学生にバドミントンのすべてのストロークを完ぺきにこなせと言うのは無理な要求かもしれない。
 しかし、初心者だから、女子供だから、運動神経が鈍いからというような屁理屈をくっつけて中途半端な技術を教え、易より難へだとばかりに聞いたような申し開きで済ませ、自分も生徒も騙しながら指導者面はできない。
 自分の五体を使って実際に実現できなくとも、バドミントン技術の有り得べき現在と在るがままの現在の差異を明らかな過程的構造として把握したうえで正当なる技術を個々の生徒に体得してもらうべきだ。
 水鳥のシャトルとは異なる飛び方をする合成シャトルを用いた練習に終始するため、とくにクリアは飛距離をだすことにのみ気をとられて、いわゆるスリー・クオーターから力まかせに振りまわすドアー・スイングの癖が将来の弊害となっているという指摘が、実技指導の清水講師の話のなかにあった。
 [リストスタンドを使った]手首の返しという五体を用いた技に加えてラケット・シャフトのしなりという道具の特性を見込んだ技術指導を欠いた場合の具体例である。
 生徒が指導者の責任ゆえに〈どうしようもない技〉を憶えてしまったものを、生徒自らの才能のなさのゆえに駄目だったのだと諦めるさまは、情けないといおうか、哀れとしかいいようがない。
  指導の〈方法論〉に関しては、小学生の体力と技の使い方を考慮して、易から難へと分解式に三段階が考えられる。
  バドミントンに必要とされる個々の技術を、
     第一に、 まず理解して憶えること。
     第二に、 憶えたら五体を使って身につける。
     第三に、 身に付いたら使いこなすこと。
  という習得の過程をふまえて生徒たちに指導するわけだが、ここでは一人一人の上達の度合いの差を充分に配慮しなければならない。
 よく、あいつは基本をやらせると大したものだが試合になるとからっきし駄目だという声を耳にする。
 その理由づけとして根性が足りないとか、せりあいに弱いからだというレッテルを貼られて一巻の終わりということになりがちだ。
 ガッツがあればすべて解決するのであれば、コーチなんか要らない。
 技術そのものを身につけることと、五体で身につけた技術を使いこなすことは、相対的に独立した事柄である。
 身についた技術を使いこなしうる技術を習得すれば勝てることを、負け癖のついた子どもに教えてやらなければいけない。
 もしスタミナ不足による技のくずれでミスが多く出るのであれば、肉体的訓練によって技術をくりだす土台そのものをしっかりさせればよい。
 易から難へというやり方で充分な肉体の鍛練も方法を誤ると、子どもたちの体力そのものの限界が、精神そのものの限界を低めるところとなり、意欲を失わせ、結果的に逃げだす、すなわち練習をサボることになりかねない。
 しごきは集中力を養うという効果の範囲内にとどめるべきであろう。
◎上達するとはどういうことか
 スポーツ少年団に集ってくる子らをすべて上手といわれるというレベルで送り出してやるにはどうすればよいであろうか。
 どのように考えてとりくめば教育=上達論は一般的に可能となりうるであろうか。
  一見して鈍くグズなのは本当に駄目ではないとなしうる、主体的、客観的条件を挙げれば、
 (1) モノにしようとする意志が持続する。
 (2) 五体満足でラケット競技になじむ。
 (3) それだけの練習時間をもてる。
 (4) 良き指導者がいる。
  以上の四つである。
  これだけ揃えば、グズも上手くなれよう。
 忘れてならないのは、人間はすべてにわたって創られる存在である、という鉄則である。
 ラケット(他人に創ってもらったもの)を自分の五体になじませ、シャトルを打つという技術をみずからの身体として創り出すという過程を踏み外さなければ、いかに生きたシャトルを打ち出すか、いかに相手の打ってきたシャトルを殺すかという上達の域にまで道が開けよう。いわゆるできる子ほどにその道が遠くまで続かなくとも。
 才ある生徒にしたって、けっして落とし穴がないわけではない。
 何でも軽くこなせる自分を承知している子どもの場合、コーチの指導もほどほどに聞いて、ともかくも己に見合った、自分に適合する形で技化を練習しがちとなる。
 その結果、己が能力に見合ったスケールの小さい技を選んでしまいやすい。
 小才に見合った小技であるだけに現在の自分にとって都合よく創られるばかりでなく、小技ほどに使いやすいものであるから、いともたやすく、いわゆるその時点での実力を発揮するところとなり、小才的技が逆に自分の伸びの邪魔となっている点が見落とされがちである。
 ラケット技術(競技)は、日常的な身体の用い方を否定して、人間の五体をラケット技術(競技)化することにある。
 この過程は、そんなに単純でもなく、けっして短期間でもない。
 小学生の頃からの試合においては、初心のレベルであるがために、出来のいい子どもほど実力が発揮でき、グズほどにますますグズを思い知らされるという現実の障害が横たわっている。
 前途を悲観したグズは中途にして自ら退き、出来る子どもの大半は、その小才の通じる範囲内での器用貧乏として終わる、ということの無いよう、いずれもが大成できる指導方法が確立されなければならない。
 上達の過程的構造とその困難性をさばく理論が必要とされる由縁である。(昭和60年2月19日)
目次に戻る

ホモ・インフォーマティクスはいまどこにいるのか

 [1984年3月]

♀―薬図協の研究集会どうでした。はじめてだそうね。
♂―アフター・アワーの集まりや司書会議で発言を求められたりしてね。考えさせられた事柄も、帰ったら復命書とともに去りぬで、日々の仕事で頬っかむりさ。
♀―そんな逃げ腰に追い打ちをかけるように編集部からの原稿依頼が舞い込んだってわけ。
♂―「薬図協の存在意義」や「協議会活動の将来」という課題に真正面から自己欺瞞なしに触れるなんて、考えただけでも身がちぢこまるし、とても柄じゃないよ。
♀―そうじぶんにいい聞かせて回避しているだけでしょう。で、どうするつもりなの。
♂―未整理のまま、ブックトラックに乗せて閉架書庫行きかな。
♀―および腰の交通整理ね。
♂―そう、司書の仕事というのは交通みたいなものだよ。
♀―大学や企業の図書館で働いている人達って、家庭の主婦労働みたい。
♂―具体的な生産物をつくり、また再生産するというのではなく、目に見えないものをつくり出すという点では似ていなくもないかな。でも、利用者が亭主の位置にあると言い切れるかい。
♀―だって、女がセックスも含めて労働者の再生産に役立っているという見方は片手落ちじゃないの。社会が提供してくれる諸々の商品や、サービスを家庭を営むことによって消費していること自体が社会構成に組み込まれていて資本総体の剰余価値生産に結びついているというように、踏み込むべきよ。交通にしたってそうよ。バスに揺られたりして職場に運ばれることそのものが付加価値生産だし、それに医療施設、附属病院に入っちゃうことも。
♂―患者になることも商品・サービスを使用するということで剰余価値生産様式をまっとうしているといいたいのか。「利用者を無で帰さない」という発想があるけど、この「利用者」がくせものなんだな。
♀―「動物」といっただけじゃ、イヌやネコやトラは見えてこないわ。
♂―「利用者」という言葉で、社会全体を突き放していると言われかねないな。サービスしているのは、確かに学生や研究者や教師を相手にしているわけだから生産者の生産というレベルにある。精神的な生産物をパッケージした図書を山積みにしたブックトラックを押している司書の仕事だってれっきとした交通だし、社会全体を図書館・情報活動を規定する外的なものととらえるのではなくてね、交通行為そのものの社会的な関係様式としてみないことには図書館の制度関係とかサービスの問題とかがつかみきれない場合がある。
♀―短絡しないでじっくり考えるべきところね。中世にさかのぼれば大学といったって、教師連中や学生たちの組合のようなものだったというし、むろん図書館なんてくっついていなかった。それより前じゃ高等教育ということと、大学とも一元的に結びついていなかったそうよ。ボローニアみたいに交通の要所みたいなところに大学ができてきたってことが象徴的だわ。近代以降っていうか、資本主義社会がどんどん高度化する過程で、社会のサービス諸制度がパッケージングされてきて、消費社会的な制度となってせりあがってきたのが現在じゃないかしら。学校―図書館は、高度に発達した産業社会から提供されるサービス諸制度のうちのひとつでないこと。
♂―消費的な社会がどんどん肥大して過剰気味なもんだから、その過剰さに応ずるような役割、サービス商品が出来てきている。情報産業の二次文献サービスの提供が商売として、世界的に定着しつつある。そういったサービス商品の消費といった観点から図書館の学術情報サービスをとらえるだけじゃ一面的というか、学術情報の生産という面が抜け落ちてしまう。文献、データ、資料すべてをひっくるめた学問的認識の総体としての学術情報の交通という文脈において、図書館・情報活動を把握するレベルが欲しい。
♀―知識や観念の交通(コミュニケーション)といった場合、芸術や文化や学術をどこまでも使用価値として、交換価値の面をとざしてしまって、扱ってしまいやすい。日を追って学術情報が産出され累積され、図書館資料として収集され蓄積されている場がある。そういった閉鎖されているようで、どこかで世界へ開かれている使用価値を仲介する専門集団としての図書館員がつくり出していくワークがある。知る―知らせるという指示表出の有効性の橋を架けて利用者という名の人間を通わせる。学術情報を得るということに対して、何が交通の最短距離をいくことになるかを問うてみるととても疑問ね。仲介者の側にどれだけの専門の情報の知識があるか、情報提供の手段が整備されているかということが前提にあって個々の図書館・情報活動が営まれているんでしょうけど、これが最良のあるいは最短の交通の仕方なのかわからないわ。こういうことってとても本質的な情報の問題になりそうね。利用者として、あるいは仲介者として、それぞれが自分の生活からの逸脱として位置づけすれ違うという観念の関係に入るということ、これが何を意味するのか本当のところわからないわ。それに、図書館の理念とか情報思想というものがあるとして、図書館人というのは図書館・情報に関する専門家、ないしは仲介者としてみなされるんでしょうが、その仲介する人達の図書館・情報思想がはたして本質的であるかどうかよくわからなくなることがあるんじゃない。
♂―図書館というのは、確かに一応いろんな世界の情報なり動きに目を向けてはいるけれども、そういったものの恣意性を非常に巧みに取り出してきて、使用価値という形で体系をはっきりと枠づけしていく。医療情報システム、医療薬学情報システム、コンシューマー・ヘルス‥‥‥、とにかくある具体性をおびた情報サービスの枠組みといったものがかなり世界的な現象としていえるような状態にあるのじゃないかな。例えばそのような広範囲に流布している枠づけ方を持ってきて、そこで使用価値性を各図書館の閉塞性のなかで個々別々に営んでいく。学術情報の交通の受けとめ方、文化的な恣意性のレベルでの取り方なんだけど、Aの図書館とBの図書館ではまったく違っているかもしれない。違っているかもしれないけど、各種の図書館・情報サービスという枠づけ方は別に変化は生じていないというか、そのような水準が想定されそうだけどね。
♀―科学技術がもっている自然本質の解明ということと、その制度的な役割ということとは本質的に分けて考えるべきね。交通―消費という概念で見えてくる情報サービスのベクトルはどのような方向に向いているのかとっても見定めがたい気がするわ。
♂―大学の図書館とか学術情報とかいうことでは、図書館人はそれほど根底的な疑いを持っていないかもしれない。これまでは有効性や効果や速さの問題あたりで済んでいたように思われる。交通ということにしたって、いまでも役立つ図書館かそうでないかとか、便宜性を備えた図書館が成り立っているかというところでしか考えられていないんじゃないか。そうだとすると、いまいわれたみたいな段階での根本的な問いかけ方に対しては、ほっとけば、いずれにしたって交通の速度は速ければ速いにこしたことはないし、図書館・情報設備や技術は進歩すればするほど、情報の流通にとって、いいはずだで終わっちゃう。インサービス・トレーニングにしたって、やればやるほど知識は増進するからということで、そう疑いをもたれることはないというところにいってしまうように思う。また疑いをもたれるようなことがあったにしても、そんなに大した問題じゃないよということで片付けられる段階じゃなかったかという感じがする。じゃ問い返しに対して、制度的に考えてみて、どういう対処の仕方ができるか想定できますか。
♀―現在みられるような輸送や情報の発達、つまり交通のすさまじいばかりの発達はどうみたってひとつの自然過程じゃないかしら。その主導権を握っているのは大企業であり、技術の大発達そのものであり、その梶を取っているのは国家とか大企業とか、いずれにせよ大きな集団であるとしてもね。これに歯止めを加えるべきかどうかとか、あるいは交通のあり方としては根本的におかしいんじゃないかというようにはいえない事柄だと思うの。
♂―行くところまで行くっていうか、成るように成れっていうことかい。
♀―ほっとけば必ずそうなるというんじゃなく、どこかで違う次元に入り込まざるをえないっていうか、きっと壁にぶつかるというか、その向こう側はどうなっているのかが普遍的になるんであって、結局はそこまで抜けださざるをえないっていう気がする。
♂―理論として見通しうる境界線の手前での解決策は、いずれにせよ、一時しのぎにすぎないともいえる考え方が出てくる。それじゃ、図書館・情報活動というもの、あるいは専門性に基づいた図書館群の組織化、あるいは学術情報制度というものの、自然必然的なりゆきは一体どうなるのか。そこにはさまざまな改革とか反対とかいろいろあるだろうけど、それらすべてをひっくるめたうえで、交通の全体構造は社会の無意識のうちにどこへゆくのか。どんどん展開する交通によって加速化される社会的時間の速度と生活時間の速度とが、矛盾をきたしてしまうことになるんじゃないか。
♀―高度資本主義社会における交通の次元で、図書館・情報活動をどのようにおさえればよいのか、その回路の基盤を拓いてみることがどこかで世界史の現在に触れる端緒にもなっていることを願うわ。
♂―ホモ・インフォーマティクス(情報人間)の生活世界そのものを問うことになるんであればね。(「薬学図書館」第28巻4号、1984年3月31日発行)
目次に戻る

ひとつの反応と見解―カラ超勤問題をめぐって―

 [1983年3月]

 はじめに、ここ三か月間のメモと学長・局長の発言を記しておく。
83・1・23〜24 「北日」、「富山」、「読売」、「北陸中日」等の新聞ジャーナリズムにより、富山医薬大のカラ超勤問題が表面化。
83・1・25 8時55分図書課全員を集め「図書課にカラ超勤の事実の疑いありということになったので心してほしい」との課長発言。昼休み図書課職懇、労組結成の必要ありとの声あり。15時〜19時15分図書課全体ミーティング。部長・局長に図書課の意思を伝えることを確認。教務部長不在のため実現せず。局長には課長から伝えてもらうことを約束して散会。
83・1・26 開館前の図書課職懇で個連協と接触することを確認。昼休みに図書課4名で個連協のメンバーに事情説明。15時〜17時45分図書課全体ミーティング。18時〜21時30分図書課三名で個連協メンバーと組合結成に関して話し合う。
83・1・27 12時30分〜15時15分図書課職懇。17時〜18時個連協メンバーへ経過報告。
83・1・28 15時〜17時30分図書課全体ミーティング。18時〜20時45分学外で個連協拡大世話人会。
83・1・29 研究協力課をモデルケースとして文部省へ事情説明をした、との部課長会議の報告あり。
83・1・30〜31 「北日」のその後の経過と担当記者の総括座談会記事が載る。
83・2・3 昼休み図書課職懇。16時〜17時30分図書課全体ミーティングで図書課長逆噴射。
83・2・4 図書課職懇。
83・2・7 昼休み図書課職懇。
83・2・8 18時〜20時10分学内で個連協拡大世話人会。
83・2・10 18時〜21時45分学外で図書課職懇。
83・2・19 図書課七名確認書の提出を拒否。
83・3・4 図書課に超勤予算処理のための残業強制案。

     《支払は実績通り》
矢田恒雄・富山医薬大事務局長の話  カラ超勤があるんですか。知りませんねぇ。時期によって超勤手当の上乗せはしているが、これは全額払えなかったときの補てんでやましくはない。つまり、限られた予算だから、オーバーするわけにいかず、年度初めから秋ごろまでは、実際に行った超勤時間に対して八割ほどの手当しか払っていない。文部省から追加予算がついた後、それまでの不足分を毎月上乗せしているに過ぎない。大学全体とすれば、むしろ超勤予算が足りず、職員には我慢してもらっているくらいだ。五十四年度以前は一律支給だったが、文部省から「良くない」との通達があり、以来、実績通りの手当を支払っている。
 ただ、超勤手当を各課に配分した後は、その部署の良識と裁量に任せてあり、ウソの申告があるとすれば困った問題だ。もし不当に水増しがあれば、今後、その部署の超勤手当を減額することになろう。
     《事実調べ急ぎ結論を》
佐々学富山医薬大学長の話  事実とすれば大変な問題だ。実績把握が難しい面もあるが、事務局長を中心に事実を調べ、なるべく早急に結論を出したい。

 引用していて気恥ずかしくなる発言だが、富山医薬大管理責任者が社会に身をもって示したのは、怯懦・卑劣・女々しさ・姑息・小狡さ・非常識、ようするに特権的な階層が共有するどうしようもない悪徳だけである。
 十数年前の大学紛争期とまったくおなじように本音と建て前との二牧舌を使い分けることで、ただ当面する事態を巧みにすり抜けようとする態度を公然としめしている。現在、カラ超勤問題が問われているのは、戦後の大学の理念とされてきた市民民主主義思想の形骸化の進行のなか身の問題である。
 かれらは学問研究の自由・大学の自治・思想の自由という名目でくるまれた特権を、「新設」という名で接ぎ木をし、大学が温存してきた前近代的な管理運営・支配秩序体制の解体のため、不正の撤廃のために行使せずに、「プレスティジ」のある地位を守り通そうとして逆用しているのである。
 総体としての社会の大衆のなかに、どのような真制の自由も自治も存在していないのに、大学の自由や自治というしろものが現実に存在しうるはずがない。
 空念仏としてのみ自治と自由の仮象が擬制として大学構内という特殊地域に流通しうるにすぎない。
 このような理念と現実性との裂け目に口をあけたほころびのひとつとして大学におけるカラ超勤問題の本質がある。
 たったひとりの管理者でもよいから、まともな挙動によって事にあたって欲しいという図書館の労働者の願望は空しかった。
 ちょっとしたきっかけで管理者層内での孤立を強いられたとき、泣き言をつらねてまで傘下の職員層のバックアップを懇願しておきながら、ひとたび図書課対部長・局長というラインでの交渉の場面が回避されみずからの孤立が解消されたとみるや臆面もなく調査という名をかりた偽装工作に応ぜよという強制に出たのである。
 カラ超勤騒動の尻尾切りとして図書課をスケープゴートに祭り上げて置きながら、いまさら嘘の上塗をしろとは何事か、確認書そのものが欺瞞だし、もちろん提出という偽りの行為はとらないという労働者のごくあたりまえの声を、まるでE・Tの言葉のように仰天して聞き、はじめは検査やそれによる処分があるという脅かしによってなだめようとし、それが不可能と知ると態度を決めかねている職員と恥も外聞もなく野合し、それでも提出が拒否されると事態を技術的にだけ収拾しようとしたのである。
 図書館の労働者が管理者に対して本質的につきつけたのは、図書館業務の管理と運営以外の場面では、管理するものと管理されるものとは、いかなる特権的な支配関係も人間関係ももつべきではないという感性に根ざした要求であった。
 このことは何も今回の事態に限ったことではなく、これまでの早朝駐車場整理要員・除雪要員・草刈要員・入試要員などの一方的な割り当てや、富山医薬大定員削減第一号の図書課への押し付けなどの事実に対して潜在的に対応させてきた通奏低音でもある。
 この感性的な要求は感性的であるがゆえに、みずからの社会的優位と社会的特権に無意識にあぐらをかいている管理者の心性のレベルではもっとも受けいれがたく、また了解しがたいものであった。
 なぜならば、かれらの優位と特権とによって保たれている心性は、労働者の感性的な要求によってのみ転倒されうるものであって、大学の制度的な改善の具体的な項目によっては、けっして侵害されないものだからである。
 カラ超勤問題への対応と処理の仕方の過程で、確認書の経緯をめぐって固執と確執がくりかえされたのは、それが管理者と労働者の感性的なせめぎあいの焦点として大きな意味をもっているからである。
 猿芝居じみた逆噴射以後、管理者の採用した態度は、社会的な常識さえかなぐりすてた、精神病理学的な対象とされかねない態度であった。
 まっとうな管理者として一旦はかいまみせた理念的態度をみずから扼殺し、職場での挨拶さえ無視することによって、労働者の人間的な感性を排除しようとする、おおよそ人間的な感性に欠けた人格破綻者としての本質をさらけ出したのである。
 カラであれ実績であれ、常態として超勤を必要としているのは、超勤がなければ定時間労働では生活しにくいという現実のなせるわざである。
 残業すればするほど定時間労働の時間当り賃金は値下げされていくという関係に無自覚でないかぎり、定時間労働で生活できるような賃金を要求するのは当然であるし、またそこから人勧凍結への対応の仕方もでてこようというものだ。
 政府・自民・財界のあおりに迎合した新聞ジャーナリズムによる財政危機キャンペーンにしても、なにも景気の停滞のつけを公務員労働者に転嫁されるべきすじあいのものではない。
 生産社会という側面における国家の資本主義社会に対する関与の仕方の主要な方法の一つであるビルトイン・スタビライザーの機能低下現象と即時的存在である労働者の生活条件とを短絡させて考えることのほうが間違っている。
 何回かの職懇のつみ重ねにおいても、不況・インフレ・物価上昇の併存と進行という第二次オイルショック以来のスタグフレーション下の公務員労働者の生活条件をめぐって啓蒙的な話がかわされたりしたが、劣悪な条件をかかえこんだ労働の現場と豊かな社会というイメージで膨化しつつある消費生活の現場との落差、そしてその狭間の軋みから生じる労働者の組合離れ、マイクロ・エレクトロニクス化する職場の雇用問題と高齢化する労働人口構成といった問題を手はじめとして労働者の基本的姿勢が問われている情況こそが重たい現実である。
 その気になりさえすれば必要な文献資料を手にしての労働者としての学習が容易になってきているとはいえ、具体的な労働の現場をかかえた個連協から脱皮して運動の核となり、組織力と指導力を発揮しないことには何事も始まりはしない。今こそ労働運動の存立の基盤が構築されなければならない。(昭和五十八年三月)
目次に戻る

仕事にまつわる本のひと言

 [1983年]

 書評欄の無い新聞、雑誌のたぐいを探すのがむずかしいぐらい、世の中に「書評」があふれかえっているのに、よりによって「図書館便り」の編集子から「書評」を所望されようとわ・・・・・・。編集会議の企画(アイデア)も夏枯れとお見うけした。
 かって何万冊の書物を整理したかは知らぬが、読むということからほど遠く、ただ我が手を通過したに過ぎない。
 付かず離れず思いださずに忘れずに、ぐらいの間合いの取り方で、本の正体を見きわめれば、分類作業は誰にでもできる。必要なのは分類表であって学問的裏付けではない。
 類に分けるのは道具さえあればできるが、批評をなすには、その道それなりの楽屋裏のトレーニングが要求される。
 かって、たかがジャズされどジャズ、という姿勢で音楽に熱をあげていたころ、たかだか半世紀あまりの歴史しかないジャズ・レコードを聴きあさるのに十数年を費やしたことがある。ある年には百数十枚もLPを買って聴いたことがあった。
 それでも耳にあまるということはないのである。いまだに心に届いていないリズムがあるのではないかと、レコード屋のエサ箱をあさる手つきにも批評の心が通っていないことには、あたら名盤も聴きのがしかねない。
 K.ボネガットはTVの講演で、penはpoemとessayとnovelで出来ていると語っていたが、詩と小説に挟まれた批評はさしずめ〈現在〉に棹さす〈時間〉といったところであろうか。
 ペンで書かれた世界より現実が、本当に面白かったら、仕事でもないかぎり、そんなに読んだり聴いたりすることもないであろう。
 この20年、まるで一身上の事件のように五体を駈け抜けた演奏は、レコードにもコンサートにも、いくつか指を折ることができる。それにひきかえ、手当たり次第にページをめくった音楽書の類いのつまらなかったことときたら、聴くことと、読むこと以上の違いがあった。
 言葉によらない表現の世界を、言葉によって刺し貫くことのくい違いを忘れさせるペンを持った、書き手に出会えなかったといえばそれまでだが、ペンならぬテープレコーダーで作り上げたような一冊は面白かった。
 50名のジャズメンの語り口のなかに、900名もの人物が登場するという『私の話を聞いてくれ―ザ・ストーリー・オブ・ジャズ―』(筑摩書房、1976)がそれである。音楽の本を読むより、音楽そのものを聴くほうが面白いにきまっている、という定説をくつがえしてみせた力は、ほかならぬ肉声を採集してまわった編者の労力のたまものとしか言いようがない。行間からサウンドが聞こえてきそうで、目を休めたことが、再三再四あった。
 読むことよりいかに現実のほうが面白いにきまっているとはいえ、似たようなことが読むことと現実とのすき間で起きたりすると、読んでしまったまさしく二次的な体験となってせりあがってきて、個人的な出来事の領域にぬきさしならぬ刺激をもたらしたりすることも、稀にはある。
 数学や音楽の世界的水準に達するには、中学生になって始めたのでは間にあわない、というのがあたりまえになっている。スポーツの世界でも、最低1万時間のトレーニングを積まなきゃ、一線級にはなれない。大変な時間を要するものだ、と驚いてみるのもいいが、別に感心してみせるほどのことでもあるまい。
 あなたが、毎日毎日8時間とらわれの身となっているお方であれば、稼ぎにささげた時間たるや、他の何物にかけた時間にもまさると言わざるをえまい。
 面白く、物狂おしい小説の書き手であるK.ボネガットが、先日の教育TVの講演で語った前述の喩えに習えば、スタッズ・ターケルが『WORKING仕事!』を著わすために回し続けたRecorderのTAPEはさしずめ、TalkとAnswerとPassionとEssenceから出来ていたといっても嘘にはならないだろう。
 ジャズ批評も手がけていたほどの男だから、『私の話を聞いてくれ―ザ・ストーリー・オブ・ジャズ―』の存在を知らないはずはなく、読んでいてあたりまえとはいえ、けたはずれの読み物を拵えあげたものである。
 115の職業、133人の実在のふつうのアメリカ人が話しかけてくるのだ。中にはもちろん無職もいれば、司書もいる。一時期、耳を傾けたテナー・マンもいた。
 いずれも遠のいてしまったが、司書講習の2ヶ月間、夜学に籍を置いていた3年間、さまざまな職種の人たちとの交錯があったとはいえ、この本を前にしては、一瞬、過去の現実のほうが揺らいでしまいそうな錯覚を憶える。
 三千八百円でアメリカの一面をのぞき見ることになるとは思わなかった。
 友人には、医者と弁護士と銀行家しか持たない、処世の士も、そうでない人も、読んでしまえば、ふつうの人として眠りにつける。さて、そこで見る夢はどんな夢?(1983年夏)
目次に戻る

昭和56年度大学図書館職員長期研修を終えて

 [1981年]

 まだ残暑がきびしいとはいえ、窓外の空の色にも、時おり吹き込む風の涼しさにも、秋の気配が漂う図情大205号室で、我々は閉講式をむかえていた。もうすぐ終わるという安堵の想いを醒ますような言葉がひっそりとした式場内に消えた。
 「大学図書館で働く皆さんにひとこと孤立するなということを申しあげたい」
 大学図書館がかかわっている、あるいはかかわらざるをえないどのような場面を切り取ってこようとも、「孤立するな」の一言は意味をもった響きを発するに違いない。
 1960年代前半の大学図書館のスローガンともなり、東大附属図書館が典型的な事例として注目を集めていた「大学図書館の近代化」の経緯において、60年代後半にかけてその根本から揺れた大学内において、そして1970年代以降とりわけ顕著となってきているいわゆる「情報革命」あるいは「情報化社会」の展開において、大学図書館はひたすらおのれの「孤立」を守り通そうとしてきたといえるのではないか。70年代にはいって創設された新図書館をめぐる動向は、これまでの古い大学図書館の姿勢に対する「反語」としても読みとることができる。
 アメリカをはじめとしたいわゆる先進諸国ほどではないにしても、日本においても1971年から1977年にかけてのオンライン化率の推移を見ればオンライン・システムは着実な浸透と拡大を示している。適用分野としては製造・流通産業が第一位を占めているとはいえ、ついで金融・情報産業が確実な伸びを呈してきている。大型計算機センターや学術情報処理センター内で休むことなくコンピュータが稼働している国立大学は八番目に位置している。その大学の附属図書館に導入された端末機を用いて文献検索をすると、学総目はおろかBLLDの受け入れ雑誌目録等をひもといてもその所在が確認できない逐次刊行物の書誌情報がアウトプットされたりする。多量化と多様化という形で言い古されてきた情報地図は飽和状態という鞍部でぬりかえられつつあるのではないか。多極化という形態をまとった集中化、あるいは集中化という裏面での分極化というふうに。いずれにせよ自然成長的に巨大化する情報の樹海は、区画整理を推進するある力によってパックされつつあることだけは確かだ。誰が主人公であるかは明確だとしても、いったい誰が何が情報の高度化の推進力なのか原衝動であるのかはそれほど明らかではない。
 現在でも大学図書館は研究情報の自然発生的な貯水池としての性格を失ってはいないが、学術情報の総体を見通せなくなった度合に応じて生物的進化の様相を示して増加する情報量の学術情報流通界面に包摂されざるを得なくなってきている。古くからの大学図書館も、70年代にはいってから産声をあげた例えば新設医科大系の図書館も、それぞれ背負っている局面は個別的ではあるが、佇たされている足元は同一の方向へ踏み出さざるを得ない傾斜を示しているといえばよいのか。学術情報の集中度を高めた情報の資源化とその流通体制の制御という要求にそった地点に集合し、高次元の学術情報網の形成の具体化を目指して現在移行し、変貌しつつある大学図書館像はどう理解されるべきなのか。
 1973年4月の文部省科学研究費による特定研究「広域大量情報の高次処理」の開始とほぼ時を同じくした科学技術懇談会の「科学技術情報の全国的流通体制の整備に関する中間報告について」および学術審議会学術情報分科会の「学術情報の流通体制の改善について」以後、1980年の「今後における学術情報システムのあり方」そして1981年の「学術情報センターシステム開発調査概要(昭和55年度)」へと至る一連の経緯においても大学図書館は孤立の影を匂わせていて、さし出された台本に目を通したまま演ずべき役を定められないでいる役者といった風情である。このたちあがりの悪さはいったい何に起因するのか?。ありうべき大学図書館像と現実の実像との乖離なのか、その乖離を止揚すべき大学図書館の原像の論理化が不毛なのか。「学術情報システム」に包装されてしまうことをためらっているのではなくて、あまりにも贅肉を付けすぎてしまって夾雑物をかかえこみすぎて「学術情報流通体制」の舞台に登場しにくいのか。「大型計算機センター(全国共同利用)」や「国立大学共同利用機関等の研究機関」であるこれからの準主役たち、舞台裏の国立国会図書館、楽屋の情報産業界、彼らの演技力をはかりかねて萎縮しているのか。やがて現前させるべき学術情報網の先端部と後端部とをあわせて演出すべく爪をといで悠々雌伏しているのか。どのような言葉をもってしても、現状の大学図書館がたちむかわさせられている情況の要を正確に射抜くことは不可能のようにみえる。
 孤立化というアキレスの踵を保護することよりも、利用者の原像を重心と化しながら、決して利用者を手ぶらで帰させないという場へ一歩一歩踏む込んでいく姿勢の持続の中から大学図書館はその可能性としての像をあらわにしてくるといえるのではないか。(1981.9.17)
目次に戻る

中原中也:消去と遠近

[1979年]

 昭和4年(1929)6月27日付の《河上に呈する詩論》の中で中原中也は、「五年来、僕は恐怖のために一種の半意識家にされたる無意識家であった。」(下線部原文傍点)と書きつけている。中也が遭遇した「恐怖」の内実について、かれじしん、同年6月3日付け小林佐規子(長谷川泰子)宛書簡において「怖いのは、遂に自分を見失ふということです。見失った人は意味(言葉)が解せなくなる。」という註をほどこしていた。
 〈我〉をうしなうこと、したがって〈汝〉も〈彼〉もなくしてしまうことをさして中也は恐怖したのだ。みずからにたいして言葉が通じなくなる、〈人称〉がなくなるだけでなく、自分自身から言葉が抜け落ちてしまうという深刻な体験においてダダイスト中也の実践があり、と同時に中原中也にとっての〈詩〉(文学)に対する自覚の端緒があったといってよい。
 こゝで中也が欠落させてしまったことばとは、環界・風土としての言葉のすべてであったといえようが、このことがつかの間の解放感をともないながらも、青年期のとば口に佇ったばかりの中也にしてみれば、我ー汝ー彼を関係づけるおのれのことばの喪失でもあったが故に、つねに二次的な環界とでもいうべき仮象が引寄せられなければならなかった。ちなみに河上徹太郎宛の詩論に同封された二篇の作品のひとつを読んでみる。(下線部傍点)
    
      倦 怠

     倦怠の谷間に落つる
     この真ッ白い光は、
     私の心を悲しませ、
     私の心を苦しくする。

     真ッ白い光は、澤山の
     倦怠の呟きを掻消してしまひ、
     倦怠は、やがて憎怨となる
     かの無言なる惨(いた)ましき憎怨‥‥‥

     忽ちにそれは心を石と化し
     人はただ寝転ぶより仕方もないのだ
     同時に、果たされずに過ぎる義務の数々を
     悔いながらかぞへなければならないのだ。

     はては世の中が偶然ばかりとみえてきて、
     人はただ、絶えず慄へる、木の葉のように
     午睡から覚めたばかりのやうに
     呆然たる意識の裡に、眼(まなこ)光らせ死んでゆくのだ

 まるで、一二三四、一二三四、‥‥‥と数えているようなものではないか。これが「一種の半意識家にされたる無意識家」(下線部原文傍点)が相渡ろうとしている世界であったといえよう。
 かぞえるという対応性の一端は確かに〈外界〉につながれているとしても、もう一方の端は〈誰〉あるいは〈何〉につながれていたのか。(下線部傍点)
 ところで「五年」前といえば、中也がかねてから同棲中の泰子をともない、文学的予望と進学の意志をあわせもって、出郷以来二年あまり居住した京都を離れた年でもあった。上京して間もなく中也は、ひとあしはやく帰京していた富永太郎の紹介により小林秀雄を訪ね、ほどなく二人のあいだに泰子という女性を介在させた親交がはじまったようである。当時の小林はすでに《一ツの脳髄》を発表してしまっており、〈我〉という舞台に〈もうひとつの我〉をひきだしてきては演じさせようとして悪戦苦闘を強いられていた。(下線部傍点)
    「三年前父が死んで間もなく、母が喀血した。私は、母の病気の心配、自分の痛(ひど)い神経衰弱、
    或る女との関係、家の物質上の不如意、等の事で困憊(こんぱい)していた。私はその当時の事を書き
    たいと思った。然し書き出して見ると自分が物事を判然(はっきり)と視てゐない事に驚いた。外界と
    区切りをつけた幕の中で憂鬱を振り廻してゐる自分の姿に腹を立てては失敗した。自分だけで呑み込ん
    でゐる切れ切れの夢のような断片が出来上がると破り捨てた。」(小林秀雄・一ツの脳髄)

 もし本当に「外界と区切りをつけた」のならば、「物事を判然(はっきり)と視てゐ」たろうし、「その当時の事を書」けもしたであろう。なぜなら、もしこの世に〈外界〉と区切りをつけてくれるものがあるとしたら、それは〈社会〉や〈自然〉をおいてほかに求めようがないからだ。「憂鬱を振り廻してゐる自分の姿に腹を立てては失敗」せざるをえないのは「幕」そのものをかけそこなっているからではないのか。「破り捨て」られねばならなかったのは、その得たいのしれない「幕」そのものではなかったのか。しかし、小林がおもむいたのは、「幕」の素材となるべきものゝ正体を不明のまゝにしておいて、もうひとつの「幕」ならざる「幕」を究極までみきわめようとするところであったといわなければならない。
    「丁度自分の脳髄をガラス張りの飾り箱に入れて、毀(こわ)れるか毀れるかと思い乍ら捧げて行くよ
    うな気持ちだった。然しいつの間にか、それは毀れてゐた。そして重い石塊に代ってゐた。」(同前)

    「(此の男は何を云ってゐるんだろうーー)、私は、間抜けた様子で男の顔を眺め、信玄袋を担いでき
    た赤帽の様に肩の上に乗っかった石塊を振った。」(同前)

 あんまりいい感じのするしろものではないが、ここに小林がうみださざるをえなかった〈もうひとつの我〉の光景がある。もし、〈詩〉とは〈我〉のなかに〈人間〉をみいだすことであるとするならば、小林は〈詩〉と差しちがえそこなっていた、といわなければなるまい。(下線部傍点)
 他方、中也はどうであったかといえば、〈社会〉と遭遇していないという点においては小林と同等であったが、大正十四年(1925)十月七日付の《秋の愁嘆》においてみてきたように、言語における感性的自然という側面、すなわち感性的自然としてのリズムにたいして自覚的であったがために、〈悪魔の伯父さん、おじゃったおじゃった。〉という光景のなかに〈誰〉をよびだそうとしていた。
 このように両者の位置を見定めたときにはじめて、長谷川泰子という女性の存在が不可避的にその姿をあらわしている。
    「私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来ていたのと(ママ)確信する。つま
    り、私は自己統一ある奴であったのだ。若し、若々しい言い方が許して貰へるなら、私はその当時、宇
    宙を知ってゐたのである。手短に云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして叉、その
    可能なるものが如何にして可能であり、不可能なるものが如何に不可能であるかを知ったのだ。私は厳
    密な論理に拠った、而して最後に、最初見た神を見た。
     然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はただもう口惜(くや)し
    くなるのだった。ーーこのことは今になってやうやく分るのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一
    の平和を、失ったのであった。全然、私は失ったのであった。一つにはだいたい私がそれまでに殆んど
    読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所殆んど皆無であったの
    でその口惜しさに遇って自己を失ったのでもあったゞらう。
     とにかく私は自己を失った!而も私は自己を失ったとはその時分っていなかったのである!私はたゞ
    もう口惜しかった、私は「口惜しき人」であった。」(下線部原文傍点)(中原中也・我が生活)

    「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪
    (こしゃく)な夢を一挙に破ってくれた。と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思ってゐない。
    何も彼も尋常な事をやって来た。女を殺さうと考へたり、女の方では実際に俺を殺さうと試みたり、愛
    してゐるのか憎んでゐるのか判然しなくなって来る程お互いの顔を点検し合ったり、惚れたのは一体
    どっちのせゐだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく
    行くと却(かへ)ってがっかりしたり、ーー要するに俺は説明の煩に堪へない。
    (中略)
     俺は恋愛の裡(うち)にほんたうの意味の愛があるかどうかといふ様な事は知らない。だが少くとも
    ほんたうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同志の認識が、傍人の窺(うかが)ひ知れない
    様々な可能性を持ってゐるという事は、彼らが夢見てゐる証拠とはならない。世間との交通を遮断した
    この極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚(さ)め切っている。傍人には酔ってゐると見える程覚め切って
    ゐるものだ。この時くらゐ人は他人を間近かで仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従って
    無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は許されない、従っ
    て明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらゐ人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生
    き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟(おも)ふに人が成
    熟する唯一の場所なのだ。」(小林秀雄・Xへの手紙)

 いずれも泰子とのかかわりあいが終ってしまった時点で書かれたものだが、なんともはがゆいくらいのもの言いである。どうして、二人とも友人を失っ(殺し)てでも女を欲しいと言えなかったのか。これが俗にいう「三角関係」に骨身をけずった男達の言い草であったとすれば、いささか異常としなければならない。三者が三ツ巴のまま生き抜いていくという方途が探られているという痕跡はどこにも残されていない。小林にあっては〈もうひとつの我〉を〈汝〉と〈彼〉に解体してしまうこと、中原にあっては〈誰〉の人称をあきらかにし〈我〉ー〈汝〉ー〈彼〉というかかわりあいをあきらかにすること、これらの問を泰子という女の存在はまっさきにつきつけていたはずである。しかし、まっさきにみずからのみを決定してしまっている男と男のあいだにあって、自身を決めかねているのは女のほうである。いかなる共同性へもたどりつけず、また、どのような自己の世界にも棲みつけない泰子は、「潔癖症」を病むよりしょうがなかった。
 戦後になって小林は、「中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふ事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌(いま)はしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。」(中原中也の思ひ出)と回想しているが、もし人が〈社会〉をつくりだしたことによってやってくる苦しみがあるとしても二人の男にとっては、とりわけ小林にとっては、そのよってきたるところをときあかすべき言葉をもちあわせてはいなかったといえる。(下線部傍点)
 小林は《一ツの脳髄》のなかで、「鎌倉の家で、夜、壁を舐(な)めた事があった。」という「俺」のわけのわからない行為によって、自分の部屋という閉じられた空間にあってどのように錯乱することもなく、また外へ飛びだそうといかようにもがくこともなく、ただその閉じられているということのみをじっともちこたえているというぐあいに、他との関係のしかたがあるということを象徴させている。
 ところで、わが中原中也は、《或る心の一季節》において、「唯一の仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰って来、夜の一点を囲ふ生暖かき部屋に、投げ出された自分の手足を見懸ける時に」焦点が欠落してしまっている「私」がいるばかりで、わたしの思想をかたどってくれるべき意識の身体=生理は部屋を仕切っている壁によってどこまでも分断されてしまっているというとほうもない分裂にみまわれていた。部屋の外では環界・風土としての季節がめぐっているように、部屋の内部では心象の季節を経めぐらねばならなかった。とどまることのない心象の季節だけが切実なとき、過去も未来も部屋の壁の外に閉ざされており、その出口のない転変に意識の肉体が疲れを覚えたとき、〈倦怠〉の観念は関係づけの不能な身体=神をよびださざるをえなかった。《秋の愁嘆》とあい前後して書かれたと推定される評論《地上組織》における中也の見神は、〈現在〉を構成するためにだけ必要な〈時間〉概念の象徴にほかならないといえる。
 仮構された想像線上の〈社会〉に登場してくる〈誰〉の人称をきわめるという小説・散文を書くことが不可能となった地上において、よく企画し計量された〈うた〉をみずからの内部に組織するというかたちで、「いよいよ詩を専心しようと大体決まる。」(詩的履歴書)のは泰子が中也のもとから小林のところへ去る数ヶ月前のことであった。中也の〈倦怠〉は「女」に去られ「自己統一を失った」ところからやってきたものではないようにみえる。また、俗にいう父権の絶対性とのあつれきを前にした社会化しえざる「私」というところからやってきたものではないようにみえる。その主調音は、幼少期の〈家族〉のなかから響いてきているように思われる。書きつがれてきた小説の幾篇かにたしかな手触りがのこされているように、子(男としての中也)は〈父〉の〈老い〉にたいして充分自覚的である、と同時に、例えば未刊詩篇中の《少年時》にうかがわれるように、〈父〉も〈母〉も〈子〉の目からは同じ屋根の下に住むばらばらな存在としてしかみえない。このようにしてしか〈家族〉とであえなかった〈子〉が覚えざるをえない〈倦怠〉があったのである。泰子が去った後、中也みずからが名づけ、小林があとから確認した「口惜しき人」がうたわざるをえなかった〈倦怠〉の質をこのようにみさだめてくるならば、かれらが営んだ「三角関係」において、あるいは、小林を〈父〉に、中也を〈子〉(もちろん男)に、そして泰子を〈母〉に、なぞらえていいのかもしれない。なるほど、中也は、小林に「ヴァニティ」を先行させた「機敏な晩熟児」を認め、泰子にはおたがいが存在することからやってくるかかわりを求め続けていた。〈子〉は〈父〉をじぶんの部屋の外におくことができたように、〈母〉もそうすることはできなかったのである。〈子〉は、〈父〉との関係を了解し許容することはできるが、〈母〉との関係を遠隔化し転位することはどうしてもできない。〈父〉と〈母〉との結びつきを自然なるものと解するならば、〈子〉はその自然性の半分しか対象化しえていないといえよう。残りの半分において〈子〉は、じぶんじしんをあたかも禁制の対象のようにしておかなくてはならない。この、なかば成功し、なかば失敗した〈自然〉との関係を抜きにしては、〈子〉がうみださざるをえなかった文学はとうていかんがえられない。この、どこまでも乖離してやまない関係づけをもって、おのが表出主体を生きとおすというところに、大正十四年(1925)当時の中也の表現の現在があった。(下線部傍点)
      黄 昏

     渋つた仄暗い池の面(おもて)で、
     寄り合った蓮の葉が揺れる。
     蓮の葉は、図太いので
     こそこそとしか音をたてない。

     音をたてると私の心が揺れる、
     目が薄明るい地平線を逐ふ……
     黒々と山がのぞきかかるばつかりだ
     ――失はれたものはかへつて来ない。

     なにが悲しいつたつてこれほど悲しいことはない
     草の根の匂ひが静かに鼻にくる、
     畑の土が石といつしよに私を見てゐる。

     ――竟に私は耕やさうとは思はない!
     ぢいつと茫然(ぼんやり)黄昏の中に立つて、
     なんだか父親の映像が気になりだすと一歩二歩歩みだすばかりです

 蓮の葉のひくいざわめきという外界の部分を切り取っている聴覚に対応するように意識がうごけば、そこに心的な意味があたまをもたげてくる。(下線部傍点)
 さだかでない意味にあたりをつけようと像を求めて視覚が機能しようとするが、視界は遠隔化された触覚ともいうべき聴覚が知覚した外界と同致してはくれない。(下線部傍点)
 この乖離をまえにして、幻視か幻聴にゆきつかざるをえない局限でふみとどまろうとすれば、選択し構成されようとした対象は屈折し歪まざるをえない。
 詩人が感受し、ひそやかにその中でじっとしていたいと願った仄暗い黄昏の景物は黒々とした影のなかにかき消されてしまう。喪失感を表白したところから、こんどは心象の季節がはじまっている。ここでも悲しんでいる意識に浸透してくる心象の景観に安堵していることはできない。なぜだかわからないが、心象の景物である畑の土や石が私をじっとみつめかえしてくるからだ。〈――竟に私は耕やさうとは思はない!〉という一行は詩人の倫理の表明である。〈父親の像〉になんら具体的な意味はない。心象の黄昏の景観もやがては夕闇に閉ざされ夜にならなければならないように、転変してやまない心の季節を容れておかなければならない肉体が、はたしてそれにもちこたえられるかどうか〈気になりだすと〉、いてもたってもおられないといっているのだ。
     あゝ忘られた運河の岸堤
     胸に残つた戦車の地音
     銹びつく鑵の煙草とりいで
     月は懶く喫つてゐる。				(月)


     その脣は■(ひら)ききつて
     その心は何か悲しい。
     頭が暗い土塊になつて、
     ただもうラアラア唱つてゆくのだ。		(都会の夏の夜)


     河瀬の音が山に来る、
     春の光は、石のやうだ。
     筧(かけひ)の水は、物語る
     白髪の嫗(をうな)にさも肖てる。			(悲しき朝)

 いずれも《黄昏》とおなじく、『山羊の歌』の「初期詩篇」におさめられた作品から抜きだしてきたのだが、聴覚にみちびかれたゆきあたりばったりの外界の知覚に呼応するようにして心象の景物が想起されてくるという、詩人の想像力のありようがよくみてとれる。風景あるいは環界・風土としての具体的な自然を遮断したところでも、心的な意識の〈いま・ここ〉を象徴するようにしてしか詩人のことばはやってきてくれない。(下線部傍点)
     今や黒い冬の夜をこめ
     どしやぶりの雨が降つてゐる。
     亡き乙女達の声さへがして
     aé ao, aé ao, aé ao, éo, aéo, éo !
     その雨の中を漂ひながら
     いつだか消えてなくなつた、あの乳白の■嚢(へうなう)たち‥‥‥(冬の雨の夜)

 言語の限界をなかばふみこえようとしたところで、心的な意識がうちだしているリズムに詩人はどのような意味をこめているのか
     知れざる炎、空にゆき!

     響の雨は、濡れ冠る!

     ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

     われかにかくに手を拍く……				(悲しき朝)

 スタ・スタ・スタ・スタ・スタ・スクタ・スタ、とリズムを体現し終ったところで、詩人中原中也は、心的な意味をささえてくれる感性的自然としての韻律を確認しているのだ。ひとまずここに、《サーカス》、《朝の歌》や《臨終》、そして《港市の秋》などが書かれなければならなかった必然性をみとめておきたい。これらの作品が書かれる直前に、中也は、「私がこの本を初めて知ったのは大正十四年の暮であったかその翌年の初めであったか、とまれ寒い頃であった。由来この書は私の愛読書となった。何冊か買って、友人の所へ持って行ったのであった。」(宮澤賢治全集)と回想しているように、『春と修羅』にであっている。
    「人性の中には、かの概念が、殆んど全く容喙出来ない世界があって、宮澤賢治の一生は、その世界へ
    の間断なき恋慕であったといふことが出来る。
     その世界といふのは、誰しもが多かれ少かれ有してゐるものではあるが、未だ猶、十分に認識対象と
    されたことはないのであった。私は今、その世界を聊かなりとも解明したいのであるが、到底手に負へ
    さうもないことであるから、(後略)」(中原中也・宮沢賢治の世界)

    「彼は幸福に書き付けました、とにかく印象の消滅するまゝに自分の命が経験したことのその何の部分
    をだってこぼしてはならないとばかり。それには概念をできるだけ遠ざけて、なるべく生の印象、新鮮
    な現識を、それが頭に浮かぶまゝを、ーーつまり書いてゐる時その時の命の流れをも、むげに退けては
    ならないのでした。」(中原中也・宮沢賢治の詩)

 中也が、賢治の〈詩〉にたいして覚えたのは、共感と隔絶感のいりまじった衝撃にちかいものではなかったかと思われる。宮沢賢治の、〈韻律〉には共生感を、「間断なき恋慕」の対象となった〈自然〉とのとてつもないかかわりようにはさじを投げる、というように。なるほど、〈自然〉とのあくなき交感において賢治の心象スケッチはは成立しており、その場をささえているのは七・七音律の徹底的な追及にあった。ざっくばらんな外界の知覚に端を発して、心的な意識の場に想起される心象を統覚するものとして中也の七・五(あるいは五・七)音律は用意されていた。頻出する七・五調も五・七調も、〈我〉は〈誰〉ならずとする中也の屈折した自同律の同じ表現であった。賢治の〈韻律〉がみずからの身体=幻想を〈自然〉のまっただなかへ参入させることによってエロティズムを発想させる歩行韻であったとすれば、中也のそれは、みずからの身体=感覚を〈意識〉の場にまでひきずりこみ、とどめておこうとするエロティズムのアリバイとしての呼吸韻とでもいうべきものであった。
     幾時代かがありまして
       今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
         今夜此処での一と殷盛り

     サーカス小屋は高い梁
       そこに一つのブランコだ
     見えるともないブランコだ

     頭倒さに手を垂れて
       汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと
     ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん				(サーカス)

 ここにおける作者の空間ーー時間識知は、詩人の意識に去来している心象風景を一歩たりともふみこえてはいない。3・4・5の加速型音数律としての七・五調リズムによって点綴される心象の景観の頂点でよくすわりをみせている〈ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん〉はここでの心象〈空間〉に同致した意識の運動感とでもいうべきものを、まことにうまく体現しているといえよう。このように、きわどく、心象の風景そのものとなって振子のように揺れる意識の旋回運動を体現できる身体=感覚を座として、心的な息づかいをてぎわよく定着してみせたのが《朝の歌》であり、《臨終》であった。いずれも、その息づかい、呼気、吸気の区別を示すかのように、各行の書き出しの位置に工夫がほどこされているといえそうである。ただ、《サーカス》が心象の〈空間〉とつかのまの意識の〈時間〉がおりなすそのような運動の力点への往路において書かれているとすれば、《朝の歌》や《臨終》はそこからの復路において成っているとしなければならない。そしてまた、かかる力点を支点としたときの意識の〈夢のうちなる遠近法〉(地極の天使)として、《無題(疲れた魂と心の上に)》が書かれたのである。〈自然的なるもの〉によって囲繞されている身体=感覚を座としている心的な意識が意識じたいを力点として動こうとするとき、そこに〈反自然的なるもの〉が外化されざるをえないとすれば、かかる地平において中也の〈詩〉はどのような角逐を経てきているのか。(下線部傍点)
      朝の歌

     天井に 朱(あか)きいろいで
       戸の隙を 洩れ入る光、
     鄙びたる 軍楽の憶ひ
       手にてなす なにごともなし。

     小鳥らの うたはきこえず
       空は今日 はなだ色らし、
     倦んじてし 人のこころを
       諌めする なにものもなし。

     樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
       うしなひし さまざまのゆめ、
     森並は 風に鳴るかな

     ひろごりて たひらかの空
       土手づたひ きえてゆくかな
     うつくしき さまざまの夢。

 眠りから意識を醒ますようにやってきた朝の自然的な時間を、詩人の意識は視覚的意志によって吸いこむように心象としてためる。臨界いっぱいにふくらんだ心的空間を統覚しようと、聴覚的意志が触手を広げるが、心的な意味は手ざわりだけをのこして呼気とともに去っている。これが第一連である。(下線部傍点)
 聴覚的意志も視覚的意志も萎えてしまった第二連で、朝を呼吸している詩人の意識の部屋は〈人間的なるもの〉から隔離されてしまったようないきぐるしさのなかに歪みはじめている。この、どうしようもない剥離感に穴をあけるように、第三連では、そのような詩人の意識の部屋の身体組織である生理的な自然そのものがふたたび外界としての朝を呼吸しはじめている。やがて、最終連では、朝を呼吸していた詩人の意識の部屋そのものまでが消去されてしまい、それとともに朝の外界も遠のいていってしまう。
 反自然的な時間性の根源としての心的な意識がぬぐいさられざるをえないとき、意識が意識自体を起動させる論理がどこまでも求めてやまない思想の身体もまた消去されてしまおうとする。思想の論理は意志的にみずからの坑道を掘り進めるしかないが、思想の身体はしっかりした自分のてざわりに確執しているだけ、というような分裂にみまわれていた中也は、そのどこまでも乖離してやまない現実を固有の方法で消去させるようにして、自立した朝の情感を間接性そのものであり対象のない茫んやりとした感情の表現のなかにこめえたのであった。ここで、前途茫洋とした感情を生活意識として、〈朝〉の仮構を美意識としてとらえかえしてみるならば、中也は、両者のむすびあわさったところで、おのれの生きざまとしての〈近代〉を表現しているといってよい。(下線部傍点)
      臨 終

     秋空は鈍色(にびいろ)にして
     黒馬の瞳のひかり
       水涸れて落つる百合花
       あゝ こころうつろなるかな

     神もなくしるべもなくて
     窓近く婦(をみな)の逝きぬ
       白き空盲ひてありて
       白き風冷たくありぬ

     窓際に髪を洗へば
     その腕の優しくありぬ
       朝の日は澪れてありぬ
       水の音したたりていぬ

     町ゝはさやぎてありぬ
     子等の声もつれてありぬ
       しかはあれ この魂はいかにとなるか?
       うすらぎて 空となるか?

 もののみごとに美を呼吸し、それを生活意識がうけとめる、という第一連からはじまる《臨終》は、中原中也がもつ生活意識と美意識が混融した近代的なるもの、の一面をよく示している。
 《我が詩観》を書いたとき、中也は、「詩的履歴書」の項で「大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり『朝の歌』にてほゞ方針立つ」と回想をしたためている。「方針立つ」というのは、詩人にとって、自己意識が安定感をもって流通できる社会的現実の構造が何らかのかたちでつかまえられたということを意味している。《朝の歌》や《臨終》といった作品がもっている安定した形式的構成力は、そのような社会的現実の構造の函数であるといえよう。「なにごともなし」、「きこえず」、「なにものもなし」、「うつろなるかな」、というような停滞の表現も、「うしなひし」、「きえてゆく」、「落つる」、「逝きぬ」、「盲ひて」、「澪れて」、「したたりて」、「うすらぎて」というような動きの表現も、ともに中也の生活思想の心情の側面を的確に象徴している。ここから伝わってくる諦視と退行の感覚は、社会的指標を失ったのちの心情の下降に対応しており、大正から昭和にかけて成熟してきた日本の資本制社会の高度化と画一化の逆立した表現にみあっている。京都を経過地とし、東京に来て都市生活者としての相貌をよぎなくされた中原中也の生活思想は、ひとつの現実喪失、あるいはどこまでも乖離してやまない関係というようなかたちで、間接的に、昭和初期社会そのものの物的な関係のすさまじさとつながっていたといってよい。
 ところで、中也は前出の回想につづけて、「方針は立ったが、たった十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガッカリす。」というようにみのがすことのできない嘆息をもらしている。実生活をおのれの文学的営為に照準を合わせるようにして費やしながら、あえて図式化すれば、短歌的現実ーーダダ的表現ーー七・五定型表現、というように試行をかさねてきた表現過程の体験の終止符として《朝の歌》は書かれたのだ。七・五の区切りの組合わせがはてしなくくりかえされる七・五調定型の近代詩の野を駆け抜けんばかりに書き進んだ呼吸の乱れを整えるかのように、十四行詩という枠が組まれ、五・七基本律で満たされねばならなかった。短歌形式の要素の一つでもある五・七基本律という音数律に依拠することなしには、詩的表出が果たしえない、という事態につきかえされるようにたちいたった自覚は、どこかで、ダダを端緒とした口語・自由・詩の不可能という予望も招きよせていたにちがいない。
      港市の秋

     石崖に、朝陽が射して
     秋空は美しいかぎり。
     むかふに見える港は、
     蝸牛の角でもあるのか

     街では人々煙管(きせる)の掃除。
     甍は伸びをし
     空は割れる。
     役人の休み日――どてら姿だ。

     『今度生れたら……』
     海員が唄ふ。
     『ぎーこたん、ばつたりしよ……』
     狸婆々がうたふ。

       港(みなと)の市(まち)の秋の日は、
       大人しい発狂。
       私はその日人生に、
       椅子を失くした。

 短歌形式でみずからの詩表現がはじめられたとき、短歌の音数律は習慣的な意味としてかりてこられたのであり、中也は、五・七音律に習慣以上の必要性を認めていなかったであろう。ほどなく現実に対する指示意識が拡散を強いられるという過程で、詩人は解体と画一化にさらされた〈私〉意識を表現の世界で補償するようにして、いかなる対象であれすべて交換可能な相対性にすぎないとして「破格語法」による言語表現の意味と感覚の連合法に表現重点をおいたとき、五・七音数律が外在的な制約としてみえはじめていたであろう。それにもかかわらず、音数律自体は中也のダダによっても破られなかったのは、どうしても視聴覚的意志が先行してしまい、意識が現にむきあっている対象の関係や感覚についての意識からはなれて、想像力をもつことがきわめて困難であったという詩人の固有性ゆえに、外化された意識場面を統御する秩序との関連がどうしてもたちきれなかったため、ということができよう。みずからの表現をめぐる方法上の格闘が、仮構された意識場面の構成的な秩序としての音数律を必然化するというかたちで、円環をはたしてしまっていることに、中也は「ガッカリ」せざるをえなかったのである。この時期に、日本の言語風土における伝承韻律として慣用され必然化されてきた五・七音数律があらためて中也をとらえたというよりは、《朝の歌》や《臨終》に代表される詩作品において、都市生活空間のまっただなかにおけるあらたな自然秩序として蘇生させられた、とみるべきであろう。
 これらの詩作品を書いた翌年の夏に、中也はそのような秩序韻をまったく排除しようとしたとしかいいようのない草稿を残している。
      無題

     疲れた魂と心の上に、
     訪れる夜が良夜(あたらよ)であった‥‥‥
     そして額のはるか彼方に、
     私を看守る小児があった‥‥‥

     その小児は色白く、水草の青みに揺れた
     その瞼は赤く、その眼(まなこ)は恐れていた。
     その小児が急にナイフで自殺すれば、
     美しい唐縮緬が飛び出すのであった!

     しかし何事も起ることなく、
     良夜の闇は潤んでゐた。
     私は木の葉にとまった一匹の昆虫‥‥‥
     それなのに私の心は悲しみでいっぱいだった。

     額のつるつるした小さいお婆さんがゐた、
     その慈愛は小川の春の小波だった。
     けれども時としてお婆さんは怒りを愉しむことがあった。
     そのお婆さんがいま死なうとしてゐるのであった‥‥‥

     神様は遠くにゐた、
     良夜の空気は動かなく、神様は遠くにゐた。
     私はお婆さんの過ぎた日にあったことをなるべく語ろうとしてゐるのであった、
     私はお婆さんの過ぎた日にあったことを、なるべく語ろうとしてゐるのであった‥‥‥

     (いかにお婆さん、怒りを愉しむことは好ましい!)

 いかなる対象がいかなる関係において感覚と概念によって意識されているといえばよいのか。
 ここで詩人は、外化された意識場面の構成的な秩序としての音数律の衣装を脱ぎ棄て、意識画面を空白にしておくことを唯一おのれの方法として課しているようにみえる。
 空白の画面を定着している形象に、詩人の裸形の意識の投影を認めてもよさそうである。
 暗い意識の虚空の画面に、遠く点景としてあらわれた小児の貌がクローズ・アップされたとたん、その小児がナイフで自殺すると美しい唐縮緬が跳び出すという第二連。
 額のつるつるした小さいお婆さんが慈愛や怒りを放射したのち、たったいま死のうとしている第四連。このような遠近法をもちいて形象を投影している中也には、自分の統覚性は破綻にさらされ崩壊にみまわれるのではないかという空間恐怖の感覚と孤独感が秘められているとみなければなるまい。かって、その欠如感を心象の風景によって満たすことのできた表出意識は、こでは心象の景物というような実感性そのものまで失って、表出の核はひとつの概念的な一般性にまで抽象化されかかっている。ひと皮ひと皮タマネギをむくように、空白の意識を剥いでいってもどのような他者の貌にも辿りつけない。第三連で、一匹の昆虫となった私がしがみついている木の葉はみずからの存在を封じこめてしまっており、ついに空洞と化した意識場面の他者の不在を示すかのように、第五連では、空疎なリフレインがむなしくこだましている。かくして()にくるまれた最終行では、意識の空白化自体に遠近法をもたせようとする、中也の指示性の根源としての時間性が獲得しようとした空間性の消去に対応して、いまや、時間性を獲得した七・五音律が詩人の表出〈空間〉を決定するようにして終止の機能をまっとうしている。
     これが私の故里(ふるさと)だ
     さやかに風も吹いてゐる
         心置きなく泣かれよと
         年増婦(としま)の低い声もする				(帰 郷)

 客観的表現と主体的表現とが、音数律自体がもっている構成的な機能によって、対句のように対比され統一的に連合されているといえようか。このような〈短歌的喩〉のヴァリエーションにちかい喩法によってしか、みずからの詩的表出を果たしえないところに中原中也は閉じこめられている。なにが中也の〈口語的喩〉を不可能にしているのか。音数律という時間性をまとった〈自然〉であるようにもみえるし、あまりにもふかい喪失の闇からはいかなる実体性をも空間化しえず、おのれの身体=感覚が感受するところにしか位置のとれない想像力の質であるようにもおもえる。また、大正末から昭和にかけての日本の現実社会における秩序の変質と、乖離であるのかもしれない。詩人の〈初期〉から一貫して響いてくる通奏低音である〈倦怠〉は、これらすべてを滲透して、記憶へ空白へと退行していったようにおもえる。
    「   三月三十日(水曜)
     一切が最早私にとっては仮想だ。私はたゞいま、この肉と血とを、つゝましやかに運ぼうとする、狭
    い心懸けの中に、あの、あの、嘗ての日人間以上の光栄によって抱かれた望みを局限し、把持する。」

    「    四月二十七日(水曜)
    ・宇宙の機構悉皆了知。
    ・一生存人としての正義満潮。
    ・美しき限りの鬱憂の情。
      以上三項の化合物として
      中原中也は生息します。」

    「    五月十六日(月曜)
     我はエラン・ヴィタール!
     かく言うを嗤ふものは我が書を読まざれ。
     嗤はざる素朴の者は熟読せよ。
     嗤ひて後嗤ひしを自責する心懸けの者、我が書を愛されたし。」

    「    十月二十二日(土曜)
     構成主義は自己の精神の知覚(整理或いは発見)である。詩はそれからのちだ。そして詩は愛だ。構
    成主義までの愛はなほ主客分離してゐる。」

    「    十月三十一日(月曜)
     詩は
     魂と心の暗示です。
     決して魂や自体ではない。
     それを間違えて私をロマンチストなんぞとは云ってくださるな。
     現実を見たから、暗示が自在なのです。さもなくばラ・フォン
     テーヌ式以上ではありません。」

    「    十一月六日(日曜)
     リズムだの、字感だの、呼吸律だの思想だの魂だの内容だの時間的順序だの仮面だの逆説だの形容法
    だの‥‥‥何れ世の中は衝撃に充ちている。
     立派なスピリットだけが最後の詩法を提供する。」

 扉に、「尋仙未向碧山行 住在人間足道情」という漱石の七言絶句からの引用を付し、「精神哲学の巻」と題された昭和2年(1927)の中也の日記は、デモクラシーの影もなく、移入マルクス主義運動とも無縁であり、七月の芥川龍之介の自殺にも一言も触れていない。
 ここに抜粋した文章は、一読すると積極的な具体性を強調しているようにみえるが、ほんとうは、社会にたいして喪失された主題を語っている。
 二十才を生きる中也の意識は、「生命」、「愛」、「生の躍動」、「本能」、「魂」、「心」、「直覚」、「気分」、「祈り」というような次元でしか、現実社会との接触感をもつことができなかった。この裏側には、もう言葉しかない、発語する感性だけだ、とするアドレッセンスの行きつくところが埋蔵されていた。
 
      寒い夜の自我像

     きらびやかでもないけれど
     この一本の手綱をはなさず
     この陰暗の地域を過ぎる!
     その志明らかなれば
     冬の夜を我は嘆かず
     人々の憔懆のみの愁しみや
     憧れに引廻される女等の鼻唄を
     わが瑣細なる罰と感じ
     そが、わが皮膚を刺すにまかす。

     蹌踉めくままに静もりを保ち、
     聊かは儀文めいた心地をもって
     われはわが怠惰を諌める
     寒月の下を往きながら。

     陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、
     わが魂の願ふことであつた!

 アドレッセンスがみずからを終了させる方途を失ったまま、その時間性を内部にアメのように固着させている。自己の根源的現実の喪失に根拠を与えることの不可能性と交叉するかたちでしか詩と出会えないという不可避性を背負った詩人が、昭和初期という時代にたいして、みずからの言葉の肉体を曝してみせたのであった。
      寒い夜の自画像

        2

     恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
     おまえの魂がいらいらするので、
     そんな歌をうたひだすのだ。
     しかもおまえはわがままに
     親しい人だと歌ってきかせる。


     ああ、それは不可ないことだ!
     降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
     安易で架空な有頂天を幸福と感じ做し
     自分を売る店を探して走り廻るとは、
     なんと悲しく悲しいことだ‥‥‥

        3

     神よ私をお憐れみ下さい!

      私は弱いので、
      悲しみに出偶ふごとに自分が支へきれずに、
      生活を言葉に換へてしまひます。
      そして堅くなりすぎるか
      自堕落になりすぎるかしなければ
      自分を保つすべがないやうな破目になります。
     神よ
     神よ私をお憐れみ下さい!
     この私の弱い骨を、暖かいトレモロで満たして下さい。
     ああ神よ。私が先づ、自分自身であれるやう
     日光と仕事とをお与へ下さい!

(『呪海』第10号、1979年7月)
目次に戻る

中原中也:歩行と韻律

[1978年]

 短歌という構成の基盤を失った中也の表現の情況は、韻律の拡散をともなって変転し、現実の根底に下降することをうながしていた。大正十二年(1923)末頃から大正十四年(1925)初めにかけての中也の模索と試行のいりまじった表現に断片的に暗示されるモティーフの全姿は、表出された語句のうえでの意味とはかなり隔たったところにかくされている。この距離感を発語の根拠のたしかめがたさとして内部にかかえこんだまま、中也は、モティーフの半姿のさまざまなよせあつめを「ダダ手帖」、「ノート1924」において詩的に表現する一方、モティーフのネガを数篇の「小説」等の〈散文〉の次元に焼付けてみる以外になかった。中也が短歌から自由詩に転位する過程において、〈散文〉の平面でもっともするどく受感されたのは〈季節〉であった。約二年の間に八篇の小説と、戯曲一篇が書かれているが、そのいずれも秋から春にかけての期間中に執筆されている。作品中にあらわれるのは夏がもっともはげしく、秋がそれにつぎ、春と冬はわずかである。時期的にみてもっとも後のほうで書かれたとおもわれる《(無題)(それは彼にとって)》は春にはじまり、夏、秋を経めぐって冬のところで終わっている。小説を書くために、かならずといっていいほど季節を必要とするという試行が意味しているのは、中也じしんの〈時間〉の根源のたしかめがたさである。固有の主題へゆきつくのに、季節の推移を時間軸としてとっているので、作品は充分な構成をもちえず、モティーフのありかは構成の内部にはりつめるといったかたちでつきつめられてはいない。(下線部傍点)
 冒頭の一枚が欠けている小説《(無題)(それは彼にとって)》を読んでみると

  それは彼にとって陰鬱でならない家だった。
  毎年春の来たばかりの頃は、家中がなんだか茫然した。
 到底そぐはないものが、家の周囲を取り巻いたやうに思へた。冬の冷い灰色のそれと入り換りに来た陽気を、軒先を境とする向ふの庭に、地面より三四尺も上に見出すとき、此の家の者は白痴か何かのように唇を閉ぢてはゐなかった。
  だんだん此方に歩み寄って来る楽隊が、逐々近くの辻まで来て、そこを曲がると急に勇み立って聞こえ出したといふ際などにも、それは同様だった。
 (中略)
 或年の四月の初めであった。家中は例年のやうになんだか茫然してゐた。
 小学は殆んど主席で通して来たのに、自分の子だといふだけの理由でそれ程には認められてなかった彼が毎日グズグズしてゐたにも関わらず立派な成績で中学に入学した。すると茫然してゐた家の中も、始めて此の年は戸外の陽気と和し合うことが出来た。最早太陽に向って息付いてゐる山は、それを見張ってゐる深青色の空は、当然のことゝして一家の者に味領された。白痴のやうに開きかけの唇、訝しげな眼差しは去ってゐた。春着は心の願ひと共に彼等の身に纏われた。春は全く皆に喜ばれた。
(下線部原文傍点)

 ぼんやりした心を外側から充す気配のように春はやってこなければならない。なぜなら剥離感にさいなまれている詩人の心は安堵したがっているから。異和と同調を揺れ動くあてどなさの表白から心象の風景がはじまっているので、春の景観や景物は心象のなかに実在する態度を代理するものとなっている。(下線部傍点)

 その次の日は妙な蒸し方をした。朝顔の花が朝から水分を失ったやうな面を見せた。
 午近くなると、空腹と共に午後二時といふ暑熱のために蝉の声が却って澄んで聞える時刻が最早遠くないことを知らずに想はせる気分が感じられ出して、退屈で無気力であるのに体を動かせたい要求が湧いた。
 彼はなんといふことなしに襖も障子も開け放されるか或は取り除けられてゐる家の中を、部屋から部屋へと渡り歩いた。鏡のある部屋では自分の顔を暫く見てゐた。踏台のある部屋ではそれに一寸上がってみた。さうしてゐる中に父の書斎の前に来た時逐々彼は腰を据ゑた。投げ出した足の腹と足の腹とが合さったわり方を思はずしてゐるのに気付くと次のやうな幼児の思ひでが浮んで来た。彼は小さい頃よく切紙細工をしたが、その時は吃度さういふ風に坐った。或時絵本を見てゐると楠公忠子の銅像が恰度そんな坐り方をしてゐた。それからといふもの彼は大抵の場合その坐り方をして、「楠公忠子」と云った。―――何だか今の自分には想像も着かない気楽な世界がその自分を溯上れば現にあったのだといふ考へが、葡萄酒のやうに彼の胸の細い管を抜けて去った。
(下線部原文傍点)

 汽車が速度をゆるめると蝉の声が松林から聞えた。樹木ならず動物までが、その一点で生まれその一点で死滅するものゝやうな気持ちばかりしていた。
 目をつむると「西へ行く行く」といふ淋しい許容があった。そして如何して好い成績を取って置いてから出て来なかっただらうといふたわいもない気持ちが、折々発作的に擡げて来て焦躁を感じさせた。
 停車駅で紫の縮緬の夏羽織などで着飾った女などを目にすると今から行くべき家の「大財産」がおぼろに気になったりした。その時は「西へ行く行く」の気持ちは全然忘れられてゐた。
 聯絡船では海に蒲鉾の板のやうなものが所々ブワリブワリ浮き沈みしてゐるのが目に止まった。彼はそれを凝視めてゐると、海水も一つの生物のやうで、今は真夏の午後だからその海水も疲労しきってゐるのだといふ気がした。甲板の欄干に胸を当てゝ弟はそれをみてゐた。それが彼には淋しかったけれど、それかといって弟に何とも云ふわけには行かなかった。たゞ彼の胸の中では「いよいよ来たな、おまへあの家へ行くのかい行くのかい――どんな家です?」と頻りに、その時照りつけて来る血色の陽光が波に脂ギった反射をしてゐるやうにモヤモヤとイライラと反問し反問してゐた。


 心象のなかの季節はどうしようもない喪失感にかわっている。〈いま・ここ〉のあてどなさは景物への不協和音をかなで、すべてが止まってしまえばよいとする停止感にくっついた〈眼〉と〈耳〉は、生と死にその両端をおさえられた自然のような生理的身体にむきあうよりしょうがない。自然の感触を確かめるかのように歩きまわり、からだを動かしてみても、生理的身体はどこまでも生理的身体でしかない。欠如の感性の代同物ででもあるかのように、具体的な幼児の思い出が心象の風景のモメントとなっている。(下線部傍点)

 二学期の初めであった。
 その日は風がなく、軟かい活気をもった陽が当って、室内と戸外との区別が一掃されてゐるやうな心持であった。
 彼は机に凭れて何だか物足らない気持のためにその手に抱いた頭を時々右から左へ、左から右へと転がした。  机の上には色んなものがゴロゴロしてゐた。それ等を机の向ふの方に押寄せて出来た手前の方の狭い面積に肘を突いてゐることは不便で仕方がなかったけれど、別にそれを広くする程の元気は出せない。
 暑くて、単調な一日々々の繰返された夏休みが済んだばかりでそして夜はズット涼しくなったということは彼に時の経過の悲しさを味はゝせてゐた。そこへ二学期は奮発しろといふ父の言葉は重荷となって彼の頭に座を据ゑた。彼は何を食べても甘いとは思はなかった、人間の顔をさへすれば「お前は赤の他人だ」といふ気ばかりした。「自分の心を上ッ面だって見ようとする奴があるものか」と云ふ風に考へた。だが一方には衒気が棄たれ饒舌が不必要になった。そしてその点彼の気持は無暗に自由な空気を吸った。けれども併し彼は淋しく暗く無援助だった。夕方になると帯に両手の親指を引掛けて下駄の後歯で家の中を歩き廻った。
 ――彼の家は医者をしてゐたが――その時病室の者たちが「あれが惣領の坊ッちゃんだよ」といふ顔付で挨拶でもしようものなら、野蛮な小島に旅行した時のやうな好い気だが不安定な気分になった。
 (中略)
 「何のためにかう俺は彼奴のやうに遊んでゐられないのだ?」と思った。それから彼は学校で課業が終って、外へ、つまり世間の中へ這入った時に、フィと変な気がすることを意識した。又その反対に、学校の中へセルの前掛などした商人が這入って来た時、それと同し変な気がすることを思ひ出した。「ほうれみろ」彼は論理なしにさう口ずさんだ。「ほうれみろ‥‥‥


 推移してゆく季節への同調と、それによってもたらされる〈風土〉への異和にひきさかれるというかたちで心性の構造があらわになっている。至近の関係への耐えがたさと自然への同調という偏向は心象の風景のなかに独特の遠近法となって屈折している。たとえば、一九二五・一・一三の日付をもつ《鉄拳を喰らった少年》から二箇所ばかり引いてみると

 日没に程近い西の空は十五六の女の子の無数の産毛を透かすに最も相応はしい晩秋の斜なる陽に、近景と中景はたゞヨロヨロと立つ一本の潅木のやうに鳥肌な寂漠を感じさせる以外の何物でもなく、遠景だけが問題だといふやうな気にさせた。彼は、「これからはもう人里に近づ(三字不明)りだ」と嘆息した。毎日学校の帰途此処(三字不明)度にさういふ気はしたが、今日は殊(二字不明)それを感じ溜息吐いたのだった。そして、顔一面乾いた涙で引き張るといふ哀れさを、太陽の去るその代償の如く折々、事もなげな海底のやうに匍って来る風に覚えた。

畑の中を遠くまで走ってゐる電柱の横木にある円柱のその手頃な瀬戸物が、もはや傾(一字不明)の判然分り始めた陽に鈍く光って、その瀬戸物から次の電柱の瀬戸物へと伸びた電線は、宛ら思ひ出の国に連ってゐるものゝやうであった。
 彼は首巻の垂れたのを態と五月蝿さうに直すと、また後を向いた。その時チラと眼に飛び込んだ電話線は彼に快い精神の寒気を感じさせた。


 至近への関係づけの欠如の感性は、見入られているという意識や、迂回や短絡といった関係妄想をともなったりしているが、心象の風景のなかでは、触覚的な関係づけとなって定着している。視覚を触覚的にたどらせてくれるような景物の遠近感が追憶をひきよせてくれるものとなっている。

 夏の時と同様にやはり窮屈さを感じた時に彼はまたも如何して来たのか自分にも分らなかった。だが今度は二度目であるだけに夏の時よりは少しゆたらかな気持ちでゐられた。部屋の中を歩く時は自分の姿勢などに可なりこだはったけれども、坐ってゐる時は割に楽だった。それに夏のやうに客もさう沢山ではなかった。彼は持って来た本を読んでも読まないでも常に膝の上に置いてゐた。時々夏の時のことをズッと巡って行っては赤面した。巌丈な用心棒を傍に置いて、自分の考へることなしたことの尤もな理由を、夏来た時ゐた奴等全体の前で無理強ひにでも聴かせてやりたかった。「では、考へることなしたことって何だ?‥‥‥」と気付いてみると、彼は腹の力といふものが何処かへ逃げるのを感じた。
 (中略)「何が彼奴等は面白いんだ?」――恐らく此の時の感情は一生彼の頭から夢から、去るものではないであろう。彼はそこにゐる者達の愚かしさを気の合った人間に話す時には如何云ったら好いものだろうと一生懸命に考へてゐた。「何だか目や口や鼻、つまりあらゆる顔の前面の穴の空いた箇所からは、鶏の烏帽子の色のやうな蒸発物が発散して、その手は何か不潔なものでさへあれば飛びついてやらうと待構へてゐるやうだったよ‥‥‥かう話せば良いのかな?――いやこれでも駄目だ‥‥‥」
(下線部原文傍点)

 自然に敏感に反応するかれの身体=生理の活動が停滞する冬に、前年夏の出来事を回想しているのだが――真夏を受感する中也の内心には、自己思想の根源となるべき〈体験〉の完全な喪失という危機感がひそんでいた――、ここでは心象の季節の推移だけが確かなものとなっている。
 現実のどこにもおのれの〈出自〉をみいだしえないという実定性の不在は、中也にとっては、ついに絶対的なあらわれをうることのないものとして受感されていた。それがかれの〈現実〉であったといえるが、その全領域は中也においては時代的に時間的に思想化すべきものとして存在していた。
 中也を訪れた「小説」執筆の周期性は当時のかれがおちこんだ心的な闇を推測させずにはおかない。季節的に〈散文〉を書くという循環のなかで神的な振幅の性向は季節的なパターンにまで追いつめられた。その特性は夏における思想の根源への下降から秋における自然と意識との同調にむけての上昇をへて冬にかけて心的な荒廃を病み春には空白感がという推移に求められる。このような循環の過程で中也はとらえどころのない恐怖におちいった――みずからの身体=生理はどこまでこの推移に耐えられるか――とかんがえられる。
 角川版『中原中也全集』別巻所収の「作品・伝記年表」をたどってみると、中也の心性にはある種の周期性がはっきりとみてとれる。

a 大正九年九月 十三才 翌年にかけて終始頭痛を訴える。
b 大正十四年十二月三十一日 十八才 発熱臥床。
c 昭和七年九月 二十五才 神経衰弱始まる。年末、神経衰弱が「その極に達し」た。強迫観念に襲われて幻聴があった。
d 昭和十一年一月十五日 二十九才 神経衰弱が昂じた。巡査の足音、子供の葬式の悪口など幻聴あり。幻視もあったか。正行、御陵威などを口にする。
e 昭和十二年十月五日 三十才 発病。
       十月二十二日 〈狂死〉

 五年前後の間隔をおいて、判でおしたように秋に〈発病〉し、冬にかけて苦痛にさらされている。中也の自覚は〈神経衰弱症状態〉という範囲内でしか心的情況をとらえていないが、b に接続する京都時代に、自らの心的病性にたいしてもっとも防ぎようのない苦痛におちこんでいたと考えて間違いないであろう。b の病性の深さはわからないが当時の中也の心的状態を推測する手がかりとして大正十五年(1926)一月十六日正岡忠三郎宛書簡がある。

 手紙を書くことが対話してるやうに思へる程、それ程みじめなのだ。
 頭のなかにメリヤス屋の軒先に吊るしてある女の児の赤い股引が、カーギン電球の光をうけてユラユラ、ユラユラしてゐるやうだ。
 今日あたりまた横浜へでも出掛けたいのだが、古道具屋の親爺が郷里で親父が危篤だとかでゐなくって借れないのだ。――
 横浜といふ所には、常なるさんざめける湍水の哀歓の音と、お母さんの少女時代の幻覚と、謂はば歴史の純良性があるのだ。あんまりありがたいものではないが、同種療法さ。


 日常のさりげない一瞬にたちつくさざるをえない〈意識〉を生活の諸相にうめこんで耐えるという唸念としての生活が体得されないままに、家族と社会との双方からはじきだされるようにして、中也の〈意識〉は連日連夜の散歩(「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃まで歩くなり。」(詩的履歴書)へとはみだしてゆく。考想化声のような内定体験の崩壊現象とでもいうべき症状にたいする、「同種療法」としての〈散歩〉は身体=生理的な疲労感をはてしなく増幅させ、ある種の幻覚状態にいたることもあった。おなじく正岡忠三郎宛大正十四年(1925)十月三日付書簡から

 嫌な日が続いて困る困る。京都は悲惨だろうなァ。
 東京にゐては、富永を除く他、誰に会ってゝも自分の方の魂が唸るのばかりを聞いてゐるくせに、一方何かしらの自信なさにひかれて、僕は近頃毎夜々々、遠い燈火を見ながら歩き廻るのが好きだ。その時は何時も甘い思ひ出が頭の中を走ってゐる。ヒロイックな夢が胸に蠢いてゐる。つまり僕は、意志の、或は自制力の絶無にその時は甘んじてゐられるのだ。
 あゝ、自分自身の我儘!センチメンタリズムの諸相に、浸りつゝ点検する時にのみ,私の魂はその能力を発揮せんとした。


 大正十二年(1923)秋から大正十四年(1925)秋にかけてのすべての作品は、このような〈意識〉を定着するにいたる根源的な〈体験〉の根拠としての時間を求めての――崩壊する時間に耐えるための異種「療法」とでもいうべき自らの心的病性の自己克服をこめた――はてしない模索と試行の結果だといいつくせよう。
 詩にとり憑かれ少年期を脱するころみずからを天才とかんがえてていた中也にとって、大正十二年(1923)春の落第を契機とした故郷からの〈出離〉は、なによりも〈自然〉の変位を意味したといえる。時間的自然および社会的自然としての定点の喪失、すなわち伝統および出生??風土??からの遊行としてかれの京都におけるなりゆきがあった。みずからの出自=家(父)に象徴される風土から離脱というかたちで、全現実にたいして自己を社会的に対象化していくということを回避したとき、逆に〈風土〉を病むというかたちで〈身体=生理としての自然〉の内部にいっそうふかく住みつくことになったのである。これは関係づけの意識および時間〈了解〉性の起点として、〈幻想の自然〉と〈物質的自然〉とが相互に媒介される〈場〉として、必ず〈身体=生理〉を媒介しなければとらえきれない〈世界〉である。京都在住期の中也の情況はこのようにあらわれていた。中原中也の思想というものをかんがえてゆくとき、その生きざまを条件づけている根源的情況が〈季節??身体=生理〉を基調としているという点こそ究極的にあきらかにされなければならない。〈体験〉の根拠が確定されるためにもっとも困難となったとかんがえられるのは、この〈世界〉に自己をいかに位置づけるかということであった。なんとなれば、〈身体=生理〉が〈風土〉に還元されてしまうかぎりにおいて〈自己〉は必然的に〈季節=土俗〉という関係の内側へどこまでも退行してゆかざるをえない。
 ここにおいて中也の〈身体=生理〉が秩序(体制)の外側へと完全に蟄居してしまうことを決定的にくいとめ、不可逆の時間へと促す契機となったのが〈ダダ〉であった。それはかれの主題においては、〈私〉意識が解体してしまった〈身体=生理的世界〉を絶対的に象徴する仮構とならなければならなかったのである。
 中也における〈ダダ〉の発生とふかくむすびついているもうひとつの契機となったのは〈短歌〉であったといわなければならない。立命館中学へ転校するまで、県立山口中学在学中の生活そのものからみずからの半姿を逆さに突き出すようにして書きつがれていた作歌の表現の原像は、おそらく、〈どんよりとくもれる空を見てゐしに人を殺したくなりにけるかな〉に代表されるような啄木におかれていたといってよい。詩を書くことにとり憑かれていた中也において、この短歌的声調の原像からどのようにおのれの全姿をうばいかえし、いかなる主体の表出にいたるかというところでかれの〈短歌〉は不可能になったといえる。このような作歌体験がかれにもたらしたものはなんであったかと問うてみるなら、それは、ひとつのリズムであった。(下線部傍点)
 中也の百八首の中からいわゆる字あまりである六首の(五音化しえない3・3音の構成をとる)初句をもつ歌をかぞえてみると、全体の約十六%ほどである。うねりうねる‥‥‥と反復される3・3の音節群にこめられた強度の指示性は、音韻優勢の美的規範にきびしくさからうようにして、発語の内部で屈折するリズムの深度を暗示している。固有のモティーフに執着することをさけられない中也にとって、発語の固有性を保とうとするかぎり、かれの定型としての短歌はその奥深いところから崩壊せざるをえなくなっていた。

  紅くみゆるともしのつきて雪の降り静かに眠る冬の夕暮れ(一九二三年)

 中也の〈短歌〉の終局の様相はよりいっそう試作品のがわからうかがうことができる。「ダダ手帖」は河上徹太郎の手許にあったとき戦災にあい、《タバコとマントの恋》と《ダダ音楽の歌詞》の二篇しか残っていないが、いずれも、〈名詞の換言〉(《春の日の怒り》ノート1924)と日常界とは逆転した動きの表現とを組合せるという口語の使用によってもたらされる不定性が、みずからの身体=生理的世界の空間感覚の不定性をささえるとうかたちで表出がはたされている。五・七・五・七・七定型律の〈場〉から逸脱してしまった中也にとって〈ダダ〉とは、なによりも、個としての存在の根拠が希薄になり、下界といかなる関係にあるかという自覚の不明な存在感そのものを表出〈空間〉としてひらいてみることであった。その根底にあるのは対象の主格性というものなどもともと交換可能なものにすぎないという認識であった。
 大正十二年(1923)十月「秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む。中の数篇に感激」(詩的履歴書)、とのちに書きしるされ、みずから〈ダダイスト中也〉(大正十四年二月二十三日発正岡忠三郎宛書簡)という名称をあたえた中也の〈ダダ〉体験は、かれの主観のうえでは、山口中学時代から数年間つづいていたことになるのだが、その「中の数篇」とはじっさいどのようなものであったかをかぎまわるひつようもない。ただこの〈ダダ〉体験の極限で中也の自覚が大正13年(1924)に「秋詩の宣言を書く。『人間が不幸になったのは、最初の反省が不可なかったのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかったにしろ、政治的動物になるにはなっちまったんだ。私とは、つまり、そのなるにはなっちまったことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。』」(詩的履歴書)というところまでおいつめられていたことをひとつのてごたえとしてたしかめておけばよい。〈ダダイスト中也〉とは、むしろ、〈私〉を喪失してしまった一個の身体=生理的実存であり、この虚無として抽象化された存在の影の領域の奥底で、〈私〉の実存はどこまでもことばにならない悲嘆をつづけている。〈悲嘆〉を体現するものとしてのみ、〈私=形ある肉体をもった感性的存在〉はひとつの像となるであろう。(下線部傍点)
 京都へ転校させられてからまもない頃に書かれたと推定される小説《その頃の生活》ななかで、中也は主人公である「私」(正ちゃん)に、「そんな人別けをしなくたって好い。どうせ僕も乞食が目的ですから。」と言わせたりしているが、実際の姿は、〈生きる〉ことをかぎりなく単純化した〈像〉としての期待像であり、日常の像でありそして受苦の像でもある条件を〈体験〉として生きるといったところからおよそかけはなれていた。

 ――私は私の唯一の仕事である散歩を、終日した後、やがてのこと己が机の前に帰って来、夜の一点を囲ふ生暖き部屋に、投げ出された自分の手足を見掛ける(中略)。掛け置いた私の置時計の一秒々々の音に、茫然耳をかしながら私は私の過去の要求の買ひ集めた書物の重なりに目を呉れる、又私の燈に向って瞼を見据ゑる。(下線部原文傍点)
(或る心の一季節――散文詩)

 連日、深夜にまでおよぶ街頭での彷徨をしたあげく、闇のなかのひとつの燈に照らしだされた一空間にたどりつき闇を背にして燈を見据えていたひとりの男の〈像〉に、わたしが中也の〈初期〉とよぶものの核がこめられている。憑かれたように散歩をしつづけ、そのあげくのはてで詩を書くことに憑くという行為に、大正十三年(1924)頃の中也は自己救済をかけていた。散歩と書くこととのずれの領域に前言語状態としてのかれの無言はたたえられていたのである。ここで燈と闇とを区切るようにして投げ出されている中也の無言の肉体みずからが散歩のリズムを体現してしまっていた。ここにおいてはじめて中原中也はひとりの思想者としての端緒に佇つのであり、とどきうるかぎり〈風土〉の闇を覗きこむ主観とならなければならなかった。散歩しつづけることによって意識されたリズムにおいて、かれの無言は全現実の根源とならなければならず、また前言語状態としての主観ともならなければならなかった。(下線部傍点)
 それにしても、なぜ、「最初の反省が不可なかった」とする意識が〈不幸〉という名の倫理にとってかわられねばならなかったのであろうか。なにに対してのどのような内省なのかすこしも明確ではない。内省的意識がどうして「人間」も「私」もひとしく「政治的動物」として擬〈生命〉化してしまうのか。とにかく〈不幸〉になったということだけが確かなのだ、と中也はいいたげである。なるほど、かれを詩の宣言へとうながしたのがこの〈不幸〉の意識であったことは疑うことができない。だとすれば、具体的になになにに由来する〈不幸〉だといわない(いえない)ことによって、かえって〈充足された欠如〉そのものとしての感性を表明したといってよいのではないか。〈倦怠〉といい〈自滅〉といい〈呪詛〉といい、いかなる受感をもってしてもとらえつくすことのできないほど枠組みも基底もなく膨張していくあてどなさとは、中也のアドレッセンスに投影された、大正末期の社会の闇そのものではなかったか。この〈壁〉をまえにしてたちつくしたかれは、意識じたいを意識するという、内的な〈時間〉の崩壊に耐えるためにみずからの受感の根を結滞させることによって散歩するという姿勢をとっていた。象徴にも直接体験にもゆきつけず、接触不可能な領域でただもがくだけという〈ダダ〉の限界点で、ますます抽象化し空疎化してゆく意識にたいする歯止めとしての原点となるべき生活者の〈像〉をうるという条件を欠いていたからである。(下線部傍点)
 〈短歌〉から〈ダダ〉への移行という中也の自然過程の局限で、その過程じたいを包括すべき意味(生活)をうるという志向を、かれは、当時の〈散文〉にこめていたと思われる。解体感覚によって深化された中也の〈生活〉にたいする自覚から〈不幸〉という名の倫理は生まれたといってよい。これしかないというぐあいにつきつめていった〈ダダ〉意識の崩壊の根源ですべての意味を排除していたのは即物的であり活動的な自然物それ自体としての生存であった。それにたいして、中也は、生存そのものを再び反省的にとりだしてきて何らかの概念を与えうる生活から遠ざけられて生きることをよぎなくされていた。かれに残されていたのは、この生活を身体=生理的宿命と化して生きることであった。それ自体は動物的生にしかすぎない生存を〈不幸〉という倫理で有意味化することによって、有限な現実的な世界に存在するこの身体=生理をそのまま永遠化しようとしたのである。身体=生理を思想化するに際しては仏教的な理念しかもちあわせてこなかった日本的な思想の風土のなかで、中也はおのれの〈思想――身体=生理〉を非望として体現したのであった。そしてまた、〈宿命〉の意識そのものを踏み破るように意識の下層へと身体=生理を沈めてゆくことのできうる心的な病理的性向としての通路もひとまず凍結されたのであった。
 ここにおいて、空間が確定されておらず、時間も明瞭になっていないといういわば架空に浮遊する状態に意識をおいたままで発語する(できる)という入眠言語による夢形成とでもいうべき中也のダダ詩の世界は、この〈不幸〉という欠如の感性で充たされた空孔を通して、表出の恒常的な基底となっている〈風土〉としてのリズムを呼吸しはじめるのであった。

   春の日の怒

 田の中にテニスコートがありますかい?
 春風です
 よろこびやがれ凡俗!
 名詞の換言で日が暮れよう

 アスファルトの上は凡人がゆく
 顔 顔 顔
 石板刷のポスターに
 木履の音は這ひ込まう


 「ノート1924」冒頭のこの短い秀作は、モティーフが詩形にのりきらないもどかしさを、中也自身が感じたにちがいないことをよくしめしている。それとともに象徴にも直接体験にもゆきつかないかれのダダ詩がどこに出口をみつけようとしたかをよくしめしている。それは、七・五調にのりきることによって書きすすむという、いわば韻律の側から〈ダダ〉の解体を詩として統一しようとしたものということができる。「ノート1924」所収の諸詩篇のなかには、《不可入性》を代表とした数篇にみられるように、対話形式を挿入することによって詩の意味の流れを創り出し、内容の側から〈ダダ〉の拡散を詩として統一しようとした試みがあったことを指摘することができる。しかし、このダダ的な発想から散文的、物語的な発想へという回路における試行は、かれの〈不幸〉というかたちの倫理によって変調され、詩的であれ散文的であれ表出されなければすまされない意味の根源が内閉化され、それが韻律的な衝迫となってあらわれていることを理解することができる。
 〈言語の韻律は、指示表出以前の指示表出をはらんでいる〉のであり、その本質を〈指示表出の根源〉としてとらえた吉本隆明は、韻律としての言語の属性を――内容とも対象とも異った主観に帰属し、意識それ自体に粘りついてはなれず、完全に対象的に固定化されない――という領域に見定めている(言語にとって美とはなにか・第1巻)が、「ノート1924」において中也詩が韻律にたいする受感の強化という形できりぬけようとした、対他ー対自的な時間を含みえないダダ詩の解体過程が、そのような領域において必然の契機をはらみ、それが強いていえば後に「山羊の歌」で達成したところへ行きつく道程は、かなりはっきりとここにあらわれている。
 第一連で中也をとらえているダダの意識は、対他的な関係にたいする違和の集積を表象している。日常の生活現実のなかで幾たびとなくくりかえされ、なぜそうした感情がじぶんをとらえるのか、それがどこからやってきて、どこへゆきつくものかとらえきれなくなる――名詞の換言で日が暮れよう――すると、現実的な認識の序列からはなんの関連もない事象に、ことさら契機や脈絡をつけることによってたちつくしている〈意識〉は、現実の根源たる主観を倫理としてとりだすという位相にたつ一方で、〈指示性の根源〉を強化し深化するという過程を内閉している。第二連の終り二行の七・五調じたいは、俗謡のリズム定型の範囲内にあるものだが、短歌のリズムの規範を放棄したうえでの、中也のダダ詩の〈自由〉は、〈必然的にいちどは表出の恒常的な基層として存在する土謡的リズムを経過せざるをえない――そこにおいてはじめて、〈風土〉としての言語の自覚=対象化がせまられるのである〉(菅谷規矩雄・〈十五音律〉の成立――音数律に関するノートIII・ユリイカ1973年3月号)という対象領域にふみこみつつあった。北川透の〈このいわゆる〈ダダ〉のノートは、中也の表現史にとっても、わが国の近代詩史にとっても、ゆるがせにできない問題を孕んでいるという点で注目されるものだ〉(早熟する場所――中原中也の資質の世界・国文学――解釈と鑑賞・1975年3月号)という指摘もこのような過程にたいしてなされたものだとおもわれるが、前掲の音数律に関する菅谷規矩雄(音数律関するノート・ユリイカ1972年8月号〜1975年5月号9回連載)を援用して《倦怠に握られた》を読んでみる。(下線部原文傍点)

   倦怠に握られた男

 俺は、俺の脚だけはなして
 脚だけ歩くのをみてゐよう――
 灰色の、セメント菓子を噛みながら
 風呂屋の多いみちをさまよへ――
 流しの上で、茶碗と皿は喜ぶに
 俺はかうまで三和土[タタキ]の土だ――

 この詩について北川透はつぎのように言及している

 たとえば、この詩には「倦怠に握られた男」という題がつけられているが、そこに何か、意味を見出してもしょうがない。三つの断片的な視覚的イメージ??すなわち、俺の脚だけで歩くイメージ、セメント菓子を噛みながら風呂屋の多いみちをさまようイメージ、擬人法化された台所や三和土[タタキ]のイメージが自在につなげられ、そのイメージの不合理な連結のうちに倦怠感を感じれば感じられるといったことにすぎない。そのような異質なことばを、でたらめさとはちがった語感で連結しうる自在さといったものが十七歳の少年の才能として異質なのである。(下線部原文傍点)
(中原中也の世界・1971年四刷)

 異質な三つの断片を連結しているという北川の指摘は、中也の表出過程を、とりわけリズム意識においてはっきりさせられるのではないだろうか。ちなみにこの詩を音数で書きあらわしてみるとつぎのようになる。

(イ)3・3・4・4
   4・5・5

(ロ)5・7・5
   4・3・3・4

(ハ)4・3・4・3・5
   3・4・4・3

 一見してわかるように、(イ)の初行はわらべうたリズムであり、(ハ)は俗謡リズムということができる。(ロ)はことさら言うまでもなく規範としての〈短歌〉音律によっている。中也がこの一篇を書いた発語のモチーフは〈俺は・俺の・みちを‥‥‥〉といった〈三音〉律への固執に暗示されている。この〈三音〉律が発語それじたいの固有リズムとして、俺は、俺の‥‥‥という三・三音となって初〈行〉をきめるのである。そしてこの三・三音がもつ必然的な構成力が〈脚だけはなして〉という八(四・四)音を、作品の固有のリズムとしてよびだして、つづく〈脚だけ歩くのをみていよう〉という十四(四・五・五)音を表出するにいたって充足するのである。かくて、この〈発語〉から〈充足〉へという過程で、おそらく中也は、〈俺は・脚だけ・みていよう〉という3・4・5の加速型音数律のもつ快感を〈倦怠〉の裏側にはりついたたしかなてごたえとして感じとっていたものと思われる。(下線部傍点)
 (ロ)の部分を中也は〈短歌〉として書いたのではないことはいうまでもない。ここでは充足を転換させるために、定型の強調が表出されている。すなわち、〈風呂屋の多い・みちを・さまよへ〉と分解されるこの三音節に集約される〈みちを〉の三音は、菅谷の《音数律に関するノート》であますところなく解明された定型音律の構成=終止機能に含まれる表出であるとともに、〈灰色の〉というごとく像にも意味にもゆきつけない固有のモティーフの強調ともなっている。灰色のセメント菓子を噛んでいる俺とは、空白感を不幸の意識で充たしている中也そのもののようである。〈三音〉律にかたくなにこだわるようにして、みずからにむかって言語の指示性を強めながらモティーフの根源にせまろうとする志向が、この習作を韻律を意味化しようとした詩として読ませるのだが、(ハ)においては、主題となっている固有のリズム表出はふたたび定型へと還元されてしまっている。この転移に、中也の、詩を〈書く〉ことから詩を〈うたう〉ことへの危機がはらまれたといってよいであろう。(ロ)の〈みちを〉の三音が終止的構成力であるがゆえに、表現がリズムにおいて到達しえた主題でもあるこの三音に中也は充足できず、〈みちを〉の三音は主題ではなくて〈発語〉の位相におかれる。するとここで、中也は風土的誘因として潜在する音律上の傾向性に抗しきれずに3・4・4・3の俗謡リズムをうたいだすのである。(下線部傍点)

  みちを・さまよへ・(流しの・上で)

 この屈服は、(イ)の表出意識の核においては風土的誘因にたいする抵抗でもあった〈俺は・俺の〉と反復される3・3音の音節群にこめられた強度の指示性が、(ロ)においてその根底をなす音律の構成力からきりはなされるようにして〈灰色の〉という五音に後退し、発語の固有性を失わせるかたちで短歌の初句というべき定型性(美意識)が表出上の優位をしめるにいたったところに用意されたということができる。固有のモティーフに執着することをさけられない中也の志向性に乖離するかたちで、作品そのものは〈俺はかうまで三和土[タタキ]の土だ〉という音律化された像を主題として表現しおえる。これは結果としてはモティーフの根源そのものを失うところまで後退してしまったことになる。(ロ)における短歌的七・七音律から、(ハ)がふくむ俗謡的七・七音律への決定的な移行において、中也の表現の転移における最大の困難と可能性をみることができる。
 街頭を歩きまわり、住居の一室に帰りついては憑かれたように詩を書くというつみかさねのなかで、中也は一層生活に適応できない自分をつくっていったものと思われる。詩をこしらえる以外にはなにもやる気がせず、また能もないといった感性はときおり空白にさらされることもあったであろう。そんなとき、かれはみずからの生きざまについてさんざんにおもいをめぐらしたにちがいない。そして、不幸の意識(倫理)によってはどうしようもできないほどかれの感性はすさんでいたにちがいない。倫理ゆえにかえって中也は世俗の波をかぶり、世間への執着も強かったであろう。生活にたいしては投げやりなくせに、みずからの〈いま・ここ〉には執拗にこだわるというふうに。このままいけば生活者としては自滅する以外にないということがよくわかっていながら、中也は詩作にのめりこんでゆく。かれをつきうおごかしていく不可避さとはいったい何であったのであろうか。

   自 滅

 親の手紙が泡吹いた
 恋は空みた肩揺った
 俺は灰色のステッキを呑んだ

 足 足
   足 足
     足 足
           足
 萬年筆の徒歩旅行
 電信棒よ御辞儀しろ
 お腹[ナカ]の皮がカシャカシャする
 胯の下から右手みた

 一切合切みんな下駄
 フイゴよフイゴよ口をきけ
 土橋の上で胸打った
 ヒネモノだからおまけ致します


 これは、七・五(3・4・5)という俗謡リズムにいとも調子よくのっかて書きだされている。この当時、中也は〈家=親〉にたいしても、自己関係づけの他の個体にたいする外化である長谷川泰子との〈恋=性的関係〉に関しても、そしてじぶんのじぶんにたいする関係である思想においても、どのような決着もつけてはいなかった。詩人は定型リズムに憑くことによって現実的な場からの欠落を回復しているのである。故郷からの〈出離〉のはてに、かれがつきとめようとしている〈体験〉の根拠への固執は、拡散的な七音律を撥音や促音を多用することによって深化し圧縮しようと試みているところに、表出を促迫する固有のリズムの所在となってしめされている。〈俺は灰色のステッキを呑んだ〉という一行は、そのような固有のモティーフ秘めながらも、表出としてはリズム(内在)と像(外在)とにはっきり分裂してしまっている。表出のモティーフはこの内在と外在とを弁証する時間の表現に到達すべき志向にあったはずである。しかし、よりリズミカルにととのえられ定型化されて進行する表出は、内在と外在との裂け目である欠如の感性を暗箱のようにして、内在と外在を架橋する時間ではなくてその切断を示す像を焼付けていくのである。〈いま・ここ〉の根源的分裂としての異和を解消しようとして、定型的リズムに憑くことによって詩人が内在と外在との全的な同調をはたそうとする志向するところに、空白の心を感光するかのようにやってくる光景がもとめられているといってもよいであろう。〈アシ〉が七回くりかえされる強弱音律をイントロダクションのようにして、まったく飛躍することのない心象の風景がつぎつぎと連結されてゆく。作中の〈俺〉が、どこまでもリズムを体現する以外にどのような現実的かつ固有の意味としても心象にやってこられなくなるという強いられた〈自滅〉において、中也は、みずからの〈正体〉を失い考えることの焦点を喪失した位置での身体=生理の像を現前化させるのである。(下線部傍点)

   倦怠者の持つ意思

 タタミの目
 時計の音
 一切が地に落ちた
 だが圧力はありません

 舌がアレました
 ヘソを凝視めます
 一切がニガミを帯びました
 だが反作用はありません

 此の時
 夏の日の海が現はれる!
 思想と体が一緒に前進する
 努力した意思ではないからです

 第一〜二連では、肉体的・外的感官に由来するものであれ、内的感官に起因するものであれ、いずれにせよ感覚作用を動態化している身体=生理的存在が外界を知覚している。この無構成的な時間状態が、〈此の時〉を契機として、外界のある部分と対応性をもったとき〈夏の日の海〉という心象の風景が構成される。
 この習作に「ノート1924」における中也の自画像をみることができる。
 故郷の親からの仕送りを喰いつぶしながら、散歩の終点のようなつもりで中学に通っている。あっちこっち彷徨したあげく夜遅く帰っては、書物に読みふけり、書きものをすることに執着している。日に少くとも三頁のノートを取らないことはなかったというくらい考えることをしている男でもあった。知りあった女性の一人とは同棲にまでおよび、一人の詩人をはじめとして幾人かの知的な青年たちとの親交も増していた。そんななかでとうぜん〈世俗〉にもまれもしたが、途絶えることのない送金と育ちのよさがあったから徹底的に崩れるということもなかった。焦点が明確でなく充足理由が欠乏しているのは〈社会〉に遭遇する生活体験が欠けていたからだ。それでも持続することができるのは、〈社会〉でも〈自然〉でも〈外界〉のある部分として気配のようにやってきたときにだけ対応すればよという位置にみずからを置くことができたからだ。
 そのような位置にあるかぎり精神は次第に起伏を失って倦怠者とならざるをえず、心は平常の世間的な動きをなくしてしまう。固有の主題を喪失したところで、なお〈考えること〉やめないとすれば不可避的に中也の〈初期〉のような存在が姿をあらわさざるをえなかった。ここにおいて、〈外界〉を〈自然〉のようにみずからの〈身体=生理〉と化してしまう中也の特異な虚無が位置を占めてた。〈此の時〉とは、そのような存在が喚起する〈心象〉の世界にほかならない。無意思的な身体=生理を座とした〈心意〉の動きにあたかも〈意思〉があるかのように〈自然〉の機制が受感されているのだ。
 〈生活意思を倦悪〉し、現実としての〈場面〉がみえず、〈私〉という人称の観念が失われ、一切が仮装であるとして〈生命を生命する〉としかいいようのないところで〈いま・ここ〉の血と肉を運ぼうとするようにしてしか存在しきれない個体が想定されてもいいように思う。このところに、自らの存在の仕方を不幸として有意味化した中也の倫理がひきよせた、〈生〉の暗黒部分の対象化が位置していた。
 〈思想と体が一緒に前進する〉には、〈此の時〉が現在を構成するためにだけ必要な時間性としての本能的な受感であるとともに、〈ここに存在すること〉が対自化されるときともなっていなければならない。〈いま・ここ〉の構成をめぐる時間性と無時間性の相剋をエネルギーとして振幅する心域は、〈性〉からも〈人間〉からも遠ざけられたところに位置をとらざるをえず、あたかも幼児のような段階にある個体を座としながら、〈現在〉を呼吸しなければならない。(下線部傍点)  〈倦怠〉をみずからえらびとった情況の主体を指示する観念としている中也は、おのれの感受性を唯一の基軸としてただ存在するようにしてしか存在していない個体の心的な領域を、みずからの身体=生理を局限する、〈暗黒心域〉として考えはじめていたにちがいない。ダダ詩篇(片)にみられるように、対立性が欠如し、どのような志向性もあらわしていない意識に対置するものとして、そのような領域に世界に存在することの現在的な受苦の根源をさぐろうとしたといってもよいであろう。

   古代都市の印象

 認識以前に書かれた詩――
 砂漠のたゞ中で
 私は土人に訊ねました
 「クリストの降誕した前日までに
 カラカネの
 歌を歌って旅人が
 何人こゝを通りましたか」
 土人は何にも答へないで
 遠い砂丘の上の
 足跡をみてゐました

 泣くも笑ふも此の時ぞ
 此の時ぞ
 泣くも笑ふも

 ふたたび、北川透の適切な批評を引いておきたい。

 ここでは、歴史や宗教は部分的にすらなく、そもそも時間的観念がないといえるだろう。そして最後の三行の突然の転調は、詩人と古代土器の図柄とを時間の膜で一つに包んでしまった淋しさを、一挙に押し流して、そこに詩人の現在の生硬な時間の感情の露出があると考えるべきだろう。《泣くも笑ふも此の時ぞ/此の時ぞ/泣くも笑ふも》というイメージにも論理にも絶対にならない激しい悲喜の感情の吐露は、先の時間を破り、詩人の現存此の時ぞ)を示すのだが、しかし、その時、中原の現存(此の時)はいかなる詩的世界も開示することがなかったのだ。これを先に未完成とか不具な世界といったのだけれども、いいかえれば完成といった方がよいかも知れない。詩から見離された世界なのだ。見離されることによって奇妙な実存たりえている印象を残している詩。それを《認識以前に書かれた詩――》というように中原が自覚しているとすれば、これは何とも中原中也の詩を考える時の不思議である。(下線部原文傍点)
            (前掲書)

 この詩が〈奇妙な実存たりえている印象〉をわれわれに与えるのは、無時間性の自然消滅と交叉するようにして現存することの時間性が志向されながらも本能的な時間性を越えて現実の場面にまでとどきうる立体的な時間性の構造をもちえず、宙吊り状態で動揺する身体=生理の体感とでもいうべきものが〈泣くも・笑ふも・此の時ぞ〉(3・4・5)と加速される七・五調とその変換に重ねあわされているのではないか。ここで、中也は自己の現実に対する中絶という状態に、泣いたり笑いたりするという身体=生理の直接性をぶつけているといってよい。
 実在の場にうまく自己を関係づけることができず、欠如の感性によってしか世界との関係をもてない中原中也はみずからの内部世界をわずかでも支えてくれる関係性を求めずにはおられなかった。「ノート1924」を中心とした数年間に、かれの多様で饒舌な言語活動がさぐりあてていったのは、そのような自己の資質がどこからやってきてどこへむかうかということであった。外部世界からやってくる視線に対し、〈不幸〉の意識によってしかこたえることができず、現実的な場面から中絶をこうむり、自己の内在としての現実の徹底化という方向は、夢想や事実の方へと屈折してゆかざるをえなかった。このような過程に、中也の〈青春〉の姿があったといえるであろう。

 私は友を訪れることを避けた。そして砂埃の立ち上がり巻き返る広場の縁[フチ]をすぐって歩いた。
 今日もそれをした。そして今もう夜中が来てゐる。終列車を当に停車場の待合室にチョコンと坐ってゐる自分自身である。此所から二里近く離れた私の住居である一室は、夜空の下に細い赤い口をして待ってゐるやうに思へる。――

 私は夜、眠いリノリュームの、停車場の待合室では、沸き返る一抱の蒸気釜を要求した。
(下線部原文傍点)
             (或る心の一季節――散文詩)

 人と人との関係も、現実も夜空のような闇に閉ざされているとしか思えず、さだかでない昨日と今日を区切っている今日一日の終点に、宙吊られた自分自身をみいだしている。そこは、外的世界と内的世界を交叉させるようにして〈自然〉を感触しつつ彷徨してきた散歩の停止点でもある。つかの間の停止感にくるまれた肉体があてにしているのは、みずからの始点へ運んでくれる生命の燃焼であり、闇の中に赤い小さな口をひらいているのは定住でも浮浪の場所でもなく、この世の光と闇の始源を生きる〈初原としての身体=生理〉がさまざまの姿態をとって生誕してくる場であった。〈幼児〉にも〈天使〉にもなれなかったそれは、秋という〈季節〉の着物を着けて〈悪魔の伯父さん〉となってわれわれのまえにあらわれた。

 その着る着物は寒冷紗
 両手の先には 軽く冷い銀の玉
 薄い横皺平らなお顔で
 笑へば籾殻かしゃかしゃと、
 へちまのやうにかすかすの
 悪魔の伯父さん、おぢやったおぢやった。

    (下線部原文傍点)  (秋の愁嘆)

 なにもかもつきぬけるようにして、いけしやぁしやぁとふるまっている仮面の自由の裏側で、詩人は唸き、恥辱を感じ、存在することの〈不快〉を覚えていた。(中原中也 〈初期〉に関するノート・了)

(『呪海』第9号、1978年3月)
目次に戻る

運動方針(案)と経過報告

 [1979年]

運動方針(案)

 図書館分会活動の上げ底化、形骸化が進行するなかで、図書館労働者大衆は「恣意的自由」というかたちでの現実意識の行使および「私的利害」の優先というかたちで情況に抗しようとしているといえます。このような形でしか各人の生活を保てないというところまで追い込まれているところから、経済的・政治的諸要求を掲げて、組合運動を再構成し、情況をつくりだす力をうみだすことは至難のわざといわなければなりません。
 事務長交渉の場で、定員外職員や協議採用定員内職員の労働条件を話題にすると判で押したように「国家公務員試験」云々ということで寄り切られてしまいます。「資格」がともなわなければ、いわゆる「市民的権利」に基づく生活の享受もままならぬという点からもうかがえるように、我々は避けることのできない社会経済的諸条件によって現実的にしばられています。
 日常の生活過程で個的に強いられている生活者としての現実意識を掘り下げ、妻子を養いあるいは家計を保つために強制されている各人の労働をとりまく諸相と交叉させ、そこから生じてくる具体的な職場の種々の条件を検討するなかで確認された問題点を解決するための場として図書館分会の活動を組織化し、運動を強力なものにしていかなければなりません。
=要求と課題=
○大幅賃上げと昇格の促進、とくに頭打ちの解消
○定員増と臨職の定員化、および当面の待遇改善
○図書館職員の専門性(図書館業務における)の維持強化と、発言権の拡大
○分会への図書館に働くすべての職員の結集
(昭和54年5月19日)

経過報告:富大教職組図書館分会

・はじめに
 最近の文部省の図書館政策は、60年代半ばからの大学図書館の「近代化」と管理体制の強化に加えて、大学図書館の「情報センター化」という傾向を強めてきています。そのしわよせとして、蔵書はふえるが人はふえず、むしろ、定員削減によってへらされ、図書館財政の悪化ともあいまって、職員の労働強化と、定員外職員の恒常化が当面の問題となっております。
・定員外職員について
 図書館分会執行部では、週33時間勤務および週44時間勤務定員外職員全体(本館・工学図書室)の賃金改定実施経過等について調査しましたが、あらためて申すまでもなく、定員外職員の労働条件・待遇はきわめて悪い状態にあります。なかでも、頭打ち(53年度、七ー二→七ー三への移行。当面の目標七ー四)が現実の問題となっております。
 いうまでもなく、定員外職員問題は、政府・文部省の定員政策の矛盾によってひきおこされたものでありますが、分会執行部と事務長との話し合いの場では、週33時間勤務の週44時間化、賃金改定時期の定員並み実施、協議採用の定着化による定員化の実現、当面の待遇改善要求が形式的に口頭で提出されただけで、問題の根本的解決は、図書館職員の定員増要求とあわせて、今後に残されています。
○時間外開館手当、一般超勤について
 53年秋の時間外開館体制の変更にともない、50年度に決定をみました「申し合わせ四項目」にもとづく「時間外手当」支給条件の変更を余儀なくされましたが、数回にわたる職懇と事務長交渉の結果は左記の通りです。
 平日(3時間勤務)1回 3,500円
 土曜(4時間勤務)1回 3,500円+α
         (54年5月現在 α=1,000円強)
 *金額は固定的なものではなく、スライドさせる必要が生じた場合には、その都度、交渉によって金額を決定する。
 *一般超勤については、係長12、係員10時間となっていますが、業務の消化が過重になっていて通常の勤務時間内では消化しきれない事態が常態化している職員には、それ以外に、実質的な配慮をしてもらう。
○組織について
 年度はじめの、執行部からの未加入者への加入呼びかけに対し、とくに33時間定員外職員からは全員の意思として「加入しない」という返事がありました。年度半ばに、定員内、定員外とあいついで2名の組合員が脱退しましたが、組合へ結集する自己の根拠づけがうすらいだというのがその理由となっていました。
 今春闘の13/16という分会のスト権批准率が示している組合員の現実意識と、中央および分会の日常的諸活動はすべて中執と分会三役でまかなわなければならないという労働組合的行為の現実との落差に、組織化の問題が残されております。
(昭和54年5月19日)
目次に戻る

夜間短大風景

 [1967年]

「試験場では、百人にあまる大学生たちが、すべてうしろへうしろへと尻込みしていた。前方の席に坐るならば、思ふがままに答案をかけまいと懸念しているのだ。われは秀才らしく最前列の席に腰をおろし、少し指先をふるわせつつ煙草をふかした。われには机のしたで調べるノオトもなければ、互ひに小声で相談し合うひとりの友人もないのである。」
 いや、なに、短大生の書いたものじゃない。さる故人となった作家の書いたものだ。それも、戦前の帝大でのこと。
 筆者、経営短大に入学して、一番面白いと思ったのが試験期の風景。しかるに、この文章を読むにおよんでいささかがっかり。
 いずこも同じ。経営短大唯一のことと思っていたのが、実はそうではなかった。シンボルは思わぬとことにあるものだ。
 この男、一年生の半ば過ぎ、なんの故あってか短大の機関誌『光夕』の編集を手伝うこととあいなった。以来、4、5、6号の発行に協力。卒業とともに縁が切れた、と思ったのがはやガッテン。先日、三枚の原稿用紙をつきつけられた。題して「光夕と私」。
 迷った。おおいに迷った。第一、タイトルが気にくわぬ。望むべくは「光夕は光夕、俺は俺」とでもしてもらいたかった。
 やい、てめえ、乏しい学友会予算をガッボリ三回も使いやがっていったいなにを残したんだ。つつみかくさず、白状しろい。
 えっ、手前、生来の勉強嫌い。入学してはみたものの、講義にはどうも身が入らぬ。ひょんな事から雑誌の編集にたずさわることとなったなった。なにせ未経験のこと、ついつい何もわからぬままに三回もやりました。へえ、すんません。先輩の編集方法もどこへやら、なんとか形式だけはと思いまして、学生の横のつながりを文芸欄に、勉学の成果の一部を研究発表に、あとは当短大のPRを兼ねた企画。加えて編集委員会の自主企画だなんて、めっそうもない。およびもつきませぬ。
 横道にそれますが、なにせ面白いのが試験期の風景。前にボチボチと座る人、後ろにゾロゾロと 座る人、その間に座して試験を受ければ、或いは、両者のつながりが理解できるやも知れぬ、などと思いながらも果たさず、その後もやり過ごした男。
 先日、ボーナスをもらい、さるバーで飲んでおりました。たまたまある男と口をきくことになり、こっちはすでにいい気持ち、少し自惚れ半分の気持ちも手伝ってか、ついうっかり夜間短大の卒業生ともらしかかったら、聞いたようなことをぬかすねえ、短大生学業のみにて生きるにあらず、と言えるのか、酔った大きな声にさえぎられた。授業料も要れば、学友会費も要りました、とわけのわからないことをつぶやきながら、すっかり興醒めして帰った。あきらめが肝腎。
 産めよ、増やせよが、費やせ遊べとなり、労働運動も形式的な年中行事と化した昨今、われらやぼくらといった言葉はもはや使えぬ。誰が各人共通のタイトルを与えられよう。何かを内に秘めた混沌とした様相。それもない。形式だけに傾いた学生生活には、形式的な機関誌。まさにピッタリではないか。どうやら、紙数も尽きた。言いたりぬが、悪く思うな。なにせ、与えられたタイトルがよくなかった。一滴の濁った涙をインクとして綴ったのだ、などと気障な結びを要するようなタイトルは出さぬほうがよい。たまにゃ、心のヨロイも脱いでみる。しょせん、拗ね者の出る幕じゃなかった。さらば。
 『光夕』もパート・タイムで出す機関誌。なげやりの気分。そうなるほんとうの理由を誰も知りはしないのだ。そして、平気で自分のあるじになることができ、そのことにさえ気づかないで生きている、生まれつき気の強い人間のほかに、ぎりぎりのところでどうしてもそうなることの出來ない人間がいることも。
(昭和42年)
目次に戻る

「高屋敷の十字路」に戻る

「以前の〈発言〉の中から」/kyoshi@tym.fitweb.or.jp  ファイル作成日:2003.1.16