川上春雄氏が作成した「吉本隆明年譜」(『埴谷雄高・吉本隆明の世界』朝日出版社:1996年所収)や「吉本隆明年記」(『吉本隆明の文化学―プレ・アジア的ということ―』文化科学高等研究院出版局:1996年所収)、そして高橋忠義編「年譜」(『吉本隆明全詩集』思潮社:2003年所収)ならびに「吉本隆明年譜」(『吉本隆明入門;現代詩手帖臨増「吉本隆明」(III)2003』思潮社:2003年所収)に拠って年譜データを調えてきたが、引き続き高橋忠義編「吉本隆明年譜」(『吉本隆明詩全集 』思潮社:2006〜7年「別冊」と「吉本隆明詳細年譜2003−2012」[「現代詩手帖」55(5)所収])および渡辺和靖著『吉本隆明の一九四〇年代』ぺりかん社:2010年刊を参考にした。

家系
 祖父、熊本県天草郡志岐村大字志岐叉四十番地の六、吉本権次。吉本造船所を経営し、従業員40名、手持船八隻を有し、造船と海運業をもって知られていた。海運の主なる事業は、天草産の石炭を内地へ搬送することであった。のち製材業をも営む。吉本権次は誠実にして剛直、一種の風格ある人物であったという報告は、天草地方の郷土史家その他から何回か得ている。長男は順太郎、明治25年の生まれであり、順太郎の妻エミは松森氏から出ている。エミの父松森民三郎はずば抜けた秀才であり、吉本造船の支配人、いまでいえば工場長をつとめていた。この松森氏を知るほどの人は、その人徳を慕い、はじめ肖像画を掲げ、のちには生前から松森氏の自宅に頌徳碑を建立して敬意を表するにいたった。(川上春雄「吉本隆明年譜 年代抄」)

大正13年(1924) 誕生
11月25日、東京市京橋区月島東仲通4丁目1番地(現・中央区月島4丁目3番地)で生まれた。父順太郎(32歳)、母エミ(31歳)の三男、第四子である。当時の家族は、祖父吉本権次、妻マサと父母、長兄勇、次兄権平、姉政枝、本人隆明であるが、のち弟冨士雄、妹紀子が生まれて六人兄弟である。家は九州天草で造船海運業を営んでいたが、この年東京へ移転した。父順太郎は、祖父権次とともに馴れない東京の下町で雇われ大工のようなことを手始めに、悪戦苦闘の連続であった。誕生してまもなく重い肺炎に罹った。

大正15年・昭和元年(1926) 2歳
この年、一家は月島から京橋区新佃島西町1丁目26番地(現地・佃2丁目8−6)に転居。幼少時の愛称は「タカキン(隆金)」「キンちゃん」だった。

昭和6年(1931) 7歳
4月、京橋区佃島尋常小学校入学。このころ父・順太郎は月島東河岸通1丁目3番地(現・月島2丁目3番15号)に「吉本造船所」を再建、また貸しボート屋を黒船橋(現・江東区門前仲町2丁目)三吉橋(現・中央区役所脇)たもとなど数ヵ所で開業するまでに復興する。小学生時代は、月島三号埋立地(現・勝ちどき5、6丁目)や四号埋立地(現・晴海1〜4丁目)の原っぱがもっぱら遊びの空間であった。

昭和9年(1934) 10歳
4月、尋常小学校4年から府立化学工業学校4年(昭和16年春)まで深川区門前仲町(現・江東区門前仲町2丁目2番2号)の今氏乙治の塾へ通う。今氏塾での7年間はじぶんの「黄金時代」であったといい、ここであらゆる学問の基礎的訓練をうけた。今氏乙治は、終戦の年の3月10日、東京大空襲により、火の海と化した自宅周辺、黒船橋あたりで家族とともに戦災死した。

昭和12年(1937) 13歳
4月、東京府立化学工業学校応用化学科入学(同校はのちに合併され、現・東京都立科学技術高等学校。
7月、日中戦争勃発。

昭和14年(1939) 15歳
4月、府立化学工業学校3年に進級。このころ、今氏塾の書棚にある書物の借り出しが許されるようになり、改造社版『現代日本文学全集』や翻訳小説など雑読、「読書開眼」する。
9月、第2次世界大戦勃発。
この年、吉本一家は北東に百数十メートル離れた新佃島西町2丁目24番地(現・佃2丁目5番14号)に転居。

昭和15年(1940) 16歳
4月、府立化学工業学校4年に進級。自筆年譜(『われらの文学22』収載)に、「このころ幼稚な詩作を始めた」と記す。また、ファーブルの『昆虫記』に出会って、「十代の柔軟なこころには恐ろしい感動であった。(中略)人間が昆虫の観察のために一生を費やしうるのだということを『昆虫記』を通じて知った」(「読書について」)。今氏塾に通う女生徒への淡い恋愛感情を経験する。

昭和16年(1941) 17歳
このころ、今氏塾で河出書房版『現代詩集』に接し、四季派の抒情詩に親しんでいく。
4月、府立化学工業学校の5年に進級。同期の41名でガリ版刷りの校内誌「和楽路」を発行。5月号に詩四篇と「随想(其の一〜三)」、7月号に「相対性原理漫談(二)」、10月号に初の小説「孔丘と老■」(筆名・哲)を発表。
11月ごろ、吉本一家は15年間ほど住みなれた佃島から、葛飾区上千葉418番地(現・葛飾区お花茶屋2丁目15番8号)へ転居。
12月、8日、大東亜戦争勃発。24日、府立化学工業学校を繰上卒業。

昭和17年(1942) 18歳
3月、1〜3日、米沢高等工業学校(現・山形大学工学部)を受験(受験会場は藤原工業大学、現・横浜市港北区日吉の慶應義塾大学理工学部)。このころ父・順太郎は小型舟艇の設計・制作に忙しく大勢の職人を雇っていた。
4月、同校応用化学科に入学。学生生活は学寮で送る。寮生の間で回し読みされていた『宮沢賢治名作選』で賢治作品に魅せられていく。

昭和18年(1943) 19歳
4月、米沢高等工業学校の2年に進級。「この土地では書物が間接の詩であった」といい、高村光太郎、宮沢賢治、小林秀雄、横光利一、太宰治、安田與重郎に影響を受ける。特に宮沢賢治に傾倒する。寮の部屋の天井に「雨ニモマケズ」の詩を墨で書いて貼っていた。これら文学者の影響のもとに本格的に詩作を始める。
6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」の閣議決定があり、軍事教練はじめ「暑休献納」(夏季休暇返上)があるなど、学内も戦時一色になる。
11月、下旬に宮沢賢治の故地・岩手県花巻にゆかりの人たちや詩碑を訪ねる。
 秋から冬にかけて同期の郷右近厚、田中寛二らと回覧雑誌『からす』をつくり、数篇の詩を発表、交友会誌「團誌」にも詩篇を発表する。
12月、3日、次兄・権平が飛行基地隊長として台湾に赴任の途中、戦死(享年25)。
 この年、二十数篇からなる初の詩稿集「呼子と北風」が書かれ、翌年(1944)1月にまとめられ、また同時期に執筆された「詩碑を訪れて」の題でまとめられた草稿十数篇の「宮沢賢治論」(『初期ノート増補版』収録)を、ひきつづき執筆したものと推定される(以降、20年まで「宮沢賢治論」を集中的に執筆)。

昭和19年(1944) 20歳
4月、米沢高等工業学校3年に進級。校名が1日から「米沢工業専門学校」と(吉本が属した応用化学科は化学工業科に)改称される。
5月、初めての詩集『草莽』を自家版として発行。級友・澤口壽の協力で成った19篇収録。A4判ガリ版刷り・28ページの冊子で、20部ほど作って動員される級友などに渡したという。
9月25日、米沢工業専門学校を繰上卒業。上京後、ミヨシ油脂(当時はミヨシ化学興業)に「単独の学徒動員」としてゆく。航空機用潤滑油を作る研究試験室だった。翌年3月まで働く。その間に山形県の左沢で徴兵検査が行われる(甲種合格)。

昭和20年(1945) 21歳
3月、東京大空襲で、今氏乙治氏が家族ともども死亡する。
4月、東京工業大学電気化学科入学、杉野教授に就く。[石関善治郎著『吉本隆明の東京』(作品社、2005年)では東京工業大学の入学は昭和19年10月1日となっている]
5月ごろ、富山県魚津市にある日本カーバイト魚津工場に動員された。農村の徴用動員が二重にかかってきて埼玉県の大里郡で働いた。そこから魚津の動員先へ帰った。詩「雲と花との告別」を書き、散文「哀しき人々」を同期の加藤進康に進呈して、動員先に向かっている。
8月、15日正午の「終戦の詔勅」放送を工場の広場で聞く。中間プラントの装置などを壊した後に帰京。復学しようにも、GHQが工科の大学を廃止するなどの噂もあってかなわず、一時、母・エミの疎開先である福島県須賀川の農家に滞在したり、また大学に様子見に出かける日々であった。このころ短歌(4種現存)と小論「無門関研究」を書く。昭和21年9月までの間、夜間高校3年生に土佐日記と国文法を教える教師のアルバイトをしていた。(『博物誌』第10号掲載のインタビュー「純文学の世界は‥‥‥お葬式」で語られた)
 頽廃に覆われていた大学で、遠山啓教授が自主講座を開講。「量子論の数学的基礎」を聴講し、決定的な衝撃を受ける。今までに出会った特筆すべき「優れた教育者」として、私塾の今氏乙治と遠山の二人をあげている。また、「新約聖書」との遭遇が、「恐ろしい精神的な大事件」(「読書について」)であった。一方、これまでの全蔵書を売り払い『国訳大蔵経』や岩波文庫の古典を購入する。
 このころ、昭和18年ころから継続していた宮沢賢治についてのノートをまとめ、約五百枚の原稿が完成。最初の著作を賢治にしたいという希望で出版を計画したが、種々の事情で実現されなかった(同原稿は洪水で流出したとされていたが、昭和42年9月に発見され、『初期ノート増補版』に収載)。

昭和21年(1946) 22歳
4月、東京工業大学2年に進級。詩24篇からからなる「詩稿IV」を書き終える(約70篇の中から推敲して完成。「詩稿I〜III」は現在まで未発見だが、当時、詩作に精力的に取り組んでいる)。
11月、ガリ版刷りの詩誌「時祷」を荒井文雄と二人で創刊し、翌年3月の3号までに詩11篇を発表する。
12月、東京工業大学文芸部の同人誌『大岡山文学』復刊第1号が発行される。吉本は同人ではなく寄稿者として「異神」「詩三章」を発表する。この年はほかに、「伊勢物語論(I)」を書いている「後半が散逸のまま『吉本隆明全著作集』第4巻に収載)。

昭和22年(1947) 23歳
4月、東京工業大学3年に進級。
7月、同期生数人とともに文芸誌「季節」を創刊(東工大電化会発行)。創刊号に「歎異鈔に就いて」「伊勢物語論(II)」や詩を発表。このころから翌年の間に「エリアンの手記と詩」を書く。太宰治の戯曲『春の枯葉』(前年9月、「人間」に掲載)を、吉本演出により学内で上演するため、学友数人と許可をもらいに太宰を訪問する。「季節」の同人だった渡辺金弥が川上春雄に語ったところによると「(大学時代の吉本は)遠慮がちな目立たない存在だった。しかしすでに純粋な詩人だった」。
9月、東京工業大学電気化学科を2年6ヶ月で繰上げ卒業。戦時、戦後の混乱期の渦中にあって、府立化工、米沢高専、東工大いずれも繰上げ卒業であった。大学は卒業したが職がなく、電線の塗装をする町工場をはじめ、化粧品や石鹸の原料を扱う「ラブミー化粧品」の実験室、鍍金工場などを転々とする生活が、昭和24年の2月ごろまで1年半ほど続く。
 この年は詩を「時祷」「季節」に発表したほか、未発表の「かなしきいこひに」21篇、長詩「(海の風に)」を含む「白日の旅から」3篇などが作られている。「心のどこかがくずれて、ニヒルになったものを文字にすることでわずかに自分を救っている時期が数年続きました」(「ボクの二十代」)。

昭和23年(1948) 24歳
1月、13日姉・政枝死去(享年27)。政枝は岡山市で発行されていた歌誌「龍」や「八重垣」に短歌を発表していた歌人であり、東京・多摩の結核療養所で加療中であった。姉との間で手紙による詩や短歌の往復があった。
3月、「姉の死など」を「龍」に発表。これは「はじめて外部の雑誌にものを発表したのは、(中略)姉の死について、頼まれて書いた」(「小伝」)。
 この年は、小野十三郎、安西冬衛、竹中郁らによる大阪の詩誌「詩文化」に詩を投稿。その主宰者・藤村青一のすすめで、同誌に詩や論考を発表しはじめる。また、「詩稿X」の104篇の詩が作られた。

昭和24年(1949) 25歳
1月、「詩文化」を通して知りあった諏訪優らとともに詩誌『聖家族』を創刊。隔月刊で発行し詩を発表する。
2月、「詩と科学との問題」を「詩文化」に発表する。
3月、町工場での仕事を転々とし、体調をこわすなどした後、「疲れはてて」東京工業大学の「特別研究生」(現在の大学院生に該当)の試験を受けて合格、3月に入学を許可され、色彩学の稲村耕雄助教授の研究室に入る。このころ、古典経済学や『資本論』を集中的に読む。
8月、「詩文化」に「ラムボオ若しくはカール・マルクスの方法に就いての諸註」を発表する。
11月、「方法的思想の一問題――反ヴァレリィ論」を発表する。
 この年は詩を「詩文化」と「聖家族」に発表したほか、昭和26年までに「残照編」27篇やその異稿等を作る。

昭和25年(1950) 26歳
3月、「覚書I」および4月に「箴言I」を書く。引続き、翌々年にかけて「箴言II」を書く(いずれも『初期ノート』に収載)。
6月、「安西冬衛論」を「現代詩」に発表する。
8月、この月から12月22日までに「日時計篇」の前半にあたる148篇の詩を作る。
11月、詩および「現代詩における感性と現実の秩序」を「大岡山文学」に発表。このころ、東京工業大学旧制学部の学生だった奥野健男が「大岡山文学」の責任者になり、吉本は原稿を依頼される(二人が初めて会ったのは「敗戦直後の東京工大」と奥野が記している)。「太宰治論」を「大岡山文学」88号(昭和27年6月)に発表した奥野は、「工大の穴ぐらのような研究室で吉本隆明と会い、有力な示唆を受けことによって、ぼくは漸く「太宰治論」を書く決心がついた」(近代生活社刊『太宰治論』あとがき)と書いている。

昭和26年(1951) 27歳
1月、年初から年末までに「日時計篇」の後半にあたる327篇の詩を作る。異稿や削除分も含めると1日1篇以上の詩を作っていた。
3月、東京工業大学「特別研究生」1期2年の課程を終え、研究室を去る。終了論文は「物質の色と構造」であった。
4月、東洋インキ製造に入社。化成部技術課に配属され、葛飾区にある青戸工場の研究室に勤務する。(同社入社は、これまでのすべての年譜で昭和27とされてきたが、石関善治郎の調査で、26年と判明)。
8月、染料の研究誌「色材協会誌」に、同社の身分で研究論文「Phenomenon of Bronze in Surface Coatings」を発表する。

昭和27年(1952) 28歳
6月、詩および「アラゴンへの一視点」を「大岡山文学」に発表、同時に逸見明のペンネームで「現代への発言・詩」を発表する。
8月、詩集『固有時との対話』を、奥野健男、坂本敬親の協力で自家版として発行。またこのころ、『転位のための十篇』に含まれる詩稿も作られはじめる。
10月、詩「一九五二年五月の悲歌」を東京工業大学文芸部編集の「斜面」2号に発表する。

昭和28年(1953) 29歳
2月、東洋インキ製造の研究者として、「色材協会誌」に「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」を発表する。
3月、東洋インキ製造青戸工場労組の組合長に選任され、同時に、同社の5組合を傘下に持つ「連合会」の会長にも選ばれる。その就任挨拶の「組合員各位へ」を情宣ビラ「青戸ニュース」4月25日号に書く。8月号にも「理念的な課題として」を書く。
9月、詩集『転位のための十篇』を自家版として発行する。この年はこのほかに「近代文学」に詩を2篇発表する。
 10月から12月にかけて、「連合会」労組による賃上げほかの要求闘争に立ちあがるが、闘争方針をめぐって紛糾、先鋭的な青戸労組も孤立して敗北、吉本執行部は総辞職に追い込まれる。

昭和29年(1954) 30歳
1月、年明け早々の6日に、会社から本社企画部配属の人事異動が発令される。前執行部を狙い撃ちした9名の配置転換命令に対し中央労働委員会に提訴するが、敗訴。その後、母校の東京工業大学に「長期出張」を命じられ、派遣研究員となる。週に一度、会社にレポートをを提出するだけだった。書評「ルカーチ『実存主義かマルクス主義か』」を「近代文学」に発表。前年末の闘争の挫折を総括する「前執行部に代わって」を「青戸ニュース」1月20日号に書く。
2月、「荒地新人賞」への応募詩3篇「審判」「絶望から苛酷へ」「火の秋の物語」が、年鑑詩集である『荒地詩集1954』に掲載され、中江俊夫、鈴木喜緑とともに同賞を受賞する。また、同人として「荒地詩集」に参加する。
3月、「日本の現代詩史論をどう書くか」を「新日本文学」に発表する。
6月、1日に奥野健男、日野啓三、服部達、清岡卓行らと「現代評論」を創刊し同人となる。創刊号に「反逆の倫理――マチウ書試論」(改題「マチウ書試論」)を発表する。
9月、「読書ノート――善意と現実」、引続き10月に「読書ノート――新風への道」を「新日本文学」に発表する。
12月、「反逆の倫理II――マチウ書試論」を「現代評論」2号に発表。これは6月発表の「I」とともに吉本思想の出発点をなす論考で、「関係の絶対性」の概念を提示し、『共同幻想論』に連なっていく。「III」は未発表のまま『芸術的抵抗と挫折』に収録される。16日、家族の住む葛飾区上千葉(現・お花茶屋)から出て、文京区駒込坂下町163番地(現・千駄木3−45−14)に一人住まいとなる。
 この年は、詩を「近代文学」「詩と試論」「現代詩」に4篇発表。この年以降、昭和60年ころまで毎年数編から10篇ほどの詩を発表している。

昭和30年(1955) 31歳
4月、「高村光太郎ノート――「のっぽの奴は黙っている」について」を「現代詩」に発表する。
6月、東京工業大学への「長期出張」から東洋インキ製造の本社へ再配属を命じられ、「つめ腹を自らの手できって」、「退職または脱職」する。
7月、「高村光太郎ノート−−戦争期について」を「現代詩」に発表。この論考と11月に「詩学」に発表の「前世代の詩人たち−−壷井・岡本の評価について」の論考によって、本格的に文学者の戦争責任を追及する。「善意と現実」を「新日本文学」に発表する。
10月、「新風への道」を「新日本文学」に、「蕪村詩のイデオロギイについて」を「三田文学」に、書評「関根弘著『狼が来た』」を「現代詩」に発表する。

昭和31年(1956) 32歳
1月、「一九五五詩壇小雑言集」を「詩学」臨時増刊の「詩学年鑑」に発表する。東洋インキ製造を労働組合運動で追われた後、失職状態が続く。この年の初めごろ、既婚の黒沢和子を知る。
2月、「新日本文学」が2月号から映画合評の座談会を連載。2月号は佐々木基一、花田清輝と「映画合評」。(以下、3月号は佐々木基一、花田清輝、武田泰淳と「ホーム・ドラマと時代感覚」、4月号は佐々木基一、武田泰淳と「積極的テーマをどうえがくか」、5月号は佐々木基一、若杉光夫と「抒情的暗さから暗さの本質へ」、そして6月号は佐々木基一、武田泰淳、梅崎春生と「だらしない反抗」)。
4月、詩3篇と「「民主主義文学」批判――二段階転向論」を『荒地詩集1965』に発表する。
5月、「文芸時評 不毛な論争」を「東京大学学生新聞」に発表する。
6月、書評「奥野健男『太宰治論』」を「近代文学」に発表する。
7月、「挫折することなく成長を――私たちのサークル活動・感想」を「知性」に発表。「戦後詩人論」を「詩学」に、村松剛、秋山清との作品月評の鼎談「特殊から普遍へ」が「現代詩」に掲載される。
8月、1日、大学時代の恩師・遠山啓の紹介で、長井・江崎特許事務所に就職。昭和45年に退職するまでの14年間、月水金の隔日勤務で、ドイツ系統の特許の出願人との折衝、翻訳などで働く。書評「谷川雁詩集『天山』」を「現代詩」に発表。同号で鼎談「芸術運動の今日的課題」を花田清輝、岡本潤と行う。この鼎談で花田との間に、戦争中の「書かれたものについての責任」や「レジスタンス」等について激しい応酬があり、「花田・吉本論争」の発端となる。「西行論補遺」を「三田文学」に発表する。
9月、武井昭夫との共著で最初の評論集『文学者の戦争責任』が淡路書房から刊行される。座談会「戦争責任を語る」を小田切秀雄、平野謙、原田義人、白井浩司、大熊信行、本多秋五、杉浦明平、佐々木基一、武井昭夫、村上兵衛、荒正人とともに行い、「近代文学」に掲載される。
10月、「民主主義文学者の謬見」(上・下)を「東京大学学生新聞」に発表。この月に駒込坂下町(現・千駄木)から北区田端365番地(現・田端1−11−20)の新築アパートに黒沢和子と移り住む。
11月、「現代詩の問題」を「講座現代詩1」(飯塚書店刊)に、書評「服部達『われらにとって美は存在するか』を「東京大学学生新聞」に発表。
12月、「現代詩批評の問題」を「文学」に、書評「島尾敏雄『夢の中での日常』」と「井上光晴『書かれざる一章』」を「近代文学」に発表する。

昭和32年(1957) 33歳
1月、「現代詩の発展のために」を「講座現代詩3」(飯塚書店刊)に発表する。
2月、「鮎川信夫論」を「ユリイカ」(「戦後詩人論1」)に、書評「堀田善衛『乱世の文学者』」を「図書新聞」に発表する。
3月、「「出さずにしまった手紙の一束」のこと」を筑摩書房刊『高村光太郎全集』第1巻の月報に発表する。
4月、「昭和17年から19年のこと」を旧米沢高等工業学校応用化学科の同窓誌「親和会」に、「日本の詩と外国の詩」を『詩の教室III』(飯塚書店刊)に発表する。
5月、「短歌研究」で、「論争 政治と文学と前衛の課題 吉本隆明・岡井隆」の総題で、吉本が「前衛的問題」を発表したのに対し、岡井の論考「定型という生きもの――吉本隆明に応える」が同時掲載されるということがあった。これをきっかけに、8月まで両者の間に応酬が続く。書評「平野謙『政治と文学の間』」と「野間宏『地の翼』上巻」を「近代文学」に、「山田清三郎『転向記』を図書新聞に発表する。
6月、「定型と非定型――岡井隆に答える」を「短歌研究」に発表する。
7月、評論集『高村光太郎』が飯塚書店から刊行される。書評「埴谷雄高『鞭と独楽』『濠渠と風車』」を「図書新聞」に発表。座談会「詩と政治の問題」を中野秀人、関根弘、黒田喜夫、鈴木茂夫と行い、「新読書」に掲載される。このころ、川上春雄が刊行まもない『高村光太郎』の誤植箇所を指摘する手紙を吉本に送り、川上との手紙の往復が始まる。
8月、「戦後文学はどこへ行ったか」を「群像」に、「番犬の尻尾――再び岡井隆に応える」を「短歌研究」に発表。この吉本、岡井の応酬の中で出てきた課題は歌壇に波及し、寺山修司、塚本邦雄らによって論議されていった。
9月、「日本現代詩論争史」(改題「日本近代詩の源流」)を「現代詩」に翌年2月号まで6回連載。「『記念碑』・『奇妙な青春』批判――〈特攻くずれ〉と〈党員くずれ〉の問題」を「近代文学」に、映画評論「『大菩薩峠』」を「映画評論」に、「芸術運動とは何か」を「総合」に発表する。
10月、詩4篇と「古典詩人論「西行小論」「蕪村詩のイデオロギイ」を『荒地詩集1957』に発表。「ユリイカ」によるアンケート「戦後のアヴァンギャルド芸術をどう考えるか」への回答が掲載される。書評「中村光夫『自分で考える』」を「図書新聞」に書く。
11月、「短歌命数論」を「短歌研究」に、映画評論「『純愛物語』」を「映画評論」に発表する。
12月、山本薩夫との対談「『地下水道』の意欲」が「映画評論」に掲載される。28日、長女、多子誕生。

昭和33年(1958) 34歳
1月、『吉本隆明詩集』(今日の詩人双書3 書肆ユリイカ刊)、
11月、「転向論」を『現代批評』創刊号に発表。「現代批評の会」は井上光晴、奥野健男、清岡卓行、武井昭夫、吉本隆明の5人で結成し、のち島尾敏雄、瀬木慎一、佐古純一郎、橋川文三が加わった。この年、文京区駒込林町180番地へ転居する。

昭和34年(1959) 35歳
2月、『芸術的抵抗と挫折』(未来社刊)、
6月、『抒情の論理』(未来社刊)。台東区仲御徒町2丁目32番地に住む。この年、花田清輝の批判に反論したことから「花田、吉本論争」が展開される。

昭和35年(1960) 36歳
1月、「戦後世代の政治思想」を『中央公論』に、この論文は、時代をふりわけるほどの意味をもって提起された。60年安保闘争時6月行動委員会を組織、共産主義者同盟主導下に行動する。
6月3日夜から翌日にかけて品川駅構内の6・4スト支援すわりこみに参加、無数の民衆が参加した安保反対の嵐のなか、
6月15日国会構内抗議集会で演説。この夜死者の出た6・15流血事件の無残な闘争で、ものすごい量を動員した国家権力の暴力の前に、闘志たち100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。18日釈放。逮捕、取調べの直後に、近代文学賞を受賞する。いま、60年安保闘争は、世界最初の独立左翼の運動とされる。

昭和36年(1961) 37歳
4月、「現代学生論−−“精神の闇屋”の特権を」を『週間読書人』に、
6月、「擬制終焉の後に−−葬儀屋からの訣別」を『京都大学新聞』に、岸上大作作品集『意志表示』(白玉書房刊)に推薦文を書く、「頽廃への誘い」を『6・15われわれの現在』に。
『試行』創刊。60年安保闘争の終熄ののち、文学と思想の全く新しい創造運動を意図して、1961年9月、谷川雁、村上一郎、吉本隆明三同人により雑誌『試行』が創刊された。『試行』は11号以降吉本氏の単独編集で36年間継続され、1997年12月19日付発行の74号で終刊となった。
11月19日、「北九州労働者手をにぎる家建設期成会」と同東京センター後方の会共催による埴谷雄高、谷川雁、吉本隆明講演・討論会「戦闘の思想的土台をめぐって」、八重洲口の国鉄労働会館。

昭和37年(1962) 38歳
1月24日、サド裁判第6回公判弁護側証人として東京地裁に出廷、証言をおこなう。6月、『擬制の終焉』(現代思潮社刊)。

昭和38年(1963) 39歳
4月、『丸山真男論(増補改稿版)』(一橋新聞部刊)。この年「政治と文学」論争がおこり、
9月、『週間読書人』に「『政治と文学』なんてものはない」、
10月、同紙に「『政治文学』への挽歌」を書く。座談会「左翼文学」(『群像』10月号)平野謙、花田清輝、吉本隆明、野間宏により激しい応酬があった。台東区谷中初音町4丁目160番地へ転居。

昭和39年(1964) 40歳
5月、「性についての断章−−その自然・社会・存在」を『人間の科学』に発表。
6月、『現代日本思想大系4ナショナリズム』(筑摩書房刊)を編集し、解説「日本のナショナリズム」を執筆した。『初期ノート』(試行出版部刊)。
7月24日、二女真秀子誕生。
12月、『模写と鏡』を春秋社から刊行。帯の推薦文は三島由紀夫が書いた。『模写と鏡』に「時のなかの死」「死者の埋められた砦」など7篇の詩が、未発表のまま収録された。とりわけ「佃渡しで」は評判になったが、故郷にまつわる父と子の愛を痛切に表現し得た壮年期の詩篇であった。

昭和40年(1965) 41歳
5月、『言語にとって美とはなにか』第1巻、10月、第2巻を勁草書房刊。
7月、北区田端317番地へ移る。
11月、長兄吉本勇死去。

昭和41年(1966) 42歳
2月4日夜、かつて『模写と鏡』『高村光太郎〈決定版〉』等を担当した春秋社編集長岩淵五郎が、原因不明の全日空機羽田沖事故で東京湾に墜落死した。乗客、乗員133人全員死亡という当時としては世界最大の航空機遭難事件であった。
10月、『自立の思想的拠点』(徳間書店刊)。
12月、『高村光太郎選集』第1巻を春秋社から発行。全6巻別巻1の全巻を北川太一と編集、解題。

昭和42年(1967) 43歳
7月、文京区千駄木1丁目20番3号に家を買って移り住む。

昭和43年(1968) 44歳
4月、『吉本隆明詩集 現代詩文庫8』(思潮社刊)。
4月2日、父吉本順太郎死去。
5月、パリを中心に「五月革命」おこる。学生、労働者、市民による大規模な抗議デモはドゴール政権の基盤を揺るがすほどに発展した。
10月、初めての著作集を全集的著作集の形で刊行することになり、『吉本隆明全著作集2初期詩篇1』を第1回配本として勁草書房から刊行。
12月、『共同幻想論』(河出書房新社刊)、『全著作集1定本詩集』刊行。

昭和44年(1969) 45歳
4月、『全著作集4文学論1』を刊行。「マチウ書試論−−反逆の倫理−−」「戦後文学は何処へ行ったか」等主要な文学論のほか、花田清輝との長く激しい応酬となった「アクシスの問題」「転向ファシストの詭弁」をはじめ「不許芸人入山門−−花田清輝老への買いコトバ−−」等花田、吉本論争の主なものが収録された。
5月、「全著作集3初期詩篇2』、
7月、『全著作集13政治思想評論集』を刊行。
9月、『戦後日本思想大系5国家の思想』(筑摩書房刊)を編集し、解説を書く。

昭和45年(1970) 46歳
11月25日、三島由紀夫が自ら統率する楯の会会員とともに行動をおこし、自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室で衝撃的な割腹自殺をする。この年、昭和32年から月水金曜、週3日の隔日勤務によって生計を維持してきた長井・江崎特許事務所を退職、筆一本によって家族を養うことを決意し、文筆業に専念することになった。

昭和46年(1971) 47歳
7月8日、母吉本エミ死去。
8月、『源実朝』(筑摩書房刊)、「制度としての実朝」「〈事実〉の思想」などを収録。
9月、『心的現象論序説』(北洋社刊)。

昭和47年(1972) 48歳
2月、連合赤軍事件おこる。
12月、『敗北の構造、吉本隆明講演集』(弓立社刊)。

昭和50年(1975) 51歳
3月29日、村上一郎自刄。
12月、『吉本隆明全著作集9作家論 島尾敏雄』を勁草書房刊。これをもって全著作集第一期15冊が完結した。

昭和51年(1976) 52歳
10月、『最後の親鸞』(春秋社刊)。

昭和52年(1977) 53歳
1月、『近代日本思想大系29小林秀雄集』(筑摩書房刊)を編集し、「解説」を書く。
6月、『初期歌謡論』(河出書房新社刊)。

昭和53年(1978) 54歳
4月3日、長く敬意をもち知己の間柄であった平野謙が死去する。
30日、『吉本隆明全著作集(続)10思想論2』「情況」「情況への発言」を収録(勁草書房刊)。
7月、『(続)6作家論1源実朝』、12月、『(続)8作家論3書物の解体学』。『全著作集(続)』は以上3冊が刊行された。
9月、『戦後詩史論』(大和書房刊)。

昭和54年(1979) 55歳
9月11日、遠山啓教授が死去される。
12月、『悲劇の解読』(筑摩書房刊)。

昭和55年(1980) 56歳
3月、文京区本駒込3丁目21番地1号に家を買って移る。現在もここに住む。
4月15日、J.P.サルトル死去。
6月、『世界認識の方法』(中央公論社刊)。

昭和56年(1981) 57歳
11月、『吉本隆明新詩集第2版』(試行出版部刊)

昭和57年(1982) 58歳
1月、『共同幻想論』、
2月、『言語にとって美とはなにか』1、2全2冊、
3月、『心的現象論序説』以上の3点を角川文庫で刊行。
4月、『空虚としての主題』(福武書店刊)。
12月、『「反核」異論』(深夜叢書社刊)。

昭和59年(1984) 60歳
6月25日、ミシェル・フーコー死去。
7月、『マス・イメージ論』(福武書店刊)。

昭和60年(1985) 61歳
3月、『海燕』に「政治なんてものはない 埴谷雄高への返信」、
5月、「『重層的な非決定へ−−埴谷雄高の『苦言』への批判」が掲載される。このとき埴谷、吉本論争とよばれる応酬があった。
6月、『死の位相学』聞き手高橋康雄(潮出版社刊)。
9月、『重層的な非決定へ』(大和書房刊)。
12月、『悲劇の解読』をちくま文庫で刊行。『黒沢充夫〈英和辞典の挿絵〉』に「『黒沢充夫・辞典のための挿画展』のために」を書く。

昭和61年(1986) 62歳
1月、『音楽機械論』吉本隆明+坂本龍一(トレヴィル刊)。『空虚としての主題』福武文庫(福武書店刊)。『遊びと精神医学 こころの全体性を求めて』町沢静夫+吉本隆明(創元社刊)。
2月、『恋愛幻論』林真理子 吉本隆明 栗本慎一郎(角川書店刊)。
5月、『さまざまな刺激』吉本隆明対談集(青土社刊)。
6月、『増補思想の流儀と原則』(勁草書房刊)。『不断革命の時代』吉本隆明対談集(河出書房新社刊)。笠井潔 川村湊との鼎談、川村湊との対談、竹田青嗣との対談の3篇を収録。
8月、『対話日本の原像』梅原猛、吉本隆明(中央公論社刊)。
9月、『全集撰1全詩撰』(大和書房刊)。昭和16年から昭和61年までの全詩作を対象とした自撰による1巻本詩集である。
10月、『白熱化した言葉吉本隆明文学思想講演集』(思潮社刊)。『〈知〉のパトグラフィー−−近代文学から現代をみる−−』吉本隆明・町沢静夫(海鳴社刊)。10月17日、鮎川信夫死去。鮎川氏はかつて『奇蹟的な幸運」という一文で吉本氏への畏敬と信頼の念を表明した。
11月、『都市とエロス』吉本隆明+出口裕弘(深夜叢書社刊)。11月12日、島尾敏雄死去。深いかかわりを保ち、変わることのない相互敬愛のうちにあった芸術家島尾氏が急死される。
12月、『吉本隆明全集撰3政治思想』(大和書房刊)。未収録の論文「文学者と戦争責任について」「『アンチ・オイディプス』論」「権力について」が加えられた。『漱石的主題』吉本隆明+佐藤泰正(春秋社刊)。同じく12月25日、雄渾な長編詩集『記号の森の伝説歌』が角川書店から刊行された。

昭和62年(1987) 63歳
2月5日、磯田光一死去、相互に敬意をもっていた傑出した文学者磯田氏が急死される。
6月、『吉本隆明全集撰4思想家』(大和書房刊)。『國文學』に長期連載中の「柳田国男論」を完結し収録。他に「丸山真男論」「カール・マルクス」の2篇を収録。『夏を越した映画』(潮出版社刊)。
9月12日午後から9月13日午後まで、東京都品川の寺田倉庫を会場として、『いま、吉本隆明25時』〈24時間連続講演と討論〉の集会、主催者吉本隆明 三上治 中上健次。他に講演、出演は、井上英一 宮本隆司 橋田浩一 大原富枝 前登志夫「上野動物園再襲撃」中村座公演 台本・演出 金杉忠男 都はるみ 宇野邦一 加藤尚武 呉智英 石川好 山崎哲 小阪修平などであった。
10月、『よろこばしい邂逅』吉本隆明対談集(青土社刊)。『吉本隆明全集撰6古典』を刊行。書き下ろしを加えた単行本の性格を持つ「西行論」と、同じく量的にも内容的にも単行本に近い「良寛論」に併せ「源実朝」の3篇が収録された。
11月、『超西欧的まで』(弓立社刊)。
12月、『幻の王朝から現代都市へ ハイ・イメージの横断』(河合文化教育研究所刊)。『吉本隆明全集撰5宗教』。「マチウ書試論」から、未収録の「共同体の起源についての註」までの12篇を収録。『試行』67号を編集発行。新たに『吉本隆明全対談集』(青土社刊)が全11巻の企画で出発し、第1回配本第1巻を刊行。

昭和63年(1988) 64歳
1月、『いま、吉本隆明25時より 吉本隆明講演 都市論1都市論2』、カセットテープ(弓立社発行)。前年9月に行われた〈24時間連続講演と討論〉のまとめとして作成された。
2月、『いま、吉本隆明25時』吉本隆明・三上治・中上健次他(弓立社刊)。これは前記のイベントを再現した全記録の単行本である。
3月、『いま、吉本隆明25時より 吉本隆明講演 文学論1その他2』カセットテープ(弓立社発行)。
4月、『全集撰7イメージ論』を刊行、「マス・イメージ論」と「ハイ・イメージ論」を収めた。
5月、『マス・イメージ論』福武文庫(福武書店刊)。
6月、『人間と死』吉本隆明 竹田青嗣 芹沢俊介 菅谷規矩雄 川上久夫 田口雅巳(春秋社刊)。
夏、長年の例により家族全員と伊豆半島西岸の土肥温泉に滞在して休養した。夏になると、1、2週間すべての仕事を放棄して家族と太平洋岸の土肥温泉に出かけ、宿をしてくれる受入側とお互い家族ぐるみの交歓の時を過ごす。真夏の水泳ぎは毎年続いている行事で、時として親しい編集者やカメラマン、若い文学者の合流もあるが、照りつける太陽のもと大自然のなかで英気を養い東京の下町へもどる。
10月、弟吉本冨士雄死去。建築現場の事故で負傷し療養中であった。吉本工務店を経営し、委嘱されて東京都の建築相談員を務めた剛毅純情の偉丈夫であった。吉本冨士雄氏は、工務店を主宰する建築家でもあるとともに、賞を受ける発明家としても知られる。
この年の主な講演は、5月、青森県弘前、津軽へ講演旅行。これは、10月、『吉本隆明〔太宰治〕を語る』吉本隆明 菅谷規矩雄 村瀬学 鈴木貞美 長野隆(大和書房刊)にまとめられる。
11月、宮崎県一ツ瀬病院で先年来の講演。12月、沖縄県へ講演旅行。『〈信〉の構造Part2 吉本隆明全キリスト教論集成』(春秋社刊)。

昭和64年・平成元年(1989) 65歳
1月7日、昭和天皇死。1月30日、『〈信〉の構造Part3 吉本隆明全天皇制・宗教論集成』(春秋社刊)。「〈信〉の構造」全3巻が完結した。
2月、『書物の現在』浅沼圭司 清水徹 蓮實重彦 吉本隆明(書肆風の薔薇刊)。講演「『試行』の立場」を収録。
3月、『昭和文学全集第27巻 福田恆存 花田清輝 江藤淳 吉本隆明 竹内好 林達夫』(小学館刊)。「吉本隆明」の部に「マチウ書試論」「転向論」「日本のナショナリズム」等作品7篇を収録。
4月、『ハイ・イメージ論1』(福武書店刊)。
5月、『吉本隆明全対談集』第12巻(青土社刊)。全対談集が刊行開始された昭和62年12月には全11巻の予定で企画されたが、1巻追加され、またこの巻に「補遺」篇10対談が収録されて、全12巻が完結した。
6月、『言葉からの触手』(河出書房新社刊)。
7月、『琉球弧の喚起力と南島論』吉本隆明 赤坂憲雄 上原生男 比嘉政夫 嵩元政秀 渡名喜明 高良勉(河出書房新社刊)。前年12月、那覇市で行われた講演「南島論序説」とシンポジウムを中心に構成された。『宮沢賢治』近代日本詩人選13(筑摩書房刊)。
9月、『而シテ』20号「特集 吉本隆明」(白地社)が発行され、聞き手松岡祥男、粟島久憲による「ロングインタビュー 吉本隆明」が、掲載された。『像としての都市 吉本隆明・都市論集』(弓立社刊)。
11月、ベルリンの壁崩壊。翌90年ドイツ統一。

平成2年(1990) 66歳
1月、『源実朝』ちくま文庫(筑摩書房刊)。
2月、『西行論』講談社文芸文庫(講談社刊)。
4月、『ハイ・イメージ論2』(福武書店刊)。『昭和文学全集第35巻 著者窪田空穂・他』(小学館刊)。本巻は「昭和詩歌集」の総題で構成され「昭和詩集」の部「吉本隆明集」の項に「日の秋の物語」「涙が涸れる」「ある抒情」等詩6篇を収録。
7月、日本近代文学館主催の「夏の文学教室」講演「夏目漱石(吾輩は猫である 夢十夜 それから)」会場有楽町よみうりホール。
9月、『解体される場所20時間完全討論』吉本隆明 中上健次 三上治(集英社刊)。『天皇制の基層』吉本隆明 赤坂憲雄(作品社刊)。
10月、『マチウ書試論 転向論』講談社文芸文庫(講談社刊)。『吉本隆明「五つの対話」』吉本隆明 養老孟司 小川国夫 高橋源一郎 河合隼雄 辻井喬(新潮社刊)。『未来の親鸞』(春秋社刊)。『ハイ・エディプス論個体幻想のゆくえ』インタビュアー島亨(言叢社刊)。
11月、『柳田国男論集成』(JICC出版局刊)。『島尾敏雄』筑摩叢書(筑摩書房刊)。

平成3年(1991) 67歳
1月17日、湾岸戦争開戦。
2月、『高村光太郎』講談社文芸文庫(講談社刊)。
4月、『中央公論』4月号、特集「ポスト湾岸戦争へ」に「わたしにとって中東問題とは」が巻頭論文として掲載される。『日本の現在と世界の動向』(東京都西多摩教職員組合(アイム)発行)。
6月、『情況としての画像 高度資本主義下の[テレビ]』(河出書房新社刊)。
7月、日本近代文学館主催「夏の文学教室」講演「夏目漱石(こゝろ 道草 明暗)」。
8月、『熊本日日新聞』に「ニッポンの現在」を毎月1回翌年12月まで連載。
12月、ソ連消滅。世界情勢は冷戦構造の終結に向かう。この年から翌年末にかけて、バブル経済の膨張と破綻が顕著となる。バブル崩壊の大転換期に入る。河合隼雄 鶴見俊輔『時代を読む』(潮出版社刊)に、鶴見俊輔、河合隼雄を聞き手として「宗教と科学の接点を問う」を収録。

平成4年(1992) 68歳
1月、『親鸞の核心をさぐる[徹底討論]』佐藤正英 梅原猛 五来重 吉本隆明 大谷暢順 広瀬杲(青土社刊)。佐藤正英との討議「親鸞の〈信〉と〈不信〉」、「親鸞における悪と善」の2篇を収録。
2月、『良寛』(春秋社刊)。『甦るヴェイユ』(JICC出版局刊)。『見えだした社会の限界』(コスモの本刊)。
3月、『新潮古典文学アルバム 別巻 ユーカラ おもろさうし』(新潮社刊)。巻頭に「おもろさうしとユーカラ 吉本隆明」が掲載された。著者名については表紙カバー、扉等に「村越恭子 池宮正治 吉本隆明」とあり、奥付では「編集・執筆 村崎恭子 小島恭子 池宮正治 エッセイ 吉本隆明」の4人の著者名が記載された。『大情況論 世界はどこへいくのか』(弓立社刊)。
4月、県立神奈川近代文学館主催の講演「芥川に於ける反復概念」会場横浜市西区 県立音楽堂。
6月、『源氏物語論』ちくま学芸文庫筑摩書房刊)。
7月、日本近代文学館主催「夏の文学教室」講演「宮沢賢治(春と修羅(1〜3集)グスコープドリの伝記 銀河鉄道の夜)」。
9月、『新・書物の解体学』(メタローグ刊)。
10月、『吉本隆明初期詩集』講談社文芸文庫(講談社刊)。ごく初期の習作から『転位のための十篇』までを自選し、自作解説「背景の記憶」を付して刊行。10月31日、「月島誕生」100年記念」講演、主催月島図書館。

平成5年(1993) 69歳
1月、米、ブッシュ政権に代わり、クリントン大統領就任。1月19日、『イザイホー』吉田純 吉本隆明(ジュンフォト出版局刊)。吉田純の沖縄久高島イザイホー写真集に、吉本隆明の論文「イザイホーの象徴について」を収録。第2版の発行は1993年4月25日である。 2月、山折哲雄『神と王権のコスモロジー』(吉川弘文館刊)に対談「神々の原像」を収録。 3月、『追悼私記』(JICC出版局刊)。『内的コミュニケーションをめぐって』リテレール・レクチャー・ブック 刊記なし(受入平成5年3月9日)企画・制作スペース・イマ、CD約70分。 4月4日、『産経新聞』に毎月1回連載の「社会風景論1「金丸信 保釈の日に」」を執筆。 5月1日、『海燕』5月号巻頭に作家論「吉本ばななをめぐって」を書く。5月30日、『時代の病理』吉本隆明・田原克拓(春秋社刊)。吉本氏への田原氏の3回のインタビュー全記録をもととし資料を付して構成された。 6月、平成5年度昭和文学会 春季大会「特集 中上健次の文学」で講演「中上健次私論」。会場國學院大學。
7月、日本近代文学館主催「夏の文学教室」講演「太宰治」(お伽草紙 斜陽 人間失格)」。この夏、非自民連立政権の細川護煕内閣成立し「55年体制」と自民党の一党支配が崩壊した。『転位のための十篇』吉本隆明著 宮城賢 英文全訳Ten Poems for Transposition Takaaki Yoshimoto Translated by Ken Miyagi(宮城賢自家版)。
9月18日、大阪で「吉本隆明徹底トーク ハイ・イメージ論199X LINVE in OSAKA」、主催書砦・梁山泊。この講演会は午後1時開場、講演ののち午後9時まで討論、実施時間8時間という大きな講演会であった。9月20日から10月2日まで、中央区八重洲の八重洲ブックセンターで「思想詩人吉本隆明 吉本隆明写真パネル展」が開催された。吉田純撮影の「吉本隆明四半世紀の歩み写真パネル展」、吉本隆明の全著書展示、「吉本隆明著書年表」、吉本隆明年譜パネル、作家案内パネル等が出品された。サイン会は、先ず9月20日に八重洲ブックセンター5階特設会場で、吉本隆明著『時代の病理』(春秋社刊)。吉田純写真集『イザイホー』(ジュンフォト出版局刊)を中心に行われ盛況であった。宝島社『追悼私記』、深夜叢書社『世界認識の臨界へ』、春秋社笠原芳光著『宗教の森』等もサイン会に参加した。
10月3日、講演「私と生涯学習」、会場文京区女性センター、主催文京区教育委員会。10月28日、京都で講演「私の京都観」。
11月、吉本隆明、北山修『こころから言葉へ』弘文堂刊。
12月、『〈非知〉へ〈信〉の構造「対話篇」』(春秋社刊)。

平成6年(1994) 70歳
1月、『社会党あるいは社会党的なるものの行方』日本社会党機関紙局刊。『背景の記憶』宝島社刊。
3月、『ハイ・イメージ論3』福武書店刊。北川太一著『光太郎凝視 こつう豆本107』(日本古書通信社刊)の大半を占める「吉本隆明の『高村光太郎』−−光太郎研究草創期の私的回想−−」は、吉本隆明『高村光太郎』講談社文芸文庫の北川太一解説「隆明さんのなかの光太郎」のはじめの形の全文であるが、親友北川氏が熱い思いをこめた吉本隆明論である。
6月、講演「倫理と自然の中の透谷」上智大学図書館。『初期歌謡論』ちくま学芸文庫、筑摩書房刊。講演「物語について」リブロ、コミュニティカレッジ。村山富市内閣発足。自民党が政権に復帰する。
7月、『思想の基準をめぐって』深夜叢書社刊。日本近代文学館『夏の文学教室」講演「芥川龍之介」。
9月11日、「吉本隆明と時代を読む第3回 心について」池袋西武リブロ。
11月、『情況へ』宝島社刊。11月5日、講演「透谷と近代」透谷百年記念事業、小田原かもめ図書館。11月、京都大学大学院発行『モルフォロギア』第16号に講演「三木成夫の思想」ナカニシヤ出版発行。
12月4日、「吉本隆明と時代を読む第4回 生命について」。12月、『対幻想新装増補』聞き手芹沢俊介春秋社刊。『現在はどこにあるか』新潮社刊。『愛する作家たち』コスモの本刊。

平成7年(1995) 71歳
1月17日午前5時過ぎ、神戸、淡路中心に阪神大震災おこる。瞬時にして死者、行方不明者数千人という大被害をうけ、災害にあった人たちは、精神的にも物質的にもくらべるものがないほどの不安といたでを受けた。1月18日、講演「全共闘白書を読んで」東京、星陵会館。
2月10日、地方・小出版流通センター20周年感謝の会、幕張メッセ。講演「知」の流通−−「試行」刊行34年」。2月19、20日、ボードリヤール来日記念講演、対談が新宿紀伊国屋ホールで行われた。
 前年の平成6年6月27日、松本市で猛毒のサリンガス発生事件があったが、3月20日、月曜日の朝のラッシュ時に、営団地下鉄日比谷線、丸ノ内線、千代田線の電車内でサリン事件が起こった。オウム真理教が関与している容疑で、同教団の取調べが進められている。
4月9日、「吉本隆明と時代を読む第5回 ヘーゲルの読み方」。
5月、『試行』第73号を編集、発行する。巻頭に「情況への発言(1)−−徒党的発言の批判−−」「情況への発言(2)−−東北語と西南語の脱音現象について−−」を、ほかに長期連載「心的現象論」を書く。
6月28日、岩手の人々による息の長い「吉本隆明を読む会第63回例会」が岩手県公会堂で行われた。
7月9日、「吉本隆明と時代を読む第6回 フーコーの読み方」リブロ池袋店で講演。日本近代文学館主催、読売新聞社後援「夏の文学教室」が「戦後50年の文学」をテーマに行われ、吉本氏は、7月24日、「文学の戦後と現在−〈三島由紀夫〉〈村上龍・村上春樹〉をめぐって−」3単元、3時間の講演をした。
8月8日から12日まで、加藤典洋と対談、「戦後を超える思考」連載5回、宮崎日日新聞。8月18日、「吉本隆明 戦後50年を語る」『週間読書人』に第1回掲載。このインタビューは山本哲士、高橋順一、内田隆三、福井憲彦等を聞き手として今後、1年間の予定で連載される。企画協力は文化科学高等研究院である。社会経済、思想、文学の未来に根源的な展望を開くことが期待される。
9月3日、「FAX書簡ライブ版講演会現在をどう生きるか」吉本隆明、芹沢俊介、山崎哲、藤井東による講演と質疑応答、山梨日日新聞社、教育研究会主催、開場甲府、山梨県立文学館講堂。9月5日、7日、11日、12日、「吉本隆明氏に聞く」インタビュー弓山達也、連載4回、産経新聞。
10月、角川春樹句集『檻』朝日新聞社刊に、「句集『檻』解説」を書く。
11月、講座「芸術と文明」特別講演「詩はどこまできたか」を『三田文学会発行』第74巻第43号秋季号に発表した。11月4日、ジル・ドゥルーズ、パリの自宅で自殺。さきにパレスチナと和解を締結し、中東和平を推進してきたイスラエルのラビン首相が、4日、イスラエルの極右学生に暗殺される。11月19日、東洋大学白山祭シンポジウム「現代日本の信」が行われた。第1部基調講演として「親鸞復興」を講演した。第2部は、なだいなだ氏等4氏によるパネルディスカッションが行われた。大学側は白山祭のためのパンフレットも作成し、準備を整えて臨んだが、日曜日のためか、高齢者から団塊世代の中年、学生まで男性女性の参会者が多く盛況であった。当日、この基調講演を聴講したA氏によれば、内容は多岐にわたるが特に、蓮如と対比しての親鸞の普遍性、オウム真理教の問題、オウム事件への対応にみられる既成仏教への批判等、会場は終始快い緊張感に包まれていたとされ、K氏によれば、かなり自信をもって語っておられ、70になって戦闘的であり、気迫を感じた、とのことである。情熱をもって語りつくし、幅広い年齢層の聴衆に決定的な感銘を与えたようである。沖縄基地の縮小が求められているなか、9月、沖縄で米海兵隊兵士による少女暴行事件が起こった。太田昌秀知事を先頭に抗議運動がひろがっている。

平成8年(1996) 72歳
1月、村山富市首相退陣し、橋本龍太郎内閣成立する。13日、講演「苦難を超えるーー『ヨブ記』をめぐって」を笠原芳光らによる神戸市の「森集会」で行なう。吉本隆明、芹沢俊介対談「オウム真理教」『インタ』第6巻第1号、株式会社ソニー・マガジンズ発行。随筆「池の蓮・エノコロ草・八ツ頭」を『抒情文芸』第20巻第1号第77号に発表、抒情文芸刊行会発行。『鶴見俊輔座談』全10巻(晶文社刊)の刊行が始まり、第1、2、3、9巻にこれまでの鶴見との2対談、3鼎談、1座談会が収録される。
2月、吉本隆明、小川国夫対談「宗教論争」『文學界』2月号、文藝春秋発行。2月5日、『埴谷雄高・吉本隆明の世界』朝日出版社発行。埴谷氏と吉本氏をよく知る齋藤愼爾の責任編集であるだけに、戦後50年の年に重量感のある大きな資料が残された。「埴谷雄高の世界」の部では、埴谷氏が1944年5月に宇田川嘉彦の筆名で出版した「フランドル画家論抄」序章が、「吉本隆明の世界」の部では、吉本氏が1995年7月に行った講演「文学の戦後と現在 三島由紀夫から村上春樹、村上龍まで」(「文学の戦後と現在−〈三島由紀夫〉〈村上龍・村上春樹〉をめぐって−」を改題し、加筆)がともに柱となっている。埴谷、吉本両氏の大きな対談「意識・革命・宇宙」が収録され、また埴谷、吉本相互の作家論も興趣は尽きない。選ばれた52人ほどの文章と、カラー写真を含め一流の写真家の作品も数多く載録されて、大判のムック全体が丁寧に作られたアルバムともなっている。「杉本秀太郎分粋」全5巻、筑摩書房発行の内容見本に推薦のことば「言葉の顔」を書く。『死のエピグラム「一言芳談」を読む』(訳と注・大橋俊雄、春秋社刊)に解説「「一言芳談」について」を書く。
3月15日、吉本隆明インタビュー集成 別巻『学校・宗教・家族の病理 吉本隆明氏に聞く 聞き手、藤井東・松岡祥男・伊川龍郎』が深夜叢書社から発行された。「本書は小売価格を書店が決める自由価格本です。」と明記しているように、あまり例をみない出版物であるから、刊行の趣旨も特に原文のまま引用してみると、「いじめ、学校、家族、そして阪神大震災からオウム真理教まで……私たちはいま、どこにいるのか。世紀末世相をどこまで対象化できるのだろうか。語りおろしインタビュー」とあり、小売希望価格1400円となっている。この企画は、深夜叢書社の吉本隆明インタビュー集成全5巻別巻1のうちすでに刊行された『世界認識の臨界へ』『思想の基準をめぐって』『マルクス−読みかえの方法』につづく別巻に当たる。3月2日の朝日新聞は、文化欄のトップ記事で、「『吉本隆明』で非再販本の実験 価格は?売れ行きは?」という大きな見出しで、この著書の出版界への影響などについて検討し、新しく出る本の紹介というよりはひとつの事件として報道した。この記事の末尾に次のような著者のコメントがある。「著者の吉本隆明氏の話 商品の価値と価格との分裂が生じている今の社会にあっては、価格は消費の場面に重点を置いて決定されるべきだと私は考えている。著者の立場としては、本ができるだけ安く多くの人の手に渡ることが願望で、今回はそのための試み。私も版元も損をするかもしれないが、売れ行きなどいろいろデータをとって分析してみたい。」また、版元では、「読者のみなさまへ 自由価格本の刊行について」という読者カードを本にはさんで、自由価格にした理由を説明し、アンケートによって意見を求めている。著者の決断と、出版社側の研究により、深夜叢書社齋藤愼爾氏、入江巌氏は日本の文化の新局面を拓く先駆となるのかもしれない。いま、ぜひ読んでもらいたいこの本を、少しでも安い値段でという、単なる定価決定の次元の問題にとどまらず、こんどの自由価格本の試みは、深い根拠にたつ思想闘争の具体的な現われと思われる。本はすでに書店に出回りはじめたが、希望小売価格1400円に対して、A氏は1150円で、K氏は1190円で購入したとのことである。テレビでみると、900円台の価格で扱っているところもあるようだ。3月20日、『月刊美術』3月号「話題の[展覧会]から」欄に、「山下菊二展 人生の振幅に絶えてノ…」(談)を発表。株式会社サンアート発行。インタビュー集『世紀末ニュースを解読する』(聞き手・三上治)刊行(マガジンハウス)。本書はオウム・サリン事件とその言論情況はじめ、市民社会に生じた大きな亀裂に焦点をあて言及。
4月、吉本隆明、辺見庸対談「女のこと・セックスのこと」『クレア』(CREA)4月号、株式会社文藝春秋発行。辺見庸との対談はほかに「毛沢東が好きになった! 『毛沢東の私生活』をめぐって」『本の話』平成7年7月創刊号、文藝春秋発行。「“魔の時間”は何処へ」『サントリークォータリー』(SUNTORY QUARTERLY)第14巻2号第50号、平成7年12月、サントリー株式会社発行などがある。『野生時代』平成8年4月号終刊号、角川書店発行に吉本隆明、鈴木光司対談「小説がここから始まるために」を掲載。 「季刊iichiko」39号が「吉本隆明の文化学」を特集。同誌に「プレ・アジア的ということ」「言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移」、およびインタビュー「母型論と大洋論」(聞き手・山本哲士、高橋純一)が掲載される(6月、『吉本隆明の文化学 プレ・アジア的ということ』の題で三交社から単行本化)。
5月、11日、講演「いじめと宮沢賢治」を高崎哲学堂主催で行なう。インタビュー「未知の普遍的な言語へ」を「詩の新聞 ミッドナイトプレス」に掲載。
6月、インタビュー「ニュースの読み方」を「ダカーポ」に掲載。28日、講演「賢治の世界ーー宮沢賢治生誕百年にちなんで」を千葉県銚子高校で行なう。
7月、『消費のなかの芸ーーベストセラーを読む』刊行(ロッキングオン)。本書は平成3年3月から「CUT」に連載されたもので、「ベストセラーの本を中心に取り上げながら、現在の切実な関心事に触れようと試みた」(「自著への想い35選」)。CD-ROM版『吉本隆明「共同幻想論」を語る』刊行(ブラザー販売)。同版には中田平との同題の対談と「共同幻想論」、および中田による仏訳語の「共同幻想論」収録。24日、講演「中原中也・立原道造ーー自然と恋愛」を日本近代文学館主催の「夏の文学教室」で行なう。
8月、昭和33年以来、39年間にわたり夏の1〜2週間を家族全員で西伊豆の土肥温泉に滞在するが、3日午前10時55分ごろ、海水浴場で遊泳中におぼれる。新聞・テレビの第一報では「意識不明の重体」と報道されたが、翌日には筆談、翌々日には話せるほどに回復した。5日後に、東京の病院へ転院加療する。事故前に行われていた岡井隆との対談「文学の「遺伝子」をめぐって」を「現代詩手帖」に掲載。また、インタビュー集『宗教の最終の姿 オウム事件の解決』(聞き手・芹沢俊介)刊行(春秋社)。
9月、事故後、初めての執筆となる「溺体始末記」を共同通信(配信)に書く。
10月、『岡井隆歌集「神の仕事場」を読む』(岡井隆ほかとの共著)刊行(砂子屋書房)。本書は前年6月に行われた講演記録。
11月、『戦後を超える思考ーー加藤典洋の発言』(海鳥社刊)に加藤との対談「戦後を超える思考」が収録される。

平成9年(1997) 73歳
1月、講演集『ほんとうの考え・うその考え:賢治・ヴェイユ・ヨブをめぐって刊行』(春秋社)。本書は笠原芳光らによる聖書研究の森集会主催による講演録。
2月、吉本ばななとの対談集『吉本隆明×吉本ばなな』刊行(ロッキング・オン)。本書は初の親子対談集(司会・渋谷陽一)で、第三部は吉本ばななへのインタビューで構成。19日、埴谷雄高死去。
3月、辺見庸との対談「身体と言語」を「文學界」に掲載。
4月、「埴谷雄高さんの死に際会して」を「群像」に書く。
5月、「情況(第二期)」が「吉本隆明と柄谷行人」を特集。芹沢俊介との対談「戦後価値観をひっくり返したオウムと大震災」を「週刊エコノミスト」に掲載。
6月、「どちら側でもないー村上春樹『アンダーグラウンド』を読む」を「群像」に発表。『僕ならこう考える:こころを癒す5つのヒント』刊行(青春出版社)。本書は「平凡なようで微妙な事柄」を話体のリズムで語り下ろす。『大震災・オウム後 思想の原像』刊行(徳間書店)。本書は『超資本主義』以後に書かれた「サンサーラ」の連載を中心にまとめられた情勢論。辺見庸との対談集『夜と女と毛沢東』刊行(文藝春秋)。
7月、三木成夫著『ヒトの身体ー生物史的考察』(うぶすな書院刊)に解説「三木成夫の『ヒトのからだ』に感動したこと」を書く。21日、講演「作品にみる女性像の変遷ー透谷・漱石・鴎外から大宰・埴谷まで」を日本近代文学館主催「夏の文学教室」で行なう。
8月、インタビュー集『新・死の位相学』(聞き手・高橋康雄)刊行(春秋社)。本書は旧版刊行後の15年間の論考と新たなインタビューを加えた増補版。
9月、安原顕との対談「日本のジャーナリズムを考える」を「KODANSHA NEWS」(講談社広告局発行)に掲載。
12月、インタビュー「世紀末吉本亭」(聞き手・田近伸和)の連載が「ペントハウス」で開始され、平成12年2月号まで28回連載。『食べものの話』刊行(丸山学芸図書)。本書はマルイ農協グループの広報誌「Q」に連載された「食」の集成版。「試行」74号(終刊号)発行。創刊以来36年間にわたり発行されてきたが、この号で終刊。巻頭の「直接購読者諸氏へ」で終刊の挨拶とその理由を書く。また「情況への発言」「心的現象論(60)」を書く。

平成10年(1998) 74歳
1月、『アフリカ的段階ー史観の拡張』を私家版(非売品)として試行社から発行。「試行」の終刊にあたり同誌の直接購読者に署名入りで贈呈。本書は『母型論』の系列に続く書き下ろしの本格論考で、人類史の母型概念として「アジア的」の前段階に「アフリカ的」という普遍概念を提起、史観を拡張しようとする。「私の好きな歌」を『新潮』に書く。『遺書』刊行(角川春樹事務所)。本書は個人の死から国家・教育・文学の死まで、談話で構成される。
3月、笠原芳光との対談「戦後思想の系譜」が「木野評論」に掲載。
5月、『アフリカ的段階についてーー史観の拡張』刊行(春秋社)。1月発行の同名の私家版に「序」「あとがき」が加えられ、付録の小冊子「自著への想い35選」で自ら愛着深い自著に短評を添える。
7月、『創作のとき』(抒情文芸刊行会編、淡交社刊)に、平成4年7月のインタビュー「資本主義の死に立ち会える思想を作ること。これが現在の課題です。」が収録される。
8月、21日、田村隆一死去。
9月、『父の像』刊行(筑摩書房、ちくまプリマーブックス)。本書は文学作品に描かれた父性像を語り、自身を素材とした父と子の関係を自伝的に書き下ろす。25日、講演「日本アンソロジーについて」を東京・文京区立鴎外記念本郷図書館で行なう(斎藤清一が同題の小冊子に掲載。刊行年月日不明)。
11月、小川国男との対談集『宗教論争』刊行(小沢書店)。
12月、25日、糸井重里が6月から開設していたウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」に、吉本の談話コーナー「まかないめし」(聞き手・糸井)が設けられる(http://www.1101.com/makanai/)。

平成11年(1999) 75歳
3月、『ミシェル・フーコーと「共同幻想論」』(中田平と共著)刊行(丸山学芸図書、後に光芒社に改称)。本書に中田との対談「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」、および中田たか子、萩野正昭との鼎談「吉本隆明『共同幻想論』を語る」が収録される。『詩人・評論家・作家のための言語論』刊行(メタローグ)。本書で三木成夫の身体理論を踏まえた言語論の体系化が一層進められる。
4月、『匂いを讀む』刊行(光芒社)。
5月、山折哲雄との対談「親鸞、そして死ー思想と信仰のはざまで」を「アエラムック」の「親鸞がわかる」に掲載。インタビュー「20世紀を大総括する人生相談 吉本隆明〈悪人正機頁〉(構成・糸井重里)の連載が「週刊プレイボーイ」で開始され、翌年1月1・12日合併号まで32回掲載される。「資料・米沢時代の吉本隆明について」(監修・斎藤清一)の「その一」が斎藤の自家版として刊行される。本冊子は「その七」まで発行され、インタビュー「吉本隆明氏、米沢時代を大いに語る」ほかを収録。『少年』刊行(徳間書店)。本書は自らの少年期を自伝的に記述し、かつ現在の少年の社会的事件に言及。
6月、「不況と「リストラ」の話」を「群像」に、「交友を絶つ決定的な“その日”」を「新潮45」に発表。
7月、インタビュー「『少年』を刊行した吉本隆明氏」を共同通信で配信。『現在をどう生きるか』(藤井東、芹沢俊介との共著)刊行(ボーダーインク)。21日、江藤淳自死。
9月、「江藤淳記」を「文學界」の「追悼・江藤淳」に、「江藤さんの特異な死」を「文藝春秋」に書く。『僕なら言うぞ! 世紀末ニッポンの正しい眺め方、つきあい方』刊行(青春出版社)。本書は『僕ならこう考える』のいわば生き方編に対し、語り下ろし社会問題編。インタビュー集『私の「戦争論」』(聞き手・田近伸和)刊行(ぶんか社)。本書は、敗戦後に論及した戦争責任論以来の新「戦争」論。
10月、インタビュー「贈与の新しい形」(聞き手・赤坂憲雄)を「東北学」に掲載。
11月、インタビュー「吉本隆明『一言芳談』『歎異抄』を読む」(聞き手・渋谷陽一)を「ロッキング・オン・ジャパン」増刊号の「SIGHT」秋号に掲載。これは「古典を読む」シリーズの第1回目で、翌年7月の夏号まで『花伝書』『十七条憲法』『トーテムと命名』と続く。朝日新聞連載コラム「いつもそばに、本が」に三週連続で書く。
12月、『〈決定版〉親鸞』刊行(春秋社)。本書は親鸞について言及した集大成版。加藤典洋との対談「2000年をまえに」を毎日新聞に3回掲載。

平成12年(2000) 76歳
2月、田近伸和著『苦悩する科学』に推薦文「田近さんは、日本で屈指のインタビュアーだ」を書く。
3月、『私は臓器を提供しない』(洋泉社新書y)に談話「考えるべきいちばんのポイントはなにか」が収録される。「吉本隆明資料集」(松岡祥男編集、猫々堂刊)の刊行が始まる。本資料集は、単行本未収録の鼎談や座談会を集成(平成15年11月、第33集刊行。第29集から「試行」第16号以降の復刻版を刊行中)。
4月、「偲大原富枝」を「群像」の特集「追悼・大原富枝」に書く。「吉本隆明が読む近代の名作」の連載が「毎日新聞」4月3日号から始まり、翌年3月25日号まで49回掲載。また、「吉本隆明TVを読む」の連載が「朝日新聞」4月16日号から始まり、翌年3月25日号まで、ほぼ隔週で21回掲載。
6月、『中学生の教科書ーー美への渇き』(宗茂、多田富雄ら六人との共著)刊行(四谷ラウンド)。本書で吉本は、社会、国語を担当。『写生の物語』刊行(講談社)。短歌の「起源以前」から、「短歌の現在」、および“短歌の死後”まで論及する短歌論。
7月、大塚英志との対談集『だいたいで、いいじゃない』刊行(文藝春秋)。本書はサブカルチャーから持病の糖尿病まで、対談による情況論集。
8月、「ファクス書簡ーー『十七歳ということ』を読んで」を山梨日々新聞」に書く。
9月、平成7年8月から掲載された「週刊読書人」のロングインタビュー、「吉本隆明 戦後五十年を語る」が9月8日号、225回をもって終了。インタビュー集『超「20世紀論」』(上・下)(聞き手・田近伸和)刊行(アスキー)。同書は「ペントハウス」に平成9年12月号から連載の「世紀末吉本亭」をまとめたもので、20世紀末に起きたさまざまな事象を読み解く。「日本資本主義に逆らう“独立左翼”」(構成・三上治)を『シリーズ20世紀の記憶 60年安保・三池闘争』(毎日新聞社刊)に掲載。
10月、インタビュー「時代と向き合う」の連載が「ロッキング・オン・ジャパン」増刊号「SIGHT」で開始。17日、「60年安保闘争」当時のブント(共産主義者同名)書記長だった島成郎が死去。追悼文「「将たる器」の人」を「沖縄タイムス」に書く。三好春樹との対談集『〈老い〉の現在進行形 介護の職人、吉本隆明に会いに行く』刊行(春秋社)。本書は、リハビリ中の吉本自身が体験を踏まえながら老人問題・障害・介護などを語る。長谷川宏との対談「マルクスはヘーゲルを超えたか」を『思想読本1 ヘーゲル』(作品社刊)に掲載。
11月、三日、講演「言語デザインとしての現代詩」を京都国立国際会館で行なう。『吉本隆明が語る戦後55年』(吉本隆明研究会編集)のシリーズ(全12巻、別巻1)が三交社から刊行開始される。本シリーズは「週刊読書人」の長期インタビュー「吉本隆明 戦後五十年を語る」を改題、また、新たなインタビューの「現在への発言」も各巻で併載。
12月、インタビュー「私の子育て論ーー親密な親子関係をどうつくるか」を「致知」に掲載。「週刊朝日」別冊「小説トリッパー」が「進化する〈吉本隆明〉」を特集。

平成13年(2001) 77歳
1月、13日、本田秋五死去。
2月、「詩学叙説ーー七五調の喪失と日本近代詩の百年」を「文學界」に発表。
3月、「本田秋五さんの死」を「群像」の「追悼・本田秋五」に書く。『幸福論』刊行(青春出版社)。本書で老齢期の不安や「幸福論」「不幸論」を語り下ろす。
4月、インタビュー「絶対に違うことを言いたかった」を「新潮」臨時増刊の「小林秀雄特集」に、同じくインタビュー「明快に解く老いと死の悩み」を「読売新聞」に掲載。『日本近代文学の名作』(構成・大井浩一、重里徹也)刊行(毎日新聞社)。本書は前年「毎日新聞」に連載されたもので、談話からの構成による24の作品・作家論を展開。23日〜24日、NHK教育テレビが「吉本隆明がいま語るー炎の人・三好十郎」を放映。
5月、糸井重里との対談「『日本近代文学の名作』をめぐって」を「毎日新聞」に掲載。
6月、インタビュー集『悪人正機』(聞き手・糸井重里)刊行(朝日出版社)。本書は「週刊プレイボーイ」連載の「20世紀を大総括する人生相談」をもとに構成された人生相談スタイルの談話集。講演集『心とは何か 心的現象論入門』刊行(弓立社)。
7月、『死の準備』(洋泉社新書y)に談話「死を迎える心の準備なんて果たしてあるのか」が収録される。インタビュー「小林秀雄の近代批評」(聞き手・山本哲士)を「季刊 iichiko」71号に掲載。
8月、高山文彦との対談「「荒地」とその時代」を「本の旅人」に掲載。談話「J・H・ファーブル『昆虫記』を「文藝春秋」の特集「達人が選んだ「もう一度読みたい」一冊」で掲載。栗本慎一郎との対談「死線を超えて」が「産経新聞」8月22日号〜31日号まで十回掲載される。
9月、9日、郡山市在住の川上春雄が、心不全のため死去。同氏は昭和30年に『荒地詩集1955』で吉本の詩に出会って以来46年間、吉本の理解者であり、また徹底性と持続性で吉本資料の発掘者であった。11日、アメリカで同時多発テロ発生。『今に生きる親鸞』刊行(講談社プラスアルファ新書)。本書は親鸞の生涯・言葉などを語り下しで構成。『吉本隆明 全講演ライブ集』の刊行が「吉本隆明全講演CD化計画」で始まる。全二百講演が用意され、平成15年7月までにCD「アジア的ということ」「夏目漱石(上・下)」「親鸞・良寛・ヴェーユ」「農業論」「親鸞ー『最後の親鸞』以後」、およびビデオ版の「資本主義はどこまでいったか」を刊行(各巻に冊子の講演録付き)。第一期に続き、第二〜三期も予定されている。
10月、奈良智美との対談「世界の窓を開く〈表現〉」を「ユリイカ」に掲載。談話「戦中派・吉本隆明の宰相論」を「論座」に、談話「見識を持つ」を「致知」に掲載。
11月、「同時多発テロと戦争」を「文學界」に発表。『食べもの探訪記』刊行(光芒社)。本書は『食べものの話』を改題した増補改訂版。『読書の方法 なにを、どう読むか』刊行(光文社)。
12月、「川上春雄さんのこと」を「詩の雑誌 ミッドナイトプレス」に、「川上春雄さんを悼む」を「ちくま」に発表。

平成14年(2002) 78歳
1月、加藤典洋との対談「存在倫理について」を「群像」に掲載。アメリカの同時多発テロを受けて、新しい倫理としての「存在倫理」に言及。インタビュー「テロが追い込んだ日本の政治」(聞き手・渋谷陽一)を「ロッキング・オン・ジャパン」増刊号「SIGHT」に掲載。書評「石川九楊著『日本書史』を読む」を「週刊読書人」に書く。
2月、「反骨の数学者 遠山啓」を「文藝春秋」の特集「80人の心に残る鮮やかな日本人」で発表。岡井隆著『吉本隆明をよむ日』(思潮社刊)に、二つの対談「定型・非定型の現在と未来」「日本語の遺伝子をめぐって」が収録される。インタビュー集『この人が語る不登校』(講談社刊)に「コンプレックスにしてしまうのはつまらない」が収録される。『ドキュメント吉本隆明1』(弓立社刊)に「情況への発言」がCD版から再録され、これまでの三講演「〈アジア的〉ということ」「アジア的ということーーそして日本」「アジア的と西欧的」および論稿の「アジア的ということ」が集約される。また「特集 追悼・川上春雄さん」が編まれ、「川上春雄さんを悼む」を再録。
3月、宿沢あぐり編「吉本隆明講演リスト1 1960年代」が宿沢の自家版として発行される。吉本の全講演の日程・主催者・講演会場・掲載誌等を追跡調査している。
4月、「吉本隆明が読む現代日本の詩歌」の連載が4月7日号から開始され、翌年4月6日号まで四十九回掲載。談話からの構成によるもので第1回は「現代詩とは何か」。『吉本隆明のメディアを疑え』刊行(青春出版社)。本書の副題は、「あふれる報道から「真実」を読み取る法」。
6月、「私の視点ーー小泉内閣 裏切り続ける民衆の期待」を「朝日新聞」に発表。『ブント書記長 島成郎を読む』(情況出版刊)に「「将たる器」の人」が再録される。『老いの流儀』(構成・古木杜恵)刊行(NHK出版)。自身のリハビリ体験から文学作品に描かれた「老い」にいたるまで、談話による「老いの生き方」論集。
7月、『吉本隆明が語る戦後55年』(三交社刊)の別巻『高度資本主義国家 国家を超える場所』に、インタビュー「国家と言語ーー『ハイ・イメージ論』を語る」(第一部「都市の変貌と超資本主義」、第二部「言語にとっての国家以後と国家以前」聞き手・山本哲士)が掲載される。「朝日新聞」29日夕刊に、インタビュー記事「ほがらか評論家・吉本隆明さん」が掲載される。「年に数冊も本を出すから、もう体がよくなったんじゃないかと思われるけど不自由です。左手で拡大鏡を持って、右手で原稿用紙に書きます。だから、自分で書くのは半分、あとはおしゃべりしたのを編集者に再現してもらっています」と近況を語る。
8月、インタビュー「私の文学 批評は現在をつらぬけるか」(聞き手・田中和生)を「三田文學」に掲載。「トルコ戦に負けて考えたこと」を「文學界」に発表し、サッカーのワールドカップに言及。『胸中にあり火の柱 三浦つとむの残したもの』(明石書店刊)に、三浦つとむ告別式での弔辞「別れの言葉」が収録される。
10月、小森陽一、石原千秋との鼎談「一郎的な言葉を生きること」を「漱石研究」15号の特集「行人」掲載。
11月、インタビュー集『超「戦争論」』(上・下)(聞き手・田近伸和)刊行(アスキー・コミュニケーション)。9・11同時多発テロ以後の新しい戦争と国家の問題に言及する。講演集『夏目漱石を読む』刊行(筑摩書房)。本書には日本近代文学館主催「夏の文学教室」と「紀伊國屋セミナー」における四講演が収録される。『ドキュメント1』(『ドキュメント吉本隆明1』を改題、弓立社刊)に「情況への発言」が再録され、また「続・アジア的ということ」の特集に、これまでの論考ほかが集成される。
12月、『ひきこもれ ひとりの時間をもつということ』刊行(大和書房)。『日本の歴史24 戦後と高度成長の終焉』(講談社刊)の月報に「戦後史の難点とは」を書く。

平成15年(2003) 79歳
2月、『日々を味わう贅沢』刊行(青春出版社)。本書の副題は「老いの中で見つけたささやかな愉しみ」で、タウン誌ほかに断続的に書かれた自伝的エッセイや掌編などから構成。『語るには若すぎますが』(河出書房新社刊)に「ニッポンを覆う“戦後ボケ”大切なのは言い続けること」が収録される。
4月、中沢新一著『チベットのモーツアルト』(講談社学術文庫)に解説を書く。『現代日本の詩歌』(構成・大井浩一、重里徹也)刊行(毎日新聞社)。本書は前年4月から1年間、「毎日新聞」に連載された談話からの構成による「吉本隆明が読む現代日本の詩歌」をまとめたものである。
5月、檀一雄著『大宰と安吾』(バジリコ刊)に解説を書く。片島紀男著『悲しい火だるま 評伝三好十郎』(NHK出版)に序文「三好十郎のこと」を書く。
6月、「日本の島 島宇宙が育む日本文化、再発見」を「別冊太陽」に書く。糸井重里のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の「まかないめし番外」で十八日からインタビュー掲載(聞き手・糸井、連続6回)。
7月、安達史人インタビュー集『言語空間の遠近法』(右文書院刊)に「文学者の課題」が収録される。「記が陣営25」が「吉本隆明という解放区」を特集。『吉本隆明全詩集』刊行(思潮社)。
8月、インタビュー「吉本隆明さんが語る「人生の作法」」を「週刊新潮」に掲載。
9月、「現代詩手帖」が「詩人、吉本隆明」を特集。同号にインタビュー「わたしのものではない〈固有〉の場所に」(聞き手・芹沢俊介)も併載。『夏目漱石を読む』(筑摩書房刊)で第2回小林秀雄賞を受賞。「週刊新潮」9月11日号に「受賞者の言葉」掲載。「ほぼ日刊イトイ新聞」5周年記念講演会「智慧の実を食べよう。300歳で300分」で講演。『吉本隆明全詩集』の刊行を機にインタビュー記事「吉本隆明 詩と人生」を「読売新聞」に掲載(上・下)。『吉本隆明全詩集』で、第41回藤村記念歴程賞を受賞。インタビュー記事「批評の骨格にあった詩」を「朝日新聞」に掲載。
10月、「現代詩手帖」が「吉本隆明とはなにか」を特集。同号でインタビュー「「遠い自註」にうかぶ舟ーー『記号の森の伝説歌』について」(聞き手・芹沢俊介)、「吉本隆明代表詩27選」も併載。「新潮」の特集「折口信夫没後五十年」で「折口信夫のこと」を書く。第2回小林秀雄賞受賞者インタビュー「沈黙しないという原則を作ってくれた人」を「考える人」秋号(十月発売)に掲載(『夏目漱石を読む』の抄録も併載)。「現代詩手帖」別冊の「高橋源一郎」に「高橋源一郎についてー完熟の詩人」を書く。インタビュー「引きこもりを悪と見做してしまったらロクなことは起きない」(聞き手・渋谷陽一)を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」10月増刊号、第17巻第15号 巻第251号)」に掲載。
11月、インタビュー「歴史時間を巨視化してとらえなおす:現在への発言」を『吉本隆明が語る戦後55年 12』(三交社刊)に掲載。『現代詩手帖臨時増刊「吉本隆明」(3) 吉本隆明入門』刊行(思潮社)。
12月、7日、「東京新聞」に「私のデビュー時代:自己慰安から普遍性へ」を掲載。講演「普通に生きること」DVD版(「ほぼ日刊イトイ新聞」創刊五周年記念超時間講演会(2003年9月13日東京国際フォーラム)智慧の実を食べよう。300歳で300分:吉本隆明 谷川俊太郎 藤田元司 詫磨武俊 小野田寛郎(Disc1+Disc2)のPart1に収録)刊行(バップ刊)。森山公夫との談話による共著『異形の心的現象:統合失調症と文学の表現世界』刊行(批評社)。「〈真の人間的解放〉とはなにか―新しい歴史観の創造:吉本隆明氏インタビュー」(聞き手・津森和治)を「別冊Niche(ニッチ)特集9・11/3・20以降の世界史と日本の選択」に掲載。遠藤ミチロウとの対談「持続あるのみ。やめたら、おしまい」が『我自由丸―ガジュマル―』(星雲社刊)に収録される。

平成16年(2004) 80歳
1月、中沢新一との対談「心と言葉、そのアルケオロジー」を「群像」新年号に掲載。講演「普通に生きること」が『智慧の実を食べよう。』(ピア刊)に収録される(「この本は、2003年の秋に東京国際フォーラムで行われたイベント『智慧の実を食べよう。』という超長時間講演会の記録をもとにして編集されたものだ。」糸井重里「前書きのかわりに」より)。インタビュー「漱石を論じていきながら、自分というものが解けていく。そういう感じはありましたね」(聞き手・渋谷陽一)を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」1月増刊号、第18巻第1号通巻第255号)」に掲載。『「ならずもの国家」異論』(編集協力・松崎之貞、山口哲夫)を刊行(光文社)。
2月、「詩学序説・続:初期象徴詩の問題」を「現代詩手帖」2月号に掲載。CD版『吉本隆明全講演ライブ集 第7巻 ヘーゲル、フーコー、その他』を刊行(弓立社)。談話や講演を収録した『心とは何か』を刊行(弓立社)。「詩と思想の60年:ロングインタビュー」(聞き手・加藤典洋、高橋源一郎、瀬尾育生)を「文藝別冊:吉本隆明;詩人思想家の新たな全貌(KAWADE夢ムック)」に掲載。下血による緊急入院でS字結腸部分の虚血性大腸炎と診断され、その時の内視鏡検査により横行結腸に見つかったガンの摘出手術を受ける。
3月、「空閑地」を「東京人」200号記念特集「東京からなくなったもの:消えた街角、思い出の風景」の「街の風景」のコラムに掲載。
4月、『母型論〈新版〉』および『吉本隆明代表詩選』を刊行(いずれも思潮社)。
6月、斎藤清一編著『米沢時代の吉本隆明』が刊行(梟社)される。
7月、『漱石の巨きな旅』を刊行(日本放送出版協会)。インタビュー記事「「大衆の味方」媚びず美化せず」を朝日新聞(夕刊)に掲載。
8月、講演を二つ収録した『戦争と平和』を刊行(文芸社)。『吉本隆明全講演ライブ集〈ビデオ版〉2 わが月島』を刊行(弓立社)。
9月、語り下し『超恋愛論』を刊行(大和書房)。インタビュー記事「自分だけの「あの味」を追い求めて」(聞き手・宇田川悟)を「サントリークォータリー」76号の連載インタビュー「食は人なり、酒は人なり」第4回に掲載。
10月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第1回『固有時との対話』『転位のための十篇』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」10月増刊号、第18巻第13号通通巻第267号)」に掲載。
11月、インタビュー(聞き手・武田憲人)「散歩者インタビュー:吉本隆明」を「散歩の達人」第9巻11号に掲載。(インタビュー・構成 高橋誠)「一夫一婦制は人類の理想 差別のある社会では難しい」を「Yomiuri Weekly」第63巻48号(2004年11月14日)に掲載。「中原中也について」を『新編中原中也全集別巻』(角川書店)の「月報」に掲載。
12月、「私の書斎空間」取材(相庭泰志)記事として「雑音だけでなく、雑用なんかも入ってくる。それが昔から慣れ親しんだ僕の書斎の形なんだ。」を「男の隠れ家」第8巻12号に掲載。談話「漱石の巨きさ」を「文芸春秋」第82巻16号(12月臨時増刊号)に掲載。2001年6月、朝日出版社より刊行された単行本に、新たに最終章「病院からもどってきて」を語り下ろした新潮文庫版『悪人正機』(新潮社)を刊行。『吉本隆明全講演ライブ集8宮沢賢治』を刊行(弓立社)。

平成17年(2005) 81歳
1月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第2回『マチウ書試論』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」1月増刊号、第19巻第1号通通巻第271号)」に掲載。近代と戦後詩の詩人たちをめぐる小論を集めた『際限のない詩魂:わが出会いの詩人たち』(詩の森文庫001)を刊行(思潮社)。取材(石川雅彦、豊間根功智〔写真〕)記事「新しい幸せのかたち:将来よりも今を味わう」を「AERA」第18巻3号(通巻第904号)に掲載。
2月、松岡祥男編集・解説『吉本隆明対談選』(講談社文芸文庫)を刊行(講談社)。『高村光太郎(飯塚書店版)』(吉本隆明資料集 43)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。佐藤 研、笠原芳光との鼎談「思想から」が『イエスとはなにか』(春秋社)に収録される。田中和生との対談「江藤淳よ、どうしてもっと文学に生きなかったのか」を「三田文学」第84巻80号に掲載。日本国憲法第9条改定、温暖化問題、教育問題についてのアンケートに対する回答を「広告批評」290号の「68人アンケート」に掲載。
3月、幻想を含めた「中学生」にたいする贈物として『中学生のための社会科』を刊行(市井文学)。宇田川 悟によるインタビュー本『吉本隆明「食」を語る』を刊行(朝日新聞社)。『日本現代詩論争史』(吉本隆明資料集 44)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。「吉本隆明全講演ライブ集 第9巻 25年目の全共闘論、その他」を刊行(弓立社)。「家訓の重圧に耐えられるか」を「文藝春秋」第83巻3号に掲載。宇田川 悟によるインタビュー(構成=丸本忠之 写真=佐藤謙吾)「哲学者の食卓」を「一冊の本」第10巻3号に掲載。
4月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第3回『高村光太郎』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」4月増刊号、第19巻第1号通巻第275号)」に掲載。『抵抗詩・国鉄王国をやぶれ』(吉本隆明資料集 45)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
5月、インタビュー(聞き手・古川雅子)「コンビニまで歩けるようになったらキャラメルを買って食べたい:私はコンビニをこう考える」を「AERA:Go! Go! コンビニライフ」(増刊号)に掲載。『吉本隆明歳時記 新版』および『戦後詩史論 新版』を刊行(思潮社)。
6月、インタビュー(取材・文 山田清機)「吉本隆明が吠えた!:戦中派にして戦後思想界の巨人が狂牛病問題を“一刀両断”」を「月刊サーカス:CIRCUS」第2巻6号に掲載。聞き書き「猫の肉球に関する考察」を「猫びより」22号(2005年7月号)に掲載。『丸山真男論(一橋新聞初出)』(本隆明資料集 46)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。序文「藤井東先生のこと」(藤井東著『ここって塾!?』春秋社、所収)を発表。芹沢俊介との『対談 21世紀の対幻想について』を刊行(彩流社)。
7月、「頭が危なっかしくなったら:『聖書』」を「文藝春秋」第83巻9号に掲載。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第4回『芸術的抵抗と挫折』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」7月増刊号、第19巻第9号通巻第279号)」に掲載。『6・15事件 思想的弁護論』(吉本隆明資料集 47)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。高岡 健との対談『時代病』を刊行(ウェイツ)。「老いの幸福感:時間を細かく刻む」を「北海道新聞(夕刊)」7月19日号に掲載。
8月、「『新約聖書』:戦争体験者に聞く「心にしみた一冊」を「週刊文春」第47巻31号に掲載。松岡祥男との対談「テレビはもっと凄いことになる」(初出『TBS 調査時報』1989年10月号)および「宮沢賢治は文学者なのか」(初出『鳩よ!』1990年11月号)が松岡祥男著『猫々堂主人:情況の最前線へ』(ボーダーインク刊)に収録される。向井吉人、尾崎光弘によるインタビュー本『子供はぜーんぶわかってる:超「教師論」・超「子供論」』を刊行(批評社)。石川九楊著『「二重言語国家・日本」の歴史』(青灯社)の帯に推薦文を書く。
9月、『共同幻想論(『文芸』初出)』(吉本隆明資料集 48)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。『吉本隆明全講演ライブ集 第10巻 森 鴎外』を刊行(弓立社)。『13歳は二度あるか:「現在を生きる自分」を考える』を刊行(大和書房)。
10月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第5回『擬制の終焉』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」10月増刊号、第19巻第14号通巻第284号)」に掲載。『情況【上】(『文芸』初出)』(吉本隆明資料集 49)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。浮海啓詩集『夜風が運ぶメモリー』(砂子屋書房)の帯に推薦文「浮海啓第一詩集を推す」を書く。
11月、『情況【下】(『文芸』初出)』(吉本隆明資料集 50)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。取材(高橋直彦)記事「肉フライ:吉本隆明さんお品書き」を「読売新聞」11月14日号に掲載(「Web版読売新聞」の掲載日付は11月15日)。『岡井隆全歌集全4巻』(思潮社)の内容見本に「高次の短歌的表現」を書く。
12月、石関善治郎との対談「路地の家に移り住んで:石関善治郎『吉本隆明の東京』(作品社)の刊行に先立って」を「週刊読書人」12月9日号に掲載。『書物の解体学【上】(初出)』(吉本隆明資料集 51)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー(聞き手・新井敏記、写真・ホンマタカシ)「吉本隆明翁に会いに行く。」を「Coyote:コヨーテ」第9号に掲載。石関善治郎著『吉本隆明の東京』が刊行(作品社)される。『吉本隆明全講演ライブ集 第11巻 都市論としての福岡、その他』を刊行(弓立社)。

平成18年(2006) 82歳
1月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第6回『言語にとって美とはなにか』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」1月増刊号、第20巻第1号通通巻第289号)」(26巻Winter)に掲載。『書物の解体学【中】(初出)』(吉本隆明資料集 52)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。『詩学叙説』を刊行(思潮社)。推薦文「秋山清賛」を「秋山清著作集」内容見本(ぱる出版)に掲載。献辞「わたしの毛利ユリ」を『黒色●虚彩:anachro anarchy;’55毛利ユリ〜’05榑松栄次』(ひくまの出版、収録)に書く。
2月、「『もう一度』はだめ、暗たんたる状況」を「京都新聞(夕刊)」2月4日号に掲載。
3月、「詞人と詩人」を「広告批評」第302号に掲載。『家族のゆくえ』を刊行(光文社)。詩論を集めた『詩とはなにか:世界を凍らせる言葉』(詩の森文庫C06)を刊行(思潮社)。『書物の解体学【下】(初出)』(吉本隆明資料集 53)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。『カール・マルクス』(光文社文庫)を刊行(光文社)。辺見 庸との対談『夜と女と毛沢東』(光文社文庫)を刊行(光文社)。弓立社編「吉本隆明全講演ライブ集 第12巻 ボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る、その他」を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。
4月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第7回『共同幻想論』」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」4月増刊号、第20巻第6号通通巻第294号)」(27巻Spring)に掲載。『聞書・親鸞(初出)』(吉本隆明資料集 54)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー「「理想」の可能性」を『人生へんろ:「いま」を生きる30の知恵』(講談社)に収録。大山誠一によるインタビュー「歴史の「事実」をめぐって」を『アリーナ2006』(人間★社)に掲載。
5月、芹沢俊介、菅瀬融爾、今津芳文によるインタビューと三氏の論考からなる『還りのことば:吉本隆明と親鸞という主題』を刊行(雲母書房)。『読書の方法:なにを、どう読むか』(知恵の森文庫)を刊行(光文社)。『〈戦後〉経済の思想的批判・初期歌謡』(吉本隆明資料集 55)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。佐藤信也(ライフサポート社)によるインタビューと過去の著作の「語録集」を含む『老いの超え方』を刊行(朝日新聞社)。
6月、弓立社編「吉本隆明全講演ライブ集 第13巻 古典論」を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。談話「あの行動力の背後」を佐野眞一編『戦後戦記:中内ダイエーと高度経済成長の時代』(平凡社)に収載。「言語論要綱――芸としての言語」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」7月増刊号、第20巻第10号通巻第298号)」(28巻Summer)に発表。森 繁哉との対談「移行する身体――歌や言葉のこと――」を「舞台評論」第3巻に掲載。
7月、宮川匡司によるインタビュー「吉本隆明、大病からの復活:老い見つめ未踏を思索」を「日本經済新聞」7月1日号に掲載。『心的現象論:眼の知覚論・身体論』(吉本隆明資料集 56)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話「もう一山、当てたいって人も」を「毎日新聞(夕刊)」7月10日号に掲載。『初期ノート』(光文社文庫)を刊行(光文社)。自筆署名題字、府立化学工業学校5年生時の集合写真、最近の書斎机上撮影写真および略年譜を付した談話「ぼくのしょうらいのゆめ」を高野麻結子編『ぼくのしょうらいのゆめ』(プチグラパブリッシング)に掲載。
8月、インタビュー(聞き手◎田中利夫 写真◎曽根雄司)「詩歌のゆくえ:聞き書き―詩歌の潮流 第8回」を「俳壇」第23巻9号に掲載。追悼文「清岡卓行を悼む」を「群像」第61巻8号に発表。談話「マネー 格差は資本主義の必然:この先の日本 戦後61年・夏 第1部 原点はどこに(4)」を「高知新聞」8月5日号に掲載。『遠い自註(連作詩篇)』(吉本隆明資料集 57)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。小山雅史によるインタビューを構成した「「最速本探し」イモヅル式と目次分析法:吉本隆明、田中里沙らが実践する所望の一冊の検索法」を「プレジデント」第44巻7号に掲載。談話「辺見庸は沈黙せず:ひとり、地をはう抵抗」を「AERA:アエラ」第19巻37号に掲載。『アフリカ的段階について:史観の拡張[新装版]』を刊行(春秋社)。東京工業大学の8月4日付「世界文明センター人文学院フェローの公募」によれば、その担当業務に「人文学院特任教授の吉本隆明氏の自宅に出向き,「芸術言語論」の連続レクチャーをビデオに収め,編集する.2007年4月以降,このビデオを素材に,「吉本隆明を読む」といった講義を,非常勤講師として担当いただけるなら,なお好都合です. 」と書かれている。
9月、中沢新一との対談「超人間、超言語」を「群像」第61巻9号に掲載。談話「靖国論争にとらわれては日本は変わらない」を「サンデー毎日」9月3日号に掲載。『島尾敏雄の世界』(吉本隆明資料集 58)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第8回「花田清輝との論争」」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」10月増刊号、第20巻第10号通通巻第303号)」(29巻Autumn)に掲載。『甦えるヴェイユ』(洋泉社MC新書)を刊行(洋泉社)。弓立社編「吉本隆明全講演ライブ集 第14巻 西欧の文学と思想」を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。談話「吉本隆明さんと考える現代の「老い」:漂流する風景の中で」を「朝日新聞」9月19日号に掲載。推薦文「現代詩最後の古典」を「立原道造全集【全5巻】新装版内容見本」(筑摩書房)に掲載。
10月、『心的現象論 関係論』(吉本隆明資料集 59)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。[吉本隆明(聞き手)笠原芳光『思想とはなにか』]刊行広告文を春秋社のチラシに掲載。笠原芳光との対談『思想とは何か』を刊行(春秋社)。東京工業大学において4月に発足した世界文明センターの特任教授に招かれ、ビデオ講義で「言語芸術論」を担当(「東京工業大学世界文明センター 2006年度後期 学習案内(世界文明センター提供科目一覧)」)。
11月、「心身健康な時代の太宰治:『富嶽百景』太宰治 新潮社」を「小説現代」第44巻13号に掲載。今野哲男によるインタビュー『生涯現役』(洋泉社新書)を刊行(洋泉社)。『色材論・初期化学論文』(吉本隆明資料集 60)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。弓立社編「吉本隆明全講演ライブ集 第15巻 シンポジウム 太宰治論」を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。1966年5月14日と7月2日の2回にわたって行われた講演録「吉本隆明・講演『表現論』――'66コンミューン・春の講座」を「アナキズム」を第8号に掲載。『日時計篇 I』(『吉本隆明詩全集2:1950』)および『定本詩集』(『吉本隆明詩全集5:1946-1968』)を刊行(思潮社)。
12月、『ひきこもれ:ひとりの時間をもつということ』(だいわ文庫)を刊行(大和書房)。『太宰治試論・情況の根源から』(吉本隆明資料集 61)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー(記事:宮川匡司)「「物書き」よりも「生活者」として」を「日経マガジン:日本経済新聞第2部[THE NIKKEI MAGAZINE]」27(12月17日)号に掲載。

平成19年(2007) 83歳
1月、インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「9条と日本の戦後思想」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」1月増刊号、第21巻第1号通通巻第307号)」(30巻Winter)に掲載。談話「いじめ自殺 あえて親に問う:虐める子も虐められる子も育て方が問題だ」を「文藝春秋」第85巻1号に掲載。エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(1)正月仕度」を「dancyu」第17巻1号に掲載。思想解題『思想のアンソロジー』を刊行(筑摩書房)。弓立社編「吉本隆明全講演ライブ集 第16巻 昭和の批評と詩」を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。
2月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(2)味についてあれこれ」を「dancyu」第17巻2号に掲載。『僧形論・武門論』(吉本隆明資料集 62)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。辻本充子によるインタビューをとりまとめた『真贋』を刊行(講談社インターナショナル)。エッセイ「銀座の思い出」を「銀座百点」第627号に掲載。『記号の森の伝説歌』(『吉本隆明詩全集6:1975-1986』)を刊行(思潮社)。
3月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(3)アジア的な香辛料」を「dancyu」第17巻3号に掲載。『戦後詩の体験・宮沢賢治論』(吉本隆明資料集 63)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話「長老の智慧 吉本隆明 その1【全3回】W杯での敗戦は日本社会の解体の象徴のようだった」を「週刊東洋経済」6070号に掲載。談話「長老の智慧 吉本隆明 その2【全3回】国家が関与して銭を出す、そんなものには頼りたくない」を「週刊東洋経済」6071号に掲載。談話「本を語る 『思想のアンソロジー』の吉本隆明さん:書き下ろし「これぞ吉本」」を「京都新聞」3月18日号に掲載。談話「長老の智慧 吉本隆明 その3【全3回】歴史や過去、未来を見つめる。それがなければ表現にならない」を「週刊東洋経済」6072号に掲載。
4月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(4)豚ロース鍋のこと」を「dancyu」第17巻4号に掲載。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第9回「心的現象論」」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」4月増刊号、第21巻第6号通巻第312号)」(31巻Spring)に掲載。インタビュー(聞き手・高橋純子)「吉本隆明、まだ考え中」を「論座」第143巻に掲載。インタビュー(聞き手・高橋忠義)「てんとう虫インタビュー:吉本隆明」を「てんとう虫:UC Card magazine」第39巻4号に掲載。『新詩集以後・言葉からの触手』(『吉本隆明詩全集7:1970-1994』)を刊行(思潮社)。弓立社編『吉本隆明全講演ライブ集〈DVD版〉第17巻 ハイ・イメージ論199X』を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。『小林秀雄・芥川龍之介における虚と実』(吉本隆明資料集 64)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。『西川徹郎句集:決定版 無灯艦隊ーー十代作品集』の帯に推薦文を掲載。白石明彦による取材記事「若い詩人と自然:感受性の喪失嘆く吉本氏」を「朝日新聞」4月21号に掲載。インタビュー(聞き手・西井泰之)「米国型より身近な平等を:「分裂にっぽん」番外インタビュー」を「朝日新聞」4月28日号に掲載。 インタビュー(聞き手・山本哲士)「『心的現象論』を書いた思想的契機:新たなオンデマンド出版形態での刊行を前に」および「心的現象論ー了解論(抜粋)」を「iichiko:a journal for transdisciplinary studies of pratiques」94号に掲載。
5月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(5)かき揚げ汁の話」を「dancyu」第17巻5号に掲載。中島岳志との対談「中島岳志的アジア対談:左翼、根拠地、そして親鸞ーー吉本隆明さん」を「毎日新聞(東京夕刊)」5月23日号に掲載。
6月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(6)大福もちの記憶」を「dancyu」第17巻6号に掲載。詩人論「岡井隆の近業について:『家常茶飯』を読む」を「現代詩手帖」第50巻6号に掲載。『心的現象論 了解論 I』(吉本隆明資料集 65)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。オンデマンド出版による『心的現象論』を刊行(文化科学高等研究院(EHESC)出版局)。インタビュー(聞き手・山本哲士、高橋順一)「〈心的なもの〉の根源へ:『心的現象論』の刊行を機に」を「週刊読書人」6月15日号に掲載。インタビュー(聞き手・藤原章生)「この国はどこへ行こうとしているのか 吉本隆明さん」を「毎日新聞(東京夕刊)」6月15日号に掲載。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)『吉本隆明自著を語る』を刊行(ロッキング・オン)。
7月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(7)食欲物語」を「dancyu」第17巻7号に掲載。野村喜和夫、城戸朱理との鼎談「日本語の詩とはなにか:討議近代詩1」を「現代詩手帖」第50巻7号に掲載。『日時計篇 II(上)』(『吉本隆明詩全集3:1951』)を刊行(思潮社)。推薦文「[この人はうますぎるほどの物語詩の作り手だ。]」を面影ラッキーホールCDシングル『パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏』の歌詞カードと帯に掲載。『歳時記・季節論』(吉本隆明資料集 66)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話「私の下町」を「サライ」第19巻14号に掲載。弓立社編『吉本隆明全講演ライブ集 第18巻 心とは何か』を刊行(吉本隆明全講演CD化計画)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第10回 最後の親鸞」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」8月増刊号、第21巻第11号通巻第317号」(32巻Summer)に掲載。インタビュー「老人は死を前提とした絶対的な寂しさを持つ そのことを考えないことが一番の予防:LTCインタビューNo.38」を「LTC (ロング・ターム・ケア)」第15巻2号に掲載。
8月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(8)老人銀座と塩大福」を「dancyu」第17巻8号に掲載。談話「9条は先進的な世界認識」を「東京新聞」8月8日号に掲載。『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』(吉本隆明資料集 67)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
 13日深夜の出来事について、「いつもの低血糖の症状がおそい夕食前にやってきたので、甘いジュースを口に流し込んだ。しばらくすると元の状態に戻った。お腹ががぶがぶの状態になり、どうやら夕食のおかゆは入りそうにない。夕食直前のインシュリン注射は済ませていたので、そのまま寝てしまった。/私はそれきり目が覚めなかった。これから先のことは私が事後に聴いたことだ。/子ども(長女)が気にして、部屋をのぞいて声をかけても、私が返事もしない。呼んでも身体をゆすっても起きない。愕然として、いつも診察を受けている病院の救急に電話をかけて、担架で運んでもらった(そうだ)。/そのとき、私は闇の中の小さな空間にいた。板張りの格子のようなもので区切られていた。天井からは2本の黒いひもが垂れている。ここはどこだかわからない。板の格子からこっちが「こちら側」で、その先が「あちら側」なのかどうかもわからない。以前に溺れたときのような、まだ「こちら側」だという感覚はなかった。すでに「あちら側」にいるのだと思えた。/そのうち、格子の外側から男の話し声が聞こえてきた。女の声で名字を呼びかけられた。子どもの聞き慣れた声も聞こえはじめた。大声で返事をしたつもりでも、はっきりと声にはならなかった。それが自分でもわかるようになってきた。8月13日、夜の12時ころから午前3時ころまでの出来事である。」(「dancyu」連載エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(11)甘味の不思議」)と記されている。
9月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(9)酒の話」を「dancyu」第17巻9号に掲載。内田樹との対談「日本の家族を蝕む“第二の敗戦”」を「中央公論」第122巻9号に掲載。談話「船大工の親父が教えた戦場の死」を「文藝春秋」第85巻11号に掲載。本多弘之著『浄土 その解体と再構築:濁世を超えて、濁世に立つ(I)』(樹心社)に「序文」を掲載。『心的現象論 了解論 II』(吉本隆明資料集 68)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。『日時計篇 II(下)・〈手形〉詩篇』(『吉本隆明詩全集4:1951ー1954』)を刊行(思潮社)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第11回 悲劇の解読」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」10月増刊号、第21巻第15号通巻第321号」(33巻 Autumn)に掲載。青木司郎、朝浩之、坂田耕司、末次雄二、中井健人によるインタビュー『よせやい。』を刊行(ウェイツ)。
10月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(10)海苔のこと」を「dancyu」第17巻10号に掲載。インタビュー(聞き手・久保隆)「秋山清と〈戦後〉という場所」を「現代詩手帖」第50巻10号に掲載。江戸東京博物館で文豪・夏目漱石展に寄せた談話「漱石と私」を「朝日新聞(東京夕刊)」10月9日号に掲載。糸井重里との対談「僕たちの親鸞体験」を「ジッポウ」第3号に掲載。『戦後詩における修辞論・小林秀雄をめぐって』(吉本隆明資料集 69)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
11月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(11)甘味の不思議」を「dancyu」第17巻11号に掲載。発見された埴谷雄高『死霊』構想ノートに関する「『死霊』の創作メモを呼んで」を「群像」第62巻11号に掲載。『横光利一論・南方的要素』(吉本隆明資料集 70)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
12月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(12)クリスマスケーキまで」を「dancyu」第17巻12号に掲載。大井浩一による聞き書き「私の3作:評論家・吉本隆明さん/上 『マス・イメージ論』」、「私の3作:評論家・吉本隆明さん/中 『最後の親鸞』」および「私の3作:評論家・吉本隆明さん/下 『悲劇の解読』」を「毎日新聞(東京朝刊)」12月3日号、12月17日号および12月24日号に掲載。談話「わたしと仏教(25)思想家としての親鸞に向き合う 吉本隆明(1)」(12/9)、「わたしと仏教(26)親鸞にとっての浄土と死 吉本隆明(2)」(12/16)および「わたしと仏教(27)マルクス「相互作用」と親鸞の「非僧非俗」 吉本隆明(3)」(12/23)を「週刊仏教新発見」第25〜27号に掲載。談話「「理想」という精神的な脱出口:私の人生と読書」を「日刊ゲンダイ」12月13日号に掲載。インタビュー(聞き手・高橋純一)「戦後のはじまり」を「現代思想」第35巻17号に掲載。『現代詩の思想・村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』』(吉本隆明資料集 71)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。

平成20年(2008) 84歳
1月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(13)せんべい話」を「dancyu」第18巻1号に掲載。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第12回 「反核」異論」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」1月増刊号、第22巻第1号通通巻第325号)」(34巻Winter)に掲載。中沢新一との対談「『最後の親鸞』からはじまりの宗教へ」を「中央公論」第23巻1号に掲載。年賀状「長老猫の黒ちゃんへ:'08年男・年女よりの年賀状」を「うえの」第585号に掲載。『試行』第6号(1962年10月)〜第44号(1975年11月)掲載分を収録した『「情況への発言」全集成1:1962〜1975』を刊行(洋泉社)。インタビュー「産業循環の速さと日本的情緒とのギャップが人を不安にさせる」を「週刊ダイヤモンド」第96巻4号に掲載。芸術言語論の講義録「日本語のゆくえ」を刊行(光文社)。
2月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(14)土産物問答」を「dancyu」第18巻2号に掲載。『心的現象論 了解論 III』(吉本隆明資料集 72)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話「「日本語のゆくえ」出版:吉本隆明氏に聞く」を「神戸新聞」2008年2月25日号に掲載。糸井重里との対談「2008年吉本隆明」を「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/2008yoshimoto/index.html)に掲載。
3月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(15)七草粥をめぐる」を「dancyu」第18巻3号に掲載。エッセイ「大きい猫と小さい子供の話」を「猫びより」第7巻2号に掲載。『文芸時評・上(『空虚としての主題』初出』(吉本隆明資料集 73)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。『試行』第45号(1976年4月)〜第61号(1983年9月)掲載分を収録した『「情況への発言」全集成2:1976〜1983』を刊行(洋泉社)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第13回 マス・イメージ論」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」4月増刊号、第22巻第6号通通巻第330号)」(35巻Spring)に掲載。
4月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(16)節分センチメンタル」を「dancyu」第18巻4号に掲載。佐山一郎による聞き書き「視力が衰えた今も、活字拡大機を使って書に向かう;この人の書斎が見たい!」を「PLAYBOY[日本版]」第34巻4号に掲載。『文芸時評・下(『空虚としての主題』初出』(吉本隆明資料集 74)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。糸井重里との対談「日本の子ども」を「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/nihonnokodomo/index.html)に掲載。
5月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(17)あなご釣りまで」を「dancyu」第18巻5号に掲載。前書き「深い共感が導き出した稀有な記録」を『内村剛介ロングインタビュー ー生き急ぎ、感じせくーー私の二十世紀ー』恵雅堂出版刊に掲載。推薦文「垣間見えた鮮やかなロシアの大地」を『内村剛介著作集 全7巻 陶山幾朗 編集・構成[内容見本]』恵雅堂出版刊に掲載。談話「太宰治「駆け込み訴え」:豊かな読書」を「徳島新聞(朝刊)」2008年5月11日号に掲載。『試行』第62号(1984年5月)〜第74号(1997年12月)掲載分を収録した『「情況への発言」全集成3:1984〜1997』を刊行(洋泉社)。『源氏物語論(初出)』(吉本隆明資料集 75)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
6月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(18)焼き蓮根はどこへ」を「dancyu」第18巻7号に掲載。追悼文「小川国夫さんを悼む」を「群像」第63巻6号に掲載。談話「「二大政党制」で凡庸な政治家に九条改正されたらかなわない」を「週刊現代」第50巻21号に掲載。田原牧によるインタビュー「吉本隆明さんに聞く:団塊世代なぜドストエフスキー;自立せぬから、すがる;定年後の不安重ねるな」を「東京新聞(朝刊)」2008年6月7日号に掲載。『初期詩篇』(『吉本隆明詩全集1:1941-1950』)を刊行(思潮社)。春秋社の本棚「私の一冊」として「よみがえるヴェイユ」を「春秋」第500号に掲載。『物語の現象論・若い現代詩』(吉本隆明資料集 76)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
7月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(19)父のせつないたい焼き」を「dancyu」第18巻8号に掲載。談話「「蟹工船」と新貧困社会:これこそ「第二の敗戦」だ;若者たちが感じる絶望感はよくわかる。だがーー」を「文藝春秋」第86巻8号に掲載。コメント「『心的現象論』について」を「週刊読書人」2008年7月4日号の「文化科学高等研究院出版局」広告に掲載。廉価市販本『心的現象論本論』を刊行(文化科学高等研究院出版局)。CD&Book『吉本隆明の声と言葉。:その講演を立ち聞きする74分』を刊行(東京糸井重里事務所)。講演「芸術言語論ー沈黙から芸術までー」(2008年7月19日(土)午後2時)を昭和女子大学人見記念講堂で行う。糸井重里との対談「吉本隆明のふたつの目。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/two_eyes/index.html)に掲載。
8月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(20)カレーライス記」を「dancyu」第18巻9号に掲載。エッセイ「「日常的探検・冒険」論」を「探検倶楽部AGAIN」(「山と渓谷」8月増刊号No.880)第1号に掲載。CD&Book『YOSHIMOTO TAKAAKI 吉本隆明 五十度の講演』を刊行(東京糸井重里事務所)。談話「吉本隆明×ねずみホテル:各界著名人が選んだ私だけの「世界遺産」」を「週刊文春」第50巻31号に掲載。『マス・イメージ論(初出)・上』(吉本隆明資料集 77)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。電話取材談話「越中文学館(41)吉本隆明「戦争の夏の日」:終戦と静かな海の記憶」を「北日本新聞」2008年8月11日号に掲載。談話「「希望は戦争」絶望感が生んだ逆説:足音聞こえませんかー戦後63年のニッポン 中」を「北海道新聞」2008年8月14日号に掲載。高橋順一によるインタビュー「肯定と疎外:課題としての現在」を「現代思想」第36巻11号に掲載。
9月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(21)じゃがいも好きの告白」を「dancyu」第18巻10号に掲載。浅尾大輔との対談「「『無形の蓄積』が重要だということだけは、実感を交えて言える気がします」」を「論座」第160号に掲載。エッセイ「一九四五年八月十五日のこと:特集〈昭和 忘れえぬあの一瞬〉」を「小説現代」第16巻12号に掲載。ビデオ講演を再構成した(聞き手:白根直子)「証言・永瀬清子」を「現代詩手帖」第51巻9号に掲載。インタビュー「男とはマザー・シップと見つけたり:あるいは存在を耐えるための軽さ」を「ユリイカ」第40巻10号に掲載。推薦文[日本の精神史にあらわれた、稀有な存在の全貌。]を渋谷直人著『大江満雄論:転形期・思想詩人の肖像』大月書店刊に掲載。『マス・イメージ論(初出)・下』(吉本隆明資料集 78)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第14回 「源氏物語論」」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」10月増刊号、第22巻第15号通通巻第339号)」(37巻Autumn)に掲載。
10月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(22)月見だんご狩り」を「dancyu」第18巻11号に掲載。『大衆文化現考・天皇制について』(吉本隆明資料集 79)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。「本誌記者がナマで聞いた名言・失言・方言「大全集」:文化人編「戦後」を代表する「才人」の含蓄ある言葉」(「週刊文春」第50巻42号)記事中に談話を掲載。講演「芸術言語論 その2 自宅から生中継。」(2008年10月27日(月)午後7時)を新宿 紀伊國屋ホール【吉本隆明家より中継】で行う。
11月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(23)恐怖の「おから寿司」」を「dancyu」第18巻12号に掲載。「詩人清岡卓行について」を「現代詩手帖」第51巻11号に掲載。『ジョバンニの父とはなにか・未踏の作業』(吉本隆明資料集 80)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。松崎之貞編集による『「芸術言語論」への覚書』を刊行(李白社)。
12月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(24)あごを動かす食べ物」を「dancyu」第18巻13号に掲載。インタビュー(吉村千彰・聞き手、文)「太宰の親密さにいかれちゃった。:思い出インタビュー」を「東京人」第23巻14号に掲載。『柳田国男論(初出)』(吉本隆明資料集 81)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話とインタビューを集めた『貧困と思想』を刊行(青土社)。大日方公男によるインタビュー「何をどう言っても安心な人」を『鶴見俊輔:いつも新しい思想;KAWADE道の手帖』河出書房新社刊に掲載。糸井重里との対談「テレビと落とし穴と未来と。」を「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/tvtrap/index.html)に掲載。

平成21年(2009) 85歳
1月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(25)魚嫌いの私」を「dancyu」第19巻1号に掲載。インタビュー(聞き手・田中和生)「文学の芸術性」を「群像」第64巻1号に掲載。『詩の力』[2003年に毎日新聞社から刊行された『現代日本の詩歌』の改題](新潮文庫)を刊行(新潮社)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第15回 「死の位相学」」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」2月増刊号、第23巻第2号通通巻第344号)」(38巻Winter)に掲載。講演およびインタビュー『いま、どんな時代なのか』(吉本隆明資料集 82)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
2月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(26)ラーメンに風情はあるのか」を「dancyu」第19巻2号に掲載。談話「敗戦に泣いた日のこと:わが人生最良の瞬間」を「文藝春秋」第87巻2号に掲載。談話「追悼・内村剛介さん:国家や主義に同化せず」を「東京新聞」(夕刊)2009年2月9日号に掲載。
3月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(27)老いてますます」を「dancyu」第19巻3号に掲載。書評『新・書物の解体学1』(吉本隆明資料集 83)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。詩集『草奔』[著者によるガリ版刷り印刷のほぼ原寸大復刻]、随筆「哀しき人々」[初出:「初期ノート」]および講演「日本アンソロジーについて」を齋藤清一編『資料・米沢時代の吉本隆明について―その十』に収録掲載。『源氏物語論』(MC新書)を刊行(洋泉社)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第16回 「超西欧的まで」」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」4月増刊号、第23巻第6号通通巻第348号)」(39巻Spring)に掲載。インタビュー(聞き手・大日方公男)「「原点」と「自立」、「工作者」と「庶民」の違い」を『谷川雁:詩人思想家、復活;KAWADE道の手帖』河出書房新社刊に収録。
4月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(28)陸ひぢきの回想」を「dancyu」第19巻4号に掲載。『ハイ・イメージ論(初出)1』(吉本隆明資料集 84)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。取材記事(文・宮晶子、写真・中西祥子)「吉本隆明さんとフランシス子 ゆったりと時間 濃密な相思相愛:★猫(メス 15歳);【ハローペット】」を「東京新聞」(夕刊)や「中日新聞」の2009年4月13日号に掲載。インタビュー(聞き手・糸井重里)「吉本隆明「ほんとうの考え」」の「ほぼ日刊イトイ新聞」[URL:http://www.1101.com/truth/index.html]による不定期掲載開始。『「芸術言語論:沈黙から芸術まで;2008.7.19コンプリートセット」ほぼ日刊イトイ新聞』として、2008年7月19日、昭和女子大学人見記念講堂で行われた講演記録をNHKが編集し、ETV特集「吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜」として2009年1月4日に放映したものに「特典映像」が付加された講演DVD『吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜』(NHKエンタープライズ)および同講演記録をパソコン閲覧用に編集したDVDーROM『芸術言語論:沈黙から芸術まで』(ほぼ日刊イトイ新聞)を刊行。
5月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(29)陸ひぢきの迷妄」を「dancyu」第19巻5号に掲載。『本について・食うべき演劇』(吉本隆明資料集 85)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。親鸞論「親鸞の最終の言葉:我が親鸞像」を「別冊 太陽:親鸞」(平凡社)に掲載。談話記事「 朔太郎に通ずる「エロ」と「比喩」--評論家・吉本隆明さん」を「毎日新聞」(東京夕刊)2009年5月18日号に掲載。
6月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(30)猫の缶詰」を「dancyu」第19巻6号に掲載。「身近な良寛:『良寛詩集』」を「文藝春秋」第87巻7号に掲載。インンタビュー(聞き手・大井浩一)「太宰治の場所:生誕100年・文芸評論家に聞く/1 吉本隆明さん」を「毎日新聞」(東京夕刊)2009年6月1日号に掲載。『吉本隆明 全漫画論:表現としてのマンガ・アニメ』を刊行(小学館クリエイティブ)。『西行 歌人論』(吉本隆明資料集 86)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
7月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(31)虎といつまでも」を「dancyu」第19巻7号に掲載。インタビュー(聞き手・笠原芳光)「思想を生きる:吉本隆明語る」(2008年12月2日、吉本宅にて収録(52分42秒)DVD)を京都精華大学40周年記念事業として制作(非売品)。『ハイ・イメージ論(初出)2』(吉本隆明資料集 87)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。取材記事( [文]浜田奈美 [写真]高山顕治)「吉本隆明 全マンガ論ー表現としてのマンガ・アニメ 吉本隆明さん」を「朝日新聞」2009年7月26日号に掲載。
8月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(32)ままならないこと」を「dancyu」第19巻8号に掲載。講演(聞き手・瀬尾育生)「孤立の技法」(これからの詩どうなる―現代詩手帖創刊50年祭[2009年6月20日 新宿明治安田生命ホール]で「詩論について」と題した講演の改題)を「現代詩手帖」第52巻8号に掲載。老体論『老いの超え方』(2006年5月刊行本の文庫本化に際し、森山公夫氏による解題が付された)を刊行(朝日新聞社)。1986年1月、トレヴィルより出版された『音楽機械論:ELECTRONIC DIONYSOS』に「文庫版インタビュー―――モードが転換した一九八四年 坂本龍一(聞き手・小沼純一)」が加わった「ちくま学芸文庫版」を刊行(筑摩書房)。インタビュー(文◎木村俊介/写真◎中村將一/編集◎戸井武史)「吉本隆明さん、今、死をどう考えていますか?」を『よい「お葬式」入門。:生きているうちに、話し合うための』(講談社[セオリーMOOK])に収録。
9月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(33)飲みものを試す」を「dancyu」第19巻9号に掲載。『芥川・太宰・三島の「自殺の運命」/石川九楊論』(吉本隆明資料集 88)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。2002年11月刊行本の文庫化で加筆・修正の手が入った『夏目漱石を読む』(ちくま文庫)を刊行(筑摩書房)。森山公夫との対談『異形の心的現象:統合失調症と文学の表現世界』新装増補改訂版を刊行(批評社)。22日、第19回宮沢賢治賞を受賞、岩手県花巻市の授賞式で記念講演。
10月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(34)焼きそばのはじめとおわり」を「dancyu」第19巻10号に掲載。インタビュー(聞き手/構成・大日向公男)「天皇制・共産党・戦後民主主義:証言●戦後の転換点と左翼の終わり;歴史としての「全共闘」」を「中央公論」第124巻10号に掲載。談話『大衆の選択」を「現代思想」第37巻13号に掲載。『シモーヌ・ヴェイユについてのメモ』(吉本隆明資料集 89)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。講談社刊『対談 文学の戦後』(1979年10月)を底本とした講談社文芸文庫版『対談 文学の戦後』を刊行(講談社)。インタビュー(聞き手・渋谷陽一)「自作を語る 第17回 「ハイ・イメージ論」」を「SIGHT(「ロッキング・オン・ジャパン」11月増刊号、第23巻第16号通通巻第358号)」(41巻Autumn)に掲載。中島岳志との対談「左翼、根拠地、そして親鸞」を『中島岳志的アジア対談』(毎日新聞社刊)に収録。 清岡智比古著『東京詩:藤村から宇多田まで』(左右社刊)に推薦(帯)文を掲載。
11月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(35)野菜の品定め」を「dancyu」第19巻11号に掲載。『ハイ・イメージ論(初出)3』(吉本隆明資料集 90)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
12月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(36)甘味の自叙伝」を「dancyu」第19巻12号に掲載。『漱石が創った女たち・家族の幻像』(吉本隆明資料集 91)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。

平成22年(2010) 86歳
1月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(37)塩せんべいはどこへ」を「dancyu」第20巻1号に掲載。『視線と解体』(吉本隆明資料集 92)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
2月、エッセイ「おいしく愉しく食べてこそ(38)猫との日々」を「dancyu」第20巻2号に、同じく「おいしく愉しく食べてこそ(39)鬼の笑い声」を第20巻3号掲載。インタビュー(聞き手・糸井重里)「2010年、吉本隆明が「人はなぜ?」を語る。」を「BRUTUS」第31巻3号に掲載。第19回宮沢賢治賞贈呈式 記念講演(2009年9月22日 花巻なはんプラザ)「宮沢さんのこと」および「吉本さんの「受賞のひとこと」(贈呈式で配布のパンフレットに掲載)」を『資料・米沢時代の吉本隆明について』追加号に掲載。談話(取材・中山裕司氏)「特集ワイド:詩人であり思想家、60年安保の偶像 谷川雁、再びの息吹」を「東京新聞」(夕刊)2010年2月26日号に掲載。
3月、『心と身体の物語/共同体への視点と文学』(吉本隆明資料集 93)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。中沢新一氏との対談「〈アジア的なもの〉と民主党政権の現在」を「中央公論」第25巻4号に掲載。推薦文「白川静伝説 ―『白川静著作集』内容見本―」を「白川静読本」に収録(平凡社)。
4月、『ハイ・イメージ論(初出)4』(吉本隆明資料集 94)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー「マタイ伝を読んだ頃」を「考える人」第32号に掲載。
5月、『新・書物の解体学2』(吉本隆明資料集 95)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
6月、談話「宮澤賢治の生き方を心に刻む:巻頭言」を「サライ」第22巻7号に掲載。ちくま文庫版『父の像』を刊行(筑摩書房)。インタビュー(聞き手・津森和治氏)「資本主義の新たな段階と政権交代以後の日本の選択:吉本隆明氏へのインタビュー」を「別冊Niche[ニッチ]」第2巻に掲載。講談社文芸文庫版『書物の解体学』を刊行(講談社)。談話(取材・藤生京子)『60年安保 半世紀目の問い』を「朝日新聞」(夕刊)2010年6月14日号に掲載。『人間の死 自然の死 農業の死』(吉本隆明資料集 96)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。記念文「母校生誕百周年万才」を「米沢工業会誌」第147号に掲載。インタビュー(聞き手・北村 肇)「吉本隆明、八十五歳の現在[いま]:インタビュー」を「週刊金曜日」第18巻22号に掲載。
7月、『ハイ・イメージ論(初出)5』(吉本隆明資料集 97)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話「やっぱり詩が一番:作家から」を「読売新聞」2010年7月15日号に掲載。インタビュー(聞き手・橘川俊忠)「柳田国男から日本、普天間問題まで―戦後第四期の現在をめぐって―」を「神奈川大学評論」第66号に掲載。
8月、『岡本かの子/「新しい」という映画』(吉本隆明資料集 98)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。インタビュー(聞き手・福島泰樹)「詩と境界:中也詩、賢治詩をめぐって」を「中原中也研究」第15号に掲載。
9月、よしもとばななとの対談「書くことと生きることは同じじゃないか」を「新潮」第107巻10号に掲載。
10月、『南島論』(吉本隆明資料集 99)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。推薦文「推薦不要の弁」を「田村隆一全集【全6巻】[河出書房新社刊内容見本]」に掲載。談話(取材・大井浩一)「再見・竹内好:生誕100年/上 吉本隆明さんが語る」を「毎日新聞」2010年10月19日号に掲載。中学生に語った「寺子屋」を収録した『ひとり』を刊行(講談社)。
11月、『ハイ・イメージ論(初出)6』(吉本隆明資料集 100)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。
12月、談話「大失敗 警官隊から逃げ込んだ所は警視庁」を「文藝春秋」第88巻15号に掲載。談話(取材・文=瀧 晴巳 写真=川口宗道)「『15歳の寺子屋 ひとり』吉本隆明:戦後思想界の巨人・吉本隆明が15歳たちに向き合って語った寺子屋授業」を「ダ・ヴィンチ」第17巻12号に掲載。『時代をどう超えるか』(吉本隆明資料集 101)を松岡祥男編集により刊行(猫々堂)。談話「「昭和」に収まらない才能」を「朝日新聞」[東京夕刊]2010年12月25日号に掲載。

平成23年(2011) 87歳
1月、約4年にわたった連載エッセイの最終回「おいしく愉しく食べてこそ(40)梅色吐息」を「dancyu」21巻2号に掲載。インタビュー「年始インタビュー:吉本隆明さんに聞く」を「沖縄タイムス」2011年1月6日号に掲載。蒲田健氏(聞き手)によるインタビュー「ラジオ版 学問のススメ:吉本隆明(思想家)」を「JFNonline:ポッドキャスト」([その1]2011.01.04[その2]2011.01.11)で配信。
2月、『新・書物の解体学3』(吉本隆明資料集 102)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。文芸社文庫版『戦争と平和』を刊行(文芸社)。
3月、仲俣暁生氏によるインタビュー「面倒くさいから寝転んでいますが、政治指導者になれと言われたら実現させたい考えはあります」を「kotoba:コトバ」3号に掲載。談話「on reading 本を開けば:吉本隆明さん(1)本の世界 貸本屋で学んだ」を「朝日新聞」2011年3月6日号に、同じく「(2)絶えずいつでも考えています」を「朝日新聞」2011年3月20日号に、そして「(3)忘れ得ぬ 太宰治の独演会」を「朝日新聞」2011年3月27日号にそれぞれ掲載。談話「寝っころんでます。自分の能力は示せたから:余命18日どう過ごしますか?」を「サンデー毎日」第90巻11号に掲載。『ハイ・イメージ論(初出)7』(吉本隆明資料集 103)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。
4月、「理念がないからダメになる」を「文藝春秋」第89巻4号に掲載。インタビュー「吉本隆明が語る「逆説の親鸞」」をダイヤモンドMOOK「親鸞の歩き方:歩く、識る、触れる、親鸞を体感する 京都&西本願寺 ガイドブック」(ダイヤモンド社刊)に収録。『猫の話 そのほかの話』(吉本隆明資料集 104)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。青春新書版『老いの幸福論』を刊行(青春出版社)。
5月、談話「僕は無知だから反省なぞしない:小林秀雄、座談会での発言、昭和21年(1946)」を「中央公論」第26巻6号に掲載。『加速する変容/宮沢賢治を語る』(吉本隆明資料集 105)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。宍戸護氏による取材談話「<この国はどこへ行こうとしているのか>科学技術に退歩はない:特集ワイド:巨大地震の衝撃・日本よ! 文芸評論家・吉本隆明さん」を「毎日新聞(東京夕刊)」2011年5月27日号に掲載。追悼文「梶木剛 追悼」を『文学的視線の構図:梶木剛遺稿集』(深夜叢書社刊)に収録。推薦文[吉本隆明氏評]を『編集者=小川哲生の本:わたしはこんな本を作ってきた』(言視舍刊)の帯文に掲載。
6月、8日午後、数日前から吉本氏が一緒に寝たりしていた愛猫「フランシス子♀」(17歳)が急逝(「「いや‥‥‥、オレんとこの風習では、死んだ人とは一晩一緒に添い寝するんだよ」と言うので、父の枕元にフランシス子の箱を置きました。悲しみを表現できない不器用な父ですが、喪失感の深さを感じました。」ハルノ宵子のシロミ介護日誌(37)巨人が愛した猫)。『匂いを讀む』(吉本隆明資料集 106)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。大日向公男氏によるインタビュー「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」を『思想としての3・11』(河出書房新社刊)に収録。
7月、インタビュー「風の変わり目――世界認識としての宮澤賢治」を「ユリイカ」第43巻8号に掲載。津森和治氏によるインタビュー「資本主義の新たな経済現象と価値論の射程:贈与・被贈与、そして相互扶助をめぐって」を「別冊Niche[ニッチ]」Vol.3に掲載。講談社文庫版『真贋』を刊行(講談社)。『都市、時代そして自然』(吉本隆明資料集 107)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。辻陽介氏によるインタビュー「吉本隆明、性を語る。」をcoremagazine「VOBO:ECSTACY WEB MAGAZINE」に掲載。
8月、佐口賢作氏によるインタビュー「思い描いていた大人に僕はなりきれていない:87歳は考えつづける;インタビュー」を「BIG tomorrow」第32巻9号に掲載。インタビュー「科学に後戻りはない:原発 完璧な安全装置を;8・15からの眼差し――震災5ヵ月 3」を「日本経済新聞」2011年8月5日号に掲載。佐藤幹夫氏によるインタビュー「吉本隆明「東北」を想う」を「飢餓陣営36」2011夏号に掲載。
9月、『ニッポンの現在』(吉本隆明資料集 108)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。取材談話「全学連主流派に共感:昭和時代第1部30年代[20]安保と知識人」を「読売新聞」2011年9月10日号に掲載。
10月、『三島由紀夫の思想と行動/詩的な喩の問題』(吉本隆明資料集 109)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。大日向公男氏によるインタビュー「江藤さんについて」を『中央公論特別編集 江藤淳1960』(中央公論新社刊)に収録。故・江藤淳氏との対談を収めた『文学と非文学の倫理』を刊行(中央公論新社)。
11月、野中ツトム氏によるインタビュー「吉本隆明「反原発」異論」を「撃論」Vol.3に掲載。『完本 情況への発言』を刊行(洋泉社)。『消費のなかの芸(初出)・上』(吉本隆明資料集 110)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。インタビュー「固有値としての自分のために 第1回」を「Kototoi」第1号に掲載。
12月、インタビュー「吉本隆明氏ロングインタビュー:持続する思考、生きた言葉;『試行』創刊五十年、『完本 情況への発言』(洋泉社)刊行を機に」を「週刊読書人」2011年12月9日号に掲載。『ハイ・イメージ論(『母型論』)8』(吉本隆明資料集 111)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。

平成24年(2012) 87歳
1月、インタビュー「「吉本隆明」2時間インタビュー「反原発」で猿になる!」を「週刊新潮」第57巻1号に掲載。大井浩一氏による取材談話「近代の第一級詩人――詩人・評論家、吉本隆明さん」を「毎日新聞」[東京夕刊]2012年1月5日号に掲載。講演集『吉本隆明が語る親鸞』[DVD-ROM収録音源]を刊行(東京糸井重里事務所)。『国男と花袋/世界観権力の終焉と言語』(吉本隆明資料集 112)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。22日、風邪をこじらせ肺炎の疑いで文京区の日本医科大付属病院へ緊急入院。
2月、復刊『芸術的抵抗と挫折』(こぶし文庫ー戦後日本思想の原点ー52)を松本昌次氏の解説付きで刊行(こぶし書房)。
3月、『イメージ論1992―1993』(吉本隆明資料集 113)を松岡祥男氏編集により刊行(猫々堂)。石川九楊氏との対談『書 文字 アジア』を刊行(筑摩書房)。インタビュー「固有値としての自分のために 第2回」を「Kototoi」第2号に掲載。16日午前2時13分、肺炎ほかにより東京都文京区の日本医大付属病院で逝去。17日、自宅にて通夜。18日、杉並区の吉本家菩提寺にて近親者のみで葬儀、法名「釋光隆」。
「川上春雄氏が作成した「吉本隆明年譜」(『埴谷雄高・吉本隆明の世界』朝日出版社:1996年所収)や「吉本隆明年記」(『吉本隆明の文化学―プレ・アジア的ということ―』文化科学高等研究院出版局:1996年所収)、そして高橋忠義編「年譜」(『吉本隆明全詩集』思潮社:2003年所収)、「吉本隆明年譜」(『吉本隆明詩全集 』思潮社:2006〜8年、「別冊」、ならびに「吉本隆明詳細年譜2003−2012」[「現代詩手帖」55(5)所収])や渡辺和靖著『吉本隆明の一九四〇年代』ぺりかん社:2010年刊に拠る年譜」/kyoshi@tym.fitweb.or.jp 2000.02.07 改定:2012.10.31