猫々堂(高知市)から『吉本隆明資料集』A5判(各冊約90頁直接頒布1000円、約200頁の第28集は2000円、第29〜34集1200円、第35集〜1250円、40集のみ1300円)が第41集まで刊行済み。引き続き42集より「初出・補遺篇」刊行中。
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目 次
菅谷規矩雄『埴谷雄高』 長谷川博之(「猫々だより」76 2008.9)
鎌倉諄誠『センスとしての現在の根拠』 長谷川博之(「猫々だより」79 2009.1)
大島弓子『綿の国星』 長谷川博之(「猫々だより」80 2009.2)
吉本隆明資料拾遺(1)思潮社版『吉本隆明詩集』について 宿沢あぐり(「猫々だより」83 2009.6)
吉本隆明資料拾遺(2)作品「夕の死者」、「暁の死者」をめぐって 宿沢あぐり(「猫々だより」83 2009.6)
吉本隆明資料拾遺(3)『森茂編・解説 吉本隆明詩集』について 宿沢あぐり(「猫々だより」83 2009.6)
吉本隆明資料拾遺(4)詩「火の秋の物語」の異稿について 宿沢あぐり(「猫々だより」84 2009.7)
小文集『大和川遠足』今村秀雄 長谷川博之(「猫々だより」85 2009.8)
松岡龍美『ブルークリスマス』 長谷川博之(「猫々だより」86 2009.9)
吉本隆明資料拾遺(5)自作詩の朗読について 宿沢あぐり(「猫々だより」91 2010.4)
吉本隆明資料拾遺(6)吉本家の掛軸の句について 宿沢あぐり(「猫々だより」92 2010.5)
吉本隆明資料拾遺(7)「現在」への転換期のひとつの兆候としての「天然水」をめぐって 宿沢あぐり(「猫々だより」94 2010.7)
俺と「赤色エレジー」 長谷川博之(「猫々だより」94 2010.7)
吉本隆明資料拾遺(8)小説のなかにあった講演について 宿沢あぐり(「猫々だより」95 2010.8)
吉本隆明資料拾遺(9)鮎川信夫と今氏乙治のことなど 宿沢あぐり(「猫々だより」97 2010.11)
「人間時計」を読んだころ  長谷川博之(「猫々だより」98 2010.12)
吉本隆明資料拾遺(10)宮沢賢治の詩碑を訪れたときのことなど 宿沢あぐり(「猫々だより」99 2011.1)
吉本隆明資料拾遺(11)宮沢賢治との出会いのことなど 宿沢あぐり(「猫々だより」101 2011.4)
「野分」について  長谷川博之(「猫々だより」103 2011.6)
吉本隆明資料拾遺(12) 岸上大作に宛てた書簡 宿沢あぐり(「猫々だより」104 2011.7)
吉本隆明資料拾遺(13) 化学論文をめぐって 宿沢あぐり(「猫々だより」105 2011.8)
「「金子寿徳さんの死」  長谷川博之(「猫々だより」106 2011.10)
吉本隆明資料拾遺(14) 『東京・深川 府立化工物語』での談話 宿沢あぐり(「猫々だより」107 2011.11)
吉本隆明資料拾遺(15) 井之川巨に宛てた手紙 宿沢あぐり(「猫々だより」110 2012.2)
吉本隆明資料拾遺(16) 作品が再録された教科書 宿沢あぐり(「猫々だより」112 2012.4)
「二葉亭四迷の三つの長編」  長谷川博之(「猫々だより」112 2012.4)
「芹沢俊介への批判」  長谷川博之(「猫々だより」113 2012.6)
『現代思想』の「特集吉本隆明の思想」。その中の高橋順一と芹沢俊介の対談について。芹沢の吉本批判の的外れと日本共産党レベルへの退化。 久住 幸治(「猫々だより」114 2012.7)
吉本隆明資料拾遺(17) 外国語に翻訳された作品について 宿沢あぐり
吉本隆明資料拾遺(18) 作品が採用された入試問題のいくつか 宿沢あぐり(「猫々だより」120 2013.2)
吉本隆明資料拾遺(20) 埴谷雄高作品の内容見本の文について 宿沢あぐり(「猫々だより」131 2014.3)
『「反原発」異論』をめぐって 松岡祥男(「猫々だより」140 2015.2)
このボケー、違うだろー 松岡祥男(「猫々だより」166 2017.9)
Newふざけるな! 松岡祥男(「猫々だより」187 2019.10)

菅谷規矩雄『埴谷雄高』 長谷川博之(「猫々だより」76 2008.9)

 二十年ほど前、学校の事務局から紹介されたバイト先で、僕はトラブルを起こしてしまった。マンションの庭樹の枝落としだった。非力な僕はバイトを全うすることが出来なかった。枝を切る部分を間違えてしまい、庭に面した樅の樹を全部駄目にしてしまった。かたずけもそこそこに、雨のなかをしょんぼり帰ったのだが、例えどんな相手であろうと、否は自分の側にあった。幼稚な当時の僕は、バイト先からの事務局へのクレームで困ってしまい、混乱して周囲から呆れられた。最終的には両親から幾らかのお金を都合してもらい、トラブルは終わった。ちっちゃい傷みたいなできごとだったが、傷を負ったぶんだけ、うつ伏せの姿勢からしばらくは起きあがれず、書物ばかり読んで、過ごした。
 当時熱中して読みふけったのは、太宰治、村上一郎、菅谷規矩雄だった。最初に読んだ『埴谷雄高』には、捉えられたみたいに心に染みた。それから二十年は経っている。以来何度か読み返しているが、当時、僕が何故『埴谷雄高』に熱中したのかが、今、素読では解らなくなってしまっている。当時の僕を思い起こすため、また再読をしてみたい。不勉強から結局は埴谷雄高を読むことはその後まったくなかったが、菅谷規矩雄は熱心に読んだ。『自己組織への序ー菅谷規矩雄表現集1964〜1972』という冊子が今でも手元にあるが、菅谷は1972年6月6日に大学教師の職を免職されている。『埴谷雄高』は文書ごとに記述の年を丁寧に付されていて、冊子と照らしあわせれば、菅谷自身の大学闘争と時期が、かなり重なっているのがわかる。全体的にみて、不可避なことではあろうが、『埴谷雄高』は菅谷の本のなかでも、秘かに敗北の匂いを漂わせ、その匂いに何年も前の僕はひかれたのではないかと思えるのである。
 「八月十五日、天皇の玉音放送は無であった。(中略)その夕方、ラジオの放送で、横須賀かどこかの海軍基地で敗戦を承服しない何人かの特攻隊員が、あくまで戦うと、戦闘機に乗って飛びたった、と伝えているのを聞いて、わたしはおもわず涙をながした。」(『埴谷雄高』II政治思想)純潔だった幼年期の最後のいちにちである。ずっと昔の僕はその純潔さに響鳴を感じたのかもしれない。ファシズムにしてもスターリニズムにしても、根元にある純潔さに変わりはない。思想にとっての問題は、その純潔さをどのように解体し、血路を開き続けるかである。菅谷自身には埴谷雄高の国家観を解体しなければという切迫した思いがあったのではないだろうか。
 「どんなささいなできごとでも、それが思想表出であるかぎり、そこからかならず全思想の本質がはかられるのである。」(同前)僕は自分の体験があまりにもちっぽけだったので、バイト先でのヘマに、菅谷のようになんとか意味を付けたかったのかもしれない。
 「それ(埴谷の思想が必ず〈党〉を媒介して国家へ至ること‥‥引用者注)にたいして吉本における思想の回路を、〈死の国ー国家の死〉を想定してみても〈党〉が先験的に介在する余地はいっさいない。」(同前)吉本隆明の〈党〉に対する否定と、埴谷雄高のまだ見ぬ国家では、吉本の国家観の方が僕には一層好ましかった。自分の失敗に他人が触れることがたまらず嫌だったから。〈党〉の介在の不可避性など認めることは出来ない。
 「戦後〈民主〉主義は、転向思想であるという本能を露呈したとき、(戦後〈民主〉主義は‥‥引用者注)わたしにはどんな倫理も残さずに消滅したのである。(同前)文脈がはやり、かっこの中が省略され読みづらいが菅谷は純潔さを解体したうえで、戦後〈民主〉主義を無化し、現在に立とうとする。
 「ひとことでいうならわたしが受感している情況の全体像のなかでは埴谷の批判に同意するとしても、当の対象はおよそ〈ちゃんちゃらおかしい〉ということばの位相にむすびつかないからだ。」(同前)既に闘争の渦中にいるものの言葉へ、位相が移っている。その闘争がどのようなものであったか無論、僕は想像するだけである。だが『埴谷雄高』のなかでの埴谷の像を埴谷自身が裏切っていることは解る。極小の体験から無限の可能性を引きだした埴谷自身が、他人の闘争にはそれを、見ないで済ませてしまっているのだ。
 「そこでなおかつ埴谷雄高からさいごのことばをきいてしまうようにおもえるのが、その画面(浅間山荘を映すテレビ画面‥‥引用者注)のみえない〈内部〉に自らの思想がいかにふみこんでゆくかという問いを、わたしは埴谷雄高とまったくことなる体験の領域からたてるいがいにない、という自明の基点をひとつの普遍性へ押しだそうとしているからだ。」(同前)注釈の必要が僕にはもう無いと思う。ひとつの思想が迂回してはいるが、描かれているのがはっきり解るからだ。
 「戦後とはまさに(〈党〉の解体ではなく‥‥引用者注)敗戦後にほかならないのであれば、そこから自らを〈死の国の世代〉としてえらびとるとは、ただひたすら誰がどのように真の敗北者であるのかを明らかにするという意味である。」(同前)結実してしまった思想が告げられている。
 「自分の幼年の現象にどんなことばをあたえるすべももたなかった。ひとつのくらい光景だけが汚れた河面にゆらめいている。なぜわたしの記憶はかならずそこへひきよせられるのか。しかもゆきつけばみうごきならなくなり記憶をおきざりにするようにそこをたちさるいがい、どう現在にもどってくる途方もないと感じられるのか。」(IV小説ー意識、死霊および深淵)
(三一書房1974年5月刊)

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鎌倉諄誠『センスとしての現在の根拠』 長谷川博之(「猫々だより」79 2009.1)

 文体の自然さから、意味まで理解しやすいだろうと考えると間違ってしまう。作者の思索をたどるのはそれほどたやすくはない。幾度か引用されている、マルクス、フーコー、夏目漱石、吉本隆明といった人々のしなやかさと硬さに対応した文体は、おだやかだが重たい。扉を押すようにたどり続ければ、浸透してくるような作者の言葉を理解することができる。
 〈曖昧さを解明しないがそれを決定する構造〉〈無言の制度・注釈ぬきの営み・無媒介な知〉と、2つの言葉をフーコーの『狂気の歴史』から引用した後で、「何という素直な力強い思考の表明であろう。わたしはマルクスや吉本隆明の書物以外でこのような表出にお目にかかることはかってなかったと断言できる。」と結んでいる。本書の「惨劇論」ではひとつの組織のなか、人間関係(本書では例として役割分担)で綻びがひとつ発生したとき、いっきに個々人の不満はあらわになり、決定権が権力側へ回収されてしまうメカニズムを描いている。権力側は〈曖昧さを解明しないがそれを決定する構造〉そのものなのであり、惨劇を演じた組織は〈無言の制度・注釈ぬきの営み・無媒介な知〉へと、収束されてしまう。
 「わたしにとって衆とは、なによりも隣にいるものや向かい合っているものの現存にふれているセンスである。そこを通ることなしに、どんな観念もイメージも理由がない。逆にいえば、そこまで透ってくる観念やイメージが生きものなのだ。」という吉本隆明の〈大衆の原像〉に対応した言葉はじりじり上りつめた果てにでてくる。後はこの言葉に僕たちはどれだけ近づけるか、作者のセンスに共鳴できるかだと思える。
 毛沢東の〈労働者の手はそれがどんなに泥で汚れていてもほんとうは美しい〉という言葉と逆向きの、大衆に対するサルトルの〈このうっとうしい灰色の集団〉。江藤淳の敗戦後の他人にだまされた自己体験から導かれた〈自分の内ぶところに土足で踏み込み、そこから誇りを奪っていったのを感じた〉という3つの言葉から作者は、「これらのひともある光線のもとで大衆(あるいはそのなかのひとりの他者)において、目をおおう禁忌にたるなにかをみたと信じられていることだ。」
 また大衆のほうから、〈わたしはときどき近くの屋根にすわって光る海のほうを眺めました。山の人はその方向を“沖”と呼び、自分たちとはべつのわずらいのないくらしがあるかのように話し合っておりました。〉(西岡寿美子詩集『杉の村の物語』後書より)〈ある夏休み、都会の女学校にいる娘が帰省していた。ある日、水泳着をつけゴムの水泳帽をかぶった彼女が、岸から桟橋のように浅瀬に渡してある板橋の上で、(中略)よく透る声で歌っているのを、わたしはゆくりなく見た。(中略)大げさにいえば、私は初めて文化というものに触れたのであったろう。音楽というものが、私や姉が貯木場の上でうたう唱歌とは全くちがうものだ、という事を知ったのであった。〉(大原富枝『ふるさとずいひつ』)「ここでいう〈光る海〉も〈ちがう歌〉も吉本隆明の言葉(「ハイ・イメージ論」)をかりれば世界視線の象徴である。(中略)この遠くから差してくる光は強烈で、一度それを浴びた目には、これまですべてだった部落内のいっさいが色あせることをまぬがれない。それにたいし拮抗ないし相対的な内部の透明度ないし光源の潜在性を自らに保留しうることは容易なことではない。目がくらんだ度合いは当然内的には見にくさの度合いとしてあらわれる。見にくさとしてのあらわれは無意識の禁忌の潜在ということに他ならない。(さしてくる光の浸蝕またはその光への傾倒が内部の明度をこえたところでは、無意識的な禁忌は、憑かれた観念の主体を介して位置をかえ、内在性を対象的な(中略)禁忌として逆立されうる)。(中略)まだある。いったんその光の中に出てみると、それまで内在的だった部落内の差異がかすんで、すべてはほとんど近親のようになれてみえてくるところがあるということである。」本書での禁忌は、文字通り隠すこととして捉えられている。生きていくうえで誰もが抱えている小さなことがらからやがては逆に、共同の幻想として、禁忌は、言葉にならなくともあちこちで存在すると考えられている。つまりある場合では、生きづらさと、均質化は同時に発生する。
 現在に例えれば、〈地球温暖化〉や〈エコ環境〉。それを均質に背負わせようとする外在的な国家の動きなどは、成立する禁忌の息苦しさのほかなにものでもない。言葉でこれに組みしないのは言葉の世界の人にとっては禁忌となるのだろうか。〈地域環境〉などというものは、最終的な先進国での個人の均質化を目指しているとしか思えないが、そんなことに関わりもなく生活している大衆や特に深くも考えていない大衆はいくらでもいるだろう。大衆は放っているのだ。作者は驚くべき読みとたぶん自己体験により、組織と個人の惨劇から、衆の現在までを読みこんでいる。
 後は僕であれば、少年の頃に高松から東京へ来た時に感じた眩しさや、絶えず埃が舞っているような都市のいろあいと、転校して来た小学校の暗い感触などの体験。また80年代にはいりまるで裏返ったように街やまわりが自分の思春期に対応するみたいに鮮やかに変わってったことを、自分の禁忌を開くように本書のあとにそっと加えてみれば良いのだと思う。

  少年よ
  きみのくらさは世界の影よりも大きくはない
  さびしければさびしいままに
  その中を しっかり歩んでいけ
  まぶしいものにそって
                  (本書ー詩篇ーまぶしい季節に)
(深夜叢書社・1990年2月刊)

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大島弓子『綿の国星』 長谷川博之(「猫々だより」80 2009.2)

 大島弓子のマンガ「綿の国星」には、中へすっと入れるような奥行きがある。疲れて弱っている時でも、ぱらぱらページを繰れる親しさともいっていいかもしれない。
 主人公のチビ猫は、自分の親猫を知らない。それまで飼われていた家が事業に失敗し、捨てていかれる。疲労と空腹でいきだおれていたところ、須和野時夫に拾われる。「綿の国星」にはいろいろな猫が出てくるのだが、みな頭から突き出た耳と尻尾のほかは、人間と同じ姿で、一張羅を着て出てくる。チビ猫は須和野家に飼われだし、須和野チビ猫となる。チビ猫は、猫は人間になれると信じていたが、銀猫のラフィエルに、猫は猫のままだと教えられる。ラフィエルは美しくしなやかな大人のオスの野良猫だが、猫好きの猫マニアに追われ、また放浪癖もありチビ猫の前から去ってゆく。原題の「綿の国星」とは「身も心もしずみこむようなすてきなかおりがする一面の綿の野。そしてそこには目もさめるような美しい猫のお姫様がいて、たどりつくとやさしく接吻してくれるんだとさ」と信じながら死んでいった老猫にラフィエルが若い頃、教えてもらっていた死後の世界だが、チビ猫に、醒めて前述のように語り、猫は猫のままだと教える。原題は老猫の新じていた星の名からとられている。
 「遊びすぎちゃった、遊びすぎちゃった。もう(夜の)7時」ある日チビ猫が帰ると、須和野一家はバケツいっぱいのキャットフードを残し、誰もいなくなっていた。時計が1時を過ぎても帰ってこない。「きっと帰ってくる。お母さんは、ああくたびれた、家が一番いいわと言う」チビ猫は時が経つにつれ段々不安になってきて、前の飼い主に捨てられたことなどを思い出してしまう。結局、誰も帰ってこなかった翌日、泣きながら道を歩いていると、シルクハットに眼鏡をかけた長身の猫にであう。パーティの幹事をしていると言う。チビ猫は悲しすぎて中々言葉にならないが、幹事猫に説明をする。幹事猫は、慰めながら今夜は猫たちのパーティがあるとチビ猫に教える。他の猫たちは、須和野家はみな、蒸発したのだろうと噂をする。幹事猫は言う。「遠くにもらわれていかないようだったら、夜中パーティにでておいで。この町で一番広い林の中が会場だよ」と。チビ猫は空を見上げひとりごちる。
 「雨がふっていないだけ、ましだわよね。寒くないだけましだわ。お腹がすいてないだけまし‥‥‥」
 チビ猫は夜になるとパーティに出かけてみる。空に浮かんでいるのは薄い三日月である。パーティはもう始まっている。「猫のパーティははじまりの合図もなければおしまいの合図もないんだ」と幹事猫。みんな思い思いに集まって遊んでいた。ステージがあってお知らせや近況報告をしていくが、みんな遊びながらも耳では聞いているらしい。いろいろな猫がマイクを前に言いたいことを言う。「別に何をしたっていいんだがみんなに告げたいことなんかあったら、あの舞台に立って言えばいい。重大なことでもごく私的なつまらない事でもいい。ほら、本人だけしゃべって気のすむことってあるだろ」チビ猫はしゃがんでいたが、しばらくしてすっくと立ち、とことこステージへ向かう。幹事猫はいやな予感に襲われるが、予想どおりチビ猫はマイクスタンドの前で大泣きをして、みんなをひっくり返らせてしまう。
 「わたし今日からマニアんちの飼い猫になってラフィエルを待とうなんて思ってしまったのは、ほんとはあたしはホットミルクとお魚とかつおぶしごはんとおみそしるごはんがだいすきで、ほんとは人間のそばでそれが食べたかったからなの。でも時夫のうちのほうがいい。時夫のうちがいいんだ。時夫のバカ、お父さんのバカ、お母さんバカ。バカ、バカ、バカ、バカ。バカーア、バカーア」と延々とバカと泣き叫びだす。幹事猫はここで一肌ぬいで、チビ猫の為、夢を見させてくれる。チビ猫は喜び、いつの間にか眠ってしまうが、チビ猫をよぶ声で起こされる。須和野一家は、おばあちゃんにいきなり呼び出されただけで蒸発などではなかったと解る。チビ猫最後の独白は、夕焼けをみながら「いつもの町のふうけい、いつもの家の中のふうけい」「わたしねおばあちゃんが突然全員よびだした気持ちわかるわ。(中略)わたしとってもわかるわ。それは年だからじゃないわお母さん、それはおばあちゃんが今とても幸福だからだわ。わたしチビ猫だけどそういう気持ちだったもの」(主に『綿の国星』1巻「カーニバルナイト」)チビ猫はいろいろな事にぶつかり、驚いたり、泣いたり、笑ったりするが、元々孤独な、寂しがりやの女の子みたいに描かれている。飼い猫だからか、おっとりして時夫が好きで、お母さんが好きで、お父さんが好きである。何よりもラフィエルが好きである。泥だらけで雨の中を帰ってきて、時夫に洗ってもらい、ドライヤーで一張羅を乾かしてもらうと、ぱあっと晴れやかで可愛らしく変われる。時夫も驚き、キミはスワノチビネコ君だったのかと。ここは人間に近い感情が優先されている。また、お母さんが、ヘッドホンがもの珍しく、面白がってチビ猫の耳に装着するとチビ猫は大声で「ニギャア」と叫び驚いてしまう。ここは猫らしさが優先している。最初にほとんど人間と同じ格好をして人の言葉が猫には解ると設定した時に、人間と動物という枠組みをひと息に越えてしまったと思える。他の飼われ猫が、猫であるほうに感情が置かれているのに比べ、須和野チビ猫は、野良猫たちに近く、人間らしさに重きを置かれているのは、自然であり、作品に奥行きが生まれ、つきない魅力がつくり出されている。
(白泉社文庫全4巻)

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吉本隆明資料拾遺(1)思潮社版『吉本隆明詩集』について 宿沢あぐり(「猫々だより」83 2009.6)

 思潮社版『吉本隆明詩集』は、吉本自身の注記によれば、「ユリイカ版を復版するに際して、ユリイカ版にあった誤植を厳密に校訂して確定的な版とすることができた」ものである。この詩集について、思潮社が発行した『吉本隆明全詩集』および『吉本隆明詩全集5 定本詩集』の解題のなかで、書誌データとして次のように記している。
 
  一九六三年一月十日発行。一九〇ミリ×一三一ミリ、上製角背。一九〇頁。著者吉本隆明。発行者小田久郎。発行所文京区西片一―一四―十―一○三思潮社。装幀山下菊二。定価五〇〇円。作品三十一篇
 
 確かに思潮社自身が発行したものであるからこのとおりである。しかし、この書誌データは、増刷された版の書誌データである。初版の書誌データは次のとおりである。
 
  昭和38年1月10日発行。一八三ミリ×一三一ミリ、上製角背。一八八頁。著者吉本隆明。発行者小田久郎。発行所東京都千代田区神田神保町1ノ3思潮社。装幀山下菊二。定価五〇〇円。作品三十一篇。
 
 初版も増刷も奥付は横書きである。版型の縦が初版のほうが短いのは、増刷の際に版を組み替えているためである。そのため頁数も初版のほうが少ない(奥付の頁を入れるとどちらも一頁増えることになる)。ただ、この組み替えによって作品の一部が変わってしまっている。『固有時との対話』の次の箇所である。
 
  長い時間わたしはどれほど沈黙のなかに自らの残された純潔を秘さうとしてきたか、しかもわたしはそれを秘しながらひとつの暗蔭な季節を過ぎてたと信じてゐた
 
 「過ぎてた」については、ユリイカ版も初版の思潮社版も、私家版の『固有時との対話』のとおりにそのままであるが、増刷本は、版を組み替えた際に、「過ぎてきた」と改めている。これは現代詩文庫版も同様である。『吉本隆明全著作集1 定本詩集』は、川上が私家版を尊重しているため、「た」の右側に「〔きた〕」を註として添えている。また、定本詩集を参照している『吉本隆明全詩集』も『吉本隆明詩全集』も川上にならい同様にしている。ところで、思潮社版『吉本隆明詩集』の初版の発行所である「東京都千代田区神田神保町1ノ3」は、昭森社ビルとして当時有名だった場所である。ここには、森谷均の昭森社や伊達得夫の書肆ユリイカがあった。伊達はここに居ながら、発行所は自宅の「新宿区上落合二〜五四〇」としていた(『吉本隆明詩全集5 定本詩集』ではユリイカ版の発行所を「西落合」としている)。思潮社はこの昭森社ビルに一九五六年に入居している。書肆ユリイカの入居から三年後である。思潮社の社主である小田久郎の『戦後詩壇私史』(思潮社刊)によれば「一九六三(昭和38)年九月、ブルトン、エリュアールの共著『処女懐胎』を出したあと、思潮社は神保町から水道橋に移った。前に書いたように、「現代詩手帖」の奥付は九月号までが、神保町、十月号から本郷元町二ノ二七、三洋ビル別館に変った。」とある。それゆえ、「文京区西片一―一四―十―一○三」が発行所となるのはその後である。自社の出版物でありながら初版を調べなかったことからおきた誤りである。だからといって、このことが吉本の詩や思想をかんがえるうえで何の影響も与えることはないだろう。ただ、「もっとも愛着のある本はなんですかという問いに対し」(岩波現代文庫版の後藤正治著『人物ノンフィクション I  一九六〇年代の肖像』所収「海を流れる河」より。初出は朝日新聞社の『アエラ』二〇〇〇年四月一〇日発行号掲載の「現代の肖像」より)、吉本は『初期ノート』とこの思潮社版の『吉本隆明詩集』の二冊を挙げていることは記しておく。

 
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本隆明資料拾遺(2)作品「夕の死者」、「暁の死者」をめぐって 宿沢あぐり(「猫々だより」83 2009.6)

 作品「夕の死者」、「暁の死者」は、どちらも詩誌『聖家族』に発表され、後に「夕の死者」はユリイカ版、思潮社版の『吉本隆明詩集』に収められ、「暁の死者」は『初期ノート』(試行出版部)に収められた、と定本詩集の解題で川上春雄は述べている。このふたつの詩には、どちらも当時敬愛する詩人であったアルチュール・ランボーの詩の一部を原詩でエピグラフとして冒頭に掲げている。「夕の死者」では「LE DORMEUR DU VAL」(日本語訳では「谷間に眠る男」または「谷間に眠る人」、中原中也は「谷間の睡眠者」としている。)の最後の二行(初出では大文字で一文字誤字がある。)、「暁の死者」では「ROYAUT'E」(日本語訳では「王権」または「王位」)の第二節の冒頭である。このことは『吉本隆明全詩集』の解題で清岡卓行の訳と寺田透の訳を掲げて出典を明らかにしている。吉本がランボーの詩の一節をエピグラフとして掲げたのには、詩のモチーフとの関係があってのことだとおもわれる。「夕の死者」では、太陽の光がふりそそぐ谷間でやがて死んでゆくであろうひとりの兵士を死者としてエピグラフから詩のなかに導き入れていることはわかる。しかし、「暁の死者」が「夕の死者」と密接に関連する詩であるとはいえ、エピグラフの一節だけからは、ランボーの詩との関係をあきらかにすることは非常に難しい。「ROYAUT'E」が寓話的ともいえる内容であり、「実際、彼らは王だった・・・ 午前も ・・・ 午後も」というような第二節だけでなく、詩じたい、広場で民衆に向かい、ひとりの女を王妃にしたいと叫ぶ王が天啓や過去の試練を語り、王妃になりたいと叫ぶ女と互いに身体をぶっつけあって気を失うというような第一節にも、死や死者が表現されているわけではない。ただ勝手な読み込みをあえてすれば、「午前」を「戦前」と読み替え、「午後」を「戦後」と読み替えることによって、変らないものに対する決定的に変えられてしまった者の荒寥とした現在を対峙しているとおもえないことはない。
 そうはいっても、エピグラフのあることがかえって「暁の死者」を特異にしている(作品の内容自体が特異なわけではない)。なぜこの作品にランボーの「ROYAUT'E」の二節の冒頭のことばがエピグラフとして掲げられなければならなかったのだろうか。
 ところで、「夕の死者」を収録したユリイカ版、思潮社版の『吉本隆明詩集』ではなぜか初出にあったこのエピグラフを削除し、感嘆符や疑問符も削除している。また、ユリイカ版、思潮社版では初出と若干の違いのある箇所がある。単なる校正の誤りのようにもおもわれるが、次のとおりである。

【初出】 【ユリイカ版】 【思潮社版】 【定本詩集】(参考)
問はずに語り出される 問はずに語り出される 問はずに語り出される   問はずに語り出される
物語の旗をあこがれて 物語をあこがれて 物語をあこがれて 物語の旗をあこがれて

あの數々の物思ひ あの數々の物思ひ その數々の物思ひ   あの数数の物思ひ
耐えてゆく―― 耐えてゆく―― 耐えてゆく―― 耐えてゆく――

 この「夕の死者」と「暁の死者」を収録したあまり知られていない詩集がある。それは、一九五〇年一二月二五日に限定一五〇部発行された。『聖家族詩集 一九五〇年版』(この詩集については、川上の年譜で引用された諏訪優の文章のなかで述べられている。)という詩選集で、発行は聖家族発行所である。この詩集は、詩誌『聖家族』第三号に掲載された「緑の聖餐」を収録せずに「夕の死者」と「暁の死者」の二作品だけである。この詩集では、「夕の死者」のエピグラフは削除され、「暁の死者」のエピグラフは初出と同様に冒頭に掲げられている。このエピグラフの削除が吉本自身の意向によるものかどうかは不明である。また、ユリイカ版に「夕の死者」と対のような「暁の死者」が収録されずに「緑の聖餐」が収録された理由も不明である。
 詩誌『聖家族』は、諏訪優と青山孝志を中心に、諏訪の住所である東京都練馬区豊玉北五・九・一を聖家族発行所として、諏訪と同じく詩誌『詩文化』に寄稿していた佐村久江、吉本隆明の四人によって第一号が一九四九年一月一日に発行された。その後ほぼ隔月刊で十号まで発行されたことはわかっているが、現在確認できる号は、第一号、第二号、第四号、第五号のみである。第三号は日本近代文学館の川上春雄文庫に所蔵がないようである。吉本は第三号までしか寄稿していない。中田耕治ら「三田出身」や他の同人も増え、詩誌の雰囲気も少しずつ変化しているようなので、吉本にとっては同人として寄稿することに異和を覚えていたのかもしれない。この時期、吉本は、ランボーとマルクスを核とし、またヴァレリィを反面教師として、詩と科学の方法と思想について考察を続けている。それは吉本にとって詩に科学をとけこませることによって、詩のことばによる世界認識の方法を模索している時期でもあった。

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吉本隆明資料拾遺(3)『森茂編・解説 吉本隆明詩集』について 宿沢あぐり(「猫々だより」83 2009.6)

 [糸へんに土を重ねた=スガ_吉田]秀実は『吉本隆明の時代』(作品社刊)のなかで、松田政男から借りた『森茂編・解説 吉本隆明詩集』について、次のように述べている。
 
  この本(?)は、わら半紙のタイプ刷り新書版横長で、本文(吉本の詩一四篇を収録)四六頁、森の解説は二段組み一一頁、定価、版元、発行日は記されていない。つまり、この本は、創設されたばかりのブントの闘争資金を援助するために、吉本が詩を提供して作られたものと推定できる。詩集代金はカンパ扱いで販売されたものと思われる。刊行は五九年一一月以前のはずだから、そこから吉本がシンパサイザーとなった日を、おおよそ推定できよう。吉本が前掲「戦後世代の政治思想」を書いてブント支持を公然とするのは「中央公論」六〇年一月号(五九年一二月発売)である。なお、この詩集を「海賊版」(川上春雄作成年譜)としているものもあるようだが、吉本の許諾を得て刊行されたのは明らかであり、間違いであろう。
 
 [糸へんに土を重ねた=スガ_吉田]は、発行された当時の周辺の事情とともに詳しく述べているが、収録された詩じたいにの関心がまったくないので、どのような詩が収録されているか記していない。
 この詩集の表題は、『森茂編・解説 吉本隆明詩集 革命芸術・芸術論叢書1』であり、たしかに奥付もない。先に一四篇の詩をおき、次に一段組の森茂名の「序」があり、最後に「目字」(目次ではない。)がおかれている。収録されている吉本の詩一四篇は次のとおりである。
 
 青い並木の列にそひて/その秋のために/ちいさな群れへの挨拶/審判/異数の世界へおりてゆく/少年期/少女/反祈祷歌/日没/涙が涸れる/恋唄/恋唄/二月革命/首都へ
 
 このうち、「恋唄」は、一篇は「九月はしるべのなかった恋のあとの月」、次の一篇は「ひとひととを噛みあわせる曲芸師が」で始まる「恋唄」である。作品は、新書版を横にした体裁なので、一行におさまらないときには改行されたり、「〈〉」は「《》」に変えられていたり、「晨」が「晟」であったり、「霏々」が「ひゝ」となっていたり、「ちいさな群れへの挨拶」のなかの「怒りは無盡蔵だ」が脱落したりといったことなどが見受けられるが、この詩集がユリイカ版をもとにしていることは確かである。取捨選択しているとはいえ、作品のおかれた順序が同じだからである。さらに、出典の確かな根拠は、「異数の世界へおりてゆく」の一節が、「ユリイカ版では初出と違っているからだ。昭和三十(一九五五)年六月号の『詩学』に掲載された初出では「無関係にうちたてられたビルデイングと」なっているが、ユリイカ版も思潮社版も現代詩文庫版も「無関係にたてられたビルデイングと」となっている(思潮社版、現代詩文庫版ともに「ビルデイング」を「ビルディング」としている。)これは、定本詩集に収録された際に初出にあらためられた。森が初出を読んでいたり、確認していたとしても、むやみに変えることはないから、初めて収録されたユリイカ版の作品をもとに作成することが自然であるといえる。このようなことは、「二月革命」の初出における「霏霏」(『荒地詩集1957』)がユリイカ版では「霏々」となっていることからも明らかだ。もちろん、吉本にとって私家版以外のまとまった詩集は、ユリイカ版が初めてであったこともその理由だ。[下線部傍点_吉田]
 また、解説である「序」は、三部構成になっており、吉本が「社会主義リアリズム論批判」で引用しているのは(3)の冒頭から三分の二ほど、「文学的表現について」での引用は(1)の部分である。なお、(2)では冒頭の「吉本隆明は、我々の世代より上の世代では、もっとも革命的な芸術家である。」と述べてから、吉本の批判も述べている。少し長くなるが次のとおりである。
 
  彼は詩の中で、例外なしにすべてのものごとに対立する。(本文改行―宿沢) 彼はまだ解放されていない人間の苦悩を、人に先んじて苦悩し、心の中で解決して、人々に示し、人々の苦悩を和らげようとする。(本文改行―宿沢) けれども彼は、まだ人間苦一般からしか出発しない。人間苦が、丁度その反対のもの、人間の快楽、連帯、等々の現存と同時に現存すること、感覚、感性の面にかぎって言えば、人間苦の否定が観念的にのみ行われるのでなく、現存のうちに、現実的に行われることについて感じとることができない。(本文改行―宿沢) 丁度、彼が、社会革命の必要性について深刻に感じたとしても、その前提条件が、現存の社会関係の中に実存することについて十分評価できないでわれわれの革命戦略を、労働者、農民、中小企業者によるプロレタリア革命、という奇想天外な型でとらえるように。
 
 この後、「涙が涸れる」や「恋唄」(「九月はしるべのなかった恋のあとの月」)の一節について言及している。そして(3)の吉本が「社会主義リアリズム論批判」で引用した箇所の後で、次のように述べて「序」をしめくくっている。やはり長くなるがあえて引用する。
 
  最近花田らが主張している「大衆芸術論」もこの一種にすぎない。(本文改行―宿沢) われわれにできることは、芸術創造の範囲内では、現存の社会関係の下で、個人的創造そのものを個人的創造としての性格を変えないでどれだけ社会的創造に近づけるか、個人的創造を、プロレタリアの心理や生活環境を知ることによって、どれだけプロレタリア階級の創造に近ず(ママ)けるか、ということにすぎない。(本文改行―宿沢) だから、吉本隆明の詩の享受も、君たちはめいめい勝手にするより仕方がない。その美しい言葉の中におしこめられている苦悩や愛や絶望や希望や情熱やを君自身の経験の中に言葉を投げ込むことによって引き出し、君の苦悩や愛やを、詩人の感性のたどった道にそって動かしてみて、慰めを感じとれたら、それで君は詩を享受したわけだ。[下線部傍点_吉田]
 
 これが(3)のすべてである。吉本の引用はその批評で確認していただければわかる。こんなにもくどく確認したり、引用したのは、資料として残しておきたかったからだ。わたしは[糸へんに土を重ねた=スガ_吉田]のような事情通ではないから、「この本は、創設されたばかりのブントの闘争資金を援助するために、吉本が詩を提供して作られたものと推定できる。詩集代金はカンパ扱いで販売されたものと思われる。」と言った、吉本から直接聞いたわけでもなく、あるいは吉本がこの件に関して書いたりしたこともない流言蜚語まがいのことを「事実」のように流布する方法を否定するだけだ。川上春雄が『現代詩手帖』一九六二年五月号の「吉本隆明年譜断片」の「昭和三十三年(一九五八)三十五歳」のなかで「『吉本隆明詩集』は、やがて安保闘争の激化とともに学生、労働者など感受性のゆたかな若い人たちによく読まれ海賊版といわれる書物の印刷をうながすにいたつた。」(現代詩文庫版では「学生、労働者などによく読まれ海賊版の発行をうながすにいたった。」)と述べてはいるが、海賊版がこの詩集であるとはどこにも記してはいない。川上は、「昭和三十四年(一九五九)三十六歳」で、この詩集について「一九五九年春、森茂編・解説「革命芸術・芸術論叢書1」というタイトルで『吉本隆明詩集』が出ている。とくに、五十八年十二月十日に結成された共産主義者同盟や革共同などで読まれた。解説を書いた森氏は、当時の意見とは考え方が変わったので近くまとめて論文を書きたいといっている。」と述べているだけだ。これらは、以後の川上の年譜からは削除されたことがらである。川上は、ただ、これだけしか記していない。川上が、この詩集の成立に、吉本のどのような関与があったかを知っていたとしても、だ。
 吉本は、このようなたぐいの流言蜚語の流布をしこたま体験しており、デマゴギーとの激しい消耗戦を戦わざるをえなかったのである。

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吉本隆明資料拾遺(4)詩「火の秋の物語」の異稿について 宿沢あぐり(「猫々だより」84 2009.7)

 『転位のための十篇』に収められた、あるいは吉本によって「〈歴史的現実との対話〉のほうへ移行した」(『固有時との対話』の「少數の讀者のための註」)ことの〈転位〉がどのようなものであるかを示した十篇のうち、「日時計篇」にその原形を残しているのは、最初におかれた「火の秋の物語」ただ一篇のみであり、この「火の秋の物語」と「分裂病者」、「一九五二年五月の悲歌」の三篇が既発表の作品であること、残りの七篇は「日時計篇」にその原形を残しておらず、直接関連する草稿も発見されておらず、未発表のまま『転位のための十篇』の作品として収められたことは、吉本自身の「註」と川上春雄の『吉本隆明全著作集』の『定本詩集』や『初期詩篇II』での「解題」に書かれているとおりである。
 川上は、詩作品の異同について「解題」で詳細にふれており、作品の異同箇所まで掲げているが、なぜかこの既発表の三篇についてはまったく掲げていない。他の作品と比べても不思議である。
 このうち、「火の秋の物語」は、その異稿として「日時計篇」のなかの「〈火の秋のうた〉」をもっているが、『大岡山文学』に逸見明の筆名で発表された「火の秋の物語」もまた異稿であるといえる。
 この「火の秋の物語」を「〈火の秋のうた〉」を改稿した第二異稿とすれb、その異同がどのようなものであるか判明する。ここでは二篇を比較するためにそのすべてを掲げる。


〈火の秋のうた〉 火の秋の物語
   ―あるユーラシヤ人に―   ―あるユウラシヤ人に―
ユージン その未知なる人 ユージン その未知なひと
いまは秋で暗く燃えてゐる風景もある いまは秋で暗く燃えてゐる風景がある
きみの胸の鼓動がそれを知ってゐるであらうと信ずる根拠がある きみの胸の鼓動がそれを知ってゐるであらうと信ずる根拠がある
きみは廃人の眼をしてヨーロッパの文明を横切る きみは廃人の眼をしてユウラシヤの文明を横切る
きみは至るところで銃床を土につけて佇ちとまる きみは到るところで銃床を土につけて佇ちどまる
きみは敗れ去らうとする兵士のひとりだ きみは敗れ去るかもしれない兵士たちのひとりだ
                                         
ばかにあらゆるものは暗いではないか ばかにあらゆるものは昏いではないか
すべての風景は秋ではないか すべての風景は秋ではないか
空をはしり去るものは候鳥の類ではない 空を過ぎる影は候鳥の類ではない
舗路を歩むものはにんげんばかりではない 舗路(ペイヴメント)を歩むものはにんげんばかりではない
ユージン きみはソドムの地の最後の眼としてあらゆる風景を視つづけなければならない ユージン きみはソドムの地の最後の眼としてあらゆる風景を視つづけなければならない
そうしてゴモラの地を記憶しなければならない そしてゴモラの地を記憶しなければならない
きみの眼が視たものをきみの女に産ませねばならない きみの眼が視たものをきみの女に産ませねばならない
きみの死がきみに安息をもたらすことは確かだが きみの死がきみに安息をもたらすことは確かだが
それはわたしを暗い告知で傷つけるであらう それは暗い告知でわたしを傷つけるであらう
告知はそれを受けとる者の側からいつも無限の重荷である 告知はそれを受けとる者の側からいつも無限の重荷である
この重荷を捨て去るために この重荷を捨て去るために
黒づんだ運河のほとりやかつこうの悪いビルディングの裏路を 黒玄んだ運河のほとりやかつこうの悪いビルディングの裏路を
わたしが歩んでゐると仮定せよ わたしが歩んでゐると仮定せよ
その季節は秋である その季節は秋である
暗く燃えてゐる風景のなかに訪問した秋である 暗く燃えてゐる風景のなかに来た秋である
わたしは愛の破片すらもってゐないのである わたしは愛の破片すら喪してしまつた
わたしはやはり左右の脚を交互に踏んで歩まねばならないであろうか それでもやはり左右の脚を交互に踏んで歩まねば
                     ならないか
ユージン きみはこたへよ ユージン きみはこたえよ
荒廃した土地で悲惨な死をうけとるまへにきみはこたえよ 荒廃した土地で悲惨な死をうけとるまへにきみはこたえよ
やがて世界は愚かな賭け事の了った賭博場のやうに 世界はやがて愚かな賭け事の了った賭博場のやうに
焼けただれて寂かになるであらう 焼けただれて寂かになる
きみは愚かであると信じたことのために死ぬであらう きみは愚かであると信じたことのために死ぬであらう
きみの眼は小さな棘にひつかかつて乾く きみの眼は小さな棘にひつかかつて乾く
きみの眼は太陽とその光を拒否しつづける きみの眼は太陽とその光を拒否しつづける
きみの眼は眠らない きみの眼は決して眠らない
ユージン これはわたしの秋の物語である ユージン これはわたしの火の秋の物語である
                     (1951.10)
                                    [下線部傍点]=吉田註]

 この二篇を読めば、「〈火の秋のうた〉」から「火の秋の物語」(第二異稿)を経て『転位のための十篇』のなかの「火の秋の物語」へといたる改稿のすがたを垣間みることができる。
 また、「火の秋の物語」の末尾に書かれた日付から、「〈火の秋のうた〉」が昭和二十六(一九五一)年の十月以前に書かれたことも明らかになる。
 『転位のための十篇』に収められた最終形である「火の秋の物語」では、漢字をひらがなにかえることによって、漢字じたいの意味からことばをときはなつ吉本独特の手法がみられるほか、「日時計篇」での「にんげん」と言うひらがなの右側に付された「ヽヽヽヽ」の意味付けもなく、「ユージン」は「ユウジン」となり、「ばかにあらゆるものは昏いではないか すべての風景は秋ではないか」は「じつにきみのあしおとは昏いではないか きみのせおってゐる風景は苛酷ではないか」と改められ、「ユウジン」へのより直接的な投げかけのことばとなっている。また、「ソドムの地の最後の眼」は「ソドムの地の最後のひと」となり、記憶すべきは「ゴモラの地」ではなく「ゴモラの地の不幸」となる。
 川上が、これだけの異同のある作品について「解題」であえてふれなかった理由がなんであるかは、現在ではわたしたちには知ることができない。
 なお、「分裂病者」における字句の異同は、漢字からひらがなへのときはなちと、字句の右側に付された「ヽ」の削除のほか、「永遠に」が「けっして」に、二度目の「おう きみの喪失の感覚は」から「おう」が削除され、「人類のおほきな雪崩」は「にんげんのおほきな雪崩」に、「きみの落下と内閉」は「きみの落下ときみの内閉」に改められたほどであるが、「一九五二年五月の悲歌」には看過できない異同があるので、川上には「解題」で詳細に書いてほしかったとおもう。これもないものねだりだが。

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小文集『大和川遠足』今村秀雄 長谷川博之(「猫々だより」85 2009.8)

 『大和川遠足』についての書評の前に、『吉本隆明歳時記』より〈自然〉の概念を、基盤として把握しようと思う。この作者について何か言う際、手掛かりとなるかもしれないからである。終の章「季節について」において吉本は、ヘーゲルの自然の規定について言っている。「〈アジア〉では〈自然〉は人間の自然意思の否定のうえに成立っている。だから〈アジア的〉な〈自然〉の概念は絶対的な存在(あるいはその力)の概念と手易く一致してしまう。それ自体が人間の自然な意思の否定につながっていることをはっきりさせた。」僕なりに吉本の言葉を考えれば、〈アジア〉においては個人の、選択や考えの総和という自然意思はまず一度否定される。〈自然〉はそれ自体で先験的な観念として了解され、統治者やそれに近い立場にある者は〈自然〉への同化を行い、より〈自然〉は強化をされ個人の意志の抑制が行われる。ヘーゲルは続け、よって〈アジア〉では〈自然観察〉が優秀であると定義づけている。
 「大和川遠足」の作者はどうだろうか。僕はこの一冊に〈アジア〉の〈自然〉ではなく、自然意思で相対化された〈自然〉への強い確執を見たような気がする。
 「家族の寝静まった深夜(中略)地図の上の大和川の、ブルーの点線をたどって迷う私の指先は、エロティックな謎の空白に突き当たるだけだ。」(上流の瀧田大社、さらに遡った広瀬大社について)「それぞれが風の神、雨の神を祭るとされている。古くから朝廷の勅使が祝詞を奏上したのは、両社ともが飛鳥の宮居からは北辺の境界を守る、塞の神として信仰されていたからだと伝えられる。」
 「川底はすっかり真っ白なブロックで固められていて(中略)その人工の凹状の表面を薄くて透明な川の水が、まるで大阪平野の地図の上をなぞるように、キラキラと輝きながら流れてゆく。私たちはその見慣れている美しい景色の中へと、降りていった。」(以上、「大和川遠足」より)
 「一枚づつの葉っぱや茎が、微妙にその方向を違え、互いに身振りをずらし合い、光っている葉裏と影がねじれて、それらはまるで緑色の奇妙な形の生物たちが、てんでの意思を持って踊り続けているようにも見えた。またそれらが全体の草むらとして固まり繁茂して、無限に続く緑色の濃淡が渦巻く中心から、不思議な一つの感情にも似たものがドキドキとあふれ出して来て、僕らに迫った。」
 『「《どんなふうに描いても良い》ということは、《自由だ》ということとは違うね。まず景色のほうが存在し、変化してゆく。僕らに可能なのは、一人づつが景色を見ることだけだ。迷うなんてあり得ない」』(以上、「小森君の思い出」より)
 「オバたちが私に告げるところによると、この今日の喜びの日に、新しい妃殿下はおとこ神になり畏くも天皇陛下がおんな神におなりになる取りかへばやの儀式の次第が、先ほどまでテレビで中継されていた。」「隣の布団はと、のぞき見ると、M男と妻のS子が重なり合って、要するに私が、一人二役でやっていることを二人で正常に繰り返しているにすぎない。M男はうつ伏せのS子の背後から馬乗りになった恰好で、烏帽子を前後に振り立てて、気の弱そうな顔の口を半開きにハアハアと息を吐き続けている。」(以上「祝言事の次第・偽」より。傍点[下線部]本文)
 自然意思の発揮された部分を抜き出してみた。短い小説のなかで、時間と空間の構成がちりぢりに描かれている。現在の〈自然〉がもはや自然意思にじゅうぶん浸透されているのが、そっと告げたい作者の本意かもしれない。地図のうえでのエロティックな遠足。太古には朝廷の勅使が祝詞を奏上した神社を持つ大和川も今では川底のブロックの上をキラキラした水が流れる。自分たちに可能なのは個別的に景色を見ることであり、テレビ中継で教えられる絶対的な存在の儀式は、自分の女房が別の男に犯されるのを偽の儀式で相対化される。草木一本ずつを写生するにも一本いっぽん個人的に動いているのを理解しなければならないと説く小文は、コンクリートの川底の上を流れる川の輝きみたいに魅力的だ。
 「まるで緑色の奇妙な形の生物たちが、てんでの意思を持って踊り続けているようにも見えた。」
 最後に本書では高村光太郎論の一部が収められ作者の〈自然〉感が炙り出されている。
 「私自身を高村の「自然詩」を読んでいて「たまらんなァ」と感じさせるのは、たぶんその観念の臆面のなさに対してである。何が何に対して臆面が無いのか?高村の獲得した「自然」という観念が、高村の詩の言葉に対して臆面がないのである。――高村が詩の中で、自分たち二人の愛を誇り、「自然」を讃える、これは高村の自由である。しかし高村の詩の読者としては、この自由が、観念によって言葉を使って拡張されてゆく歯止めのない自由だとすれば、やはり困ってしまう。私もまた臆面もなく言ってしまうが、「自由詩」の自由とは言葉が言葉にたいする自由でなければならないからだ。」(以上「モチーフとしての光太郎論(3)」より。傍点[下線部]本文)作者の言葉を僕自身で受ければ高村は、言葉をいったん固定してからそれを観念を媒介として天然自然として拡げてゆくのである。先に引いた吉本隆明(ヘーゲル)の〈アジア〉的概念の〈自然〉を高村は取りあげ〈アジア〉の〈自然〉どおりの自然意思を抑え〈自然〉へと迷わず同調してゆくのである。「自由詩」の自由とは〈自然〉観の拡張などではなく正反対に自然意思の言葉としてあるべきである。『大和川遠足』の作者は自然観察の巧者などではなく、ひめやかながら優れた意味の人であると思う。(小文集『大和川遠足』今村秀雄2008年2月刊(私家版))

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松岡龍美『ブルークリスマス』 長谷川博之(「猫々だより」86 2009.9)

 松岡龍美という人がどういう経歴の持ち主であるかは解らない。けれど僕にはこの本はとても面白かった。
 1985年に小学校5年生が教師と諍いを起こし、飛び降り自殺をした実際の事件があった。『ブルークリスマス』はその事件を上手に小説全体に取り入れ、事件を理解し、小説を開こうとする姿勢がみえる。作者は、言葉を選ぶのにかなり慎重である。文体からみれば、意味を少しづつ重ねてゆくタイプの小説だと思った。(注)
 僕もそろそろ年を喰い始めている。上手く言えないし、言う気も起こらないが、何年ぐらい前からか、死を意識することがある。サラリーマンの出来の悪い息子である。世間にでるのも難しく遅かった僕は、考えることも迂回してしまう。ただ頭で思ったり、本で読んではため息をつく。死んでしまうことなんて本当は難しくて解らなかったのだ。怖いものだなあという感慨だけが残った。
 「昼も暗いそのマンションの下を通りかかろうとして、トオンは、空から落ちてくる人影を見たのです。
 それはとても優雅で、時間を超えたところから地上に舞い降りてきました。
 そして、数回バウンドすると、そのまま動かなくなってしまいました。
 トオンがあわてて近寄ると、雪のうえに赤い血がにじんでいました。
 落ちてきたのは同じクラスのミノルでした。
 トオンが空を見上げると、マンションの屋上から、天にのぼって行く光が見えました。」(「ブルークリスマス」より)
 意味と像が一体化された、きちんとした文体である。引用したなかで最後の一行には作者が基盤として持つファンタジーの要素が埋め込まれていて、重要な箇所だと思える。
 もう少し細かく作品へ入ってみよう。父親を遭難で亡くし、ピアノ教師をして働く母と一緒に暮らしている小学6年生のトオンという少年が、クリスマスを前に担任教師と授業で、宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」を巡り口論となり、居残りをさせられたりして、次第に孤独感を深め、日に日に周囲に、親和と、異和を生じさせてゆく。これが大筋だ。『ブルークリスマス』に小説は3つ収められているが、ここでは中心となっている「ブルークリスマス」をとりあげる。残りの2編では、主人公はアンジュという少女であり、トオンの原型でもあるような、冬音という少年も出てくる。宮澤賢治をモデルにしたような人物も出て、ファンタジックないろあいの濃い物語である。
 トオンはマンションの下を通る時に、飛び落ちてくる人影を見た。優雅で、時間を超えたところから、地上へ降りてきたと書かれている。けれどこれは人が飛び降り自殺をすることとは逆になっていると思う。私たちは知っている筈だ。人は暗いところを通って明るいところへ生まれでてくるのだ。ミノルはまるで、新たに生まれ変わるみたいに、魂は天にのぼってゆき、古い身体は地へ還ってゆく。母親からの出生を消去して、時間を超えたところからとあるのは、一般的な意味どおりの子宮のなかからと作者が考えていないのを現し少し、神秘的ではある。一文を一行ごとに使っている言葉の配置が意味をはっきり表示することになっている。「そして、数回、バウンドすると、そのまま動かなくなってしまいました。」雪というクッションを敷いてあるので、決してすさんだ光景にはしない。「トオンがあわてて近寄ると、雪の上に赤い血がにじんでいました。」モデルとなった現実の事件でも、自殺した少年が持っていたひとつに雪というイメージがあったらしい。柔らかな意味をなしていると、読める。「トオンが空を見上げると、マンションの屋上から、天にのぼって行く光が見えました。」真昼の幻覚みたいにこの一節は描かれている。作者は冒頭で触れている。
 『「やっぱり、神様のところなのかなぁ。だってさ、やっぱりさ、空のさ、ずっと高ーいところって感じなんだ。青ーい空のね」』(中略)
 「その日、トオンはベッドの中でなかなか寝つけず、白い天井をみつめていました。耳がシーンとしてからだが透明な光りにつつまれているような気がしました。」考えても仕方がないのだが「ブルークリスマス」はミノルの飛び降り自殺を目撃したトオンがミノルを思い出し、学校や教師や周囲の友達や、母親に違和感を憶え、少しづつ孤立してゆく物語だ。そのため、通常の、物語をいっぱい含んだ小説とはたぶん、つくりが違っている。孤立しても、物語が拡散していっても、トオンは周囲に受けとめられてゆく。言葉はどこまでいっても強度の意味を含み、イメージは意味と結びつけられる形で存分に発揮されている。
 正直に言って関心しているのである。読みやすく、とっつきやすくもある。生徒どうしの会話は、いくらなんでも小学6年生でこんなやりとりができるのかなと思っても、会話から抽出されるのは、しっかりとした現実認識で、そこは多分正しいのだと思う。僕らが学生だったころでも、僕には学校は息苦しく嫌なものだったが、今ではもっと、深いところで子供らは息苦しくなっているのかもしれない。作者にはそれがよく解っていて、こんな洗練されている文体で、この小説をつくりあげたのかもしれない。
 (注)『子どもの犯罪と死』山崎哲・芹沢俊介1987年12月刊 春秋社 に詳しい。
『ブルークリスマス』松岡龍美著 1997年12月刊 深夜叢書社

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吉本隆明資料拾遺(5)自作詩の朗読について 宿沢あぐり(「猫々だより」91 2010.4)

 吉本が自作の詩を朗読することはめったに、というよりも、まずすることはないといっていいだろう。
 講演などで自分以外の人の批評や小説や詩作品の一部を朗読することはあっても、自作の朗読をすることはなかった。
 自作の朗読の企画があったと聞いているが、それも実現はしなかった。だが、有名なのは、1969年の2月に上映された大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』における朗読がある。
 四方田犬彦は、筑摩書房の雑誌「ちくま」で連載が終了した「大島渚と日本」(今年3月に単行本で刊行される予定)の20「事後性について(1)」(2009年9月号)のなかで、故意にか巧妙にかわからないが、知っているにもかかわらず吉本が朗読していることにふれていない。


 主人公の一人であるウメ子は、あるとき深夜の紀伊國屋書店に忍び込み、本棚から次々と商品の書物を抜き出していっては、無人の床に積み上げる。集められた書物からは次々と著者の声が聴こえてくる。最初に『泥棒日記』のジャン・ジュネ、次にシモーヌ・ヴェイユ。萩原朔太郎。カシアス・クレイ。田村隆一。魯迅。フランツ・ファノン‥‥‥。


 カシアス・クレイのまえにヘンリー・ミラーがおかれているが、そのことはどうでもいい。大島渚の撮影前のシナリオでは、「ウメ子’本を’はじめ偶然に’そして次に’官能的にふれていく。まるで’本に話しかけるように。」(「アートシアター」65号・昭和44年2月15日発行)と書かれており、「ウメ子は古今東西の人間の魂の声を聞くことになる。途中から彼女は’それらの書物を一册ずつ空いている床に積み上げていく。それはやがて小さなピラミッドになる。ピラミッドにはおよそ次のような人々が含まれる予定である。」とあり、四方田が述べているようにジャン・ジュネからはじまり、樺美智子、白土三平、円谷幸吉、ミヤコ蝶々など九十人以上のおびただしい数の人々の「魂の声」が予定されているが、実際の映画ではそれほどではない。
 四方田と違い、高澤秀次は『吉本隆明 1945ー2007』(インスクリプト刊)の序章で「『現代詩文庫』に収録中の作品では、名高い『固有時との対話』(1969年、吉本は大島渚監督作品『新宿泥棒日記』でその一節を自ら朗読している)」と述べている。
 この映画の試写会は、当時『日本読書新聞』(昭和44年1月20日号)の「落丁集(こぼればなし)」でも「大島渚氏の「新宿泥棒日記」吉本氏の肉声流れる」」という題名で次のように取り上げられている。


 なかでも興味をひくのは、横尾忠則扮する少年が書店から本を万引きし、その万引きされた本が自分自身幻想としてひとりあるきはじめるとき、その本の著者の生の声が映画に流れるところとか。吉本隆明氏、田村隆一氏、富岡多恵子氏、白石かずこ氏が自分の詩を読むというわけ。外人ではジャン・ジュネなどの肉声も聞ける。白眉は、スターリンのコルホーズ大会か何かの演説を大島渚自身おごそかにのべるところというのが試写会をみた人の一致するところ。


 高澤が述べているように、吉本のこの朗読は『固有時との対話』の一節であるが、映画での表現としては、カシアス・クレイのすぐ後、横山リエが演じる鈴木ウメ子が棚に並べられている本を指先で(官能的に?)触るところの映像にながれてくる。


 明らかにわたしの寂寥はわたしの魂のかかわらない場処に移動しようとしてゐ
 た わたしははげしく瞋らねばならない理由を寂寥の形態で感じてゐた


 これは、『固有時との対話』の最後の二行だ。吉本は「寂寥」を「ジャクリョウ」、「瞋らねば」を「イカラネバ」と朗読している。写真とおもわれる吉本の視線を落とした左の横顔が映し出され、次に思潮社版の『吉本隆明詩集』の表紙の上半分ほどが映し出される。この間一分あるかどうかだ。続いて富岡多恵子の朗読が始まる。吉本の朗読は、演技もなく、感情移入もない朗読だ。
 この朗読が、大島によって依頼されたものなのかどうかは定かではないが、今となっては貴重な自作詩の朗読であることには間違いない。ただ、この二行が声に出して読む朗読の詩にふさわしいかどうかは別のことである。

 (映画『新宿泥棒日記』を確認できたのも藤井東さんのおかげです。ここに記してお礼申し上げます。)

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吉本隆明資料拾遺(6)吉本家の掛軸の句ついて 宿沢あぐり(「猫々だより」92 2010.5)

 吉本隆明の家を訪れた人々の数はかぞえきれないだろう。親しく長年訪れている人や、一度きりで訪れることもないまま去っていった人々も多いだろう。現在の家にもまたたくさんの人たちが訪れているだろう。その人たちが招かれた客室にある掛軸に、目を止めた人はやはりたくさんいるとおもわれる。「ほぼ日と作った、吉本隆明特集」を組んだ今年の二月十五日号の雑誌「ブルータス」のなかのインタビューの写真にもその掛軸は写されている。
 その掛軸の句について、たとえば、二〇〇五年一月十七日付の雑誌「AERA」の「新しい幸せのかたち」では、インタビューの前にこの句について「見ままの 影がありけり 箒草 虚子」と書き、「見」に「みし」と、「箒草」に「ほうきぐさ」と、「虚子」に「きょし」とルビをふっている。
 大方がこのように、筆使いから最初の漢字を「見」と読んでしまうことは仕方がないだろう。
 吉本自身がこの句について直接言及したものはおそらくない。
 もちろん、インタビューのときや訪れた人たちとの歓談の折に、この句について語ったことがないとはいえないだろうが、それが公になったことはないので、吉本がこの句について述べたことはないといえる。
 この句が「虚子」と書かれた作者名から、高濱虚子(以下「虚子」と略す。)であるとかんがえるのが一般的だ。
 箒草は、「帚木(ははきぎ)」であり、昭和九年十一月に発行された虚子の『新歳時記』(三省堂刊)によれば、俳句における四季の区別を、陰陽五行説を採用し、五月・六月・七月を夏として、七月の季題にあげられており、「よく田家の庭さきや、田圃の畝などに栽培されてをるのを見る。莖は三・四尺くらゐで、枝が極めて多く、全體が圓味を帶ぶ。これを乾して箒を作るところからその名がある。」と解説し、虚子は、例句のひとつに自身の句である「帚木に露のある間のなかりけり」をあげている。
 箒草といえば、わたしの現在の住まいである家の小さな庭の片隅にも七、八年前にふたつの箒草が並んで生えていた。夏には、少し離れてみると、陽にかざしたペットボトルの緑茶のような色で、花の好きだった猫がよくその根元の影で涼んでいた。また秋に変わる頃には薄い赤ワインのようなあざやかな色になった。季題として秋にもありそうだが、あくまでも夏の季題になっている。
 その箒草は今はなく、そこは涼んでいた猫の墓になっている。
 ところで、吉本家の掛軸の句を虚子の俳句として、「見」という漢字から始まり、「箒草」で終わる句を句集から見つけだすことはできない。毎日新聞社から発行された『定本 高濱虚子全集』第四巻に、「俳句集初句索引」があるが、このなかに「見ままの」ということばは探してもない。それゆえこの句は句集には収められていない句である。  だが、これに似た句は、句集には収められていないが、みつけることはできる。俳句の世界に馴染んで虚子の俳句を知っている人であれば知られている句だ。


 其のまゝの影がありけり箒草


 虚子が昭和五年から死ぬまで「ホトトギス」に掲載しつづけた「句日記」の昭和五年八月八日に、その頃毎月定期的に出席していた東大俳句会で発表した俳句のひとつとして記されている。他の句は「帚木に影というものありにけり」と、先の『新歳時記』における例句の「帚木に露のある間の無かりけり」(昭和十一年十一月に発行された『句日記』改造社刊による。)で、これから、このときの季題が「帚木」であったことがわかる。虚子五十六歳のときである。
 この三句がどのようにして生まれたかを、昭和五年当時さまざまな人たちの文章で掲載されていた「讀賣新聞」の連載「自畫 像を描く」の八月三十日付けの第十八回lと九月二日付けの十九回の二回にわたって「箒草」という題の俳分で虚子自身が解説している。
 まず、虚子は、箒草とその影の一日おける様子を細かく記述して、つぎのように述べている。


 二六時中にこんな單調な變化が繰り返されるのであるが、氣がついてみるとその間に一度も其の箒草に露の下りて居るのを見たことが無い。見たことが無いといふことを實驗したのでは無いが、箒草といふものを冥想することによって、この露のないといふことに氣がついて見ると、それが此の草を活かす一つの方法であるやうな心持がする。實際露があってもかまはない。露が無いと觀ずることが、箒草を頭の中に再現して見ることに有力な働きをなすやうに思ふ。そこでかういふ十七字が生れる。
    箒 草 露 の あ る 間 の な か り け り


 そして虚子は、こうしたことは箒草だけにかぎったことではないという意見が出ることを予測して、「それに就いて彼は尚云ふべきことを持ってをる。」と第十八回の(上)を締め、第十九回の(下)でつぎのように述べている。


 箒草になると、何もない庭のまん中に唯ひとり生えて居ることがよくあるものであって、烈日がこれを照らす時分に、地上に黒い影を落して居るといふ其の影法師も、亦一個の明確な存在である。箒草を想像する時分に、どうしても此の影法師なるものを閑却することは出來ない大切な條件であるやうな心持がする。そこで彼はこんな十七字を作つて見た。
    帚 木 に 影 と い ふ も の あ り に け り
 また影其の物の特別の性質を讃美するやうな心持でこんな句を作つて見た。
    其 の ま ゝ の 影 が あ り け り 箒 草


 ここでは昭和四十九年四月に発行された『定本 高濱虚子全集』第八巻 冩生文集(一)に収録されたものから引用しているが、初出の讀賣新聞では「其のまゝの影がありけり箒草」であり、「其」に「その」、「草」に「くさ」とルビがふられている。
 また虚子は、このなかで、「箒草のことを考へて居るといふよりも、寧ろ箒草の影のことのみを考へて居るといふ方が適切な位である。」とも述べている。
 虚子は、自然としての「花鳥」、季題としての「花鳥」を諷詠する「花鳥諷詠」を俳句の本質とみて譲らなかった。この虚子の、花鳥諷詠の方法が、客観写生という技法であったことは、俳句の世界では有名である。
 正岡子規の「写生」を経て、「客観写生」という技法を自身の俳句の方法としていた虚子は、大正十四年に「其句が何等主觀詞を交へずに客觀の景象を描いてゐるものであれば之を客觀冩生句と稱へるのである。裏面に作者の主觀の働いてゐることは如何なる場合でも同じ事である。」(「(再び)客觀冩生も主觀の領域」より)と述べ、昭和二十八年に娘の立子にあてた文章「客觀冩生と主觀描冩」のなかでも、「たゞ平凡と見える客觀の冩生の底に作者の主觀の火を見得る人のみが句を善解する人であると思ふ。」と述べている。
 このように、「客観写生」という技法からすれば、箒草の影を諷詠するのに、「見たまま」あるいは「見しまま」といった「主観詞」が句に入ることはないといえる。
 それゆえ、虚子の筆使いによる「見」と「其」の違いはわからないが、吉本家の掛軸の句は、虚子の句であるならば、「其まゝの影がありけり箒草」である。
(吉本家の掛軸については、米沢市の齋藤清一さんのおかげです。ここに記してお礼申しあげます。)

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吉本隆明資料拾遺(7)「現在」への転換期のひとつの兆候としての「天然水」をめぐって 宿沢あぐり(「猫々だより」94 2010.7)

 2010年4月8日、アサヒビール傘下のアサヒ飲料がハウス食品から「六甲のおいしい水」にかかわる事業を買収したと発表した。ハウス食品は、現状の市場での価値をもはや自社販売の製品としては負荷とみなし手放したことになり、一方のアサヒ飲料は、「六甲のおいしい水」という市場に浸透している価値をウォーター・ビジネスの戦場でより価値を産む商品であると評価した結果ということになる。(そうではなく、頼み込まれての仕方がない結果であるかもしれないが‥‥。)
 「六甲のおいしい水」といえば、わたしはテレビのCMで、中村吉右衛門がうまそうに飲んでいたことを覚えている。たしかに「六甲のおいしい水」は、今では当たり前に売られている水の代表的なひとつだ。
 ところで、吉本は、1980年代の終わりごろからしきりに、戦後日本が「現在」へと大きく転換する時期を探っている。吉本は、この時期を確定し、その時期の社会現象や文化現象の分析によって「現在」の社会像や文化像をはっきりと思想的に包括し、現在を見極め、思想が生きる方途をつけようとしていた。そのひとつの兆候が「天然水」の発売であった。
 たとえば、吉本の「天然水」への言及について、「ブルータス」2010年2月15日号の「ほぼ日と作った、吉本隆明特集」では、「人はなぜ、忙しいのか?」という問いのヒントとして1991年の講演「現代を読む」から、天然水への吉本の言及が引用されたり、「中央公論」2010年4月号における「〈アジア的なもの〉と民主党政権の現在」の対談者の中沢新一は「確かに吉本さんがしばしば言及される、ミネラルウォーターの登場に象徴される、日本における資本主義の生産から消費への転換、消費社会の到来には、ロシア・マルクス主義の発想では対応できませんね。」といい、2010年4月に発行された『吉本隆明の一九四〇年代』(ペリカン社刊)のあとがきの冒頭で、著者の渡辺和靖は、「「おいしい水」が発売されたとき日本社会は高度資本主義の時代に突入した――これは吉本隆明が洞察した真理である。」とまで述べている。
 渡辺のいう「「おいしい水」が発売されたとき日本社会は高度資本主義の時代に突入した」と吉本自身がどこで述べているかわからないが、『大情況論』(弓立社刊)に収録されている「日本の現在・世界の動き」には次のことが語られている。この講演は、アイム'89教育フォーラム実行委員会主催で1990年9月におこなわれている。
 このなかで、吉本は、家庭総合研究会編、『昭和家庭史年表』(河出書房新社刊)の項目から1973年(昭和48年)ごろから1975年(昭和50年)ごろにかけて転換のピークがあると推定して、次のように語っている(なお、この『昭和家庭史年表』についての書評は、「マリ・クレール」で連載された「新・書物の解体学」1990年10月号に掲載された)。


 昭和四八年に、政府は石油ショックの対策をうち出しています。つぎに、サッポロビールが天然水「No.1」っていうのを発表したという項目があります。いまだったら「六甲の水」とかさかんに売っているでしょう、そのはしりです。これは相当に重要なことだとおもわれます。天然水とか、空気とかは、マルクスによれば使用価値はあるけど、交換価値はないということになっています。マルクスの経済学である『資本論』は、製造工業が主体でそれに農業があるか、あるいは農業が主体で製造工業があるという、資本主義社会の興隆期が分析の主たる対象になっています。つまり、第一次産業と第二次産業が資本主義社会の産業構成の大部分だったときには、空気とか天然水は役に立つものだけれども交換価値はない。水なんかはどっかからもってくればいいし、空気を吸うのはただでいいんだっていうことになっています。ところが、この年、日本の社会は天然水を使用価値もあるけど、交換価値もあるものとしてはじめて売り出したのです。つまり価値は、相対的な価値としての価格として表現されますから、天然水は価値もあり、使用価値もあるものとして日本資本主義がはじめて生みだした商品だということを意味します。おおげさなことをいえば、です。
 要するに、サッポロビールが新しいことをちょっとやったということでしょうが、いま「六甲の水」が売りに出されているように、マルクスが使用価値はあるけど価値はないとかんがえていたものが価値として売り出された段階を、日本の産業社会がもったことを意味します。産業がマルクスの時代よりも一段階進んだということです。それが、資本主義の成熟かどうかわかりません。老衰のはじまりかもしれません。少なくとも興隆期の社会主義者が分析した資本主義とはちがう段階に入ったということが、天然水の販売に象徴されたわけです。そういう意味で、これは、重要なことです。



 このことは、この著書に収録された、「現代を読む」でも、『見えだした社会の限界』(コスモの本刊)に収録された「二十世紀末の日本文化を考える」(初出は住友海上火災保険株式会社発行の「代理店通信」1991年2〜3月号)でも述べられている。ただ、『わが転向』(文藝春秋刊)に収録された「都市から文明の未来をさぐる」(初出は「クレア」(文藝春秋刊)1994年4月号に掲載された「東京の本100冊」)では、つぎのように述べている。


 東京の変貌を時代的に追っていくと、維新、震災、戦災、オリンピックという大きな区切りがあって、これはわかりやすいのですが、実はもう一つ、大きな変わり目があったと思うんです。それは精油ショックをはさむ七二年前後の二、三年です。
 このときね、サントリーが「ナンバーワン」という天然水を、初めて発売したんですよ。今も「秩父の水」とか「六甲の水」とかあるでしょう。あの先駆けの商品を、初めて売り出した。それから、京王プラザビルや住友ビルなど、四十階以上のいわゆる超高層ビルが新宿に建ち始めて、東京の景観を様変わりさせてしまった。これらの高層ビルのテナントは、たいていが情報産業、サービス産業の企業ですね。ぼくはこの二つの出来事が、ひじょうに象徴的だと思います。
 天然水をびんに詰めて売るという発想、そして売れるという社会。これはマルクスの『資本論』がもう射程を及ぼせない事態なんです。『資本論』のロジックの組み立ての基本は、使用価値と交換価値の概念ですね。水というのは空気と同じように、いつでもどこでも、だれにでも手に入れられるもの、わざわざ買い求める必要のないもの、つまり、使用価値はあるけれども、あるいは使用価値は極端に大きいけれども、交換価値はない、要するにタダの物ですね。
 ところが天然水の「ナンバーワン」が、石油ショックの頃に売り出される。初めは売れなかったでしょうけど、それがどんどん売り上げを伸ばしていった。マルクスがタダだと思っていたものが、タダでなくなった。資本循環の中で交換価値を持ち始めた。



 また、2009年10月号の「中央公論」に掲載された「天皇制・共産党・戦後民主主義」では、聞き手である大日向公男の「最初に、全共闘運動が高まりを見せた六〇年代後半から七〇年代初めの時期をどのように捉えられているのかお聞かせください。」という問いに、「この転機を最も象徴した一つの例が、サントリーの天然水の登場です。最初は酒飲みがウイスキーや焼酎の水割りを作るための業務用だったかもしれませんが、すぐに一般向けに市販され、すごい勢いで売れ行きを伸ばした。」と述べている。  サントリーが「ナンバーワン」という天然水を発売したのは間違いであるが、サントリーの天然水の登場は間違いではない。ただ、吉本が『昭和家庭史年表』の項目から1973年(昭和48年)の天然水の発売に注目していることからいえば、サッポロビールの天然水「No.1」であるといえるだろう。
 1960年代のはじめは、わたしなどの家ではまだ井戸水を使っていたし、家庭用の簡易水道がようやく普及してくるのは半ば以降だったと記憶している。(余計なことだが、この頃にはわたしの家でも、盥での洗濯から洗濯機に変わった。洗濯機には上に二つのローラーがあり、そこの間に洗濯物を入れてローラーについているハンドルを回して絞って脱水するというものだった。)
 こうした水の使用は、山梨県に限ったことではなく、都市は別にしても全国的にもその程度だったのではなかろうか。水道水や水に対する味や安全などを意識することはなかったといっていいだろう(水道水への不安は、1970年の「環境汚染」とともに激化している)。もちろん、明治の頃にはすでに天然水は売られてはいるが、あくまでも一般には関係ない世界でのことだった。
 『日々を新たに ― サントリー百年誌』によれば、サントリーが「サントリーミネラルウォーター」を発売するのは、1970年2月19日である。
 吉本も述べているように、サントリーは、日本人が好むウイスキーの水割りに使う水を瓶詰で業務用として販売している。この頃はまだ一般化されていなかったといえる。
 赤岡仁之が「水とビジネス」(『食を育む水』ドメス出版刊所収)のなかで、渡辺弥太郎の「脚光を浴びるミネラルウォーター ――公害時代の日本の旨い水」(1972年『食品工業』)を参考にしている資料によれば、1970年代初頭のミネラルウォーター市場では、「富士ミネラルウォーター(堀内合名)」、「サントリーミネラルウォーター(サントリー)」、「ニッカ・ミネラルウォーター(ニッカウヰスキー)」の出荷数が1970年にはそれぞれ15万ケース、10万ケース、5万ケースであったのが、翌年にはそれぞれ20万ケース、25万ケース、10万ケースになったという。しかし、これらはあくまでも業務用として限定されたものであった。酒場で水道水で水割りをつくるということはありえなかった。吉田類の「酒場放浪記」のナレーションの言葉を借りていえば、「酒場という聖地」ゆえに、水割りの水は水道水ではなく、水割りのための商品としての価値ある水でなければならなかったといえる。
 サッポロビールの天然水「No.1」は、これからすれば後発のミネラルウォーターだった。『サッポロビール120年史』には次のように記されている。


 昭和48年1月 当社は藤田観光(株)との折半出資で(株)日本水質研究所(資本金2,000万円)を設立した。この新会社は同年5月、ミネラルウォーター「No.1」を発売した。
 当社は、有力取引先である藤田観光とかねて密接な関係を持っており、文京区関口町にある同社の椿山荘の地下180mから涌出する地下水の分析を依頼されていた。同社には、この地下水をミネラルウォーターとして商品化する計画があった。当社研究所で分析したところ、日本の井水としては高度が高くカルシウムに富み、きわめて良質の水であることがわかった。
 ミネラルウォーターNO.1の命名は小川栄一藤田観光社長の発案によるもので、360ml入りのACLびんとし、赤い円の中に大きく「No.1」とプリントしたラベルを採用した。原水はタンクで当社川口工場に搬入し、食品衛生法に定められた基準にもとづき殺菌、製品化した。当初の販売地域は東京リボン飲料担当の京浜地区と藤田観光の全国事業場とした。



 年譜では、日本水質研究所がミネラルウォーター「No.1」を発売したのは、1973年5月21日だという。
 藤田観光(株)は、箱根小湧園や太閤園を開業している会社であり、当時は、観光バスやタクシー・ハイヤーといった観光にかかわる自動車の事業も営業し、昭和48年には初の直営ワシントンホテル、札幌第一ワシントンホテルも開業していた。
 一方の東京リボン飲料株式会社は、『サッポロビール120年史』によれば、元々カナダドライ社を子会社としていたカナダドライ・トーキョー飲料だが、カナダドライ社が自社ブランド以外のACLびんのリボンシトロンなどの販売を認めないことからフランチャイズ契約を解消し改称した会社である。当時は、まだ自販機はびん専用機が多かったが、昭和46年頃からサーペタイン(蛇行状)収納式の缶用自販機が開発されたことにより、びんと缶の自販機の数は逆転したという。ちなみに、「我が国の缶入り清涼飲料水は昭和40年代後半から急速に拡大し、45年の2,800万箱から50年の1億5,600万箱へと5.6倍になった」という。
 ところで、有料の水を家庭用としてハウス食品が、ミネラルウォーター「No.1」の発売の十年後の1983年(昭和58年)に商品化して発売した「六甲のおいしい水」は、赤岡仁之が参考にしている「製品開発物語・六甲のおいしい水」(ハウス食品社内報)によれば、商品のコンセプトが、「カレーライスのチェイサー」であり、和のイメージをコンセプトとした日本のおいしい水を呼び起こすようなネーミングにこだわったということである。そういえば、当時、カレーライスにはいつもコップの水がつきものだった。
 こうして商品としての水は、業務用から確実に家庭へと普及し始めている。それには家庭における冷蔵庫が当たり前にあることも後押ししているだろう。
 1990年代に入り、水は、というよりも商品としての天然水は、「健康」や「環境」や「安全」、「自然」といったイメージを付加されることによって、家庭から個人へと浸透していくことになる。
 これには、ペットボトル(和製英語?)の飲料用業界の自主規制の緩和により、500ml以下の小型サイズも是認されたことも手伝って、簡単にどこでも飲むことができ、気軽に持ち運ぶことができるようになったことも大衆化を促した一員といえる。
 こうしたことは、消費(資本主義)社会の中で「自然」がさらに高度化した段階へと押しあげられたことを意味している。もちろん、このことは日本の社会における兆候である。
 その兆候を、吉本は年表の項目から読み取ったのだ。

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俺と「赤色エレジー」 長谷川博之(「猫々だより」94 2010.8)

 古本屋に出入りし始めたのは、小学生後半の頃だったと思う。鉄道雑誌や大人向けの昆虫図鑑などが目当てだった。小遣いはまだ少なく、高い本などは買えはしなかったけれど、眺めていると図書室などよりずっと面白いのが解った。
 目的の古本屋までの道のりが楽しみだったのかもしれない。何か面白い本はないかと期待に胸を膨らませながら、歩いた。行動範囲も広がっていたから、少し遠くでも構わなかったのだろう。5回に1回ぐらいは、何か買うことができたと思う。
 何を買っていたのかはあまり憶えがない。あまりマンガを探した記憶もない。
 今から思えば良い時期だったのかもしれない。どこか可笑しいが、本を読むのは好きだった。もちろん児童書が多くて、空想の範囲は始めから限られていたが、ちっぽけな空想にしろそこには、いろいろの味があったのだと思う。
 図書館で図鑑を見るのも小さい頃から好きだった。買うことは出来なかったけれど、昆虫でいえば、蝶より蛾だった。種類も多かったし、細かな毛で覆われた胴や羽は、蝶よりも暖かく優しそうに思えたのかもしれない。
 古本屋通いは、年齢に従い一人でいることが多くなりだすと、増えていった。徐々に、幼童期から離れ気づけば、精神の沸騰が、日常的に発生していたと思う。みんなで遊んでいた小学生の頃とは、明らかに別々の棲み分けが始まりだしていた。
 幼童期のころ、マンガを手にすることはあまり出来なかった。四角い背表紙のマンガ雑誌を、購入させることを親は怠ったので、マンガを読むことが出来たのは、友達や親戚の家へ行った時だけだった。だから熱心に読んだ。「巨人の星」から「すすめ!!パイレーツ」まで。「山上たつひこ」から「上原きみ子」まで。みつければ夢中になって読んでいた気がする。けれど親にねだった記憶がない。それよりは中学の図書室で「忍者武芸長」を熱心に読み耽った。ここまでが少年期の貧しい自分のマンガ体験のほぼすべてである。
 中学生の頃は、かって思い出すのが嫌だった時期でもある。要するに進学タイプの少年で、私はのちにそのころの自分を嫌悪した。今ではさすがに、現在の自分を見ると笑ってしまえれるが、実社会に出たときは既に(中学生のころを基準にすれば)落ちこぼれであった。現在のように自壊していく要素などは、とうに青年期に出そろっていたのが解るのだ。
 マンガをねだらなかったと書いたが、ほんのわずかだけれど、例外が幾つか、あることはあった。小学生後半の頃に、今に先だって文庫版のマンガを各出版社が出していたことがあった。紙質のためか、結局は廃れてしまったが、田舎へ帰省する際や、誕生日に欲しがり、何度か、買ってもらえたことがあった。田河水泡の「蛸の八ちゃん」。杉浦茂の「猿飛佐助」などである。やっぱり何度も読んだ。
 直感的になるが、自分の小さかった当時、マンガに出てくる、男性、女性をどう描きわけるかは、出版業界ではほぼ決められていたのではないだろうか。うまく言うことは出来ないが、少年マンガ、少女マンガを問わず、男はこうやって描け、女はこうやって描き分けろと決められていたのではないかと思える。発刊されていたマンガの総量のなか、原則的にはなんだか、決定されていたのではないかとさえ、思えるのだ。
 古本屋通いは、中学生になり小遣いが増えるのに従い、相変わらず続いていた。買いたい本が買えだしたというのがポイントである。横浜の野下坂近くに、今でもある古本屋があって、わりあい店が大きかったから何度も行った。マンガのコーナーがあり、回転式の書架を回していると、マンガ文庫のなかに、妙な表紙をしたマンガを見つけた。女性の横顔だったが、通常の女性とは全く違った描かれかたである。中味を見ることは出来なかった。別にビニールパックをされていた訳ではなく、なんだか手にとり開くのが、やってはいけないことみたいに思えたのである。無理に理屈をこねると、つまり自分の読んできたマンガの中の女性に対して、その挿画は、より女性だったのである。そうであれば、本の中味の男は今まで読んできたマンガの男性に対して、より男性に描かれているのではないかと、感じたのではないか。
 ある日体育の授業中に、なんの球技だったかは忘れたが、体育教師が授業の説明をしはじめた。その時の体育教師は自分のクラスの担任でもあったが、私は当時、その説明を呆れることに腕組みをしながら聞いていたのである。馬鹿としか言いようがないが、私は中学のころ、そのような危険行為を平気で行っていたみたいである。教師は、当然言った。
 「長谷川、なんで腕組みしてるんだ。」腕組みをといて私は答えた。「癖です」体育教師はブチ切れ、全員の前で私は、軍手でボコボコに殴られた。感触は今でも憶えている。「癖です」はその後学校じゅうで流行った。後で友達に教えてもらったのだが、小学生の途中でマンションに引っ越してきた私は、やはりいろいろの点で他の生徒より目だっていて、たぶん教師には不快だったのだろうと。私は後の体育の時間をどう過ごしたか憶えていない。が、悲しいとか、寂しいとかの感情は湧かなかった。乾いていたのだ。ただ何か、リアクションを起こさなければ自分は潰れてしまうと思った。夕方、自転車に乗り、古本屋へ直行して例のマンガを買うことになる。
 いったい「赤色エレジー」を当時、中学2年生の私がどう読んだか、そこも記憶がない。それが、俺と「赤色エレジー」の関わりのすべてである。今回、久しぶりにアマゾンで手に入れ「赤色エレジー」を読んでみた。全てのコマに記憶があった。「赤色エレジー」はずば抜けた、マンガとしての魅力を今でも発散し、その解きがたい魅力を内蔵した、優れたマンガのひとつであると思う。

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吉本隆明資料拾遺(8)小説のなかにあった講演について 宿沢あぐり(「猫々だより」95 2010.8)

 吉本の講演の多さは有名である。しかもそれらの多くは、講演を企画したものと吉本との直接の交渉によって実現したものが圧倒的に多い。このことは類例のないことである。
 川上春雄は、『吉本隆明全著作集 14 講演対談集』の解題のなかで、「著者の講演のみでも約二百篇が数えられ、講演内容や場所等がまったく未詳のものも存する」と述べている。この解題が書かれたのは、昭和47年(1972年)6月25日である。
 初期の講演については、鶴見俊輔が、吉本との対談「思想の流儀と原則」(「展望」昭和50年8月号)のなかで、「二十何年前に講演を頼んだけども、その時はほとんど黙して語らずみたいなんだ。要するに存在による威圧感みたいなものだけだったことを覚えているんだけども、『敗北の構造』を読んでびっくりしたな、俺は。(笑)」と述べ、吉本の対談集である。『思想の流儀と原則』(昭和51年7月31日刊)の付録である「対談者による感想」に寄せられた「おぼえがきとして」のなかでもつぎのように述べている。


 はじめて吉本隆明にあったのは、明治大学の一室をかりて思想の科学研究会の仲間が、五、六人で彼の話をきいた時で、その時彼が花田清輝を認めるべきだと語ったことが心にのこっている。その時、目を伏せて低い声でほとんどひとりごとのような話をした彼が、二十年後の去年会った時には、窓をあけはなったように明るい表情で話したのに、おどろいた。


 二十年前とすれば、昭和三十年ころのことである。この講演記録について「思想の科学」やその前身である雑誌を調べてみたがまったく記録はみつからない。鶴見に直接手紙を出して尋ねてみたが、やはり記録は残されていないということだった。
 1960年代からは、弓立社の宮下和夫の精力的な努力によって講演のことがかなりわかっている。それでも不明な講演は数多くある。1961年におこなわれた講演(シンポジウムでの報告?)「革命的インテリゲンチャーとは何か」もそのひとつだ。吉本は自分から講演があることを積極的に他人に話すことはなかったからだ。尋ねられれば応えるという姿勢を貫いている。それゆえ、川上や宮下でさえも1960年以前の講演については、把握しきれなかったのだろう。
 ところで、芥川賞作家の李恢成に『地上生活者』(講談社刊)という小説がある。自伝的な色彩の濃い長編小説で現在第三部まで刊行されており、未だ完結してはいないとおもわれる。主人公は「趙 愚哲」(チヨ ウチヨル)で、十年間小説を書いていなかったが、年配の編集者から声をかけられ。「引揚者」として日本の敗戦後にやってきた札幌に、小説の素材を得るために訪れた、滞在するホテルのフロント係の中年の女性が、自分が書いた小説のことを知っていたことに対して、つぎのようなことを書いている。


このフロント係は趙愚哲の昔のことしか知らない。彼女がいっているのはもう二十年前のことなのである。当時、ぼくは陽の目をみた小説を書いたことがあった。今のぼくはすっかり落ちぶれてしまっている。彼女はそのことをまるで知らないのだ。しかし、とにかくありがたい。もう二十年前のことであれ、ぼくという人間がまだこの地上に存在しているのを覚えているひとがいるということは。こんなことは滅多にないことである。


 これがこの小説の導入部だ。この小説の第一章が「群像」に掲載されたのは2000年の1月号である。第一章では年齢は六十四歳とある。自伝的色彩の濃い小説であるから、民族問題や社会運動、労働者運動、学生運動などについても書かれている。そのなかにつぎのようなことも書かれている。


 そういえば、こんなことがあったのを愚哲はそのとき思い出した。
 五十六年、一浪して大学に入学した晩秋のある日のことだ。文学部の地下室前のキャンパスで学生たち数名がメガホンでがなり立てながら机の上に山積みされた新書版の書物を売っていた。オリーブ色の表紙にはつばめのイラストが描かれていたが、本の題名は『文学者の戦争責任』となっている。吉本隆明・武井昭夫の共著とある。愚哲はこの二人を知らなかった。メガホンが向うの立看板を指さしていた。立看板がしめすとおり、キャンパスの正面にある大学院の五階にある小講堂に行くと、聴衆でびっしり満員であった。運よく一番うしろの長テーブルに空いた席が一つあるのを見つけて愚哲は座った。
 最初に話した人物は「輝ける全学連初代委員長」とかで、長身の三十代とおぼしい彼の話は論理が鋭く、弁舌がたくみでどこか眩しかった。次に壇上に立ったぼさぼさ髪の人物は俯き加減にボソボソと話すので耳遠かった。「あの人は何をしている人ですか?」と隣の女性に尋ねると、眼鏡をかけたその女は「まあ」と目を吊り上げた。「詩人よ!」この田舎者ったら、そんなことも知らずにいるなんて、といまにも追い出されそうであった。植民地時代の日本人文学者の罪をつきつめようとする人がいるんだと彼らの話を愚哲はいきをつめて聞いていたのはたしかだ。

(『地上生活者 第3部 乱像』「第七章 渋谷寮での合宿」より)


 雑誌「群像」2006年2月号に掲載された初出では、終わりのほうは「そんなことも知らずに聴きにくるなんて、といまにも追い出されそうであった。ここにも植民地支配の生証人がいるんだと愚哲は腹を括って彼らの話を聞いていたのはたしかだ。」となっていた。
 この小説が、李恢成の自伝的な小説であれば、李恢成はこの時期に早稲田大学に入学しているので、この講演会は1956年に早稲田大学でおこなわれたことになる。調べた結果、たしかに講演会はあった。
 1956年11月23日(金)、早稲田大学と学生側実行委員会との共催による第三回早稲田祭の四日目、午後一時から八時までの長時間の講演会だ。
 同年11月13日付の「早稲田大学新聞」に掲載されたプログラムによれば、この講演会は、一文「文芸講演「民主主義文学批判」戦後責任の問題をめぐって」というテーマでおこなわれ、中野秀夫、三浦つとむ、大井広介、武井昭夫、井上光晴、吉本隆明の名が記されている。ただ、中野秀夫は、記事の中では「中野秀人」となっており、同年12月15日付の「早稲田學報」の「學園ニュース」のなかでは「中野好夫」となっている。
 この講演会の内容は残念ながら不明である。記録が残されていないからだ。しかし、武井昭夫との共著である『文学者の戦争責任』が淡路書房から刊行されたのはこの年の九月であり、講演会の主題である「民主主義文学批判」は、同書に収められている「「民主主義文学」批判」を意識していること、また、「戦後責任の問題をめぐって」も同書の重要な主題であることをかんがえれば、『文学者の戦争責任』を読んだ主催者の学生たちは、この主題を現在的な情況の課題としてとらえ講演会を開催したのかもしれない。
 1950年代の吉本の講演は、そのほとんどが当時直接講演会の会場にいて聞いたひとたちの、それぞれの記憶として残されているだけだ。かろうじて講演内容が書き留められていたり、目的をもってカセットテープなどに録音していたひとが残しているもののほうが希有のことだとおもえる。

(『地上生活者』については、弓立社の宮下和夫さんのおかげです。ここに記してお礼申し上げます。)

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吉本隆明資料拾遺(9)鮎川信夫と今氏乙治のことなど 宿沢あぐり(「猫々だより」97 2010.11)

 渡辺和靖は『吉本隆明の一九四〇年代』(ぺりかん社刊)において、「呼子と北風」と呼ばれる初期の詩篇原稿の編纂時期や形成過程について考察するなかで、吉本の初期の詩作品にモダニズムの影響を受けたものがあるとして、その影響を鮎川信夫の初期作品に定めてつぎのように書いている。引用が少し長くなるが、渡辺の確定する根拠であるので省略せずに引用する。


 吉本の「北風」が制作されたのは米沢時代であるが、その淵源をたどれば、今氏塾において若い詩人たちがもたらしたモダニズムの雰囲気、とりわけ鮎川信夫の初期のスタイルにあったことは疑いあるまい。
 「北風」はけっして孤立したものではない。『呼子と北風』のなかには、ほかにもモダニズム風の作品が見られる。すでに見たように、第一葉に記された「美への想ひ」はモダニズム風の作品であったし、このほか第三葉後半に記載され、原稿散逸のため後半部分が失われた「悲哀のこもれる日に」と題する作品のなかの、

    (おのがじしののしってゐるのは
    花や落日の そのほの赤い
      相のことではない)

というような部分にはモダニズムの匂いがする。
 作品の流れと無関係に、括弧書きのフレーズをはさみ込む手法は、たとえば『L UNA』1937年12月号に掲載された鮎川の最初期作品「凍民」によく似ている。

    氷が音たててはぜる
    ― ぽつかり
    黒い穴が開く

    (落葉は降りしきる あゝ淋しい曲を聞いた)

    目暈がする
    ふるえるセルロイドの掌
    (夢であったろうか)

 吉本の「北風」に示されたモダニズム風の傾向は、鮎川信夫の最初期に由来するものであると考えられる。おそらく今氏塾の本棚には、鮎川が持参した自分の最初期の作品が掲載された『若草』『L UNA』『LE BAL』などの雑誌のバックナンバーが置かれていたのではあるまいか。



 渡辺が、鮎川が自分の作品が掲載された詩誌を今氏塾に持参したと推測する根拠は、渡辺自身が引用している、吉本が鮎川の『戦中手記』の解説において、「戦前の『新領土』、『荒地』、『Le Bal』その他に発表された詩をみると」と書いていることや、「戦後五○年を語る」のなかで「鮎川信夫は学校は違うのですがこの塾にきていた島田一郎、清の兄弟をよく知っていました」と述べていることだとおもわれる。
 渡辺が、吉本の初期の詩作品にモダニズムの影響を指摘することはかまわないが、鮎川が自分の作品が掲載された詩誌を今氏塾に持参したことに対しては看過するわけにはいかない。
 吉本も鮎川も、渡辺の指摘するようなことが当時あったとすれば、二人とも隠すことなく書くはずだからだ。
 吉本が戦前に鮎川の詩作品に影響を受けたことを述べたことは一度もないし、鮎川が今氏塾に自分の詩作品が掲載された詩誌を持参したことを述べたこともないし、今氏塾に訪れたことを述べたこともない。
 「荒地」の同人で今氏塾に生徒として通っていたのは、吉本以外には島田一郎、島田清そして松村文雄(北村太郎)であり、田村隆一は本人の弁では、二、三度顔を出しただけである。鮎川は吉本が『少年』で書いているように塾の生徒ではなかった。
 鮎川は、1920年(大正9年)生まれで、北村太郎や田村隆一よりも三歳年上、1924年(大正13年)生まれの吉本とは四歳ちがい、今氏塾の今氏乙治は、1902年(明治35年)生まれであるから鮎川とは十八歳のちがいだ。
 鮎川が本格的に詩作活動に入るのは、早稲田第一高等学院に入学した1937年(昭和12年)、十七歳のときからである。松村文雄も十四歳の1937年から詩を本格的に書きはじめたと述べているが、この年に今氏塾に通いはじめる(通ったのはおよそ六か月ほどだという)。先に塾に通っていた島田清の勧めからだ。吉本はそれよりも早く1934年(昭和9年)の春、十歳から十七歳まで通いつづけている。1937年には吉本は十三歳だ。
 1937年(昭和12年)、今氏は三十五歳、すでに詩作品を公表してはいなかった。
 鮎川が春山行夫や近藤東たちの「新領土」に参加するのは1938年(昭和13年)、十八歳である。
 このとき三十五歳の春山行夫は、1924年(大正13年)に名古屋で近藤東も後から参加した「青騎士」終刊後に近藤や門司つねみたちと「指紋」を刊行したが一号で終わり、十月に上京、1926年(大正15年・昭和元年)に同人詩誌「謝肉祭」を刊行する。この「謝肉祭・1 二月版」のあとがきに「話が急に纏まって今氏乙治君は通信不能」と書かれている。
 春山はどのようにして今氏を知ったのか。今氏と交流があり、西条八十門下といわれた佐伯孝夫を介してだろうか、それとも名古屋からの知友であり、西条八十に献じた詩集『夜の薔薇』(交蘭社刊)の著者の間司つねみだろうか(この詩集には西条八十の「序」が収録されているが、『西条八十全集』には未収録だと思われる)。
 「謝肉祭・2」(大正15年3月発行)には「釋明」という今氏の詩が掲載されているが、四号で終わった「謝肉祭」に発表された今氏の作品はこれだけである。今氏はその後、「愛誦」に詩作品をいくつか発表する。佐伯孝夫や間司つねみは今氏よりもはるかに詩作品を発表している。
 「謝肉祭」をおえた春山は、1928年(昭和3年)9月に近藤東、北川冬彦、安西冬衛、三好達治たちと「詩と詩論」(後に「文学」と解題)を創刊する。このとき、すでに春山にとっては、萩原朔太郎や日夏耿之介の詩は葬りさるべき一方の「象徴主義詩」の代表格として把握されていた。肯定的に評価されているもう一方の「象徴主義詩」の代表格は三富朽葉であり佐藤一英であった。春山と萩原朔太郎との対立は、1936年(昭和11年)になっても続いている(春山は「セルパン」3月号に「或る詩人に與ふ」を発表し、萩原は「文學界」4月号に「春山行夫君に答へ、併せて詩の本質を論ず」を発表している)。
 1934年(昭和9年)7月に近藤東、村野四郎、安西冬衛たちと「詩法」を創刊、そして、1937年(昭和12年)5月に近藤東、村野四郎、上田保たちと「新領土」を創刊する。
 春山にとって、もはや知友の間司つねみも今氏乙治も、「ポエジイ」の過去の遺物にすぎなくなっていた。春山は、総合文化雑誌の「セルパン」の編輯を1935年(昭和10年)1月号から1940年(昭和15年)9月号まで担当する。彼にとって、この時期、世界のあらゆる動向を射程におさめ、時代に即応する先鋭的な文学運動を確立しようとしていた。行動的な文学運動である。
 鮎川は、この「セルパン」の読者であった。
 1937年(昭和12年)4月、早稲田第一高等学院に入学した鮎川は、9月、文芸誌「若草」に「寒帯」を投稿して佳作となった。選者は佐藤惣之助だった。これを契機に、神戸の中桐雅夫が全国の投稿者に呼びかけていた「LUNA」に参加することになる。
 1938年(昭和13年)4月、東京LUNAクラブ発会。6月「LUNA」14輯から「LE BAL」に改題。8月、松村文雄(北村太郎)が「LE BAL」に参加。北村は、鮎川が初めて投稿した「寒帯」を後追いではなくすでに読んでいた。
 鮎川は、「新領土」に参加していたが、メンバーとしては最も若い年代であり、自分たちの「新領土」での位置をかなり意識していたと思われる。このことは、1939年(昭和14年)に早稲田高等学院の仲間と新たな文芸同人誌を創刊しようとしたとき、誌名を「廿世紀」としようと決めたが、この誌名が以前あったことで、「超モダニズムの詩誌「廿世紀」を読むにしたがって、どう考えても自分たちの仲間の雑誌にふさわしくないような気がしてきた」(「詩的青春が遺したもの〈私〉の誕生」より)と述懐していることからも推測できるし、つぎのように書き記したことからもわかる。それは、まるで春山が若き世代に奮起を促すのと呼応するかのように、だ。


 若いゼネレエシヨンの自覺は過去の時代のあらゆる堆積物や残滓をふりすてて、新しい傳統をつくるべく意欲を燃えたたせるに違ひない。これは空想ではない。
 さうなれば、詩は文學運動の先驅などといふ言葉が、だんだん博物館向きになった、といふ春山行夫氏の言葉は清算される。
 若いエスプリを阻む何物も存在しない筈である。詩の新領土を探求してゆく意欲、それによって新しく生まれた詩論、そこにポエジイの眞の價値がある。



 これは、1938年(昭和13年)4月の「LUNA」第13輯に掲載された「「新領土」加盟についての覺書」の最後の言葉である。
 これを読むと、萩原朔太郎を読んでいた鮎川が、モダニズムと出会うことによって、リリシスム(抒情主義)における「主知的な批判精神」なき詩人として、萩原朔太郎を否定し、詩の價値を文化社会に対して積極的な意義を有するものとして渇望していたことがわかる。
 このような鮎川であったので、島田清や島田一郎などから今氏のことを聞いていたかもしれないが、当時の鮎川が参加していた文学の世界にあっては、今氏への関心は非常に薄かったといえるのではないだろうか。もちろん、吉本のことも知らなかったであろうし、吉本も鮎川のことを直接知ることもなかったといえる。
 北村太郎は、「田村隆一のこと」(『現代詩文庫1田村隆一』所収)のなかで今氏のことなどについてつぎのように書いている。


 同人の一人に島田清という男がいて、彼の紹介で、ぼくは深川門前仲町の今氏乙治塾に「入門」した。
 学習塾だが、今氏先生は、ぼくに詩だけを教えた。ふしぎな教え方で、「あしたまでに、七五調の新体詩を二つ、書いてきなさい」とか、「つぎは象徴詩を」とか、宿題を出した。英仏独語に堪能で、和漢洋の文学についてひろい知識を持っておられたように思われる。思想的には、軍人、役人ぎらいで、人生派、虚無的なところがあった。


 今氏先生は、どちらかといえば、古風な詩人であった。シュルレアリスムを嫌っておられた。人生派的象徴詩をきわめて、高みに登るのが、先生の理想ではなかったかと思う。その影響で、ぼくは三富朽葉や加藤介春の詩を、ずいぶん熱心に読んだし、好きにもなった。
 ところが、その年の春、三年生になって、朔太郎に熱中しだしたころから、急激にぼくは新しい詩のほうへ関心をひかれ出した。朔太郎を読めば、必然、対極の春山行夫一派を読むことになる。モダニズムの詩誌を買い始める。そのうえ、三商に佐藤義美というモダンな詩人が、国語の教鞭をとっていた。「マダム・ブランシュ」とか「二十世紀」などの、佐藤先生は同人であったはずである。今氏塾の「学風」を受けたぼくは、佐藤義美との対話で、冷笑、軽蔑、刺激、使嗾をかんじざるをえなかった。



 このような北村であったが、海軍にはいることが決まったときに挨拶に訪れているということは、詩の傾向が異なってしまったとしても、疎遠になってしまったわけではなかった。
 松村文雄(北村太郎)が、1934年(昭和12年)の4月、十四歳のときに今氏塾に通い始め、六か月ほどしか通わなかったが、1943年(昭和18年)の11月、この世で最後の今氏と会った。この間、九年という月日が経過している。この間に、彼らに何らかの交流があったかどうかは今となってはわからないのだ。
 しかし、渡辺の、鮎川が持参したという推測を確かな事実で否定することは残念ながら今の私たちにはできないが、渡辺は、鮎川よりもむしろ島田清や北村太郎によって「LE BAL」などが今氏塾に届けられていたと推測したほうが、私たちは納得できたとおもえる。

(渡辺は、『呼子と北風』の編纂時期について、吉本が宮沢賢治の詩碑を訪れたときが1943年(昭和18年)だったと齋藤清一がインタビューしたなかで述べていることから、1944年の1月としているが、これらについてはあらためたかんがえてみたい。)

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「人間時計」を読んだころ  長谷川博之(「猫々だより」98 2010.12)

 「人間時計」は徳南晴一郎(とくなんせいいちろう)の貸本マンガ。貸本業界が沈んでいった1962年ころの作品らしい。私は生まれていないので良くは知らない。
 中学2年の3月になると、以前は神奈川県ではアチーブメントテストというものを受けさせられた。テストの結果は内申書に反映され、生徒の進路先をあらかじめ絞ってゆくのである。ひどい方針だが、当時私はテストを頑張れば、欲しいレコードを買ってやると、母親に尻をはたかれ、自分の学区では2ばんめの進学校へ進むことになった。
 高校生になってしまうと、私はのんびりとした気持ちとなり、しばらくは勉強をしなくて済むだろうと思い、それは嬉しかった。4月に入学すると、とりあえず何もしなくて良いと、高をくくっていた。ただ、中学生のころと違い、私には友達が出来なかった。今でも人づきあいは駄目なのだが、高校生になった当初はあせった。新しい環境に成ってから私は、自分の本性を知らされた思いがする。同じ中学からは数人が同じ高校へ進学したのだが、女性が多く、また男にも親しい奴はいなかった。
 人づきあいの上手くないのをなんとかごまかそうと、よく、ひとりでニコニコしていたのを思いだす。結局、私のとったやりかたは、自分を他の連中より、いちだん落としてみせるといった方法だった。まわりから笑われていれば、親しみを憶えてくれるかもしれない。仲間に入れてくれるかもしれない。なるほど、その方法は、わりあいうまくいった。なんだか変な奴ということで、徐々に周りに認知はされていく。私は、あまり面白くはないが、受験を終えた気分も残り、まだのんびりとした雰囲気もあり、ゆっくり高校生活に、なじんではいった。他人より遅れてはいたが。
 しばらくして、中間試験というものが近づいてきた。人間関係についてはうまくたちまわればなんとかなるので、めんどうでも行わなければならない。けれど試験というものはもはや、更にめんどうくさく、試験勉強などをするのは勘弁してほしい気分だった。
 中々まわりに溶けこめない私は、中学の頃の延長で映画を観ることに熱中した。学校はさぼって、昼間から映画館で時間を潰すこともあった。いちばん楽な平日の過ごしかただった。授業はあまり受けなかったので、いったい自分の学力が、どの程度かということも、はっきりとは解らない。そのうちに、気づけば、中間試験の前日にまでなってしまった。今でも良く憶えているのだが、結局、最後まで試験勉強は何もせず、夜遅く布団に転がっていた。教科書の代わりに、当時の「ぴあ」を眺めていたのだ。隣室から、母と姉の声が聞こえてくる。のんびりとした声で、私の苦境も知らずに、話している。天井の明かりを消すと、自分の部屋は暗くなり、観に行こうと思っている映画のことなど思い浮かべた。のどかな隣室の声と、試験勉強を最後までしなかったということへの達成感で、暗い天井になんだか、ぽっ、ぽっと星が浮かんで、輝いているみたいにさえ思えた。無論、受けた試験は、ぼろぼろのまま終了した。教壇の教師との距離も遠かったが、無勉強のままで試験を受けることの快感を、私は学んでしまったわけだ。大変良くないことだった。
 当たりまえだが、神田には古本屋街がある。ふらふらと、平日なのにたまに出掛け、書棚を漠然と眺めて時間を流した。神田の中心あたりに今でもあるが、古書センタービルというのがある。学校はさぼった。なぜなら、学校はつまらないところだから遊んでしまったほうがいいと、判断したのだ。あまり友人も出来ず、勉強もする気のない劣等生になっていたので、授業がつまらないのは当たりまえである。クラブは理化学研究部へはいった。理科室からぼっと右手の体育館を見ると、いつも体育館の手前あたりに、弓道部の部員が、動いているのが、遠かったが見えた。白衣姿で私はしばしば、窓際からそっちのほうを見ていた。劣等生のくせに、図々しくも、片思いの娘などが、部員のなかにいたのだ。
 古書センターのエレベーターは表通りに突き出ていて、ガラス張りだった、箱のなかへはいり、上へ昇っていると、なんだか、ふわふわ、空へ浮かんでいくような気持さえした。独りよがりな感情で、まだまだ勉強をしなくてもいいのだと、結構あのエレベーターには乗った記憶がある。ビルのなかには、マンガの専門店もあった。何度か立ち寄って、何もする気もなく、面白いマンガはないかと、背表紙を見上げ眺めていた。その頃のほんとうの心境がどのようなものか、今ではわからない。ある日、マンガの店のレジの横に、箱入りのマンガがかなり積まれているのを見つけた。私はつい、その本を一冊取り、中を眺めだした。第一印象は、へったくそな絵だな―というもので、自分たちが見慣れたマンガとは違っていた。時計屋の話である。今、記憶からなんとか引きづりだすと、コマのなかの絵はどれも、当時は丸まっているみたいな気がした。変な腕時計の顔をした男が話の途中から出てきて、主人公の中学生の少年の家庭教師になり、時計屋の家族へ入り込む。少年を怪しげな時間の世界へ誘うのである。立ち読みだったが、徐々にマンガへひきずりこまれていった。読みながら、ははあ、これがいわゆる世に言うマンガの自費出版本だろう。初めて見たと、かってに思った。読み進むにつれ、物語に恐怖を感じてしまったが最後まで、読みきった。恐ろしさに慌てて本を元に戻し、古書センターの、エレベーターではなく階段を、転がるように降りて、ビルから逃げだした。

 それからほぼ20年が経ったある日、勤めていた事務所を定時であがり、何軒かレコード屋でCDを買い、一緒に買った今はないアングラ雑誌の3号めを、東横線渋谷の駅で、電車のシートへ腰かけぺらぺら繰って  みていた。見つけたのである。徳南晴一郎のマンガについて書いてある文章とカットを。なかに代表作「人間時計」とある。瞬時に、あ、こいつだと長年のあいだ忘れかけていた記憶を、思いだした。

 高校3年の、たぶん夏の試験で、私はめでたく、点数欄に、赤い丸ひとつのみ記された解答用紙を受け取った。期末試験だと思う。窓の下へ凭れ、廊下に尻をつけ座り、知りあいが通るたびに、見せては笑っていた。弓道部の子も、前を通ったような記憶がある。通り過ぎたが、一顧だにされなかった気がする。20年経っても結局進歩のない、罰当たりな3年間の高校生活だった。
 注・徳南晴一郎氏は2009年12月に亡くなられている。ご冥福をお祈りします。

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吉本隆明資料拾遺(10)宮沢賢治の詩碑を訪れたときのことなど 宿沢あぐり(「猫々だより」99 2011.1)

 渡辺和靖は『吉本隆明の一九四〇年代』(ぺりかん社刊)において、米沢時代に吉本隆明が宮沢賢治の詩碑を訪れた年について、つぎのように書いている。


 宮沢賢治の故郷花巻への旅について記録した「詩碑を訪れて」と題する紀行文の冒頭に「私が花巻を訪れたのは昭和十七年十一月の下旬だった」とある。しかし、この旅がじつは昭和十八年(1943)一一月であったことが今では確認されている。このことは『呼子と北風』の編纂時期を考えるうえできわめて重要な手掛かりを与えてくれる。昭和十八年十一月を「昭和十七年十一月」と表記したのは吉本の単純な誤記である。つまり吉本はこの頃、年次を一年ズレて確認していたということになる。
 「詩碑を訪れて」という文章が執筆されたのは、花巻行の翌年、一九四四年の一月のことであるが、そのつぎに配列された「本日、花巻共立病院佐藤隆房という人の「宮沢賢治」読み了へた」で始まる短い文章の文末に「昭和十八年一月中旬」という日付がある。これも実際には昭和十九年(1944)一月の誤りであると考えることができる。ここでも同じように年次が一年ズレて記述されている。これは年が明けて間もない時期のことであり、誰しもがする単純な錯誤であろうと思われる。ましてや、戦争で日常生活が混乱している時期である。じゅうぶんにありうることである。



 渡辺がここで、宮沢賢治の詩碑を訪れたのが「じつは昭和一八年(1943)一一月であったことが今では確認されている。」と書いているのは、斎藤清一編著『米沢時代の吉本隆明』(梟社刊)における「吉本隆明氏に米沢高等工業学校時代を聞く」(同席・郷右近厚)のなかでのつぎのやりとりからだとおもわれる。


 もう少し宮沢賢治についてお聞きしたいと思います。先にお聞きした、吉本さんが花巻に行かれたというのはいつですか。

 二年生の秋ごろです。化工の同級生で東北大学の金属研究所に勤めていた横山錦四郎さんのところにまわっていきました。また佐藤隆房さんという賢治研究家の、お医者さんのところにも行きました。その頃は応化寮の自分の部屋の天井に墨筆字で「雨ニモ負ケズ」の詩を書いたものを貼っていましたね。姫神山と太陽の絵も描きました。山よりも手前に太陽があるなどということは考えられませんが、永瀬清子さんはそう見えたと言っていました。僕は東北本線と奥羽本線との区別もわからなかったからあやしいのですが、福島をまわって仙台、花巻と行ったと思います。



 斎藤は、米沢時代の吉本に関するあらゆることを、吉本自身の言葉によってあらわすことに意を尽くしているため、斎藤自身の見解を述べることはない。
 渡辺はまた、「吉本が賢治に深い関心を懐き、その作品を研究し始めるのは、一九四三年一一月に賢治の故郷である花巻を訪れる旅を終えてからのことであり、一九四三年一月にはまだ賢治の作品をじゅうぶん読みこんでいたとは考えられない。」と書いているが、果たしてそうだろうか。
 『米沢時代の吉本隆明』のなかで、吉本の同期生の工藤信雄が斎藤にあてた書簡を公表しており、そこには、工藤が松田甚次郎編の『宮沢賢治名作選』を入学時の寮に持ってきて、寮の級友に見せたところみんな喜んで回覧し、なかでも「最も熱心だったのは吉本」だったという。
 また、渡辺も取りあげている川端要壽の『堕ちよ!さらば 吉本隆明と私』のなかには、昭和十八年の二月に、スキーで足を挫いて帰郷した吉本に会いに行った「その夜、私たちは明け方近くまで語りあかした。いや、吉本のみが喋り通したというほうが正しいようだ。東北の自然の美しさ。野口先輩との交遊、酒の話、そして宮沢賢治のこと――。」と書かれている。このことは『修羅の宴 吉本隆明と私』のなかでも「その晩夜を徹して彼と語り合った。吉本はこの一年間のうちに、すっかり変わっていた。酒の話、宮沢賢治のこと、横光利一、高村光太郎、保田與重郎、小林秀雄、太宰治等が限りなく、彼の口からほとばしり出る。」と書かれている。小説とはいえ、川端の吉本に関する小説には、吉本との交流に関する豊富な資料としての価値もある。これらのエピソードは、吉本の宮沢賢治に対する影響をかんがえるうえでの手がかりにならないのだろうか。
 渡辺は、『米沢時代の吉本隆明』や『堕ちよ!さらば 吉本隆明と私』を読んでいるにもかかわらずこうしたエピソードは都合よく取りあげていない。
 それでは、吉本が宮沢賢治の詩碑を訪れたときのことについてはどうだろうか。
 渡辺は「新聞記事」と書いているが、吉本は「詩碑を訪れて」では「その頃新聞の報告に花巻病院の院長氏が宮沢賢治という随筆を著した由が述べてあったのを知つゐた」と書いている。
 吉本が当時米沢で読むことができた新聞だと思われるが、「花巻病院の院長」は佐藤隆房であり、彼の著書『宮沢賢治』の第一版は東京の冨山房から昭和十七年九月八日に発行されている。この時期に新聞に掲載されたものは、佐藤自身の書いたものでは昭和十七年九月三十日と十月一日の二回に分けて「新岩手日報」に掲載された「賢治と日本精神」があるが、そこに詩碑の建立のことは書かれていても、内容は著書に関するものではない。米沢での地方紙は、昭和十七年二月に一県一紙統制により「米澤新聞」を吸収合併した「山形新聞」しかない。
 他に読むことができたのは「朝日新聞」と「東京日日新聞」であった。「山形新聞」にはそれらしいものはない。ただ、「朝日新聞」と「東京日日新聞」にはそれらしいものはあった。
 昭和十七年九月三十日の「東京日日新聞」と同年十月一日の「朝日新聞」のどちらも一面の出版広告である。一面の記事はすべて戦争に関わる記事ばかりだが、広告の文章はつぎのように書かれている。


 宮沢賢治はその天稟を詩文に託し地人としての全生命を郷土農民に捧げ、歿後いよいよ光を放ってゐる。本書はその知友佐藤博士が『賢治さん』の稱呼で描いた天才の業績と風貌の思ひ出。
                                  (「東京日日新聞」)
 風の又三郎などその天稟を詩文に託し、地人として全生命を郷土農民に捧げた宮澤賢治の物語である。三十八年の彼の知友佐藤博士が『賢治さん』の稱呼で、輝く天才の業積と風貌を描いた愉しい思出の記。
                                    (「朝日新聞」)



 もし、渡辺が確信しているように、昭和十九年に書かれた文章であるならば、この出版広告を覚えていたということは、当時すでに宮沢賢治をかなり意識していたということができるのではないか。もっともこの新聞の出版広告が吉本の知っていたものなのかどうかはわからない。他に記事があるかどうかは不明だ。昭和十八年に「花巻病院の院長氏が宮沢賢治という随筆を著した由が述べてあった報告」めいた記事があったかもわからない。渡辺がこの「新聞記事」について調べてわかっているならば教えてもらいたいほどだ。
 さて、吉本は、「二年生の秋ごろです。化工の同級生で東北大学の金属研究所に勤めていた横山錦四郎さんのところにまわって行きました。」と述べ、「僕は東北本線と奥羽本線との区別もわからなかったからあやしいのですが、福島をまわって仙台、花巻と行ったと思います。」と述べている。
 吉本は、横山錦四郎について、「東北大学の金属研究所に勤めていた」と述べているが、『吉本隆明全著作集 15』の解題にもあるように、昭和十六年十一月の『和楽路』最終号の巻末の「和樂路會員名簿一覧表」には、横山は「日本曹達株式会社」と今後の進路が記されている。
 さらに、この最終号の後、昭和十八年の八月に発行された『和楽路』第三巻では、会員の消息が掲載されており、本人たちが寄せたコメントが掲載されている。このなかには、吉本のコメントもあった。(『吉本隆明全著作集 15』が出版されてから三十六年も経ってからこれをみつけることができるとはおもわなかった。川上が当時のことを知らなかったとはおもえないのだ)が、ここでは横山のものだけを取りあげる。


 仙台も大分暑くなって燕が街を飛び交つて居ります。二十日(六月)に松島へ行きました。白いヨットが数隻浮いて居ました。後四ヶ月程で研究も終り二本木へ歸る事になると思ひます。此頃は苺と櫻桃の季節です(十八・六・二十七)


 横山の勤務先と住所は、「和樂路会員名簿」に記されており、勤務先は「(新潟県中頸城郡中郷村)日本曹達二本木工場第二研究課」、住所は「(出張中の住所)仙台市良覚院町三十六芳賀アパート」とあり、「良覚院町」の右横に「(十一月頃迄)」と記されている。
 吉本が記憶違いしたのは、横山が研究生として東北大学金属材料研究所に在籍していたからかもしれない。東北大学金属材料研究所が大正時代から研究生を受け入れていたからだ。しかし、確かなことは、わからない。昭和十七年の秋には横山が仙台に出張でいたことも不明であり、昭和十八年の十一月にはまだ仙台に住んでいたことも不明だ。
 では、花巻に汽車でどのように行ったのだろうか。そしてどのように帰ってきたのだろうか。
 まず、吉本が仙台に寄ってから花巻に行ったことは確かであるが、奥羽本線で米沢から福島に行き、福島で東北本線に乗り換えて仙台に行ったのだろうか。米沢から福島まで約二時間、福島から仙台まで約二時間半かかる。
 奥羽本線で米沢から山形に行き、そこから仙台に行くことも可能だ。この場合、米沢から山形までは約一時間十分ほど、山形から仙台までは約二時間半かかる。
 仙台に行くのに横山の勤務時間を考えれば、夕刻の横山の退社時間に合わせればいいことである。もっとも休日であればまた別である。つまり、仙台で途中下車して横山と会うということは、横山と打ち合わせをしての旅であることがわかる。これは斎藤も指摘している。
 横山の仙台での住所は、仙台駅とそれほど離れていないので、好都合だったのかもしれない。吉本は、仙台で府立化工時代の友と一夜を過ごし、翌日花巻へ行くことになる。
 しかし、昭和十七年と昭和十八年とでは仙台から花巻に行く秋の汽車の時刻表は決定的に違っている。昭和十七年にあった仙台午前七時発の青森行の汽車は、昭和十八年にはなくなっているのだ。
   三宅俊彦編著『復刻版 戦中戦後時刻表』(新人物往来社刊)の「復刻版のみどころ」によれば、「1943年に入ると連合軍の攻勢はすさまじく、2月にはガダルカナル島からの撤退を開始し、太平洋における主導権はアメリカ軍に移行した。前線への海上補給は極めて困難になった。このため「戦時陸運体制」を強化することになり、1943年2月15日の時刻改正で優等列車の削減を行い、代わりに貨物列車を増発する。」これがその理由である。
 昭和十七年にこの仙台午前七時発の青森行の汽車であれば、午前七時に仙台を出発し、午前十時三十分に花巻に到着する。約三時間三十分であるが、出発の時刻を考えれば、この時間であればそれほど苦にはならないだろう。その前の汽車は、仙台を午前四時五十四分に出発し、八時三十六分に花巻に到着する青森行しかない。昭和十八年では、午前四時五十七分に出発し、およそ四時間後の九時十分に花巻に到着する汽車になり、その後の汽車は、午前八時十一分に仙台を出発し、午後十二時十六分に花巻に到着する汽車になってしまう。
 もちろん、昭和十八年に行ったのであれば、まだ暗いうちに友の出張先の住まいを出ていったことになる。ただ、吉本の文章からは、午後十二時十六分に到着する汽車でも矛盾することはないような気がするが、文章の内容では、駅に到着してから病院へ行くまでの時間があり、また「二時からお会いになる」ということからすれば、二時までにどこかに行くという時間はなく、少し待てば会える時間であるということになる。したがって、吉本の文章から推測すれば、午前中に花巻に着く汽車に乗ったことになる。
 ところで、気になるのは帰りのことである。吉本はなぜか黒澤尻(現在の北上駅)に行く道を尋ねている。たんに花巻の駅よりひとつ前の駅だからだろうか。帰りも仙台へ向う汽車に乗ろうとしたのだろうか。それとも黒澤尻から横手に向う横黒線に乗り、横手から米沢に到着する奥羽本線で帰ろうとしたからだろうか。
 吉本が訪れた宮沢賢治の詩碑は、「雨ニモマケズ」の後半の「野原ノ松ノ」からが刻まれており、高村光太郎の筆跡で、花巻の名工である今藤静六によって彫られ、昭和十一年に建立されたものだが、高村の筆写した詩の字に誤りがあったり、脱字があったりしたので、昭和二十一年に誤りを正した高村の筆跡が追加して彫られた。吉本が見た詩碑は追加されていない碑文であった。
 吉本はこの詩碑のところでしばらく憩い、十キロ以上も離れた黒澤尻に向ったのである。そして黒澤尻に着いたころにはすでにたそがれていたという。当時、午後三時三十分ころには黒澤尻ではたそがれていたのだろうか。この日に米沢に帰ろうとすると、横黒線を利用して奥羽本線で米沢に帰ることが、時間的には推測しやすい。仙台にもう一晩泊まるのであればよいが、当日米沢に帰ることができる汽車はない。次の日の朝方ならばある。黒澤尻から横手に向う汽車も午後三時三十五分発である。横手にには午後五時四十五分に着き、横手から午後五時五十一分発の奥羽本線に乗り換えて、米沢には午後十一時九分に着く。はたしてこの時間の汽車だったのだろうか。
 しかし、米沢に帰ってきたときのことは、斎藤のインタビューでもまったくこたえられていない。
 この詩碑を訪れた年のことは、同期生だった人たちもまちまちであるが、吉本自身、一九八三年七月に発行された『宮沢賢治』第三号に掲載されたインタビュー「悲劇の解説」(聞き手・牧野立雄)では「米沢に行った年の十一月だったと思います。」とこたえている(実際のインタビューは一九八二年十月四日におこなわれている)。
 このように吉本も長い年月の間に、他者に請われるままに記憶の奥底を掘り起こしている。
 混迷するのは年月日の記述があるからだ。
 渡辺が、自身が研究して疑問視した「呼子と北風」の編纂時期について、吉本のインタビューでのこたえに確信を得たとしても無理はない。
 だが、宮沢賢治の影響を語るとき、吉本のインタビューでのこたえとは別に、当時の情況が再度わたしたちに問いかけてくることも、また確かなのだ。
 前述したように、工藤信雄が、松田甚次郎編の『宮沢賢治名作選』を入学時の寮に持ってきて、寮の級友に見せたところみんな喜んで回覧し、なかでも「もっとも熱心だったのは吉本」だったという証言は、興味深いものであるし、川端の小説のなかのエピソードも虚構とはいえないほど吉本との関係についてひとつの証言としての意味をもっているからである。
 また、それらにもまして、宮沢賢治を語る当時の吉本の文章を、資料とともにみてみると、どうしても昭和十九年の一月ころから、宮沢賢治について没頭しはじめたとはおもえないからだ。

(宮沢賢治の詩碑を訪れたことについては、米沢の斎藤清一さんとの間で、何度もやりとりがあったことを記して、あらためてお礼申し上げます。)

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吉本隆明資料拾遺(11)宮沢賢治との出会いのことなど 宿沢あぐり(「猫々だより」101 2011.4)

 吉本は、宮沢賢治との出会いについては、米沢に行く前のことだといつも語っている。今氏乙治の塾でのことだ。それは高村光太郎の詩との出会いにかさなっている。そのことを「高村光太郎私誌」でつぎのように述べている。

 はじめて高村光太郎の詩にふれたのは、昭和十五年のことであった。江東区深川門前仲町にあった今氏乙治先生の私塾で、或る日先生は河出書房版の「現代詩集」の全三巻を、蔵書のなかからとりだしてきて読んでみたまえとわたしてくれた。
(中略)
 高村光太郎という名は、中等学生のわたしにも何となく知られた名であったが、こういう詩を書くということをはじめて知ったのである。おなじとき第二巻で「原体剱舞連」という暗い異様な詩とともに宮沢賢治の名も記憶したが、宮沢賢治をよくよく読むようになったのは、府立化学工業を卒業して、米沢高等工業学校へ行ってからのことである。


 河出書房版の『現代詩集』は、第一巻が前年の十二月、第二巻が一月、第三巻が二月に刊行されており、宣伝文では、「本集こそ、過去一世紀にわたる本邦詩史の豊饒な成果であり、我々の生きる現代の詩と呼ぶにふさはしい最高の選集」としている。
 ちなみに収録されている内容は、第一巻が「猛獸篇 其他」高村光太郎「猛烈な天」草野心平「歸卿」中原中也「四月雹ふる」蔵原伸二郎「雪崩」神保光太郎、第二巻が「祈祷歌」丸山薫「暁と夕の詩」立原道造「古風なガス燈の街」田中冬二「反響」伊東靜雄「春と修羅」宮澤賢治、第三巻が「晩秋」萩原朔太郎「河」北川冬彦「竹葉集」高橋新吉「紋」金子光晴「相模野抄」三好達治。高村光太郎の収録作品の一番目の詩「觸知」の前頁には「彫刻はわたくしの錬金術 詩はわたくしの安全辧」と二行あり、宮澤賢治の詩の前頁には編者である草野心平の「憶え書」が置かれている。
 吉本が読んだ宮澤賢治の詩はつぎの十六篇である。
 花鳥圖譜 七月・春と修羅・有明・岩手山・原體剱舞連・永訣の朝・札幌市・業の花びら・熔岩流・異途の出發・告別・作品一○八八番・停留所にてスヰトンを喫す・早池峯山嶺・雪峡・ながれたり
 吉本はこのとき真に宮沢賢治と出会うことはなかった。ほんの少しだけ会釈しただけであった。再会するのは米沢に行ってからのことである。きっかけは、僚友の工藤信雄が郷里から持ってきていた松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(羽田書店刊)だった。工藤は当時のことを斎藤清一宛の書簡(『米沢時代の吉本隆明』所収)でつぎのように述べている。

 米沢に来る時は愛読書として行李に入れて来ました。寮でこの本を級友達に見せると、皆な喜んで回覧して読んでいたようです。いっぺんに皆な賢治ファンになったようです。その中でも最も熱心だったのは吉本君でした。

 工藤がこの本を行李に入れたまま一年もしまい込んでおくとはどうしてもおもえない。入寮した学生達は当然ながら本の話もするだろう。今の時代とはちがう。そんな雰囲気のなかで、自分が持って来た本を一年も僚友に隠していることはしないだろう。昭和十七年に、吉本はこの松田甚次郎編の『宮澤賢治名作選』によって宮沢賢治と再会したのだ。
 工藤は興味深いことに『宮沢賢治』という本をみんなで注文したことも述べている。この『宮沢賢治』の著者は誰だろうか。森荘巳池だろうか、それとも佐藤隆房だろうか。
 ところで、『吉本隆明全著作集 15 初期作品集』に収録されている川上春雄によって「詩碑を訪れて」と総称された一冊のノートに書き留められた宮沢賢治に関する文章は、佐藤隆房の『宮沢賢治』を読んだことを書いた文章の末尾に「(昭和十八年一月中旬)」と書かれていることもあってか、執筆された時期を川上によって昭和十八年と推定され、斎藤清一によるインタビューで、宮沢賢治の詩碑を訪れた時期を「二年生の秋ごろです。」と吉本がこたえたことによって、渡辺和靖の『吉本隆明の一九四〇年代』では昭和十九年に執筆されたことになってしまっている。
 執筆の時期が昭和十八年であるか、十九年であるかはここでは問わない。それよりもこの時期、吉本が十字屋書店版の『宮澤賢治全集』を入手できていたのかどうかをかんがえてみたい。
 この時期、吉本があきらかに読んでいるのは、松田甚次郎編の『宮澤賢治名作選』と佐藤隆房の『宮澤賢治』、それに昭和十六年八月の「新女苑」(実業之日本社)に掲載された藤原草郎の「宮沢賢治と女性」である。(こういった雑誌に掲載されていた文章を読んでいるとすれば、他の雑誌も読んでいると推測するのが自然だ。それだけを読んですますとはおもえないからだ。)
 では、十字屋書店版の『宮澤賢治全集』はどうだろうか。この全集は全六巻に別巻が出版されている。ただし、第三巻が昭和十四年に第一回の配本として刊行され、昭和十五年十二月までに第五巻までが刊行されている。しかし、吉本が当時入手していたとすれば、童話や詩はどのような選択によって取りあげられたのだろうか。この順序はなにか理由があるのだろうか。
 この時期、吉本は草野心平篇の『宮澤賢治研究』を読んではいなかったのではないだろうか。なぜかといえば、『宮澤賢治研究』のなかに収録されている中島健蔵の「宮澤賢治論」のなかに、「イギリス海岸の歌」にふれて、「花巻近くの北上川畔に、顕著な第三紀の泥岩の露出があるとのことです。宮澤賢治は好んで其處に遊び、「イギリス海岸」と名づけて即興的な短詩を作り、作曲までして居ます。」と書かれており、「第三紀」には「ターシャリー」、「泥岩」には「マッドストーン」とそれぞれルビがふられている。この『宮澤賢治研究』は、昭和十四年に出版され。昭和十六年には第二版があり、佐藤隆房の本よりも早く、また比較的入手しやすい本であったからだ。それゆえ、これを読んでいれば佐藤の本によって知るよりも先にわかったはずであるからだ。
 また、渡辺は、吉本が「イギリス海岸の歌」を『宮澤賢治全集』第六巻から引用しているように書いているが、松田甚次郎の『宮澤賢治名作選』にも詩と楽譜が収録されている。(吉本は後年「イギリス海岸の歌」(初出は『校本宮澤賢治全集』第二巻月報・昭和四十八年七月)という短文で、「第三紀新生泥岩層」の解釈にたどりついたきっかけについて、「ある時、ユリア ペムペル わたしの親しい友たちよ」とか、「白堊紀左岸の層面に」とかいう、うろ覚えの宮沢賢治の詩の言葉が、口をついてでてくるうちに、はっと地質学と宮沢賢治との繋がりに思いいたった。」と書いている。「ユリア ペムペル わたしの親しい友たちよ」は「小岩井農場 パート九」であるし、「白堊紀左岸の層面に」は『春と修羅』の「序」である。吉本はいつ、どの本でこれらの作品を読んだのだろうか。)
 実は、川上によって「詩碑を訪れて」と総称された一冊のノートに書き留められた宮沢賢治の作品の順序は、松田甚次郎編の『宮澤賢治名作選』を踏襲しているのだ。『宮澤賢治名作選』の目次を見れば一目瞭然である。
 吉本の取りあげた童話は「セロ弾きのゴーシュ」から始まっている。つぎは「やまなし」、つぎは「ざしき童子のはなし」、次は「よだかの星」。ここまでは『宮澤賢治名作選』の順序と同じ。すぎは「雁の童子」で、つぎの「風の又三郎」で童話への言及は終わる。
 それでは詩はどうか。まず「くらかけ山の雪」、つぎは「春と修羅」、つぎは「岩手山」、つぎは「高原」、つぎは「原体剣舞連」、つぎは「永訣の朝」、つぎは「松の針」、つぎは「無聲慟哭」、つぎは「青森挽歌」、つぎは「五輪峠」、つぎは「早春独白」、つぎは「花鳥圖譜 七月」そして「イギリス海岸の歌」で終わる。『宮澤賢治名作選』では、「青森挽歌」の後に「注文の多い料理店」などの童話と羅須地人協会の写真があり「五輪峠」になる。その後の詩は、「早春独白」、つぎは「花鳥圖譜 七月」で、劇が収録され、「春」や「和風は河谷いっぱいに吹く」の後に、「岩手公園」などの文語詩が収録されている。
 吉本が「詩碑を訪れて」と総称された一冊のノートを書いた時期に『宮澤賢治全集』を入手していたとすれば、童話集は第三巻から第五巻までに収録されているから、まず、「銀河鉄道の夜」からはじまり、「グスコーブドリの伝記」そして「セロ弾きのゴーシュ」が順序であり、詩は、、第一巻に「春と修羅」の第一集から第三集までが収録されているから「春と修羅」第一集の「屈折率」からはじまり、「くらかけ山の雪」そして「日輪と太市」がつづく。この順序だ。
 だが、この順序よりも吉本の関心の度合によって選択はまたちがったものになることのほうが自然である。それが、『宮澤賢治名作選』の収録にかさなっているとすれば、やはり『宮澤賢治名作選』の順序を踏襲したということのほうが納得できるこたえではないだろうか。  つまり、これらを書いた時期の吉本は、『宮澤賢治全集』を入手できてはいなかったといえる。
 だが、単純な疑問ではあるが、吉本はどのようにして「雲の信号」という作品を知ったのか、また、どのようにして藤原草郎の「宮沢賢治と女性」を知ったのかということだ。ただこのことは当時の吉本以外知りえないことのようにおもえる。
 ところで、川上によって「詩碑を訪れて」と総称された一冊のノートに書き留められた宮沢賢治に関する文章は、宮沢賢治の人生の物語と童話と詩と思想の森をながめながら入っていき、やがて森のなかの景色を立ち止まってながめるところまでの時間的な跡が残されている。「賢治さん」という呼称は同じであっても、ノートの初めと終りでは深さの度合がちがっている。
 昭和二十年の執筆といわれる「宮沢賢治序叙草稿第五」には、その「文章を書くのに参考とした関係書」があげられている。これらの第一刷の発行年月日を記しておく。

○佐藤隆房『宮澤賢治』(冨山房刊)昭和十七年九月
○松田甚次郎編『宮沢賢治名作選』(羽田書店刊)昭和十四年三月、参考に第九刷は昭和十六年十月 童話二十二篇、詩十七篇、歌曲三篇、劇四篇、論考一篇、手紙二篇、その他築地小劇場劇団東童上演の劇の写真などが挿入されている。頁数にして六○○頁にもおよぶ一冊。
○坪田譲治編『銀河鉄道の夜』(新潮社刊)昭和十六年十二月 *この本であれば日本童話名作選集の一冊の宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』であり、装幀・挿絵などは野間仁根、あとがきが坪田譲治である。作品としては、銀河鉄道の夜・なめとこ山の熊・雪渡り・茨海小学校・ツエねずみ・水仙月の四日・が収録されている。『米沢時代の吉本隆明』のなかに、吉本の妹の紀子が、兄から貰った『四つの贈り物』について回想している。そのひとつに『銀河鉄道の夜』があるが、「表紙は多色刷の美しいもの」と書いている。この本かとおもわれたが、直接問いあわせてみたところ、この本ではなく「表紙はみどりと黄みどりの縦よろけ縞、題名と著者名は白抜き、表紙にも本文にも挿絵はなく、表紙以外の本文はわら半紙のような粗末な紙で、「銀河鉄道の夜」だけの本だったとおもいます」とのことだった。贈り物は、小学生だったころで、吉本が米沢に行っていたころのことであることは確かである。
この本がどのような本であるかは不明である。
○草野心平編『宮沢賢治研究』(十字屋書店刊)昭和十四年九月、研究三十一篇、追想二十四篇。
○森荘巳池著『宮沢賢治』(小学館刊)昭和十八年一月、この本の装幀と絵は深澤紅子。もう一冊は、昭和十九年発行の杜陵書院版で、装幀と絵は栗木幸次郎。どちらだろうか。余計なことだが、昭和二十一年版では十八年版にあった「祖國日本のために、自分の命までもなげ出して、一心にはたらき、まっすぐにすすんだのでした。」とか「東洋に第日本帝国という國がある」とか「何百年としひたげられて來た、大東亜共栄圈の中の、よはい、たくさんの民族を」とか「英米が、アジアから去らないうちは、アジアの幸福はあり得ないともいはれませう。これは、こじつけといふものではありません。えらい人のことばは、いろいろに考え考え讀むべきものであります。」などといった、宮沢賢治を国家の奉仕者のように脚色し、戦前の日本国家を誇示していた文は、いっさい削除され延命されている。敗戦後の検閲によって削除されたのだろうか。だとしても、本気でおもっていたのであれば、それは非難されることではない。また恥ずべきことでもない。そのことを否定せずに、そのことの意味を問い、そのことが起ってしまう世界の構造を解読することからはじめるしかない。思想とはそうではないのか。恥ずべきは、そのことをなかったように隠し、封印し否定することだ。
○坪田譲治編『風の又三郎』(羽田書店刊)昭和十四年十二月 *この本であれば著者は宮澤賢治、解説が坪田譲治、画は小穴隆一である。作品としては、貝の火・風の又三郎・蟻ときのこ・セロひきのゴーシュ・やまなし・オツペルと象が収録されている。
○関登久也著『宮澤賢治素描』(共榮出版社刊)昭和十八年九月
○小田邦雄『宮澤賢治覚え書』(弘學社刊)昭和十八年十一月
○藤原草郎編『フランドン農学校の豚』(東京八雲書店刊)昭和十八年九月 *表紙のなかの扉には「宮澤賢治作品集」とあり、奥付の編者は「藤原嘉藤治」となっている。作品としては、耕耘部の時計・風の又三郎異稿・或る農学生の日誌・疑獄元凶・ビヂテリアン大祭・税務署長の冒険・フランドン農学校の豚が収録されている。
○[宮澤賢治全集』六巻・同別巻(十字屋書店刊)*この全集をすべて入手していたとみなして、大山尚の「「宮沢賢治受容史年表」からの報告(1)」(「賢治研究」74)によって調査され確認された初出年月日をここであげておく。第一巻 昭和十五年一月十日・第二巻 昭和十五年九月三十日・第三巻 昭和十四年六月三十日・第四巻 昭和十五年三月十七日・第五巻 昭和十五年十二月三十日・第六巻 昭和十八年十月三十日・別巻 昭和十九年十二月二十八日

 『呼子と北風』と名づけられた詩稿のなかには、すでに宮沢賢治の影響が見られる作品があることは渡辺も指摘している。渡辺が述べるように、「アツツ島に散った人達に」が、第一行の「その悲報がとどいたのは」というとおり、一九四三年(昭和十八年)の五月以降に書かれたとおもわれ、昭和十八年一月に『呼子と北風』がすべて清書されたとはおもえないが、昭和十九年に入ってから急に宮沢賢治への関心が深まったとはおもえない。吉本の宮沢賢治に関する文章を読むかぎり、そこに流れている時間はそんなに短時間ではないはずだ。「ターシャリー・ザ・ヤンガー・マツドストーン」の意味を数か月かんがえていたことは、そのことを推測させてくれる。もちろんこのことは渡辺も言及している。ただ、先ほどから述べているように、川上によって「詩碑を訪れて」と総称された一冊のノートは、あきらかに現存しているその後のノートとは地続きではない以前のものだ。「詩碑を訪れて」と総称された一冊のノートと「宮沢賢治序叙草稿第四」の間には、今や知ることのできな「宮沢賢治序叙草稿」の第一から第三、また「宮沢賢治童話論」のノートなどが堆積している。
 吉本は、宮沢賢治に再会してから、途絶えることなく宮沢賢治に寄り添い、向かい合い、そして宮沢賢治を深く理解していった。後年、吉本じしんが、「同化作用がつよい」というが、宮沢賢治に関する論考の膨大な文章に刻まれた時間的な距離には、「賢治さん」という呼称から「彼」という呼称に至る相対化、客観化があらわれているとみていいだろう。
 そして、『草莽』が宮沢賢治の圧倒的な影響の下に書かれたことは、吉本自身が述べているとおりである。この『草莽』におさめられた作品が書かれたときには、すでに宮沢賢治の数多くの作品と、宮沢賢治に関するいくつかの本も読んでいたことになる。高村光太郎や横光利一、保田與重郎、小林秀雄、太宰治といった文学者もさることながら、吉本は、宮沢賢治によって戦争期を生きぬいたといえよう。

(「銀河鉄道の夜」については、高橋紀子さん、宮沢賢治学会イーハトーブセンターの方にご教示いただきました。ここに記してお礼申し上げます。

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「野分」について  長谷川博之(「猫々だより」103 2011.6)

 夏目漱石の作品のなかで「野分」は、貧弱で薄っぺらい、当時の社会主義的ブルジョア蔑視の感情を含んではじまる。一般的に、漱石の作品について語られる場合には「野分」は、失敗作または過渡期のものとして他の同時期の作品と一緒に判断されることが多いらしい。僕は、漱石研究についてはほぼ、無知に近いため、そうとられても仕方がないかとは思う。しかし僕にとって「野分」は、「坑夫」や「二百十日」とは違う。そう思わなければ、作者漱石も、主人公高柳君も、救われないと思う。また「野分」が好きな僕も、ちっとも報われない。つまらない説明の仕方かもしれないが、極端にいえば、漱石が生まれ、死んでゆく間の苦心惨憺が、「野分」の高柳君の〈独ぼっち〉を思い知らされてからの、必死の感情の起伏に投影されているのを、取りあげずに過ぎてゆくのは、寂しいことのような気がする。
 貧乏学士、白井道也、道也先生は理想主義者である、と描かれているが、当時の漱石が何故かこだわっている、いわゆる社会主義的な背景を、背負わされている。高柳君もまた、ブルジョアを蔑視しているが、大学卒業後、翻訳業で生計を立てている貧乏者として描かれている。確かに僕の乏しい知識でも、この背景の建てかたは、戦後文学のある部分によって、きっちり否認されているとは思う。また、漱石が作品自体にその後つきつめていった考え、言葉による越えかた自体に、漱石のすさまじい苦心惨憺も投影されていると考えるのは、本筋なのだ。しかし人間はみな、変な言いかただが誰でも内心は、大変な思いを続けながら生きていくのではないか。僕が落ちたタイプだからそう思えるのかもしれなく、うまい言葉も見当たらないが、強引な結びつけをしてしまうと、全員、身体は、石にかじりついてでも、生きるように出来あがってしまっているのだから、人の命は重いのである。
 高柳君は友達は大学時代、宿が同室であった中野君以外、いないみたいであるが、その中野君に、遊園会や音楽会での振る舞いを、だから君は〈独りぽっち〉なんだと、告げられてしまう。少年期に自分の教師であった、道也先生のことを憶えているが、その道也先生を、理由が解らないにせよ、一教師から失職させるくわだてに加担してしまったのもまた、事実である。

   昔、ふらふらと零時過ぎでも友達と散歩ばかりしていた時期がある。飲酒運転の車だけが、この時刻は怖いのだと教えられた。暗い夜道をよく何歩もなんぽも歩けたものだと呆れてしまうのだが、友達も私も他にすることがなかった時期である。お金もないし、深夜営業の廃墟のような、中古台ばかりの安いゲームセンターで、時間をつぶしたりした。普通のぼけっとした青年2人が、何故、零時過ぎても家に帰らなかったのかが、今ではよく解らない。
 ある時に、何か表現をしようと指向していた場合に、過去の自分をどう扱うかという話になったことがある。彼は言うのである。友達がいなくて寂しい思いをした時期があったり、家で居心地が悪くなった時期があったりした場合に、つまり、その過去に対して、どういう態度で表現に向うかという話である。抽象的な言い方だが、過去の長谷川αが寒さで震えていたり、長谷川βが寂しい思いをしていたならば、それは実体験なのだから、作品において救出されなければならないと、彼は言うのである。何故かいまでも憶えている。ただ、僕だけがそう彼が言ったと思っているだけかもしれない。もうひとつ過去について、彼はいった。表現をする場合、少年期や青年期において混じりあったころの、例えば、同級生や友達、肉親たちの、自分を応援している声が聞こえなければ、無意味だと言うのである。どちらも今ではモラルの強すぎる考え方かもしれない。遊びも余裕も生みはしないが、ある種の文学観ではある。表現はまず、どんな場合であれ何をしても自由と、指向するのが大前提である。けれど、要するに僕が何故、今でも彼の言ったかもしれないことを憶えているのかはどうもつまり、過去の寂しい思いは自分自身の傷から生じているとしても、作品において救われなければならない、(無意識で一向に構わない)。また、昔の友たち等の応援する声は、傷を近づけ見せあったころのものだから、決して忘れてはならない、(無意識のほうが良い)と思いこんでいるらしいのである。どうも自由にはなれない考えであり、文学が指向すべき、解放感からはほど遠いのだが、生活しながら何やらごそごそと言葉をひねっている時、何故か今でも離れないのである。彼の夜の言葉が。なお、彼の言葉の原本は不明である。

 僕が「野分」を好きなのは、いったい漱石が生涯のどこで傷ついているのかは解らないが、まるで僕の友達の、夜の言葉が予言のように、高柳君の姿が、どんどん漱石自身の過去を暗示し、求心的に膨らんでゆき貧弱につくられた背景をぶち破っていくように描かれているとしか読めないのである。
 高柳君は肺結核に掛かり、床にふせることとなるが、道也先生の電車事件嫌疑者救済のための演説会に出掛け、道也先生の声を聞くうちに、作品のなかでは心がしだいに満ちてゆくのである。演説が終わると同時に、口から鬨の声が自然と上がり、背景は崩れ、高柳君が生を感じるところまでは、漱石は描いているのである。高柳君はまた病床へ戻ることとなるが、身を案じた中野君より、高柳君の書く作品料というかたちで、養生費100円を受けとるのであるが、作品の末尾には、漱石のそれまでの過去に対する精一杯の思いが籠められているようで、僕は大好きなのである。
 『「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい。」
 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代わりに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致し、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。』

 今年の3月末ごろ、会社帰りに、尿意の為、区立図書館脇の小汚い便所にしゃがみ、しょぼしょぼ流れる小水の音を聞いていると、結局人間は、みじめに生まれ、みじめに死んでいくのかもしれないと、ふと思った。が、やはり死ぬまで、いくら遠くても他者を求めていかなければいけないのだとも、考えた。
                    (昭和51年7月発刊、新潮文庫版)

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吉本隆明資料拾遺(12) 岸上大作に宛てた書簡 宿沢あぐり(「猫々だより」104 2011.7)

拝復

 今度は貴方にたいへんなご迷惑をおかけ致し
ましたようで申訳けありません。せっかくの貴方のお
骨折りが無になってしまったことを残念におもい
ます。また、気苦労もさぞかしと存じ、すこしでも
負擔をおかけ致しましたことを心苦しくおもっ
ております。どうか、研究会のみなさんにもよしなに
お取り次ぎ下さい。
 小生としては、貴方というひとを知り、貴方の秀れ
た作品なども、こんなことがなければただよみすごした
だけでせうに、知ることができてそれで充分であり
ます。今後とも、良い作品を発表しつづけて下さる
ことを祈ります。小生も短歌がすきですし、理論
上もこれからしらべてゆきたいことだらけですのでいろ
いろおしえていただくこともあるとおもいます。
  元気でやって下さい。
 小生は、月水金と勤めに出て、火木土と家におり
ます。のんびりした折おたづね下さい。
 岸上大作様             吉本拝


*消印は昭和三十五年十一月六日
渋谷区若木町国学院大学短歌研究会の岸上大作宛て
国學院大学短歌研究会は、大学祭(若木祭)の一環として、十一月八日(火)午後一時から、同大学の401番教室において、吉本隆明の講演会を予定、演題は「文学者の現代責任」であった。
しかし、「革命詩人、吉本隆明来たる」というビラが大学当局の目に止まり中止勧告を受け、十一月二日、三日の短歌研究会での話し合いの結果、講演会は中止と決まる。
このような経緯を岸上が伝えた手紙に対する書簡ではないかといわれる。
短歌研究会の責任者であった岸上はこの件により退会を決意。
十一月十日、御徒町の自宅に吉本を訪ねる。また、同月十九日の六月行動委員会シンポジウムに出向き吉本に会っている。
岸上は、十二月五日、午前三時ころ、ブロバリン百五十錠を服し、さらにロープを使って縊死した。享年二十一歳であった。
出典は、『'60年 ある青春の軌跡 歌人岸上大作』(姫路文学館刊)に収録された原稿用紙に青色の万年筆で書かれた書簡。改行は書簡どおりである。

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吉本隆明資料拾遺(13) 化学論文をめぐって 宿沢あぐり(「猫々だより」105 2011.8)

 吉本に関連する資料発掘の第一人者であり、勁草書房版の著作集や『初期ノート』を編纂した川上春雄にインタビューするため、川上が亡くなる二年前の一九九九年に、川上の自宅を訪れた後藤正治はつぎのようにルポしている。

 川上の応接間兼仕事場には、段ボール箱が積み重ねてあって、吉本が書いたものはすべて収めてある。なかには、東京工大の研究生時代の論文、「化學技術者の熱力學」といった表題のものまである。箱の上には、「眞蹟」と記された紙が差し込まれていた。間違いなくその人が書いたものと認められるもの、である。
(『人物ノンフィクション I 一九六〇年代の肖像』(岩波現代文庫)所収「海を流れる河」より)


 川上が亡くなってから、川上の蒐集した吉本に関連する資料のすべては、日本近代文学館に寄贈され、吉本の手書き原稿をはじめ、その一つひとつが綿密に整理されている。しかし、このなかに東京工業大学時代、特別研究生時代、東洋インキ製造株式会社時代の化学論文のたぐいについては、ないということである。また「眞蹟」と記された紙は差し込まれているのではなく、「眞蹟」と書かれた箱であり、そのなかには「呼子と口笛」や「過去についての自註」などの原稿が収められていたとのことである。「化學技術者の熱力學」といった表題のものについては不明である。
 川上が資料収集のために作成していた目録の一部のコピーがあるが、川上の資料蒐集の方法は、基本的に吉本に関することが書かれているものすべてを蒐集することであり、このほかにそこから派生する資料に至るものまで入手するといった、まかりまちがえば核心から遠ざかって資料(蒐集)の迷宮に迷いこんで抜けだすことができなくなってしまうこともある方法である。
 川上が編纂した『初期ノート』にも、勁草書房版の著作集にも化学論文のたぐいは収録されていない。
 川上はもちろん吉本の書いた化学論文のたぐいのいくつかが残されていることを知らないはずはなかったし、東京工業大学での後輩であった奥野健男にも、東京工業大学にも、東洋インキ製造株式会社にも問い合せていたはずである。しかし、川上の書いた文章にはそうした論文名などはない。これは、当時の吉本の著作集のつくりかたからすれば、いたしかたのないことだったかもしれない。
 わたしたちは、吉本の化学論文のたぐいを探しだそうとすれば、吉本じしんの書いたものや話したことからさかのぼって探していくことになる。わたしたちはあまりにも川上に任せすぎていたし、頼りすぎてしまっていたのだ。川上がひとり断念しなければならなかったおもいにこたえなければならないのは、後から資料の落穂ひろいをするわたしたちである、このことは吉本には関係のないことだ。
 石関善治郎は、『吉本隆明の東京』(作品社刊)における補注の「特別研究生と東洋インキ入社と化学論文」のなかでつぎのように述べている。

 東京工業大学同窓生の奥野健男は、科学者としての隆明の優秀さに言及するなかで、複数の化学論文、レポートの所在を示唆しているが、隆明本人に確認したところ、筆者の捜し当てた上述のほかには卒業論文があるのみ。卒業論文は、提出後、大学から持ち返ったという。

 ここでいわれている奥野のことは、『科学の眼・文学の眼』(冬樹社刊)所収「自然科学社としての吉本隆明」で書かれていることで、昭和二十九年(1954)年頃の大学の上司や会社への報告書についてのつぎのようなことがらだとおもわれる。

 その頃(昭和二十九年頃)の東洋インキや工大の上司への報告書を同じ「大岡山文学」同人の詩人兼技術者の友人から若干見る機会を得たが ー 「ラピドゲン染料に就いて」の報告書は捺染試料表から、「アミノスルフォ安息香酸の製造について」「ヂアゾザルツGの製造ラピドゲン染料の配合、発生試験」や「ファスト・ブラウン」についての報告書等、地味な研究実験ながら、発想も方法も、論理も、実験も、まさに足が地についた簡潔な確信に満ちたレポートである。そのひとつひとつの実験の意図に、方法に、分析に具体的な科学的思考が生きている。そしておもしろいのは、たとえば吉本隆明が、ゆるやかに撹拌し、と書いたのを、上司が化学的表現の慣習に従って緩慢に攪拌しと、訂正しているのを、吉本は、「訂正ノ要ナシ」と欄外に書き実印を押し、自分の表現を通している、そういう部分だ。

 奥野はこの前に「吉本が日本化学会誌やその他の学術専門誌に発表した論文」と書いているが、日本化学会誌は、以前当時のバックナンバーを直接調べてみたが掲載はない。他の報告書についても吉本のものかどうかは不明である。
 石関が捜しだした「上述」のものは、1951年8月に発行された「色材協会誌」(第24巻4号)に掲載の「Phenomenon of Bronze in Surface Coatings」と1953年2月に発行された同誌(第26巻1号)に掲載の「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」である。これらは現在『吉本隆明資料集60 色材論・初期化学論文』で読むことができる。
 これらの発見は、たぶん「磁場」第8号(1976年4月発行)に掲載された「色材論II」に付された註からである(他の手段としては吉本から直接教えてもらう以外にないだろう)。この註に「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」と1950年11月の東京工業大学内報告(稲村耕雄との連名)と1951年2月の同大学特別研究生提出報告が記されている。
 また、「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」の文献では、特別研究生提出報告以外に、「特別研究生提出報告(補)(一九五一)」がある。これらの提出報告は、どのような内容であるか全貌は現在ではまったくわからない。ただ、引用があるので、どのような研究であったか、その一端を推し量ることはできる。しかし、その内容は、「色材論II」と「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」では異なっており、「色材論II」では、Lennard-Jones法による格子ポテンシャルの計算であり、「一酸化鉛結晶の生成過程における色の問題」では、色相を異にした一酸化鉛試料の製法によるいくつかの実験とその考察である。
 不思議におもうのは、「色材論」は一九七五年に多摩美術大学の教授であった奥野の依頼と推定される芸術材料学の特別講義として講演されたものであり、註として掲げていることは、その報告書をその時点で所有しているか、もしくははっきりと記憶しているかどちらかである、ということである。もしかしたらそのときには報告書があったかもしれない。記憶だけでは註をつくることはかなり難しいことだとおもわれるからだ。
 また、石関が卒業論文のことを述べているが、この卒業論文は、いつのものだろうか。『吉本隆明詩全集』の「吉本隆明年譜」の作者である高橋義忠が、昭和26年3月の項に、「東京工業大学「特別研究生」一期二年の課程を終え、研究室を去る。修了論文「物質の色と構造」を書く。」(吉本も確かに「卒論は、大きくいうと、物質の色と構造ということになります。」『吉本隆明が語る戦後55年(4)フーコーの考え方』(三交社刊)に収録された補足インタビュイーで述べている)と書いているが、理数系の修了論文の場合は、大枠の表題ではなく、個別的な実験や考察の表題になるのがかんがえられるが、これも確認できない。むしろ卒業論文については、昭和二十二年九月に東京工業大学の電気化学科を卒業した時の卒業論文である。
 昭和61(1986)年に刊行された林真理子、栗本慎一郎との共著『恋愛幻論』(角川書店刊・初出は『Harvester 18 メタファとしての現代』)の中の欄外の註にその卒業論文の表題はあきらかにされている。

 *22年9月東京工業大学理学系化学科を卒業(卒論「有機科学ハイドローアントラセン系の吸収スペクトルについて」)して(後略―宿沢註)

 この註が吉本自身が書いたものであるならば、卒業の科をこのようには書かないだろう。編集者が吉本から聞いて書いたのだろうか。ただし、卒業論文の表題は大雑把ではない。これがもし確かであるならば、吉本はなぜ電気化学科であるのに、卒業論文は有機化学科なのだろうか、ということである。このことについては、奥野が前述の文でつぎのように述べている。

 吉本隆明は、応用化学的な電気化学科にいながら卒業論文のためには、純化学系(ピュアケミストリイとルビが振られている―宿沢註)の化学科の無機化学教室をえらんだ。直接の指導教官はいろの化学で有名な稲村耕雄助教授であった。けれど当時の無機化学は錯化合物を入れても行きづまっており、彼の色、新しいコンプレックス顔料の研究も、徒にX線廻折その他で、結晶や分子構造を分析する体の希望のないものであったに違いない。

 無機化学教室であっても有機化学の分野での実験や研究をすることはある。6年後の昭和28年のことであるが、吉本の教授であった稲村琢は、社団法人応用物理学会が編集した『分光分析』(丸善出版刊)に「吸収スペクトルと有機化合物」という論文を寄稿している。
 吉本が卒業した昭和22年、『最新 染料および顔料化學』(丸善出版刊)を改版した佐藤吉彦は、アントラセンについてつぎのように述べている。

アントラセン油から析出したものは30〜32%以内の純粋度を有するに過ぎないが、更に之を精製するにはピリヂンで処理した後に昇華法を適用することができる。アントラセンは無色の板状結晶で青色蛍光を放つ。アントラセンはアントラキノンの還元或はテトラブロム・エタンとベンゾールまたは2分子塩化ベンヂルをフリーデル・クラフト法で得られる事実と9および10の炭素原子は附加反応を呈する

アントラセン油は別名グリン・オイル(Green oil)とも称してゐる。其のまゝ数日間放置する時はアントラセンの結晶が析出するから、遠心分離機にかけて母液を去れば約10〜12%のアントラセンが得られる。之を蒸気で加熱すれば30〜40%のものが得られ、更に之を昇華するか或はピリヂンの如き溶剤に溶かして再結晶を行へば80%内外の純粋度のものが得られる。


 アントラセンはコールタールから得られる有機化合物の一種であり、化学式C14H10で表され、ハイドロ-アントラセン系とすればジヒドロアントラセン(C14H12)などではないかと推測されるがわからない。ハイドロ-アントラセン系では有機化合物の一種というだけで個別的な化合物を特定できない。現在では、インターネット上に「有機化合物のスペクトルデータベース SDBS」が公開されており、ジヒドロアントラセンの情報も確認することができるが、『恋愛幻論』での註は、吉本が当時どのような学業をしていたかの一端を知ることはできるはずである。
 前述した奥野があげた吉本の研究報告が吉本自身の手になるものかどうかは不明だが、「色材論」II、IIIでの内容から、こういった実験や研究をしていたことは確かだろう。たとえば、吉本がつくったパラ・ブラウンという色材のできた過程のなかで「吸収スペクトル曲線」のグラフを示しているが、これに「ファストブラウン」の吸収スペクトル測定の結果が示されている。これによって、奥野が述べている研究報告である「ファスト・ブラウン」についての報告も、あながち信憑性がないとはいえないことがわかる。
 吉本の化学技術者としての本領は、『ハイ・イメージ論』により鮮明に発揮されているといえる。なかでも「パラ・イメージ論」と「段階論」にそれをみることができる。ここで吉本は、普遍的な像論(学)の試みとして、ことばの概念と像の位置関係や、物語における「記述の言葉と語りの言葉」や「内的な独りごと」のことばの準位などを、島尾敏雄と宮沢賢治の作品によってかんがえているが、このとき化学用語にある化合物の置換基位置の指定に接頭語として用いるオルト、メタ、パラ、オルト-パラといった名称を適用していることからもわかる。そして、ことばの概念と像の位置関係は、化合物における置換基の異性体(Isomer)の図形(図面)、物語における「記述の言葉と語りの言葉」や「内的な独りごと」のことばの準位などは、置換基の反応性における配向性(不)活性化基の図に相似している。これらは現在入手できる化学書を調べればわかることだ。
 こんなことは、化学のことを知っている者にはあたりまえだろうが、染料と顔料の違いについては、吉本の直接の指導者であった稲村耕雄は、昭和22(1947)年に発行された女学生雑誌の「白鳥」(2月号)に掲載された「色の分析」でつぎのように述べている。

染料は大部分が水に溶ける性質を持った有色の有機化合物です。繪具、塗料、化粧品などは水に溶けない無機又は有機化合物がその原料であって、これを顔料とよんでゐます。

 稲村は、『色彩論』(岩波書店刊)や『色彩調節』(オーム社刊)の著者として有名であるが、吉本に関する文章を残しているかどうかは不明である。わたしたちが知っているのは、せいぜい『科学の眼・文学の眼』収録の「吉本隆明の印象』で奥野が書きとめている、吉本が演出した太宰治原作の「春の枯葉」の芝居の感想くらいである。
 ところで、吉本は、その稲村の研究について、前述した『吉本隆明が語る戦後55年(4)フーコーの考え方』に収録された補足インタビューでつぎのように述べている。

ベンゼンみたいな亀の甲の分子構造には二種類あるんです。一つは、亀の甲の端が両方とも船の舳先のように上向きになっていて、真ん中は船底のように平らになっている「舟型」と呼ばれる構造です。もう一つは逆に、片側の端は上がっているけれど、反対の端は下がっていて、ちょうど椅子を横からみたようになっている「椅子型」と呼ばれる構造です。この二つが短いあいだに相互変換しているというのが、だいたいベンゼンの立体構造だといわれてきたんです。ところがその助教授は、亀の甲構造には、もう一つ「ねじれ型」があるんだというのを発見したんです。そういうのがあるのではないかという示唆は、きっと教授の先生がくれたんでしょうが、その助教授は「ねじれ型」を含んだ三つの構造が頻繁に相互変換しているという研究をやっていました。

 ここで吉本が述べている稲村の研究は「デカリン」を対象としたものであるといえる。
 彼は昭和14(1939)年にフランスのモンペリエ大学に留学した時からデカリンの研究に没頭していたといってもいい。昭和19年12月に刊行された『研究と動員』(日本評論社刊)のなかで対話形式を用いながら自嘲気味的に自分の研究をつぎのように述べている。

――君は發明がきらひだつたね。大發見も大發明にも縁のない男がいひさうなことだ。
――やむを得ません。發名家といはれるよりは一人前の研究者になりたいのです。
――例によって研究か。しかし發明發見がなければ科學の進歩も技術の發展も考へられないだらう。
稀元素の發見、合成ゴムの發明すべて發明發見だ。「デカリンの研究」とかいう君の報告では、學術雑誌の紙を食ふくらゐが關の山だらう。


 この後、稲村は自分の考え方を述べているがこれは省略しておく。
 デカリンは、一般に、ナフタレンからつくられる脂肪族炭化水素といわれ、分子式はC10 H18、シクロヘキサンをふたつ合わせた構造で、それぞれの炭素に二つずつ水素がついており、炭素どうしの二重結合を中心にしたシス-トランス異性体がある。稲村によれば「用途は主として溶剤、またテトラリンとともに内燃機用燃料にもなるが靴墨の原料としても使われ」、「トランスあるいはシスというのは、2ツの6員環のむすび目にあたる2ツの炭素に結合する2ツの水素原子が環にたいして反對側にあるか(トランス)同じ側にあるか(シス)を意味する」という。
 稲村は、このデカリンを「ナフタリンの水素添加によってえられる飽和環状炭化水素で芳香をもつ無色の液体」と述べているが、吉本が述べているような稲村の研究の成果報告は、昭和23(1948)年に書かれた「トランス-及びシス-デカリンのラマン・スペクトル」(1948年2月「東京工業大学学報」13巻2号)と「立體化學の方法とその限界―デカリンの分子構造を中心に―」(1949年2月「科学」19巻2号)という二つの論考で確認することができる。
 これらで稲村は、それまで一般的に有力な説であったトランス異性体(椅子型)とシス異性体(舟型)以外に「第3の異性体」の存在あることをかんがえ、その発見を目標に実験を重ねていた。その結果としてつぎのような結論を導きだしている。

Decalineにおけるtrans-あるいはcis-異性體は、2つの6員環の結び目にあたる2つの炭素原子に結合する2つの水素原子がC-Cにたいしてtrans-結合であるか、cis-結合であるかによって命名されたものであるが、gauche型ではそれがgauche結合になつている。したがってこれまでcis-DecalineとよばれてきたDecalineの異性體はむしろgauche-Decalineとなづける方がよいと考える。
            (「トランス-及びシス-デカリンのラマン・スペクトル」より)


 吉本が「ねじれ型」と呼んだものが、ここでいわれている「gauche型」(ゴーシュ型)であるとおもわれる。この報告の末尾にはつぎのような謝辞が添えられている。

本研究のラマン・スペクトルの測定は水島三一郎博士のご好意により東京大學理學部水島研究室において行った。御懇篤な御指導と多くの貴重な示唆をたまわった水島三一郎博士、森野米三博士、また終始この研究を御鞭撻下さった植村琢博士に衷心より感謝の意を表する。

 稲村が「gauche型」(ゴーシュ型)と呼んでいる、この「ゴーシュ型(形)」の命名は、水島三一郎によるものである。このことは化学の分野では有名すぎることのようである。
 稲村がその論文で、デカリンの分子構造の分析と実験から、立体化学の方法的な限界を指摘し、構造化学に新たな展開をみいだしたが、水島は「回転異性体のゴーシュ型を発見し、構造化学に新境地を開いた」(吉原賢二「挫折から再生へ―大正・昭和の化学者たち(5)(「現代化学」2004年10月号)より)といわれる。これを水島自身のことばで述べてもらえばつぎのようなことである。

二つの炭素原子が単結合C-Cで結合する場合、そのまわりの回転は自由でなく、一般に三つの安定点が存在する。それに相当する分子形をトランスと左右のゴーシュ形と命名した
(「ゴーシュ形の発見と命名のいきさつ ―われわれの回転異性体の研究から―」(「現代化学」1975年4月号より)


 この安定点(形)が「回転異性体」と呼ばれるものだ。ゴーシュという命名のいきさつにはいろいろあるようだが、はじめは「それまでの化学でトランス、シスという言葉は使われていたが」「その中間にある安定形なので」「暫定的に中間型とよんでいた」ようである。
 水島は「ゴーシュという言葉は英語としても使われるが、元来フランス語で左とか、不格好という日本語にあたる」と述べている。
 このゴーシュという呼び名は、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュという名前とかさなってくる。ただし、はじめはセロ弾きには名前はつけられておらず、しだいに「テイシウ」「ゴーバー」「ゴーシュ」というように変わっていった。
 宮沢賢治がどのようにしてこの「ゴーシュ」という言葉を知って名前として使ったのかを、天沢退二郎は、「「ゴーシュ」という命名をめぐって」(『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』筑摩書房刊所収)でつぎのように述べている。

「ゴーシュ」とはフランス語で「左手」のことで、ブキッチョである、へたくそであるという意味に昔から使われています。それから、不吉だという意味もあるようですけれども。

賢治の初期の詩集『春と修羅」のなかの「樺太鉄道」に、「ゴーシュ四辺形」ということばがでてきまして、ゴーシュはフランス語で「歪んだ」という意味もあるので、正方形ではなくて歪んだ四辺形だという意味で使っていますから、賢治はゴーシュというフランス語を知っていたといわれます(*補注参照)。


 この補注で、天沢は「賢治が知っていたのはこの幾何学用語としてであって、賢治テクストにこのような「ゴーシュ」の用例は他にはなく、普通の名詞・形容詞としての「ゴーシュ」というフランス語を知っていたというのは言いすぎ。」と書いている。
 蛇足ながら、この「ゴーシュ」の命名について、『宮沢賢治イーハトブ学事典』(天沢退二郎・金子務・鈴木貞美編 弘文堂刊)では、「ゴーシュ」の項目で執筆者の一戸良行は天沢の指摘は掲げているが、梅津時比古の『《ゴーシュ》という名前《セロ弾きのゴーシュ》論』(東京書籍刊)にふれていない。これは字数が限られているということとは別に、この事典の趣旨からいっても欠陥ではなかろうか。梅津は、「従来のフランス語説を全面的に否定するものではない」としながらも、宮澤賢治が入手して読んでいたドイツ語の本(特にアルノー・ホルツの『ダフニス』と略される詩集)や辞書などを丹念に調べ、「かっこう」を意味するドイツ語の方言の古語である「Gauch、Ga[‥ウムラウト記号あり=吉田註]uche」から命名し、フランス語は併用したものだと結論づけている。こういった説もとりあげることが事典の使命でもある。梅津の著書はかなり知られており、珍説でもないからだ。
 吉本は『宮沢賢治』(筑摩書房刊)に収めた「擬音表・造語表」の「人名・地名造語表」に「セロ弾きのゴーシュ」から「ゴーシュ」とゴーシュの友だちの名である「ホーシュ」のふたつをあげている。吉本は当然ながらこのような資料を作成する場合は、あらかじめ調べるはずである。吉本のこういった表には、その深層にたくさんの資料が埋まっている。したがって、「ゴーシュ」ということばについてもそのことはあてはまるとおもわれる。これが吉本の化学技術、研究での課題を追求してきた方法であり、態度であるからだ。吉本の化学論文は、現在まで前述したふたつしか読むことができない。ただ、「色材論」という講義に、学生として、また技術者としてつちかわれた化学実験や研究の成果が遺憾なく発揮されており、これによって現在は読むことのできない吉本の化学論文などを十分おぎない、内容を想像することを可能にしているということができる。
(「川上春雄文庫」の化学論文関係については、間宮幹彦さんや日本近代文学館の安部秀次郎さんにご教示いただきました。ここに記してお礼申しあげます。なお、横書きの原文を縦書きにしています。)

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「「金子寿徳さんの死」  長谷川博之(「猫々だより」106 2011.10)

 かって鮎川信夫は、荒地派の中心として、詩論・思想家として活動したわけだが、その詩はいったい、どうだろうか。例えば田村隆一や黒田三郎、北村太郎といった人達と、戦後、一緒に活動したわけだが、荒地派がもっとも厚みがあった頃、他の詩人たちに比べ、もうひとつ読まれはしなかったのではないかと思う。詩論家としてのほうが、はるかに受け入れられたのではないだろうか。〈戦後詩〉としては、いまひとつはっきりとした評価を読者は下せなかったのではないか。荒地派の代表作のいち部分を、ほんの少し、3つだけ引用してみる。
 「おお時よ、なぜ流れるのか/なぜ止まらないのか/空気の悪いアパートの一室で、/青白いサラリーマンが歌っていた。/おお、これからどうしよう‥‥‥/子供を連れて一日だけの安息に、/行ってみようか、船着場へ――/未来と信仰はちがうもの。」
                               (「橋上の人」鮎川信夫)
 「どの家へ行ってみても/おまえたちは家族とともにいたためしがない/父の一滴の涙も/母の子を生む痛ましい歓びも そして心の問題さえも/おまえたちの家から追い出されて/おまえたちのように病める者になるのだ/(一行アケ)/ われわれには愛がない/ われわれには病める者の愛だけしかない」
                                (「立棺」田村隆一)  「無数の/黒い/小さな/蝙蝠傘が/流れてゆく/死に絶えた音/鉛色の空/葬列のように/ゆるやかに/無数の黒い小さな蝙蝠傘が/流れてゆく」
                                (「白い巨大な」黒田三郎)
 僕が〈現代詩〉を追っかけ読んでいたのも、ずっと昔である。僕は当時、戦前の詩は難しくて読めなかった記憶がある。田村隆一の詩も、黒田三郎の詩も、言葉の像は鮮明であり、無駄を削りとられていて、今でも意味がある程度は解りやすく読めるのである。言葉を変えれば、僕は社会人になるまで現代詩を読んではいたが、80年半ばの代表的な詩にも、田村・黒田の詩を踏まえている詩が、たとえ無意識にしろ、いくらでもあったのである。いわゆる詩史の流れというものがあるとすれば、きちんと継いでいる詩だと思う。こんな少しの引用では、ただの感想にしかすぎず、おまえは何が言いたいのか、と思われるかもしれない。鮎川信夫の詩はたぶん、今でも、誰も踏まえようとする詩人がいないのじゃないだろうか。鮎川の詩は、現在ではかなり解りにくい。

 金子寿徳さんは「光束夜」というバンドを1979年に発足させ、粘り強く、ギタリスト兼ボーカリストとして活動を続けた。「光束夜」の正式なスタジオ録音であるLPは、自主制作で1991年に200枚発売された。「光束夜」の存在自体は1983年のころから、ぽつり、僕の知るかぎりではほんの小さく、大手出版本にも出ている。金子さんの現実での活動は「光束夜」及び、ユニット、ソロというかたちで、2007年1月21日に終わることとなった。数日後、なくなられた。現在もホームページがあり、そこで過去の記録を見ることができるので、おおよそどんなスタンスでの活動だったかは理解できると思う。
 「裸のラリーズ」というバンドがあり、現在は活動休止中か、解散したのかはわからないが、「光束夜」はラリーズの亜流であると、捉えられたりする場合が稀にあったらしい。実は僕は「裸のラリーズ」というバンド、どこが良いのか、CDで聞く限りさっぱり解らないのである。ボーカルの言葉がきちんと聴こえないのは、録音状況の悪いライブばかりを聴いたので仕方がないとしても、フルテンでハウリングの多い大音量のギター、最初はああ、こういうものなのかと聴いていられるが、段々、つまらなくなってくる。僕は〈ノイズ〉にはまったく無知だけれど、筋のとおったものを聴くと、気分が良くなりむしろ感心してしまうが、「裸のラリーズ」は何度も、かなり挑戦してみたが、結局は、一曲聴きとおすのが苦痛になってしまう。あたりまえだが、「裸のラリーズ」がたいしたバンドではないなどといっているのではない。むしろ逆だと思う。単に、僕の耳があまり良くないせいである。ただ「光束夜」とは全く、音を出す発想自体が違っていると、感じる。
 初めて「光束夜」を聴いたのはCDだった。レコード屋さんの販売したオムニバスに一曲入っていたのを聴いたのだ。当時は、ベースを担当していたミックさんがボーカルをとることが多く、金子さんが歌うのはライブ演奏のなかで、せいぜい一曲ぐらいだったらしい。一般的には「光束夜」は、金子寿徳さん(ギター&ボーカル)ミックさん(ベース&ボーカル)高橋幾郎さん(ドラムス)のメンバーで記憶されている。ただ、1995年前後に、金子さんの他のメンバーは脱退してしまった。この3人で2005年に再び集まり、またライブを再開した。最後の「光束夜」のメンバーはこのかたちで終わっている。僕が「光束夜」の生のライブを初めて観たのは1996年12月である。今はあるのか解らないが、高円寺にあった20000ボルトという小型のライブハウスだった。それまで、そんな場所へはほとんど行ったことがなかった。なにしろ僕は、スーツにネクタイを締めた、おっさんに片足のかかった、31歳の独身男の恰好でしか行けなかったから。とても若い人にまじり、ライブハウスに行くなど、どうも気後れしていたが、やはり生のライブは観たくって、幾本かの缶ビールで気合いをいれて、清水の舞台からの思いで突っ込んでいった。バンドのメンバーは、当時は、金子さん、故・長尾ひばりさん(ドラムス)サチコさん(シンセサイザー&ボーカル)にゲストのかたちで、浦邊雅■[示に羊]さん(サックス)だった。僕はたて続けに飲んだビールでかなり酔っぱらい、そこらの隅っこにへたり込んで、ステージを眺めていた。全部で確か6バンドの出演で、「光束夜」+浦邊雅■[示に羊]の前は「人生」さんという、からっとしたパンクバンドだったと思う。その頃まだいた、決めこんだファッションのお姉ちゃんたちが、いっせいに壁際からステージ前に出て踊りだし、見ている僕も、ライブハウスとは結構楽しいものなんだと思ったが、これで4バンドめ、「光束夜」+浦邊雅■[示に羊]はなかなか現れない。やっとそれらしい姿が明るくなったステージにあがり動き始めると、僕はよろよろとした足で、客席の中心まで行ってしまい、床に座りこんだのであるが、何故か隣りにちっちゃい女の子が同じように座りこむほか、僕たちを除いて全員壁際へ散ってしまい、ぎょっとした。が、いざ演奏がはじまるとやはり興奮してしまった。この時はごった煮の6バンドで、僕の憶えている限り、以後、金子さんが演奏するときには、同じ領域のバンドが集まってやることがほとんどで、けっこう珍しい夜だったかもしれない。演奏時間は正味30分ほどで、帰りみちに自分が〈独りぽっち〉なのは良く知っていたが、「光束夜」が初めて観れて嬉しく、もっとたっぷりとしたライブが観たいとつくづく思った。金子さんの、代表作のひとつである詩を引用してみる。
 「我が身の苦しき魂と/色褪せた己の肉躰に/供に眠れと我が身の涯に/暗き淵より囁いた/(一行アケ)/記憶の迷路のその中で/夢見た場所を探している/(一行アケ)/夢見たこの場所に/いざ俺は一人立ちながら/全ゆるものに拒まれながら/永遠の孤独に立ち尽くす」
                              (「苦痛壊歌」金子寿徳)
 ああ、と勝手に納得してしまう人が多いのではないかと危惧するが、この曲をよく、どのようなかたちであれ、10分から15分ぐらいは演奏していた。いつもお客さんが多い、とはいかなかったが、金子さんのボーカルと、ギターの音色の為か、特に、線を引いた部分では、嘘は全く無く聞こえるのである。リアルに、金子さんが現実の関係性に拒まれていた、というのではないと思う。ここで冒頭の鮎川信夫の詩を思い出して欲しい。金子さんが作り歌った曲の詩は、特に練りに練ってあると思うのだが、非常に解りにくいのである。しかし例えば僕などがふと、〈独りぽっち〉であると感じるときに、線の部分をサウンドと一緒に聴くと、触媒のように、まるで鮎川の詩と同じような作用を起こすのである。少なくとも僕にはそうだった。金子さんはいつも線の部分を歌うときになると、声調を落として歌っていても、テンションをあげて歌っていても、必死になって歌っていた。だから僕は荒地派の詩人の中で、鮎川信夫の詩が最も好きなのである。他の詩人にはそういうものは無いから。
 その後僕は、どつぼにはまるみたいに、金子さんの追っかけを、失業期間のお金のない2年半を除いて、10年続けた。
 僕はいちどだけ、少し長く、金子寿徳さんと話しができたことがあった。よく観に来てくれるからということで、声をかけてくれたのである。嬉しかったのを憶えている。その時の会話でひとつ感じたのは、例えば僕は、いわゆるサラリーマンだった訳だが、やはり生活スタイルが全然違うので、話がなかなかかみあわないところがあった。これは、楽しい記憶である。会話の途中で僕は、すみません、ではと、失礼なことに金子さんを残し席をさっさと立ってしまった。人と話すのがへたくそな為で、なんだか情けない。本当はもっと話したかったのだ。しばらくして失業をしてしまい、手持ちのお金もどんどんなくなり、ライブにも行けなくなってしまった。
 別の会社に就職ができると、また僕は追っかけを再開させたが、今度は少し、酒を控えるようにはしていたと思う。独特の、エレキを抱えたまま、大柄な身体をあまり動かさずに大音量をだし、高い声でいち部分ずつ絞りだし歌う、金子さんの姿がふたたび観れて、その時だけは再就職できて良かったと思った。
 2006年5月に「光束夜」は、ワンマンライブを、新宿のはじっこで行った。ミックさんと供に、ほぼ全曲を歌い終え、少し嬉しそうにどうも―と言う金子さんが明るくなったステージにいた。
 最後のライブにもひょこひょこと出掛け、ドラムを不器用に叩く金子さんを観ながら、勝手に今年も追っかけをしようとひとり決めていた。幾日かたち、金子さんが亡くなられたのをネットで知った。
 現在、ほとんど僕は、ライブハウスには行っていない。金子さんのいなくなったライブハウスには、僕はどうしても、行く気力が湧かなくなってしまった。
 今でも、ふと、思いだし寂しくなるのである。あのステージの金子さんの姿は、もう二度と観ることが出来ないのだなあと。
 以上は、随分と遅いものだし、単なるいちファンの思い出にしかすぎないのだと思う。
 金子寿徳さん、2007年1月24日永眠。心からご冥福をお祈りします。
                                     2011年5月

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吉本隆明資料拾遺(14) 『東京・深川 府立化工物語』での談話 宿沢あぐり(「猫々だより」107 2011.11)

 吉本の著書のなかでも『戦争と平和』(文芸社刊)は他の著書とちがって少し特異な著書である。というのは、「戦争と平和」という講演以外は府立化工時代の学友である川端要壽が関わった講演の「近代文学の宿命―横光利一について」と川端要壽の「ノンフィクション・ノベル」(彼自身がそのようにいう)「吉本隆明の日常」であり、吉本が学友である川端に任せたというよりも、川端をたてた著書のようにおもえてならない。これが吉本のふるまいかたであり、礼儀のような気がするのだ。
 講演「戦争と平和」は、平成7(1995)年3月10日、東京都立化学工業高等学校主催による「東京大空襲から50年 公開講演会」で同学校の体育館においておこなわれた。この講演会は、都立化学工業高等学校の前身である府立化学工業学校の卒業生である吉本の講演会であった。
 平成16(2004)年8月に刊行された『戦争と平和』に収録されている川端の「吉本隆明の日常」は、「文学街」という同人雑誌に平成14(2002)年の1月から3月まで3回にわたって掲載されたものである。原題は「吉本隆明 ―もうひとつの人生―」である。川端本人が「ノンフィクション・ノベル」というだけあって、吉本のことばがいたるところに挿入されている。特に最後の「反逆」という章には府立化工時代のことが語られている。
 しかし、ここで語られていることは、すでに他の本に収録されているものだ。川端はそれをふたたび使ったといえる。
 たとえばつぎのようなものだ。

 なぜ、普通中学へ進学できなかったのか。吉本は、私に語っている。
「小学校時代は、クラスでいつも一番か二番だったな」

 吉本は言う。
「俺のウチは、そのころ門前仲町(深川)で貸しボート屋をやっていて、貧しかった。どうして化工へやらされたのか、解らなかった。三中へ行けなかった連中は、府立三商とか、化工、実科工業へやらされたね。府立三中へ行ったのは、クラスで一人っきりだった。俺は化工さ。応用化学科なんていったって、どんな学問か、ぜんぜん知らなかったね。」


 あと二箇所ほどあるが、これらは私的な会話のなかでのことというよりも、川端が依頼された仕事のなかでの吉本のことばだとおもわれる。
 この仕事というのは、洋画家で府立化工の卒業生であった吉川俊夫からのたっての依頼である「化工物語」を書くことだった。それが、『東京・深川 府立化工物語』である。これは、東京都立化学工業高等学校化工同窓会によって刊行されたものだ。
 川端はこの編著をつくりあげるにあたって、化工卒業生や当時の教師などに丹念に化工のことをたずねている。
 他の人たちと同様、吉本にも編著の内容をまとめる主題に沿ってたずねたと行ってもいいだろう。このときの吉本が話したことを、川端が自身の「ノンフィクション・ノベル」のなかに挿入したということになる。

 石関善治郎の『吉本隆明の東京』(作品社刊)には、「隆明は、府立化学工業学校の生徒であった。多感な年頃のこの時代の思い出が語られること少ないのは、隆明の関心が、自分の家とこの土地を離れていたからと思われる」と書かれている。わたしとしては、石関のこの著書でこそ『東京・深川 府立化工物語』の吉本の談話をとりあげて調べあげられた文章を、ないものねだりだが読んでみたいと今もおもっている。
 ここでは、せっかくだから、『東京・深川 府立化工物語』に収録されている吉本の談話を順を追ってとりあげてみることにする。
 吉本は、東京府立化学工業学校の応用化学科に昭和12(1937)年4月に入学している。

 吉本隆明氏談 俺の場合は、オヤジが門前仲町で貸しボート屋をやっていて貧しかった。そこで終りになってもつぶしがきくという、そういうところを選ばされた。そこで、どこがあるかといえば、化工か実科工業 ― 。商業学校でいえば三商。もちろん、応用化学なんて知らなかった。また、どうして化工へ行ったかというのはわからないね。小学校時代、たぶん一、二番だったろう。府立へ行ったのは、ほかに三中へ一人だけ行きましたけどね。〉

 川端によれば、当時は応用化学科、電気化学科、化学機械科の三科のほかそれらの混合である第二本科しかなく、募集人員もそれぞれ五十名ほどであり、入学率は十倍前後でかなり難関だったようである。

 吉本隆明氏談 俺たちの同期の四組(第二本科)には優秀なのが多かったな。土屋公献もいたし、加藤進康もすごい秀才だった。ほかに北川さん(北川太一氏・高村光太郎研究家)なんかもそうだな北川さんは海兵に行きましたけどね。四年で退めたけど、安田なんてのもいたよ。どこかの大学の先生をやっていると聞いたけどね。〉

 加藤進康は、東京工業大学でも同期生であり、文学仲間だった。その後のつきあいも長く、平成元(1989)年10月に桐生市でおこなわれた講演「無頼派作家・坂口安吾を語る」の実現にも加藤が関与していたようである。
 この吉本の談話のあと、弁護士になった土屋公献が当時の自身のことと、教育大学の教授になりその後交通事故で亡くなった安田(三郎)のことも語っている。

 吉本隆明氏談 俺は、修身は普通だったと思う。九点じゃないですね、八点ぐらい。俺は佐藤先生というと、すごい想い出がある。橋本さんが担任のときだったから、多分、四年生のときだろう。選挙されて、分隊長(組長)ということになった。だけど、どうしてだか、俺は嫌だ、といったのを覚えている。そうしたら、佐藤先生に生徒課に呼ばれて、やられたよ。「お前は、人が選挙してくれて分隊長になったのを、なぜ嫌だというんだ」と言うんですね。自分はそういう資格がないから嫌だと言ったんだけれども、何回も呼ばれた。何で呼ばれたかというと、そのときこっちには自覚がないから全然気がつかなかったけれども、要するに思想的背景があると見られた。佐藤先生は「お前は学校から帰って何してる?」とか、執拗に突っこむわけ。何日も呼ばれたの。ほとほと、嫌になっちゃった。担任の橋本先生なんか、おどおどしていたけれど‥‥‥。疲れきって、「やります」ということになったけれど、瞭かに疑われたんですよ。右翼か、左翼か、どちらかに関係があるんじゃないかと‥‥‥。〉

 「佐藤先生」は、佐藤清次で、当時は生徒課長で修身を受けもっていた。また「橋本先生」は、橋本克彦で、地理や歴史が専門であったが英語も受けもっていた。

 吉本隆明氏談 野外演習問えば、こんな想い出があるよ。四年生のときに、習志野かどこかへ行ったでしょう。そのとき、演習をやって、帰りに軍歌を唱いながら行進して宿舎に帰るとかになって、軍歌を唄っているうちはいいんだけれども、みんなだんだんダレてきて“トントン、トンカラリと‥‥‥”の「隣組の歌」を唄いながら帰った。そうしたら、松島中尉が突然「黙れ」とかいって怒って、みんな引っぱ叩かれたのね。俺は背が高い方だから四番目ぐらいで、まだ初めのころだから力があって、痛いの、痛くないの‥‥‥。相当にこっちも考えて、足をあんまり突っ張らないようしてダラッとするようにはしていたんだけれども痛くてね。それで、宿舎に帰ってから、八幡、級長の八幡が“みんなで謝りに行こう”というんだ。俺は“謝りに行くくらいなら、最初から唄わなけりゃいいじゃないか”とひねくれていたからそういったんだけど、分隊長をやっていたから仕方がないので、八幡のあとにくっついて謝りに行ったよ。そういうわけでもないけど、教練はいつも七点だったね。〉

 野外演習については、川端が「吉本隆明の日常」なかでつぎのように書いている。

 化工では、四年生になると、五、六月頃、野営生活が行われた。この風習は昭和5年頃から行われ始めたが、昭和8年頃から強化され、四、五年生は全員参加するようになった。日程は四、五日の厰宿泊で、富士山麓や、下志津・習志野練兵場などで行われた。実戦さながらの教練で、最終日には紅白に分かれての白兵戦で幕を閉じた。

 厰舍(しょうしゃ)は、川端によれば「厩舎に床を貼ったもの」だという。
 吉本が「松島中尉」と述べている人は、川端によれば、配属将校の松島泰雄である。配属将校は、大正14(1925)年4月に、陸軍現役将校学校配属令の公布により配属された先生であり、松島中尉は昭和15(1940)年、吉本が四年生になったときに着任し、あとで吉本の談話に出てくる森(関治)準尉は配属将校を補佐するため昭和7(1932)年に着任している。
 昭和11(1936)年におきた二・二六事件の感想もある。

 吉本隆明氏談 越中島に、府立三商と反対側に、当時の陸軍の糧秣庁があったんですよ。そこに、ちゃんと銃剣をつけた兵隊が立っていた。何だろう、と思いましたね。〉  同11年8月には、ベルリンオリンピックも開催されている。

 吉本隆明氏談 「美の祭典」も「民族の祭典」もベルリンオリンピック映画だが、「民族の祭典」はなかなかいい映画だったね。いちばん最初、ドイツの戦車がフィールドに入ってくると観衆がワアーッとなって、ついでヒットラーが壇上に立つと、さらに観衆が沸き立つ。ヒットラーは大英雄なんだな。それで、ドイツの選手が負けると、口惜しい表情になって‥‥‥‥‥‥。正直といえば正直だけど。ヒットラーというのは、あとから読んでみると、要するに神経症でしょう。〉

 吉本は、「美の祭典」や「民族の祭典」をいつ観たのだろうか。
 化学実験の面での先生の思い出もある。

 吉本隆明氏談 化工教育で、いちばん役立ったのは、川越さんの分析じゃないかな。教え方が違うんだな。実地教育という感じで、例えばバーナーの点け方、試験管の振り方一つとっても合理的で、おれが米沢に行っても、工大へ行ってもすごく役に立ったよ。専門学校や大学では、そういう基礎的なことは教えないからね。〉

 「川越さん」とは川越直之で、この先生に教わった何人かの生徒の思い出からも、すぐれた教師であったことがわかる。

 吉本隆明氏談 あるとき、校長の訓話のときだったな。俺はうしろの方に列んでいたんだが、配属将校の松島中尉と髭を生やした森準尉が傍にいるわけ。お互いにささやいているんだ。“校長は何であんなに長ったらしく喋っているんだ”とか、盛んにやっている。“なあ”とか言っている。だから、存外見かけと本音とは違う。森さんなんかよく言っていた。“何をあんなに張り切ってるのかなあ”と。〉

 これで吉本の談話はすべてである。
 川端は、平成23(2011)年2月に出版された文庫版の『戦争と平和』に書き下ろした「“戦争と平和”の文庫化について」の冒頭でつぎのように書いている。

 15年ほど前、某出版社の企画で、“吉本隆明・私の半生”についての対談が神楽坂の料亭で行われた。その対談は二日間、七、八時間にわたり、ゲラ刷りで四百字詰め約七〇〇毎程度のものだった。

 この本は、平成8(1996)年2月に発行された『全作家』第38号に掲載された川端の小説「立川会」の最終頁の広告に、河出書房新社の近刊として『対談“吉本隆明伝”』とあるが、吉本の事情により出版されることはなかった。
 東京府立化学工業学校は、その後東京都立化学工業高等学校となり、平成13(2001)年3月にはこの学校も閉校、4月には東京都立江東工業高等学校と化学工業高等学校が合併し、東京都立科学技術高等学校が設立、跡地は現在、東京都立大江戸高等学校となっている。
 平成13(2001)年3月の閉校時には閉校記念誌がつくられ、平成6(1994)年3月号の「東京人」に掲載された「都立化学工業高校」が題名を「府立化学工業学校」と改題し再録されている。
 なお、『東京・深川 府立化工物語』の奥付の後には、この本をつくる会の協賛者の芳名があり、川端らとともに吉本の名前も記されている。
(閉校記念誌については、東京都立科学技術高等学校の榎本忠勇さんにご教示いただきました。ここに記してお礼申しあげます。)

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吉本隆明資料拾遺(15) 『井之川巨に宛てた手紙 宿沢あぐり(「猫々だより」110 2012.2)

 サークル活動といえば、現在では学生の集まりをイメージするが、1950年代には労働者の芸術運動の組織や集団の代名詞であった。そこには時代的な情況として、合法、非合法を問わず政治活動や運動が混在していることも少なくなかった。
 吉本が、こうしたサークル活動の個別サークルについて直接公表しているのは、「知性」1956年7月号(河出書房刊)に掲載された、滋賀県で活動していた『熔岩』詩人集団について述べた「挫折することなく成長を」(『吉本隆明資料集44』収録)が、現在わかっているところではもっとも早い時期になると思われる。また、『現代批評』がサークルなどとの交流を積極的に志向していたことから、同人として参加した巨大な組織である国鉄詩人連盟とのふたつの座談会(『吉本隆明資料集45』収録)もある。
 もっとも早くから知られていたのは、「現代詩」1958年7月号(飯塚書店刊)に掲載された「芸術運動とは何か ーサークルの問題ー」である。これは、国民文化会議が同年8月に創刊した機関紙の「国民文化」(発行人は事務局長の南博)の特集「サークル活動と芸術運動」に「詩人 文学部会会員」の肩書きで転載されている。
 当時は、文学にあって、特に詩の分野でサークルの存在は、政治的な思惑がべったりはりついていたりすることもあったが、無視することができないほど全国的に広まっていた。それゆえ、吉本が自分から触手をのばすよりもはるかに、望まなくても手元に届くもののほうが多かったのではないかと想像できる。それらに吉本がどれだけ応えたかはわからないが、受け入れて応えたそのひとつがつぎのものだ。

・内的な屈折のはらむ意味 吉本隆明
 詩集、拝読しました。小生は巧い詩をかく方ではありませんので、技術批評は柄に合いません。御許し下さい。貴方の詩や城戸氏の作品に、とくに多い内的な屈折のはらむ意味を考えるとき、感激と感銘との混合した複雑な気持ちになります。小生には三氏の詩が直ぐに通ってくるのです。
 小生の考えでは、今後とも相当長い期間、そういう内部的な屈折を掘りさげることが必要な時代がつづくのではありますまいか。
 三氏とも完全に独りで歩くことのできる作品ですので、特に何も云うことができません。小生は、もっとも多く詩をかく年で、一年に十篇です。その場合実際には三十篇くらいの作品があり、それをこわしたり、くっつけたり、何月もほうっておいて、又なおしたりして十篇位になります。それによって、「詩を表現した自分」と机の前の「自分」とが対峙するようになって、客観的に「自分」がみえるようになったとき止めます。小生は、自意識過剰の方ですから、そうした工程を経ないと自作に嫌悪がわくのです。三氏とも技術的に上手な詩人ですから、もう直しようのないと思われるまで、作品をいぢって見られたら如何でせうか。小生の考えでは、もう直しようがないという限界は、ほんとうはないと思います。もう駄目だとおもっても、精々一ヶ月もほっておいて又眺めると穴がみえます。又穴を埋めるわけです。
 又、作品をいつか読ませてください。貴方の作品は数年前から知っておりました。


 この手紙は、1958年1月31日に、東京都大田区大森に発行所をおく南部文学集団が発行したガリ版刷の「突堤」20号に、井之川巨・浅田石二・城戸昇の三人共同の『詩集』(南部文学集団叢書No.3『詩集』と題した三人の共著であり、1957年10月1日にガリ版印刷で刊行された)の意見として掲載されたものである。表題(見出し)は、吉本に『詩集』を送った井之川がつけて編集部に送ったものだという。手紙の掲載が吉本の承諾を得たものかどうかはわからない。
 ちなみに、詩集への意見はもう一人、大島博光の送った手紙が「思想性 党派性の問題における弱さ」という表題で掲載されている。
 井之川はこのとき23歳であり、すでにガリ版刷の個人詩集を7冊刊行していた。彼自身が述べるところによれば、作品の数は五・六百篇にほどになっているという(三人共同の『詩集』の「自序」)。
 手紙と作品はその後、井之川の『詩と状況 おれが人間であることの記憶』(1974年7月・社会評論社刊)に収録(ただし、見出しは「内的な屈折がはらむ意味」となっている)され、不二出版が2009年に刊行した編集復刻版『東京南部サークル雑誌集成』の第3巻にガリ版刷のままで収録されている。
 ここで称されている「南部」とは、東京の南部地域である大田区、品川区、港区周辺であり、ここでの集団は、大半が工場に勤務する労働者の集まりであった。国鉄詩人連盟などの巨大な組織とちがい、職場のなかの者だけでつくられた集まりもあったが、近傍の地域に住んでいたり、勤めていたりする者たちの集まりが多かった。このようなサークルの数の多さは、現在からみれば希有のことだとおもわれても不思議ではないだろう。
 この南部地域で活動していたサークルが生みだしたものが、戦後民衆の精神史をかたちづくっていた、というのが現在の研究家の評価である。それらは、2007年12月に発行された「現代思想12月臨時増刊号 総特集 戦後民衆精神史」が、そのほとんどを東京南部のサークル活動に言及しているし、又『東京南部サークル雑誌集成』の別冊である「解説・解題・回想・総目次・索引」にも詳しく書かれている。
 わたしが、ここで東京南部のサークル活動について、いろいろ述べることは必要ない。ここでは、共同の詩集から井之川と城戸の詩をそれぞれひとつだけ掲げておくことにする。
 南部文学集団が解散したのは、六十年安保闘争の前年であり、井之川は2005年3月に亡くなった。享年71歳である。また大正14年生まれの城戸は、2007年3月に亡くなった。なお、浅田石二は「原爆を許すまじ」の作者であり、『東京南部サークル雑誌集成』の別冊である「解説・解題・回想・総目次・索引」に回想を寄稿している。

   白晝の変亊      井之川巨

太陽はぼくの頭のすれすれ
驚くほど近くで眞りかがやく
東京の屋根々々は
せんべい屋の店先のようにそりかえっている

そのどまん中に
ながながと寝そべったアスファルトの路
 ― それは巨大なヘビの胴体だ
ロータリー ――― それは
奇怪なヘビの頭部だ
そこに今日もニンゲンの
惨死体がころがっている
のどを喰いちぎられ
腹をかみ裂かれ
ニンゲンでなくなった
ニンゲンの死体がそこにある

みよ
心臓をつめこんだ鞄をひるがえして
共犯者のかげが
まち角を逃げていくではないか
      (『詩と状況 おれが人間であることの記憶』では若干異なっている。)

   泣く魚       城戸昇

魚屋の店先から
異様な泣声がもれてくる。

店中には
若い夫婦と 腰の曲がった老婆が
魚を料っている。
誰の眼にも涙はない。だが
泣声は■える。その泣声?‥‥‥‥‥‥

魚だ。魚が泣いてる。

老婆の手にかかっる魚が みるみる精気を失ひ腐ってゆく。
ツンボの老婆には■こえないのか その泣声が
若い夫婦には■こえるのだろうか
暗い顔をうつむけ じっとこらえるかのように
黙々と包丁を動かしている。

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吉本隆明資料拾遺(16) 作品が再録された教科書 宿沢あぐり(「猫々だより」112 2012.4)

 ここでいう「教科書」は、国家の機関である文部省もしくは文部科学省が検定したものである。現在までにわかっているものを古いものから順に掲げておく。

・修景の論理(抄)
『高等学校 国語 I 』(昭和57年2月10日発行・旺文社刊)
 松村明・新間進一・岡保生・井上宗雄・尾上兼英編
 著作者は「ほか十四名(別記)」とある。
 昭和56年3月31日 文部省検定済み
 初出・『吉本隆明全著作集続』第10巻(1978年刊)

・修景の論理(抄)
『高等学校 国語 I 改訂版』(昭和 年 月 日発行・旺文社刊)
 松村明・新間進一・岡保生・井上宗雄・尾上兼英編
 著作者は「ほか十四名(別記)」とある。
 昭和56年3月31日 文部省検定済み
 初出・『吉本隆明全著作集続』第10巻(1978年刊)
*発行年月日の不明は原本による。ただし、昭和60年度使用とあるので、発行は昭和60年の1月もしくは2月ではないかと推測される。

・佃渡しで
『新国語 II 』(平成7年1月20日発行・旺文社刊)
 松村明・山田有策・中村幸弘・松岡榮志編
 著作者は「ほか六名(別記)」とある。
 平成6年1月31日 文部省検定済み
 初出・『吉本隆明全著作集』第1巻(1968年刊)

・佃渡しで
『高等学校 現代文』(平成7年1月20日発行・角川書店刊)
 吉川泰雄・大野晋・山田俊雄ほか編
 著作者は「ほか七名(別記)」とある。
 平成6年2月28日 文部省検定済み
 初出・『模写と鏡』(1964年刊)
*この辺りから、「現代文」という分野があらわれてきたのだろうか。これによって、この時期の教科書の内容はかなり開かれたものとなったようにおもわれる。
たとえば、第1単元は、草山こずえの随想の題名の「世界は私に触れる」を表題にしている。またこの教科書に採録されたものには、吉本ばななの「幸福の瞬間」や前登志夫の「谷行の思想」、三木茂夫の「味覚の根原」、芹沢俊介の「イノセンスの壊れる時」、中島みゆきの「傾斜」などもある。

・佃渡しで
『ちくま現代文 改訂版』(2000年1月20日発行・筑摩書房刊)
 片岡美佐子・金井景子・紅野謙介・小森陽一・関礼子・吉田光編 著作者は同じ
 平成11年3月15日 文部省検定済み
 初出・『模写と鏡』(1964年刊)

・何に向って読むのか
 『新編現代文』(平成16年1月20日発行・明治書院刊)
 著作者は、中島国彦(ほか十四名別記)
 平成15年3月10日 検定済み
 初出・『背景の記憶』(1994年刊)

・なにに向って読むのか
 『国語総合』(平成19年1月10日発行・数研出版刊)
 著作者・編集委員は、坪内稔典 ほか20名(別記)
 平成18年3月6日 検定済み
 初出・『読書の方法 なにを、どう読むか』(1994年刊)

 ここにあげたのは高校生を対象とした教科書ばかりである。小・中学生を対象とした教科書には、吉本の作品が採録されたことはないといえる。これは、1949年から2006年発行までの小・中学校国語教科書に掲載された文学作品を調べて作者ごとに記載した目録である『読んでおきたい名著案内 教科書掲載作品 小・中学校編』(日外アソシエーツ編集・発行)を参考にした結果からである。
 (採録教科書については『読んでおきたい名著案内 教科書掲載作品13000』を参考にした。)

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「二葉亭四迷の三つの長編」  長谷川博之(「猫々だより」112 2012.4)

 二葉亭四迷の「浮き雲」はいま読んでみると、二葉亭自身の言うとおり、古典落語をもとにした語りのなかで、類型的な人物がありきたりの動きをする世界を背景として成立している。主人公のこころの動きだけが、ゆいいつ現代人に近い近代小説であって、あたり前だが現代の小説としては、不完全なものとしてしか読めない。ここで、近代小説とは、読者に当時の小説の水準に対するある程度の理解を要求してくるといった意味で、使っている。

 「奥の間の障子を開けてみると、果たして昇が遊びに来ていた。しかも傲然と火鉢の側に大胡座をかいていた。その傍にお勢がベッタリ座ッて、何かツベコベ端手なく囀ッていた。少年の議論家は素肌の上に上衣を羽織ッて、仔細らしく首を傾しげて、ふかし甘藷の皮を剥いてい、お政は囂々しく針箱を前に控えて、覚束ない手振りでシャツの綻を縫合わせていた。
 文三の顔を視ると、昇が顔で電光を光らせた、蓋し挨拶の積で。お勢もまた後方を振反ッて顧は顧たが、「誰かと思ッたら」ト云わぬばかりの索然とした情味の無い面相をして、急にまた彼方を向いてしまッて、
「真個」
ト云いながら、首を傾げてチョイと昇の顔を凝視また光景。」


 短い引用で解りにくいかもしれないが、お勢も、昇も、ある意味では作者と内海文三に都合が良い周囲を取りまくすれっからしとしてしか描きだされてはいない。近代〜現代の小説に必要なぶんだけの心の動きを持たされてはいない。二葉亭自身に先行していた当時の日本の小説には、お勢や昇を現代に近い人間として描きだす作品などはたぶん無かったのだとも思える。
 25年は昔には、そう読めはしなかった。主人公の内海文三に自分を引き寄せてしまい、無理解な周囲の人たちから、押しつぶされ沈んでゆくさまに、自分のこころを同調させ、もだえやらうわつき具合を、まるで本物の手触りみたいに感じとっていた。いま、距離を置いて考えると、他人へ対する無理解という点でどこか内海文三と自分に共通する要素があったのではないかと考えることができる、ところまではこれた。現在、再び「浮き雲」を読み、感心するところはそこには無い。二葉亭四迷の真剣さを感じるのはつぎのような箇所である。

 「宿所へ来た。何心なく文三が格子戸を開けて裏へ入ると、奥座舗の方でワッワッと云う高笑いの声がする。耳を聳てて能く聞けば、昇の声もその中に聞える‥‥‥まだ居ると見える。文三は覚えず立止ッた。「若しまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ」ト思えば荐りに胸が波立つ。」

 書割りみたいなおあつらえの人間描写から、文章を食い破るように繰り出されている内海文三の内面の思いは、いまでも圧倒的である。

 「さるれえの脳髄とお勢とは何の関係も無さそうだが、この時突然お勢の事が、噴水の迸る如くに、胸を突いて騰る。と、文三は腫物にでも触られたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた。何のために跳ね起きたとも解らん。久しく考えていて、「あ、お勢の事か」と辛くして憶い出しは憶い出しても、宛然世を隔てた事の如くで、面白くも可笑しくも無く、そのままに思い棄てた、暫くは惘然として気の抜けた顔をしていた。」

 「浮雲」を読めば、当時の若者たちの内心の思いを外の文字、つまり諸外国の小説みたいに描きたいという強烈な欲求は、現在読んでも充分に感じとれる。当時流通していた小説に対し「浮雲」一遍が、斬り込み、といったほどの衝撃を与えたのはなんとなく解る。また内海文三の感情の流転を絶えず描写し続けるには強度の生活に対する理解がなくては不可能である。なぜなら文三が破綻してゆくのは、取りまく人間たちにではなく、世間に慣れず、また毎日の繰り返しを耐えていくこと自体に、であるから。
 「浮雲」は結局、中絶となり、二葉亭四迷自身もしばらくは文学の世界から遠ざかることとなったのは良く知られている。「其面影」は約二十年の時を経て再度、二葉亭四迷が文学の世界へ戻り書かれた長編である。二十年のあいだの筆力の衰えは見られず、なるほど主人公小野哲也は内海文三の年を経た姿である。「浮雲」を継承したような登場人物たちの、彫りは「浮雲」よりいっそう深められているかもしれない。しかし小野哲也が、結局は書割的な背景のなかで、年を経たぶん相応に世間上でぬきさしならなくなっていく構造には「浮雲」からの変化は見られない。現在からみれば「浮雲」の延長戦を粘り強く続けたあげくに「其面影」で新たに創出されているのは義妹、小夜子のありかたである。読み続けて、あ、まっぷたつと感じたのは、次のあたりへ来てからである。

 「(前略)家の者ですら誤解をしているンだからなあ。兄弟でいながら、家では碌に口も利かれんというのだから、実に馬鹿々々しくッて話にもならん。」
 こうして出会うのもこれで三度目であるが哲也には毎もこの感がある。小夜子も同じ感想に堪えぬかのように、何も言わず頸垂れていたが、偶と顔を挙げて、
 「皆私が悪いンですから‥‥‥私寧そ千葉へ行って見ましょうか知ら?」」

 「折から通る人もなかったので、哲也は近々と小夜子の側へ摺寄り、
 「明日の晩ねえ」、と何の気なしにその羽織の紐を弄りながら、「また出られないかしら?」
 小夜子も黙ってそれを弄らせながら、「出て出られないこともないかもしれませんけども、でも、そう毎晩ですと‥‥‥」
 「変に思うか知ら?」
 「ええ。」
 「ではねえ‥‥‥」と思掛けず衝と小夜子の手を握って、一振り振って、笑いながら、
 「さよなら!‥‥‥」
 小夜子はただ媽然したばかりで何にも言わず、そのまま横町の闇の中へ‥‥‥」


 三十章から三十二章まで、哲也の視線からみられた、小夜子が初めて描きだされるのである。小夜子が今の世からみて魅力的であるかどうかはとりあえず置き、書割的背景の登場人物のなかから、ぽんと、生身の人間として小夜子が飛び出てくるのは、言葉の繰り返しを覚悟して言えば、やはり、圧倒的である。いきいきとした内面が二つに増えるのである。「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」などと安易に呟いてはいけない。しかし、二葉亭四迷が切れ味をみせるのはこの三章だけである。以下の章も小野哲也の視線から小夜子の心の動きを描き続けることは二葉亭四迷の当時の小説の理解からはやはり無理だったのではないだろうか。実際、二つに増えた内面の問題を二葉亭はどうしたか。三十三章ではいきなり、描写を一転、小夜子からの視線に移してしまい、内面が二つに増えたこと自体を視線を二つにして解消しにかかるのである。さらに視線を二つに増やしてしまった結果として小野哲也と小夜子の出会いの場にくると、二葉亭四迷が誠実であればあるほど、両人の内面描写はもちこたえられなくなってしまい、結果として「其面影」自体は不可避に、お話、へと散ってゆく。最後には見事に小野哲也自身が物語のなかへ没し、消えてゆく。現実生活での男女間の苦心を小説のなかに導入することに半ば成功できても、小説作品としてはちりぢりばらばらになってしまう。
 翌年の「平凡」において二葉亭四迷は、考えを一新し、語り手イコールわたしからの視線の方法を取っている。あがってきた当時の小説の水準もあろうが、現在の小説へ地続きな場所まで作品の言葉を持ちこんでいる。描きだされる登場人物のひとりひとりに背景があるように、「平凡」は、わたしの視線から、直接に語られる方法をとっている。

 「次には書き方だが、これは工夫するがものはない。近ごろ自然主義とかいって、何でも作者の経験した愚にも付かぬ事を、いささかも技巧を加えず、ありのままに、だらだらと、牛の涎のように書くのがはやるそうだ。よい事がはやる。わたしもやっぱりそれで行く。
 で、題は「平凡」、書き方は牛の涎。」


 いわゆる自然主義文学をからかいながら文章の踏襲をこころみようと言う前ふりと「平凡」の内容とは、実はちがっている。二葉亭四迷にとっても、自然主義文学というものが、ありのままだらだらと書かれていたのではないことは良く解っていた筈である。これは自然主義文学に対しての皮肉どころか、ある意味、実は否定の感が強いかもしれない。つまり二葉亭四迷の考えを探ると、「平凡」なんていうものはない、どんな個々の生涯をとってきても決して平凡ではないんだ、という思いがあると考えても、それほど間違ってはいないと思う。それが「平凡」の文章を滑らかな語りの連続で成功させえた原因であると思う。いわゆる自然主義文学における苦心とは発想がまったく異なっているのである。

 「もうこうなっては、仕方がない。書けても書けんでも、筆で命をつなぐよりほか仕方がない。食うと食わぬの境になると、わたしでも必死になる。必死になって書いて書いて書きまくって、そのたびに、悪感情は抱いていたけれど、仕方がないから、某大家の所へ持って行って、筆を加えてもらった上に、売ってまでもらっていた。それがためには都合上門人とも称していた。そうして一、二年苦しんでいるうちに、どうやら曲がりなりにも一本立ちができるようになると、急にこの前(注 先生の)奥さんに断られた時の無念を思い出して、それからは根岸のお宅へも無沙汰になった。」

 二葉亭四迷は文学にかかずりあっている時と生業を行っている時をきっちり分ける事の出来た人であったかもしれない。かかずりあった跡のみえる長編三作のなかには必死になって当時の、いまを考え続けた自身の問題が埋めこまれ、充分、現在でも読むに堪える古典なのだ。
 夏目漱石が二葉亭四迷が亡くなった時に、追悼文を書いているのを、やはりずっと昔、図書館の全集本で読んだ記憶がある。決して親密な間柄ではなかったが、二葉亭君のしんどさは、自分なりに解っているつもりだといった、漱石らしい温かいものだった気がする。私は当時もうろちょろとし、きちんとした居所もなかった。今もあまり変わらない。二葉亭四迷の三作品には、今読むと、誰でも慰められるものが、たぶんあると思う。
           注、底本は、順に新潮文庫、岩波文庫、岩波文庫、各版によった。

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「芹沢俊介への批判」  長谷川博之(「猫々だより」113 2012.6)

 「現代詩手帖・吉本隆明追悼特集」(2012年5月号)において、芹沢俊介は「増悪論のこと――吉本隆明「存在倫理」の理解に向けて」という、本人によれば、走り書き風のエッセイ、と称する短文を書いている。こまかく読んでみて、私には、明らかな吉本隆明の親鸞論全般に対する悪意ある読みとり、デマゴギーの造成、曲解であると感じられた。一般に知られている吉本に対する論敵や、元より批判的な立場にいる人物のものであれば、吉本と面識はない単なる一読者である私は、批判をしない。なぜならその場合、書き手じたいのモチーフは理解ができるからである。芹沢俊介は違う。文芸批評、評論の仕事のはじまりが「試行」であり、さらに通常の認識では、吉本の影響のもとに、家族論や情況認識の公開を続けてきたからである。「試行」からやがて離れ、独自の思想を展開させてきたとはいっても、吉本隆明との共著、対談も数多くある。いわば共通の認識において仕事をしてきた部分が、少なくともある時期ではあった筈だ。
 ただ私は、最近の芹沢の仕事についてはほとんど知らないできた。最後に読んだのは、これは自分が簿記の学校に通っていた時期に、教室に持ち込み読んだので、記憶が鮮明であるが、『皇室・家族論 日本はいまどこにいるのか』(1993年刊)であったと思う。以後芹沢が発刊した著作は、吉本との共著以外、まったく読んではいない。2006年に発刊された『生涯現役』において、吉本が芹沢俊介、米沢慧に対して批判をおこなったのは知っていた。『生涯現役』を読んだときには、吉本の両者に対する批判をそれほど気には留めなかった。吉本の発言を、日本のホスピス運動に対する妥当な批判と考え、それ以上深く考えなかった。芹沢、米沢の仕事に対して不親切だと言われるかもしれないが、両者に対する批判を鵜呑みにしたわけではない。細かく確認していくほど、本を読んでいる余裕などなかったのが実情である。また吉本隆明の著作が大好きなもののひとつであっても、信仰の対象などではなかったからである。つまり、芹沢がいつの間に、「現代詩手帖」において、このような怪文書といわざるをえない言葉を記すようになったのかの過程は、まったく解らなかったといってよい。予め、思い込みがあっての批判はよくはない。もちろん思い込みがあって批判を書くのもまた自由ではあるが、私はそうしたくなかったので、図書館でちょこちょこと背景をしらべてはみた。ある意味、吉本の読者としては当たり前の行為だと思う。
 芹沢はまず書いている。

 「吉本隆明が自ら提起しておきながら、存分に議論を深めないまま放置されている問題の一つに「存在倫理」がある。この概念がはじめて提出されたのは、いわゆる「9・11同時多発テロ」直後の、事件をめぐる加藤典洋との対談においてであった(「存在倫理について」、「群像」2002年1月号)。

 自ら提起しておきながら、存分に議論を深めないまま放置、とある。だが、これは芹沢の認識不足である。2002年11月に上・下で発刊された「超『戦争論』」の特に上巻に、インタビューのかたちで吉本自身により「存在倫理」の概念は深められ、きちんと提出されている。無論、芹沢がそれを無視するのは自由ではある。が、加藤典洋との対談において吉本が提出した「存在倫理」に対する、つづく芹沢の編みだす理解もまた疑わしくなってゆくのも確かである。「現代詩手帖」の短文において芹沢は、かって「存在倫理」について自らが書いた文章の概説を行っている。読みはじめるといきなり、芹沢のつくった定義づけにつきあたる。芹沢は、9・11の事件における、吉本の考えとして、ここで二つの正義、二つの悪が衝突していると記している。また、二つの正義と悪に含まれる迷妄さを、迷妄さとして解体するために吉本によって、「存在倫理」という概念が提出されたという。ひとつは、ニューヨークの世界貿易センタービルに、まったく無関係な乗客を道連れに突っ込んでいったイスラム原理主義のいう正義。もうひとつは、自分たちにとっては不都合な存在であるイスラム原理主義を悪として、武力排除してもよいと考えるアメリカ的正義。この互いの正義に含まれる迷妄さを正義としてしか考えない両者の迷妄を、拒否できる場として考えられたのが、吉本のいう「存在倫理」であると芹沢は言う。ここで芹沢は、吉本は、ふたつの正義を相互規定された対立項であり、永遠にどちらかが死滅しないかぎり続き、悪を疎外していくだろうと考えた、という。芹沢は、吉本が現時点での、世界での国家の戦争や内乱について「存在倫理」をどのように考え、深め、何を批判したかったのかはすっとばし、いきなり2つの正義を、国家と宗教集団の対立のもんだいとして平面に並べだすのである。私は最初、何を芹沢がいおうとしているのかがよくわからなかった。吉本の、ではなく芹沢の論理はここで、アメリカの正義と、イスラム原理主義の正義、もしくは、迷妄を考える際に両者に含まれる、いわゆる段階という概念をすっぱりとふり落としてしまい、お互いの理念、宗教、国家にある差異が、どこにもみあたらなくなってしまうのである。歴史的段階の違いという考えがあれば、アメリアの正義と、イスラムの正義がまったくちがった位相にあり、平面における対置を許さないものであるのは明らかである。無論、私のこの考えも、吉本の『超「戦争論」』より導き出したものであり、芹沢は、芹沢らしいまったいらな論理の組み立てを勝手に行っている、と考えれば済むところでもある。私がデマゴギーの造成を明らかに感じたのは、芹沢が親鸞の『歎異抄』について言った、「吉本の論旨に沿っていささかていねいに述べた」という部分である。芹沢は『歎異抄』の第五条を芹沢自らの訳で全文引用してから、独自の理論を組み立て上げる。おかしいと考えられる部分を芹沢の本文より引用してみる。

 「私自身がひたすら自力を棄ててすみやかに弥陀の本願にすがって浄土の悟りをひらくのがさきなのです。そうして得た人力を越えた力によって、まず縁あるものから、そのものがたとえ六道四生のどこの業苦に沈んでいようとも救うべきなのです。」(『歎異抄』五条、私訳)
 右の言葉で重要なのな「父母」(有縁)を親鸞がどう考えているかである。ここが「存在倫理」という概念にわけいるために第一の要石になるというのが私の直観である。(中略)だが、ここで親鸞はたんに両親を一切の有情へと開いただけではないことは明らかである。浄土のさとりをひらいたなら、真っ先に両親を救いの対象とするとも述べているのだ。」


 どこに「父母」と(有縁)を直に解釈できる部分があるのかが不明である。芹沢自身が私訳した『歎異抄』五条のなかには、真っ先に両親を救いの対象にするとなどとはどこにも書かれていない。芹沢による直感と、期待としての理屈があるだけである。ちなみに、私の手元に角川文庫版の『歎異抄』がある。第五条の右記の部分の原文と、訳注者による要旨を引用してみる。

 「ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもって、まづ有縁(千葉乗隆による注、関係のある者)を度すべきなりと云々。

 要旨 そして、父母をはじめ、縁のある人びとを救うには、まず自らが浄土に生まれて、さとりを得て仏になったのちのことであるとする。」
         (『歎異抄』角川文庫版、訳注 千葉乗隆 平成17年7月刊)


 この千葉乗隆という人物は、略歴には龍谷大学名誉教授、国際仏教文化協会理事、そして、徳島県の浄土真宗本願寺派千葉山安楽寺住職とある。(2008年に寂)。これは宗教家の方である。端的にいえば、お坊さんのことである。私は親鸞の『歎異抄』は宗教の書であるのでお坊さんがいちばん良く把握しているという理解の仕方をとらない。また「最後の親鸞」にせよ、「親鸞論註」にせよ『歎異抄』における宗教家としての親鸞が、浄土の存在を言葉のなかで認めていても、吉本隆明は自身の思想において、親鸞の『歎異抄』、『末燈抄』他、における浄土を、ありうべき親鸞の姿に向かい丁寧に解体するのがモチーフの一つであった筈である。だから、最後の、なのではないか。また、「存在倫理」にからめていえば、『超「戦争論」』において、仏教における父母に対する有情を、親鸞がどのように考え、細かく生ある全体へと解体していったのかは、吉本自身が親鸞の考えに沿って述べている。『歎異抄』第五条にある順次生という言葉より、自己の存在から父母を否定しても、その父母もまた、その父母から否定できる父母から生まれたのであり、どんどんさかのぼっていけば、つまり順次、おさるさん、生のはじまりまでゆき、結局は、仏教では、仏になる。そして次に仏から生まれた父母は仏であり、次に生まれる父母も仏になる、よって「念仏を唱える者たちは、代々、父母兄弟である」となり、すべての生あるものは、有情のものは、、みな父母兄弟である。存在の根拠、父母に自己の責任を求めても、さかのぼり細かくしていくと、すべての生あるものへ転化されてしまい、責任の所在じたいが不明なものになってしまうと親鸞は考えたのではないか、と言っている。吉本の「最後の親鸞」より引用する。

 「『歎異抄』は、唯円によって集められた語録とされ、『末燈抄』は、従覚の編となっている。なかに真偽の確かでない章もふくまれているというのが大方の説である。この種の語録が、編者の主観に沿って排択される運命にあることは疑うことができない。最後の親鸞にとって、最後の親鸞は必然そのものだが、他者にとっては、遠い道程を歩いてきた者が、大団円に近づいたとき吐き出した唇の動きのように微かな思想かもしれない。わたしには親鸞の主著『教行信証』に、親鸞の思想が体系的にこめられているという考え方は、なかなか信じ難い。一般にこういう考え方の底に流れている〈知〉の処理法に、親鸞自身の思想が満足したかどうか、疑わしいとおもわれるからだ。『教行信証』は、内外の浄土門の教典から必要な抄出をやり、それに親鸞の注釈をくわえたものである。注釈と引用に親鸞の独自性を見つけるほかないが、かりにそれがみつかったとしても、教典の言葉に制約されている。この制約に親鸞をみようとすれば、浄土門思想の祖述者としての親鸞がみつかるだけである。」
      (「吉本隆明全集撰 5 宗教「最後の親鸞」 初出は1974年「春秋」1月号)


 この考えは吉本が年月をへて、『超「戦争論」』において、「存在倫理」を詳しく説明するさいにも変わっていない。また、たとえば『悪人正機』(2001年刊)においても、吉本が行いたかったのは、親鸞のような、偉大な思想家であり宗教家の言葉のようにはうまくいかなくとも、同じようになんとか吉本自身の言葉でいま(当時)の若い人達の悩みや考えに答えようというのが、モチーフであるのは、私みたいなのが読んでも明らかである。芹沢は吉本が、理念(倫理)から宗教への飛び越えを、自己に禁じ続けるところに無理にくいさがり、執拗に、宗教と社会倫理の混在を試みつづけていく。

 「だが、吉本は、宗教は倫理の問題であるという親鸞から獲得した認識に立って、親鸞のこういう言い方は親鸞の倫理からして本心ではなかったのではないか、と述べたのだ。(中略)だが、宗教における倫理はその規模がはるかに大きいのだ、したがって麻原彰晃の成した行為であろうと、それは救済の対象になりうる、そして親鸞が生きていたらそうかんがえていたはずだ。」

 全文を通して読めば目につくが、そして、したがって、それを等のやけに多い要約である。しかし『宗教の最終のすがた』(1996年刊)の「親鸞の造悪論」をどう読んでも、宗教は倫理の問題であるとの認識を吉本が、親鸞から獲得した部分などない。「それにたいして、法然とか親鸞は若いとき修行をして、それで疑いを生じて比叡山を下りてしまうわけです。それで眼目になるのはやっぱり十八願だけであって、つまり至信に信楽して名号をとなえればかならず浄土にいけるという、その教義だけが重要なんだという結論に達して、新しい宗派を立てたわけです。そうすると、いまの言葉でいうとなにをしたかというと、信仰の問題、信仰のステージを高めることによって幻覚をつくる、そういう修行の問題を〈善悪〉の問題に換えた、つまり〈倫理〉の問題に換えたということを意味しているとおもいます。」(「親鸞の造悪論」より)。また『親鸞復興』(1955年刊)の「新新宗教は明日を生き延びられるか」においては、「ようするに宗教は倫理の問題であり、ヴィジョン、イメージを思い浮かべられるようになるまでの修行をすることではない、と浄土の教祖たちはかんがえました。」との発言もあるが、芹沢のように逆手にとって、宗教は倫理の問題であるという親鸞から獲得した認識、などと直結を許すものではない。オウム――地下鉄サリン事件において吉本は、それまで造悪とは親鸞の「悪人正機」において、ある点で論理、言葉のうえの批判よりうまれたものであり、論理上、親鸞は造悪の概念を解体していったと考えていたのを、当時、鎌倉時代に本当に、「悪人正機」に対し造悪をおこなった宗教家たちを、親鸞は眼前にせざるをえなくなり、善悪について本気で考えさせられ、すすんで「極悪深重の輩」がつくる悪もまた、弥陀の浄土、つまり浄土の善悪感に包括されると考えたのではないか、という確信をえたということである。宗教家ではなく、日常は市民社会にある吉本も、本気で倫理を考えつめるとき、新たな理念を善悪に対し今までより先に据えなければならなくなったと言っているのだ。それが、オウム??地下鉄サリン事件において、吉本が新たに獲得せざるをえなかった認識であるというのが、おそろしく誰であっても、普通に読めば通ずるところである。

 「私たちは最終的になにを課題として突きつけられているかというと、これはみなさん方に宗教的な人もいるし理念的な人もいるでしょうが、宗教的であっても理念的であってもぼくにはかまわない、おなじようにみえます。そして、それぞれすこしずつですけども、大局的に迷妄な部分をもっているとおもいます。もちろんじぶんももっています。しかしその迷妄な部分を、理念であっても、宗教であっても、どちらでもいいんですが、解き放っていくというか解決していくという方向で提起できるようになったら、オウム―サリン事件を克服したというふうにいえるんじゃないかとぼくはおもっています。」
          (「親鸞の造悪論」より)

 芹沢はさらに言う。

 「さて、親鸞が、悪人正機説をとる根拠は、弥陀が示した四十八の本願のうち第十八願の但し書きである(『仏説無量寿径』)。《たとい我、仏を得んに、十万衆生、至信信楽して欲生我国、乃至十念せん、もし生ずれば、正覚をとらじ、唯除五逆誹謗正法》ここで言われていることは、自分が悟りをひらいた後に、多くの人びとが心から浄土に生まれたいと願い、念仏を十回でも称えたなら、称えた誰でもを浄土に迎え入れようという願である。ところがこの願には但し書きがつけられているのだ。それが、「唯除五逆誹謗正法」という個所である。この但し書きは一般的に「唯除規定」といわれている。親鸞の悪の概念つまり倫理性は、この唯除規定に集約できる。親鸞にとって悪の問題は第十八願の唯除規定をどう解釈するかにあった。ここでの悪とは無間地獄に墜ちるほかない行為のこと。そうした絶対悪が五逆であり、誹謗正法であった。五逆は、両親殺害、阿羅漢の殺害、仏の身体を傷つけること、教団の和合を破壊することの五つである。(中略)『教行信証』は、この悪人正機を説くために全力でもっと(て)親鸞が取り組んだ著作であった。そのことは、『教行信証』の序を読めば明瞭に記されている。吉本隆明は、弥陀の本願第十八願について、それが親鸞のたどり着いた地平だとして、繰り返し言及している。ところが、これは不思議としかいいようのない点なのだが、唯除規定に関しては、これまで知るかぎり、いっさい触れていないのである。」  だが、吉本が『教行信証』をどう考えていたかは、まず先の「最後の親鸞」よりあきらかであり、また親鸞における第十八願の受けとりかたのどこが大事であると考えていたのかは、『親鸞復興』の「現在の親鸞」や、『思想のアンソロジー』(2007年刊)の「親鸞『教行信証』」において明らかである。法然も眼目にすえた第十八願を親鸞がどのように受け取り、どのように晩期において認識していたかも繰り返しかかれている。親鸞がたどり着いた地平が弥陀の本願第十八願だなどと、スタートをゴールにすり替えるようなことは、どこにも言っていない。またついでにいえば、芹沢のいう五逆について、吉本に言及はある。『親鸞復興』の「宗教思想家の親鸞」において吉本は、「法然は、(中略)罪人もまた浄土に生まれる、まして善人は、という言い方をしています。罪人というのはもちろん、ふつういう罪・咎の罪でしょうし、また、仏教でいう五逆、父母を殺したとか師を殺したとか、仏教を謗ったとかいうような五逆の罪を犯した人でしょうが、そういう人ですらなお浄土に生まれるんだ、まして善人であるものはなおさら浄土に生まれる、そう法然は言っています。(中略)ところで、親鸞はどういうふうに言っているか。ご承知のように「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という言い方をしています。つまり法然とは逆な言い方をして、」
 芹沢は、

 「かくてこうなる。吉本隆明の「存在倫理」は、第十八願に、五逆誹謗正法に代わって据えられるべき、唯除規定であったのではないか。これが、オウム真理教地下鉄サリン事件以降、親鸞に促され、吉本隆明が抱えた問題であったというのが、私の走り書き風に書いてきたこのエッセイの仮説なのである。」

 五逆誹謗正法を「存在倫理」に読み替えたがる芹沢は、ここまでたどると解るが、もはや、吉本の親鸞に対する長年の考えを、実は一切受けつける気はないということである。芹沢のモチーフだけは、よく披瀝されているということでもある。
 親鸞の『歎異抄』はある観点から見れば思想の書である。またそれでいて、れっきとした宗教家としての言葉がつかわれている書であることも確かである。芹沢は形式上、吉本を媒介にしながら、一般に宗教家として考えられている親鸞の言葉を、自分の考えで塗りあげようとしている。「吉本が、宗教は(社会)倫理の問題であるという親鸞から獲得した認識」、などというデマを書き記しているのは、吉本を芹沢といれ替え補捉をすれば、頷けることである。

 『生涯現役』において批判されたことに対する半批判は、「文学界」(2012年5月号)の追悼特集で芹沢が書いた「吉本さんとの縁」で行われている。

 「2007年以降、ほぼまる五年、お目にかかっていなかったのだ。足が遠ざかったのには理由がある。吉本さんが出した『生涯現役』(2006年)という本のなかで、私(と米沢慧)を「最近はホスピス運動家みたいになってしまった」と発言しているのを読んだことである。「本人たちはどうもいいことをしていると思っているらしい」とも述べている。これには唖然とした。なにを根拠に、こんなことを言い出したのだろう、と訝った。
 だが、発言は、ここで制止がかからなかった。暴走しはじめたのだ。「年寄りを安楽に死なせてあげる」施設という間違ったホスピス理解をもとに、ホスピスをナチスの優生思想と同じだと断じ、ナチスにはまがりなりにも自分たちのやっていることに自覚はあったが、芹沢(や米沢慧)はすっかりいいことをしていると思っているのだから、ナチスより悪いというところまで突き進んだのである。ホスピス医とも親交があり、『ホスピスという力』という著書のある米沢慧については、発言に皆目、根拠はないとはいえない。けれど、こと私に関しては、根拠を探すとすれば、その米沢慧と長年の友人であるという一点しかない。」


 これには補足が必要である。少なくとも芹沢は長年、自己の言葉を公開してきたことにより、生活を支えてきた筈である。誰にでも補捉ができるのは当たり前である。「その米沢慧と長年の友人であり2002年に対談を主とした、『老いの手前にたって』を発刊した共著者であるという一点しかない。」が、正確な事実である。米沢慧について芹沢は、「政府や官庁の委員になって、旗を振る「ホスピス運動家」になれるような資質のひとではない、第一「ホスピス運動家」という人たちがいるのかどうかさえ私は知らない。」と書いている。米沢の単独著作、『ホスピスという力』(2002年刊)を読めば、ささやかな資質のひとであろうが、1960年なかばに西欧にて発した近代ホスピスという概念、それがどのような人達によって、1980年初頭に日本に移植され米澤自身も、1980年初めより加わり、ホスピス紹介者やホスピス医とともに啓蒙活動を行ってきたかが、十二分に記されている。米澤自身によるホスピスでのボランティアの必要性、安楽死の必要性と重要性も記されている。どう引っくり返しても、米沢が「ホスピス運動家」と指摘されても、否定できる根拠はない。また、米沢・芹沢の共著より引用する。

 米沢 前にフランスのミッテラン大統領を看取った臨床心理士の本を読んだことがありますが、それこそホスピスで亡くなるわけですけれども、ミッテランはその人に全般の信頼をおいていましたね。つまり相手が心を開いて受けとめる、そのような力量さえあれば通じちゃうということなんでしょうね。
 芹沢 親子だから当然という発想でやっているかぎりは、だめだとおもいます。親子なんだけれども、同時に親子ではない。米沢さんの言い方を借りると、第三者であり、あるいは第三番目であり、そういう存在に自分を一回切り離す。分離するということができれば、親子関係でも大事な話ができるようにおもいます。とはいえなかなかむずかしいことではありますね。

 芹沢 だけど米沢さんは、すでに三番目の位置をファミリー・トライアングル、家族として位置づけています。そういう思想が提出されているわけですよ。等価ということは、家族の三番目の位置を与えられた施設のことです。家族が施設をそのようにかんがえることができれば、施設は家族を代替できる、外から家族に介入しているという意識を家族も施設ももつ必要がない。実際に現状はそうなってしまってますしね。

 芹沢 ということは、自然死と自殺のあいだに、もうひとつ安楽死という場所があるということになりますね。そのためには、いまここ何年かのなかで急速に出てきたことばである自己決定が前提となります。     (『老いの手前にたって』より)


 この2著の内容から判断して、吉本が『生涯現役』において芹沢、米沢に対して行った批判は至極まっとうである。また、吉本の批判のモチーフはもうひとつある。芹沢、米沢による2著は、親鸞、吉本隆明の言説を背景にして論理をなりたたせているところがある。批判を感じる吉本が、この2著から自己を差異づける必要性を感じるのは、著作家として当然である。芹沢が「吉本さんとの縁」でいう、吉本における「暴走」、「妄想」がどこにみられるのかまったく不明である。無論、芹沢の、言葉による批判に対する言葉による反論もまた自由である。また、芹沢がここでの批判に傷つけられたと感じるのは解る。ならば、言葉に対する批判には言葉によって行うのがまっとうであり、実行できた筈だ。また、芹沢が黙っているのも自由である。だが結局は「吉本さんとの縁」において制止がきかず、「暴走」して、「妄想」をうんでしまったというのが正直な感想である。
 ここで、私には、吉本の『生涯現役』、また他の著作における日本のホスピス運動への把握と批判は極めて正しいとだけしかいえない。

 芹沢は、『家族という意志――よるべなき時代を生きる』(2012年4月刊)において、こどもからみた、受けとめる家族の重要性を説き、鴨長明、蓮如、の言葉よりこの世のはかなさを説き、いのちがいま、よるべなき状況におちいっていると言う。福島における原発事故から、絶滅の脅威、いのちの存続というテーマを導きだし、「原発を容認しておいて、いのちへの愛を語ることは根本的な欺瞞である」との認識に達する。戦後、ヤスパースが言った、ヒットラー?ナチス政権を生み支えたドイツ国民には全員、追及すべき責任があるという類のスターリン主義まるだしの恫喝理論を、福島での原発事故の関係者総てにスライドさせて、東京電力、それを支えてきた政治家、科学者、マスメディア、原発支援者、容認者、反対でも黙ったもの、そして生きて原発に反対してこなかったものすべてに、いのちを脅かす原発に対する、「連帯関係の絶対的欠如」の否定を求めている。原発に係ったもの(つまり電気による生活上の恩恵をうけてきた私にも)すべてに責任があるらしい。芹沢自身はいのちを脅かす存在、原発に対する容認の観点を自らすっぱり取り除きそれを表明する、と述べている。私には、制度、知識における習慣のながれは必ず、まず疑ってかからなければならないという観点を、いとも簡単に手離してしまった表明にしかみえない。    (了)

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『現代思想』の「特集吉本隆明の思想」。その中の高橋順一と芹沢俊介の対談について。芹沢の吉本批判の的外れと日本共産党レベルへの退化。 久住 幸治(「猫々だより」114 2012.7)

 吉本の「反原発への批判」は明確である。原子力からの撤退は、反知性的な「サルへの退化」であり、皮膚を透過するものとの闘いの地平への突入への指摘は、危険と隣り合わせであることやその対策の必要性、素粒子研究の新しさなど、「原子力賛成」派と「反対」派の双方を「乗り越える」ものである。芹沢は、原子力発電所の廃絶を言い、また吉本が「資本主義の悪」への倫理的な批判をしていないことが、言葉をやせほそらせているなどと、批判している。これは的外れである。2つとも間違いだ。
●芹沢は、「原子力発電所の廃絶」の願望を述べるが、たわごとである(日本の電力会社の管理・運営への不信、その失格の烙印はおされたが)。自然界そのものである「原子力の廃絶」はできない。包括止揚されるだけだ。一段上の素粒子の最前線も知らないのか?とっくに「素粒子力」が登場している。「素粒子爆弾」が可能なら、銀河を破壊するだろう。数万人の科学社が、全世界で、日夜研究にはげんでいる。「ヒッグス粒子の発見」も近い。
●また原発事故で、「新たな次元からの資本主義への死の宣告」がなされたなどと神秘的に言うが、間違いだ。「古い資本主義が失敗しただけだ。」同時に「日本資本主義の戦後最大の過失だ。」「一国社会主義的な準国有(排他的独占官僚)企業が、地震と津波にあい、せこい経費節減=手抜きの部分が露呈した」ということだ。それは情報遮断、隠蔽企業の「リアルな姿」だ。電力会社は、全産業の基盤企業ゆえ、強いエリート主義があり(企業と消費者に対し、上から目線を注ぐ。さらに3K仕事は孫請け以下に。御用組合も傲慢だ。)「消費者が主人公の、新資本主義になれなかった」企業であり、置き去りにされた「時代遅れの」企業である。同時に、全産業の基盤企業ゆえ、日本資本主義の指導部でもある。ここがややこしい。つまり他の企業は、東電擁護に回る以外ない。しかしトヨタやホンダとくらべれば明らかだ。グローバルな競争にさらされていない。消費者からの批判にもさらされてこなかった。利益が保護された「国丸がかえの企業」だった。以上「新たな次元からの資本主義の死の宣告」がなされたわけではない。(もちろん、政治党派や一般生活大衆に力があれば、日本資本主義を屈服させるチャンスだ。これを否定しない。)
●芹沢は、「資本主義一般」を否定したいのだろうが、それは違う。今回は電力会社の特殊事情があるだけだ。芹沢は、日本共産党的な安易な「資本主義の悪批判」に近づいたのだ。口先だけの批判だ。吉本が、「資本主義批判」のことを、包括して考えていないはずがない。吉本の『見えだした社会の限界』あたりから読み直してみては?
 吉本の「大昔」の文章、「詩と科学の問題」(昭和24年2月)を引用して、「ひっかける」という根性も気に入らない。吉本の最大の理解者であるとみなされてきた芹沢が、こんなレベルなら情けない。芹沢さんよ、それでは「原子力発電所の廃絶」と「資本主義廃絶」のやり方を、あなたの力で見せてくれ!歪んだ「貧相な根性=心情」は、あなたの中にこそある。それは吉本への倫理的対応だ。          2012年6月20日

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吉本隆明資料拾遺(17) 外国語に翻訳された作品について 宿沢あぐり

 ミシェル・フーコーが吉本と対談したとき、当時は吉本の作品は、海外で仏語にも英語にも翻訳されていないことを語っていた。
 今でも、フランスに在住している宗近真一郎が「ミシェル・フーコーのパリで吉本隆明の訃報を聞く」(「飢餓陣営」2012年夏号)のなかで、中田平の仏語訳『共同幻想論』と吉本との対談を集録した『フーコー言論集成』だけが仏語のものと述べているように、吉本の作品が海外で翻訳されていないようなことが語られていることが多いが、フーコーが対談した1978年ころとはちがい、海外でも翻訳され出版されていることがわかっている。ただし、それらがそれぞれの国で知られているかどうかは問題にしない。また、その評価もだ。
 吉本の作品の翻訳ですぐにおもいだすのは、宮城賢の作品である。宮城が、吉本の作品を英語で出版したのは、1982年の『宮城賢初期作品集』(試行出版部刊)に収録された詩集『固有時との対話』と、1995年の詩集『転位のための十篇)(砂小屋書房)である。『固有時との対話』の英語訳は、私家版の『望郷歌』の後で1960年代の終わりから1970年初頭にかけてのことだと宮城自身のことばから推測されるが、これは、海外のことではない。海外でも翻訳は早くからあった。ただし翻訳は、吉本の作品に関心をもつ者たちによっておこなわれていることは確かだ。そこには日本人が関わっていることもある。
 先に述べておくが、吉本の作品の翻訳は、単行本のものは少なく、詩のアンソロジーのなかの作品が多い。
 ここでは、国内、国外にかかわらず外国語に翻訳され単行本として出版されたり、アンソロジーなどの単行本に収録されたり、雑誌などに掲載されたものを、みつけたもののみであるが紹介してみる。

1968年11月・イタリア
作品題名「恋唄」(「ひととひとを噛みあわせる曲芸師が」ではじまる「恋唄」)
翻訳題名「Canto d'amore」
翻訳者・Dacia Maraini(ダーチャ マライーニ)
出典『La protesta poetica del Giappone : antologia de centanni de poesia giapponese』 編集人・ダーチャ マライーニ、Michiko Nojiri(野尻命子)
出版社・Officina Edizioni(ローマ)
 翻訳者は、イタリアを代表する作家である。日本にも来ている。ここでは『帰郷 シチーリアへ』(晶文社刊)の訳者である望月紀子の「解説」で彼女の幼少時を紹介してみる。

 1938年。民族学者の父がアイヌ文化研究のために北海道大学に留学することになり、二歳だったダーチャ・マライーニも家族とともに海を渡った。やがて第二次世界大戦が勃発し、日本とドイツ、イタリアは三国同盟を結び、43年には、失脚していたムッソリーニがドイツ軍に支えられてサロ共和国を樹立した。「海外居住者」のイタリア人も新政権の支持を強要され、日本在住の多くのイタリア人が署名をしたが、著者の父フォスコ・マライーニは、署名を拒否して反ファシズムの姿勢を表明した。

 その結果、マライーニ一家と九人の単身者が、まず名古屋の天白へ、それから西中川(現在の豊田)のお寺に送りこまれ、それぞれの場所で1年ずつ、強制収容所生活を余儀なくされた。このとき、父フォスコは、飢えた幼児らの目の前でわざと食べものを捨てた憲兵に抗議して、自分の小指を鉈で切断したという。幼いころ、娘として許される以上に愛したと著者の語るこの父は、それほどの激しさを秘めた人だった。
 日本をあとにして、まだ魚雷の浮遊している海を大西洋横断客船でイタリアに向かったのが1945年暮れのこと。これが最初の帰郷だった。


 これによれば、ダーチャ・マライーニは、日本に縁が深かったといえる。それが彼女にとってどれほどはかりしれない傷痕を残したとしても、だ。
 では、もうひとりの編集に関わった「Michiko Nojiri」(野尻命子)とはだれだろうか。この人物は、茶道の世界では現在、世界的に有名な裏千家ローマ出張所代表者である。彼女は、1968年ころは、イタリアで語学の再勉強中だった。ダーチャ・マライーニとの翻訳の経緯について、彼女自身が『ローマでお茶を チェントロ・ウラセンケ奮戦記』(主婦の友社刊)でつぎのように述べている。

 日本生まれの作家、ダーチャ・マライーニさんから日本現代詩人のアンソロジーを出版したいので手伝ってほしい、という依頼が舞い込んだのは、夢中で語学の再勉強にとり組んでいる最中のことだった。詩は全くの門外漢だったが、こんな形でイタリア語を学べるなんて、めったにないチャンスである。こちらからお願いしてもいいからぜひ助っ人に、とでも言いたい気持ちで引き受けた。
 そしてとっさに思い出したのが、詩人の天沢退二郎氏。フランス留学を終えて帰国の途中、ローマに立ち寄られたときにお会いし、「イタリアで日本の現代詩を発表する機会があったら知らせてほしい」と資料をお預かりしていた。たった一度の束の間のご縁をいいことに同氏に協力をお願いし、結局は収録作家の人選、作品選考などまでお世話になってしまった。
 とうの昔に日本語を忘れているダーチャに、日本語の詩が持つ意味やニュアンスをどこまで伝えることができたか、詩に対する知識、理解力の乏しい私としては大いに不安の残る作業ではあったが、それでも四苦八苦の末、1968年に無事出版にこぎつけることができた。


 これによって、このアンソロジーの生まれた経緯の一端がわかる。ちなみに、著者紹介では、『日本現代詩選』となっているが、題名にある「protesta」にはダーチャ・マライーニの意図が感じられる。

1972年・イギリス、アメリカ
作品題名「恋唄」(「ひととひととを噛みあわせる曲芸師が」で始まる「恋唄」)
翻訳題名「Love Song」
翻訳者・Thomas Fitzsimmons(トマス フィッツシモンズ)
出典『JAPANESE POETRY NOW』
出版社・イギリスはAndre Deutsch(ロンドン)、アメリカはSchocken Books(ニューヨーク)
 翻訳者は、アメリカの詩人で、1981年現在、ミシガン州オークランド大学英文学部教授である。大岡信の友人でもあり、大岡と『連詩 揺れる鏡の夜明け』(筑摩書房刊)を出版している。このなかで、大岡は、このアンソロジーについてつぎのように述べている。

彼は過去に何回か日本に滞在していて、いくつかの大学で英文学を講じたこともある。右のアンソロジーはそれらの大学で教えた学生たちの中から育った優秀な翻訳者たちの協力のもとに、彼が英語の詩として十分すぐれたものとなるように、あらためて訳に手を入れ、磨きあげたものだった。

 しかし、なぜかこの翻訳では、吉本の名前は「Ryumei Yoshimoto」である。だれが「Ryumei」と教えたのだろうか。大岡は出版後でもいいから、正しくは「Takaaki」であると伝えなかったのだろうか。

1973年・アメリカ
作品題名「恋唄」(「ひととひととを噛みあわせる曲芸師が」で始まる「恋唄」)
翻訳題名「Love Song」
翻訳者・Thomas Fitzsimmons(トマス フィッツシモンズ)
出典『JAPANESE POETRY NOW』
出版社・Schocken Books(ニューヨーク)
 このペーパーバック版は、Kenneth Rexrothの序文を新たに加えて刊行されているが、やはり吉本の名前は「Ryumei Yoshimoto」のままである。

1975年・アメリカ
作品題名「火の秋の物語」「分裂病者」「黙契」「絶望から苛酷へ」「その秋のために」 翻訳題名「Story of the autumn of fire」「Spilit personality」「Tacit understanding」「From despair to cruelty」「For that autumn」
翻訳者・Yoshinari Yamada(山田良成)
出典『THE POETRY OF POSTWAR JAPAN 』
編集人・木島始
出版社・University of Iowa Press(アイオワ)
 翻訳者は、1974年現在、岩手大学の教授であり、訳書にサリンジャーの『九つの物語』(思潮社刊・私家版)やオーデンの『シェイクスピアの都市』(荒竹出版刊)などがある。

1981年・メキシコ
作品題名「黙契」
翻訳題名「Entendimiento Tacito」
翻訳者・不明
出典「La estacion en que tengamos los ojos」
出版社・Coyote Esquivo
 これは、後で紹介する1996年にカナダで発行された「La Guirnalda Polar」から分ったものだが、実物は残念ながら未見である。

1982年4月・日本
作品題名『固有時との対話』
翻訳題名『A DAIALOGUE WITH THE EIGEN TIME』
翻訳者・宮城賢
出典『宮城賢初期作品集』
出版社・試行出版部
 最初に述べたとおり、この翻訳は、私家版詩集『望郷歌』が刊行された1965年6月以降、1972年以前の時期に英訳されたものであるが、収録にあたり、宮城賢自身はつぎのように述べている。

英訳「固有時との対話」は、訳稿完成時のヴァージョンのうち、幾つかの用語に手を加えてある。ちなみに、表題中の「固有時」の訳語は、初稿では“Innate Time”であったが、原著者吉本隆明氏から川上春雄氏を通じての間接的な示唆により“Eigen Time”と改めたことを記しておく。相対性理論に用いられるProper Timeをこの「固有時」の訳語にあててもいいのではないかという教示を二人の読者から戴いたことがあったが、私はその教示を謝しつつも、吉本隆明氏の提示された訳語の新鮮さに敬服し、ためらうことなくこれに従った。他の点で、吉本氏から私が教示を受けたことは全くない。

1985年3月・日本
作品題名「わたしたちの自戒の歌」
翻訳題名「A Song of Our Self - Admonition」
翻訳者・Edward Lueders(エドワード・リーダーズ)
出典「POETRY NIPPON」69・70号
出版社・The Poetry Society of Japan(名古屋)
 この作品は、代表作とはいえない作品である。「日時計篇」と呼ばれる作品群のなかのひとつであり、1968年4月に刊行された現代詩文庫(思潮社刊)に先に収録されたものである。エドワード・リーダ―ズが『吉本隆明全著作集3 初期詩篇II』に収録された三百篇以上の試作品のなかから、この「わたしたちの自戒の歌」を選びだすことは不可能ともいえることであり、現代詩文庫版の『吉本隆明詩集』によって選びだしたといえる。
 なお、エドワード・リーダーズは、ユタ州の大学教授であった時期が26年間あり、彼が連載している「My Impression of Contemporary Japanese Poetry」のなかで採りあげられたものである。

1986年9月・フランス
作品題名「ちいさな群への挨拶」「恋唄」(「ひととひととを噛みあわせる曲芸師が」で始まる「恋唄」)
翻訳題名「ADIEUX A UN PETIT TROUPEAU」「CHANT D'AMOUR」
翻訳者・Yeves-Marie Allioux(イヴ=マリ・アリュー)
出典『ANTHOLOGIE DE POESIE JAPONAISE CONTEMPORAINE』
編纂者・井上靖、清岡卓行、大岡信
出版社・Gallimard(パリ)
 翻訳者は、1947年生まれで、2007年現在、フランスのトゥールーズ・ル・ミライユ大学の教授であり、中原中也のフランス語訳個人選集を出版、白水社から『日本詩を読む』も刊行されている。
 イヴ=マリ・アリューは、1970年代はじめに日本に来ているが、そのとき吉本に会っている。そのときのことを吉本は、「文藝」に掲載された大岡昇平との対談「詩は行動する」のなかでつぎのように述べている。

吉本 大阪のほうに、中原中也の研究をしているフランスの青年がいましてね。一度会ったことがあるんです。その時にこういうことを言われたんです。その大将の言ったことは、普遍性があるかどうかは僕にはわかりませんけれども、フランスでいえば、モリエールでも、ラシーヌでも、文学者であるということは、そのこと自体で反体制的であるというふうになる。だけれども日本では、反体制的な文学者というのは、なぜ少ないのだろうか、というふうに聞かれたことがあるんです。それでどういうふうに答えればいいか、と考えて、僕は、フランスのことも、ヨーロッパのこともわからないけれども、おそらく、そっちでいう政治体制と考えられている概念の一部は、おそらく、日本では、〈自然〉が代用していると思う、だから代用している〈自然〉に対して、どういう姿勢をとるかというところで、優に日本だったら文学は成立する。もしも日本の文学者が、反体制的であるというふうに自己規定しようとすれば、自然に対してどういう姿勢をとるかということの、またもう一つ先のところで、意識的に政治体制を問題にしなければならない。そういうことはなかなかたいへんである。またある意味で〈自然〉が、政治体制というものを代用しているところがあるから、〈自然〉に対して態度を決めれば、文学としては決まってくるところが、日本ではあるように思う、というように説明したんですね。
大岡 なるほどね。だから小林が創造の前提として〈虚無〉ということを言えるというのは、その前に〈自然〉があったんですね。彼の頭の中では日本的な〈自然〉が前提にされていた。彼は相当無意識的な思索家ですからね。だからあなたの答えはおそらくその通りだと思います。そうするとこんどは、〈自然〉はそこにあるものか、それともわれわれがそれから選びだして表象したものか、という問題が出てくるわけですな。
吉本 それはそのとおり聞かれました。〈自然〉て何ですか、それは宇宙、コスモスという、宇宙ということかというのです。そうすると、その宇宙ということがこんどはこっちがよくわからないので、いや通俗的に考えてもらっていいんだ、そこにある建物も自然、風景も自然、そう考えてもらっていいと思う、というようなことを言ったんですけれどもね。
 それからこんどは中原中也の場合になってきて、なぜこういうのを研究しているのか、と言ったら、いや得てして日本文学をやっている外国人は古いことをやりたがる、しかし自分はそういうことをしたくないから、やっているというのです。こんどは、中原中也の、篠田一士氏にいわせれば詩が愛唱できるかできないか、ということに関連するわけですけれども、リズムみたいな問題になってきて、どうして日本の詩は、リズムを放棄しているんだ、少なくとも戦後の詩人というのは放棄しているんだ、というのです。しかし放棄しているように見えても、もちろんリズムはあると思う。ただ、リズムというのなぜ放棄してるかに見えるかというと、結局リズムを一種の自然だというふうに考えているから、だからそれに対してわりあいに意識的な態度を決めないと、詩が決まってこないというようなところがあって、それでそういうようになっちゃうのだ、おそらくそういうことは一切ほかでは要らないのかもしれないけれども、僕たちが詩を考える場合には、リズムに対してどういう態度をとるかということが決め手になっちゃう。堅苦しいところでリズムなんていうのを考えると、中原中也みたいに自由な感じで詩なんてのはやれなくなってしまう。そういうところがきっといま日本の詩が落ち込んでいるところだ、というように言うんですけれども、もうそこまでいったら了解を絶するという感じでした。


 アリューがいったという「フランスでいえば、モリエールでも、ラシーヌでも、文学者であるということは、そのこと自体で反体制的であるというふうになる。だけれども日本では、反体制的な文学者というのは、なぜ少ないのだろうか」という問いかけは、「吉本隆明は、金子光晴と秋山清だけが日本における抵抗詩人であったと書いて、少なくとも一外人である私を驚かせた」(中原中也?その政治性?)という言葉にもあらわれているが、中原中也の詩「春の日の夕暮」をめぐっては、両者がそれぞれの著書で、お互いの見解を注記している。
 なお、このアンソロジー(日本名では『日本現代詩選』とされている)は、アリューの『日本詩仏訳のこころみ 朔太郎・中也・太郎・達治』(白水社刊)の解説者である宇佐美斉は、1989年に改訂新版が出版されるように書いているが、内容に変更がないことから再版ではないかと推測される。

1986年12月・フランス
作品題名「文学者と戦争責任について」
翻訳題名「A propos des ?crivains et de leur responsabilit? face a la querre」
翻訳者・YATABE Kazuhiko(矢田部和彦)
出典『JAPON DES AVANT GARDES 1910-1970』
出版社・Centre Pompidou(パリ)
 これは、同年12月に刊行された『吉本隆明全集撰 3 政治思想』(大和書房刊)に収録されたものだが、それとほぼ同時刊行のカタログに収録されたものである。
 このカタログは、1986(昭和61)年12月9日から翌年3月2日まで、フランスの国立ジョルジュ・ポンピドゥ・センター、国際交流基金主催により、ポンピドゥ・センター6階のグランド・ギャラリーを会場として開催された「前衛芸術の日本 1910-1970」展のために作成されたもので、本編と資料編は別に作成されている。カタログは当初、日本語版と仏語版で出版することがフランス側から提案されたが、資金と販売の見通しがたたないために実現できなかったようである。
 翻訳者の矢田部和彦は、2009年現在、パリ第七大学准教授である。
 ちなみに、作品題名は、国際交流基金編集・発行の『「前衛芸術の日本 1910-1970」展報告書』では、「作家の戦争責任について」となっている。

1989年3月〜1993年3月
作品題名『共同幻想論』
翻訳題名『L 'illusion commune』
翻訳者・Hitoshi Nakata(中田平)
出典「金城学院大学論集」人文科学編第22号?第26号
出版社・金城学院大学
 この仏語訳をめぐっては、吉本隆明・中田平著『ミシェル・フーコーと『共同幻想論』』(丸山学芸図書刊)に詳しく述べられており、1996年7月に出版されたCDーROM版「吉本隆明『共同幻想論』を語る」ブラザー販売刊)に仏語版が収録されている。

1990年1月・ドイツ
作品題名「世界認識の方法」(ミシェル・フーコーとの対談)
翻訳題名「Gespr?ch zwischen Yoshimoto Takakaki und Michel Foucault in Tokyo 1978」
翻訳者・Reinold Ophuls(ライノルト・オプヒュルス)
出典「kultuR Revolution」第22号
出版社・anzeigenverwaltung
 翻訳者のライノルト・オプヒュルスは、現在、上智大学外国語学部ドイツ語学科の教授のオプヒュルス鹿島ライノルトである。彼は、1998年に出版社Harrassowitzから『Yoshimoto Takaaki-ein Kritiker zwischen Dialektik und Differenz』を出版しており、吉本の作品に関心をもっていたが、追悼文をドイツ東洋文化研究協会の雑誌「OAG Notizen」に寄稿してもいる。

1991年7月・ドイツ
作品題名「わたしにとって中東問題とは」
翻訳題名「Die Frage des Mittleren Ostens aus meiner Sicht」
翻訳者・Reinold Ophuls
出典「kultuR Revolution」第25号
出版社・anzeigenverwaltung
 この翻訳は抄訳で、憲法第九条をめぐる箇所に重点をおき紹介をかねたものである。

1992年6月・日本
作品題名『良寛』
翻訳題名「Asian Thought and Ryokan(1)」
翻訳者・Janet Goff(ジャネット・ゴフ)
出典・「iichiko intercultural」第4号
版元・iichiko(東京)
 ここでは、1992年2月に出版された原著(春秋社刊)の「思想詩」の「2」および「隠者」の「1自然のなかの生活」、「2自然のなかの生活」が英語訳されている。
 ジャネット・(エミリー・)ゴフは、古典演劇研究者であり、翻訳家でもある。また、札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭となったウィリアム・スミス・クラーク博士の長女の曾孫で、クラーク博士の玄孫(やしゃご)にあたる。

1993年6月・日本
作品題名『良寛』
翻訳題名「Asian Thought and Ryokan(2)」
翻訳者・Janet Goff(ジャネット・ゴフ)
出典・「iichiko intercultural」第5号
版元・iichiko(東京)
 ここでは、原著の「隠者」の「3自然のなかの倫理」、「4自然のなかの宗教」、「5書の自然性としての良寛」が英語訳されている。

1994年9月・フランス
作品題名「世界認識の方法 マルクス主義をどう始末するか」(ミシェル・フーコーとの対談)
翻訳題名「M?thodologie pour la connaissance du monde:comment se d?barrasser du marxisme」
翻訳者・Ryoji Nakamura(中村亮二)
出典『Dits et ?crits 1954-1988 III 1976-1979』(Michel Foucault)
出版社・Gallimard(パリ)
 ここで仏語訳されている「吉本隆明」(R. Yoshimoto)や「幻想」(fantasme)については、前述した吉本隆明・中田平著『ミシェル・フーコーと『共同幻想論』』(丸山学芸図書刊)に詳しく述べられているが、『Dits et ecrits 1954-1988 I 1954-1969』 に収録されているフーコーの年譜(作成者はダニエル・ドゥフェール)では、「吉本隆明」は「Ryumei Yoshimoto」と記されている。
 翻訳者の中村亮二は、1980年代はじめからガリマール社などで編集にも携わっているようである。日本文学を少なからず仏語に訳しているならば、「吉本隆明」は「Ryumei Yoshimoto」ではなく「Takaaki Yoshimoto」であることを知らないはずはないだろう。この疑問は消えることはない。
 なお、ドゥフェール作成のフーコーの年譜には、この対談の後、ヘーゲルとマルクスについて書簡を交わしているように書かれているが、お互いの書簡がそれぞれ保管されているのだろうか。それとも、安原顯が、2002年4月26日号の『週刊朝日』に掲載された『ミシェル・フーコー思考集成』に関する書評で、述べているように、吉本の書簡のみがフーコーに届いただけなのだろうか。

 この対談終了後、フーコーが吉本隆明に「往復書簡をしたい」と語った。社交辞令とは知っていたが、編集者としては、敢えて真に受け、早速、吉本隆明に長文の手紙を頼み、出来上がった原稿を、対談通訳者でもある蓮實重彦に翻訳してもらい、フーコーに送った。内容の詳細は忘れたが、道元とヘーゲルをめぐっての、五十枚ほどの原稿だった。原稿を渡す時、吉本隆明は「ぼくの書いた内容なんて、フーコーさんなら当然知っていることばかりだけどね」と言い、また仏訳した原稿をベルギー出身の訳者の夫人に見せると、「この人、頭、悪いんじゃない」と言われた話など、いまでは懐かしい思い出だ。
 夫人はなぜそんな言葉を口にしたのか。欧米人らの論文は、まず結論を先に述べ、それを論証する形で話を進めるのに対し、日本人、中でも吉本隆明のそれは、紆余曲折しながらなんとなく結論に向かう書き方ゆえ、原文に忠実に翻訳すればするほど、外国人には「頭が悪い」との印象を与えるようだ。国民性の差というやつだ。
 件の手紙を出してから、一年ほど経った頃だろうか、日本在住のフーコーの友人を通して、ようやく返事が来た。しかし危惧した通り吉本隆明の論考は意味不明、従って「返事は不能」とのことだった。またフーコーは、「吉本さんはヘーゲルをドイツ語できちんと読んでいるのか?」とも問うたようだ。


 安原がいう「国民性」は、言語表現のちがいと訳し方の問題になるので、あてにはならない。それとも欧米優位のコンプレックスの皮肉な表現だろうか。また、フーコーの返事は公表されているわけでもないので、たしかめようがない。
 かって、ドゥフェール作成のフーコーの年譜が収録されている『ミシェル・フーコー思考集成』の第1巻が出版されたとき、わたしは筑摩書房に、吉本の書簡が保管されているかどうか、ドゥフェールに確認してほしい、といった旨の手紙を送ったが、回答はなかった。
 それにしても、『Dits et ?crits 1954-1988』における日本人との対談や日本での滞在記などの仏語訳やフーコーと吉本との対談記録の紛失や書簡の行方など、なにかと後味の悪いできごとが多すぎ、真摯な態度の感じられない知の権力者たちのいい加減さが際立つばかりである。

1995年 アメリカ
作品題名「夏のなかでうたふ歌」「わたしたちの自戒の歌」「少年期」
翻訳題名「A Song to be Sung in Summer」「A Song of Our Self-Admonition」「My Boyhood」
翻訳者・Edward Lueders(エドワード・リーダーズ)
編集・Naoshi Koriyama/Edward Lueders
出典『Like Underground Water』
出版社・Copper Canyon Press(アメリカ)
 原著の副題は、「The Poetry of Mid-Twentieth Century Japan」で『日本現代詩英訳集』と呼ばれている。編集にたずさわった「Naoshi Koriyama」は東洋大学文学部名誉教授の郡山直である。郡山はまた、先にあげた「POETRY NIPPON」の評論の編集者でもあった。

1995年11月・日本
作品題名「火の秋の物語」「分裂病者」「黙契」「絶望から苛酷へ」「その秋のために」「ちひさな群への挨拶」「廃人の歌」「死者へ瀕死者から」「一九五二年五月の悲歌」「審判」
翻訳題名「The Tale of Fiery Autumn」「A Schizophrenic」「A Tacit Agreement」「From Despair to Sternness」「For That Autumn」「A Greeting to a Small Group」「A Cripple's Song」「To the Dead from the Dying」「The Elegy of May, 1952」「The Judgment」
翻訳者・宮城賢
出典『Ten Poems for Transposition』
出版社・砂子屋書房
 これは、もちろん『転位のための十篇』の完訳であるが、山田良成の訳した題名と比較すると、山田のは直訳のようであり、宮城の訳は詩人として内容を咀嚼したうえでの訳のように感じられる。詩作品もそうだ。

1996年1月・フランス
作品題名「自立の思想的拠点」
翻訳題名「Les Fondements intellectuels de l'autonomie」
翻訳者・Elisabeth Suetsugu(末次エリザベート)
編集・Yves-Marie Allioux(イヴ=マリ・アリュー)
出典『CENT ANS DE PENSEE AU JAPON Tome2』
出版社・Philippe Picquier(パリ)
 日本語では『日本の思想百年』といわれる2分冊の書であるが、ここに収録された22人の人物と26の作品の選択には、末次弘が関わっているようである。
 編集者のアリューは、前述したときに少し書いておいたが、この同じ出版社のフィリップ・ピキエ社から2005年に、中原中也の仏語訳の個人選集を出版してもいる。
 ところで、末次エリザベートは、「自立の思想的拠点」訳の前に、吉本の紹介文を寄せているが、そのなかで、末次エリザベートは吉本の『共同幻想論』における「幻想」という表現について、吉本独特の表現として注意深く訳し、注記もしている。
 その末次エリザベートは、吉本の「幻想」を「conscience」と訳している。この「conscience」は、一般的には「意識」といった日本語に訳されているが、注記では「Le terme genso(dont le sens habituel est ≪illusion≫) est specifique du langage de Yoshimoto, et il est a integrer dans une comprehension globale de sa pensee. Dans son systeme, Yoshimoto utilise ce terme comme equivalent d 'ishiki(conscience), interdisant donc la reduction au seul sens d '≪illusion≫, ou encore de ≪fantasme≫.」と記している。
 これは、1967年3月に発行された『出版研究』第7号(『吉本隆明資料集』第79集に収録)に掲載された「天皇制について」という講演記録のなかで、吉本自身が述べている「イリュージョン」をどのように翻訳するか、という思想的な課題を、末次エリザベートが真摯に受けとめていることのあらわれであるともいえる。
 フランスという国で、小説や短詩型文学などとちがい、批評や評論などの翻訳がどのくらい受け入れられているかわからないが、アリューのこの果敢な挑戦は、フランスの特権的な思想性に対するアンチテーゼともいえるものだとおもえてならない。
 世界思想は、西欧の思想史の枠組だけに納まるものではないのだ。
 なお、末次エリザベートは、この2012年3月に、フィリップ・ピキエ社から島尾敏雄の『死の棘』の仏語訳である『L 'aiguillon de la mort』を出版している。この訳書は、読むことは叶わなかったかもしれないが、吉本の病床にも届けられている。

1997年2月・フランス
作品題名「「英国留学」の旅」「満韓ところどころ」の旅」
翻訳題名「Preface」
翻訳者・Elisabeth Suetsugu(末次エリザベート)
出典・『Voyager avec Natsume Soseki』
出版社・Louis Vuitton(パリ)
 これらの作品は、2004年7月に出版された『漱石の巨きな旅』(日本放送出版協会)に収録された「〈一部〉「英国留学」の旅と「〈二部〉「満韓ところどころ」の旅」の初出である。
 この一冊は、「Collection VOYAGER AVEC‥‥」のひとつであり、当時の写真なども数多く収録されている。ほかには、ヴァージニア・ウルフやマルセル・プルーストなどのものもある。
 収録されている夏目漱石の作品は、「自転車日記」「倫敦塔」「カーライル博物館」「日記・書簡」「満韓ところどころ」であり、仏語訳は、「自転車日記」「カーライル博物館」「日記・書簡」が末次エリザベート、「倫敦塔」「満韓ところどころ」がOlivier Jamet(オリヴィエ・ジャメ)である。ちなみにオリヴィエ・ジャメは、漱石を研究している天理大学国際学部教授である。

1999年6月・カナダ
作品題名「黙契」
翻訳題名「Entendimiento Tacito」
翻訳者・不明
出典「La Guirnalde Polar」第32号
出版社・Iconos por Dryicons/Redvista
 これは、1981年に「La estacion en que tengamos los ojos」(メキシコ)に掲載されたものの再録である。
 なお、この作品を掲載するにあたって、Kyoko Matsumoto(だれであるかは不明)とこの雑誌の編集人であるJose Tlatelpasが吉本の紹介をしている。

2000年1月・日本
作品題名「アフリカ的段階について」
翻訳題名「The Afirican Stage of World History」
翻訳者・Janet Goff(ジャネット・ゴフ)
出典「季刊iichiko」第65号
出版社・日本ベリエールアートセンター
 これは、吉本の許可を得て、1998年1月に私家版として発行された『アフリカ的段階』について』のI・II・III章を英語訳したものである。

2000年3月・フランス
作品題名「その秋のために」
翻訳題名「Pour cet automne」
翻訳者・Yves-Marie Allioux(イヴ=マリ・アリュー)
出典「DARUMA」6&7
出版社・Philippe Picquier(パリ)
 この雑誌は、「Revue internationale d'?tude s japonaises」というサブタイトルがあり、日本に関することを取りあげており、日本人も寄稿している。アリューはこの号で、この作品以外に、吉増剛造の作品も翻訳している。

2003年11月・大韓民国
作品題名『ひきこもれ ひとりの時間をもつということ』
翻訳題名『■■■■■』[ハングル]
翻訳者・■■■[ハングル](キムハキョン)
出典『■■■■■』[ハングル]
出版社・■■■■[ハングル](ホパクノンクルもしくはホバックノンクル)
 これは、大和書房から2002年に出版されたものの朝鮮語訳で、吉本の単行本としては国外で初めて出版されたものである。五味太郎の装幀・挿画は無いが、写真もそのまま使われている。翻訳者のキムハキョンは、私立大学の啓明大学大学院を卒業した翻訳の専門家のようで、2002年8月に講談社からブルーバックスの一冊として出版された谷畑勇夫の『宇宙核物理学入門 元素に刻まれたビッグバンの証拠』の翻訳などもある。
 翻訳題名を朝鮮語辞典により読んでみると、直訳では「わが内なる幸福」というようになるとおもわれるが、韓国ではどのような意味あいで「ひきこもれ」がかんがえられているのだろうか。

2007年2月・アメリカ
作品題名「異数の世界へおりてゆく」「挽歌 ―服部達を惜しむ―」「悲歌」「反祈祷歌」「戦いの手記」「明日になったら」
翻訳題名「Descending to the World of Odd Numbers」「Elegy(for Fukube Tatsu)」(注ー「ハットリ」とされてはいない)「Lamentation」「Song of Anti-Prayer」「Notebook of Strggle」「When Tommorow Comes」
翻訳者・Manuel Yang(マニュエル・ヤン)
出典「Arabesques Review」Vol.II Issue 04
出版社・Arabesques Editions
 マニュエル・ヤンは、雑誌「現代思想」の前編集人である池上喜彦によれば、「1979年のスリーマイル島原発事故に対するアメリカの反原発大衆運動のなかから生まれた「ミッドナイト・ノーツ・コレクティヴ」というマルクス主義系の理論=アクティヴィズム集団の同伴者の一人、大西洋・太平洋のラジカルヒストリーの研究者としてこれまで活動」してきたという人物であり、「現代思想」などにもかなり寄稿しており、2008年秋には、山本哲士を介して吉本に会っている。そのときのことを「野良猫とノガン 吉本隆明とE・P・トムスンを巡る比較史的断章」(「現代思想」2012年7月臨時増刊号 総特集 吉本隆明の思想」)の最後でつぎのように述べて追悼している。

2008年秋、吉本さんの家を訪問した文字通り「一期一会」の際、潺々と流露する吉本さんの言葉の中でリフレインのように繰り返された激励のフレーズ―「遠慮なく飛び立ってください」―がわたしの耳にこだまする。

2008年8月・アメリカ
作品題名『カール・マルクス』
翻訳題名『Yoshimoto Taka'aki's Karl Marx』
翻訳者・Manuel Yang(マニュエル・ヤン)
出版社・The University of Toledo(オハイオ州トレド市)
 これは、博士論文で、2011年9月3日、修士・博士論文の専門出版社からあらためて出版されている。
 マニュエル・ヤンは、どの作品をもとに翻訳したのかというと、「Preface for the Paperback Edition:Marx in the Twenty-First Century」(文庫版のための序文 21世紀のマルクス)があるので、2006年3月に出版された光文社文庫であることがわかる。
 ただ、マニュエル・ヤンは補遺(Appendix)として、「現代とマルクス」(Contemporary Times and Marx)と「幻想論の根柢」(Foundation of the Theory of Communal Illusion: Language as Philosophy)を加えている。

2008年12月
作品題名「転向論」
翻訳題名「On Tenko, or Ideological Conversion」
翻訳者・Hisaaki Wake(和氣久明)
出典「REVIEW OF JAPANESE CULTURE AND SOCIETY」
出版社・城西大学
 翻訳者の和氣久明は、スタンフォード大学を卒業しているが、とくに現在城西大学とは直接関係はない。2007年7月にアメリカの大学院でこの「転向論」の日英翻訳の習作を発表している。また、一時期、柄谷行人が提唱して頓挫した「New Associationist Movement」(略称「NAM」)の元副代表でもあった。

2011年9月・アメリカ
作品題名『カール・マルクス』
翻訳題名『Yoshimoto Taka'aki's Karl Marx』
翻訳者・Manuel Yang(マニュエル・ヤン)
出版社・The University of Toledo(オハイオ州トレド市)
 2008年に刊行されたものの改訂新版かどうかはわからない。

2012年3月・フランス
作品題名「その秋のために」「絶望から苛酷へ」
翻訳題名「Pour cet automne」「Du desespoir a la cruaute」
翻訳者・Yves-Marie Allioux(イヴ=マリ・アリュー)
出版社・Gallimard(パリ)
 この雑誌は、新フランス評論と呼ばれる古くからある雑誌で、この号は日本特集で占められている。

(今回、日仏会館図書室の清水さん、城西大学国際教育センタターの南さん、上智大学のオブヒュルス鹿島さんには、入手できないもののほかにも貴重な資料のコピーをお送りいただきました。みなさんにはここに記して、あらためてお礼申しあげます。)

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吉本隆明資料拾遺(18) 作品が採用された入試問題のいくつか 宿沢あぐり(「猫々だより」120 2013.2)

 吉本の作品がここ十年ほどのうちに、中学校や高等学校、大学などの入試問題に採用されることが多くなっているような気がする。これは、過去の入試問題すべてを調べているわけではないが、吉本の作品が、自ら書くよりも、談話によるものが多くなってきたことと、子どもの時のことを一冊にまとめた『少年』などや、中学生を直接意識して作られた『13歳は二度あるか』の出版がかなり要因になったような気がする。さらにつけ加えれば、よしもとばななの存在も少なからず影響をおよぼしているのではないだろうか。ただし、それぞれの学校の教育理念に沿った入試問題のつくりかたに担当者の意図もあらわれていることを忘れてはならない。
 ここでは、調べたかぎりでの、作品が採用された入試問題のいくつかをかかげてみるが、かぎられた入試問題にすぎないことをあらかじめことわっておく。
 また、作者や採用した学校の著作権の問題があり、全部公開が少なくなっており、問題や回答をそのまま再掲載することにも制限もあり、公表されたものであっても訴えられることもないとはかぎらないが、そのままの複写ではなく、それぞれの問題の一例を参考資料としてかかげておくことにする。ただし、これは、わたしの恣意的な選択によるものであることはいうまでもない。
 なお、入試問題は、年度によっているので、推薦入試のような例外もあるが、その年度の入試は4月の入学の前の1月から2月にかけてほとんどが実施されている。

2002(平成14)年度
出典名 『少年』(1999年5月 徳間書店刊)第1章「生まれ育った世界」より
作品名 「父から学んだこと」
出題校 立正大学(東京都品川区) 国語
問題例 最後の文章の「いまも少年たちは、金銭についてではなく、精神の方途について同じ思いを繰り返しているとおもえる。」とはどういうことか。つぎのなかからもっとも適当なものを一つ選ぶ。
1 少年たちは自己と他者の関係の中に生きており、金銭を度外視しても安定した人間関係を常に考えていること
2 少年たちは自分の生き方について、理想を追求めながらもそこにはつねに金銭がつきまとっていること
3 少年たちは世代に関わりなく、お金とは関係のない無邪気な心で遊びと睡眠だけの生活をおくっているということ
4 少年たちは複雑な現代社会において不満のはけ口を失っており、それが殺傷事件へとつながっているということ
5 少年たちは無邪気でありつつも大人びた気づかいを見せながら、いつのまにかそれがなくなってしまうこと

出典名 『少年』第1章より
作品名 「父から学んだこと」の「天草をすてた頃」より以降
出題校 大阪樟蔭女子大学(大阪府東大阪市)学芸学部・人間科学部 一般(後期)入試選考 国語 2月28日実施
問題例 ここでは、立正大学の問題例の文章のすぐ前にある文章の「社会はいまでもこういう愛しき気配りの聖性を永続させる方途をもっていない。」という理由について、もっとも適切なものを一つ選ぶ。
(1) 社会は少年の人権を認めようとしていないから
(2) 少年のもつ聖性は社会の最も恐れるものだから
(3) 少年の純粋な心情は社会の法と相容れないから
(4) 社会には大人になればわかるという通念があるから

2003(平成15)年度
出典名 『愛する作家たち』(1994年12月 コスモの本刊)第1章「太宰治?社会の転換によりメジャーに」より
作品名 『お伽草子』より18頁の「太宰治という人はすごい人だとおもうところは」から21頁「また心理主義的な性格づけをやって『お伽草子』が書かれたとおもいます。」まで
出題校 山口大学(山口県山口市) 国語現代文
問題例 「そういう意味では追い詰められて□な生活者になっていくわけです。」ここでの「そういう意味」とはどのような意味なのか、簡潔に説明する。□は、空欄になっていて、「健康」か「不健康」のどちらかを選ぶ問題になっている。

2007(平成19)年度
出典名 「漂流する風景の中で」(「朝日新聞」2006年9月19日)より
作品名 「漂流する風景の中で」
出題校 豊橋創造大学(愛知県豊橋市)情報ビジネス学部キャリアデザイン学科 国語 推薦入試A方式 平成18年11月12日実施
問題例 「大きな歴史だけを「歴史」と考えるのは不十分だ。」が傍線部であり、このように筆者がおもう理由として最適なものを選ぶ。
(1) 個々人の身体や精神の問題を考えることが、実は政治や社会などの問題を考えることにつながっているから
(2) 「超人間」の問題を考えることによって、政治や社会の問題が解決するから
(3) 大きな歴史だけを「歴史」と考えていると、いまの国民が反動的な政治家についていこうとするから
(4) 政治や社会の問題よりも、社会的弱者である老人の問題を解決することが、最善だと思われるから
(5) 何十年間もそれぞれの職業ごとに身体を使ってきた老人たちは、もっと尊敬されても良いはずだと思うから

出典名『ひきこもれ?ひとりの時間をもつということ』(2002年12月 大和書房刊)第1章より
作品名 「時間をこま切れにされたら、人は何ものにもなることができない」
出題校 東京学芸大学(東京都小金井市) 一般入試(前期日程)
問題例 「子どもにとって、まとまった時間をもつことにはどのような意味があると思うか。著者の主張をふまえ、自分の考えを八百字以内で述べる。

出典名『13歳は二度あるか 「現在を生きる自分」を考える』(2005年9月 大和書房刊)第1章より
作品名 「「ここだけの話」ではなく、直接聞いたことや、大勢が共有している情報で判断する。」
出題校 雙葉中学校(東京都千代田区) 国語 2月1日実施
問題例 「世の中を正しくとらえていくためには、どうすればよいと言っているか」四十五字以内で述べるのだが、ここには短時間で大切なことをつかみ適切に文章化することに主眼がおかれているようである。

出典名 『13歳は二度あるか』第1章より
作品名 「新聞を読むことには、テレビのニュースにはないようなよさがある。」
出題校 恵泉女学園中学校(東京都世田谷区) 第2回入学試験問題 国語 2月2日実施
問題例 「大事なのは、そのときそのときで、自分の判断というものをもっていることなのです。」ということの「自分の判断」をもつ上での新聞はなぜ役立つ」のか筆者の考えを述べる。

2008(平成20)年度
出典名 『13歳は二度あるか』第1章より
作品名 「「ここだけの話」ではなく、直接聞いたことや、大勢が共有している情報で判断する。」(最後の「これを中学生のときからやっていれば、何が起こってもそんなにひどいことにはならないと思います。」は省略)「新聞にはそれぞれ傾向性がある。見出しだけでもいいから、複数読もう。」(「たとえば朝日新聞なら」以下は省略)「新聞を読むことには、テレビのニュースにはないよさがある。」
出題校 智辯学園中学校(奈良市五條市) 国語 1月19日実施
問題例 テレビの特徴について、本文中の言葉を使って説明する。

2009年(平成21)年度
出典名 『13歳は二度あるか』第5章より
作品名 「人間はじぶんが生きた時代を引き受けていくしかない。」
出題校 同志社女子中学校(京都府京都市上京区) 自己推薦入試の作文問題 1月17日実施
問題例 この文章を読んで、どのように感じ、どのようなことを考えたか、八百字程度で書く。これだけである。

2010(平成22)年度
出典名 『13歳は二度あるか』第4章より
作品名 「実際に死ぬ直前までくると、死は自分のものではなくなる。」「近親者が納得したとき、初めて「死」が訪れる。」「死は生の終点ではなく、生とともにあって、人生全体を照らしている。」
出題校 洗足学園中学校(神奈川県川崎市高津区) 国語第1回 2月1日実施
問題例 本文の内容に合うものを、次のなかから一つ選ぶ。
ア 人を殺してはいけない理由は、殺される側の立場に立ってみれば説明するまでもないことであり、識者たちが難解な理論を持ち出すのは、死を生とは別の系列の特殊なものと見なす偏見によるものである。
イ 死を自分の問題であると考える人が、いざとなったら安楽死させてくれとか、延命措置はとらないでくれとか家族に言いのこしておいたり、生前にいろいろと葬式の計画や指示をしたりしようとする。
ウ 脳死というのは、脳の機能が停止して、もうもとには戻らない状態になったこととされているが、今後の医学の発展により、回復する可能性も十分あるため、臓器移植に利用するのは問題がある。
エ 浄土真宗の教祖である親鸞は、念仏さえ唱えていればどのような人でも浄土に行くことができ、お寺も仏像も要らないと言い切った、世界の仏教の歴史の中でも最もめずらしい天才的な人物であった。

出典名 「『死霊』の創作メモを読んで」(講談社「群像」2007年11月号)より
作品名 「『死霊』の創作メモを読んで」のうち「埴谷雄高が戦後、本格的に」以降の文章
出題校 上智大学文学部(東京都千代田区)哲学科・史学科・新聞学科・総合人間科学部教育学科・外国語学部ドイツ語学科・ポルトガル語学科 国語 第1次試験2月4日実施
問題例 「埴谷雄高の投げかけた問いはもっと深くまたちがうところにあったかもしれない。」というように筆者が感じた理由として最も最適なものを次のなかから一つ選ぶ。
a 埴谷は、人間存在は根本的に善であると考えていると思ったから。
b 埴谷は、「話体」は「話体」であると言い切ることが不快なのだと感じたから。
c 埴谷は、文学の死滅も考えに入れているかも知れないと思ったから。
d 「話体」も「文学体」も筆者自身が創出した勝手な概念であることに気づいたから。

2011(平成23)年度
出典名 『詩の力』(平成21年1月 新潮文庫)より
作品名 「吉増剛造」
出題校 明治大学(東京都千代田区)情報コミュニケーション学部 一般選抜入試 国語
問題例 本文の趣旨とは明らかに異なるものを次のなかから一つ選ぶ。
1 吉増剛造という詩人は、詩作において現代詩の可能性と同時にその困難さをもあらわしている。
2 吉増剛造という詩人は、詩の言葉を通して自分の本心を読者に直接伝える手法はとっていない。
3 吉増剛造という詩人は、言葉遊びの手法を日本の和歌とヨーロッパの詩の両方から学んだ。
4 吉増剛造という詩人は、様々な言葉の切れ端をちりばめる手法をしばしば詩作に採り入れる。
5 吉増剛造という詩人は、自分の詩の意味が読者に分かるかどうかはさほど重要視していない。

出典名 『13歳は二度あるか』第1章より
作品名 「新聞を読むことには、テレビのニュースにはないよさがある」
出題校 沖縄県立高等学校 入試 国語 3月8日実施
問題例 「テレビや新聞で専門家が言っていることを、全部鵜呑みにする必要はない」とあるが、筆者は情報に接するときに大切なことは何だと言っているか、本文中から五字で抜き出す。

出典名 『13歳は二度あるか』第1章より
作品名 「「ここだけの話」ではなく、直接聞いたことや、大勢が共有している情報で判断する。」
出題校 比治山女子中学校(広島県広島市南区) 入試 選抜I 国語 1月25日実施
問題例 本文に書かれていることの説明として、適当なものを次のなかから二つ選ぶ。
ア 普通の人の知らないウラ事情は、すべて真実とはかぎらないので信用してはならない。
イ 新聞に載っている情報は確かだが、雑誌やテレビの情報は偏っている場合がある。
ウ 漱石は情報通な作家で、また人間に対する理解もとても深い人物であった。
エ 自分なりの判断をする上では、テレビよりも新聞のほうが有効な情報となる。
オ テレビは感覚に大きな影響を与えるので、何も考えない人間を作るおそれがある。
カ 専門家もテレビでは真実を述べないので、複数の情報手段で意見を確認する必要がある。

2012(平成24)年度
出典名 『詩的乾坤』(昭和49年9月 国文社刊)より
作品名 「なにに向って読むのか」
出題校 東京都立戸山高等学校(東京都新宿区) 国語 2月13日実施
問題例 「じぶんの周囲には、あまりじぶんの同類は見つからないのに、書物のなかにはたくさんの同類がみつけられるというのはなぜだろうか。」とあるが、筆者の述べている二つの違いを明確にしたうえで、自分の考えを2百字以内にまとめて書く。

出典名 『詩学叙説』(「文学界』2001年2月号)より
作品名 「詩学叙説―七・五調の喪失と日本近代詩の百年」のうち、1のうちの「内容的には小説作品とおなじような自在さと内面叙述を可能とした。」まで
出題校 東京学芸大学(東京都小金井市) 前期日程 2月25日実施
問題例 「藤村や透谷など初期の近代詩人たちが苦労したところ」とあるが、藤村の「苦労」の内実とその結果が近代詩に与えた影響を、透谷のそれと比較しつつ、三百字以内で説明する。

 なお、2012年8月18日に実施された読売新聞社の秋期採用試験の「一般常識 その1」の問49で、次のような質問をしていることがホームページに掲示されていた。

「今年3月に亡くなった吉本隆明氏は、次のどのジャンルに最も大きな影響を与えた人物でしたか。」
「1美術 2思想 3音楽 4政治 5経済」

(今回、直接問い合わせた方々には、過去の問題に採用されたかどうかも調べていただき、入試の主眼などもご教示いただきました。ここに記してお礼申しあげます。)

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吉本隆明資料拾遺(20) 埴谷雄高作品の内容見本の文について 宿沢あぐり(「猫々だより」131 2014.3)

 吉本の文が、埴谷雄高の作品集などの内容見本に採用されて収録されていることは周知のことである。
 河出書房新社から刊行された『埴谷雄高作品集』の内容見本に収められた文がなじみ深いものだ。
 一つは『文芸』1970年12月号に挟み込まれた、ネクタイ、背広姿の埴谷のポートレートを表紙にもつ全6巻別巻1の内容見本(1971年にあらためて装幀を変えてつくられている)と、その完結後に新たに増刊した全15巻別巻1の内容見本に「推薦のことば」として収められた文である。
 これは、『吉本隆明資料集 24』(2002年7月)で読むことができるが、それは次の文である。

 埴谷雄高は、戦後のかずかずの世界史的な難事件をくぐりぬけながら、ただひとり文学的に横死していない〈戦後派〉作家である。すでに死んだはずの〈戦後派〉作家が仮死状態のまま醜い漂流をつづけている喜劇的な風景のなかで、かれの作品が一条の闇のなかの道を暗示しているさまは、文学的な劇の底しれない深さと悲しさとを、あとからゆくものに与えつづけている。

 この内容が、のちの埴谷自身によって裏切られたことをわたしたちは知っているが、わたしが吉本に初めて出会ったのは、この作品集の第1巻の『死霊』の解説だった。これを読んだ以降、わたしは吉本を読むようになった。内容見本に収められた文を知ったのは、それからずっと後のことだ。
 このほかに、もう一つの内容見本に収められた文がある。この文がはじめて吉本の著書に収められたのは『読書の方法 なにを、どう読むか』(2001年11月、光文社刊)だ。

 今日、埴谷雄高は、日本の現代がうんだもっとも独創的な政治思想家として人々のまえに登場している。その政治思想に異論をもつ場合でも、日本の現代がどれだけの創造的な思想を自力でつみかさねうるのかという問題をじぶんに課するかぎり、かれの仕事を無視して、さきへすすむことはできないのである。

 これは、『埴谷雄高評論集』と表題があり、初出一覧によれば、「埴谷雄高評論集(未来社)」で、発行年は記されていない。
 この内容見本によれば、評論集は5冊であり、予約注文書では、『墓銘と影絵』6月刊『鞭と独楽』新装版7月刊、『罠と拍車』9月刊、『濠渠と風車』新装版10月刊、『垂鉛と弾機』11月刊となっている。これに付されている未来社の郵便はがきの有効期間が「昭和36年7月より昭和37年1月まで」とあることから、内容見本が1961年につくられたものであることがわかる。
 この評論集の内容見本から8年後、1969年に未来社から『埴谷雄高 評論集(既刊10冊)対話集(既刊2冊)の内容見本がつくられ、ここに「日本の現代がうんだもっとも独創的な思想家」の表題で、つぎの内容が収められている。全文そのまま掲げる。

 埴谷雄高という名は、戦後、わたしが日本の同時代文学などみむきもしなかったころから、一種の畏怖の表情で語りつたえられた伝説的存在であった。そういう表情を人から人へはこんでゆくものに、どんな作品をかいている人なの、とたずねると、かれらはまた一種名状しがたい表情をうかべ『死霊』とこたえるのであった。どんなことをかいているの、とかさねてたずねると、たれもまともにこたえず、おそろしく難解な小説なんだと、また一種の表情をうかべるのがつねであった。
 おおよそ文学作品が難解というのには、ふたつの意味がこめられている。ひとつは、作者の思想が難解であることであり、もうひとつは、作品に系譜がなく独在していることである。埴谷雄高の作品は、この難解の条件をふたつながら具えているということができる。さいわい、作者の思想の難解さのほうは、評論集『鞭と独楽』、『濠渠と風車』、政治評論『幻視のなかの政治』などがかかれたことでだいぶ解消された。今日、埴谷雄高は、日本の現代がうんだもっとも独創的な政治思想家として人々のまえに登場している。その政治思想に異論をもつばあいでも、日本の現代がどれだけの独創的な思想を自力でつみかさねうるのかという問題をじぶんに課すかぎり、かれの仕事を無視してさきへすすむことはできないのである。


 『虚空』は、現代思潮社から1960年11月に、「吉本隆明の慫慂によって出され」(埴谷の「あとがき」より)、『自立の思想的拠点』(1966年10月、徳間書店刊)にこの「解説」が収録された際に、表題が「『虚空』について」とあらためられた。
 これですでにわかるとおもうが、『埴谷雄高評論集』の内容見本に収められた文は、『虚空』の解説の冒頭からの部分再録であるということだ。
 『読書の方法 なにを、どう読むか』に収録された文は、残念ながら、内容見本のために新たに書き下ろされたものではなく再録の文である。

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『「反原発」異論』をめぐって 松岡祥男(「猫々だより」140 2015.2)

 吉本隆明『「反原発」異論』(論争社)を読んで、その刊行の意義はじゅうぶん認める。けれど同時に、なんか嫌な感じもした。
 副島隆彦の「序文」は、「反原発」を〈正義〉と錯覚する倫理的反動を真っ向から批判している。しかし、原発(福島第一原発事故)を〈踏み絵〉にしている点では、「反原発」を主張する人たちと同じだ。わたしは、それに反対である。あの東日本大震災と福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人々のことをおもうと、とうてい副島のように言えないと思うし、また〈事態〉に対して無力だからだ。こういうことは〈面々の御はからい〉がほんとうなのではないのか。
 たとえば、遠藤ミチロウは福島県の出身で、震災以降は、救援のコンサートを企画したりしている。彼が仮に「反原発」の立場にあったとしても、それは当然だとおもう。そうだったとしても、彼は吉本隆明を尊重する気持ちを少しも失っていないことは、先のNHKの番組(「戦後史証言プロジェクト 吉本隆明」)をみても明らかだ。吉本隆明が存命だったら、遠藤ミチロウの活動を励ますことは疑いない。
 「原子力」に対する基本的な認識と「原発事故」とは微妙に位相が違うし、その全体の構造は多岐に渡っている。それを是か非かの一点に集約して〈踏み絵〉にすることはできないはずだ。
 原発の事故に〈責任〉があるのは、誰がなんと言おうと〈政府〉と〈電力会社〉であり、地域住民はそれに対して、どんな立場をとろうと〈自由〉なのだ。そして、原発の設置や再稼動は周辺住民の〈直接投票〉で決すべきだと、わたしはかんがえる。そんなことは、今の状況では実行されることはないとしても、それが国家を開くということだ。
 それに、この大将(副島)はご立派なことに、「弟子」を従えているとのことだ。吉本隆明は「弟子」など一人も持たなかった。むろん、わたしなどそういう器量は初めから持ち合わせていない。

 「それでも原子力の研究を続けねばならない」と吉本が書き続けたので、吉本隆明の熱心な読者及び吉本主義者だったものたちまでが、吉本のこの考えに距離を置いていった。その代表は糸井重里氏と坂本龍一氏だと私は考える.
                 (副島隆彦「悲劇の革命家 吉本隆明の最後の闘い」)

 「それでも原子力の研究を続けなければならない」というのは、揺るぎない〈基礎〉的な科学的真理である.
 しかし、どうして、吉本思想の「背教者」として糸井重里を挙げるのか。わたしはこの発言に強い違和感を覚えた。
 糸井重里は、評論家でも思想家でもない.吉本隆明との関係でいえば、年齢の離れた友人みたいなものである。遠くからみていても、糸井重里は昭和女子大学人見記念講堂での「芸術言語論」という大規模な講演会の開催や、『五十度の講演』を刊行して、晩年の吉本隆明を応援してきた。多少やりすぎに見えたことはあるけど、〈善意〉の人というべきだ。その糸井重里をここで槍玉に挙げるのは、絶対に不当である。
 また、坂本龍一は音楽家で、もともとお坊ちゃん育ちの、極楽トンボなのだ。いまさら取り立てていうほどの存在ではない。どうしてもそういう人物を挙げろと言われたら、わたしなら芹沢俊介などを挙げるだろう。
 そもそも、誰が吉本隆明(その思想)と〈距離〉を置こうと、〈背反〉しようと、その人の勝手であり、そんなことは、本質的にどうでもいいことである。なぜなら、じぶんにとって、吉本隆明がどんなに重要な〈存在〉であるかが問題なのだから.
 そういう点で、副島の「吉本隆明は、敗北し続けた日本の民衆の、民衆革命の敗北を一身に引き受けて死んでいった悲劇の革命家だ」という総括に全面的に同意するとしても、その発想は党派的思考でしかない。それは政治から宗教にまでまたがる、あらゆる宗派思想の止揚をめざしてきた吉本隆明の全営為に〈逆立ち〉するものだ。それら全部を「吉本主義者」という倒錯の言葉が表象しているといっていい。
 だいたい、この本の編者も含めて、六〇年安保闘争、「反核」運動、オウム真理教事件、福島第一原発事故というふうに、象徴的なことがらを捉えて、「悲劇の革命家」といっているけど、わたしはそういうところだけで言うのは〈一面的〉だとおもう。
 吉本隆明が真に〈革命的〉な思想家であったのは、言語表現論や共同幻想論や心的現象論をめぐる〈体系的構築〉は言うまでもなく、晩年の負けると決まっている〈老い〉との闘いを最後まで止めることなく身をもって〈開示〉しつづけたことをはじめ、オウム真理教事件のことを言うなら、同時期の阪神大震災に対する的確な〈分析〉なども抜かすことはできないはずだ。そういう〈切実な課題〉に真向かいつづけたところにある。
 もちろん、ろくに読みもしないで、出鱈目なことを言いふらしたり、じぶんの限界を棚上げし、世論の動向に迎合して、吉本隆明を中傷する輩はごまんといる。だから、姜尚中みたいな連中と〈闘い〉は終わることはないのだ。

 この『「反原発」異論』に収録されているものと、「編者あとがき」で紹介されているもののほかにも、大阪で行われた「ハイ・イメージ論199X」(1993年)の講演の後の質疑応答がある。
 吉本隆明は、明確に〈敵〉(わたしにそう語った。その党派性を否定していたからだ)と位置付けたうえで、「デス・マッチをやってもいいんだぜ」というふれこみのもと、いつもそうであるように〈単独〉で臨んだのである。
 吉本隆明はどんな場合でも、講演会の主役はそこに集った〈聴衆の一人ひとり〉であるという原則を持っていたからだ。
 そして、次のように質問に答えている。

 それから核エネルギーのことですが、これはなかなか確定的な論議がしにくくて、僕も確信を持っていえないけれど、エネルギー産業だけでなく学問も技術も実際の工業も、一般的に科学技術的なものは全部、少ない費用で多くのエネルギーを得られるもの、より安全でより精度の高いものを科学技術が生み出せば、今まであった産業は衰退してしまう。これが自然科学や技術の趨勢というか、一般てきなあり方だと思うのです。だから原子力エネルギーよりも効率的で公害が出なくて、あらゆる面でこれより良いエネルギーの取りかたが可能になれば、原子力発電というものはひとりでに衰退して行くだろうと思います。仮にいくら核エネルギーに固執しようとしても、より経済的でより安全なやりかたが生まれてくれば、原子力発電みたいなものは直ちに衰退に向かうだろうと思っています。

 だから核エネルギー肯定論者でもなんでもないですけれど、科学技術というのはもっといいものを必ず生み出します。蒸気機関車から段々進んできましたし、石炭から石油になったようにエネルギー問題も段階が進んできました。必ずいいものはできますから、ある期間だけ日本は40%使う、フランスは99%使ってるというふうになってますけど、それは危険でもありますけれど、技術者がものすごく気をつけて、反対する人がその情報をよく疎通させて、少し危ないとすぐ指摘できるようなシステムを作っておけば、ある程度はそれでやれるし、止むを得ないこともあるんじゃないかと思いますから。
 僕は核エネルギーに対してやみくもに反対していないことは確かです。そういうこといつでも怒られています。「あいつはけしからん」といつも怒られています。危険なことをわざわざやらせるわけでもないし、やらせる立場でもない。僕が云って別に何が変わるわけでもないですけれど、自分の経験と考えではこういうことです。

                 (吉本隆明「ハイ・イメージ論199X」質疑応答)

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このボケー、違うだろー 松岡祥男(「猫々だより」166 2017.9)

 瀬尾育生が『吉本隆明著作アンソロジー 第一分冊 1949-1969』という未刊本の解説を『ライデン(雷電)』第一一号に発表している。
 それを読んでいて、思わず自民党の豊田議員みたいに「このボケー、違うだろー」と叫びそうになった。

 この雑誌(引用者註―『試行』)はいくつかの書店店頭での販売とともに、売り上げの半数ほどを 定期購読者によっており、寄稿者は定期購読者であることを条件としていた。
                 (瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」)

 吉本隆明は《寄稿者は定期購読者であることを条件》とするなどと、どこにも書いていないし、そんなことは一度も言っていない。
 わたしは「『試行』全目次・後記」(『吉本隆明資料集』第二八集)を作った。その実質にかけて、これは断言できる。
 よくも、こんな出鱈目なことを書けるものだ。
 じぶんの経験からいっても、読者からの〈寄稿〉はほんとうにうれしいものだ。
 吉本隆明もおそらく、『試行』の読者が執筆者に転位することを〈理想〉として思い描いていただろう。しかし、それを《条件》とすることとは全く違うことだ。考え違いも甚だしいのである。
 これは決して揚げ足取りではない。吉本隆明の思想的態度の〈根柢〉にかかわるからだ。
 『試行』の執筆者、五十音順にいって青木純一から渡辺則夫に至る、総勢一〇八名(もしくは一〇七名)全員が「定期購読者」であったとは考えられない。
 中には、知人から薦められて投稿した人もいただろうし、偶然『試行』を知り、吉本隆明主宰の雑誌とわかり、原稿を送った人もあったかもしれない。それに、仲倉重郎のように映画作品(「きつね」)を寄せた人もいるのだ。また店頭購読者は、発行者の側からその存在を実際に知ることは不可能だ。
 吉本隆明の採否の〈基準〉は、はっきりしている。
 ひとつは、所定の水準に達していること。
 もうひとつは、それぞれの切実な課題に対して求心的であること。
 この二点と言っていいとおもう。その他に考慮すべき、どんな《条件》も設けないことが『試行』の自立性だったのである。
『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
 それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者が分からない場合もあった。
 たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の事務を担当された吉本和子さんに問い合せた。そうしたら、「沢清兵は内村剛介さんのペンネームです」という返事をいただいた(内村剛介本人はインタビューで別人としているらしいが……。言うまでもなく内村剛介は「政治犯」として長い間ソビエトに拘留された。帰国後も、その方面の追跡や監視は続いていたことは想像に難くない。また、日本のその筋からも要注意人物扱いだったろう。訪ねるたびに、内村家の表札の名字が変わっていたという話もあるくらいだ)。
 『試行』に寄稿した書き手のなかで、もっとも大ヒット作を出したのは片山恭一だとおもう。そう、あの『世界の中心で、愛をさけぶ』である。彼は『試行』第六七号に「猶予される時間」という批評文を寄稿している。しかし、その一文を読むと、その当時のポスト・モダンの思潮を踏まえ、じぶんに引き寄せたものだ。『試行』のもつ独自の〈志向性〉に重きを置いているようにはみえない。
 それは「子供たちのカフカ」を発表した吉野二郎なども同じだ。
 さらに言えば、川浪磐根の「山童記」は遺稿である。川浪磐根は歌人で、一九六九年に八六歳で亡くなっている。明治一六年生まれの年齢と経歴からして、生前「定期購読者」であったとは思えない。
 瀬尾育生は、じぶんで確かめもしないで、いい加減なことを書くべきでない。
 だいたい、『吉本隆明全集』(晶文社)が刊行中というのに、なにが「アンソロジー」だ。
 しかも、この「解題」をみると、吉本隆明の基礎的著作である『言語にとって美とはなにか』も『心的現象論序説』も『共同幻想論』も〈部分的抜粋〉ということになっている。これには仰天した。
 瀬尾育生も、これに加担したらしい加藤典洋も、おのれも〈著作家〉なのに、恥ずかしくないのか。じぶんが心血を注いだ〈体系的著作〉が抜粋という扱いを受けても、なんとも思わないのか。
 もっと言えば、インターネット時代にあって、もし吉本隆明のいわゆる三部作を読みたいと思えば、古本とはいえ安価な文庫本で、完全な形の本を容易に入手できるのだ。それなのに、なにが「セレクション」だ。
 ここから、瀬尾育生の言説にもう一歩踏み込んでみる。

 いわゆる花田・吉本論争のドキュメントは収録しなかった。吉本は生涯、闘争的な言論のなかで自 らの思想を構築していった思想家だが、それらの問題のなかにはほかならぬ吉本の議論そのものに よって問題の次元自体がすでに歴史的に消滅してしまった部分があり、またこれらの論争的な文章 について、その一方のものだけを収録することは無意味に近いからだ。
                   (瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」)

 こんなことをいうなら、べつに「アンソロジー」なんか作る必要はどこにもないではないか。すべて過ぎた時代の残骸ということになるからだ。
 こんな事後的な形式論理でいけば、その時代を生きた人の営為の、〈意味〉と〈価値〉は無化されてしまう。その生きている時代情況というのは、誰もがある面では必死で、暗中模索の真っ最中にあるのではないのか。そうやって人は生き、そして生涯を終えるのではないのか。むろん、起きて半畳、寝て壹畳だって同じである。
 花田清輝という存在は個人であっても、あの論争の中の「花田清輝」はひとつの〈象徴的存在〉なのだ。その背後には、若い同調者から「新日本文学」のメンバー、日本共産党までが組織的に連なっていた。一方、吉本隆明は生き残ってしまった戦中世代の陥没性を背負って、それに立ち向かったのである。その総体的な情況のうちに、あの論争はあったのだ。《その一方のものだけを収録することは無意味に近い》だって、個人的な酒場の口論ではないのだ。馬鹿も休み休み言うがいい。瀬尾は添田馨の『吉本隆明―論争のクロニクル』を「公平」などと評価している。しかし、いまの世の中に「公平」なんてものはありはしない。〈主観性〉と〈客観性〉があるだけだ。
 瀬尾兄よ、思い出してみるがいい。東大安田講堂決戦の時、じぶんはどこにいて、何を考えていたかを。またドイツ語の教師として大学に職を得ようとした時のじぶんの思いを。そんなことをお前なんぞに言われる筋合いはないということになるだろうが、神山睦美とのケンカで、喫茶店めぐりについて書いた瀬尾育生には〈ハート〉があった。あのときの瀬尾育生は、こんなつまらないことをいう人物ではなかったと、わたしは思っている。
 それは、この「解題」全体についても言えることだ。『雷電』A5判二段組二〇頁も費やして、概括的な位置から陳腐な要約的な文章がくだくだと綴られている。それがあたかも確定的な評価であるかのように。瀬尾育生は、ここで完全に旧来の啓蒙的思考に転落しているのだ。
 そして、最後に決定的なことをいえば、わたし(たち)はこんな「アンソロジー」を必要としない。じぶんで考えながら、『吉本隆明全集』を読めばいいのである。これに優るものはない。

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ふざけるな! 松岡祥男(「猫々だより」187 2019.10)

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 わたしにもひそかな戒律があって、リトルマガジンに寄稿するばあいは、そこに発表されたものを直接的に批判しないことにしている。つまり、同じ雑誌上の誰彼の発言を名指しで叩くことはひかえるようにしてきた。それをやれば誌上が批判の応酬の場に転化し、発行者に迷惑が及びかねないからだ。
 たとえば友常勉という大学教員がいる。その言説を読むとおよそ論文とは言えない、生煮えの論議とひどい曲解で貫かれている。よくもこんな不毛なことを飽きもせず繰り返しているものだ。こんなことを百年続けても対象の本質に到達することはないだろう。はじめから発想が卑俗で、イデオロギー的利害に結びついているからだ。もし友常勉がほんとうに部落解放を希求するなら、真っ先に部落解放同盟の言論抑圧や糾弾闘争の錯誤を批判すべきなのだ。部落解放とは被差別部落の〈消滅〉を志向することであり、それを実現するためには、なによりもみずからの党派性を止揚することだ。
 それを黒田喜夫にからめていえば、黒田喜夫は1967年、新左翼諸党派、全学連各派によるいわゆる羽田闘争に際し、連帯と擁護の声明を岩田宏他数十名とともに発表している。これについては、その当時月村敏行が痛烈に批判した。なにが問題かといえば、声明を発することが連帯になると思っていることだ。
 吉本隆明は六〇年安保闘争において、みずから品川駅の座り込みに加わり、6月15日の国会投[ママ、突=吉田注]入では行動を共にし逮捕されている。また鎌倉諄誠は1969年11月25日国際反戦デーの新宿騒乱の渦中、機動隊と衝突し、瀕死の重傷を負っている。もちろん、病身の黒田に同じように闘争に参加することを求めているのではない。羽田闘争を擁護し、連帯するなら、声明など出すより、みずからの詩や批評によって、それを表現すべきなのだ。闘っているものは声援など欲してはいない。それぞれがおのれの闘いを続けることを望んでいるのだ。
 それを端的に現した例を挙げれば、吉本隆明は東大全共闘の闘いに対して、「情況」という連載の「収拾の論理」において、東大教授である丸山真男や総長の加藤一郎の思想と態度を徹底的に批判した。これが連帯ということであり、根底的擁護なのだ。そして、支援するなら、カンパなど具体的な支援が有効であることは言うをまたない。
 むろん、大衆的存在は世界総体との関連において、それ自体として生活している。そのことが不動の前提なのだ。それを欠く思想はいかに急進的であろうと、間口が広いように構えていても、いつでも豹変する可能性を持っているといえる。黒田喜夫の詩と思想の欠陥を挙げるとすれば、いつも対立的で、敵対意識が先行している。しかし、支配と被支配の経済的基盤のなかにはかならず〈空隙〉がはらまれている。それを服従とみなすのはは平板な発想にすぎない。この中間性こそ歴史の無意識の中心に位置するものだ。
 わたしが若い頃働いていた、市の清掃部門(主にゴミと屎尿の収集作業)は多くの被差別部落出身者で占められていた。彼等は差別と偏見に屈することなく、安定した職と収入を得て、しだいに社会の中間層に移行していった。これは喜ぶべきことなのだ。それに対して、被差別の歴史と屈辱の体験を忘れるな、解放運動の列に加われなどと説くことは倒錯である。むしろ、わたしのような非力で堪え性のないものは、まだどこかに余地があるかもしれないとおもい、職を転々とする、落伍者だった。同じ釜の飯を食った仲間のひとりとして、わたしは彼等の姿を羨望することはあっても、否定したことは一度もない。
 スターリン主義の組織論の欠陥ははっきりしている。労働者大衆を組織するということは、それを囲い込むのではなく、自立をうながすことだ。また民衆の貧困を基盤にするのではなく、そこからの解放の方途を切り開くことだ。つまり、つねに大衆の命運を第一義にする、これが鉄則である。アメリカ・ロシア・中国といった大国を中心にして、国家間の軋轢や対立は深刻化し、地域紛争とテロが絶え間なく繰り返され、国際的情勢は悪化の一途をたどっている。また国内的にいえば制度的管理と日常的な監視が徹底化されつつある。それらにともなって、人心の荒廃も進行しているのだ。これを〈中央突破〉することが思想の存在意義ではないのか。
 友常勉は「〈目の畏怖〉」(「脈』第102号)という一文において、国会の門扉にバイクで突撃した死者を讃えている。それは〈敗北〉のすすめでしかない。なぜなら、客観的にみればそれは自殺者の一人にすぎないからだ。また権力の側からすれば、反抗的で厄介な存在が減ったことを意味するだけだ。わたしたちは国家の支配と収奪に対して、ねばり強く抵抗し、生きつづけることだ。それでも〈憤死〉を遂げることも、不可避に〈破局〉を迎えることもあるだろう。それが黒田の「階級の底はふかく死者の民衆は数えきれない」ということなのだ。国家の本質は共同幻想である。そして、自己幻想と共同幻想は逆立ちする。この『共同幻想論』の不滅のテーゼを想起するなら、いかなる死の抗議も、残念ながら権力否定に直通しない。もし吉本隆明では気にいらないというなら、「死は、個人に対する類の冷酷な勝利のようにみえ、またそれらの統一に矛盾するようにみえる。しかし特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、そのようなものとして死ぬべきである」(カール・マルクス)と言い換えてもいい。そこからいえば、友常勉の言説は味方のような顔をした〈敵〉のものでしかない。なにが「〈狂気〉の正体」だ。なにが「畏怖を込めて想像する」だ。ふざけるな。

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   成田昭男 様

 『VAN』第31号(終刊号)をご恵贈くださり、ありがとうございました。
 その中の「資料 「「沢清兵」氏は「内村剛介ではないと思う」(松岡祥男氏への手紙)」にお答えいたします。

 陶山幾朗氏の手紙は届いております。
 わたしは原則として、〈公表された文章〉に対する批判や異論等は〈公然〉となされるべきだと考えております。私信によるやりとりは余計な混乱を招く惧れもあり、また悪くすれば私怨を生む場合もあると考えます。
 わたしがこの原則を形成したのは、若月克昌さんが「菊谷まつり」(1986年)に関する感想を『同行衆通信』に発表したのに対して、北川透氏より不可解にもわたし宛に、反論の手紙が寄せられた時からです。その扱いには苦慮しましたし、その後の敵対の原因ともなりました。
 わたしはこの経験をもとに、この原則を確立したのです。

 陶山幾朗氏については、「SECT6」からの活動家であることは知っておりました。また『あんかるわ』誌上の連載も読んでおりました。そして、いただいたお手紙のご指摘も参考になりました。ご指摘をうけ、わたしはその当時の吉本隆明さんならびに吉本和子さんからの手紙を取り出し、確認作業を行いました。
 それにもとづいて、じぶんの文章を訂正しました。それは近刊の『吉本隆明さんの笑顔』という冊子に収録予定です。もちろん、冊子ができましたら、陶山幾朗氏にも送るつもりをしておりました。
 わたしにとっても、陶山幾朗氏の訃報は突然でした。
 ご冥福をお祈りいたします。

 以下に、わたしの「訂正」を提示します。

 『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
 それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者がわからない場合もあった。
 例えば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の事務を担当された吉本和子さんに問い合わせた。そうしたら、(沢清兵は内村剛介さんのペンネームです。」という返事をいただいた。
       (松岡祥男「このボケー、違うだろうー」『猫々だより』第166号)
【訂正個所】
 たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の編集・発行者である吉本さんに問い合わせた。そうしたら、事務を担当された吉本和子さんから「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」という返事をいただいた。
                  (松岡祥男『吉本隆明さんの笑顔』)

 わたしの「訂正」の理由は明瞭で、陶山氏が《これはやはり吉本夫人によるなんらかの思い違いか、誤解の類ではないかと推測する》と書いていたからです。わたしの記憶による誤った記述によって、吉本和子さんにご迷惑が及んだのです。吉本和子さんは「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」(吉本和子「松岡祥男宛はがき」2003年4月16日消印)と書かれていました。つまり、わたしは吉本隆明さんに問い合わせており、吉本隆明さんのご返答を和子さんがわたしに伝えてくれたのです。陶山氏のいう、「吉本夫人」の「思い違い」あるいは「誤解」とうのは、わたしの文章の間違いから発生したものです。その点において、陶山氏のお手紙はとてもありがたいものでした。

 申すまでもなく、わたしは「沢清兵=内村剛介」説を主張しているわけではありません。わたしは内村剛介の『生き急ぐ』『流亡と自存』『石原吉郎』などを読んでいますが、内村剛介の良き読者とは言い難く、「沢清兵=内村剛介」説を唱える謂れを持ちません。わたしは『試行』の復刻版を自家発行する過程でこういうことがありましたと言っているだけです。
 陶山幾朗氏はもしかすると、内村剛介に関するわたしの発言を放置することは沽券に関わると思われたのかもしれませんが、それは勘違いでしかありません。まして、陶山氏の〈推論〉と〈蘊蓄〉に応答することは不可能で、その必要もはじめから無いのです。
 そのうえであえていえば、沢清兵「褪色」を『試行』に掲載した吉本隆明さんの証言ですから信憑性は高いと、いまでも思っております。

 なお、わたしは故人の明確な意思でもないのに「松岡祥男宛書簡」を、自分の判断で公表した〈貴方の行為〉を断じて認めません。
 本来、書簡(私信)は〈発信者〉と〈受信者〉に帰属するものです。どんな経緯があったにせよ、貴方は〈第三者〉です。この『VAN』誌上での公開は〈不当な越権行為〉であり、貴方の〈わたしに対する挑発〉であることは明らかです。
 一個の著作家として、わたしはこれを決して看過しません。

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寄稿(抄)@「猫々だより」  ファイル作成:2009.02.01 最終更新日:2019.10.30