猫々堂(高知市)から『吉本隆明資料集』A5判(各冊約90頁直接頒布1000円、約200頁の第28集は2000円、第29〜34集1200円、第35集〜1250円、40集のみ1300円)が第41集まで刊行済み。引き続き42集より「初出・補遺篇」刊行中。
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目 次
ニャンニャン裏通り(1)松岡祥男(「猫々だより」57 2006.11)
ニャンニャン裏通り(2)松岡祥男(「猫々だより」58 2006.12)
ニャンニャン裏通り(3)松岡祥男(「猫々だより」59 2007.1)
ニャンニャン裏通り(4)松岡祥男(「猫々だより」61 2007.4)
ニャンニャン裏通り(5)松岡祥男(「猫々だより」62 2007.5)
ニャンニャン裏通り(6)松岡祥男(「猫々だより」63 2007.6)
ニャンニャン裏通り(7)松岡祥男(「猫々だより」64 2007.7)
ニャンニャン裏通り(8)松岡祥男(「猫々だより」65 2007.8)
ニャンニャン裏通り(9)松岡祥男(「猫々だより」67 2007.11)

ニャンニャン裏通り(1)松岡祥男(「猫々だより」57 2006.11)

 さて、どこから始めませうか。
 なんだ、お前。いきなり出てきて。こんな時は、ちゃんと挨拶するものだ。
 うん。おれは猫々堂として『吉本隆明資料集』を自家発行していて、その付録の「猫々だより」でじぶんが発言すると、混乱を招くんじゃないかと思って自粛していたんだ。それに、編集人や発行者ってのは、黒子に徹するべきだと考えていた。その考えは今もあるんだけど、ところが『詩の雑誌ミッドナイトプレス』が休刊になり、全く発言の場所がなくなってしまった。どうしようと思っていたところへ、吉本さんがインタビューに答えて、「日本の一般の民衆っていうのは」「遠慮深い人種」で「遠慮っていうのは日本人の一番の悪徳」だと云っているのを読んで、ああ、おれも日本人の「美徳」の鑑してるなと思った。そこで、ここら辺で一発出張ってみようと思ったんだ。
 何をやったって、何を云ったって、いいさ。我慢、遠慮、自粛、それが忍従の因襲なのさ。
 そうなんだけど、モチーフってあるじゃん。たとえば、瀬尾育生と北川透が「無断転載」だって、抗議文を出した時だって、おれは必要最小限度のことしか云わなかった。なぜなら、こんなセコイ連中を叩き伏せることよりも、本来の目的の方が優先したからだよ。
 それより「猫々堂」って、なんと読むんだ。
 それか。「猫々堂御中」なんてあると、郵便配達の奴、もろに笑うからね。「ニャンニャン堂」とか「びょうびょう堂」とか言われることもあるね。こちらのつもりとしては、「ねこねこ堂」なんだけどね。別になんと呼んでもらってもいいよ。確かに「遠慮」して黙っていると、それが容認されているものと思い込んで、ますます図に乗って、のさばるからね。
 小泉からイチローまで、どうしようもねえからな。政権の期間で、小泉が冴えていたのは、始めの頃、北朝鮮の金将軍様のボンボンが密入国した時に、話が面倒になる前にさっさと送還した。あれはヒットだった。拉致被害者を帰さない北朝鮮と大違いだろ。それと最後の靖国参拝だ。靖国に参拝しようがしまいが、勝手だ。中国も韓国もいつまでもガタガタ言うことじゃない。A級だろうがB級だろうが関係ないさ。互いに国家の政治利害に依拠するかぎりはな。
 そんなことなら、反対からいくらでも言えるよ。北朝鮮がミサイルの打ち上げ実験を強行したからって、大騒ぎするようなことじゃないよ。日本だって、種子島から偵察衛星を打ち上げているからね。変わりはしないよ。あれは軍事目的じゃないなんていう弁明に、騙される者はお人好しというよりも、経験から学ばない人だと思う。あれはいつでも転用できるものだからね。
 それじゃ、北朝鮮の核実験はどうなんだ。
 経済制裁をはじめとする「外圧」に鬱屈しているだろうから、国内は高揚していると思うね。しかし、本質的にいえば、核保有は民衆への政治的抑圧の強化だよ。ただでさえ貧困にあえいでいるというのに。狭い国土で放射能漏れがあれば、住民大衆がいちばん被害を受けるのは必定だからね。筒井康隆の『アフリカの爆弾』なみに、孤立と自滅の過程にますますはまりこんでいるのさ。一方、国連で国際的包囲網に躍起になっているアメリカなんか自国の核については触れもしない。だいいち、核を実際に戦争で使用したのはアメリカだけだろう。そのことについての反省なんか皆無だからね。日本も被爆してんだから当然、独自の立場からの批判をやるべきなのに、アメリカや国連の動向に同調することしか考えていない。靖国だって同じだよ。国家が戦争に国民を動員(徴兵)すること自体が〈政治暴力〉だという立場からすれば、核実験に反対なように、靖国神社だって無くなることが理想だよ。
 まあ、小泉のやったことで、やるなと思ったのは、その二つくらいだな。アメリカ・ブッシュ追従から経済政策まで、ろくなことはやらなかった。郵便局の民営化なんか、別に政治的にゴリ押ししなくても、時代の趨勢よ。だって、宅配業者のサービスの向上の前に、官製の郵便局じゃ太刀打ちできるはずが無くなってきてたんだ。それを行政的な規制で防護してただけなんだ。
 それだと、小泉の郵政民営化賛成じゃないか。
 そうだ。でも、それが最優先課題ではないだろうってのが、批判の起点さ。族的議員が利権にしがみつこうが、郵政官僚が保身を画策しようが、一般利用者の判断が決定するからね。だから、早いか遅いかの違いだけだ。小泉の構造改革によって、泣いたのは一般大衆だ。全国の有効求人率が1・0に回復したというのに、高知県は0・6だ。数値上もそうだが、わしの住まいは県の中央官庁があるところから2キロくらい西にあるんだが、家から少し歩くと、電車通りに出る。上町5丁目という通りだ。昔はその通りを南へ歩くと、玉水町という元遊廓街があって、吉行淳之介の小説にも出てくるくらいだから賑わっていたらしい。わしが越してきた当時は、もう玉水町は寂れていたが、電車通りの商店は活気があった。ところが、先日、通りの南側から北の通りを見たら、愕然とした。軒並み店をたたみ、その区画十五軒で営業しているのは、スーパーマーケットとホカ弁屋と風前の灯火という感じの不動産屋と自然食品屋くらいだ。あとは全部アウト。これが小泉の構造改革の爪痕だ。
 米軍の高知空襲に匹敵するかもしれないね。空爆の被災だと、命があれば再び復興する余地も意欲もあったと思う。しかし、現状はそうじゃない。人心は完全に疲弊している。トヨタを筆頭に大資本が労働者の犠牲の上で儲けているだけじゃないか。おれの田舎なんかもっと悲惨だ。超過疎のうえに高齢化に飲み込まれて、朽ちた廃屋を草木が覆い鳥や獣の楽園になりつつある。どうしようもない町は、おれの生家の向かいの南西の山の頂上を切り拓いて、「自然まるごと360度」をキャッチ・フレーズに「ゆとりすとパーク」という有料の公園みたいなものを造った。ハーブ園なんか併設したり、風車を建てて夜間はライトアップしたり。おまけに予算を投入して、国道からそこへの完全二車線の道路までつけた。これには仰天した。そんなものが、おれの郷里に出来るなんて夢にも思ったことはなかったからだ。でも、これといった魅力に乏しく、地元の者でも一度行けば十分という感じだからね。それで、あえなく閉鎖、借財だけ残して原野に戻ったなんて、へたな博打を打ったことにならないよう祈るよ。
 座して終末を待つよりいいぜ。しかし、それは小泉とは関係ないだろう。
 そうだけど、中山間地の廃亡に関しても、なんの救治策もなさない、というよりそんなもの、もともと眼中に無いんだ。それでアメリカ・ブッシュ政権のイラク侵略戦争の後押しさ。もっと身近なことでいえばビール一つとったって、やってることはひでえだろ。サラリーマン川柳に、本物のビール買えば妻激怒みたいなのがあったけど、発泡酒に、第三のビールという具合に、味は落ちても安いので我慢するしかないというのに、政府はそれに対して、次々と酒税をふっかける。完全ないじめだよ。国よりはビール・メーカーの方がずっとマシだ。新製品を開発して努力と競争をやめないからね。
 ビールは、やっぱり夏の湯上りの一杯だな。
 おれんとこは、キリン「ラガー」たまに「エビス」だったのが、キリン「淡麗」から発泡酒に切り替えた。それからサッポロ「ブロイ」、サントリー「純生」、アサヒ「ゴールド」ときて、第三のビールにしたけど、あまりにもまずいんで、また発泡酒にした。いまは「円熟」だ。
 お前のビールの嗜好なんか聞いてもしょうがねえがな。イチローだが、野球のたかが国際交流試合くらいで熱くなりやがって、韓国に予選で負けた時なんか、まるで旧帝国陸軍伍長並の態度と発言で、貧しいアジア的心性を露呈した。まあ、むこう(大リーグ)で苦労してるんだろうがな。
 最近笑ったのは柄谷行人の『世界共和国へ』だ。この知的官僚は行くところまで行ったという感じがしたね。バカだね。地球は丸い仲良くといった方が早いんじゃねえの。柄谷なんかに世界がリードできるはずがない。大衆としての自己の外部も内部も視野にありはしないからね。せいぜい大学インテリの一部を操ることぐらいさ。それよりは中沢新一らの『憲法第九条を世界遺産に』という方が、遥かに的確な状況認識に根ざしているし、戦略的センスもあるよ。タイトルのところだけで判断してもね。
 地球か、ま、地球を一つの生態として考えると、地下にマントルやプレートの動きがあり、地上にも山脈や大洋のうねりがある。その地表で、人間はちっぽけで切実な利害に血道を上げてるってことになる。視野が狭窄してきたら、そんな風に思うことも悪くはないな。(「猫々だより」57 2006.11)

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ニャンニャン裏通り(2)松岡祥男(「猫々だより」58 2006.12)

 先日、本屋で『丸山真男回顧談』という本を覗いたら、「悪いけど吉本隆明など愛読して」書くとみんな「評論」になるという意味のことを言ってた。なにが「悪いけど」なのかは知らないが、このおやじ、無条件に「評論」よりも「論文」の方が上等で、「評論家」よりも「学者」が偉いと思ってたんだ。勘違いもはなはだしいよ。学生運動がいにしえの物語となり、表立った波乱もなくなって久しいから、またぞろ、安逸な処に全体が収まってしまっている。橋爪大三郎なんかがその典型だ。その昔、演劇かなんかをやってはしゃいでいた自分よりも、大学教授の椅子に収まった今日の自分を偉くなったと本気で思ってやがるんだ。そこで何をやるかが、ほんとの勝負処だとしても。
 大学?無知無学のお前には、そんなの、雲の上のことだろ。どうだって、いいじゃねえか。そうりゃな、丸山真男が吉本隆明の「評論」なんか足元にも及ばない、立派な「論文」を物すればいいだけだ。ところが、お前の言うように、六〇年以降、社会的地位にもたれかかり、くだらねえことしか言わなかったし、やりもしなかった。また、丸山をもちあげたい奴は、滝村隆一なら滝村の丸山批判をちゃんと正面にすえて、その上で再評価やればいいんだよ。前の職場で頭の良いねえちゃんが働いていて、「大学では何を勉強してたの?」って聞いたら、河合隼雄系統のユング心理学だというんだ。それでどうして続けなかったのというと、「お金が続かなかったから」というんだ。その時わしは、何も知らないから、学問に金なんか関係ないだろ、本人の意欲の問題と思った。だが、実際はどうも違うらしい。「学者」や「研究者」になりおおせるには、金があり、生活が安定していなければ無理、そういう世界なんだって、だんだん判るようになった。結局、丸山真男なんかがご大層に「学者様なんだぞ」って、威張ったって、そんなもの、特権的な自己満足にすぎない。だいたい「思想の科学」一派はそんなのばかりだ。鶴見俊輔は例外的なのかも知れないが。まあ、大学も再編で安穏とはいかなくなってるだろうがな、どっちにしろお前は、都合の悪いことには頬被りするのが気に入らないだけだろ。
 しかし、そんなところから始まって、どんどん嘘化してるだろ。高校が事実上、大学の予備校で、必修科目を教えてなかったなんてのは、公然のことだろう。それをいまさら大騒ぎしているし、それを理由に自殺する校長まででる始末だ。高知県でも私立高校が必修をすっ飛ばしてて、なんだかんだ言っているが、そんなの現場ではみんな知ってたはずだ。それで、「過去三〇年間、履修科目については県に報告してきた」とはっきり言ったのは一校だけだ。あとは「申し訳ありません」「生徒に負担のかからないようにします」というだけで、実態を覆い隠した言い逃れ大会でしかないよ。ウチは進学校を売り物に商売している、だから進学率を上げ、競争に勝つには受験に必要のない文部科学省の指導通りやっていたんじゃ、とうてい成り立たない。高校教育なんてものには、いまや独自の位相は無いんだ。そうはっきり言えばいいじゃないか。お上のご機嫌伺い、世間体ばっかり取り繕いやがって。
 たしかに、なんかよって集まってカマトトごっこしてるな。自殺なんてあんまりだぜ。死んだら終わりなんだ。死んだって、なにひとつ、片がつくわけじゃない。学校教育の実態も、生徒が置かれている状態も、客観的な事態は少しも変わることなく、厳然としてそこに在るんだ。そのことの責任を一身に負う謂われもないし、負えるわけもない。嫌なら校長という役を降りればいい。それでも足りないんなら、教職なんか投げ捨てればいいんだ。「いじめ」で自殺する子供だって、死んだら、みんなが自分の方を向いてくれると錯覚してる。死んだら、そんなもの無い。じぶんというものが無くなるわけだから。「いじめ」の最大の元凶は学校だ。その責任をすべて子供になすりつけようとしている。何が処分の「登校停止」だ。何が制裁の「奉仕活動」だ。ふざけるな。「えい。解散を命ずる」と言いたくなるぜ。
 おれが現役の高校生の時なんか、夜間高校ってこともあっただろうけど、先生はとにかく単位をとらせ卒業させるために、試験前になると、テストに出る問題を丸ごと集中的に教えていたからね。知識だとか学力だとか、そんなもの二の次さ。そんなことより、世間で中卒じゃ、どうしても不利で見下されるから、せめて高卒という肩書きがあればという生徒の願望をかなえようとしてたんだ。おれはそれでいいと思う。そういうことがわかっていた先生が人望もあり、いい先生だった。生半可に教育しようなんて思っている教師は面白くもなんともない公務員にしか見えなかったね。まあ、おれの通っていたのは普通校だったから、看護婦見習いの女子が多かったんだけど、正規の看護婦になるには国家試験があるから、それで真面目に勉強してた。その点、おれなんか別に目標があるわけじゃないから、まともに授業を受けてなかったね。
 あげくに学校で楯突いて退学か。カマトトってことでいえば、「談合」なんて騒ぐのもおかしいぜ。昔から土木工事は税制上も優遇されてきて、それは〈アジア的〉な特性の名残かもしれない。で、大きなトンネル工事やダム建設ともなれば、大規模工事だから、地元の土建屋じゃ、技術的にも資金的にも、工事を請け負う力量は無いからな。そうなると、大手ゼネコンの独占ということになる。それじゃ、地元としては納得できないだろ。そこで、大手を骨格にして、人手の手配なんかになるとやっぱり地元の土建屋の方が都合がいいから、いくつかの業者で根回しをして、共同企業体を作るんだ。その段階でもう「談合」がなければ、事が始まらない。野次馬でしかないマスコミは、入札時を捉えて「談合」と言っているだけだ。全体の構造を考えないで、エセ社会倫理で社会をリードすれば、ろくなことになるはずがない。「いじめ」で、偽善的な過剰報道で煽り、自殺傾向を助長しているようにな。
 そういうふうに言うなら、村上春樹がノーベル文学賞の候補になっていただろう。だけど、大江健三郎が受賞しているから、まだ日本に廻ってくるはずがないよ。作家や作品が第一の世界じゃないのさ。だいたい賞なんて、日頃からその界隈や選考委員と「おつきあい」してないと廻ってくるはずがない。所詮人脈金脈さ。それはいじけた地方の文学賞まで一貫していることだ。違うのは稀だと思うね。なかには賞の権威づけや選考委員の今後のために、賞を押しつけるケースだってあるんじゃないのか。村上春樹が文芸評論家を毛嫌いするのはわかる。確かに無原則ずるずるの左翼商売糸圭[スガ]秀美だとか、業界小僧の富岡幸一郎だとか、あんなのを文芸評論家というなら、反吐が出そうで相手にする気がしない。だけどね、そうだからといって『少年カフカ』みたいな、ファンクラブの雑誌を作って悦に入るのもおかしいよ。それが村上春樹の通俗性さ。そんな多数派工作なんかやらずに、有無をいわせぬ作品で勝負すればいいことだ。生原稿流出の件だって、慇懃に「私は正しいです」とアピールしてるだけじゃないか。
 同じことだ。宇宙衛星の打ち上げだってな、「また日本人宇宙飛行士が誕生しました」なんて、大喜びしているだろ。あれはアメリカのNASAを中心とする宇宙産業が崩壊に瀕していて、どうにもならなくなっているから、資金を提供した処に席を譲っているだけだろ。別に宇宙飛行士にケチをつける気はないし、まして、ひとびとの夢に水をぶっかけるつもりもないが、そんなに浮れることでもないぜ。
 左翼のことでいえば、いまだにエンゲルスをはじめとしたマルクス主義の教条を信じていて、私有財産の廃止、産業の国有化が「革命」と思っている連中がいるからね。ソビエト連邦が崩壊し、事実上社会主義国家が潰え去ったということもあるけど、国家体制の問題を別にしても、産業の国有化の功罪なんてものは、国鉄(現JR)、電電(現NTT)、郵政(現郵便公社)の三公社の解体と実態を見れば、たちどころにわかることじゃないか。JRなんて偉そうな上に、サービスは悪く事故だって決して少なくない。NTTにしたって、ほんとうは独占で、シュア率100%だったのにという考えが抜けないから、他者の攻勢に対して、渋々対応するように値下げしたりして追従しているだけだ。なんら利用者を優先する積極的な策を打ち出すことが出来ない。これが官製の体質であり、いまだにその弱点を引きずっているのさ。郵政なんか見てみろ、クロネコがA4サイズ厚さ1センチまでを80円にした。これは普通の手紙と同じ料金だ。同じ物を郵便で送ってみろ。四倍以上の代金になるケースだってある。それで何をやっているかといえば、通信文や納品書や請求書の同封はまかりならん、という行政的な規制だ。要するに嫌がらせだよ。郵便局の「冊子小包」は付随物(納品書など)はOKなのに、競争相手のは駄目というのは筋が通らないよ。公共性もケースバイケースってことさ。
 まあな。エンゲルスなんか共同(体)の論理と倫理だけで済ましているからな。だがな、サービス向上は結構だけど、働いている者は低賃金のうえに超ハードかもしれない。だから、トータルに考えないといけないぜ。それに良い処もある。郵便局でいえば、振替の手数料なんか銀行より安いし、郵便配達は郡部では地域の住民と密着していて、ただ物を届ける以上の面ももっているからな。顔なじみでひと声をかけるなんて、機能主義からすればなんの意味も価値も無いかもしれないが、ほんとうは違うな。(「猫々だより」58 2006.12)

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ニャンニャン裏通り(3)松岡祥男(「猫々だより」59 2007.1)

 みんな、何処だ。おれはここにいるぞ。
 なんだ、お前、ビックリするじゃねぇか。悪い夢を見て魘されたみたいに。「みんな」って、誰と誰らのことだ。「ここ」って、どこなんだ。寝惚けたことを言うなよな。
 そうじゃないよ。おれには、どこにも帰属するところがないってことだ。あらゆる関係からこぼれ落ちて、最初の忌避でひきこもる幼児みたいに、資質の地に舞い落ちたってことさ。べつに孤立的なことに悲鳴をあげているわけじゃないよ。
 まあ、どこでもはぐれ者だからな。どうしようもねえな。いまさら、やり直すこともできないし、隊列を組んで突撃するような場面が再来することもあり得ない。じぶんがじぶん以上のものに拡大された解放感ってのは、それは大きい体験に違いないさ。しかし、そんなものはひと夏の夢と思った方がいいぜ。たとえお前の思いが、共通の疼きみたいなものだとしてもな。ところで、一連の北朝鮮をめぐる動きによって、日本もどんどん取り込まれて北朝鮮化してきたな。政府はテレビ・メディアに対して、すっかり政治の具となった拉致問題を口実に、「国民の安全」の観点から「命令放送」もありうるとまで言い出したぜ。それで「北京」や「平壌」の日本向け放送と同じように、短波を使って呼びかけまでやりだした。
 はじめの頃、マスコミは北朝鮮の公式発表などを嘲笑的に取りあげていたくせに、相互規程的に引っ張られて、似たり寄ったりになりつつあるね。「命令放送」以前に、すでにそんなものは、内部通達があり、これまで実施されているさ。反北朝鮮キャンペーンから「皇室報道」まで、毎日必ず時間を割いているからね。
 ファシズム的な法整備にも、野党は批判の声すらまともに挙げないし、異論は表面に出ないように封殺されている。だけどな、これはまず全左翼の無策と無能の結果だと思うな。日本共産党や社民党などは、なんら現実的なビジョンを示すことができず、組織的な保身しか考えてこなかったから、思想的に痩せ細り自己凋落したんだし、新左翼はマルクス主義の旧い図式から抜け出すことができず、社会の裏面を這い廻っているだけだ。大衆の命運を正面に据えて、状況を切り拓くことなんかできっこないぜ。泣き言を言う資格ははじめから無いんだ、自他ともにな。
 どこも組織形成の時期で、思想と運動形態が出来あがり、それ以降はそのまま硬化するか、俗化してゆく以外の路線をとることはないね。その段階で思想は打ち止め。あとは状勢的な反映があるばかりじゃないのか。たとえば、左翼的な通念として「宗教は阿片である」ってあるだろ。おれもある面で真理だと思う。精神の大いなる収奪という意味でね。しかし、そこで思考を停止し、この考えが制度的に固定化されるとどうなるかっていえば、「禁圧」するしかないことになるのは必定さ。それはソビエトのロシア正教に対する政治的な弾圧でもわかることだ。さらに個人レベルでいえば、宗教を信仰するものは迷妄に捕われた愚かな存在だと見下しはじめる。しかし、その一方で自分だって墓参りはするし、冠婚葬祭の時にはそれに従っているだろ。これは習俗とはいえ矛盾だし、そこから当然「宗教は阿片である」じゃ済まないことは嫌でもわかるじゃないか。宗教を思想へ、霊魂を精神へと止揚しようとする思考の展開は、ほんとうはその前の観念形態を大きく包括したものじゃなければ、おかしいよ。
 それの反対の現象もいくらでもあるな。宗教団体の勧誘と寄付集めの戸別訪問は凄まじいぜ。他人の家に勝手に入り込んできて、玄関先で「神の使いでやって参りました」「あなたに救いの手を差し伸べます」なんて厚かましくやられると、うるせえ、放っといてくれ。二度と来るな、バカと思うのは日常的だからな。詐欺セールスの連中と同じで。
 話をもどすと、「命令放送」ってことは、権力の隠然たる強要から、報道統制へと次元が移行することになるよ。もともとテレビをはじめとするマスメディアは体制迎合的なんだけど、村上春樹に「TVピープル」って短編があるだろ。作品としてはそんなに優れたものとは思わないけれど、その中の「TVピープル」という奇形性の定義は悪くない。「TVピープルの体のサイズは、僕やあなたのそれよりはいくぶん小さい。目立って小さいというわけではない。いくぶん小さいのだ。だいたい、そう、二割か三割くらい。それも体の各部分がみんな均一に小さい。だから小さいというよりは、縮小されている」これがテレビの本質かもしれないよ。テレビはちっぽけで閉じられたスタジオの世界でしかないよ。そこから情報を発信する、それはあらかじめ選択された情報や意図的に制作された番組であると同時に、情報としての現実だ。だから、その世界に染まると、精神の平板化と現実性の縮小化を免れないような気がするね。個人的にはテレビのスイッチを切って見なければいいんだけど、それでも電波は行き渡っているから、その影響と誰も無関係ではあり得ないね。[下線部傍点あり]
 そうかな、その方が固定観念って気もするな。そんなことを言わなくても、金廣志が書いてた(猫々だより53)高知を襲った台風の時、わしんとこは床上浸水を経験しているんで、覚悟してチャンネルを変えながら、テレビにかじりついていた。台風情報は一晩ぶっ通し流された。雨雲の動きなんかがわかって良かったんだが、しかし、どの局も高知市東部が水没しているという事実は全く伝えなかった。そのとき、ほんとのところでは空っぽなんだと思ったな。そんなことより、「テロ資金対策」などとぬかしてATMでの振込を十万円までに規制し、それ以上になると窓口で身分証明が必要としたことだ。大嘘のもとに、金融資本の利益(手数料稼ぎ)を推進しているだけじゃねえか。これは一般的な自由の阻害という意味では、大手銀行の倒産危機の際に政府資金を投入したことよりもひどい。
 「テロ」という明確な定義づけもない、馬鹿げた名目の、大衆への〈圧制〉だ。なんでも有りの、この傾向は強まる一方だと思うよ。個々の民衆が社会の主人公だ。それを無視して何処へ行くつもりなんだ。
 こんなろくでもない話題はやめて、楽しい話をしたいな。去年、一番良かったのは「のだめカンタービレ」だ。主役の上野樹里が性根を入れて役に取り組んでいるのがひしひし伝わってきたな。それまでその他の大勢の一人という感じだったのが俄然違った。わしは原作の漫画は読んでいないが、テレビ・ドラマは面白かった。コミュニケーションの拡大や迅速化と、人間の内実や思想の深化とは違うことだ。
 おれが最近はまったのは水木しげるの『墓場鬼太郎』だね。角川文庫で貸本時代の復刻版が出ていて、特に「鬼太郎夜話」はその後のリメイク版よりもいいよ。(「猫々だより」59 2007.1)

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ニャンニャン裏通り(4)松岡祥男(「猫々だより」61 2007.4)

 お前、「疎明書」って、知ってるか。
 なに、それ。
 わしもいままで知らなかった。「疎明」というのは、辞書で引くと裁判用語みたいだが。それは「地方公務員法第十六条(欠格事項)に基づいたものだ。それの(5)には「日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入したもの」とある。で、「私は、上記の条項いずれにも該当しないことを疎明します。」という「疎明書」に署名・捺印して提出しないとけないんだ。これが最近では、臨時や非常勤の者までに及ぶようになっている。
 「レッド・パージ」と同じじゃないか。それは、公務員なら憲法を遵守しますってことは、採用の前提になるだろうが。
 驚くぜ。第一「日本国憲法施行の日以後」って具合に、時間を遡って、規定しているところが恐ろしいよな。日本は基本的人権によって、思想・心情の自由は保証されているはずなのに、この条項は明らかな転倒で、法的矛盾だ。また過去に遡ってということは、それには時効というものが無いことになるぜ。かって「暴力革命」を唱えて、その組織に加盟していたものは、その後、どのように転身しようが、立場や思想が変わろうが、全部パージされることになるからな。
 いや、それは単に時制的な上限を言ってるだけかも知れないね。でも、その「政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体」と言ったって、それを組織綱領として掲げているならば明瞭だろうが、そうでなかったら、そんなものは指定できないはずだ。もちろん、現在の権力は「破壊防止法」によって、その対象を指定している。その中には日本共産党まで含まれているよ。だから、国家や政府の意向で、いくらでも拡大解釈可能なものだ。こんなもの通常は、無効の紙切れだろうが、状況が切迫するようなことになったら、当然拡大適用されることになるね。
 なんで、こんなものが表面に出るようになり、いわば末端にまで及ぶようになったのかといえば、国家や行政権力が社会の根抵的な崩壊に対応できなくなってきたから、表向きを整えておきたいからだ。それにオウム真理教事件の影響だろうな。まあ、「和を以て貴しとなす」がその初めだからな。
 でも、こんな条項があろうが無かろうが、国家や政府は、倒れるときは倒れるのさ。それが暴力的表現になるか、穏便な形態になるかは、その状況に規定されるだけのことだ。また、それを反国家的意志を持っているものが担うかどうかも、そんなことは当面しないかぎり、判りっこない。無論、国家を越える構想は、つねに流動的に描かれているべきだけどね。逆に、政府を国民投票で直接リコールする条項の獲得とかね。
 混ぜ返せば、いくらでも云うことはあるからな。政府は日本国憲法を遵守せず、憲法に違反してイラクに派兵した、その責任はどうなるんだという具合にな。いまやアメリカの属国だからな。なんでもアメリカのご機嫌伺い、ご都合主義で通している政府だから、まあ、せいぜい破綻のない経済的な舵取りができるかどうかだけが、自他の関心の範囲のような気がするぜ。
 まあね。ホリモンに対する、フジ・産経を筆頭とする財界の意趣返しだって凄いね。およそ法の下には平等という建前さえない有様だ。日興の粉飾決算は容認されて、ライブ・ドアは世論(操作)から裁判まで袋叩きだからね。
 ホリモンも、リクルートの江副の失敗を見ていただろうから、懸念はもっていただろうが、甘かったな。わしは、小泉に選挙に担ぎ出された段階で、やばいと思ったな。あれで勝ってれば、まだ持ちこたえただろうが、落選を期に、仕返しを目論んでいた連中は勢いづき、一気に潰しにかかった。日本はまだまだ〈アジア的遺制〉をひきずっているから、財界に食い込むには、摂関制の藤原氏みたいに縁戚関係を結びながら、着実に地歩を固めていかないと、新参者は、出る杭は打たれる式にやられるに決まっているさ。あと、それがいいのか悪いのか、わからないが、少し叩かれると、すぐに組織が瓦解し、内部で離反と対立を生むことだ。ライブ・ドアの場合でも、宮内取締役をはじめとする幹部連中の屈服や離反があり、ホリモンが、それにもめげず裁判で突っ張っているのはいいぜ。
 経済界の奥底では、相変わらず旧財閥が仕切っているわけかい。縁遠い世界で、野次馬といえばそれまでだけどね。それより、社会はどんどん錯綜化しているというのに、社会倫理的には反対にどんどん平板化しているね。高知市でこの一年くらいの間に、学校の生徒や保護者のデータの盗難が三件あったんだけど、これに対する教育委員会の謝罪が、「このことにより、教育の信頼を傷つけたことは遺憾であり、今後このような不始末がないように致します」のワン・パターンだ。その三件というのは、一つは、教員がパチンコをやっていて、その駐車場に停めてあった車から盗まれたものだ。二つ目は、家庭訪問かなんかの仕事の途中に学校へ帰り、学校の駐車場に停めてあった車から盗まれたものだ。三つ目は、図書館のトイレへ行ったとき鞄を置き引きされたものだ。この三つを同等に扱うことはできっこない。なんでも謝って置けばいいってもんじゃないよ。まず第一に、盗んだ奴が悪い。次に学校の敷地内で盗まれたなんてのは、本人の不注意とは言えないものだ。こいつら、事の軽重を全く考慮していないんだ。ちゃんと事情を説明し、擁護すべきは擁護し、その上で非は非で認めるということでなければ、頽廃は深まるばかりさ。この、どアホウ。それが他方では、総体的な管理と抑圧として個々に押し付けられるって寸法さ。そのひとつが「疎明書」みたいなものになるのさ。やっちゃいられないよ。
 それは政府からマスコミ、市民社会にまで及んでいるな。高知県の東の端っこにある。東洋町の田嶋町長は、住民の意思も議会も無視して、国の「高レベル放射性廃棄物の最終処分施設の設置可能性を調査する区域」に独断で応募した。この町長の浅ましいのは、誰の目にも明らかなように、その調査で出る交付金が目当てというところだ。このバカは、それで町の赤字財政を補填しようとしている。これまでの無策をそのままに、町の財政を自力更生するような努力もせず、その気概も持たずに、事の重大さを考慮することもなしに、銭欲しさに独走したのだ。それに、事は東洋町だけに留まるものではなく、近隣地域一帯に切実な問題となることを全く視野に入れず、我が町さえなんとかなればいいという貧しい発想にすぎない。それで、金を貰って町の財政を立て直してから、最終的に拒否も可能だと安易に考えている。国の意向や施策が、四国の片田舎の町長の浅知恵に翻弄されるほど甘いはずがないぜ。
 ほんとうに救いようがないね。第一、町の財政が破綻し潰れたって、人々の生活は無くなりはしないよ。みんな、それぞれに生きてきたように、これからも、それぞれが生活の活路を見出していくさ。国に縋ったって、ほんとのところでは助けてくれはしないし、ましてや町の行政なんて、その必要上の便宜的に出来あがっているものだ。その運営の失敗を、住民が全面的に負う謂われはないさ。
 その精神のだらしなさがたまらんぜ。日照りのときに、天の神様に祈るのならわかるが、こいつは自分らの無能無策を棚上げして、天を見上げて札束が舞い降りてくることを待ち望んでいるんだ。
 そのためなら、放射能だって浴びるってか。誰もが嫌がる物を進んで受け入れるというなら、住民の意思を何よりも尊重し、しっかりしたビジョンを示すことだ。そんなもの、微塵ももっちゃいない、ただの馬鹿オヤジだ。(「猫々だより」61 2007.4)

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ニャンニャン裏通り(5)松岡祥男(「猫々だより」62 2007.5)

 お前、『吉本隆明に関する12章』という本に「吉本隆明と論敵」を書いただろ。
 うん。
 その中の柄谷行人のところで言いたいことがある。わしの知るかぎりでは、柄谷の野郎がいちばん先に「吉本は兵役逃れのために理工系に進んだ」というデマゴギーをふりまいたんだ。それが小熊英二みたいな思想的屑が口移し的に繰り返している元凶だ。それがデマゴギーであることは、吉本隆明の『初期ノート』一冊読めば、誰にだってわかることだ。
 うん。
 「うん」じゃないぜ。こいつらの嘘と、こんなデマを捏造し流布する輩がインテリ面し通用する場面を粉砕しないことには何も始まりはしない。
 わかっているさ。しかし、全情況の上でいえば、柄谷行人や小熊英二なんて知的な泡沫にすぎないよ。こいつらが徒党的に立ち廻ろうと、大衆の命運にかすりもしないことは自明だ。百歩譲って、やつらのデマである「兵役逃れ」や兵役忌避の何が悪い。時代の状況は大衆的な規模で個人を呑み込んでゆくものだ。それは大義名分と正義を独占した圧倒的な力で殺到してくるはずだ。それに逆らうことが難しい。なぜなら、それは共同体の命運や同胞を裏切ることになるからだ。とくに自己意識が未分化なアジア的な共同性の中では宿命のように個々を捉えるはずだ。個の意思なんて、そこでは草葉の露よりもはかないものとして無視されるんじゃないのか。こいつら、こんなことも考慮に入れないから、支配者の密偵みたいな転倒した発想に転落するんだ。また諸個人の生誕の環境やその軌跡は本来的に受動的なもので自己責任を全面的に負うことはできない。おれが山間地の農家に生まれ、中学卒業と同時に就職して底辺労働者として働くことになったことは、おれの資質や能力もあるにせよ、時代や家庭環境から強いられ、その軌道の中で決定されたことだ。そこから出立するしかないとしても、そのことをどうこう言うことも、他からとやかく言われる筋合いもないよ。だから、この連中はそこでも人倫的屑なんだ。たとえば労働運動みたいなものに対する幻想があるだろ。だけど、あんなもの、すぐに翼賛団体に転化するんだ。おれは仕事で、自治労関係の機関誌を作っている会社で働いていたから知ってるんだけど、労組なんて何もほんとうは考えていないぜ。おれが働いていた頃、ちょうど自民党に担がれて村山内閣が誕生したんだ。それで自治労上りの総理大臣に大喜びだった。その村山が「自衛隊は合憲である」と国会で公言したときも、それまで「護憲」を唱えていた自分たちの姿をまるっきり忘れたように、それを容認し、村山内閣を批判する自治労傘下の組合は殆ど無かった。それで当時の小沢一郎を機関誌の四コマ漫画で「野党が板についてきましたね」なんて我を忘れて風刺してた。この迎合体質ひとつとっても、何も期待することはないさ。それで、組合費は給料から天引きだから、どんどん入ってくる。結構資金的には潤っているんだ。もちろん、職場闘争なんか皆無に等しいから、予算は余っている。傍からみていると、余った金は組合員に返すか、災害支援とか有効に活用することを考えればいいのに、上納金と十年一日のような無内容の機関誌の発行に湯水のように使っているだけ。なんの横へ拡がる社会構想ももっちゃいない。組合離れは当然さ。
 そうだな。七十年代の認識のまま横すべりしている連中もたくさんいるからな。あれから、今までどう生きてきたかを少しでも内省すれば、嫌でもこの間の社会の変容と自分のポジションが明らかになるはずなのに、相変わらず、昔の好みで宜しく頼みますなんて言われると、うんざりするからな。
 いつも同じような話じゃつまらないから、違った話をしたいな。夏目房之介が『猫びより』という雑誌で、猫マンガについて書いていて、そのなかで大島弓子『綿の国星』や高橋留美子『うる星やつら』などを指して「『おたく的ユートピア』感覚が共通してあったはずなのだ」と言っていた。なんか発想の枠組み自体が七〇年代的認識で、もうちょっと言い様がないのかと思ったね。マンガのそれの何が悪いといいたいよ。むかし鈴木志郎康が白土三平の『カムイ伝』を批判して主人物以外は無造作に殺されるので気持ち悪いといって、当時の白土ブームに水をぶっかけたことがあった。
 覚えている。たしかにマンガ史上、最大の殺人鬼はカムイを置いて右に出るものはいないな。カウントしたことはないけど。特に『カムイ外伝』はそうだな。まあ、別に読む分にはそんなことはどうでもいいが、ストーリー作りが安易なことは否めないな。
 その鈴木志郎康のことだけど、あの評言は良かったが、『ユリイカ』の「少女マンガ」の特集の「少女マンガ 気分の擁立」(1981年)という文章で、「少女マンガは構造と描線さえきちんとしていれば、人類のどの時代でもどこの国でも舞台に選ぶことができるのだ。こんな自由が許される表現は他に見ることができないのである。この自由こそが、現実の責務に心を縛られているものにとっては、耐えることができないのである」と結語した。おれはそれまで割りと鈴木の詩を読んでいたんだけど、この一文を読んで一編に嫌になった。鈴木のプアプア詩なんてナンセンスの極致じゃなかったのか。その優れたギャグ・マンガに匹敵するような過激さが魅力であり、それがまた時代に連動していたんじゃないのか。逆さまなんだよ。現実に縛られているからこそ、その憂さを一時的でも逃れたいから、マンガや文芸もあるんじゃないのか。その一面を抜かしたら、詩も歌も無いはずだ。芸術は人生の教科書じゃない。そこでは、超真摯な思索の展開も、単なる娯楽作品も、同等なはずだ。鈴木のような、こんな半端な倫理こそ否定されるべきなんだ。
 悪しき主題主義や文学の効用性の誤謬に足元をすくわれたのさ。これも古い話題なんだけど、画き手の小島剛夕亡きあと、原作の小池一夫が『子連れ狼』の第二部の連載を始めたのには呆れたな。読者をバカにするな、大五郎に拝一刀以上の父親(代り)がいてたまるか。小池はもう新しい作品や人物を想像する力も意欲ももっていない。だから、安易に昔の栄光に縋って、その栄光すら汚しているんだ。芸大教授でゴルフ三昧でいいじゃないか、折角の作品を台無しにする必要がどこにあるというんだ。
 「高レベル放射性廃棄物の最終処分施設」の調査の是非を問う東洋町の町長選挙も終わったね。町長選というよりも、事実上その是非を決する住民投票だった。投票率は九〇%近くで、反対派の擁立した候補の1600対700の圧勝だった。だいたい、誰の入れ知恵で始まったのかわからないが、住民の意思も議会の決議も無視した独断が通用するはずがないぜ。国側は応募した前町長の応援に、その安全性をアピールする啓蒙用のバスを送り込んだが、民意の前には役に立たなかった。
 やれやれだな。(「猫々だより」62 2007.5)

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ニャンニャン裏通り(6)松岡祥男(「猫々だより」63 2007.6)

 おい、おまえも加わっている『吉本隆明に関する12章』の、四方田犬彦の「吉本隆明と漫画」はひどい曲解と誤読だ。これはわしの許容範囲を超えている。黙って見過ごすことはできないぜ。
 ‥‥‥。
 なにか、差支えでもあるのか。
 いや、べつにそんなものはないさ。ただ四方田犬彦は、吉本隆明を「末っ子」と書いたことがある(四方田犬彦「吉本隆明の月島ソース料理」くらいだから、その事実誤認はいまに始まったことじゃない。それに、おれは大枠でいえば、四方田にそんなに悪い印象を持っていないからね。そんなに多くのものを読んでいるわけじゃないけど。
 お前、それ、本気で言っているのか。言論なんて、そりゃあ、人の生き死にや生活の実質からすれば、あやかしいものかもしれないが、それでも、それをも左右する〈何か〉を内在的に孕んでいるかもしれないぜ。それで、言説は遠くかけ離れたものとは接点がないから無関係に存在してしまう。で、関心がクロスするところで、認識の差異や評価のズレが問題となってくるのは不可避といえる。それを回避することはマジなほどできないはずだ。思想的な対立が近親憎悪的な様相を呈するのはそのためだ。お前、もし、なあなあでいいんなら、物書きの真似ごとなんかやめるんだな。
 そんなに怒るなよ。
 「吉本隆明の名前を初めて知ったのは一九六九年、十六歳のときだった。(略)『COM』に掲載されていた、岡田文子の『邪悪のジャック』という漫画に、彼の名前が突如として登場していたのである。まずこの漫画について、簡単に説明しておこう。/舞台はどうやらパリらしい。どんな人間でも、その手を握るだけでたちどころに絶命させてしまうという、悪魔のような右手を持った少年がいる。彼は暗黒街の組織に雇われ、俳優やら著名人やらを、次々と暗殺してゆく。だがその手ゆえに、愛する少女を抱きしめることができない。少年は寝台に横たわり一人きりになると、呟くのである。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ」。/かっこいいなあ! この独白に「吉本隆明」と出典が添えられていたことが契機となって、わたしは『転位のための十篇』という詩集の存在に廻りあった。」(四方田犬彦「吉本隆明と漫画」)。まず、冒頭のこれからして、うまい作り話じゃないのか。岡田文子の「邪悪のジャック」に使われていた吉本の詩の一節には「隆明」としか表記されていなかった。当時、夜間高校二年で農協で働いていた無知なわしは、この「隆明」をみて、中国の漢詩人かなんかで「隆」と「降」との区別もつかず、諸葛孔明みたい
岡田漫画_コマ比較
に「コウメイ」と読むのだろうかと思ったくらいだ。もちろん、頭のいい四方田はここから「吉本隆明」にたどりついたかもしれないがね。
 うん。引用のコマの吉本の詩の一節が、四方田のいうように「呟き」なのか、主人公の内面の思いなのか、それとも作品の中のナレーションなのか、安易に確定することはできない。それに、「邪悪のジャック」のストーリーの要約だって、全然正確じゃない。ジャックが触れると花が萎れ、それゆえ恋人を抱きしめることができない。それで煩悶するようなコマがつづき、そして、ベッドに横たわったところで吉本の詩がでてくるのだ。暗殺云々が展開されるのはその後だ。こんな粗雑な要約しかやらないくせに、漫画批評の権威のような口ぶりはおこがましいというものだ。
 重箱の隅をつつくような、そんな細部はほんとうはどうでもいい。それよりも問題なのは、吉本の本格的なマンガ論のひとつである「語相論」に言及したところだ。「それにしても吉本隆明は、どうして漫画のテクストを一頁丸ごと、つまり絵柄も含めて掲載しなかったのだろうか。思うに担当編集者は、著作権問題の煩雑さを恐れて、コマの内側を空っぽにしてしまった。しかし言葉だけを辿っていって、はたして漫画の全体の構造が掌握できるだろうか。これでは分析の対象であるテクストが変わってしまうではないか」。これが許せねえ曲解の第一だ。「語相論」をまっとうに読めば、吉本が意図的に絵を消去して、その言葉の位相から漫画作品を取り上げているのは明瞭だ。「担当編集者」「著作権」、事情通ぶった知ったかぶりの詐欺はやめるがいい。吉本は同じ『マス・イメージ論』の先行する「縮合論」で、萩尾望都「訪問者」や糸井重里・湯村輝彦「情熱のペンギンごはん」を対象に、「縮合」という観点から迫っている。「語相論」はその深化と展開だ。吉本は、山岸涼子の「籠の中の鳥」の作品構造を緻密に解析し、それが小説作品と比しても、少しも遜色がないものとして、同列に扱っている。また、ここでの「籠の中の鳥」の主題は、吉本が『空虚としての主題』で取り上げた幾つかの作品と連続しており、また「心的現象論」の「了解論」で探求されていた主題とつながるものだ。そこでは吉本はマンガだからといって指標を、全くずらしていない。
 そうだね。四方田の、吉本が庶民から知的な上昇を遂げ高等な知識人になったとする通俗的な吉本像そのものが、おれにいわせれば虚像だ。それは、おのれの世代体験に安易にもたれかかり、そこでの知識や教養をひけらかし、自分の漫画体験が絶対に優位だと思い込んでいることの証拠さ。すべてが自分の世代体験を誇示するための道具のような気さえするからね。だいたい、四方田がこれらをなめてかかっていることは、吉本隆明が漫画を知らないごとく云ってるところや、それこそ、こいつのいうところのテクストの読みの杜撰さに現れているよ。
 お前もいうじゃねえか。そうじゃなくっちゃ、おもしろくねえ。(「猫々だより」63 2007.6)

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ニャンニャン裏通り(7)松岡祥男(「猫々だより」64 2007.7)

 「邪悪のジャック」の「廃人の歌」の一節をどうして憶えているかといえば、実はこれを書き写して、女の子に送ったことがあるからだ。
 おっ、青春してたんだ。四方田は、吉本が「語相論」で対象とした岡田文子の「いとしのアンジェリカ」を「ほとんど支離滅裂な失敗作である」と言っている。おれはそうは思わない。メローは愛した彼女が死んだので、その喪失感から旅へ出て、戸口に倒れているところをアンジェリカの館に運ばれた。一夜泊ったあと、地下室へ案内されて、愛したジェーン・バーキンの死骸を見せられる。そして、アンジェリカからここは「死の世界の入り口」だと告げられる。メローはアンジェリカに魅かれてゆくが、美しい死神ともいえる彼女は彼を地下の世界へ落すのだ。どこが「支離滅裂」なのだ。青年前期に恋人を失った喪失感は全的な傾斜を持つものだ。それがふられた場合でも、この作品のように相手が死んだ場合でも、とても切実で、死の縁を彷徨することも、ちっとも不思議じゃない。一般に死体安置所が地階と相場が決まっているように、また死の世界は地下にあるとアイヌなどで伝承されてきたように。館が「死の世界の入り口」に設定され、それが地下に通じることは、ある面、普遍的ともいえる。もちろん、吉本の「語相論」はそのすべてを踏まえて論じている。四方田は外野の野次馬じゃない。岡田の作品集を編集したこともあるくらいだ。それがどうして、こんな的外れのことを言うのか、おれには全く分からない。
 確かに岡田文子の漫画はむずかしい。「伊賀の影丸」や「サスケ」から『ガロ』にたどりついたわしには、せいぜい白土三平、水木しげる、なんとかつげ義春が理解できたくらいだ。文学なんか知らず、しかも日々、向かいの山の稜線を眺めたり、山野をめぐり、木の枝を振り回して草をなぎ倒して育ったわしには、岡田作品の異邦的な雰囲気は無縁のものだった。朝日ソノラマの新書版で持ってはいるが、いまでもほんとうにわかったという気はしない。ただ、漫画が単なる子供の娯楽みたいなところから自己表現へ脱却してゆくところに、つげ義春や岡田文子の作品があったことは、当時の愚鈍なわしでもわかった。そうじゃなかったら、こんなところまで誘い出される謂われはなかったはずだ。
 もちろん、岡田の代表作は違うかもしれないし、好きなものも別だといえる。おれはむかしから「墓地へ行く道」が好きだ。それは「語相論」で吉本はつげ義春の「庶民御宿」を対象としているけど、つげの代表作は別だと思う。そんなことは「語相論」では重要な問題じゃない。マンガ作品を〈現在〉という視座から言葉の位相で捉え、画像との関連性を解析した画期的な作品構造論なのだ。
 まあ、ここまでくれば四方田なんて、どうでもいいような気がするぜ。要するに四方田犬彦の「吉本隆明と漫画」は、自惚れと怠慢の一文ということでおしまいだ。
 おっさんはそれでいいかもしれないが、おれはそれでは済まないよ。四方田は引き合いに鶴見俊輔を出したり、上野昴志のシマを荒らされたヤクザのようなつまらない反発に同調しているが、冗談じゃないぜ。鶴見の漫画論は啓蒙と座興、いわば知性の軟化がその本質じゃないのか。「サザエさん」への言及にしたって、その意義は認めるにしても、朝日(新聞)文化に乗っかっただけのもので、朝日新聞を購読していないものには縁の薄いものかもしれないからね。おれがガキの頃、村で朝日新聞を取っていたのは、母の実家の伯父だけだった。山間地だったから、朝日は二日遅れの配達だ。古新聞さ。おれんとこなんか新聞は取っていなかったし、近所は地元紙が主だった。鶴見の言説がしばしば嫌味に転化するのは、その特権性と甘さからだ。上野なんて『ガロ』の座付きだったという以上の存在感はない。その『ガロ』のことに関しても、雑なことしか書いちゃいない。例えば『木造モルタルの王国』の解説で、「カムイ伝」の作画は小島剛夕から岡本鉄二に移行したで済ましている。「カムイ伝」の作画は二人の他に、小山春雄や谷郁夫もやっている。読者の目は節穴じゃないよ。四方田も、所詮格好つけた人脈主義なのさ。人と人とのつながりを大切にすることと、その間を巧く立ち廻ることとは違うことだ。
 じゃあ、四方田の『白土三平論』はどうなんだ。
 悪いものじゃないけど、不満も多々あるさ。白土の功績は、それまで消耗品同然だった漫画を作者自身が大事にするべきだと言い、原画を手元に置くようにした。また、白土は親の代から日共なんだけど、しかし資本主義の搾取構造を破ろうと、作画スタッフにその印税を新たな版が発行される度に、応分にちゃんと支払っていると言われている。労働は資本に蓄積され、労働者は使い捨てられる。代表者や顔役は協力者の存在を抹消して、すべて自分の業績のように収奪する。それが社会通念であっても、また当事者間で暗黙のうちに了解されているとしても、官僚主義的な悪しき習慣だということを忘れるべきじゃない。そんな仕組みを白土は内在的に超えようとしてきた。それは『忍者武芸帳』をはじめとする作品の先駆性に照応するものだ。(「猫々だより」64 2007.7)

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ニャンニャン裏通り(8)松岡祥男(「猫々だより」65 2007.8)

 参院選、おもしろかったな。
 ああ、おれは子供の頃から開票速報、好きだったな。ラジオのプロ野球の実況中継と同じように。でも、近年は出口調査でものすごく早く「当確」が出されて、開票速報の当選レースの醍醐味は半減したね。なにしろ、開票率0%の段階で当落が出ることも多いからね。今回、カッコ良かったのは小沢一郎だ。「生活が第一。」というキャッチ・フレーズも的を射てたし、精力的に動いて、その決意のほどを示した。まあ、デタラメな年金の扱いとか「格差」とか、社会的な要因が大きかったんだろうけど、自民党の大敗だ。民主党は寄り合い所帯だからいつ割れるか、分からないし、その政策が決していいわけでもない。だから、なにも期待しているわけじゃないが、しかし、これで与党の強行採決にストップがかかるだけでも、いいんじゃないの。
 一人区の四国四県とも民主党の勝ちだった。高知県はともかく愛媛県でもだからな。愛媛は保守王国で、七〇年代の初め、高校生がヘルメット覆面姿で街頭でアジビラを配っていたら、私服刑事がやってきて、背後から押えつけて、ヘルメットを除けて顔写真を撮るような所だからな。そんな横暴は、高知では考えられない。せいぜい偵察と隠し撮りだったな。それくらいの違いがあった。
 相撲協会並だね。横綱の朝青龍が「巡業」をすっぽかして、ふるさとへ帰り、サッカーのイベントに出たくらいで、二場所の出場停止のうえに、自宅軟禁という処分だからね。完全な人権侵害だよ。力士は相撲協会の奴隷じゃない。その封建的体質が露呈したのさ。自宅軟禁なんて、拘置所に拘留されるよりもきついものじゃないのか。そんなことをする権限が奴らにあるのか。封建力だって裁判を経ずして刑(処分)の執行はできないのだ。
 裏にはこれまでの経緯があるんだろうが、とにかく用済みだから追放したいという意図はみえみえだよ。相撲、嫌いじゃないけど、半ばスポーツというより興行だろう、あれは。
 世の中、完全に狂ってきてるところがあるからね。一円でも領収書が必要だなんて、正気の沙汰じゃないよ。こうなってくると、吉本隆明が推薦文を寄せている面影ラッキーホールの「パチンコやってる間に 産まれてまもない娘を車の中で死なせた・・・夏」でも、カラオケで絶叫するしかないよ。
              
  仕事をしない旦那のことも
  慣れないこの子育てのことも
  パチンコは忘れさせてくれました
                 
  30分だけのつもりが
  すぐにリーチそして大当たり!
  窓は少し開けておいたんです
               
  後部座席の「代紋TAKE2」の表紙も乾涸びて、
  娘も・・・娘も・・・
            
  パチンコやってる間に
  産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・
  パチンコやってる間に
  産まれて間もない娘を車の中で死なせた・・・夏
                        
  呑んでは殴る旦那のことも
  慣れない夜の仕事のことも
  パチンコが忘れさせてくれました
                 
  30分だけのつもりが
  確率変動7連チャン!
  哺乳瓶は置いておいたんです
               
  後部座席の「ミナミの帝王」のビデオものびきって
  娘も・・・娘も・・・
            
  パチンコやってる間に産まれて間もない娘を
  車の中で死なせた・・・
  パチンコやってる間に産まれて間もない娘を
  車の中で死なせた・・・夏
              
 強烈なアイロニーだな。河合隼雄、宮本顕治、小田実などが死んだ。河合隼雄は文化庁長官なんか引き受けなければよかったんだ。高松塚古墳の壁画を傷つけたなんて、彼がやったのでもなければ、彼に責任があるわけでもないのに、「長」として責任を負わされる破目になって謝罪していた。そんな余計な心労がたたって、命を縮めてしまったんじゃないのかな。
 小田実については、ベ平連に関連して少し言いたい。ベ平連の運動は組織として固定的じゃなく、出入り自由だった。当時のヒッピー的な感覚や、ロックやフォークの先端の感性や、風俗的な広がりをもっていて、硬直した新左翼党派より自在性をもっていたと思う。しかし、「市民運動」を装っていても、その思想の内実はスターリン主義の同伴だ。その典型が小田実だ。小田は愚劣な主題主義者で、思想家としても、作家としても自立性を持たない、半端な存在だった。小田実と鶴見俊輔との同質性と差異の中に、あの運動の功罪がすべて出揃っているのさ。おれは当時のベ平連をやってた連中、いまでも嫌いじゃないが、小田と同じように、そのイデオロギー化をはかる小熊英二みたいな屑野郎とは絶対に相容れないと思っている。
 要するに、通俗的な「反体制」も教条的な「マルクス主義」も終わってるってことだろ。小田実は、ただ時流の上で「月光仮面」のつもりで踊っただけだ。その点、鶴見は遥かにしたたかだぜ。(「猫々だより」65 2007.8)

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ニャンニャン裏通り(9)松岡祥男(「猫々だより」67 2007.11)

 物価が値上がりしてるな。
 困るね、貧乏人としては。プリントに使っている用紙が、税抜きで500枚300円だったのが、先日買いに行ったら330円になっていた。一割の値上がりだ。光熱費からカップ麺、トイレットペーパーまで、ドミノ倒しみたいにつぎつぎ上がっている。アメリカ・ブッシュ政権のイラク侵略戦争の、石油資源強奪の目論みが外れて、イラクは泥沼化した。それで原油価格が世界的に高騰し、そのあおりで、物価は値上がり傾向にあったんだけど、ここにきて、堰を切ったみたいに上がりだした。
 賃金は上がらないというのに。最低賃金が全国平均で15円底上げされたが、高知県なんて7円だぜ。物価の上昇と全く釣り合わないぜ。アホなニュース・キャスターが、「最低賃金、最低賃金」などというから、若い連中が働く気がしなくなるなどとほざいていたらしいが、自分が稼ぎがいいからといって、そんな本末転倒のことを言うな、てんだ。底辺じゃ、時給が15円上がるか、7円しか上がらないかは切実な問題だ。若い連中だって、安い賃金じゃ、やる気が起こらないんだよ。
 まあね。よく行くスーパーマーケットのレジ係が頻繁に代わるんで、そんなに職場の雰囲気は悪いように見えないんで、どうしてだろうと思っていたら、どうも、バイト代でその店の商品を買わないといけないようにしているみたいだ。それは主婦のパートなら、働いたカネで日用品や食品をその店で買って、手元に殆ど収入として残らなくても、まあ我慢できるかもしれない。しかし、若いものはそんなもの、ほとんど必要じゃないし、それよりも自分の好きに使いたいに決まっているさ。そのために働いているんだから、そういうふうに半ば強制的に店の物を購入させられるとなれば、ばからしくて続かないのは当り前だろ。
 だいたい、日本国家は財政的には大赤字で、経済的には完全に破綻しているんだ。実質、政府倒産だよ。ところが、日本という共同意識は近年ずっと強化されつづけている。消費税の税率アップは確実だろうな。消費税の導入の時、政府は財源を所得税から消費税へ転換させるとうたっていた。その方が経済過程から言えば、妥当な考えだった。わしなんか、できるだけ税金を納めたくないから反対だったがな。ところが、政府は所得減税なんて最初だけで、とうに旧に復している。結果的には、別名目の増税に過ぎないことになったんだ。無策のうえに、戦後一貫したアメリカ追従政策のあげく、アメリカの戦争の後方支援で莫大な税金を支出し、おまけに防衛庁を省に昇格させて、必要もない軍事費に予算を投入したりして、全体的な財政赤字を消費税アップで場当たり的に対処しているだけだ。以前にも言ったことがあるが、日本の領海を侵犯したという「不審船」を海上保安庁は追っ払えば済むのに、追跡し、撃沈した。さらに、その撃沈した「不審船」を海底から引き上げて、展示までしたんだ。何億円という費用を使ってな。国の基盤は完全に脆弱化しているのに、空々しい国威を内外に誇示したって、全体的な疲弊はどうなるものでもないぜ。
 小泉政権は郵政民営化はよかったけど、規制緩和の構造改革路線は、明治の「地租改正」の時の下層農民みたいに、小商工者を下方分解へ導いた。地方のいたる所の小商店は店を閉じ、軒並みシャッターを降ろすことになったんだ。救治策なんてどこにもない。そこへ安倍を経て、福田政権だ。これは派閥利権政権で、なんの構想も持っちゃいないとしか思えないね。
 まあな。郵便局なんて、親方日の丸の官制の欠陥丸出しで、権威的で偉そうなうえに、サービス精神なんて皆無だった。いまだにトロイ局員がいて、自分たちがおかれている立場にまるで無智で、競争相手がどんな料金で、荷物を扱っているか、知りもしない。先日も、「冊子小包」を持っていくと、「開封してないのは困ります」などと言うんだ。他の局員の時は何も云わないのに、この女の局員は違う。まあ、この局には日頃世話になって[いる]から波風を立てたくないんで、とぼけた風を装って済ましたが、ほんとうは、おまえ、少しは勉強しろよ、宅配業者に対抗するために、何年か前に「書籍小包」から「冊子小包」へ転換した祭、封の一部を切り落として中味を確認できる開封状態にしなくてもかまわないことになったはずだ。また、それまで付随の書類などの同封も禁止されていたのが、それこそ規制緩和し、「信書」等でないかぎり、納品書や事務通信文の同封は可能にしたじゃないか。自分の仕事なのに、そんなことも知らないのか、と思った。その時のパンフレットが手許に残っていないんで、残念ながら確認することはできないけどな。
 「困ったちゃん」はどこにもいるものね。昔、吉本さんがやっていた『試行』に「予約切れ」の通知を挿入してたら、駄目だと言われて、全部、完全に開封させられたと「後記」に書いていたけど、それからいうと、隔世の感があるね。でも、いまでも役所体質が染みついているんだろうな。反対のことでいえば、現場の配達員なんか労働強化で大変だと思うよ。
 そうだろうな。 松 この間、「岡井隆への提言」という討議の記録(『現代詩手帖』2007年6月号)を読んだら、北川透教授が、そこでの発言の冒頭にこんな言ってたよ。「どこかの国の厚生労働大臣が『女性は子どもを産む機械だ』と言った。これで機械の評判が落ちちゃったんですね。」って。岡井隆を「歌を産む機械」と言いたいためのさわりなんだけどね。今風の嫌な決まり文句で言えば「何様のつもり」なんだと思ったよ。
 偉くなったもんだな。「どこかの国の厚生労働大臣」だって、バカか。われらの政府の柳沢大臣だろうが。寝惚けたことを言うんじゃねえよ。よく言えるな。少なくとも、わしなら、こんな[こと]をいう男が政府の主要なポストを占めていることに、怒りをおぼえるとともに、おのれの無力を想う。「産む機械」もへちまもあるもんか。今の日本は、住宅事情から生活時間まで、子どもを作り育てる社会環境をどんどん喪失しつつある。学校の給食費さえ払えない家庭が増えているんだ。子供を狙った犯罪だって、明らかに増えているはずだ。社会基盤を健全化する方策もとらずに、女性に「産む機械」として励めって言ったって、通用するはずがない。
 おれ、七人兄姉の末っ子だけど、父親が早く死んで、貧しかったが、山の農家で、村も家も牧歌的で、山野がおれらの庭だった。その意味じゃ、いい子ども時代だったと思っているよ。村上春樹の『東京奇譚集』の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」が、いまの風俗や民俗を象徴しているような気もするからね。                 
 「犬は好き?」と私は尋ねた。
  彼女はそれには答えず、別の質問をした。「おじさん、子どもはいる?」
 「子どもはいない」と私は答えた。
  女の子は疑り深そうな目で私の顔を見た。「子供のいない男の人とは口をきいちゃいけないって、うちのお母さんが言っていた。そういう人はカクリツ的にへんてこな人が多いんだって」
 「そうとも限らないけど、でもたしかに知らない男の人には注意をした方がいいね。お母さんの言うとおりだ」と私は言った。
 「でも、おじさんはたぶん変な人じゃないよね」と女の子は言った。
 「違うと思う」
 「急におちんちんを見せたりしないよね?」
 「しない」
 「小さな女の子のパンツを集めたりもしてないよね?」
 「してない」
                 
 おまえはどうなんだ。
 う〜ん、じぶんでは「出来損間違い」と思ってるけど、所謂「変態」じゃないとおもうけど‥‥‥。それにフロイトの指摘をまつまでもなく、ヘンタイ的要素ってのは、みんな持ってるもんだからね。(「猫々だより」67 2007.11)

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「ニャンニャン裏通り」松岡祥男@「猫々だより」  ファイル作成:2006.12.06 最終更新日:2007.11.07