わたしが吉本隆明の著作や発言を、意識的に追跡するようになったのは、一九七三年の暮れごろだとおもう。大岡昇平との対談「詩は行動する」が『文芸』一月号に、講演「古代歌謡論」が『展望』一月号に、それぞれ掲載されていて、購入した。それ以後、店頭や広告で見つけたら、必ず入手し、読むようになったのである。著書でいえば、講演集『敗北の構造』と対談集『思想の根拠をどこにおくか』がそれを決定づけたといっていい。
なかでも、『思想の根拠をどこにおくか』の巻頭に置かれた、この本の編集者の質問に答えるかたちで、書き下ろされた「思想の基準をめぐって」は、わたしにとって重要な意味を持つものだった。
それは、思想の党派性の揚棄を説いた、多くの示唆と批判に富むものであった。それを拠りどころに、わたしは一九七〇年代を潜ったとおもっている。そのことを抜きにして、わたしの〈吉本隆明体験〉ははじまらない。
太平洋戦争敗戦から十五年後の、日米安保条約改定に際して、社会を二分するような形で反安保闘争が起こっている。このとき、スターリン主義批判などをテコに、既成左翼の枠組みを越えようとする動きも、社会的な規模で初めて台頭した。その新左翼運動が、六〇年代後期の大学紛争や全共闘運動を経て、拡散し、社会構造の根底的な変容によってしだいに退潮する時期、新左翼の政治党派は熾烈な殺し合いの党派闘争へ雪崩込み、自滅過程に突入していた。
四国・高知においても、事情はそんなに変わらない。東大闘争を契機に、再び学生運動が大きく盛り上がるなか、六〇年から活動をつづけていた人達が中心となり、高知大学の学生運動の再生を図り、その勢いは既成自治会を凌駕し、大学占拠闘争まで発展した。そんな流れの中に、夜間高校生だったわたしも紛れ込んだのである。
しかし、情勢はすぐに悪化した。高知大学の学生運動は、それまでの日本共産党の民主青年同盟に代わって主流を占めた革共同中核派から、主要部分が離脱し、対立するようになる。それに民青との敵対もあり、険悪な空気が支配する。わたしたち高校生も、突出した部分は、学校からつぎつぎと退学や停学の処分を受けた。そこへ追い討つように党派間の死闘が本格化したのだ。
嫌気がさした多くの学生や青年労働者は、潮が退くようにそれぞれに散っていった。それは正しい判断だったといえる。時代的な契機や避け難い状況によって、事態と正面から立ち会わざる得なかった者が、ひとつの事態の収拾や敗北による屈折とともに、新たな方向に歩み出すことは、当然肯定されるべきなのだ。高校なら高校で、学校の管理体制や教育者の欺瞞性を批判して、反抗し、処分されたとしても、それはそれで本人が引き受けるしかない情況からの負債である(真っ向からの対決を回避し、警察に鎮圧を要請するような学校の恥知らずな体質や、卑劣にも恫喝や中傷を加えた教師たちの醜い態度を、決して忘れることはないにしても)。そこから、その後どう身を振ろうと勝手だ。ところが、旧い政治主義者や活動家は、その後も、それを踏まえて社会的に何らかの活動しなければならないと錯覚する者がほとんどであった。わたしのように始めから半社会人として働いていて、激動の時代は終わったといわれても、行き場のない落ちこぼれは別にして、勉強して大学に進学しようが、職を得て社会へ出ようが、とやかく言われる筋合いはない。わたしは誰がなんと言おうと、それが全共闘運動の優位性のひとつであり、時代の水位だと思っている。
情況はたえず相互規定的である。ある面、全左翼運動の極北である連合赤軍の錯誤と限界は、会社に入社試験があるように、入るについては、本人の意志もやる気も問われるだろうが、その共同意志から離脱する自由を保証しなかったことに、そのひとつはある。資本主義の典型である企業にも、解雇という階級的処分もあるが、退社しようと思えばいつでも辞めることができる。たとえ明日の生活の当ては無くても。出口を閉ざし塞いでいたから、査問が横行し、死の粛清が発生したのだ。そんな比較はナンセンスで、そんなレベルの問題ではないとは、わたしは言わせない。離脱を公然と許容する反体制組織はひとつも存在していない。だからといって、この考えを解党主義者の空想だとは、わたしは言わせない。現存の政治体制や社会よりも、開明性をもたない思想と組織は、すでにその存在意義は半ば損なわれているからだ。はるか昔に親鸞は言っている、「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと」(『歎異抄』)。
これはソビエト連邦が崩壊し、社会主義への志向が幻滅に変わったことと別途に言い得ることである。国家が支配と抑圧の表象であることは、二一世紀になっても変わっていないからだ。
長い前振りになってしまったが、わたしが、詩を別格として、講演集と対談集から吉本隆明に入っていたのは、それが比較的理解し易かったからにほかならない。
吉本隆明の対談は、一九五七年の『映画評論』十二月号のポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の映画『地下水道』をめぐる山本薩夫との対談に始まり、その数は、単行本として刊行されたものも含めて、二〇〇本を超えている(さらに、これに一九五六年の『新日本文学』二月号の「映画合評」を皮切りとする座談会や、聞き手の氏名が明記されたインタビューを加えると、四〇〇本以上にのぼっている)。
それを一冊の文庫本にセレクトするのは難しい。
吉本隆明の対談は、対談相手が変わっても、話題や論点がその場限りのものではなく、内在的な思想過程がその基底に脈々と流れていて、ひとつの大河をなしているからだ。だから、どんな小さなインタビューでも、ないがしろにすることはできないのだ。それは対談やインタビューに限らず、吉本隆明の〈全表現〉を貫く、著しい特長である。
しかし、この無謀ともいえる企画にも、じゅうぶん意義はある。
対談は開かれたものだ。どこからでも入ることができる。話題からも、人物からも、テーマからも。そして、ひとつの時代を象徴するような白熱の対談も、多くの関心が集中した注目の対談というものも、また存在するからである。
わたしが吉本隆明の追跡を始めた当初でいえば、江藤淳、鮎川信夫との対談が、双璧をなしていたといっていい。
江藤淳との対談は、「文学と思想」(一九六六年)が最初で、二人の立場が隔たっているにもかかわらず、両者がぞんぶんに自分の考えを述べ、互いに深い理解と鋭い問題意識の応酬と交換で、つねに注目を集めるものだった。
左翼陣営からは、吉本は左翼に対しては仮借なき批判を加えるにもかかわらず、江藤のような保守的な文士と丁丁発止の対談を繰り広げるのはおかしいなどという、愚かな非難の声もあがっている。セコイ連中だ。その延長戦上で、反核運動への批判と反批判の応酬のさなかに行われた「現代文学の倫理」(一九八二年)は、その雑誌の編集長が「編集後記」に、自らの立場を踏みはずして、当の対談の感想(評価)を書きつけるという、呆れたオマケまで生んだのである。なにごとにも、暗黙のルールもあれば、礼節というものも、分ということも、あるはずなのだ。それすら、かなぐり捨てたところに、反核運動の狂騒ぶりがあったといえる。
一方、鮎川信夫との対談は、同じ詩人であり、戦後詩を主導してきた「荒地」グループの仲間ということもあり、より親密な相互理解のうえに、詩から社会状況全般に渉る対談が交わされてきた。二人の対談は、詩の世界に閉じこもることなく、関心をたえず開いてきたところにあった。
鮎川信夫との対談に匹敵するような、広がりのある対話を、いまの詩の雑誌から見出すことができない。それは真正の詩論家の不在を物語るものであり、詩壇の閉塞化と全体的な凋落を示しているといえるだろう。そして、鮎川との対談は、最期にロス疑惑をめぐり、激しい意見対立を露呈し、長年の盟友ともいうべき二人は、ここで決定的な訣別を遂げたのである。これは瞠目すべき事件だった。戦地に出征した兵士体験のある鮎川は、戦後、内部に厭世意識を核にした奥深い均衡地帯を形成し、詩や詩論はそこを通過したうえで表現されてきていたのだ。その自己懲罰にも似た厳しい均衡が崩れて、生の実感が吐露されるようになった。そこに、読者にとっては意外な、秘められた本音が露出したのである。その決裂も含めて、二人の対談は重要なものだ。
さらに、挙げるとすれば、鶴見俊輔だとおもう。
鶴見俊輔は吉本隆明より二歳年上だが、同じ戦中世代であり、戦後は「思想の科学」の主要メンバーであり、その運動を基盤にした「転向」を主題とする共同研究や、六〇年反安保闘争へのコミットや、ベ平連の活動など、その思想と行動はかなり近接している。大衆の原像を基礎に据え孤立を怖れない吉本隆明と、シニカルな心情を宿しながら融和を求める鶴見俊輔は対照的であり、好敵手ともいうべき距離にあるといえる。
鶴見俊輔との対談は、そんなに多くはないが、なにか時代の節目に呼び合うように行われているような印象がある。橋川文三を交えた「すぎゆく時代の群像」(一八五八年)から、藤田省三・谷川雁の四人で行われた安保闘争直後の討論「ゼロからの出発」(一九六〇年)や中村稔が参加した鼎談「宮沢賢治の価値」(一九六三年)や河合隼雄を含めた「宗教と科学の接点を問う」(一九九〇年)と、「どこに思想の根拠をおくか」(一九六七年)や「思想の流儀と原則」(一九七五年)や「未来への手がかり/不透明な時代から」(一九九九年)は、いずれも、思想的なポジションの確認作業のようになされていて、それが時代の結節点をあらわにしてきたのだ。
その後、吉本隆明の対談は、どんどん多様化し、対談相手も多彩になり、集約点を人物に求めるよりも、主題や時代の動向に求めた方が適切な様相を呈して、現在に至っているといえるだろう。
その中には、埴谷雄高との『意識・革命・宇宙』、今西錦司との『ダーウィンを超えて』、山本哲士との『教育 学校 思想』、栗本慎一郎との『相対幻論』、芹沢俊介との『対幻想』『対幻想 平成版』、坂本龍一との『音楽機械論』、佐藤泰正との『漱石的主題』(これは本書収録の対談をさらに発展させるかたちで行われたものだ)、赤坂憲雄との『天皇制の基層』、森山公夫との『異形の心的現象』など、単行本として刊行された、質・量とも充実した対談も数多くある。
吉本隆明の対談の特質については、『吉本隆明全対談集』(一九八六年までの殆どの対談を収録)に寄せられた、奥野健男や清岡卓行などの推薦の辞が明確に語っている。
「吉本は仲間うちの対談ではなく未知の対象、あるいは敵と対談することを好む。海外の思想家であろうとも、専門家であろうとも、相手に負けないくらい勉強して臨み、その本質を鋭く衝く。その努力と知識と判断力、分析、綜合力には舌をまく以外ない。訥弁で伏目がちながらその論理は強靭で正確である。そして相手に心を配するやさしさも無類だ」(奥野健男)。
清岡卓行は、吉本隆明の最も親しめる文学的風貌は対談のなかにあるとしたうえで、「新しく多様な現実にたえず眼ざめながら、詩的で論理的な主体の持続を失わず、他人への優しさと厳しさをあわせもつ彼の独特な現代性が、日常的な拡散性や話し言葉の平易さを通じて、いわば全人生的なシャッフル・プレーの魅力を示している」と書いている。わたしは、これらに付け加える言葉を持たない。
大西巨人や岡井隆や谷川俊太郎などとの対談はその典型であり、また高橋源一郎や中沢新一といった下の年代の対談者に対しても、少しも権威ぶるところはなく、真摯に向かい合い、その個性や可能性を尊重し、新鮮で豊穣な対談を生んでいる。
吉本隆明の現在までの全対談のなかで、あと特筆すべきことは、ふたつあると思う。
そのひとつは、海外の思想家との対談だ。それは海を隔ててというよりも、歴史の段階の差異をはさんだ思想の激突という意味も潜在的にはらみつつ、思想のクロスを念頭に置き、企てられているからだ。そのいくつかは論点が噛みあわず、擦れ違い、洋の東西の歴史的展開の溝の深さを顕わにしたものもあり、その意味でも、思想の劇をまざまざと見せつけることになっている。
そのなかでは、なんと言ってもフランスの哲学・思想家ミシェル・フーコーとの対談が圧倒的な意義を持つものだ。一九七八年に行われたこの対談は、マルクス主義の世界史的な限界をめぐるやりとりで、インターナショナルの思想基盤がその根底で、地殻変動を起していることを踏まえて、未踏の課題へ向けた試行を模索すべき段階を、深く告知するものであった。この対談については、通訳の問題もあり、互いの発言が正確に伝わっていたかどうか怪しむ向きもあるが、それはそれとして、文化的な障壁を越えて、思想的にも、人格的にも、貴重な意見交換がなされたことは、誰も否定することはできないはずだ。
吉本隆明と対談した海外の思想家を列挙すれば、ローレンス・オルソン、ジャン=ピエール・ファイユ、フェリックス・ガタリ、ジャン=フランソワ・リオタール、ジャン・ボードリヤールなどである。吉本隆明はこれらの対談を「好奇心にかられて、まるで性能のわるい迎撃ミサイルのように」(「対話について」)と謙遜して書いているけれど、思想の〈世界性〉と〈同時性〉を開示する試みであり、意義深いものである。
その他に、イヴァン・イリイッチとの公開の対談があるが、これはなぜか公表されるに至っていない。どんな事情があるにせよ、聴衆の前で行われたものだから、読者としては、その活字化を期待するのは当然である。
吉本隆明の対談で、もうひとつ特異な位置を占めるのは女性との対談である。
女性との対談は少ない。それは吉本隆明の独特の〈はにかみ〉によるといえるだろう。吉本隆明は、埴谷雄高が「安保闘争と近代文学賞」というエッセイで書いているように「絶えずはにかみながら不思議なほど穏やかな笑いを伏目のなかにつづける」人である。それが女性となると、いちばん最初のロールシャッハ・テストを元にした馬場礼子との対話が如実に示しているように、てれや苦手意識がともなうのではないだろうか。それには個性ということもあるだろうが、それ以上に、世代的な特徴のように思える。
川端康成の『伊豆の踊子』(一九二六年)に、旅芸人の一行と同宿になった男が、踊り子の肩に手を触れると、母親が生娘に何をするんだと叱責する場面がある。近年、モーニング娘の後藤真希の主演でテレビ・ドラマ化された際、肩に少し触ったくらいで怒鳴りつけるというのは通用しなくなっているから、踊り子のお尻を撫でるという設定に替えていた。男女の世相は、凄まじい変貌を遂げている。そこでは、年代的な拘束は理解されず不自然な緊張に映るという面も、自在さがふしだらに見えるという隔絶もはらんでいる。しかし、出戻り娘は一家の恥みたいなところもあったのが、いまではバツイチとして社会的に罷り通るようになっている。これは悪いことではない。
吉本隆明の女性との対談は、富岡多恵子や大庭みな子との対談もあるが、むしろ、違う表現ジャンルの女性との対談がうまく行っているような気がする。特に上野千鶴子との対談は話題を呼んだ。上野が吉本隆明の弱点(?)を巧妙につき、女権論の立場から攻め込んだものだ。巷間では、もう一度対談すべきだという声もあったが、わたしはそうは思わなかった。確かに論議の上では、上野の方が圧しているようにみえるが、よく読めば、上野が言い募ればつのるほど、そのフェミニズムの痩せた思想と、小林秀雄がいうところの「女流」でしかない上野の貧しさが露呈し、不毛の対談へ落ち込む寸前なのだ。
それよりは、少女マンガ家の萩尾望都や、シンガー・ソングライターの中島みゆきや、ジャズ・シンガーの橋本一子や、香水アドバイザーの平田幸子などとの対談がずっといい。ゆとりある対話が、のびやかに展開されているからだ。それは彼女らが、もはや女であることを楯にする必要のない〈自在さ〉を獲得しているからであり、他者を尊重することの大切さや理解することの美質を身につけているからだと思う。
この解説を書きながら、あらためて思ったのは、吉本隆明という人とその思想は、つきることのない魅力と破格のスケールを持っているということだ。
(2005年2月10日発行)