吉本隆明・その人と思想

松岡祥男

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 吉本隆明さんが、二〇一二年三月十六日に亡くなりました。享年八十七歳でした。
 わたしは、吉本さんの訃報をNHKの朝七時のニュースで知りました。まだ寝ていた妻に告げに行ったのですが、声がつまって言葉が出ませんでした。妻は、わたしの様子から事を察しました。吉本さんが入院されていて、きびしい状態にあることを聞いていましたから。

     2
 吉本隆明さんは「戦後最大の思想家」というふうに言われていますけれども、それは表面的で、ほんとうに吉本さんの仕事を尊重し、真向かっている人はそんなに多くはないような気がします。また、たくさんの「吉本隆明論」が刊行されていますが、恥知らずにも、主要な著作すらまともに読まずに書かれたものも少なくありません。
 あなたは、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』の三部作を、どう考えていますか?
 あなたは、吉本さんの原理的達成である『ハイ・イメージ論』『母型論』『アフリカ的段階について』を、どう理解しますか?
 あなたは、吉本さんの出立の原点である『固有時との対話』から『記号の森の伝説歌』へ到る詩を、どう評価しますか?
 あなたは、吉本さんの『源実朝』や『初期歌謡論』や『源氏物語論』『西行論』や『親鸞』『良寛』などの古典論を、どう思っていますか?
 あなたは、吉本さんの『高村光太郎』『島尾敏雄』『書物の解体学』『悲劇の解読』『宮沢賢治』などの詩人・作家論を、どう位置づけますか?
 こんなふうに、あなたはノノと問いつめていけば、なんのことはありません。ろくに読んでもいない人たちが、手前味噌なことを言っているだけなのです。
 吉本隆明さんの仕事は、世界思想の〈未踏の領域〉に届いていることは疑いありません。それをほんとうに重要とおもうなら、その営為に立ち向うべきです。
 現在の思想状況は、停滞と腐敗の中に混迷の度を深めています。それはなによりも、根底的なモチーフの喪失と皮相な打算のうちに内在しているようにみえます。
 日本の近代が西欧を模倣することから始まったように、いまでも欧米の思潮を模倣し追従することではあまり変わっていません。この猿真似体質は、同じ言語圏内にあるものを逆に軽視し見下すという、自己卑下の〈後進性〉につながっていることは言うまでもありません。それは裏返しの劣等意識の現われにすぎないのです。真にオリジナルな構築に敬意を払い、それを検討することこそが、真摯な態度といえるのではないでしょうか。
 確かに、誰しも日々の生活に追われています。そして、雪かきのように目の前の山積した雑務をこなすことが必須といえるでしょう。それは致し方のないことです。人はじぶんにかまけるようにしか生きることはできないでしょうから。でも、思想や文学といった人間の〈本源的な欲求〉にかかわる場面では、卑俗な現実を越えて、人類の理想の方位を目指して、実際の現実に立ち向かっていくしかありません。それが〈情況批判〉ということです。
 吉本さんはいつも孤立を怖れずに、情況への発言をつづけてきました。そこではさまざまな反発も異論もあるでしょう。それはいいことです。安易な同調が忌避すべきことであるように、つまらない反感も泡沫にすぎませんが、それも〈現実性〉というものです。それでも、人間は自分の生きている時代の〈限界〉を超えようと志向します。それが〈本質〉としての思想ということです。

     3
 わたしが初めて「吉本隆明」を知ったのは、六〇年代末期でした。
 当時、わたしは高知大学の全共闘運動と連動するかたちで、高知部落解放研究会というグループを夜間高校の仲間と作り、活動していました。七〇年反安保闘争という大きなうねりの中にあったのです。その流れの内側で、「吉本隆明」という名は流布していました。わたしもまじめに勉強しようと思い、書店で『共同幻想論』を手にしました。ところが、落ちこぼれのわたしにはその章題すら読めなかったのです。「禁制論」「憑人論」「巫覡論」‥‥‥、字句も判らないものを読むことは到底できません。当然、購入しませんでした。
 しばらくして、映画「橋のない川」上映をめぐる部落解放同盟と日本共産党の対立で、大きな衝突がありました。この時、わたしにも逮捕状が出たのです。わたしは警察の追及をかわして潜伏していましたが、大学の救対の人や弁護士と相談し、逃亡を続けていると、逮捕された時の勾留が長くなると言われて、出頭することにしました。
 その後も、追手前高校生徒会役員処分撤回闘争や宿毛湾原油基地反対闘争などに取り組み、大きな集会やデモがある時は上京して暴れていました。しかし、逮捕や失職や高校中退というじぶんの情況の変化のなかで、政治党派に属さない者はじぶんで足場を確立していくしかありません。そんな中、吉本隆明の詩と、『敗北の構造』や『どこに思想の根拠をおくか』を読んだのです。この二つの本は講演集と対談集ですから、比較的入り易かったこともあって、ここから、吉本隆明の読者になったのです。もちろん『試行』の購読も始めました。
 連合赤軍のあさま山荘事件、中核派と革マル派を中心とする殺し合いの「内ゲバ」は、新左翼運動にとどめをさすものでした。地方でも学生運動は退潮し、社会の様相も第一次石油ショックを機に変わりました。行き場を失ったわたしたちは『同行衆』という同人誌を始め、そこに詩を発表することになりました。それがなんとか生活しながら、拡散する状況に抗する道だったのです。

 朝はおとずれる
 ことわりもなしに
 跡かたもない廃屋のように
 日はあらたまるものだとしても
 傷のようなこだわりがある

 パン屋の同僚と二人で
 となりの席をうかがいながら
 ひとさじ
 ひとさじ
 スプーンですくってのんだ
 一杯のコーヒーよ
 ぼくのふるえを鎮めえたか

 一日のつかれで
 机を満たすために夜間高校はあった
 そこでも 指名されると
 足がすくみ
 教科書がふるえ
 けっして読めないわけではなかったのに
 声がかすれて泣きだしそうになった
 それは 不安というよりも
 精いっぱいの異和の表現ではなかったのか

 おお ひとつひとつの姿に
 言葉の杭をうちこんでおけ
 今朝の心は
 まぎれもなく支えられているのだから

       (松岡祥男「ある手記」)

 じぶんたちの同人誌を吉本さんにも送っていました。この詩は『同行衆』第6号(一九七八年八月発行)に書いたものです。このとき、『試行』の購読費の領収書のはがきに、吉本さんは「『同行衆』の詩、一篇だけで云うのは早計ですが、ちゃんと一人前に出来上った詩で、この水準で10篇もできれば、ユニークな作品集となると存じます。折角の御健在を祈ります」と書かれていました。
 この吉本さんの言葉は、わたしにとって初めて政治集会に参加した折、突然、おまえが連帯の挨拶をやれと、部落研の仲間に振られて、壇上に立った時、いっせいに〈他者のまなざし〉がじぶんを吹きぬけていった決定的な体験に、まさしく匹敵するものでした。
 こんな私的な前振りは不要かも知れませんが、人と人には出会いがあるように、思想にも〈入口〉があります。それを抜きに一般的に語ることは、少なくともわたしはできないのです。

     4
 吉本隆明は一九二四年十一月二十五日、東京・月島に生まれている。三男である。吉本家は天草で造船業を営んでいたが、折からの不況で倒産してしまい、一家をあげて東京に出てきたのある。吉本隆明はこのとき、母親の胎内にいて、生まれたのは東京なのだ。
 東京の場末ともいうべき佃島・月島地域で育った幼少年期は、濃密な共同体意識と牧歌的な時代を背景として、輝いていたに違いない。それはつぎの詩に象徴されるだろう。

 くろい地下道へはいつてゆくように
 少年の日の挿話へはいつてゆくと
 語りかけるのは
 見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
 三銭の屑せんべいに固着した
 記憶である
 幼友達は盗みをはたらき
 橋のたもとでもの思ひにふけり
 びいどろの石あてに賭けた
 明日の約束をわすれた
 世界は異常な掟てがあり 私刑があり
 仲間外れにされたものは風に吹きさらされた
 かれらはやがて
 団結し 首長をえらび 利権をまもり
 近親をいつくしむ
 仲間外れにされたものは
 そむき 愛と憎しみをおぼえ
 魂の惨劇にたえる
 みえない関係が
 みえはじめたとき
 かれらは深く訣別している

 不服従こそは少年の日の記憶を解放する
 と語りかけるとき
 ぼくは掟てにしたがつて追放されるのである

        (吉本隆明「少年期」)

 一九三四年、小学四年の時から今氏乙治の私塾に入り、以降七年間に渡ってこの塾に通い、この塾の先生の影響もあって詩作を始めている。その頃の習作から詩人としてデビューするまでの、現存するすべてのものが『初期ノート』に収録されている。ここに吉本隆明のすべての原型があることは、誰しも認めるところである。
 一九四一年十二月に太平洋戦争が勃発し、戦争の時代に突入した。そんな中、吉本隆明は米沢高等工業学校に入学し、戦時下の学生生活を送り、徴用動員の富山県魚津市の日本カーバイトで敗戦を迎えている。吉本隆明は、生きて戦後にじぶんがあると全く思っていなかったのだ。だから、敗戦を境とした戦争と戦後の断絶は、大きな亀裂となり、深い打撃を与え、それが吉本隆明という思想家の〈誕生〉を決定づけたといっても過言ではない。それがのちに『文学者の戦争責任』『高村光太郎』『芸術的抵抗と挫折』という鮮烈な戦争責任論として噴出するのだ。
 戦後の混乱の中にも、詩作と思考はつづけられる。その一方で、一九五一年に入社した東洋インキ製造で、色材の開発研究の仕事に従事し、パラ・ブラウンという染料を作っている。しかし、その化学技術者としての安定した身分も長きつづきはしなかった。吉本隆明は労働組合の組合長に推挙され、会社側との交渉でストライキを準備するような激しい闘争を展開し、敗北し、職場をたらいまわしされることになるのである。そして、一九五五年六月の人事異動を拒否して退社している。
 この時期、一九五二年に詩集『固有時との対話』、翌年『転位のための十篇』という二つの詩集を自費出版し、詩人として登場したのである。さまざまな詩人やいろんな職場の詩のサークルとも交流していたに違いない。一九五四年に「荒地」グループに参加しており、また奥野健男や島尾敏雄などを同人とする『現代評論』に加入、そこに吉本思想の原基というべき「マチウ書試論」を発表している。この頃から、新日本文学会のメンバーや「近代文学」の同人との交渉も活発になったに違いない。
 こういうふうに、吉本隆明の軌跡をスケッチしているのだが、ここでわたしが触れたいのは学生運動との関わりである。
 「全学連主流派のブレーン」という週刊誌記事で、金子鉄磨が「反戦学同」と関わりがあったと書いているが、事実かどうかは不明だ。一九五六年九月に、全学連初代委員長の武井昭夫との共著で『文学者の戦争責任』を上梓している。これが吉本隆明の最初の評論集である。共著で本を出版するほどに武井昭夫との絆は強かったのだ。
 後年、武井昭夫は吉本の論敵である花田清輝の側に立ち、日本共産党を除名されてからは、新日本文学会の支柱的な存在となって、対立的な関係に突入している。
 しかし、『文学者の戦争責任』が出版された時、吉本隆明は失業者で、夫人との同棲を始めたばかりだったので、生活的に困窮していた。それを見た武井昭夫は、本の印税は全部吉本の取りでいい、という友情に溢れた態度を示したとのことだ。吉本隆明は、そのときの武井の厚意に対する感謝の気持ちを、対立を越えて、持ち続けていたと思われる。だから、そのことを決して秘すようなことはなかったのである。

     5
 言うまでもなく、安保ブントは日本共産党の東大細胞の中から生まれている。書記長の島成郎をはじめとする主要メンバーは、ほとんど日本共産党の党員だったのだ。武井昭夫の影響は強かったのではないだろうか。五〇年代の終わりには、武井昭夫は『現代評論』が解散になったあとを受けて創刊された『現代批評』の同人であった。『現代批評』は奥野健男をはじめ井上光晴・橋川文三・清岡卓行ら、もちろん吉本隆明も同人であった。
 吉本はメンバーを代表するような形で、『近代文学』の「批評の誕生」という座談会に出席しているし、また武井とともに同誌の「戦争責任を語る」という総勢十二名の大座談会にも参加している。上の世代からは、武井・吉本は二人三脚のようにみなされていたのかも知れない。
 吉本隆明のもっとも早い学生運動に関する発言は「思想と組織ム全学連問題をめぐってム」という『春秋』(一九六〇年一月号)に掲載された談話記録だ。そこからも、新しい学生運動の動きに注目していたことがわかるが、それ以前にも、早稲田大学で武井と吉本が講演したことを、早稲田の学生だった作家の李恢成が書きとめている。そこから考えると、一九五八年十二月の共産主義者同盟(ブント)結成の動きと潜在的に連なっていたのかもしれない。なぜなら、吉本隆明は一九五七年の段階で、すでにこう宣明しているのだから。

 一陣の昏い夢のように 白けきつた首都へ
 はぐらかされるかもしれない希望へ
 たどりつこう 奇妙な敵の首をしめ
 ちつともいんぎんを通じさせないうちに  闘いきれたらとおもう
 われわれに一人の死者さへなく かえつて
 死者となつたほうがよかつた
 と思えるほど苦しみを感じながら
 勝利をおさめられたらとおもう
 鉄さびをかぶつた街路樹に 水撒車が
 忘れていつた水を撒いてやり たくさんの
 世界の苦闘が憩うように  少女たちもそこで
 たわむれているといい

 奇妙な幕間に忘れていた 闘うときに
 こころの傷手はつよい武器になり
 われわれの敵をずたずたに引裂く もしも
 われわれに疲れきつた恩赦があれば
 われわれもまた引裂かれる

 首都はいま
 半ばふりそそぐ陽だまりのなかにあり
 ちよつと
 首をつき出せば其処へ出られる
 ような気がする だがわれわれは一陣の
 まだ昏い夢なのだ

    (吉本隆明「首都へ」前半部分)

 吉本隆明は『日本読書新聞』の一九五九年の新年号に「死の国の世代へム戦闘開始宣言ム」という詩を書いて、戦後世代との連帯と共闘の意志を力強く表明している。そして、翌年の『中央公論』一九六〇年一月号に「戦後世代の政治思想」という論文を発表したのである。これは時代を画する決定的な論考で、反安保闘争に多大な影響を及ぼしたと言われている。
  一九六〇年一月に、岩淵五郎や鶴見俊輔・松田政男らと、ブントと全学連主流派支持を掲げた「六月行動委員会」をつくり、行動をともにすることになったのである。二月九日には竹内好や埴谷雄高らとともに、島成郎らブント幹部と会見(これがのちの「『将たる器』の人」という島成郎追悼文で書かれたことだ)。そして、他の発起人を加え二十三名の連名で、全学連救援カンパ運動の趣意書を作成し、各方面へ発送したのである。
 さらに島成郎・葉山岳夫を迎えて『中央公論』四月号で「トロツキストと云われて」という鼎談を行い、全学連主流派の考えを世に広く伝えるように、公開の場への登場を促す役割を果すとともに、唐牛健太郎全学連委員長の率いる北海道学生新聞連盟書記局発行の機関紙に、「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」という檄を発している。

 現象的なものではない、本質的な思想闘争のない現在の状況は絶望的である。したがつて未来への希望は、本質的な思想対立とたたかいをまき起すことによつてのみつながれうるだろう。十五、六年も現象的な平和が続いていることは、明治以降の近代のなかでは、はじめてのことであろう。この中で平和的にして大衆的な規模で「転向」が行われている。だからわれわれはまつたく新しい思想的な課題に直面している。学生諸君が権力からの弾圧にたえうるだろうことはうたがいない。しかし、平和的なムードの中で、思想を腐蝕させないで保ちつづけることは、またきわめて困難なことであり、これから以後、諸君に課せられている、大きな問題である。ここから、いわば現在の社会的な情勢における必然として、学生運動が、あるときは前衛的な役わりを、あるときは学生運動固有の役わりを負わねばならないという現在のありかたが生れてくる。これに耐えよ。その時、未来への希望は諸君のうちにある。これに耐えぬなら諸君も腐り、崩壊してしまうのである。
 (『道学新共同デスク』第3号一九六〇年四月二五日発行・全文)

 むろん、吉本隆明自身も反安保の集会やデモに、一兵卒として参加していたに違いない。国鉄労組などの「6・4ゼネスト」では、三日夜から四日にかけて、全学連主流派の学生と一緒に品川駅構内でゼネスト支援の座りこみに加わっている。そして、六月十五日の国会突入の時は、国会構内で短い連帯の挨拶をし、十六日未明の警官隊の襲撃で敗走し、逮捕されている。この日、樺美智子は殺された。
 その夜の様子は『週刊読書人』六月二七日号の記事からも、うかがうことができるだろう。

 「いやあどうも、サンタンたる潰走ぶりでしたよ。」笑い顔も話し方も、いつもと少しも変わらないが、ただ手首から腕まで無数のカスリ傷に赤チンが塗られているのが、あの夜の激しさを物語っているようだ。
  十五日夜、正確にはもう十六日になっていただろう、吉本氏は学生と一緒にチャペルセンター前の路上にいた。突然、催涙弾がうち込まれ、間髪をいれず警官が突進してきた。
 「とにかくひどかったですねえ、塀をのりこえて中庭みたいなところに飛び込んだんです。どんどん走っているうちにもう一つ塀があったんで、乗りこえようと思って上からのぞいたら、通用門みたいなところに警官がいっぱいいるんですよ。警視庁に飛び込んじゃったんだなあ。奴らも待ち構えていたらしくて追っかけて来ましてね。一度はうまく自動車の陰にかくれてやりすごしたんですがすぐもどって来て捕まっちゃったんですよ。」
  警視庁の柔道場に手錠をかけられ、ずぶぬれのままほうり込まれていた氏は、夜が明けると高井戸署に送られた。はじめ警察では、学生のなかにまじった氏を、威勢のいいオヤジぐらいに思ったのか、少しばかりの「同情」さえしめし、氏ももっぱらヤジ馬をよそおっていたが、それも翌日になると国会構内で演説していたことが知れて、取調べは急にきびしくなったという。

 また、和子夫人の談話もある。

  終電車が走りすぎても連絡がないので心配してました。だから警察の人が来て、捕まっていると聞いた時、思わず、アア良かった! と言ってしまったくらいです。捕まったのに良かったなんて、警察の人も呆れていました。でも、ひどい怪我や、もしものことがあったらと気が気でなかったものですから。

 (「全学連主流派のブレーン」『週刊コウロン』一九六〇年七月五日号)

    6
 結局、安保闘争は敗北し、共産主義者同盟(ブント)は解体した。
 しかし、この敗北以降が吉本隆明がより全学連主流派の擁護に徹し、公私ともに、その敗北処理と崩壊現象を引き受けていた過程といえるのではないだろうか。ブントの多くの幹部は黒田寛一らの批判に屈して革共同へ転身した。その革共同を始めとして、マスコミや日本共産党、さらに新日本文学会からも、吉本隆明は象徴的な標的として批判を浴びることになったのである。むろん、これに真っ向対峙していったのは言うまでもないことだ。
 組織崩壊と指導層の転身で、見捨てられた社学同のメンバーの相談にのり、安保闘争の総括をめぐる座談会に出席し、独自の論陣を張って、孤軍奮闘というかたちで、ことに処したようにみえる。そして、安保闘争の統括として「擬制の終焉」を書いたのだ。
 この年の暮れ、安保闘争を闘った國學院大学の学生歌人岸上大作が自殺している。それは学園祭に吉本隆明を講師に招く計画を「短歌研究会」として準備したのだが、「革命詩人、吉本隆明来る」というビラが学校当局の目に止まり、中止を余儀なくされたのである。岸上大作はたぶん、その責任を感じ、失恋と相俟って情況に絶望して縊死したようにみえる。これも雪崩をうつ敗北過程のひとつといえるだろう。
 次のような岸上大作宛書簡が残されている。

  今度は貴方にたいへんな御迷惑をおかけ致しましたようで申訳けありません。せっかくの貴方のお骨折りが無になってしまったことを残念におもいます。また、気苦労もさぞかしと存じ、すこしでも負担をおかけ致しましたことを心苦しくおもっております。どうか、研究会のみなさんにもよしなにお取次ぎ下さい。
  小生としては、貴方というひとを知り、貴方の秀れた作品なども、こんなことがなければただよみすごしただけでせうに、知ることができてそれで充分であります。今後とも、良い作品を発表しつづけて下さることを祈ります。小生も短歌がすきですし、理論上もこれからしらべてゆきたいことだらけですのでいろいろおしえていただくこともあるとおもいます。
   元気でやって下さい。
  小生は、月水金と勤めに出て、火木土と家におります。のんびりした折おたづね下さい。

     (一九六〇年十一月六日消印)

 六〇年安保闘争が決定的な分岐点となり、それまでの「左翼」(陣営)という大枠は完全に霧散し、非妥協的な様相を呈して、『現代批評』も空中分解したのである。吉本隆明は、孤立の中、安保闘争の敗北を踏まえて、自らの表現的足場を構築すべく、谷川雁・村上一郎とともに一九六一年九月『試行』を創刊した。直接購読と自主的寄稿を柱とする自立的な雑誌として開始されたのである。そこへ松下昇、浮海啓、矢島輝夫などの安保世代の若い書き手を迎え入れたことは言うまでもない。
 六〇年安保闘争において、「反米愛国」という民族排外主義の堕落した方針しか提起しなかった日本共産党は、陰に陽に、全学連主流派を中傷する組織的デマゴギーを流布し、安保闘争そのものを貶めることに躍起になっていたとみられる。その典型がマスコミと一体となった、全学連が右翼から活動資金を得ていたという誹謗キャンペーンだ。これに対して、吉本隆明は公然と「反安保闘争の悪煽動について」という反批判を書いて、この卑劣な策動を粉砕した。この発言で、安保闘争に関わり、傷つき挫折した多くの学生や労働者が救われたことは想像に難くないのである。
 「六・一五事件」の統一公判被告団から分離した形で、裁判を闘っていた常木守は、被告側証人として島成郎と吉本隆明の二人を申請している。これは却下されたが、吉本隆明は常木守の要請に応えて、法廷弁護のための草稿を準備をしていて、それが「思想的弁護論」なのだ。常木守は被告の最終意見陳述の第二部として、これを法廷で読みあげたとのことだ。
 この安保闘争前後は、吉本家には学生や活動家の出入りが激しかったものと思われる。その頃、詩人の鮎川信夫が訪問しようと、家の近くまで行ったけれど、なにやら賑やかなので、引き返したと書いている。三上治をはじめとする社学同の残留メンバー、陶山幾朗ら「SECT6」の面々、ブント解体以後の島成郎など、和子夫人のいう「二十四時間営業の家庭」という様相を呈していたのだろう。
 わたしのようなリアル・タイムで立ち会っていないものが追尋しても、到底、時代の実相に到達することは不可能だ。しかし、自らの体験に引き寄せることで、ある程度は肉迫することはできるかもしれない。そうでなければ、こんな跡づけをやる必要はないのだ。
 愉快な逸話もある。

  私が4、5才の頃、「オニーテ」という赤トラ猫がいました。当時まだ一人っ子だった私にとって、オニーテは唯一の遊び相手でした。60年代学生運動の伝説的リーダー(後に精神科医)だった、故・島成郎さんの奥さんは、大変そそっかしい人で、オニーテのことを「オナニー! オナニー!」と呼んで皆をドン引きさせたそうです。
  ブレスレットのつもりで、オニーテの前足に輪ゴムをはめたまま、うっかり忘れて、パンパンに腫れ上がらせたこともノんもノ子供ってノ。
  オニーテは、2度目の引っ越し先で逃走。そして、2度と帰って来ませんでした。

(ハルノ宵子「吉本家 歴史の中の猫たち」)

     7
 関西ブントの存続、そして第二次ブントの形成という動きのなかで、吉本隆明はどういう位置をとったのだろうか。吉本隆明は、もともと政治的な存在ではない。ただ、時代が強いる課題に真摯に答えようとしただけなのだ。そこでいえば、いわゆる同伴知識人とは隔絶しているといっていい。自らの思想を体系化すべく『言語にとって美とはなにか』という画期的な表現理論を一九六五年段階で書き上げ、そこから、さらに『心的現象論』『共同幻想論』の原理的考察に向かっている。その体系的構築と思想の自立的課題というテーマからすれば、学生運動とはおのずから位相が異なることは自明である。
 そうであっても、吉本隆明は政治運動に新たな地平を切り開いたブント、その独立左翼の流れに対して、固有の立場から支援を惜しまなかった。それは一九九六年八月の海の事故まで続いたといえるだろう。小さな労働組合の講演要請などにも応えているからだ。
 たとえば一九六七年十月、中央大学、立教大学、東京大学三鷹寮、岐阜大学。十一月、明治大学、東京医科歯科大学、立正大学、早稲田大学、愛知大学、京都大学、花園大学、國學院大学というように講演を連続的にやっているのだ。その講演内容は、過激な政治行動を煽ることを目的とはしていない。高揚する状況のなかで、独自の状況分析に基づき、岩田弘の世界恐慌論を批判するなど、安易に流れる理論動向に釘を刺すことも怠っていないが、むしろ、そこに潜在するであろう知的枯渇や渇望を潤すようなものだったといえる。
 その典型は、一九七二年の中野公会堂における叛旗派政治集会の講演である。沖縄返還という政治状勢を見据えたうえで、ほんとうは六時間くらい時間が欲しいと前置きして、じぶんのメインテーマのひとつである「南島論」に関連した「家族・親族・共同体・国家」という重厚な講演をやっている。それは一党派の思惑など遥かに超えたものなのだ。
 吉本隆明の講演は、通常の文化講演会などとは始めから様相が異なっている。〈吹きさらし〉に出て行くような姿勢で臨んでいたに違いない。浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺されたように、身の危険を感じることもあったのだろう、上着で払えば致命傷は避けられるはずだと、わたしに語ったことがある。一九六七年十一月の國學院大学での「人間にとって思想とは何か」という講演後の討論は、組織的な攻撃と「安保ブトン」などという揶揄のなか、

 吉本 いや、それはぼくはこう思います。それはブントの諸君が聞いても怒ると思いますよ。ぼくは全然べつに支持もしてないですしね、関連もしてないですから。なぜならば、ぼくはぼくじしんですから。それがどういう意味を持つかということがようするにあなたたちにはわからないんですよ。
 学生H ようするにマスターベーションにすぎないじゃないか。
 吉本 何をいってるんだよ。何いってやがんだ。
 学生H 何だよ!


 『吉本隆明の東京』の筆者石関善治郎によれば、「この講演の記録は、このあとの出来事を、『(こののち、場内騒然となり、吉本氏と数名の学生のあいだにケンカ腰の激しい口論があったが、多くの発言が聞き取りがたい』と、記す。が、現場に居合わせた筆者の記憶では、「ケンカ腰の口論」などでは、なかった。隆明は迅速な動きで壇上をかけおりると、学生の胸倉をとっていたのだ。学生Hの「何だよ!」は驚きの悲鳴に近かった。(どこからか暴力はやめろ! という声も挙がった)」とのことだ。それくらい真剣で、おのれを何ら特権的な位置に置くことなく、講演者も聴衆も〈対等〉だという鉄則を実践しているのだ。それは石関善治郎が言うように「どんな知識人とも違う」といっていい。
 一九六九年から七〇年にかけては、東大安田講堂決戦への思想的な連帯の意味も込めて、『文芸』連載の「情況」で、「収拾の論理」をはじめとして一連の痛烈な大学知識人批判を展開した。
 こういう吉本隆明の態度に対して、果たしてブントのメンバーや学生運動の活動家が、それに呼応するような姿勢で、吉本思想に向き合ったかどうかは、その世代の無惨な「葬儀屋文章」を持ち出すまでもなく、すこぶる疑わしい。第二次ブントの活動家だったTさんの話によれば、活動家の集まりで、組織の幹部が「国家が共同幻想なんていうことはありえない。あんなもの、読むな」と指示したとのことだ。
 『共同幻想論』が当時の学生運動のバイブルだったというのは、のちに捏造された伝説にすぎない。いまだに『共同幻想論』の国家止揚という主題は、ほんとうに理解されることなく屹立しており、また『言語にとって美とはなにか』の達成を踏まえた、本質的な〈継承〉もないというのが実状のような気がする。それが頽廃的な言辞の葬送曲を奏でている小利口な知的屑どもの跋扈を許しているのだ。
 七〇年代、吉本隆明は連合赤軍事件やアラブ赤軍の動きや新左翼間の内ゲバなどについて、もちろん言及している。それらは『完本 情況への発言』に収録されているが、それに対して、どんな異論や批判も自由だ。しかし、そうするには、じぶんでちゃんとその発言を読むということが、絶対的な前提である。
 他人の流布する噂や又聞きの伝聞で、印象を造り、それを齧り読みで補強するような輩が、世間には多過ぎる。それに加えて、北川透のように、新左翼間の内ゲバの停止を求める「革共同両派への提言」という知識人の声明に、吉本隆明も名を連ねていたなどという、デタラメな放言を『現代詩手帖』の「いま詩的六〇年代を問うということ」という座談会でやり、その誤りを指摘されると、醜悪な自己弁明を重ねて、詩壇的な地位の保全に躍起になっている破廉恥漢もいるくらいなのだ。
 吉本隆明の政治思想の到達点のひとつは、ある孤独な反綱領と副題された「権力について」という論考だと考えられる。そして、「七〇年代のアメリカまで」が六〇年安保闘争や全共闘運動を、世界的視野から思想的に位置づけたものといえるだろう。そこに闘う思想家の孤独な姿をみるのは、わたし一人ではないはずだ。
 だから、わたしは「字の告白」という詩が好きだ。「少年期」の世界から長い道のりをたゆみなく歩んできた、吉本隆明の心の歌だとおもう。

 空のはてみたい 澄んだ眼のなかを
 字が漂流している
 風がひるがえすと
 黒い雪片として
 まぶたのうらの皮膜に積もる
 掻きあつめ 平らにならし
 水で梳きさえすれば
 ひとつの書物ができあがるだろう

 どこかで遊んでた子供に
 時間が積もる
 肩がひとりでに重くなって
 記憶のすみにひっそりと
 帰ってくる

 はじめて字が読めた幼い日
 街がきゅうに奥ふかくなった
 突然「せんべい」と読めた すると
 「せんべい」の看板の向うに
 幻の街並が現われる

 長い書物を旅して
 ゆるやかな傾斜から
 ころげ落ちるくらいの
 線ともうひとつの線で囲まれた
 卦のあいだの路を
 戻ってくる

 疲れた夕暮みたい 真っ赤な眼のなかに
 ひっかかった
 風がひるがえすと
 こわれた字画として
 まぶたのうらの皮膜を傷めつける
 はじめて字が読めなくなる日
 それまでに

 もうこの人を去らなくては

       (吉本隆明「字の告白」)

     8
 まだ序の口なのに、紙数が尽きました。
 吉本さんが一九六〇年以降、日本のマルクスたらんことを目指していたことは確かです。
 しかし、一九九六年八月の西伊豆の海の事故以後、その後遺症と持病の糖尿病に苦しめられ、著しく視力や体力が低下したため、そのリハビリに専念することになりました。
 そんな身体状態にもかかわらず、情況に向けて発言をつづけ〈生涯現役〉を貫いたのです。また「芸術言語論」という構想のもと、自身の三部作を総合する集大成に取り組んでいたのです。
 その一貫した姿勢は、日本の近代でいえば、まさに夏目漱石に匹敵するものだったといえるでしょう。
 吉本さんが転向したなどと言いふらす連中はたくさんいますが、六〇年安保闘争の時の「唐牛健太郎」のカッコ良さに通じるのは、八〇年代前半では「忌野清志郎」だと看破しています。それが社会の変容への洞察であり、それを理解し得ない存在は、時代のある地点で停滞し、化石化しているような気がするのです。それは新左翼の命運を見ても歴然としています。形成期の先進的な思考と新鮮な活動力を次第に喪失して、組織的にも運動的にも固定化して、状況への対応能力を失い、やがて死に体に転落していったようにです。もっと大きくいえば、だからこそソ連共産党は民衆にリコールされ、ソビエト連邦は崩壊したのです。
 吉本さんの最後の遺言とも言うべき『週刊新潮』での「『反原発』で猿になる!」というインタビュー発言は、東日本大震災で福島第一原発壊滅という状況のなかにあって、猛反発にさられています。朝日新聞、岩波書店を筆頭に、知識人士の間では「草木もなびく反原発」という様相を呈しているからです。
 しかし、「反原発」はなんら正義ではありません。吉本さんの基本的な認識は揺るぎなく正確です。文明の発展は、誰も押しとどめることはできないものです。そんなことは、人類の歴史を少し振り返れば明瞭です。人間は有史以来、幾多の困難を乗り越えてきたのですから。
 平安時代の『源氏物語』の作者紫式部は、月を眺めて涙する宮廷人を描いています。その時代に、人が月面に立つことなど想像できなかったでしょう。また、呪詛によって遠方の相手を呪い殺すことは信じられていても、携帯電話で自由に対話することなど夢にも思い浮ばなかったでしょう。
 別に科学を信奉するわけではありませんが、人類の歴史を考えるとき、社会の発展は〈歴史的必然〉であることは自明です。
 「反原発」を唱え、歴史の流れに逆行する志向は間違いであることは言うまでもありません。朝日新聞社や岩波書店などが良識ぶって世論を誘導しようとしても、「朝日新聞」も「岩波新書」も電力によって輪転機を回すことで、発行されている事実は動きません。だから、原発に反対する資格が無いなどというつもりは毛頭ありません。それは雇用されている労働者が会社(資本家)に対して、異議申し立てをする権利があるのと同じです。しかし、エネルギー効率においても、コストにおいても、安全性においても、原発を超える発電技術が開発されれば、電力独占資本自体がそれに移行することは確実ではないでしょうか。
 わたしは、じぶんが高知県高岡郡窪川町に四国電力が原発を設置しようとしたのに反対したように(にわか「反原発」人士やうつけの政治主義者は、十年近くに及んだ「田舎の出来事」など知りもしないでしょう)、福島第一原発壊滅事故の収束も廃炉の目途も立たない状態で、しかもじゅうぶんな安全対策が講じられたとは到底考えられない現段階の、原発の再稼働に反対です。
 またわたしは、原発の再稼働や設置は〈住民の直接投票〉で決定すべきだと思っています。わたしはそれを基本的に尊重します。
 世の知識人士は何か意にそわぬことがあると、すぐに「衆愚」などと言い出します。まったく冗談ではありません。それはとんでもない自惚れにすぎないのです。一人の人間にはひとつの〈生命〉が宿り、それぞれの〈境涯〉を背負っているのです。その一人ひとりが社会の〈主役〉となるべきなのです。それが〈原理〉というものです。そこでいえば、意識の高低や立場の優劣や能力の有無など二の次なのです。これを〈基礎〉としない、政治的引き回しや知的方向づけは、すべて権力の支配と通底する〈抑圧性〉を保有していることは疑いありません。「自己否定」だの「大学解体」だのと叫んでいた者が、いつのまにか「大学教授」に転身し、いまでは偉そうにお説教を垂れています。この図柄も欺瞞と奢りの典型にほかなりません。
 吉本さんは、最後にいわばガリレオのように「それでも地球は動く」と言ったのです。
 時勢に容易く迎合し、偽善の仮面を被り、良識ぶった知識人士など反動的だと言わざるを得ません。新聞の言論規制やテレビの報道規制ひとつとっても、それは明らかなのです。
 日本の産業構造ばかりではなく、世界的な人口の増加を考えるとき、エネルギー問題は避けて通ることができないはずです。また科学的な研究とその社会的利用は不可欠なはずです。それが人間の本源的な知的な〈探究心〉に根差し、それが人間的解放への〈基盤〉ではないでしょうか。「核のゴミ」を言い募る反原発主義者がいますが、人類の叡知はそれを克服していく可能性を持っています。それはじぶんの子供時代と現在の社会を比較しただけでも想像できるのではないでしょうか。その加速的な変化と進展を思い浮かべてください。六〇年代末期、わたしたちはビラ一つ作るのに、鉄筆でガリを切り、謄写版で刷っていたのです。そして、官憲の監視を受けながら、街頭で一枚一枚配っていたのです。いまなら、インターネットで情報を発信すれば、すぐに伝わるのです。人間は決して、〈現状〉に留まっている存在ではないのです。
 そして、なによりも言論と表現の自由は尊重されるべきです。
言うまでもなく、福島第一原発の壊滅事故と放射線汚染の〈全責任〉は、それを設置運営している東京電力と、安全監督の義務のある政府にあります。その実際と、個人の言説はおのずから別なのです。それは混同してはならないでしょう。
 歌人の岡井隆さんの追悼の言葉をもって、本稿を終りたいとおもいます。

  吉本さんが最後にこういう発言したのは象徴的だ。無視され、反発されながら、日本、そして世界に引導を渡したのだと思う。震災後の社会がどうなっていくのか、よく分かった上で亡くなったのではないか。
(『高知新聞』二〇一二年三月十七日朝刊)

 ▼『情況』2012年8月別冊「追悼吉本隆明」所収


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「吉本隆明・その人と思想 松岡祥男」 ファイル作成:2024.04.21 最終更新日:2024.04.23