吉本隆明さんのこと・番外

松岡祥男

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 つい最近、『アジア的ということ』(筑摩書房)の編集の問題点を指摘するとともに、『アジア的ということ』の山本哲士と『全南島論』(作品社)の安藤礼二の「解説」のような知識主義的な概括よりも、原理的思考は〈現実〉を貫くということが重要である、とわたしは書いた(『脈』第九〇号掲載予定)。
 そのつづきから始めたいとおもう。ここでは安藤礼二の「解説」を対象とする。はじめに断っておくと、わたしはべつに安藤礼二に対して、少しも悪意や敵意を持っていない。むしろ、その反対で、安藤礼二は一九六七年生まれで、わたしよりも一六歳年下である。そんな人物が吉本隆明の思想に真向うことはとても良いことだ。その将来性の芽を摘むつもりは全くない。従って、ここでの批判は「安藤叩き」ではなく、じぶんの吉本隆明理解を確かめるためのものであると思ってもらえればありがたい。
 安藤礼二は、『全南島論』を概括する中で、次のように書いている。

 『共同幻想論』は、人間の共同性の起源を問いながら、言語の起源、心の起源を同時に問い直すものでなければならなかった。もちろん、吉本にとっても、吉本以外の誰にとっても、そのような巨大な問題を容易に解決することなどできはしない。『共同幻想論』は三つの複雑に絡み合う問題を提起するだけに留まった。
                  (安藤礼二『全南島論』「解説」)

 大筋でべつに特別おかしいわけではないけれど、わたしは「三つの複雑に絡み合う問題を提起するだけに留まった」の「提起するだけに留まった」という言い方に、はっきりこだわる。これは〈通時的な要約〉、吉本隆明の概念に言い換えれば、指示表出の側面を捉えたものにすぎないのであって、その当時の〈共時的な痛切さ〉、言い換えれば自己表出の根源性は完全に脱落している。
 それをじぶんに引き寄せて語るよりも、むしろ他者の言説に拠るほうが、ここでは適切と考える。

  国家廃絶をめざしたロシア革命から足かけ百年になる。「善」なる革命は個人の内面まで支配しようとして「悪」の代名詞に転化した。そのさなかに青春期を送った私どもは、革命と社会主義は絶対的な「善」であり、無条件で革命運動に帰依しなければ「悪」に荷担することになるという脅迫的な「倫理」を経験した。この「倫理」の処理に苦しんで何人かの友人が死に、廃疾者になった。ハードであれソフトであれ、一九六〇年代と同趣の古典左翼的「倫理」には二度と生き返ってもらいたくない。

  半世紀前の私どもの問題は、結論的に言えば、論争(埴谷雄高・吉本論争―引用者註)の一方の当事者、吉本隆明さんが『共同幻想論』で初めて明らかにしたように、革命や社会主義という共同の意識と個にかかわる意識は本来別次元であるのに、同じ平面上のものと無造作にみなし、無意識の序列をつくるところに生じていただろう。負としての「アジア的」倫理が「反体制」のなかでかえって強固になっていて、公の革命が優先事項であり、私の内面などは後回しでいいことだと、脅す方も脅される方も信じ込んでいたのだ。

         (脇地炯「「倫理」のあとさき」『VAV』第二五号)

 この決定的といえる『共同幻想論』の状況的な〈意味〉を見落としてはならないのだ。
 安藤の読みの浅さとリアルな認識の欠如が、ひきつづく個所の〈誤読〉を呼び込むことになっている。安藤礼二曰く「自己幻想と共同幻想は逆立する、つまり、相互に相容れない。文学的想像力すなわち個体の幻想は、国家の統制すなわち共同の幻想とは逆立するはずだった。しかるになぜ、戦争中、」云々、なんか志向性が逆転していて、堂々巡りの迷路に陥っているような気がする。どこが〈致命的な誤読〉かといえば、「逆立する」ということを、ただちに「相互に相容れない」と短絡的に考えているところだ。これが、安藤礼二の「南島論」理解の全体的な〈狂い〉の元なのだ。
 ここでもわたしの理解を述べると、話がややこしくなる惧れがあるから、吉本隆明自身の言説を提示したほうがいいだろう。

  『共同幻想論』の論旨でいえば、いまの個人の精神性の問題と、僕が対幻想と呼んできた男女の性的な関係をもとにした家庭とか家とか、そういう血縁の問題と、政治とか社会という集団の問題、この三つは同一次元で考えることができない。

  集団性だけを思想の中心にしている人たちから見ると、僕は家族性を最も重要視しているように見えるらしく、びっくりしたんですけれども、個人性は意味が少なくて集団性の意味が大きいという考え方はおかしくて、価値とすればみんな同等に扱われるのが正当だというのが僕の考えです。

        (吉本隆明「文学の芸術性」『群像』二〇〇九年一月号)

 そして、肝心要の「南島論」に関していえば、安藤礼二はこんなふうに書いている。

 吉本は、次第に、国家の起源を探るという制度論的な探究だけで「南島論」を展開していくことに困難を覚えてきたはずだ。制度論的な探究だけでは、どうしても、『共同幻想論』の反復になってしまう。「国家」という在り方を乗り越えなければならないはずなのに、どうしても、その「起源」までしかたどり着くことができない。さらには、南島の姉妹と兄弟の間に結ばれる「対なる幻想」による即位とは異なった、兄と弟によって分担され、王の代理の少年が無残に殺戮されることで真の即位が成り立つ「諏訪地方のミシャグジ祭政体」――おそらくその起源は「北方」のシャマニズムにあり、縄文的な古層に直結している――の発見などで、「南島論」の骨格が揺るがされた。
                  (安藤礼二『全南島論』「解説」)

 どうして、こういうことになるのか。
 ここでわたしたちは、まったくの後づけの〈整序〉と安易な〈連結〉、その混乱をみせつけられているのだ。思わず、こんなのは全然ダメだと断定したいのをグッと我慢する。なにから言えばいいのか。諏訪地方の祭政体や「北方」シャマニズムの問題など、すでに『共同幻想論』の執筆段階で視野に入っており、じゅうぶんに予備的な考察はなされていたことである。シャーマンについては、同論の中でも言及されている。そんなもので、吉本隆明の「南島論」の〈骨格〉が揺るぐはずがないのだ。吉本隆明の研鑽をみくびってはいけない。
 吉本隆明の「南島論」が佇んだ地点はそんなところにはない。地元(沖縄・琉球)の識者たちがことごとくと言っていいほど、「日本」への同化を希求しており、さまざまな古代的な研究や民俗的な調査の結論をそこに帰着させていることにあった。つまり、根底における〈本土志向〉なのだ。また、それを拒む者はただ拗ねた素振りで、政治イデオロギー的に頑なになるだけだった。累代の〈アジア的な負性〉に屈服し、それを越えてゆく志向性は皆無に等しい。吉本隆明は、その〈敗北〉の根強さに憤怒の思いを抱いて、苛立たざるを得なかったのである。それが「行くも地獄、帰るも地獄」という冷徹な認識となり、「地獄で地獄を洗え」という苛酷な発言となったのである。それは巨きな愛情と自己憎悪なくしては出てこないものだ。それを〈突破〉する以外に「南島論」の〈価値〉はないと考えたのである。
 これをわたしの主観というのなら、吉本隆明の発言を忠実に再現するしかないだろう。

 南島の問題も今度の天皇制の問題も、それから北方のアイヌの問題もそうだけど、アジア的段階といいますか、アジア的ということの中でこれを考えようとしたら、もう敗れるよりほかない。これは刻々となくなって西欧的段階にいっちゃって、どう頑張っても、アジア的ということに何かの根拠を求めようとしたら全然成り立たん。都市論のほうから、どうしてもそうなるわけです。結局、それじゃ駄目なんだというふうになる。それじゃ何かといったら、それはアフリカ的段階なんです。アフリカ的段階ということは、すでにもう現在では沖縄でも、それからこちらでも初めっからイメージ論なんですよ。アフリカ的ということはイメージとしてしか掘り出すことができないということは自明のことなんだけれども、それなりにイメージとしてすっきりと定着するし、根拠たり得るというふうに僕は思うわけです。
     (吉本隆明・中上健次・三上治『解体される場所』吉本発言)

結局、ここでも問題なのはヘーゲルの『歴史哲学』における〈アジア的〉という歴史概念の〈限界〉である。それが「南島論」の困難な障壁となっていたことは確実である。
 また、安藤礼二は「南島に残る〈野生の思考〉を論じた『色の重層』」などと言っている。こんな格好つけただけの安直な扱い方は不毛で、何も言っていないことと同じである。
 もともと吉本隆明は〈色〉の専門家で、その長年の蓄積を基に、常見純一と仲松弥秀・谷川健一の民俗学の採集と結論づけに対して、その方法的欠陥を指摘するとともに、時代区分を明確にし、可能性の方向を探っているのだ。それがレヴィ=ストロースの構造人類学の問題意識と重なるのは当然であり、『共同幻想論』や「南島論」は思想の〈世界性〉ということでいえば、エンゲルスの『家族・私有財産及び国家の起源』の対象化にはじまり、レヴィ=ストロースの親族理論の止揚をも意図していることは自明である。
 こういうふうに安藤礼二の「解説」に引っ掛かり出したら、ほとんどの個所で異論を覚えることになる。それを回避して、アジテーション口調の脱けきらないじぶんのことを棚上げしていえば、安藤礼二の〈文体〉には膨らみがなく、その論旨の運びは短絡的なのだ。これはたぶん職業的なものによるのではないだろうか。
 それは新聞記者上がりの作家や評論家の〈文体〉が、ひとつは司馬遼太郎のように通俗的に流れ、また川本三郎のように通りはいいのだけれど、個性的な魅力に乏しいように現象する。要するに、馴(均)らされているのだ。多くの新聞関係者が司馬遼太郎を過大に評価するのはそのためである。だが、文学としては大きな〈弱点〉だといっていい。
 わたしは、安藤礼二がその点でも健闘することを期待する。つまり、思考は未知の手探りようなもので、踏み出す論理の一歩は不安な冒険であるというふうになればいいのだ。
 誰も指摘していないようにおもうので、この際いえば、共同幻想と自己幻想は逆立ちするという〈本質規定〉は、埴谷雄高の発想からの重要な示唆によるものであり、それを共同幻想という壮大な構想のもとに、『遠野物語』や『古事記』という二つの歴史的な文献の解析を通じて、より論理的に厳密に〈定義〉したものなのだ。吉本隆明は、埴谷雄高を理論構築のテキストとして使うことを自ら禁じたと言い、そして、埴谷雄高の「妄想」を鉄骨の論理の柱で支えるようにしたいとどこかで書いていたはずである。

     2

 わたしが『高知新聞』に書いた、安保法は憲法違反であると安倍内閣を批判した文章について、地元での反応はどんなものでしょう、という問いが複数あった。それにこの場を借りて、触れておきたい。
 高知新聞社には、わが師鎌倉諄誠と同じ高知県の仁淀川上流、愛媛県との県境の村の出身の新聞記者がいて、その人から年一回くらい原稿依頼がある。わたしと同年齢で、とても理解があり、自由に書かせてくれるのだ。
 しかし、直接的な反応はまったくない。
 いままでいちばん反響があったのは、今住んでいる近辺のことを書いた時だ。終戦直後からあった「闇市」が壊されて無くなったことや、表通りの店舗が軒並みシャッターを降してしまったことなどについての感想を書いた。記事と一緒に顔写真も掲載されることもあって、町内で噂になり、近所の酒屋の若旦那はわざわざ様子伺いに来た。また臨時で行っている職場でも話題になったらしい。「原稿料はいくら貰えるんですか?」と聞かれたから。
 もうひとつ言えば、『高知新聞』は地方紙としてはシェア率が高い。地元では『高知新聞』がダントツで、『朝日』『讀賣』という順になっている。それは『京都新聞』につぐものであると聞いたことがある。そうは言っても高知県の人口は八〇万くらいだから、新聞として発行部数はそんなに多い方ではないだろう。
そんなことはさておき、安倍首相とともに安保法制を改悪した張本人の一人である中谷防衛相は高知県選出である。地元の有力ゼネコンの三男坊で、長男はゼネコンを継ぎ、二男は病院経営、本人は防衛大学を出て国会議員になったのだ。その防衛関係のコネをつかって、富士山の砂防工事など受注して、親の会社の利権を守っていたが、一時倒産した。けれど、選挙地盤は強固な利害関係でガチガチに固めていて(建設工事の下請けや孫請けの業者を後援会に介入させることもそのひとつだ)、毎回、楽勝で当選なのだ。これを崩すことは難しいだろう。
 また、地元の新聞社に対しても、つねに圧力をかけているようだ。共同通信社加盟の高知新聞は、沖縄の地元二紙を潰せという暴言に対して、批判キャンペーンを張り、米軍基地の辺野古移転についても批判的な記事を掲載した。それに対して、中谷大臣はすぐに紙面に登場して、その必要性を主張していた。それ自体は別にいいのだけれど、なにかあるとチェックしていることは、そのことでもわかる。政府の重要なポストにある者がそんなことにまで目配りしている露骨な姿勢が、状況の悪化を象徴しているといっていい。
 もっとも典型的だったのは、高知は路面電車が走っているのだけれど、経営状態が苦しく、電車に広告を掲載して走らせている。最近のことでいえば、高知県出身の漫画家の西原理恵子がネットで寄付を募り、広告費用を集め、彼女の漫画のキャラクターを描いた電車が走ることになった。そんな調子だから、大抵のものはパスする。
 地元の「9条の会」などのメンバーが出資して、「憲法第9条を守ろう」とアピールした電車も運行されていた。ところが、昨年突然クレームがつき、「これは意見が分かれていることなので、電車の広告としてふさわしくない」という理由で、長年続いていた「9条電車」は不許可になってしまった。ふざけるな。「第9条」は現行憲法なのだ。まだ改訂も廃止もされていない。それに横槍を入れるのは度し難い転倒である。
 むろん、わたしは路面電車で宣伝することに意義があるとも、有効性があるとも思っていない。だいいち、そんな浮動的なやり方で、強固な地域ナショナリズムの実利性に対抗することなど全くできないことは自明だからだ。
 こういう権力的な横暴はだんだん増しており、それは高市総務相の「停波」もありうるという報道機関への高圧的な恫喝などと連動していることは確実である。この国家権力の〈内攻〉は、わたしたちの日常の〈統制〉を目論むものであり、それは海外派兵と同様に、大衆の〈命運〉にかかわるものだ。
 参議院の高知県と徳島県の合区問題に際しても、両方の自民党県本部の意見を求めはしたけれど、それは形式的なもので、実際には政府の決定事項として上意下達したにすぎない。言うまでもなく、一般の地域住民の意思などはじめから無視、それぞれの地域事情を汲むつもりは全くなかったのである。こうした国権の強化はもとより、投票率の低下する一方の中の「一票の格差」などという綺麗事よりも、民意や地域性を〈優先〉することが遥かに重要なのだ。

     3

 「吉本隆明さんのこと」の本編は、沖縄の『脈』に掲載してもらっている。そうなった理由はふたつある。
 ひとつは、ある雑誌が発行中止になったことだ。それに書いたものが手元に残ってしまった。「田舎のタクシー」と「ある日の吉本隆明さん」、吉本隆明に関する部分は加筆して、「『吉本隆明全集』第6巻を読んで」と改題し寄稿した。それが連載の始まりである。
 もうひとつは、東風平恵典と比嘉加津夫の「ネット対談」が『Lunaクリティーク』第一号(二〇一一年五月発行)に掲載された。その中にこんな発言があった。

 東風平 松岡某の話が出てきたので、喜んでいます。実際には松岡さんが仕掛けたのですよ。北川透という詩人は今でも孤独なんです。(略)
  松岡さんは宍戸さんの三月書房をバックに未だに党派がどうのこうのと言っていますね。馬鹿じゃないかと思うんです。


 わたしが「仕掛けた」というのは事実誤認であり、「三月書房をバックに」というのは邪推にすぎない。
 この東風平発言を、対談者である比嘉加津夫は、その場で完全に打ち消していた。それはわたしを擁護してくれたという以上に、話題に流されることも、相手に阿ることもない、じぶんの〈ポジション〉をしっかり持っていることを表していた。この人は信頼できると、以前にも増しておもった。これも大きな契機だ。
 沖縄・宮古島の東風平恵典は、二〇一四年五月八日に亡くなった。その事情も比嘉加津夫によることにしよう、

  死と年齢、あるいは死と病いは太い関係を持つ。また、自らそこに向かっていくという死もあるし、不慮の事故というのもある。
  東風平恵典さんの場合、そのどっちでもありえたようにおもえるが、あきらかに話を聞く限り不慮の事故であった。彼がよく海に行くということは聞いていた。とんちんかんなぼくなどは何時だったか、彼がこれから海に行くと言ったとき
「何しに行くんですか」
と聞いたことがある。
「泳ぎにだよ」 「えっ、泳ぐにはちょっと寒いんじゃないですか」
「平気だよ、ぼくは」

 (比嘉加津夫「東風平さんの死」『東風平恵典遺稿・追悼集 カザンミ』)

 そうか、海で亡くなったのか。そうおもった。実際につきあいのあった人からすれば、彼は〈愛すべき酔っ払い?〉だったのかもしれないけれど、東風平恵典とわたしの関わりは少ししかない。
 「ネット対談」の発言は、こちらから見れば、北川透に贔屓したいだけのことで、どうってことはない。
 ただ、事実関係だけははっきりさせておきたい。東風平恵典は、そんな松岡に執筆を依頼してきたことがある。それで、わたしは彼の発行する『らら』第三号(二〇〇一年三月発行)に「ぶっきらぼうな夜風」という印刷会社を辞めるに至った経緯を書いた。
 そして、続いて第四号にも書いて欲しいと言ってきた。ちょうどそのとき、友人の金廣志が『自慢させてくれ!』という本を出した。金廣志は共産同赤軍派のメンバーで、全国指名手配となり、一五年も逃亡生活をつづけた。そのさなかに出会ったのである。わたしは金廣志の魅力ある人柄を尊重している。だから、力を込めて、金廣志とその本について書いて送った。
 しかし、東風平恵典から『らら』の発行は〈中止〉になったと連絡があった。仕方がないことだ。いろんな事情があったのだろう。ところが、それからしばらくして、また彼から、今度は『らら通信』というのを出すから、また何か書いてくれと言ってきたのである。〈保留〉になっているものを載せるというのなら、話はわかるけれど、新たに書く気などしない。それできっぱり断った。わたしのような地方のマイナーな書き手であっても、文筆のモチーフは持っている。これが、わたしと東風平恵典との因縁のすべてである。
 もちろん、これはわたしと北川透との一件以後の出来事なのだ。

     4

    田舎のタクシー

 次兄の嫁さんが亡くなり、その納骨のために一年ぶりに実家に帰った。
 JR四国は利用客も少なくなり、高知―高松間の列車の本数は極端に減っている。午前十時ごろに到着するには、朝七時高知駅発の汽車に乗らないと、間に合わない。大杉駅には七時三十一分の到着だ。そこからタクシーで日浦の実家まで行くのだが、母が亡くなった時、同じ時間帯のダイヤで行ったのだけれども、病院に駆けつけると、すでに母は斎場へ運ばれていた。病院から駅へ引き返したのだが、タクシーはいない。仕方なしにハイヤー会社に電話して、なんとか斎場に辿りついた。その経験から、今回も同じ目に遭う可能性が高いと判断して、前日にハイヤー会社に電話して予約した。
 ところが当日、列車を降りて駅前の広場を見ると、タクシーが一台いたが、予約したSハイヤーではない。Tハイヤーだ。まだ来ていないのかと思い、その車の運ちゃんに「Sさんは、来てないですかね」と訊ねた。「見ていないですね」という答え。Sハイヤーの事務所は、橋を渡った駅の対岸の国道沿いだ。まあ、予約しているんだから、乗車する車を変更するわけにはいかないと考えて、会社へ行った。誰もいなかったが、インターホンが通じた。「昨日、予約した者ですが……」というと、「今日でしたかね」と女の声。呆れて、怒る気もしない。これは駄目だと諦めて、とって返し、Tハイヤーに乗ったのである。

――大豊町も、とうとう小学校が一校だけになるそうですね。
――来年度からそうなります。新入生は八人ですよ。
――そうですか。
――一つに統合するしかないです。大杉小学校が五十九人、大田口小学校が八人、大豊小学校が十一人、全部合わせても、七十八人ですからね。
――ぼくらの時代には十五校もあって、大杉小の同学年だけでも二クラスで百人に近くいたのに……。
――場所をめぐって、話し合いがあったようです。結局、大杉になりました。大杉には役場もあり、駅も急行が止まりますし、自動車道のインターも近いですから。ただ、校名はおおとよ小学校です。 ――そうですか。

 農道の三叉路で車を降りた。タバコに火を点けて一服してから、山道を登り始めたのだが、日頃の運動不足か、齢のせいか、すぐに息切れがする。
 家に着くと、シゲ兄はまだ寝ていた。次兄たちが到着するまでには時間がある。障子を外し、掃除機をかけ、庭を掃いて、墓へ水を運んだ。
 向いの山に、ソフトバンクの電波中継の鉄塔が建っていた。それはしっかり組み上げた鉄塔で、家の上にあるドコモのとは全然違う。ドコモのやつは鉄柱だけだ。「資本力の違いだ」というのが兄の意見だ。
 一段落して、持っていったカップヌードルを二人で食べて、休んでいると、電話がかかってきた。義姉の親戚の人からだ。道が分らないと言っている。いま立派な家構えの所にいるとのことだ。兄はこの機会だから、弟を使わないと損だとばかり、「ツネ、迎えに行ってこい」という。どこにいるか、すぐに察しがついたので、近道を選んで、山道を駈け降り迎えに行った。
 次兄や甥や姪などの到着は思ったより遅かったけれど、無事、納骨は終わった。
 みんな帰ったあと、片付けをして、時計をみると午後一時三十分だ。大杉駅に電話して、下りの列車の時刻を聞くと、夕方までないということだ。どうしようかと迷ったけれども、一応バスの方も聞いてみることにした。すると、大杉より奥の土佐町田井から出るバスが二時に大杉駅を通るとのことだ。もしかすると、間に合うかもしれない。ダメ元だ。
 それで、Sハイヤーではなく、勿論Tハイヤーに電話した。「いまから迎えに来てもらって、二時のバスに間に合いますかね?」というと、「うーん、どうでしょう」という。「だめでも、いいですから、来てください」と言った。
 タクシーの運ちゃんは朝の人だ。農道から国道に出て、しばらくすると、マイクで連絡を取り始めた。「もうすぐ着くき」「一分で来るかのー」という応答。「まあ、ちょっと待っちょきや」
 バスと連絡を取っているのだ。駅に到着すると、バスは待っていた。
 これが〈田舎〉なのだ。
 一方は、予約しても配車はなく、一方は、バスに連絡して待ってもらうように計らってくれる。

(『続・最後の場所』3号・二〇一六年一〇月発行掲載)


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「吉本隆明さんのこと・番外 松岡祥男」 ファイル作成:2023.05.13 最終更新日:2023.05.16