19 根柢にあるもの (二〇一二年一〇月)
この本には、吉本隆明の六つの海外の思想家との対談が収録されている。
この他に、半ば公開の形でなされたイヴァン・イリイッチとの対談がある。吉本隆明はその対談のことを何度も話題にしているけれど、主催者の事情によるのかは審らかでないが、公共のものとはなっていない。
海外の思想家との対話について、吉本隆明は「性能のわるい迎撃ミサイル」というふうに、じぶんを形容している。これは歴史の段階や文化の基盤の差異を越えて、相互了解が成立し難い、歴史的な現状を踏まえたものだ。また、言葉の障壁が立ち塞がるので、ほとんど対話の展開に期待が持てないとも述懐している。〈読む〉ことと〈話す〉ことは別だとしても、これは独特の謙遜と含蓄に富んだものといえる。
なぜなら、吉本隆明は初期の「マチウ書試論」を書くにあたっては、フランス語版の「聖書」を典拠としているし、戦後勤めた会社では染料の開発を担当していて、広く海外の文献を漁り、研究に当たっていた。さらに失業中、鮎川信夫の厚意でエラリー・クイーンの『Yの悲劇』などの下訳もやっているのだ。その後、隔日で勤務した特許事務所では、主にドイツ関係の特許申請を扱っていたことは、夙に知られているからだ。
むろん、海外からの来訪者とプライベートに交わされた会話は数知れずあるはずだ。末次エリザベートやイヴ=マリ・アリューは言うに及ばす。
ここに収められた対話の内容や意義については、読者の一人ひとりが考えればいいことなので、わたしは余計な解説や注釈を加えるつもりはない。
ただ、吉本隆明が海外の思想や文学にどういうふうに向かい合ってきたかについて、少しだけふれておきたい。
吉本隆明の海外の作家・思想家に関する著書は『書物の解体学』と『言葉の沃野へ 海外篇』、それに『カール・マルクス』と『甦るヴェイユ』、この四冊である。
それに、重要な「マチウ書試論」「喩としてのマルコ伝」、死の哲学的考察として世界的なレベルにある「触れられた死」、労作「ゲーテの色」や「わがファウスト」など。また、カフカについては随所で言及している。その孤独で、本質的な存在性に強い共感を寄せていたからだ。
もっと根源的にいえば、ヘーゲルやマルクス、フロイトの徹底的な理解を抜きにして、吉本思想の構築はあり得なかった。それは化学技術者の経験に培われたもので、つねに世界的な水準を視野に入れながら、本格的な研鑽を持続してきたといっていい。『共同幻想論』など三部作を持ち出すまでもなく、『ハイ・イメージ論』の中の「ファッション論」ひとつとっても、それは明らかなのだ。
吉本隆明は生涯、一度も海外へ出ることはなかった。それは自らの戦争体験に深く根差していることは言うまでもないことだ。近親はもとより、師や多くの同世代、また同胞の死を目の当りにし、その犠牲のうえに〈じぶんの生はある〉という思いは、終生消えることはなかったのだ。そうであっても、若い世代が気軽に国際的な見聞を広め、交流の絆を結ぶことを妨げるような素振りは微塵も見せはしなかった。それは時代の変容に対する明察と、おおらかな許容力を物語っている。しかし、じぶんの世代的固執を誰も理解しないとしても、〈戦争の負債〉とじぶんを切り離すことはなかったのである。
それが端的に示されたのは、江藤淳との対談「現代の文学の倫理」においてだった。日本の無条件降伏に異論を唱え、貴方にはラジカルさが足りないなどと図に乗って言い募る江藤淳に対して、「江藤さん。プライベートにはときどき口にしますけれど、公けにあんまり口にはしないんですが、ぼくは『あの人』より先には死にたくねえ、『あの人』より先には死なんぞ、と思っているわけですよ。それはぼくら戦中派の何か怨念みたいなもので、思っているんです」と言ったのだ。「あの人」とは言うまでもなく、昭和天皇である。その時、江藤淳は一瞬凍りついたはずだ。
その吉本さんのひそかな戒律を、わたしなりに考えながら、一度だけ尋ねたことがある。「もし、吉本さんが外国へ行かれるとしたら、どこへ行きたいですか?」と。吉本さんは「行くならオセアニア、ニューギニアの方へ行ってみたいですね。日本人の原郷かもしれないですからね」と言われた。
吉本さんも、わたしたちと同じように、ほんとうはたくさんの夢を胸中に抱いていたに違いない。
吉本さんは悲しいまでに「日本のナショナリズム」で書かれたように、「井の外に虚像をもたなければ、井の中にあること自体が、井の外とつながっている」という〈態度〉と〈方法〉を貫徹されたのである。
その実践のひとつが、ここに集められた海外の思想家との対話にほかならない。
〈註〉 本稿は、吉本隆明『思想的制覇ー海外思想家対談集』の解説として執筆したものです。諸般の事情により刊行が難しいということですので、『蟹の泡』に発表することにしました。
なお、吉本さんの海外の思想家との対談は次の通りです。
▼ローレンス・オルソン「知識人と大衆」 『現代思想』一九七七年一〇月号→『吉本隆明全対談集』第一二巻(青土社)
▼ミシェル・フーコー「世界認識の方法」 『海』一九七八年七月号→『世界認識の方法』(中公文庫)
▼ジャン=ピエール・ファイユ「国家と言葉」 『海』一九八二年七月号→『「反核」異論』(深夜叢書社)
▼フェリックス・ガタリ「善悪を超えた『資本主義』の遊び方」 『マリ・クレール』一九八七年四月号→『よろこばしい邂逅』(青土社)
▼ジャン・フランソワ・リオタール「スピード時代の芸術」 『マリ・クレール』一九八八年九月号→『吉本隆明資料集98』(猫々堂)
▼ジャン・ボードリヤール「世紀末を語る」 『世紀末を語る』一九九五年六月刊(紀伊國屋書店)
20 吉本隆明さんと高知 (二〇一三年三月)
吉本隆明さんが亡くなって一年になります。吉本さんは「戦後最大の思想家」と言われています。また、立場も考え方も全く異なる石原慎太郎前東京都知事でさえ、こんな人は再び現われないだろうと言いました。
吉本さんは、一九二四年(大正一三年)生まれで典型的な戦中派です。日本の敗戦を徴用動員先の富山県魚津市で迎えています。敗戦の衝撃と、戦中と戦後との深い断層に陥没した世代と言えるでしょう。そのことを考え抜くことが、吉本さんの思想形成そのものであったのです。
代表作は、詩でいえば『固有時との対話』『転位のための十篇』や『記号の森の伝説歌』、思想評論でいえば『共同幻想論』や『最後の親鸞』や『母型論』などでしょうが、私にはその弛みない思索と研鑚の全過程が、不滅の姿に映ります。
高知との関わりについて言いますと、一九八〇年八月に高知市の夏季大学の講師として来高しています。
この時、初めてお会いしました。吉本さんは私たちの要望に応えて、講演の翌日を空けてくださり、三十人ほどの集まりに出席してくれました。そして、そのあと私の家に足を運んでくれたのです。種崎で泳いだ潮の感触と、あなたがたの顔が、高知の印象として刻まれています、と手紙に書かれていました。
吉本さんは義理がたい人でした。本山町出身の大原富枝さんの『婉という女』を高く評価していて、中上健次などと主催した二十四時間連続の講演と討論のイベントに、講演者として大原さんを招いています。大原さんは涙ながらにご自分の半生について語りました。私もその場にいて、俯いて聞いたのです。
大原さんの遺言の求めに応じて、本山町寺家にある大原さんの墓に、吉本さんは真情のこもった碑文を寄せています。
思想家としては、決して基軸のぶれない徹底した姿勢を貫いた人でした。
例えば「芸術的抵抗と挫折」という論文の中で、槙村浩の詩の誤謬を痛烈に批判しています。『マス・イメージ論』では、安岡章太郎の『流離譚』を取り上げ、その作品の構造的な欠陥を鋭く指摘。さらに、雑誌仲間だった清岡卓行や詩人の倉橋顕吉などにも言及しています。
そんな吉本さんですが、家庭をとても大切にした人でした。病弱な夫人に代わって、毎日のように買い出しにゆき、炊事当番をやっていたことはよく知られています。また、自分は二人の子どもを育てたこと以上のことはしてないとも語っています。
次女の吉本ばななさんが「キッチン」で作家デビューした時、たまたま上京していた私は、俳人の齋藤愼爾さんと一緒に訪ねました。夜分だったのですが、吉本さんはばななさんを呼ばれました。そして、話しているうちに、私が「ばなな」というペンネームは変わっていますねと言うと、吉本さんは紙に「波奈奈」と書いて、こうしたらどうかと、ばななさんに示しました。私は即座に横から良くないと言いました。すると慌てて、それを上半身で覆い隠したのです。その恥かしそうな身振りは、少年のようでした。ばななさんは、友人に占ってもらった筆名なので、これでいきますと、きっぱり言ったのでした。
吉本さんの魅力は尽きることはありません。その本質的な思想と同じように。
21 「好きにやってください」 (二〇一五年三月)
先日、大阪の人から電話がかかってきた。
その人は、「いろんな吉本隆明論が出されているけれど、『吉本隆明資料集』を読まずに、書かれたものは、みんな〈モグリ〉だと思う」と言われた。
ーー 私は、そういうふうには思っていません。じぶんにとって必要だから出しているだけです。
ただ、派閥的に〈黙殺〉したり、また地方のマイナーなものは〈無視〉していいというような傲慢な態度が、出版業界や研究グループの間で罷り通っていることは、悲しいことです。自分たちが偉いと思っている面々は、ふつうの読者より狡く〈閉鎖〉的なような気がします。
私が『吉本隆明資料集』の自家発行を始めたのは、二〇〇〇年三月です。発行にはさまざまな動機と事情があったのですが、いちばんの動機は『吉本隆明全著作集』(勁草書房)の収録対象から外れた、鼎談や座談会の記録を誰でも読めるようにしたかったからです。その中には、花田清輝との論争の直接的な発端となった「芸術運動の今日的課題」や、六〇年安保闘争の渦中の発言とその総括をめぐる討論もありますし、比較的新しいものでいえば、加藤典洋・橋爪大三郎・竹田青嗣との討議「半世紀後の憲法」などもあります。その数は七十くらいにのぼっていたのです。
「吉本隆明の了解がよく得られましたね」と、彼は言った。
ーー 私は当然上京して、吉本さんの承諾を得るつもりだったのです。でも、西伊豆の海の事故以降、体調がすぐれないということで、電話でお願いすることになりました。
吉本さんは〈本を出したいということですか?〉と聞かれました。私が〈はい〉と答えると、吉本さんは〈好きにやってください〉と言われたのです。それだけです。
じぶんが心血を注いできた著作や発言を〈好きにしていい〉といえる人がいるでしょうか。吉本さんの破格の〈スケール〉の大きさに圧倒されました。それが吉本さんなのです。
「もう十五年も続けていますね。一人でやっているのですか」と聞かれた。
ーー ええ、妻に手伝ってもらっていますが、基本的には一人でやっています。
でも、資料蒐集については、藤井東さんや宿沢あぐりさんの協力がなければ出来なかったことです。入力や校正、版下作成までじぶんでやっています。ただ、校正については、私は適性を欠いているところがあって、いまは北島正さんに最終の閲読をお願いしています。
「そうですか。長い間やっていると、くたびれてきませんか」
ーー 年齢のせいでしょうが、最近は疲れ易くなりました。でも、〈作業〉自体は充実しています。私は無器用で、入力といっても、ブラインドタッチができないんです。だから、とても遅いんですけど、その分、一字一句、丹念にたどるわけですから、不勉強な私でも、よく解かります。それに、吉本さんの〈モチーフ〉と〈ハートのありか〉が如実に伝わってきますから、なんか吉本さんと対面しているような感じなんですよ。これはなにものにも代えがたいものですね。
「吉本隆明の代表作を挙げるとすれば」
ーー いやぁ、難しいのですが、やっぱり『共同幻想論』、詩集でいえば『転位のための十篇』ということになるんでしょうね。でも、私はその〈思索の全過程〉だと思っています。
愛着のある一冊となれば、『吉本隆明歳時記』です。初めてお邪魔した時、持参してサインしてもらいました。それには日付も記されていて、昭和五十九年九月九日です。
「松岡さんはその後、「『試行』総目次・編集後記」「『試行』第一六号〜第二八号の復刻版」「初出・拾遺篇」という形で継続して出しているのですが、なにか印象深いことはありましたか」
ーー そうですね、『試行』の復刻版を作る時は上京しました。
お会いして、その話をすると、吉本さんは〈『試行』のことは、ぼくの一存ではいきませんので〉と言われて、台所に居られた和子夫人と多子さんに聞きに行かれました。即答だったのでしょう。すぐ応接間に戻ってこられて、〈大丈夫です〉と言われました。
用件が済んで、私もキッチンの方へ行ってビールをご馳走になったんですが、和子さんに〈松岡さんは『試行』のバックナンバーをお持ちですか〉と訊かれました。〈川上春雄さんが復刻された第一五号までと、第二三号からは全部持っています。欠けているものは古書店で探すつもりです〉と答えると、多子さんと相談されて、〈それなら、後日提供します〉と言われたのです。
「それはなによりでしたね。しかし、いろいろ困ったこともあったでしょう」
ーー 私は、購読してくれている方々をもっとも〈尊重〉しています。そのお蔭で出せているのですから。長い間続けていると、その中には亡くなった人もいます。宮城賢さんや梶木剛さん、奥村真さんをはじめ、お名前は挙げることはできませんけれど、訃報が届くと、ほんとうにつらいです。殊にじぶんより年下の人の場合は、ふさぎ込むような感じになります。
「吉本さんご本人が亡くなってしまいました。それでも、発行を続けている理由はなんでしょう」
ーー それは、最初に言った通りです。
主要な著作の初出と、単行本に未収録の著作や講演、対談、インタビュー、談話までのすべてを網羅することを目指しています。吉本さんは、上野千鶴子が言ったように《戦後最大の、そして空前絶後の思想家》です。私の望みは、吉本さんが世代を越えて読み継がれ、本格的に検討されることです。そのための基礎的な資料のひとつとなればいいなあと思っています。
吉本さんは、ものすごくオープンで、どこまでも根源的な人だったと思います。
それに倣えば、少部数の粗末な発行物にすぎませんけれど、これが活用されることを期待していますし、メジャーな版元が踏み台にすることも吝かではありません。現に『吉本隆明全集』の刊行にも少しは役立っているはずです。小さな推薦文なども、できる限り収録してきましたから。
また、主著のひとつである「心的現象論」においても、地元の川村寛さんの尽力もあって、野口宏『トポロジーム基礎と方法』などの引用の点検もやりましたし、連載三五回目の「了解の水準」は推敲のうえ、「色の重層」というタイトルで再発表されています。これらは、既刊の文化学院高等研究所出版局版では考慮されていません。それも今後、生かされるでしょう。
彼は「最後に」と言って、「トラブルはなかったですか」と聞いた。
ーー 小さなミスはいっぱいあります。資料を探しながらですから、編集も蕪雑なものになっています。
最大のトラブルは、瀬尾育生と北川透の抗議でした。不慣れなせいもあったのですが、鼎談や座談会の出席者の中には、吉本さんと政治思想的に対立している人や論敵も多くいましたので、収録を拒否される可能性もあります。そうなれば〈すべてを収録する〉という当初の目的は頓挫してしまいます。それで叱られるのを覚悟のうえで「事後承諾」という手段を選んだのです。もちろん、発言者全員に挨拶文を添えて、現物の冊子を送りました。私の懸念をよそに、出席者やご遺族から感謝のお便りや贈物までいただきました。
そして、第二五集に「菊屋まつり」の「フリートーク」を収録したところ、瀬尾育生から抗議があり、北川透は抗議を通り越して、いきなり松岡批判と『資料集』を中傷する文章を各方面へ送ったのです。
私はこれによって、吉本さんにご迷惑が及んだものと判断し、お詫びの手紙を出しました。
そうしたら、吉本さんから速達で返事がきました。北川透の行為は〈不当〉であり、いつでも〈特別弁護人〉を引き受けるとありました。そのうえ、次のように書かれていたのです。
一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や社会常識は時代によって変ります。文芸、一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは永続を眼指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集まりに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。
(吉本隆明 松岡祥男宛書簡二〇〇二年一〇月七日消印)
「やっぱり、吉本隆明は凄いな。頑張ってください」と、彼は言った。
私も「ありがとうございました」といって、受話器を置いた。
(終わり)