吉本隆明さんの笑顔(その6)

松岡祥男

18 「情況への発言」の背景 (二〇一一年一一月)

   (1)「試行」とは何か
 吉本隆明の「情況への発言」は、『試行』の巻頭を飾った名物的な連載であった。その注目度といい、衝撃度といい、群を抜いており、いまでも〈情況への発言〉という標題は、他でも流用されているほどである。
 それに触れるについては、まず『試行』とはなにかを明らかにする必要があるが、そのまえに、それまでの過程を抜きにすることはできないだろう。
 吉本隆明は、一九二四年一一月二五日東京・月島に生まれている。もともと内向的な性格だったらしいのだが、十歳の時に私塾に通い始め、その塾の先生の影響もあって、そこで文芸に目覚め、詩を書きだした。そして、学校の級友たちと校内誌を発行するようになる。以降、途切れることなく仲間内の雑誌を作っている。
 敗戦後も、詩誌『時■』を皮切りに、『大岡山文学』や『詩文化』『聖家族』、そして鮎川信夫・田村隆一らの『荒地』への参加。さらには奥野健男らの『現代評論』、それが再編された『現代批評』の同人になっている。その間、持続的に詩と評論を書いてきたのである。
 しかし、六〇年反安保闘争が決定的な分岐点となり、『現代批評』は分解した。その分解と安保闘争の敗北は、吉本に雑誌の自主発行を強いたといえる。一九六一年九月、吉本隆明・村上一郎・谷川雁の三人を同人として、『試行』は創刊されたのだ。
 六〇年反安保闘争は言うまでなく、日米安保条約の改定をめぐる国内を二分するほどの戦後最大の政治闘争である。しかし、安保条約に反対する左翼陣営の中にあって、日本社会党は党の総力を挙げて闘争を担う構えはなく、闘争課題の一つとして状勢的に対応していただけであり、また日本共産党は日米安保条約改定が日本資本主義の敗戦後の復活と安定確立の節目であるという状況判断は皆無で、「反米愛国」という民族排外主義丸出しの頽廃的な方針しか提起していない。
 これでは本格的に闘うことができないと判断した、島成郎を書記長とするブント(共産主義者同盟)とその影響下の全学連主流派は、羽田闘争などを通じて「赤いカミナリ族」と俗称されるような突出した闘いを展開したのである。
 吉本は、鮮烈な戦争責任論やプロレタリア文学運動の批判的検討を通して、既成左翼批判を展開しており、埴谷雄高のスターリン主義批判などとともに、この新しい動きを思想的に予告するものであった。また『文学者の戦争責任』の共著者でもある武井昭夫全学連初代委員長とのつながりもあり、早稲田大学の学生集会で講演するなど学生運動と関わりを深めたと思われる。
 そして、一九六〇年一月号の『中央公論』に画期的な「戦後世代の政治思想」を発表し、若い世代への理解と共感を強く世に示したのである。これは情況的な切迫だけではなく、自らの切実な戦争体験や戦後の労働組合の実践と深くつながっていたことは疑いない。
 さらにブント・全学連の支持を掲げた六月行動委員会に加わり、北海道学生新聞連盟の機関紙で「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」という檄を発し、自らも五月の国鉄スト支援の品川駅構内の座り込みに参加し、〈一兵卒〉として闘う決意を露わにした。六月十五日、国会構内での抗議集会では、全学連の宣伝カーの上で短い連帯の挨拶をし、その後警官隊の襲撃に遭い、敗走して逮捕されている。
 吉本には三歳に満たない子供がおり、幼児を抱えた和子夫人は、夫が逮捕されたうえに、行動を共にしていた兄も、警官隊に頭部を警棒で殴打され昏倒したところを踏みつけられ、警察病院へ搬送されたが、昏睡状態に陥っていた。安保闘争は、夫人にとっても痛切だったのだ。この日、樺美智子は殺されている。
 どんな闘いも、敗北後は無惨な過程をたどる。熾烈な闘いであればあるほど、その反動は凄まじいはずだ。安保闘争においても、共産党は中野重治などを筆頭に、あの国会構内集会は通用門を半開きにしていた権力の挑発であったと言い、また、そんな傾向に毒されるように、国会構内突入はデモ隊に入り込んだ挑発者の陰謀によるものであったなどと言いだす者までいて、自他(即ちあらゆる闘い)を辱めて恥じることない言説も横行したのである。これを堕落の典型といわず何をそう言うのか。
 そもそも日本国憲法は〈主権在民〉と明記している。主権者が国会や国会構内へ自由に出入することは当然の〈権利〉である。その門扉は広く民衆に開かれてなければならないはずなのに、いまも実質的には閉ざされているといっていい。この〈転倒〉こそが現実的な政治支配の象徴なのだ。
 ブントは分裂し、全学連幹部は日和見と組織エゴに凝り固まった小日共さながらの革共同に屈服転身するものが続出した。吉本は、権力の側からも、共産党をはじめとする対立党派やその同伴知識人からも、また行動を共にした転身メンバーからも、標的として集中砲火を浴びることになったのである。この孤立のなかから『試行』は生まれたのだ。
 もちろん、吉本には内在的な構想があった。それまでのプロレタリア文学運動や「政治と文学」という図式を超えて、思想の〈世界性〉を視野に入れた新たな表現理論を自らの手で創り上げるしかないという不可避の課題だった。『言語にとって美とはなにか』である。その意味でも、発表の場を創出することは不可欠だったのである。
 また、これら全部の経験が〈直接購読〉と〈自主的な寄稿〉を支柱とする、独自の発行形態の実現に結びついたのだ。
 「情況への発言」は、『試行』第四号から開始されている。当初は同人の二回ずつの持ち回りだった。いちばん初めは村上一郎である。吉本は第六号の「“終焉”以後」からだ。吉本の安保闘争の総括ともいうべき「擬制の終焉」を踏まえて、その後の挫折と混迷の諸動向を批判し、自らに対する攻撃や誹謗を粉砕すると同時に、全情況の切開が目指されている。
 ここで、吉本以外の同人の「情況への発言」を掲げる。

 ▼村上一郎「敢えて遠矢を」(第四号)
 ▼村上一郎「神聖左翼へ」(第五号)
 ▼谷川雁「政治同盟と思想同盟」(第八号)
 ▼村上一郎「革命断章」(第九号)
 ▼村上一郎「思想・論理・芸術」(第一〇号)

 第五号の巻頭には、同人三人の討議「『情況』と『行動』・その他」が掲載されている。
 そして、第一〇号(一九六四年二月)発行後、吉本は同人解散を提案し、『試行』同人会は解体された。吉本は「報告」という一文を草して、直接購読者へ配布し、読者に報告するとともに、単独の継続を問うたのである。同人解散にいたる事情については、村上一郎「『試行』創世記における吉本隆明像」(『現代詩手帖』一九七二年臨時増刊『吉本隆明』)や吉本隆明「六〇年安保闘争と『試行』創刊前後」(『吉本隆明が語る戦後55年』(1))や梶木剛「その頃、単独に充実して」(『文学的視線の構図』)などの証言がある。
 こうして、吉本単独編集の『試行』第二期は、第一一号(一九六四年六月)から再出立した。それと同時に、川上春雄による「試行出版部」が創設され、吉本の『初期ノート』が刊行された。吉本単独編集ということは、少しも吉本の個人誌を意味していない。むしろ同人会の時よりも、執筆者や読者との関係を拡大強化する〈開かれた方向性〉を持つものであった。
 それを物語るように「情況への発言」は、第一一号の小山俊一「カウラの死臭」に始まり、内村剛介、常木守、鈴木秀男、松下昇、平尾良雄など、吉本以外の寄稿者も執筆している。中でも常木守の「最終意見とはなにか」は、六〇年安保闘争の裁判の被告人最終弁論であり、おのれの〈精神の違法性〉だけが法的審判に価するものだという根源的な反逆姿勢が表明されている。これは国家権力と政治支配があるかぎり、不滅の光芒を放つものだ。
 『試行』とはなにか。それは一九六〇年代において〈自立〉の思想的拠点であった。そして「情況への発言」は、時代との格闘そのものなのだ。
 断わるまでもなく、私は六〇年安保世代ではなく、それを体験しているわけでも、『試行』創刊に立ち会っているわけでもない。ただ自らの覚束ない来し方や現在のポジションに引き寄せて、その時代を振り返り、見えることや思ったことを記しているだけだ。
 私が初めて、『試行』を手にしたのは第三二号である。高知大学の学生の誰かが見せてくれたのだ。廻し読みが当り前の時代だった。そこには、吉本の三島由紀夫の自衛隊での割腹自決に対する「暫定的メモ」が「情況への発言」として掲載されていた。落ちこぼれの夜間高校生の私には難しかったけれど、三島の自決は衝撃だったので、決して無縁のものではなかった。ここからリアル・タイムで、吉本隆明の表現と向き合うことになったのである。
 そして、連合赤軍事件、世界(アラブ)赤軍のテルアビブ空港事件、新左翼の流血の党派闘争と、七〇年代の衰退と頽廃の情況批判がつづいている。じぶんもその渦中にあったので、その発言は鋭く貫いた。私は、吉本の連合赤軍事件批判を超える、どんな思想的総括も知っていない。
 それは詩の表現でいえば、一九五九年『日本読書新聞』新年号に発表された「死の国の世代へ」から、その黄昏を告知する「〈演技者の夕暮れ〉に」へいたる全過程だったといえる。

 どんな遠くの気配からも暁はやつてきた
 まだ眼をさまさない人よりもはやく
 孤独なあおじろい「未来」にあいさつする
 約束ににた瞬間がある
 (中略)
 戦禍によつてひき離され 戦禍によつて死ななかつたもののうち
 わたしがきみたちに知らせる傷口がなにを意味するか
 平和のしたでも血がながされ
 死者はいまも声なき声をあげて消える
 かつてたれからも保護されずに生きてきたきみたちとわたしが
 ちがつた暁 ちがつた空に 約束してはならぬ

    (吉本隆明「死の国の世代へー闘争開始宣言ー」)

 太陽が少女たちの腰に湛まるとき
 胸の線よりすこし小さく曲つた
 さびしい歓喜がとおりぬける
 樹々をささえている掌のひらに
 ちいさな〈かくめい〉の街がひとつ
 もりあがつた墳墓が西と東にわかれていて
 そのあいだ とおる路がある
 双曲線のようにそれて

 風は死 空は死 

 香りのない乳房を埋葬しているとき
 風がいつた〈死んだんだ〉というほどもなく
 〈死んだんだ〉
 死んだ人がまた 死んだんだ
 疑いに射られて
 鳥たちは堕ちてゆく黒点である
 世界は疑わしくないんだ
 劇なんかなにもなかつたんだ
 ただ死んだものがまた死んだんだ
 そのために棺はとどかなかつたんだ

 空の死に 風の死に

    (吉本隆明「〈演技者の夕暮れ〉に」)

     (2)根源的な志向性
 「情況への発言」は一九七〇年十月(『試行』第三一号)から、論敵たちの言説(批判や攻撃)を引用し、それに反批判を加えるコメント方式をとっている。時代の急激な変容に即応するために、このスタイルが選ばれているといえる。
 吉本隆明はこの時期、『心的現象論』『最後の親鸞』『初期歌謡論』といった体系的な思索と古典に打ち込んでおり、思想的主題の深さに比例して、それは心身の動きを重くする作用が伴うものと思われる。吉本にとって、この即興的なスタイルは、寸暇を見つけて身を起し、その時々の情況に対応しようとするものだ。たとえ、それらが時事的な泡沫で、すぐ時の流れの上に消えてしまうものであったとしても、そのアブクにしか見えない現象の中に、実は永続的な課題が内在していることもありうる。生々しい関心の持続、それ自体が思想の生命線のひとつなのだ。しかし、このスタイルは、さらなる即時的な反発や憎悪を呼び起し、苛立たしい様相を呈することも否めない。
 そのひとつに、部落解放同盟や「言葉狩り」の連中との応酬がある。この応酬の発端は、吉本が「三番目の劇まで」(『映画芸術』一九七〇年八月)という演劇に関するエッセイの中で「〈特殊部落〉などというものは、ただ共同観念としてしか」存在しないと言ったのに対して、部落解放同盟が「特殊部落」という語彙の使用をとらえ、発行元にクレームをつけ、機関紙『解放新聞』で「六〇年安保闘争の教祖、差別者に転落」という見出しのもと、顔写真まで掲載して、糾弾キャンペーンを張ったのである。
 私は当時高校生で、小さなサークルで部落解放に取り組んでいたから、この新聞を部落解放同盟高知県連事務局で手渡された。むろん、吉本のことなど何も知らない時だったから、全く事情が呑み込めなかった。私(たち)は部落解放同盟と行動をともにし、映画「橋のない川」をめぐる日本共産党との対立や、地元の差別事件の糾弾に参加していた。それが躓いた段階で、吉本の反撃を知ることになったのである。
 部落解放同盟は、関西に主な政治的地盤を持っていた日本共産党の分派「にっぽんの声」と密接な関係にあり、また作家でいえば、共産党から除名排斥された「新日本文学会」の野間宏との繋がりなどから、独立左翼である吉本を目障りな存在と見なしていたのだ。
 吉本は、部落解放同盟のイデオローグの一人である土方鉄批判を通して、部落解放同盟(その前身である水平社)が戦争中、戦争推進の組織的尖兵となったことを指摘し、それを自己批判することなく戦後に滑り込んでいるという、歴史的な事実をつきつけている。この批判は、部落解放運動の根柢を問うものであり、運動の指導層はこれに答えていく責務があるにも拘わらず、不問のまま頬被りされているのだ。それは作家で象徴させれば、住井すゑの軌跡をみれば歴然としている。
 吉本はさらに、土方鉄や小田実といった主題主義者が、主語を置き換えれば、体制の翼賛と迎合にそのまま通じる論理をまったく克服することなく、「正義」の仮装のもとに、踏襲し続けていることを鋭く批判している。この病根は根深く、いわゆる「反核」運動の誤謬まで地続きなのだ。
 それに付随する岡庭昇から■[スガ]秀美に到る「言葉狩り」の屑どもは、部落差別の発生の根に迫りもせず、さりとて、地域の日常性に立つこともない。口先だけの観念的な取り巻きにすぎない。もちろん、現場主義なんてものが錯誤を免れる保証はどこにもないのだが、ただ口舌の徒よりは、身に刻むように獲得することがあるかもしれないというだけである。
 子どもの時、被差別部落の集落に行きかかると、そこの悪ガキどもにからまれ、何の謂れもなく袋叩きにされた体験は根深い反感を生むだろう。交通事故で(警察は事故の検証はしても事後処理には関与しないから)当事者間の示談の交渉になる。一対一の事故なのに、その場に複数の地域の者が同席し、圧力をかける。そんな目にあえば当然、忌避感をつのらせるだろう。もちろん、この逆の事例も腐るほどある。そんな事実が地域的な隠微な反目を支えているのだ。
 そこには、地域の閉鎖性と共同体編成の歴史的時間の断層がある。武家が、同門の何某が酒席などで諍いになり悪口や打擲を受けるや、それを一門の恥辱と捉え、その恥を雪ぐことを武門の至上命題となしたように、また他村の者(ら)が畑荒しや盗みを働いた場合に、それを当人(ら)の悪行とするよりも、むしろ、その賊の属する村落の潜在的な敵意のように排他的に取り込んでしまうように。こんな未開の心性とその未分化は、アジア的な社会では基層に深く分布しているといっていい。
 しかし、被差別部落の部落外との婚姻率が戦後のある時期から五〇%を超えた段階で、地域問題としての部落差別は基本的には超克されている。それゆえ、部落問題の総体が風化と解消の最終過程にあるといえる。そこでいえば、部落解放同盟など地域の遺制的な利権団体にすぎないのだ。それは「部落解放」から「人権擁護」へ看板を転換しても、その実質は何ら変わるものではない。
 もともと言語に「差別語」などというものはない。言葉はその本質からしてソシュールが言うように〈示差〉的だ。つまり、言語も貨幣のように機能し、その表現体は商品と同じように〈交換価値〉と〈使用価値〉を持っているのだ。常識的に言っても、「右手」「左手」と腕の左右を指示し、五本の指だってそれぞれ命名されている。もちろん、それぞれの言葉が歴史的に形成されたものであり、それが隠語や蔑称として形成されたものであっても、言葉の概念は時代によっていくらでも変わるものであり、少しも固定的なものでない。だから、ある語彙を言い替えても殆ど意味はないのだ。「言葉狩り」の連中は空騒ぎをやり、気弱な者を脅迫して、「社会正義」を果たしていると錯覚しているかもしれないが、実際は言論統制に加担しているだけなのだ(マスコミの天皇報道の皇室用語の使用を見よ!)。物事の本質を外した共同性を煽る言動や行為は、人間の解放にとって反動でしかないのだ。
 吉本は、中上健次の要請に応えて和歌山県新宮市の「部落青年文化会連続公開講座」(一九七八年)で「南方的要素」という講演を行っている。そこで吉本は、氏族の発生までたどり、トーテムの違いや婚姻の分断などについて言及している。それは「情況への発言」のマリノウスキーの著作に対する短い論及と通底しているし、ヘーゲルの規定した歴史概念を対象化し、アジア的な共同体の在り方の解明やアフリカ的段階を措定することで、差別の根源を絶つ方法を志向しているのだ。
 一九七〇年代、左翼は退潮し、しだいに末期的症状を呈していった。政治的「関係妄想」の症例として二人の人物が取り上げられているが、この「A」や「B」と自分がそんなに隔たっていたとは思っていない。中ソ対立や、その国内版である中核派と革マル派との殺し合いの党派闘争や爆弾テロは、政治的な関心をもつものには、嫌でも観念的に影響し、精神に陰惨な影を落して、〈心〉を拘束したのである。
 そして、この頽廃は、内ゲバやテロを表とするなら、その裏にはスターリン主義特有のデマゴギーの流布と匿名による卑劣な攻撃がはりついている。「本日の講演で二十万円もらったそうではないか」という馬鹿な臆測もその症例である。どこのヘドロの中からわいて出たのかもわからないまま、デマは伝播される。四国高知に居てさえ「吉本は娘にピアノを購うからと言って三十万円の講演料を要求した」などという噂が届いたほどである(吉本家にはピアノなど無い。むろん、あったっていいのだけれど)。そこには敵対党派の姑息な中傷意図から卑俗なコンプレックスまでが混在していたはずだ。この末期的な泥沼から脱けだすには、自らを客体化するか、あるがままの日常性に着地するほかない。自分の見た夢を解釈するのでも、意味づけるのでもなく、いわば夢そのものとして距離を置くように。
 吉本はこの時期、埴谷雄高らの内ゲバの停止を求める「声明」の呼びかけ人への参加の要請を拒否している。これら知識人や自称オルガナイザーの無原則的な、ろくでもない妥協と密通を否定するとともに、腐敗した新左翼党派の延命に手を貸すことを拒絶したのである。これが同時にデマゴギーや匿名攻撃を粉砕する実践的態度であり、「情況への発言」に一貫するリアリティなのだ。
 吉本はこの末期的な症状にとどめを刺すために、対馬忠行の追悼文を入口にして「アジア的ということ」の連載を開始している。この「アジア的ということ」は、圧倒的な意義をもつものだ。
 吉本は、マルクスの「インドにおけるイギリスの支配」の検討から、〈コミューン型国家〉や〈プロレタリア独裁〉の概念を厳密に再措定してゆく。そして、そこからレーニンら(ボルシェビキ)に主導されたロシア革命とその権力がいかにマルクスの思想原理から乖離したものであったか。レーニンらは、コミューン型国家即ち国家廃滅の原則を現実的に放棄し、〈プロレタリア独裁〉の概念を「プロレタリア前衛の党の独裁」に、〈生産手段の社会化〉を「生産手段の国有化」に矮小化したことを明らかにする。これはロシア・マルクス主義の限界と転倒を指し示すとともに、国内的にいえば、日本共産党から新左翼にいたる全党派の理論的な支柱を完全に打ち砕くものだ。この吉本の根源的な指摘を左翼であろうとするかぎり、誰も回避することはできないといっていい。その多くは、社会主義(国)の内実を問うことなく、先験的に信奉しているだけなのだ。
 だが、吉本はこのマルクス主義の破産や限界を批判することを自己目的としていない。むしろ、そこからどれだけ「つり銭」が上げられるかが、吉本の志向性の根柢にあるものだ。つまり、ダメなものをダメだとはっきり指摘すること、そのうえで、そこから先をどうするかが問題であるように。
 吉本はここから、具体的に歴史概念としての〈アジア的〉ということの考察に入ってゆく。氏族の発生の起源から〈アジア的共同体〉への展開。またサンカ・セブリ数と被差別部落の人口分布を明示して〈アジア的〉共同体の「内」と「外」の階層構造の解明へと進み、さらに下北半島の尻屋と沖縄の久高島を例にとり考察を深化させる。そこから大和朝廷の支配共同体の形成の実相に迫ってゆく。この論考の重要性は量りしれないものがある。史的唯物論の地平を突破することを意味するからだ。
 これによって、私たちの風土を覆う靄や霧、私の不明や焦りがどんどん吹き払われたことは言うまでもない。これをほんとうの〈ラディカル〉というのだ。
 そして、この論及の最中に「反核」運動と遭遇することになったのである。「アジア的ということ」で批判した対象そのものが、歴史の亡霊のように立ち現われたのだ。これを見過ごすことは自らの思想の実質を放棄するに等しい。だから、敢然とその批判に向かったのだ。これにはもちろん、ポーランドの「連帯」の共産党の一党独裁を打ち破ろうとする運動が、独裁政権とソ連の軍事介入によって圧殺されるという〈世界史的〉な動向とも重なっていた。また日本の社会は構造的に大きく変容しており、その変化を捉えようとする吉本のもう一方の試みである『マス・イメージ論』にとっても、社会的反動や倫理的頽廃の典型的な〈マス現象〉として「反核」運動と黙視し難く直面したのだ。
 それゆえ、この論争は『「反核」異論』(深夜叢書社)の帯文にあるように、「転換期が浮彫りにしたカタストロフィ現象を捉え、翼賛・反動化した文学思想潮流に、根柢的否定を迫り全的回生のモメントを告知する」ものとなったのである。

 嘘はどうしてでき上るか
 小さな懐古にふと耳をとめる
 痛みに閉じこめられたベッドより
 看護婦が綺麗だったことを語りたがる
 入院患者のように
 溺れかけて呑んだ潮の苦しさより
 イルカのように泳いだと誇りたい
 幼年の夢のように
 向う側でとび散った肉片の蒼白さより
 撃鉄が重かったと語る
   詩人の戦争のように
 秤が傾いたとき
 心の秤が傾いたとき
 かりに秋と名づけた
 その世界で
 あなた方はみな
 云うべからざることを云っているのだ

    (吉本隆明「秋の暗喩」)

   (3)不抜の思想
 「情況への発言」は、「中休みのうちに」から「主」と「客」の対話形式をとっている。これはかけあい漫才のように、膨らみと含みを持つものだ。世間は広くて、「主」は吉本隆明で「客」は川上春雄か誰かであるなどという、おかしい読み方をする読者もいたくらいである。そんな異見に接すると、それは違うと思う、あの対話形式は主体の自己分離のうえで書かれたものだと言う気は失せて、苦笑するほかない。
 誤読や誤解も、冗談のうちに済むなら、結構というべきだろう。しかし、「反核」運動をめぐる論争には、そういう余地は全くない。「毒虫飼育」という戦後詩の中でも屈指の詩を書いた黒田喜夫は、「社会主義」の信奉から一歩も踏み出すことなく、飽きもせず繰言を並べているだけだ。真面目で真摯な宗派信者ほど始末が悪い。自動販売機から、商品やつり銭を取るために屈み込む自分に、屈辱の気分を呼び覚まされたとしても、そんなものは単なる被害意識にすぎず、客観的意味などないのだ。吉本は、ほんとうは黒田のような人物に「反核」運動批判やじぶんの営為の意味を理解して欲しかったに違いない。だが、そんな思いは通ずることなく、時代は大きく変容し、その思想を〈生〉と〈死〉のように分離したのである。
 「反核」運動をめぐる論争の余波はつづく。岩波書店発行の『世界』に連載された埴谷雄高・大岡昇平の対談が『二つの同時代史』としてまとめられた。その中で大岡昇平は、六〇年安保闘争で逮捕された吉本を、花田清輝と吉本との論争にからめて、「あれはおもしろいね、ケチのつけ方が。吉本はスパイで、だから警視庁の玄関から降りて来た、とかね(笑)」と言ったのである。「反核」運動に異論をとなえ、大岡や埴谷を批判した吉本への、これは手段を選ばぬ〈報復〉といっても過言ではない。なぜなら、当の論敵花田清輝さえそこまではどこにも書いていないからだ。
 吉本は逡巡のすえ、大岡に対して訂正要求を出した(私は、この当時、吉本家を訪問している。吉本さんは珍しく苦悩の表情で、内容証明で抗議文を送ったことを語った。私は「徹底的にやったほうがいいと思います」と云った)。しかし、大岡はこの要求をまともに受け入れることなく、事態はこじれていった。このとき私は、大岡の態度をみて、文士というのは人倫的屑の謂いではないかと思ったほどだ。どんな闘いも、所詮、他所の火事である。ただ当事者と、それに切実な関心を寄せるものが痛切に感じるだけだ。「反核」運動批判→埴谷とのかけあいの大岡の中傷発言→訂正要求→大岡の居直り→居直り批判と続き、ついに埴谷・吉本論争へ発展したのである。
 埴谷雄高はこの論争で、その理念の俗悪な本性をさらけだし、自らの手で墓標を立てることとなったのである。それは一片の同情の余地もない無惨なものだった。その墓標の下には、永久「反」革命者の骸が埋まっているだけだ。「悲哀」は、『死霊』という作品を尊重する度合に応じて、こちら側に残されたのである。
 余波は、いろんなところに及んでいる。戦争中、戦意高揚のための戦争映画を製作し、戦後は日本共産党の同伴者に転身した山本薩夫の遺族が、山本と吉本との対談「『地下水道』の意慾」(『映画評論』一九五七年二月号)の『吉本隆明全対談集』への収録を、「反核」運動をめぐる対立を理由に拒否している。あらゆる言論は本来的に〈オープン〉なものであり、ひとたび発表された著作や発言は、客観的に存在するものである。また、二人がある時、語り合ったことは〈まぎれもない事実〉である。それは誰も消去することも、隠匿することもできないはずのものだ。この拒否には、現時点の利害から遡って、過去を改竄することを常套とするスターリン主義の悪しき伝統が踏襲されているといっていい。日本共産党が議長だった野坂参三を、古傷を暴くようにして除名した愚劣な一件だけでも、その姑息な体質と誤謬は明白である。こんな言論の封殺はただちに撤回すべきなのだ。
 吉本はさらなる孤立を代償に、痛烈な情況批判を続けている。けれど、肝心なことは、吉本が自覚的であるように、「反核」運動をめぐる論争の余波や、柄谷行人や蓮實重彦といった空虚なポスト・モダニストとの論争は、情況の表層にすぎないということだ。深刻な情況は、むしろ社会の基底の根柢的な変容にあったというべきである。
 もちろん、柄谷や蓮實などを放置する必要はない。この連中は過度に知的で、〈知〉も〈富〉と同様に権力を構成することに無自覚なうえに、そのエリート意識において、スターリン主義と通底しているからだ。柄谷は、早い時期から吉本の著作を読み、文庫本の『改訂新版 言語にとって美とはなにか』の解説を書いたほどなのに、吉本の思想の地平を超えることを目指すのはいいが、反吉本を標榜するようになった。どんな立場を取ろうと勝手だが、この男は、私が知る限り最初に、吉本は兵役を逃れるために工科大学に進んだなどという虚偽を捏造し、広言したのである。無知や無理解から出たものなら、改めることができるかもしれない。しかし、この場合、熟知したうえでの意図的な曲解なのだ。その意味では極めて悪質で、大岡昇平の卑劣な中傷と何ら変わるものではない。
 柄谷は中東湾岸戦争に際して、中上健次に唆されて「私は日本国家が戦争に加担することに反対します」などという頓馬な「声明」を、仲間を組織して公表している。中東湾岸戦争において真っ先に批判されるべきなのは、戦争当事国であるフセインのイラクとブッシュのアメリカだ。この馬鹿どもは、そんなことも判らないのだ。柄谷に追随した浅田彰、藤井貞和、三浦雅士といった連中も、思想と文芸の破廉恥漢という点では全く同列である。その変り身の速さと小利口な処世術がそれを物語っている。
 蓮實重彦は、来日したミシェル・フーコーと吉本との対談の通訳をやっている。しかし『共同幻想論』のフランス語訳を成し遂げた中田平が指摘したように、吉本の「幻想」という概念を「ファンタスム」と通訳したのではないか、これでは吉本の思想がフーコーにうまく伝わるはずがない。吉本は「天皇制について」(一九六七年)という講演・質疑応答で、はっきりと「幻想=イリュージョン」といっている。そこまで確かめて通訳をやるべきだというつもりはないけれど、蓮實らが東京で催した「フーコーの世紀」というシンポジウムにおいて、フランス語以外の発言は認めないとしたとき、この東京大学の総長までつとめることになった蓮實の文化猿的体質と抑圧性は歴然としたのである。
 こいつらは、東北の人間が地元の言葉で話すと、殆ど何を言っているか判らないとしたら、当然「標準語」で話すべきで、そうしなかったら無知で野蛮とみなしてかまわないと思っているのだ。こいつらに、吉本の「大衆の原像」が解るはずがないのだ。こんなことをいっても徒労だ。しかし、徒労と不毛とは違うはずだ。私たちの生活がそうであるように。
 社会の地殻変動は、しだいに『試行』の発行基盤も稀薄化させていった。それは寄稿者の意識のうえにも、また読者の思い入れの度合としてもあらわれただろう。それはあくまでも〈両価的〉であり、現実の束縛が薄れ、身軽な自在さを獲得することにもつながっているからだ。
 だが、その一方で、離反や決裂としても現象したのである。小山俊一の離反や兵頭正俊の破綻、また長年の詩的盟友ともいうべき鮎川信夫との決裂など。それぞれ個別的であっても、その底には時代の切迫があったのである。それに追いあげられて、それぞれが八つ当たり的な反発の悲鳴を挙げて、情況の変容に振り落されていった。そこで、どうして吉本を愛憎の標的にする必要があるのか、吉本がそれだけの思想的求心力をもっていたといえばそれまでかもしれないが、私は、どうして時代への洞察を深め、自らの負債を世界へ投げ返さないのか、また反対に、どうして事態を自身の中に繰り込まないのか、と哀しく思った。彼らにはもうその気力も体力も減衰してなかったのだろう。
 そして、最終的な歴史の審判の日がやってきた。言うまでもなく、ソビエト連邦と東欧社会主義国の崩壊と消滅である。「人民の解放」を掲げた国家が当の民衆によってリコールされたのだ。これによって、埴谷の妄念も大岡の傲慢も、山本の遺族の忌避も小山の自壊も、またそれらの残余の全部が、その根拠から完全に消しとんだのである。すべては終わったのだ。私は、ソビエト連邦の崩壊に殆どダメージをうけることはなかった。むしろ、ベルリンの壁が崩されたことに手放しの歓喜を覚えた。これが「情況への発言」をたどってきた当然の帰結であり、ここで二〇世紀はその幕を降ろしたのである。
 さらに国内的にいえば、日本社会党が自由民主党などに担がれ、自治労上がりの村山富市内閣が発足し、村山首相は「自衛隊」は合憲であると言明した。これで「左」「右」の差異は、どこにも無いことが誰の目にも明瞭になったのである。「保守」と「進歩」はいい仲で、「体制」も「反体制」もありはしない。民衆を欺き、足蹴にすることにおいて、どれもプロフェッショナルなのだということが。
 だが、そんなことで、世界も大衆の命運もつきるわけがない。理念の空虚がリードするなか、エレクトロニクス技術革命の進行によって、生産は飛躍的に拡大し、生活時間はより加速し、忙しなさは増大していった。その影響を誰も免れることはできない。『試行』も例外ではありえなかった。一九八七年以降年一回の発行、出ない年もあるようになった。私も少しなら経験があるからいうと、雑誌の生命線は内容を別とすれば、持続と定期的な発行である。『試行』の発行が間遠になっても、吉本はこの課題をやり過ごすはずがなかった。
 この新たな資本主義の段階に、まさに拮抗するものとして『ハイ・イメージ論』の『海燕』『マリ・クレール』『メタローグ』の三誌にまたがる八年間全七二回の長期連載があった。この「映像の終り」から「起源論」へ到る〈現在〉の〈超克〉を目指した必至の力業は、まさしく〈時間〉との格闘にみえた。理工系の概念とその図表示を駆使した、この未踏の達成は、その真価をしだいに発揮するに違いない。けれどそれは、極度の過労としてのしかかったはずだ。
 さらに、オウム真理教と地下鉄サリン事件への言及に対する『産経新聞』の世論操作と、平板な市民社会意識による凄まじい吉本バッシングが、それに加わった。オウム事件の一切を〈支配秩序〉のうちに被覆しようとする動向に、吉本は屈することなく、〈権力止揚〉の意志を貫き通したのである。小浜逸郎などこの集中攻撃に加担しただけだ。けれど、その重圧が心身の疲労を倍加させないはずがなかった。それが夏の海での事故に繋がったのではないだろうか。
 そして、翌年(一九九七年)一二月発行の第七四号で『試行』は終刊した。
 本駒込の吉本家の門のところに台車があった。私はそれをみて、これで出来てきた『試行』を運んでいたんだろうなと思った。購読者に届く『試行』の表書は最後まで手書きだった。たぶん本人を主に、家族で手分けをして書いていたのだと思う。そんなことは他に任せればいいとは考えないところに、『試行』の意義と持続の〈根拠〉はあったのである。
 大学へ逃げ込み、安全地帯から「文学」や「詩人」をやっている安堵の輩に、その労苦の何がわかろう。遠い昔に〈初心〉など自ら投げ棄てているのだ。出版社や企業に依存して、徒党(たかり)雑誌を出している連中など元から埒外だ。私は『試行』の一読者にすぎなかったけれど、「情況への発言」は確かな指針であり、『試行』は人生の方向を決定づけるものであった。そしていまも、表象(文化)主義や機能主義の跋扈を根柢から否定する、不抜の思想なのだ。
 二一世紀は、二〇〇一年九月一一日のアメリカ・世界貿易センタービルを襲撃した、いわゆる「同時多発テロ」に始まった。吉本は『試行』終刊後も、決して沈黙することなく、高齢の老体にも拘わらず、節目では情況への発言をなし、また親鸞の思想と姿勢を鏡のようにして、大衆的課題である「老い」や「病い」や「食」などを主題とした、やさしい話体の可能性を追求した談話本も多く出している。それらを侮る向きもあるだろう。しかし、それは〈還相〉の試みなのだ。そこらへんに転がっているウケを狙った迎合本とは、根本的なモチーフが異なっている。
では、〈還相〉とは何か。

  念仏によって浄土を志向したものは、仏になって浄土から還ってこなければならない。そのとき相対的な慈悲は、絶対的な慈悲に変容している。なぜなら、往相が自然的な上昇であるのに、還相は自覚的な下降だからである。自然的な過程にあるとき、世界はすべて相対的である。よりおおくの慈悲や同情や救済をさし出すこともできるし、よりすくない慈悲や救済をさし出すこともできる。しかし、さし出された慈悲が、実現するかしないか、有効か否かは、慈悲をさし出す側にも、慈悲を受けとる側にもかかわりがない。ただ相対的であるこの現世に根拠があるだけである。自覚的な還相過程では、慈悲をさし出すものは、慈悲を受けとるものと同一化される。慈悲をさし出すことは、慈悲を受けとることであり、慈悲をさし出さないことは、慈悲を受けとらないことである。衆生でないことが、衆生であることである。
  (吉本隆明『最後の親鸞』)

   (4)未来の吉本隆明
 私は、二〇〇〇年三月から『吉本隆明資料集』を自家発行している。十年以上も続けていると、いろいろなことを言われる。「吉本主義者」「吉本エピゴーネン」に始まり、「提灯持ち」、果ては「吉本の名前を騙る商行為」までにわたっている。その殆どが、読んでもいない〈外野〉からのヤジなので、〈おまえら、そんな偉そうなことを言うが、実際、資料を蒐集し、それを自分で入力して校正し、発送作業から経理事務までを自力でやってみるがいい。おまえら、そういう実務の重さを我が身に引き寄せて考えたことはあるのか〉などと野暮なことを言うつもりはさらさらない。私はとても充実していて、楽しみながら発行を継続しているから、なんとでも云うがいいさ、としか思っていないのだ。
 もちろん、この発行には、さまざまな〈事情〉と〈動機〉が錯綜している。そこで〈いちばんの動機〉とは何だろうと、考えてみた。
 かつて雑誌『ユリイカ』(一九七〇年一二月号)の共同討議「現代詩一〇〇年の総展望」という企画で、明治・大正・昭和三代にわたる詩の歴史から、詩人とその作品を挙げるアンケートがあった。そこで、吉本は「中原中也 全作品」「立原道造 全作品」と答えている。それと同じように、吉本は代表的な著作をたどればいい存在ではない。吉本隆明とは弛みない研鑽の、まさしく〈全過程〉なのだ。
 吉本隆明は器用な人ではない。自己の体験を真摯に反芻することで、じぶんの思想を紡ぎ出してきた人だ。時代の課題を決して逸らさず、真正面で受け止め、思索し、発言してきたのである。
 たとえば『共同幻想論』の発想の根柢には、戦争中の天皇制と軍国主義に呑み込まれた痛切な自己体験がある。その打破と脱却の方途を模索したものだ。『心的現象論』も自らの資質への内省から始まり、島尾敏雄の『死の棘日記』の中に垣間見られるように、自他の精神のありように対する疑問を根拠としている。それは不可避の課題として目の前にあったのだ。それをフロイトの思想を対象的に拡張することで、なんとか解明しようとした〈営為〉にほかならない。また『言語にとって美とはなにか』は、政治思想といえども〈言語〉を基底にしていることを看破し、政治情勢や党派的勢力の版図を、否定する方位を示したものだ。それは自らの詩作や文芸批評を踏まえた〈表現論〉の深化ということもあるが、それ以上に、マルクス主義の思想的な限界を突破する情況的な課題そのものであったのだ。
 吉本隆明は在野の考える人であり、切実な問題意識をもった〈実直〉の人なのだ。その個的なモチーフを類的な〈体系〉的構築へ転化したところに、〈独創性〉は際立っている。そんな存在は、日本の近代・現代を問わず数えるくらいしかいない。その意味でも、この人をほんとうに理解することなくして、〈未来〉へ通じる本質的な展開はないと、私は思っている。
 だが、この言い方も、もしかすると違うのかも知れない。

  ここにとりあげる人物は、きっと、千年に一度しかこの世界にあらわれないといった巨匠なのだが、その生涯を再現する難しさは、市井の片隅に生き死にした人物の生涯とべつにかわりはない。市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。人間の知識ーーそれはここでとりあげる人物の云いかたをかりれば人間の意識の唯一の行為であるーーを獲得するにつれて、その知識が歴史のなかで累積され、実現して、また記述の歴史にかえるといったことは必然の経路である。そして、これをみとめれば、知識について関与せず生き死にした市井の無数の人物よりも、知識に関与し、記述の歴史に登場したものは価値があり、またなみはずれて関与したものは、なみはずれて価値あるものであると幻想することも、人間にとって必然であるといえる。しかし、この種の認識はあくまでも幻想の領域に属している。幻想の領域から、現実の領域へとはせくだるとき、じつはこういった判断がなりたたないことがすぐにわかる。市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつはわたしたちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。
  (吉本隆明『カール・マルクス』)

 これが、吉本隆明の〈ハート〉のありか、なのだから。


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「吉本隆明さんの笑顔(その6) 松岡祥男」 ファイル作成:2023.11.14 最終更新日:2024.10.14