吉本隆明さんの笑顔 (その5)

松岡祥男

17 北島正さんを悼む (二〇一八年五月)

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 梓澤登さんが、『吉本隆明全集』(晶文社)第五巻所収の「中野重治『歌のわかれ』」の中で、島木健作「癩」が「雁」になっていると指摘されていることを、宮城正勝さんが伝えてくれた。
 ふつうに考えれば、初出(『現代文学講座V』飯塚書店)の段階で誤植、それが検証されることなく、踏襲されてきたということだろう。
 どうしてかというと、吉本さんは『言語にとって美とはなにか』で、《島木健作は生涯のもっともすぐれた作品「癩」(昭和7年)によって「機械」とともにあたらしい文学体の表出の先端をささえた》と書いているからだ。時期的にも近接しているから、まず間違うことはないといっていい。
 ただ、吉本さんの場合、和子夫人も言われているように、校正はあまり得手でなかったようだ。おそらく、手直し(改稿)に重点をおき、校閲よりも思索を深めることを優先していたのであろう。

  まだセミ・プロだったころから、わたしには校正刷りを推敲段階のひとつと心得る不届きな悪癖があった。原稿用紙にじぶんの自筆のときには、うまく客観視できない表意文字と表音文字の配置や、文体の生理的な癖を、校正刷りの活字文字に変ったところで眺めながら、手直ししようとするのだ。この虫のいい悪癖は時間がせわしなくなり、何やら物書きらしい構えを無意識にとるようになって、ますます嵩じるばかりになった。校正刷りに勝手な手入れをやって、行の組替えになったり、ひどいときには頁の組替えになったりする。これが編集者に与える苦痛は、はかり知れない。そんなことを露もかんがえないのほほん顔の学者、研究者や文壇大家ならいざしらず、じぶんでは痛いほど編集者の大変さがわかるつもりだ。それなのに渋い顔で瞋りまくる印刷屋をなだめなだめ編集者が折角あげた校正刷りを、また滅茶滅茶にこわしてしまう。それでも物書きにむかって、あんたは編集者を何だとおもってんだ、おれたちの苦労がわからずに、よくも駄文を何度も勝手に手直しして、活字にしたり本にしたりできるもんだな、とひと言云ってやりたいのに、云ったらそれでおしまいとおもうとそれもやれない。ただにこにこと(せいぜい苦が笑いして)いいですよ、ちゃんと直しときますといって、耐え忍ばなくてはならない。安原顯が編集者はどうせ芸者なんだから、というのはここのところにちがいない。そうかんがえるとおれはかけ出しのときから何十年(そしていまも未熟さではかけ出しと変らないが)、その悪癖を繰返し、しかもある時期からどんなに編集者が大変なのかをよく知りながら、その悪癖を矯正できずに終始してきた。腹わたが煮えくりかえる思いをこらえながら、おれにたいして笑顔のひとつも作ってきた編集者は、どれだけいるか量り知れない。その怨念だけでもおれはいつか自滅するにちがいないと、いつもおもってきた。この編集者の怨念に対抗する理窟は、ほんとは、わたしのような凡庸な物書きの方にはひとつもない。居直ってみせるとすれば、すこしでもよくなるんだから勘弁してもらえるだろうという消極的な根拠だけだ。
  だがわたしは逆の体験もした。学者や研究者のなかには、病的な厳密症ともいうべき性癖や神経症が広範にあって、校正刷りに何校であろうがお構いなく手を入れては、編集者や出版社に七転八倒の苦痛と損害を与える。学者や研究者にはそんな意味では世間知らずの大馬鹿野郎がおおいから、下働きのものの苦痛などこれっぽっちも考えようとしない。何をそんなに威張っているんだ、たいした仕事もしねえくせしてといいたくなるのがおおい。そのためこの種の出版社の契約書には、もし校正のさいに行や頁の組替えにわたる場合は、その分の費用は著者の方で負担することという項目がついているのがある。わたしはそういう学者、研究者向きの出版社と交渉する場面があって、そんな項目はおれたち学者でも研究者でもない物書きには、承認できないから削れと主張して、とうとう物別れになって出版をやめたことがあった。

  (吉本隆明「編集者としての安原顯」)

 ここで「出版をやめた」といっているのは、たぶん『初期歌謡論』を指している。その単行本の「あとがき」に《ひとつの書物はその内容によって劇的であるだけでなく、その成立の経緯によって劇的であるという思いをいよいよ深くするようになった。本書も難産と流浪の過程でそうであった》と記しているからだ。
 わたしは『吉本隆明資料集』を作ることで「初出」に当たってきたけれど、結構誤植は多い。
 一般に辣腕と言われた編集者でも、校正は他人まかせで、雑なのだ。その場合、入稿して印刷所の入力したものを校正者に回し、そのまま素読みするケースが圧倒的なようだ。そこでは、原稿や初出とのつきあわせ校正(校合)を省き、そのため誤植や組み落ち(脱落)に気がつかない場合も多々あるのだ。
 例えば、『書物の解体学』の「ロートレアモンと〈倫理〉」の中の、

  〈倫理〉はこの場合も個人の主観によってきまるのでもなければ、社会のありふれた規範によってきまるのでもない。(雑誌『海』初出)

  〈倫理〉はこの場合も、個人の主観によってきまるので、社会のありふれた規範によってきまるのでもない。(中央公論社単行本)

 となっていて、単行本収録のものが中公文庫、『吉本隆明全著作集(続)』、講談社文芸文庫とずっと踏襲されてきた。しかし、「マチウ書試論」をはじめとする、吉本さんの思想の文脈(理路)から考えれば、「初出」が正しいことは明らかである。
 これは『吉本隆明全集』第一三巻で訂正された。この部分は吉本思想の根幹に関わるので、わたしはそれをみて安堵した。
 校正は、ほんとうに面倒で難しい。
 また、こんなケースもある。『源氏物語論』(大和書房)でいえば、著者が加筆・訂正したゲラを印刷所に回して、その訂正個所の最終確認をやっていないためか、文章が混乱している個所があった。わたしは『「情況への発言」全集成』(洋泉社)の解説を依頼されたとき、心配なので、その第二巻と第三巻の「初出」とのつきあわせ校正を無償でやった。『情況へ』(宝島社)では本文以前に、表題のひとつが「ひとつの死、思想の死」となっていたからだ。正しくは「ひとの死、思想の死」である。
 一般的にいって編集者は読者と違って、終わった仕事を振り返らないように思われる。

 吉本 あれなんか伊波さんのあれみると、そう書いてありますね。脂肪親族となんとかと、骨みたいの食っちゃうのと、ようするに両方あって、等親というか親等というかそれによって違うというようにありましたねえ。そういうあれはあったですね。その場合には食べると死者は永遠に自分の中に生きていく、そういうことだと思いますけどね。

 この言叢社の『文学・石仏・人性』の中の「脂肪親族」などというのは、読み返せば変なことにすぐ気づくはずで、これは常識的に考えれば「死亡親族」のはずだ。また『ハイ・エディプス論』でいえば、この本の〈心的現象〉への果敢な踏み込みの意義からすれば、どうでもいい些末なことだけれど「差別非差別」となっている。通常は「差別被差別」であろう。
 これらは能力の問題というよりも、みんな時間に追われ、つまり社会経済の急流の中、仕事を先へ先へと進めるほかなく、どうしても荒れてしまうというのが実状なのではないだろうか。
 そんなありさまだから、到底、著者の間違いや初出段階の誤植まで、配慮が届かない。ここで大切なことは目を変えることだ。つまり別の人に見てもらう、そうすればかなり防ぐことができるはずだ。
 昔は誤植、今は変換ミスだ。思潮社の『討議近代詩史』の中で、夏目漱石『坊ちゃん』が『坂ちゃん』に、春秋社の『決定版 親鸞』の「最後の親鸞」の中で、「信仰」が「進行」に、というふうにである。
 それならお前はどうかということになる。実はこれが全く駄目だ。じぶんのものはどうしても頭で読んでしまうので、誤記や脱字を見落とし、いくらやっても駄目なのだ。そこで、わたしの場合は妻との二人三脚でやってきた。原稿は必ず妻に見てもらっている。そうやっていても、間違いはある。
 だから、他者を責める資格も、そのつもりも毛頭ない。
 しかし、『際限のない詩魂』(思潮社)の「中島みゆきという意味」のように初出にある音符の図表を二つとも落としたり、宮城正勝さんが指摘したように『全南島論』(作品社)の「色の重層」において、レヴィ=ストロースの『野生の思考』の引用に、著者が施した傍線が《あとかたもなく消え去っている》というような杜撰さは、やっぱり困るのだ。

     2
 『吉本隆明資料集』の最終閲読をやってもらっていた、北島正(まさし)さんが二〇一八年二月三日に亡くなった。
 北島正さんは一九四七年一一月二一日長野県飯田生まれで、《中学でキューポラの街川口に出て途中宝塚へ移り、高校卒業までは西宮》、そして、一九六六年に大阪市立大学文学部に入学している。
 この年の一〇月三一日の学園祭で、吉本隆明の講演会があった。演題は「国家・家・知識人・大衆」だ。吉本隆明は一〇月二九日から三一日にかけて、関西学院大学、関西大学、同志社大学、大阪市立大学とブント系が活動する大学で集中的に講演を行なっている。北島さんはこの時、吉本隆明を知らず、小田実のようなつまらない左翼文化人の一人とみなし、この講演会はパスしたとのことだ。
 この時の吉本講演は、講演自体よりも講演後の質疑応答の方が時間が長いものだ。その中で、次のように聴衆の質問に答えている。

  第一にぼくはあなたと違うところは実践という概念が違うわけなんですよ。実践という概念は、つまりマルクスによれば対象化行為なんですよ。対象化行為というものは幻想行為と現実行為というものがあるわけなんですよ。それを実践と呼んでいるんですよ。実践という言葉をせばめ、そしてしかもそれに無媒介に倫理性を導入したというのは、これはマルクスのせいじゃなくてロシアから始まっているんですよ。だから実践の概念がだいたい違うと思うわけよ。逆にあなたがぼくの位相になりぼくがあなたの位相になったらね、ぼくはたとえばあなたに、いまあなたが質問したようなことは絶対に問わないわけですよ。絶対に問わないでぼくはやってみせますけどね。やりますけどね、必ず。できますけどね。そんなことは問わないですよ。つまりなんていうかな、あほらしくて聞いちゃおれないという感じがするんですよ。要するにおまえ、人のせいにするなとね。

 もし、若い北島さんがこれを聞いたとしたら、反発したかもしれないし、あるいは、凄いじゃないかとおもったかもしれない。ただひとつ、甘いことしか言わない進歩的知識人とは違う、と感じたであろうことだけは確実だとおもう。
 その後、学部の先輩の女性に薦められて、著作にふれ、殊に詩に魅せられ、吉本隆明の読者となったのである。爾来、亡くなるまで吉本隆明から離れることはなかった。
 エピソードを付け加えれば、吉本隆明を推挙した女性は、「リュウメイももう終わり、共同幻想論なんていって、古代史に逃げちゃった」と言ったそうだ。北島さんはそれを聞いて、それは違うという前に、悲しく思ったという。また後の連合赤軍のリーダー森恒夫もいて、演劇部の先輩として北島さんと交流があったとのことだ。
 わたしは大阪市立大学に行ったことがある。一九七〇年には大阪市立大学のヘゲモニーは、ブント系から中核派に移行していた。東京の七〇年六月一五日の反安保の集会に向かう、全国部落研連合の関西の集合場所がこの大学だったからだ。この主導権の移行は、北島さんが深く関わった一九六九年のノンセクト・ラジカルを中心とした大学占拠闘争と繋がっているようにおもう。一九六九年二月に教養部一部封鎖があり、それを前段階として、八月に時計台バリケードの構築が始まり、一〇月四日大学の警察機動隊導入によって排除され、それを中心的に荷った北島さんも逮捕された。
 同じ一九六九年夏、高知大学でも大学占拠闘争が闘われている。全共闘系学生が主導したものだった。しかし、高知大学の場合、要求がある程度受け入れられたこともあって、中沢治雄委員長をはじめとする執行部は、賢明にも占拠を自主解除した。
 それは機動隊との対峙、徹底抗戦となれば、表向きは勇ましく華々しいに違いないが、そんなことを喜ぶのは政治主義者と外野の野次馬にすぎない。不可避的に決定的場面に突入したとしても、その衝突と混乱と荒廃から、再起することは並大抵ではない。その闘争後の空隙のうちに、打撃の少なかった党派が台頭したということだろう。
 だいたい、学生運動は生活協同組合の上りやその他諸々の自治会費を活動資金としていて、それが経済的な基盤となっていたのである。その中から上納金が全学連に納められるという仕組みになっていて、それが各政治党派に流れていた。この基盤は大学の機構改革によって崩れてしまったといえるだろう。
 その当時、社会は「学生」や「未成年」に対しては比較的寛容だった。デモや学生運動で逮捕されても、それが尾を曳いて、就職活動やその後の生き方に深刻な負債になることは少なかったようにおもう。じぶんの場合でいえば、部落解放同盟と一緒になって日本共産党と衝突した事件で逮捕状が出て、保護観察処分になったけれど、そのために身動きのならない困難に直面したというようなことはなかった。まあ「未成年」の下層労働者だったから、そうだっただけかもしれないが。
 これが「社会人」となると、遙かにシビアだ。以前に書いたことがあるけれど、反公害運動として全国的に知れ渡った「生コン投入闘争」でいえば、パルプ工場の排水溝の出口を生コンで塞ぐことを、現場で指揮した人物は、「浦戸湾を守る会」のメンバーで、地元の水産会社に勤める会社員だった。真っ先に彼は逮捕され、続いて、会の会長と事務長が逮捕された。
 高知市の江ノ口川は、もともとは市の中心部を流れる鏡川から分水し、用水路として作られたものだ。それが「西日本で一番汚い川」と言われるまでになってしまった。その最大の要因は製紙会社の排水だ。これに対して住民運動が起こり、改善要求をしても、一向に埒があかない。そこでとうとう〈実力行使〉に出たのである。
 わたしはアルバイトで、そのパルプ工場にほとんど隣合わせの飴屋で働いたことがある。飴玉造りの作業の最中に、工場から出る煙が流れてきて、みんな仕事を放棄し、外へ飛び出すことが何度かあった。そのパルプ工場のひどさは身をもって体験していたから、この〈快挙〉を支持しないわけがない。
 ところが、この闘争の名分をかすめとろうと日本共産党が弁護団として介入したのである。山崎会長も坂本事務長も、じぶんたちがやったことの罪は認めるという市民的な立場だった。その処罰を甘受する覚悟のもと、実行に踏み切ったのである。一方、弁護団は住民の生活を守るための正当防衛を論拠に、無罪を主張し、それを法廷闘争の方針としたのである。この齟齬は解消されることはなかった。最初から立場が異なっていたからだ。結局、有罪判決が下されたけれど、高知パルプは閉鎖となり、川は普通の流れを取り戻し、鯉が泳いでいる。
 わたしがここでこだわるのは、そんな結果ではない。実際に現場で行動した彼は、起訴対象から除外された。つまり裁判においては、蚊帳の外に置かれたのである。それはそれで、厄介な〈法的拘束〉を負う必要がないので結構なことだが、逆にいえば、社会的な〈象徴性〉や支援者との〈紐帯〉から切り離れたのだ。
 その直後は社会のヒーローのように遇されたけれど、彼は会社を解雇され、転職しようにも、どこも受け入れるところはなかった。行き場所を失ったのである。食いつめ、〈流浪〉の途しか残されていなかった。
 彼はわたしの働いていた建築現場の仕上げの仕事に、臨時にやってきて一緒に働いたこともある。「松岡よ、銭だ。銭が無けりゃ、どうにもならんぜよ」と言った。わたしは、あの「生コン闘争」の最大の犠牲者は彼だと思っている。
 党利党略の日本共産党は彼の存在など眼中になく、「浦戸湾を守る会」も山崎会長は会社経営者であり、また坂本事務長は年長で社会経験も豊富だったから、トータルな見識をもって配慮し、じぶんたちが立ち会うか、もしくは身軽な学生メンバーにするべきだったのだ。
 いまさらこんなことを言っても仕方のないことかもしれない。じぶんもそうだったけれど、その時は本人もやる気満々で、後先のことなど考えていないからだ。吉本隆明が東洋インキの労働組合の活動で職場を追われて、就職口は見つからず、完全に化学技術者の道が閉ざされたように、彼も社会から徹底的にパージされたのである。
 さらにいえば、吉本隆明が六〇年安保闘争で逮捕された際、隔日勤務の特許事務所においてさえ、出勤したら、じぶんの机はなかったという。幸いにして免職にはならなかったけれど、それくらい風あたりはきつかったのである。
 北島さんも、さまざまな軋轢や葛藤をくぐったに違いない。けれど、北島さんは闘争敗北後も、国文学徒たらんとする志を棄てたわけではなかった。働きながら、何度か大学院の試験を受けている。しかし、通らなかった。それで実力的(学力的)に劣るはずがないという思いから、ひそかに探ったところ、要するに大学にたてつき、占拠闘争をやって迷惑をかけたことに〈詫び〉を入れないかぎり、院生として受け入れるわけに行かないというのが、大学側の意向だったのである。そこで、北島さんはきっぱり断念し、私立高校の教師の道を選んだのだ。
 わたしは、一つの闘争に関わり、それを実際に荷い消えていった人物や、北島さんのようにおのれを曲げることなく筋目を通した人に対するシンパシーを失っていない。何もしないうちからの損得勘定など、くそくらえなのだ。
 そんな北島さんとどうして出会ったかというと、地元高知に住んでいる大阪市立大学の同窓の川村寛さんとともに『試行』の広告をみて、『同行衆通信』を購読してくれていたからだ。ある年、川村さんから声がかかり、鎌倉諄誠さんと一緒に小料理屋に出かけた。その席に、北島さんもいたのである。これを皮切りに、場所を川村さんの家に移して、毎年夏には集まりを持つことになった。それは川村さんが体調を崩されるまでつづいた。
 ところで、北島さんは吉本隆明のどんなところに惹かれたのだろう。

  来歴の知れないわたしの記憶のひとつひとつにもし哀歓の意味を与へようと思ふならば わたしの魂の被つてゐる様々の外殻を剥離してゆけばよかつたはづだ
  けれどわたしがX軸の方向から街々へはいつてゆくと 記憶はあたかもY軸の方向から蘇つてくるのであつた それで脳髄はいつも確かな像を結ぶにはいたらなかつた 忘却という手易い未来にしたがふためにわたしは上昇または下降の方向としてZ軸のほうへ歩み去つたとひとびとは考へてくれてよい そしてひとびとがわたしの記憶に悲惨や祝福をみつけようと願ふならば わたしの歩み去つたあとに様々の雲の形態または建築の影をとどめるがよい

  わたしは既に生存にむかつて何の痕跡を残すことなく 自らの時間のなかで意識における誤謬の修正に忙しかつたのだ

  (吉本隆明『固有時との対話』)

  わたしはわたしの沈黙が通ふみちを長い長い間 索してゐた
  わたしは荒涼とした共通を探してゐた

  (同前)

 この引用のあと、北島さんは次のように書いている。

  過去と現在は、乖離して確かな像を結ばない。それ故、「今を生きるわたし」は、自己回復が同時に「現在の回復」となる場を求めて、過去を未来へと反転させる時間の紡がれる「Z軸」を歩む。しかし、そこは、あらゆる倫理の殺到する場、「沈黙による自己対話」だけが可能な場である。
  この詩篇に遭遇したことは、闘いの残した課題を倫理的負債にすり替え、昔の歌を唱うことでこれを華やかに解消しようとする者達との分かれを決定づけました。そこには、倫理を越えた「自己再生」の場、「世界性」に対峙する自己対話の場が開かれていたのです。

   (北島正「自己表出という思想」『情況』二〇一二年八月別冊)

 じぶんに引き寄せた確かな理解だといえよう。敗戦による打撃と陥没からの「再生」が背景になっているからだ。自己の内面へ下降することで得られた痛切な心像、そこでのモノローグが『固有時との対話』である。
 ただ、後指しの優位みたいだけれど、はてしない内向は価値の源泉ないし〈無〉のフィールドにゆきつくのではないだろうか。いわば純化された資質の〈固有値〉に。そこに吉本隆明は立っているような気がする。そこはほんとうはとても危険な場所かもしれない。そこには〈狂気〉や〈死〉も潜在するからだ。それが吉本隆明をして「〈歴史的現実との対話〉のほうへ」、すなわち『転位のための十篇』への転位の〈内在性〉ではないだろうか。そうだとすれば、北島さんの理解はポジティヴな印象を受ける。
 しかし、北島さん自身の「自己再生」の様相は如実に語られている。もはや如何なる外的な圧迫も、現実の落差も、屈服させることはできないという、揺るぎない立ち姿がここに示されているといっていい。
 北島さんは一時、大阪から関東へ出た。その時の通勤途中に外国大使館があり、なにか政府の政治イベントがあって、そこを通る北島さんに、特別警戒中の警官たちが鞄の中を見せてくれと言ったそうだ。それに対して、北島さんは「オタクら、仕事だろ。心配なら私が通り過ぎるまで、随いてくればいい」といい、持物検査を拒否したという。そういう面ではだらしないところのある自分と較べて、北島さんは立派だなあとおもった。それが自立性ということだ。
 北島さんには『吉本隆明資料集』第一三八集(二〇一四年九月発行)から第一六三集(二〇一七年三月発行)まで校閲してもらったけれど、実際の校了は発行よりも一年近く先行していた。また『資料集』に挿入している「猫々だより」にも執筆してくれた。「吉本隆明という体験」と「『源氏物語論』(吉本隆明)について」の二つだ。北島さんの古典文学の素養と、バリケードの青春、吉本隆明との邂逅の意味がまっすぐ伝わってくる、優れた文章である。
 わたしが北島さんの変調に気がついたのは、ゲラの返送に添えられた一筆箋にしたためられた短い近況の文字が、とても弱々しくみえた時である。その時には既に前立腺に癌が見つかり、治療を受けていたのだ。二年半あまりの闘病生活だった。
 わたしはなにもすることができなかった。あの夏の集まりの北島さんの熱弁を思い起こし、遺著の『こころの誕生』(ボーダーインク刊)を手元において、追悼することがわたしにできる精一杯のことだ。
ありがとうございました。


18 「沖縄を生きた島成郎」を受けて (二〇一八年八月)

     1
 『脈』第九七号の特集「沖縄を生きた島成郎」を読んでいると、多くの人が吉本隆明の追悼文「「将たる器」の人」に言及している。しかし、この追悼文は『沖縄タイムス』に発表されて、著者の単行本には未収録である。
 そこで、その全文をここに掲げることにした。

  初めて島成郎さんに会ったのは全学連主流派が主導した六〇年安保闘争の初期だった。島さんたち「ブント」の幹部数人がいたと思うが、竹内好さん、鶴見俊輔さんはじめ、わたしたち文化人(!?)を招いて、島さんから自分たちの闘争に理解を持って見守って 頂きたい旨の要請が語られた。竹内さんなどから二、三の質問があって、島さんが答えていたと記憶する。
  確か本郷東大の向かいの喫茶店だった。わたしが鮮やかに覚えているのは、そんなことではない。その時、島さんは戦いは自分たちが主体で、あくまでもやるから、文化人の方々は好意的に見守っていてくださればいい旨の発言をしたと記憶する。わたしは、この人は「将(指導者)たる器」があるなと感じた。
  戦いはいつもうまく運べば何も寄与しないが同伴していた文化人の手柄のように宣伝され、敗れれば学生さんの乱暴な振る舞いのせいにされる。この社会の常識はそんな風にできている。わたしは島さんがそんな常識に釘を刺しておきたかったのだと思い、同感を禁じ得なかった。
  わたしは学生さんの闘争のそばにくっついているだけだったが、心のなかでは「学生さんの戦いの前には出まい、でも学生さんのやることは何でもやろう」という原則を抱いて六〇年安保闘争に臨んだ。それでもこのわたしの原則は効力がなかったかも知れないが、わたしの方から破ったことはなかった。島さんをはじめ「ブント」の人たちの心意気にわたしも心のなかで呼応しようと思ったのだ。文字通り現場にくっついていただけで、闘争に何の寄与もしなかった。
  島さんの主導する全学連主流派の人たちは、孤立と孤独のうちに、世界に先駆けて独立左翼(ソ連派でも中共派でもない)の闘争を押し進めた。それが六〇年安保闘争の全学連主流派の戦いの世界史的意味だと、わたしは思っている。闘争は敗北と言ってよく、ブントをはじめ主流となった諸派は解体の危機を体験した。しかし、独立左翼の戦いが成り立ちうることを世界に先駆けて明示した。この意義の深さは、無化されることはない。
  安保闘争の敗北の後、わたしは島さんを深く知るようになった。彼の「将たるの器」を深く感ずるようになったからだ。わたしが旧「ブント」のメンバーの誰彼を非難したり、悪たれを言ったりすると、島さんはいつも、それは誤解ですと言って、その特質と人柄を説いて聞かせた。わたしは「将たるの器」とはこういうものかと感嘆した。わたしなど、言わんでもいい悪口を商売にしているようなもので、島さんの一貫した仲間擁護の言説を知るほどに、たくさんのことを学んだような気がする。
  わたしの子供達は豪放磊落な島成郎さんを「悪い島さん」と愛称して、よく遊んでもらったり、お風呂に入れてもらったりしていた。わたしとは別の意味で、幼い日を思い出すごとに、島さんの人なつこい人柄を思い出すに違いない。
  知っている範囲で谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは「将たるの器」を持った優れたオルガナイザーだと思ってきた。臨床精神科医としての島さんの活動については、わたしは語る資格がない。だが、この人を失ってしまった悲しみは骨身にこたえる。きっとたくさんの人がそう思っているに違いない。

  (吉本隆明「「将たる器」の人」)

 この『脈』の特集の全体的な基底をなしているのは、齋藤愼爾「島成郎と吉本隆明」という論考である。
 齋藤愼爾はここで、吉本隆明が島成郎を公然と評価した最初は「現代学生論ム精神の闇屋の特権を」であること。そして六〇年安保闘争を山形の地でくぐった体験を踏まえて(この体験が齋藤愼爾自身の思想形成の核心だ。それは一九六〇年六月一七日の「共同宣言ム暴力を排し議会主義を守れ」のマス・コミの反動性に対する、〈不動〉の批判に端的に現れている)、六・一五闘争をめぐる裁判において、統一公判グループから一人分離した常木守の特別弁護人の要請を引き受けたこと。つまり、安保闘争敗北後、全学連主流派のすべてを擁護するというよりも、そこから分離・独立して闘った〈一被告人〉を支援したことの、思想的意味を明確にしている。
 これはとても重要なことだ。この段階において、既に統一公判グループ即ち北小路敏、西部邁、加藤尚武らとは、思想的に袂別していたのである。

  当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は〈もの書き〉として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャーナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にもまたできないと思い定めよ、という考え方を少しずつ形成していったとおもう。
  わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。わたしは、これに対しても激しく応戦した。

  (吉本隆明「「SECT6」について」)

 これが吉本隆明の六〇年安保闘争敗北後の実際だったのだ。
 わたしは、「連続射殺魔」として死刑になった永山則夫のように、「全学連」なんて所詮お坊ちゃん学生の所業にすぎないなどと言うつもりはない。確かに安保ブンドは、もともとは日本共産党東大細胞である。果敢に闘ったことは凄いことだし、米・ソの両支配勢力に対して、初めて〈否〉を公然と表明した世界史的な〈突出〉だった。けれど、西部邁が典型のように、統一公判グループの面々は、最後までそのエリート根性が抜けなかったような気がする。
 常木守が裁判において、特別弁護人として申請したのは、吉本隆明と島成郎の二人である。しかし、いずれも却下された。それで吉本隆明は「思想的弁護論」を執筆、常木守は最終弁論の第二部として、法廷でこれを読み上げたのである。
 常木守は、最終意見陳述をつぎのように結んでいる。

  われわれはいま六十年当時とは全く異なる情況の下にいる。
  当時わたしは共産主義者同盟の一員であり、一員として六・一五闘争に参加した。
  いまその同盟は存在しない。
  (中略)
  裁かれる五年前のわたしと、裁きの結果をうけとる現在のわたしをこの法廷においてつなぐものがあるとすれば、それは精神の違法性ムムその存在自体が違法性としてあるようなわたしの精神であり、且つそれだけが本被告事件において公的審判にあたいしうるただひとつのものであったのだとわたしは考える。

  (常木守「最終意見とはなにか」『試行』第一五号)

 この痛切なおもいだけが、ひとすじの意志として〈現在〉につながっている。
 六〇年安保闘争の敗北は拡散し、時代の暗渠から見上げるとき、歴史の展開は社会(産業)の発展とは裏腹に退行するばかりのように見える。それでも、わたしたちは国家の支配に抗して、戦争のない自由な世界を希求することをやめはしない。
 私的なことを記せば、吉本隆明・島成郎・葉山岳夫の鼎談「トロツキストと云われてもム共産主義者同盟に訊くム」(『中央公論』一九六〇年四月号)を『吉本隆明資料集』第六集(二〇〇〇年九月発行)に再録した。出席者全員に送ることを方針としていたので、島さんにも送った。そしたら、思いがけずお礼のはがきが届いた。それには「いま、じぶんの癌の治療に専念しています」とあった。それから、間もなく島さんは亡くなった(二〇〇〇年一〇月)。
 また、常木さんともその晩年に少し交流があった。何が契機だったかは忘れてしまったけれど、吉本講演「〈戦後〉経済の思想的批判」などの収録された『資料集』を購入してくれたりした。常木さんが亡くなった時(二〇一〇年五月)、吉本さんについて書かれた手紙(A4サイズ3枚くらいもの)を、追悼の意味を籠めて「猫々だより」で公開したいとおもい、夫人に許可を得ようと、手紙をコピーして添え、打診したけれど、残念ながら許諾は得られなかった。
 お二人の私信は、偉ぶったところは微塵もなく、おおらかな息遣いが伝わってくるものだった。こんな人にオルグされたら、ひとたまりもないだろう。信頼して随いて行きますとなったことは疑いない。  島成郎は、詩人・評論家・作家のような〈ことばの人〉ではない。〈行動の人〉だ。だから、遺された文章に〈整合〉性や〈完結〉性を求めることはできないし、そこから、その存在の〈全体性〉に到達するのは難しいような気がする。政治組織を作り闘うことも、医師として患者に真向かうことも、酒を呑むことやゴルフをやることにも同じように打ち込むことができた人だったのではないだろうか。「豪放磊落」とは、そういう意味だとおもう。

     2
 この特集で、示唆を受けたことはもうひとつある。それは吉本隆明『追悼私記』の〈決定版〉があってもいいということだ。
 『追悼私記』は、吉本隆明の執筆した追悼文を集成したものだ。
 「中上健次」から「吉本政枝」までの二七篇を収録して、JICC出版局から一九九三年三月に刊行された。一九九七年七月に「谷川雁」「埴谷雄高」など五篇が追加されて、洋泉社で「増補」版が作られ、さらに「江藤淳(原題「江藤淳記」『文學界』一九九九年九月号)」「大原富枝」を加えて、筑摩書房から文庫本として二〇〇〇年八月に出版されている。
 〈読者〉という立場からみると、『追悼私記』の原型となったのは、春秋社の『〈信〉の構造Part3 全天皇制・宗教論集成』(一九八九年一月刊)の「告別」の章と思われる。これは純然たる追悼文を集めたもので、「姉の死など」から「島尾敏雄の死」までの一二篇が収録されている。これを踏まえて、いろんな形で発表された〈追悼〉に関わる文章を補強して、『追悼私記』は成立したといえるだろう。ただ、春秋社版にあった「母の死」は割愛されている。これはおそらく著者の意向によるものとおもう。
 それ以降のものは、その殆どが著書未収録なのだ。
 ここに「ちくま文庫」版に増補されるべきものを、その書誌事項とともに列挙する。

@  三島由紀夫 檄のあとさき 『新潮』一九九〇年一二月号 →『余裕のない日本を考える』(コスモの本)
A 小野清長 『試行』第五七号「後記」一九八一年一〇月 →『吉本隆明資料集二八』
B 三浦つとむ 別れの言葉 一九八九年一〇月三〇日告別の日に 『胸中にあり火の柱』(明石書店)二〇〇二年八月一〇日刊 →『吉本隆明資料集一五九』
C  吉行淳之介 追悼にならない追悼 『新潮』一九九四年一〇月号 →『吉本隆明資料集一三〇』
D 奥野健男 あの頃二人は 『群像』一九九八年二月号 →『吉本隆明資料集一四五』
E 江藤淳氏を悼む 『山梨日日新聞』一九九九年七月二三日ほか →『吉本隆明資料集一八四」
F 島成郎 「将たる器」の人 『沖縄タイムス』二〇〇〇年一〇月二二日 →『吉本隆明資料集一五一』
G 本多秋五さんの死 『群像』二〇〇一年三月号 →『吉本隆明資料集一五四』
H  川上春雄さんを悼む 『ちくま』二〇〇一年一二月号 →『吉本隆明資料集一五七』
  川上春雄さんのこと 『詩の雑誌ミッドナイト・プレス』第一四号二〇〇一年一二月発行 →『吉本隆明資料集一五七』
I 大塚 睦 清冽な色彩と繊細な線に守られた前衛画家 『大塚睦画集』(いのは画廊)二〇〇四年八月 →『吉本隆明資料集一六二』
J 清岡卓行を悼む 『群像』二〇〇六年八月号 →『「芸術言語論」への覚書』(李白社)
  詩人清岡卓行について 『現代詩手帖』二〇〇八年一一月号 →『吉本隆明資料集一七三』
K 小川国夫さんを悼む 『群像』二〇〇八年六月号 →『「芸術言語論」への覚書』(李白社)
L 梶木剛追悼 梶木剛遺稿集『文学的視線の構図』(深夜叢書社)二〇一一年五月 →『吉本隆明資料集一七九』

 @の「檄のあとさき」の追加は、この場合少し性質が異なるかもしれないが、吉本隆明にとって三島由紀夫は同世代であり、大きな存在だった。また自著『模写と鏡』に推薦文を寄せてもらっていることを考えると、既収録の「暫定的メモ」(=「重く暗いしこり」)だけでは、その本意は尽くされていないようにおもう。そこで「檄のあとさき」を増補したらいいと考えた次第だ。『余裕のない日本を考える』に収録されているけれど、本文に組み落ち(脱落)がある。
 C「追悼にならない追悼」とD「あの頃二人は」の二つは、本来はちくま文庫の収録対象範囲にあるものだ。たぶん編集的な目配りが届いていなかったための遺漏ではないだろうか。

 もちろん、「追悼文集」について否定的な意見もある。その典型的な例が月村敏行の「思い出すままに」(『飢餓陣営』第三八号)だ。月村の一文はひどいもので、完全な言いがかりである。
 そのなかの黒田三郎の件ひとつみても、吉本隆明・鮎川信夫・北川透の鼎談で黒田を批判をしたと非難しているけれど、そもそもそんな鼎談はない。ぞんざいな月村は、鮎川・北川対談をそう勘違いしたのだ。月村敏行は、黒田三郎は「晩年にはある政党の信者同然となり、その機関紙にも意見を発表するようになった」と書いているが、こんな婉曲(曖昧)な言い方自体が欺瞞的である。ここははっきり日本共産党支持者となり、その文化政策の傘下にある「詩人会議」の会長になったと書くべきなのだ。その黒田三郎を批判することが、「死者に対する礼を失する」というのなら、この月村敏行の一文こそ呆れるような、つきあいのあったことに依拠した、偉ぶっただけの言いがかりで、死者に対して礼を失した〈卑劣なものである〉と断言して、なんの憚りがあろう。
 さらにいえば、月村は「大車輪で黒田三郎批判をやった」と書いているけれど、過度の誇張だ。吉本隆明は「連作詩篇」の「三郎が死んだあと」で、《夜になると死が勧めにくる/あの三郎が死んだあと/みんなつぶやいたものだ 晨ごとに/〈太陽はもう味方ではない〉/と//明け方の酒場をでて/露路から露路へと/曲っていった/記憶のあとに泡のような記憶がつづいて/悄然と倒れる日のために/眼の微笑ににたものが/あいつの生を無駄にした 択ばれた/詩語を駄目にした//つまり波のように/心を浴びせると 浴びせられた心が/やさしくなる その瞬間をつかまったのだ/贋金のようにきれいな思想の虹に/もう 魂のプロレタリアなどいない その色を/どう塗ったらいいか/ともかくも旗 ともかくも歌 それを/架空にかかげる 思想の/シンガー・ソング・ライターの/小娘のように》と詠っているからである。これは苦々しい思いをともなった、寂寥の追悼詩だ。だいたい、相手が亡くなっているのに、電話のやりとりを持ち出して難癖をつけるなどという芸当は、わたしなどには到底真似のできることではない。なにが追悼文集が好まれる「一般的風潮」だ、なにがそれに「合致していた」だ、そんなことは関係ないだろ。くだらないことをいうんじゃねえよ。
 こんなことは余計な寄り道に映るかもしれないが、〈表現〉とは怖ろしいもので、他者への言及が鏡像のようにおのれの〈本性〉の露呈でしかないという側面も有している。月村敏行は吉本隆明の〈影〉に位置して、その展開をいつも引き戻すようなことばかり言ってきた。それもひとつの〈悲劇〉には違いないだろうが、スターリン主義の影響を脱し切ることができなかったことの証左である。要するに思想史的には「安保ブント」以前であり、立場は違っても全学連初代委員長であった武井昭夫の〈位相〉と変わらないのだ。
 わたしは追悼文には、その真情がとてもよく現れるとおもう。その人に対する悲しみと喪失感なくして、その死を悼むことはできない。吉本隆明の場合、それがむきな批判として表出されることもあったけれど、それは儀礼的な態度を超えたものなのだ。

  まず第一に、「試行」56号からこの57号がでるまでの期間に起こったことで、ぜひ記しておきたいとおもうことがある。それは早稲田の(とわたしたちは呼んでいた)文献堂書店主人である小野清長さんが、交通事故で突然亡くなられたことである。小野さんは「試行」にたいしてはもちろん、とうてい現在の出版機構や本の配給機構や販売機構のもとでは、印刷や製本までは何とかやれても、それを配給し販売ルートにのせることができないような出版物にたいして、じつにきめのこまかい眼くばりとあたたかさを感じさせる配慮を絶えず提供してくれた。わたしたちの間では名物的存在であった。小野さんのような書店主は、もう日本に求めるとしても片方の指で数えるほどしかおらないだろう。「試行」がわずか三百部くらいで創刊し、どこを歩いてもあまりいい顔で店頭に置いてくれなかった時期から、終始淡々とした様子で取扱ってくれ、まるで小雑誌発行の経済的、精神的な困難を透視しているかのように、ぴったりした配慮をめぐらしてくれた。わたしたちは小野さんのような存在に支えられて、気力を振い起こすことが、何度あったか知れない。わたしたちがもっている現在の文化の透視図は、ほかのどんな連中や勢力とも似ていないが、その透視図のなかで文献堂書店主人小野清長さんの存在は巨きいものだった。小野さんの突然の死はおおきな衝撃であった。もしかするとひとつの文化の態様の死を象徴しているのかもしれないともおもう。その意味をよくたどって明らかにしてゆくことは「試行」の意味のひとつであるような気がする。小野さんは、いつも単車のうしろの荷台に、独特の梱包用のおおいで、雑誌を積んで立ち去っていった。そのおなじ姿で事故にあわれたときいた。その姿はもうこの号から見ることはできない。わたしたちは、その姿をいつまでも忘れることはないだろう。
  (吉本隆明「『試行』第五七号「後記」)

     3
 わたしにとって、谷川雁はなによりも詩人だ。

 ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
 おれはみつけた 水仙いろした泥の都
 波のようにやさしく奇怪な発音で
 馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

 なきはらすきこりの娘は
 岩のピアノにむかい
 新しい国のうたを立ちのぼらせよ

 つまずき こみあげる鉄道のはて
 ほしよりもしずかな草刈場で
 虚無のからすを追いはらえ

 あさはこわれやすいがらすだから
 東京へゆくな ふるさとを創れ

 おれたちのしりをひやす苔の客間に
 船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ
 かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
 それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

 駈けてゆくひずめの内側なのだ

  (谷川雁「東京へゆくな」)

 松永伍一の手になる「伝達」(未収録詩篇)「大地の商人」(一九五四年)「天山」(一九五六年)を合わせた『谷川雁詩集』(国文社)と、「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」という詩の断筆宣言後、ふたたび詩作を開始した時の詩集『海としての信濃』(深夜叢書社)はいまでも大切に持っている。
 わたしは覚えが悪いから暗唱することはできないけれど、「東京へゆくな」は胸に刻まれている。最初に感銘したものは、どんなことがあっても揺らぐことなく屹立しているのではないだろうか。
 いま、「東京へゆくな」を読んで、響いてくるフレーズは「あさはこわれやすいがらすだから/東京へゆくな ふるさとを創れ」ではなく、「駈けてゆくひずめの内側なのだ」である。この躍動する暗喩の一行がなかったら、巧みな比喩の心情あふれるアジテーション詩にとどまっただろう。わたしがもっとも惹かれたのは「かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき」だ。もちろん、そんなことを強調する時代は去った。
 わたしが谷川雁の詩に出会った時には、三池炭鉱闘争、大正鉱業退職者同盟の闘いはもはや伝説であり、谷川雁が重役的なポストを占めていたテックの労働争議が風評として伝わってきただけである。そんなことに少しも動かされはしなかった。じぶんが情況の真っ只中にいたからだ。
 しかし、谷川雁は、六〇年安保闘争を闘い日本共産党を離脱した部分には強い影響力を持っていたようだ。「同行衆通信」の主宰者であった鎌倉諄誠は一時、高知大学の仲間と一緒に農業コンミューンを試みたことがあって、それが挫折した時、メンバーの一人は「おれは谷川雁に会いに行く」と言って、九州へ行き、そのまま長崎に住みついたという。地方の活動家にとって、谷川雁は支柱的な存在だったのだ。
 吉本隆明は詩集『天山』の書評で、「『天山』は優れた詩人の手になる詩集である。詩を愛して詩を書く読者はこれを評価し、詩を憎んで詩を書く読者はこれを評価せぬであろう」と書いている。その意味はすぐに理解できた。それは吉本隆明の「少年期」と比較すると、直観的にわかることだ。

 くろい地下道へはいつてゆくように
 少年の日の挿話へはいつてゆくと
 語りかけるのは
 見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
 三銭の屑せんべいに固着した
 記憶である
 幼友達は盗みをはたらき
 橋のたもとでもの思ひにふけり
 びいどろの石あてに賭けた
 明日の約束をわすれた
 世界は異常な掟てがあり 私刑があり
 仲間外れにされたものは風に吹きさらされた
 かれらはやがて
 団結し 首長をえらび 利権をまもり
 近親をいつくしむ
 仲間外れにされたものは
 そむき 愛と憎しみをおぼえ
 魂の惨劇にたえる
 みえない関係が
 みえはじめたとき
 かれらは深く訣別している

 不服従こそは少年の日の記憶を解放する
 と語りかけるとき
 ぼくは掟てにしたがつて追放されるのである

  (吉本隆明「少年期」)

 谷川雁は『思想の科学』一九五九年九月号に「庶民・吉本隆明」を書いた。それを受けて、同じ『思想の科学』一九五九年一二月号に吉本隆明は「谷川雁論ム不毛なる農本主義者ム」を発表した。しかし、これは校正刷りに「手を入れたが、それは発表されなかった」と言っている。だから、著書に収録することも保留。その後『全著作集』に収められたけれど不満の残るものだったのである。
 谷川雁と吉本隆明の接触の記録は、「ゼロからの出発」、「さしあたってこれだけは」、「「情況」と「行動」その他」、「日本人の経験をめぐって」という四つの座談会に残されているだけである。
 不確かな伝聞だが、吉本隆明がテックに就職を斡旋したのは常木守と平岡正明の二人とのことだ。もうひとつの「谷川雁論」ともいえる『地獄系24』の「解説」は、著者である平岡正明の依頼を受けて書かれたものだ。吉本さんはわたしに、平岡正明は良い声をしており、それゆえこの執筆を引き受けたと言われた。
 わたしは、実際の谷川雁を知らない。ただ、NHK教育が谷川雁の追悼番組を放映した時、それを見た。番組の冒頭、井上光晴の葬儀で告別のことばを読み上げる場面があった。それは圧倒的な存在感を示していた。また炭鉱の飯場のようなところで、花札博打をやっている映像は、その魅力が存分に伝わってくるものだった。それはわたしにとって詩作品に匹敵するものだ。
 谷川雁の「庶民・吉本隆明」は、『芸術的抵抗と挫折』に対する鋭い批評であり、同世代的な吉本論となっている。ただ、「不可触賤民」などという表象は、谷川雁の思想の〈弱点〉を物語るものでしかない。一方、吉本隆明のもっともまとまった谷川論は、テック・グループ労働組合後援による、講演「谷川雁論ム政治的知識人の典型」ではないだろうか。


19 「エリアンの手記と詩」について (二〇一八年一一月)

     1
 野山を駆け巡り、雑木林や谷川もぜんぶ、おれたちの庭だ。そのように村の童は快活に遊び呆けている。もちろん、その内側には対立や葛藤もある。しかし、じぶんたちがこの世界を占有しているという感覚を遮るものはないのだ。これが学校へ行くと、いっぺんに委縮し、教室では机の下に潜るように従順な存在となる。これはある程度は一般的な傾向といえるだろう。けれども、それが極端な落差を生む場合は、資質的な偏差かもしれない。
 自由な振る舞いが許されるところでは、言いたい放題のことを言い、雑草をなぎ倒すように縦横無尽に誰彼なく批判したり論難したりしてきたが、その裏側にはつねに危惧がつきまとっている。お前は、いざあらたまった場面へ出たら、しどろもどろになり、まっとうな態度を示すことができないであろう。また他者と正面で向かいあったら、たちまち怯み、何ひとつ言えないのではないのか。そんな思いだ。
 そんなことよりも、どうして多くの場合、学校が最初の躓きの石になるのだろうか。これは大切な問いなのだ。

  あの学校の放課後に、机の中にしまい込んだ宿題やら遊び道具などを忘れて、独りでひきかえしてとりにいった教室の、ガランとした不在感を、体験しなかったものは稀だろう。ガキたちの、あのざわめきの夢、あの跡かたもなくなった放課後の不在。どうして人間たちは、こうも速やかに存在の痕跡をまったく消すことができるのか。これは住居でもおなじなのだ。ゴミついた街並から、昨日まであった駄菓子屋が消えて、その空間はもう別の貌によって埋められている。駄菓子屋のおばさんも、そこをたまり場にした 洟垂れ小僧たちも、跡かたもなく存在しなくなっている。
  少年にはなぜそうなるのか、まったく理由がわからない。

  (吉本隆明「恐怖と郷愁」)

 これは宮沢賢治の「風の又三郎」について語られたものだが、吉本隆明は「学校は〈時間〉の住家ではあるが、〈空間〉の住家ではないからだ」と指摘している。
 幼少の時間の流れは家族のそれに同調し、自然な調和の中にあるといえるだろう。それはわたしのようにアジア的な村落のうちに育ち、ゆったりした農耕的自然にあったものも、現在の都市化し、めまぐるしく環境が変化する場合も、本質的な親和性で変わらないような気がする。家の前の駐車場で遊ぶ子どもたちを見ていると、やっていることはそんなに変わっていないからだ。鬼ごっこやスケボー、熱中した遊びの最中、小さな齟齬が生まれ、「あんたが、そんな人とは知らなかったわ。なによ!」と言い放ち、決めつける女の子の姿を認めると、その威圧的な態度に、一瞬竦むじぶんを思い起こしたりもする。
 学校は〈時間〉が支配するとして、なにが子どものありふれた日常と異なるかといえば、学校は共同性への〈逆立ち〉を意味するからだ。いうならば、横へのひろがりが、縦の序列に置き換えられるのだ。校舎、運動場、中庭、教室、廊下、階段、踊り場、そんな場所をそれでも空間的に満たすことはできる。けれど、それはあくまでも共同の施設であり、固有の占有を許さないものだ。だから、〈不在〉のなかにいつまでも〈幻影〉が揺曳するのだ。そのため、学校に対する怨恨を持つものは多く、根深いのだ。
 江藤淳を例にすれば、彼は小学校にあがって間もない時、教師のせいで小便を垂れ流してしまう。それがトラウマのひとつとなり、不登校になり、納戸に潜み、『モンテ・クリスト伯』などを読みふけるようになる。たかが「お漏らし」ぐらいでと言えるのは、人生の峠を越えた時の見返りの視線にすぎない。それは江藤淳にとって深い恥辱となったことは確実なのだ。母の喪失と、この躓きと屈折がなかったら、彼は「夏目漱石論」を書くことはなかったかもしれない。つまり、文学に沈湎することはなく、おそらく順風満帆な秀才コースを歩んだだろう。
 熾烈な受験競争をみごとに勝ち抜き、勉学に勤め、晴れて高級官僚となり、申し分のない勝ち組としてハードな実務をこなしてゆく。そうなったとしても、財務省や文部科学省などの高官が、森友学園や加計学園スキャンダルにみられるように、政府や政治家の意向を忖度することに躍起になり、挙げ句には政府の忠実なる下僕として虚偽の答弁を繰り返す。それはそれで空しい〈社会風景〉なのだ。むろん、こんなやつらに同情する必要はない。知識の自然過程である上昇志向の必然性はあっても、そこに個々のモチーフを見出すことはできないからだ。その点、前川喜平事務次官は公務員としての矜持を示した稀な存在なのだ。
 学校は怖ろしい。というよりも、制度は本来〈可変〉であるにも拘らず、その規範力は容易く大半を占め、既成事実化する力を持ち、固定化する。これを打破することはとても難しいことだ。公教育においても、就学前の選別で「特殊学級」へ振り分けている。こんな段階で、ほんとうは〈選別〉などできはしないのだ。それに、ひとのトータルな〈人間的能力〉は知能などに限定されるはずはない。わたしの公教育に対する不信はここに根差している。

 どっどど どどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいくゎりんもふきとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう

  (宮沢賢治「風の又三郎」)

 宮沢賢治の「風の又三郎」には、ひとつの教場を子どもたちが満たしてゆく様子が活写されている。それは第二学期の初めの、たった一二日間の話なのだ。土着のガキどもにとって、転校生はいつも不思議な存在である。突然やってきて、またいつの間にいなくなってしまう不可解な、風のような存在なのだ。「雨はざっこざっこ雨三郎/風はどっこどっこ又三郎」というふうに。そして、土俗的な方言のリズムと独創的な擬音が、この作品の心臓の〈鼓動〉なのだ。
 たぶん、ひとびとが〈知識〉に飢えていた時代には、学校は輝きを放っていたに違いない。「風の又三郎」の中の嘉助や一郎、佐太郎とかよの兄妹、みんな活き活きしているように。しかし、〈情報〉が世界に飽和するようになると、その制度的な空洞は露わになり、空虚な建て前に比例して、むきだしの競争と陰湿な内攻がリードする。それでも、子どもたちは空間を満たしていくだろうが、その本性に従って〈通過点〉のひとつと化すことは間違いない。また公教育という制約が足枷となり、学力的にも停滞を余儀なくされるのは必定である。子どもたちの半数以上が学習塾へ通うことになった段階で、その命運は尽きているといえるだろう。それとともに、個別的な学校への〈執着〉も風化すればよいのだが、そうはならないのが、学校なのだ。
 実際的にいっても、もし学校に子どもたちを囲い込むことをやめたら、子どもたちは巷にあふれ、社会の境界線をどんどん踏み越えてゆくだろうし、家庭にこもったとしても、ひとりでに鬱屈はつのり、家庭は息苦しい密室に変貌するだろう。少なくとも日本の戦後までは、子どもも小さな労働力とみなされていた。そこでは学校にやることは家族にとって負担だったはずである。反対に子どもたちにとっては、憧れの場所であり、救いの側面も持っていたのだ。
 もっといえば、なによ、いまは共働きがあたりまえで、子どもは早くからどこかに預けないとやっていけないし、子どもにかまっているゆとりなんか、悔しいことにありはしないわ。あなたの言っていることなんて、還暦を過ぎた初老の爺の昔語りよ。託児所、保育園、幼稚園、みんな学校と地続きなのよ。これが実相よ。冗談じゃないわ。こうなるだろう。その通り! 学校がどうなろうと知ったことではない。なるようになるさ、というのが本音だ。
 わたしにしても、学校と無縁になって久しいから、そんなものにこだわる必要はまったくないはずだ。それにも拘らず、眠りの中にメタフィジカルな〈夢〉として侵入してくることをやめない。なぜなら、学校は両親のエロス的な外傷のまぎれもない〈代償〉に位置するからだ。このエロス的投射のメカニズムは、最初の〈逆立ち〉に内在している。だから、アメリカのように銃を乱射して鬱憤を晴らすような暴発現象を避けることはできない。

     2
 吉本隆明は優等生だった。それをなによりも告げるのは、小学校六年間一日も休むことなく皆勤で通しているからだ。家から学校がみえるほどの近くに住んでいた。学校に近いほど、ぎりぎりの駆け込みや遅刻するものが多い。安心感があるからだろう。遠くから通うものは時間を要するから、早く家を出るように心掛ける。だから、遅刻するものは少ない。まあ、わたし(たち)のように登校途中で、山に入ったりして、行方をくらますものは別として。
 吉本隆明は一九三一年四月に佃島尋常小学校に入学している。ほんとうは学校へ上がる前の、兄や姉が学校へ行ったあと、独り、上り框に坐りこんで、運河の光景をぼんやり眺めていたときが至福の時間だったと回想している。親の庇護、きょうだいの親和、環界との調和、なんの憂いもないからだ。それが倒立する。学校は集団活動の場だ。規則の拘束、教師という存在、勉強という義務などが〈全体性〉として覆いかぶさってくる。
 吉本隆明は授業時間は苦痛だった、休み時間が解放感あふれるものだったと述べているが、勉学にも学級の役割にも適応することができた。クラスの一、二を競うデキル存在だったのである。それでも、学校生活と地域の遊びの間の落差は、埋めることはできないほど大きかった。この乖離を抱えたまま、別の途が開示される。

  別れの儀式があるわけでも、明日からてめえたちと遊ばねえよと宣言したわけでもない。ただひっそりと仲間を抜けてゆくのだ。もちろん気恥ずかしいから勉強へ行くんだなどと口に出さない。すべては暗黙のうちに了解される。昨日までの仲間たちが生き生きと遊びまわっているのを横目にみながら、少しお互いによそよそしい様子で塾へ通いはじめた。
  (吉本隆明「別れ」)

 吉本隆明が今氏乙治の学習塾に入塾したのは、小学四年の時である。ここが吉本隆明の思春期の痛切な心の劇をともなった自己形成の場所だった。それは「エリアンの手記と詩」に克明に描かれている。

 ーーー〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえはあんまり暗い〉ーーー
 ーーー〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは他人を喜ばすことが出来ない〉ーーー
 ーーー〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえの言葉は熊の毛のように傷つける〉ーーー
 ーーー〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは醜く愛せられないから〉ーーー
 ムーーー〈エリアンおまえは此の世に生きられない おまえは平和が堪えられないのだから〉ーーー

  (吉本隆明「エリアンの手記と詩」)

 これが作品のスクリーンに抽象化された自画像だ。
 ミリカをめぐるイザベル・オト先生との三角関係は、自己葛藤の心理的な投影に違いない。この劇の展開を決定づけているのは、あくまでも思想的な陰影なのだ。「エリアンおまえは此の世に生きられない」というリフレーンは、ナルシシズムそのものにみえるけれど、ほんとうは倫理的表象だ。その心の劇に他者が影を落とすとすれば、恋愛意識のほかにはありえない。それが思春期の〈性〉の特質だからだ。
 しかし、この作品は戦後に書かれたものだ。ここには幾重もの体験が〈重層〉し、そのうえで〈創作〉されたものである。そして、「マチウ書試論」にまっすぐ〈接続〉している。
 「エリアンの手記と詩」は、《もし誇るべくんば我が弱き所につきて誇らん》という「コリント後書」からの引用を序詞とし、「死者の時から(T)〜(V)」「旅立ち」「暗い風信」「エリアンの詩(T)〜(V)」「イザベル・オト先生の風信と誡め」「ミリカの風信」で構成されている。
 「エリアンの手記と詩」の成立については、間宮幹彦の詳細をきわめた「解題」がある(『吉本隆明全集』第2巻)。これを抜きに、「エリアンの手記と詩」について語ることはもはや誰もできないといっていい。
 第一に、この作品の書かれた時期について、著者が『抒情の論理』の「あとがき」で《昭和二十一年〜二十二年のあいだにかかれたと推定する》と記していることもあって、そのようにずっと扱われてきた。しかし、間宮幹彦はさまざまな角度から検討を加え、一九四八年(昭和二十三年)の後半から一九四九年に書き継がれたとするのが妥当だとし、さらに《「エリアンの手記と詩」の節の表題にあるように、「エリアン」はこの世の「死者」として設定されている》と述べて、「エリアン」即ち異人(alien)とする安直な解釈を退けている。
 それでは、ここでいう「死者」あるいは「死者の時から」とは、いったいどういうものなのだろう。

  人間からじぶんを類別してしまった〈人間〉というロートレアモンの位相に、もっともちかい位相を、比喩的にかんがえてみれば、死者と生者の関係である。ある日、蘇った〈死者〉が、ふとパリの街衢にあらわれた。ひとびとは青白く痩せた貧血な青年として、この〈死者〉を眺めて気にもとめなかった。この〈死者〉のほうも、べつだん、ひとびとに関心をもたなかったし、どうということもなかった。かれはこの世界の人間をただ〈眺め〉にきたのだから。すでにそれ以前に、この〈死者〉は、〈全能者〉、〈神〉、〈創造者〉とのあいだの格闘に精力をつかい果していたので、疲れ切った貌をしていた。特徴といってもなにもなかった。ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』では、こういうふうにやってきた一人の男キリストは、すぐにひとびとにそれとわかってしまう。だがロートレアモンの『マルドロールの歌』では、この〈死者〉つまり〈他界〉からの観察者は、けっして身元を気づかれることはない。かれは、なぜ〈倫理〉的と呼びうるのだろうか。もちろん、かれは生者から類別されてしまった〈生者〉、いいかえればわたしたちが呼んでいる〈死者〉だからである。〈死者〉を葬る行事が倫理的であるのとおなじように、〈生者〉から類別されている〈死者〉という位相自体からロートレ アモンの〈倫理〉はやってくるのだ。そしてあまりに〈倫理〉的であったので、ロートレアモンは、いまも人間のふしだらさを予言しつづけている。
  (吉本隆明『書物の解体学』「ロートレアモン」)

 ここでのロートレアモンの予言は《「人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(マタイ)》というものだ。
 「エリアンおまえは此の世に生きられない」、これが吉本隆明の敗戦直後の〈出立〉の場所であった。
 本人も言っているように「エリアンの手記と詩」は、ジイドの『アンドレ・ワルテルの手記』やリルケの影響が顕著といえるのだろうが、その根底にあるのは死の切迫である。それがほんとうの主題なのだ。そして、関係の矛盾が極限的な形をとるのは、言うまでもなく男女の三角関係においてである。その意味では、ミリカとオト先生の実在感は、もちろん実際の塾での実体験やその心理的葛藤をモデルとしているだろうが、そのままの反映ではありえない。あきらかに象徴的に純化されたものだ。
 ただ、話を複雑にしていけば、作品そのものからどんどん遠ざかってしまうこともありうる。何の先入観も予備知識もなく、〈作品〉を読んで感じるものが、すべての〈基本〉である。

   昨日街でミリカに似た都風の少女に出遇つた
  少女は緋色のスエーターを着けて、この山峡の街とは不似合な面立ちをしていた 僕は急におまえを想い出した 西南の大路を街外れまで歩むとすすきの峠がある 峠の切通しからは盆地の街が一望に眺められる また丁度反対の山並を見渡すとゲガン峠のあたりが遠く蔭つている そのむこうにミリカの居る都があるのだ

  (吉本隆明「エリアンの手記と詩」)

 〈追憶〉の抒情詩。その透明なリリシズムが、この作品の魅力である。ここから、立原道造の詩を想起し、永遠のアドレッセンスに思いを馳せることもできるだろう。最初に読んだ時の、気恥しいような感傷的な甘美さと、キリスト教的な設定とその雰囲気への違和感は、それが表層的な印象だったとしても、いまでも残っているからだ。
 人間は〈奇怪〉である。殊に思春期や青春期は、なおさら〈奇怪〉であるといえるだろう。もちろん、身体生理的な変調や成長が、その基調をなしていることは確実である。

  生れたばかりの胎児はどんな児も産ぶ声をあげる。それは母親の胎内の羊水のなかで鰓呼吸のように呼吸していた胎児が、産ぶ声といっしょに肺の呼吸に切りかわる印しなのだ。んぎゃあ、んぎゃあの繰返しと聞えたり、んあぁ、んあぁの繰返しのようにも聞える。ところで人間はだれでも、例外なくもう一度、肺の呼吸に心の揺れ動きを融かしこんで、メタフィジカルな第二の産ぶ声をあげる時期があるようにおもえる。男の子ならば声変りの前後の時期にあたっている。女の子では生理にかかわりがある時期なのかどうか、よく確かめたことはない。わたしの経験ではその時期に声は高音の部分がまったくでなくなり、無理にだそうとすると、しぼるような声が喉をしめつけ、かすれた音しかでなくなる。それでも内から湧きたつ歌いたい気分がつきあげてくる。あれは後からかんがえると言葉の生理機構である喉ぼとけから上の気道や鼻腔が、はじめて心の揺れや動きをメタフィジカルな精神にまで跳躍させようとする第二の産ぶ声だといってよいものだ。その時期音痴のわたしでもほんとに歌いたくなって歌曲集など買ってきた。その時のあの湧きたつようなリズムとメロディの感じをいまでも覚えている。声は高いキイの音をきれいに口腔から押しだしたいのに、じっさいは悲鳴のようにしぼられた金切声しかでてこない。それでもただ歌ってみたくて、勝手な詞にメロディをつけたりした。
  (吉本隆明「中島みゆきという意味」)

 この「第二の産ぶ声」は、そのまま不安定な〈心模様〉や性的な〈衝動〉と連動している。
 地元のある個人文学館がその作家を顕彰するために、文学賞を設定し、作品を公募し、その入選作を作品集として毎回発刊していた。わたしの勤めていた印刷所はその製作を受注していた。会社は自費出版を営業の柱の一つとしていて、出版室を設けていた。そこで印刷所としては珍しく入力したものを顧客に渡す前に、社内校正をやっていた。そうすることで原稿の打ち込みミスをカバーし、間違いの少ないものに仕上げることができる。それに、自費出版の場合、その殆どが素人だから、じぶんで校閲ができるものは稀だ。
 ある年、わたしがその社内校正を担当した。高校生の創作部門の入選作を校正していたら、その受賞作は太宰治の「駈込み訴へ」をそのまま引き写したものだった。選考委員の面々はおそらく太宰作品を読んだことがなく、入選作として選んだのだ。わたしはいくらなんでもこれはまずいと考え、そのことを伝えた。既に入選者と作品名は新聞紙上で公表されていたけれど、発行元は作品集から除外した。
 こんなことはよくあることで、別に特筆すべきことではない。ただ、わたしはその時、この女子学生はおそらく剽窃や盗作の意識はなかったのではないか、とおもった。「駈込み訴へ」を読み、それに魅了され、いわば憑依したかたちで、書き綴ったに違いない。物語の設定も、ユダやイエスの登場人物も、そこでの振舞いやセリフも、そっくりそのままなのだけれど、筆写のなかに若い女性らしい感受性がところどころ表れていた。たぶん、夢うつつのような感じで書き、ためらうことなく応募したのだ。じぶんのものと思い込んで。
 これに関連していえば、昔、生野幸吉(だったとおもう)が山本太郎の初期の詩は私の作品をパクったものだと、激しく非難したことがある。山本太郎は抗弁のすべもなく打ち据えられ、詩人としての生命を断たれたようにみえた。なさけないことに「歴程」や「詩学」の山本太郎のお仲間連中の誰一人として擁護するものはなかった。わたしは、これはおかしいとおもった。山本太郎をあまり好きではなかったので介入する謂れを持たなかったけれど、生野幸吉の山本太郎の〈全人格〉を否定するような批判は納得できなかった。友人としてつるみ、親交を温めた優れた存在から、強い影響を受け、それを模倣することは、誰でもありがちなことだ。仮にそれを出発点としていたとしても、その後の歩みは彼自身のものだ。こんなことで断罪することができるというなら、〈詩〉も〈文学〉もありはしないのである。大ヘーゲルの存在なくしてマルクスの思想は生まれなかったなんて、桁違いの話を持ち出すまでもなく。思春期や青春時代が〈倒錯〉の季節なら、いつも外部の社会は〈勘違い〉の支配する世界なのだ。
 わたしは誰がなんと言おうと、〈模倣〉や〈同化〉や〈影響〉は「この年頃」にはありふれたものだとおもう。
 吉本隆明にとって、今氏乙治は〈師〉であると同時に、ひそかな葛藤の対象でもあった。それが特異な〈関係〉と〈像〉につながっている。わたしは塾に通った経験がないから、その雰囲気も、意志の疎通の様相も、よくわからない。放課後の補習授業を思い浮かべても、類推が及ばないのだ。わずかに鎌倉諄誠に対するじぶんの位置と思いが、吉本隆明のそれに通じているような気がするだけである。

  エリアン だがおまえは痛ましい性だ そして人の世の死の蔭は唯一つではない おまえはやがて新しい懸崖に差かかるだろう おまえはもつと醜いおまえを形造らなくてはならない おまえが又その苦しみを死に代えやしないかと思うと心配な気がする だがわたしはもうおまえに告げることもない おまえはたつた独りで行ける筈だ
  (吉本隆明「エリアンの手記と詩」)


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「吉本隆明さんの笑顔(その5) 松岡祥男」 ファイル作成:2024.08.02 最終更新日:2024.08.04