13 鶴見俊輔と吉本隆明 (二〇一七年五月)
1
わたしは『脈』の原稿は、新しい号が発行されると、締切日に関係なく、すぐに送るようにしてきた。その方が編集や割り付けの作業上、少しでも負担をかけないだろうとおもったからだ。しかし、今回はそうはいかなかった。
わたしは毎年、仕事の関係で「診断書」が必要なので、今年も健康診断を受けに行った。そのとき、尿が出血で真っ赤だったのだ。それで、泌尿器科で検査を受けるよう指示された。
検査の結果、膀胱癌ということだった。以前から微量の血が混じっていることは指摘されていたけれど、昨年よりも体重も増え、体調も良くなっている感じだったので、気にしていなかった。
診察した医師はてきぱきしていて、超音波で膀胱と腎臓の検査をやり、腎臓には何の問題もないといい、すぐに局部に麻酔をして、尿道にカメラを入れて、診てくれた。その映像はわたしも見ることができた。膀胱内にクラゲの足のようなものが垂れていて、それが癌とのことだった。その奥にもうひとつ、小さな癌があった。医師は切除するしかないといった。
日赤病院に二月一五日入院、一六日手術で、二一日に無事退院した。
癌の程度は、ステージ1だ。膀胱という個所から言っても、その度合から言っても、まず大丈夫だろう。ただ、再発度は八〇パーセントと言われた。
わたしは子供の頃から病院に入院する時は、死ぬ時と思っていた。どうしてかというと、広い村全体で医者は一人いるだけだったからだ。その村医者は、少女時代の美空ひばりが地方巡業で、当時の大豊村よりも奥の本山町で公演をやり,帰りの大杉駅へ向かう路線バスが県道から転落し、下を通る国道との間の桜の木で止まり、その事故で重傷を負った際、応急の手当てをしたことで、その名をとどめている。
病院などというものは「お町」にしかなかった。母が少女時代、裁縫をしていて針が刺さり、その摘出のため、お城下の病院に入院したことがあると聞かされた。なんと四〇キロ以上離れた病院へ歩いて行ったのだ。だから、そういうふうに思い込んでいたのである。しかし、その後鉄道が開通し、わたしの中学校時代には国道が拡張され舗装されたこともあって、当然、その思い込みはしだいに崩れたけれど。
わたしは一人で入院し、手術の時はどうしても身内の立ち合いが必要だということなので、妻に来て貰った。手術の付き添いは何度か体験しているが、非常に疲れる。わたしの入院によって、妻と高齢の猫までに影響が及ぶ惧れがあったから、極力それを回避しようと考えたのである。
手術当日、妻は直前にやってきた。朝、日赤の医師が説明に来た時も、そのあと手術を担当する診察病院から出張してきた医師が挨拶に来た時も、わたし一人だった。
ふつう癌の手術となれば、家族や親族がつめかけるようだが、誰もいないのに、二人とも呆れ、手術中にそのことを話題にしていた。薄情な家族と思ったようだ。
実際、手術後、病室に来た妻は目のふちにくまが出来ていて、どちらが病人か分からないように見えたので、わたしは「おまえは帰れ」とすぐ追い返した。
初めての入院生活は、病院の建て前と実際の落差をはじめ(インフルエンザが流行しているので、緊急時以外の見舞いはお断りと言われたが、ほんとうに誰も見舞いにこないと、怪訝な顔をした)、病室は四人部屋でいろいろあり、おもしろい(?)体験だったが、退院の許可が出ると、さっさと荷物をまとめ、支払いを済ませて帰ってきた。
病院はフィジカルにもメタフィジカルにも、病の巣窟だ。できることなら、ご厄介になりたくない。
2
そんなわけで、今回の『脈』の特集が「鶴見俊輔」と分かった。それに合わせて、吉本隆明と鶴見俊輔について書こうとおもう。
後藤新平が祖父、鶴見祐輔が父の、ハーヴァード大学出の大秀才と、わたしのような集団就職の下層労働者とは、あまりにも隔絶していて、そんなことに〈反感〉を持ちようもない。鎌倉諄誠は「性が合わない」と言ったけれど、わたしは鶴見俊輔に多くの不満や批判はもっていても、信頼してきた。どうしてかというと、鶴見俊輔は周りからの吉本隆明批判に接しても、それに誘われ同調し、乗せられることがなかったからだ。
たとえば、吉本隆明が『マス・イメージ論』の中で、『哀愁の町に霧が降るのだ』や『気分はだぼだぼソース』などの絶頂期の椎名誠を「現在の太宰治」というふうに評価したのに対して、浅田彰が、鶴見俊輔にあんな評価はおかしいと同意を求め、吉本隆明に対する悪口を引き出そうとしても、いや、椎名誠はおもしろい、また太宰治にはじぶんはたいへん魅了された。その点でも、吉本隆明の評価はまっとうだといい、決してじぶんのポジションを崩すことはなかったのである。
また卑劣な「兵役逃れ」という中傷に関連して、小熊英二などが同様の手口で誘いかけているが、わたしの知るかぎり、相手の意図に操られることも、その雰囲気に流されることもなかった。
それはなによりも、じぶんの〈立場〉と〈モチーフ〉を大切にしているあかしなのだ。
鶴見俊輔に対する不満をいえば、そのひとつは、アメリカへの批判が徹底性を欠いていることだ。アメリカに留学し、太平洋戦争期には収容されて、捕虜交換船で帰還したことなどを思えば、ベ平連の活動などは〈屈折〉を抑え込みすぎているようにおもえる。
そうであっても風俗的にいえば、戦後のアメリカの占領のよる日本の米国従属という様相をこえて、ベ平連の反戦運動は、アメリカ文化の大きさをそれこそ民衆レベルで浸透させることに寄与したといえるだろう。ボブ・ディランをはじめフォーク・ソングの流行などと相まって、その影響はわたしにも及んでいるといえる。それは中国共産党に追従した日本共産党の「反米愛国」などという方針は排外主義に通ずる弊害でしかないが、そんな閉鎖性を拡散的とはいえ打ち破った点で、その優位性を見落とすことはできない。
鶴見俊輔は好奇心旺盛で、その仕事はじぶんの位置から〈世俗性〉に接近したものが多くを占めている。わたしが初めて鶴見俊輔の文章に接したのは、『ガロ』に掲載されたものだった。彼のマンガ論は文化の常識論ともいうべきものだった。高等な学識とは無縁の俗世間にあるじぶんは、格別感銘は受けなかったけれど、後から全体を少しは見通すことができるようになると、鶴見俊輔のそういう〈姿勢〉と〈見識〉は、知的世界では実は破格の振る舞いだったことがわかった。
ただ、鶴見俊輔は『がきデカ』を高く評価していたけれど、同じ山上たつひこでいえば、その前の『喜劇新思想大系』の方がおもしろく、はるかにラジカルなのだ。ギャグ漫画家というのは、赤塚不二夫にしても山上たつひこにしても川原泉にしても、優れた作者ほど燃え尽きて灰になるケースが多い。それはギャグ漫画の方が、物語に依存し引き延ばしの利くストーリーテラーよりもハードで、おのれを酷使するからだ。
また「埴谷雄高論(「虚無主義の形成」)」で、独房時代の埴谷は精神病だったのではないかと推論している。ふつうなら、とんでもない暴論ということになるのだろうが、それがシニカルな推論となったのは、おのれの収容所体験を踏まえたものであり、深刻な前衛主義の硬直化を相対化することにも繋がった面もあったからだ。
しかし、そんなことよりも、イヴァン・イリイチが「学校」や「病院」を毛嫌いすることにはそれなりの根拠があるように、「監獄」への幽閉というのは、旧左翼は「革命のための大学」などといって政治主義的にホジティブに捉えようとしたけれど、ほんとうは拘束による〈自由〉の剥奪、監視による〈抑圧〉や〈屈辱〉は圧倒的で、自己資質の悪〈純化〉も含め、それは精神の後遺症を伴うものだ。
だから、鶴見の推論はまったくの的外れとは言えないのである。これに関して、埴谷雄高本人も「神の存在証明不可能」のように、そんなことには反駁のしようもないと言うしかなかったのだ。
そんな鶴見俊輔を、吉本隆明は「法然」になぞらえている。つまり、知識の比叡山を降りたことを評価しているのだ。たしかに『思想の科学』をはじめ、鶴見の態度は一貫してそういうものだったろう。ただ、読者という立場からいえば、いろんな意味で詰めが甘いような気がした。
加藤典洋が編集していた時代の『思想の科学』を例にとれば、企画は悪くないのだが、資金不足からだろうが誤植が多く、間違いだらけだった。そこで弱小だからと言い訳するのではなく踏ん張らないと、到底大手出版社の実力に及ばないし、左翼系の言い放しやり放しの杜撰な無責任主義と変わりはしないのである。これは傍証でしかないけれど、甘さの受け継ぎのように、わたしには映った。
鶴見俊輔は、いたずらがきとしか言いようのない中川五郎の『フォーク・リポート』に書いた「二人のラブ・ジュース」が猥褻文章として起訴された件でも、弁護人を引き受けている。そこで「猥褻というのは、見たいとも言わない女の子に、じぶんのちんこを無理矢理見せるような場合に限られる」というような主旨のことを述べて弁護していた。このセンスが鶴見俊輔なのだ。
3
じつはわたしは、深夜叢書社の齋藤愼爾氏の依頼で、鶴見俊輔と吉本隆明の対談を中心にした本の編集に協力した。それは未刊だけれど、鶴見俊輔『吉本隆明への道』という本だ。生前に出版の許諾を得たと聞いている。
その内容をここで提示したいのだが、その時のやりとりを保存したパソコンのメモリーが破損したため、正確ではないかもしれない。
鶴見俊輔と吉本隆明の対談は、
▼「どこに思想の根拠をおくか」(一九六七年)
▼「思想の流儀と原則」(一九七五年)
▼「不透明な時代から」(一九九九年)
▼「未来への手がかり」(一九九九年)
それから、鼎談や座談会もある。
▼「すぎゆく時代の群像」鶴見・吉本・橋川文三(一九五八年)
▼「ゼロからの出発」鶴見・吉本・谷川雁・藤田省三(一九六〇年)
▼「宮沢賢治の価値」鶴見・吉本・中村稔(一九六三年)
「埴谷雄高ーその仕事と人間」(一九六〇年)は、参加者多数なので除外したとおもう。
本格的な論考としては、
▼「転向論の展望ー吉本隆明・花田清輝」(一九六二年)
エッセイと書評は、
▼『丸山真男論』(一九六三年)
▼「吉本のこと」(一九七二年)
▼「おぼえがきとして」(一九七六年)
▼『甦えるヴェイユ』(一九九二年)
▼『老いの流儀』(二〇〇二年)
▼「共感の一点」(二〇〇三年)
▼『吉本隆明が語る戦後55年』(二〇〇四年)
▼「吉本隆明への道」(二〇〇四年)
▼「才覚と機転」(二〇一四年)
以上だったとおもう。
二人の対話や発言の基底にあるのは、戦争体験の痛切さと、六〇年安保闘争などの戦後体験の共有である。
吉本隆明は自らが責任編集した『国家の思想』(筑摩書房「戦後日本思想大系」)に、鶴見俊輔の「わたしのアンソロジー」を選び収録している。「じぶんの愛好する詩歌について語るという形で、国家形成のイメージと国家に対して戦うイメージの内面的なせめぎあいの姿を、戦時下の自己体験にそくして語っている。著者のもっとも優れた文章のひとつである」というコメントを添えて。
それを裏打ちするように、鶴見俊輔は「すぎゆく時代の群像」のなかで、一九四六年の「極東軍事裁判(東京裁判)」に関連して、次のように発言している。
あのとき、壺井繁治が詩を書いたんですよ。東条以下の戦犯の首がとぶことを喜ぶ詩なんだ。この野郎と思ったな。壺井繁治に対して。そのときはね、壺井繁治が戦争中何をしていたかも知らなかったわけだ。ところが吉本さんの掘り出してきたもの、「鉄瓶の歌」なんか読んでね、なおさらそのときの不愉快さが深まったね。
「鉄瓶の歌」を読んでいなくても、「七つの首」というのはけしからん詩ですよ。ああいうものが書けるということは、スターリンの時代になれば、また平気でベラクンでも何でも殺すという精神のありかたじゃないのかな。
わたしはさっきいったように、海軍兵学校出の少尉とか、ファシストに対する評価と、獄中に入っていた純正コミュニストに対する評価は、ひじょうにあまい。
そうなんだ。おれよりえらいという気がするんだ。東京裁判の弁論のなかでも、東条の弁論には打たれますよ。いいところがある。つまり、あれは切腹をやりそこなったにもかかわらず、それは戦後に議会でおこなわれた答弁にくらべれば、はるかに調子が高い。
だからね、戦争中、自我が解体しちゃったんですよ。わたしにとって敗戦後というよりは戦争中起こったことなんだけど、もはやわれ生きるにあらずという感じになった。われ生きるにあらずというのは、われわれの年代共通の感情なんじゃないかと思う。
これが鶴見俊輔の核心にある、体験的実感のひとつだとおもう。
そして、鶴見俊輔と吉本隆明の〈相違〉を一点に集約すれば、一九六〇年六月四日、国鉄のゼネスト支援を掲げて、全学連主流派が品川駅構内で坐り込みをやった時、吉本は学生と一緒に坐り込み、鶴見は日本社会党や総評の要請を受けて、坐り込みをやめるよう説得に行っている。この場面が、二人の〈相違〉を象徴しているといえるだろう。
戦中派の切実な実感から遠いところでいえば、日本の戦争への突入は不可避だったとしても、国民総動員体制、治安維持法、憲兵制度の導入などによる、民衆に対する苛酷な〈統制〉と〈抑圧〉は、対外的な残虐行為とパラレルであり、おびただしい戦争犠牲者を出したことにおいて、東条英機が〈戦犯〉の一人であることは動かない。それは軍の統帥権を持っていた昭和天皇に、最終的な〈戦争責任〉があるのと同じである。わたしの村のことでいえば、「兵役」から落ちこぼれた若衆が村の二人の世話役になじられたことを逆恨みして、それらの世話役の家に放火した。本人の資質は別として、これも戦時体制が生んだ惨事なのだ。
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わたしは一度も沖縄を訪れたことはない。たぶん、これからもないだろう。
わたしが〈沖縄〉について、もっとも大切におもっていることはひとつだ。それは宮城正勝さんから伝えられた、《命は宝》ということだ。これはヨーロッパのヒューマニズムより根底が深い。親鸞の「順次生」に連なる考え方だとおもう。
いわゆる「同時多発テロ」で二一世紀は始まったというのがわたしの持論だが、イスラム国の台頭、無人機攻撃、テロの拡散、イギリスのEU離脱、保護主義のトランプ大統領の誕生など、状況は悪化の一途をたどっているとしか思えない。そんな中にあっても、《命は宝》という考えは不滅のものだ。秋葉原の殺傷事件や神奈川の養護施設の障害者殺害などに対しても、それは〈根元〉から否定する力を内包している。
中学生だったか高校生だったか忘れたけれど、よしもとばななの『なんくるない』を読んで、「沖縄はいいところだよというものだ」という読書感想文を書いたら、担任の教師から「こんないい加減な感想はダメだ」と言われたそうだ。それに対して、作者は「わたしの意図するところは、その子の考えと同じだ」と言っていた。
ものごとを複雑に考えることが偉いわけでも、高慢な主張を振りかざし、ひとびとを方向づけることに意義があるわけでもない。そんなものは、〈支配〉意識の変種にすぎないからだ。
まだ幼児のころ、沖縄や奄美といえば、父が月島海岸でやっていた舟造り場に働きにきていた舟大工の職人さんの、無口な、大人しく、やさしい印象が運んでくる表情や、言葉の訛りや、アクセントだった。
こんなやわらかくてやさしい沖縄や奄美の舟大工さんのイメージと、あの小さなたくさんの島かげが、きらきらした真っ白な太陽のひかりのなかに果てしなくつづいて、そのまま他界にのぼってゆくような南の海の景観と結びついて、いつまでも幼児記憶に保存されたままだったら、どんなにかよかったろう。
でもつぎにはもう、幼時の沖縄はとび去って、かたい、苦しい、たたかいの日の沖縄のイメージにかわってしまう。
太平洋戦争の末期、そこは米軍が上陸して、唯一の日本領土内の戦場となってしまった。
(吉本隆明「やわらかい沖縄・かたい沖縄」)
これが『全南島論』の根にある、吉本隆明の思いなのだ。
14 「川上春雄宛全書簡」にふれて (二〇一七年八月)
1
待望の『吉本隆明全集』第三七巻「川上春雄宛全書簡」が刊行された。
読んで、まっさきにおもったのは、やっぱり川上春雄は凄いということだった。
この巻を読むことによって、これまではっきりしていなかったことが、じぶんの中で明確になっていった。
まず、『試行』の同人解散によって、吉本隆明自身もかなり窮地に直面していたことが分かる。谷川雁の離脱は、第一〇号の同人解散よりも早い段階で明瞭になっていたけれど、村上一郎は編集実務(印刷所への入稿や校正など)を担っており、それを欠くことは発行が困難に当面することを意味していた。そこで吉本隆明は、試行出版部の創設とともに、村上一郎に代わる実務者として川上春雄に援助を求めている。
この段階で、川上春雄は《「試行」は充分な御準備の上、「第十一号」として(再刊第一号のタイトルでなく)現在までの読者に提示するのがいいのではないか》と重要な助言を行なっている。つまり、吉本隆明の単独編集となっても、そのままの号数を持続することで、それが継続発展であることを明示すればいい、と。
しかし、『試行』の実務は遠隔の地で離れていることもあり、意志の疎通があまりうまくいっていない。そして、思想的な立場や理念的な構想において、どうしても〈差異〉があり、それが『初期ノート』の刊行案内の送付によって表面化している。これは営業的な意味を越えて、思想表現の根幹に関わることで、吉本隆明としては許容できないものであった。それは村松剛の放言(「吉本がどんなつもりで俺のところに案内を出したのか、案内がきたから註文してやったよ」という伝聞)に、端的に現れているといっていい。
ここでのやりとりが、「川上春雄宛全書簡」のもっとも激烈な場面なのだ。逆にいえば、この深刻な齟齬を乗り越えることで、二人の〈信頼〉は深まったといえるだろう。
どんな企業にとっても顧客リストは社の財産であり、また政治組織や宗教団体においても、メンバーの獲得はその組織の拡大を意味するものだ。ここで卑近な例を挙げれば、一九七〇年代、わたしの友人の女性が大学の卒論で『共同幻想論』の「巫女論」に取り組み、その準備もあって、共産同叛旗派の政治集会で吉本隆明が講演すると聞き、先輩に連れられて、集会に行った。その入場の際、参加者名簿に署名を求められ、住所と氏名を書いた。それを契機にオルグの電話が頻繁にかかりはじめ、かなり迷惑したとのことだ。彼女がその先輩に聞くと、「そんな場合は適当な偽名を書くものだよ」と言われたそうだ。彼女はノンポリで、「どうして先にそれを教えてくれなかったの」と、のちにわたしにこぼしていた。
世の中は、そういう〈しくみ〉と〈しきたり〉になっているのだ。
川上春雄の行為も、そういう意味では出版活動を始めるに当たって、不安もあり、少しでも知らせることで販路を開きたいという思いからだったに違いない。しかし、それは〈既成〉の方法への滑り込みを意味し、〈自立〉の志向に逆行するものだったのである。
むろん、吉本隆明は「イエスの方舟」を高く評価し、出入りの自由な組織こそ〈開かれた共同性〉であり、それがほんとうの永続性に繋がるものだと示唆している。また甲府の藤井東らが主催にした講演会においては、参加費さえ払えば、それが誰であろうとまったく問わない(聞かない)、オープンな集まりの方法を実践した。つまり、勧誘、囲い込み、洗脳、そんな従来のやり方は停滞でしかない。自発性を尊重しながら、新たな方法を模索する、それが一般的な在り方を越えてゆく方途なのだ。
結局、川上春雄が「案内」の取り消しを通知する「廻状」を出すことで、事態は収拾された。それで試行出版部は継続され、「試行」の校正などの実務は、たぶん岩淵五郎によって引き継がれることになったのである。
このようにこの巻には、さまざまなことが述べられていて、とても示唆に富んでいる。これからじっくり考え、言及すべきことがあれば、書いていきたい。
2
試行出版部に関連して、吉本さんがわたしに言われたことはふたつだ。
ひとつは『試行』の復刻版(創刊号から第一五号まで)の刊行について、「あれで少しは川上さんに恩返しができたようにおもう」と言われた。それは長い間の労に報いることができたという安堵を語っているように、わたしにはみえた。
もうひとつは、川上さんが亡くなったあと、『吉本隆明資料集』として『試行』の第一六号からの復刻版を作る許諾を得た時だ。吉本さんは念押しのように、「印刷屋のおやじが復刻版の印刷代金がまだ残っていると言っていたけれど、川上さんはそんなことは無いと言った。それがぶり返すかもしれませんよ」と言われた。わたしは、即座に「大丈夫です」と答えた。
もともと、わたしは東京で印刷することなど考えていなかった。そんなことをしたら、資金的にも労力的にも発行は不可能で、それまで「資料集」を刷ってもらっている地元の印刷所に発注するつもりだったからだ。また版下についても、じぶんで原本からコピーして作ることにしていた。だから、そういう行きがかりはまったく関係なかったのである。
まあ、これは吉本さんが、わたしの意志を確かめるために言われたことだとおもう。
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『全集』の「月報一三」で田中和生は、大井浩一の『批評の熱度』に触れながら、次のように書いている。
一九五七年に纏められた『高村光太郎』で読者が読んできたような、自分が熱烈な天皇主義者だったという内容は真実の告白ではなく一種の虚構であり、その虚構から「吉本隆明」という書き手の言葉ははじまっている。
(田中和生「文芸評論家から文人へ」)
この「一種の虚構」という言い方は、納得できない。そういう観点は、すでに加藤典洋が吉本本人に直接ぶつけている。
加藤 あと、詩にも関連してですが、この際伺っておきたいことがあります。一つは、『高村光太郎』などの評論を読むと、吉本さんが日本の敗戦に大きな衝撃を受けて、昭和二十年八月十五日を境に大きく変わった、というイメージがやってきます。ところが今回『全詩集』でその頃の詩を読んで、敗戦の痕跡などまるでないように一種の流れが滔々と続いている。そのことが一つの発見でした。一九四四年に出された私家版の詩集『草莽』の詩篇と敗戦を経て後の詩作品とは、少なくともその一点でほとんど変化はありません。
で、その時浮かんだのは、吉本さんは、戦争中の自分は皇国青年だったと『高村光太郎』で書かれていますが、この点も、他の戦中世代の人たちとは身ぶりが異なっていたんじゃないか。他の人たちは、戦後は戦争に加担したことをやや差し引いて語るのが常であり、現実が十とすれば、九か八と自分の戦争加担分を少な目に語った。ところが吉本さんは逆に、それをやや大袈裟に十一か十二の姿で伝えてきているのではないか、という疑いです。
その一や二の違いは同時代の人たちはよく見えるわけで、大きな違いでしょう。大きく括れば確かに 吉本さんは皇国青年だったかもしれない、でも後の世代の人はその言い方から、井上光晴さんのようなガチガチのウルトラ皇国青年をイメージしてしまう。ところが詩を読む限り、そんな風貌はほとんど感じられない。井上光晴さんのように、皇国青年だったことの反動で戦後はすぐに共産主義者に転身したというような身ぶりも、詩で見る限り吉本さんは無縁です。そのあたりはどうなのでしょうか。
もう一つは、これは吉本さんのお耳に届いているかどうかわかりませんが、近頃吉本さんについて巷で言われていることで、吉本さんが理系に進んだのは兵役逃れのためであり、そのことが戦後の吉本さんの屈折の一因になったのではないかという臆説があります。そういう説が最近まことしやかに流布している。僕などから見たら、思想というものがまったく判っていない人の、ちょっと困った言説なんですが、もう時代が変わっていて、それに説得される読者も出てきています。僕などが思想という時、人が思想に動かされるのは、まずそれを伝える言葉によって動かされるわけです。でもこういうことを言い始めている人の考え方では、その思想が現実の人事、背景に照らして、どういう人間的な事情から言われたかを説明することが、思想を説明することになってきています。
誰も、この人がどういう背景からこう言っているのかなんてわからないまま、その言葉に掴まれ、ある考え、ある主張に共感したり、影響を受けたりするんですが、そういうことがもうわからなくなっているんですね。これを最近言ったのは、小熊英二さんですが、つまり思想が人事に解体されている。これは、思想の世界もとうとうオタクの時代に入ったということでしょう。平屋建ての記述が延々と続いて構築物は一つもない。そういう思想状況のなかで、今後のこともありますから、吉本さんの兵役逃れ説についても、ご本人の口からお話を伺っておきたいのですが。
吉本 二つ目の方からお話しますと、僕は小学校を出るとすぐに東京府立の化学工業学校に入学したんです。当時日本で唯一の中学校と同程度の化学の学校で、あまり裕福ではないけど、世間知らずで少しは優秀な少年たちが通っていました。もしゆとりがあったらもっと上の学校に通うことはできても、「中学校なんかに上がってもつぶしがきかないんじゃないか」と親父に言われて、僕も文句なくその学校に通うことに同意したんです。逃げるなんてことはなく、僕は戦争をやれやれと思っていた方の人間ですから(笑)。
(加藤典洋・高橋源一郎・瀬尾育生・吉本隆明「詩と思想の50年」)
だいたい、どんな状況の下にあっても、ひとりの人間が一から百まで「何々的人間」であるはずがない。そんなことは常識的な思慮に属しており、いろんな思いが個の内部にも、世間の様相の中にも錯綜しているものだ。国家総動員令が施行され、国を挙げて太平洋戦争に突入したことは歴史的事実であり、その中の個人の行動や行為は、その全体性にリードされていたことは確実である。
わたしのこどもの頃、村のこども達は誰もが互いに、ともだちの家を泊まり歩いていた。そうしたら、たいていの家には戦争で死んだ家族の肖像写真がかもいに飾られていた。その暗い感じは、いまでも印象深くわたしの中に残っている。
その写真の人物が「天皇陛下万歳」と叫んで死んだにせよ、「お母さん」と言って息絶えたにせよ、戦争に動員されることによって、戦死したことは変わりない。それに対して、遺された家族が、戦争を呪い国家を恨んだとしても、お国の為に命を捧げたことを誉れと思ったとしても、それは等価である。
吉本隆明は編著書である『国家の思想』の巻頭解説「天皇および天皇制について」で、戦争後期のじぶんのことを「そのときわたしの年齢は十七歳から二十一歳くらいであり、身分的には、旧制高等工業学校から大学の初年級にわたる時期である。わたしのかんがえはこの年齢と身分として、たぶん平均的なものであった」と位置づけたうえで、考察を始めている。吉本隆明が戦中のじぶんを「天皇主義者」というとき、そういう〈前提〉にたっていることは明白である。それを「一種の虚構であり、その虚構から」はじまっているなどという田中和生の言説は、一面的であり、戦争への〈洞察〉も、個の生存の〈振幅〉に対する理解も薄いものだ。
同世代の小川徹との対談などを読めば、その当時の戦争に対する〈振り幅〉をかなり知ることができる。
また、吉本隆明が戦争責任をめぐる問題提起でこだわったことは、文学者を例にとれば、戦中に書いて公表したものを、敗戦を境にして、戦後に自ら改竄したことだ。それは個々に、戦前版と戦後版を対照して検証すればすぐ分かることだ。この虚偽と欺瞞こそが問題だったのである。壺井繁治が戦争中の戦争翼賛の詩を書きながら、戦後は戦争に抵抗したように偽装して憚らなかったように。そんなものは狐憑きが別の狐憑きに変わっただけなのだ。そして、戦争の内在的な過程を真摯に問題にするとき、高村光太郎は典型的な存在として立っていたのである。
川上春雄による両親へのインタビューによれば、化学工業卒業時、吉本隆明は父親に「一高を受けさせてくれ」と言っている。
今はじめから大学までやるだけの頭と資力がありますならば、一高から帝大って進むんですよ。でもその力がないんです。隆明が化学工業卒業する時分に、俺が米沢を受けろっていうのに、一高受けさせてくれ、試験は大丈夫だからっていって、あいつが俺に相談したことがあるんですよ。
大学にあがるには一高だけじゃ半端になるでしょう。でもやるだけの力はないんですよね。こっちのほうに。
高等工業ならばそれだけでもいけるから、それで高等工業にいったんですけども。
(川上春雄「吉本順太郎・エミ夫妻インタビュー」)
これは工科の方がつぶしがきくからという家業からの判断もあり、後に二人の弟妹がいる家庭の事情もあっても、一高進学は聞き入れられないことは本人もじゅうぶん分かっていたはずだ。それでも、人には迷いもあれば、心の揺れもある。
じぶんを引き合いに出すのは気がひけるけれど、中学を卒業する時、わたしも高校へ進学したいという思いが過ぎった。ろくに学校へ行かない不登校のじぶんが、そんなことを言い出すのは筋が通らないと、じぶんでも分かっていた。それでも岐路に立つと、動揺したのだ。母はほんとうに思案したようだが、家を継いでいた長兄ははっきり駄目だと言った。三人の子を持つ立場からすれば当然の対応だった。
吉本隆明の工科系への進学を「兵役逃れ」などという柄谷行人、それに追従する小熊英二などをみていると、じぶんは安泰な大学教授のくせに、なんの資格があってそんなことを言っているのか、また、どうしてそんなデマゴギーを捏造するのか。これは〈卑劣〉というほかなく、そこでは人倫的〈屑〉でしかないのである。だいたい、一億総動員の軍事体制の下、「反戦」はもとより「厭戦」や「兵役拒否」の余地などどこにもなかったはずだ。それに現在的にいって「厭戦」や「兵役忌避」のどこが不都合というのか。本末転倒も甚だしく、表向きの政治的立場がどうであろうと、柄谷や小熊の〈抑圧的本性〉がここに露呈している。
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二〇〇一年のいわゆる「同時多発テロ」に対して、アメリカ大統領であったブッシュは「これは見えない敵との戦争だ」と言った。その「戦争」は泥沼化し、終結する見通しはない。時と場所を選ばない無差別テロ、それに対して空爆や無人機攻撃で応酬する。難民はあふれ、逃げ場を求めてさ迷っている。この地球上からイスラム教徒を一掃するとか、聖戦によってアメリカ合衆国を壊滅させるとかいう主張は別として、この状況を解決する処方箋は誰も持ってはいない。
しかし、はっきりしていることはある。「イスラム国」も「タリバン」も武器を自家製造しているわけではない。調達しているのだ。つまり、武器や弾薬を製造し輸出している国家と、「死の商人」たちが背後で暗躍しているのである。これが世界の〈構造〉なのだ。
各国は程度の差はあれ排外主義的にガードを固め、ナショナリズムの強化を策っているけれど、社会の荒廃は進み、上からの強圧をもってしても、歯止めは効かないことは歴然としている。そういう意味では、どんどん世界は悪化している。それが戦争の内在化である。
もちろん、こんな情況批判は、気休めにもならないことはじゅうぶん分かっている。それでもわたしは、黙っているよりはましなような気がする。
比較的遠隔の地の東アジアといえば、地理的条件が動かし難いように、依然としていじけた利害の争いに明け暮れ、東アジア共同体の形成など夢の彼方の幻でしかない。漢民族を支配層とする中国は「中華」思想まるだしで、海洋進出を強行し、北朝鮮は民衆の疲弊には目もくれず、頑なに核開発、ミサイル実験に勤しんでいる。南北の国境が廃止され、融和されることなど永遠にないのかもしれない。日本は安保法制、「治安維持法」の復活であるテロ等準備罪などを通じて、確実に戦前の政治体制への逆行を推し進め、天皇をまたしても〈国家元首〉の位置に押し上げ、強固な国家統制の下にすべてを従属させようともくろんでいるようにみえる。
そういう面ではいつまで経ってもアジアは、ヘーゲルの言ったように、人間的尊厳を所有せず、皇帝陛下の馬車を曳くことに躍起なのだ。
それに対抗すべき左翼勢力は退潮著しく、トータルな世界認識を欠き、原則的な理念を獲得できないまま、社会の陰の存在と化した感がある。どの時点でみてもいいのだが、ここでは「国鉄民営化」を例に挙げる。それに対して、吉本隆明は次のように発言している。
国鉄の民営化という問題がおこったときに、国鉄の労働組合もそうですし、それに群がってきた政党も提灯をもった知識人もそうだったのですが、国鉄の民営化は反対だという闘争の仕方をしたわけです。ぼくは、そのときから、そんな馬鹿な奴があるものかとおもって、そう発言しました。国家の経営権が民間に移行するという課題にたいして、労働者は民間に移行することを支持すべきだということは、原則的に明瞭なことです。
国家というのを固定化したり、絶対化したりしたらいけないんで、たとえばそういう課題があったときには、民営化のほうがいいんだと、労働者はかんがえるべきだとおもいます。だから、国鉄労働組合をはじめ総評だか社共だか新左翼だかしらないけど、民営化反対をとなえました。新左翼もそうでした。ぼくには奇想天外だとみえました。冗談じゃないんだ、そういう反動的なことをいってもらっては困る、つまり、国営か民営かということになったら、民営を支持するのが労働者の立場だとおもいます。もっとかんがえまして、労働者と一般大衆の利害が対立したばあい、労働者はどうするかといえば一般大衆の利益に就くのが妥当だとおもいます。それは、労働組合の本質的なありかたからいって、原則的に出てくることだといえます。それすらないんだから、どうしようもないんじゃないですか。そのときも、官公労の組合がいちばん強いし、その基盤が民営化したら奪われちゃんだみたいな反対のしかたをしていましたが、そんな労働運動は止めちゃえばいいじゃないかとおもいます。官公労を基盤にしなきゃ強くなれない労働組合なんか国家社会主義の道具にしかなりませんから、民営か国営かという課題にたいして全く反動的なことしかいえないので、そんなものないほうがいいですよ、とそのときもいいました。
そういうことの原則は、はっきりしているとおもいます。つまり、たとえば、資本と労働が対立したときに労働に就くというのははっきりしていることだとおもいます。ところが、もし労働組合と一般大衆とが相対立したとき、労働組合はどうするんだといえば、一般大衆の利害に就くべきで、一般大衆を支援すべきだという原則は、今までの観念ではわかりにくいでしょう。それから、国営か民営かといったら、労働組合は民営に就くべきなんだよという原則もわからなかったんだけど、そんなことは自明の理です。別なことでいえば、国家権力か資本か、労働組合はどっちに就くんだといわれたときに、資本に就くというのは全く明瞭なことだと、ぼくはおもいます。つまり、そういうことは原則上、はっきりしてることだとおもうんです。だけど、そのような原則が通用しないとすれば、労働組合の意味はないとおもいます。
(吉本隆明講演「日本の現在、世界の動き」)
こんな原則的なことすら〈了解〉されていないのである。レーニンらのロシア革命を規範として、ソビエト連邦が崩壊しても、一歩も踏み出せないのだから、当然の帰結というべきかもしれない。そういう意味では、吉本隆明は深く絶望していたとおもう。そこから、〈一般大衆〉を基礎に置くという〈理念〉を実践していったのである。それはとりもなおさず〈主権在民〉をほんとうに実現する闘いなのだ。
〈一般大衆〉という立場からみれば、政府は嘘ばっかりで押し通している。「森友学園」にしても「加計学園」にしても、自衛隊の「南スーダン日報」にしても。日常的な経験から考えても、その嘘はみえみえなのだ。職場で必要な情報が共有されることは当り前であり、どんなことでも上層部の意向を忖度しないわけにはいかないし、職種によっては「業務日誌」を書かなければ仕事をしたことにならない。つまり、ほとんどの人々が体験している日常的ルールなのだ。それを隠匿し平然と居直っている。
これは一見くだらない権力的スキャンダルにみえながら、ほんとうは〈一般的なルール〉さえかなぐり捨てた末期的な様相であり、今後、さらに情報操作と言論抑圧を強化することで、暗黒支配に突き進む兆候である。
現に「天皇の退位」をめぐる問題で、すべての政党が天皇制容認のレールの上に乗ったのである。「王」(天皇)なんてものは〈消滅〉したほうがいいのだ。あの老齢で「公務」に勤しむ平成天皇の姿は、わたしのようなものから見ても痛ましいかぎりだ。天皇家の存続は自由だけれど、「象徴」というポジションから解き放ち、あらゆる〈国事行為〉から降りるようにすればいいのである。
15 瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」批判 (二〇一七年一一月)
1
瀬尾育生が『吉本隆明著作アンソロジー 第一分冊 1949-1969』という未刊本の解説を『LAIDEN(雷電)』第一一号に発表している。
それを読んでいて、思わず自民党の女性議員みたいに「このボケー、違うだろー」と叫びそうになった。
この雑誌(引用者註ー『試行』)はいくつかの書店店頭での販売とともに、売り上げの半数ほどを定期購読者によっており、寄稿者は定期購読者であることを条件としていた。
(瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」)
吉本隆明は《寄稿者は定期購読者であることを条件》とするなどと、どこにも書いていないし、そんなことは一度も言っていない。
わたしは「『試行』全目次・後記」(『吉本隆明資料集』第二八集)を作った。その実質にかけて、これは断言できる。
よくも、こんな出鱈目なことを書けるものだ。
じぶんの経験からいっても、読者からの〈寄稿〉はほんとうにうれしいものだ。
吉本隆明もおそらく、『試行』の読者が執筆者に転位することを〈理想〉として思い描いていただろう。しかし、それを《条件》とすることとは全く違うことだ。考え違いも甚だしいのである。
これは決して揚げ足取りではない。吉本隆明の思想的態度の〈根柢〉にかかわるからだ。
『試行』の執筆者、五十音順にいって青木純一から渡辺則夫に至る、総勢一〇八名(もしくは一〇七名)全員が「定期購読者」であったとは考えられない。
中には、知人から薦められて投稿した人もいただろうし、偶然『試行』を知り、吉本隆明主宰の雑誌とわかり、原稿を送った人もあったかもしれない。それに、仲倉重郎のように映画作品(「きつね」)を寄せた人もいるのだ。また店頭購読者は、発行者の側からその存在を実際に知ることは不可能だ。
吉本隆明の採否の〈基準〉は、はっきりしている。
ひとつは、所定の水準に達していること。
もうひとつは、それぞれの切実な課題に対して求心的であること。
この二点と言っていいとおもう。その他に考慮すべき、どんな《条件》も設けないことが『試行』の自立性だったのである。
『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者が分からない場合もあった。
たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の編集・発行者である吉本さんに問い合せた。そうしたら、事務を担当された吉本和子さんから「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」という返事をいただいた(内村剛介本人はインタビューで別人としているらしいが‥‥‥。言うまでもなく内村剛介は「政治犯」として長い間ソビエトに拘留された。帰国後も、その方面の追跡や監視は続いていたことは想像に難くない。また、日本のその筋からも要注意人物扱いだったろう。訪ねるたびに、内村家の表札の名字が変わっていたという話もあるくらいだ)。
『試行』に寄稿した書き手のなかで、もっとも大ヒット作を出したのは片山恭一だとおもう。そう、あの『世界の中心で、愛をさけぶ』である。彼は『試行』第六七号に「猶予される時間」という批評文を寄稿している。しかし、その一文を読むと、その当時のポスト・モダンの思潮を踏まえ、じぶんに引き寄せたものだ。『試行』のもつ独自の〈志向性〉に重きを置いているようにはみえない。
それは「子供たちのカフカ」を発表した吉野二郎なども同じだ。
さらに言えば、川浪磐根の「山童記」は遺稿である。川浪磐根は歌人で、一九六九年に八六歳で亡くなっている。明治一六年生まれの年齢と経歴からして、生前「定期購読者」であったとは思えない。
瀬尾育生は、じぶんで確かめもしないで、いい加減なことを書くべきでない。
だいたい、『吉本隆明全集』(晶文社)が刊行中というのに、なにが「アンソロジー」だ。
しかも、この「解題」をみると、吉本隆明の基礎的著作である『言語にとって美とはなにか』も『心的現象論序説』も『共同幻想論』も〈部分的抜粋〉ということになっている。これには仰天した。
瀬尾育生も、これに加担したらしい加藤典洋も、おのれも〈著作家〉なのに、恥ずかしくないのか。じぶんが心血を注いだ〈体系的著作〉が抜粋という扱いを受けても、なんとも思わないのか。
もっと言えば、インターネット時代にあって、もし吉本隆明のいわゆる三部作を読みたいと思えば、古本とはいえ安価な文庫本で、完全な形の本を容易に入手できるのだ。それなのに、なにが「セレクション」だ。
ここから、瀬尾育生の言説にもう一歩踏み込んでみる。
いわゆる花田・吉本論争のドキュメントは収録しなかった。吉本は生涯、闘争的な言論のなかで自らの思想を構築していった思想家だが、それらの問題のなかにはほかならぬ吉本の議論そのものによって問題の次元自体がすでに歴史的に消滅してしまった部分があり、またこれらの論争的な文章について、その一方のものだけを収録することは無意味に近いからだ。
(瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」)
こんなことをいうなら、べつに「アンソロジー」なんか作る必要はどこにもないではないか。すべて過ぎた時代の残骸ということになるからだ。
こんな事後的な形式論理でいけば、その時代を生きた人の営為の、〈意味〉と〈価値〉は無化されてしまう。その生きている時代情況というのは、誰もがある面では必死で、暗中模索の真っ最中にあるのではないのか。そうやって人は生き、そして生涯を終えるのではないのか。むろん、起きて半畳、寝て壹畳だって同じである。
花田清輝という存在は個人であっても、あの論争の中の「花田清輝」はひとつの〈象徴的存在〉なのだ。その背後には、若い同調者から「新日本文学」のメンバー、日本共産党までが組織的に連なっていた。一方、吉本隆明は生き残ってしまった戦中世代の陥没性を背負って、それに立ち向かったのである。その総体的な情況のうちに、あの論争はあったのだ。《その一方のものだけを収録することは無意味に近い》だって、酒場の個人的な口論ではないのだ。馬鹿も休み休み言うがいい。瀬尾は添田馨の『吉本隆明?論争のクロニクル』を「公平」などと評価している。しかし、いまの世の中に「公平」なんてものはありはしない。〈主観性〉と〈客観性〉があるだけだ。
瀬尾兄よ、思い出してみるがいい。東大安田講堂決戦の時、じぶんはどこにいて、何を考えていたかを。またドイツ語の教師として大学に職を得ようとした時のじぶんの思いを。そんなことをお前なんぞに言われる筋合いはないということになるだろうが、神山睦美とのケンカで、喫茶店めぐりについて書いた瀬尾育生には〈ハート〉があった。あのときの瀬尾育生は、こんなつまらないことをいう人物ではなかったと、わたしは思っている。
それは、この「解題」全体についても言えることだ。『雷電』A5判二段組二〇頁も費やして、概括的な位置から陳腐な要約的な文章がくだくだと綴られている。それがあたかも確定的な評価であるかのように。瀬尾育生は、ここで完全に旧来の啓蒙的思考に転落しているのだ。
そして、最後に決定的なことをいえば、わたし(たち)はこんな「アンソロジー」を必要としない。じぶんで考えながら、『吉本隆明全集』を読めばいいのである。これに優るものはないからだ。
2
比嘉加津夫さんの「甲状断録」を読んで、この人はほんものの読者家なんだとおもった。どうしてかというと、わたしも入院に際して、退屈するだろうと思って、一応、病院に吉本隆明・石川九楊『書 文字 アジア』、文庫版ちくま日本文学全集『島尾敏雄』など数冊の本を持参した。それで病室で読んだのだけれど、全く頭に入ってこないのだ。何度かチャレンジしたけれど、ダメだった。それで諦めた。だから、比嘉さんがほぼ一日に一冊のペースで読破しているのを知って、やっぱり素質から違うとおもったのである。
むかし、アラン・ドロンの主演のギャング映画で、文字ばかりの本よりも絵のあるものがいいというセリフがあって、いたく同感した。わたしはもともと漫画好きで、アンデルセンやグリムは言うに及ばず、児童書なんか手にしたこともない。だから、わたしは病室でぼーとしているか、『東京タラレバ娘』など続きもののテレビドラマを見るほかは、ほとんど寝ていた。もちろん、入院のストレス解消には、じぶんに適した過ごし方をすればいいのである。
比嘉さんは、たしか『琉球新報』に発表した『全南島論』の書評のなかで、「壮大な論理のロマン」という言葉を使っていたとおもう。それに対して、わたしは吉本さんの痛切なモチーフからすれば、「ロマン」という言い方はふさわしくないように感じた。でも、最近あらためて『情況としての画像』(初出タイトルは「視線と解体」)を手にして、比嘉さんの捉え方のほうが、おおらかでいいような気がしてきた。
『全南島論』は「全」と銘打ってはいるけれど、関連した論考がいくつも抜け落ちている。そこで、この連載を使って、それを紹介することも悪いことではないようにおもった。それと同時に、わたしの翻意がどんなところに発しているのかも分かってもらえるかもしれないと考えた。
まず日本人のやってきた北方ルートは、北海道白滝のホロカ沢遺跡の細石刃とおなじもののルートをたどって、シベリヤのノボシビルスクの遺跡、もっとさかのぼってアルタイ地帯の水と緑の豊かなデニソワ洞窟の六万年から一万二千年までの累積され洞窟住居の発掘現場にたどりつき、氷河時代にシベリヤから東へと移動していった古アジア人が細石刃文化をたずさえ、獲物の動物、鮭のような魚を追いもとめて、河川沿いに地続きのサハリン(樺太)をたどって、北海道から中部地方にかけて分布してゆく想定図を描いてみせる。血液中のGm遺伝子の保存からかんがえて、バイカル湖畔に居住した古アジア人のうちブリヤートが比較的に日本人に近いということで、石井麻里がブリヤート、モンゴル部落へ入って、「テレビスタッフの顔に似た人が親せきにいるかどうか」をたずねてみたり、原辰徳と渥美清と薬師丸ひろ子の写真をみせて、「これは何人だとおもうか」とたずねて、中国人だ、ブリヤート・モンゴル人そっくりだとか、台湾、ベトナム、ビルマ人だとかいう解答を村人からもらうところなどは、映像としてじつに愉しく、面白く、よく出来ていた。ソ連の考古学者が、約二万年前にバイカル湖畔から東へと移動し、北海道までたどるのに五千年かかり、そのあいだに姿・形・言葉もかわってゆき、河川沿いにマンモスが死滅したあとは鮭をもとめてサハリン(樺太)から北海道に入るという経路が想定できるとして、考古学には何よりもファンタジーが九〇パーセントは必要だと語るのが印象にのこった。
つぎには南方のルートがたどられる。
沖縄の港川人の骨は一万八千年前のもので、氷河期の末期にあたっている。これが北方ルートからの移住人かどうかはわからない。南方ルートは縄文中期(五千年前)の山梨釈迦堂遺跡から出土したたくさんの土偶をつなぎ手としてさかのぼられる。土偶は穀物の豊饒を祈って、ばらばらにこわされて土に埋められた女性像で、神話のオオゲツヒメのように殺された女性を大地に捧げると穀物の実りが約束されるという祭儀のとき、その形代につくられたものだとして、インドネシアのフローレス島にルーツをたどられる。ここのヌアオネ村で古老たちからオオゲツヒメに類似した神話を聞くために中川安奈が村の娘になる。実の娘を亡くした村の夫婦が娘の再来として迎えてくれ、村中で娘になった中川安奈の家を建ててくれ、村の風景がじぶんの風景だとおもえるようになったら、神話をきかせてくれると約束する。ここでは神話がおなじだということは、祖先がおなじだということだと信じられている。村の男たちは家をつくる柱を伐りだして引きずってくるが、それは諏訪社の御柱祭りの有さまと酷似しているところが、映像で映される。土台をつくり、乳房、水牛、蛇などを浮彫りした柱をたて、家は舟のようにそりをもった屋根で葺かれる。家は祖先が移動してきたときの舟を象どって造られたものだとされている。やがて村長→長老→族長とたどって神話をきかせてもらう。女神イネパレには兄弟がいる。兄弟は土地を焼いて何の種子を播くのがいいか女神にたずねると女神はじぶんを殺して出てきた種子を播きなさいと言うので、殺すとイネ・アワ・アズキ・大豆の種子が得られたので、これを播いたというオオゲツヒメの説話に似た神話を語ってくれる。
村の田圃には、竹の棒が長くつながっていて、蛇の道とよばれている。小鳥を殺して村人たちはこの蛇の道に血をふりかけてゆき、殺された鳥を、蛇の道のうえにおいて、豊作を祈る供犠にする。それは土偶を埋めて祈るのとおなじことだと語りだされる。
五千年前にポリネシア人の大移動があり、マレー半島からイースター島まで移動していった。その一部はイースター島への経路とわかれて、日本へたどりついたと考えれば、オオゲツヒメに似たこの村の神話や、土偶とおなじ役割をする殺された小鳥を田圃の蛇の道に供える風習の説明がつく。この南島のルートの説明は、おおざっぱすぎて難があるが、それでも中川安奈が村の娘として迎えられ、家を建ててもらい、村人たちの風習のなかへはいってゆく有様は、映像としていちばん充実していて、一篇の映像の物語になっていた。
もうひとつのルートは、大陸のルートになる。木野花がレポーターになって、雲南省で、蛇や水牛が浮彫りになったり、彫像になったりして、供犠の生首の像がある青銅器の貯金箱のようなものがしめされる。それは豊年を祈る祭の有様を示していて、フローレス島の家のレリーフや蛇の道の小鳥や縄文期の土偶を割って埋める風習との共通性を語っている。映像は四川省の長江(揚子江)の風景になり、この長江沿いに下ってくると日本にたどりつき、向い側に源流のあるメコン川に沿って下ってゆくと、フローレス島や南の島々にたどりつくとナレーションで説明される。十五年前に発見された河姆渡(かもと)遺跡で、七千年前のイナ作を中心にした文化が存在したことが、はっきりしてきた。河姆渡人は、約二千五百年前に呉や越の国をつくり、呉越の戦乱で呉人は難民となって大陸を下った。越人もやがて亡ぼされて難民となり、その一部は海辺から国外に脱出して移動した。対馬海流にのれば舟山列島のあたりから九州の五島列島の附近に到達することは難かしいことではない。
韓国で一九七五年に発掘されたたくさんの剣は越の国でつくられた磨製石剣で、これは佐賀県で発掘された磨製石剣とおなじものであった。これもまた黄海をわたってきた稲作文化のルートを暗示するものだといえる。これが日本の弥生文化を作ったものではないか。
ルートをつなぐ道具だてが少なすぎ、ルートの途中をつなぐのが遺跡の点と点で心もとない。また十万年このかたの膨大な時代の移りかわりをたどるには、想像力の裏づけがすくなすぎるといえよう。
(吉本隆明「視線と解体」「遥かなるジャパンロード」まで」)
この連載の担当編集者だった榎本陽介さんによれば、吉本さんはこの番組のビデオを見たいと言ったとのことだ。吉本さんの仕事のやり方は、執筆に必要な資料はじぶんで探し、そのうえでなお必要なものがあれば、編集者にその提供を求めたようだ。榎本さんも毎回のようにいろんな資料を届けたと言っていた。この場合だと、まず番組をリアル・タイムで見て、メモをとり、そのうえビデオを参照し、原稿を書いたことになる。
『海燕』の連載(「マス・イメージ論」と「ハイ・イメージ論」など)でも、吉本さんは準備(構想や資料調べ。石関善治郎さんの証言にあるように、「ファッション論」のためにマガジンハウスへ出向き、資料室で『アンアン』のバックナンバーにあたる姿に、その片鱗がみえる)におよそ十日間、本格的な執筆におよそ十日間と、わたしに語ったことがある。もちろん、その間にさまざまな雑用や飛び込みの仕事も入っただろう。吉本さんは残りの十日間を「安全圏」と呼んでいた。これを使って、講演や対談をこなしていたのだとおもう。断わるまでもなく、こんな事情は作品の〈意義〉とは関係ない。言語表現はそれ自体として〈独立〉したものだからだ。
ここで、わたしの感想をいえば、日本列島は断じて天皇(家)のものではないということだ。さまざまなルートをたどって、この列島にたどりついた人々は多層をなしており、その混合によって、「日本人」なるものは形成されていったのである。この雄大なドラマからすれば、「万世一系」などという神話的虚構は、アジア的な専制の〈変種〉にすぎない。「和をもって尊しとする」という規定が、閉鎖的な〈秩序意識〉の倒像にほかならないように。
おおいなる構想(ファンタジー)に基づく「南島論」のような原理的な探究が〈普遍性〉となって、やがて偏狭なナショナリズム(民族主義)の呪縛を止揚する日がきっとくるはずだ。それこそが、ほんとうのロマンなのだ。
3
『吉本隆明全集』第三七巻を読んでいて、とても微笑ましいとおもったところがある。
*詩
吉本のもっとも典型的な表出としての詩。
(1)詩をまとめて書くこと。
石井氏は不可解。
吉本と川上は、吉本氏にとって可能である。
石井恭二氏「詩というのはインスピレーションで書くものではありませんか。まとめて書くというのはわからんですなあ。」
和子「川上さんはわかるんですよ、石井さん。
川上さんは詩人だからわかるんでしょう。」
(川上春雄「吉本隆明夫妻訪問記 1962・1・22」)
吉本さんは、〈詩〉をもっとも大切に思っていた。
また、川上春雄さんが〈吉本隆明〉に深入りするようになったのも、〈詩〉がその契機なのだ。
〈詩〉は石井恭二が思っているようにミューズが舞い降りてくる場合もあるだろうが、ほんとうは〈世界に真向かう〉ことだ。
わたしは、一度も『試行』に投稿したことはない。じぶんたちで雑誌をやっていたからだ。わたしが吉本さんを訪問するようになったのは、『試行』の直接購読者であったこともあるけれど、それ以上に、吉本さんがわたしの詩集『ある手記』を評価してくれたからだ。
半世紀前の、暗喩もないし直喩もない、とにかく思いどおりのことを、ただ行分けにした素朴リアリズムの詩がありますね。その詩と、いまの若いラジカルな詩人が書いた詩を比べてみたときです。若いラジカルな詩人が暗喩なんかつかわずストレートに思いざま書き流しているような詩は、素朴リアリズムの詩とおなじにみえて、その実相は三六〇度ひっくり返っているんだと判った。とってもじゃないがそう考えないと理解できんぜェ、とおもえたからなんです。つまり、全体が暗喩に入っているって理解すんのが本当だと考えた。じゃ、何がなにの全体的な暗喩なんだっていえば、それは”現在”だろうということです。”現在”とその詩人との間にね、いってみれば単語と単語との間の暗喩関係と同じものが、成り立っている。それだからストレートな表現になる。素朴リアリズムの詩から三六〇度ちゃんとでんぐり返ってるって理解すれば納得できたんです。その理解にもとづくとね、現在に対する作者の対し方や、大なり小なり現在の作品というものは、全体的にか部分的にか、とにかく”現在”っていうものと暗喩関係にあるっていう理解が成り立つわけで、それが喩法論の根底の考え方になってるんです。
(吉本隆明『大衆としての現在』)
これは『マス・イメージ論』の「喩法論」について語られたものだけど、これが吉本さんのわたしの稚拙な詩に対する見方だったとおもう。そこから、『ある手記』に付された鎌倉諄誠の「闇の逆鱗」という解説を踏まえて、『意識としてのアジア』に「松岡祥男について」という長い跋文を書いてくれたのである。
わたしに限らず、吉本さんは詩を書く人を大事にしていたようにおもう。有名とか無名とか、上手とか下手とかは、関係なかった。それは次のような場面に端的に現れている。「ガリ刷りの個人誌をおずおずと差し出す(今ならとてもとれる行為ではない。思い出すたびに恥じ入るばかりだ)。吉本さんは丁寧にページを捲り終えると「後は書き続けるだけですね」。諭すような響きがあった」(黒島敏雄「吉本体験は、まだ終わらない」『Mayaku』第一二号)。
そうだっただけに、逆に詩に対しては厳しかったともいえるだろう。それが『試行』に詩作品をほとんど採用しなかった理由だとおもう。とくに六〇年代には詩の投稿がかなりあったとおもう。しかし、『試行』に登場したのは永瀬清子、宮城賢、西村和俊など数人だけである。
この訪問記をみると、和子さんはよくわかっていて、後年、『寒冷前線』をはじめ俳句を作る必然がよくわかる。和子さんは、隆明さんの詩でどの作品がお気に入りだったのだろう。聞いておけばよかったなあとおもった。
16 言葉の力を信じて (二〇一八年二月)
1
わたしが自家発行している『吉本隆明資料集』は最終段階を迎えている。
二〇〇〇年三月発行開始だから、一九年目に突入したことになるけれど、それで、じぶんの吉本隆明理解は確かなものになったかというと、『資料集』に収録した分について、一字一句じぶんで入力し、校正をしてきたから、ある程度は分かっているつもりだ。しかし、そうでないものについては、こころもとない。殊に『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』という二つの基礎的な著作については、発行作業が終了した暁には、じっくり再読したいと考えている。
前に読んだ記憶でいえば、『言語にとって美とはなにか』でまず印象に残っているのは「表現転移論」だ。一般的な「文学史」を「表現史」へ深化させたところが、オリジナルで、とても説得力に富んでいた。
政治的な発想や状況的な立場からすると、「文学史」などというものは無用の長物とみなされがちだが、そうではない。「文学史」というのは一種の〈地図〉の役割を果たすものだ。
たとえば、ある〈作家〉という村を訪ねたとすれば、実際に踏破すると、渓谷の景色や集落の様相、暮らしの雰囲気というのは如実に体験できるだろう。しかし、全体的な眺望が欠如していると、とんでもない方向に進み、主観的な思い込みによって、踏み迷い、目的地の本家本元に到達しないばかりか、それこそ遭難することだってある。つまり、過大評価やデタラメで身贔屓な〈虚像〉を生み出すことに繋がるのだ。もちろん、地図(見取図)だけを見て、実地に行ってもいないのに、分かったつもりになるのは、もっと愚劣なことだろう。
実をいうと、わたしは一九七〇年代当時、そういう連中が嫌いだった。どうしてかというと、彼らの多くは知的高みに立ち、状況に対して達観していて、超越的な態度をとるものが多かったからだ。確かにデモで逮捕されたら消耗するし、日本共産党との必至の対立など無駄な争いに映っただろう。しかし、ひとは不可避に情況の内部にあるしかない。そこで傷ついたり、悩んだりすることから得られるものは、ひょっとしたら、おのれの生涯を決定するかもしれないのである。
さらにこの際いえば、「いま、吉本隆明25時」という二四時間連続の講演と討論のイベント会場で、RCサクセションのBGMの流れるなか、最前列に陣取り、ノートをひろげ、講演のメモをとり、お目当てのものが終了すると、さっさとその場を後にした連中(こういうやつらが「吉本研究会」などと称するのだ)よりも、酒盛りをしたり、講演者を見たいというミーハーの方が、わたしはずっと好きだし、親しみを覚える。それはノートを取ろうと、居眠りをしようと、参加者の勝手である。だから、これはセンスの問題でしかないだろう。
しかし、この振る舞いが場面を転換した時、事態は違ってくることもありうるのだ。学校でのつまらないガリ勉野郎は、やがてエリートとなり、じぶんを解放する体験をもたないゆえに、情容赦ない冷酷な勝利者になりあがる。そして、抑圧的存在として振る舞うだろう。それに〈対抗〉するすべも、また感性的な自在性のような気がする。人間の意志は無規定であり、それが自由ということであり、それは制度や支配に本質的に〈優先〉するからだ。
堕落した文芸批評家や大学教授どもは、「朝日新聞」をはじめ大手新聞の書評委員になることが最大の名誉のように錯覚している。しかし、あれは実は批評家のなれのはて、知の管制室、創造の墓場なのだ。そんなことすら分からなくなっている。そんなことよりも、〈読む〉ことや〈考える〉こと自体が本来的な〈価値〉なのだ。やつらは世間の序列に従属しており、権力に加担するものでしかないのだ。
吉本隆明は、そういう連中とは違って、誰もあてにせず悪戦苦闘してきた。
昭和十年代の文学体の表出は、分布している多数の傾向としてみれば、横光利一の「紋章」(昭和9年)などを中心にして、一方に島木健作の「生活の探求」(昭和12年)や、佐多稲子の「くれなゐ」( 昭和11年)などをおき、また一方に、火野葦平の「麦と兵隊」(昭和13年)や「糞尿譚」(昭和13年)をおき、阿部知二の「冬の宿」(昭和11年)や高見順の「如何なる星の下に」(昭和14年)や中山義秀「厚物咲」(昭和13年)や北条民雄や牧野信一の諸作品をなかにおいて、かんがえることができる。
こういった分布の傾向が語っているのは、中核だけをいえば文学体の横すべりとか拡散とか風化といった消極的な位置づけとしていうことができる。そして、そのうしろにかくされていたのは、解体した〈私〉意識を対象にするすべを見うしなった文学者たちが、濁流が海にそそぐように話体へと氾濫していったことだった。
この時期の文学については、たくさんの論者がふれている。でもどれをとってもぜんぶを包括する意見になりえない。わたしたちは文学体の小説が風化して話体へ下降してゆく過程で拡散されて、それなりに安定した作品をうみだしたといえるだけだ。もちろん、そのうしろには知識人の解体がふくまれていた。しかもどこへ解体するのかは本人たちにはまったくつかまれていないところに特徴があった。そして、この行方がわからないことが、ある安定した表出をうみだし、また、同時にさまざまなタイプと思想をもった登場人物を唐草模様のように泳がした作品ができあがる原動力になったのだといえ る。こういった作品はどれも横光利一が「機械」によって実現した表出をでることはできなかった。一方は〈プロレタリア文学〉派や〈私小説〉派から流れこみ、一方は〈新感覚〉派や〈新心理主義文学〉派から漂流し、ひとつの均質な海をつくりだしたのだ。しかしほんとうをいえばそれは挫折でも漂流でもなかったかもしれない。それまで、何らかの形でもちこたえてきた表出意識の統覚をなくしてどん底まで挫折しつくそうにも 挫折の方向がわからないし、漂流しようにも行方をきめられないといった具合だった。外界をおとずれた戦争のかげよりも、かれらが現実の意識をささえてきた通路を、対象にする方法をなくしたことのほうが文学としてはるかに重要だった。
(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』「現代表出論」)
わたしたちは主題(題材)主義的な方向づけや政治主義的な引き回しにはうんざりしている。そんなものは、すべて弊害でしかないのである。
「文学体」と「話体」ということや、「文学史」と「表現史」の相違について、ここでわたしが下手な説明を試みるよりも、実際に読めば、大抵の人はすんなり理解することができるとおもう。
ただ一言だけいっておけば、例えば、いま手元にある西村賢太の「菰を被りて夏を待つ」(二〇一六年)と高橋源一郎「さようなら、ギャングたち」(一九八一年)、あるいは吉本ばなな「キッチン」(一九八八年)とを較べれば、「文学史」は西村作品の発表年度に従うことになるけれど、「表現史」からみれば、明らかに文体・表出的にも作品構成的にも、「さようなら、ギャングたち」「キッチン」以前のものとなることは確実だとおもう。
それよりもっと重要なことは、この著作の根幹をなす「自己表出」と「指示表出」は、カール・マルクスの『資本論』から発想されたものだ。商品の「使用価値」と「交換価値」の読み込みの中から、「貨幣」と「言語」がどこまで同致し、どこから分岐するかという検討から、この二つの概念は〈創出〉されたのである。
また、この著作は〈対象的客観性〉を有しており、不満があれば、誰でも、これを踏み台として書き換えることができるようになっていることだ。もっと深く、もっと伸びやかな、言語表現論の礎として存在しているといえるだろう。それこそが、ほんとうに尊重されるべきなのだ。
そして、作品の読み込みの重厚さが、この論稿を基底で支えていることは疑いない。ここでは、あえて別のものを提示する。
福音書の記述のなかでイエスの言動の実在性をささえているのは、ほんとうはどういう個所なのか。そしてそれは何を意味しているのか。(中略)
たとえばマルコ伝(第一章四〇?四六)にイエスがガリラヤの会堂で説教しているとき、ひとり癩病人がやってきて、潔めてほしいと願う個所がある。イエスはあわれにおもって、手をのべ潔くなれというと癩病はすぐになおってしまう。これはありふれた、無稽の奇蹟譚である。だがそのあとにつけられたほとんど無意味にちかい記述こそがイエスの実在性をささえるもっとも強力な言語におもえる。イエスは治癒させた癩病人にむかって〈そ知らぬふうをして誰にも喋言ってはいけない。ただじぶんの身体を祭司にみせ、モーゼが命じた物をおまえの潔めのために献げて、人々に証しなさい〉と教える。だがかれは出てゆくと、イエスがじぶんの癩を即座になおしたと吹聴し、あまねく人々に知らせてしまう。そのためこのあとイエスは、おもてだって町に入ることができなくなり、町の外れの寂しいところに滞っていた、という話がつけくわえられている。
これは別に反逆的行為の描写でもなければ、イエスの超能力を強調する描写でもない。支配者に怪しまれるのを畏れる描写ともおもえない。いってみれば他者の病いを即座に治癒させるという奇蹟行為の超越性にたいするイエスのオリエント的な過敏な羞恥心、その情緒的な照り返しの描写のようにおもえてくる。
(吉本隆明「〈反逆〉は内向する」)
イエスの実在性は〈ことば〉のなかにしかない。そのリアリティがそれを保証しているのだ。
ところで、『言語にとって美とはなにか』からわたしはなにを学んだかといえば、〈本の読み方〉だった。本を読むことは、他者の描いた世界を追体験することだ。当然ながら、その過程では内的な対話もともなう。そして、読了とともに、じぶんに戻ってくる。それと同時に著者はその〈表現意識〉に帰還する。そのあと、感想や批評のことばが紡がれるかどうかは、まったく別の問題である。
2
私は一九五一(昭和二六)年生まれで、会社でいえば退職を迎える年齢になりました。六五年の人生において、自分の基礎となっていることは、たぶん眠りのなかで見る夢に、無意識に現れるのではないでしょうか。
私の場合、それはおもに両親や兄弟の姿と、故郷の風景です。山の畑や小さな谷川の流れ、道の曲がり具合や一歩一歩踏みしめた地面なども、リアルに出てきます。
父、母、七人兄弟のうちの四人が、もう他界しています。
思い出はたくさんあります。
年の瀬には門松やしめ縄を作り、餅をつき、お正月の三が日は村の者が互いに挨拶に廻り、家々で酒や御馳走を振る舞い、賑やかでした。そんな中、出稼ぎから帰ってきた長兄が酔って、沖縄の「安里屋ユンタ」を歌う姿が、鮮やかに甦ってきます。
川魚は別として、海の魚は行商のおばさんが売りにくる、じゃこやうるめの干物でした。板前になった次兄がある時、カツオ一尾まるごと持ってきて、三枚におろし、藁火で炙り、氷水にさっとつけ、カツオのたたきを作ってくれました。これが初めてでした。こんなに美味いものがあるのかと思いました。
私たちは、南向かいの高い山を毎日見て暮らしていました。三番目の兄が向こうからみる景色は、さぞかし眺望が開け良いだろうと思っていて、実際に行って見たらがっかりしたそうです。どうしてかというと、四国山地の険しい山並がみえたからです。私も裏山から見て知っていました。殊に、冬の雪に閉ざされた山々の表情は、なんだか恐ろしい感じがしたのです。でも、これはビジターの印象にすぎません。日々見ていると、馴染みの展望ですから、おのずと趣は異なるはずです。
ある冬の寒い日、四番目の兄は一人、収穫を終えた芋畑で後片付けをしながら、火を焚いて暖を取ろうとしました。それが北風に煽られて、枯れ草に燃え移ったのです。それに気が付いた家族みんなが、上の桑畑から駈け降り、服を脱いで叩き消しました。それ以来、その兄は何事に対しても、とても慎重になりました。決定的な出来事だったのでしょう。
五番目の兄といえば、村の仲間たちと川で泳いだり、森の中で遊びまわっている様が真っ先に浮かびます。
物心がついた時にはもう嫁いでいましたが、姉は兄弟の中心で、みんなを支えました。
私にとって、いちばん大切な思い出は、母の畑仕事のそばで、ぼんやり過していた時だと思います。なんの憂いもない、ほんとうに幸せな時間でした。
いま、向かいの山をみると、家の数は子ども頃からすると、半分以下に減っています。それは私たちの集落も同じです。過疎が進み、限界集落を通り越して、消滅寸前という有様です。
村を離れた人々も、私と同じように、自分の故郷の暮らしを胸のなかに温めているはずです。でも、それは残念なことに、誰にも受け継がれないでしょう。
私は若い時、詩を書きはじめました。それから、ずっと言葉の表現に執着してきました。それは半面では体が弱かったからかもしれませんが、言葉は失われた過去やかけがえのない情景を再現できます。そして、他の人に伝える力があります。それに惹かれたのだと思います。
世の中は便利になり、物はあふれているようにみえます。しかし、昔に較べると、人の心は痩せているような気がします。言葉は、キーボードを叩けば出てくるものではありません。心のなかから、泉の水のように湧き出るものです。
(「ことばの力を信じて」『高知新聞』二〇一七年一二月一八日)
3
『吉本隆明資料集』の最終号の内容は決まっている。
それは一九八〇年八月の高知市での講演「文学の原型について」、その翌日のわたしたちが主催した「囲む会」の記録だ。それに「触れられた死」など関連した論考を加えて、最後の一冊とするつもりである。
わたしたちは、当時これを記録集として発行することを計画した。吉本さんの了解を得て、手分けしてテープ起こしの作業をやった。わたしは「囲む会」の半分を担当したとおもう(それが前半だったか後半だったか、もう忘れてしまっている)。
それで、作業が終了し、原稿がわたしの手元に集まった。それから、どうするかを考えた。郵送して校閲して貰うことも思ったけれど、なんとなく失礼なような気がして、結局、その時の東京在住の参加メンバーに受け渡しのいっさいを託した。そのやりとりの過程で、なんらかの齟齬が発生し、記録集は立ち消えになってしまったのである。
この頓挫が、『資料集』発行の大きな〈動機〉のひとつだ。
「文学の原型について」という講演は、同年六月二一日の佐賀県での講演「「生きること」と「死ぬこと」」をひきついだものだ。死の考察がメインテーマで、人間の生死は物語の構造を根底で規定しているのではないかという基本線にそって、日本の物語の始まり、ハイデッガーとサルトルの死の哲学に触れ、近代文学のなかの死の位置について、堀辰雄を対象にした話だった。
この講演の基礎となっているのは、『心的現象論』の「了解の諸相」である。この考察の過程で、これらの講演は試みられたのだ。もちろん、「了解の諸相」のなかでも堀辰雄の作品に言及している。
そしてしまひには、私達がこのサナトリウムに初めて着いた雪のふる晩に病人が見たといふ夢、はじめはそれを聞くまいとしながら遂に打ち負けて病人からそれを聞き出してしまつたあの不吉な夢のことまで、いままでずつと忘れてゐたのに、ひよつくり思ひ浮べたりしてゐた。ーーその不思議な夢の中で、病人は死骸になつて、棺の中に臥てゐた。人々はその棺を担ひながら、何処だか知らない野原を横切つたり、森の中へはひつたりした。もう死んでゐる彼女はしかし、棺の中から、すつかり冬枯れた野面や、黒い樅の木などをありありと見たり、その上をさびしく吹いて過ぎる風の音を耳に聞いたりしてゐた、‥‥‥その夢から醒めてからも、彼女は自分の耳がとても冷たくて、樅のざわめきがまだそれを充たしてゐるのをまざまざと感じてゐた。
(堀辰雄『風立ちぬ』)
この引用のあと、吉本隆明は本質的に作品を深く読み込んでいる。
この病人の「夢」がなぜ「不吉」かといえばそのなかに病人自身の客体化された自己像が登場し、棺のなかからすべての情景を視ていながら、しかも人々はその棺を担っているといった〈死後〉あるいは〈これから後〉の「夢」の性格をもっているからである。この病人はやがて死ぬにちがいないとおもわせる〈原型〉がここに保存されている。正常な時間意識に沿っていえば、この病人に切実な死への予感があったために、〈死後〉にじぶんが棺のなかにおさまって担がれながら、しかも人々の動作や周囲の風景や風の音を聴く「夢」をみたにちがいない。そしてこの「夢」が〈既体験〉の心的な現象としての意味をもつのは、そのなかに客体化された自己像が登場するからである。そのことによってこの夢は、いわば離人体験の意味をもつものになっている。「死」んだ自己がすべての周囲の事象や情景を視ているという、情景や事象(の「夢」)をみているという〈既体験〉的な現象において、パラノイア的な自己と自己像とは一対のエロスという関係に入っている。そして自己像から囁やかれ、指令され、あるいは強要されているのは〈死〉(になさい)ということなのだ。〈死〉(になさい)と強要するものから監視され、つきまとわれることは、これをパラノイア性の妄想ということができるのだろうか? この問いは現に存在することへの問いと同義であるようにみえる。
パラノイア性の妄想の核にある時間体験の領域を生涯における〈現在〉という範囲をこえて拡張することによって、わたしたちが手にするものは何であろうか?
わたしたちは無意識のうちに原古の人間が体験したことが、かならず一度はある心的な体験から、いま客体化された自己像の出現の仕方のなかに蘇生するのをみているのではないのか。生涯における〈現在〉という時間性の了解の領域が、かかわりをもつ世界は、その内実がどんなことであっても、異常、病気の世界を、その外に画定せざるをえないものということができる。なぜかといえばわたしたちが累積してきた了解の様式はいわば歴史的な心性ともいうべき多様性をもっているにもかかわらず、この了解の時間性を生活における現在というところに限定すれば、それ以外の原古的な了解の蓄積は、異常や病気の領域に繰入れられるほかに場所をもたないからである。この意味ではパラノイア的な妄想形成の核は、生涯における現在という時間性のなかに繰込まれている〈幼時〉あるいは〈前世〉の了解性の様式であるか、あるいは〈これから後〉や〈死後〉の了解性の様式であるかいずれかに位置づけられよう。
けれどわたしたちは〈生誕〉や〈死〉がなぜあるのかということが謎であるのとおなじように、なぜ個々の人間が生涯における現在という時間性を超えた了解の様式をもって存在するようになるのかということは謎である。この謎の内部では、ほとんど意識の働きの様式は事実の世界とは接触することがないようにみえるし、意識によって志向された世界からは他者や第三の存在とみなされる諸概念は喪失してしまうのではないかとさえおもわれる。そして言葉は世界に触らぬように択ばれたまま、そのじつは膨大な闇をいつも残しておくようになっている。
(吉本隆明「心的現象論 了解の諸相(5)」)
これと並行して「臨死体験」の記録が蒐集され、雑誌『潮』に掲載された。それが吉本隆明の要望で実施されたものかどうかは審らかではないけれど、それを契機に「『死』体験の意味」というインタビュー形式の探求が試みられている。それが「触れられた死」という本格的な論考につながってゆくのだ。
〈死〉は、人間の類的本質と個の実存の〈矛盾〉である。
未開原始の時代には死は集落の共同幻想に覆われて、悲しみや哀悼をともなうものではなかったかもしれない。人間が死を悼むようになると、すなわち共同性と自己意識との分離が萌すと、墓を作り、死者を祀るようになったように思われる。
アジア的な農耕社会では土葬が当たり前で、わたしの母も土葬を望んでいた。都市部ではもう土葬は廃止されていたけれど、郡部では申請し、許可を得れば、まだ可能だった。しかし、村は過疎化し、集落の〈結い〉に基づいて、墓を掘る者すらいない状況では、それはできなかった。なぜ土葬かといえば、作物は春に種を播き、夏に盛りを迎え、秋には成熟し実り、冬に枯れてしまうけれども、季節のめぐりのように、また春には芽ぶくからだ。大地にかえるということは、深い慰めを含んでいる。
断わるまでもなく、これはわたしの実感的なおもいであって、それ以上ではない。
そして、いまや死は病院のなかに〈収監〉されてしまった。喪にしても、迅速なセレモニーにすぎないようになっている。完全に、産業経済にリードされているのだ。そういう意味ではサルトルの死の哲学的考察、つまり「死は、偶然的な事実」にすぎないということに、とてもマッチした状態に陥っているといえるだろう。このサルトルの「事実」への還元は〈死の位置〉を外している。わたしたちは現在的な習俗に従うしかないけれど、それが決して〈まっとう〉であるわけではないことを忘れるべきではない。
宇宙の微塵として消え去るか、それとも、肉親や祖先の〈幻〉に包み込まれるか、分からないけれども、死は個の生涯のうちに類的本質が全的に奪回されるとき、その〈位相〉を確定するにちがいない。
ところで、吉本隆明自身が切実に〈死の影〉にとらわれたのは、「エリアンの手記と詩」の時期だとおもう。たぶん、本人はここを潜り抜けられたことを奇蹟のようにおもったろう。それにくらべれば、戦争期や敗戦時の死の切迫は、外在的な危機が個の生存を取り巻き、深刻な情況に追い込んだということだ。
ひとは、資質的にも境涯的にも〈死の淵〉に佇む。けれど、それを脱する救いの蜘蛛の糸は、やはり乳胎児期に得られたものではないだろうか。
学校での「いじめ」で自殺した子どもの親が、学校や教師の対応に原因があったがごとく言うけれど、そんなのは自己欺瞞でしかない。わが子を〈救抜〉できなかっただけなのだ。「いじめ」は外在的な要因にすぎない。自ら〈死〉を選ぶということは、基本的には両親のエロス的な倒錯の投影なのだ。だから、わが子の死後、愚劣な公教育制度の下にある学校や教師の対応の責任を追及したって、不毛であり、錯誤の第二幕目を演じることにしかならない。第一、そんなことをやったって、その子は生き返るわけではない。
わたしは凡庸にして、鋭敏に〈死の誘惑〉にとらわれたことはないような気がする。若い時は、いつ、くたばってもいいと意気がっていたけれど、そんなものは主観的な思い込みでしかなかった。わたしたちは、この世の〈縁〉がつきるまで生き通すべきなのだ。