9 『最後の親鸞』について (二〇一六年五月)
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『最後の親鸞』について書いておきたいとおもった。というのも、糸井重里が次のように語っていたからだ。
二十代の中頃だと思うのですが、田舎に帰ったんです。若いうちに田舎に帰るというのはロクなことじゃないです。便りのないのはいい返事と言いますが、実は田舎のことを忘れている時が一番元気ということなんです。ところが何かロクでもないことがあったり、やり直したい休み時間みたいなものを作りたい時に無条件でいられる場所が田舎だったと思うんです。いま思えば、何か理由をつけて、帰りたくもない田舎に帰っていた。そこで、しょうもない夏を過ごしていたんでしょう。ヒマですから、大きな書店に行ってぶらぶらしていたら、吉本さんの『最後の親鸞』という本を見つけてしまったんです。吉本さんの本は分からないなりにも学生のベストセラーになりますから、一応は知ったかぶりするために読んでいましたが、『最後の親鸞』というジャンルの本はいわゆる評判になったものではありませんでした。政治でも経済でも社会でもないところにある本なので、こんな本も出しているのかと僕は思ったんです。
それですぐに手に取りました。僕は本の立ち読みはあまりしないんです。買うかどうかをすぐに決めるのですが、心に弱みのあるときは全部がのろいんですね。田舎にいたせいか、その本屋で読み始めたんです。そうしたら、ものすごく面白い。びっくりしました。そのときは吉本さん再発見という気持ちと、その人が親鸞という人からこんなに引き出しているのかという両方に興味があって、お金は乏しかったのですが、購入して本格的に読み始めました。いま思うと、その時なりの理解ですが、それまで読んだ吉本さんの本の中で一番びっくりしました。心にしみこむように、分からないなりに、そのすごく体に落ちてきたみたいなところがありました。
(吉本隆明・糸井重里対談「僕たちの親鸞体験」糸井発言)
糸井重里が落ち込んで、田舎(群馬県だとおもう)に帰っていたというのも、なかなかおもむきのある話だ。彼は法政大学時代に学生運動に関わっていて、佐世保のエンタープライズ入港阻止闘争に仲間とともに出立する姿を写真週刊誌で見たことがある。たぶん、その後の身の振り方は、彼においても難しいものがあっただろう。じぶんのことを考えて、そうおもうのだ。
ただ『最後の親鸞』との出会いは、それぞれ個別的である。中沢新一も糸井重里とほぼ同じようなことを言っている(吉本隆明・中沢新一対談「『最後の親鸞』からはじまりの宗教へ」)けれど、当時、単行本の『最後の親鸞』の持った情況的なポジションとは少しずれているとおもう。
わたしは、高知大学を卒業後もいろんな形で活動を継続していた鎌倉諄誠に師事し、彼の主宰する『同行衆』(一九七二年創刊)という同人雑誌に加えてもらった。雑誌形態で一二号まで発行し、一九八〇年から『同行衆通信』という通信誌に転換した。ワラ判紙に印刷し、ホチキスで止めただけの粗末な発行物だったけれど、それを季刊ペースで五五号まで出した。
鎌倉諄誠は一九六九年の新宿騒乱で内臓破裂という重傷を負い、その後は自宅でお好み焼屋や学習塾などをやって生計を立てていた。子供が四人おり、生活は苦しい状態が続けていた。わたしは建築現場で働いていて、日当はそんなに悪くなかった。そういうこともあって、本や雑誌は殆どわたしが購入し、鎌倉諄誠に渡していた。
『最後の親鸞』が刊行されたのは、一九七六年である。わたしは二冊購入し、いつものように持っていった。しかし、彼はじぶんで買って既に読んでいた。吉本隆明と親鸞という組み合わせに強い関心を寄せていたのだ。同じ『同行衆通信』の執筆メンバーであった浜松の若月克昌や、わたしの地元の友人たちもほぼ発売と同時に入手している。たぶん、人文書の販売力のある書店ではベストセラーにランキングされていたはずである。
担当編集者の小関直によれば(小関直は文章を発表することはないから、なにかの用件で電話した時に伺ったのだ)、《発売日に納入されて会社の応接室(だったとおもう)にうずたかく積まれた『最後の親鸞』が、潮が引くように都内の書店からの注文で減っていった。こんな体験は後にも先にも無い》とのことだった。
『最後の親鸞』において、小関直の果たした役割は極めて大きいのではないだろうか。いずれは、本格的な親鸞論が執筆されることは必至だったとしても。吉本隆明は、学生時代に「歎異鈔に就いて」というエッセイなどを書いていて、早い時期から親鸞に対する関心を持っていたことは判っている。けれど『源実朝』の中では、親鸞の「聖徳和讃」や夢告について批判的な見解を述べていた。
『春秋』一九七一年一二月号から「聞書・親鸞」という小関直及び山折哲雄によるインタビューの連載が始まっている。これは決定的な契機をなしたといえるだろう。その過程で、連合赤軍事件、殊に同志のリンチ殺害を深刻に受けとめ、連載中の「書物の解体学」の「ロートレアモン」で、『歎異抄』と『新約聖書』を取り上げて、人間の根底にある〈倫理〉を問うことにもなったのである。
またあるとき「唯円房はわたしのいうことばを信ずるか」といわれたので、「その通りです」と応えられると、「それならばわたしのいうことには背かないか」とふたたび念をおされたので、つつしんで了承のむね申しのべられると、「それならば人千人を殺してみなさい。できたら極楽往生はうたがいない」と申されたので、「おおせではありますが、わたしの身にそなわった器量では、一人も人間を殺せそうもありません」と応えられると「ではどうして親鸞のいうことにそむかないなどと云ったのだ」、つづいて「これでもわかるだろう。なにごとも心に必然があることならば、往生のために千人殺せといわれれば、殺すことができよう。しかしながら、一人でさえも殺すべき必然的な関わりがないなら、殺すことはできないのだ。これはじぶんの心が善だから殺さないのではない。また、かえって、殺人などしないと意志していても百人千人を殺すこともありうるだろう」と申されたのは、‥‥‥(「歎異抄」より)
ペテロは応えていった「たとえ皆があなたにおもわざる背信をすることがあっても、わたしはあなたに背信することはありません」。イエスはいった「あらためておまえたちにいうが、今宵、にわとりが暁のときを告げて鳴くまえに、おまえたちは、わたしを三度拒否するだろう」。ペテロはいった「わたしはあなたと一緒に死ぬべきことに出あっても、あなたを拒否することはありません」。他の弟子たちも皆そういった。(中略)ペテロは外で中庭にすわっていると、一人の使い女がきていった「おまえも、あの十字架にしばられているガリラヤ人イエスと一緒にいた人だ」。ペテロは群衆の皆のまえで打消していった「わたしはおまえがなにをいっているのか、さっぱりわからない」。そしてペテロが門まで出てゆこうとすると他の使い女がかれをみて、そこにいた群衆にむかって「この人はナザレ人イエスと一緒にいた人だ」といったところ、ペテロはまたも打消し、契って「わたしはその人をしらない」といった。しばらくして、そこに立っていたものたちが近づいてきてペテロにいった「おまえもたしかに、あのイエスの仲間だ、おまえのくに訛がその証拠だ」。ここでペテロは誓いをたてて「わたしは、その人を知らないのだ」と云いはじめたとき、にわとりが鳴いた。ペテロは「にわとりが、暁のときを告げて鳴くまでに、おまえたちはわたしを三度拒否するだろう」といったイエスの言葉を思い出して、外へ出て身もだえして泣いた。(「マタイ伝」より)
このふたつの引用を受けて、吉本隆明は次のように述べている。
このふたつは、わたしの知見の及ぶかぎりでは、人間の〈倫理〉を極限まで追いつめて、その崩壊のすがたを露出させているという意味で、人類史がうみだしたもっとも優れた言葉に属している。読んでいつもはっと内省させられるが、それほど不愉快な感じはのこらない。もっとこまかくいえば、わたしは「歎異抄」の考え方のほうが好きで、「マタイ伝」の考え方には、ある脅迫が感じられて好きではない。このふたつは、どこが異っているのだろうか? 「歎異抄」は、人間の〈倫理〉は強いられた必然が加担するときに、はじめて本来的なすがたを露呈するもので、個人の〈倫理〉も共同的な規範からでてくる〈倫理〉も、じつは主観と利害に裏うちされたものにすぎないことを指摘しているようにみえる。「マタイ伝」は、これにたいして、人間が人間であることの限界の内側でだけ〈倫理〉は成立するものであり、この限界を超えた情況では、人間はどうすることもできない倫理的な破産に出遇うほかないことを指摘している。そこではじめて宗教的な〈救済〉の問題が登場することを、それぞれの教義に水を引くように暗示している点では、ふたつとも共通しているといってよい。
しかしながら、〈倫理〉が破壊されそうになるまで追いつめられたとき、人間は宗教的な〈救済〉やイデオロギー的な〈救済〉におもむくより仕方がないものだろうか。
これにたいして昂然たる反旗をひるがえしたのは、ニーチェやマルクスである。ニーチェは、こういうように宗教の形で追いつめられてゆく人間の〈倫理〉の、矮小な、観念を呪縛し、息苦しくさせるような極限化の世界を、ささいな背徳に眼くじらをたててほじくりかえす侏儒(こびと)どもの世界だ、と罵倒した。ニーチェの背後には、健康な正常な人類の幼時期であるギリシャの面影がひかえていた。マルクスの考え方では、この種の〈倫理〉的な極限化が、一見、正当であるかのように提起されるのは、人間のそとに、客観的に根拠や原因をもとめられるような欠陥を、個々の人間にぜんぶ背負わせようとする途方もないキリスト教の教義が、この種の〈倫理〉の極限化を促す理由であり、根拠にもなっている。いいかえれば、人間の〈倫理〉をこういう形で極限化することのなかに、すでに錯誤がふくまれており、この錯誤はキリスト教に、一般的に宗教に固有なものであることに気づいた、といってよい。もし、ニーチェのようにであっても、マルクスのようにであっても、徹底的に異をたててゆけば、キリスト教的な〈倫理〉は、すくなくとも理論的にはけしとんでしまうことは疑いない。しかし、それとはかかわりなく、ある種の人間が、キリスト教のように、一般的には宗教的に〈倫理〉を追いつめることをやめないことも確かである。もちろんこのことは、マルクスによっても充分にわきまえられていた。だから人間が政治的に解放されさえすれば、宗教からも解放されるはずだから、政治的な解放の課題に眼を閉じて、宗教的にだけ解放されたいと願うのは虫のいい話だ、というラヂカリストたちの考え方を、マルクスは一見ラヂカリストを装った頓馬な見解にすぎないと批判したのである。
(吉本隆明「ロートレアモン〈倫理〉」)
わたしにとっても、連合赤軍事件は痛切だった。言うまでもなく連合赤軍の同志殺害の〈拡散〉が、新左翼党派間の殺し合いの内ゲバである。それはわが身に迫るほど切実で、これをどう考えるかが、じぶんにとってこれからの人生を決定づけるような気がしたのだ。この左翼組織の限界を破るにはどうしたらいいのか。組織が強固で、志が高く、信念が強いほど、一般的な社会の地平へ着地するのは困難なのかもしれないが、わたしは指導的な立場になく、いわば雑兵に過ぎなかったから、難しく考えなかった。難しく考えると逆に迷路にはまってしまう。わたしは中学を卒業してからずっと働いてきて、どこも長続きせず、何度も転職を繰り返していた。その体験がものをいうような気がしたのである。要するに、就職するときは門戸は狭く、適性を判断することは難しい、それでも選択することができる。離職するときは実際的な負債やみじめさも付随するけれど、それでも辞めるのは自由だ。そんな世間の常識に従って、来る者は拒まず去る者は追わずであれば、こんな悲惨な陥穽は脱却できるのではないかと考えたのである。
もちろん「聞書・親鸞」も、しだいに深みにはまっていった。そして、とうとう第一一回目からは執筆されることになったのである。その最初の書き下しが「最後の親鸞」なのだ。
余談になるかもしれないが、吉本隆明は馬場礼子のロールシャッハ・テストの被験者となり、その結果を受けての「対話」に際して自ら、馬場礼子にこの初出の「最後の親鸞」を提供している。これは異例のことのように思える。吉本隆明は対談に際して、相手の著書を事前によく読み、準備を整えて臨むのが常だったと言われている。しかし、相手に対してはどういうふうに出てこようが殆ど無頓着で、じぶんの作品を差し出すようなことはしなかったはずだ。これは、このテストに対する真摯さを示すとともに、愛着の現れであるといえるだろう。
吉本隆明は、小林秀雄の古典批評に〈出来栄え〉として及ばないとしばしば述懐しているけれど、『最後の親鸞』は別である。明らかに小林秀雄の批評を〈作品〉として凌駕したという自負があったからこそ、本の造りにもこだわったのだとおもう。みずからが装幀した『言語にとって美とはなにか』と同じように。
わたしにとって『最後の親鸞』は、新左翼体験の〈終焉〉と、そこからの〈転位〉と不可分であった。おそらく、著者においても。
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『最後の親鸞』に関連して、この機会に『吉本隆明全集』の「月報7」の芹沢俊介の一文にも触れておく。
私の疑問は、吉本隆明はなぜ、この十八願を親鸞思想の核心と把握しておきながら、「唯除五逆誹謗正法」(唯五逆と正法を誹謗せんをば除く)という箇所について言及しなかったのか、そればかりか十八願の引用に際して、なぜ唯除以下の但し書きを削除してしまったのか、というものであった。
(芹沢俊介「永久に消えない疑問」)
この一文は、よく練られた〈隙〉のないものだ。しかし、トリビアリズムの極致なのだ。こんな「疑問」は『決定版 親鸞』(春秋社)をまともに読めば、すぐ氷解するものだ。吉本隆明の親鸞論は、本願他力から自然法爾へいたる全構造にわたって展開されている。
芹沢俊介の意図は、「吉本さんとの縁」や「造悪論のこと」などの続きとして置けば、見え見えである。なにが「永久に消えない疑問」だ。もし、芹沢がほんとうにそのことを「疑問」に思っていたのなら、それを直接問う機会はいくらでもあったはずだ。
吉本隆明が「存在倫理」という概念を初めて提出したのは、加藤典洋との対談「存在倫理について」(『群像』二〇〇二年一月号)である。芹沢俊介はその翌年、『吉本隆明全詩集』の刊行を機に組まれた『現代詩手帖』の特集で、二度、聞き手を務めている。これは主題が異なるけれども、そこでも「順次生」は話題にのぼっている。そこでも問うことはできたのである。また『幼年論』(二〇〇五年)という本も二人で作っている。さらにいえば、『還りのことば 吉本隆明と親鸞という主題』(二〇〇六年)という本で、僧侶の菅瀬融爾・今津芳文とともに、親鸞について吉本隆明と直に話し合っているのだ。ほんとうに疑問とおもっていたなら、ここで〈質問〉されてしかるべきである。
わたしは〈客観的な事実〉を示すだけで、もうこれ以上なにも言う気がしない。ここには自己欺瞞があるだけだからだ。わたしはどんなことがあっても、こんなにはなりたくない。だって、読んでもぜんぜん楽しくないし、思想のひろがりも感じられないからだ。
こちらまでつられて、つまらないことになってきた。気分直しに別のことを挿入する。
吉本隆明は『共同幻想論』の「全著作集のための序」で、アジア的専制をめぐるウィットフォーゲルの水利および水力社会の論議に言及している。吉本隆明は日本列島においては大規模な灌漑工事は必要なく、せいぜい川を堰き止めて流れを変えることや、溜め池を掘って農耕に供するぐらいのことしかなされていないことを、古典的な記述を根拠に述べている。そこに王権による直接な支配力の強大な発現をみることはできないとしたうえで、むしろ日本の場合は、共同観念として〈アジア的専制〉は存在すると結んでいる。この洞察は、現在でもじゅうぶん本質的だ。
日本におけるアジア的な専制はどのように現実的に受け継がれてきたといえば、ひとつには、河川工事をはじめとする土木工事に対する税制的優遇として存続してきたのである。これは近代以前の〈普請〉における人心の動員と、形態は違っても連綿と繋がっているものだ。
もうひとついえば、『心的現象論』や『母型論』で吉本隆明は、胎乳児期の〈母と子の物語〉は子に対して決定的な影響力をもっていることを指摘し、その根底の構造を解明した。
そのうえでいえば、英国の王室に女の子が誕生した。その報道をみていると、驚いたことに、母親は出産後間もなく退院し、生まれた子もマスコミにお披露目された。日本ではこうはいかないはずである。産後の肥立ちから違うのだ。これはたぶん体格の差によるものだ。女性の骨盤の大きさから異なっているとしか思えなかった。馬の子のように生まれてすぐ歩くところまでは無理だとしても。もちろん自我の確立みたいな文化的な〈差異〉もあるだろうが、それ以上に身体的な歴史の〈厚み〉があるような気がしたのである。
これらも親鸞論と無縁ではないかもしれない。
わたしは「親鸞について」(一九七三年)から始まり「日本浄土系の思想と意味」(二〇〇七年)にいたる、吉本隆明の十七くらいある親鸞に関する講演が『全親鸞講演集』として、ひとつにまとめられるといいなあ、とおもっている。しかし、親鸞仏教センターの主催した「日本浄土系の思想と意味」は、講演後そのパンフレットを発行すると公言していたにも拘わらず、講演内容が自派の批判に及んでいるからという理由で、いまでは「門外不出」などと言っているとのことだ。ふざけるな。貴様らの教祖は《詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり》と説いた人物だ。その徹底した開明性こそが宗派を超えた生命力である。こんな閉鎖的な態度は、師に対する裏切り以外のなにものでもないのだ。
それに講演の〈著作権〉は講演者にあるから、ほんとうは講演記録の提出を拒む〈権利〉はないはずである。
まあ、怒ってばかりいても仕方がないのかも知れない。わが家も、たしか浄土真宗だったはずだ。ところが、故郷は衰退し、いまでは六五歳以上の住民が八割くらいを占める「限界集落」となり、仏式ならどこでもいいというような有様なのだから。
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意外に思われるかもしれないが、わたしと『脈』の関係は古い。『脈』の創刊が『同行衆』と同じ一九七二年ということもあるけれど、わたしは一度、比嘉加津夫さんたちから時評の連載を依頼されたことがある。それは断った。理由は単純で、じぶんたちの雑誌に力を注ぎたいからだった。
それでも、何回か寄稿している。第二七号に「白いワニにかこまれて」というマンガ論を、第三二号に「伊藤比呂美ーそのスケッチ」。また比嘉さんたちは『症候詩』という詩誌も出していて、そこにも詩を発表している。しかし、申し訳ないことに出来にはあまり自信がなく、著書にも収録していない。
だから、この連載で、なんとかそれを挽回したいと思っている。どう転んでも、小浜逸郎みたいに自分が寄稿したこともある雑誌を「マイナー」などと見下し、自分に唾するような〈貧相〉な振る舞いはしないだろう。
入院中、何がおそろしかったかというと、三日に一回の点滴と、毎朝の採血であった。(中略)どの看護師も「脈がにげていくのよね」などと言いながらその逃げていく血脈を、突き刺したハリの先を追っていき、最後に「ごめんね、ごめんね」と言いながらもうしわけなさそうに腕の血をふくのである。失敗につぐ失敗の繰り返し。
(比嘉加津夫「明治の文豪を訪ねる」)
なによりも、明治の文人の作品とじぶんの現在の〈往還〉が自在だ。入院中のひどい体験を綴っているのだけれど、読む側は思わず微笑んでしまう。悲劇が喜劇に映るという〈逆説〉は、日常的にはありふれたことだ。しかし、それを描くことはなかなか難しいように思われる。そこに文体の円熟があるではないだろうか。
10 『アジア的ということ』をめぐって (二〇一六年八月)
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吉本隆明の生前、単行本として未刊だった「南島論」と「アジア的ということ」が刊行された。このふたつは、分離するのは不可能といえるほどに密接に繋がっている。それについて、述べておきたいとおもう。
言うまでもなく、このふたつの論考は、『共同幻想論』の深化と展開にあたっている。
そのひとつ「南島論」は、当初、谷川健一編『叢書わが沖縄』(全六巻別巻一・木耳社)の別巻に、「伝承の記録」と共に書き下ろしとして発表される予定だった。そして、第六巻で《吉本隆明氏の書き下ろしは、優に1冊をなす見通しとなったので、『叢書わが沖縄』の中の独立した1冊を形成することになった》と予告された(金田久璋「谷川健一にとって沖縄問題とは何か」に拠る)が、それは残念ながら実現しなかった。
それに代わるように、筑摩総合大学公開講座の講演(「南島論」一九七〇年九月)を始めとして、一連の講演として展開されることになったのである。「南島論」及び沖縄に関連する書誌事項は、既に列挙してあるので、ここでは省くことにする。それに加えるとすれば、「宇宙の島」(初出タイトル「島 宇宙の島(第一回)」「新劇」一九七八年八月号)がある。これは確かめていないので、わたしの推測だが、この論考は孤立したようにみえるけれど、ほんとうは〈宇宙〉という入射角から「南島論」の展開を目指したものと思われる。どうしてかというと、この「新劇」の「日本風景論」というシリーズは、他の執筆者の場合、連載のうえ一冊の著書にまとめられているからだ。吉本隆明も〈島〉というテーマで、宇宙という視点から、宇宙の島である地球を捉えようとしたのが、この初回だった、そこから日本列島という島へ下降し、さらに南島の古層性を解析しようと構想した(そのひとつが「色の重層」)と推察される。しかし、続稿は掲載されなかった。わたしは著者の〈モチーフ〉からして、「南島論」と「宇宙の島」という論考は決して無縁ではないとおもう。
一方、「アジア的ということ」は、その「南島論」の展開過程で大きく浮かびあがってきたものであり、実際には『試行』五四号(一九八〇年五月)から七回連載されて、中断している。吉本隆明は、『「反核」異論』(深夜叢書社一九八二年)の「あとがき」で、「この本と一緒にやがてでてくる『アジア的ということ』という本を読んで欲しい」と記している。また『情況へ』(宝島社一九九四年)は、産経新聞連載の「社会風景論」と『吉本隆明全著作集・続』第十巻収録後の「情況への発言」をセットにして編まれているけれど、「アジア的ということ」は除外されている。これはたぶん著者の〈意向〉によるものだ。それは予告通り「アジア的ということ」を、独立した単行本として〈構想〉していたことを意味していよう。
それでずっと未収録のままだったが、『吉本隆明全講演ライブ集』の発行を受けて出された『ドキュメント吉本隆明(1)』『DOCUMENT(1)』(共に弓立社)という雑誌に、関連する論考や講演とともに収録され、その後「情況への発言」を集成した『「情況への発言」全集成』ならびに『完本 情況への発言』(いずれも洋泉社)にも、『試行』連載の「アジア的ということ」本論はすべて収録された。
今回、刊行された『アジア的ということ』(筑摩書房)は、先の弓立社の雑誌に収録されたものに、「島・列島・環南太平洋への考察」というエッセイを一つ加えただけのものである。
序 「アジア的」ということ
I アジア的ということI〜VII
II 〈アジア的〉ということ(講演)、「アジア的」なもの、アジア的と西欧的(講演)、 プレ・アジア的ということ
III 遠野物語《別考》、おもろさうしとユーカラ、イザイホーの象徴について、島・列島・環南太平洋への考察
IV 贈与の新しい形(インタビュー)
付(山本哲士) 解題(宮下和夫)
(筑摩書房『アジア的ということ』目次)
わたしは、この本の編集にも、巻末に再録された山本哲士の「解説」にも、宮下和夫の「解題」にも、不満を持っている。編者が〈本気〉で取り組んでいれば、『アジア的ということ』は『全南島論』(作品社)を凌ぐ大著となったことは確実である。そもそも宮下和夫も山本哲士も、『試行』に掲載された「アジア的ということ」から、著者の考察が始まっていると錯覚している。これは吉本隆明の思想的営為に対する理解を著しく欠いたものだ。
吉本隆明の「アジア的」ということをめぐる考察は、「心的現象論」の「了解論」から本格化している。殊に「了解の水準(3)」からヘーゲルの意志論を正面に据えて検討を始めているのだ。そしてニーチェやエンゲルスやマルクスなどの批判を考慮に入れながら、了解の水準や様式を問題にし、サルトルやフッサールまでたどり、ヘーゲルの歴史概念の基礎に迫ったのである(『試行』四八号(一九七七年七月)から五三号(一九七九年一二月)。ほんとうに吉本隆明の「アジア的」という主題を問題にするなら、ここから始めるべきだとわたしはおもう。
「心的現象論」は、つねに吉本隆明の〈思索の中心〉にあったものである。なにかの用件で訪問した時でも、用向きやこちらが持ち出した話題はべつとして、問わず語りに話されるのは、「心的現象論」の考察過程で考えたことが多かったことからも、それは言えるとおもう。
この連載期間には、ミシェル・フーコーとの対談も挟まっているのだ。あの対話の中でも、「意志論」をめぐる問題は提起されている。当時二人の対談を読んだ誰かが吉本隆明は、フーコーに合わせて〈幻想〉という語彙を〈意志〉と言い換えたと言っていたけれど、それは見当外れなのだ。
それに並行するように、「季節について」(一九七八年一〇月)、「季節論」(一九七九年七月)、{『記』『紀』歌謡と『おもろ』歌謡」(一九七九年七月)というふうにつづき、「アジア的ということ」の連載に接続して行ったのである。
仮に「心的現象論」の「了解論」の論考を〈前段階〉とみなしたとしても、
世界史的な視野から〈アジア的〉な〈自然〉に言及したのはヘーゲルであった。ヘーゲルはまず〈アジア的〉な〈自然〉の概念を黒人アフリカの〈自然〉と区別してみせた。〈アジア〉では〈自然〉は人間の自然意志の否定のうえに成立っている。だから〈アジア的〉な〈自然〉の概念は絶対的な存在(あるいはその力)の概念と手易く一致してしまう。それ自体が人間の自然な意志の否定につながっていることをはっきりとさせた。「アフリカでは自然的条件は世界史に関してむしろ消極的であったが、アジアに於てはそれは積極的である。従ってまた優れた自然観察はアジア人に帰せられる。」(ヘーゲル『世界史の哲学』岡田隆平訳)
ヘーゲルの〈アジア的〉な〈自然〉の規定はそのあとの誰よりも優れているとおもえる。
ヘーゲルは〈アジア的〉な〈自然〉の特質を「高地」と「盆地」の両地域の全面的な対立にもとめる。黄河と揚子江の流域にできた中国「盆地」、ガンヂス河によってできたインド「盆地」は〈アジア的〉な原理のひとつを意味した。そこでは農業と諸産業が発達している。「高地」が「盆地」に向かう途中、平原と高地との境界の中部アジアことにペルシアは両方の性格を最大の自由さで対立させている。「光と闇、壮麗と純粋直観の抽象ーー我々が東洋主義と称するものーーはこの地を故郷としてゐる。」(ヘーゲル「前掲書」)これが第二の原理である。
ヘーゲルの第三の原理はこれに海への通路を加えたアラビアのような「前方アジア」である。そこでは砂漠、高原の平地、自由と狂信が渦巻き、海を通路としてヨーロッパにつながっている。シリアや小アジアもこの地域に類別される。基本的な対立における「高地」が象徴するものは遊牧である。
ヘーゲルの規定が正確だとすれば〈アジア的〉な文物と制度とは、〈自然〉規定の否定的な絶対化から自然意志の許容と肯定にいたるすべての段階からおおきな影響をうけているはずである。そしておおよそわたしたちが〈アジア的〉とかんがえている特質はそれを肯定しているようにおもわれる。
そういう云い方をしてよいとすれば、わが列島の〈アジア的〉な〈自然〉規定は中国と、中国を経たインドの農耕的な原理を高度な哲学や宗教的な思想となった後に海を通じて受容した。それは自然意志のままに生活していたひとびとの上に〈自然〉を唯一の絶対者にまで高めた哲学と宗教と制度を強引に接ぎ木することを意味したにちがいない。島々という原理は海に囲まれた閉域という意味と農耕〈アジア的〉な文化の受容という意味をもっている。わたしたちの列島が古代に入ったというそのことが、ヘーゲルのいう〈アジア的〉の三つの原理を小規模に庭園的に併存させることにほかならなかった。中国とインドの〈アジア的〉な〈自然〉規定を制度によって受け入れる以前にはこの島々はシリアや小アジアやアフリカの原理をもっていたかもしれなかった。そして古代の末期はひとまず中国とインドの〈アジア的〉な原理がいわば膚身についた時期にあたっていた。そして端境アジア的ともいうべき融合が自然観にあらわれた。
中国やインドから農耕〈アジア的〉な〈自然〉規定を受け入れたときに同時に制度的な〈自然〉規定をも受けとった。制度的な〈自然〉規定の〈アジア的〉な性格についてはヘーゲルを継承したマルクスが巧みに把握している。ひと口にいえばそのひとつは「国王が王国内のすべての土地の単独唯一の所有者であること」(一八五三年六月エンゲルス宛マルクス書簡)である。もうひとつのことをいえば「自然発生的な共有の形態」(『経済学批判』)をとった太古からの共同体の自足性をそれほど壊さずに「貢納」を吸いあげてその上に国王の共同体をうわ乗せしたということである。インドや中国のような大陸の大河川流域に成立した〈アジア的〉な原理を制度として移入し〈アジア的〉な自覚をもったのは、歴史の記載では大化改新以後であった。これは「公地公民」の制度と呼ばれた。それ以前は実質はともかくとして村落共同体を自治的に支配している小首長たちの下で自然意志的な制度しかなかった。いいかえれば〈アジア的〉でもなかった。ただ自然のまにまにすべてのアジア的な原理を小規模に庭園風の温和さと微温さとで島々の原理と融合してもっていた。こういうことを緻密に、既成の概念にまどわされずに丁寧にたどることはすべて今後のことに属している。
(吉本隆明『吉本隆明歳時記』「季節について」)
これが「アジア的ということ」の〈序〉に位置することは、誰が読んでも明瞭である。
もちろん、その後の関連する論考、講演、対談は、今回収録されたもの以外にもかなりある。
例えば『ハイ・イメージ論』の「地図論」の大和盆地をめぐる〈世界視線〉からの分析(これは『対話 日本の原像』所収の「註記」とも連なっている)、「連結論」の自然都市をめぐる考察、「形態論」の地勢と地名の結びつきや形態認識の探究、そして、「表音転移論」の方言の分布による言語論的な接近。これらは「アジア的ということ」の原理的中核と深く関わっており、当然、主要なものを〈網羅〉するという編集方針をとるかぎり、収録対象に入ってくるものだ。
講演でいえば、「南方的要素ー普遍概念としてのアジア」(一九七八年)や「良寛詩の思想」(一九七八年)などがあり、対談とインタビューでいえば、「歴史・国家・人間」(一九七八年)や「世界史のなかのアジア」(一九七九年)をはじめとして、いくつかのものがこの主題に関わっている。
そして、『母型論』(学習研究社一九九五年)の後半の「贈与論」や「起源論」などが、「アジア的ということ」と「南島論」の〈到達地平〉であり、そこから『アフリカ的段階について』へ発展していったのだ。
編者の宮下和夫は『吉本隆明〈未収録〉講演集』の「月報一二」で、「吉本さんが(ひいては僕が)、長い間追求してきた『アジア的ということ』」と書いているけれど、この本の編集は中途半端で、到底そういうものにはなっていない。また、「付」(解説)が〈再録〉というのも安易で、言ってよければ〈蛇足〉でしかない。山本哲士の要約など関係なく、それぞれの読者がじぶんで考えればいいことである。それが〈自立〉ということの中芯にあるものだ。これは明らかに編者の〈恣意的な編集行為〉であり、《著者の生前の構想に沿って編んだ》という言い分からも〈逸脱〉するものである。
わたしからすれば、山本哲士や『全南島論』の安藤礼二の「解説」のような知識主義的な概括よりも、原理的思考は〈現実〉を貫くということが重要である。普遍的な原理の解明は、ただちに現実(土俗)へ馳せくだることができ、そこで半端な通説や流布(伝承)されている迷妄を決定的に打ち砕くところに、その本領があるからだ。
それは客観的にも、個別的にもいえることである。ここでは主体的な方を選択する。わたしが最初に直面した社会的課題は、被差別部落をめぐる問題だった。当時、部落解放同盟と日本共産党は熾烈な対立の渦中にあり、わたしもそれに呑み込まれていった。その体験を反芻し超克することが、わたしにとっては切実であった。
吉本隆明は「アジア的ということ」の「V」と「VI」で、アジア的共同体の構造や奈良時代の階層の差異と制度的な階層構成を徹底的に分析している。それをみると、特に近畿から九州にいたる地域に、いまだに根強く因習が残存している歴史的な所以が明示されている。これは問題の所在を明確にするとともに、現在の人権擁護運動の〈錯誤〉や民族排外主義の〈愚劣さ〉まで含めて、強烈なリアリティをもって批判的に貫通しているのだ。
海路と「天離(あまさ)かる」(ほんとうは「海離(あまさ)かる」である)鄙を河川の筋にそって滞留したり移動したりするひとびとの習俗が、わが列島では、あたかも南中国の海辺の蛮民とおなじように南方系の海人(あまひと)の集団に発していただろうということである。それが海ジプシーになるものと陸ジプシーになるものとにわかれて、変幻自在であった。穢多非人という呼称は江戸期の圧制のもとにはじめてうまれ、特殊部落という呼称は、明治以後に流布された。
しかしながら、これらを種族として特殊視しようとすることには、どんな根拠もないし、差別する根拠もない。また、唐のいうように先住民族の亡霊をひきずっているということにも根拠はない。かれらは南方系の海辺の民であり、漁場とともに移動する習俗をもっていたので、河川の筋にとまったり、移動したりするものも、農耕民として定着したものも、あらわれた。それをカースト的な曲部の民として固定化し、閉鎖的な共同体をつくらせるようにしてしまったのは、初期王権の政策に端を発している。犯罪者の烙印をおされて河筋に追いこまれたもの、すすんでその群れに投じたものもあったが、もっとも強力にこれを制度化したのは徳川幕府であった。もしこれが賤民ならば、これと関係の深かった初期王権の支配者も賤民だといわなければ、辻つまがあわないのである。
(吉本隆明「恐怖と郷愁 唐十郎」)
吉本隆明は、なによりも〈闘う思想家〉なのだ。ここでは「差別」する側の無意識的な〈前提〉も、「被差別」の側の被虐的な〈心性〉も同時に、根底から否定されている。そして、「アジア的ということ」において問題はより厳密に掘り下げられていることは言うまでもない。
「アジア的ということ」の「I」では、レーニンらボルシェヴィキの批判にともなって、ソルジェニーツィンの『収容所群島』が取り上げられている。それを読むと、そこを流れる情操は、わたしが生まれ育った一九五〇年代から六〇年代にかけての四国の山間の村落の情操や習俗となまなましく繋がっている。〈アジア的〉という歴史概念がいかに普遍的なものであるかが、わが身に少し引き寄せただけでも了解できるのだ。そういう意味では、わたしもアジア的村落の出自であり、屈折があるとすれば「家」の事情によるものだ。もし、わたしに〈詩〉が内在するとすれば、それが源泉なのだ。
急な山の斜面のわが村の下を、谷間をぬうように流れるのは四国三郎・吉野川の支流、穴内川で、この一帯は中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた地滑り地帯である。その穴内川の源流を柳田国男は、鉄道も開かれていない時代に訪れている。柳田の民俗学は、確かな踏査によって裏打ちされているのだ。さらに、江戸時代末期、土佐藩の下級武士が、四国の秘境ともいうべき石鎚山系・本川郷寺川に赴任した際に書き遺した『寺川郷談』を「妖怪談義」で取り上げている。寺川には水田は無く、焼き畑農法であり、そこでの風習も〈プレ・アジア的〉なものである。
吉本隆明は、そんな柳田国男の仕事をじゅうぶん尊重しながら、原理として〈抽象化〉することで、その〈総体〉を包括しようとしている。それが方法的制覇ということだ。だから、三浦つとむみたいに、柳田国男は「高級官僚」だったから駄目などと決して言わなかった。そんな皮相な拒否からはなにも生まれはしないからだ。
世界史的な客観性からいえば、第一にレーニンの構想を本質的に対象化することによって、社会主義の原則的な理念を〈救抜〉したことだ。それはソビエト連邦の崩壊を〈予見〉したものでもあった。国家の揚棄、国軍の解体、生産手段の社会化など、その〈理念の骨格〉はこの歴史的激動によっても消滅しないことを論証したのである。それがたとえ本願成就の念仏のように映ったとしても、その理想の具体化は、政府に対する一般大衆の〈リコール権〉の獲得というような方向性にあるといっていい。それに照らせば、「社会主義国」と自称する中国や北朝鮮などは〈アジア的専制〉の変形であったとしても、〈社会主義〉とは似而非なるものであることは一目瞭然なのだ。
こんなふうに「アジア的ということ」は、思想として多岐にわたり、さまざまな可能性へ開かれたものである。
もし今回の刊本のように、主要なものを〈集成〉するという方法を採らないのならば、「禁制論」から「起源論」までというふうに、一定の〈抽象度〉で統一された『共同幻想論』などの原理的著作に倣って、「アジア的ということ」本論と「贈与論」のみに、わたしなら、しぼり込んだであろう。
また、一見些細でどうでもいいことにみえるけれど、宮下和夫は「解題」で「序」(「アジア的」ということ」)の初出を『ドキュメント吉本隆明@』(二〇〇二年二月二五日)としている。しかし、ほんとうは『吉本隆明全講演ライブ集』第一巻(二〇〇一年九月)のテキストに発表されたものである。つまり、雑誌の「特集〈アジア的〉ということ」のために書かれたものではない。じぶんが手がけながら、どうしてこんな辻褄合わせの〈偽り〉を記すのか。不可解である。
2
『吉本隆明全集』の第一二巻の「月報九」の中村稔の「吉本隆明さん随感」を読んで、意外におもったことがある。それは会ったのが「宮沢賢治の価値」(一九六三年)の中村稔・鶴見俊輔・吉本隆明の鼎談の時だけだったというところだ。「ただ一回であった」とは知らなかった。どうしてかというと、わたしは吉本さんから、中村稔についての話を聞いたことがあるからだ。ほぼ同業と言っていい特許関係の仕事をしていた時期があることにはじまり、中村稔から《論争というものは、相手の逃げ道をひとつ作っておくべきものだ》という示唆を受けたとも言われた。その当時、中村稔は弁護士で、これは法廷における弁論上の技術のひとつなんだろうな、とわたしは聞いた。そんな話からある時期に交流があったものと、わたしは思っていたのである。
きっと吉本さんは仕事にむきになって打ち込むタイプだったのではないだろうか。それは書かれた作品から、原稿用紙に向かっている姿を想像すれば、わかるような気がする。特許事務所の先輩から《君が黙って仕事をやって、さっさと帰っていくので、気味が悪かった》と言われたそうだ。それで《少し冗談を言うようになってから、安心した》とも。その日の仕事を上げて、よく公園に出かけ、ベンチで本を読んで、余りの勤務の時間を潰していたという話も聞いたことがある。吉本さんによれば、人生における〈苦楽〉は、〈苦〉が六割、〈楽〉が四割ということになる。わたしなどと違って勤勉実直の人だったのだ。もちろん、喜怒哀楽は相半ばというのがほんとうなのだろうけれど。
わたしはつげ忠男の「狼の伝説」のサブとリュウのセリフが好きである。
リュウ「こんな風にしかならなかったがよ」
サブ「ほかにどうあったというのか」
もうひとつ、あえて言えば、中村稔は自作「凧」を出して、「私には『戦後詩史論』はかなり独断的に思われた」と述べている。この指摘は当たっていないとおもう。なぜなら、〈詩史〉的な観点と、「詩人論」や詩の解読とは〈位相〉が異なるからである。個別の詩の読解はどんな深読みも許すものであり、詩人論は詩人の境涯からその作品に跨る表現のあり方までに及ぶのが普通である。しかし、〈詩史〉的な視点は、中村稔も言っているように、「巨視的で鳥瞰的な視点と柔軟な受容力を必要とする」ものだ。そこで詩人の個性も流派的な立場もいったん〈無化〉されるのである。その位相の違いが一見「独断的」にみえるのは致し方ないことのように、わたしには思える。
それは対象となった詩人の〈実感〉とも〈実際〉とも、背反するのは当然ではないだろうか。『戦後詩史論』の「修辞的な現在」で、荒川洋治の詩を西川満の詩と並べて、どこが類似し、なにが決定的に違うのかを論じている。けれど、荒川洋治本人は西川満という詩人もその詩も全く知らなかったと言っていた。そうであっても、その詩の〈本質〉と表現の歴史的位置を確定するところが優れた〈詩史論〉の持つ力のような気がする。
11 『全南島論』の射程 (二〇一六年一〇月)
1
先に『アジア的ということ』(筑摩書房)の編集の問題点を指摘するとともに、『アジア的ということ』の山本哲士と『全南島論』(作品社)の安藤礼二の「解説」のような知識主義的な概括よりも、原理的思考は〈現実〉を貫くということが重要である、とわたしは書いた。
そのつづきから始めたいとおもう。ここでは安藤礼二の「解説」を対象とする。はじめに断っておくと、わたしはべつに安藤礼二に対して、少しも悪意や敵意を持っていない。むしろ、その反対で、安藤礼二は一九六七年生まれで、わたしよりも一六歳年下である。そんな人物が吉本隆明の思想に真向うことはとても良いことだ。その将来性の芽を摘むつもりは全くない。従って、ここでの批判は「安藤叩き」ではなく、じぶんの吉本隆明理解を確かめるためのものであると思ってもらえればありがたい。
安藤礼二は、『全南島論』を概括する中で、次のように書いている。
『共同幻想論』は、人間の共同性の起源を問いながら、言語の起源、心の起源を同時に問い直すものでなければならなかった。もちろん、吉本にとっても、吉本以外の誰にとっても、そのような巨大な問題を容易に解決することなどできはしない。『共同幻想論』は三つの複雑に絡み合う問題を提起するだけに留まった。
(安藤礼二『全南島論』「解説」)
大筋でべつに特別おかしいわけではないけれど、わたしは「三つの複雑に絡み合う問題を提起するだけに留まった」の「提起するだけに留まった」という言い方に、はっきりこだわる。これは〈通時的な要約〉、吉本隆明の概念に言い換えれば、指示表出の側面を捉えたものにすぎないのであって、その当時の〈共時的な痛切さ〉、言い換えれば自己表出の根源性は完全に脱落している。
それをじぶんに引き寄せて語るよりも、むしろ他者の言説に拠るほうが、ここでは適切と考える。
国家廃絶をめざしたロシア革命から足かけ百年になる。「善」なる革命は個人の内面まで支配しようとして「悪」の代名詞に転化した。そのさなかに青春期を送った私どもは、革命と社会主義は絶対的な「善」であり、無条件で革命運動に帰依しなければ「悪」に荷担することになるという脅迫的な「倫理」を経験した。この「倫理」の処理に苦しんで何人かの友人が死に、廃疾者になった。ハードであれソフトであれ、一九六〇年代と同趣の古典左翼的「倫理」には二度と生き返ってもらいたくない。
半世紀前の私どもの問題は、結論的に言えば、論争(埴谷雄高・吉本論争ー引用者註)の一方の当事者、吉本隆明さんが『共同幻想論』で初めて明らかにしたように、革命や社会主義という共同の意識と個にかかわる意識は本来別次元であるのに、同じ平面上のものと無造作にみなし、無意識の序列をつくるところに生じていただろう。負としての「アジア的」倫理が「反体制」のなかでかえって強固になっていて、公の革命が優先事項であり、私の内面などは後回しでいいことだと、脅す方も脅される方も信じ込んでいたのだ。
(脇地炯「「倫理」のあとさき」『VAV』第二五号)
この決定的といえる『共同幻想論』の状況的な〈意味〉を見落としてはならないのだ。
安藤の読みの浅さとリアルな認識の欠如が、ひきつづく個所の〈誤読〉を呼び込むことになっている。安藤礼二曰く「自己幻想と共同幻想は逆立する、つまり、相互に相容れない。文学的想像力すなわち個体の幻想は、国家の統制すなわち共同の幻想とは逆立するはずだった。しかるになぜ、戦争中、」云々とつづくけれど、なんか志向性が逆転していて、堂々巡りの迷路に陥っているのだ。どこが致命的な〈誤読〉かといえば、「逆立する」ということを、ただちに「相互に相容れない」と短絡的に考えているところだ。これが、安藤礼二の「南島論」理解の全体的な〈狂い〉の元なのだ。
ここでもわたしの理解を述べると、話がややこしくなる惧れがあるから、吉本隆明自身の言説を提示したほうがいいだろう。
『共同幻想論』の論旨でいえば、いまの個人の精神性の問題と、僕が対幻想と呼んできた男女の性的な関係をもとにした家庭とか家とか、そういう血縁の問題と、政治とか社会という集団の問題、この三つは同一次元で考えることができない。
集団性だけを思想の中心にしている人たちから見ると、僕は家族性を最も重要視しているように見えるらしく、びっくりしたんですけれども、個人性は意味が少なくて集団性の意味が大きいという考え方はおかしくて、価値とすればみんな同等に扱われるのが正当だというのが僕の考えです。
(吉本隆明「文学の芸術性」『群像』二〇〇九年一月号)
安藤礼二が「しかるになぜ、戦争中、自己幻想は共同幻想のなかに容易に融解してしまったのか」などと言っているので、さらにいえば、戦争中の軍事体制下では「産めよ増やせ」が国策であり、「女の本分は、お国のために子供を産むことだ」という社会風潮が支配していたといえる。その影響もあってだろう、わたしは七人きょうだいの末っ子であり、父は五人の異父きょうだいの長男、母も五人きょうだいの長女である。村の他の家でも似たような家族構成だった。むろん、人間の〈自然性〉からして家族や親族が独自のポジションを有することは、いわば本能的にも、実際的にも、分かっていたことだ。『共同幻想論』はそれをフロイトの思想を基礎にして、明確に〈対幻想〉という領域(位相)として位置づけ、構造的に画定したのである。
そして、肝心要の「南島論」に関していえば、安藤礼二はこんなふうに書いている。
吉本は、次第に、国家の起源を探るという制度論的な探究だけで「南島論」を展開していくことに困難を覚えてきたはずだ。制度論的な探究だけでは、どうしても、『共同幻想論』の反復になってしまう。「国家」という在り方を乗り越えなければならないはずなのに、どうしても、その「起源」までしかたどり着くことができない。さらには、南島の姉妹と兄弟の間に結ばれる「対なる幻想」による即位とは異なった、兄と弟によって分担され、王の代理の少年が無残に殺戮されることで真の即位が成り立つ「諏訪地方のミシャグジ祭政体」ーーおそらくその起源は「北方」のシャマニズムにあり、縄文的な古層に直結しているーーおの発見などで、「南島論」の骨格が揺るがされた。
(安藤礼二『全南島論』「解説」)
どうして、こういうことになるのか。
ここでわたしたちは、まったくの後づけの〈整序〉と安易な〈連結〉、その混乱をみせつけられているのだ。思わず、こんなのは全然ダメだと断定したいのをグッと我慢する。なにから言えばいいのか。諏訪地方の祭政体や「北方」シャマニズムの問題など、すでに『共同幻想論』の執筆段階で視野に入っており、じゅうぶんに予備的な考察はなされていたことである。シャーマンについては、同論の中でも言及されている。そんなもので、吉本隆明の「南島論」の〈骨格〉が揺らぐはずがないのだ。吉本隆明の研鑽をみくびってはいけない。
吉本隆明の「南島論」が佇んだ地点はそんなところにはない。地元(沖縄・琉球)の識者たちがことごとくと言っていいほど、「日本」への同化を希求しており、さまざまな古代的な研究や民俗的な調査の結論をそこに帰着させていることにあった。つまり、根底における〈本土志向〉なのだ。また、それを拒む者はただ拗ねた素振りで、政治イデオロギー的に頑なになるだけだった。それが南方の楽園という要素の喪失ということだ。累代の〈アジア的な負性〉に屈服し、それを越えてゆく志向性は皆無に等しい。吉本隆明は、その〈敗北〉の根強さに憤怒の思いを抱いて、苛立たざるを得なかったのである。それが「行くも地獄、帰るも地獄」という冷徹な認識となり、「地獄で地獄を洗え」という苛酷な発言となったのである。それは巨きな愛情と自己憎悪なくして出てこないものだ。それを〈突破〉する以外に「南島論」の〈価値〉はないと考えたのである。
これをわたしの主観というのなら、吉本隆明の発言を忠実に再現するしかないだろう。
南島の問題も今度の天皇制の問題も、それから北方のアイヌの問題もそうだけど、アジア的段階といいますか、アジア的ということの中でこれを考えようとしたら、もう敗れるよりほかない。これは刻々となくなって西欧的段階にいっちゃって、どう頑張っても、アジア的ということに何かの根拠を求めようとしたら全然成り立たん。都市論のほうから、どうしてもそうなるわけです。結局、それじゃ駄目なんだというふうになる。それじゃ何かといったら、それはアフリカ的段階なんです。アフリカ的段階ということは、すでにもう現在では沖縄でも、それからこちらでも初めっからイメージ論なんですよ。アフリカ的ということはイメージとしてしか掘り出すことができないということは自明のことなんだけれども、それなりにイメージとしてすっきりと定着するし、根拠たり得るというふうに僕は思うわけです。
(吉本隆明・中上健次・三上治『解体される場所』吉本発言)
結局、ここでも問題なのはヘーゲルの『歴史哲学』における〈アジア的〉という歴史概念の〈普遍性〉とその〈限界〉である。それが「南島論」の困難な障壁となっていたことは確実である。
また、安藤礼二は「南島に残る〈野生の思考〉を論じた『色の重層』」などと言っている。こんな格好つけただけの安直な扱い方は不毛で、何も言っていないことと同じである。
もともと吉本隆明は〈色〉の専門家で、その長年の蓄積を基に、常見純一と仲松弥秀・谷川健一の民俗学の採集と結論づけに対して、その方法的欠陥を指摘するとともに、時代区分を明確にし、可能性の方向を探っているのだ。それがレヴィ=ストロースの構造人類学の問題意識と重なるのは当然であり、『共同幻想論』や「南島論」は思想の〈世界性〉ということでいえば、エンゲルスの『家族・私有財産及び国家の起源』の対象化にはじまり、レヴィ=ストロースの親族理論の止揚をも意図していることは自明である。
こういうふうに安藤礼二の「解説」に引っ掛かり出したら、ほとんどの個所で異論を覚えることになる。それを回避して、アジテーション口調の脱けきらないじぶんのことを棚上げしていえば、安藤礼二の〈文体〉には膨らみがなく、その論旨の運びは短絡的なのだ。
それは新聞記者上がりの作家や評論家の〈文体〉が、ひとつは司馬遼太郎のように通俗性に流れ、また川本三郎のように通りはいいのだけれど、個性的な魅力に乏しいように現象する。要するに、馴(均)らされているのだ。多くの新聞関係者が司馬遼太郎を過大に評価するのはそのためである。だが、文学としては大きな〈弱点〉だ。
わたしは、安藤礼二がその点でも健闘することを期待する。つまり、思考は未知の手探りのようなもので、踏み出す論理の一歩は不安な冒険であるというふうになればいいのだ。
2
わたしが『高知新聞』に書いた、安保法は憲法違反であると安倍内閣を批判した文章について、地元での反応はどんなものでしょう、という問いが複数あった。
それにこの場を借りて、触れておきたい。高知新聞社には、わが師鎌倉諄誠と同じ高知県の仁淀川上流、愛媛県との県境に近い村の出身の新聞記者がいて、その人から年一回くらい原稿依頼がある。わたしと同年齢で、とても理解があり、自由に書かせてくれるのだ。
しかし、直接的な反応はまったくない。
いままでいちばん反響があったのは、今住んでいる近辺のことを書いた時だ。終戦直後からあった「闇市」が壊されて無くなったことや、表通りの店舗が軒並みシャッターを降してしまったことなどについての感想を書いた。記事と一緒に顔写真も掲載されることもあって、町内で噂になり、近所の酒屋の若旦那はわざわざ様子伺いに来た。また臨時で行っている職場でも話題になったらしい。事務の女性に「原稿料はいくら貰えるんですか?」と聞かれたから。
もうひとつ言えば、『高知新聞』は地方紙としてはシェア率が高い。地元では『高知新聞』がダントツで、『朝日』『讀賣』という順になっている。それは『京都新聞』につぐものであると聞いたことがある。そうは言っても高知県の総人口は八〇万人足らずだから、新聞として発行部数はそんなに多い方ではないだろう。
そんなことはさておき、安倍首相とともに安保法制を改悪した張本人の一人である中谷防衛相は高知県選出である。地元の有力ゼネコンの三男坊で、長男はゼネコンを継ぎ、二男は病院経営、本人は防衛大学を出て国会議員になったのだ。その防衛関係のコネをつかって富士山の砂防工事など受注して、親の会社の利権を守っていたが、一時倒産した。けれど、選挙地盤は強固な利害関係でガチガチに固めていて(建設工事の下請けや孫請けの業者を後援会に加入させることもそのひとつだ)、毎回、当選なのだ。これを崩すことは難しいだろう。
また、地元のメディアに対しても、つねに圧力をかけているようだ。共同通信社加盟の高知新聞は、沖縄の地元二紙を潰せという暴言に対して、批判キャンペーンを張り、米軍基地の辺野古移転についても批判的な記事を掲載した。それに対して、中谷大臣はすぐに紙面に登場して、基地の必要性を主張していた。それ自体は別にいいのだけれど、なにかあるとチェックしていることは、そのことでもわかる。政府の重要なポストにある者がそんなことにまで目配りしている露骨な姿勢が、状況の悪化を象徴しているのだ。
もっとも典型的だったのは、高知は路面電車が走っているのだけれど、経営が苦しく、「広告電車」を走らせている。最近のことでいえば、高知県出身の漫画家の西原理恵子がネットで寄付を募り、広告費用を集め、彼女の漫画のキャラクターを描いた電車が走ることになった。そんな調子だから、大抵のものはパスする。
地元の「9条の会」などのメンバーが出資して、「憲法第9条を守ろう」とアピールした電車も運行されていた。ところが、昨年突然クレームがつき、「これは意見が分かれていることなので、電車の広告としてふさわしくない」という理由で、長年続いていた「9条電車」は不許可になってしまった。ふざけるな。「第9条」は現行憲法なのだ。まだ改訂も廃止もされていない。それに横槍を入れるのは度し難い横暴である。
むろん、わたしは路面電車で宣伝することに意義があるとも、有効性があるとも思っていない。だいいち、そんな浮動的なやり方で、強固な地域ナショナリズムの実利性に対抗することなど全くできないことは自明だからだ。
こういう権力的な圧力はだんだん増しており、それは高市総務相の「停波」もありうるという報道機関への高圧的な恫喝などと連動していることは確実である。この国家権力の〈内攻〉は、わたしたちの日常の〈統制〉を目論むものであり、それは海外派兵と同様に、大衆の〈命運〉にかかわるものだ。
参議院の高知県と徳島県の合区問題に際しても、両方の自民党県本部の意見を求めはしたけれど、それは形式的なもので、実際には政府の決定事項として上意下達したにすぎない。言うまでもなく、一般の地域住民の意思などはじめから無視、それぞれの地域事情を汲むつもりは全くなかったのである。こうした国権の強化はもとより、投票率が低下する一方の中の「一票の格差」などという綺麗事よりも、民意や地域性を〈優先〉することが遥かに重要なのだ。
12 『成吉思汗ニュース』の松岡俊吉 (二〇一七年二月)
1
吉本隆明の晩年に執筆したもので、もっとも深く感銘したものを挙げると、『小説現代』に発表されたふたつだ。「心身健康な時期の太宰治」(二〇〇六年一一月号)と「一九四五年八月十五日のこと」(二〇〇八年九月号)である。
「一九四五年八月十五日のこと」は、吉本隆明の戦争責任論(それは『高村光太郎』を頂点とするだろう)や『共同幻想論』を核として展開された、『全南島論』や『アジア的ということ』、『アフリカ的段階について』にいたるまでのモチーフをシンプルに語っている。ここさえおさえていれば、吉本隆明の思想の根底的なモチーフの一方の〈極〉を間違うことなく理解できるとかんがえる。
八月十五日、港の外に出て所在もなく仰向けで青い空を見たり、手を振りまわしたりして浮いていると、通りかかった漁船が近よってきて声をかけてきた。わたしは手を振って溺れたのでないと合図をすると、港の内側に戻った。生涯でいちばん異様なショックを受けた日を探すとどうしてもこの日のことが心に残される。それにもかかわらず、その一日の輪廓ははっきりと掴みきれない。そういうことはありうるのだ。わたしは文学青年だったから、他人の心理状態や精神の動きはよく判るつもりでいた。この信じ込みもにぶいのだが、「何よりもおれは世界を洞察する方法をまったく知らない」と気づいて愕然としたのは一九四五年八月十五日以後のことであった。それから五、六年は、たぶんこの怠け者が少しまじめになって読み、考え、生活をしたかもしれない、でも大したことはない。
これはわたしのためだけの戒しめでいいのだが、おもな産業都市は爆撃で焼野原となり、食べ物は芋類と小魚と豆の煮物しかなく、戦犯という名の処刑者と戦死者と負傷者、原爆死傷者などを残して敗戦し、降伏した事実を、「耐エ難キヲ耐エ忍ビ難キヲ忍ビ以テ万世ノタメニ太平ヲ開カム」で済まし、どこにも敗戦とも降伏とも述べずに済ました儒教的倫理をほとんど自己憎悪した。わたしだけでもよい、この場所から脱出したいとせつに願った。わたしにはこれについて私恨はほとんどない。だがこれから脱却できなければアジア的な段階の地域住民の誰もが永続的に駄目な気がする。
(吉本隆明「一九四五年八月十五日のこと」)
吉本隆明は、「国家と宗教のあいだ」という講演の中で、沖縄・琉球に対して「地獄は地獄で洗わなければだめだ」と言っている。では、それは具体的にどういうことを指すのか。
わたしのイメージでは、夏目漱石はひどい乳幼児期を送り、ほとんどパラノイアといっていいような精神形成を遂げている。その資質が典型的に現れたのはロンドン留学時代といえるだろう。周辺からは「神経衰弱」と囁かれ、その孤立と悪戦の中で、漱石はおのれの足場を確かなものにしていった。つまり、状況と闘い、自己とも戦うことで、創造的な〈自由〉を獲得していったのである。それが「地獄を地獄で洗う」ということなのだ。
現在の状況を不当と認識し〈苦痛〉とおもうなら、「地獄を地獄で洗う」ような格闘なくして沖縄・琉球が歴史的な呪縛から解放されることはないだろう。そうでなければ、そんなことは関係なく、それぞれが充実した日々を送ることが優先するといっていい。
「心身健康な時期の太宰治」は、太宰へのオマージュである。『富嶽百景』を取り上げ、その作品集のなかの「富嶽百景」と「満願」に愛情をもって解説している。そして、次のように結んでいる。
健康さが心身に充ち溢れていた時期の太宰治にはたぶん、裾野の町から見た富士山は生涯にはじめてで最後の素晴らしい風景の一つだったのだろう。私は自分のために泣かないが、太宰治のためには弱年のときと同じように泣く。
(吉本隆明「心身健康な時期の太宰治」)
吉本隆明は『悲劇の解読』のあとがきで、「批評のうちでいちばん愉楽を感じながらできるものは作家論だ。なぜならばわたしにとって作家論は、どうやってもよいとかんがえている唯一の開かれた領域だからだ」と書いている。だから、「できるだけ禁じてきた」とも。
吉本隆明の本格的な作家論は「芥川龍之介の死」から始まっている。わたしがもっとも尊重しているのは「柳田国男論」である。もちろん、それには『共同幻想論』の「禁制論」や「憑人論」、「巫覡論」などを含めてもいいのだ。
2
吉本さんは一度だけ、わたしに本を提示されたことがある。それはパウル・マイエット『農業保険論』だった。わたしはその書物の歴史的意義について、吉本さんの「柳田論」で分かっていた。けれど、手渡された本をどうしたらいいのか、一瞬、迷ったけれど、すぐにお返しした。
ほんとうはそのとき、お借りして読むべきだったのかもしれない。吉本さんはそれを望んでいるような気もしたからだ。でも、わたしにはできなかった。この際、じぶんが無知無学であることなど初めから言い訳にはならない。農家の出で、「農」の問題に関心を持っていても、それは漠然としたものだった。わたしは柳田国男すらまともに読んでいないという、思いに従ったのである。
わたしは末っ子で、家を継ぐ可能性はなかった。しかし、じぶんが仮に継ぐことになったとしても、到底、百姓仕事ができるとは思えなかった。山の田圃を耕し、稲を植え、米を作ることも、畑で麦やジャガイモ、さつま芋やとうもろこしを育て、大豆や小豆を作り、家の近辺の畑には茄子やキュウリや大根などの野菜を植えて世話をし、漬け物や味噌、蒟蒻まで造っていた。そのうえ、桑の葉を摘んで養蚕をやることなどできるはずがなかった。つまり、父や母、長兄がやってきたことをじぶんはできない。これがわたしの複合意識の根のひとつだ。
畑を耕すにしても、斜面だから、土を掻き上げるように上から鍬を打ち、雑草を取り除いてゆく。耕運機などというものは使えない。草刈りや堆肥造り、全部、手仕事だ。それを毎日のようにやってきたのである。アジア的生産様式というのは、なによりも〈身体意識〉なのだ。そこからこぼれ落ちたものは、出郷するほかない。だから、いまもこんなところをさ迷っているのだ。
3
あれは最後にお会いした時のことだっただろうか。村上一郎の通夜のことを話され、谷川雁が音頭を取って「村上一郎、万才」とみんなで三唱したという話のつづきだったとおもう。谷川雁の話になり、彼は弟に対して、頭ごなしの命令口調で対していた、見ていて気の毒だった、と言われた。
わたしは一度だけ、谷川雁の弟の、日本エディタースクールの社長である吉田公彦さんとお会いしたことがある。ある日、アポもなしに会社を訪ねたのだ。吉田さんは親切な方で、嫌な顔もされず、近所の居酒屋で歓待してくれた。
日本読書新聞時代の上司であった巖浩と国文社にいた林利幸の二人が、会社の応接室の一画に間借りして、『伝統と現代』を編集していたことや、吉本さんと丸山圭三郎との対談が途中でダメになったことなどを話してくれた。また東京と水俣では魚の味が全くちがう。どんなに鮮度の良いものでも到底故郷のものには及ばない、と。
そして、兄の谷川雁については「じぶんのやっていることはすべて、炭鉱闘争のつづきと思っているようだ」と言われた。
もっとも印象に残っているのは、吉本さんが『対幻想』(春秋社)の中で、娘が喫茶店でアルバイトをしたいというのに反対し、小遣いが必要なら増やしてもいいと言い、接客の仕事は水商売と地続きであるという意味の発言をし、山田太一をはじめとして物議をかもした。それに対して、吉田さんは吉本さんに深い同意を示された。娘を持つ父親として当たり前のことだと思われたのだ。その思いは、社会の〈一般性〉に解消することはできないものだ。世間の良識派は、この微妙な〈差異〉を汲むことは難しいかもしれない。
兄弟の関係というのは、おかしなものである。
先日、実家で一人暮らしのすぐ上の兄が救急車で病院に搬送された。急性腎不全、十二指腸からの出血などボロボロ状態で、医師の話によれば、あと二時間遅かったらアウトだったということだ。日浦集落の世話役が地区の公民館の改築の申請が通り、町から補助が出ることになったという報告を、班長の当番の兄に報告にきたらしい。そしたら、兄が寝込んでいて、これは危ないと判断し、救急車を呼んでくれたのである。
継続的な人工透析が必要ということで、わたしは病院の診断書を持って、障害者手帳の申請に町役場へ行った。そのついでに、実家に立ち寄り、墓参りをし、家の戸締りをして来た。
そのあと、病院に見舞いに行くと、兄が家の心配しているので、じぶんが行って見てきたというと、兄は「おまえが見たち、いかんがじゃ」と怒鳴った。じぶんで確かめたいという気持ちから出た言葉なのだろうが、頭に来た。しかし、同じ病室の他の患者の迷惑になるので、黙っていた。この頭ごなしの振舞いは、〈無意識の序列〉に基づいたものだ。
吉本さんとの話にもオチがあって、わたしが「吉本さんはどうですか」と聞くと、「うちの弟は生意気だから」と言われた。それを聞いて、わたしは思わず笑ってしまった。
4
宿沢あぐり『吉本隆明年譜(8)』(『吉本隆明資料集一六一』)の、一九八〇年八月の吉本隆明の高知市での講演についての記述で、『成吉思汗ニュース』第六三号(一九八一年九月一五日発行)に掲載された、松岡俊吉の文章が引用されているのにはびっくりした。
「成吉思汗(ジンギスカン)」は、通称「とんちゃん」という居酒屋だ。「とんちゃん」は一九五四年に当時の帯屋町を中心とした繁華街の東で、屋台として開業している。三年後、屋台のはす向かいに開店。豚の内臓料理をベースにしていた。主なメニューは「とんちゃん(豚の内臓の千切りいため)」「銀なべ(ホルモン煮込み)」「どろ粥(そば粉の粥)」「南極(クジラの冷凍刺身)」「ハツ(豚の心臓)」などだった。店は公園の向かいの角地にあり、一階と二階で営業していた。
わたしが初めて行った居酒屋も、この「とんちゃん」である。どうしてかと言うと、とにかく気楽に入ることができる雰囲気を持っていたことだ。それに加えて、みんなワイワイガヤガヤやっていて、どんな話をしても、隣りの客を気にする必要も、店の者に気兼ねすることも要らないからだ。
店の主人は戦時中、満州に渡り、食料品製造の会社を営んでいたとのことだが、終戦直前に召集され、シベリア抑留になり、その後帰郷。幾つかの仕事を経て、屋台を出したということだ。
そして、一九六六年に『成吉思汗ニュース』を創刊。店の常連客(地元の文化人が中心)が執筆し、店に置かれていて、誰でも自由に持ち帰ることができた。それから三三年間、一〇〇号まで出している。わたしも「とんちゃん」に行ったときは、一部貰ってきていた。原稿料は出していなかったけれど、毎年、歳の瀬には「とんちゃんまつり」と称して、寄稿者らを招待し、タダ酒を振る舞うのが恒例になっていた。
店の感じからすると、一階が一般の飲み客、二階が文化人が主という傾向だったとおもう。こちらはそんなことは全く頓着しない、あくまでもただの客だった。「とんちゃん」の良かったところは、談論風発の自由な雰囲気もあったけれど、それ以上に豚の内臓を扱いながら、ただの一度も食中毒を出さなかったことだ。そんなことは当たり前のことだと云うかもしれないけれど。
わたしのいきつけの飲み屋ベスト3からは外れていたけれど、遠方から来客があった時はここに案内したし、友人たちと飲む際もこの店を集合場所にするか、その反対に最後の河岸にすることが多かった。しかし、時代の変化には抗しきれず二〇〇九年一二月二九日をもって閉店した。まあ、わたしにしても金も体力もないから、飲み歩くことはなく、いまや引きこもりの典型になっているのだから。
昨年の夏季大学に、吉本隆明氏を招いたのは、わたしにとってはありがたかった。会うチャンスもないと、あきらめていた人に、会えるのは、うれしいものである。しかも講演前、講演、旅館、座談会、飛行場と、都合五回も時と所とを変えて、その人格に接したのは、稀有のことである。そのひとつひとつに思い出があるが、ここでは、旅館での話にしよう。
「文学の原型について」と題する吉本氏の講演を終えて、いざ宿舎への段で、「松岡さんもごいっしょにどうですか」という清水公民館長の失言(?)に、うまく乗ったのである。というより、主賓よりさらに主賓らしくふるまう私の言動に、清水氏は、いっしゅんたぶらかされたのであろう。ともかく、吉本氏の食事のさかなに、清水氏と私とが、口を賑わすはめとなった。このあたりから、わたしのそろばんの読みちがいがはじまる。
中っ風、雲の通い路に、乙女ならぬ男の姿を、しばし留めている私にとっては、アルコールはごはっとだ。いっぽう、清水氏は、飲みざかり仕事ざかり、失礼、仕事ざかり飲みざかりというべきだ。順序をまちがえてはいけない。飲むほどに、氏のヴォルテージは上っていく。
温厚な紳士ほど辛らつになる、というのが私の持論だが、アルコールと二人三脚では、それが倍になる。
「ぼくは吉本さんの詩が好きで、主だったものはみな暗記してます。」
と、詩の一行か二行を口ずさんでいたころは、まだヴォルテージが低かった。が、突如、改まった口調で、
「先生は友人の人妻と、熱烈な恋愛のすえ結婚されたと聞きますが、一種の三角関係ですね。この問題は、いま、先生の心のなかで、どんな位置を占めていますか」
吉本氏の眉間に、いっしゅん苦渋の色が走る。
「そうですねえ、その友人がひじょうにいい奴だったということですね‥‥‥。」
その先の答えは、もう忘れたが、私の印象は、すべてを体いっぱい受けとめ、そこに自己をさらす人ということである。それはけっして、逃げの答えではなかった。清水氏は、返す刃をわたしに一太刀。
「松岡さん、あなたは、何で病気になったと思いますか」
私は、口に入れたばかりの里いもを、あやうく気道に送りそうになった。〈ほんとに、何で病気になったんだろう?〉(中略)大いそぎで脳みそを引っきかきまわして、こう答えた。
「それは‥‥‥つまり‥‥‥祖先かな」
「えっ?」 こんどは、清水氏が、口のなかの貝柱を、気道に送りそうになった。
「ホウ」と吉本氏は言った。この「ホウ」に助けられて、私は次に進んだ。
「吉本さんは、信じないかもしれませんが」
「いや、ぼくは、あなたがそう言われるなら、それは信じますよ。そのことじたいは、またべつでしょうけれどね」
表現と事実とのはざまに自己をすえ、関係を追求しつづける人らしいことばである。
(松岡俊吉「中っ風・雲の通い路 3、吉本隆明氏との出会い」)
高知市の夏季大学の講師選びは、地元の有識者の意見を参考になされている。吉本隆明を招くことになったのは、『島尾敏雄の原質』や『吉本隆明論』などの著作のある松岡俊吉の強い推挙があったからだ。
松岡俊吉はその前にも、島尾敏雄を招聘するにあたって尽力している。そのとき島尾敏雄は、「赤のれん」(「一軒家」だったかもしれない)という居酒屋の打ち上げの宴会で、真っ裸の裸踊りをやったという話が伝わってきた。わたしは特攻隊の隊長らしい、〈まれびと〉としての振る舞いだとおもう。自爆艇「震洋」を駆って敵艦に突撃することをおもえば、そんなことは朝飯前のことなのだ。島尾敏雄は小説作品の印象とは異なり、ほんとうは思慮も決断力もある、颯爽とした〈武人〉だったのだ。裸踊りはその片鱗である。
話が逸れたけれど、ここに登場する清水峯雄は、高知市民図書館館長(同時に「夏季大学」の責任者)で、猪野睦らと『塩岩』という詩誌を発行し、詩集も出している人物である。高知県は日本共産党が強い勢力をもっており、地元の文化人の多くが日共系だ。彼らも『詩人会議』系統だった。
余計なことかもしれないが、状況を註釈すれば、一九五〇年代は左翼内部の対立や反目はそんなに深刻ではなく、相互に主張は違っていても、理解を惜しむことはなかったように思われる。それは例えば「荒地」と「列島」とが違っていても、相互交流はあったように。しかし、六〇年安保闘争を経て、この様相は完全に払底してしまった。そして、日本共産党が「にっぽんの声」一派や『新日本文学』のメンバーを除名した際、『民主文学』や『詩人会議』は日共の文化組織の拠点であった。それ以後は「読むな」「交わるな」の党の方針が貫徹され、偏見と敵対が支配するようになったのである。安倍政権の反動のあおりを受けて、加藤典洋などが「日共寄り」に変質してゆくのを見ていると、それこそ〈戦後の経験〉はほとんど活かされていないと痛感せざるを得ない。無原則的な横滑りにすぎないからだ。言うまでもなく「政治と文学」なんてものは誤謬であり、当然、このスターリン主義の文化理論は破産しているのだ。
清水峯雄が突然、吉本隆明の三角関係の話を持ちだしたのは、「反党分子」というレッテルの影響を受けていて、そこから、この〈無礼〉は発生しているといえるだろう。だいたい、親しい間柄でもないのに、他人の色恋沙汰に口を出すべきではない。わたしなら「そんなことを云われる筋合いはない。ほっといてくれ」と言下にいうだろう。
もし、吉本隆明の三角関係に言及するなら、徹底的にやるべきである。黒沢和子はもとより、『時[祷]』という同人誌を一緒に出した荒井文雄の著作や人柄にはじまり、その頃交友のあった鶴岡政男やその他の画家、詩人なども含め、どういう事情と経緯で、三角関係に陥ったかを明らかにする必要があるだろう。そうでなければ、ゲスな勘ぐりやスケベな覗きにすぎないからだ。そういう意味でいえば、吉本隆明の詩は、「ある抒情」にしても、「〈農夫ミラーが云った〉」にしても、その基調は〈恋唄〉なのだから。
清水峯雄はさらに、松岡俊吉にも話を振っている。その当時、松岡俊吉は脳梗塞で倒れ、杖なしには歩けない状態だった。しかし、若い女性と再婚し、孫のような子が誕生していて、ここでくたばるわけにはいかないとばかり、リハビリに努め、復活を遂げたのである。松岡俊吉は易者(手相見)を職業としていて、その稼業も再開したのだ。つきあいのなかったわたしでも、遠目に良かったなあとおもったくらいだ。
「温厚な紳士ほど辛らつになる」と、松岡俊吉は余裕を持って書いているけれど、小柄だが気の強そうな清水峯雄は、その内側に謂れのない敵意を秘めていて、それが酒の勢いで、主催者という立場を逸脱して、表に出たに違いない。「日共かぶれ」に限らず、「かぶれる」ということは自らの人格を損なうこともあるのだと、つくづくおもった。
むかし埴谷雄高氏にいわれたことばが、するするとよみがえった。
「松岡君、きみもいろいろと勉強はしとるがね、まだ吉本の足下にも及ばんよ。あれは、怖い男だ。」
(同前)
松岡俊吉はもっとも尊敬していた埴谷雄高の言葉で、この一文を締め括っている。もう三五年以上前の話だ。すべて時効なのかもしれないけれど、宿沢あぐりの「吉本年譜」を契機に再読したので、当時の状況を書き留めておこうとおもったのである。わたしは、『成吉思汗ニュース』に松岡俊吉が吉本隆明のことを何か書いていたという記憶しかなく、内容はまったく忘れていた。