4 中沢新一編著『吉本隆明の経済学』批判 (二〇一五年二月)
1
わたしは、ゆくゆく齢がいったら、なんの野心もなく、洋の東西を問わず「名作」と言われているものをじっくり読みたいと思っていた。それは十代の後半に、なんの予備知識もなく、夏目漱石や唐木順三、太宰治やドストエフスキーなどいろんなものを読んだ時と、少し違う位相での〈念願〉だった。
ところが、そんな思いは跡形もなく消失してしまったのである。体力的にも生活的にも余裕など殆どなくなってしまい、どんどん追い詰められてきたからだ。
それでいまでは、吉本さんに関することだけになっている。内外の思潮に目を配ることもなく、新しい言説につきあうこともない、まったくのひきこもり状態なのだ。でも、それを決して悲しいとも虚しいとも思わない。その内部では、じゅうぶんに充実しているからだ。
そして逆に、そこから〈外部〉を覗き見ると、世界状況から、日本国家の現状はもとより、社会現象やいろんな言説を〈透視〉することも可能なのだ。
それは、吉本さんの思想の〈原理〉性によると同時に、吉本さんが「日本のナショナリズム」で指摘している通り、井の中にあっても、井の外に〈虚像〉をもたなければ、その時々の情勢に一喜一憂することも、さまざまなる意匠に惑わされることもないからだ。井の中の蛙、大海をしらず。されど空の青さを知るなのだ。
それでも、途中で挫折してしまったカフカの『城』、バルザックの『谷間のゆり』やホーソーンの『緋文字』など買って本棚で眠ったままになっているものは、せめて‥‥‥と思っている。
こんな有様だから、あいつは「吉本主義者」だとか、「吉本エピゴーネン」だとか、悪口や陰口をたたかれてきた。そんなもの、どうってことはない。たしかにわたしは、吉本さんを通して〈思考〉しているに違いないけれど、ほんとうは、このうえなく〈フリー〉でありたいのだ。
いろんな雑誌が追悼特集を組み、たくさんの人が発言していたけれど、その多くは葬儀の献花のように、贈り主の名を示しただけの、〈哀悼〉のかけらも含まれていない、手前味噌なものが占めていたような気がする。そんな連中に、何がわかるというのか。わたしがもっとも〈同位性〉を感じたのは、勝連静子の「私にとっての吉本隆明」(『Myaku』第一二号)である。
吉本さんは、講演後の質疑応答の中で、「エピゴーネン」について次のように語っている。
あなたのおっしゃるエピゴーネンになるとかなんとかというふうに言われるのは、ぼくは納得できないので、たとえばぼくはある思想というものを、なんといいますか、つまりある思想に対してエピゴーネン的であるというふうに自分が考えた場合には、その思想が、あるいはその人が提議する思想というものが、なんか自分が考えてきて、築いてきたそういうものに対してまったく違う視角から、しかし問題としては同じ問題を、同じモチーフをもちながら、まったく違った視角から、考えてもみなかったような視角から、なにか問題を提起しているように見えるときに、やはりぼくはその思想を述べた人、あるいはまたその思想に対して、つまりエピゴーネン的存在であり、またある場合には強力な影響を受けるというようなことをぼくはすると思うのです。だから、つまりそういう、つまり同じモチーフを持っていて、それに対してまったく自分が考えも及ばなかったというような、そういうような問題を提示しうる思想家に対して、ぼくはエピゴーネン的であるわけです。しかし、もし自分がそういう、自分がなんらかの形でつとめていってそういうような、まったく新しい視角というのは、ぼくは感じられないというふうになった場合には、ぼくはエピゴーネン的でなくなるというだけで、それは自分自身であるというふうになるだけであって、あるいは自分自身の考え方というものを現在における、考えられる範囲で有効なものじゃないかというふうに考えるだけであって、つまりエピゴーネンであるかないかという問題は、つまるところはそういうことに帰するわけです。
(吉本隆明「再度情況とはなにか」京都大学一九六七年一一月一二日)
2
『吉本隆明の経済学』(筑摩選書)をみて、びっくりした。近年、これほど〈出鱈目な本〉をみたことがなかったからだ。
編著者の中沢新一がいい加減なことは以前からわかっていた。それは昔、吉本隆明がからかった「極楽論」を書いたとき、その初出の参考文献の中にあった「最後の親鸞」を、単行本に収録した際に削除したというような話を蒸し返したいわけではない。
この本の〈編集意図〉は優れたものだ。それは吉本思想を「経済学」という視座から〈救抜〉しようとし、〈現在化〉を図っているからだ。その意義は、絶対に評価されるべきである。
それは中沢新一の良い恰好しいの、ご都合主義の側面を超えている。中沢新一の着想はいつも〈卓抜〉なのだけれど、その内実はきわめて〈杜撰〉である。それが中沢新一の特徴なのだ。
では、吉本隆明を尊重してきた読者の一人として、なにが黙視できないのか。
それは京都・三月書房の宍戸立夫さんが指摘したように、巻末の「初出一覧」が実は「出典一覧」にすぎないこともあるけれど、それより、もっと重要なのは採録された吉本隆明の作品や発言の〈扱い方〉なのだ。それを具体的に指摘することが、中沢新一批判になるとわたしは考える。
第一章1 「幻想論の根柢ーー言葉という思想」
これは(1)(2)(3)章から成り立っているものだが、この本は(1)のみ抜粋収録。その断りはどこにもない。
▼講演 同志社大学文学哲学研究会「翌檜」一九七八年五月二八日
▼初出 同会パンフレット一九八〇年四月五日発行 著者の序文と質疑応答あり。
2 「言語と経済をめぐる価値増殖・価値表現の転移」
これは初出の最終部分の五分の一をカットしている。その断りはない。その部分に、この本の主題からしても重要な発言がある。それは「先進的な価値概念と普遍的な価値概念」「『農』の普遍性」「一人称・二人称の非分離性」の三章だ。
(お立ち会いの方には、ぜひその部分を読んで貰いたい(『吉本隆明の文化学』所収)。そうすれば、この指摘が納得いただけるはずだ)
▼インタビュー 一九九四年一〇月一四日
▼初出 『季刊 iichiko』第三九号一九九六年四月二〇日発行
第二章 「三木成夫の方法と前古代言語論」
これは(1)(2)(3)(4)章と「討議抄録」から成り立っているが、(1)(2)のみ抜粋収録。「前古代言語論」に相当する部分を省略。その断りはどこにもない。それに加えて(1)(2)と「討議抄録」部分を接続している。こんなことは何の断りもなしに、やるべきではない。中沢新一は文筆の徒、言論人として恥ずかしくないのか。
▼講演 慶応大学「ゲーテ自然科学の集い」一九九三年一一月一三日
▼初出 『モルフォロギア』第一六号一九九四年一一月三日発行
第三章 「経済の記述と立場ーースミス・リカード・マルクス」
これは全文収録。
(ただ、ここはこの講演よりも『ハイ・イメージ論』の「拡張論」を採るべきだと、わたしはおもう。著者の〈言語〉と〈経済〉をめぐる思索の根幹的な達成は、「拡張論」だからだ)
▼講演 日本大学三崎祭実行委員会一八八四年一一月二日
▼初出 『超西欧的まで』(弓立社)一九八七年刊
第四章1 「エコノミー論」
これは全4部から成り、そのうちの(1)(2)(3)部を収録。(後略)の表記あり。
▼初出 『海燕』一九八九年一〇月号〜一二月号
2 「消費論」
全文収録。
▼初出 『海燕』一九九〇年五月号〜七月号
第五章 「像としての都市ーー四つの都市イメージをめぐって」
これは、著者が〈推敲〉のうえ発表したものがあるが、それを採用していない。また、その本には写真3点が同時掲載されているけれど、それも省略されている。
▼講演 NKK都市総合研究所一九九二年一月二一日
▼初出 『感性都市への予感』(ぎょうせい)一九九二年六月八日刊所収
第六章 「農村の終焉ーー〈高度〉資本主義の課題」
これは全二部一五章のうち第一部(1)〜(6)章を収録。後半の約六割がカットされている。(後略)の表記あり。
▼講演 「修羅」同人一九八七年一一月八日
▼初出 『吉本隆明全講演ライブ集』第五巻(弓立社)二〇〇二年刊
第七章1 「贈与論」
全文収録。
(吉本隆明はかねて『共同幻想論』の第二部を展開したいと語っていた。それはかたちを変えて、『マス・イメージ論』や『ハイ・イメージ論』の中に存在する。この「贈与論」も中沢新一が指摘する通り、その中核にあるもののひとつだ。
ただ、一点こだわるとすれば、本書二六七頁一五行目の「マリノウスキーの解釈は」という箇所は、初出の雑誌も、単行本も、その新版もそうなっているけれど、わたしは熟読した結果、ここは「モース」の誤記ではないかと思っている。まあ、こんなことは中沢新一には関係のないことかもしれないけれど)
▼初出 『リテレール』第一号一九九二年六月発行
2 「消費資本主義の終焉から贈与価値論へ」
これは出鱈目の典型で、勝手に質問を省き、全一三章の中から三章足らずを部分的に抜粋しているにすぎない。この出典となっている『マルクス?読みかえの方法』(深夜叢書社)は、わたしが編集したものであり、こんなことは到底〈容認〉できない。むろん、その断りはどこにもないのだ。第一、雑誌発行者の石塚雄人や聞き手の中田平(『共同幻想論』のフランス語訳者)に失礼である。じぶんが有名だからといって、何をやっても許されると思ったら、とんでもない勘違いというものだ。
▼インタビュー 一九九一年一二月二一日
▼初出 『FiLo』(フロッピー雑誌)第一五号一九九二年
第八章1 「不況とはなにか I」
全文収録。
▼初出 『サンサーラ』一九九三年五月号
2 「不況とはなにか II」
全文収録。
▼初出 『サンサーラ』一九九三年六月号
3 「世界認識の臨界へ」
全文収録。
▼インタビュー 日時不明
▼初出 『エイティーズ』(河出書房新社)一九九〇年七月刊所収
編著書としての中沢新一の立場からすれば、こういう細部は版元や担当編集者がカヴァーすべきものであって、じぶんはそんなところまで目配りはできないと言うかもしれない。また、それが出版業界の常識なのかもしれない。
だが、吉本隆明は、編著者となった本ではそういうふうに対していない。
『現代日本思想体系4 ナショナリズム』(筑摩書房・一九六四年刊)
『戦後日本思想体系5 国家の思想』(筑摩書房・一九六九年刊)
『近代日本思想体系29 小林秀雄集』(筑摩書房・一九七七年刊)
『思想読本 親鸞』(法蔵館・一九八二年刊)
この四冊が代表的なものだ。
それをみれば歴然としている。そこでは、収録論文の選択、解説文はもとより、各論文のリード文、著者紹介、年表の執筆まで、実に丁寧な作業がなされている。神山茂夫が石原慎太郎と併録されることに難色を示し、それを説得したというエピソードひとつとっても、それは裏づけられるだろう。
吉本隆明は、そういうことを決して他人任せにはしなかったのである。それが〈編者〉としての礼節であることを熟知していたのだ。また『小林秀雄集』においては、「年譜と参考文献」は「堀内達夫氏の手を煩わした」と銘記している。
それが中沢新一との決定的な思想的態度の〈相違〉だと、わたしはおもう。
そのため、本書のせっかくの志向性と意義は半減しているといっていい。
5 『「反原発」異論』をめぐって (二〇一五年五月)
1
いつか吉本和子さんとお話していて、和子さんが「『試行』は高い封筒を使っているのよ」と言われたことがあった。たしか一枚五円の厚い封筒とのことだった。もちろん中身を保護するためである。
わたしは『吉本隆明資料集』を始めるにあたって、自家発行物なので、恰好つけることも、見栄を張る必要も全くないので、〈経費〉は極力抑えるようにしようと思った。それはこちらの出費を少なくするとともに、購読者の負担も軽減することにつながるからだ。そこで、わたしの採った方法は、封筒の中に校正などに使った紙で内包みすることだった。むかしはほんとうに荷物の扱いが乱暴で、封筒が破れていることなどざらであった。これで冊子の傷むのを防ぐことができると考えたのである。
ところが先日、比嘉加津夫さんから「ゲラが二枚入っていました。もしも送り先の誤りでしたら返送したく思います」という連絡が届いた。わたしはてっきり原稿を送った際、余計なものを混入したのかもしれないとおもい、「何が入っていたのか教えてください」と返信した。もう一五年もその方法でやっているので、こういう誤解が起こるとは考えていなかったのである。慣れは、思わぬ行き違いを生むものだ。比嘉さんの誠実な人柄が伝わってくる、とても微笑ましい出来事だった。
2
わたしは、いくつか吉本さんの著書に関係してきた。
それを挙げると、主なものは次の通りである。
『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社)一九九三年 編集
『思想の基準をめぐって』(深夜叢書社)一九九四年 編集
『マルクス 読みかえの方法』(深夜叢書社一九九五年 編集
『学校・宗教・家族の病理』(深夜叢書社)一九九六年 藤井東・伊川龍郎とともにインタビュー
『吉本隆明対談選』(講談社文芸文庫)二〇〇五年 編集・解説
『「情況への発言」全集成』1〜3(洋泉社)二〇〇八年 解説
『全マンガ論』(小学館クリエイティブ)二〇〇九年 編集
『完本 情況への発言』(洋泉社)二〇一一年 解説
『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)二〇一二年 編集協力
雑誌『情況 追悼吉本隆明』(情況出版)二〇一二年 編集協力・執筆
『吉本隆明全集』(晶文社)二〇一四年〜 編集協力
こんなことをすることになるとは、夢にも思っていなかった。
じぶんたちで『同行衆通信』という雑誌を発行していたけれど、吉本さんの一読者にすぎなかったからだ。それがこういうふうになっていった直接の契機は、『吉本隆明全対談集』(青土社)だった。その「第5巻(1976▼1978)」が一九八八年四月に刊行された際、収録漏れがあることに気がつき、吉本さんに知らせたのである。
それは次の六つだった。
「江戸のチャンチキ三社の祭り」(田村隆一)『野性時代』一九七六年八月号
「小林秀雄の批評の原理」(饗庭孝男)『理想』一九七六年一〇月号
「知識人と大衆」(ローレンス・オルソン)『現代思想』一九七七年一〇月号
「なぜイエスか」(田川建三)『現代思想』一九七八年一一月号
「定型・非定型の現在と未来」(岡井隆)『読書人』一九七八年一一月六日・一三日号
「宗教の体験」(笠原芳光)共同通信社配信『高知新聞』ほか一九七八年一一月
吉本さんの意向で、青土社の担当編集者中島郁さんから問い合わせがあり、急いでじぶんが把握している対談のリストを送った。それによって、その巻以降にも四つの対談の遺漏が判明し、それらは第一二巻に「補遺」として全部収録されたのである。
ただ、「フェミニズムと家族の無意識」という上野千鶴子との対談が「第9巻(1984)」に一年、年度が間違って組み込まれている。一九八四年の対談だと『対幻想』(春秋社)は発刊されておらず、それを話題にすることはできない。正しくは『現代思想』一九八五年六月号掲載である。『難かしい話題』(青土社)の「初出一覧」を踏襲したからだ。その段階で既に間違っていたのだ。それも指摘した。中島さんからは「〈訂正文〉を挿入します」という返答があったけれど、それは実行されず、そのまま放置された。
そこから始まっているといっていいとおもう。
それ以降の深夜叢書社の仕事はもとより、その他のものの背後にも齋藤愼爾さんの〈配慮〉があった。それがなければ、わたしのような地方在住の素人が、吉本さんの本に関与することはもっと限られたはずである。
一般的に、プロの編集者はじぶんの手がけた仕事やじぶんの領分のことは詳しいけれど、他のものに対しては冷淡であり、手にしないケースだってあるのではないだろうか。そういう意味では、きわめて〈排他的〉であり、相互の〈壁〉は高いといえるだろう。
それに対して、ふつうの読者はその著者に関心があれば、どこの版元から刊行されようと基本的に関係ない。だから、利害やライバル意識や変なプライドみたいものは、最初から存在しない。その意味では、読者の方がはるかに〈オープン〉なのだ。
3
二〇一五年一月一〇日のNHK・Eテレの「戦後史証言プロジェクト 知の巨人たち 第五回 吉本隆明」を見た。テレビ番組としては、こんなものだろうとおもった。
米沢時代の同級生と、富山時代の同僚の人が登場されていたのを見て、やっぱりNHKの取材力は凄いと感じた。
北川太一さんは懐かしかった。知人がやっている松山市の「晴耕雨読」の企画で、「高村光太郎展」が高知県立文学館で開催された。その時、北川さんの講演会があり、お目にかかったことがあるからだ。
番組の中で、カッコよかったのは高橋源一郎だった。彼は、テレビに慣れているのだろう。どういうふうに扱われるかも承知しているに違いない。それも〈実力〉のうちだ。「異数の世界へおりてゆく」を朗読しているのをみて、ほんとうに吉本さんの詩を好きなんだとおもった。
遠藤ミチロウには、あそこで歌わせればよかったのにとおもう。ザ・スターリンの映像を挿入するよりも(吉本多子さんによれば、あの場面で三曲歌ったとのことだ)。
それぞれコメントしていた人たちに対する感想はいろいろあるけれど、吉本さんの読者の一人としては、この放送を率直に嬉しくおもう。吉本さんはもう遺された〈著作〉や〈発言〉の中にしかいないのだから。
あんな〈作り〉はひどいものだと思った人もいるだろうが、わたしはそういうふうに思っても仕方がないような気がする。
西部邁の愚劣さ、上野千鶴子の馬鹿さ加減、竹田青嗣の勘違い、大塚英志の自己満足、橋爪大三郎の御用学者ぶり、そういうことを言いだしたら切りがない。
齋藤愼爾さんによれば、二時間の収録インタビューで、実際に使われたのはほんの数分とのことだから、それぞれの発言者もそうだろう。どう編集するかは番組制作者が〈決定〉するからだ。
昔、友人の元赤軍派の金廣志が本を出した時、変り種の塾講師としてフジテレビが番組を作った。その取材でわざわざ高知くんだりまで来たのだが、それに金本人も同行し、行きつけだった居酒屋の二階で、友人たちが彼の高知時代について語るという企画があった。わたしも出た。一時間くらい収録したけれど、実際の放送ではそれは全く使われなかった。そんなものなのだ。
〈映像〉の恐ろしさは、別の点にあるような気がする。出演した人たちの健康状態から、その雰囲気まで映し出すからだ。梅原猛、宮下和夫、松田政男、葉山岳夫、水無田気流、それは発言の〈部分性〉を超えるものだ。
4
吉本隆明『「反原発」異論』(論創社)を読んだ。その刊行の意義はじゅうぶん認める。けれど同時に、なんか嫌な感じもした。
副島隆彦の「序文」は、「反原発」を〈正義〉と錯覚する倫理的反動を真っ向から批判している。しかし、原発(福島第一原発事故)を〈踏み絵〉にしている点では、「反原発」を主張する人たちと同じだ。わたしは、それに反対である。
福島の現地では幼児ひとり、作業員ひとり原発事故による漏出した微量の放射能(放射能物質)による病人、発病者はひとりも出ていない。たったひとりも病人はいない。福島の現地の人々は全員元気だ。
(副島隆彦「悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い」)
あの東日本大震災と福島第一原発事故で避難を余儀なくされている人々のことをおもうと、とうてい副島隆彦のように言えないと思うし、また〈事態〉に対してじぶんは無力だからだ。こういうことは〈面々の御はからい〉がほんとうなのではないか。
たとえば、遠藤ミチロウは福島県の出身で、震災以降、救援のコンサートを企画したりしている。彼が仮に「反原発」の立場にあったとしても、それは当然だとおもう。そうだったとしても、彼は吉本隆明を尊重する気持ちを少しも失っていないことは、先のNHKの番組をみても明らかだ。吉本隆明が存命だったら、遠藤ミチロウの活動を励ますことは疑いない。
「原子力」に対する基本的な認識と「原発事故」とは微妙に位相が違うし、その全体の構造は多岐に渡っている。それを是か非かの一点に集約して〈踏み絵〉にすることはできないはずだ。なぜなら「原発」は社会の必然的な産物だからだ。
原発の事故に〈責任〉があるのは、誰がなんと言おうと〈政府〉と〈電力会社〉であり、地域住民はそれに対して、どんな立場をとろうと〈自由〉だ。そして、原発の設置や再稼働は周辺地域住民の〈直接投票〉で決すべきだと、わたしはかんがえる。そんなことは、今の状況では実行されることはないとしても、それが国家を開くということである。
それに、この大将(副島)はご立派なことに「弟子」を従えているとのことだ。吉本隆明は「弟子」など一人も持たなかった。むろん、わたしなどそういう器量は初めから持ち合わせていない。
「それでも原子力の研究を続けなければならない」と吉本が書き続けたので、吉本隆明の熱心な読者及び吉本主義者だった者たちまでが、吉本のこの考えに距離を置いていった。その代表は糸井重里氏と坂本龍一氏だと私は考える。
(副島隆彦「悲劇の革命家 吉本隆明の最期の闘い」)
「それでも原子力の研究を続けなければならない」というのは、揺るぎない基礎的な科学的〈真理〉である。
しかし、どうして、吉本思想の「背教者」として糸井重里を挙げるのか。わたしはこの発言に強い違和感を覚えた。
糸井重里は、評論家でも思想家でもない。吉本隆明との関係でいえば、年齢の離れた友人みたいなものである。遠くからみていても、糸井重里は昭和女子大学人見記念講堂での「芸術言語論」という大規模な講演会の開催や、『五十度の講演』を刊行して、晩年の吉本隆明を応援してきた。やりすぎに見えたこともあるけれど、〈善意〉の人というべきだ。その糸井重里をここで槍玉に挙げるのは不当である。
また、坂本龍一は音楽家で、もともとお坊ちゃん育ちの、極楽トンボなのだ。いまさら取り立てていうことはないとおもう。
そもそも、誰が吉本隆明(その思想)と〈距離〉を置こうと、〈背反〉しようと、その人の勝手であり、そんなことは、どうでもいいことである。なぜなら、じぶんにとって吉本隆明がどんなに重要な〈存在〉であるかが問題なのだから。
そういう点で、副島の「吉本隆明は、敗北し続けた日本の民衆の、民衆革命の敗北を一身に引き受けて死んでいった悲劇の革命家だ」という総括に同意するとしても、その発想は党派的思考でしかない。それは政治から宗教までにまたがる、あらゆる宗派思想の止揚をめざしてきた吉本隆明の全営為に〈逆立ち〉するものだ。それら全部を「吉本主義者」という倒錯の言葉が表象しているといっていい。
さらにいえば、副島隆彦は「いずれの爆発(四つの原子炉の爆発)でもメルトダウン(炉心溶融)は起きていない」と言っている。しかし、メルトダウンが起こったことは、原発の事業主体である「東京電力」も原発推進の「政府」でさえ認めていることだ。なにが副島の〈錯誤〉の根底にあるかというと、この男は〈現実〉にほんとうに躓いたことがなく、否定の契機を欠いているからだ。国家や権力に対する〈屈折〉も〈テレ〉もない。吉本隆明の言い方に倣えば《ひねり》が全くない、ただの馬鹿野郎なのだ。そのため、たやすく権力に迎合する「御用学者」に同化してしまうのである。
だいたい、この本の編者(宮下和夫)も含めて、六〇年安保闘争、「反核」運動、オウム真理教事件、福島第一原発事故というふうに、象徴的なことがらを捉えて、「悲劇の革命家」といっているけれど、わたしはそういうところだけで言うのは〈一面的〉だとおもう。
吉本隆明が真に〈革命的〉な思想家であったのは、言語表現論や共同幻想論や心的現象をめぐる〈体系的構築〉は言うまでもなく、晩年の負けると決まっている〈老い〉との闘いを最期まで止めることなく身をもって〈開示〉しつづけたことをはじめ、オウム真理教事件のことを言うなら、同時期の阪神大震災に対する的確な〈分析〉なども抜かすことはできないはずだ。そういう〈切実な課題〉に真向いつづけたところにある。
もちろん、ろくに読みもしないで、出鱈目なことを言いふらしたり、じぶんの限界を棚上げして、世論の動向に迎合し、吉本隆明を中傷する輩はごまんといる。だから、呉智英や姜尚中みたいな連中との〈闘い〉は終わることはないのだ。
この『「反原発」異論』に収録されているものと、「編者あとがき」で紹介されているもののほかにも、大阪で行われた「ハイ・イメージ論199X」(一九九三年)の講演のあとの質疑応答がある。
吉本隆明は、明確に〈敵〉(わたしにそう語った。その党派性を否定していたからだ)と位置づけたうえで、「デス・マッチをやってもいいんだぜ」というふれこみのもと、いつもそうであるように〈単独〉で臨んだのである。
吉本隆明はどんな場合でも、講演会の主役はそこに集った〈聴衆の一人ひとり〉であるという原則を持っていたからだ。
そして、次のように質問に答えている。
それから核エネルギーのことですが、これはなかなか確定的な論議がしにくくて、僕も確信を持っていえないけれど、エネルギー産業だけでなく学問も技術も実際の工業も、一般的に科学技術的なものは全部、少ない費用で多くのエネルギーを得られるもの、より安全でより精度の高いものを科学技術が生み出せば、今まであった産業は衰退してしまう。これが自然科学や技術の趨勢というか、一般的なありかただと思うのです。だから原子力エネルギーよりも効率的で公害が出なくて、あらゆる面でこれより良いエネルギーの取りかたが可能になれば、原子力発電というものはひとりでに衰退していくだろうと思います。仮にいくら核エネルギーに固執しようとしても、より経済的でより安全なやりかたが生まれてくれば、原子力発電みたいなものは直ちに衰退に向かうだろうと思っています。
だから核エネルギー肯定論者でもなんでもないですけれど、科学技術というのはもっといいものを必ず生み出します。蒸気機関車から段々進んできましたし、石炭から石油になったようにエネルギー問題も段階が進んできました。必ずいいものはできますから、ある期間だけ日本は四〇%使う、フランスは九九%使ってるというふうになってますけど、それは危険でもありますけれど、技術者がものすごく気をつけて、反対する人がその情報をよく疎通させて、少し危ないとすぐ指摘できるようなシステムを作っておけば、ある程度はそれでやれるし、止むを得ないこともあるんじゃないかなと思いますから。
僕は核エネルギーに対してやみくもに反対していないことは確かです。そういうことでいつも怒られています。「あいつはけしからん」といつも怒られています。危険なことをわざわざやらせるわけでもないし、やらせる立場でもない。僕が云って別に何が変わるわけでもないですけれど、自分の経験と考えではこういうことです。
(吉本隆明 「ハイ・イメージ論199X」質疑応答)
6 ことばの森の歌 (二〇一五年八月)
1
夥しい数の吉本隆明論が刊行されているけれど、わたしはその殆どを読んでいない。初めのころはそうではなかった。磯田光一『吉本隆明論』を筆頭に、宮城賢、中村文昭、菅孝行、松岡俊吉、神津陽などの単行本はもとより、『吉本隆明をどうとらえるか』や雑誌の特集などにも目を通していた。それがいつのころか、論を読むよりも、吉本さん本人の著作や発言を読んだ方が確実だと思うようになったのである。
それで、いまでは実証的なものに限られている。齋藤清一『米沢時代の吉本隆明』石関善治郎『吉本隆明の東京』『吉本隆明の帰郷』などだ。わたしは吉本さんの研究者ではないというのは、そういう意味も含まれている。ほんとうの研究者なら、いろんな吉本論にもちゃんと目配りするはずだからだ。
こんなことを言い出したのは、めずらしく菅原則生の『浄土からの視線』(弓立社)を読んだからだ。菅原則生は元共産同叛旗派の活動家で、叛旗派が分裂した際、「神津」派として、一九七六年六月一八日品川公会堂の三上治の主催した政治集会を粉砕するために押しかけ、この時講演した壇上の吉本隆明に詰め寄ったとのことだ。菅原則生はその行動を自己批判し、やがて仲間とともに『最後の場所』という雑誌を発行している。その誌名は次の詩に拠ったものだ。
もしも小さな躓きがきみを訪れたら
充分に稜をつけて迷路のなかへ
心をつっ込んで
抜けられなくともかまわない 味うことが生涯だ
と思い そこにとどまることが大切だ
そこが無尽蔵を秘めた最後の
豊かな場所だから
(吉本隆明「最後の場所」から)
わたしは、叛旗派に少しもシンパシーを持っていない。客観的にみれば、この党派は政治運動的には全く役立たずだった。それでも関心を持っていたのは、じぶんも全共闘運動の末端にいたからだ。連合赤軍のリンチ粛清にはじまり、革マル派と中核派の殺し合いの内ゲバで、新左翼党派は末期的症状を呈していた。そんな情況の反映のひとつとして、叛旗派の分裂と解体もあったといえるだろう。
わたしが叛旗派を完全に見限ったのは、その分裂以前である。それは『日本読書新聞』の匿名コラムが神津陽および叛旗派をこきおろした。それに対して、叛旗派は過剰反応を示した。このコラムを自己批判し、執筆者の名を公表しない限り、同編集部に対して内ゲバも辞さないと、半ば脅迫したのである。匿名が卑劣であるという点では分からないことはないけれど、自派への批判はほんとうは歓迎すべきなのだ。そのうえで、必要なら反論すればすむことだ。ところが、そういう政治党派としての器量はなく、日本共産党以来の狭量で独善的な左翼的伝統から一歩も脱却していないことを露呈したのである。それは神津陽の政治指導者としての度量の無さを物語っていた。
あまりのくだらなさに、元中核派の小野田襄二がおれが書いたと名告り出た。小野田の偏執的な不毛性はこの際別として、それはムキになった叛旗派よりも優位に映った。だいたい、政治集団として、こんなことにいちいち目クジラをたてるようでは、情況の全体を担えるはずがないのだ。
分裂は、その後である。
詩人の奥村真のインターネットの「猩猩蠅」からリンクできるようになっていた関係で、分裂・解体以降の、三上治と神津陽の応酬を見たことがある。それは目クソ鼻クソの見苦しい言い争いにすぎなかった。
だいたい、三上治はアバウト大将である。自分の行為の後始末をひとつもしない、やり放しなのだ。それが左翼の組織的体質だ。三上が主宰していた『乾坤』も購読していたけれど、休刊になってもなんの挨拶もなく、購読費の残額の返却もない。わたしは金を返せなどとケチなことを言いたいわけではない。そんなもの、初めからどうでもいい。しかし、ちゃんと〈けじめ〉をつけることは大切である。そのうえで、次なる動きに移行するのが筋というものだ。なにが『流砂』だ、そんな態度がとめどなき流砂というものだ。このスター気取りの甘ちゃんは、そんなことを本気で考えたことがないのだ。政治党派の陰険・陰謀体質からすれば、その笊的性格も半面ではおおらかな美質なのかもしれないけれど。
わたしはこんなふうに叛旗派の指導者を引きずり降ろしても、そこに属していた個々のメンバーを侮るつもりは少しもない。なぜなら、じぶんもそういう一兵卒にすぎなかったからだ。そして、その切実さにおいて、指導部の思惑などはるかに越える場面を実際にくぐっていることは疑いないからである。
全共闘などといっても、所詮学生運動であり、その活動家の何割かは教師の子弟と相場が決まっていたから、大学とも学生運動とも無縁のものには、特権的に映ったことは間違いない。これはわたし自身が高知県の反戦青年委員会や高知大学の学生運動と連動するように、夜間高校において、その流れに身を投じていたことと矛盾するだろうが、しかし、わたしは同時に一労働者にすぎなかったから、職場の同じ立場の同僚の感じ方も共有していた。要するに、じぶんの中に浮いた部分と沈んだ部分が混在していたということだ。戦争体験を語る場合に、いまだに「学徒出陣」がなにか非道の事のように語られている。アホなことは休み休み言えというのだ。戦争に動員された一般の民衆が「学徒」より軽い存在だということは絶対ないのである。
しかし、こんな情況の愚劇のなかからも、それを内省し、反芻しつづけることで、ひとりの〈思想者〉は生まれる。菅原則生の『浄土から視線』は、それをみごとに告げている。それは吉本隆明の浄土(親鸞)論に対する理解によく現れているといっていい。
菅原則生は、吉本隆明に橋渡しすることで、じぶんの過去の負債におとしまえをつけたかったに違いない。それは果たされているとおもう。
この〈関係の絶対性〉という概念を掌にのせ、俯瞰する視線を手に入れたとしても、一個の存在がそこから自由になるわけではない。依然として存在は、〈関係の絶対性〉の前に、あるいはただなかに佇み、矛盾の中に置かれ、無限の相対性に晒されているというほかないからだ。ただ、この概念を基底に置かない理念は泡沫にすぎないということができるだけだ。
(菅原則生『浄土からの視線』)
どこを引用しても、たぶん同じだ。
ただ、わたしは狂気の人は決して自分が狂っていると思っていないように、虚言症の人物はおのれが嘘をついているという自覚はおそらく持っていないとおもう。それが痛ましさとして映るのはまさしく〈関係性〉においてだ。そこから撤退すれば、人間という存在はもともと悲惨であると結論づけるしかないだろう。
この本の背後に流れているメロディは、むろん読経でも、「インターナショナル」でもない。いうならば、真島昌利の「夏のぬけがら」のようなバラードだ。菅原則生は、わたしより一つ年上である。高校を卒業し、就職上京している。そして一九六九年一〇月の新宿騒乱に遭遇したとのことだ。東京と高知の違いはあっても、わたしもこの時初めてデモに紛れ込んだ。その先の歩みもそんなに隔たっていないのかもしれない。だからわたしは、還暦を過ぎた菅原則生がどんどん若返っていくことをねがう。
2
吉本隆明は畏ろしい詩人である。そのうえでいえば『記号の森の伝説歌』は〈ことばの森の伝説歌〉としたほうが良かったとわたしはおもう。「記号」という言葉は、吉本さんにそぐわないからだ。
いうまでもなく、〈ことばの森の〉、いや、『記号の森の伝説歌』は「野性時代」の連載された六六篇の詩を長詩に加筆改稿したものである。
ずっと太古に
視えない空のみちを
鳥と幻だけがとおれた
幻はすばやく 鳥はおそかったので
鳥は舟のようにあえいだ
ひとつの比喩ができあがるために
鳥はその位置で停っていなければならない
舟を探してくるあいだに
羽摶きも失墜もゆるされない
巣を出なかった女の絶望よ
巣を捨ててしまった男の絶望よ
舟が見出されるために
恋をこえ
愛をこえ
妄執をこえ
暗い海路のはてに
霧がひかっていた
明日きみはどうするか?
きみのゆく東の方に
よい幻がまっているというのは嘘だ
貧しさから
貧しさへ翔び越すためにも
海がいるということは
遠い時間への予言ではないのか
癩者のような夢と
海辺の墓標にたどりつくため
もうひき返せない水脈がある
風が立った
さあ 粉々に砕けた波の上を
叩くだけ
捨てさったものたちを忘れられるころ
きみはやっと
死へたどりつける
死へ というか
一抹の霧のあいだから
安らぎのないきみの貌があらわれる
方位をまちがえたかもしれないのに
生き残ってしまった
とある日
内行花文鏡のなかに疲れた鳥のような
貌が映っている
何という海べの村の記憶であったか
(「幻と鳥」)
ずっと太古に
視えない空のみちを
鳥と幻だけがとおれた
幻はすばやく 鳥はおそかったので
鳥は足なえてあえいだ
ひとつの比喩ができあがるまで
鳥はその位置に停ってなければならない
変幻するあいだ
羽摶きも失墜もゆるされない
巣を出なかった女の幻と
巣を捨てちまった男の幻よ
舟の形が産みおとされる
恋はこえる
愛もこえる
妄執はただ走るだけ
ひとつの比喩がおわるとき
こころは身体を渡る 男は
女のもものあいだの
暗い渡路を過ぎなければならない
きみがゆく東の方に
よい幻がまってるというのは嘘だ
貧しさから ただ
貧しさへ翔びこすだけ
翼が折れる
癩みたいな舟べりの記憶から
木の故里が流れさる
もうひきかえせない
粉々に砕けた波の上を
幻が叩くだけ
巣を忘れたころ
やっと陸へたどりつける
霧のあいだからは
方位のないきみの貌があらわれる
とある日
内行花文鏡のなかに 疲れた鳥みたいな
貌が映っている
何という海べの村の記憶だったか
(『記号の森の伝説歌』I「舟歌」パート1)
「野性時代」の「連作詩篇」と『記号の森の伝説歌』のあいだに佇んだ人物は判っているだけでも、「野性時代」編集長渡辺寛、川上春雄、思潮社の『吉本隆明全詩集』および『吉本隆明詩全集』の担当編集者、それから芹沢俊介を数えあげることができる。それぞれがどういう感慨と感想を持ったかは審らかではないけれど、たしかに、そのあいだに佇んだことは確かである。〈佇む〉ということは、その改稿、削除や書き換えや加筆に思いをめぐらしたということだ。因みに、詩「最後の場所」は全篇抹消されている。
「連作詩篇」の長編詩への組み換えは必至だった。それはそれらの人たちも認めるだろう。引用したところでいえば、「幻と鳥」は完全に独立した一篇の作品として発表されている。にもかかわらず「舟歌」パート1は、『記号の森の伝説歌』の全体の構図の指針であり、完璧に〈序詩〉の役割を果たしているといっていい。
知られているように、吉本さんは初出の「連作詩篇」に自註を加え、もうひとつ〈層〉を形成しようと構想した。それは残念ながら実現されなかった。それは時間的余裕が無いことも大きく影響しているだろうし、最初のものは重く、開き難いという困難も伴ったのかもしれない。
それがどんなものであったかは、むろん本人しか解らない。しかし、それを推量することはできるような気がする。吉本ばななの『パイナツプリン』というエッセイ集に、その片鱗を見ることができる。それは既発表のエッセイのひとつひとつに、新たなエッセイを添えたものだ。それによって、文章はふくらみを持ち、立体感が増して、とてもおもしろい本になっている。「連作詩篇」に自註が加えられていたら、たぶん、そういうものになっていたのではないかと、わたしはおもう。
単なる註釈なら、次のように作れないことはない。
「妹」その「声符は未」
まだ愛恋を販らなかったのに
「姿」その「声符は次」
「それは『立ちしなふ」形であろう」
「立ち歎く女の姿は 美しいものであった」
(『記号の森の伝説歌』「演歌」より)
誇らし気に言うと、この辞書(『漢字類編』ーー引用者註)から「姿」という字が、女性のしなう立ち姿からきたのだというヒントをもらって、なまめかしいイメージにショックをうけ、詩作のなかに使わせていただいたことがある。
(吉本隆明「白川静伝説」)
たとえば、弓のように曲がることを「しなう」といいます。そこから、女の人がなにか優雅な形をつくる「しなをつくる」という言葉が出てきます。日本舞踊によくある型で、優雅にしなやかに体をひねるようにした姿です。ヨーロッパの人たちは「しなをつくる」文化・風習を知らないものですから、それがたいへん珍しく見えるようです。(中略)
じっさい、ヨーロッパの女の人に「しなをつくってみろ」といっても絶対にできませんね。不器用に反り身になるだけです。そういう類のことは、その文化的遺伝子が体内に入っていないといくらやろうとしてもできないんです。
(吉本隆明『最後の贈りもの』)
さらに、こだわるとすれば、抹消された詩行の「方位をまちがえたかもしれないのに/生き残ってしまった」という悔恨の思いは、吉本さんの生涯を貫いた〈悲劇〉だった。それは連載時「野性時代」に掲載されたアンケートの「もう一度生まれかわれたら何になりたいですか?」という問いに、「もうごめんだ!」と答えていることとまっすぐに繋がっている。
もうひとつ、言っておくべきことがある。それは、吉本さん自身が『而シテ』第二〇号の「ロングインタビュー」で言っていることだ。「ぼくの本で言えばね、『記号の森の伝説歌』という詩集があるでしょ。これはやりすぎよって」「これだけやれられるとね、まあ、中身を読まないことはないんですけどね、中身を読もうという意欲をまず相当減殺されるわけです」。この装幀は杉浦康平と赤崎正一が手がけたもので、「信貴山縁起」をフォーマットに、原稿の天付き表記を〈中揃え〉にアレンジしたものだ。そのため、まるで経文の冊子みたいな感じになっている。その後『吉本隆明全詩集』から、著者の意向で原稿通りの組みに戻された。
おそらく吉本さんは、いまだ誰によっても究められていない。この詩集を理解するためには〈言葉の抽象度〉を捉えることが不可欠だ。それは〈ことば〉→〈文字〉→〈記号〉というような階梯を踏むとおもう。それができれば、この詩集の〈喩〉の構造も、このなかを流れるメロディや情感、抒情性がひしひしと伝わってくるはずである。それを画定するために、吉本さんはあえて「記号」という言葉を用いたのかもしれない。
もちろん、ふつうに読んでも、その本質はかわりはしない。
3
思いがけなくというか、期待通りというか、菅原則生による『続・最後の場所』第一号(二〇一五年四月)が発行された。「吉本隆明の《奇妙なとまどい》〜「リンゴ泥棒の一党」をめぐって〜」という一文が、その誌面のほとんどを占めている。ここでは、その論に立ち入るつもりはない。
ただ、その対象となっている「リンゴ泥棒の一党」について、じぶんが関与しているので、この機会にふれておきたいとおもう。「リンゴ泥棒の一党」の、原題は「果樹園からリンゴを盗む」だ。松岡正剛らがやっていた雑誌『遊』の巻頭のグラビア頁に掲載されたもので、B5判のカラーで、リンゴに齧りつく吉本さんの写真が大きく写っていて、その下に載っていたものである。
わたしは深夜叢書社から「インタビュー集成」の編集を依頼されて、第一巻目として『世界認識の臨界へ』を作った。その際、本の巻頭にはインタビューとは違うものを置きたいと思った。できれば詩にしたかったけれど、それに準ずるものとして、この短文を選択したのである。
でも、第一巻の冒頭から「盗む」では、あんまりではないか。また初出タイトルは『遊』の編集部が付けたものかもしれないと思い、熟読したうえ、「リンゴ泥棒の一党」というタイトルに、わたしが変更したのである。
もちろん、吉本さんに閲読してもらった。吉本さんから、それについてのコメントはなにもなかった。ちなみに、第二巻『思想の基準をめぐって』の巻頭は「十七歳」、第三巻『マルクスー読みかえの方法』の巻頭は「わたしの本はすぐ終る」である。この二つの詩作品は、編集段階では単行本未収録だった。わたしはその収録に自負を抱いていた。企画自体は全五巻の予定で、編集作業は全部終わっていた。ゲラも吉本さんの手元に届けた。
しかし、一九九六年八月の吉本さんの〈海の事故〉でみんな消し飛んでしまったのだ。
未刊の二巻の巻頭になにを選択したのか、いまでは記憶から消えてしまっている。ゲラが出てくれば、なんの問題もないのだけれど、まだ見つかっていない。
仕方なく記憶の叢にわけいっていくと、未収録の詩はもう一篇も無かったから、きっと「リンゴ泥棒の一党」と同じような短文を選んだはずである。『思想の基準をめぐって』の巻末に『野性時代』のアンケートを収録したのだけれど、吉本さんはそれをとても喜んでくれた。そして、そのアンケートに「後註」を付してくれたのである。そう思い起こしているうちに、ひとつ、思いだした。それも『遊』秋の臨時増刊号の「ジャパネスク」という特集の、しかもアンケートに答えたものだ。
空海よりも道元、道元よりも親鸞だ。親鸞の思想は仏教の範疇を超えている。彼は一切を捨てよ、と言い、イメージさえも捨て去ることを呼びかける。僕らには逆に、そう叫んでいる親鸞自身がイマジネーティヴに見えてくる。捨ててゆくアナキズムと言っていい。(吉本隆明)
アナーキーな親鸞、そのパラドックス。それが〈非僧非俗〉の根柢だ。
しかし、これが第四巻だったか、第五巻目だったか、思い出せない。もともと出来が悪いのか、老化のせいなのか、いろんなことを忘れている。もちろん、忘れることは救いでもあることを知らないわけではないけれど。
そういえば、地元の新聞に「文学の泉」というエッセイを連載した時も、夜間高校の文化祭で、中津川フォーク・ジャンボリーの記録映画を上映したことを書いたのだが、その映画の題名がどうしても浮かんでこなかった。それで〈忘れた〉で押し通した。後年、早川義夫の『たましいの場所』を読んで判った。『だからここに来た』だった。
そんなふうに何かのきっかけで、残りのひとつも判ればいいとおもう。
7 川上春雄さんのこと (二〇一五年一一月)
1
もう何の用件で訪ねたのか憶えていないけれど、たしか齋藤愼爾さんと高橋忠義さんとわたしの三人でお邪魔していた時のことだ。話が一区切りし、吉本さんが「出ましょうか」と言われた。それで四人で、本郷通りを山手線駒込駅の方へ歩いて行った。
その途中で、吉本さんがわたしに「白土三平はどうしていますか」と聞かれた。ちょうど白土三平が『ビッグコミック』に「カムイ伝第二部」を連載中だったので、わたしは「やっていますよ」と答えた。
吉本さんは、朝日出版社版『悪人正機』の「あとがき」で書いているように『サスケ』を評価していた。また一九六〇年代の白土の活躍についても、学生たちから伝わっていたはずである。しかし、それよりも、もっと強い関心を寄せていたのは、白土が青林堂を起こした長井勝一と組んで『ガロ』を創刊し、そこにライフワークともいうべき「カムイ伝」を発表するとともに、〈自主的〉な表現の場を創出したことにあったとおもう。それは吉本さんが村上一郎・谷川雁とともに『試行』を発刊した姿勢と通じていたからだ。
『ガロ』と『COM』が並び立つように言われるけれど、あっさりいえば、『COM』はわずか五年の短命だった。それに比して『ガロ』は三十年以上発行された。その違いは決定的といっていい。創造の場の開拓と新たな表現者の発掘という意味では決して劣らないし、この二誌によってマンガ表現は飛躍的な発展を遂げたということも確かだ。それは赤塚不二夫が道楽で『マンガNo.1』を出したのとも、さいとうたかをや小池一夫が自ら出版社を立ち上げ、自作の収益の獲得に乗り出したこととは全く〈次元〉の違うことだ。
歩きながらの話はいいものだ。座しての会話と違って、気楽な受け答えができるからだ。吉本さんは、齋藤さんと高橋さんには井上光晴のことを尋ねていた。
「紙芝居から始めて、それから貸本屋、まさか仕事がなくなるとは思わなかったから。紙芝居は四〇〇円か五〇〇円。だけど、二五〇円までまけて描いた。それも払えないと言われてな」
「それから葛飾の『旋盤屋』か『ろくろ屋』で働こうかなって。で、旋盤屋に行って働きたいって言うと、親方が何歳だって聞くんだよ。『絵描きを目指してる二五歳だ』って言うと、親方が『お前ら来いって』一〇代の奴らが来て手を出すわけだ。そしたら、どっかしら一本ないんだよ。指がな。『俺だったらどうするかな』って親方が言うんだよ。いい人がいるもんだなって思ったよ」
(白土三平「酔言」『コトバ』第3号)
夜間高校の同級で、わたしに岡林信康や高田渡やジャックスの存在を教えてくれたNも、中学を出てライフル銃の銃口を造る県内では有名な製作所に就職したのだけれど、人差し指の先を飛ばし、退職し、出会った時はテント屋に勤めていた。彼はその傷にかなり内向していた。それを克服するためにギター教室に通っていた。白土三平も旋盤工になっていたら、マンガ家としてはきつい状態に落ち込んでいたかもしれない。
吉本さんは、そういう〈自立〉性へのシンパシーをつねに持っていた。そうでなければ、三五年間に渡って寄稿原稿に目を通しつづけることなど出来るはずがないのだ。
2
わたしは『全マンガ論』の編集をやったのだけれど、その最終段階で、版元の担当者が《「パラ・イメージ論」を外すことはできませんか》と言った。どうしてかというと、直接マンガ作品に言及したものではないからだ。これは島尾敏雄の「夢のなかでの日常」を根底的に解読したものだ。それとともに、吉本さんの〈像〉をめぐる考察の到達を示すものであり、それはマンガ論と通底している。これを外すと、吉本さんの思索の核心を抜きにすることになってしまう。そこで、わたしはこう応えた。
《確かに「パラ・イメージ論」はマンガ論ではありません。しかし、これを抜かすと、折角の吉本さんの〈普遍性〉への志向が薄れてしまいます。また、吉本さんがマンガを軽視することも、他のジャンルの作品、例えば小説や詩と全く区別することなく、論じていることを明示するためにも必要です。もっといえば、山岸凉子の「籠の中の鳥」は島尾敏雄の作品や大原富枝の「アブラハムの幕舎」に較べても遜色はないとわたしは思います。吉本さんも同等の作品として論じているのです。それは翻って、萩尾望都や大島弓子や高野文子の〈読者〉が、大江健三郎や中上健次の〈読者〉に決して劣っていることはないのです。もっとマンガに自信を持つべきです。通俗的な知的序列や社会通念に毒されたものは、マンガというだけで見下しますが、それはとんでもない偏見です。だから、これを外すことはできません》と。
吉本さんは「パラ・イメージ論」のなかで、〈概念〉・〈オルト〉・〈メタ〉・〈パラ〉・〈オルト・パラ〉というそれぞれの位置の言語像を、島尾作品に則しながら確定している。もちろん、〈パラ〉の根源は次のところから発祥しているといっていい。
〈わたし〉はいつも恐怖に駆られるような夢のイメージをもっている。ただ高所(デパートの屋上であっても、山頂の眺望台であっても、空中に浮んでいてもよい)から下方を視ている夢のなかのイメージに出あうと総毛立つ恐怖でやがて目覚める。このとき〈わたし〉はじかに高所から下方を視ているのではなくて、下方をみている〈わたし〉を漠然としたイメージで視ている眼になっている。この漠然と総体をみている眼は未熟なるあるいは輪廓のあいまいな他者に似ているといってよい。このびまんする夢のなかの眼はパラノイア性の妄想の形成を可能にするものの普遍性を語りあかしているようにみえる。このびまんする眼は〈わたし〉のすべての挙動を、それがどこで何をしていても鳥瞰しうる位置にあるから、〈わたし〉を監視することも察知することも追跡することもできる可能性をもつからである。
〈わたし〉はいつも妄想形成の可能性をもっているだろう。そのことは疑われない。そのための(妄想が形成されるための)ひとつの必須条件は、わたしの事実的な世界での心の動かし方が〈夢のなか〉での心の動かし方にどこまでも接近してゆく過程に入り込まなければならない。無意識が制御線をこえて奔騰すること。そして‥‥‥。
同性だけしか知っていない、あるいは異性は不安であるという思い込みの根源は〈母権的なもの〉の最初の記憶にまで遡行する。そのとき〈母権的なもの〉は公的な、権力のように象徴されている。もしこの〈権力〉なるものに心的な力動力が具わっているとするならば、かれはかれ自身の身体像から疎外されることによってこれに耐える。またこの〈権力〉にエロス的な要素が具わっているとするならば、いいかえればエロス的な視線からみることができるならば女性的にあらわれた同性的なエロスの力動性をみることができるだろう。
(吉本隆明「心的現象論 了解の諸相」)
これは〈パラノイア〉についての考察で述べられたことで、それがただちに〈言語像〉のポジションに直結するわけではないけれど、構造的には同型をなしているといってもいいものだ。
3
吉本和子さんの第二句集『七耀』にサインしていただいている。それには日付も記されていて、二〇一〇年一〇月一九日である。それがわたしが吉本さんとお会いした〈最後の日〉だ。
別に何の用向きもなかった。わたしが兄のように信頼する古浜光広さんが「まっちゃん、いまのうちにお会いしておいたほうがいいよ」と言ってくれたからだ。
3
わたしは仕事に使っている部屋の鴨居の上に、『coyote』第9号(二〇〇五年一二月発行)に掲載された、吉本さんが書斎で文字拡大機に向かっているうしろ姿の写真をカラーコピーして、パネルに嵌めて飾ってある、煙草のヤニで黄ばんでいるけれど。それが吉本さんに対する、わたしの〈位相〉のような気がする。
吉本さんにとって、一九九六年八月三日の海の事故は決定的なできごとだった。
その日、職場にまず妻から連絡があり、その後、川上春雄さんをはじめ何人もの人から電話がかかってきた。わたしの方も、仕事の合間に親しい人に知らせた。
帰宅すると、留守電がいくつも入っていた。いちばん、早かったのは浜松の若月克昌さんからのものだった。同じ静岡県ということもあり、「NHKのニュースで報道されていた」とふき込んであった。
なかでも、藤井東さんはつらい思いをしたとおもう。吉本家の避暑に合流するために家族と一緒に初めて土肥海岸へ行かれたからだ。到着と同時に、事故を知ったとのことだ。
わたしが事故のお見舞いに伺ったのは、かなり後のことだ。家族や親しい人たち、さまざまな関係で日頃からつきあいのある人々からすれば、わたしなど読者の一人にすぎないからだ。
吉本さんの〈うしろ姿〉を見ているだけの。
4
『吉本隆明〈未収録〉講演集』第8巻の「解題」で、宮下和夫は「伊豆の土肥海水浴場で海難事故に遭い、以降、体調がだんだん衰えていった。七十一歳のことだから、いまのお年寄りから云えば、ずいぶん若いといえる。返す返すも、この事故は吉本さんにとって悔やまれることであっただろう」と書いている。
確かに、この事故はそれ以前と以後を画然と分かつことになったことは間違いない。しかし、わたしが見舞いにあがった時、台所でご馳走になりながら、和子さんから伺った話では「おとうちゃんは、あの事故がなかったら、きっと持たなかったよね」とのことだった。つまり、超ハードの仕事をこなし、その過労は限界に達していたということだ。その過度の疲労が事故につながったのだ。その後の後遺症やそれに伴う病気を思えば、あの事故が決定的であったことは否めないけれど、その時は「事故は休息になって、かえって良かったのよ」とも言われた。吉本さんは、そばでうなずきながら、照れ笑いをされていた。
近くて遠いということも、遠くても近いということもあるのかもしれないとおもう。
5
川上春雄さんと一度だけお会いしたことがある。わたしの『意識としてのアジア』の出版記念会が上野の「弁慶」という鰻屋でもたれた時、大和書房の『吉本隆明全集撰』の打ち合わせで上京されていた川上さんも出席してくれたのだ。
それを契機に、川上さんとの交流は深まったといえるだろう。わたしはあまり一般的でない吉本さんの著作や発言を入手したら、川上さんに送るように心掛けた。鹿児島の出水市のマルイ農協が発行していた『Q』の連載「食べものの話」などだ。
そして、川上さんの代表作のひとつ「水」という詩を、当時勤めていた印刷会社の広報誌の巻頭に掲載させていただいたこともある。
川上さんは、いろんなことを伝えてくれた。「松岡さん、文学をやるうえで地方にいることは決して悪いことではありません。いろんなことに惑わされることも少ないですから」というように。それが川上さんの実感でもあったのだろう。
また、一度も猫と暮らした(飼った)ことのない無い岡田幸文さんが聞き手となって、そのため、どこか浮かない感じも伴ったユニークなインタビュー集『なぜ、猫とつきあうのか』も、川上さんの示唆によるものだ。わたしのこの本への寄与は「猫がテーマですから、多子さんに装画を描いてもらったら良いでしょう」と、岡田さんに推奨したことだ。
晩年になって、手紙や電話で『試行』の終刊で「心的現象論」が未完のまま終わってしまって残念なので、わたしに「聞き書」で続きをやるように、と言われたこともあった。わたしは「とんでもありません、そんな力量はじぶんにはありません。それに、東京と高知では離れていて難しいと思います」と答えたのだった。
川上さんは二〇〇一年九月九日、七八歳で亡くなった。
山形県米沢市の学生時代、会津出身の同級生が二人いたが、二人の共通点はテンポがあまりはやくないが、考え方にも行動にも筋金が入っているという印象だった。おなじ性格は当初から川上春雄さんにも共通していた。筋が通っていて頑固ともいえるし強情ともいえる。一旦、思い込んだところから思考は単一で根気に充ちていて、わたしなどの言い分で抑止されるものではなかった。この資質は得難いもので、わたしなどが尊重してやまないところだった。川上さんへのわたしの親愛感と信頼感はそこを源泉に形成されたような気がする。わたしのようなちゃらんぽらんな性格は、そこから沢山のことを学んだような思いがする。わたし自身よりもわたしのことを知り、わたし自身よりもわたしの著書や家系のことを知っていた。郷里のことなども、わたし自身より詳しかった。迷惑がられても、拒否的な態度をとられても、めげずに調べられたのだとおもう。
(吉本隆明「川上春雄さんを悼む」)
川上さんは、「書誌家」などではない。それは川上さんの編集された『初期ノート』をみれば歴然としている。また吉本さんの代表作のひとつである『言語にとって美とはなにか』を手掛けた阿部礼次と川上さんの存在なくして、『吉本隆明全著作集』(勁草書房)は成立しなかったかもしれない。そう考えれば、おのずとわかることだ。
川上さんは、じぶんのペースで仕事され、安易な〈妥協〉や〈拙速〉を嫌っておられたとおもう。
『吉本隆明全集撰』は刊行途中で中断してしまったのだけれど、その理由について、わたしは吉本さんから次のように聞いている。
川上さんと版元との間で〈齟齬〉が起こり、そのため川上さんの作業は完全にストップしてしまったと。それで、担当者から相談を受けたけれど、「これはもう〈限界〉ということだから、企画の〈中断〉もやむを得ない」と答えたとのことだ。
わたしが述べるまでもなく、この辺の〈事情〉と〈経緯〉についても『吉本隆明全集』(晶文社)で、「川上春雄宛書簡」が公開されれば明らかになるだろう。
6
最近、平然とデタラメなことを言いふらしたり、じぶんに都合の悪いことは秘匿して〈虚偽〉を並べる者が増えている。三浦雅士は「吉本隆明私記」(『吉本隆明〈未収録〉講演集』の「月報」)で、吉本隆明に婚約破棄事件があったがごとくほのめかし、そのうえ、自分で調べもせず、他者に振るような欺瞞的なことを書いている。
吉本隆明の深刻な恋愛は、「エリアンの詩と手記」の「ミリカ」をめぐるものと、和子夫人をめぐる三角関係以外にはないはずだ。
三浦雅士はキルケゴールを持ち出して高尚めかしているが、その内実は芸能週刊誌並みの思わせぶりな憶測にすぎない。第一、川上春雄は吉本隆明の両親やきょうだいに話を聞き、その多くを録音テープに収めているといわれている。もし〈婚約〉というようなことがあったならば、時代状況からして〈家族〉が知らないはずがない。家族の親和という面からいっても、難しい三角関係において、父親は「じぶんは息子を信頼している」という毅然たる態度を貫き、彼女に対しても鷹揚に迎え容れて、優しくしてくれたと、わたしも聞いているのだ。関係者が亡くなっていることをいいことに、あやふやなことを流布するのは頽廃そのものである。
その後、宿沢あぐりから、未刊に終わった川端要壽との対談「わが半生」の草稿が日本近代文学館に所蔵されていて、その中に、三浦雅士が「その当の相手の女性が『三浦』という姓であったからなのである。私と同姓ということもあって、ふと口をついて出てしまった、という話し方であった。(中略)女性の父親が牧師であったこととともに告げてくれた」と言っている、その女性のことが出てくると伝えてくれた。「三浦」という女性は、許嫁ではないけれど当時交際があったと吉本隆明本人が語っているとのことだ。わたしはじぶんの〈思い込み〉と、いつもながらの〈失態〉を深く反省すると同時に、それなら三浦雅士はどうして初期の吉本論の中でそれを取り上げようとしなかったのかとおもった。吉本隆明における〈三角関係〉をテーマに論じていたからだ。
宿沢あぐりの指摘を受けて見返すと、確かに書きとめられていた。「ぼくが罪を忘れないうちに」という詩のなかに、《失愛におののいて 少女の/婚礼の日の約束を捨てた》と。
また、マルクスおよび吉本思想との関連でいえば、個と類が〈逆立ち〉することを三浦は否定しようとしている。しかし、この根源的な〈疎外〉がなければ、およそ〈階級)が発生する基盤は解明できない。なにが「自己表出もまた、それが生み出すとされる価値は、ただそれが交換、すなわち伝達された後に、事後的に見出される幻にすぎない」だ。こんな機能主義的解釈は〈倒錯〉以外のなにものでもない。なぜなら、人間(ヒト)が〈存在〉しなければ、〈交換〉という行為は成立しないからだ。意識は自然との〈異和〉から発祥するものであって、その原初的な根拠からすれば、〈自己表出〉が「事後的に見出される幻」などというのは、構造主義の剽窃による陳腐な言いがかりにすぎない。三浦雅士がマルクスや吉本隆明の思想を全的に対象化するというのなら話は別だが、知的スノビズムよろしく、ベーム=バヴェルクだのヒルファーディングだのと気の利いた風な名辞を援用し並べておけば、それで「批評」として通用すると思っているところが、その低劣さなのだ。
三浦雅士は「ユリイカ」時代は優れた編集者として活躍していたのだが、その後、評論家に転じてからは、世渡りの巧みな俗物に転落し、いまや新書館の社長であり、大手新聞の書評委員であり、また文藝春秋の『丸谷才一全集』の監修などもやっている。新書館で『大航海』という雑誌を長い間編集していたが、吉本隆明は一度も登場することはなかった。吉本隆明を忌避していたことはそのことだけでも明瞭なのだ。そのくせ、今頃になってしゃしゃり出てきて、良き理解者のふりをしているのだ。そこで、なによりも大切なことは、じぶんに対して〈嘘〉をつかないことだ。たとえ間違ったことを言ったとしても、その〈誤り〉を認め、訂正していけばいい。人間はそういうふうにできているとおもうからだ。
8 吉本さんの笑顔 (二〇一六年二月)
1
吉本さんのどんなところに魅せられたのかと言われると、すぐに思い浮かぶのは次のようなところだ。
本当に切実な思いで、この社会がどうなっているか、国家と社会はどんな関係にあるのか、社会はどうあればいいのか、どうなれば理想的なのかーーこんな社会をめぐるさまざまなことを考える折が生涯のうちに出てきたら、そのときは、本を読み、事実を調べ、よく考え、真剣に勉強してください。社会とは何かという知識がなくても、またそれを考える機会がなくても、社会生活は立派にやっていけます。
(吉本隆明『中学生の教科書』「社会」あとがき)
ひとは知識がなくても生きられる。そこに本来的な差別はないということ。上昇的に止揚していくにせよ、下降的に解脱していくにせよ、富も、知識も、体力も、ほんとうは人間存在の価値とは〈不関〉であるという地平へ到達することが、なにごとかなのだ。
2
安倍内閣の暴挙
安全保障関連法が強行採決されました。これは法律学者の指摘を待つまでもなく、日本国憲法に違反したものです。ごく普通に、憲法の前文と第9条を読めば、誰だっておかしいとおもうでしょう。
前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し」とあり、また第9条には「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあります。さらに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあるのです。
そこからいえば、安保法制は明らかな憲法違反です。政府が自国の憲法を遵守しないという、恐るべき事態に至ったのです。これは暗黒の時代の始まりといっても過言ではありません。私たちが交通法規を守らず、信号を無視し、好きな速度で車を運転したら、どんなことになるでしょう。
たしかに国際社会では国家間利害による紛争や、宗教対立に根ざした内戦やテロが絶えたことはありません。東アジアにおいても、中国の覇権主義的な軍備増強と強引な海洋侵出がなされ、北朝鮮は核兵器の開発をほのめかしています。そういった近隣間の軋轢はあっても、それと国の基本的な指針たる憲法を踏まえるということは次元の異なることです。
この国際状勢に即応するために、新たな安保法制が必要というのなら、まず国民投票によって、憲法を改定しなければなりません。なにごとも国民の同意のもとに進めるというのが民主主義の根本です。日本の政治は、これを基礎に据えたことは一度もないのですが、それでも、それを表面的な建前としてきました。それすらも、かなぐり捨てた今回の政治決定は、一党独裁の中国や北朝鮮と、実質変わりはしません。
暗黒政治の第2幕目は、すでに始まっています。それはマイナンバー制度による国民の徹底的な国家管理と、政府による言論統制です。反対意見の持ち主や批判勢力に対する恫喝と暴力の行使、その一方で、合法的締め付けです。それは沖縄の辺野古基地移転反対運動に対する官憲の強圧的な抑え込みと右翼の襲撃、地元新聞2紙を潰せという暴言に、端的に現れているといえるでしょう。
この戦後七〇年を無に帰すような安倍内閣は、大日本帝国の復活を目指しているのかもしれませんが、日米安保条約によるアメリカ依存という矛盾をはらんでいます。アメリカは、日本をけっして運命共同体などとは思っていません。あくまでも同盟国の一つとして対しているにすぎません。そんなものに全面的に頼ることはできないはずです。そうであれば、日本が大国に軍事的に対抗するには核武装するしかないと、いずれ言い出しかねません。そんな考えは、あまりにも愚かです。
日本列島は土地も狭く、資源も乏しいのです。そんな日本の行く道は、経済的にも社会的にも、自らを全世界に向かって開いてゆくことです。その大切な足場のひとつが、第9条の「戦争放棄」ではないでしょうか。
どんな権力的な強権をもってしても、人間は人種や民族を超えて連帯しうるということ、国家という共同幻想と個々の生存とは逆立ちするという本質を覆すことはできないはずです。これが私たちの拠って立つ自由の根拠であり、私たちの戦後が培ってきた開明性ではないでしょうか。
(『高知新聞』二〇一五年一一月九日)
3
宮下和夫著『弓立社という出版思想』(論創社)という本が送られてきた。それを読んで、〈業界人〉というのは、どうしてこうも手前味噌なのだろうという思いを禁じえなかった。誰しも多少なりともそういう傾向はあるのだろうが、じぶんに都合の悪いことを省いてあるので、場合によっては〈虚偽〉に転化している。
わたしがもっともひっかかったのは次の個所である。
きっかけは晶文社の『吉本隆明全集』の企画が発表され、内容見本を見たことだった。どうしたって 僕から見れば、あれもない、これもないということになる。となると、特に『「反原発」異論』なんて ものを編む人間はいない。
そうすると、未収録の講演集もあるし、未収録対談集五冊とか質疑応答集五冊とか、語録集(インタビュー集)もある。それから未刊のままになっている『アジア的ということ』だって残されている。それらをまとめようとしている人はいないので、僕がやるしかないなと思った。
(宮下和夫『弓立社という出版思想』)
どうして、こんな言い方ができるのか、わたしは不可解でならない。ふつうの読者や業界の外部の存在なら別だが、事情に通じている者がこんな手前味噌なことを言うのを、黙って見過ごすことはできない。『吉本隆明全集』の編集を手掛けている間宮幹彦は、元筑摩書房の編集者であり、その当時から、吉本隆明の「全集」の構想を抱いていた。それは川上春雄からも伝えられていたし、本人からも、わたしは聞いていた。しかし、吉本隆明は「時期尚早」ということで、この企画を承諾しなかった。それでも、決して諦めることなく構想を温めていたのだ。
『初期ノート』や『吉本隆明全著作集』などを編纂した吉本隆明研究者の第一人者ともいうべき川上春雄が亡くなった時、間宮幹彦は兼子利光とともに、自費で福島県の会津地方の川上宅を何度も訪れ、遺された資料の整理をやったのである。そして、それは日本近代文学館に寄託され、「川上春雄文庫」として一般に利用できるようになっている。
また某出版社が、著者吉本隆明に一言の相談もなく、「全集」を刊行するという企画を勝手に立て、一部書店に虚報を流したこともあった。これに対して、間宮幹彦は著者の意向を受けて、こういう不埒な行為は看過できないと警告し、その動きを封殺したのである。
間宮幹彦は、定年退職後も月一回の定期訪問を続け、周到に準備を進めていた。そして、遂に吉本隆明の許諾を得たのである。全三六巻の構成だった。当然、東京大学卒業後、入社して定年まで勤めあげた筑摩書房に企画の打診を行っている。けれども、インターネットの普及もあり、紙媒体は雑誌や新聞はもとより、書籍もそれに押されて、苦しい局面をすでに迎えていた。例を挙げれば『國文學ー解釈と教材の研究』と『国文学ー解釈と鑑賞』の国文関係の二誌とも休刊になった。よほど財力のある大手出版社でなければ、本格的な「全集」をやり遂げることは困難な状況になっていた。彼は巻数を絞り込む覚悟を持って臨んだのだが、この企画は受け入れられなかった。それで宙に浮いてしまったのだ。
八方塞がりの状態がつづくなか、思いがけなく晶文社の太田泰弘が名のりを挙げ(よしもとばなな『人生のこつあれこれ2013』新潮文庫参照)、それで全三八巻別巻一という『吉本隆明全集』の〈全容〉が決定をみたのである。
この事情を、宮下和夫が知らないはずはない。この事情を汲めば「あれもない、これもない」などと、あたかも「全集」の編集・構成上の〈欠落〉や〈不備〉のように言えるはずがないのだ。
それに、『吉本隆明〈未収録〉講演集』は、もともとは宮下和夫が弓立社時代に全八巻の計画を立て、著者に打診したものである。著者の了解を得ないうちから、先走りして自社のブログに、各巻の構成や刊行時期、予価までを掲載した。そうやって既成事実化を図ったのかもしれないが、結局承諾を得られず、一度はボツになっている。その後の経緯は知らないけれど、その復活が『〈未収録〉講演集』であることは明白だ。従って『全集』の「内容見本」を見てというのは、はじめから〈嘘〉なのだ。
そして、『吉本隆明全集』の刊行がはじまるやいなや、小川哲生の協力を得て、前述の経緯の筑摩書房にこの復活企画を持ち込んだのである。
確かに吉本隆明の読者にとって、宮下和夫の存在は大きかった。わたしが吉本隆明に深入りするきっかけになったのも、宮下和夫の出版した『敗北の構造』だった。『自立の思想的拠点』を皮切りに、その仕事は重要な足跡を遺している。
もちろん、『〈未収録〉講演集』においても、その中心になったのは宮下和夫であり、その存在なくしては成立しなかったものである。その〈意義〉をじゅうぶん認めたうえで、言っているのだ。
しかし、宮下和夫がメインにしてきた「講演」においても、その全部を独力で録音し、蒐集したわけではない。それぞれの講演の主催者や読者からの〈提供〉があったから集まったものである(わたしも『吉本隆明全講演ライブ集』に際しては、甲府の藤井東が録音されたものを中心に、講演のカセット・テープを段ボール一箱分送っている)。さらにいえば、新たに発見され『〈未収録〉講演集』に初めて収録された八つの講演は、その殆どが宿沢あぐりの執念の探索と、主催者や読者からの提供によるものだ。
また、じぶんが弓立社を小俣一平に無償で譲渡したことは述べられているけれど、宮下和夫が所持していた「講演」の録音テープを糸井重里に譲渡した際、それが〈無償〉なのか〈有償〉なのかは、なぜか触れられていない。
もっと問題なのは、『〈未収録〉講演集』を編集し刊行するに当たっては、無償にせよ有償だったにせよ、〈譲渡〉した以上は、それから収録されるものが多数含まれているのだから、当然、企画の〈公表以前〉に糸井事務所の〈承諾〉を得なければならないはずだ。これは版元の問題であるというより〈編者〉自身の問題なのだ。しかし、それはなされず、刊行を発表してから、録音テープの提供を求めている。こんな常識外れの破廉恥な申し出は誰しも到底許容できるはずがない。糸井事務所は音源(雑音を除去したクリアなもの)の提供を拒否し、インターネット上(『ほぼ日刊イトイ新聞』)で「183の講演」の無料公開に踏み切ったのだ。この事情は全部消去され、いかにも『〈未収録〉講演集』と「183の講演」とは無矛盾で、スムーズに連結しているように取り繕われている。これを〈詐欺〉的言説というのだ。
「未刊のままになっている『アジア的ということ』だって残されている」というのだって、おかしい。『試行』に連載された「アジア的ということ」(1〜7)は、宮下和夫の発行した『ドキュメント吉本隆明』『DOCUMENT』だけでなく、洋泉社の『「情況への発言」全集成2』にも、『完本 情況への発言』にも完全収録されている。この主題に関連したものを集成するという意味だとしても、「未刊のまま」というのは著しく妥当性を欠いたものだ。こんな発言は〈著者〉も〈読者〉も無視した、自己執着の現れでしかないのだ。
まだまだわたしの知っていることはたくさんあるけれど、それらをいちいち挙げつらっても、こちらが下品になるだけだから、止めることにする。
わたしの持っていた、吉本隆明に〈伴走〉する優れた編集者宮下和夫という思い込みが崩れた最初は、一九八七年の吉本隆明・中上健次・三上治の主宰の『いま、吉本隆明25時』というイベントだった。わたしもその場にいた。
宮下和夫が言っているように、これは白水社との競争入札のうえ、弓立社が版権を獲得したものだ。二四時間連続の講演と討論ということで、都はるみの登場で最高潮に達したあと、深夜から明け方にかけて、さすがに聴衆もよれる時間帯であり、中だるみという様相を呈したことは事実であった。宮下和夫はイベントの途中で、主宰者の一人である吉本隆明に「これでは本にならない」と注文をつけている。こういう催しにおいて、スポンサーや後援者が口を出すのは、わたしは〈越権行為〉だとおもう。そういうことは〈主宰者の判断〉に委ねるべきなのだ。開催最中に、〈事後〉のことを功利的に心配して嘴をいれる度量の無さに、わたしは落胆したといっていい。
だいたい、イベントにおいては、どんなパプニングが起こるかもしれないし、何かの契機で大混乱ということだってあるのだ。その責任は〈主宰者〉ならびに〈出演者〉が負うのである。そこからいえば、事務局や後援の関係者などはひとつ〈外〉の存在でしかないのだ。そんなことを長い間、吉本隆明の講演に実際に立ち会ってきた宮下和夫がどうしてわからないのか、不思議な気がした。この〈原理〉は、『言語にとって美とはなにか』の「構成論」で完璧に論証され確定されている。
そうでなくても吉本隆明の講演は、政治的敵対者の妨害や組織的な野次にさらされたり、大騒ぎになったこともある。原則をわきまえない主催者が聴衆を壇上に上げるような不始末な事態さえ起こっているのだ。宮下和夫はそういうことを熟知している人物ではなかったのか、と。
わたしは、じぶんが嫌なことを言う奴だと思われても、孤立してもかまわない。吉本隆明は「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」とうたった詩人なのだ。
だが、わたしは『吉本隆明〈未収録〉講演集』(全一二巻)の意義を貶めるつもりは少しもない。
この講演集は数多くの講演が初めて収録された、とてもいいものだ。
わたしにとっても、そうである。長い間読みたいと念願していた『死霊』や「荒地派」についての講演や、北村透谷や中上健次についてのものも読むことができたし、わたしの吉本隆明との出会いとなった高知市での講演「文学の原型について」も収録されている。それを率直に喜ぶとともに、この講演集が多くの読者に迎えられることを願う気持ちでは人後に落ちないつもりだ。
そんな思いの我慢の堤防も、この本によって、とうとう決壊したのである。
4
わたしは、吉本さんと〈雑談〉をしている時がいちばん楽しかったような気がする。最初はかなり緊張しているのだけれど、吉本さんの構えの無さに誘われように、しだいに緊張がほぐれてゆくのだ。そして、遠慮なくじぶんの意見を言いはじめるのがつねだった。それは図々しくも、いろんなことに及んだ。
たとえば「吉本さん、もう『試行』を止めて、身軽になってください。執筆者のそれぞれがもっと頑張らないのであれば、続けていても大変なだけでしょう」と、かなり早い段階で言ったこともある。吉本さんは「松岡さんの言われることはよく分かります。しかし、『試行』でなければ、書く場所のない人もいます。殊に、長編はどこにも発表するところはありません。だから、あっさり止めるというふうにならないのです」と言われた。
またの日、若月克昌の「菊屋まつり」批判を契機として、北川透とわたしとの間で応酬があった時、ちょうど『あんかるわ』が編集方法を自主的な寄稿から、依頼して「特集」を組むように転換した時期だった。わたしは「ぼくらも『同行衆通信』というのを出しているから思うんですけど、あんなことをやったら、雑誌は終わりですよ。だって、テーマを決めて依頼するということは、商業雑誌と変わりません。商業雑誌は〈原稿料〉が出るでしょう。それに対抗することは不可能だと思います」と言った。吉本さんは「北川さんのところも苦しいんでしょう。先ごろも、上京して書店回りをやったようですよ」と言われた。それから北川透の評論や詩についての話になり、「透谷論にしても、荒地論にしても、悪くはないと思うんですけど、イマイチという感じがするんですけど」とわたしが言うと、吉本さんは「そう、イマイチなんですよ」と笑われた。
こんなふうに〈雑談〉では自在で弾んだ話ができても、それが〈公開〉のものとなると、事情は一変する。
わたしは吉本さんとの公開の話し合いを持ったけれど、わたしは対談の相手やインタビューの聞き手には向いていない。読者として、その著作や発言をわりと忠実にたどっていることが、逆に〈差異線〉をかたちづくることの妨げになり、〈公開〉的なやりとりとしてのメリハリや豊穣さを欠くことになっているとおもう。
それは次の通りである。
▼ロング・インタビュー 『而シテ』第二〇号一九八九年九月発行(粟島久憲・倉本修の三人で)
▼テレビはもっと凄いことになる 『TBS調査情報』一九八九年一〇月号
▼宮沢賢治は文学者なのか 『鳩よ!』一九九〇年一一月号
▼『学校・宗教・家族の病理』(深夜叢書社) 一九九六年三月刊行(藤井東・伊川龍郎の三人で)
『学校・宗教・家族の病理』という二回のインタビューで、特にそうおもった。ここは藤井東さんと伊川龍郎さんの二人にまかせて、じぶんは引っ込んでいたほうがよかったのだ。藤井さんの温厚な人柄と豊富な知識は、吉本さんの話をうまく引き出し、主題を深めることができたはずだし、伊川さんは全共闘以降の若い世代からの新鮮な発言で、もっと話題を膨らませることができたかもしれないからだ。
二回目のインタビューが終わって、少しすると、和子さんと多子さんが来られた。和子さんは、座敷の上がり口に腰かけているわたしを見て、「あら、松岡くん、疲れてる!」と言われた。その通りだった。いいインタビューにしたいという思いが、気持ちを硬くしたのだろう。意図と結果とは、いつも別である。和子さんの言葉に、なんだか救われたような気がした。それでわたしは元気を取り戻し、その後の歓談の時をとても楽しく過ごすことができたのだった。
それでも、盛り上がった場面はあった。『而シテ』のインタビューでいえば、吉本ばななさんの『キッチン』が話題になり、あとの二人がそれを読んでいなかった関係もあって、わたしが聞くことになったのだ。「ムーンライト・シャドウ」や「満月」について、吉本さんは嬉しそうに率直な感想を語られた。また書くことの持続と職業との関係についてなど、吉本さんはずいぶんサービスされて、私たちに気を遣ってくれたのだった。
『TBS調査情報』では、ゲラの手入れの段階で、編集の榎本陽介さんを通じて、「ありがとう」という伝言があった。これはたぶん、《現在の社会病理は精神性として現れる》とわたしが発言したことに対するものだったとおもう。吉本さんは対話の場では、《そういうふうに考えると誤差がでますよ》というふうに言われた。しかしその後、これは示唆的だと思われたのではないだろうか。
良かったところを拾いあげても、これくらいだ。じぶんの貧しさに俯くしかない。だから、なおさら吉本さんの笑顔が忘れられないのだとおもう。