吉本隆明さんの笑顔(その1)

松岡祥男

     〈序〉

 この『吉本隆明さんの笑顔』と『ニャンニャン裏通り』の二冊の冊子は、『吉本隆明資料集』の発行を長い間〈購読〉というかたちで支援してくれた方々に、お礼として配布するために作りました。
 『吉本隆明さんの笑顔』は、沖縄の『脈』連載の「吉本隆明さんのこと」を中心にして、ほぼ同時期に他の場所に書いたものを、推敲してまとめたものです。
 お世話になった『脈』の比嘉加津夫さんをはじめとする同人のみなさん、またそれぞれに執筆の機会を与えてくれた方々に感謝いたします。
 吉本隆明さんは二〇一二年三月一六日に亡くなりました。
 それ以降の『吉本隆明資料集』の発行はつらいものがありました。もともと出版・編集的なアプローチでなく、〈読者〉としての試みだったからです。それでも、これがわたしの紛れもない〈吉本隆明論〉なのだと思い、続けてきました。入力や校正の作業を通して、吉本さんと向かい合ってきたからです。
 吉本さんが講演で高知に来られた機会をとらえて、囲む会を開き、自宅にお招きしました。それがすべての始まりだったような気がします。
 この冊子で、吉本さんの〈笑顔〉を描けているとは到底言えないでしょうが、わたしの意図はそこにあります。
 わたしは吉本さんの焼香にあがっていません。その遠い墓前にこの冊子を捧げます。
 みなさん、ほんとうにありがとうございました。
         (猫々堂版「あとがき」2019年12月)

 自家発行した冊子が手許に無くなりました。わたしはじぶんの著作を発表するときは〈他者を介した〉方がいいと考えています。そこで、吉田恵吉さんのご厚意に甘えて、ここに掲載することにしたしだいです。
 なお、個別にアップしたものと重複します。ご容赦ください。
                    (2024年4月)


   1 吉本隆明と沖縄 (二〇一四年二月)

     1
 吉本隆明さんは、海を愛した詩人だとおもう。
 ところで、わたし自身は四国の山間部に生まれ、太平洋を初めてみたのは、小学校の遠足の時だ。だから、海に親しみはない。船に乗ったのも、小学校の修学旅行だった。わが大杉小学校の修学旅行は同じ四国の高松であった。その時、高松港から小豆島に渡ったのである。車のCMで、仲里依紗が島の看板を見て〈あづきしま〉と読んで、傍らにいたこどもに〈しょうどしま、じゃろうが〉と言われて、狼狽するやつがあって、おもしろかった。
 吉本さんがいかに海に愛着を持っていたかは、じぶんの出自への遡行の旅ともいえる『記号の森の伝説歌』によくあらわれている。
 土肥の海で溺れて、病院で意識を回復した時に、和子夫人が「お父ちゃんは溺れたの! 河童の川流れ!」と大きな声で語りかけたという話は、水辺の生活を抜きに考えられないものだとおもう。

 すべての陸地はうねりながら
 揺れている
 海だ

              (連作詩篇「海」)

     2
 わたしは、吉本さんの「研究者」などではない。過日、奄美の人から電話がかかってきて、わたしが自家発行している『吉本隆明資料集』のことや、「南島論」などについて話したのだけれど、その中で「吉本さんについて研究されているのですね」と言われた。わたしは即座に「いいえ、違います。研究なんてしていません」と答えた。
 では、いったい何なんだということになるかも知れないが、べつにちっとも難しいことではないのだ。誰かを好きになったり、魅せられたりすると、わりと自然に、その人のものは、全部見てみたいと思うのではないだろうか。
 わたしの場合でいえば、吉本さんであり、つげ義春さんであり、武田百合子さんなどだ。できれば、細大漏らさず読みたいと思っている。もちろん、もっとマイナーな人の中にもそういう人は存在する。
 それは音楽や映画や絵画の場合でも変らないはずだ。
 そこには当然、時代の情況的な〈契機〉があるのだけれど、その存在が〈偉大〉であるとか、〈著名〉であるとかは、ほんとうは関係ないような気がする。そこに、じぶんに無いものや、またじぶんに似たものを見出すことが、その〈根源〉をなしているのではないだろうか。固有の文体(メロディ)があって、それに誘われるように感応するかどうかが、相性のようなものを決定するに違いないからだ。

     3
 吉本さんは、喋ることではじぶんの〈真意〉が他人に通じないという思いから〈書く〉ことにのめり込んでいったと、繰り返し言っている。また、人前で喋ることも苦手で、できるかぎり逃げるようにしてきたとも、述懐している。殊に女性との対面においては、相手の顔を正視することができなかったとも言われている。意識過剰といえばそれまでだが、戦中派らしい側面ともいえるだろう。
 それにもかかわらず、吉本さんは夥しい対談をやり、講演回数だって並みの数ではない。さらに、講演後の関係者との懇談などを加えれば、〈話す〉ことが得手ではなかった人とは思えないくらいだ。もちろん、そこには苦手意識を振り払うための、意識的な決断と努力があったはずだ。
 そういう意味では、吉本さんほど、未知の他者と真摯に対面してきた人はいないかもしれない。
 わたしが吉本さんと初めて話したのは、一九八〇年八月の高知市での「囲む会」だった。このとき、わたしは夏目漱石のことを持ち出したのだけれど、それに答える吉本さんは未知の相手がどのくらい、それについて知っているか、当然判るはずがない。
 『道草』の健三の細君はお住、『門』の宗助の細君はお米、『行人』の一郎の細君はお直だ。これは漱石の作品に本格的に打ち込んでいれば、多少気分的に浮いていても、違えることはまず無いだろう。吉本さんは、さりげなく『門』の細君の名を違うように言っていたのである。
 言うまでもなく、その場では、そこらへんのありきたりの漱石の読者にすぎないわたしは気が付かなかった。その会の模様を録音テープで聞き直した際、そのことに、わたしは初めて気付いたのである。ああ、そうやって、相手の理解度を測り、未知の他者を推察しているのだと思った。それが他者を傷つけずに、距離をとり、そのうえで、きちんと応答することにつながっているんだと思った。
 むろん、こんなことはわたしの〈推測〉にすぎないけれど。

     4
 晶文社から『吉本隆明全集』が刊行されることになり、このほど「内容見本」が出来あがった。その「内容見本」を見て、初めて分かったことがある。
 それは『悲劇の解読』の「序」が、最初は「あとがき」として書かれようとしていたことである。その原稿が掲載されていて、「あとがき」という文字は潰され「序」に書き換えられている。
 いまからみれば、それがどうしたということになるだろうが、この「序」は、当時大きな物議をかもした。『現代詩手帖』一九八〇年三月号の「吉本隆明の『解読』」という特集は、まさに、この「序」をめぐってのものだといっても過言ではない。
 わたしにとっても、これは超難解なものだった。
 吉本さんの追っかけをやっていても、突然、それまでの〈読み〉と〈理解〉が通用しないような場面に何度もぶつかった。たとえば『伝統と現代』に発表された「ある親鸞」のときがそうだった。こちらの知識の無さが根本的な原因なのだが、理解が届かないのである。すでに「最後の親鸞」は『春秋』誌に発表されていたけれど、それは読んでいなかったこともあり、読み通すのがやっとだった。
 しかし、これは単行本の『最後の親鸞』が刊行され、それを読むことですぐに解消された。「ある親鸞」に描かれた関東の親鸞の姿は、じぶんの全共闘体験に〈トドメ〉のように迫ってきたのである。
 『悲劇の解読』の「序」は、それよりもはるかに難解であった。
 先の『現代詩手帖』の特集に登場した評論家たちの殆どが、近視的で手前味噌な言葉を並べ立てているだけで、あの「序」を解読できているとは到底思えなかった。わたしの場合、それがほぼ分かるようになったと思ったのは、『マス・イメージ論』までたどってからだった。
 例えば北川透は、あの特集から三十年以上が経ったというのに、相変わらずだ。北川透はひとり雑誌と称する『峡』創刊号(二〇一三年九月発行)で、既発表の「吉本論」を使いまわし、水増ししたかたちで、今度は「原発」問題について、重箱の隅をつつくような、くだらないことを書き連ねている。そんなものの細部に、いちいちつきあう必要はない。北川透の言っていることの要点は次に尽きる。

  近代的理性にとって、恐怖感は論理では説明できない不条理な感情である。しかし、この不条理な感受性なくして、詩人は世界の危機や陥穽を、人より先駆けて感知できない。全体主義に対する恐怖。謂われなく差別する人間や機構への恐怖。抑圧的な権力への恐怖。原発の安全性神話が崩れ、しかも、その後の東京電力や政府の対応を見れば、原発への恐怖感を抱かないでいることは難しい。それは人間の正当な感覚だからだ。科学も技術も政治・経済も、この正当な恐怖感を受け止めなくして、安全性を構築できるとは思えない。恐怖を排除する理性の言語は、権力に回収されざるをえないだろう。それは詩とは対極の論理だからだ。
          (北川透「吉本隆明の詩と思想」第一回)

 北川透は「近代的理性にとって、恐怖感は論理では説明できない不条理な感情である」などと、思考の停止にすぎないようなことを言い、人間の精神の深淵を解明することを放棄するようなことを書いている。そこから、そもそも考え違いだと言ってもいいが、それよりも、ここにある錯誤は、〈恐怖〉を煽るところにある。
 この列島に住むもので、あの福島第一原発壊滅事故に〈恐怖〉と〈脅威〉を覚えなかったものがいるはずがない。毎度のことだが、北川透は詩をわが独占物であるがごとく言うが、〈詩〉はあまねく誰の胸のうちにも内在するものだ。ここが、この男の思い上がりを象徴している。
 ここで北川透は、まったくの偽善の「正義派」に滑り込んでいる。それは「全体主義」「差別」「権力」「原発」というふうに、これらの問題を横に羅列しているからだ。これらのひとつひとつは、それぞれに〈位相〉が異なっているものだ。この安直な平板化が、論理的退行を物語っている。こんな上っ面な「五目並べ」ならぬ項目並べなら、あの超反動的な安倍首相でもやれるだろう。これこそ〈うその考え〉というものだ。
 もっと度し難いのは、「恐怖を排除する理性の言語は、権力に回収されざるをえないだろう」と言っていることだ。この犯罪的な短絡は、すべての通俗的左翼に共通した〈病的〉なものだ。だいたい、おまえの何が「権力に回収」されないものを内在しているというのか。そんな保証は、誰にも先験的に与えられてはいない。主観においてならば、もちろん、そう思い込むことは誰だってできる。それだけのことである。
 「恐怖を排除する理性の言語」などという言いがかりで、吉本を批判したつもりになるなんて、ちゃんちゃら、おかしいのだ。
 吉本隆明は自らの戦争体験から、「鬼畜米英」という未開の恐怖感を組織して、民衆を戦争に動員していった軍国主義や天皇制を否定する、体系的論理を構築することに、その生涯の大半を費やしてきた。その達成のひとつが、言うまでもなく『共同幻想論』なのだ。その中で、もちろん〈恐怖の共同性〉をいかに打破するかが、論理的に問われている。
 〈恐怖〉や〈脅威〉を感じることは、なにも「詩人」の特権ではなく、あたりまえのことなのだ。それでも、地球は回っているし、人類の知的な探究も、文明の発展も止まりはしない。それは人間の〈類的な本性〉に基礎を置いているからだ。
 また、諸個人が〈恐怖〉や〈脅威〉を感受することと、その〈恐怖〉や〈脅威〉を共同性として組織することとは、まったく違うことなのだ。
 吉本隆明は、人々の未開の心性を、政治的に(思想的にでも同じだ)組織することは、根底的な転倒であり、それが閉鎖的な〈共同幻想〉を生むことを指摘し、人々を地獄の道へと誘う錯誤だと、孤立を怖れず批判し、情況と対峙しつづけてきたである。そんなことすら北川透は忘れてしまっている。
「シモーヌ・ヴェーユの意味」という講演ひとつでいいから、読み返してみるがいい。
 この北川透の言説は、通俗的左翼や進歩派勢力への迎合であり、それはとりもなおさず、北川のいうところの「権力に回収され」ていることの実証ではないのか。北川透の〈自己腐敗〉の劇をみていると、これは原発より恐ろしいかもしれない、と痛切におもう。
 まあ、小学生の時の算盤練習のように、これまでの言い方をご破算にして、改めて願いましては、という具合に、もっと離れた視点から言うこともできる。同じような批判的観点に立った上野千鶴子の「内容見本」の一文をもってきてみる。

    吉本隆明は戦後日本最大の、そして空前絶後の思想家である。「空前絶後」というのは、吉本の前に吉本はなく、吉本のあとに吉本はいない、という意味である。
  彼は戦後の反体制運動のなかで扇動者の役割を果たしたり時局発言をしたりしたが、また大衆消費社会に迎合したとも言われたが、そしてオウム事件の時には麻原彰晃を擁護したり反原発運動に対立したりというフライングを犯したりもしたが、そういうふるまいの瑕疵はかれの業績を傷つけない。
  というのも、彼ほどラディカルにーー根底的に、という意味だーー言語について、国家について、共同体について、家族について、性愛について、心的現象について、信仰についてかんがえた者がほかにいただろうか?「理論不毛の地」と言われたこの国で、どんな外来の思想にも頼らず、徒手空拳で自前のことばで考えぬいた。
  「ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる」という自負がなければ、これらのしごとはなしえなかっただろう。

            (上野千鶴子「空前絶後の思想家」)

 もちろん、すぐにいくつもの異論が湧きあがってくる。「オウム事件の時には麻原彰晃を擁護したり反原発運動に対立したりというフライングを犯したりもした」などいうのは、スターリン主義の末裔らしい〈世俗性〉へのおもねりでしかない。しかし、北川透の「吉本隆明の詩と思想」と上野の一文を較べれば、どちらがおのれの役割を自覚した凛々しい言明で、どちらがつまらないケチつけで姑息に自己顕示をはかる、さもしい言説かは明瞭なのだ。

     5
 今回の『脈』は「吉本隆明と沖縄」という特集なので、この〈主題〉に関連する主要な吉本さんの著作や講演を年代順に掲げて、参考に供したいとおもう。
 他者を論ずる場合は、ちゃんとその相手の言説に真向かい、それを〈理解〉することが大前提である。そこから、ほんとうの〈批判〉も、本質的な〈継承〉もはじまるのだ。

▼「敗戦期」(一九五七年)→『高村光太郎』
▼「母制論」「起源論」(一九六八年)→『共同幻想論』
▼「琉球弧の視点から」(一九六九年)→『島尾敏雄』
▼「異族の論理」(一九六九年→『情況』
▼「国家と宗教のあいだ」(一九七〇年)→『〈信〉の構造3』
▼「宗教としての天皇制」(一九七〇年)→『〈信〉の構造3』
▼「南島論ー家族・親族・国家の論理」(一九七〇年)→『〈信〉の構造3』
▼「『世界ー民族ー国家』空間と沖縄」(一九七一年)→『敗北の構造』
▼「南島の継承祭儀について」(一九七一年)→『〈信〉の構造3』
▼「家族・親族・共同体・国家ム日本〜南島〜アジア視点からの考察」(一九七二年)→『〈信〉の構造3』
▼「枕詞論」(一九七四年)→『初期歌謡論』
▼「聖と俗」(一九七四年)→『島尾敏雄』
▼「色材論」(一九七六年)→『吉本隆明資料集六〇』
▼「『記』『紀』歌謡と『おもろ』歌謡」(一九七九年)→『初源への言葉』
▼「南方的要素」(一九七九年)→『吉本隆明資料集七〇』
▼「色の重層」(一九八二年)→『吉本隆明資料集七六』
▼「アジア的ということ 6・7」(一九八三年)→『完本 情況への発言』
▼「縦断する『白』」(一九八四年)→『柳田国男論』
▼「共同体の起源についての註」(一九八七年)→『〈信〉の構造3』
▼「ドキュメントの画像」「視線論」(一九八八?九年)→『情況としての画像』
▼「表音転移論」(一九八八〜九年)→『ハイ・イメージ論U』
▼「南島論序説」(一九八八年)→『吉本隆明資料集九九』
▼「南島論 前提」(一九八九年)→『吉本隆明資料集九九』
▼「南島論 表出としての神話」(一九八九年)→『吉本隆明資料集九九』
▼「おもろさうし」(一九九二年)→『吉本隆明資料集九九』
▼「おもろさうしとユーカラ」(一九九二年→『吉本隆明資料集九九』
▼「沖縄の舟大工さんの記憶」(一九九二年)→『下町の愉しみ』
▼「イザイホーの象徴について」(一九九三年)→『吉本隆明資料集九九』
▼「心的現象論 第五八回 了解論二七」(一九九三年)→『吉本隆明資料集七二』
▼「総論 柳田民俗学」(一九九四年)→『吉本隆明資料集一三一』
▼「起源論」「脱音現象論」「原了解論」(一九九三〜五年)→『母型論』
▼「おもろさうし」「匂いと人種」(一九九四〜六年)→『匂いを讀む』
▼「コメと基地」「沖縄・有事・集団自衛権」(一九九六年)→『思想の原像』
▼『アフリカ的段階について』(一九九八年)
▼「島・列島・環南太平洋への考察」(二〇〇三年)→『別冊太陽 日本の島』
▼『中学生のための社会科』(二〇〇五年)
▼「おもろさうし」(二〇〇七年)→『思想のアンソロジー』

 断るまでもなく、これは便宜的な目安にすぎない。
 吉本さんの論考は重層的で、連鎖的な性質を持っているので、個別の主題に完全に分離することは不可能に近い。また、『共同幻想論』から「母制論」と「起源論」だけを取り出すことも、『柳田国男論』から「縦断する『白』」だけを抜き出すことも、できないからだ。そこでは、どうしても吉本さんの思想の〈全体像〉の把握が不可欠なのだ。
 こんなふうに言うと、だんだん重装備の構えを要する、険しい登山みたいな感じになってくる。それはまったく、わたしの本意ではない。なにはともあれ、関心を持ったひとつの作品、あるいは一冊の本を、とりあえず読んでみて、興味が湧いたら、関連するものをたどればいいのである。わたし自身がそうしてきたように。どんな場合も〈思索の歩行〉は、一歩一歩なのだから。
 この中で、わたしがもっとも重要だとおもうのは、「南島論 表出としての神話」である。吉本さんはここで、南島は国生みの神話(民話)を欠いていることを論証している。その意味は深い。なぜなら、それは〈国家以前〉ということであり、その基礎構造を解明し、歴史に奪回することができるならば、それは〈国家以後〉の原基となるかも知れないからだ。


   2 ある日の吉本さん (二〇一四年八月)

     1
 わたしは、〈吉本さんはじぶんの中に生きている〉と思ってきた。
 亡くなってから出された単行本・文庫本の全部を購入したけれど『開店休業』しか読んでいない。『開店休業』は、多子さんの本だと思ったから読めたのかもしれない。一種の拒絶反応みたいなものだ。でも、『吉本隆明全集』の第6巻を手にした時、吉本さんはもういないのだと痛切に思った。

 第6巻は、若い大江健三郎や石原慎太郎などの批判から始まっている。それはとても〈現在的〉な気がした。反原発の旗頭の大江、また日本維新の会の共同代表でナショナリズムへの回帰を推進する石原、それらへの批判と評価は、すでにこの時点で根底的になされているといっていい。
 わたしの場合、吉本さんをリアル・タイムで読んだのは一九七〇年代からだ。それ以前のものは、詩と主要なものを除けば、右も左も判らない状態で、しかも中腰で辿った記憶しかなく、ほんとうに読んでいるとは言い難い。この機会に、ちゃんと読むことにしたのだ。
 全体の半分以上を読んだところで、わたしがもっとも注目したのは「日本ファシストの原像」である。その当時の反響は知りようもないけれど、この論考は「戦後世代の政治思想」に劣らないものだ。
 むかし読んだ時は、花田清輝との論争の関係で、戦争中に花田が属していた東方会の首領である中野正剛の思想を批判したものだと思った。それによって、花田の戦中の振る舞いに、その核心でとどめを刺したと読んだのである。
 しかし、今回、読み返してみて、この論考はそんなレベルにとどまるものではないと思った。ここで、批判されている東方会のイデオロギーは、現在の自民党安倍内閣にいたるまで、日本ファシズムの原型として受け継がれているものだ。国家による産業や社会構造の外部統制の手法は、表面的に変形していても、何ら本質的に変わるものでないことを示している。
 北一輝と中野正剛の差異の指摘やファシズムの定義は重要であり、また第3節の大衆的な位相における国家体制への順応の諸様式は、依然として未決の課題として横たわっている。
 吉本さんが、この論考に重きを置いていた理由がわかったような気がした。
 この「日本ファシストの原像」や「日本のナショナリズム」をへて、『共同幻想論』にその思想的展開は結実していったのである。

     2
 吉本さんの思い出はいっぱいあるけれど、あれはいつだったか、友人の伊川龍郎と一緒に訪ねた時のことだ。上りこんで話しているうちに、和子夫人と多子さんが、薪能を観に行くということで出掛けられた。吉本さんは「あんなもの、おもしろいはずがない」と言われた。でも、置いて行かれたことが、なんとなく寂しいという感じだった。

  一笛に天女舞い立つ薪能
  薪能火入れて闇に深めゆく
  火の外の闇へ舟漕ぐ薪能
  霊も生もひとつ火の内薪能

              (吉本和子句集『七耀』)

 それでだと思うが、「出掛けましょう」と言われて、三人で上野へ行ったのである。吉本家は、みんな出かけても、玄関の鍵はかけない。その徹底した開放度も驚きだ。吉本さんは若い人向きのパブのようなところへ案内してくれ、ピザとビールをご馳走になった。そこで別れたのだが、吉本さんは家へ帰る気配はなく、上野を徘徊するつもりの様子だった。少し酔っているようなので、心配だったけれど、まあ吉本さんのテリトリーなのだから大丈夫だろうと、わたしたちは上野を後にした。

 〈この汚れた空気には心がある
  だが樹木をわたる清浄な風に心はない
  農夫ミラーよ
  自然がそのまま善だという伝承は嘘だ
  わたしの女が喘いでいる たぶん
  自然の不在からではなく 愛の不在のために

    (吉本隆明「〈農夫ミラーが云った〉」)

 吉本さんの恋愛詩には、独特の〈屈折〉があるような気がする。
 それは有名なふたつの「恋唄」に描かれたような恋愛の事情だけでなく、夏目漱石の分析で語っている「無意識にたいして、女性がいつでも異なった性、あるいはまったく想像も及ばない外部からこの世界にやってくる性としてかんがえられています。漱石の均質的な性という世界に、女性は絶えず外来する違和感として、あるいはそれにたいして世界の外からやってくるもの」(「漱石をめぐって」)という思いが、吉本さんの中にも深く潜在していたのではないだろうか。
 しかし、吉本さんは〈対幻想〉という関係概念を設定し、それが独自の原理的位相を持つものであることを確定した。『共同幻想論』では森鴎外の「半日」と夏目漱石の「道草」を対象として論を構築しているけれど、もっと典型的な作品を求めるとすれば、それは島尾敏雄の『死の棘』である。ここには〈対幻想〉の本性が剥き出しになっているからだ。

   はじめに相互の〈愛〉があり
  なかほどに〈意志〉の持続があり
  おわりに皮膚のすみずみまでに触知される変形自在な
  滲透の支配がある

    (吉本隆明「〈不可解なもの〉のための非詩的なノート」)

 吉本さんは〈いきぬき〉の仕方をよく心得ていた人だとおもう。それを上野の雑沓に紛れてゆく姿に見たのかもしれない。それは孤独の影を曳いているというよりも、家族の幻を背負った休日のサラリーマンの心情にちかいものだ。

     3
 「吉本隆明」という名に集うこともいいけれど、そんなことよりも、ほんとうに読むことが、空念仏に堕することのない、創造への道なのだ。
 『全集』は、とても丁寧に編集された良いものだ。詩・批評・作家論・書評・雑蒐の部立てになっているけれど、政治思想論も詩論も情況論も、基本的に年代順に並んでいる。それをたどれば、吉本さんの思索の過程が如実に伝わってくる。

  わたしは、安保闘争後一年間、昼寝をして暮した。そして余分の金がたまにあると、女房と三歳の娘をつれて浅草へ遊びにいった。食い物あり、射的あり、パチンコあり、スマート・ボールありである。射的を例にとろう。十発の玉で、はじめは一個のタバコも落せなかったが、近頃では三個くらいまで落せるようになった。
  この間、大正行動隊は、パルタイからの攻撃とたたかい、炭労幹部のダラクとたたかいながら果敢に工作したことがビラの跡にみえる。わたしのタバコ三個の上達は、大正行動隊のたたかいによく拮抗しうるや否や?

                   (吉本隆明「軋み」)

 これは、フィジカルにそのまま受けとってもいいし、メタ・フィジカルに読むこともできるものだ。
 これが掲載された『現代思潮社NEWS』を、名古屋の芳賀幹武さんが贈ってくれたこともあって、熟読している。
 柄谷行人が、この一文を読んだとき、齟齬を感じたとどこかで書いていた。柄谷行人みたいな、学生からそのまま大学界隈で棲息してきたものに、炭鉱労働者の欲望や快楽の質も、社会の地平の深淵や拡がりの実際も、分かるはずがない。それは「昼寝」の内実も、「射的」の意義も、全く理解できず、皮相なまま、いつまで経っても泣き言を繰り返している最首悟のような《東大馬鹿》と同じである。
 わたしは中学を卒業して、就職した日のことをよく覚えている。
 パン屋の工場の仕事は立ち放しで、足が棒のようになり、時間が経つのがものすごく遅く感じられた。職場の柱時計をしきりに見ていたような気がする。これがわたしの社会の初日だった。いうまでもなく、仕事に慣れ、作業に没頭できるようになれば、時間は圧倒的に早く流れる。
 ここでの「射的」は、この巻の詩論や短歌論、映像過程論や社会主義リアリズム論批判などを指していることは明瞭であり、「射的」の模様はつぶさに披露されている。そして「軋み」という一文は、その「射的の腕」をいよいよ本格(体系)的に試みるという、「言語にとって美とはなにか」への出立の宣言なのだ。


   3 傲慢な加藤典洋 (二〇一四年一一月)

     1
 世の中の動きや次々に起こる事件など、いくらでも黙ってやり過ごすができる。まして、他人の言説など、なおさらである。こんなことを言うのは、『吉本隆明全集』の第7巻の「月報」の加藤典洋の文章を読んで、呆れたからだ。
 加藤典洋という批評家は、温厚で理解力のある「中庸」をわきまえた人格者というのが通り相場なのだろう。そんな人物に難癖をつけるのは、お門違いということになるのかもしれない。しかし、ほんとうは程よい言説ほど始末が悪いものはない。ムキな必死の〈反抗〉や避けることのできない切迫した〈行動〉も、みんな中和し、無難な調和の秩序に還元してしまう作用があるからだ。
 なにが「吉本隆明の遺したもの」だ。ふざけるな。岩波書店のお座敷で、その意向を汲むかたちで、高橋源一郎とともに、さも吉本隆明の思想は去ったがごとく、語り合って、ご満悦なのだ。この無力化をはかる態度こそ度し難いというべきなのではないのか。
 第二次安倍政権成立以降、「国家機密法」や「集団的自衛権の行使」をはじめとする、内外にわたるファシズム的傾向が強まる情況のなかで、それを根底的に否定する思想は『共同幻想論』をおいてない。いまこそ《吉本隆明》なのだ。
 なにが安倍政権のインチキなのかは、はっきりしている。いくら国家統制を強化したところで、日本にはアメリカ(日米安保条約)抜きに、戦争を担当する能力はない。そんなことは、『高村光太郎』や「日本のナショナリズム」などを読めば、容易く見透すことができることなのだ。しかし、この動向を現実的に打破することはむつかしい。それは国家という共同幻想を無化することが困難なのと同じである。

  そもそも、吉本さんには普通の人についていえるような「ともだち」とか友人は、いたのでしょうか。いたとしても、それは、みんな戦争などで死んでしまった若いときの人だったような気がします。生きている人で、友達といえるような人はいなかったのではないか。
        (加藤典洋「うつむき加減で、言葉少なの」)

 こんなことは、日ごろからつきあっていないと、言えないことだ。
 加藤典洋はそのうえで、吉本さんは「とっても孤独の深い人だった」と書いている。では、加藤典洋に訊くが、吉本さんの代表的な詩集といえば、『固有時との対話』『転位のための十篇』『記号の森の伝説歌』だ。そのひとつの『転位のための十篇』には、〈深尾修に〉という献辞が記されている。加藤はこの「深尾修」という人物を知っているか。その「深尾修」が、吉本さんにとってどういう人だったのか。そういうことをわかろうともしないで、いい加減な臆断を披瀝する神経が、わたしには不可解だ。ソフトな口調でいえば、どんな言説も罷り通ると思ったら、大間違いなのだ。「深尾修」については、わたしの知る限り、宿沢あぐりが初めて明らかにした。それに拠ってたどると、こんな文章もあるのだ。

  奥方と子どもは、奈良若草山の山焼きを見にいって留守だ。わたしは、正午すこしまえに、上野桜木町に住んでいる大学同級だったFのところに電話した。年の暮に巣鴨のお地蔵さん(トゲ抜き地蔵)に行ってみないかと言われていたので誘うつもりだった。だがいま大流行の感冒で三十八度何分の高熱だという。もういい年齢だから気をつけないと肺炎をおこす。そうすると長く寝込んでしまう。身体のいろいろなところに悪いところが連鎖的に出てくるから、思いもかけず病気をひろげたりする。実感でそれがわかるから、これはとんでもない、お地蔵さんどころではないよと、早々に電話を切りあげた。
           (吉本隆明「いつもの年の晴れの日」)

 もちろん、わたしは吉本さんについてよく知っているわけではない。だから、おれの方が詳しいなどと言いたいわけでは断じてない。どんな人に対してだって、その人に「ともだち」がいたかどうかなんて、そんなことは憶測で言うべきことではないと言っているのだ。
 加藤典洋の書いていることは、一見謙虚そうにみえるが、その実、恐ろしく傲慢なものだ。
 そもそもの〈誤解〉は、吉本さんは、知的には痛切な戦争体験に基づいて、時代を真正面で受け止め、決して妥協することなく、孤独な営為を持続してきたといえるだろうが、日常的にはきわめて〈庶民〉的だった。友人や知人を思う気持ちは、驚くほど強いものがあったとおもう。それをわたしは幾度か垣間見た。そんな吉本さんは、〈知識人〉である自己などいつでもその片鱗さえ窺えないくらいに、自らを〈開く〉ことができたのである。知識でおのれを鎧った大学教授や、どこでもインテリ面をしたがる連中には、そんなことは分からないかもしれないけれど。
 さらに、加藤典洋はこんなことを言っている。

  この人はお母さんに愛されなかった人ムム少なくとも自分ではそのように思っていた人ムムだったのかもしれない、(加藤典洋・同前)

 たしかに、吉本さんがそういうふうに語っているところはあるけれど、それはあくまでも、さまざまな〈点線的〉な述懐のひとつであって、それをあたかも真実であるがごとく〈実線化〉すると、全く違うものとなってしまう。吉本さんの母への愛着は、それよりもはるかに深いように、わたしには思える。

 微かな日の果て
 霊安室を出てから
 母のため涙をながしたことがある
 死を運ぶ人が
 とてもやさしかつたので
 ひと粒の涙のなかに
 海は凪いでいた

               (吉本隆明「ある鎮魂」)

 だいたい、加藤典洋は発想が貧困であり、一般的な洞察を欠いているのではないだろうか。
 吉本さんは六人きょうだいの第四子で、三男だ。
 ちなみに、わたしは七人きょうだいの末っ子である。母が産む時、わたしを要らない子だと思ったことはわかっている。母が姪にそう語ったという話も聞いた。養子嫁の貧しい農家にとって七人目の子どもなど、端から厄介なお荷物だったろう。しかし、そうだからといって、わたしは母を悪く思っていない。
 父にとっても、母にとっても、長子(殊に長男)は特別な存在だ。父母にとって、第三子や第四子というのは〈はざま〉に位置するものだ。兄と弟のあいだ、姉と妹のあいだ、そういう意識は家族の間にもあるし、自分自身だって自覚するだろう。そこにおいて、父や母への思いはいろんな形で屈折せざるをえない。
 ここでは、吉本さんのことをいうよりも、じぶんのことをいう方が確かだ。わたしの場合、小学校へ入学する直前に父がなくなった。その時、長兄も次兄も姉も、既に家を出ていた。三男が一番年長で、父に代わって家の農業を手伝った。中学生だったけれど、学校へ殆ど行っていない。出席日数が足りなくて、正式には卒業もしていない。
 だけど、その兄は暗いところはなく、ガキ大将の延長で、村のガキどもを率いて、遊びとも仕事ともつかないような形で、炭焼きの木を集めさせて、炭を焼いたりしていた。わたしと違って、運動能力も高く、器用で大工仕事などもこなしていた。わたしは子供心に家はこの兄が継ぐものと思っていた。ところが、どうした経緯なのか知らないけれど、長兄が家を継ぐことになり、三兄は大阪の氷屋に丁稚奉公に出た。それから苦労して、高知市で医療機器販売の会社を立ちあげた。その兄も今年四月、癌で亡くなった。
 その兄がもっとも慕っていたのは、姉だった。母は下にまだ三人の子がおり、とても、その兄に気を向ける余裕はなかったからだ。
 吉本さんにとっても、姉さんは大きな存在だったような気がする。それは早く亡くなったこともあるだろうが、母の情愛に代わる面ももっていたのではないだろうか。もちろん、吉本さんはフロイトのエディプス論を深化し、胎乳時期における〈母と子との物語〉に重きを置いて、心的現象の根源を探っている。その考察の基礎となっているのは、自己体験であることは言うまでもない。そこでは〈母〉という存在は深淵なのだ。
 しかし、加藤典洋みたいに、それを実際の母に対する思いとして、〈実線〉的に直結することはできないと、わたしはおもう。それは『食べもの深訪記』をたどれば、すぐ分かることだ。食べものへの執着を語ることで、母への思慕をうたいあげているからだ。

     2
   主権在民ということ

 先日、荷物を取りにきてくれた宅配の人に、「八月はものすごく雨が降って大変だったでしょう」と言うと、「そうですね、荷物が濡れると困るので苦労しました。日本はいったいどうなるでしょう。亜熱帯みたいになって」と言いました。
 五〇ミリとか一〇〇ミリとかの豪雨が、全国各地で降っています。地球温暖化の影響なのでしょう。この気候の変化は、元には戻らないような気がします。
 第二次安倍政権になってから、災害や事故が増えたように感じます。でも、そんなことに責任があるとは思っていないのかもしれません。
 近代以前の古い時代のアジアやアフリカでは、天災や疫病がつづくと、それは為政者のせいとみなされていました。
 供物を捧げたり、お祓いをしたり、それでも災厄が治まらないときは、その禍の責を取る形で、年号を変えたり、首長そのものの罷免が行われています。
 それは未開の思考法と言えるでしょうが、人々の苦難と直結していたという意味では、血が通っていたともいえるでしょう。
 自然の災害に対しては、場当り的な対処ではなく、抜本的な方策が求められることは言うまでもありません。
 そして、内政と外交にわたる、もっとも重要なことは、国の方向性です。
 「集団的自衛権の行使」を自民党と公明党の政府与党が閣議決定しました。
 私は、高村光太郎の「根付の国」という詩を痛切に思い起こしました。日本も日本人もどうしようもなく、卑屈です。もちろん、私もその一人です。
 日本国憲法第二章第九条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とあります。
 これは明確な規定であって、どのように拡大解釈しても「集団的自衛権の行使」などというものに行きつくはずがありません。
 国家主義者や歴代の政権担当者がいうように、この憲法は占領軍に押しつけられたものであり、また現在の国際情勢に適合しないものだというのなら、「主権在民」の憲法に則って、国民投票によって直接、その総意を問うべきです。
 それを卑劣にも回避した「解釈改憲」などという手法を弄するところに、この国の政治的倒錯は極まったといえるでしょう。だいたい国民を欺いて、「国を守る」もなにもあった話ではないのです。
 国家は共同の幻想です。その国家の本質と、個々の実存は逆立ちしています。それが相互規定的な国家間の険しい利害の壁を解消していく根拠といえます。
 ジョン・レノンの「イマジン」に歌われているように、戦争のない平和な世界は、人類の願いです。軍隊や兵器の要らない世界の実現は、人々の夢なのです。それは、いろんな政党の思惑をはるかに超えたものだと、私は思っています。
 その願いや夢に、もっとも近いのが日本国憲法の「戦争放棄」なのです。

           (『高知新聞』二〇一四年九月一五日)

     3
 わたしはいま、吉本さんの一九六〇年代の講演と質疑応答の入力作業をやっている。それは、現在でも通用するものだ。

 法というものは、わりあいに共同体自体が経済社会的にもあるいは法的にも発達して複雑になってくるというような、そういう段階になってきますと、AがBの田畑を侵犯したというような場合に、AはBにたいしてわるいことをした、つまり侵犯行為をおかしたんだからそれにたいしてこういう法概念にもとづいて、Aはこういう罰をうけるというようなそういう概念じゃなくなって、AがBの権利あるいは所有を侵犯したという、そういうことであるにもかかわらず、権力自体にたいするAの侵犯行為だというふうにだんだんかんがえられていくわけなんです。あきらかにAという人間がBという部落民の田畑を侵犯したにもかかわらず、Aは法を掌握している支配というものにたいして不当なる行為をおかしたんだというふうにかわっていくわけなんです。そういうふうにAとBというような場合に、Aも村人でありBも村人であるという場合に、AとBのあいだに相互に侵犯行為があったとしても、水平の概念なんですけどね、ところがそういう侵犯行為であっても、それはAがBにたいしておかした侵犯じゃなくて、法を私有するあるいは占有するものにたいする侵犯行為であるというふうに転化される。つまり、ひじょうに垂直な概念に転化されてくるわけです。
                (吉本隆明講演「国家論」)

 なにが重要かといえば、法が、〈水平概念〉としてあった侵犯行為を〈垂直概念〉に転化してしまうことだ。そして、法権力として制裁を下すようになる。その法の権力への転化は、もとの発生段階には決して戻らない。
 さらに、日本(アジア)においては、この権力の発生の機構はきわめて〈未分化〉であるということがいえる。その例は、いくらでも挙げることができる。いまは大リーグにいる松坂大輔が、西武の選手時代、空港かなんかで車を駐車場で移動させて、無免許運転で摘発されたことがあった。そこにはライバル球団の意向が働いていたことは想像に難くない。付け回していなければ、こんな些細なことが露見するはずがないからだ。その場合、当然罰金を支払っている。それで法的処分としては終わりである。ところが、日本の社会ではそれでは済まない。それを重大な社会的違反行為であるがごとく、マスコミが取り上げ、彼はすべてのテレビCMから降ろされてしまった。
 法が〈水平概念〉から〈垂直概念〉に転化すると同時に、その転化の過程に〈未分化〉な領域が大きく広がっているのだ。それが日本の国家権力の支配の〈威力〉のひとつとなっているといえるだろう。
 そのひとつのあらわれは、資本側のリストラ攻勢以来、残業代不払いなど労働条件の悪化や、基本的人権の侵害がつづいているなか、じぶんたちの生活や権利が損なわれても、労働組合はストライキのひとつも打つことができない情況になってしまっている。〈垂直概念〉が〈水平概念〉を包み込み、それがあたかも〈全体性〉であるかのような支配力を発揮するからだ。それに呑み込まれてしまうと、一つの企業におけるスト権の行使であっても、日本経済全体に対して悪影響を及ぼすと錯覚されるのだ。
 だが、この社会にはいたるところに〈亀裂〉や〈空隙〉があり、そこに根拠をおくかぎり、すべてを覆い尽くそうとする国家意志に対する〈抵抗〉は消滅することはない。
 吉本さんは、いまもそう語りかけている。


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「吉本隆明さんの笑顔(その1) 松岡祥男」 ファイル作成:2024.04.01 最終更新日:2024.04.03