吉本隆明さんのこと(15)瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」批判

松岡祥男

     1

 瀬尾育生が『吉本隆明著作アンソロジー 第一分冊 1949-1969』という未刊本の解説を『LAIDEN(雷電)』第一一号に発表している。
 それを読んでいて、思わず自民党の女性議員みたいに「このボケー、違うだろー」と叫びそうになった。

  この雑誌(引用者註ー『試行』)はいくつかの書店店頭での販売とともに、売り上げの半数ほどを定期購読者によっており、寄稿者は定期購読者であることを条件としていた。
    (瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」)

 吉本隆明は《寄稿者は定期購読者であることを条件》とするなどと、どこにも書いていないし、そんなことは一度も言っていない。
 わたしは「『試行』全目次・後記」(『吉本隆明資料集』第二八集)を作った。その実質にかけて、これは断言できる。
 よくも、こんな出鱈目なことを書けるものだ。
 じぶんの経験からいっても、読者からの〈寄稿〉はほんとうにうれしいものだ。
 吉本隆明もおそらく、『試行』の読者が執筆者に転位することを〈理想〉として思い描いていただろう。しかし、それを《条件》とすることとは全く違うことだ。考え違いも甚だしいのである。
 これは決して揚げ足取りではない。吉本隆明の思想的態度の〈根柢〉にかかわるからだ。
 『試行』の執筆者、五十音順にいって青木純一から渡辺則夫に至る、総勢一〇八名(もしくは一〇七名)全員が「定期購読者」であったとは考えられない。
 中には、知人から薦められて投稿した人もいただろうし、偶然『試行』を知り、吉本隆明主宰の雑誌とわかり、原稿を送った人もあったかもしれない。それに、仲倉重郎のように映画作品(「きつね」)を寄せた人もいるのだ。また店頭購読者は、発行者の側からその存在を実際に知ることは不可能だ。
 吉本隆明の採否の〈基準〉は、はっきりしている。
 ひとつは、所定の水準に達していること。
 もうひとつは、それぞれの切実な課題に対して求心的であること。
 この二点と言っていいとおもう。その他に考慮すべき、どんな《条件》も設けないことが『試行』の自立性だったのである。
『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
 それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者が分からない場合もあった。
 たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の編集・発行者である吉本さんに問い合せた。そうしたら、事務を担当された吉本和子さんから「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」という返事をいただいた(内村剛介本人はインタビューで別人としているらしいが_。言うまでもなく内村剛介は「政治犯」として長い間ソビエトに拘留された。帰国後も、その方面の追跡や監視は続いていたことは想像に難くない。また、日本のその筋からも要注意人物扱いだったろう。訪ねるたびに、内村家の表札の名字が変わっていたという話もあるくらいだ)。
 『試行』に寄稿した書き手のなかで、もっとも大ヒット作を出したのは片山恭一だとおもう。そう、あの『世界の中心で、愛をさけぶ』である。彼は『試行』第六七号に「猶予される時間」という批評文を寄稿している。しかし、その一文を読むと、その当時のポスト・モダンの思潮を踏まえ、じぶんに引き寄せたものだ。『試行』のもつ独自の〈志向性〉に重きを置いているようにはみえない。
 それは「子供たちのカフカ」を発表した吉野二郎なども同じだ。
さらに言えば、川浪磐根の「山童記」は遺稿である。川浪磐根は歌人で、一九六九年に八六歳で亡くなっている。明治一六年生まれの年齢と経歴からして、生前「定期購読者」であったとは思えない。
 瀬尾育生は、じぶんで確かめもしないで、いい加減なことを書くべきでない。
 だいたい、『吉本隆明全集』(晶文社)が刊行中というのに、なにが「アンソロジー」だ。
 しかも、この「解題」をみると、吉本隆明の基礎的著作である『言語にとって美とはなにか』も『心的現象論序説』も『共同幻想論』も〈部分的抜粋〉ということになっている。これには仰天した。
 瀬尾育生も、これに加担したらしい加藤典洋も、おのれも〈著作家〉なのに、恥ずかしくないのか。じぶんが心血を注いだ〈体系的著作〉が抜粋という扱いを受けても、なんとも思わないのか。
 もっと言えば、インターネット時代にあって、もし吉本隆明のいわゆる三部作を読みたいと思えば、古本とはいえ安価な文庫本で、完全な形の本を容易に入手できるのだ。それなのに、なにが「セレクション」だ。
 ここから、瀬尾育生の言説にもう一歩踏み込んでみる。

  いわゆる花田・吉本論争のドキュメントは収録しなかった。吉本は生涯、闘争的な言論のなかで自らの思想を構築していった思想家だが、それらの問題のなかにはほかならぬ吉本の議論そのものによって問題の次元自体がすでに歴史的に消滅してしまった部分があり、またこれらの論争的な文章について、その一方のものだけを収録することは無意味に近いからだ。
    (瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」)

 こんなことをいうなら、べつに「アンソロジー」なんか作る必要はどこにもないではないか。すべて過ぎた時代の残骸ということになるからだ。
 こんな事後的な形式論理でいけば、その時代を生きた人の営為の、〈意味〉と〈価値〉は無化されてしまう。その生きている時代情況というのは、誰もがある面では必死で、暗中模索の真っ最中にあるのではないのか。そうやって人は生き、そして生涯を終えるのではないのか。むろん、起きて半畳、寝て壹畳だって同じである。
 花田清輝という存在は個人であっても、あの論争の中の「花田清輝」はひとつの〈象徴的存在〉なのだ。その背後には、若い同調者から「新日本文学」のメンバー、日本共産党までが組織的に連なっていた。一方、吉本隆明は生き残ってしまった戦中世代の陥没性を背負って、それに立ち向かったのである。その総体的な情況のうちに、あの論争はあったのだ。《その一方のものだけを収録することは無意味に近い》だって、酒場の個人的な口論ではないのだ。馬鹿も休み休み言うがいい。瀬尾は添田馨の『吉本隆明ー論争のクロニクル』を「公平」などと評価している。しかし、いまの世の中に「公平」なんてものはありはしない。〈主観性〉と〈客観性〉があるだけだ。
 瀬尾兄よ、思い出してみるがいい。東大安田講堂決戦の時、じぶんはどこにいて、何を考えていたかを。またドイツ語の教師として大学に職を得ようとした時のじぶんの思いを。そんなことをお前なんぞに言われる筋合いはないということになるだろうが、神山睦美とのケンカで、喫茶店めぐりについて書いた瀬尾育生には〈ハート〉があった。あのときの瀬尾育生は、こんなつまらないことをいう人物ではなかったと、わたしは思っている。
 それは、この「解題」全体についても言えることだ。『雷電』A5判二段組二〇頁も費やして、概括的な位置から陳腐な要約的な文章がくだくだと綴られている。それがあたかも確定的な評価であるかのように。瀬尾育生は、ここで完全に旧来の啓蒙的思考に転落しているのだ。
 そして、最後に決定的なことをいえば、わたし(たち)はこんな「アンソロジー」を必要としない。じぶんで考えながら、『吉本隆明全集』を読めばいいのである。これに優るものはないからだ。

     2

 比嘉加津夫さんの「甲状断録」を読んで、この人はほんものの読者家なんだとおもった。どうしてかというと、わたしも入院に際して、退屈するだろうと思って、一応、病院に吉本隆明・石川九楊『書 文字 アジア』、文庫版ちくま日本文学全集『島尾敏雄』など数冊の本を持参した。それで病室で読んだのだけれど、全く頭に入ってこないのだ。何度かチャレンジしたけれど、ダメだった。それで諦めた。だから、比嘉さんがほぼ一日に一冊のペースで読破しているのを知って、やっぱり素質から違うとおもったのである。
 むかし、アラン・ドロンの主演のギャング映画で、文字ばかりの本よりも絵のあるものがいいというセリフがあって、いたく同感した。わたしはもともと漫画好きで、アンデルセンやグリムは言うに及ばず、児童書なんか手にしたこともない。だから、わたしは病室でぼーとしているか、『東京タラレバ娘』など続きもののテレビドラマを見るほかは、ほとんど寝ていた。もちろん、入院のストレス解消には、じぶんに適した過ごし方をすればいいのである。
 比嘉さんは、たしか『琉球新報』に発表した『全南島論』の書評のなかで、「壮大な論理のロマン」という言葉を使っていたとおもう。それに対して、わたしは吉本さんの痛切なモチーフからすれば、「ロマン」という言い方はふさわしくないように感じた。でも、最近あらためて『情況としての画像』(初出タイトルは「視線と解体」)を手にして、比嘉さんの捉え方のほうが、おおらかでいいような気がしてきた。
 『全南島論』は「全」と銘打ってはいるけれど、関連した論考がいくつも抜け落ちている。そこで、この連載を使って、それを紹介することも悪いことではないようにおもった。それと同時に、わたしの翻意がどんなところに発しているのかも分かってもらえるかもしれないと考えた。

  まず日本人のやってきた北方ルートは、北海道白滝のホロカ沢遺跡の細石刃とおなじもののルートをたどって、シベリヤのノボシビルスクの遺跡、もっとさかのぼってアルタイ地帯の水と緑の豊かなデニソワ洞窟の六万年から一万二千年までの累積され洞窟住居の発掘現場にたどりつき、氷河時代にシベリヤから東へと移動していった古アジア人が細石刃文化をたずさえ、獲物の動物、鮭のような魚を追いもとめて、河川沿いに地続きのサハリン(樺太)をたどって、北海道から中部地方にかけて分布してゆく想定図を描いてみせる。血液中のGm遺伝子の保存からかんがえて、バイカル湖畔に居住した古アジア人のうちブリヤートが比較的に日本人に近いということで、石井麻里がブリヤート、モンゴル部落へ入って、「テレビスタッフの顔に似た人が親せきにいるかどうか」をたずねてみたり、原辰徳と渥美清と薬師丸ひろ子の写真をみせて、「これは何人だとおもうか」とたずねて、中国人だ、ブリヤート・モンゴル人そっくりだとか、台湾、ベトナム、ビルマ人だとかいう解答を村人からもらうところなどは、映像としてじつに愉しく、面白く、よく出来ていた。ソ連の考古学者が、約二万年前にバイカル湖畔から東へと移動し、北海道までたどるのに五千年かかり、そのあいだに姿・形・言葉もかわってゆき、河川沿いにマンモスが死滅したあとは鮭をもとめてサハリン(樺太)から北海道に入るという経路が想定できるとして、考古学には何よりもファンタジーが九〇パーセントは必要だと語るのが印象にのこった。
  つぎには南方のルートがたどられる。
  沖縄の港川人の骨は一万八千年前のもので、氷河期の末期にあたっている。これが北方ルートからの移住人かどうかはわからない。南方ルートは縄文中期(五千年前)の山梨釈迦堂遺跡から出土したたくさんの土偶をつなぎ手としてさかのぼられる。土偶は穀物の豊饒を祈って、ばらばらにこわされて土に埋められた女性像で、神話のオオゲツヒメのように殺された女性を大地に捧げると穀物の実りが約束されるという祭儀のとき、その形代につくられたものだとして、インドネシアのフローレス島にルーツをたどられる。ここのヌアオネ村で古老たちからオオゲツヒメに類似した神話を聞くために中川安奈が村の娘になる。実の娘を亡くした村の夫婦が娘の再来として迎えてくれ、村中で娘になった中川安奈の家を建ててくれ、村の風景がじぶんの風景だとおもえるようになったら、神話をきかせてくれると約束する。ここでは神話がおなじだということは、祖先がおなじだということだと信じられている。村の男たちは家をつくる柱を伐りだして引きずってくるが、それは諏訪社の御柱祭りの有さまと酷似しているところが、映像で映される。土台をつくり、乳房、水牛、蛇などを浮彫りした柱をたて、家は舟のようにそりをもった屋根で葺かれる。家は祖先が移動してきたときの舟を象どって造られたものだとされている。やがて村長→長老→族長とたどって神話をきかせてもらう。女神イネパレには兄弟がいる。兄弟は土地を焼いて何の種子を播くのがいいか女神にたずねると女神はじぶんを殺して出てきた種子を播きなさいと言うので、殺すとイネ・アワ・アズキ・大豆の種子が得られたので、これを播いたというオオゲツヒメの説話に似た神話を語ってくれる。
  村の田圃には、竹の棒が長くつながっていて、蛇の道とよばれている。小鳥を殺して村人たちはこの蛇の道に血をふりかけてゆき、殺された鳥を、蛇の道のうえにおいて、豊作を祈る供犠にする。それは土偶を埋めて祈るのとおなじことだと語りだされる。
  五千年前にポリネシア人の大移動があり、マレー半島からイースター島まで移動していった。その一部はイースター島への経路とわかれて、日本へたどりついたと考えれば、オオゲツヒメに似たこの村の神話や、土偶とおなじ役割をする殺された小鳥を田圃の蛇の道に供える風習の説明がつく。この南島のルートの説明は、おおざっぱすぎて難があるが、それでも中川安奈が村の娘として迎えられ、家を建ててもらい、村人たちの風習のなかへはいってゆく有様は、映像としていちばん充実していて、一篇の映像の物語になっていた。
  もうひとつのルートは、大陸のルートになる。木野花がレポーターになって、雲南省で、蛇や水牛が浮彫りになったり、彫像になったりして、供犠の生首の像がある青銅器の貯金箱のようなものがしめされる。それは豊年を祈る祭の有様を示していて、フローレス島の家のレリーフや蛇の道の小鳥や縄文期の土偶を割って埋める風習との共通性を語っている。映像は四川省の長江(揚子江)の風景になり、この長江沿いに下ってくると日本にたどりつき、向い側に源流のあるメコン川に沿って下ってゆくと、フローレス島や南の島々にたどりつくとナレーションで説明される。十五年前に発見された河姆渡(かもと)遺跡で、七千年前のイナ作を中心にした文化が存在したことが、はっきりしてきた。河姆渡人は、約二千五百年前に呉や越の国をつくり、呉越の戦乱で呉人は難民となって大陸を下った。越人もやがて亡ぼされて難民となり、その一部は海辺から国外に脱出して移動した。対馬海流にのれば舟山列島のあたりから九州の五島列島の附近に到達することは難かしいことではない。
  韓国で一九七五年に発掘されたたくさんの剣は越の国でつくられた磨製石剣で、これは佐賀県で発掘された磨製石剣とおなじものであった。これもまた黄海をわたってきた稲作文化のルートを暗示するものだといえる。これが日本の弥生文化を作ったものではないか。
  ルートをつなぐ道具だてが少なすぎ、ルートの途中をつなぐのが遺跡の点と点で心もとない。また十万年このかたの膨大な時代の移りかわりをたどるには、想像力の裏づけがすくなすぎるといえよう。

    (吉本隆明「視線と解体」「遥かなるジャパンロード」まで」)

 この連載の担当編集者だった榎本陽介さんによれば、吉本さんはこの番組のビデオを見たいと言ったとのことだ。吉本さんの仕事のやり方は、執筆に必要な資料はじぶんで探し、そのうえでなお必要なものがあれば、編集者にその提供を求めたようだ。榎本さんも毎回のようにいろんな資料を届けたと言っていた。この場合だと、まず番組をリアル・タイムで見て、メモをとり、そのうえビデオを参照し、原稿を書いたことになる。
 『海燕』の連載(「マス・イメージ論」と「ハイ・イメージ論」など)でも、吉本さんは準備(構想や資料調べ。石関善治郎さんの証言にあるように、「ファッション論」のためにマガジンハウスへ出向き、資料室で『アンアン』のバックナンバーにあたる姿に、その片鱗がみえる)におよそ十日間、本格的な執筆におよそ十日間と、わたしに語ったことがある。もちろん、その間にさまざまな雑用や飛び込みの仕事も入っただろう。吉本さんは残りの十日間を「安全圏」と呼んでいた。これを使って、講演や対談をこなしていたのだとおもう。断わるまでもなく、こんな事情は作品の〈意義〉とは関係ない。言語表現はそれ自体として〈独立〉したものだからだ。
 ここで、わたしの感想をいえば、日本列島は断じて天皇(家)のものではないということだ。さまざまなルートをたどって、この列島にたどりついた人々は多層をなしており、その混合によって、「日本人」なるものは形成されていったのである。この雄大なドラマからすれば、「万世一系」などという神話的虚構は、アジア的な専制の〈変種〉にすぎない。「和をもって尊しとする」という規定が、閉鎖的な〈秩序意識〉の倒像にほかならないように。
 おおいなる構想(ファンタジー)に基づく「南島論」のような原理的な探究が〈普遍性〉となって、やがて偏狭なナショナリズム(民族主義)の呪縛を止揚する日がきっとくるはずだ。それこそが、ほんとうのロマンなのだ。

     3

 『吉本隆明全集』第三七巻を読んでいて、とても微笑ましいとおもったところがある。

    *詩
  吉本のもっとも典型的な表出としての詩。
  (1)詩をまとめて書くこと。
   石井氏は不可解。
   吉本と川上は、吉本氏にとって可能である。
    石井恭二氏「詩というのはインスピレーションで書くものではありませんか。まとめて書くというのはわからんですなあ。」
  和子「川上さんはわかるんですよ、石井さん。
     川上さんは詩人だからわかるんでしょう。」

      (川上春雄「吉本隆明夫妻訪問記 1962・1・22」)

 吉本さんは、〈詩〉をもっとも大切に思っていた。
また、川上春雄さんが〈吉本隆明〉に深入りするようになったのも、〈詩〉がその契機なのだ。
 〈詩〉は石井恭二が思っているようにミューズが舞い降りてくる場合もあるだろうが、ほんとうは〈世界に真向かう〉ことだ。
 わたしは、一度も『試行』に投稿したことはない。じぶんたちで雑誌をやっていたからだ。わたしが吉本さんを訪問するようになったのは、『試行』の直接購読者であったこともあるけれど、それ以上に、吉本さんがわたしの詩集『ある手記』を評価してくれたからだ。

  半世紀前の、暗喩もないし直喩もない、とにかく思いどおりのことを、ただ行分けにした素朴リアリズムの詩がありますね。その詩と、いまの若いラジカルな詩人が書いた詩を比べてみたときです。若いラジカルな詩人が暗喩なんかつかわずストレートに思いざま書き流しているような詩は、素朴リアリズムの詩とおなじにみえて、その実相は三六〇度ひっくり返っているんだと判った。とってもじゃないがそう考えないと理解できんぜェ、とおもえたからなんです。つまり、全体が暗喩に入っているって理解すんのが本当だと考えた。じゃ、何がなにの全体的な暗喩なんだっていえば、それは“現在”だろうということです。“現在”とその詩人との間にね、いってみれば単語と単語との間の暗喩関係と同じものが、成り立っている。それだからストレートな表現になる。素朴リアリズムの詩から三六〇度ちゃんとでんぐり返ってるって理解すれば納得できたんです。その理解にもとづくとね、現在に対する作者の対し方や、大なり小なり現在の作品というものは、全体的にか部分的にか、とにかく“現在”っていうものと暗喩関係にあるっていう理解が成り立つわけで、それが喩法論の根底の考え方になってるんです。
     (吉本隆明『大衆としての現在』)

 これは『マス・イメージ論』の「喩法論」について語られたものだけど、これが吉本さんのわたしの稚拙な詩に対する見方だったとおもう。そこから、『ある手記』に付された鎌倉諄誠の「闇の逆鱗」という解説を踏まえて、『意識としてのアジア』に「松岡祥男について」という長い跋文を書いてくれたのである。
 わたしに限らず、吉本さんは詩を書く人を大事にしていたようにおもう。有名とか無名とか、上手とか下手とかは、関係なかった。それは次のような場面に端的に現れている。「ガリ刷りの個人誌をおずおずと差し出す(今ならとてもとれる行為ではない。思い出すたびに恥じ入るばかりだ)。吉本さんは丁寧にページを捲り終えると「後は書き続けるだけですね」。諭すような響きがあった」(黒島敏雄「吉本体験は、まだ終わらない」『Mayaku』第一二号)。
 そうだっただけに、逆に詩に対しては厳しかったともいえるだろう。それが『試行』に詩作品をほとんど採用しなかった理由だとおもう。とくに六〇年代には詩の投稿がかなりあったとおもう。しかし、『試行』に登場したのは永瀬清子、宮城賢、西村和俊など数人だけである。
 この訪問記をみると、和子さんはよくわかっていて、後年、『寒冷前線』をはじめ俳句を作る必然がよくわかる。和子さんは、隆明さんの詩でどの作品がお気に入りだったのだろう。聞いておけばよかったなあとおもった。

    初出『脈』第95号2017年11月発行→『吉本隆明さんの笑顔』(猫々堂)所収


「高屋敷の十字路」に戻る
「吉本隆明さんのこと(15)瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」批判 松岡祥男」 ファイル作成:2023.08.21 最終更新日:2023.08.23