〈序〉
『吉本隆明さんの笑顔』(猫々堂)以降に書いたものを中心に、冊子にまとめようと思いました。
わたしは昭和26年(1951年)生まれです。申すまでもなく、「紙の本」の世代です。蝋原紙に鉄筆のガリ版にはじまり、印刷技術の発展とともに歩んできたといえるでしょう。ですから、「紙の本」にはとても愛着があります。
しかし、『吉本隆明資料集』発行終了にともない、いろんな方々との交流が薄れてきたのも確かです。最近はもっぱら吉田惠吉さんのお世話になっています。これはインターネットを通して、いわば不特定な人たちに向けて発信していることになります。
わたしはもともと自著の出版に関して受動的でした。最初の『意識としてのアジア』(深夜叢書社)は吉本隆明さんが齋藤愼爾さんに推奨し、跋文まで書いてくれました。わたしの方から依頼したのではありません。そして、小川哲生さん、福江泰太さん、岡田幸文さん、宮城正勝さんのお陰で、それ以降の著書も上梓されたのです。
このような事情を考えると、いまのわたしのベースである、このフレームで公開した方が良いと判断しました。
詩集『ある手記』と『文学という泉 第3部』を加えると、これがわたしの11番目の著作集です。
なお、個々のアップと重複しますがご容赦ください。
2025年8月3日
1
吉本隆明さんが、二〇一二年三月十六日に亡くなりました。享年八十七歳でした。
わたしは、吉本さんの訃報をNHKの朝七時のニュースで知りました。まだ寝ていた妻に告げに行ったのですが、声がつまって言葉が出ませんでした。妻は、わたしの様子から事を察しました。吉本さんが入院されていて、きびしい状態にあることを聞いていましたから。
2
吉本隆明さんは「戦後最大の思想家」というふうに言われていますけれども、それは表面的で、ほんとうに吉本さんの仕事を尊重し、真向かっている人はそんなに多くはないような気がします。また、たくさんの「吉本隆明論」が刊行されていますが、恥知らずにも、主要な著作すらまともに読まずに書かれたものも少なくありません。
あなたは、吉本さんの『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』の三部作を、どう考えていますか?
あなたは、吉本さんの原理的達成である『ハイ・イメージ論』『母型論』『アフリカ的段階について』を、どう理解しますか?
あなたは、吉本さんの出立の原点である『固有時との対話』から『記号の森の伝説歌』へ到る詩を、どう評価しますか?
あなたは、吉本さんの『源実朝』や『初期歌謡論』や『源氏物語論』『西行論』や『親鸞』『良寛』などの古典論を、どう思っていますか?
あなたは、吉本さんの『高村光太郎』『島尾敏雄』『書物の解体学』『悲劇の解読』『宮沢賢治』などの詩人・作家論を、どう位置づけますか?
こんなふうに、あなたはノノと問いつめていけば、なんのことはありません。ろくに読んでもいない人たちが、手前味噌なことを言っているだけなのです。
吉本隆明さんの仕事は、世界思想の〈未踏の領域〉に届いていることは疑いありません。それをほんとうに重要とおもうなら、その営為に立ち向うべきです。
現在の思想状況は、停滞と腐敗の中に混迷の度を深めています。それはなによりも、根底的なモチーフの喪失と皮相な打算のうちに内在しているようにみえます。
日本の近代が西欧を模倣することから始まったように、いまでも欧米の思潮を模倣し追従することではあまり変わっていません。この猿真似体質は、同じ言語圏内にあるものを逆に軽視し見下すという、自己卑下の〈後進性〉につながっていることは言うまでもありません。それは裏返しの劣等意識の現われにすぎないのです。真にオリジナルな構築に敬意を払い、それを検討することこそが、真摯な態度といえるのではないでしょうか。
確かに、誰しも日々の生活に追われています。そして、雪かきのように目の前の山積した雑務をこなすことが必須といえるでしょう。それは致し方のないことです。人はじぶんにかまけるようにしか生きることはできないでしょうから。でも、思想や文学といった人間の〈本源的な欲求〉にかかわる場面では、卑俗な現実を越えて、人類の理想の方位を目指して、実際の現実に立ち向かっていくしかありません。それが〈情況批判〉ということです。
吉本さんはいつも孤立を怖れずに、情況への発言をつづけてきました。そこではさまざまな反発も異論もあるでしょう。それはいいことです。安易な同調が忌避すべきことであるように、つまらない反感も泡沫にすぎませんが、それも〈現実性〉というものです。それでも、人間は自分の生きている時代の〈限界〉を超えようと志向します。それが〈本質〉としての思想ということです。
3
わたしが初めて「吉本隆明」を知ったのは、六〇年代末期でした。
当時、わたしは高知大学の全共闘運動と連動するかたちで、高知部落解放研究会というグループを夜間高校の仲間と作り、活動していました。七〇年反安保闘争という大きなうねりの中にあったのです。その流れの内側で、「吉本隆明」という名は流布していました。わたしもまじめに勉強しようと思い、書店で『共同幻想論』を手にしました。ところが、落ちこぼれのわたしにはその章題すら読めなかったのです。「禁制論」「憑人論」「巫覡論」‥‥‥、字句も判らないものを読むことは到底できません。当然、購入しませんでした。
しばらくして、映画「橋のない川」上映をめぐる部落解放同盟と日本共産党の対立で、大きな衝突がありました。この時、わたしにも逮捕状が出たのです。わたしは警察の追及をかわして潜伏していましたが、大学の救対の人や弁護士と相談し、逃亡を続けていると、逮捕された時の勾留が長くなると言われて、出頭することにしました。
その後も、追手前高校生徒会役員処分撤回闘争や宿毛湾原油基地反対闘争などに取り組み、大きな集会やデモがある時は上京して暴れていました。しかし、逮捕や失職や高校中退というじぶんの情況の変化のなかで、政治党派に属さない者はじぶんで足場を確立していくしかありません。そんな中、吉本隆明の詩と、『敗北の構造』や『どこに思想の根拠をおくか』を読んだのです。この二つの本は講演集と対談集ですから、比較的入り易かったこともあって、ここから、吉本隆明の読者になったのです。もちろん『試行』の購読も始めました。
連合赤軍のあさま山荘事件、中核派と革マル派を中心とする殺し合いの「内ゲバ」は、新左翼運動にとどめをさすものでした。地方でも学生運動は退潮し、社会の様相も第一次石油ショックを機に変わりました。行き場を失ったわたしたちは『同行衆』という同人誌を始め、そこに詩を発表することになりました。それがなんとか生活しながら、拡散する状況に抗する道だったのです。
朝はおとずれる
ことわりもなしに
跡かたもない廃屋のように
日はあらたまるものだとしても
傷のようなこだわりがある
パン屋の同僚と二人で
となりの席をうかがいながら
ひとさじ
ひとさじ
スプーンですくってのんだ
一杯のコーヒーよ
ぼくのふるえを鎮めえたか
一日のつかれで
机を満たすために夜間高校はあった
そこでも 指名されると
足がすくみ
教科書がふるえ
けっして読めないわけではなかったのに
声がかすれて泣きだしそうになった
それは 不安というよりも
精いっぱいの異和の表現ではなかったのか
おお ひとつひとつの姿に
言葉の杭をうちこんでおけ
今朝の心は
まぎれもなく支えられているのだから
(松岡祥男「ある手記」)
じぶんたちの同人誌を吉本さんにも送っていました。この詩は『同行衆』第6号(一九七八年八月発行)に書いたものです。このとき、『試行』の購読費の領収書のはがきに、吉本さんは「『同行衆』の詩、一篇だけで云うのは早計ですが、ちゃんと一人前に出来上った詩で、この水準で10篇もできれば、ユニークな作品集となると存じます。折角の御健在を祈ります」と書かれていました。
この吉本さんの言葉は、わたしにとって初めて政治集会に参加した折、突然、おまえが連帯の挨拶をやれと、部落研の仲間に振られて、壇上に立った時、いっせいに〈他者のまなざし〉がじぶんを吹きぬけていった決定的な体験に、まさしく匹敵するものでした。
こんな私的な前振りは不要かも知れませんが、人と人には出会いがあるように、思想にも〈入口〉があります。それを抜きに一般的に語ることは、少なくともわたしはできないのです。
4
吉本隆明は一九二四年十一月二十五日、東京・月島に生まれている。三男である。吉本家は天草で造船業を営んでいたが、折からの不況で倒産してしまい、一家をあげて東京に出てきたのある。吉本隆明はこのとき、母親の胎内にいて、生まれたのは東京なのだ。
東京の場末ともいうべき佃島・月島地域で育った幼少年期は、濃密な共同体意識と牧歌的な時代を背景として、輝いていたに違いない。それはつぎの詩に象徴されるだろう。
くろい地下道へはいつてゆくように
少年の日の挿話へはいつてゆくと
語りかけるのは
見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
三銭の屑せんべいに固着した
記憶である
幼友達は盗みをはたらき
橋のたもとでもの思ひにふけり
びいどろの石あてに賭けた
明日の約束をわすれた
世界は異常な掟てがあり 私刑があり
仲間外れにされたものは風に吹きさらされた
かれらはやがて
団結し 首長をえらび 利権をまもり
近親をいつくしむ
仲間外れにされたものは
そむき 愛と憎しみをおぼえ
魂の惨劇にたえる
みえない関係が
みえはじめたとき
かれらは深く訣別している
不服従こそは少年の日の記憶を解放する
と語りかけるとき
ぼくは掟てにしたがつて追放されるのである
(吉本隆明「少年期」)
一九三四年、小学四年の時から今氏乙治の私塾に入り、以降七年間に渡ってこの塾に通い、この塾の先生の影響もあって詩作を始めている。その頃の習作から詩人としてデビューするまでの、現存するすべてのものが『初期ノート』に収録されている。ここに吉本隆明のすべての原型があることは、誰しも認めるところである。
一九四一年十二月に太平洋戦争が勃発し、戦争の時代に突入した。そんな中、吉本隆明は米沢高等工業学校に入学し、戦時下の学生生活を送り、徴用動員の富山県魚津市の日本カーバイトで敗戦を迎えている。吉本隆明は、生きて戦後にじぶんがあると全く思っていなかったのだ。だから、敗戦を境とした戦争と戦後の断絶は、大きな亀裂となり、深い打撃を与え、それが吉本隆明という思想家の〈誕生〉を決定づけたといっても過言ではない。それがのちに『文学者の戦争責任』『高村光太郎』『芸術的抵抗と挫折』という鮮烈な戦争責任論として噴出するのだ。
戦後の混乱の中にも、詩作と思考はつづけられる。その一方で、一九五一年に入社した東洋インキ製造で、色材の開発研究の仕事に従事し、パラ・ブラウンという染料を作っている。しかし、その化学技術者としての安定した身分も長きつづきはしなかった。吉本隆明は労働組合の組合長に推挙され、会社側との交渉でストライキを準備するような激しい闘争を展開し、敗北し、職場をたらいまわしされることになるのである。そして、一九五五年六月の人事異動を拒否して退社している。
この時期、一九五二年に詩集『固有時との対話』、翌年『転位のための十篇』という二つの詩集を自費出版し、詩人として登場したのである。さまざまな詩人やいろんな職場の詩のサークルとも交流していたに違いない。一九五四年に「荒地」グループに参加しており、また奥野健男や島尾敏雄などを同人とする『現代評論』に加入、そこに吉本思想の原基というべき「マチウ書試論」を発表している。この頃から、新日本文学会のメンバーや「近代文学」の同人との交渉も活発になったに違いない。
こういうふうに、吉本隆明の軌跡をスケッチしているのだが、ここでわたしが触れたいのは学生運動との関わりである。
「全学連主流派のブレーン」という週刊誌記事で、金子鉄磨が「反戦学同」と関わりがあったと書いているが、事実かどうかは不明だ。一九五六年九月に、全学連初代委員長の武井昭夫との共著で『文学者の戦争責任』を上梓している。これが吉本隆明の最初の評論集である。共著で本を出版するほどに武井昭夫との絆は強かったのだ。
後年、武井昭夫は吉本の論敵である花田清輝の側に立ち、日本共産党を除名されてからは、新日本文学会の支柱的な存在となって、対立的な関係に突入している。
しかし、『文学者の戦争責任』が出版された時、吉本隆明は失業者で、夫人との同棲を始めたばかりだったので、生活的に困窮していた。それを見た武井昭夫は、本の印税は全部吉本の取りでいい、という友情に溢れた態度を示したとのことだ。吉本隆明は、そのときの武井の厚意に対する感謝の気持ちを、対立を越えて、持ち続けていたと思われる。だから、そのことを決して秘すようなことはなかったのである。
5
言うまでもなく、安保ブントは日本共産党の東大細胞の中から生まれている。書記長の島成郎をはじめとする主要メンバーは、ほとんど日本共産党の党員だったのだ。武井昭夫の影響は強かったのではないだろうか。五〇年代の終わりには、武井昭夫は『現代評論』が解散になったあとを受けて創刊された『現代批評』の同人であった。『現代批評』は奥野健男をはじめ井上光晴・橋川文三・清岡卓行ら、もちろん吉本隆明も同人であった。
吉本はメンバーを代表するような形で、『近代文学』の「批評の誕生」という座談会に出席しているし、また武井とともに同誌の「戦争責任を語る」という総勢十二名の大座談会にも参加している。上の世代からは、武井・吉本は二人三脚のようにみなされていたのかも知れない。
吉本隆明のもっとも早い学生運動に関する発言は「思想と組織?全学連問題をめぐって?」という『春秋』(一九六〇年一月号)に掲載された談話記録だ。そこからも、新しい学生運動の動きに注目していたことがわかるが、それ以前にも、早稲田大学で武井と吉本が講演したことを、早稲田の学生だった作家の李恢成が書きとめている。そこから考えると、一九五八年十二月の共産主義者同盟(ブント)結成の動きと潜在的に連なっていたのかもしれない。なぜなら、吉本隆明は一九五七年の段階で、すでにこう宣明しているのだから。
一陣の昏い夢のように 白けきつた首都へ
はぐらかされるかもしれない希望へ
たどりつこう 奇妙な敵の首をしめ
ちつともいんぎんを通じさせないうちに
闘いきれたらとおもう
われわれに一人の死者さへなく かえつて
死者となつたほうがよかつた
と思えるほど苦しみを感じながら
勝利をおさめられたらとおもう
鉄さびをかぶつた街路樹に 水撒車が
忘れていつた水を撒いてやり たくさんの
世界の苦闘が憩うように
少女たちもそこで
たわむれているといい
奇妙な幕間に忘れていた 闘うときに
こころの傷手はつよい武器になり
われわれの敵をずたずたに引裂く もしも
われわれに疲れきつた恩赦があれば
われわれもまた引裂かれる
首都はいま
半ばふりそそぐ陽だまりのなかにあり
ちよつと
首をつき出せば其処へ出られる
ような気がする だがわれわれは一陣の
まだ昏い夢なのだ
(吉本隆明「首都へ」前半部分)
吉本隆明は『日本読書新聞』の一九五九年の新年号に「死の国の世代へー戦闘開始宣言ー」という詩を書いて、戦後世代との連帯と共闘の意志を力強く表明している。そして、翌年の『中央公論』一九六〇年一月号に「戦後世代の政治思想」という論文を発表したのである。これは時代を画する決定的な論考で、反安保闘争に多大な影響を及ぼしたと言われている。
一九六〇年一月に、岩淵五郎や鶴見俊輔・松田政男らと、ブントと全学連主流派支持を掲げた「六月行動委員会」をつくり、行動をともにすることになったのである。二月九日には竹内好や埴谷雄高らとともに、島成郎らブント幹部と会見(これがのちの「『将たる器』の人」という島成郎追悼文で書かれたことだ)。そして、他の発起人を加え二十三名の連名で、全学連救援カンパ運動の趣意書を作成し、各方面へ発送したのである。
さらに島成郎・葉山岳夫を迎えて『中央公論』四月号で「トロツキストと云われて」という鼎談を行い、全学連主流派の考えを世に広く伝えるように、公開の場への登場を促す役割を果すとともに、唐牛健太郎全学連委員長の率いる北海道学生新聞連盟書記局発行の機関紙に、「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」という檄を発している。
現象的なものではない、本質的な思想闘争のない現在の状況は絶望的である。したがつて未来への希望は、本質的な思想対立とたたかいをまき起すことによつてのみつながれうるだろう。十五、六年も現象的な平和が続いていることは、明治以降の近代のなかでは、はじめてのことであろう。この中で平和的にして大衆的な規模で「転向」が行われている。だからわれわれはまつたく新しい思想的な課題に直面している。学生諸君が権力からの弾圧にたえうるだろうことはうたがいない。しかし、平和的なムードの中で、思想を腐蝕させないで保ちつづけることは、またきわめて困難なことであり、これから以後、諸君に課せられている、大きな問題である。ここから、いわば現在の社会的な情勢における必然として、学生運動が、あるときは前衛的な役わりを、あるときは学生運動固有の役わりを負わねばならないという現在のありかたが生れてくる。これに耐えよ。その時、未来への希望は諸君のうちにある。これに耐えぬなら諸君も腐り、崩壊してしまうのである。
(『道学新共同デスク』第3号一九六〇年四月二五日発行・全文)
むろん、吉本隆明自身も反安保の集会やデモに、一兵卒として参加していたに違いない。国鉄労組などの「6・4ゼネスト」では、三日夜から四日にかけて、全学連主流派の学生と一緒に品川駅構内でゼネスト支援の座りこみに加わっている。そして、六月十五日の国会突入の時は、国会構内で短い連帯の挨拶をし、十六日未明の警官隊の襲撃で敗走し、逮捕されている。この日、樺美智子は殺された。
その夜の様子は『週刊読書人』六月二七日号の記事からも、うかがうことができるだろう。
「いやあどうも、サンタンたる潰走ぶりでしたよ。」笑い顔も話し方も、いつもと少しも変わらないが、ただ手首から腕まで無数のカスリ傷に赤チンが塗られているのが、あの夜の激しさを物語っているようだ。
十五日夜、正確にはもう十六日になっていただろう、吉本氏は学生と一緒にチャペル センター前の路上にいた。突然、催涙弾がうち込まれ、間髪をいれず警官が突進してきた。
「とにかくひどかったですねえ、塀をのりこえて中庭みたいなところに飛び込んだんで す。どんどん走っているうちにもう一つ塀があったんで、乗りこえようと思って上からのぞいたら、通用門みたいなところに警官がいっぱいいるんですよ。警視庁に飛び込んじゃったんだなあ。奴らも待ち構えていたらしくて追っかけて来ましてね。一度はうまく自動車の陰にかくれてやりすごしたんですがすぐもどって来て捕まっちゃったんですよ。」
警視庁の柔道場に手錠をかけられ、ずぶぬれのままほうり込まれていた氏は、夜が明 けると高井戸署に送られた。はじめ警察では、学生のなかにまじった氏を、威勢のいいオヤジぐらいに思ったのか、少しばかりの「同情」さえしめし、氏ももっぱらヤジ馬をよそおっていたが、それも翌日になると国会構内で演説していたことが知れて、取調べは急にきびしくなったという。
また、和子夫人の談話もある。
終電車が走りすぎても連絡がないので心配してました。だから警察の人が来て、捕まっていると聞いた時、思わず、アア良かった! と言ってしまったくらいです。捕まったのに良かったなんて、警察の人も呆れていました。でも、ひどい怪我や、もしものことがあったらと気が気でなかったものですから。
(「全学連主流派のブレーン」『週刊コウロン』一九六〇年七月五日号)
6
結局、安保闘争は敗北し、共産主義者同盟(ブント)は解体した。
しかし、この敗北以降が吉本隆明がより全学連主流派の擁護に徹し、公私ともに、その敗北処理と崩壊現象を引き受けていた過程といえるのではないだろうか。ブントの多くの幹部は黒田寛一らの批判に屈して革共同へ転身した。その革共同を始めとして、マスコミや日本共産党、さらに新日本文学会からも、吉本隆明は象徴的な標的として批判を浴びることになったのである。むろん、これに真っ向対峙していったのは言うまでもないことだ。
組織崩壊と指導層の転身で、見捨てられた社学同のメンバーの相談にのり、安保闘争の総括をめぐる座談会に出席し、独自の論陣を張って、孤軍奮闘というかたちで、ことに処したようにみえる。そして、安保闘争の統括として「擬制の終焉」を書いたのだ。
この年の暮れ、安保闘争を闘った國學院大学の学生歌人岸上大作が自殺している。それは学園祭に吉本隆明を講師に招く計画を「短歌研究会」として準備したのだが、「革命詩人、吉本隆明来る」というビラが学校当局の目に止まり、中止を余儀なくされたのである。岸上大作はたぶん、その責任を感じ、失恋と相俟って情況に絶望して縊死したようにみえる。これも雪崩をうつ敗北過程のひとつといえるだろう。
次のような岸上大作宛書簡が残されている。
今度は貴方にたいへんな御迷惑をおかけ致しましたようで申訳けありません。せっかくの貴方のお骨折りが無になってしまったことを残念におもいます。また、気苦労もさぞかしと存じ、すこしでも負担をおかけ致しましたことを心苦しくおもっております。どうか、研究会のみなさんにもよしなにお取次ぎ下さい。
小生としては、貴方というひとを知り、貴方の秀れた作品なども、こんなことがなければただよみすごしただけでせうに、知ることができてそれで充分であります。今後とも、良い作品を発表しつづけて下さることを祈ります。小生も短歌がすきですし、理論上もこれからしらべてゆきたいことだらけですのでいろいろおしえていただくこともあるとおもいます。
元気でやって下さい。
小生は、月水金と勤めに出て、火木土と家におります。のんびりした折おたづね下さ い。
(一九六〇年十一月六日消印)
六〇年安保闘争が決定的な分岐点となり、それまでの「左翼」(陣営)という大枠は完全に霧散し、非妥協的な様相を呈して、『現代批評』も空中分解したのである。吉本隆明は、孤立の中、安保闘争の敗北を踏まえて、自らの表現的足場を構築すべく、谷川雁・村上一郎とともに一九六一年九月『試行』を創刊した。直接購読と自主的寄稿を柱とする自立的な雑誌として開始されたのである。そこへ松下昇、浮海啓、矢島輝夫などの安保世代の若い書き手を迎え入れたことは言うまでもない。
六〇年安保闘争において、「反米愛国」という民族排外主義の堕落した方針しか提起しなかった日本共産党は、陰に陽に、全学連主流派を中傷する組織的デマゴギーを流布し、安保闘争そのものを貶めることに躍起になっていたとみられる。その典型がマスコミと一体となった、全学連が右翼から活動資金を得ていたという誹謗キャンペーンだ。これに対して、吉本隆明は公然と「反安保闘争の悪煽動について」という反批判を書いて、この卑劣な策動を粉砕した。この発言で、安保闘争に関わり、傷つき挫折した多くの学生や労働者が救われたことは想像に難くないのである。
「六・一五事件」の統一公判被告団から分離した形で、裁判を闘っていた常木守は、被告側証人として島成郎と吉本隆明の二人を申請している。これは却下されたが、吉本隆明は常木守の要請に応えて、法廷弁護のための草稿を準備をしていて、それが「思想的弁護論」なのだ。常木守は被告の最終意見陳述の第二部として、これを法廷で読みあげたとのことだ。
この安保闘争前後は、吉本家には学生や活動家の出入りが激しかったものと思われる。その頃、詩人の鮎川信夫が訪問しようと、家の近くまで行ったけれど、なにやら賑やかなので、引き返したと書いている。三上治をはじめとする社学同の残留メンバー、陶山幾朗ら「SECT6」の面々、ブント解体以後の島成郎など、和子夫人のいう「二十四時間営業の家庭」という様相を呈していたのだろう。
わたしのようなリアル・タイムで立ち会っていないものが追尋しても、到底、時代の実相に到達することは不可能だ。しかし、自らの体験に引き寄せることで、ある程度は肉迫することはできるかもしれない。そうでなければ、こんな跡づけをやる必要はないのだ。
愉快な逸話もある。
私が4、5才の頃、「オニーテ」という赤トラ猫がいました。当時まだ一人っ子だった私にとって、オニーテは唯一の遊び相手でした。60年代学生運動の伝説的リーダー(後に精神科医)だった、故・島成郎さんの奥さんは、大変そそっかしい人で、オニーテのことを「オナニー! オナニー!」と呼んで皆をドン引きさせたそうです。
ブレスレットのつもりで、オニーテの前足に輪ゴムをはめたまま、うっかり忘れて、 パンパンに腫れ上がらせたこともノんも‥‥‥子供って‥‥‥。
オニーテは、2度目の引っ越し先で逃走。そして、2度と帰って来ませんでした。
(ハルノ宵子「吉本家 歴史の中の猫たち」)
7
関西ブントの存続、そして第二次ブントの形成という動きのなかで、吉本隆明はどういう位置をとったのだろうか。吉本隆明は、もともと政治的な存在ではない。ただ、時代が強いる課題に真摯に答えようとしただけなのだ。そこでいえば、いわゆる同伴知識人とは隔絶しているといっていい。自らの思想を体系化すべく『言語にとって美とはなにか』という画期的な表現理論を一九六五年段階で書き上げ、そこから、さらに『心的現象論』『共同幻想論』の原理的考察に向かっている。その体系的構築と思想の自立的課題というテーマからすれば、学生運動とはおのずから位相が異なることは自明である。
そうであっても、吉本隆明は政治運動に新たな地平を切り開いたブント、その独立左翼の流れに対して、固有の立場から支援を惜しまなかった。それは一九九六年八月の海の事故まで続いたといえるだろう。小さな労働組合の講演要請などにも応えているからだ。
たとえば一九六七年十月、中央大学、立教大学、東京大学三鷹寮、岐阜大学。十一月、明治大学、東京医科歯科大学、立正大学、早稲田大学、愛知大学、京都大学、花園大学、國學院大学というように講演を連続的にやっているのだ。その講演内容は、過激な政治行動を煽ることを目的とはしていない。高揚する状況のなかで、独自の状況分析に基づき、岩田弘の世界恐慌論を批判するなど、安易に流れる理論動向に釘を刺すことも怠っていないが、むしろ、そこに潜在するであろう知的枯渇や渇望を潤すようなものだったといえる。
その典型は、一九七二年の中野公会堂における叛旗派政治集会の講演である。沖縄返還という政治状勢を見据えたうえで、ほんとうは六時間くらい時間が欲しいと前置きして、じぶんのメインテーマのひとつである「南島論」に関連した「家族・親族・共同体・国家」という重厚な講演をやっている。それは一党派の思惑など遥かに超えたものなのだ。
吉本隆明の講演は、通常の文化講演会などとは始めから様相が異なっている。〈吹きさらし〉に出て行くような姿勢で臨んでいたに違いない。浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺されたように、身の危険を感じることもあったのだろう、上着で払えば致命傷は避けられるはずだと、わたしに語ったことがある。一九六七年十一月の國學院大学での「人間にとって思想とは何か」という講演後の討論は、組織的な攻撃と「安保ブトン」などという揶揄のなか、
吉本 いや、それはぼくはこう思います。それはブントの諸君が聞いても怒ると思いま すよ。ぼくは全然べつに支持もしてないですしね、関連もしてないですから。なぜならば、ぼくはぼくじしんですから。それがどういう意味を持つかということがようするにあなたたちにはわからないんですよ。
学生H ようするにマスターベーションにすぎないじゃないか。
吉本 何をいってるんだよ。何いってやがんだ。
学生H 何だよ!
『吉本隆明の東京』の筆者石関善治郎によれば、「この講演の記録は、このあとの出来事を、『(こののち、場内騒然となり、吉本氏と数名の学生のあいだにケンカ腰の激しい口論があったが、多くの発言が聞き取りがたい』と、記す。が、現場に居合わせた筆者の記憶では、「ケンカ腰の口論」などでは、なかった。隆明は迅速な動きで壇上をかけおりると、学生の胸倉をとっていたのだ。学生Hの「何だよ!」は驚きの悲鳴に近かった。(どこからか暴力はやめろ! という声も挙がった)」とのことだ。それくらい真剣で、おのれを何ら特権的な位置に置くことなく、講演者も聴衆も〈対等〉だという鉄則を実践しているのだ。それは石関善治郎が言うように「どんな知識人とも違う」といっていい。
一九六九年から七〇年にかけては、東大安田講堂決戦への思想的な連帯の意味も込めて、『文芸』連載の「情況」で、「収拾の論理」をはじめとして一連の痛烈な大学知識人批判を展開した。
こういう吉本隆明の態度に対して、果たしてブントのメンバーや学生運動の活動家が、それに呼応するような姿勢で、吉本思想に向き合ったかどうかは、その世代の無惨な「葬儀屋文章」を持ち出すまでもなく、すこぶる疑わしい。第二次ブントの活動家だったTさんの話によれば、活動家の集まりで、組織の幹部が「国家が共同幻想なんていうことはありえない。あんなもの、読むな」と指示したとのことだ。
『共同幻想論』が当時の学生運動のバイブルだったというのは、のちに捏造された伝説にすぎない。いまだに『共同幻想論』の国家止揚という主題は、ほんとうに理解されることなく屹立しており、また『言語にとって美とはなにか』の達成を踏まえた、本質的な〈継承〉もないというのが実状のような気がする。それが頽廃的な言辞の葬送曲を奏でている小利口な知的屑どもの跋扈を許しているのだ。
七〇年代、吉本隆明は連合赤軍事件やアラブ赤軍の動きや新左翼間の内ゲバなどについて、もちろん言及している。それらは『完本 情況への発言』に収録されているが、それに対して、どんな異論や批判も自由だ。しかし、そうするには、じぶんでちゃんとその発言を読むということが、絶対的な前提である。
他人の流布する噂や又聞きの伝聞で、印象を造り、それを齧り読みで補強するような輩が、世間には多過ぎる。それに加えて、北川透のように、新左翼間の内ゲバの停止を求める「革共同両派への提言」という知識人の声明に、吉本隆明も名を連ねていたなどという、デタラメな放言を『現代詩手帖』の「いま詩的六〇年代を問うということ」という座談会でやり、その誤りを指摘されると、醜悪な自己弁明を重ねて、詩壇的な地位の保全に躍起になっている破廉恥漢もいるくらいなのだ。
吉本隆明の政治思想の到達点のひとつは、ある孤独な反綱領と副題された「権力について」という論考だと考えられる。そして、「七〇年代のアメリカまで」が六〇年安保闘争や全共闘運動を、世界的視野から思想的に位置づけたものといえるだろう。そこに闘う思想家の孤独な姿をみるのは、わたし一人ではないはずだ。
だから、わたしは「字の告白」という詩が好きだ。「少年期」の世界から長い道のりをたゆみなく歩んできた、吉本隆明の心の歌だとおもう。
空のはてみたい 澄んだ眼のなかを
字が漂流している
風がひるがえすと
黒い雪片として
まぶたのうらの皮膜に積もる
掻きあつめ 平らにならし
水で梳きさえすれば
ひとつの書物ができあがるだろう
どこかで遊んでた子供に
時間が積もる
肩がひとりでに重くなって
記憶のすみにひっそりと
帰ってくる
はじめて字が読めた幼い日
街がきゅうに奥ふかくなった
突然「せんべい」と読めた すると
「せんべい」の看板の向うに
幻の街並が現われる
長い書物を旅して
ゆるやかな傾斜から
ころげ落ちるくらいの
線ともうひとつの線で囲まれた
卦のあいだの路を
戻ってくる
疲れた夕暮みたい 真っ赤な眼のなかに
ひっかかった
風がひるがえすと
こわれた字画として
まぶたのうらの皮膜を傷めつける
はじめて字が読めなくなる日
それまでに
もうこの人を去らなくては
(吉本隆明「字の告白」)
8
まだ序の口なのに、紙数が尽きました。
吉本さんが一九六〇年以降、日本のマルクスたらんことを目指していたことは確かです。
しかし、一九九六年八月の西伊豆の海の事故以後、その後遺症と持病の糖尿病に苦しめられ、著しく視力や体力が低下したため、そのリハビリに専念することになりました。
そんな身体状態にもかかわらず、情況に向けて発言をつづけ〈生涯現役〉を貫いたのです。また「芸術言語論」という構想のもと、自身の三部作を総合する集大成に取り組んでいたのです。
その一貫した姿勢は、日本の近代でいえば、まさに夏目漱石に匹敵するものだったといえるでしょう。
吉本さんが転向したなどと言いふらす連中はたくさんいますが、六〇年安保闘争の時の「唐牛健太郎」のカッコ良さに通じるのは、八〇年代前半では「忌野清志郎」だと看破しています。それが社会の変容への洞察であり、それを理解し得ない存在は、時代のある地点で停滞し、化石化しているような気がするのです。それは新左翼の命運を見ても歴然としています。形成期の先進的な思考と新鮮な活動力を次第に喪失して、組織的にも運動的にも固定化して、状況への対応能力を失い、やがて死に体に転落していったようにです。もっと大きくいえば、だからこそソ連共産党は民衆にリコールされ、ソビエト連邦は崩壊したのです。
吉本さんの最後の遺言とも言うべき『週刊新潮』での「『反原発』で猿になる!」というインタビュー発言は、東日本大震災で福島第一原発壊滅という状況のなかにあって、猛反発にさられています。朝日新聞、岩波書店を筆頭に、知識人士の間では「草木もなびく反原発」という様相を呈しているからです。
しかし、「反原発」はなんら正義ではありません。吉本さんの基本的な認識は揺るぎなく正確です。文明の発展は、誰も押しとどめることはできないものです。そんなことは、人類の歴史を少し振り返れば明瞭です。人間は有史以来、幾多の困難を乗り越えてきたのですから。
平安時代の『源氏物語』の作者紫式部は、月を眺めて涙する宮廷人を描いています。その時代に、人が月面に立つことなど想像できなかったでしょう。また、呪詛によって遠方の相手を呪い殺すことは信じられていても、携帯電話で自由に対話することなど夢にも思い浮ばなかったでしょう。
別に科学を信奉するわけではありませんが、人類の歴史を考えるとき、社会の発展は〈歴史的必然〉であることは自明です。
「反原発」を唱え、歴史の流れに逆行する志向は間違いであることは言うまでもありません。朝日新聞社や岩波書店などが良識ぶって世論を誘導しようとしても、「朝日新聞」も「岩波新書」も電力によって輪転機を回すことで、発行されている事実は動きません。だから、原発に反対する資格が無いなどというつもりは毛頭ありません。それは雇用されている労働者が会社(資本家)に対して、異議申し立てをする権利があるのと同じです。しかし、エネルギー効率においても、コストにおいても、安全性においても、原発を超える発電技術が開発されれば、電力独占資本自体がそれに移行することは確実ではないでしょうか。
わたしは、じぶんが高知県高岡郡窪川町に四国電力が原発を設置しようとしたのに反対したように(にわか「反原発」人士やうつけの政治主義者は、十年近くに及んだ「田舎の出来事」など知りもしないでしょう)、福島第一原発壊滅事故の収束も廃炉の目途も立たない状態で、しかもじゅうぶんな安全対策が講じられたとは到底考えられない現段階の、原発の再稼働に反対です。
またわたしは、原発の再稼働や設置は〈住民の直接投票〉で決定すべきだと思っています。わたしはそれを基本的に尊重します。
世の知識人士は何か意にそわぬことがあると、すぐに「衆愚」などと言い出します。まったく冗談ではありません。それはとんでもない自惚れにすぎないのです。一人の人間にはひとつの〈生命〉が宿り、それぞれの〈境涯〉を背負っているのです。その一人ひとりが社会の〈主役〉となるべきなのです。それが〈原理〉というものです。そこでいえば、意識の高低や立場の優劣や能力の有無など二の次なのです。これを〈基礎〉としない、政治的引き回しや知的方向づけは、すべて権力の支配と通底する〈抑圧性〉を保有していることは疑いありません。「自己否定」だの「大学解体」だのと叫んでいた者が、いつのまにか「大学教授」に転身し、いまでは偉そうにお説教を垂れています。この図柄も欺瞞と奢りの典型にほかなりません。
吉本さんは、最後にいわばガリレオのように「それでも地球は動く」と言ったのです。
時勢に容易く迎合し、偽善の仮面を被り、良識ぶった知識人士など反動的だと言わざるを得ません。新聞の言論規制やテレビの報道規制ひとつとっても、それは明らかなのです。
日本の産業構造ばかりではなく、世界的な人口の増加を考えるとき、エネルギー問題は避けて通ることができないはずです。また科学的な研究とその社会的利用は不可欠なはずです。それが人間の本源的な知的な〈探究心〉に根差し、それが人間的解放への〈基盤〉ではないでしょうか。「核のゴミ」を言い募る反原発主義者がいますが、人類の叡知はそれを克服していく可能性を持っています。それはじぶんの子供時代と現在の社会を比較しただけでも想像できるのではないでしょうか。その加速的な変化と進展を思い浮かべてください。六〇年代末期、わたしたちはビラ一つ作るのに、鉄筆でガリを切り、謄写版で刷っていたのです。そして、官憲の監視を受けながら、街頭で一枚一枚配っていたのです。いまなら、インターネットで情報を発信すれば、すぐに伝わるのです。人間は決して、〈現状〉に留まっている存在ではないのです。
そして、なによりも言論と表現の自由は尊重されるべきです。
言うまでもなく、福島第一原発の壊滅事故と放射線汚染の〈全責任〉は、それを設置運営している東京電力と、安全監督の義務のある政府にあります。その実際と、個人の言説はおのずから別なのです。それは混同してはならないでしょう。
歌人の岡井隆さんの追悼の言葉をもって、本稿を終りたいとおもいます。
吉本さんが最後にこういう発言したのは象徴的だ。無視され、反発されながら、日本、 そして世界に引導を渡したのだと思う。震災後の社会がどうなっていくのか、よく分かった上で亡くなったのではないか。(『高知新聞』二〇一二年三月十七日朝刊)
(『情況』2012年8月別冊「追悼吉本隆明」掲載)
1
ひとの生涯は、とても困難な時期がもっとも充実しているというようにできているのかもしれない。吉本隆明は講談社の『われらの文学』という文学全集のためのアンケートで、《戦後、最も強く衝撃をうけた事件は?》という質問に対して、「じぶんの結婚の経緯。これほどの難事件に当面したことなし」と答えている。ここでは、その難事件そのものについては触れない。つまり、困難自体ではなく、充実ということについて言ってみたいのだ。
吉本隆明は「わたしが料理を作るとき」という一文を書いている。そのなかで、第一に挙げているのは、ネギ弁当だ。
一 ネギ弁当
イ カツ節をかく。カツ節は上等なのを、昔ながらの削り箱をつかってかく。
ロ ネギをできるだけ薄く輪切りにする。
ハ あまり深くない皿に、炊きたての御飯を盛り、ロのネギを任意の量だけ、その上にふり撒き、またその上からイのカツ節をかけ、グルタミン酸ソーダ類と、醤油で、少し味付けをして喰べる。
一のネギ弁は、職なく、金なく、着のみ着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰べた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった。
(吉本隆明「わたしが料理を作るとき」)
初めての同棲生活。「着のみ着のまま」というのが、その事情を語っている。一九五六年後半のことだ。
わたしの実感からすると、同棲が脚光を浴びたのは、ずっと時代が下り、一九六〇年代末から七〇年代前半である。林静一の『赤色エレジー』、上村一夫の『同棲時代』のマンガのヒットもあり、林静一の作品をあがた森魚が歌にし、それを契機に「神田川」をはじめ亜流作品がたくさん生まれ、流行した。そういう時代だった。
その当時、市役所の臨時職員だったわたしも、東京に出て下北沢の喫茶店で働いていた彼女を迎えにいって、同棲をはじめた。貧乏だったけれど、それでも同じ下宿の石井さんと近所の漬物屋から白菜の漬物を買ってきて、毎日のように酒盛りをしていた。高校時代につるみ、学校や教師たちに敵対したT兄弟やYなど、人の出入りも激しかった。それは「ひっそり」した、まるで夏目漱石の『門』の夫婦のような吉本隆明とは様相が違うけれど、その頃は愉しかった。
これは高度成長期の最後の光芒といってよく、石油ショックを契機に時代はきびしく転換していった。石油ショック以前がどんなふうに牧歌的であったかといえば、四国の西端の宿毛湾に原油基地を設置するという計画が持ち上がり、これに対して漁民を主体に反対運動が起こった。これを支援するため、現地へ下見に行った。わたしたち(鎌倉、小松、石川、松岡)一行はいろんな地区をめぐったけれど、大月町の安満地の漁港に着いた時には夕方になっていた。安満地は深い入江の湾で、低い山に囲まれた夕凪の海に陽が沈む光景は穏やかで美しかった。泊まる場所を探していると、地元の人々は親切にも小学校の体育館を提供してくれた。さらに獲れた魚の差し入れまでしてくれたのである。いまや、こんな話は夢物語である。第一に見ず知らずの来訪者を、学校の施設に寝泊まりさせるなんてことはありえないからだ。
ついでにいえば、林静一の『赤色エレジー』はアニメーターの一郎と幸子の暗くて切ない同棲生活を描いた作品だが、アニメの平面画法を導入し、大胆な場面転換を駆使することで、マンガの表現方法を飛躍させた傑作である。その最後のほうで、ザ・モップスの「朝まで待てない」が使われている。最初のシングル盤A面作である「朝まで待てない」こそが作詞家阿久悠の出世作なのだ。
吉本隆明は一九五五年六月に東洋インキを退職、再就職のあてもない失業状態にあった。そんな中での同棲だったのである。
子どものころ、卵はめったに口にはいらない貴重な食べ物だった。親たちが島育ちで魚好きだったこともあったかもしれない。ゆで卵を一つか二つ食べられるのは、春と秋の二回だけの遠足のときだった。昼食ののり巻きと、制限つきのお菓子と一緒に、白か茶色の紙袋に包んだゆで卵と塩が、遠足にもって行けた。のり巻きよりもお菓子よりも、ゆで卵のほうが遠足の日の大事な食べ物だった。殻をとんと叩いてひびを入れ、むきはじめると光沢のある白身があらわれてくる。塩をつまんでふりかけ、ひと口かぶりついて白身と黄身の一部が口にはいったときの、口のなかの乾いた微粒のある感じと、塩味のついた蛋白の味は何ともいえない。この感じは、卵が貴重で病人の栄養のためか、遠足のときしかお目にかかれないものだという固定観念と一緒に、ずいぶんわたしの思春期までを支配してきた。そして何日かゆで卵をたくさん作って思う存分に食べてみたいものだという願望をいだいた。この願望を遂げるにはふたつの条件がいる。ひとつはもちろんそんなことができるお金があることだ。もうひとつは、そんな馬鹿気たことが許容される、「よしきたやろう」という雰囲気がつくれることだ。親たちにせびっても何て馬鹿なことを考えている人だいと言われるにきまっている。だが遂にその機会はきたのだ。それは奥方と一緒になって、しばらく経ってからのことだ。或る日、二人で鎌倉へ行ってみようよということになった。一度、ゆで卵を思う存分食べてみたいとおもってたんだ、明日作って行っていいかなあというと、いいわ、わたしもやってみたいわと賛成した。十五個か二十個か忘れたが、鍋にいれて充分にゆであげた。そして片瀬の海岸を橋ぞいに江の島へ渡り、海に面した岩場に腰を下ろして食べはじめた。わたしのイメージでは少なくとも十個や十五個くらいはペロリと平らげられるはずだった。だがみよ、六個か七個ごろには、口のなかの乾いた感じは極限に達し、何やらこめかみのうえのあたりが痛いような、口のなかのものを押しだすような感じになり、どうにもならなくなってきた。美味いという感じも消えうせ、辛いという感じにちかくなってきた。もちろん水筒のお茶も呑み、塩もふりかけたのだが、それでもおさまってゆかない。なあんだ、こんなものかと気落ちがした。あるいは狐が落ちたといっていいのかも知れない。奥方のほうは三個ぐらいが限度だった。
(吉本隆明「卵をめぐる話」)
これはおそらく特許事務所に隔日勤務を始めた一九五六年八月以降のことだろう。これが新婚生活というものだ。初々しい雰囲気と弾んだ気分で溢れている。そして、それはだんだんと内化されてゆく。
2
『追悼私記』の完全版が講談社文芸文庫として刊行されることになった。先に挙げた「増補リスト」(『脈』九八号)の一三篇に、岸上大作の『歌集 意志表示』(白玉書房)に寄せられた帯文と、高知県本山町にある大原富枝の墓の碑文のふたつが追加されることになった。岸上大作の帯文は、姉の死に際して身内の想いを綴ったものとは違って、最初のパブリックな追悼文である。この収録によって、一九六〇年一二月に自殺した岸上大作に対する追悼文は、吉本政枝(一九四八年没)と岩淵五郎(一九六六年没)の間の〈本来の位置〉に置かれることとなった。
追悼文は死者に対する哀悼の念や喪失感とともに、客観的な要素が滲入しなければ成り立たない。
『吉本隆明全集』第三七巻を読んで初めて分かったことがある。それは『共同幻想論』の雑誌連載の中断が、父親の病気によるものだったことだ。切迫した情況では執筆活動など二の次なのだ。それは母親の死に際しても変わらない。「死にちかい母親の病院のベッドの傍で、はじめの二日ほど、ときどき実朝論の校正刷りをながめる余裕があったが、そのあとはもう死の足音が不可避的に近づいてくるのを、余裕をなくしてきくばかりであった。医師に水分を禁じられた母親は、その場かぎりのいい逃れを云って水を与えないわたしの方を視て、子供のとき叱りとばしたときとおなじ貌をときどきした」(「実朝論断想」)。
ここでは痛切な思いでなく、吉本隆明が追悼文をしたためた、吉本政枝から梶木剛にいたる四四名それぞれの生没年度、代表的な著作、対談や座談会の記録など、〈客観的な関わり〉をとらえておくべきだと考えた。それが追悼文の背景をなしているからである。
それをこの連載のために準備していたけれど、出稿直前に今度の文庫本に「解題」として掲載されることになったため、割愛した。ただ、その作業の過程で判明した、旧版の『追悼私記』の「初出一覧」の間違いについては指摘しておきたい。旧版を所持する読者に寄与するかもしれないからだ。
▼岩淵五郎
「ある編集者の死」(『週刊読書人』一九六六年三月一四日号)→「一編集者の死と私」
▼橋川文三
「告別のことば」(『ちくま』一九八四年三月号)→『ちくま』一九八四年二月号
▼昭和天皇
「昭和天皇の死」(『TBS調査情報』一九八九年二月号)→「天皇の死とテレビ」
▼手塚治虫
「手塚治虫論」(『TBS調査情報』一九八九年三月号)→「テレビ的事件」
▼美空ひばり
「美空ひばりII」(『TBS調査情報』一九八九年八月号)→「天才だけが演ずる悲劇」
▼今西錦司
「「棲み分け理論」の射程」(『産経新聞』一九九二年六月一七日)→「今西錦司とのただ一度だけの出会い」
3
生れてから間もなく重い肺炎にかかって死にそこなったと親たちからよく聴かされていた。そのせいか小学生のころ、いつもレントゲンの検診でひっかかっては精密検査をさせられた。河蒸気の渡し船に乗って川を渡ると、築地明石町のあたりを歩いて聖ルカ病院(子どもはセイロカといっていた)の付属になっていた保健館へ出かけていった。
病人扱いにされるのが嫌だったが、ほとんど年ごとの検診でかならずひっかかり、精密検査で異常なしということになった。またか、と思うのだが、子供のことで説明もできないし抗議もできない。しまいには保健室の看護婦さんと顔なじみになった。廊下ですれちがっても、街路で出あっても「おい、ヨシモト」(なぜか聖ルカ病院派遣の看護婦さんは生徒を呼び捨てにする慣わしであった)と呼びとめられては、二こと三ことかまわれるのだが、それが恥ずかしいし、ほかのガキどもの手前照れくさくて仕方がなかった。しかしそんな風なかまい方をする女性は周辺にはいなかったので、女先生には感じたことのない優しさの匂いを感じとっていたかもしれない。
(吉本隆明「小学生の看護婦さん」)
わたしも学校の身体検査は総じて嫌だった。検便でマッチ箱にうんこを入れて持っていったことも含めて、あのツベルクリン注射のただれた痕がそれを象徴しているような気がする。それに加えて、色盲や難聴の検査などで異常があるわけではないけれど、少しだけ機能的に劣っていたのか、一発では済まず、次の段階の検査を受けるケースが多かった。勉学(知力)だけが落ちこぼれを生むわけではない。リズム音痴にはじまり、運動能力、造形力(絵が描けない、図形が画けない)など、みんな連結している。自意識が強くなるにつれて、じぶんは欠陥人間なのかもしれないというコンプレックスになるのだ。
ひとは困ったもので、背が高ければそれを気にし、低いと嫌がる。女性の場合もおっぱいが大きい小さいは重要なことのようだ。それに公準があるわけではないので、どちらであっても気に病むのだ。むかしは男なら屈強、女なら美貌というのが通り相場だったのだろうが、そんなもの、もはや通用しない。そうであっても、自我の根底はおのおのの〈身体意識〉に基づくといっても、間違いとは言えないような気がする。むろん、ひとはそれぞれに社会的な場所を得て、時代の中に生きることになるから、そんな身体意識は内的なものに潜在化する。
吉本隆明に決定的な影響を与えた今氏乙治は一九四五年三月一〇日の東京大空襲で亡くなっている。その東京大空襲に関連して、高野慎三『東京儚夢』(論創社)で次のような記述に出遇った。
聖路加病院の向かいの中央区立郷土天文館で、竹久夢二の恋人であった笠井彦乃の展覧会が催された。その帰り道に明石町や築地周辺をゆっくりと歩きまわった。勤め帰りには気付かなかったが、錆びて緑青色に変色した銅板建築の家がそこここに認められた。そして、ここは空襲にはあわなかったのか、という感慨を抱いた。後日、聖路加病院が存在したゆえに爆撃目標から外された、という説明を何かで読んだことがある。
(高野慎三『東京儚夢』)
ここで驚いたのは、そういう都市の細部まで、米軍は調査し空爆計画を立案して実行したということだ。米国は、東京を空襲するために、ユタ州の砂漠地帯にあった陸軍試験場に、東京の街並みを再現して、新型焼夷弾を開発し、実験を重ね実用化。東京の気候、風土、住環境まで徹底分析のうえ、火災の被害が大きくなる時期を空爆に最適と決定したのだ。
ここまで用意周到な米軍に比較して、真珠湾奇襲くらいでなんとかなると思っていた日本の軍部は歯が立つはずはない。戦争は総合力である。それに対抗するのは、言うまでもなく戦争の全否定だ。米軍は三月一〇日の十万人にも及ぶ人命を奪った大殺戮の大空襲をはじめ四度の爆撃を実行し、さらに全国の都市へと拡大した。その多くは軍事的拠点を持たない、ただの地方都市である。完膚無きまで打ちのめすことだけを目的としたジェノサイドといっていい。それは終戦までつづいたのである。
そのあと、NHKの「ブラタモリ」の「豊洲」をみていたら、東京湾岸の多くは米軍の接収地になっていたことを告げていた。キリスト教関連の病院があったことも考慮されたかもしれないが、それ以上に、進駐するに際しての接岸場所や駐留地の確保として、戦略的な観点から除外したようにおもえた。
冷徹で冷酷な連合軍に対して、日本はアジア的劣勢意識まるだしで、「滅私報国」とか「一億総玉砕」という号令のもと、実際は、天皇家は敗戦の前年じぶんたちの延命のために皇后の名義でスイスの赤十字に多額の寄付をし、磯田光一『戦後史の空間』によれば、一九四五年八月一五日の「終戦の詔書」の三日後には、内務省警保局長は秘密の無電で、占領軍向けの売春施設を設営するように全国の警察署に命令を発している。警察署長は、積極的に指導をおこない、施設の急速充実をはかり、性的慰安施設、飲食、娯楽場、営業に必要な婦女子は、芸妓、公私娼妓、女給、酌婦などを優先的に之を充足するものとし、さらに戦争未亡人などもこれに加えようとしたのである。これが日本の支配層の卑劣な〈本性〉なのだ。
敗戦からと言わずに、明治維新から数えてもたったの一五〇年。わたしの生きてきた年月からいっても三倍に満たない。日本人の意識も体質もそんなに変わっていない。吉本隆明の思想はそれとの必至の闘いであり、その原理的解明と超克への基礎を形成していることは疑いない。
(『脈』100号2019年2月発行掲載)
吉本隆明は、『ユリイカ』一九七〇年一二月号の鮎川信夫・清岡卓行・大岡信との「共同討議 現代詩100年の総展望」に添えられた「現代名詩選」と、『ユリイカ』一九七一年一二月号の同じメンバーによる「共同討議 戦後詩の全体像」の「戦後名詩選」のいずれにも、黒田喜夫の詩のなかから「空想のゲリラ」と「毒虫飼育」の二篇を挙げている。
もう何日もあるきつづけた
背中に銃を背負い
道は曲りくねって
見知らぬ村から村へつづいている
だがその向うになじみふかいひとつの村がある
そこに帰る
帰らねばならぬ
目を閉じると一瞬のうちに想いだす
森の形
畑を通る抜路
屋根飾り
漬物の漬け方
親族一統
削り合う田地
ちっぽけな格式と永劫変らぬ白壁
柄のとれた鍬と他人の土
野垂れ死した父祖たちよ
追いたてられた母たちよ
そこに帰る
見覚えある抜道を通り
銃をかまえて曲り角から躍りだす
いま始源の遺恨をはらす
復讐の季だ
その村は向うにある
道は見知らぬ村から村へつづいている
だが夢のなかでのようにあるいてもあるいても
なじみない景色ばかりだ
誰も通らぬ
なにものにも会わぬ
一軒の家に近づき道を訊く
すると窓も戸口もない
壁だけの唖の家がある
別の家に行く
やはり窓もない戸口もない
みると声をたてる何の姿もなく
異様な色にかがやく村に道は消えようとする
ここは何処で
この道は何処へ行くのだ
教えてくれ
応えろ
背中の銃をおろし無音の群落につめよると
だが武器は軽く
おお間違いだ
おれは手に三尺ばかりの俸片を掴んでいるにすぎぬ?
(黒田喜夫「空想のゲリラ」)
この詩は一九五五年に書かれたものだ。二〇一九年、平成から令和と元号が変わり、まるで〈主権在民〉ということを忘れたかのように天皇制を美化し、皇室の動向を最大の優先事のごとくの空騒ぎがつづいた。そして、アメリカの属国であることを願うかのように日本政府は多額の予算(経費)を使い、トランプ大統領を最初の国賓として招いた。鬱陶しいかぎりだ。ヘーゲルの規定した〈アジア的専制権力〉の最終形態が象徴天皇制である。有形無形の圧力のうちにメディア統制を推進し、情報操作したところで、「天皇陛下万歳!」と叫んで特攻死する、神聖不可侵の絶対化へ逆流するはずがない。たとえ人々が〈王〉を無用とおもうまで存続するとしても。
不快な気分を振り払うように、黒田喜夫の詩をわが身に引き寄せてみる。黒田の「空想のゲリラ」と違って、銃など必要としない。裏山から村を目指す。杉と檜の植林に覆われ、確かに存在した村人が作った道も踏みつけ道もことごとく埋没して、影も形もない。記憶を頼りに、崩れかけた山肌の地形を辿り、峠に立つ。樹木の間隙から眺めると、向かいの山の集落は家もまばらだ。峠を下ったところに、堆肥を背負い、一休みした大きな岩場がある。いまやここら辺りを支配するのは猪だ。それでも、裏山とは異なり道はあった。泉のある場所まで下りる。六月といえば早苗が根づき、田圃には生き物たちがあふれていたのだが、もはや田を耕す者はなく、荒れた休耕田になっている。最初の家にたどりつく。雨戸が打たれ、誰もいない。廃屋だ。「始源の遺恨をはらす」も「復讐の季」もあった話ではない。村は草木に呑み込まれる寸前の、猪やカラスやリスの楽園なのだ。これに猿や鹿が加われば、村は完全に消滅するだろう。
友人の川村寛さんによれば、吉本隆明の次兄の田尻権平が一九四三(昭和一八)年一二月三日に移動中の飛行機の事故で戦死した四国東部の亀谷山のある、高知県安芸郡北川村の竹屋敷という村は消滅しており、その下にある集落が辛うじて存続しているとのことだ。消えた村、かつてはそこにも人がいて、それぞれに暮らしていたのだ。ふるさとの地勢はひとびとの感性の背景である。「目を閉じれば一瞬のうちに想いだす」。しかし、そこに戻ることはできない。子どもに戻ることができないように。令和のいま、「空想のゲリラ」という詩はプロパガンダでなく、〈望郷の歌〉と化したのである。
そうなったのは、社会の激しい変容にあるだけではない。黒田喜夫の傾向性にも拠っている。人民解放という志向性と社会主義の幻影がその根にあるものだ。カフカの『城』の測量師Kはどうしても目的の城に到達できない。しかし、Kは到る処でトラブルに遭遇し、そこで悶着が起こり、それと葛藤することで、生の実質を獲得している。つまり、作品として、その状況は如実に描かれている。それに比較すると、黒田の「ゲリラ」は前のめりの想いと過去への執着に囚われた妄想の戦士にすぎない。それは魯迅の作品が人々の命運を抱え込み、その屈折をよく描きながら、広がりが不足しているのと同じだ。
わたしはソビエト連邦の〈崩壊〉と中国共産党や北朝鮮の〈実状〉を自問しない、あらゆる左翼的存在に否定的だ。それを不問のまま、歴史を跨ぎ越せるはずがないからだ。それと同時に、アメリカのトランプの保護主義やロシアのプーチンのファシズムも批判すべきなのだ。黒田喜夫も例外ではない。黒田は清水昶と不毛の論争を繰りひろげた。なにが不毛かというと、黒田の主張する「アジア的身体」は主情的で客観性を欠いているからだ。〈アジア的〉という概念は〈地域性〉としてあるとともに、ヘーゲルの『歴史哲学』を踏まえて、マルクスが『資本主義に先行する諸形態』で提起したように〈歴史概念〉としても成り立つ。しかし、それを「意識」や「身体」に直結することはできない。そこには媒介が不可欠なのだ。その相対化の過程を経ない黒田の主張は同情することはできても、普遍的には通用しないものだ。
鎌を振りかざして立ち向かっても権力を倒すことができないし、銃をぶっ放しても支配秩序を撃ち抜くことができないからだ。
それに対する清水昶は世代的な根拠によるだけで、黒田の根底的な誤謬を否定することができず、ずるずると先行世代へのシンパ性を引きずり、妥協的で問題の所在を明確にできなかった。要するに、親族の醜悪な相続争いの様相を呈したのである。
もちろん、別の言い方もできる。黒田喜夫の『彼岸と主体』も『一人の彼方へ』も、吉本隆明の『共同幻想論』とは比較にならない。その原理的考察の徹底性と抽象力に殆ど理解が届いていない。それは清水昶も同様である。いうまでもなく、それは《つみあげられた石が/きみの背丈よりも遙かに高かつたとしたら/きみはどういう姿勢でその上に石を積むか》(吉本隆明「この執着はなぜ」)という問題なのだ。そして、世界史的課題は詩の現状にも必ず通底しているということを二人とも痛切に自覚していない点にあった。
吉本隆明は、黒田喜夫の追悼文のなかで次のように述べている。
おまけに清水昶は、黒田喜夫は吉本隆明は嫌いだといつもいってたと書いてるが、おれはにわかに信じないな。おれは黒田の人柄も詩もそんなに嫌いじゃなかった。また黒田とはもう何十年も会ってなかったが、黒田におれの人間を嫌悪しきれる素因をみたことは、記憶のなかに一度もなかった。嫌っていたというのがほんとなら、マス・コミが作った像にたいする黒田の薄っぺらな、いわれのない反感か、そうでなければ理念の決定的な差異からだ。
(吉本隆明「黒田喜夫 倫理が痩せ細らせた」『追悼私記 完全版』)
黒田喜夫は一九五四年再上京、翌年八月に『現代詩』の編集部に入っている。以後三年、秋山清、関根弘、長谷川龍生などの編集長と協力し、雑誌の発行に当たっている。吉本隆明は「涙が涸れる」「戦いの手記」などの詩を発表するとともに、「特殊から普遍へ」という作品合評や、花田清輝との論争の直接的な契機となった「芸術運動の今日的課題」という鼎談に出席している。また長谷川龍生編集長時代には「日本現代詩論争史」(改題「日本近代詩の源流」)を連載している。これは自らの花田清輝との論争を背景に、山田美妙・内田魯庵・森?外論争、北村透谷・山路愛山論争を取り上げ、そこから島崎藤村、与謝野鉄幹の評価にいたる近代詩の問題点を浮き彫りにしたものだ。この時期、黒田との交流があったことは疑いない。吉本隆明はその時の印象を保存していて、それがこの発言の根拠なのだ。
先日亡くなった高校時代の知り合いが、むかし電話をかけてきて、「松岡さんは吉本隆明よりも黒田喜夫の方がふさわしい気がする」と言ったことがある。それは農家に生まれ、中学卒業後就職した境遇が黒田に似ているからだ。それに下層労働者の情念から言っても、黒田に近いはずだという山田功の判断によるものだった。わたしはその指摘はよく分かったけれど、黒田とは時代的に大きくかけ離れていて、感性的にも隔絶しているとおもった。それにじぶんは落ちこぼれだという意識が強く、到底〈屈折〉無くして、黒田の詩の塁につながることはできないと考えていた。
そういう意味では、はるかに鎌倉諄誠の方が黒田に類縁している。黒田喜夫は一九二六年生まれ、鎌倉諄誠は一九三八年生まれだ。年齢差はあるけれど、二人とも日本共産党体験とそこからの離脱過程において共通しており、スターリン主義の影響下にあったプロレタリア詩の延長線に詩を構想した点でも連なるところがあったからだ。鎌倉諄誠は六〇年安保闘争後の県中央青年大会において、党中央の運動方針に公然と異論を唱え、除名されている。それにめげることなく、新たな道を模索し、高知県における全共闘運動の端緒を切り開いたのである。
明日あたり霜がくるらしい
ナオらももう隠れて遊びに行くわけにはいかない
ひとりうまく抜けだすことができたって
行くところがない
モズやヒタキがヒッキリリヒッキリリ啼きわめいているし
どっとおりだした夜露にしおれこんで黄ばんだ草葉も
あおい尻を振り立ててカマをかつぎまわっていた花の上からおりて
大きな腹を引きずっているカマキリの赤茶けた羽も
そう告げている
今日中には何とか芋を片づけちょかにゃあいくまい
みんな気負い立って怒ったようなかおをして鍬や鎌を打ち振っている
すでに葉末はかなりやかれているのだ
一仕切りにもならないのにもう腰が痛くなった
すむだろうか?
(中略)
やがて月明りの中を妹が茶道具をかかえておりはじめる
つづいて母が一荷背負ってさらに手に牛やら山羊やらのために
刈り取ったばかりの芋蔓を持てるだけ持って引こずりながら降りていく
とうとう最後になって すっかりもう気抜けしたナオが
亀の子のように小さな背中に大きなカマスを乗せ
這いずるようによたよたとすこし進み
進んでは休み 休んでは山岸にひっくりかえって
月の光を浴びている
(鎌倉諄誠「夢の中の一日」『センスとしての現在の根拠』所収)
これが鎌倉諄誠の村への〈遡行〉だ。秋のさつま芋の一家総出の収穫の作業を子どもの視座から描いている。作品はひとりでに起承転結の構成になっていて、引用は起と結の部分だ。小鳥の鳴き声やカマキリの様相に作者の嗜好が現れているけれど、山里の暮らしの実相を再現するとともに、心の在り処を表現している。
鎌倉諄誠が主宰した『同行衆』を最初に評価したのは黒田喜夫だった。新聞紙上の「詩時評」でふれたのである。マイナーな詩誌をやっているものにとって、じぶんたちの雑誌が取り上げられることはとてもうれしいものだ。そして、大きな励みとなる。わたしはそれを否定しない。ただ、じぶんたちの足場を〈大切〉にすることと、そこに〈自足〉することは違う。また商業詩誌がじぶんたちの上位にあると錯覚したらお終いだ。それは「党」などというやくざなものを崇めるのと同じである。おのれの立つところがいつでも〈根源的〉なのだ。
WOW WOW WOW WOW
なくきりん
一面の麦穂の海から
ひゅっと伸びたまっ白な歯も
赤錆びの岩壁を朝なさなまっすぐに通ってきた
カモメの足も
まもれなかった
WOW WOW WOW WOW
なくきりん
このかなしみがこえられないなら
この生存が肯定されるはずがない
降れ降れことば
降れ降れことば
(鎌倉諄誠「なくきりん」『センスとしての現在の根拠』所収)
連合赤軍のリーダー森恒夫は、黒田の詩を愛好していたという。黒田の詩と思想を尖鋭化すれば、ああいう結末に至ることは必至だったのかもしれない。むろん、わたしもその志向性の内部にあった。そこにおのれのひとつの死をみたのである。だからこそ、黒田みたいに保留をつけることなしに、ダメなものはダメだとはっきり言うべきなのだ。NHKEテレで、連合赤軍の生き残りメンバーの登場する番組をたまたま見た。彼らの発言を聞いていると、当時の社会的動機は間違っていなかったと言っているだけだった。事態の本質も、その錯誤の根底も内省的に抉っていないように映った。そんなことなら、黒田の「毒虫飼育」以前なのだ。
アパートの四畳半で
おふくろが変なことを始めた
おまえもやっと職につけたし三十年ぶりに蚕を飼うよ
それから青菜を刻んで笊に入れた
桑がないからね
だけど卵はとっておいたのだよ
おまえが生まれた年の晩秋蚕だよ
行李の底から砂粒のようなものをとりだして笊に入れ
その前に坐りこんだ
おまえも職につけたし三十年ぶりに蚕を飼うよ
朝でかけるときみると
砂粒のようなものは微動もしなかったが
ほら じき生まれるよ
夕方帰ってきてドアをあけると首をふりむけざま
ほら 生まれるところだよ
ぼくは努めてやさしく
明日きっとうまくゆく今日はもう寝なさい
だがひとところに目をすえたまま
夜あかしするつもりらしい
ぼくは夢をみたその夜
七月の強烈な光に灼かれる代赭色の道
道の両側に渋色に燃えあがる桑木群を
桑の木から微かに音をひきながら無数に死んだ蚕が降っている
朝でかけるときのぞくと
砂粒のようなものは
よわく匂って腐敗をていしてるらしいが
ほら今日誕生で忙しくなるよ
おまえ帰りに市場にまわって桑の葉を探してみておくれ
ぼくは歩いていて不意に脚がとまった
汚れた産業道路並木によりかかった
七十年生きて失くした一反歩の桑畑にまだ憑かれてるこれは何だ
白髪に包まれた小さな頭蓋のなかに開かれている土地は本当に幻か
この幻の土地にぼくの幻のトラクタアは走っていないのか
だが今夜はどこかの国のコルホーズの話でもして静かに眠らせよう
幻の蚕は運河に捨てよう
それでもぼくはこまつ菜の束を買って帰ったのだが
ドアの前でぎくりと想った
じじつ蚕が生まれてはしないか
波のような咀嚼音をたてて
痩せたおふくろの躰をいま喰いつくしてるのではないか
ひととびにドアをあけたが
ふりむいたのは嬉しげに笑いかけてきた顔
ほら やっと生まれたよ
笊を抱いてよってきた
すでにこぼれた一寸ばかりの虫がてんてん座敷を這っている
尺取虫だ
いや土色の肌は似てるが脈動する背に生えている棘状のものが異様だ
三十年秘められてきた妄執の突然変異か
刺されたら半時間で絶命するという近東沙漠の植物に湧くジヒギトリに酷似している
触れたときの恐怖を想ってこわばったが
もういうべきだ
えたいのしれない鳴咽をかんじながら
おかあさん革命は遠く去りました
革命は遠い沙漠の国だけです
この虫は蚕じゃない
この虫は見たこともない
だが嬉しげに笑う鬢のあたりに虫が這っている
肩にまつわって蠢いている
そのまま迫ってきて
革命ってなんだえ
またおまえの夢が戻ってきたのかえ
それより早くその葉を刻んでおくれ
ぼくは無言で立ちつくし
それから足指に数匹の虫がとりつくのをかんじたが
脚は動かない
けいれんする両手で青菜をちぎり始めた
(黒田喜夫「毒虫飼育」)
わたしはこの詩を読んだとき、カフカの『変身』を想起した。『変身』はドイツにおけるユダヤ人家族の疎外感が生み出したものだとすれば、「毒虫飼育」はアジアの農村から流出した母子家庭の妄念を描いた、戦後詩の傑作である。養蚕が廃れ、ひとびとが蚕を知らなくなっても、この詩は残るだろう。
吉本隆明が東京の下町に寄せるおもいと、黒田喜夫の山形の農村に対する執着は等価である。その愛憎の質においても。黒田が「荒地」の詩に批判的なのは、イデオロギー的錯覚にすぎない。鮎川信夫も田村隆一も北村太郎も、その内部に生々しい戦争の傷痕を抱えこんでいた。それは黒田の土俗的な体験と通じているはずだ。ただ異なるといえば、地方出のものは常に何かに追われている、出稼ぎ労働者のように。それが「幻の蚕」であるかどうかは問わないにしても、そこが都会育ちと違うところだ。同じ都市空間で生活していても、〈二重性〉を負っているからだ。しかし、それも鮎川信夫の〈厭世〉や田村隆一の〈デカダンス〉の内実にわけいれば相対化されるにちがいない。
吉本隆明は、黒田の変革の意志と苦闘のありかをよく分かっていたとおもう。なにかの座談会の発言で関根弘らを引き合いに出して、実践的リアリティを優先する詩人は時代の動きが激しい時は目覚ましい活躍をするけれど、状況が閉塞し停滞すると、忍耐力に乏しく持ち堪えることが難しい。その点、知的な蓄積を有するものは粘り強く持久力があるような気がする、と語っていた。決して、おのれの知的優位を誇るのではなく、彼らの持続と徹底性を願っていたのである。それゆえ、黒田喜夫の死に際して、厳しい批判とともに、リルケの言葉を手向けたのだ。
(『脈』102号2019年8月発行掲載)
1
わたしにもひそかな戒律があって、リトル・マガジンにおいては、そこに発表されたものを直接的に批判しないことにしている。つまり、同じ雑誌上の誰彼の発言を名指しで叩くことはひかえるようにしてきた。それをやれば誌上が批判の応酬の場に転化し、発行者に迷惑が及びかねないからだ。
たとえば友常勉という大学教員がいる。その言説を読むとおよそ論文とは言えない、生煮えの論議とひどい曲解で貫かれている。よくもこんな不毛なことを飽きもせず繰り返しているものだ。こんなことを百年続けても、対象の本質に到達することはないだろう。はじめから発想が卑俗で、イデオロギー的利害に結びついているからだ。もし友常勉がほんとうに部落解放を希求するなら、真っ先に部落解放同盟の言論抑圧や糾弾闘争の錯誤を批判すべきなのだ。部落解放とは被差別部落の〈消滅〉を志向することであり、それを実現するためには、なによりもみずからの党派性を止揚することだ。
それを黒田喜夫にからめていえば、黒田喜夫は一九六七年、新左翼諸党派、全学連各派によるいわゆる羽田闘争に際し、連帯と擁護の声明を岩田宏他数十名とともに発表している。これについては、その当時月村敏行が痛烈に批判した。なにが問題かといえば、声明を発することが連帯になると思っていることだ。
吉本隆明は六〇年反安保闘争において、みずから品川駅の坐り込みに加わり、六月一五日の国会投入では行動を共にし逮捕されている。また鎌倉諄誠は一九六九年一一月二五日国際反戦デーの新宿騒乱の渦中、機動隊と衝突し、瀕死の重傷を負っている。もちろん、病身の黒田に同じように闘争に参加することを求めているのではない。羽田闘争を擁護し、連帯するなら、声明など出すより、みずからの詩や批評によって、それを表現すべきなのだ。闘っているものは声援など欲してはいない。それぞれがおのれの闘いを続けることを望んでいるのだ。
それを端的に現した例を挙げれば、吉本隆明は東大全共闘の闘いに対して、「情況」という連載の「収拾の論理」において、東大教授である丸山真男や総長の加藤一郎の思想と態度を徹底的に批判した。これが連帯ということであり、根底的擁護なのだ。そして、支援するなら、カンパなど具体的支援が有効であることは言うをまたない。
むろん、不関の存在は世界総体との関連において、それ自体として生活している。そのことが不動の前提なのだ。それを欠く思想はいかに急進的であろうと、間口が広いように構えていても、いつでも豹変する可能性を持っているといえる。黒田喜夫の詩と思想の欠陥を挙げるとすれば、いつも対立的で、敵対意識が先行している。しかし、支配と被支配の経済的基盤のなかにはかならず〈空隙〉がはらまれている。それを服従とみなすのは平板な発想にすぎない。この中間性こそ歴史の無意識の中心に位置するものだ。
わたしが若い頃働いていた、市の清掃部門(主にゴミと屎尿の収集作業)は多くの被差別部落出身者で占められていた。彼等は差別と偏見に屈することなく、安定した職と収入を得て、しだいに社会の中間層に移行していった。これは喜ぶべきことなのだ。それに対して、被差別の歴史と屈辱の体験を忘れるな、解放運動の列に加われなどと説くことは倒錯である。むしろ、わたしのような非力で堪え性のないものは、まだどこかに余地があるかもしれないとおもい、職を転々とする、落伍者だった。同じ釜の飯を食った仲間のひとりとして、わたしは彼等の姿を羨望することはあっても、否定したことは一度もない。
スターリン主義の組織論の欠陥ははっきりしている。労働者大衆を組織するということは、それを囲い込むのではなく、自立をうながすことだ。また民衆の貧困を基盤にするのではなく、そこからの解放の方途を切り開くことだ。つまり、つねに大衆の命運を第一義にする、これが鉄則である。アメリカ・ロシア・中国といった大国を中心にして、国家間の軋轢や対立は深刻化し、地域紛争とテロが絶え間なく繰り返され、国際的状勢は悪化の一途をたどっている。また国内的にいえば制度的管理と日常的な監視が徹底化されつつある。それらにともなって、人心の荒廃も進行しているのだ。これを〈中央突破〉することが思想の存在意義ではないのか。
友常勉は「〈眼の畏怖〉」(『脈』第102号)という一文において、国会の門扉にバイクで突撃した死者を讃えている。それは〈敗北〉のすすめでしかない。なぜなら、客観的にみればそれは自殺者の一人にすぎないからだ。また権力の側からすれば、反抗的で厄介な存在が減ったことを意味するだけだ。わたしたちは国家の支配と収奪に対して、ねばり強く抵抗し、生きつづけることだ。それでも〈憤死〉を遂げることも、不可避に〈破局〉を迎えることもあるだろう。それが黒田の「階級の底はふかく 死者の民衆は数えきれない」ということなのだ。国家の本質は共同幻想である。そして、自己幻想と共同幻想は逆立ちする。この『共同幻想論』の不滅のテーゼを想起するなら、いかなる死の抗議も、残念ながら権力否定に直通しない。もし吉本隆明では気にいらないというなら、「死は、個人に対する類の冷酷な勝利のようにみえ、またそれらの統一に矛盾するようにみえる。しかし特定の個人とは、たんに一つの限定された類的存在にすぎず、そのようなものとして死ぬべきものである」(カール・マルクス)と言い換えてもいい。そこからいえば、友常勉の言説は味方のような貌をした〈敵〉のものでしかない。なにが「〈狂気〉の正体」だ。なにが「畏怖を込めて想像する」だ。ふざけるな。
2
成田昭男 様
『VAV』第31号(終刊号)をご恵贈くださり、ありがとうございました。
その中の「資料 「沢清兵」氏は「内村剛介ではないと思う」(松岡祥男氏への手紙)」にお答えいたします。
陶山幾朗氏の手紙は届いております。
わたしは原則として、〈公表された文章〉に対する批判や異論等は〈公然〉となされるべきだと考えております。
私信によるやりとりは余計な混乱を招く惧れもあり、また悪くすれば私怨を生む場合もあると考えます。
わたしがこの原則を形成したのは、若月克昌さんが「菊屋まつり」(一九八六年)に関する感想を『同行衆通信』に発表したのに対して、北川透氏より不可解にもわたし宛に、反論の手紙が寄せられた時からです。その扱いには苦慮しましたし、その後の敵対の原因ともなりました。
わたしはこの経験をもとに、この原則を確立したのです。
陶山幾朗氏については、「SECT6」からの活動家であることは知っておりました。また『あんかるわ』誌上の連載も読んでおりました(よく理解できたかは別として)。そして、いただいたお手紙のご指摘も参考になりました。ご指摘をうけ、わたしはその当時の吉本隆明さんならびに吉本和子さんからの手紙を取り出し、確認作業を行いました。
それにもとづいて、じぶんの文章を訂正しました。それは近刊の『吉本隆明さんの笑顔』という冊子に収録予定です。もちろん、冊子ができましたら、陶山幾朗氏にも送るつもりをしておりました。
わたしにとっても、陶山幾朗氏の訃報は突然でした。
ご冥福をお祈りいたします。
以下に、わたしの「訂正」を提示します。
『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者が分からない場合もあった。
たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の事務を担当された吉本和子さんに問い合わせた。そうしたら、「沢清兵は内村剛介さんのペンネームです」という返事をいただいた。
(松岡祥男「このボケー、違うだろー」『猫々だより』第166号)
【訂正個所】
たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の編集・発行者である吉本さんに問い合せた。そうしたら、事務を担当された吉本和子さんから「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」という返事をいただいた。
(松岡祥男『吉本隆明さんの笑顔』)
わたしの「訂正」の理由は明瞭で、陶山氏が《これはやはり吉本夫人による何らかの思い違いか、誤解の類ではないかと推測する》と書いていたからです。わたしの記憶による誤った記述によって、吉本和子さんにご迷惑が及んだのです。吉本和子さんは「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」(吉本和子「松岡祥男宛はがき」2003年4月16日消印)と書かれていました。つまり、わたしは吉本隆明さんに問い合わせており、吉本隆明さんのご返答を和子さんがわたしに伝えてくれたのです。陶山氏のいう「吉本夫人」の「思い違い」あるいは「誤解」というのは、わたしの文章の間違いから発生したものです。その点において、陶山氏のお手紙はとてもありがたいものでした。
申すまでもなく、わたしは「沢清兵=内村剛介」説を主張しているわけではありません。わたしは内村剛介の『生き急ぐ』『流亡と自存』『石原吉郎』などを読んでいますが、内村剛介のよき読者とは言い難く、「沢清兵=内村剛介」説を唱える謂れを持ちません。わたしは『試行』の復刻版を自家発行する過程でこういうことがありましたと言っているだけです。
陶山幾朗氏はもしかすると、内村剛介に関するわたしの発言を放置することは沽券に関わると思われたのかもしれませんが、それは誤解でしかありません。まして、陶山氏の〈推論〉と〈蘊蓄〉に応答することは不可能で、その必要もはじめから無いのです。
そのうえであえていえば、沢清兵「褪色」を『試行』に掲載した吉本隆明さんの証言ですから信憑性は高いと、いまでも思っております。
なお、わたしは故人の明確な遺志でもないのに「松岡祥男宛書簡」を、じぶんの判断で公表した〈貴方の行為〉を断じて認めません。
本来、書簡(私信)は〈発信者〉と〈受信者〉に帰属するものです。どんな経緯があったにせよ、貴方は〈第三者〉です。この『VAV』誌上での公開は〈不当な越権行為〉であり、貴方の〈わたしに対する挑発〉であることは明らかです。
一個の著作家として、わたしはこれを絶対に看過しません。
(『猫々だより』187号2019年10月発行掲載)
沖縄の『脈』の比嘉加津夫さんとミッドナイト・プレスの岡田幸文さんの逝去はほんとうにショックでした。おふたりとも二〇一九年一二月九〜十日に亡くなりました。
書くことに限っても、比嘉さんと岡田さんの存在なくして、わたしは持続的な執筆の機会は得られなかったのです。
根石吉久さんによれば、岡田さんは夏の暑さがことのほか堪えたようで、体調が悪いと言われていたとのことです。一二月の初旬に倒れて、救急車で搬送され、救急治療室で手当てを受けているけれど、危ない状態との連絡がありました。その後、亡くなられたと伝えられました。
岡田さんを知ったのは『鳩よ!』(一九八四年一〇月号)でした。「詩が誘います、旅へ。」という特集で、岡田さんは東京の目黒(品川区)の案内人として誌上に登場していたのです。ビートルズの新しいレコードが出た日は目黒の坂を駆けおりて、買いに走ったという。ビートルズはもちろん、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、音楽大好き少年だったとのことです。その店に案内するつもりで行ったけれど、店は無くなっていたのです。長髪で眼鏡をかけジャケットをはおりレコードを漁る姿と、日出女子学園の看板のある駅の通路と思しき場所に立つ写真が載っていて、わたしはカッコいいなあと思ったのでした。
そんな岡田さんとどうして知り合ったかというと、彼は『詩学』の編集を担当していて、原稿依頼があったからです。それからつきあいがはじまったのです。
『詩学』は投稿詩の掲載とその合評をはじめ「詩書批評」「詩誌月評」を中心に、小さいながら詩壇の公器とも称された伝統ある雑誌でした。吉本隆明さんとの会話の中でも、何度か岡田さんのことが話題にのぼりました。その最初は「折角、彼らしい誌面になりはじめたところだったのに‥‥‥」というものでした。岡田さんは知り合って間もなく『詩学』を辞めました。吉本さんが言われたように、旧態然たる詩誌の閉鎖的な人脈主義に対して、少しでも新しい息吹を吹き込もうとしたのです。そこに齟齬と亀裂が生じたのでしょう。これに関連して社主(嵯峨信之)の根も葉もない中傷があったのですが、岡田さんはめげることなく『詩の新聞ミッドナイト・プレス』を創刊しました。
わたしは岡田さんにお世話になり放しです。エピソードを語ると、わたしが『遠い朝の本たち』を読んで、須賀敦子にはまっていた時、岡田さんは「松岡さんには須賀敦子は似合わない」と言いました。わたしはそうだろうなあと思うと同時に「いいものはやっぱりいいでしょう、岡田さん」と胸のなかで呟いたのでした。
一度わが家にやってきたことがあります。いろんな話をしているうちに、岡田さんは疲れていたのでしょう、パートナーの山本かずこさんの膝を枕に眠りました。その微笑ましい様子と、谷川俊太郎さんのマネジャー、『現代詩手帖』の編集長の道を選ばず、困難な詩の出版社を立ち上げて奮闘した心意気は、わたしのなかで不滅の光芒を放っています。
言葉で
城を造ろうとは思わない
丘の斜面を歩きながら
旅芸人の君の歌声に耳を傾ける
(岡田幸文「見えない城」)
書く人歌う人は、必ずしも良い読み手や聞き手ではありません。おのれに固執するからです。岡田さんは他者のなかを流れるメロディを聞くことができたのではないでしょうか。
比嘉加津夫さんとは亡くなる一週間前に電話で話しました。その時はお元気で、声にも力がありました。ですから、あまり心配していなかったのです。でも、お体は危機的状態(幾つも病気を抱えており、酸素ボンベを使用していました)にあったことは変わりませんので、一旦体調を崩されると、危ないことは暗黙のうちに分かっていました。
電話でのやりとりは、『脈』に関することでした。わたしは第一〇四号の原稿(「『ふたりの村上』の成立」)と、第一〇五号(特集「『吉本隆明資料集』と松岡祥男」)に関連する追加の手紙を送信しました。それに対して、比嘉さんから最初の「手紙」が手元に無いとのファクスが届きました。
わたしは『脈』一〇三号が届いたその日に、資料集の「別冊1・2」と「手紙」を送っていました。郵便事故の可能性を考えました。ただ、ひとつ不審なことがありました。比嘉さんから電話があって、送った『脈』一〇三号が返送されてきたというのです。しかし、わたしのところには雑誌は届いていました。《届いています。返ってきたというのはどういうことでしょう》と電話で言ったのですが、不可解なままになっていました。わたしは郵便局に問い合わせ追跡調査をしました。郵便局は確かに配達しており、その記録も残っているとの回答でした。
それを比嘉さんに伝えました。どうしたことだろうと思ったのですが、とにかく《「別冊」も届いていない》ということなので、再度送ろうと思っていた時に、比嘉さんから三度目の電話がかかってきました。「あった」ということでした。「返送された第一〇三号」と比嘉さんが思っていたものは、実はわたしが送った「別冊」だったのです。同じ郵便局のレターパックライトだったので、そう勘違いし、一〇日以上開封しないで放置していたのでした。
これで一件落着です。このやりとりは、お互いバタバタしましたけれど、決して不愉快なものではなく、より比嘉さんと親密になったのです。そして、比嘉さんは一二月五日に第一〇五号の原稿依頼をしました。比嘉さんは最後まで意慾的でした。ほんとうに残念です。
最終段階になって、これまでの印刷所が廃業し、『吉本隆明資料集』の発行が暗礁に乗り上げた時も、比嘉さんは心配して、『脈』の発行部数及び印刷代金を教えてくれたうえ、沖縄の印刷所を紹介しますと言ってくれました。
また『別冊』二冊を京都・三月書房でも扱ってもらうことになり、それが三月書房のブログで紹介された時にも電話がかかってきました。「松岡さん、『脈』で出しますよ。著者贈呈二〇部で二〇〇部作ります」と言われたのです。その時には既に刷り上がっていたのですが。
そんな比嘉さんに、『脈』の連載「吉本隆明さんのこと」を中心に作った「別冊2」を手にしてもらうことができました。それはわたしにとって救いです。
この度、『脈』では松岡祥男さんが20年間にわたって、「吉本隆明資料集」に取り組んできた功績を振り返るために特集を組みました。
最後は「ニャンニャン裏通り」と「吉本隆明さんの笑顔」を購読者に送るという、気の回し用は見事としか言いようがありませんでした。
かなり厳しい経済環境のなかで、よくも191集まで、よくも20年間という驚きと感動が湧き出てきます。
上原様には高知の思い出など10枚程度でお願いできないでしょうか。
(比嘉加津夫「上原昭則宛原稿依頼」)
比嘉さんは一九四四年沖縄生まれ。一九七二年に個人誌として『脈』を創刊、その後同人誌になり、一〇三号までつづきました。なかでも「写真家潮田登久子・島尾伸三」という特集は抜群で、比嘉さんでなければできなかった仕事です。『比嘉加津夫文庫』(全二〇巻)をはじめ、著書もたくさんあります。それは詩・小説・評論・絵画など多岐にわたるもので、その中核をなすのは島尾敏雄に関する論考といえるでしょう。
比嘉さんとお会いしたことはありませんけれど、その人柄を物語るような話が綴られています。比嘉さんは中学三年生の時、担任に呼び出されて、下級生の女の子にいたずらをした疑いをかけられたのです。身に覚えない嫌疑に、抗弁もできないまま、くやしさに滂沱するのです。数日後、担任は「すまなかったな。名前が同じだったから」とこっそり言ったそうです。この理不尽な仕打ちに、傷ついたことは間違いありません。でも、比嘉さんはそれに屈服しない確かな見識を獲得するとともに、南方系のおおらさを持ちつづけたのです。
わたしに比嘉さんが亡くなったことを伝えてくれたのは宮城正勝さんです。比嘉さんは七四歳、岡田さんは六九歳でした。岡田さんは一九五〇年京都生まれ。『あなたと肩をならべて』と『アフターダンス』の2つの詩集があります。
* * *
『ふたりの村上』の成立
1
わたしが吉本隆明著『ふたりの村上』を企画した〈モチーフ〉は、つぎの「帯文」の草稿につくされています。
現代文学をリードしてきた村上龍と村上春樹。
その魅力と本質に迫る論考群。
〈ことば〉は世界に拮抗する、
これが吉本文学論の基調である。
この構想のもと、わたしは「吉本隆明の村上龍・村上春樹論」という一文を書き、『脈』一〇一号の原稿として出稿しました。しかし、その後『ふたりの村上』が公刊される見通しとなり、「解説」を担当することになったのです。わたしは重複を避けるため原稿を取り下げ、急遽「〈対話〉について」に差し換えました。
『ふたりの村上』の成立の経緯は次の通りです。
わたしは未収録の追悼文の増補と編集(構成)を見直した『追悼私記 完全版』が作られるべきだとおもい、その実現を目指していました。なかなかうまくゆかなかったのですが、ハルノ宵子さんのはからいにより講談社文芸文庫として刊行されることになりました。
その編集過程で、担当編集者のT氏から「解題」の執筆依頼を受け、わたしは吉本さんが追悼文を認めた四四名の方々の生没年度、代表的著作、対談や座談会の記録など客観的な関わりを記したいと考えました。しかし、宮田勘吉さんと小野清長さんの生年月日が分かりませんでした。
宮田さんについては、山形県の齋藤清一さんにお願いして、米沢高等工業学校の同窓会事務局に問い合わせていただきました。でも、「個人情報保護」の観点から教えることはできないと断われたとのことでした。
困ったわたしは、旧版を編集した小川哲生さんならご存知かも知れないと思い訊ねました。生年月日は分からなかったのですが、宮田さんはある企業の重役を務めた方で、その会社の総務部に聞けば分かるでしょうという教示を得ました。わたしが問い合わせても、また「個人情報保護」の壁にぶつかる惧れがありますので、版元から事情を説明して調べてくださいと申し入れました。
また小野清長さんについては、T氏が「文献堂書店」のあった早稲田の古書店街で調べてくれたのですが、残念ながら分かりませんでした。それで「生年不詳」としたのです。講談社の校閲部は日本で最も大きな出版社の校閲部にふさわしく優れていて、細かな疑問点も逐一指摘してくれ、ずいぶん助かりました。
小川さんへの問い合わせの際、じぶんの構想にもとづいて、《小川さんが手掛けた吉本さんとの仕事で、途中で中断し未完結に終わった『吉本隆明全集撰』があります。未刊の第2巻には書下ろしの「村上龍・村上春樹論」が予告されていましたが、実現しませんでした。それを別の形でやられたらどうでしょうか、その気がありましたら、なんでも協力します》と伝えたのです。そして、実際に両村上論の「著作リスト」と『吉本隆明資料集』のために入力した本文データを提供しました。
ついでにいえば、個人情報保護法とは、「保護」という名目の〈自由の制約〉であり、国家の〈情報管理〉の徹底化と、寡占的な〈情報売買〉を促進するものでしかないのです。
小川さんの要望で「解説」を引き受けたのですが、その中で「両村上の全盛期は過ぎた」とわたしが記していたのに対して、担当編集者のFさんから「村上春樹氏はいまもダントツの売れ行きの作家です」という疑義が出されました。わたしはこれについて、小川さんとのやりとりのひとつを示すことで応答しました。
『ねじまき鳥クロニクル』の「ハゲ」のところは、「勘定」ではなく「鑑定」ではないか。
また、吉本さんは「ゆえん」を「所縁」と表記しているが、「所以」「由縁」にすべきではないかという問い合わせにお答えします。
まず笠原メイのところですが、「勘定」が正しいです。メイは駅から出てくる人々の頭髪の薄くなっている度合いを松・竹・梅の3段階に分けて、カウントするのです。交通量調査みたいな、禿げの程度のチェックですね。
余計なことですが、この描写はユーモアを超えた村上春樹の禿げに対する〈悪意〉を感じさせます。わたしは白髪系統で禿げではありませんから、これに反発することはありませんが、それを気にしている人からすれば、たぶん不愉快な表現でしょう。『1Q84』にもあります。女主人公青豆と女性警官あゆみの二人が男漁りをやるのですが、禿げた男とセックスする時、その禿げ頭を撫ぜるのが快感なんだと、二人して語り合う場面があります。
次に「所縁」ですが、そのままがいいと思います。「意志」はすっかり「意思」に統一されてしまいましたが、わたしは「用語規制」はナンセンスと思っています。言葉は時代とともに変化しますが、その必然的推移はいいのですけれど、アホの文部科学省やバカの言語学者が集まって、「ヴ」の廃止を決定するのは愚かなことです。
例えば夏目漱石の小説は当て字のオン・パレードです。それで漱石が表記について無関心であったかというと、そうではありません。漱石は漢学塾の二松学舎で学んでいますから、そういう知識は豊富だったのです。そのうえで、自在に当て字を使っているのです。まあ、仏典など読むと、いかに現在の用語の範囲は狭いか、すぐに分かります。「所縁」もそこからきているのかもしれません。
担当のFさんとのやりとりで、わたしの「両村上の全盛期は過ぎた」という表現が問題になったようですが、これにはわたしなりの根拠があります。
小川さんやFさんがどれくらい両村上の作品を読んでいるかは知りませんけれど、村上春樹でいえば、わたしは『1Q84』を読んで以降、彼の作品を読む気がしなくなりました。それを具体的にいいますと、『1Q84』は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以来の村上春樹の得意とするパラレル・ワールドとして、「青豆の章」と「天吾の章」が交互に展開されます。しかし第3巻に至って、それで作品を持ち堪えることができなくなり、新たに「牛河の章」が加えられたのです。これによって物語は著しく弛緩し、作品世界は完全に破綻しました。これはこの作品の失敗に止まらず、村上春樹の〈崩壊〉を意味するとわたしは思いました。
それはこれだけの実力を有する作家ですから、これからもそれなりの作品を書くでしょう。でも、この破綻と崩壊を克服する可能性はないかもしれません。
一方、村上龍は『イン ザ・ミソスープ』後、これを越える作品を書いていないような気がします。村上龍の危うさは、例えば『愛と幻想のファシズム』もそうですが、ヒットラーの自伝を下敷きにしています。その元ネタを作品として凌駕できなければ、ただの模倣作になってしまいます。
作家はゆきづまるとみんなそうです。素材を外部に求めるのです。『ヒュウガ・ウイルス』などウイルスに関する知識と情報を仕入れて、作品を作っています。ネタ文学です。そんなものは村上龍の本領からの転落でしかありません。〈快楽〉と〈暴力〉の突出という彼の売りはどこにいったのかと思いました。
また彼は自作の権益保護のために、知り合いの作家にも呼び掛けて電子出版に乗り出しました。それは大手出版社にこれ以上搾取されるのは嫌だと思い、コミックの世界では『ゴルゴ13』のさいとうたかをがリイド社という出版社を立ち上げ、また『子連れ狼』の原作者の小池一夫が小池書院を作ってやっていますが、そんなことに村上龍は手を染めるべきではありません、原稿料の値上げ要求なら分かりますけど。これも作家的停滞の現れのひとつとわたしは思っています。
これが「両村上の全盛期は過ぎた」という根拠です。
ただ、さびしいのはこの二人をトータルに越えるような新しい作家が現れないことです。
高橋源一郎や島田雅彦も小説だけでは食えないので、大学教授になっています。そんな根性なのにNHKの教育番組に出演し、文学について講釈を垂れているのです。ほんとうはみじめなのに、そう思っていないところが、その〈堕落〉の本性です。
両村上の限界をあえて歴史の展開に結びつければ、村上春樹は地下鉄サリン事件が〈作家〉としての命取り。村上龍の場合はアメリカ・ツインタワービル襲撃によって、彼のもつアナキーな反抗意識が〈無効化〉したということではないでしょうか。
こんな身も蓋もないことを言っても、二人を侮るつもりは少しもありません。作家はかなり幸せな存在です。優れた作品のエロスは読めば、いつでも甦るからです。
もう何年前になるのか。早稲田が革マルのお庭になっていた頃、水道橋駅を降りて、橋を渡ったところに「SWING」というジャズ喫茶があった。村上さんは俺より先にその店でバイトしていた早稲田の「先輩」だった。暇だったから、時給120円のバイトでも俺はよかった。お客のいないときに、勝手にコーヒーを淹れて、古いジャズを聴いていられるなら、それでいい。
村上さんが俺に話しかけてくれた。当時、俺は誰とも話はしたくなかった。だから、新入りのバイトのくせに、「俺に話しかけんじゃねえよ」と村上さんにガンを飛ばした。村上さんはちょっと凍った。申し訳ないことをした。その後、村上さんと話したことは、「文芸科です」「演劇科です」だけだった。店にときどきいい女が来た。他のバイト仲間によると、「あれが村上さんの女だ」ということだった。その後の奥さんと同じ人なのかどうかは知らない。背のすらりとした人だった。村上さんは、比較的チビで、太りぎみだった。
夜11時頃店が終わると、飲み物を各自勝手に作って、黙ってもぐもぐとパンをかじった。話をしたがらないとわかると、村上さんは黙って、よくビリー・ホリデイのレコードを回して聞かせてくれた。
(中略)
田舎の市営住宅に引っ込んでしばらくした頃、文庫本を買って家に帰った。「新潮文庫今月の新刊」みたいなカラー印刷のやつが文庫本の中にはさまれていた。それを広げていたら、作家の写真がいくつかあるうち、この顔は知っていると思った顔があった。作家の名前が村上春樹だった。ああ、あの、水道橋の、「SWING」の村上さんだ。
(根石吉久「『快傑ハリマオ』創刊号編集中記」)
作家以前の村上春樹の姿が描かれています。思えば遠くまで来たものです。
2
『ふたりの村上』は二〇一九年七月に論創社から刊行されました。
それにともなって、紹介記事と書評が出ました。わたしの知っているのは『東京新聞』「大波小波」(二〇一九年八月一日)、『毎日新聞』の新刊紹介(同年八月一一日)、『週刊読書人』川村湊書評(同年九月一三日号)、『図書新聞』久保隆書評(同年九月一四日号)の四つです。わたしは『毎日新聞』の紹介は的確だと思いました。曰く《今や現代日本文学を代表する2人を著者が度々論じたのは当然に思えるが、歴史的にいえばむしろ吉本が早い時期から注目したことは、彼らの世評を高めるうえで力があった》と。「大波小波」も悪くありません。いちばんひどいのは川村湊です。
川村湊の書評には呆れました。彼は《吉本氏が『ふたりの村上』を書かなかったのは必然だ》と結論づけていますが、『吉本隆明全集撰』第2巻「文学」は一九八八年六月下旬刊行予定だったのです。もし「ふたりの村上」という論稿が書かれていたとしたら、「村上春樹『ノルウェイの森』」(一九八七年一二月)と「『ダンス・ダンス・ダンス』の魅力」(一九八九年二月)の間にくるものです。それすら分かっていないのです。
川村湊は以前にも『歴史としての天皇制』(作品社・二〇〇五年四月刊)の「解説」の中で、雑誌『文藝』初出の吉本隆明・網野善彦・川村湊の鼎談「歴史としての天皇制」が《その後活字にならず、そのままになっていることを嘆いている》と書いていました。しかし、この鼎談は吉本隆明『〈信〉の構造 対話篇 〈非知〉へ』(春秋社・一九九三年一二月刊)に既に収録されており、おのれの怠慢と見識の欠如を衆目にさらしたのです。
川村湊は村上春樹、村上龍の作品が《「現在」から「現実」に逃避した》といっていますが、自分を棚上げした便乗的な口説で、わたしはこんな内発性の乏しい文芸批評家をみると、作家に同情します。
わたしも最近の両村上に批判的ですが、本の売れ行きはともかくとして、村上春樹『海辺のカフカ』より村上龍『イン ザ・ミソスープ』のほうが、同じような主題を扱ったほぼ同時期の作品として良いのではないか。『イン ザ・ミソスープ』はフランクの不気味な存在感とともに、迷子の描写はこどもの〈本性〉を鋭くとらえたものです。それに比較すると『海辺のカフカ』は〈父親殺し〉をモチーフとしていますが、主人公の少年に余計なものを被せすぎています。漱石全集の読破をはじめ作家の現況の過剰な投影が作品を冗漫にしているのです。ホラー仕立てで、時代の閉塞感を如実に描くことによって、若年層の共感を得たことは確かですが、作品の〈生命力〉からいえば、そんなに時間の風化に耐えるとは思えません。
申すまでもなく、もっともらしいケチをつけるのが文芸批評家の仕事ではありません。作品と真摯に向かい合い、作品の本質をじぶんのなかに受けいれ、そのうえで作品を客観的に開くことではないでしょうか。それがとりもなおさず作品の〈価値〉と作家の〈宿命〉に接近することであり、批評の存在意義のひとつといえるでしょう。
そういう意味でいえば、この書評に限らず川村湊の評論は、小林秀雄や吉本隆明や江藤淳は言うに及ばず、平野謙や奥野健男や磯田光一の批評の〈水準〉とも較べものにならない、文芸批評の〈低迷〉のつまらない実例でしかありません。
『ふたりの村上』の特徴は、なんといっても〈同時代性〉です。それは一定の評価の定まった古典を論ずるよりもはるかに困難が伴うかもしれません。そこで決定的に重要なのは情況に対する洞察力です。そこでは作家も、文芸批評家も、わたしたちも、同じように〈格闘〉するほかないのです。その格闘する姿が、この本の最大の魅力ではないでしょうか。
(『続・最後の場所8』2020年10月発行掲載)
猫 どうしてる?
松 えっ。
猫 『吉本隆明資料集』の発行が終了し、気抜けしてるんじゃないかと思ってな。
松 まあ二〇年もつづけてきたので、無事終わってほっとしているのは事実だけどね。そのあと、世の中は思わぬ展開となった。新型コロナウイルス禍で、社会の脆弱な構造が露呈するかたちになった。これに対する政府の対応や世間の動きを批判するとすれば、事あるごとに言わざるを得ない。そうなるとこっちもバカみたいなことになり、消耗するだけだ。テレビの報道に頭にきて、手元の物を投げつけても、うちのテレビが壊れるだけのようにね。
猫 みんなそれぞれにこの状況に対処しているに違いないが、「夏痩せて那覇にポツンと一軒家」(宮城正勝『アブ』二五号)という有様だ。
松 おれたちはもう老人という扱いをうける位置にいるから、社会の前線から一歩退いているが、現役の人々は大変だぜ。解雇、失業、倒産、あらゆるかたちで状況の負荷が重りかかってくる。坂本龍一のバカが早い時期に、「この機会に充実した生活を味わうべきだ」と発言した。この間抜け野郎! 稼ぎは無くなり、住むところも無くなってみろ、特殊詐欺の受け子でもやるしかなくなるのは必然だ。
猫 そうだな。世界で一〇〇万人以上死亡している、これが紛れもない客観性だ。
松 うん。
猫 ここはひとつ、呑気な話がしたいな。
松 『吉本隆明全集』第二三巻の「月報」で、川村湊が『悲劇の解読』の「序」の「近代批評は、やっとひとりの批評家をのぞいて終りをまっとうしていない」というのにふれて、《この「終りをまっとうした」「ひとりの批評家」について、さまざまな憶測が出された。この本で取り上げられている文芸批評家は小林秀雄唯一人だから当然、彼だろうというのが一般的だった。いや、ヒラ評論家として一生を過ごした平野謙だとか、論敵だった花田清輝を想定したのではという説もある(私の説だ)》と書いている。これについてどうおもう。
猫 バカバカしい。いまさらスターリン主義者の花田清輝に何の用があるというんだ。
松 川村湊の論拠は《吉本が明言していない以上、読者は任意の誰でも当てはめてもいい》というものだ。
猫 あの「序」の文体の〈抽象度〉からいって、固有名が出てこないのはあたりまえだ。そうだからいって、任意の誰を当てはめてもいいなんて結論にはならない、小学校の低学年やなんでも答えを教えてやらないと分からない輩と同じ笑止の言い草だ。こんな読みしかできないくせに、いっぱしの文芸批評家づらがよくできるもんだ。
松 社会的地位は別として、こんなもの、世間や人間性をなめているとしか思えない。吉本隆明は「ブランド商品小論」で《わたしの批評作品は、現代日本社会の産んだ最高のブランド批評である小林秀雄の作品をこえているかどうかは、わからない》といい、また小林秀雄の追悼文である「批評という自意識」でも《ほとんど独力でわが国の近代批評の敷石を敷きつめ、その上に華やかな建物をつくり、それをじぶんの手であと片づけして、墓碑まで建て、じゅうぶんの天寿を全うした》と記している。それすら無視してるんだ。
猫 無知と傲慢の自己証明ということだな。
松 この男は《一度だけ対談をしたことがある》と言っているけれど、その対談は埴谷雄高と吉本の論争を踏まえたものだった。その席上、吉本隆明はレーニンが『哲学ノート』の中で『唯物論と経験批判論』の唯物論の意味をほとんど無意味に近い概念にしてしまったことにふれると、川村湊はそこのところは読んでいないと答えている。こんな態度でよく対談に臨めたものだ。じぶんの限界を超えたものに理解が及ばないのは仕方のないことだが、これはそれ以前の品性の問題だ。それが川村湊の批評の低劣さを物語っている。
猫 そうだな。《私は、最晩年の吉本隆明の生原稿を見たことがある。ごく短いものなのに、字は震え、文脈は乱れ、到底発表できるものではなかった》と川村湊は書いているが、愚の骨頂だ。人は老いると、持病をかかえ、目は見えなくなり、足腰も衰える。それに伴って当然ボケる。みんな身障者だ。そんな心身の状態でも吉本隆明は書くことや語ることを止めなかった。これはほんとうに凄いことだ。それは担当編集者は判読するのに苦労しただろうし、いろんな意味で大変だったとおもう。それでも、その原稿や発言を求めたのであり、その要望に応えたんだ。
松 おれは『吉本隆明資料集』を自家発行したから、晩年のものも全て読んでいる。そして、その多くは入力することで一字一句たどっている。川村湊が見たという生原稿のタイトルを言ってみるがいい。字は震え、文脈は乱されていたとしても、川村のこの駄文より、心のこもった、他者に感銘を与えるものだったかもしれない。思いあがった川村湊にはそんなことも分からないのさ。
猫 要するに、知的俗物の典型ということだろ。ところで、おまえ、こんなどうでもいい話をつづけるつもりなのか。
松 それは呑気な話をしたいと言ったからだ。おれはじぶんの思い出や出来事のひとつひとつに灯りを点していくことも、こうやって他人のつまらない悪口を並べることも等価だと思っている。見掛け上はぜんぜん違っても。なぜなら、最低でもどんな恨みを持たれても、それを引き受ける覚悟はある。おれは匿名で言論を行使しない。
猫 それは不動の前提だな。
松 先日、こうの史代の『この世界の片隅に』を読みたいとおもい、図書館で借りようと訊ねたところ、置いていなかった。アニメがあれほどヒットし、確かあの公開年度において『君の名は。』『シン・ゴジラ』につぐ観客数だったとおもう。それで実写版映画にもテレビドラマにもなり、また原作者のこうの史代については『ユリイカ』(二〇一六年一一月号)が特集を組んでいる。それにもかかわらず、入れていないということは、やっぱりマンガは軽視されているんだと改めて思ったよ。市立図書館と県立図書館が合体した、高知県下で一番大きな図書館なのに。
最初は川村寛さんにアニメを薦められた。戦争を扱いながら、ほのぼのした雰囲気がとてもいい感じだったと。その後、民放のテレビ放映とTBS系列の実写版テレビ、NHKのノーカットのアニメを見た。テレビのやつは現代の登場人物を設定することで、視座の重層化を図ったつもりなのだろうが、完全に失敗で、モチーフの矮小化でしかなかった。松本穂香の「すず」は良かったけれど。
ただ、アニメもテレビも戦後的価値観が侵入していて、そこが難点のような気がした。浦野すずの兄の戦死が伝えられ、遺骨が石ころだったというところでいえば、兄の戦死に直面したら、たとえ石であっても、それを大切に骨と同等に抱え込むはずだ。あんな風に相対化できるはずがない。そこで何を勘違いしているかといえば、平和は啓蒙するものでも、教育するものでもなく、享受するものだということを知らないような気がした。これは「平和」の御題目化を図る日本共産党をはじめとする左翼の錯誤のひとつだ。また、軍港・呉という土地柄を考えると、もっとずっと「征戦」にのめり込んでいただろう。そこが弱点といえる。東条英機の導入した憲兵制度にしたって、その圧迫と滑稽さを笑うことはいまだからできることじゃないのか。
もちろん「戦争もの」という構えで創作されたもので、実体験に根差したものじゃない。だから、遊離したところがあるのは当然だけれど。
作品のクライマックスは、海兵になった幼馴染が嫁ぎ先に訪ねてきたところだとおもった。これは死と隣り合わせの戦中でなければ受け入れることはあり得ないだろう。
すぐに道に迷ったり、義姉の娘と蟻の行列をたどり、砂糖にたかっているのを発見し、水瓶に隠すような、ぼうーとしたような主人公の設定から、日常の描写、民衆の存在の捉え方まで、優れたものだ。
猫 その場面をめぐって、川村寛さんがネット上の意見を提供してくれた。
(1)
この世界の片隅に、を読んでいました。
すずの幼馴染の海軍軍人がお嫁に行ったすずのところに遊びに来て止めてもらい周作さんの判断で離れに泊まりすずが行燈を持っていく‥‥‥という場面がありました。
昔の幼馴染だと親戚くらいの付き合いの濃さでそれですずに留めてもらおうという考えをしても昔はネットカフェも何もない時代ですから知り合いを頼るのはそこまでおかしなことではなかったんでしょうか?
周作が「父がいない間は自分が家長。ここで留めるわけにはいかない」といい離れに案内したのはすずと海軍軍人は異性同士だから同じところに置いておけないということですか?
それともその人がすずに恋心を持っているから置いておけなかったのでしょうか?
周作がすずに行燈を持っていくようにいいつけ「もう会えないかもしれないから」といったのは軍人が戦争で死ぬかもしれず、家族に知らせず(もしくは表向き隠してみて見ぬ振りできるように)二人で心行くまで話せるようにと計らったのでしょうか?
途中キスしたり軍人がすずに自分の気持ちを向ける場面がありますがそうなることは周作もわかっていたはずです。
すずを信頼して、この軍人も悪い人じゃないからと信用したのでしょうか?
それとも仮に一晩そういうことがあっても見逃すつもりだったのでしょうか?
妊娠しても自分の子供として育てるつもりだったのでしょうか?
離れの軍人に行燈をもっていかされたすずは「うちはあの人が憎い」といっていたのはすずさんが周作さんのことが好きだ、軍人がすずを好いているのを知っていて行かせたことでしょうか?
いろいろ謎で。
(2)
あくまで私の解釈ですが、あれは周作さんの行き過ぎた善意です。
まず周作の性格として、運動音痴で体よくいえば陰キャラです。鎮守府の書記官ということもあるので、弱い身体にコンプレックスはあるなりに法律や義理を重んじて生きてきた可能性もあります。
周作さんにとっては本来すずが結婚すべき相手は水原であり、かなり強引な手段で娶った負い目があったんじゃないか。
せめて一夜だけでもということだったんでしょう。‥‥‥仮に妊娠でもすれば、強い男の血が入った子供になるという、男の冷徹な計算もあったかもしれません。
根拠として、子供の頃からすずを知り今まで捜していたくらい好きなのに、リンとも関係があったこと。
他の女と寝る時間を捜索に割いても良かった筈ですが、おそらくリンは『万が一すずが見つからなかったときの保険』です。
周作さんは、我を通す性格ではありません。‥‥‥妥協策も用意していて、事が進まないとそちらに移行するタイプです。優しいようで実はかなり男らしさが強いと思いますが、まだ若いすずさんにはその辺の旦那の深層はわからなかったのでしょう。
(3)
幼馴染であるが、異性であり、更に嫁いだ先の家です。夫もいるところに泊めるなんてことは本来あり得ないと思います。それは今でもそうですし、戦前なら尚更だと思います。普通で考えれば、周作の父がいればやはり泊めるわけがないと思います。
但し、水原が何で来たのかそれを思うと追い返せない。水原も周作も軍人です、情報は得ている。戦局が悪くなっているなか出航すればまず帰ってこれない。そんな出航に際し水原の心の残りがすずで、どうしても会いたくなり訪ねてきた。水原だって自分で非常識で厚かましいと思ってる。水原本人が一番悲しいはずなのに皆の前で無理に笑い続けているのが、みていると更に悲しい。
周作が、水原を家に泊めた、更に納屋に泊めすずを納屋に行かせたことは、色んな複合した意味があるように感じました。
・上記のまず帰って来れない海兵さんの出航前である
・周作はリンと恋仲になり結婚したかったが、それが叶わなかった為、じゃあということで昔の記憶からすずを指名して結婚相手にした(あるいみ周作の自分勝手?)その後ろめたさ
・水原とすずが仲が良かったのに自分が奪ったように感じた
以下は更なる見解
・周作はすずを信じていた、でももし何かあっても周作にも後ろめたさがあるので、もしなにかあっても仕方ない。このまますずにも心残りが残るよりは、良く話をさせた方が良い。結果、すずは水原からの思いを断る、すずは一緒に暮らして周作のよいところを感じ好きになっているから。水原もすずが幸せになっていると感じて心残りが無くなる。
「ああよかった」とほっとしたのが私の見解
でも周作はたしかに酷いよね。あとですずと周作が口げんかになってた。
生還できるかどうかも分からない軍人さんに対しての敬意と、自分の妻のことを、まだ想ってることを察して、同性として一夜だけ許すと決めたのではないでしょうか?
あとの判断は2人に任せるということで。
(4)
自分も読みました。映画も観ました。
真相は作者であるこうの史代さんにしかわからないと思いますが、自分としてはすずさんと水原さんの気持ちをわかった上で、すずさんを信じて周作さんが気を遣ったのだと思います。
ここに引っ張ってくるに際して登場人物の名前だけは訂正した。
松 (4)の「真相は作者であるこうの史代さんにしかわからない」というくだりを読んで、俄然やる気になったね。〈作品〉は作者の意図を超えて客観的に存在する。その作品の価値と意味を読み解くことが〈批評〉の存在意義のひとつだ。
これは戦時中という状況を考慮しなければはじまらない。従軍慰安婦の問題があるように、またシモーヌ・ヴェイユの計画した従軍看護婦部隊にしても、実際のそれにしても、役割としてそれが付随しているという以上に、支配層の思惑を越えて〈献身〉ということはあっただろう。いまだに靖国神社が高みに存在し、軍人だけを祀り、その他の戦争犠牲者は除外して、「英霊」といっているくらいだから、当時ならなおさらだったような気がする。
そういうふうに言わないで、〈性〉ということでいうなら、現在のほうがはるかに乱脈で開放的なのだ。そこからいえば『この世界の片隅に』のあの場面はのどかで節度ある美しい話といえる。しかし、この展開がなかったら、良質の反戦作品にとどまっただろう。幼馴染の水原とすずのお互いの思いも、周作との出合い、求婚の経緯も、結婚生活もちゃんと描いているから、それが交錯する場面を描いたことがこの作品の〈独創性〉なのだ。
水原にしても、子どもの頃から好意を寄せていて、結婚したすずを心配していても、〈死の覚悟〉がなければ、嫁ぎ先を訪ねることはなかった。また周作の方もそれを察して、受け入れたのだ。昭和前期の家族意識を考えれば、母屋に泊めず、納屋の二階を提供するというのも説得力がある。はじめから何の不祥事も起こるはずがない。そうでなければ義母も義姉も、周作の判断を容認するはずがないからだ。もちろん、すずの普段は見せない率直な振舞や水原の甘えが出るところもあるが、それはおおらかさなのだ。こんなことは日常のじぶんの振舞を思い返したら、すぐに分かることだ。妻や恋人でなくても、感情の流露はあるし、なにげなくふれあうことだって自然発生するかもしれない。異性間に限らず、ひとはそういうふうに他者と交流するものじゃないのか。意識的にも無意識的にも。
後日、汽車の中で珍しくすずが水原のもとへ行かせたことを怒り、夫婦ケンカになるだろう。ここに周作の本音は出ている。この場面があることで、みんな救抜されるんだ。
猫 いまの若い人には想像もつかないかもしれないけれど、むかしはもっと家々の門戸は開かれていた。例えば、遠方の戦友が訪ねてきたとすれば、本人は留守であっても、泊めたことは確実だ。そういう遠来の客人をもてなす風習はどこでもあった。むろん、この場合は事情が異なるけどな。そういう共同体意識が解体しだしたのは、じぶんの経験からいうと、石油ショックあたりが潮目になっている。あれ以降世の中はどんどん世知辛くなったんだ。それ以前は学生の無銭旅行だって成り立ったんだからな。
結婚に限っても、『ゲゲゲの女房』のモデルの水木しげるの場合でいえば、水木しげるは戦争でラバウルに出兵し、片腕を失い、戦後マンガ家になる。四十歳になっても独身だから、心配した鳥取の両親は見合い写真を持ってきて、結婚をすすめる。しかし、本人は貧困のどん底に喘いでいて渋るが、結局親の意向に従い、帰郷して見合いをし、結婚式を挙げて、嫁を連れて東京(調布)に帰ってくる。戦後でこれだから、戦中・戦前なら顔も見ないで結婚するケースなんてありふれていたはずだ。これが昭和という逝きし世の面影だ。時代が下るにつれて、知見は広がり、便利になったけれど、人品は下落し、肝は細るばかりのような気がするな、他人事ではなく。
松 (1)は素朴な疑問でいいよね。(2)の解釈は、すずのことばでいえば「歪んどる」。文章というのは怖ろしいもので、対象について語っていても、実は自己投影でしかない面を持っている。「陰キャラ」云々なんて曲解だ。
猫 おまえがアニメとテレビドラマを見た印象で話をどんどん進めるので、危ねえとおもい、原作のマンガ(全3巻)を買ったぜ。
まず、原作(マンガ)とアニメの決定的な違いは、呉の遊廓の娼婦白木リンと北條周作の関係はカットされていることだ。この判断は良いとおもった。これがあると、アニメとしてはストーリーが暗く屈折しすぎるからだ。また原作の初めの「冬の記憶」「大潮の頃」「波のうさぎ」の三作はそのひとつひとつが短編作品として独立した膨らみをもっているけれど、「この世界の片隅に」の連作になってからは、毎回8ページ程度という紙幅の制約もあって、時系列のプロットみたいな感じで痩せた印象を与える所もある。アニメはそれをスムーズな流れにみごとに組み変えている。これは片渕須直のアニメ監督としての力量の現れといっていい。
細部でいえば「波のうさぎ」のラストにある、水原の代わりにすずが画いた海の絵が、水原の絵として出品されることになったくだりは、二人が納屋で一夜を過ごす場面で、水原がエピソードのひとつとして語る。これをあそこに挿入したことは、水原が鷺の羽根を土産にもってきた謂れをなし、それを羽ペンにする展開は、お互いの親密さを物語るものになっている。
松 そうなると、周作がすずに行火(あんか)を持って納屋の水原のところへ行かせた場面の深刻度はかなり変わってくるな。
猫 (2)の解釈にも関連することだが、北條親子が浦野家に結婚を申し入れた理由ははっきりしている。母親が足を痛め、〈女手〉が必要だったからだ。
周作が遊廓に通い、リンとなじみになり、仮に身請けを考えたとしても、鎮守府の官吏の周作には明治政府の中枢を占めた薩摩や長州などの明治維新の志士たちのように芸妓を身請けするような〈力〉はない。それに身内も周囲も許すはずがないのだ。薩長の連中は江戸と郷里は遠く離れていて、船や馬、あるいは歩いて行き来するしかなかったから、当然のようにその地で相手を求めただろう。その結果、身請けし妻にしたものも多い。大久保利通みたいに、地元で忌避されたこともあって、鹿児島から正妻家族を呼び寄せ、東京の愛人家族はそのまま別宅に、二重家族を営んだものもいるんだ。周作はリンを諦めたから、こどもの頃に出会ったすずに求婚することにしたのかは審らかではないけれど、それが動機の背景にあることは確かだ。
松 要するに、原作にはそれがあるから、事情は複雑だと言いたいのか。
猫 周作が「もう会えんかも知れんけえのう」といって行火を渡し、水原のところへ行かせ、母屋に鍵をかける。そのときのすずの表情が内面の陰影を象徴している。
そして、水原がすずを抱き寄せ、
「すず すずは温いのう」
「柔いのう」
「甘いのう」と囁きかけるが、すずは「‥‥‥水原さん うちはずっとこういう日を待ちよった気がする‥‥‥」
「でもこうしてあんたが来てくれて こんなにそばに居ってのに うちは」
「うちは今 あの人にハラが立って仕方ない‥‥‥!」とすずが拒絶し、終止符が打たれる。
松 三角関係ということでいうなら、夏目漱石の『行人』で、猜疑心にかられた一郎が、妻のお直と弟の二郎の仲を疑い、二人を無理矢理和歌山に赴かせるだろう。あれにはどこにも救いはない。テレビドラマは、周作と水原が出会う場面を設定していた。周作が同僚とレストランで食事をしていると、陸に上がった水兵たちがやってきて、他の客などおかまいなしに我がもの顔に振る舞う。これに周作が抗議し悶着が起きるが、そこへ水原が現われ、仲間を諌め、その場をおさめるんだ。これは水原の突然の訪問を緩和するために、脚本家(岡田惠和)が補足したものだ。こんな凡庸な脚色は必要ない。
猫 海苔作りや水汲み、日々の暮らしや風景のひろがりも丁寧に描かれ、全体的に民話ふうのつくりで、それがのびやかな魅力だ。初めて里帰りしたすずが寝ぼけて「あせったあ‥‥‥呉へお嫁に行った夢見とったわ」というところがあるだろう。すずにとってまだ実家が心休まるところで、それがしだいに嫁入り先がじぶんの居場所になってゆく。これがこの物語の普遍性であり、基底なのだ。
メイン・テーマでいえば、昭和天皇の玉音放送を聞いて、すずは「‥‥‥何で?」という。近所の人々は広島と長崎へ新型爆弾も落とされたしの、ソ連も参戦したし、まあかなわんわ、というけれど、
「そんなん覚悟のうえじゃないんかね?」
「最後のひとりまで戦うんじゃなかったのかね?」
「いまここへまだ五人も居るのに!」
「まだ左手も両足も残っとるのに!!」
「うちはこんなん納得出来ん!!」といい、外へ出て、
「それがこの国の正体かね」
「うちも知らんまま死にたかったなあ‥‥‥」と、慟哭するのだ。
そう、これが「この国の正体」なのだ。
松 日本はいまだに「終戦記念日」などと言っているけれど、ほんとうは「敗戦の日」なんだ。昭和天皇の玉音放送にしたって、その全文をみれば分かるように、自らの責任逃れの色合いも含まれている。なにが「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」だ。
一九四五年三月一〇日 東京大空襲。死者推定一〇万人。
同年五月七日 ドイツ軍無条件降伏。
同年七月二六日 日本に戦争終結の条件を示し降伏を勧告するポツダム宣言発表。
同年七月二八日 鈴木貫太郎首相、記者団に対して、ポツダム宣言を無視し、戦争の継続を表明。
同年八月六日 広島に原子爆弾投下。
同年八月九日 長崎に原子爆弾投下。
同年八月一四日 御前会議、ポツダム宣言受諾を決定。アメリカ、イギリス、ソ連を中心とした連合国は、天皇制にたいしては直接ふれることはなく、存続されることとなる。
同年八月一五日 天皇、戦争終結の詔書放送(玉音放送)。第二次世界大戦、太平洋戦争終結。
猫 いまさら、七月二六日のポツダム宣言をすぐ受諾していれば、広島・長崎への原子爆弾の投下は回避できたなどと言っても仕方ないかもしれないが、この作品でいうと、すずの父も母も兄・要一も死んだ、おそらく水原も死んだ、義姉の子・晴美も死んだ。リンをはじめ朝日遊廊の娼婦たちも死んだ。歴史的な現実としていえば、夥しい犠牲者を出しながら、それでも日本の支配層は延命したのだ。
松 おれは何度でも言う。戦争は国家の民衆に対する最大の政治的暴力なのだ。
猫 まあな、大衆と政府の関係は模写と鏡だ。国家という共同幻想の呪縛は強力で、人々はどこまでも国家を信奉しつづけるかもしれない。またあの戦争は軍部が主導したもので、天皇には戦争責任はないというけれど、そんなの大嘘だ。統帥権は天皇に属していて、天皇の承認なくして開戦はありえない。一九四一年一二月八日に「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有?ニ示ス 朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス」と開戦の詔書を発しているのだ。
松 欺瞞が、この国の特性かもしれないね。
一九四五年九月一五日 文部省、国体護持・平和国家建設・科学的思考力の養成を強調した「新日本建設の教育方針」公表。
同年九月二二日 アメリカ政府、実質的なアメリカの単独占領にもとづく「降伏後における米国の初期の対日方針」発表。非軍事化・民主化政策を基調とする。
一九四六年一月一日 天皇、「年頭の詔書」発表(「人間宣言」)。
同年一一月三日 日本国憲法公布。
ドイツの降伏を受け、日露不可侵条約を一方的に破棄して、ソ連軍が侵攻してきた。もしこれがもっと早い段階だったら、北海道はソ連の占領となり分割されていたかもしれない。そうなっていたら、いまの南北朝鮮みたいに津軽海峡を境に対立関係になったことは確実だ。それは北方四島の領土問題などよりはるかにシビアなものになったはずだ。それを克服するなんて「この国の正体」からして不可能だとおもう。それは沖縄に対する日本政府の不当な対応をみていても分かることだ。
猫 まあな、戦前の関東大震災においても、井戸に毒を入れたという流言のもと、在日朝鮮人を虐殺している。これがこの国のサディズムだ。良い方向のことでいっても、戦後革命のひとつともいうべき「農地改革」や「財閥解体」は占領軍(GHQ)がやったことだ。自力でそれを成し遂げる実力は残念ながら無いといっていい。日本に限らずヘーゲルの規定した人間的尊厳の稀薄な極東アジアが、マゾヒズムのいじけた構図から抜け出すことは難しいような気がする。敗戦の疲弊とへこみをしだいに元に戻すことが自民党をはじめとする保守派のやったことであり、いうまでもなく戦後憲法は日米安保条約とセットだ。
日本は被爆しているのに、国連の核兵器の開発・保有・使用を禁じる「核兵器禁止条約」に、核保有国が加わっていないからという屁理屈をつけて批准していない。違うだろう、ほんとうは世界の先頭に立って、「核兵器禁止条約」を推進すべきなのだ。核保有国がこれに加わらないのは、批准すると自国の核兵器を廃棄しなければならないからだ。こういう条約を推し進めることが軍事大国を包囲していくことにつながるんだ。これひとつみても「この国の正体」がわかるというものだ。
戦争当時、こんなことをいってみろ、「不敬罪」で連行され、拷問を受けたあげく極刑だ。なにしろ大日本帝国憲法では天皇は「神聖ニシテ侵スヘカラス」の「現御神(あきつみかみ)」だからな。その〈怖ろしさ〉を戦後生まれのわしらは知らない。それはいいことだ。いまの天皇が皇太子の時、歌手の柏原芳恵に花束を手渡したり、あの手のタイプが好みで雅子妃を迎え、『ビッグ・コミック』の表紙に登場した。「御真影」下賜を考えれば、これは悪い流れじゃない。
松 日本政府が批准しないのは、アメリカに対する忖度であり阿りなんだ。独立国の気概もなく、経済優先主義の狡猾さをさらけだした、破廉恥の極みさ。これらの要素は、おれたちにも内在する。だからといって、日本も世界もこのままでいいはずがない。大衆的な基盤にもとづいて、いまの自由を拡張するためにも、おれたちは思ったことを言うべきなんだ。それはアメリカに対しても中国に対しても変わりはしないさ。
猫 『この世界の片隅に』を読んで、母の生涯を想い浮かべた。母は大正二年(一九一三年)生まれで、すずより年上だ。実家は男三人女二人で五人きょうだいの二番目で、上の弟は戦死している。それで同じ村の下の家へ嫁いで来た。四国の山の中なので、空爆を受けたことはなかったが、出征する村人を見送り、貧しい暮らしのなか、いろんな物資の厳しい「供出」で難儀したはずだ。上空を通過する米軍機を見上げたり、一九四五年七月四日の高知大空襲の時は、南の山の向こうから遠雷のように爆撃音が聞こえたかもしれない。母の名は喜代(きよ)という。
最後の右手を失った浦野すず作「鬼イチャン冒險記」の挿入は、作者の遊戯(ゆうげ)のあらわれで、気に入った。無敵の兄・要一は南の島に漂着し、鰐の嫁さんと暮らしている、とな。こうでなくちゃ。
松 周作とすずは、広島の戦災孤児を連れて呉へ帰る。これが死者の鎮魂にあたるように。
(『続・最後の場所』9号2021年6月発行掲載)
わたしは比嘉加津夫さんとお会いしたことはありませんけれど、比嘉さんの存在なくして、わたしの「吉本隆明さんのこと」という連載は日の目をみることはなかったと思います。なんの注文もなく『脈』の誌面を提供してくれたのです。
遠いところ(四国の高知)からみていると、比嘉さんはけっこうミーハーでお人好しに映りました。つまり、脇が甘いように感じたのです。きっといろいろ騙されたり、利用されたりして、嫌な目に遇われたに違いないと思いました。でも、比嘉さんはそんなことはおくびにも出しませんでした。それが比嘉さんのおおらかさだったような気がします。そうでなければ、多彩な執筆者を迎え入れ、優れた特集を組むことも、『脈』を存続させることもできなかったでしょう。
そんな比嘉さんの志の在り処をみごとに示してくれたのは松原敏夫さんの追悼文でした。《はるか若いころ、『比嘉さんは、なぜ書くのか』と尋ねたことがある。すると『そんな問いは無意味だよ、理由があろうがなかろうが書くのが一番いい』と応えた》(『沖縄タイムス』二〇一九年一二月)。
吉本隆明さんは勤めを終えて帰ると、毎日机に向い、日課のように詩を書きました。それは「日時計篇」をはじめとする膨大な詩群として遺されています。それと同じように、比嘉さんは読むことや書くことを日常化されていたのでしょう。必要に応じて、本を開いたり、パソコンに向かったりするわたしとは大違いです。その姿勢がさまざまな難事や障害を乗り越える持続的な展開力となったものと思います。
じぶんのことでいえば、『LUNAクリティーク』一号に掲載された宮古の東風平恵典とのネット対談において、わたしが自家発行していた『吉本隆明資料集』をめぐって、北川透らとトラブルになったことが話題に上っています。東風平さんの北川透に肩入れする発言に対して、比嘉さんは話の流れに同調することなく、その意見には同意し難いといいました。その客観的な態度をみて、わたしの比嘉さんへの信頼は揺るぎないものとなったのです。
いま比嘉さんのご厚意に応えるとしたら、わたしは「吉本隆明さんのこと」の続稿を書くことだと思いました。それが比嘉さんの追悼になると信じて。
世の中には「俺は吉本隆明を超えた、親鸞も、マルクスも超えた」と自負する凄い人もいます。親鸞は「善人なをもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」と説き、カール・マルクスは労働者の解放を唱え、『資本論』を書きました。また吉本さんは「僕は、生れ、婚姻し、子を生み、育て、老いたる無数のひとたちを畏れよう。僕がいちばん畏敬するひとたちだ」と初期に記して、思想の基礎に据えました。それらを超えるものとなれば、われら具足凡夫はさぞかし救われることでしょう。ぜひとも、その世界観を開示していただきたいものです。そうでなければ、主観的な思い込みにすぎません。もちろん、開示の方法は言語表現に限りませんが。
わたしはもともと出来がよろしくなく、知力から体力までにわたって、他に優越するものをもっていません。それでも時代の波にもまれながら生きてきました。その経験を拠り所に考えることだけはつづけてきたような気がします。
ボーダーインクの宮城正勝さんとともに、比嘉さんと『脈』がわたしに与えた大きな影響のひとつは、沖縄への穏やかな関心を開いてくれたことです。全共闘運動の末端にいたわたしは「沖縄奪還」とか「沖縄解放」とかいった政治スローガン的な関心しか持たず、その心情といえば、大江健三郎の『沖縄ノート』の偽善的なレベルを出るものではありませんでした。沖縄がどんなところか、アジア的地勢のなかのポジションなど殆ど知ろうとも、考えようともしていなかったのです。まあ、こんなことはありふれた列島の住民からすると、沖縄の人たちが四国などに興味がないように、琉球諸島を知らなくても何の不都合も生じないでしょう。でも、少なくとも政治的な動きに引きずられたものとしては、みじめな気がします。
早い話が、吉本さんの『全南島論』のなかの「イザイホーの象徴について」を読んで、その祭儀の様相と歴史的な意味は如実に浮かび上がるのに、その舞台である久高島がどこにあるのか分からないのです。日本地図を引っ張り出して探したけれど、うーん、久米島とは異なるはずだ‥‥‥と考え込む始末だったのです。しかし、この疑問はNHKの「ブラタモリ」の再放送を見て、いっぺんに氷解しました。ああ、こんな島だったのか、小さな小屋に狭い広場、ここで祀りは執り行われ、ひとびとの心のふるさととして悠久的な趣を持っていたんだと分かりました。そして、これは四国の山々で伝承される神楽などの神事と連結していると感じました。
比嘉さんは真摯な人でした。それは『脈』九〇号の「特集 吉本隆明の『全南島論』」に発表された「沖縄の意味」を読めば、誰でも分かるでしょう。比嘉さんは吉本隆明の『母型論』や「南島論」に迫るため、関連の文献を読み、接近を試みています。
比嘉さんにならって、いま接近を試みると、ミシェル・フーコーの《それにしても、人間は最近の発明にかかわるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの知のたんなる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消えさるものだと考えることは、何とふかい慰めであり力づけであろうか》(『言葉と物』)という言説は衝撃でした。
「人間」という概念は二世紀もたっていない一形象にすぎず、世界史的現在においてもっとも普遍的な「人間性(ヒューマニティ)」など、世界が新しい形を見だせば消えさるものだと言われているのです。
わたし(たち)は深いとまどいのなかに置かれたのです。マルクス主義の良い側面をたどれば「平等」は実現されると思ってきたものにとって、その根底を突き崩すものでした。むろん、わたしは「神」も「天国」も信じていません。死ねば終わりだと思っています。けれども、少し変化したところがあります。大島弓子さんが言っていたことですが、彼女は小さい頃お堅い考えの持ち主で、みんなが「霊がどうの」「来世がどうの」というのに浮かない感じを持っていたそうです。でも、今はそれを「素晴らしい想像力だわ」とおもうようになったとマンガのなかで書いていました。
わたしの兄は、交通事故に遭い、意識不明の重体です。兄は乱暴者で、刑務所帰りの知人と酒を飲んでいて、口論になり、挙げ句に掴み合いになって、アパートの前の田圃に叩き伏せたり、また隣の犬がいきなり噛みついたのに怒り、その場で叩き殺して、警察に連行され、姉が引き取りに行ったりしました。もし、そんな兄が死んだら、浄土の蓮のうてなで、娑婆苦を逃れ、安楽に過ごしているとおもうとなんだか救われます。また地獄に堕ちたとしても、閻魔大王を相手に酒を酌み交わしている図を想像すると愉快です。そんな空想よりも、煩悩の現世に存在することが大切なのは言うまでもありません。
「人間」とその痕跡が消去された世界とはどんなものでしょう。このフーコーの提起に吉本さんは呼応しました。それは先駆的な「世界視線」という概念の導入です。いまやグーグルの衛星画像ですっかり馴染みのものとなっていますけれど、それをはるかに超えたものとして設定されています。
ほんとは、わたしたちのいう世界視線は、無限遠点の宇宙空間から地表に垂直にさしてくる視線のことだ。しかもこの視線は雲や気層の汚れでさえぎられない。また遠方だからといって、細部がぼんやりすることもない。そんな想像のイデアルな視線を意味している。遠近法にも自然の条件にも左右されない、いわば像(イメージ)としての視線なのだ。この視線は無限遠点からみても一〇メートル上方からみても、はっきりとおなじ微細なディテールまでみえる架空の視線だ。そのうえこのイデアルな視線は、雲や気層の汚れで遮られないだけでない。遠近によってわずらわされないだけでもない。赤外や紫外の、どんな波長の光にも感応する視線でなくてはいけない。この視線はもっとイデアルだとみなすこともできる。たんに光だけでなくどんな種類の電磁波にたいしても、さらにいえば素粒子にもクォークにも感応し、さらに真空そのものの本質にも感応する視線でなくてはならない、というように。
わたしたちは近畿地方のランドサット映像を眺めながら、ある地質学的な過去の時期に、都市大阪を含む大阪平野が海底にあり、京都盆地も海底か湖底であり、奈良盆地もまた和泉山脈と生駒山脈と吉野山系を水面上に残して、紀ノ川沿いと大阪湾の両方から海水に浸入されて、海底あるいは湖底にあり、琵琶湖の水と通じていたときがあったと、すぐに空想してみたくなってしまう。これは色彩の区別や等高線によって地層の起伏がすぐわかるように記載されてあっても、ふつうの地図をみながらでは決してすぐには生じない空想だ。ここには宇宙空間からの世界視線のもつおおきな未知の特性があるようにみえる。それを仮りにひと口で要約してみれば、人間ははじめて、自己の存在とその営みをまったく無化してしまいながら、しかも自己存在の空間を視る視線を獲得したのだということだ。それは感性の歴史にとって、はじめてのおおきな意味をもつもののようにおもえる。
(吉本隆明『ハイ・イメージ論』)
吉本さんはこの「世界視線」を行使し、「地図論」で大和朝廷の成立にまつわる神話や推論を確定的に解体しています。東征伝説の実際的な経路や奈良盆地における偏狭な小競り合いなども含めて、日本列島の住民は「万世一系」などでは断じてなく、いろんな要素の重層と複合で形成されたこと。これに『共同幻想論』や『初期歌謡論』を重ねれば、おのずと初期王朝(天皇一族)によるアジア的専制の確立とその観念的収奪の構造もみえてくるはずです。
また世界の列強各国は宇宙軍の創設などといい、宇宙空間の占有とその支配権の獲取に躍起になっていますが、イデアルな世界視線から透視し、この動向を無効化できれば、権力の死滅にいたる方法のひとつとなるかもしれません。そこにひととひとびとの全的な自由、つまり歴史の奪回が示唆されているといえるでしょう。フーコーの考えを具体化し、さらに反転させる地平を吉本さんが目指していたことは明らかです。
その構想が都市論の拡張となり、那覇における講演「南島論序説」になり、ヘーゲルの『歴史哲学』やマルクスの『資本主義に先行する諸形態』などを踏まえた、人類の初源である「アフリカ的段階」の措定へとつながっていったのです。この営みを、比嘉さんは「壮大な論理のロマン」といいました。
もうひとついえば、吉本さんの主要な著作を歴史年代順にならべると、文芸を基軸にした〈通時的な列島史〉にもなるのです。それを書名(主な対象書物および人物・年代)で呈示すると、次のようになります。
『共同幻想論』(『古事記』七一二年・『遠野物語』一九一〇年)
『全南島論』(『古事記』・『日本書紀』七二〇年・『おもろさうし』一五三一〜一七二三年・『アイヌ神謡集』ほか)
『初期歌謡論』(『万葉集』三一三年〜七五九年の歌を集成〜『新古今和歌集』一二〇五年・『梁塵秘抄』一二世紀後半)
『源氏物語論』(紫式部、一一世紀初めに成立)
『西行論』(一一一八〜一一九〇)
『最後の親鸞』(一一七三〜一二六二)
『源実朝』(一一九二〜一二一九)
『良寛』(一七五八〜一八三一)
『夏目漱石を読む』(一八六七〜一九一六)
『柳田国男論』(一八七五〜一九六二)
『高村光太郎』(一八八三〜一九五六)
『宮沢賢治』(一八九六〜一九三三)
『島尾敏雄』(一九一七〜一九八六)
これらに『言語にとって美とはなにか』や『思想のアンソロジー』などを加えると、必然的にみえてきます。『吉本隆明全集』(晶文社)のキャッチフレーズにあるように「長く深い時間の射程で考えつづけた」人なのです。その中心に、大衆の生きる姿が位置していることは申すまでもありません。
ひとは歴史にその名を刻むことなど問題でなく、家族に愛され、友人たちと葛藤しながら、確かに結ばれ、やれることをやれば、申し分のない人生だったといえるでしょう。これ以上のものはこの世にないとわたしは思っています。
比嘉さん、お世話になりました。ほんとうにありがとうございました。
(比嘉加津夫追悼集『走る馬』2021年7月発行掲載)
松 北海道の東出隆という人が「北海道横超忌」の軌跡を綴った『わが心の吉本隆明さんと共に』という冊子を送ってくれた。それを読んで、さまざまなことを思った。東出さんは北海道で吉本さんの命日に因んで、「北海道横超忌」を始めた人だ。
猫 「横超忌」というのは、最初、東京で月村敏行が言い出しっぺになり、神山睦美、齋藤愼爾、高橋忠義、脇地炯らが始めたんだよな。それで齋藤さんが「横超忌」と命名したんだ。この命名には、前川藤一が「横超」という日本酒の銘柄を作っていたことが大きく影響している。もちろん、『最後の親鸞』に由来したものだ。
松 一方、北海道の方は三回忌に開催され、それ以降、道内のいろんな人が集まり、活発な活動を続けてきたようだ。高橋秀明などが中心になり、北川透、瀬尾育生、加藤典洋などの講演会を「横超忌」として毎年のように開催している。東出さんの冊子にはその模様が詳細に記されている。
猫 おまえ、この顔ぶれからして、快く思っていなかったんじゃないか。
松 そんなことはないよ。確かに『漏刻』時代の坂井信夫・築山登美夫とのケンカにはじまり、北川透、瀬尾育生、高橋秀明、陶山幾朗、成田昭男など旧『あんかるわ』の面々とは対立しているけれど、だからといって、この動きを否定するつもりはないからね。この中には『吉本隆明資料集』を支援してくれた人たちもいるんだ。
猫 そんなことを言うと、高橋秀明にまた、松岡ってのは「ラーメン屋のおやじ」みたいだって言われるぜ。
松 ハハハ、あれは嬉しかったね。「ラーメン屋のおやじ」のなにが悪い。おいしいラーメンを安く提供して、お客さんに喜んでもらい、商売繁盛なら申し分ないじゃないか。だけど、いいラーメン屋の足下にも及ばなかったよ。仕方のないことだったけれど、『資料集』は頒価が高かった。直接購読者は消費税無し・送料無料にして努力したけれど、少ない年金でやりくりしている人などは購入できなかったとおもう。自己資金がないから恐怖の自転車操業で、とにかく最後までやり遂げることを目指していたからね。
猫 北川透がこういうものはタダで配布すべきみたいなことを言っただろう。バカなことを言うんじゃねえよ。粗末な自家発行物とはいえ、資料蒐集、入力、校正、印刷、製本、発送の、それぞれに労力と費用が掛かる。大学に職を得て、偉くなり、『あんかるわ』時代、じぶんが苦労したことなんかすっかり忘れてるんだ。貧乏人の成り上がりは、そういう陥穽に陥り易い。大学教授になってからの北川透は横暴で、一緒に仕事をしていても、他人の意見を聞かないし、容れようともしない、それで泣かされた人もいると聞いたことがあるぜ。おまえも気をつけるんだな。
松 大丈夫だよ、おれ、偉くなることなんかないから。おれは『吉本隆明資料集』を座談会の発言者や『試行』の復刻版の執筆者や国会図書館は別として、誰にも寄贈していない。それは身銭を切って購入してくれた読者に失礼だからだ。この方針を全一九一集の発行終了まで貫いた。
猫 東出さんの本には、築山登美夫の追悼文もあるな。築山登美夫については言うべきことがあるだろ。
松 むかし山口県の西村光則と『漏刻』の坂井信夫や築山が言い争いになって、多勢に無勢の孤立した西村を見かねて、介入したんだ、そしたら、いつのまにか坂井対松岡という展開になってしまった。あの時、築山は坂井信夫の窮地に助け舟を出すことなく黙った。ところが、おれの北川透批判に関連して、高橋秀明がおれの発言に反発して、『快傑ハリマオ』を粉砕するとヒステリックに喚いた時、築山はその尻馬に乗って、『雷電』三号(「微茫録二〇一一」)でおれのことを書いた。この日和見野郎は、おれの本を読んだことも、『吉本隆明資料集』をろくに見たこともないと言っているくせに、平然と言及している。これは表現者として〈致命的な行為〉だ。世間の噂や仲間内の風評に惑わされることなく、じぶんで読んで判断するのが〈言論の基本〉というものだ。それなのに、築山は愚劣にも予断と偏見の〈憶測〉を並べている。こんなもの、デマゴギーに等しく、この男は最低の屑文章を公表することによって、完全に「糞野郎」に転落したのだ。
猫 まあ、そう急ぐな。おまえが「北川透徹底批判」で、高橋秀明のことにふれたのは一箇所で、数行にすぎない。しかし、その中の「高橋秀明なんか相手にする気はないし」というくだりを、じぶんを蔑ろにしたものと受け取ったんだ。それで逆上した。それが誤解だとしても、おまえが先に持ち出したんだから、当然、彼にはコメントする権利がある。だから、高橋の過剰な反発に対して、おまえは反論しなかった。それで「あいこ」と思っているからだ。
松 まあね。
猫 また『快傑ハリマオ』の主宰者の根石吉久と高橋のやりとりについては、具体的には知らない。おまえの発言で、根石さんに〈とばっちり〉が及んだことは確かだ。それでも、根石さんは詳しいことはなにも言わなかったし、おまえも聞かなかった。客観的にいえば、これは〈雑誌発行者〉と〈寄稿者〉のトラブルだ。おまえの一文とは明らかに〈位相〉が異なる。これを区別できないことが、高橋の被害意識に基づく混乱のひとつだ。何もかも一緒くたにして、敵意をつのらせ、「松岡・根石非難」を言いふらすのは勝手だが、あまり関わりのない人にまで〈同意〉を強要するようになったら、人格崩壊のはじまりだ。
松 おれのせいで、根石さんはいろいろ嫌なおもいをしたとおもう。
猫 そうだな。〈ことばのケンカ〉はそれぞれに深く傷つく。しかし、築山登美夫は違う。こいつはじぶんは安全な場所に身をおき、他人の争いを横目にみて、嘘と曲解の〈身贔屓〉を得々と書き連ねているだけだ。こういう破廉恥漢は、じぶんに火の粉が降りかかりそうになると逃げる。だが、もう遅い。どこに隠れようと、「微茫録二〇一一」は客観的証拠として遺っている。この中の吉本隆明の「松岡宛書簡」の矮小化ひとつとっても、築山の浅ましい〈本性〉は丸見えなのだ。これは「書簡」と対照すれば、誰でも分かることだ。一方、坂井信夫は『漏刻』の一件をいまだに根に持っていて、十年以上前になるけれど、突然、はがきを寄越しただろ。
松 《西村光則はどうしていますか。あなたは大器晩成でしょうか。まさか「少年」という小さな詩集で終わりということはないでしょうね》みたいなことが書いてあった。これに対して【うるせえ、おれには「少年」なんていう詩集は無い。「大器」も「晩成」も関係ねえ、おれの売りはパンクなんだ。莫迦!】なんて、言い返したりせず、あの一件を反芻した文章が掲載された『快傑ハリマオ』第二号を黙って送った。
猫 ところが、二〇一九年にまたしても、坂井信夫から《すでにお忘れでしょうが、『漏刻』の築山が亡くなりました。ところで小生は大兄が吉本隆明論をひそかに書きつづけていると信じているのです。あれほどの言説を吐いているからには当然でしょう。こちらも先がありません。はやく刊行してください。期待しております。では。》(全文)という、はがきが届いたんだよな。
松 ああ。これに対する応答はこうさ。【築山登美夫氏が亡くなったことは知っております。彼が北海道の高橋秀明らと一緒に『雷電』という雑誌を出していたことも、また『吉本隆明質疑応答集』(論創社)の校閲と解説をやられていて、志半ばで病に倒れたことも知っています。貴方のことでいえば、随分以前のことになりますが、小熊秀雄賞を受賞されたことも知っていますし、いろんな詩誌に詩作品を発表されていることも知っております。送られてくる雑誌に貴方の作品や批評文が掲載されていた時は一応目を通しておりました。そして、貴方が近年眼を悪くされたということも、そのことにふれた人がいて、読みました。貴方や築山氏とケンカしたのは三〇年以上前のことです。貴方があの一件をいまだに根に持ち、恨んでいることはよく分かりました。しかし、貴方はじぶんのおもいに蹲っているだけで、なにも見ていないような気がしました。ほんとうはわたしのことなどどうでもいいことです。でも、貴方がこだわっていますのでお答えいたします。貴方は《大兄が吉本隆明論をひそかに書きつづけていると信じている》と言われています。わたしは二〇〇〇年三月から『吉本隆明資料集』(単行本未収録の著作から談話までを網羅することを目指したもの)を自家発行してきました。これが紛れもないわたしの〈吉本隆明論〉だと思っております。そして、『意識としてのアジア』(深夜叢書社)『アジアの終焉』(大和書房)『論註日記』(學藝書林)『物語の森』(ミッドナイト・プレス)『哀愁のストーカー』(ボーダーインク)『猫々堂主人』(ボーダーインク)の六冊の公刊された著書もあります。もっと吉本隆明さんとの関連で記しますと、深夜叢書社の『吉本隆明インタビュー集成』(1〜3巻・別巻1)というシリーズを編集しています。講談社文芸文庫の『吉本隆明対談選』を編集し「解説」を執筆しましたし、『完本 情況への発言』(洋泉社)の「解説」も書きました。その他にも、雑誌『情況』の「吉本隆明追悼号」の編集などいろいろあるのですが、いちいち挙げても煩雑で意味がないでしょう。そんなことはインターネットで検索すれば、すぐに出てきます。著書については「松岡祥男」で、『吉本隆明資料集』については「高屋敷の十字路 隆明網」や京都「三月書房」を検索したら、立ちどころに判明します。さらにいえば《ひそかに》でなく、沖縄の『脈』に「吉本隆明さんのこと」を現在連載中です。それは毎回二〇〜四〇枚で、二〇回目になっています。それらを「見てください」などという気は全くありません。わたしは貴方と違って「神」も「天国」も信じておりません。死んだら終わりだと思っています。ただ、貴方が盲目的に怨恨を抱いているとおもうと、不憫に思えました。お互い《先が》ないかもしれませんが、悔いのないよう生きてください】これでおしまいだ。
猫 坂井信夫なんて知らないかもしれないんで、ちゃんと紹介しておくぜ。坂井信夫は一九四一年生まれ。おまえより十歳年上で、敬虔なキリスト教徒だ。若い時から詩を書き、『影の年代記』をはじめ何冊も詩集があり、詩の同人誌が流通する界隈ではよく知られた存在だ。築山登美夫は一九四九年大阪生まれ、早稲田大学卒業。早い時期に宮下和夫の弓立社から詩集を出している。講談社勤務後、宮下和夫と一緒に『吉本隆明質疑応答集』を手掛けた。全七巻のこのシリーズは築山の逝去によって第三巻で中断した。画期的な企画なのだが、残念なことに第一巻「宗教」の二つの質疑応答において部分的脱落があった。それは「良寛詩の思想」と「喩としての聖書」だ。このミスは宮下の杜撰な編集が主な原因だが、築山も手元の音源のみに依拠し、触手を伸ばして、必要な資料を参照しなかったからだ。
松 〈盲目〉という点では、坂井信夫も築山登美夫も変わりはしない。おれは違う。築山の場合でいえば、奈良の安田有が発行していた『coto』に築山が寄稿していて、目を通していた。また関西の『BIDS』からの流れの『雷電』も時に応じて読んでいた。さすがに追いかけてまではやらないけれど、じぶんの視野に入ってくる限りで、その動向はみていたさ。おれはどんなに悪態をついても、相手の言説には注意を払っている。それが最低限の礼儀と思っているからだ。高橋から成田昭男にいたる連中のダメなところは、肝心なことを回避しているところだ。(1)〈北川透と瀬尾育生の抗議と松岡の対応〉、(2)〈吉本隆明の北川透の抗議を不当とする意思表明〉、(3)〈北川透の革共同両派の内ゲバに関連して、その「停止の提言」に吉本隆明も加わっていたという出鱈目な発言〉などを、真正面に据えて、「じぶんはこう思う」とはっきり言うべきなんだ。それを明確にせず、いくら北川透を擁護したって無駄なのだ。
猫 だから、徒党的になる。
松 おれは誰の応援も同調も求めはしない。全部、一人で引き受けてきた。それがこいつらとの〈決定的な差異〉と思っているよ。
猫 おまえは、築山の発言に対して即座に対応しなかったよな。
松 ああ。おれの〈敵〉はあくまでも北川透だ。北川透が〈非〉を認めないかぎり、妥協することも和解することもありえない。しかし、それに付随した動きにいちいち反応してたら、際限なくひろがり、収拾がつかなくなる。憂さ晴らしに、こうして言い返すことはあっても、マジでやりあうつもりはないさ。
猫 要するに、みずからの発言と行為の責任を取らない北川透の〈卑怯な態度〉がこの延焼の元凶だ。北川透はいまのじぶんに都合の悪いことは隠匿している。それは『現代詩手帖』二〇一五年二月号に発表された「北川透自筆年譜」をみれば一目瞭然だ。先の(1)(3)はもとより、日本共産党に入党したことなど、どこにも書かれていないからな。
松 どんな立場にあっても、トータルな観点とオープンな姿勢は不可欠だ。築山の『質疑応答集』の仕事は校正のプロらしく丁寧だったけれど、その徒党的な排他性が露呈したのが脱落ミスだ。これは「喩としての聖書」の質疑応答が収録された『吉本隆明資料集』第一五八集と新潟の太田修の出版した『良寛異論』を見て確認すれば、未然に防ぐことができたものだ。これは築山が〈他者の営為〉に対する敬意や配慮を欠いていたことの必然的な帰結なのだ。
猫 おまえ、いまごろ「粗探し」をやって、故人を貶していると思われるのは心外だから、事の経緯をちゃんと言っておけよ。
松 ああ、おれは第一巻が刊行された直後に疎漏に気がついて、すぐに指摘した。改訂されることを願って。そしたら、宮下和夫から返事がきて、「うっかりミス」という返答だった。これには唖然とした。宮下和夫は一九六六年の『自立の思想的拠点』を皮切りに、講演を中心として吉本隆明の本をずっと作ってきた。それがこんなことを言うとは思わなかった。
猫 確かに宮下和夫は長い間、吉本隆明に伴走してきた。だけど、一九九〇年代のある時期に完全に切れている。宮下和夫が『吉本隆明全講演ライブ集』の刊行に着手した時、春秋社の小関直が「どうして宮下さんは吉本隆明に戻ってきたんだろう」と言ったと伝え聞いたくらいだ。
松 それ以降の『「反原発」異論』にしても、『〈未収録〉講演集』にしても、宿沢あぐりの援助なくして成り立たなかったものだ。宿沢さんが資料を提供し、適切なアドバイスをして支えたからだ。だけど、宮下和夫は一九九〇年代の〈空白〉と〈断絶〉を埋めることはできなかったような気がする。それは「うっかりミス」という言い訳に表れているとおもう。ミスはどんな仕事にもつきものだ。だから、それ自体を責めるつもりは全くない。『吉本隆明資料集』にも間違いはあるからね。おれは〈筆者〉と〈読者〉に申し訳ないと思っているよ。そこから言っても、宮下和夫の「吉本隆明さん没後の企画」(『飢餓陣営』五一号)なんて手前勝手の典型だ。これは築山の《吉本氏は「吉本資料集」での吉本氏以外の人の発言は、すべて「引用」とみなして、》などという、吉本隆明の「書簡」の歪曲と通底している。
猫 でもな、『風のたより』二二号で、沖縄の上原昭則君が「松岡さん」は「なんで、ひとの悪口ばかり書くの?」って、そして「読む人は悪口の部分だけはちゃんと覚えているものなのです」と言ってただろ、これは正しい指摘だ。
松 おれ、他に〈芸〉ないからなあ。でも、東出さんたちの北海道横超忌の「空中分解」はほんとうに残念に思っているよ。
(『風のたより』第23号2021年8月発行掲載)
岡田幸文さんとご一緒して、いちばん印象に残っているのはいつだろう。そう思って思い返してみました。
毎年恒例になっていた東京・谷中の墓地の、吉本家の花見に行ったことがあります。岡田さん、金廣志、伊川龍郎、わたしの四人でした。けっこうたくさんの人が集まっていて、その場の勢いで、なぜかわたしが春秋社の小関直さんの奥さんと一緒に乾杯の音頭をとり、各自が持ち寄った酒や肴で愉快なひとときをすごしました。
岡田さんと吉本家のつがなりをいえば、岡田さんは川上春雄さんのアドバイスで、吉本隆明さんに「猫の話」のインタビューを継続的に行い、『詩の新聞ミッドナイト・プレス』に連載し、『なぜ、猫とつきあうのか』として自社刊行しました。
岡田さんは猫と暮らしたことがなく、猫の魅力や習性を知らないので、なんとなく浮かない感じをともなったインタビューでした。でも、弱点は長所でもありますから、暗黙の了解のうちに成り立った猫好き同士の話とは異なり、猫の存在に対して客観的に接近するユニークなものになっています。そのユニークさが、のちに河出文庫、講談社学術文庫に収録される要因になったといえるでしょう。でも、わたしはハルノ宵子さんの装画と山本かずこさんのおしゃれな装丁の最初の単行本が好きです。
またこの本が機縁となり、ハルノ宵子さんの「よいこのノート」という連載が『詩の雑誌ミッドナイト・プレス』ではじまっています。ハルノさんはご両親の介護もあって、漫画家としてはしだいに開店休業状態になっていったのですが、この文とイラストによるエッセイは、その後のハルノさんの表現の方向を決定づけるものとなったのです。この連載があったからこそ、『それでも猫は出かけていく』や『猫だましい』も生まれたものとわたしは思っています。
岡田さんは、川上春雄さんが亡くなったとき、真っ先に「追悼特集」を組み、間宮幹彦さんらとともに福島県の郡山へお墓参りに行きました。それを遠くからみていて、岡田さんは人とのつながりをとても大切にする人なんだと思いました。
わたしは酒席におけるじぶんの振舞を思い起こすのは苦痛です。ろくでもないザマを晒していたことは確実だからです。飲んでいる時に気分が良く、楽しいなら、それでじゅうぶんです。
岡田さんは無類のビール好きでした。岡田さんのお父さんは学者だったようで、岡田さんにもその道を歩んでほしかったのかもしれません。しかし、ビートルズとの決定的な出会いと、詩の誘惑によって、親の願望からは逸れていったのではないでしょうか。岡田さんをよく知る人は「ムイシュキン公爵」とあだ名していました。いうまでもなくドストエフスキーの『白痴』の主人公です。わたしはドストエフスキーの代表作は『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』でなく、『罪と罰』と『白痴』だと思っています。岡田ムイシュキンは無防備で、愛すべき酔っ払いでした。そして、女性にもてたことは疑いありません。でも、その無防備さは必然的に〈受難〉を呼び寄せます。
二度、わたしの地元である四国の高知でご一緒したことがあります。そのひとつは、岡田さんとかずこさん、高知新聞社の片岡雅文さん、わたしとわたしの妻純子の五人だったと思います。
岡田さんは『詩学』の編集をやっていました。その関連のH氏賞選考会で、進行役を務めていたら、高知から出席した片岡文雄が何の因縁も前触れもなく突然、岡田さんに対して「お前なんか女房の尻に敷かれたままだ」と言い放ったそうです。つまり、岡田さんの詩は、つれあいである山本かずこさんの詩とは較べものにならないと言ったのです。この謂れのない唐突な攻撃に、岡田さんはとまどうとともに傷ついたのでしょう。その一件を話しました。
バカなのは片岡文雄です。片岡文雄は高校教諭で、わたしは夜間高校で「国語」を教わっています。『開花期』という詩の同人誌を主宰し、地元では名の通った文化人の一人でした。片岡文雄は現代詩・短詩型・歌詞という〈序列〉の固定観念を持っていて、教師が勉学の出来不出来で生徒を判断するように、詩を安易に採点できると錯覚していたのです。それがこの発言の背景にあるものです。もちろん、表現者がじぶんの表現方法に自負を持つことは当然です。しかし、それがそのまま通用するかどうかは疑問です。
岡田さんの『あなたと肩をならべて』と山本かずこさんの『渡月橋まで』、ふたつの処女詩集を比較すれば、『渡月橋まで』が優れていることは動かないでしょう。しかし、ほんとうの問題はそんなところにはありません。岡田さんの詩のなかには現代詩はもとより、洋の東西を問わず歌謡曲やロックやフォークも感性的に流れ込んでいます。詩も短歌も俳句も歌詞も、みんな〈詩〉なのです。その総合性を考慮するならば、詩の可能性ははるかに広がるのです。
早い話が、片岡文雄の詩を知っている人がいるでしょうか。これに対して、岡田さんの愛着したジョン・レノンの「イエスタディ」や「イマジン」は多くの人が愛唱しています。流行の歌曲の歌詞がそれだけで低俗だと考えるのは偏見です。曲(メロディ)の伝播性や歌唱力を差し引いても、どちらが人々の心を魅了するかは分からないのです。たしかに言語表現の先端を切り開くのは高度な詩的表現です。しかし、それが普遍性を獲得するのはよりポピュラーな表現なのです。
作られた詩なんて沢山だ
女が忘れていった詩集を読みかけて
閉じる
ターンテーブルの上に置かれたままのレコードに針をおろせば
センチメンタルなジャズ・ピアノのフレーズが予想されたように流れ
ベッドの上に横になれば
女のにおいがかすかに残っている
先刻まで女はこのベッドのなかにいて
歌をうたってくれたりしていたが
朝になれば
俺もこの部屋を出る
男一人の引越というのに
ダンボール箱が多すぎる
すべては失くしてもよかったものだ
もういいのだ
女には帰る場所があったが
俺にはなかった
だけのこと
このありふれた神話のなかで
俺は最後の荷作りをはじめた
(岡田幸文「最後の夜」)
この詩と「勝手にしやがれ」(作詞・阿久悠、歌・沢田研二)を較べると、カッコつけている点では変わりませんけれど、阿久悠の作品はよりシンプルに定型のパータンを踏襲しているゆえに強い感じがします。けれど、喪失感は岡田さんの詩の方が深いといえるでしょう。「すべては失くしてもよかったものだ」という一行がそれを示しています。
片岡文雄がどうしてそんな発言に及んだのかは測りかねるところがありますが、その場面を想像すると、他者を貶すことでおのれの権威を誇示したかっただけなのかもしれません。片岡文雄は大岡信を典型とする詩歌の通俗的な秩序化に追従していましたから、表現行為はどんなに稚拙なものであっても、その限界への〈無意識の挑戦〉であることを理解できなかったのです。そうでなければ、みずから〈創造〉する必然はないのです。それは社会制度の支配に対して、現に生きている人間の行為はその規定をはみ出しているのと同じです。世の文教族の多くは、愚かにもそんなことも分からないのです。それが分からないと、人それぞれの〈トータル性〉が見えなくなるのです。
それ以上に卑劣なのは、「そんなことはこの集まりに関係ないだろう、俺に文句があるなら表へ出ろ」と立場的に言えないのを見越した言動だからです。これも岡田さんの〈受難〉のひとつといえるでしょう。
わたしは岡田さんがこの話題を持ち出したとき、初対面の人もいるので、なんとなくまずいような気がして、「もう、いいじゃないですか」とさえぎり、なだめることができませんでした。それが心残りだったのです。
まあ、せこいのは片岡文雄にとどまるものではありません。あの「現代詩作家」を標榜する荒川洋治は、岡田さんが『詩の新聞』を創刊した時、その足を引っ張るようなことを書きました。もちろん、荒川洋治の『娼婦論』や『水駅』は画期的な詩集で、現代詩の表出次元を更新するものでした。その意義とは別に、荒川洋治のこの所業は狭い詩壇の縄張り意識を露呈したものでした。
さらにいえば、荒川洋治は「実篤のいるスタジアム」において、武者小路実篤の詩を持ち上げました。これは日本文学の総体でいえば、白樺派のエセ・ヒューマニズムを肯定するものです。一見、吉本隆明が『マス・イメージ論』の「喩法論」で、巷を飛び交うことばが詩語に拮抗する可能性を示唆したのと同じようにみえますが、その方向性は真逆です。なぜなら、取り澄ました高等文士の通俗性からは、忌野清志郎や遠藤ミチロウなどの詩的表現は、なにを言っているのか、まるで分からない、了解を絶する〈異類〉のことばのように映ることは確実だからです。荒川洋治は戦略的見地からあの邪説を唱えたのでしょうが、この感性的な〈隔絶〉と文芸の〈表現史〉を無視したところに、その反動性は如実に現れています。
『現代詩手帖』も『詩と思想』も、思潮社も土曜美術社出版販売も紫陽社もあった話ではないのです。いまや現代詩は凋落の一途をたどり、マイナーな存在になりはてたのです。大きな書店へ行っても詩集は殆ど並んでいません。それはこれら業界関係者のなせるわざと言っても決して過言ではありません。小田久郎を筆頭とする、これら商売人はじぶんらの派閥的な利権にしがみつき、その意向に添わないものはすべて排除してきました。そのつけがまわってきたのです。あのときの荒川洋治の言説は、その先駆的な象徴だったのです。
現状がどうであろうと、わたしは〈詩〉は人間の根源的な表現であると思っています。新生児の産声のような、あらゆる求愛のアピールのような。だから、絶対に消滅することはないのです。
わたしは岡田さんにお世話になりっ放しです。『詩学』への寄稿にはじまり、「酔興夜話」を『詩の新聞ミッドナイト・プレス』に、「読書日録」を『詩の雑誌ミッドナイト・プレス』に連載というかたちで掲載してもらいました。そのうえ『物語の森』という本も出していただいたのです。これはあまり売れず、迷惑をおかけすることになってしまいましたが、ただひとつ救いを挙げれば、『物語の森』を出典にして大学入試問題に活用されました。つまり、誰も見向きもしなかったわけではなかったということです。
岡田さんは、わたしの詩のなかでは「ヤスコ」がお気に入りだったようです。それをここに掲げます。
たたかいが終れば
あわれなむくろがみつかるだけだとおもうなら
ひきょうものめ
おもいだすがいい
潮江橋のたもとが待ち合せの場所だった
約束の時に少しおくれて
ぼくは急いだ
たどりつくと
そこにはめずらしく着飾ったきみがいた
そのとき 手にした『前進』を
ぼくは河に投げ捨てればよかったのだ
黙りがちのきみを怖れるように
ぼくはあらぬことばかり口にする
冬の日は暮れやすく
追われるようにホテルのネオンのなかを歩きながら
きみに語りかけることも
きみの手をとることも
ぼくはできない
くたびれた商店街で ヤスコは
わたし 何のために出掛けてきたの?
足早やに立ち去った
きみをうしなって
おれはみじめな自分に出会った
もっと傷つくがいい
おお 時よ
おれの敵対者よ
争うことは愛し合うことだ
(松岡祥男「ヤスコ」)
岡田さん、あなたの訳した「ビートルズ詩集」を読みたかったです。
(岡田幸文追悼文集『ただ、詩のために』2021年12月発行掲載)
猫 ハイサイ。
松 なんだよ、それ。
猫 沖縄の上原(昭則)君からの手紙が、いつもこの挨拶から始まるんで真似てみたんだ。彼は市役所定年退職後、自治会の世話役をやっていて、具志の公園近辺に体長2メートル近いハブが出たそうだ。彼の手紙にもあったけど、比嘉加津夫さんの追悼集『走る馬』(琉球プロジェクト)が刊行された。
松 うん。文学関係だけでなく、仕事がらみの人たちも登場していて良かったよ。そこに比嘉さんの人柄が表れているような気がした。
猫 比嘉さんの地元におけるポジションみたいなものも分かったような気がしたな。琉球大学や「沖縄タイムス」と「琉球新報」という二つの新聞、おそらくその文化圏が主要な位置を占めていて、『脈』のような雑誌はマイナー。
松 だけど、沖縄は同人誌の発行はいまだに盛んだ。そういう中では突出していた。『脈』と『Myaku』が合体して以降は、三〇〇部くらいの発行部数だったとおもうけど、完売の号も少なくないからね。雑誌として自立していた。それは比嘉さんの手腕だ。
猫 写真をみると、比嘉さんはサッカーのブラジルのマラドーラに似ているな。
松 『脈』の表紙裏に、『吉本隆明資料集』の広告が毎号掲載されていただろう。あれはね、比嘉さんが《『資料集』はあまり知られていません。『脈』に広告を出します。嫌だといっても載せます》とFAXで言ってきたからだ。
猫 そうなのか。比嘉さんが亡くなったことで、『脈』一〇五号の「『吉本隆明資料集』と松岡祥男」という特集も幻になったな。
松 うん。正直、ほっとしているよ。恥しいからね。
猫 おまえ、そんな殊勝なことをいっても、誰彼かまわず咬みつく野犬がおまえの通り相場だ。いまさら、評判は変わりはしないぜ。
松 比嘉さんはやるといったらやる人だったから、こちらも覚悟を決めて、全面的に協力することにした。それで比嘉さんと約束したのは「自選詩集」と「略年譜」の提出だった。詩の方は手つかずだけど、「略年譜」は「著作リスト」というかたちで、吉田惠吉さんの主宰する「隆明網」にアップしてもらった。
猫 『脈』に限らず、雑誌の難しいところは、読者はお目当てのものしか読まない。極端な場合、じぶんのものしか関心がない。書き手即ち良い読み手とは限らないからだ。だけど、雑誌発行者は全部読んでもらいたいと思っているものだ。
松 おれが思うには、ページ数にしてA5一二八ページくらい、執筆メンバーは七人くらいが、その限度のような気がする。それ以上になると、興味のあるものしか目を通さないんじゃないかな。比嘉さんが重い病気を抱えながら奮闘していたことすら知らない人もいたからね。
猫 一般的な商業雑誌は売れることが第一だから別として、同人雑誌は厚くなるのは弊害も伴うような気がするな。その限界を突破しようとするのは当然だとしても。それと雑誌は発行ペースを守ることがとても大事だ。比嘉さんは「沖縄建設新聞」の経験を踏まえて、定期発行を崩さなかった。これは凄いことだ。
松 そういう業績もあるけれど、最後は人間性じゃないのかな。比嘉さんは一九四四年生まれ、翌年沖縄本島へ米軍上陸。『脈』の創刊は「復帰」の一九七二年だ。職場結婚の奥さんが背後でしっかり支えていたような気がする。もっともっと長生きしてほしかっただろうけど、とても愛されていたようにおもう。
猫 松本大洋『東京ヒゴロ1』を読んだ。マンガ編集者が会社を退職して、改めて仕事と向き合う話だ。なんといっても、マンガと縁を切るべく、すべてのマンガ本を処分するため、古書店の人に値踏みをしてもらっていて、最後の段ボールに入れた本がばらけ落ちて、売るのをやめる場面だ。それが象徴するように、随所に作家と作品に対する愛情が滲み出ている。いわば永島慎二の『漫画家残酷物語』の現在版だ。この中の「みやざき長作」は、『竹光侍』の岡っ引きの「恒五郎」と同じだ。作者はこの人物(あるいはモデル)が好きなんだと思った。「ねえ、知ってる? 塩澤君。人は誰でもいつか死んでしまうみたいよ。」という女性漫画家のセリフがあって、ハイデッガーの『存在と時間』だと思ったな。
松 〈世界ー内ー存在〉だね。すぐ上の兄が死んで、おれが喪主を務めた。実家に住んでいた独身の兄が急性腎不全で救急搬送され、人工透析が必要となった段階で、それがおれの役目と思った。風来坊で、きょうだいにさんざん迷惑をかけた困った兄貴だったけど、晩年は母の介護をやり、その最期を看取った。そして、生まれ育った家で暮らすことができて本望だったとおもう。おれとは違って、村の人ともよくつきあい、地勢にも通じていた。家の周りの畑で芋や野菜を作っていたけど、あまり収穫できなかったようだ、猪やカラスにやられて。おれは蛇が苦手で見ただけで怯えるけど、兄は蝮を捕まえ、蝮酒を作っている所に買い取って貰っていた。野性度が全然違う。猪を仕留めても、それをうまくさばいて肉にできないと言った。やみくもに解体しても筋張って食えたものじゃないからね。そういう暮らしの中の叡智の伝承も廃れる一方だ。人工透析のためバイクで通院していて、その途中で車に追突され、救急車で運ばれた。なんとか一命は取りとめ、意識は回復したけれど、話ができるようにはならなかった。コロナ感染のせいで、殆ど面会できなかったことが無念だ。もはや死は病院と医師の支配下にある。それに逆らうことは難しい。それが痛切な実感だな。
猫 大きな支障もなく、納骨できたことはなによりだ。
松 うん。兄は職を転々とし、土方暮らしだった。きょうだいに甘え、金を借りたり、酒を飲んで暴れたりしたけど、身内以外からは借金しなかった。また泥棒まがいのこともやらなかった。それには理由があって、ガキの頃、村はずれの家に年上の男の子がいて、なぜか遊んだ事がない、まるで別の集落の奴みたいだった。そいつが学校の行き帰りの途中にある家に上り込んで、家の中を物色しているところをその家の人に見つかり、「おまえはどこの子じゃ」と問われて、「上屋敷のシゲ」と応えた。つまり、兄の名を騙ったんだ。狭い村だから、すぐ真実は明らかになった。この濡れ布を着せられた体験が他人の物を盗むような行為を拒絶させた。
猫 しかし、おまえらは柿や西瓜、畑荒らしはやっただろう。
松 そこは微妙に次元が違うんだ。そんなの、悪戯の範疇だからね。
猫 だけど、おまえはそんな兄たちの山や川の遊びから除け者にされていただろ、足手まといになるから。
松 うん。よくはわからないけど、たぶんどこか病気で自然治癒したんだろうね。そのため体が弱いとみなされていたようだ。
猫 そこでも落ちこぼれということだな。だから、より内に籠るようになった。そのなれの果てがいまのザマだ。
松 そんな実も蓋もないことを言われると、返答に窮するよ。笑っちゃうような逸話もあって、兄はおれと同級だった下の家のサダとつるんでいて、岡山の居酒屋かなんかで知り合った女医さんと意気投合した。そして、その女性が兄を追い掛けてきた。サダが「シゲさん、そりゃ、相手が違い過ぎる」と助言して沙汰止みになったらしい。
猫 人は見掛けに拠らないからな。小さなドブ川を挟んだ向こうの二軒の家が取り壊された。その作業を見ていたら、一軒を受け持った解体業者は物凄く手際が良く、働いている者もキビキビしていて、パーフェクトな仕事ぶりだった。一方その隣になると、爺さんが仕切っていて、手伝っている若者もだらしなく、ぐずぐずして三倍以上の手間を要したうえに、もう少しで火事を出しそうだった。同じ仕事をしていても怖ろしく違う。同じ頃、高級官僚どもが政治家の意向を忖度し、虚偽の答弁を繰り返していた。その虚しさと較べると、建築現場の優秀な若衆の方がずっと真摯で、輝いていたぜ。
松 そんなことをいっても、通用しないよ。それにどう考えても、おれはそのだらしないグループに属するからね。おれが思うに、ひとがもっとも嫌悪し忌避するのは、じぶんと似た人物だ。もうひとりの自分なんて見たくもない。主体に内化されているから、ナルシシズムみたいなものも成り立つんだろうし、その裏返しだとしても、それが実在したら、たまったもんじゃない。それはジャック・ラカンの鏡像段階という設定とは異なるさ。きょうだいというのは、似たところがあるけど、違うところも当然あるから、それが救いなんだ。
猫 屈強な肉体を持ち、屈託のない性格の人物に憧れるのは分からないことはないが、錯覚だよ。三島由紀夫が文弱の徒であることを否定し、自己鍛錬して体質改善を図ったけれど、大いなる勘違いだと思うな。一般的に左翼系が知的で陰険だとすると、体育系というのは健康的で従属的だ。それは体育教師のバカさ加減と暴力で経験済みのはずだ。ましてや、隊員を募り、軍隊の真似ごとをやるなんて、愚かなことだ。決死というところが特攻兵士の後追いだとしても。同じような悲劇的な出自を持っていても、太宰治の方がほんとうは強靭なんじゃないかな。この世の縁が尽きるまでという吉本隆明の思想と流儀が、自滅の悲劇の作家よりもいいことははっきりしている。
松 その吉本さんのことだけど、西伊豆の海の事故を契機にして、『試行』終刊でそれまでの〈突っ張り〉をしだいに解除していった。安原顕が『噂の真相』という醜聞雑誌で三大紙には書かないといっていたのに、「毎日」や「朝日」に出たといって批判したけど、的外れもいいところだ。何も分かちゃっいないのさ。七十代半ばになり、そんなことに拘る必要もなくなったのさ。じぶんはこういうふうにしか生きられなかったけど、「もうごめんだ!」と思っていた。「幸福三老人」といって、鶴見俊輔・小島信夫・安原顕に批判的だった、三人とも老後生活は楽しいといったからだ。老いの実態は苦しいことの連続で、良いことなんて少ないという思いから出たものだ。まあ、老いぼれることもまた楽しからずやと思っていても、いいと思うけどね。ただ、安原がほんとうは末期癌なのに糖尿病だなんて、嘘を書いたのは理解し難い。そんなことまで虚飾するところが悲惨な感じがした。それに較べたら、村上春樹や吉本隆明などの生原稿を売ったことは、おれが編集者だったら、そのプライドにかけて、そんなことはしないだろうが、生きてゆくうえで、困窮したらかっぱらいでもなんでもやるしかないから、別に倫理的に非難するつもりはないよ。
猫 吉本隆明が言ったように、死との闘いは負けるに決まっている。
松 袋小路に入りそうになったら、初発の契機に立ち返ればいい。
昨日のおれの愛は
今日は無言の非議と飢えにかわるのだ
そして世界はいつまでだつておれの心の惨劇を映さない
殺逆と砲火を映している
たとえ無数のひとが眼をこらしても
おれの惨劇は視えないのだ
おれが手をふり上げて訴えても
たれも聴えない
おれが独りぽつちで語りつづけても
たれも録することができない
おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが讃辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが呼んだら花輪をもつて遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といつたらみんな武器をとつてくれ
(吉本隆明「恋唄」)
猫 そうだな。「定本詩集」(『吉本隆明全著作集1』)は決定的な何かだった。
松 長崎の西村和俊さんが自家栽培した西瓜を送ってくれた。それと一緒に詩やその他の資料もあったんだけど、その中にこんなのがあった。
吉本親鸞説というのがあります。現代の親鸞になるためには、吉本さんはまだ何か一個付け加えなくてはならないのです。
アメリカの9・11について、吉本さんは、加藤典洋さんとの対話で「存在倫理」という考え方を加えました。ただしまだ一個だけかけていました。
それは親鸞には唯円がいましたが、吉本さんに唯円がいるかどうか、ということです。
今回は吉本隆明さんを追悼するおしゃべりでした。
(「いのちを考えるセミナー」芹沢俊介発言)
これは吉本隆明が亡くなった時に、芹沢俊介らが独自にやった集いでの発言だ。芹沢はいったい吉本隆明のなにを読んできたのだろう、またどんな思いで吉本隆明と交流していたのだろう。じぶんを唯円に擬したいのかは審らかではないが、この考え方でいけば、親鸞には蓮如という中興の祖が不可欠だったと言い出しかねない。そもそも「吉本親鸞説」などというものがどこで流布しているというんだ。これは『文學界』のあの卑劣な「吉本さんとの縁」という一文とセットだ。
猫 芹沢俊介がなんと言おうと、親鸞は親鸞、吉本隆明は吉本隆明さ。おまえが吉本隆明を敬愛していたって、おまえはおまえであるように。芹沢は小形烈『私の吉本隆明』の推薦文を書いていただろう。
松 小形烈の本はゆとりある大人の読書録みたいなものだ。本好きが好きな本について、まっとうな感想を綴っている。その懐手(達観)が気に入らないといえばそれまでだけど。
猫 その中に埴谷雄高についての文章があるだろう。反核運動からコム・デ・ギャルソンまでをめぐる埴谷との論争に関連して、吉本隆明が「埴谷雄高さんは、ウエーバーは読んでいるけどマルクスは読んでいない」と言ったという。
松 埴谷雄高は戦前の日本共産党の中枢にいた。それがマルクスを読んでいないというのはなんとも言い難いね。おそらくレーニンやスターリンを指針にして、活動していたんだ。
猫 埴谷はかなり読んだが、ヘーゲルやマルクスの痕跡は認められないからな。
松 レーニンらのロシア革命にはじまり、戦前の日本共産党から連綿と受け継がれた「非合法活動」ということが強く影響していて、変名の使用や仲間との連絡にも神経を使うような習性があるだろう。手紙はもとより、証拠となるようなものは残さないという流儀も、その名残りのひとつだ。おれはそんなことには一切頓着しない。どうでもいいようなおれでも、公安筋は要注意人物とみなしているらしく、いろいろあったからね。当局はよく調べていて、客観的にはじぶん以上に知っている。しかし、そんなことは何も怖れることはない。ふつうに振る舞い、知られたら困ることなど何もないからだ。それが奴らの思惑や職務を超えることだ。
猫 おまえは政治党派に属したことはないし、学生運動の傍らにいたにすぎないからな。それよりも、この情報管理社会ではもうそんなレベルは良い意味でも悪い意味でも完全に凌駕されているぜ。アメリカの強大な通信傍受システムを持ち出すまでもなく。日共なんて大衆の命運とは関わりのない、「獄中十八年」をいまだに抱え込んで、しがみついているが、アナクロニズムもいいところだ。
松 実をいうと、おれ、字を書くの、嫌いなんだ。下手だし、書き間違いや脱字も多い。それに目は疲れるし、肩も凝る。だから、手紙のやりとりはできるだけ避けていた。少し筆まめになったのはワープロのお蔭だね。
猫 それでよく文筆をつづけてきたな。
松 考えるのは頭の中だからね。ほんものになるには手で思考するようにならないといけないんだろうけど。この家に引越してきた頃、東隣のアパートに飲み屋に勤めるおばさんが住んでいて、やくざあがりのおやじがヒモみたいに同居していた。そのおやじと近くのアーケードですれ違ったとき、酔ったおやじがいきなり「おまえはそれでも日本人か!」と言い放った。その時、なんの因縁もないのに、どうしてそんなことを言うのか、不可解だった。それからしばらくして、北隣の鉄工所が物凄く大きな換気扇を設置し、それがアパートの隣のばあさんの家の玄関口に突風のように吹きつけるようになった。塗料の臭いも混ざっているから、とんでもないことだ。見かねたおれは鉄工所に苦情をいい、撤去させた。この一件で、おやじの態度は変わった。
猫 まるで義の人みたいじゃないか。
松 そんなんじゃないよ。ウチだって臭かったからね。その後、思い至ったのはなんのことはない。あのおやじに警察の連中が「隣の松岡はアカで、しかも過激派だ」と吹き込んだんだ。それで戦中生まれのおやじは「この野郎」と右翼的に思ったんだろうね。商店街の惣菜屋などにも情報を流したみたいで、つきあいもないのに、おれの交友関係まで知っていて、「大膳町に兄さんが‥‥‥」なんて言われたからね。鎌倉さんのことがそういうふうに伝わっていたんだ。
猫 ばかばかしい話だ。
松 ばかばかしさついでに、高知の文化人のことをいえば、ふだんは思想的でも社会派でもないのに、選挙になると、日共系候補の後援会活動を手伝ったり、「再販制度見直し反対」なんかの署名を集めてまわるからね。それがどういうことなのかも考えもせずに。ほんとうに日共支持ならそれでいいけれど、そうじゃない。どうしてこんなことをやっているんだというと、「頼まれたから」。アホらしくて、取り合う気もしねえ。要するに、連れション文化圏なのさ。
猫 そんなことを言うなら、「中央」だって似たようなものだ。概ねその時々の主題への競合とおもねりの、モードの中の論調だ。例えば加藤典洋が亡くなって、彼の9条をはじめとする憲法論議を、瀬尾育生や神山睦美らが芋づる式に持ち上げるだろう。加藤典洋の著書をあまり読んでいないから、発言の資格に欠けるかもしれないが、加藤の憲法論も戦後論も、国家と社会の関係をはじめ、いろんな層と実相を切り捨てた〈上げ底〉論議で、本格的な戦争論にも戦後論にもなっていないような気がする。その決定的な要因は、国家に躓いたことがないからだ。その証拠に、『敗戦後論』に対する大西巨人の批判にすら対応できなかったじゃないか。大西巨人の発言は痛切な戦争体験と実感に基づくものだ。それすら納得させることができないで、どうやって、そんなことを考えたこともない大衆の存在様式から頑迷な「国粋」主義者までを貫くようなものになるというんだ。加藤の企画した『思想の科学』の討議「半世紀の憲法」ひとつみたって、それが戦後世代のリベラルな解釈と主張にとどまるのは明白だ。吉本隆明との差異はここにはっきり現れている。
松 江藤淳の無条件降伏否定論だって、日本の敗戦とその戦後過程を消去したいだけなんだ。その否定意思によって、実際の戦後社会とはかけ離れた、倒錯の結論に至っている。いまさら「日本は負けていない」なんて外交文献上で言い張ったって、どうしようもないだろう。そんなことで日米の力関係はひっくり返りはしない。また『漱石とその時代』第3部第4部でいえば、朝日新聞社の漱石の処遇に過剰にこだわり、夏目漱石の伝記というメイン・テーマから大きく逸脱している。つまり、いまの言論界の現状と構図に対する不満に捕われて、不毛の穿ちに堕した。まあ、もともと『成熟と喪失』の「男性原理」「女性原理」なんていうのは本質的には成立しないし、それと同じように、ここではソシュールの言語論の概念が密輸入されている。そうすることによって、処女作『夏目漱石』以来の実績を自ら形骸化していったんだ。
猫 江藤淳も悲劇的だからな。フロイトの精神分析が怖かった。おのれの資質的な闇に射し込んでくるから。
松 話を戻すと、加藤典洋の村上春樹論の右に出るものはないだろう、そのトータル性において。その前提のうえでいえば、意味論的に読み込みすぎていて、それが難点のような気がする。確かに村上春樹は『羊をめぐる冒険』によってストーリーに重きをおき、一般性を獲得していったけれど、『風の歌を聴け』にみられるような直喩と暗喩を使った短章を連ねた初期作品の方が、表現論的な可能性は大きかったともいえるからね。村上春樹の初期作品の評価では、佐々木マキの言及がもっともその本質を衝いたものだ。村上春樹の長編作品のベースとなっているのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』といっていい。沈鬱で停滞気味の世界なんだけど、これが村上ワールドの骨格だ。アンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の影響が濃厚だ。
猫 あの頃ははまっていたからな。『1Q84』後、批評的関心は残っていても、ただの読者としては読む気がしない。加藤典洋は『アメリカの影』でも分かるように鶴見俊輔を基調に置いていて、おそらくヘーゲルもマルクスも埴谷もそんなに読んでいない。それが『共同幻想論』との違いだ。
松 《現人神のご真影を守れと/不自由な美術展への恨みをはらすべく/手術台に蝟集した三人の男/ひとりはメスをタクトに美容外科の院長/ひとりはきたない方言もどきをしゃべる市長/ひとりは正体不明の維新の元県議//リコールのたくらみの/仕掛けた知事の解職請求に/あてこんだ麻酔薬が過剰にあふれ/オペレーションの失敗は白日にさらされ/血糊の手術台から滑り落ちる三人》(成田昭男「手術台の上のへんてこな三人」『げんげん』創刊号)。愛知県知事リコールをめぐるスキャンダルを批判した詩だ。《きたない方言もどき》なんていう細部は地元のものじゃないと分からないからね。成田はお人好しだから、情緒的にまとめているけど、もっと切り裂くべきなんだ。
猫 名古屋市長って金メダルを齧って顰蹙を買った野郎だ。東京オリンピックのJOCの面々をみていても、橋本聖子の選手擁護を別にしたら、山下も丸川も武藤も「わしらパーでんねん」だったからな。
松 ソフトボールは全試合見た。見たといってもアメリカとの決勝は、高知では地上波のテレビ放送が無かったからラジオで聞いた。6回のピンチでダブルプレーになったところはよく分からなかった。あとでテレビで見たら、サードの腕に当たり、撥ねたボールをショートがキャッチして、セカンドに転送してダブルプレーになった。これが勝負を分けた。リリーフでチームを支えた後藤は、あの回顔面蒼白だったとエースの上野が言っていた。じぶんの球が通用しないと思ったんだ。メダル齧りの件は後藤本人は笑っていたから、まあいいけど、リコール署名偽造問題は謝って済む問題じゃない。
猫 当然のことながら、盛り上がりに欠けるオリンピックだったけど、スケボーにはじまり車椅子バスケットまで見た(開会式・野球・サッカー・柔道は無視)。だけど、莫大な借金(浪費)の責任は誰もとりはしない。権力者としてやりたい放題、その不正が露見しても居直り勝ちの巨悪を推進したのは、言うまでもなく安倍晋三だ。さらにいえば、こいつら二言目には「有事」っていうだろう。「有事」のような事態を解消することが政治の役目なのに、こいつらがもっとも危機的な状況を望んでいるとしか思えない。その方が国家支配と政治統制に都合がいいからだ。ふざけるじゃないぜ。保守派的な言い方をしても、「国威」ってのは人々を少しでも豊かにし、諸個人の自由を拡大することだ。こいつらのやっていることは逆だ。なにか問題が起これば、後追い的に法的規制を加え、管理と抑圧で体制を取り繕っているだけだ。そういうふうにすればするほど、人心は荒廃し、詐欺と泥棒の横行する社会になるんだ。迎合的なマスコミが建て前の嘘で被覆するから、その裏側で匿名による誹謗中傷が蔓延するのと同じだ。いまや防犯カメラなくして犯罪(事件)の解決は覚束ない有様だからな。吉本隆明はその柳田国男論の結論として「中間が連続する」といった、こなれない言い方だけど、指していることは明瞭だ。〈信〉をおくのはそこしかない。
松 そんなことをいうなら、アメリカはアフガニスタンの二〇年間に渉るタリバンとの闘いに敗北した。これはアメリカや西欧の現代資本主義の論理とその世界戦略が破綻したということだ。敗けて撤退しているのに、なんだかんだ注文をつけたって、みじめな遠吠えにすぎない。極東地域でいえば、中国包囲網だってうまくいく保証はどこにもないさ。台湾をめぐって切迫するかもしれないが。
猫 それぞれの歴史段階の差異と断層を軸にした混乱になるのは必定だ。中国も北朝鮮もどこが〈人民共和国〉なんだ、一党独裁の〈アジア的専制〉の変種にしかみえない。日本(政府)は小狡いだけだ。まあ、空模様について一喜一憂しても仕方ないけどな。
松 その空の下に生きているとしてもね。
猫 そうだな。
なにもみえなくなった
あぶれた敗残の午後
標べのない路頭はだらしなくひろがっている
われわれの反抗はかききえて
穏やかな空に時計塔はそびえている
処分の下った日 ただちに
われわれは追手前高校の時計台を占拠し
叛逆の旗をうちふり
不当処分を粉砕するために
公教育の打倒めざし学校を破壊するとアジりながら
校門から攻めてくる機動隊めがけ
火炎ビンや石つぶて
われわれのいっさいをぶちつけて
砕けちればよかったのだ
歳月は砂のようにこぼれ落ちた
処分撤回の裁判の法廷に立ったのは父兄だ
われわれは裁判闘争の向こう側にいた
潮がひくようにそれぞれにわかれた共犯者よ
もしおれが憎悪なくしたら捨ててくれ
もしおれが暴発したら黙ってうなづいてくれ
手は指先からふるえだし
顔は屈辱に燃えるから
少女よ
泥酔のさなかなら
狭い通路で肩をおさえつけ
くらみながらだきしめられる
おお ひとたびつまづいたら
いつまでも倒れているのさ
こわいなら
ひとりごとがこぼれ落ちる
さけび声がほとばしる/和解なんてごめんだ
もしおれが崩れはてたら祝福してくれ
もしおれが死んだら忘れてくれ
(松岡祥男「穏やかな日に」)
一九七一年のことを一九八〇年前後に書いたものだ。それだけの時間が必要だったということだ。
松 その後、それぞれに苦しい道をたどった。それには優劣はない。おれはそう思っている。
猫 体験も記憶も風化する、それはいいことだ。それでも芯のように残るものが、いまも支えているものだ。『鬼滅の刃』の愈史郎の「人に与えない者はいずれ人から何も貰えなくなる 欲しがるばかりの奴は結局何も持ってないのと同じ 自分では何も生み出せないから」というセリフは、久しきわが思いと合致する。
(『風のたより』24号2022年1月発行掲載)
1
猫 どうしてる?
松 どうしてるって言われても、どうもしてねえよ。新型コロナのこともあって、相変わらずのひきこもりさ。おれ、歯が悪いこともあって、出掛ける時はマスクをずっとしていたんだ、コロナの影響でたいていの人がマスクをするようになった。それで、この人、どうしてマスクしているんだろうと、花粉症なのかなという具合に特別視されることはなくなったよ。
猫 そんなことを気にしてたのか。
松 いや、気にはしてない。どう見られようと関係ない。最近、吉本隆明さんの『詩歌の呼び声ー岡井隆論集』を菅原則生さんと二人三脚で作った。これは岡井さんが亡くなったこともあり、その追悼の意味も籠めて、計画を立てたんだ。それで『現代詩手帖』の岡井隆追悼号をみたんだけど、それに「岡井隆代表歌百首」(黒瀬珂瀾編)というのがあって、それをみると、「これはちょっと」と門外漢のおれでもおもった。膨大な歌の中から百首を選ぶというのは、とても難しい。例えば『家常茶飯』という歌集があるだろう。これはおれにとっても痛切な歌集だ。
一度は世界を否定しようと決めたのだ左翼だつたとはさういふことだ
さうなれば世界の方でも黙つてないその復讐が晩年に来た
左翼つていまは伝説でさへないがあの頃途方もなく現実だつた
ソビエトの崩れたる朝ぎらぎらとした日のなかで茄子を洗つた
左翼つて左の翼うつくしい翼だつたよだから飛べない
どこからでも死はおびきだせただろうワイングラスを拭きながらでも
システムバスのゴム栓をぬき湯をおとしそれからまつすぐ死へいつたのだ
ソ連邦の消えたあとも消えるはずのない傷ついた過去を持ちて生きてた
青春期に左翼を病んだひとはいまも骨髄にふかあい病巣を抱く
それがわかる、といふのは無論ぼく自身その病を引き摺つてゐるからなのだが
(岡井隆『家常茶飯』)
これはひとつづきのものだ。「代表歌百首」は《左翼つて左の翼うつくしい‥‥‥》一首を採っている。どうしても一首となれば、おれなら《青春期に左翼を病んだひとはいまも骨髄にふかあい病巣を抱く》を採る。
猫 人生の終わりに、最後に行きたい所へ連れて行くというNHKのドラマ「天使にリクエストを」を見ていたら、塩見三省演ずる老アナーキストが、江口洋介、上白石萌歌、志尊淳のチームの看護師の志尊に、最後に聞きたい歌はないかと訊かれて、「生活の柄」と答える場面があった。これにはちょっとびっくりした。
松 高田渡の「生活の柄」を知ってる奴なんて殆どいないだろう。
猫 それで、車を運転している江口が歌う。
歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構はず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあつたのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてはねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏むきなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねむれない。
(詩・山之口貘 歌・高田渡)
江口は最初の3行を復唱した。これは脚本家の大森寿美夫がその方がカッコいいと思ったからだ。
松 山之口貘は根強く読み継がれているからね。一見なんでもないような感じがするけれど、一字一句ゆるがせにしていない。最初の2行と「寝たかとおもふと冷気にからかはれて」という行がこの詩の芯だとしても。
猫 江口が高田渡を真似ずに、じぶんの歌い方をしたのがよかった。高田渡の歌では「自転車に乗って」がいちばん好きだな。しかし、話題がテレビしかないのは貧乏の証拠だ。知り合いの家に家族で寄宿しつづけた山之口貘ほどではないにしろ。目も悪くなり、本を読むのに苦労するようになったうえに、金は無い。そうなると、情けないことにどうしても必要なものしか買わない。それは行動においても同じだ。あれをやろうとか、あそこに行こうと思っても、また「今度」とおもい流してしまう。これが老化の実態だ。若い時はそうじゃなかった。やりたいことや思ったことは実行に移していた。むかしは「還暦」というのは大きな節目だったような気がするが、平均寿命が延びて、いまや通過点にすぎない。じぶんのことで言っても。
松 そういうことでいえば、いまの世の中で節目となるのはやっぱり「定年」だろうね。『風のたより』二一号を福岡の田中洋勲さんに送ったら、その中の若月克昌の小説「ミスガイデッド・エンジェル(妹はエンジニア)」に出てくる、カウボーイ・ジャンキーズの『トリニティ・セッション』をプレゼントしてくれた。
俺たちは炭鉱夫、固い岩を掘り進む
坑道へと下りて行く
灯油ビンを背負って
斜坑へと進んで行く
列になって
列になって
穴を掘り進め
班長がやってきて
時間までに掘り終われと言うまで
粉塵が
肺の中に溜まるのがわからないか?
それは若い坑夫の
命を奪っていく
2年で
塵肺に侵されて
黄金を求めた俺は
命尽きようとしている
黄金を求めた俺は
命尽きようとしている
(「マイニング・フォー・ゴールド」)
一曲目のこの曲を聴いて、すぐ気に入った。むろん、歌詞(英語)の意味は分からないから、その声とメロディに惹かれたんだ。言語論の多くは文字に重点が置かれている。しかし、文字の表音性や表意性よりも、音声や文字以前の表出、つまり胸中の思いや呻きや叫びのようなほうが先行する。おれは音楽が分からないけれど、それでも身辺には歌は流れていた。歌謡曲は好きじゃなかった。それにもかかわずラジオの歌謡番組は聞いていたからね。
猫 音痴で身を固めていても、滲入してくるからな。買い物はわしの役目で、スーパーマーケットに行くと、その店のテーマソングが流されている。それが忌々しいことに耳について離れないからな。例えば鮮魚コーナーで「魚 魚 魚を食べると 頭が良くなる」なんて、くだらない曲が流れていて、それがこびりつくんだ。
松 おれたちの世代でも、音楽のベースは学校で習った唱歌だよね。流行ということでいえば、ビートルズの登場とその波及としてのグループ・サウンズが大流行したけど、それほど動かされなかった。「高校三年生」や「恋の季節」くらいには引き込まれたけれど、そういう意味では極めて浅い関心だったような気がする。しかし、高校のクラスのニシオカに誘われて授業をさぼって「ウッドストック」の映画を見た。あれは衝撃だった。これで、おれの音楽に対する意識が完全に変わった。そのあと、ニシガワに関西フォークを教えられた。これはおれにとって、歌詞の七五定型を破る口語自由詩への開明みたいなものだ。これなら、おれにも詩が書けるかもしれないと思ったんだ。初めて作ったミニコミ誌の誌名はニシオカの提唱した「get freedom」だった。
猫 歌詞の訳を読んで、長兄がトンネル工事の坑夫として全国を渡り歩き、肺をやられて、長い闘病生活のすえに死んだこともあって、痛切に響いたな。しかし、歌の力って凄いな。NHKの朝ドラ「エール」をみていたら、甲子園球場で「栄冠は君に輝く」を歌う場面があった。歌詞と曲はともかく、山崎育三郎の歌唱は圧巻だった。
松 田中さんには以前にも、高橋悠治ピアノのサティ・ベスト・セレクション『ジュ・トゥ・ヴ』を送ってもらった。それはたまたま持っていたので、友人にあげた。吉本さんが音痴の典型として挙げているのはカフカだ。
彼らは、言葉を話したわけでも、歌をうたったわけでもなく、そろいもそろって苦虫を咬みつぶしたような深い沈黙をまもっていた。が、その大きな沈黙のなかから、まるで魔法のように音楽を浮かびあがらせたのである。すべてが、音楽であったーー足の上げおろし、ある種の頭のうごかしかた、走るときの動と静、ぱっと散ったときのたがいの構え、また、七匹で形づくる一分のすきもないコンビネーション。たとえば、たがいに前足を相手の背中にのせて、順に櫓をくみ、先頭の一匹が残りの六匹の重みを垂直にささえる。あるいは、地面に身体を伏せたようにして、いろんな複雑な図形をえがきながら移動していき、一糸の乱れも見せない。
(カフカ『ある犬の研究』前田敬作訳)
吉本さんは次のように言っている。
そのうちに七匹の発する音楽は力をまし、「わたし」を拉し去って、どんなに力をふりしぼってさからい、うめき声をあげても、「四方八方から、上からも下からも、あらゆるところから押し寄せてくる」音楽に引きずりこまれ、圧倒され、うちひしがれ自失してしまう。七匹の犬は「わたし」をじぶんたちのなかに、音楽家たちの一員であるかのように引きずりまわし、投げこんだ。そしてわたしは「彼らがみずからつくりだした音楽に臆することなく身をさらしているその勇気」や「へこたれずに平然としてそれに耐えている力」に驚嘆する。
犬族だった「わたし」はここで「音楽」だと感じているものは、体感異常の分裂病者に変身したカフカが「音楽」だと感じているのと、記述上の位置からはほとんど等しい。ここでも執拗な意志でも働いているかのように、ひとびとが音楽だとみなしている音階の秩序や諧調やその持続の波形、演奏家によるその解釈と批評の楽器による演奏、といったものを「音楽」と呼ぶことが回避されている。群れをなした七匹の犬のあらゆるコンビネーションの動作、そして音声にならない膨大な部分の音声を潜在させているような、低くて短かく強いうなり声、「わたし」をおなじ動作のなかに捲き込んでしまう力が「音楽」とみなされる。だがこれは自然音や動物の吠える音声、その動作と体形のようなものの律動、これらが「音楽」だといわれているのでは、まったくない。つまり自然音主義とはまったくちがう。聴くものの位相が犬族に変身したときだけ、ほんとに「音楽」として聴えてくる犬のうなり声や動作やコンビネーションが「音楽」なのだ。人間の位相からは、犬のうなり声もどんな動作も「音楽」としては、まったく聞えない。だから「音楽」の概念を、自然音や人工自然音や環境音響の世界にまで拡張すればいいというのとも、まったくちがう。分裂病的な体感異常で犬族に変身してしまうとき、はじめて犬のうなり声や動作が「音楽」として聞えてくるのだ。カフカはここのところではじめて考想化声のように「音楽」が成り立つのを感じている。分裂病の音階としては三以上の音階なのだが、これは入口の像(イメージ)に当っている。カフカには音階そのものであるJ・ケージや宮沢賢治のようには、音楽が茸や鹿やカッコウなどから聞えてこない。じぶんが茸や鹿やカッコウや犬になるという体感異常を経なければ、それらの発する音や動作が音楽には聞えない。だが、それこそがほんとうの入口なのだ。
(吉本隆明「像としての音階」・『海燕』初出)
吉本さんはカフカがどうしても音楽に対して身構えてしまい、心身が硬くなってしまうことを指摘し、そして、それに融和(同化)するには、『変身』にみられるような、ある転位が必要だと言っている。
猫 だけど、犬の呼吸法は一般的に音楽の練習では取り入れられているんじゃないか。そういう意味ではカフカは音楽に対して無理解じゃない。
松 おれなんか中学校で英語の授業がはじまり、隔絶した言語環境ということもあって、ついていけなかった。さらに音痴であることが強烈に影響して、そのリズムを受け入れることができず、苦手意識に囚われた。まあ、教師の教え方にも問題があったのかもしれないけれど、その苦手意識は思春期ということもあって、一種の拒絶反応に転化していったような気がする。爾来、外国語は全く身についていない。これはほんとうは頭の良い悪いでも、学習力の問題でもない。まあ、教師や優等生連中はただの落ちこぼれとみなすだけだろうが。そういう意味ではカフカよりひどいといえるかもしれないよ。
猫 パーフェクトな人間なんて存在しない。みんな、どこかに欠陥を持っているはずだ。それを恰も公準があるがごとく設定するからろくでもない事態を生むんだ。吉本隆明はその主因を胎乳児期に求めている。そうだとすれば、これは克服することは不可能だ。しかし、人間という存在は音痴であろうが、身体能力が著しく劣ろうが、そんなもの関係なく別の能力でカバーしながら、生きているんだ。神奈川で重度の肢体不自由な存在をつぎつぎに惨殺した野郎がいたけれど、彼等の一人ひとりがどんなことをその内なる世界で思い描いていたかは外部から窺い知れないんだ。経済的尺度だけで人間のなにが推し量れるというんだ。これは自己投影にすぎない。ほんとうはおのれの〈影〉を抹殺しただけなのだ。そんなことで、他の命を奪う権利は誰にもありはしない。
松 狂気は誰の中にも内在する。
分裂病やパラノイアの幻聴のように、幻聴に病的な意味が与えられるばあいをかんがえてみる。幻聴のどこに病的と呼ばれる過程があるのだろうか。
本来的にいえば、幻聴のばあいでさえ音源と聴覚器官とのあいだには、音源が心の内部に架空に存在し、それをあたかも外部にあるかのように、架空の音源の振動によって触知しているという純粋に心の過程と、もうひとつ、現在の高度にシステム化された社会を、あたかも原始的な共同体であるかのように幻覚して、氏族内婚制の共同体の掟てのようにじぶんに圧倒的な強制力を及ぼしてくる共同意志を架空に仮設する過程と、このふたつの過程がはっきりと分離してつかまえられていなくてはならない。ところが幻聴が病的な過程にはいると、この心的な過程と社会の像(イメージ)の原始的共同体への退化の過程とが、混合し、混乱し、ついには融合してしまって、じぶん自身に区別できなくなってしまう。あるいは別の言い方をすれば、心の退化の過程像と社会の退化の過程像とが混合し、融け込んで区別がつかない状態を獲得したときに、分裂病やパラノイアの幻聴の病像が産みだされるといってもよい。わたしたちが精神の病気や異常でいつも体験するたったひとつの状態、つまり病いや異常の発現のきっかけは現在の具体的な人間関係や社会関係のひとつの場面でうけた衝撃や傷が基になっているのに、その真因は乳胎児期からプレ・アドレッセンス期までの両親(とくに母親)、兄弟姉妹、近親との接触障害に潜んでいるとかんがえざるをえないのは、この二系列の退化の融合状態こそが病像(このばあい分裂病またはパラノイアの幻聴)を産出する基体だからだとおもえる。
幻聴が病的な状態で音源の像(イメージ)としておもい浮べることができるのは、当然なことに二つの系列に分けられる。ひとつの系統は何らかの意味で誇張された両親(とくに母親)、兄弟姉妹、近親の像(イメージ)である。もうひとつの系列は共同体が共同幻想として誇張し流布したゴッグ、マゴッグ、悪魔、神、自然、首長などの畏怖すべき像(イメージ)である。幻聴はこれらの像(イメージ)を音源としておもい描くことになる。もちろんもうひとつ、幻聴それ自体も像(イメージ)に転化される。あたかも音の周波数にしたがってオシログラフィックな画像や映像を出現させるように、幻聴の高低強弱にしたがって大小の火花が揚がるという病者の体験はありふれた体験といえよう。
(吉本隆明「像としての音階」・『海燕』初出)
でも、英語をはじめとする外国語ができなくったって、日本で生きていく分には多少不便であっても、やっていけるさ。日本がアメリカの占領下にあったこと、また日米安保ということでアメリカの影響は浸透しているけどね。
猫 昔は中国、今はアメリカってことだな。
松 脇地炯さんが二〇二一年一月一八日に亡くなった。元旦に年賀状をいただいていたので、まさか‥‥‥と。
猫 どうして脇地さんを知ったんだ。
松 脇地さんは『吉本隆明資料集』を購読してくれていた。それで、脇地さんが吉本さんにインタビューした「大衆の原像」を『資料集』に再録する際には、新たに小見出しを付けてもらったんだ。『違和という自然』(思潮社)ではひとつづきで、読みにくかったからね。脇地さんは一九四〇年和歌山県生まれ。北海道大学卒業後、毎日新聞に入社。銀座セゾン劇場広報宣伝部を経て、産経新聞に転職し、定年まで勤めた。新聞の文芸記者って因果な稼業という気がするな。物書きでもなければ、編集者でもない、いろんなコネや情報網を必要とする。なのに実質はほとんど無いという。
猫 まあ、マスコミ関係はみんなそうじゃないかな。
松 脇地さんとより親密になったのは、「猫々だより」に執筆してもらったからだ。その時、名前が「火」に「同」になっていて、脇地さんから「名前が間違っている、作字したのか」という連絡があった。「いや、違います。パソコンで出したものをそのまま使ったんです。申し訳ありません」と答えた。しかし、「炯」がどうしてそうなったのかはいまだに謎だ。その後、何度か試みたけれど、その字は全く出ないからね。それが大きな契機になって、手紙や電話でのやりとりが始まった。脇地家はもともとは高知県西部(四万十川のある幡多地方)の出とのことだ。脇地さんは流すことができなかった人だ。それが特異のような気がする。例えば『文学という内服薬』(砂子屋書房)の巻頭に置かれた「文学者と常識」という文章がその典型だ。脇地さんは安部公房作の演劇「人さらい」の感想を新聞に書いた。それを『安部公房の劇場 七年の歩み』に収録させてほしいという申し出があり、承諾した。ところが本が刊行されても、いっこうに送ってこない。それで電話したけれど全く相手にされなかった。怒った脇地さんは安部公房本人に抗議している。そしたら安部公房は謝罪し、すぐに女優の山口果林に直接届けさせたという。おれなら、本を送ってこなかったとしても「いい加減な奴らだ」と思い、流すだろう。おれの乏しい経験からいっても、マスコミ関係者というのは後始末はあまりしない。原稿を依頼し入手すれば終わりで、その原稿が紙面に掲載される頃には次の業務に取り掛かっているものだ。そのため、顔写真が必要なので原稿に添えてくれと言われ、それに応じて提供し、「要返却」と伝えてあっても、返ってくることは稀だ。脇地さんは異質だよね。
猫 そうだとしたら、あっちこっちで衝突するんじゃないか。
松 脇地さんから聞いた話で、ここから先は《文責松岡》ということでいえば、かなりあったらしい。大江健三郎とインタビューかなんかの約束していて、一方的に反故にされ、電話で抗議すると「お前なんか相手にする気はない」と言われ、ガッチャン!とのことだ。またセゾンに勤めていた時、西欧映画の上映会のパンフレットを作るのに、四方田犬彦に原稿依頼した。ところが監督の氏名の表記が四方田だけ異なっていたので、脇地さんが「統一したい」と伝えると、四方田は嫌だったら「わたしはこれで通します」といえばいいところを、「そんなことを言うなら、堤(清二)さんに言いつける」と言ったそうだ。つまり、社長に告げ口するということだ。四方田がいくら良識ぶったって、その本性は権威にすがりつく世渡り上手にすぎないことは、このことでも知れるってもんだ。脇地さんは頑固だけど虚言を弄する人じゃなかった。
猫 だから、信頼していた。
松 うん。末期癌と分かった中上健次は家を出て、別の女性と暮らしていた。中上健次の最期を看取ったのはその女性だ。それで脇地さんは同郷の先輩として、その女性と中上家がトラブルにならないように計らったらしい。
猫 そういうことを言うなら、『VAV(ばぶ)』の陶山幾朗・成田昭男との間で問題になった『試行』に「褪色」という作品を発表した沢清兵は、内村剛介のペンネームということに関連して、内村家の表札がよく変わっていたというのは脇地さんから聞いた話だ。陶山幾朗は内村剛介については、じぶんがもっとも打ち込んでいるので、誰よりもよく知っていると思い込み、「沢=内村」という意見を頭から否定し、これは「なんらかの思い違いか、誤解の類ではないかと推測する」などと言ったんだ。それが専門家がはまる陥穽のひとつだ。異説に接したら、それを検討するのがほんとうなんだ。陶山幾朗は脇地さんとも交流があったから、いろんなことを聞くことができたはずだ。そうしたら、別の角度からの人物像が得られただろう。ソビエトに抑留されたことが内村剛介の決定的な体験であることは疑いないけれど、帰国後の動きも重要なのに、陶山幾朗は抑留問題に深入りしていった。
松 浮海啓さんの大学の後輩にあたる名古屋の六〇年安保世代のHさんから直接聞いた話では、当時の学生仲間では「沢=内村」説は通り相場になっていたそうだ。どうしてかというと、内村剛介の筆名で『日本読書新聞』に発表した文章が「褪色」の文体とそっくりだったからだ。陶山幾朗はプロの編集者で、『内村剛介著作集』も編んでいるんだから、文体は人格であるという側面も考慮したら、よかったとおもう。まあ、内村さんも吉本さんも、陶山さんも亡くなった。確かめるとしたら、もし『褪色』の原稿が残っていれば筆跡鑑定でもやるしかないだろう。おれは『試行』の発行者である吉本さんの証言は信憑性が高いと思っているけど、べつに固執するわけじゃない。
猫 脇地さんの話でもっとも同情したのは、新聞社の仕事は時間に追われるハードな仕事だから、休日はぼんやり過ごしたいだろうに、詩人のMさんが毎週のように日曜日の午後に訪ねてきたとのことだ。訪問する方は〈順序と完備〉の予定調和的な行動なのだろうけど、新婚の夫婦にとってはきつい。
松 あれはつらいよね。休日というのは前の晩に飲みに行ったりして、朝遅く起きて、ふたりでゆっくり朝食をとり、さて午後は買い物に行くか、散歩に出るか、なにをするにしても自由な、くつろぎタイムだ、そこへ来客。
猫 まあな、週休二日の時代じゃなかったからな。Mさんは翻訳が本業で在宅ワークだから、息抜きだったかもしれないけれど。
松 脇地さんは埴谷雄高を最大の師とおもっていた。埴谷の「自同律の不快」に共感したからだ。これは少年時代に教師のこどもということで、土着の漁師のガキどもに謂れもなくいじめられたことが影響しているとおもう。この被害体験がいろんな理不尽な仕打ちや齟齬に対する反発の核になっていることは間違いない。
猫 そういうこともあって、他者を表面的な経歴や学歴で決して判断しなかった。
松 おれは『VAV』二五号に掲載された「『倫理』のあとさき」という論考が脇地さんの面目をもっとも示したものだと思っている。六〇年安保闘争後の学生運動の負の病理に対する渾身の批判だ。
猫 中上健次にふれて、フロイトの「ドストエフスキーと父親殺し」の《この「殺意」は「父」に対して「少年」が必ず抱くもので、その実現の不可能性に気付いたとき、彼は「少年」期を脱して「父」の世界に踏み入るのだ》という古典的な見解を呈示したあと、中上健次は秋幸という分身を通して、浜村龍造を越えようとしたと脇地さんは述べている。「なかうえ」(本名)と「なかがみ」(筆名)の狭間の作家の悲劇を見通した、温かい理解といえるな。
松 そういう意味でいえば、村上春樹の『海辺のカフカ』は「父親殺し」の本質に到達していない、中途半端なものだ。そこで村上春樹は「父」になりそこねている。親のもつ〈無償性〉を受け容れることができなかったんだ。だから、変なこだわり方をしている。父親の戦中の身の処し方に対して、個人がどうあったかよりも、国家の動向やその共同意思が圧倒的に支配するから、それを根底的に批判することが重要なんだ。個々人の想いや振舞は、そこでは従属的なものでしかないからだ。
猫 それは村上春樹の世界認識が徹底性を欠いていて、横滑りしているってことだろ。
松 脇地さんは大学卒業時、編集者を目指し国文社の募集に応じて、ほぼ採用が決定しかけていたけれど、土壇場になって日頃から出入りしていた田村雅之が採用されたと聞いた。おれは脇地さんは「編集者」や「新聞記者」よりも、父親と同じ学校の先生が向いていたような気がするな。まあ、誰だってうまく順当な道をたどれるわけじゃないからね。
猫 ほんとうはご冥福を祈り、合掌するだけでいい。余計なことは言わずにな。
松 その通りだけど、おれは亡くなった人の無念の思いみたいなことを察するならば、やっぱり悼む気持ちを、想い出とともに語ってもいいとおもう。それが追悼するということじゃないのかな。
2
猫 ところで、おまえは坂井信夫・築山登美夫とのケンカに決着をつけるべく『風のたより』二三号に、「おれのパンク・ロック」を書いただろ。
松 うん。ほんとうは築山登美夫の「微茫録二〇一一」(『雷電』三号・二〇一三年二月発行)を引用して、俎上にあげることも考えたけれど、こんなもの引用したら、俎板が腐るかもしれないとおもい、一点に象徴させたんだ。それがないと、殆どの人が築山の文章なんか読んでいないだろうから、話が見えないからね。仲間内のメールの安易なやりとりを公開することで、墓穴を掘ったのさ。もうそんなことはどうでもいい、おれの言いたいことはあれで終わっている。
猫 そうだが、築山の《吉本氏は「吉本資料集」での吉本氏以外の人の発言は、すべて「引用」とみなして、文藝の世界では、引用は全く自由で、それが不自由な学界とはちがふんだ》云々の、《不自由な学界》というくだりは、口先だけの築山と違って、おまえはその具体的な事情を知っているだろ。それは言っておいてもいいとおもう。
松 あれは『甦えるヴェイユ』(JICC出版局)の初版の「使った本」のなかでシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』(田辺保訳)が抜け落ちていて、田辺保から抗議があったんだ。それで吉本さんは補訂した。ところが、田辺保はこれを「盗作」呼ばわりした。このことは吉本さんから直接聞いた。もちろん、学会と文芸の世界の相違もあるだろうが、それ以上に、田辺保はヴェイユの『工場日記』をじぶんのものと錯覚している。これは〈ヴェイユの著作〉であって、田辺は訳しただけだ。訳書の選択と翻訳の労はあるから、引用して活用しているのだから、文献としてリスト・アップしなかったことは〈抜かり〉だけど、「盗作」などと言うのは倒錯だ。この手の勘違いは学会特有で、狭い世界で体裁を整えることに躍起になり、世間知らずのいびつな慣習を形成しているような気がする。
猫 その〈病的な習性〉を文学の世界で体現しているのが大江健三郎だ。ある雑誌が大江の特集を組もうと考えて、企画の申し入れをしたら、大江はお宅は以前わたしの批判を掲載したことがあるから、特集を組むことを許さないと言ったそうだ。完全に病気だよ。誰かが大江の批判を書いて、それを掲載したからといって、それがその雑誌の〈総体的意向〉であるわけがないじゃないか。誇大妄想と被害妄想は表裏一体だ。じぶんのことを少しでも悪くいうものは認めない。大江は「戦後民主主義」を表看板にしているけれど、実際は真逆で、排他的な王国の専制君主みたいなものだ。他者の権利や意見を尊重しないなんて、そんなもの、民主主義とは言わない。その昔、「吉本隆明をどう粉砕するか」という特集を組んだ雑誌『流動』や『マス・イメージ論』批判を三号にわたって特集した『日本読書新聞』などの〈組織的な攻撃〉とは明らかに異なるからだ。
松 田辺保に限らず、学会のしきたりが絶対と考え、あげくには翻訳したものをじぶんの〈所有物〉と見做す錯誤が罷り通っている。むかし新聞記事で読んだんだけど、『中原中也研究』という雑誌で、ある研究者が中原中也のランボーの訳には小林秀雄の訳の盗用箇所があるという文章を発表したとあった。それを読んで、おれはバカじゃないかと思った。ランボーの〈原詩〉は厳然と存在する。その翻訳は人それぞれであっても、訳の語彙が類似するのは当然だ。ましてや、小林と中原は長谷川泰子をめぐって三角関係に陥った間柄だ。こんなことを問題にする研究者も阿呆だが、記事にする新聞もその見識を疑うね。
猫 まあな、瀬尾育生がじぶんの文章をインターネット上で「引用」することも「言及」することも認めないと、『現代詩手帖』二〇一八年二月号で書いていただろう。
松 なにをトチ狂っているんだ。あらゆる言論は〈自由〉だ。おれが認めないのは〈匿名〉によるものだ。はっきり名告って発言するなら、どんな媒体に、どんな意見を〈公表〉してもいい。それ以外に〈原則〉はない。もし、その発言が根拠のないひどいものだったら、逆に批判にさらされ、炎上するだろう。もっといけば、名誉棄損で訴えられるかもしれない。言うまでもなく「拡散希望」なんて余計なことだ。いかなる発言も本質的には発言主体に帰属するからだ。そうでなくても、個の主体性はどんどん希薄化している、システム社会に吸引されて。自ら〈顔〉も〈身体〉も無い、亡霊のナレーターの位置に移行するなんてナンセンスの極みだ。そんなの、機能的な接続のひとつにすぎないさ。しかし、こんなことを言っても通用しない。なぜなら、多くはスマホで〈世界〉とつながっていると思っているからだ。〈原理〉は貫徹するとしても、現状はどうしようもない。瀬尾は、もし誰かがネット上で「引用」し「言及」したら、そいつを告訴でもするというのか。
猫 変な〈序列意識〉があるのさ。そりゃ、おまえなんか『現代詩手帖』みたいなところでは無名の存在にすぎない。しかし、世間全般でいえば事情は変わるかもしれない。だいたい、瀬尾も北川透も思潮社を持ち上げるだろう、じぶんたちが世話になっているから。だが、この会社は近年著者印税も払わないブラック企業のひとつだ。まあ、知っていて頬被りしているのか、そういうことに疎いのかは、分からないけどな。
松 瀬尾育生は藤井貞和と「湾岸戦争」をめぐって論争しても、すぐに妥協して、一緒に雑誌を出したりする。業界癒着の典型じゃないか。瀬尾はバカな排斥的な宣明をやるよりも、じぶんの発言や行為に最後まで責任を持つことだ。〈著者の許諾〉を得たかも定かでない、瀬尾育生責任編集『吉本隆明詩論集成』(全9巻・思潮社)の広告を『現代詩手帖』は何回も出した。それが霧散すると、今度は晶文社の『吉本隆明全集』が刊行中なのに、『吉本隆明アンソロジー』の計画をたて、別の出版社に持ち込んだ。これも頓挫した。この不始末をいったいどう思っているんだ。〈他者の著作〉に関与するのは、たいへんなことだ。じぶんの著書よりも配慮と尽力を要する。
猫 おまえは『宮沢賢治の世界』(筑摩書房)『追悼私記 完全版』(講談社文芸文庫)『ふたりの村上』(論創社)『地獄と人間』(ボーダーインク)『詩歌の呼び声』(論創社)と吉本隆明の本を作ってきた。いろんな人の協力を仰ぎながら。こういう本を作ることによって、吉本隆明の魅力が伝わればいいなあと思っているからだ。『宮沢賢治の世界』の場合でいえば、地方在住ということもあり、版元探しは難しい面がある。それと全十一講演のうち、「宮沢賢治の童話について」と「いじめと宮沢賢治」は音源の入手がどうしても必要だった。これも素人では困難だ。それで小川(哲生)さんに相談した。この本の実現は、おまえにとって自家発行の『資料集』とは別の可能性が開けたことを意味したんじゃないか。
松 それには絶対条件がある。それは〈著者もしくは著作権継承者〉に印税が支払われることだ。これが保証されない限り、どんな企画も成立しない。
猫 そうだな。中沢新一みたいに他人任せのお気軽ホイホイとは訳が違うからな。まあ、中沢は社会的身分と実績が補填するから、それでも通用するんだろうがな。大江健三郎のことでつけ足すと、息子がプールで溺れているのにブレイクの詩を口ずさむシーンがあっただろ。あれでいえば、わしらが庇って立たなければならないのは家族だけだ。わが子が危ない場面にあれば、身を挺してでも救うべきなんだ。それはいじめであろうが、不慮の事故であろうが、変わりはしない。一方、戦争などの非常時において、「祖国のため」とか「親兄弟を守るため」という心情はすべて共同幻想に吸収され、共同意思に転化される。だから、個人の意思や想いは無化される。それが逆立ちということだ。また自分自身が困難な局面に直面したら、どういう態度を取ろうと恣意性に属する。逃げようが、立ち向かおうが、妥協しようが、その時の判断でいい。おまえはパンクって言うだろ。パンク・ロックなんて重厚なクラシックの名曲に較べれば、雑音(ノイズ)の一種にすぎないかもしれないぜ。
松 うん。おれがよく聴いているアルバムはイーグルスの『ホテル・カリフォルニア』だ。その中にオーケストラの演奏が挿入されている。それは奥行のある豊かなものだ。しかし、詩の本質性のひとつである直截性ということでいえば、パンクというのは瞬時にハートを射抜く力を持っている。それは捨てがたい。北川透がレンガを積むように城壁を築いているとしても、その構築を支える思想の骨格が脆弱なら、現在的な一撃で瓦解するさ。あとにはガラクタが散らばっているだけとまではいわないけれど。北川透の「『最後の親鸞』という思想詩」(『飢餓陣営』三八号)でいえば、北川透は〈往相〉も〈還相〉も、親鸞の〈本願他力〉も、全く分かっていない。始めから終わりまで〈抽象のレベル〉がまるで違う。つまらない嘴入れただけの、こんなものが通用するとおもっているところが、その精神の貧困の証明なのだ。地下鉄サリン事件の時もそうだった。麻原彰晃やオウム真理教と真向かうことなく、「朝日新聞」に呼ばれて、野次馬的な見解を述べた。そんな自分をお粗末とは思わないのか?
猫 そうだな。遠藤ミチロウでいえば、「スターリン」というバンド時代の体を張った圧倒的な迫力に較べると、ソロになってからの活動は抒情的で落ち着いたものになった。全国あっちこっちのライブハウスをまわるのは体力勝負だからな。「スターリン」のようなやりかたしてたら、身が持たない。忌野清志郎ほどメジャーじゃなかったけど、根強いファンがいるからな。
松 やっぱりジャックスの早川義夫の影響は凄いな。遠藤ミチロウにしても、あがた森魚にしても、その出立には彼の存在があったといえる。ところで、岡井隆に関わることで、佐々木幹郎が『現代詩手帖』の岡井隆追悼号に、吉本・岡井論争において、岡井の主張に同意するみたいなことを書いていた。なんの根拠も示さずに。
猫 アーチストとしての共感からの発言なんだろうが、怠慢の誹りを免れないな。あの論争における吉本隆明の主張は散文的表現がもっとも現在的で、そこからすれば短歌は古典的な表現形式にすぎないと言ってるんだ。岡井隆はそれに抗することができなかった。もちろん、吉本隆明の論拠は準備された『言語にとって美とはなにか』の体系に基づくもので、それは表現史の歴史的展開に基礎をおいたものだ。これは思想的な問題にもつながっている。一般的なことばのひろがりは必ず高度な先端的な表現をも呑み込んでゆく。それは大衆の存在様式とつながっており、権力の移行過程とパラレルということだ。もっとあっさりいえば、佐々木幹郎は「狭い居住スペースに他人の本なんか置くところはない」と言ったことがある。これは実感に基づくもので、ちっとも悪い印象は持っていない。だけど、吉本隆明はじぶんの著書なんか手元に置いてなかった。主著ともいえる山本哲士らが出した「心的現象論」でさえ一冊も残ってなかった。おそらく全部、ひとにあげたり、古本屋行きだ。なんか、そんな違いのような気がする。
松 そういう意味でも『言語にとって美とはなにか』は多様な要素が含まれている。表現行為というのは、必ずじぶんの生きている時代の限界を突破しようという衝動をもっているから、現在の言語水準を超えるように働くことは当然だけどね。この〈形式と内容〉の問題を抜きに、あの論争を語ることはできないとおもう。岡井隆は晩年まで『記号の森の伝説歌』の原型である『野性時代』連載の「連作詩篇」に言及している。独特なこだわりだ。ただ、岡井隆は現代詩のなかでは吉岡実と谷川雁の詩を高く評価していた。そりゃ、吉岡の「四人の僧侶」や谷川の「毛沢東」は優れた作品だけど。これは自らが短歌を選んだことと通底している。しかし、岡井隆はその理解線を実作において突き破っていった。
猫 門外漢のくせに、そんなことを言っていいのか。
松 そうだけど、こんな雑文を書いていても、徹底的にやれば、少しは類推は利くようになるからね。「前衛短歌」と謳われた岡井隆の歌は、『家常茶飯』をみれば分かるように平明化している。一見、おれの言葉遣いとあまり変わらない。これは最初の吉本・岡井論争の、吉本隆明の指摘の実践ともいえる。もちろん、その過程では現代短歌史に屹立する作品を残していることは疑いないけれど。しかし、一般性でいうなら、塚本邦雄・岡井隆よりも寺山修司だろうね。演劇・映画など横断的に活躍したからだ。その中心は短歌だ。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)
猫 言いたいことは分かるが‥‥‥。
松 『記号の森の伝説歌』への論及で参考になるのは、石関善治郎の『吉本隆明の帰郷』と吉田文憲の「胎児の夢を乗せた「舟」と「文字」」(『吉本隆明詩全集6』「解説」)だ。『母型論』との関わりをはっきり示した。この詩集に対する評価はここからはじまるといっていい。おれも連載時からずっと読んでいた。最初の頃はモチーフをうまく引き絞ることができないで散漫な感じがしたけれど、しだいに白熱化してきて、「「無口」という茶店」あたりで頂点を迎え、圧倒的な作品になった。
「無口」という茶店のところで
乃木坂は黄昏にあう
粒になった夕日の肩に
髪の毛みたいに闇が流れ落ちる
うまく神話に触れてきた
ふるい村の話からはじまって ちょうど
いちばん辛い暗礁の日々まで
涙ぐむ祖母の肩を抱いて
もっとその奥にある
「無口」という茶店で
慰めている
さっきから
すすり泣きは 一瞬ごとに深い
言葉の終りまで沈んでいる
祖母はそのごとに若がえった
眼をまっすぐこっちにむけて
もうそのつぎのことだわよ 無言で
誘ってくる
界隈は額縁だけかがやいて
妙な袋小路のところでは
組み紐師の妾になった
神話の比売が祀ってある
はじめて祖母と出会ったのは
乃木神社のくら闇
「婚」の字をたくさん紙に刷って
いっせいにばらまいた 「帯子」という子が
いまはじめて女になった
そういいながら小走りに寄ってきた
がまんできないわよ わたしだって
母を産むまえに どうしたって
あなたと片をつけておかなくっちぁ そういいながら
たしかその日
祖母は乳房を晒布でおさえていた
(「「無口」という茶店」・ルビ省略)
猫 江藤淳に『一族再会』という作品があるだろ。あれは一族の行状を歴史に結びつけようとしたものだ。それに対して『記号の森の伝説歌』は出自の内在化といえる。江藤の描き方は一般的で通りはいいけれど、逆にいえば表層的で虚偽が混入する度合いが高い。これまでの通俗的な歴史の扱い方からすれば、そういう場面に登場する人物というのはろくでもない奴が大半を占めている。江藤淳はそのあと『海は甦える』という伝記物に手を染めたからな。生誕から死にいたるひとの生涯を考えると、生命の世代的な継続というのは、内在的で深く、それこそ親鸞のいう〈順次生〉ともいうべきものだ。この詩集はそこに基盤をおいている。「島はみんな幻」という詩が序詩にあたるといえるけど、「魚」や「鳥」や「樹木」というキーワードの解読は難しいとしても、目指されている地平は明瞭だ。固有にして普遍的といえる〈エロスの源泉〉をめぐる旅だ。通常は現在から過去へ遡行するけれど、この詩集の方法は逆で、生誕前の暗闇から、誕生がまるで死の出口をなすように展開されている。
松 いずれにしても、『記号の森の伝説歌』は『母型論』の達成に匹敵するものだ。それが吉本隆明の目指した〈普遍文学〉の方向性なのだ。同じようなところに注目している瀬尾育生についていえば、彼は花田清輝と吉本隆明の論争にふれて「問題の次元自体がすでに歴史的に消滅してしまった部分があり」なんていうだろう。確かに思想の展開と歴史の現状からいえばそういえるけれど、依然として日本共産党は残存しているし、その影響力もそれなりにある。党の方針として埴谷や吉本などの「反党分子」や三島由紀夫のような「反動作家」の書いたものは読むなという指導は貫かれていて、党に忠実な党員は愚かにもそれを履行しているだろう。つまり、瀬尾はその現実へ下降し、また思想の発展と深化へと転換するという、リアルな思考が欠落しているんだ。日本の左翼の動きの裏面には中国共産党の意向の影が大きく作用しているなどと言い出すと、話が逸脱する惧れがあるけどね。
猫 そういう言い方をしなくてもな、筑摩書房が呉智英の『吉本隆明という「共同幻想」』というゴミ本を出しただろ。この本の中味は呉智英がその昔、秋田書店が発行していた『プレイ・コミック』というコミック雑誌に、埋め草記事として書いたものをそのまま引き延ばしたものだ。業界の隙間に潜り込み、巧みに世間を渡る小利口者だ。瀬尾や加藤典洋みたいな高尚な方々は、こんな低俗な奴ははじめから相手にしないだろう。確かに志向性において決定的な差があるかもしれないが、それがすぐ隣に棲息していて、無知や俗情と結託することで、それなりに迎え容れられているのも事実だ。こういう雑多な要素を、じぶんの問題として払底するには不断に否認するしかない。誰もが相対的な存在にすぎないからだ。そりゃ、いまごろ花田清輝なんかを問題にしている連中をみると、バカじゃないかとおもうさ。無視して済むうちはいい。しかし、状況によっては避けて通れない局面だって生まれるはずだ。
松 瀬尾が「贅沢で野蛮な時間の使い方」と評した「いま、吉本隆明25時」のイベントに、呉智英は講演者として登場しているからね。こんな奴を呼んで来た主催者の一人もマヌケだが、本音を隠して、無内容なことを講談調で喋った呉智英もどうしようもない屑だ。
猫 要するに、対象的に不毛であるということはあるにしても、その不毛性というものはじぶんが克服したものでなければ、思想の血肉にならないということだ。例えば主題主義というのはいまだに滅亡していないし、その傾向性も一定の力を持っている。
松 抜刀斎でござるよ。そんなことより、おれ、考え直したことがあるんだ。初刊の『記号の森の伝説歌』(角川書店・一九八六年)なんだけど、この造本・装丁を杉浦康平+赤崎正一が手掛けている。これは評判が良くなかった。吉本さん自身も、これは「やりすぎ」と、そして、読む意欲を「相当な程度減殺される」と言われた。でも、デザイナーからすると、この長編詩を読んで、そこに流れるメロディを感じ、それを押し出したかったんじゃないのかな。それで「信貴山縁起」をフォーマットに、一行一行中揃えにして、背景にマッチした書体を用い、波動する譜面みたいな組みにした。最大の難点は、詩本文の文字が小さいことだ。この組詩は、誰かが曲をつけて、朗唱したら、おもしろいとおもう。この詩は、吉本さんの心の歌なんだ。
幻覚が完成したとき
着いていた
目的地は追放された者に はじめて
存在する
すべての陸地はうねりながら
揺れている
海だ
(連作詩篇「海」・松岡がアレンジ)
祖母からみれば
文字はみな
荒れはてた路の茂みに
捨てちまった子供たちの骨だ
(「祖母の字」・ルビ省略)
猫 それは一般的に、詩はみんなそうだという意味を超越して、ということだな。
松 うん。その後、原稿通りの天付きになったのは当然で、もう初刊に戻ることはないだろう。いま、おれが切実に思っていることをいうと、牛乳が飲みてえ。蕎麦が食いたい。魚では鯖がいちばん好きだった。ところが、近年食物アレルギーというやつで、全部ダメになった。信じられない。いつのまにこうなったのか、まるで分からない。おれだけの問題だったら、純粋の体質変化ということで済む。しかし、そうではない。これはいろんな要素が複合して、こんなザマに陥ったんだ。それを〈学〉のある面々にぜひとも解明してもらいたいと思っているよ。癌の手術で入院したとき、朝食に牛乳が出てきた。それで久しぶりに飲んだら、ものすごく美味しかった。ところが、顔がかぶれ、医師も看護師もドン引きとなった。症状はそれだけで、幸い体調を崩すことはなかったけれど。
猫 そうだな。花粉症なんて一般化したからな。山間地に生まれたから、家の垣根は杉だったし、家の後の風よけも杉の木が並んでいた。それで杉や檜の花粉なんていくらでも飛散していた。ガキどもは木に登り、枝を揺さくり、花粉を飛ばして遊んでいたんだ。そのころは花粉症なんてものは深窓の令嬢の病というのが通り相場だった。それがこの有様だ。まあ、総体的な環境汚染から食生活の変容までが影響しているんだろうが。
松 おそらく、もう元には戻らない。ゲリラ豪雨の頻発する日本列島の気象変化と同じように。
猫 政府は遂に新型コロナに感染した人でも、重症でない場合は自宅療養にするという方針を出した。これはふつうの人は死んでもいいということだ。無能の野党は、これに対して「中等症」については考慮すべきなどと迎合的なことを言っている。これまでのやり方から考えても、宿泊療養施設を拡充すればいい、それが自宅療養より良いことは分かり切ったことだ。こいつらはみんな棄民勢力であり、人殺しなのだ。
松 コロナ対策の政府分科会の尾身は、コロナの蔓延を「災害」と言った。ふざけるな。そんなことをいうなら、こちらは言うべきことは山ほどあるんだ。コロナ感染はもう2年近くも続いていて、政府は有効な対策をとらず、ワクチンの供給も遅れ、後手後手のごまかしの政策に終始してきた。そんな中、強欲IOCに従属しオリンピックを強行した(それに参加した選手たちを非難するつもりはない)。そのツケが一般大衆に及んでいるんだ。これは戦時下の疲弊状況に匹敵するかもしれない。
猫 その責任は全部、政府にある。そんなことは分かりきったことだ。テレビで他人事のように上っ面の戯言を並べる菅(首相)や小池(東京都知事)を見るのも嫌になった。うんざりだ。
松 おれたちはコロナに屈服しない。人類はアフリカに発生し、この地球上に分布した。その過程でさまざまな災厄や疫病も克服してきた。だから、いまわれわれは生きている。仮にコロナウイルスと共存することになったとしても、そこに派生する犠牲の強要や権利の剥奪を容認しない。政府が潰れたって、おれたちは滅びはしないからだ。
附記 政府の「原則入院は中等症以上でそれ以外は自宅療養を基本とする」という2021年8月3日の通達に対して、「陽性者は全員入院」という方針を掲げ実行したのは和歌山県だけです。
(『続・最後の場所』10号2022年2月発行掲載)
松 日本の文芸史において、アンソロジーというのは重要な位置を占めているよね。
猫 そうだろうな。『万葉集』からしてそうだからな。
松 吉本隆明さんの『思想のアンソロジー』ってあるだろう、あれはもう少し体調が良ければ違ったものになっていたような気がする。例えば、筑摩書房でやった『ナショナリズム』『国家の思想』みたいな。
猫 誰にも〈わたしのアンソロジー〉はあるからな。それは詩歌や思想書に限ったものじゃない。歌謡曲だってそうだ。よく利用している郵便局の隣に、元はスナックだった店がいまはカラオケになっていて、このコロナ蔓延状況であっても平気で朝から歌っているからな。たいした度胸というか、わが身に降りかからなければどこ吹く風って塩梅だ。
松 じぶんの好きな歌や流行りの歌をそれぞれの思いによって熱唱してるんだろうけど。おれはオンチだからカラオケ嫌いだし、歌うのは苦痛なんだ。だからカラオケのある店には行かない。酒を飲みながら、人と話をするのがいい。それでもカラオケのある店へ連れていかれ、仕方なしに歌う羽目になったら、岡林信康の「山谷ブルース」石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を歌うくらいだ。一度ザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」に挑んだけれど、まるでダメだった。
猫 歌うのが苦手だから、じぶんで詩を書くようになったのかもしれないな。
松 そんなの、あとづけにすぎないよ。思い入れの深い歌ってあるよね。ジャックスの「堕天使ロック」とか、あがた森魚の「赤色エレジー」とか。
猫 ジャックスの「マリアンヌ」からあがた森魚の「清怨夜曲」が生まれている。そういう継承と展開はどんなジャンルでもあるからな。
松 音楽関係は著作権にはうるさい。おれ、何度か文中に歌詞を引用して、余計な出費で雑誌の発行元や出版社に迷惑をかけたことがあるよ。なかでもヤマハだね。高い値段をふっかけるらしい。吉本さんが毎日新聞の連載「現代日本の詩歌」で、松任谷由美と一緒に中島みゆきの歌詞も引用しようとしたけれど、担当者が「ヤマハは使用料が‥‥‥」と言うので、やめている。
猫 ヤマハはやりすぎなんだよ。ことばは、その発生以来、話すことにおいても、書くうえにおいても、ずっと受け継がれたきたものだ。中島みゆきの歌詞だって、もともとは身のまわりに飛び交っていたものと、詩歌の伝承と、形式の踏襲のうえに成り立っている。もちろん、その表現は独自なものかもしれないけれど、すべてを超越した絶対的なものであるはずがない。ほんとうは占有権などない。利権と利害による逆立ち現象だ。この世には「差別語」などというものは存在しないようにな。それなのに朝日新聞あたりが良識ぶって率先して言語規制を行ってきたんだ。じぶんたちの首に縄をかけていることも忘れて。
松 じぶんのアンソロジーということでいえば、その初めの方にくるのは、鎌倉(諄誠)さんの詩だ。
自転車ではしる女はいいな
はしることをおさえた少年が
爪先で地面をつかんで歩きはじめるように
眠りはじめた風よりももっとかるく
過ぎさった思い出のうぶ毛よりももっとやわらかく
髪がはしる
車が流れる
衣裳がはしる
街並が流れる
おんながはしる
いっさんに
燦々と風景をひるがえし
紅潮したほおとすれちがいざまに傾いていくもののするどい角度のなかで
自転車ではしるおんなは
直立している
自転車ではしる女はいいな
(鎌倉諄誠「自転車ではしるおんな」)
この詩が『同行衆通信』に載った時はうれしかった。知り合いの女の人に見せたら「いいね」と言った。
猫 おまえの鎌倉さんへの思いはいろいろあるだろうが、当時の新左翼活動家の中では珍しく詩を大切にしていた、それが他の人たちと明らかに異なっていた。それが魅かれた最大の要因といえるんじゃないか。まあ、政治的なミス・リードは多々あったけどな。
松 おれはこのごろ思うんだけど、無理して新たな知見を加えることは要らないような気がする。復習することでも理解を深めることはできるからね。鎌倉さんに言及したものは少ない。『風のたより』の追悼号と関西の『BIDS』創刊号の垣口朋久の「忌避としての大衆をめぐって」、それに富山の埴野(謙二)さんの『寄せ木細工 街頭考』だ。
猫 おまえは毎日のように仕事が終わってから、和文タイプで『同行衆通信』の原稿を打ち込んでいた。そういう地味な作業を疎かにしなかったよな。じぶんが能力があるとか、頭が良いと思っている奴ってのは、そういうのを厭う。すぐに指導者や参謀的な立場に立とうとするんだ。そんなことは下っ端に任せればいいと考える。この前、三島由紀夫と江藤淳をこきおろしただろう。あれのつづきでいえば、三島由紀夫ってのは、なにはともあれ、じぶんで冷徹に実践した。ところが江藤淳の『海は甦る』をはじめとする一連の戦記物・政治放談ってのは机上の空論だ、海軍参謀気どりの。
松 まあね。ロシアのウクライナ侵攻によって、日本の政治家っていうのは、小プーチンさながらの安倍晋三を筆頭に、「非核三原則」の見直し、つまり核兵器の米軍との共同運用によって、防衛強化すべきなんだって言い出した。これまでさんざん北朝鮮の核開発を非難してきたくせに、北朝鮮の轍を踏むことになることすら頬かぶりだ。核兵器を所有してたって、そんなもの防衛力なんかになりはしない。国家間の力関係ってのは、要するに総合力なんだ。そもそも軍や軍事力なんてものは〈暴力装置〉のひとつにすぎない。しかもアメリカ頼みというところが笑わせる。
猫 江藤淳は所詮絵空事だが、安倍らの発言は実際的な弊害になりうるからな。やつらの妄言通りに、有事的事態が発生し、アメリカからの核兵器の供与で、核兵器を保有し、相手国を威嚇しても、無効だ。本格的な戦争になれば、狭いこの島国の原発がミサイル攻撃を受ければ、それだけでアウトだ。それにこいつらの言うことは国家利害と政治思惑による空想で、戦火によって逃げ迷う人々の姿など、その視野のどこにも入っていない。核兵器の所持なんかが戦争抑止力になるはずがないし、防衛の要になることもない。これを子ども騙しのバカ話というんだ。
アメリカは日本をアジアにおける重要な同盟国と位置づけていても、命運を共にするつもりなどないぜ。そんなことは分かりきったことだ。安倍が首相の時、その携帯電話がアメリカに傍受されていて抗議した事実ひとつをとっても。
松 プーチンはソビエト連邦崩壊以降、これまでも旧連邦内で幾多の軍事的制圧を繰り返してきたファシストだ。ウクライナにはじまったことじゃない。それを国際社会は放置してきたんだ。ヨーロッパと隣接するウクライナとなれば、放っておけないということで、全面対立の様相を呈しているけど、ドイツが参戦しないかぎり第三次世界大戦に発展することはないさ。
なにが問題なのかは、はっきりしている。ロシアの侵攻によって、多くの都市が破壊され、人命が奪われていることだ。そこでいえば、くたばれプーチンとおれもおもうさ。ほんとうにアジア的な呪詛の力があるというのなら、プーチンの藁人形に釘を打ち込むだろう。
猫 われわれはいろんな報道によるしかないんだけど、中国開催の冬季オリンピックの終了と同時に、ロシアが侵攻することは目にみえていた。それが確定的になったのは、ベラルーシとの合同演習、つまり連合軍を形成した段階だ。本気でウクライナを守ろうとするなら、NATO(北大西洋条約機構)は軍隊を国境周辺へ集結させたはずだ。その気はEUもアメリカもなかった。
プーチンがというよりも、ロシアはヨーロッパの幻影を振り切ることができないんだ。それが旧連邦内の軋轢として露出してきたような気がする。豊富な資源とミール共同体にみられるような農耕的な社会を基盤にして、独自の共同体をつくれれば、こういう苛酷な展開は回避できたはずだ。さらにいえば、ロシアもEUに加盟し、経済的な垣根を越える方途だって、ゴルバチョフやエリツィンの路線を推進していれば、その可能性だって全くなかったわけじゃない。ほんとうはヨーロッパの優位性なんて無くなっているのに、ヘーゲルの歴史哲学の指摘のように、先行するヨーロッパという神話に呪縛されている。だから、NATOというのは単なる陣取り合戦の勢力関係以上の陰影を含んでいるんだ。ロシアがこの宿命から脱することは難しい。プーチンは自国防衛のためといっているが、ウクライナを踏みつけて、あくまでもヨーロッパという〈幻〉やアメリカの〈影〉と対峙しようとしている。レーニンらのロシア革命によるソビエト連邦の形成がその切断となる可能性をもっていたけれど、スターリン以後失墜して、元の勢力図に回帰した。プーチンもそれを踏襲しているだけだ。
プーチンはソビエト連邦の崩壊がトラウマになっていて、その打撃と屈辱をはねかえし、あらゆる手段を使ってロシアの復活を目指した。そんなもの壊れたって、それぞれの地域が自立すればいいと考えることができなかった。あくまでも強大な帝国に固執した。それがウクライナ侵攻の暴挙の背景だ。
松 日本の支配層だって、大日本帝国の栄光を捨てかねているね。だから、半無意識的に南北朝鮮や中国よりも上位にあると錯覚している。その典型が安倍や高市早苗らだ。あの時期だけが圧倒的な中国の影響を覆したからだ。だけど、岸信介の大陸におけるアヘンをめぐる暗躍も含めて、その禍は日本総体に及び、太平洋戦争の敗戦にまでつながっている。その意味では、まさしく超A級戦犯だ。岸信介から安倍晋三に至る三代にわたる所業のせいで、どれだけの実害が生じたかを歴史家は検証したらいい。黄色い猿としての脱亜論なんて、後進意識の現れでしかないよ。そのうぬぼれをいまだに拭底できないんだ。だから、気分はいつでも高村光太郎の「根付の国」だよね。
そもそも、こいつらの民族意識から狂っている。こいつらは大和朝廷の成立が日本人のルーツと錯覚し、そこから日本の伝統が形成されたと思い込んでいるんだ。冗談じゃない。この列島は未開、古代から、縄文、弥生とたどる過程で、幾重もの混血で成り立っており、その起源は不明なんだ。それは遺伝子解析である程度は判明しているとはいえ、いまだに確定的なことはいえない。アフリカに人類が発生してから、その地域性と種族性を克明に追認することはいまの段階では無理だとしても、いろんなルートからこの列島にさまざまな人々が流入し、〈列島人〉は形作られてきたことは明白だ。中国の歴史書を模倣した『古事記』や『日本書紀』を鵜呑みにするなんて、無知もいいところだ。〈国生み神話〉に独自性が認められるにせよ、それはすでに存在している島々で、初期王権の勢力範囲を物語るものでしかない。それは日本は立憲君主制などという見当外れの認識と同じさ。建国記念日のようなものだって、昭和天皇の「人間宣言」によって、自ずから否認されているんだ。それを見ぬふりをして、またぞろ旭日旗を掲げようとしたって、どだい無理というものだ。
コロナ蔓延で疲弊したこの現状をみれば、こいつらの思惑通りになるはずがない。オール与党化の動きがリードし、どんどん戦争体制への誘導と傾斜が進むとしてもだ。柄谷行人が「世界共和国」なんて阿呆なことをいってるだろ、そんなことどころか、東アジア共同体の実現だって、夢のまた夢で、中国の台湾侵攻の方がはるかにリアルな問題だ。だけど、右往左往する必要はない。愚かな政党や政治家どもがなんと騒ごうと、おれたちは冷静に世界の動向を捉えて、世界史の現状を見据え、未明の構想を思い描くことができれば、さしあたってはいいと思っているよ。
猫 そうだな。ウクライナの立場が、プーチンがいうようにNATOの戦略によるものだとしても、ウクライナであろうが、他の地域であろうが、どういう共同体を作ろうと、どこと連携しようと、そこの住民の総意で、どこもそれを遮ることはできないし、踏みにじることは許されないことだ。古くはハンガリー、アフガニスタン、ポーランドとロシアは軍事的介入を実行してきた。それでも、今度のような総攻撃じゃなかった。だから、深刻なんだ。国内的には情報統制と弾圧によって、「戦争を内乱に」というレーニンのテーゼが通用する状況じゃない。経済制裁によって疲弊することはあっても、中国がそれに加担しないかぎり、ロシアの体制が崩壊することはないだろう。
本音はともかく、国連のロシア非難決議でそれぞれの国家意志は表明された。賛成一四一(日本・韓国など)、反対五(ベラルーシ・北朝鮮など)、棄権三五(中国・インドなど)だ。
松 そういう意味でいえば、べつにNATOが正しいわけじゃない。日米安保条約が決していいわけじゃないのと同じでね。アメリカはベトナムをはじめイラクやアフガニスタンを攻めて、それらの地域に対してやったことを思い起こせば、すぐに分かることだ。ものすごく話が飛躍したけど、どうしても大情況の世界情勢に引きずられるからね。どんな場合でも足が地についていないといけないんだ。軸足が宙に浮いたら、危ない。それさえしっかり踏まえていれば、たとえ判断を誤ったって修正できる。
猫 こんな話はだんだん虚しくなってくるな。まるでハレの日とか世界を揺るがすような出来事があるとつられて、ハイ(躁状態)になり、騒ぎ出す精神を病んだ人と同じで。まあ、このロシア認識はアンドレイ・タルコフスキーの代表作である映画『鏡』から得たものだ。
元の話に戻して、鎌倉さんの『センスとしての現在の根拠』のことをいえば、あれは深夜叢書社の齋藤愼爾さんが「松岡くん、『意識としてのアジア』につづく第二弾を出そうよ」と言ってくれたことによるものだ。それに応じて、「それなら、鎌倉さんの本を出してください」とおまえは言ったんだよな。
松 うん。齋藤さんはそれを承諾してくれた。おれとしては、そこまではどうしてもやりたかった。一緒にやってきた鎌倉さんの本が出れば、一応おれの役目も区切りがつくと思っていたんだ。
猫 本願成就ってことだな。
松 岐阜県多治見の伊藤芳博さんが現代詩人文庫の『伊藤芳博詩集』(砂子屋書房)を送ってくれた。その中からひとつ挙げる。
「これは何の映画?」
帰宅し部屋のふすまを開けると
飛び込んできた映像
航空機が高層ビルに突っ込む瞬間
に僕はネクタイを外した
「テロが飛行機をハイジャックして‥‥‥」
妻の説明を聞きながら
目には今日も
僕の画面が映し出される
僕の今日の授業は三年生にハイジャックされた
僕を「名古屋港に沈めてやるぞ」と脅した生徒は今日は欠席だった
僕の授業では今日はビールとつまみが売られていた
僕の教室は今日は携帯カラオケボックスだった
僕は今日も一人で教室掃除をした
僕が今日も給食当番だった
僕が僕が僕が
と今日も今日も今日も妻に言えず
テレビの画面をみていた
のだから
僕には教室に航空機が突入したように思えた
ビールだ!
世界戦争?
もう一杯!
死者何万人?
つまみ!
核が使われる?
もの凄いことが起こっていることは分かっているのだが
また航空機がビルに突っ込む瞬間の映像
見えなくなっている僕たちの現実
もうもうと吹き上がる噴煙
崩れ落ちるビル
またも航空機がビルに突っ込む
このやろう
どうなってるんだ
世界は
(伊藤芳博「同時多発テロ」・前半)
猫 ロシアのウクライナ侵攻は、あのアメリカのツインタワービルをはじめとする同時襲撃に次ぐ衝撃だった。あのアルカイダの攻撃はこれが二一世紀の幕開けだと思ったが、ロシアの侵攻は二〇世紀に逆戻りしたような感じがした。
松 でも、おれたちの反応というのも、即時的反撥にはじまり、さまざまな起伏を描きながら、日常性に帰着し、現状容認にいたるような気がする。それでも、この詩集の中にある伊藤芳博の父の詩のような、祈りは残る。
南方の島々の密林の中
今も終戦をしらない兵士がいる
その重い鉄かぶとを
脱がせてやってくれ給え
戦後十余年
なおのっかっている星章のゆがみ
白骨の兵士の頭からはなれない影
そのくさりきらない残酷を
脱がせてやってくれ給え
もう弾は飛んでこないと
その遠い耳にささやいてやってくれ給え
そして二つの眼窩に
敗れた国の貧しさがみのらせた
まっしろい米のひとにぎりを
サラサラと流し入れてやってくれ給え
ああ
その日がくるまで
終わったものは
世界のすみずみまで終わらせることのできる
その日がくるまで
(伊藤勝行「鉄かぶと」・後の5行略)
猫 そうだとしても、おれたちはつねに具体性のなかにいる。靖国神社に戦没者を祀って、英霊として讃えているというが、あんなもの、国に命を捧げることを至上のことのように謳いあげるものでしかない。この詩の祈りの深さに届きはしない。ほんとうの鎮魂とは、歴史的な過誤を反省し、人心を戦争の方位へ動員することをやめることだ。その意味では、靖国神社の存在は国家に殉じよというものでしかない。安倍や高市のような連中は、その政治的意向に添って参拝する。あれは戦没者の遺志を半分は踏みつけるものでしかない。明治維新の戦死者を祀った時はまっとうな哀悼を意味しただろうが、それをそのまま延長したことで、乖離は起こっている。
松 伊藤芳博の詩でいえば、おれは実際に夜間高校の生徒だった時も、そしていまも、ろくでもない不良でありつづけている。間違っても、教師や学校側に立つことはないさ。
猫 個々の教師に恨みはないが、学校に対する反抗を解消するつもりはないからな。わたしのアンソロジーという最初の軌道に戻したい。
松 心に響いた詩集ということでいえば、『中野重治詩集』だね。
辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する
李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母の国にかえる
君らの国の川はさむい冬に凍る
君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る
海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる
鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる
君らは雨にぬれて君らを追う日本天皇を思い出す
君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫背の彼を思い出す
ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる
ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる
雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる
雨は君らの熱い頬にきえる
君らのくろい影は改札口をよぎる
君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる
(中野重治「雨の降る品川駅」・前半)
この詩集は、「荒地」「列島」などの戦後詩以前でいえば、屈指の詩集だ。
猫 この詩の地点からいっても、日本共産党ははるかに後退している。象徴天皇制の容認を持ち出すまでもなく、思想的な原則においても、世界認識においても、状況分析においても。こんな連中になにも期待しているわけじゃないが、インターナショナルの模索も、日本の一般大衆の現状も心情も殆ど掬いあげる方法を知らない。「前衛」という思い上がりと囲い込みの組織戦術が枷となり、党を開くことができないからだ。だから、どこまでいっても支持率3%前後止まり。
松 韓国や北朝鮮、中国に対しても、独自の観点を持つべきなのに、自民党の見解と変わりはしない。「反米」という点だけが異なっているだけで。詩的創造ということにしても、中野重治を超えるような党員詩人は生まれていない。一九六〇年ごろまでは、谷川雁や黒田喜夫や関根弘などがいたけど、みんな、見限り離れた。その後、黒田三郎を呼び込んで「詩人会議」の会長に据えたくらいが関の山で、それが日教組センスの主題主義の限界さ。
平和祭 去年もこの刻牛乳の腐敗舌もてたしかめしこと (塚本邦雄)
猫 まあ、「民主文学」が看板だからな、そういう意味ではとうの昔に退場している。だけど、上野千鶴子みたいなのが延命の橋渡しの役割を担い、本人も頭を撫ぜられて悦に入っているからな。
松 プーチンの侵攻直前の国内向け演説のパワー・バランスじゃないけど、左翼バランス主義者ってどこにでもいるからね。マジで情況を切開する意欲がないくせに、辺りを見回して均衡を保とうとする。ほんとうは孤立することが恐いだけなんだ。おれたちはロシアも、アメリカも、中国も、そして日本もダメといいつづけるしかないさ。
猫 いまもウクライナでは戦闘がつづいている。わしらはこの戦争に乗ずる〈背後の鴉ども〉を、まず撃つべきなんだ。
松 よくもまあ、これほどの〈嘘〉と、こじつけの〈正当化〉ができるものだという感想を禁じ得ない。〈事実〉は〈立場〉によって、どんな解釈も可能なのだ。その空疎さが悲惨な現実を映す鏡じゃないのか。それに加えて、情報通の勝手な憶測と恣意的な見解が垂れ流されている。しかし、おれたちの望んでいることははっきりしている。実現の見込みは殆ど無いとしても、即時の停戦とロシア軍の撤退だ。
(『風のたより』25号2022年6月発行掲載)
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猫 二〇二一年の衆議院選挙は予想通りだったな。菅から岸田に表の顔(首相)を変えたことと、一応コロナ感染が収まりつつあるという、絶好の時期をとらえたところが自民党安泰の要因と思った。マベノマスクをはじめ、あれほどひどい後手後手の新型コロナ対策だったが、愚図の菅から岸田への過程で、総裁選をやったのも大きかった。派閥の争いとはいえ一応それぞれの利害と思惑が表面に出て、開かれた印象を与えたからだ。それに対して立憲や共産党は政権交代の機運などどこにもないにも拘らず、それを掲げたが相手にされるはずがない。またコロナに関しても、政府を批判するだけで、なんにもできなかったし、しなかった。われわれの無力とは異なり、彼等はより良い方法があれば提案することも実行を迫ることもできるのだ。共産党は開催直前になってオリンピック反対のデモを組織した。愚の骨頂だ。反対するなら誘致段階から反対すべきだ。コロナから人々を救うことが最優先事なのに、それすら忘れた方針を出したんだ。
松 勝ったのは維新だ。大阪での支持は絶大で、それに加えて、元代表である橋下が連日テレビに出て、わりとまっとうな見解を述べて広告塔になったからだ。これが比例区の得票につながった。
猫 岸田政権は長く続く可能性があるな。これからますますバカバカしい事態がつづくだろうが、これがいまの日本の〈現状〉であることを認めることだ。そのうえで、この一般的な状況に決して同化するつもりはないし、わしらは「否!」と言いつづけるしかないんだ。
松 成田昭男さんから『GenGen(げんげん)』二号(二〇二一年一一月発行)が送られてきた。その中の「わたくしのなしたる文芸的非法行為もしくは『最後の手紙』への返信」に、次のようなことが書かれていた。
むかし詩誌『菊屋』で毎年「菊屋まつり」を開催していました。その「菊屋まつり」(1986年10月19日)に吉本隆明氏をよんで、若手批評家たち(加藤典洋、竹田青嗣、橋本[ママ]大三郎)とのフリートークをしてもらおうという企画があがり、菊屋同人末席のわたしにもそこに出ろということで参加し発言しました。その全面的記録を『菊屋』34号、1987年2月で公表しました。
それから10年以上たって、これを『吉本隆明資料集』に無断で収録することがわかり、元同人の瀬尾育生氏から、わたしの考えを問う手紙がきました。わたしは二つだけ条件をあげました。「(1)原文のままの収録であること。(2)お金儲けにしないこと」。それが満たされるなら『吉本隆明資料集』への収録を認めていいのではないかと返事をしたように記憶します。
『菊屋』34号が出て、そこから15年近くたち、これを読みたいとねがっても、該当号は入手できないし、『菊屋』を所蔵している図書館などどこにもないでしょうから、それを収録した資料集が非法であったとして も、読者の切実な求めに応えるものになるだろうということは理解できていました。
これで、おれの北川透との闘いは終わったと思った。この一文でじゅうぶんだ。
おれはこの日が来るとは思っていなかった。北川透が非を認めることはないだろうから、どちらかがくたばるまで敵対関係はつづくと思っていた。なにか余程の事がなければ、もう北川透を標的に発言することはないだろう。
成田さんのお蔭でおれは解放されたんだ。
猫 客観的にいえば、「菊屋まつりフリートーク」における主催者側の発言者三人(北川・瀬尾・成田)の内の一人が収録を容認したということだ。
松 これをもって、名実ともに『吉本隆明資料集』は完結をみたんだ。
猫 思えば、長い道のりだったな。それを示せば、次のようになる。
(1)事前承諾なく『菊屋』第三四号掲載の「菊屋まつりフリートーク」を『吉本隆明資料集』第二五集(二〇〇二年九月二〇日発行・『資料集』の実際の印刷出来及び発送は「奥付の日付」よりも早い。以下同じ)に収録。
(2)参加発言者全員に送るという原則のもと、すべての発言者に発送した(どうしても本人及び著作権継承者の所在が不明の場合は断念。例えば一九六〇年の「技術者と哲学」における東京工業大学新聞部の二人など)。勿論、北川透、瀬尾育生、成田昭男、加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・小浜逸郎にも送った。
(3)北川透より抗議文が届く。それは同時に多方面に送付されていた(私の知るところでは、吉本隆明、芹沢俊介、浮海啓、高橋秀明ノなど)。(二〇〇二年九月二〇日)
(4)瀬尾育生より抗議文が届き、その文章を『吉本隆明資料集』に掲載せよとの要求あり。(二〇〇二年九月二四日)
(5)北川透の行為により、吉本隆明に迷惑が及んだものと判断し、お詫びの手紙を出す。
(6)吉本隆明より速達で返信(二〇〇二年一〇月七日消印)。
(7)瀬尾育生の要求に応じて、瀬尾「抗議文」を『吉本隆明資料集』第二七集(二〇〇二年一二月一五日発行)に掲載。
(8)『吉本隆明資料集』第二八号(二〇〇三年二月一〇日発行)挿入の「猫々だより」で、反論のコメントを付して北川透の「抗議文」を全文公開。
(9)この件は私の責任問題なので、誰も巻き込まないことを方針とした。従って吉本隆明からの手紙は公表しなかった。
(10)『吉本隆明資料集』が第一〇〇集(二〇一〇年一一月二五日発行)に到達したことを機に、吉本隆明の「手紙」を公開。
松 おれが「事後承諾」という手段を選んだ理由は、何度か言った通りだ。当時、おれは不当なリストラにより失職し、新たな職を求めるのは年齢からして困難を極めていた。そんな中、『吉本隆明資料集』の自家発行を思い立った。それは吉本さんの単行本未収録の著作から談話までの網羅を目指したものだ。
その最初に、『吉本隆明全著作集』(勁草書房)から除外された鼎談や座談会を対象にしようと思った。それで当然、それぞれの出席者から収録の許可を得ようと思ったけれど、参加者の中には吉本さんと対立する花田清輝から大江健三郎までが含まれていたから、収録を拒否されることも、また連絡しても、出版社でもない、誰とも知れない者からの依頼とみなされ、応答がないことも考えられた。そうなれば〈すべてを収録する〉という構想は頓挫する。これらの鼎談や座談会は既に発表されたもので、読みたいと思えば、労を惜しまず探せば読めるものだ。いわば公的なものといえる。
この総合的な判断のもと、おれは叱責を受けることを覚悟のうえ、発行に踏み切ったんだ。
猫 それから少しして、仕事は知り合いの斡旋でなんとか見つかった。『資料集』もおまえの懸念をよそに、大きなトラブルもなく第二五集まできたところで、北川透と瀬尾育生から抗議が来たんだよな。
松 北川透はおれへの抗議と同時に、『吉本隆明資料集』とおれを中傷する同文章をいきなり多方面に送った。
これはほんとうにきつかった。夜も眠れないくらいだった。そこまでやる必要がどこにあるんだと思った。
このとき、おれはどんなことがあっても『資料集』の発行は続ける、必ず北川透を実力で粉砕する、と心に誓ったんだ。
猫 そして、吉本さんにお詫びの手紙を出したんだな。
松 速達の吉本さんからの返信が届き、その信頼のメッセージと人間存在の本質に基づく〈根底的な弁護〉を読んだ時、これで絶対大丈夫と思った。
猫 そこからおまえは反撃に出た。まず反論のコメントを付して、北川透の「抗議文」の全文を「猫々だより」に掲載した。「抗議文」を秘匿することなく、読者に公開することによって、北川透の行為と思惑を相対化したんだ。
松 これによって『資料集』の購読を中止したのは二名だ。一人は公的な文学館の人で、協力者として名前を挙げていたので、立場的に事前了解なしの転載を認めることはできないからだった。もう一人は大学の研究者で、学会の慣行と常識に囚われていたからだ。
猫 そして、おまえは『試行』一六号から二八号までの復刻版を作り、『文学者の戦争責任』『高村光太郎(飯塚書店版)』を皮切りに「初出・拾遺篇」を継続発行し、第一〇〇集になったところで、すべてに〈決着〉をつけるべく、吉本隆明からの手紙を公表した。
松 この段階なら、もう吉本さんを直接的に巻き込む心配はないと判断したからだ。おれははじめから一人で引き受けると決めていた。
猫 そんなことは分かっているぜ。これによって、北川透の「抗議」は根拠を失った。なにしろメイン・ゲストが全面否定したんだからな。
松 それと同時に『資料集』とおれへの非難が無効化したのさ。
それで北川透は著作権にしがみつくしかなくなったんだ。それしかおのれの正当性を保証するものはないからね。
猫 あの「記録」の中には「わたし(北川)の重大な発言も含まれている」ってか。
松 その場合も『資料集』鼎談・座談会篇全二七集、収録座談会六五、発言者一四四名という総体からいえば、容認・黙認一四二対否認二(瀬尾を加えて)だ。〈表現行為〉には多数決というのは全く馴染まないとおれは考えるけれど、世間ではそういうふうに遇されるだろう。
また、北川が〈著作権〉侵害で告訴したとしても、裁判所は和解勧告を出し、おれの謝罪(「事後承諾」の非は最初から認めている)と、第二五集の頒価一〇〇〇円×発行部数三〇〇×印税率一〇%ヨ参加者一〇人(同時収載の「鼎談」の二名も計上)の支払いを命ずるだろう。つまり三〇〇〇円払えば終わりだ。吉本隆明の著書とみなせば著者五〇%、残りを九で割れば一七〇〇円足らず。
さらにいえば、北川は『菊屋』の発行者ではないから、〈版権〉を主張し回収を求めることはできない。それは瀬尾・成田ら「菊屋同人」全員に帰属する。「フリートーク」の録音のテープ起こしは、瀬尾夫人の荒尾信子がやったものだ。
おれはこういう居直り方は絶対しないけれど、これが客観的な観点からみた〈事のてんまつ〉じゃないのか。頭を冷やす意味では、こういう見方も知っていて悪くないさ。
猫 おまえのいちばんの反撃は、『快傑ハリマオ』に発表した「北川透徹底批判」「北川透の頽廃」だ。北川透の所業と思想を、反論の余地なく叩いた。
松 若月克昌とおれをめぐる北川透をいえば、若月克昌が『同行衆通信』二八号に発表した「菊屋まつり」の感想に文句があるなら、じぶんの雑誌をはじめ、いろんな発言場所があるんだから、公然と批判を行使すれば良かったんだ。それを恫喝的に手紙(私信)の形でやったことが、そもそもの〈間違い〉だ。
猫 それが全てのはじまりだな。
松 じぶんの守備範囲を少し離れるかもしれないけれど、成田さんの文章には、北川透が村上一郎宛に出した手紙を『VAV』二八号に掲載したことをめぐる齟齬も記されている。北川透は「最後の手紙」と称して、「あなたは友人であることを利用して、平気でこういう犯罪的なことをする人なのです」というメールを成田さんに送ってきたとのことだ。
ふつうに考えて、書簡の所有権は〈受信者〉にある。それを遺族が手放して、入手した古書店が売りに出し、それを購入したら、当然所有権は〈所持者〉に移る。従って、その書簡をどうしようと自由だ。仮に〈発信者〉に著作権の一部があるとしても、その所有権に介入することはできないはずだ。
おれの経験をいうと、六〇年安保のブンドの幹部だった常木守さん(吉本さんが「思想的弁護論」で弁護した人です)と少しだけ交流があった。常木さんが亡くなった時、常木さんが吉本さんについて認めた手紙を追悼の意味をこめて、「猫々だより」に載せたいと思った。それで手紙のコピーを添えて夫人に打診した。けれども夫人は、主人の言いたいことがよく分からないので、気が進まない。ただ、この手紙はあなたが受け取られたものなので、自由にしてください、という返事だった。おれは夫人の気持ちを尊重し、掲載を諦めた。
成田さんも北川透に公開の許可を求めている。それで少しの滞りを挟んで、北川透は「了解」している。それを覆すのは頭がおかしいと言うしかない。
猫 嫌な性格だな。
松 また書簡の公開を「犯罪的」といっているけれど、完全な言いがかりだ。リトルマガジンに、じぶんの手紙が載ったからといって、どんな実害があるというんだ。バカバカしい誇大妄想にすぎない。それよりも、〈一個の文筆者〉が公表した表現に対して、おのれの意に添わないからといって、「友人」であることをよいことに、メールでクレームをつけることの方がはるかに「犯罪的」だ。
猫 言い換えれば、若月発言をめぐる一件を、北川透はなんら反省することなく、同じことを繰り返している。
松 おれは「いま、吉本隆明25時」というイベント終了後、樋口良澄(元『現代詩手帖』編集長)に誘われて、編集者や詩人の集まりに行った。そこでいろんな人に初めて会ったんだ、小関(直)さんや間宮(幹彦)さんや佐々木幹郎などと。とても楽しいひとときだった。
それが散会し、品川駅へ向かう道すがら、瀬尾夫妻と歩きながら話した。おれが坂井信夫とケンカしていた時、坂井は念願の『現代詩手帖』に登場した。その坂井の批評文を、次の号で瀬尾育生が批判した。これは坂井とおれの応酬を見据えたものだった。そういう距離のなかで見ていたんだ。「菊屋まつり」の話も出た。荒尾さんは若月の一文に怒っていた。ちゃんと見ても聞いてもいないと。
猫 おまえはその日、奥村(真)さんがよく出入りしていた新宿ゴールデン街の「トートーベ」へ行った。そこのマスターが「菊屋まつり」に行っていたという話になり、感想を聞いた。彼は若月さんとほぼ同じ印象だと言ったんだよな。
松 うん。おれにとって、あの品川のイベントの収穫は大きかった。藤井(東)さんや宿沢(あぐり)さんと会ったのもあの会場だったし、伊川(龍郎)さんとの交流の契機にもなった。また埴谷雄高がらみの出来事もあった。北川透から「若月克昌批判の手紙」が、おれに届いたのはその後だ。
猫 それとは別に、成田昭男は若月克昌の事実誤認を指摘するために『菊屋』三四号を若月に送っている。若月はそれに基づいて『同行衆通信』二九号に「訂正文」を出した。
松 この一件でも、北川透の錯誤行為がなければ、こじれることも、険悪な対立に至ることもなかったんだ。
猫 そうだな。要するに北川透は〈貧相〉なんだよ。それで魂の深さも肝の太いところもない。
成田昭男のことでも、あなたの〈善意〉はよく分かります。身銭を切ってわたくしの書簡を入手してくれたうえ、『VAV』で紹介してもらい、若き日のじぶんに出会えてよかったです、といえばいいじゃないか。それで「100%了解」したんじゃないのか。
北川透のやり口は、なにかあるとイデオロギー的に過敏に反応し、党派的に敵視する、独善的な日本共産党そっくりだ。そのくせ、おまえへのお門違いの手紙の非を認めることも、ましてや〈詫びる〉こともない。それどころか、おまえの反論を逆恨みして、「フリートーク」再録を〈仕返し〉の絶好の機会ととらえた。それが「抗議文」ばらまきの〈動機〉だ。
松 『VAV』と成田さんのことで附け足すと、ある時、吉本さんと話していて、吉本さんが「松岡さん、いまもっともおもしろい同人誌は名古屋の陶山さんたちが出しているものです」と言われたことがある。その時、おれは『VAV』を知らなかった。
それからかなり時が経過して、脇地炯さんや浮海啓さんなどの同誌への寄稿者から送られてくるようになった。そこに載っているバックナンバーの目次をみて、それが陶山幾朗が内村剛介にインタビューしていた頃を指していることが分かった。いや、これは違うかもしれない。その前に一度、成田さんから『VAV』を送ってもらったことがあったような気がする、その返信で、吉本さんの話を伝えたような記憶があるからね。
猫 吉本隆明の読書量は凄い。送られてきた本や雑誌が足の踏み場もないくらい積まれていたからな。
松 『GenGen』二号に添えられたコメントによれば、成田さんはいま「老、病、孤舟有り(杜甫)」という情況とのことだ。
おれはできるならば、成田さんに「陶山幾朗の仕事と人」について書いてもらいたいと思っている。それができるのは成田さんしかいないように思うからだ。もうひとつ、欲張りな願望をいえば、成田さんは中国語に通じているようだから、吉本隆明『転位のための十篇』の「火の秋の物語」の中国語訳に挑んでほしい。
猫 その後、北川透はどんどん孤立していっただろう。
松 ああ。かつて盟友であった松下昇を「狂人」といい、菅谷規矩雄のことを「アル中」と侮蔑するような言動に及んで、心ある人々の顰蹙を買った。菅谷規矩雄が深酒に陥ったのは、吉本隆明と埴谷雄高が決裂したことを契機にしたものと思われる。六〇年安保世代にとって、二人は精神的支柱だったからだ。齋藤愼爾さんは『埴谷雄高・吉本隆明の世界』というムックを作ることでこれを克服したけれど、菅谷規矩雄はできなかったような気がする。この事情を汲めば、あんな冷笑的な口吻はあり得ないはずだ。
猫 末期症状だな。それはわしだって、悪口(あっこう)が先に立ち、仲違いした人物は数々いるさ。しかし絶交したからといって、過去に遡って、一緒に遊んだことや楽しく酒を酌み交わしたことまでを、塗りつぶすつもりはない。そんなことをしたら、じぶんがみじめなだけだ。
松 北川透は序列意識が強く、磯田光一にふれて「大関」と言ったことがある。大相撲の「番付」に譬えたんだ。吉本隆明と江藤淳を「横綱」に想定していることが見てとれた。それはそれで一つの見方だが、鮎川信夫・吉本隆明・大岡信亡きあと、じぶんが最大の詩論家であると自認しているだろうから、松岡などという「序の口」以下を相手にするつもりはないと、いまだにタカをくくっているかもしれない。その侮りと驕りが、年来の友人や知人をつぎつぎと失うことにつながっているのさ。これら全て、自らの所業が招いた〈末路〉だ。
北川透が「私は中日文化賞を受賞した文化功労者だ」と言い張っても、そんなもの、おれからみれば虚しい勲章にすぎない。おさらばだ。
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猫 ところで、発端となった若月克昌はどうしているんだ。蚊帳の外ということはないだろう。
松 北川透の最初の手紙は若月に転送した。あれが残っているとおもしろいんだけど、たぶん捨てたんじゃないかな。あんなものを持っていたら気分が悪いだろうし、支離滅裂な錯乱の式神に変異するかもしれないからね(笑)。
『風のたより』二四号の若月克昌の小説「カレーライス」を読んで、北川透のヒステリー症も、むきになったおれの対抗も、日常的な業務の中に折り畳まれているような気がしたな。上司に「危機管理研修の報告書」の作成を命じられて、好きなカレーを味気なく食べて、メモリーを持ち返り、電気屋へ行って、プリンターを購入し、処理するストーリーだ。その過程に、この間のトラブルの要素は全部は取り込まれているようにみえた。作業が終わり、「何を食べよう? 近くの牛丼屋と中華料理店のメニューを思い浮かべる。//違うな。カレーだな」って、いうんだよね。
猫 若月克昌の佳作の勝利。おまえの解釈と鑑賞からするとそうなるということだな。でもな、若月の小説は設定が任意的で、無意識の流れがベースだ。楽曲のように創作されてる。言葉はメロディで、いわばビートルズの「ア・ハード・ディズ・ナイト」みたいなものだ。思索の幅を大きくとれば、その無意識のうちに、そういう要素も孕まれているっていう以上じゃないな。
松 揉めている事態から遠ざかることは悪いことじゃない。相手に対する反撥や嫌悪に領されることがないからね。それが〈開く〉ということだ。世界は深くて広い。詩壇や商業詩誌の範囲で、詩や文学をみていたら、勘違いの元だよ。
猫 おまえの「『この世界の片隅に』をめぐって」に関連する資料を川村寛さんが提供してくれた。
NHKで8月9日、こうの史代原作の映画「この世界の片隅に」、続いて13日には「あちこちのすずさん」の放送があり、しばし「高知のすずさん」の思い出に浸っておりました。
高知のすずさんー15年ぐらい前、母が私に「史代から電話があり、今度出版する本の主人公名を、自分の名前の中内鈴子の鈴より頂いて『すず』にするという報告と、戦前教員として生活していた軍港の街(広島県) 呉市の様子などを詳しく聞き取りがあった」と話しました。「この世界ノ」の「すず」はこうして生まれたと 思われます。
高知のすずさんは、こうの史代の祖母、史代は私のめいにあたります。史代は、広島大学理学部を両親に無断で中退し、好きな漫画の世界に入ったようです。当初は苦労があったようですが、「夕凪の街 桜の国」に続き第2弾として映画化され、皆さまに知っていただけるようになり頑張っております。
高知のすずさんは戦前戦後、女子中・高の体育教師を勤め、退職後は悠々自適の生活、初夏には安田川のアユをほおばり生ビール、スナックバーでジンフィズのグラスを傾ける96歳でした。あちらに旅立って8年になります。
(飯田美智子「高知のすずさん」『高知新聞』二〇二〇年八月二五日)
松 こうの史代が高知県にゆかりがあるとは知らなかった。それが世間の広がりというものだ。
こどもの頃から大きな影響を受けた白土三平が亡くなり、大島弓子が「文化功労者」に選ばれたのにはびっくりした。大島弓子はその連絡(打診)が吹き込まれていたのを聞いて、「オレオレ詐欺」かもしれないと思ったそうだ。
猫 そうか、あなたはこのたび「文化功労者」に選ばれることになりました。つきましては何百万円お振り込みください、という手のやつと。
松 それで大島弓子が出版社に連絡したら、編集部も知らず調べてみますという返事だったとのことだ。それくらい、そういうこととは無縁だったということだ。彼女は何も変わりはしないだろう。おれは本棚から『大島弓子選集』を取り出して、読み返した。「誕生」や「ミモザ館でつかまえて」、「四月怪談」や「棉の国星」、「7月7日に」や「サマータイム」、宮沢賢治原作の「いちょうの実」などだ。
猫 たぶん萩尾望都の尽力だろうな。
松 好きなシーンをひとつ挙げると、『いちご物語』の中の、全子が幼馴染の林太郎の気持ちがいちごに傾いてゆき、全子は初恋にさよならを告げる。それでも学校の当番の日、教室に林太郎と二人でいることが辛くて、用事があると言って先に帰る。「こんなとき 去年の今ごろは 新しい緑の中を 二人でかえったわ」「のどがかわいたときは とちゅうのパーラーで ソーダ水をのんだわ おなかがすいたときは ハンバーガーも 立ってたべたわ」「いやいや 全子 はやく わすれなさい 新緑も西日も ソーダ水も ハンバーガーも‥‥‥」と思いながら。そこへ日向温がやってきて薔薇の花束を手渡し、「かかえてごらん ばらをかかえると どんなときでも 楽しくなるよ」といい、「いざぎよしは この一番咲きのバラにも おとらなかった」と慰めるところだ。
一方、白土三平は〈反差別〉という基調を作ってくれた。おれはその基調が、いわゆる「福祉」に取り込まれない〈境界〉で突っ張るしかないと思っているよ。立派な人なんだろうが、おれ、宮城まり子みたいの、好きじゃないんだ。
猫 それは思想のセンスの問題だな。往相というのは自然過程だよな。
松 うん。還相というのは、その解体ともいえるからね。
猫 おまえ、講談社文芸文庫として刊行された吉本隆明著『憂国の文学者たちに』について、この機会にふれておいた方がいいんじゃないか。
松 あれは、おれが書名から著作の選択、配列まで全部やったんだけど、あの文庫本を作ったのには事情というか、経緯があったんだ。それをいうと、雑誌『情況』が吉本隆明追悼号を出すに際し、友人の金廣志を通じて、協力の要請があった。それでこの雑誌の傾向からして、吉本隆明の六〇年安保と全共闘に関する著作の再録と、安西美行、松本孝幸、長谷川博之、北島正による追悼文の寄稿、宿沢あぐりの「著書年譜」の掲載を提案したんだ。この提案は了承された。おれもそれを踏まえて書くことになった。
猫 あの時の『情況』の編集長は、金廣志を介して一度会ったことのある、第二次ブントの戦旗派のリーダーだった大下敦史だよな。
松 これが何事においてもアバウトで、しかも身贔屓の親だった。実際の誌面をみたら、吉本隆明の再録もおれの推薦した人たちも、みんな三段組みになっていて、編集部とつながりのある愚鈍な最首悟や糞の友常勉などは二段組みだ。そのうえ、原稿料も編集費も無しなのに、おれの紹介した寄稿者には掲載誌すら送ってなかった。
猫 それはひどいな。
松 それでおれが文句を言ったら、みんなに送ったんだ。二段組みと三段組みの違いなんて、そんなことに拘らないものからすれば、どうでもいいことだ。安西さんみたいに三段組みが好きという人もいるくらいだから。しかし、業界の一般性からいえば、紙幅の都合があったにしても、その扱いの差別性は歴然としている。『試行』を例にすると、村上一郎が割り付けをやっていた時代には三段組みがあったけれど、吉本隆明単独編集になってからは、掲載する以上はみんな〈同等の扱い〉にするという方針のもと、全部二段組みだ。そういうこともあって、おれとしてはちゃんとした「六〇年安保・全共闘論集」を作りたかった。もうひとつ言っておけば、あの『情況』は完売だ。
猫 それで今度は逆に、版元探しを金廣志に依頼したんだよな。彼からたどりたどって、刊行の見通しが立ったということだな。
松 うん。書名は通常なら「擬制の終焉」だろうけど、文芸文庫ということもあって『憂国の文学者たちに』にしたんだ。この東京大学新聞に掲載された文章については、齋藤愼爾さんが言及したことがある。その示唆に拠るものだ。『情況』に再録された六篇に、七篇を増補した全一三篇の構成だけど、巻頭の詩「死の国の世代へ」は最初から確定していた。いちばん悩んだのは、結びの「革命と戦争について」だった。これは『甦るヴェイユ』から抜粋だからだ。吉本さんは当初『試行』終刊の時の直接購読者への寄贈本にしようと考えていた。この話は聞いていた。けれど、小川哲生が『吉本隆明全集撰』の中断によって、会社を退社し、新たな出版社に就職したのを応援するために、この論稿を提供したんだ。だから、吉本さんにとって重要な著作だ。それから一章だけ抜粋するのはためらいがあったけれど、吉本さんのモチーフを考えると、これがもっともふさわしいと判断したんだ。
猫 おまえがリアルタイムで立ち会ったのは、一九七二年の「思想の基準をめぐって」以降だな。「思想の基準をめぐって」はインタビュー形式の叙述がなされているが、『どこに思想の根拠をおくか』の編集担当者の間宮幹彦の質問事項に、書いて応答したものだ。
松 うん。間宮さんから聞くまで分からなかった、だから『インタビュー集成』に入れたんだ。それまでの軌跡を総括したものといえる。また吉本思想の分水嶺にもなっている。これをベースにして、思想と現実の接点をたどるように、それ以前の論考も編んだ。
猫 主体への引き寄せ、それが鹿島茂の「解説」の扱い方との差異だな。
コロナ感染の間隙をぬって、幸徳秋水の墓前祭に東京からやってきたTさんという人に会った。彼は地方・小出版流通センターでアルバイトをしていた時に、深夜叢書社の実務のいっさいを引き受けていた入江巖さんから、『意識としてのアジア』を貰ったそうだ。それ以来、おまえの書いたものはずっと読んでいるとのことだった。入江さんをはじめ共通の友人や知人が多く、話は盛り上がった。大下敦史の話も出た。大下さんはバロン吉元の『柔侠伝』のファンで、娘の名前を「朝子」にしたそうだ。これは意外だったな。
松 『柔侠伝』には熱烈な読者がいたからね。『TBS調査情報』の榎本陽介さんやあがた森魚もそうだった。安西美行さんがバロン吉元のアシスタントをやっていて、バロンは風吹ジュンと対談して、舞い上がり結婚するんだと言っていたらしい。たしか九州のどこかで仕事をしていて、仕事の合間に安西さんがボートで海にでて、沖へ流され出し、漕いでも漕いでも陸から遠ざかり、波に呑まれて遭難しそうになったそうだ。潮の流れが読めなかったこともあるけど、それ以上に対処方法が間違っていた。引き潮に逆らって岸を目指すんじゃなく、むしろ潮の引きに添って、横に逸れることが必要だったと反省していたな。その時、バロンに物凄く叱られたと言っていたね。
舳先は常に波に対して直角に立てる。
横っ腹で波を受けては危ない。
水を掻くのはオールの先端だけで充分だ。
オールが半分以上濡れているヤツはシロウトだ。
オールの角度は舟に対して90度まででいい。
めいっぱいうしろに振るのは力のムダだ。
波を乗り切るだけじゃない。風の向きと大きな潮の流れにも気を配れ。
これは比喩でも何でもない。
まだ中学生だった私が、父から生涯唯一手取り足取りたたき込まれた、“貸しボート屋の息子”直伝のボートの操り方だ。
(吉本多子「吉田さんの写真集に寄せて」)
猫 『柔侠伝』は『昭和柔侠伝』『現代柔侠伝』の三部作なんだが、そんなに大ヒットしたわけじゃない。いわばプロレタリア文学のマンガ版といえる。あの頃の『漫画アクション』はなんといっても『嗚呼!!花の応援団』、オメコオメコと草木もなびくの青田赤道だ。バロン吉元も『巨人の星』の川崎のぼるも、マンガをやめて、画家になった。画家になって成功したのは『ガロ』に何作か投稿した藤井勉だな。川崎のぼるは貸本漫画の衰退期、栄養失調の餓死寸前だった。出版社に拾われて寮(寄宿舎)に入所している。そこで『大平原児』なんかを画いて食い繋いだ。あ、話が流れているな。
松 どんな話をしたっていいのさ。
猫 長崎県の西村和俊さんがおまえの詩に言及していたぜ。
丸太足場の上から
見下ろすと
高さは足下にあった。
(松岡祥男「仕事」)
あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景‥‥‥
悲しみの彼方、母への
捜(さぐ)り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)。
(吉田一穂「母」)
午前一時の深海のとりとめない水底に坐つて、私は、後頭部に酷薄に白塩の溶けゆくを感じてゐる。けれど私はあの東洋の秘呪を唱する行者ではない。胸奥に例へば驚叫する食肉禽が喉を破りつゞけてゐる。然し深海に坐する悲劇はそこにあるのではない。あゝ彼が、私の内の食肉禽が、彼の前生の人間であつたことを知り抜いてさへゐなかつたなら。
(伊東静雄「空の浴槽」)
この三篇を引用して、次のように言っている。
いずれも短い詩だが、それなりに完結している。もちろん、さらに展開していくことも可能である。松岡祥男さんの詩「仕事」の場合はどうだろうか。完結しているとみることも、さらに展開していくことも可能だと思う。/
この三行を今から続いていく詩の出だしと見るならば、〈わたし〉は、建設現場あるいは工事現場の高いところにいる、ということになる。たぶん、そのように軽く読み流して、次の詩句へ読み進んでいくと思う。しかし、これは三行の詩として独立させてある。つまり、この三行で自立的な表現として主張し得ると作者は判断していることになる。/
詩作品の中の〈わたし〉は、言葉を書き記している作者そのものではなく、三浦つとむの把握を借りれば作者の観念的に対象化された存在である。言いかえれば、作者によって派遣された物語世界の語り手や登場人物たちのように表現世界という舞台に立って感じ考え行動する存在である。その場合、〈わたし〉の感じ考えることは、作者や時代の大気のようなもの[の]影響下にあることは確かである。だから、詩作品の中の〈わたし〉をよく知るには、作者について知る必要がある。/
〈わたし〉のいろんなことがわからないなら、読者にとってすれちがいも起こり得る。〈わたし〉は、この仕事にすでに十分慣れているのか、まだその仕事に就いたばかりであるのか、それぞれによって「高さ」の感覚も違ってくるように思われる。この詩が収められている詩集『ある手記』の「あとがき」は、1981年12月とあるから、詩作品は三十歳位かそれ以前に書かれ、表現された言葉のきっかけになる作者の体験もその頃かそれ以前ということになる。/
この一つの作品からはむずかしいが、この詩集『ある手記』全体の流れを踏まえると、日々思い、悩み、振る舞う〈わたし〉には不可解に感じられるこの世界、しかしそれでもそんな日常のささいに見える場面に〈わたし〉の生の場所はあると感じ取られている。誰でも気ままに心穏やかに日々生きていきたいのに、人は家族を出ていろいろと張り巡らされたクモの糸のようなこの世界に出て行かなくてはならない。そうして、生きつづけるならば何らかの自分の場所というものを獲得していかなくてはならない。/
作者が、日々の仕事で丸太足場の上から見下ろすことは何度もあったに違いない。そうして、ある時ふとそのことの意味に突き当たったのである。この作品で〈わたし〉は、日々の自分の場所に内省的に出会っているのだと思う。/
わたしは1、2度位は鉄パイプで組まれた足場の上に上ったことはある。しかし、その上で仕事することのない人々は、下から足場を見上げ、その高さを感じることになる。その高さは何メートルということに言い直せる客観性を持ったものと思われるかもしれない。また、その高さに届きがたい感受があって、うわあ高くて恐そうだななどの印象も伴うかもしれない。それはひとつの「客観性」とそれに伴うものであることは確かだ が、それが高さにまつわる客観性の全てではない。この詩で〈わたし〉が高さを感じ取って足場を踏みしめている、これもまた、足場の外からではなく内からの「客観性」とその感受であると言うことができる。/
この短い詩もまた、〈わたし〉はそんな場所で日々仕事をして生きているんだという、先に述べた、この社会や世界で十全に生きたいという願望を潜在させた〈自己慰安〉としての〈歌〉と見なすことができるように思われる。/
言葉は、長ければ良いということはない。もちろん、長ければいろいろと複雑なイメージも展開も盛り込めるということがあるが、校長の長い中身のない話のようにうんざりすることもある。したがって、表現された言葉の長短に表現の価値の大小はない。短くて鋭く刺さる言葉もあれば、長くていろいろとイメージの旅でもてなしてくれる言葉もある。/
最後に、松岡さんの詩でわたしが気に入っているものをひとつ挙げておきたい。初めて読んだ時には、「ランボーの「銘酊船」(「酔いどれ船」に触発されている?)とメモしていたが、ランボーのその詩がきっかけだとしてもひとつの自立した独自の表現になっている。これは、自分を慰めるという意味の強い〈自己慰安〉としての〈歌〉ではあるが、たぶん誰にも思い当たることがあるような普遍的な心の場所からの表現になっていると思う。
破れ船
ひとりの深みから
未明の空見あげると
ながれる白い雲
胸ひらき
からだを解いて
すこしなら唄ってもいいか?
雨の日の噴水が好きだ
誰もいない公園も悪くない
水浸しはいい
おもいっきりぬれるんだ
酒精が踊る
よっぱらいはすてきなんだ
ゆらぐ歩道と街がたまらない
ふらつく足が偉大なのさ
唄ってもいいんだよ
いのるすべもしらず
すがるものもないのなら
(西村和俊「詩の入口から(2)」、注・行アキ箇所ツメ)
松 いやあ‥‥‥、なにもいうことはないよ。じぶんの貧弱さに俯くしかない。
猫 おまえ、金魚の糞みたいに見做されることが何度かあっただろう。
松 ああ。もろにそう言われたことは二度あるよ。一回は夜間高校の部落研のリーダーの嶋について、隣の学校で臨時の事務員をやっていた同じ夜間の女の子を訪ねた時だ。奨学生同士のやりとりがあって、おれはただ傍らにいただけだけど、その子が「どうして、こんな人がついてきているの」とあからさまに言った。もうひとつはアパートの隣の部屋に住んでいて、いつも酒盛りをしていた石井さんと一緒に、詩の同人誌をやっている奴と喫茶店で会った時だ。石井さんとそいつが文学や同人雑誌について意見交換をしたんだけど、おれは黙って聞いていた。そしたら、その男が唐突に「こんな何も分からないようなのが一緒なんだ」と。
猫 賢そうにも才気があるようにも、まるで見えなかったんだろうな。おまえはそれに対して、どう思ったんだ。
松 べつに。そういうの、慣れてたからね。
猫 しかし、覚えているってことは、引っ掛かっているんだ。逆のケースもあっただろう。
松 うん。建設現場で働いていた時、別の美装屋と組んで仕事をしていて、休憩時間におばさんのひとりがおれのことを「この子は、きっと何かやる」と、みんなに言ったんだ。おれのなにをみて、そう思ったのかは知らないけど。
猫 それは‥‥‥。
松 じぶんではよく分からないけど、風貌や振舞から、そんなふうに映ったんだろうね。
猫 主観と客観の〈空隙〉の鏡のひとつだな。だけど、そんなことはなんでもないぜ。要するに『ガロ』を創刊した長井(勝一)さんが小柄ということもあって、用務員のおじさんと思われたことと同じじゃないか。
松 むかし北島正さんが心配してくれたんだけど、職場で苦しい立場に追い込まれていたら、嫌でも険しい顔つきになるよね。そんなことはじぶんではどうしようもない。
猫 リストラに遇った時期だな、それも階級的表象かもしれないぜ。
松 ひとつだけ分かっていることがある。新生児が産声をあげ、ことばをしだいに習得してゆくように、書くという行為においても、習熟過程がある。それはとても不自由なもので、ふつうに話しをする分には、じぶんの思っていることや考えていることを伝えることができる気がするのに、いったん〈書く〉という過程に入ると、たどたどしく、まっとうなものにならないんだ。それが話し言葉と書き言葉の断層だ。おれの願いは、ふだん話しているように、書くことのうえでも自在に表現したいということだった。それで表現手段は〈詩〉しかなかった。しかも、一年に数篇だった。
高知大の全共闘で新聞記者になったトシアキが、おれの『同行衆』に載ったものをみて、「止めたら」と言ったからね。
猫 世間に通用するレベルになかった、その見込みもないということだな。
松 自己表現の〈衝動〉自体は普遍的なもので、誰でも持つものだ。歌うにしろ、描くにしろ。
猫 春の夢のように消えてしまうにしてもな。結局は鎌倉(諄誠)さんだな、そんなおまえを見捨てなかった。おまえの場合、その落差が激しいのかもしれないな。なんで、こんな奴を吉本隆明や小山俊一などが評価するんだろう。じぶんの方がずっと知識も才能もあるし、人格においても優っているのにと思っている面々は大勢いるだろうし、おまえはそういう場面に直面したこともあったよな。
松 そんなことは問題じゃない。要は始まりがあって、それなりの起伏があり、いかに終わりまでまっとうするかだ、それが〈世界〉と向き合うことなんだ。そこでは持続と展開、初源性と現在性、原理性と位相、それが文学と思想を貫くものと思っているよ。
新聞社の偉い手になったトシアキと二〇年ぶりくらいに偶然会ったら、「松岡、いいぞ。おまえの連載はおもしろい」と言った。その時、おれは基本的には何も変わちゃあいないと思ったけどね。
そんなことより、おれ、詩集をプレゼントされたことがある。ひとつは『同行衆』のメンバーだった筒井さんが原油基地反対運動で現地へ赴く時、新潮文庫の『伊東静雄詩集』を餞別にくれた。もうひとつは宇和島にいた小山俊一さんを訪ねた時、岩波文庫の『シカゴ詩集』をもらった。そういう厚意というのは、なにものにも代え難いと思っているよ。白土三平から〈反差別〉というスタンスを、そして吉本隆明から〈原理・原則〉の大切さを学んだような気がする。
猫 おまえのいう〈原則〉というのは、べつに難しいことじゃない。〈立場〉を置き換えれば、すぐに分かることだ。
おまえは「危ねえ奴」と思われているから、そういうことはないだろうが、例えば脅迫文みたいなものが送られてきたら、おまえなら、その全文と氏名を公開し、公然と批判するだろう。その手の輩は『鬼滅の刃』の「鬼」と同じで、世の闇に棲息し、人々の心の陰に暗躍している。だから、日向に引っ張り出せばいい。中途半端な態度は禁物だ、つけいる隙を与えるからな。
松 そうだけど、もっと良い方法は、完全に無視し、全く相手にしないことだ。脅迫文を送ってくるような奴に潜在するのは、フロイト的にいえば、劣等感の裏返しの自己顕示欲と、誰かに構ってほしい幼児退行だからね。余程の因縁がなければ、ひとりでに消沈するさ。
白土三平の良さは、『カムイ伝第二部』でいえば、草加竜之進がアヤメを伴って、夙谷の枯木屋敷へ行き、キギスやその仲間に、雪駄造りを推奨し、モツ鍋を囲む描写に、よく現れている。
猫 基本的には忍者もので、誇張された展開からいえば娯楽作品そのものといえる。またサディスト的な傾向が強く荒んだ部分もあるが、マンガ表現の深化と拡張に寄与したことは疑いない。田中優子の講釈などくそくらえだ。不満はいっぱいあっても、四方田犬彦の『白土三平論』のトータル性を越えることは難しい。基礎になっているのはアンデルセンだな。それにリアリズムの要素が加わっている。だから山本周五郎を尊重していた。
松 そうであっても、白土三平の影響は大きい。『忍者武芸帳』や『サスケ』などに出会わなければ、部落解放運動や学生運動に関わりを持つことはなかったんだ。もっと痛切なことをいえば、いまでも仕事にあぶれ途方にくれている夢をよく見る。もう古稀を過ぎ、そういうことから上っているはずなのに‥‥‥。
猫 いまだに呪われているんだ、それはどうしようもねえな。
【参考資料】
1 吉本隆明「松岡祥男宛書簡」(2002年10月7日消印・全文)
いつも本が出ると贈るだけで、挨拶代りにして、ずぼらの御無沙汰をきめ込んでいて済みません。貴方のお手紙でびっくりして、北川さんの手紙を取り出し、讀みました。実は眼が俄か盲目にひとしくなってから新聞、など見出しだけですっとばすことがあります。北川さんが別紙に書いた挨拶は御無沙汰つづきだったので懐しく讀みました。同封の抗議と批判というのは、丁寧に讀みませんでしたので、貴方のお手紙で改めて一字一字讀みました。わたしの感想を申し述べてみます。北川透さんは貴方を誤解している。
一、どこかといえば、貴方が吉本のとんでもない追従者だと思っているという手紙からの印象がそう感じさせました。別な言い方をすればとんでもない追従者が吉本の名前があるものは断りなしに再録して、発言言表を主宰者に承諾を得ずに集めて、しかも販賣していると受け取ったと感じました。わたしは貴方の考え方・人柄を少しも誤解しておらず、一個の見識ある人が、吉本の忘れられた発言を資料として出していると思っています。また北川氏が会の開催準備がいかに大変かを述べておられるように資料集の貴方の【 】わたし【 】理解しているつもり【 】わたしに迷惑かけたなどということはありません。
(二)北川透さんの発言を讀んで、北川さんも希望されたように、学会に馴染んで、勉強が進んだ証拠だと少し嬉しくなりました。わたしもある学者の文章を引用して相当長くなり、俺に無断で引用を長々していると、発行所あてに抗議されたことがあります。
(三)ところでわたしの経験では、文芸分野では一度公表した文章や語りは、引用しようと、その上批判しようと、まったく自由で、抗議することが【 】なければ遠慮なく反論すればいいだけです。わたしはこの文芸の自由を守ってきましたし、遠慮も抗議もしないで(反論はしました)やってきました。わたしなら瀬尾さんや北川さんのような抗議や批判はしないでしょう。けれど学会では北川さんのような抗議の仕方【 】常識だと解された方がよく、またそれを肯定する必要もありません。芸能世界では、歌詞を引用すれば、掲載料を請求されますし、写真は、例えば、左側からは撮らずに、右側からだけ撮ってくれとか、肖像権料とか、取られます。
まあ阿呆らしいといえばそれまでですが、一応その分野のしきたりに従うようにしています。文芸世界だけは何をしても自由です。違法行為で罰せられても、文芸は自由を生命とすると考えております。どうか頑張って下さい。また小生については、何をどうなされようと自由です。【 】のところは北川さんの誤解と間違いです。貴方が有料配布していることを非難するのはとんでもない間違いです。自民党の秘書給与を使い込んだかどうかという論議を聞いて、自分を棚上げした子供の論議で、ほんとうは馬鹿野郎!と言へば終りです。
北川さんの学者らしくなったなということの悪い面だとおもいます。
(四)もし主催者グループに北川さんが何年も経ってからも権限の所有者であると主張し、貴方が無断で商行為をしたと非難する偏見を「公開」することができるというのが妥当だと言うのなら、予め発言者それぞれの承認が必要な筈です。そして少くとも発言者の一人である吉本は、そんな期間を経たあとでの主宰者の抗議は不当であり、貴方に感謝しているのだから、抗議をやめるべきだと主張するでしょう。北川さんはそんな手続きをしませんでした。以上各項の理由と文芸界と学会とは慣例としてまったく違うという主張を加えて、公開があり次第、貴方の特別弁護人になって反論します。そんなときには直ぐお知らせを願えれば幸甚です。サド裁判やら最近の柳美里さんの場合まで、法律が違法と判定しても、一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や社会常識は時代によって変ります。文芸(一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは永続を眼指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集まりに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。
貴方が恐縮する点は一ケ所もないと思います。北川さんの抗議文は、主催者がきちんと出版した本にしたわけでもなく、尊重(内容を)したわけでもなく、年月を経た後で、主催者権限を優先していること、貴方の一個の文筆家としての存在を故意に過小評価していること、文芸世界の慣例を理解していないこと、商業行為する意志もないのに、貴方の定価・実費にちかい有価性を非難していること、など不当性はいくらでも指摘できます。めげずに元気で頑張って下さい。
(【 】部分は判読不能個所・判読については藤井東・藤井ますみ両氏の協力を得た)
2 わたくしのなしたる文芸的非法行為もしくは「最後の手紙」への返信(前半)
成田昭男
高知の詩人松岡祥男氏が刊行していた『吉本隆明資料集』(猫々堂)が、191号、さらに別冊1、2をもって2019年末に完結しました。第1集を2000年3月に出したこのシリーズが、、一人の詩人(と協力者)によってここまで継続し、見事完遂させた力量に正直わたしは感嘆したのです。わたしなど(旧)三月書房から十数冊ほど購入したにすぎませんが、図書館にもないような雑誌の鼎談などをたやすく読める恩択に浴することができたのです。これは間違いなくひとつの出版偉業です。校閲の水準については少し心配は残りますが、これは誰が誠心誠意やろうといわれるものでしょう。
むかし詩誌『菊屋』で毎年「菊屋まつり」を開催していました。その「菊屋まつり」(1986年10月19日)に吉本隆明氏をよんで、若手批評家たち(加藤典洋、竹田青嗣、橋本大三郎)とのフリートークをしてもらおうという企画があがり、菊屋同人末席のわたしにもそこに出ろということで参加し発言しました。その全面的記録を『菊屋』34号、1987年2月で公表しました。
それから10年以上たって、これを『吉本隆明資料集』に無断で収録することがわかり、元同人の瀬尾育生氏から、わたしの考えを問う手紙がきました。わたしは二つだけ条件をあげました。「(1)原文のままの収録であること。(2)お金儲けにしないこと」。それが満たされるなら『吉本隆明資料集』への収録を認めていいのではないかと返事をしたように記憶します。
『菊屋』34号が出て、そこから15年近くたち、これを読みたいとねがっても、該当号は入手できないし、『菊屋』を所蔵している図書館などどこにもないでしょうから、それを収録した資料集が非法であったとしても、読者の切実な求めに応えるものになるだろうということは理解できていました。
その後をあまり気にしていなかったわたしは、2021年になって松岡祥男『ニャンニャン裏通り』(別冊1)を読むことができ、ようやく松岡氏と北川透氏とのやりとりの経緯を知ることとなったのです。
それによると件の「菊屋まつり」を収録した『吉本隆明資料集』(25集、2002年9月)が刊行されると、無断転載に抗議する北川透からの文章が松岡祥男に送られてくる。これは各方面にも送られていた(わたしにも確かとどいていたと思うが)。松岡は「吉本さんに迷惑が及んだものと判断して、お詫びの手紙をだした」。すると吉本から返事が速達でくる。その手紙を8年後『吉本隆明資料集』100集、2010年11月で公開したのです。わたしは盗作以外は著作権に関る問題に興味がないからでしょうか、そのことも知らなかったのです。
吉本隆明氏は手紙(2002年10月7日消印)でこういっています(以下引用は『ニャンニャン裏通り』より)。
《わたしは(吉本隆明)貴方(松岡祥男)の考え方・人柄を少しも誤解しておらず、一個の見識ある人が、吉本の忘れられた発言を資料として出していると思っています。》(175頁)
これはすごい。最大の信頼の言葉を松岡氏に寄せているではないか。ただわたしは松岡氏が吉本さんはこういった(如是我聞)ふうの、二人にしかわからない話を書くとき、それをどこまで信じていいのか迷うことがあります。
《貴方が恐縮する点は一ケ所もないと思います。北川さんの抗議文は、主催者がきちんと出版した本にしたわけでもなく、尊重(内容を)したわけでもなく、年月を経た後で、主催者権限を優先していること、貴方の一個の文筆家としての存在を故意に過小評価していること、文芸世界の慣例を理解していないこと、商業行為する意志もないのに、貴方の定価・実費にちかい有価性を非難していること、など不当性はいくらでも指摘できます。めげずに元気で頑張って下さい。》(177頁)
吉本さんは北川透氏の考えを明確に否定し、松岡氏に最大の支持を与えています。こんなことがあるんだ、とうらやましいような敬嘆であります。
3 附記 北川透ー嘘の総仕上げ
わたしは、もう北川透とのことは終わったと思っていました。ところが先日、北川透『現代詩論集成』(思潮社・全8巻)の第5巻「吉本隆明論 思想詩人の生涯」の「月報5」に、『あんかるわ』七三号に掲載された北川透による吉本隆明へのインタビューが再録されることになり、それに添えられた「後註ー一九八五年という曲がり角」という文章を読むことになりました。
わたしが吉本さんにインタビューした八五年は、この年から「試行」が年間一冊刊行になった、いわば区切り目の年だった。ちょうどそのころ、わたしが編集刊行していた「あんかるわ」誌が発行部数を減らし困難を迎えていたので、その危機感から、同じように従来の発行部数を減らしている、「試行」の編集発行者の吉本さんに、この事態をどう受け止めておられるのかを聞きたくて、インタビューを思いついたのだった。その直前の八五年七月に出た「試行」64号の、吉本さんが書いた次の「後記」を読んだこともわたしの気持ちを動かした。
(北川透「後註ー一九八五年という曲がり角」)
これは詐欺的言説です。
この時の『あんかるわ』七三号の特集は「同人誌を面白くする方法」で、二三名の雑誌発行者に原稿依頼したものです。その企画の二四人目として、吉本隆明に電話インタビューし、「特集」のメインに置いたのであって、ここで言われているような性質のものではありません。
そもそも『試行』と『あんかるわ』を直接的に対比することが、インチキです。
発行部数の低下で焦った北川透は、『あんかるわ』をそれまでの自主的な寄稿から「特集」形式に変え、「特集」については原稿依頼するように、編集方針を転換しました。もちろん、原稿料無しです。そんなやり方で一般商業誌に対抗できるはずがありません。その二回目が、この「同人誌」特集でした。
発行部数の格段の差もありますが、『試行』は最後まで初志(じぶんがもっとも力を注いだものを発表すること、自主的な寄稿で雑誌を継続すること、など)を貫いています。それが決定的な違いです。
それを頬かぶりして、『試行』六四号の「後記」を引用しています。同じ局面にあったと。しかし、一九八五年は『吉本隆明全集』(晶文社)でいえば二〇・二一・二二巻の時期です。それをみれば、吉本隆明がこの時期、いかに闘っていたか(仕事をしていたか)は一目瞭然です。それを無視して、おのれに都合のいいように使っています。
こんな嘘をかさねることで、なにをやりたいのかははっきりしています。北川透はじぶんを吉本隆明に拮抗する存在であると見せ掛けたいのです。しかし、どんな策を弄しても、その意に反して、北川透の著作が〈古典〉として遺ることはあり得ないでしょう。
わたしに言わせれば、この「後註」の時期が北川透の堕落のはじまりであり、この「後註」自体がその総仕上げなのです。
わたしは念のため、一九八五年の吉本隆明の仕事を確認しておこうと思い、点検作業をやりました。そしたら、北川透の「後註」が事実の捏造であることが判明しました。
吉本隆明一九八五年(昭和六〇年)の著作
▼一月
詩「声の葉」 『現代詩手帖』一月号
対談「「いま」という無意識の方途」(対談者・磯崎新) 『美術手帖』一月号
「小林信彦/写真 荒木経惟『私説東京繁昌記』」 『マリ・クレール』一月号
「谷中・団子坂・駒込吉祥寺」 『トレフル』一月号
大衆文化・現考「ファッション・ショー論」 『北日本新聞』一月一二日
『隠遁の構造 ー吉本隆明講演集ー』(修羅出版部)一月一八日刊
「柳田国男論 第II部 動機・法社会・農」 『國文學 解釈と教材の研究』一月号
『対幻想ーー個の性をめぐって』(芹沢俊介) 春秋社一月二五日刊
対談集『現在における差異』 福武書店一月三〇日刊
▼二月
読者プレゼント「巨人の青春、刻んでただ一つ。手彫りの印鑑」 『鳩よ!』二月号
「大衆文化現考 クイズ番組論」 『京都新聞』二月一三日
「柳田国男論 第II部 動機・法社会・農(続)」 『國文學 解釈と教材の研究』二月号
▼三月
鼎談「サブカルチャーと文学」(笠井潔 川村湊) 『文藝』三月号
鼎談「言葉へ・身体へ・世界へ」(伊藤比呂美 ねじめ正一)『現代詩手帖』三月号
座談会「光太郎書をめぐって」(疋田寛吉 石川九楊 北川太一)『墨』三月号
「政治なんてものはない?埴谷雄高への返信」 『海燕』三月号
「元祖モラトリアム人間」 『青年心理』三月号
「思い出の劇場 ー海辺の劇場ー」 『P・S・D』第五号三月一日発行
談話「与謝野晶子「全訳 源氏物語」」 『クロワッサン』三月一〇日号
大衆文化・現考「テレビCMの変貌」 『北日本新聞』三月一二日
「柳田国男論 第II部 動機・法社会・農(続々)」『國文學 解釈と教材の研究』三月号
「北川太一の印象」 『北川太一とその仲間達』(自家版)三月二八日発行
講演「現在ということ」(山梨県石和)三月三〇日
推薦文「親鸞理解に不可欠の存在」 石田瑞麿全訳『親鸞全集』(春秋社)内容見本
▼四月
「イヴァン・イリイチ 玉野井芳郎訳『ジェンダー 女と男の世界』」『マリ・クレール四月号
インタヴュー「大衆社会におけるエクリチュールの運命」(聞き手・西谷修) 『ユリイカ』四月号
インタビュー「日本国憲法第一条は廃止すべし」(聞き手・稲垣武) 『ボイス』四月特別増刊号
「柳田国男論 第II部 動機・法社会・農(続々々)」 『國文學 解釈と教材の研究』四月号
▼五月
「重層的な非決定へー埴谷雄高の「苦言」への批判」 『海燕』五月号
「マルト・ロベール 東宏治訳『カフカのように孤独に』」 『マリ・クレール』五月号
「季評 大衆文化 科学万博印象記(上)」 『京都新聞』五月九日
「季評 大衆文化 科学万博印象記(下)」 『京都新聞』五月一〇日
▼六月
対談「フェミニズムと家族の無意識」(上野千鶴子) 『現代思想』六月号
「岸田秀『幻想の未来』」 『マリ・クレール』六月号
インタヴュー「現代における言葉のアポリア」(編集部) 『ユリイカ』六月号
電話による埴谷雄高との論争の「立場の説明」 『サンデー毎日』六月二日号
「マラソンについて」 『東京タイムズ』六月六日号
『死の位相学』(潮出版社・「触れられた死」書下し)六月一〇日刊
『相対幻論』(栗本慎一郎)角川文庫六月一〇日刊
「異論を介しての「火まつり」」 『キネマ旬報』六月下旬号
対談「親鸞の〈信〉と〈不信〉」(佐藤正英) 『現代思想』六月増刊号
「野戦攻城の思想」 『橋川文三著作集』(筑摩書房)内容見本
▼七月
ハイ・イメージ論1「映像の終り」 『海燕』七月号
「C・G・ユング 野村美紀子訳『変容の象徴』」 『マリ・クレール』七月号
講演録「現在ということ」 『現代詩手帖』七月号
「現代電波絡繰試論」 『勉強堂 スタジオボイス別冊』七月一日発行
「ニューヨーク・ニューヨーク」 『年金と住宅』七月号
「バラ色の諧調」 『一枚の繪』七月号
講演「マス・イメージをめぐって」(群馬県前橋市)七月一日
「佃ことばの喧嘩は職業になりうるか」 『書下ろし大コラム vol・2 個人的意見』小説新潮臨時増刊夏
講演「アジア的と西欧的」(東京都豊島区)七月一〇日
『あんかるわ』の特集のための電話インタビューを受ける(聞き手・北川透)七月一二日
『試行』第六四号(情況への発言 ー中休みの自己増殖ー/心的現象論 ー了解論ー/後記)七月一五日発行
「文化の現在」/「現在を読む」 『転形』創刊0号七月一六日発行
▼八月
「《ハイ・イメージ論2》映像の終り2」 『海燕』八月号
対談「全否定の原理と倫理」(鮎川信夫) 『現代詩手帖』八月号
「中沢新一を真っ芯で。」 『鳩よ!』八月号
「エーリッヒ・ノイマン 林道義訳『意識の起源史』(上・下)」 『マリ・クレール』八月号
「季評・大衆文化 映画の話(上) 「乱」の黒沢明」 『京都新聞』八月二二日
「季評・大衆文化 映画の話(下) SF(X)映画」 『京都新聞』八月二三日
インタビュー「広告とシステム」 宣伝会議別冊『コピーパワー6』八月二五日発行
「恐怖・不安・孤独 ー近未来と恐怖映画ー」 『映画芸術』八月合併号
▼九月
「《ハイ・イメージ論》ファッション論1」 『海燕』九月号
「村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』」 『マリ・クレール』九月号
取材「〈対幻想〉が拡散するとき、家族の変容をこう読む。」(構成・熊本勲) 『ダイヤモンド・ボックス』九月号
「すいせんの言葉」 田原克拓著『初期・性格と心の世界』(性格教育センター)九月一日刊
対談「ハイパー資本主義と日本の中のアジア」(川村湊) 『文藝』九月号
講演「文芸雑感ーー現代文学の状況にふれつつ」(山口県下関市)九月七日
講演「経済現象としての現在ーー日本高度資本制論」(福岡県北九州市)九月八日
帯推薦文 E・M・シオラン著・出口裕弘訳『歴史とユートピア』(紀伊國屋書店)第四刷九月一〇日刊
『重層的な非決定へ』(大和書房)九月二〇日刊
電話インタビュー「メタファとしての《クラック》 『試行』の現在と同人誌」(聞き手・北川透)『あんかるわ』第七三号九月二〇日発行
インタビュー「生き方を決定した敗戦体験と難しい恋愛体験」 『週刊宝石』九月二〇日号
『源氏物語論 〈新装版〉』(大和書房・別冊付録「わが「源氏」」書下し)九月三〇日刊
▼一〇月
「《ハイ・イメージ論》ファッション論2」 『海燕』一〇月号
「ジョルジュ・バタイユ 湯浅博雄訳『宗教の理論』」 『マリ・クレール』一〇月号
「言葉からの触手」「[1]気付き、概念、生命」 『文藝』一〇月号
インタビュー「言葉が失われた時代」 『THE21』一〇月号
対談「大衆と感覚がズレてきた」(川崎徹) 『東京タイムズ』一〇月七日〜二五日(一五回連載)
講演「心的現象論をめぐって」(東京都新宿区)一〇月一八日
講演「都市論」 (慶應義塾大学日吉キャンパス)一〇月二二日
「遇わなくなってからの清岡卓行」 『清岡卓行全詩集』(思潮社)一〇月二八日刊
対談集『難かしい話題』(青土社)一〇月三〇日刊
▼一一月
「《ハイ・イメージ論》像としての文学1」 『海燕』一一月号
「言葉からの触手」「[2]筆記・凝視・病態」 『文藝』一一月号
講演録「アジア的と西欧的」 『現代詩手帖』一一月号
「『微熱少年』について」 『波』一一月号
講演・「本について語る」(東京都中央区)一一月一日
『詩の読解』(鮎川信夫) 思潮社 新装版 一一月一日刊
『思想と幻想』(鮎川信夫) 思潮社 新装版 一一月一日刊
季評・大衆文化「ふたつの出来事(上) 日航機墜落」 『高知新聞』一一月二日
季評・大衆文化「ふたつの出来事(下) テレビの「やらせ」」 『高知新聞』一一月三日
対談「正常異常の境目が見えない」(山崎哲) 『東京タイムズ』一一月七日〜二八日(一四回連載)
「松岡祥男について」 松岡祥男著『意識としてのアジア』(深夜叢書社)一一月一五日刊
『現在の知軸 吉本隆明ヴァリアント』(北宋社・対談「文学者の課題」「宗教の現在的課題」(安達史人)、編集部によるインタビュー初収録)一一月一五日刊
座談会「メタファとしての現代」(林真理子・栗本慎一郎) 『Harvester』第一八号一一月二五日発行
鼎談「表現」(村上龍 坂本龍一) 村上龍・坂本龍一著『EV。Cafe 超進化論』(講談社)一一月二八日刊
対談「TVーなにがおもしろいかがおもしろい」(横沢彪) 『東京タイムズ』一一月二九日?一二月一八日(一五回連載)
『全否定の原理と倫理』(鮎川信夫) 思潮社一一月三〇日刊
▼一二月
「《ハイ・イメージ論》像としての文学2」 『海燕』一二月号
「ジャン=ポール・サルトル 海老坂武・石崎晴己・西永良成訳『奇妙な戦争ーー戦中日記』エーリッヒ・ケストナー 高橋健二訳『ケストナーの終戦日記』」 『マリ・クレール』一二月号
「言葉からの触手」「〔3〕言語・食物・摂取」 『文藝』一二月号
取材インタビュー「愛って、知で解明できますか?」 『LEE』一二月号
「阿蘇行」 『旅』一二月号
『悲劇の解読』(ちくま文庫) 一二月四日刊
「「黒澤充夫・辞典のための挿画展」のために」 パンフレット『黒澤充夫 英和辞典の挿絵』一二月五日
「本について」/インタビュー「詩について」(安原顯) 安原顯著『なぜ「作家」なのか』(講談社)一二月七日刊
「ノン・ジャンル120」 ぼくらはカルチャー探偵団編『読書の快楽』(角川文庫)一二月一〇日刊
「たったひとつの黄金風景」 『週刊就職情報』一二月一九日号
詩「活字のある光景」/「詩について」 『ユリイカ』一二月臨時増刊号
これが『試行』六四号の「後記」で言われている「雑誌刊行の現状はとてもきつく、このきつさは遠巻きにおしよせてくる出版世界の冷却(わたしたちが鉄鋼業界に次ぐと称している)によって、物質的、精神的に圧迫をうけているところからきている」の実際なのです。この年の大きな出来事は、埴谷雄高との論争と鮎川信夫との袂別、『重層的な非決定へ』(初刷一万二千部)の刊行と「ハイ・イメージ論」の連載開始といえるでしょう。
北川透の吉本隆明への電話インタビューは七月一二日。
『試行』六四号の発行日は七月一五日。
仮に『試行』六四号の発行が奥付の日付よりも早かったとしても、北川透がこの「特集」の執筆者に原稿依頼をしたのは六月二五日。吉本隆明へのインタビューの申し込みもその前後と思われます。話の辻褄が全く合いません。
それでわたしは、『あんかるわ』七三号の北川透による「インタビュー」を読み直しました。
そしたら、滑稽にも、頭隠して尻隠さずで、
・ 『試行』の新しい号(64号)は、もう発行になりましたか。
吉本 きのうはこんできたんですよ。まだ、郵送したり、書店に届けてないんですが。
・ ではもうすぐですね。
(「メタファとしての《クラック》」『あんかるわ』七三号 ・は北川透)
とありました。これが動かぬ証拠です。
頽廃もここまでくれば、絶句するほかありません。
ここから推して、第5巻の「吉本論」本体も興味深いものがありますが、わたしはもう北川透に関わりたくないという思いが強いです。あまりにも貧しく、不毛だからです。
北川透が革共同両派への「内ゲバ停止」提言に吉本隆明も加わっていたという出鱈目な発言(『現代詩手帖』二〇一〇年一一月号)の時と同じように、「恥ずかしい思い違い」「無意識の領域も含めて、よく考えてみたい」などと、また見苦しい弁解を繰り返したとしても、通用しません。
こんな〈虚偽〉を掲載し刊行した〈出版社の責任〉も重い、とわたしは思います。
(『続・最後の場所』11号2022年7月発行掲載)
松 宮下和夫さんが二〇二二年二月一〇日に亡くなったと、論創社の森下紀夫さんが伝えてくれた。
猫 いろいろあったけれど、川上春雄さんと宮下さんの存在なくして、今日のおまえはないだろうな。
松 うん。おれが吉本隆明の読者になる決定的な契機となったのは、『吉本隆明全著作集1 定本詩集』と『敗北の構造』(一九七二年一二月刊)だ。それと同時に、宮下さんの存在も大きく迫ってきた。それで吉本隆明『言葉という思想』(一九八一年一月刊)まで、弓立社の本は全部購入していた。本に挿入されていた「風信」という通信も、出版に関するいろんなことが分かって、とても啓蒙された。いまでも手許にあるよ。
猫 小山俊一『EXーPOST通信』や松岡俊吉『吉本隆明論』といった一般の出版社は手掛けないようなものを出していたからな。
松 憧れの出版社だったね。いつかじぶんの本が出るような奇蹟的な事態が起これば、弓立社がいいなあと思っていた。最初の齟齬は、吉本さんが一九八〇年に高知へ講演に来られた時だった。宮下さんも同行していて、わたしたちの集まり(「吉本隆明さんを囲む会」)に参加させてくれという申し出が間接的にあった。でも、この時いろいろトラブルつづきで断わってしまったんだ。それをおれはずっと申し訳なく思っていたよ。でも、一九八七年の東京・品川の「いま、吉本隆明25時」あたりから、ちょっと違うんじゃないかと思うようになった。
猫 おまえは「高知」でも「25時」でも見掛けただけで、話をしたことはなかっただろう。
松 一度だけ、会ったことがある。会社を訪ねたんだ。一時間くらい話した。それから、交流がはじまった。四国の宇和島から清水幾太郎のいた学習院大学へ入学したことを誇りに思っていて、結構プライドが高かったような気がする。徳間書店を経て、一人で弓立社を立ち上げた。
猫 それまでもさまざまなことがあっただろうな。広島のデモで逮捕されたり、会社で孤立し精神的に不安定になり入院したり。
松 宮下さんは手前勝手の人で、「勤務中の会社には電話はしないでくれ」と言ったけれど、全く無視で、じぶんの用件がある時はいつでも会社へ電話してきた。もちろん、その都度ちゃんと対応したけれど、困った人だとおもったよ。電話ということでいえば、詩人の山本かずこさんからかかってきた時、電話を取り継いでくれた事務のTさんが駆けつけてきて「あの人は、松岡さんのなんですか」と聞いた。どうしてかというと、山本さんの声がとても魅惑的で、素敵だったからだ。
猫 おまえ、なんと答えたんだ。
松 「友達の奥さんです」と言ったよ。宮下さんは晩年、だんだん認知症の傾向が強くなっていった。いろいろ助言しても、その時は分かりましたというんだけど、それが更新登録されず、元の考えとやり方に戻ってしまう。思い込みの強さもあったんだろうけど。例えば筑摩書房の『吉本隆明〈未収録〉講演集』や論創社の『吉本隆明質疑応答集』でいえば、おれは「テーマ別の編集でなく、編年体にすべきです」と何度も言ったけれど、結局は聞き入れなかったからね。
猫 どうしようもねえな。宮下和夫・築山登美夫による『質疑応答集』(全七巻)は築山の死去によって三巻で中断したんだけど、おまえが新たな校閲者に菅原(則生)さんを推薦し、年代順の『全質疑応答』(全五巻)として継続刊行されることになったんだよな。
松 うん。おれは宮下さんのことで、いまでも怒っているのは『「反原発」異論』の巻頭に副島隆彦を起用したことだ。これは五〇年以上、吉本隆明に伴走しながら、肝心なことが分かっていなかったんじゃないかと疑わせるものだ。あの中で副島隆彦は、糸井重里を吉本思想の背反者のごとく言っている。冗談じゃない、副島の口先だけのおもねりと違って、糸井重里は物心両面に渉って応援し、交際してきたんだ。副島などの出る幕じゃない。
猫 糸井重里の凄いところは、後を振り返らないところだな。じぶんのやってきたことに依存しない。つねに現在に立っている。ふつうなら、じぶんにはこういう実績があり、その蓄積によって、いまのじぶんがあるというふうに振舞がちなのに、そんなことはおくびにも出さず、いまやりたいこと、いま出来ることに専念してきた。それは吉本隆明とも根底で通じるものがある。吉本隆明はじぶんが書いたものなど手許に残していなかった。著書に未収録のものは雑誌を破り取って、段ボールに放り込んであったらしいけど、本に収録されたら終わり。原稿も無ければ、いつどこで講演をしたかも分からない。
松 それを宮下さんは追跡し蒐集して、本やCDにしてきたんだ。その恩恵は吉本隆明の読者にとっては量り知れないものがあった。糸井重里のことをいえば、彼もさすがに七〇代半ばとなり、日本経済新聞(二〇二二年二月六日)の取材記事で、過去を振り返っていたよ。漫画家になりたくて上京し、法政大学に入学。学生運動に巻き込まれて、佐世保のエンタープライズ寄港反対闘争などに参加したけれど、「人を脅して動かす」運動のやり方が嫌になり、大学を中退し、その関係者から身を隠すため帰郷した、と珍しく回顧していた。
猫 なにごとも足を洗うのは大変だからな。新左翼のセクトも所詮、大学の自治会のあがりと、カンパ、ゆすりとたかりで、活動資金を得ていただけだからな。あとあとまでつきまとわれる、よく振り切ったと思う。ここが糸井重里の決定的な結節点だろうな。
松 特に印象に残っているのは、村上春樹との共著『夢で会いましょう』、NHKの「YOU」の司会、萬流コピー塾、ほぼ日、『となりのトトロ』の父親の声も良かったね。インタビューアとしての力量は他の追随を許さないくらい優れていて、多彩だ。
猫 「ペンギンごはん」なんていうのもあったからな。『ガロ』二〇年史である『木造モルタルの王国』だって、かなり寄与している。稼ぎになろうとなるまいと、気乗りすることは率先してやってきたに違いない。そこが渋谷陽一との違いだろうな。渋谷のインタビューってのは、皮肉が混じりじぶんの思惑に引き込もうとするところがあるからな。渋谷陽一がもっとも輝いていたのは、NHKのFMで一日ぶっ通し、ジョン・レノンの追悼番組のDJをやった時だ。また高知で親鸞についての講演会もやっている。二人は関心の共通性もあり、競合することが多いけれど、微妙に異なる。それが「ほぼ日」と「ロッキング・オン」の差異といえるんじゃないか。二人ともおまえとは掛け離れた存在だ。
松 ただ、器量の乏しいおれが言うのもおかしいことだけど、堀江貴文がライブ・ドア事件で叩かれたとき、あるインタビューで吉本隆明は疑義を呈して、ほんとうに法を犯したといえるのか疑問だといい、堀江貴文のところには人が集まる、それがライブ・ドアの他の幹部との器量の差だといい、投獄された堀江貴文の復活を予見していたからね。宮下さんは学生の頃、深夜叢書社(齋藤愼爾や尾形尚文)と交際したけれど、「近づくほどに、出鱈目さが分かり、喧嘩別れをし、いくつもいやな記憶が残った」って、書いた。こういうところが宮下さんの独善的なところだ。そんなことは、たぶんお互い様で、人さまざまだ。おれは妻を連れて、東京へ出て、物書きみたいものを目指す体力も知力もないから、そんな考えは初めから持たなかった。上京して生活の糧を得るのは、誰だって困難を伴うからだ。
猫 間違いなく、潰れていただろうな。考えることや書くことはどこでもできる。しかし、世に出るとなれば、関西でいうところの「東へ」行かないとダメだ。そこが出郷者と地着きの者との異なるところだろうな。でも、おまえだって、宮下和夫のことを批判してるだろ。
松 そうだけど、弓立社の『心とは何かー心的現象論入門』の宣伝文はこうだ。「心の神秘をさぐる。大著『心的現象論』を読まずとも、本書でその核心がわかる」。こうなるといくらなんでもと思うじゃないか。
猫 それで黙っているわけにはいかないということか。
松 そうさ。こんな言い方は、著者が長い時間をかけて思索を深めてきたプロセスをないがしろにするものだ。「入門」と銘打ちながら「読まずとも」というのは、〈著者〉に対しても〈著書〉に対しても無礼千万じゃないのか。外野の野次馬ならいざ知らず、掲載誌の発行事情も、もっとも力を注いだものを発表するという著者の志向性も熟知しているはずなのに、こんなことを謳い文句にしているんだ。「まあまあ」で済ませることはそれでいいと思うけど、おのずと限界値というものがあるだろう。
猫 追悼のつもりが、追い討ちになってきたぜ。
松 宮下さんは吉本隆明でいえば『自立の思想的拠点』を皮切りに、主なものを列挙しても講演集の『情況への発言』、『敗北の構造』『知の岸辺へ』『言葉という思想』『超西欧的まで』、記録集『いま、吉本隆明25時』。『吉本隆明全講演ライブ集』『〈未収録〉講演集』。それから島尾敏雄、橋川文三、上村武男、矢野武貞、宮城賢、加藤典洋なども手掛けている。もちろん、おれはその殆どにつきあってきた。その業績は揺るぎないものだ。
猫 それでいい。乖離や批判はそれとしてあってもな。本来的にいえば、講演とその直後の質疑応答とはひとつのものだ。切り離すことはできない。出版業界の慣習からいけば、講演後のやりとりは付随的なものと見做されて、抹消されてきた。そういう意味でも「ほぼ日」の吉本隆明「183の講演」のインターネット上の無料公開の意義は大きいな、ライブのまま残っているから。
松 おれは活字派だからね、聞くより読む方が分かり易い。学校の授業だって、ろくに聞いてなくて、あらぬことばかり考えていたような気がする。
猫 それは違うだろ、おまえは画をみながらストーリーを追う、マンガ派だ。
松 『全質疑応答III』が刊行された。その巻頭の「過去の詩、現在の詩」の質疑応答を読んで、これだけでこのシリーズの意義はあったと思った。これも言い出しっぺの宮下さんのお蔭だ。
もはやそれ以上何を失おうと
僕には失うものとてはなかったのだ
河に舞い落ちた一枚の木の葉のように
流れてゆくばかりであった
かつて僕は死の海をゆく船上で
ぼんやり空を眺めていたことがある
熱帯の島で狂死した友人の枕辺に
じっと坐っていたことがある
今は今で
たとえ白いビルディングの窓から
インフレの町を見下ろしているにしても
そこにどんなちがった運命があることか
運命は
屋上から身を投げる少女のように
僕の頭上に
落ちてきたのである
もんどりうって
死にもしないで
一体だれが僕を起してくれたのか
少女よ
そのとき
あなたがささやいたのだ
失うものを
私があなたに差上げると
(黒田三郎「もはやそれ以上」)
いまではふつうの平明な文脈にみえるけど、やっぱり画期的な表現だったに違いない。おそらく黒田三郎は破滅的な気分を抱きながら、戦後の荒廃を彷徨してきた。死線をくぐった体験とその後遺症としての死の影にまといつかれていたはずだ。それでも、よく抑制した落ち着いた詩行に定着している。
猫 吉本隆明はその黒田三郎について、次のように述べている。
本質的な詩人っていうのは、必然的に市民社会あるいは市民社会の意識にたいしてアンチだけど、ヨーロッパにおけるアンチ秩序・アンチ社会としての詩人は、市民意識なんていうものはいちおう腹の中に入ってて否定してるわけです。あるいは成熟した背景があって、それを否定してるわけです。ところが、日本の近代詩人というのは、そうじゃないんですよ。社会にたいして、初めからひねくれた態度でいくわけですね。黒田さんはそれにたいして、初めて市民意識というものを詩の中に確立した。大多数の何でもない人たち、社会秩序を否定も肯定もしないけれど、偉そうなこともいわない人たち、そういう生活人の生活意識は非常に重要だということを初めていった人です。そして、そのことをいつでも心の中で踏まえて詩の表現をした人です。そういう表現の仕方を初めて確立した人だと思います。それは恋愛詩にかぎらなくて、ほかの詩にかんしてもそうだと思いますね。そのことが黒田さんの意味・意義、オリジナリティーじゃないでしょうか。僕ならそういう追悼文を書きますけどね。
(吉本隆明講演「過去の詩・現在の詩」質疑応答)
松 これを読んで、ずいぶんすっきりしたよ。黒田三郎の死に際しての鮎川信夫と北川透の批判やそれに付随した月村敏行の吉本隆明への言いがかりも、その足元から崩れたような気がした。また小林秀雄否定の根拠も明確に示されている。日本の状況やアジアという歴史的現実を踏まえない言説は、主観性の枠に密封されることになり、著しく客観性を欠いたものとなるということだ。時代背景を抜きに、小林秀雄の批評を超越的な作品と錯覚し、純粋な言語芸術と見做すのは錯誤だ。前田英樹みたいな主知主義者にはそれが理解できないんだ。
猫 おまえは坂井信夫からのはがきに対して、「おれの売りはパンクなんだ」と言ってるが、パンク・ロック一般の話じゃなくて、なにを指してそういうのか、示すべきだ。
松 そんなの、簡単だよ。おれは一九八三年に「脱思想の末路」という高知県みどりの党批判を書いて『同行衆通信』一〇号に発表した。これは当時の情況を全身で受け止め、真っ向から発言したものだ。これはおれの中で屹立している。たとえ雑文のひとつとして遇されても、あれはどこへ出しても通用すると思っているよ。
猫 もうひとつ、おまえは詩が書けなくなったのは「自然発生的な書き方から意識的な書き方に転換すべき段階」と恰好つけたことを言っているが、実際のところはどうなんだ。
松 それは奥村真さんの依頼で『邑』三号に「どぶ泥エレジー」というのを書いたんだけど、詩でもなんでもないゴミだ。このとき「これはダメだ」と思った。そこから、この詩作の壁を打ち破るよりも、しっかりした散文を書くように努めてきたんだ。
猫 文筆のモチーフはともあれ、〈出来栄えが全て〉というのが読者の正しい評価だからな。おまえ、若い頃にカール・マルクスの著作を少しは読んだだろう。
松 もっとも感銘を受けたのは『経・哲草稿』だね。『資本論』第一巻も一応とりついたけど、到底理解しているとは言い難い。それでも〈商品〉の中に使用価値と交換価値を見いだし、価値法則を解明したというくらいは分かっているつもりだ。貨幣が商品より先にくることはない。また、土の上であろうが、白紙の紙であろうが、すべて対象的自然であって、本質的な差異はない。地面に絵を画こうと、紙の上に字を書こうと、対象化行為といえる。そこに価値が生まれる。そんな基礎認識を得たくらいだね。地面を選ぶか紙を選ぶかは、その段階で既に主体の選択性だ。
もうひとついえば、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる動きをみていると、マルクスが指摘したように、社会総体をピラミッド型の構造体と見做せば、国家はその頂点にある幻想共同体だとつくづく思ったな。その観念性がリードする。だから、いかなる場合も〈首都〉を攻略し、政権を打倒すれば勝利したことになる。それがセオリーだ。プーチンのウクライナを「ネオナチ」などと規定する途方もないプロパガンダには開いた口が塞がらない。第一にウクライナはロシアを攻撃したこともなければ、国内においてもナチみたいに、ユダヤ系やロシア系住民を虐殺した事実も聞いていない。
猫 なんの場合もそうだけど、おのれの姿と思惑を相手に投影するんだ。プーチンは自らのファシズムをウクライナに当て嵌めているだけだ。いまや、NATO側のウクライナへの武器供与とロシアへの中国の援助によって、泥沼化したベトナム戦争のように「東・西対決」の戦場と化しつつある。それぞれの幻想共同体とその連合勢力の角逐といえる。幻想共同体、つまり国家(政府)が消滅しても、社会は残る。ウクライナはロシアの侵攻に抗戦し撃退するしかないことは分かるが、それ以上に住民を救うことを優先し、停戦を模索すべきじゃないのか。長引けば長引くほど、街も村も破壊され、人命は失われ、惨状は拡大するばかりだ。むろん、悪いのは仕掛けたプーチンに決まっているが、傷つき疲弊するのは、戦渦の大衆とその地域なのだ。ロシア側の死傷者だって半端じゃないはずだ。兵士が死んだって、プーチンは平気かもしれないが、死んで英雄と祀りあげられたって、そんなもの戦死者にとっては名誉でもなんでもない。神のもとに召され、天国で優遇されるのなら別かもしれないがな。浮世の相場じゃ、「死んでしまえばそれまでよ、生きているうちが花なのね」だけどな。
松 ロシアのウクライナ侵攻については、基本的な認識を示せば、無力なじぶんとしては、あまり言うことはない。それでも、ニュース映像をみていて、思ったことはある。まずは焼夷弾が格段に破壊・殺傷力があがっていること。また使用禁止兵器となっているクラスター爆弾が使われたこと。この使用禁止条約に際しては、日本政府は既にクラスター爆弾を購入していて、日本が侵略された際、敵の上陸を阻止するために必要だと主張し、禁止条約に賛同しなかった。みんな、ご都合主義なのさ。
猫 そうだな。レーニンらのロシア革命の際、日本をはじめとする当時の列強各国は、この混乱につけ込むべく、ロシアへ侵入しようとした。しかし、シベリアの冬将軍の前に撤退を余儀なくされたんだ。それでも、日本軍はいちばん最後までモスクワを目指した。政府のいまのウクライナ支援だって、アメリカとNATOへの追従でしかない。それに加えて、戦争ということを寄ってたかって誤魔化している。ロシアの兵士が特に野蛮で粗暴なわけじゃない。破壊、虐殺、略奪、強姦なんでも有りが〈戦争〉なのだ。わしが兵士だったとしても、やるだろう、周りは全部敵で、死と隣り合わせなんだから。そんなことは、かつて日本がやったこと、またやられたことを引き寄せれば、すぐ分かることだ。
松 人間はそんなに上等な存在じゃないからね。あらゆる動物的要素を内在的に含んでいる、欲望から残虐性まで。それに戦争そのものが、共同の迷蒙と狂気の現れだ。もっといえば、プーチンを筆頭に政治支配者というのは戦争が好きなのさ。軍隊を動かして、最新兵器を駆使し、全世界を制覇したいという倒錯の野望を持っている。それは人の上に立とうとする権力欲に根差すものだ。人類がそれを克服するかどうかは保証の限りじゃないさ。島田虎之介に『ラスト・ワルツ』(青林工藝舎・二〇〇二年刊)という作品があるだろう。あれにKGB時代のプーチンが登場する。島田虎之介は的確にプーチンの本質を捉えている。
猫 あのマンガはおもしろい。いまだに古びていない。なかでも「モントリオールの聖アレクサンダー」は傑作だ。アレクサンダー・ボグダーンはチェルノブイリの原発事故の消火活動に当たった消防士の一人だ。伝説の「七聖人」といわれ、ただ一人生き残ったという。
風は
かしの森の上で
吹き騒ぎ
野面を渡る
路傍の細いポプラは
地面に
つくほどに
身を
曲げている
ぽつんと一本だけ生えたポプラ
という『シェフチェンコ詩集』の詩を使って、歴史を寓意化し、ヒロシマの象徴化の空虚と詐欺的所業も否定している。法螺話ゆえに、逆説的に真実を示唆することもあるんだ。それが表現行為の優位性だ。
松 登場人物の一人「芸者ガール」は、アレクサンダーは「死んでたのよ とっくの昔に死んでたのよ その人が広島に招かれた理由ノ あのロシア人 宣伝に利用できると思って」と、その偽善性を看破する。またロシア認識においても卓抜だ。島田虎之介の作品は、この『ラスト・ワルツ』『東京命日』『トロイメライ』を読んだけど、やっぱり処女作の『ラスト・ワルツ』がいちばん優れているね。作品の構成の仕方からいって、たぶん映画監督を志していたんじゃないかとおもう。
猫 まあな。この作品の良さはそんなところだけじゃないな。作者がところどころ登場して、狂言廻しの役を果たしているが、「世の中にはひと目会ったその瞬間、恋をせずにはいられない女性という厄介なものが存在するのです だからボクはキケンを避けるために いろんな口実で極力会わないようにしている」、彼女は人妻で、サッカーチームの仲間内では、「なんであんな男と?」「声に出して言うな」などと囁かれている。よくある話だけど、そういうところもしっかり踏まえた、歴史にまつわるマンガによる円舞曲だ。
松 河出書房新社から『吉本隆明 没後10年、激動の時代に思考し続けるために』が刊行された。このムックの半分は『吉本隆明 詩人思想家の新たな全貌』(二〇〇四年刊)と『さよなら吉本隆明』(二〇一二年刊)の再録だ。新しく収録されたのは、鹿島茂と小峰ひずみの対談、安藤礼二の「入門」に、瀬尾育生ら五人の論考などだ。この編集に文句を言っても仕方がないけど、ただ次のような鹿島茂の発言は黙って見過ごすわけにはいかない。
僕が吉本を読み出したのは高校生のときですが、本格的に入れ込んだのはやはり大学に入ってからです。吉本は一九六〇年の第一次安保闘争の後、『言語にとって美とはなにか』の執筆に専念し、しばらくは論争的文章を書きましたが、その後、長い沈黙があり、われわれが大学で一九六八年にゲバ棒を持って騒いでいた頃にはほとんど何も発言してなかったと記憶しています。われわれは、民青=日共との対峙のなかで一九六〇年の安保闘争の総括である「擬制の終焉」をわがことのように読みながら、どんなことでもいいから吉本の情況への発言を聞きたいと思っているのに、一言も言わない。そんな中で突然出てきたのが『共同幻想論』でした。
(鹿島茂・小峰ひずみ「吉本隆明から受けとり、吉本隆明からはじめる」鹿島茂発言)
調子に乗って、よくもまあ、こんなことが言えるものだ。
猫 鹿島茂は一九四九年生まれ。東京大学入学はおそらく一九六七年あたりだ。その当時、鹿島茂は自分に忙しく、吉本隆明の声が映っていないだけだ。馬券買ってレースに夢中の者に声を掛けても聞こえないようにな。それは致し方ないことだ。しかし、それから半世紀以上経っているのに、「長い沈黙」「一言も言わない」などというのはデマゴギーに等しい。
先日、二〇年の刑期を終えて出所した重信房子の姿を見て、「ほんとうによく闘ったな」とおもった。わしは赤軍派に同調しないし、彼らの活動を支援したこともないけれど、その闘いはみてきた。中卒のじぶんの身すぎ世すぎや、あの時代の体験を重ね合わせるようにして。その信頼度は鹿島茂や内田樹などとは較べものにならない。
松 鹿島茂は、宮下和夫の手掛けた講演集『情況への発言』(徳間書店)を無視している。これを抜かすと、吉本隆明の六〇年代後半の状況との関わりが見えないことになる。また鹿島茂は怠慢で、おそらく『吉本隆明全著作集14 講演対談集』(勁草書房)も『吉本隆明全質疑応答? 1963〜1971』(論創社)も読んでいない。これらを参照していれば、自らの間違いに気がついたはずだ。そこで講演を中心とした「年譜」を掲げることにした。
一九六七年(昭和四二年・四三歳)
一月一日 「《共同幻想論》三 巫覡論」 『文藝』一月号
一月八日 講演録「情況とは何か」 『同志社評論』創刊号(講演日・一九六六年一〇 月三〇日)
二月一日 「《共同幻想論》四 巫女論」 『文藝』二月号
二月一〇日 講演録「「国家幻想と大衆のナショナリズム」上」 『梁山泊』巻之五別 冊付録(講演日・一九六五年一一月二一日)
三月一日 「《共同幻想論》五 他界論」 『文藝』三月号
三月六日 講演「天皇制について」主催・出版研究会 会場・(株)文藝春秋の会議室
三月一〇日 『試行』第二〇号発行。
四月一日 「《共同幻想論》六 祭儀論」 『文藝』四月号
四月一日 対談「どこに思想の根拠をおくか」(対談者・鶴見俊輔) 『展望』四月号 [鶴見俊輔は「ベトナムに平和を!市民連合」の提唱者]
四月二八日 講演「「共同幻想論」について」 主催・埼玉大学教養学部学友会 埼玉 大学新入生歓迎講演会会場・同大学
六月一〇日 『試行』第二一号発行。
九月五日〜一〇月三日 講演 東京YMCAデザイン研究所・一般教養における講演四 回ほど・内容不明 会場・同研究所
九月二五日 『試行』第二二号発行。
一〇月八日 佐藤栄作首相は、この日、南ベトナムをはじめとする東南アジア・オセア ニア諸国に出発。これに対し、この二日前の六日、日比谷野外音楽堂で開かれた「佐藤訪ベト阻止全学連統一集会」に参加した三派全学連(中核派、社学同、社青同解放派)、革マル全学連、反戦青年委員会などは、抗議デモを敢行。第一次羽田闘争。この衝突で中核派に所属の京都大学生の山崎博昭死亡。
一〇月一二日 講演「現代とマルクス」主催・中央大学学生会館常任委員会 会場・中 央大学学生会館六〇二号
一〇月一四日 講演「文学の役割」主催、場所、内容不明 立教大学における講演
一〇月二一日 講演「国家論ー2ーナショナリズム」主催・早大独立左翼集団 会場・ 早稲田観音寺
一〇月二四日 講演「詩人としての高村光太郎と夏目漱石」主催・東京大学三鷹寮委員 会 東京大学第一七回教養学部三鷹寮祭における講演 会場・同三鷹寮
一〇月三〇日 講演「自立的思想の形成について」主催・岐阜大学文化祭実行委員会 会場・岐阜商工会議所 討論会(出席者・竹内良知、いいだもも、吉本隆明)
一一月一日 講演「調和への告発」主催・明治大学駿台祭二部実行委員 明治大学第八 六回駿台祭における講演 会場・同大学新学館五階ホール
一一月二日 講演「個体・家族・共同性としての人間」主催・東京医科歯科大学新聞会 東京医科歯科大学第一六回お茶の水祭における講演 会場・同大学
一一月四日 講演「思想の自立とは何か」主催・立正大学研究会連合事務局 立正大学 橘花祭における講演 会場・同大学
一一月五日 講演「下降からの上昇 ?詩的論理にみる思想の発掘」主催・早稲田大学 早稲田祭実行委員会 早稲田大学早稲田祭における講演 会場・同大学大隈講堂
一一月一一日 講演「幻想?その打破と主体性」主催・愛知大学愛大祭本部 愛知大学 第二一回愛大祭における講演 会場・同大学豊橋校舎九号館
一一月一二日 講演「再度状況とはなにか」共催・京都大学文学部学友会十一祭準備委 員会、「光芒」同人会、映演連 京都大学第九回十一月祭記念講演における講演 会場・同大学法経四教室(朝)
一一月一二日 講演「幻想としての人間」主催・花園大学新聞会花園大学本館落成記念 講演における講演 会場・同大学(昼)
一一月一二日 佐藤首相の訪米にたいする抗議デモで、警官隊と衝突。第二次羽田闘争。
一一月一四日 講演録「現代とマルクス主義(上)」(原題「現代とマルクス」) 『 中央大學新聞』第八〇八号(講演日・一〇月一二日)
一一月二〇日 講演録「個体・家族・共同性としての人間」 『医歯大新聞』一一月号 (講演日・一一月二日)
一一月二〇日 講演録「再度情況とはなにか」 『京都大学新聞』第一三五三号(講演 日・一一月一二日)
一一月二一日 講演録「現代とマルクス主義(下)」 『中央大學新聞』第八〇九号( 講演日・一〇月一二日)
一一月二一日 講演「人間にとって思想とは何か」主催・國學院大學文芸部 共催・國 學院大學文化団体連合会 國學院大學第八五回若木祭における講演 会場・同大学 四一二番教室
一一月二六日 講演「幻想としての国家」主催・関西大学学生図書委員会 関西大学千 里祭における講演 会場・同大学
一二月九日 講演「二葉亭と漱石 ー現代における文学の二つの側面」主催・京浜詩の 会 京浜詩の会第七一回例会における講演 会場・川崎市・太田綜合病院講堂
一二月一四日 講演録「幻想としての人間」 『視点』創刊号(講演年月日・一一月一 二日)
一二月三〇日 『試行』第二三号発行。
一九六八年(昭和四三年)
一月一七日 講演録「自立的思想の形成について」 『岐阜大学新聞』第一六四号(講 演日・一九六七年一〇月三〇日)
一月二三日 アメリカ原子力空母、佐世保に入港。連日の学生・市民の抗議行動。
三月七日 講演「高村光太郎について ー鴎外をめぐる人々ー」主催・文京区立鴎外記念本郷図書館 第一九回「鴎外をめぐる人々」における講演 会場・同図書館
四月二日 父・順太郎死去。[父親の病気が「共同幻想論」の雑誌連載の中断の主因と 思われる]
四月三〇日 『試行』第二四号発行。
五月一日 対談「現代の文学と思想」(対談者・高橋和巳) 『群像』五月号[高橋和 巳は全共闘運動に対する最大の理解者]
五月一九日 フランスの「五月革命」
この月のはじめ、大学の学生のデモが多発、凱旋門の占拠もあり、警官隊との衝突 は激しくなる。一三日にはパリの学生と労働者がゼネラル・ストライキを決行、一九日にはフランス全土に拡大した。
七月二五日 講演「自立的思想形成のために」主催・東京都世田谷社会研究会 会場・ 不明
八月一〇日 『試行』第二五号発行。
八月一五日 『情況への発言 吉本隆明講演集』(徳間書店)
安保闘争後八年の情況論。一七講演収録。
八月二〇日 ソ連軍、チェコスロバキア侵入。チェコ民衆は非挑発的抵抗運動で闘う。
九月一日 「学生について」 『新刊ニュース』第一五三号[吉本はいろんな大学で講 演した感想を述べている]
九月一日 鼎談「芸術と現代 ーわれわれにとって映画とは何か」(吉本隆明・石堂淑 朗・小川徹)『映画芸術』九月号[講演に臨む姿勢について語っている]
一〇月一日 対談「思想と状況」(対談者・竹内好) 『文藝』一〇月号[竹内好は魯 迅から毛沢東にいたる日本における中国文学の第一人者]
一〇月一四日 講演「共同体論」主催・内容等不明 会場・東京大学駒場
一〇月一六日 講演「現代政治過程における我々の自立とは何か」主催・駒沢大学新聞 会 社会学会共催 駒沢大学大学祭講演会における講演 会場・同大学八号館〇五〇教場
一〇月二一日 米軍ジェット燃料タンク輸送に抗議行動。騒乱罪適用。
一一月二日 講演「北村透谷と近代」主催・早稲田大学早稲田祭実行委員会 早稲田大 学第一五回早稲田祭における講演 会場・同大学大隈講堂
一一月三日 講演「現実存在としての我々」主催・上智大学ソフィア祭実行委員会 上 智大学創立五五周年、ソフィア祭記念講演会における講演 会場・同大学?号館講堂
一一月九日 講演「新約書の倫理について」主催・フェリス女学院大学大学祭実行委員 会(学生) フェリス女学院大学「大学祭」における講演 会場・同大学三四三教室
一一月一五日 講演録「現実存在としての我々」 『上智大学新聞』第二一四号(三日 の講演記録)
一二月一日 『試行』二六号発行。
一二月五日 『共同幻想論』(河出書房新社)
収録内容・序(一部に『ことばの宇宙』インタビュー「表現論から幻想論へ」再録) / 禁制論/憑人論/巫覡論/巫女論/他界論/祭儀論(以上『文藝』初出)/母制論(以下書下し)/対幻想論/罪責論/規範論/起源論/後記
▼この年、講演「言葉について」 主催・日本大学文理学部 場所・日本大学桜上水の校舎 日時・内容等不明。
一九六九年(昭和四四年)
一月一七日 講演「大学共同幻想論」主催・中央大学全中闘カリキュラム部・学生会館 管理運営委員会 中央大学自主講座における講演 会場・同大学学生会館
一月一八日〜一九日 東京大学の安田講堂などを占拠している学生を排除するため、加藤一郎東京大学総長代行が警視庁に機動隊を要請、八〇〇〇人以上の機動隊は大量の催涙ガス弾を投入する実力行使により封鎖を解除。
二月一〇日 講演録「新約的世界の倫理について」 『パイデイア』第四号(講演日・ 一九六八年一一月九日)
二月一七日 講演「詩とことば」主催・テック言語教育事業グループ 一九六八年度言 語科学公開講座における講演 会場・渋谷区カスヤビル
三月一日 連載・「情況1 収拾の論理と思想の論理」『文藝』三月号[この論稿で加藤 一郎や丸山真男を徹底批判]
三月一日 講演録「大学共同幻想論」 『情況』三月号 中央大学自主講座における講 演(講演日・一月一七日)
三月一三日 講演「自立と叛逆の拠点」主催・中央大学全中闘カリキュラム部・学生会 館管理運営委員 三・十三中大闘争報告集会における講演 会場・神田共立講堂
三月二五日 『試行』第二七号発行。
これをみれば、鹿島茂の思い込みによる〈誤認識〉は明白だ。吉本隆明は紛争中の大学に出向き、直接学生たちに語りかけている。なにが「長い沈黙」だ、どこが「一言も言わない」だ。
猫 吉本隆明はまだ江崎特許事務所に勤めていて、隔日勤務の間に講演に行っている。しかも、自家発行の『試行』をほぼ季刊ペースでつづけながらだ。一九六七、八年の二五講演のうち、二一講演は大学(関係)なのだ。それは学生との激しい応酬を伴ったもので、國學院大学の場合のようにセクトの妨害に直面し、吉本隆明は演壇を下りて学生の胸ぐらをつかみ、殴り合い寸前になったこともある。講演の主な基調は鶴見俊輔・小田実らのベ平連運動の批判、エンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』をはじめとするマルクス主義批判など、情況を真正面に見据えたものだ。
松 もうひとつ重要なことをいえば、『試行』二〇号(一九六七年三月)と『試行』二七号(一九六九年三月)のふたつの内村剛介との往復書簡による「情況への発言」を、鹿島茂は全く考慮に入れてない。これは中共の「文化革命」をめぐるもので、当時の全共闘運動は少なからず中国の文化大革命と毛沢東思想の影響を受けている。その思想を批判したものだ。当時の思潮でいっても、竹内好、武田泰淳、橋川文三、高橋和巳などはもとより、『試行』創刊同人の谷川雁も中国を尊重していた。
いなずまが愛している丘
夜明けのかめに
あおじろい水をくむ
そのかおは岩石のようだ
かれの背になだれているもの
死刑場の雪の美しさ
きょうという日をみたし
熔岩のなやみをみたし
あすはまだ深みで鳴っているが
同志毛のみみはじっと垂れている
ひとつのこだまが投身する
村のかなしい人達のさけびが
そして老いぼれた木と縄が
かすかなあらしを汲みあげるとき
ひとすじの苦しい光のように
同志毛は立っている
(谷川雁「毛沢東」)
鹿島茂自身がどうだったかよりも、この流れの果てに連合赤軍へ至り、新左翼間の殺し合いの内ゲバを経て、学生運動は衰退したんだ。また、この中には東大全共闘の最首悟への批判も含まれている。それについても知らん顔だ。小峰みたいなかけ離れた世代の者は騙せても、同時代を生きたものを欺くことはできはしない。そうだからといって、鹿島茂の吉本隆明への言及を全否定するつもりはないけどね。
猫 鹿島茂は自分のことに目がくらんでいるというか、重きを置きすぎなんだ。だから、吉本隆明の戦後の労働組合や六〇年安保闘争の闘いの実質をみることができない。その体験による既成左翼の否定と新左翼諸党派に対する齟齬と対立を、つまり、吉本隆明にとって、革マル派は日本共産党と新日本文学会に次ぐ敵対勢力であり、中核派は絶対に許すことができない裏切り党派なんだ。それが吉本隆明の〈位相〉だ。手放しの三派全学連支持も、全国全共闘形成の容認もあり得ない。鹿島茂はたかが東京大学でゲバ棒を振り廻したくらいで浮かれるんじゃないぜ。そんなことをいうなら、わしだって日共=民青と乱闘をやったことも、機動隊に突撃したことも 逮捕されたこともあるさ、そんなことはみんな過ぎちまったのさ。それでも残っているものがあるとしたら、それが何かだ。
鹿島茂はおまえが編集した『憂国の文学者たちに』(講談社文芸文庫)の「解説」を書いていただろう。
松 あれは版元の意向だ。鹿島茂は『吉本隆明全集』(晶文社)をテキストに『ちくま』の連載に取り組んでいる。昔読んだ記憶で手を染める連中よりはいいとおもい、反対しなかった。だけど、あの「解説」は鹿島茂も「憂国の文学者たち」の一人であることを物語るものでしかない。なにが「超巨大IT独占産業が世界を覆い」だ、こんなことをアリバイ的に持ち出すところが、その陳腐さなのだ。ひとびとが現在直面しているのはそんなことじゃない。生理用品さえ購入できない貧困とマイ・ナンバーや犬・猫へのマイクロチップ埋め込みの義務化などの高度管理社会の息苦しさだ。リッチな書斎派にはそんな実感はないかもしれないけどね。
猫 鹿島茂の「いまこそ、吉本隆明再評価の時機」という解説の《吉本の新刊や雑誌発表記事を注意深く読んでいた》というのが偽りであることは既に証明済みだが、それ以上に問題なのは〈他者へのコミット〉の仕方だな。鹿島茂は無難なことしか言っていないし、過去になったことに安堵して、啓蒙的な講釈を垂れているだけだ。そこには吉本思想と格闘し血を流すことも、おのれの立場が危うくなるような軋みもない。それが決定的な弱点だ。だいたい『共同幻想論』は先の、マルクスの概念を深化させながら、〈アジア的な共同体〉の起源と形成に迫ったものだ。ヘーゲルーマルクスの理解なくして、その解読は成り立たないとおもう。だけど、笠井潔や前田英樹や川村湊みたいな思考硬直の連中と較べたら、はるかに鹿島茂の方がいいぜ。
松 それは小熊英二みたいなデマゴギーを行使する輩より、上滑りとはいえ安藤礼二の方がずっと真摯で信用できるのと同じだね。鹿島茂の『ちくま』の連載「吉本隆明2019」は続いている。現在までの最大最強の《吉本隆明論》は、間宮幹彦による『吉本隆明全集』だ。あれは〈論〉じゃなく〈編集〉というかもしれないけれど、『言語にとって美とはなにか』に拠るならば、当然、編集も〈表現行為〉なのだ。鹿島茂にはそれに迫るところまで論を展開してほしいと思っているさ。
猫 おまえ、再録された樋口良澄「物語を書く吉本隆明」にもひとこと、あるんじゃないか。
松 樋口良澄は『さよなら吉本隆明』の時は、『週刊新潮』に発表された三つの掌篇について「これまで単行本に収録されることは無く、各種年譜にも記載されていない」と書いて、自らの無知と不見識をさらけ出したんだけど、今回の再録では修正されている。でも、どこにも反省の弁はない。
猫 「坂の上、坂の下」「ヘンミ・スーパーの挿話」は『日々を味わう贅沢』(青春出版社・二〇〇三年)に収録されていたし、随時更新されているインターネット上の吉田惠吉主宰「高屋敷の十字路 隆明網」の「著作リスト」にも、高橋忠義の「年譜」(『吉本隆明詩全集』栞・思潮社二〇〇七年)にも記載されていた。樋口はそんなことも知らずに、得意げに書くから、軽薄才子にすぎないことを自己暴露することになったんだ。
松 吉本さんから聞いた話では、吉本さんが阪神大震災の時、『サンサーラ』の連載時評で、ダイエーの動きを評価した。そのことに好印象をもったダイエーは、『週刊新潮』の巻末の広告ページに、各テーマごと、吉本さんを指名したそうだ。ただ字数制限が厳しく、短くまとめても、どうしても内容上オーバーしてしまう。それで仕方なく削除したそうだ。吉本さんは「やっぱり、もう少し紙幅に余裕があれば、納得がいくものになったのに」と言っていた。
猫 初期の作品と通じるものがあるな。「順をぢの第三台場」(二〇〇三年)の、
海風の 赤いぐみの せんせいせんせい
という俳句は、『和楽路』一九四一年五月号の「随想」に出てくる。それを六二年後に捉え返したものだ。初期(一七歳)の習作と晩期(七九歳)の筆致との相違はあっても、少年期への愛着とそれを取り巻く家族への思いという点では変わりないな。
松 それが吉本隆明の源泉なのだ。吉本さんとの話のつづきをいうと、そのあとコンビニの話になり、ダイエー系列のローソンよりも別のコンビニ(ファミリーマートあるいはセブン・イレブン)の方がいい、ダイエーは停滞気味だというところまで及んだ。その後ダイエーは消滅した。世の中の変貌は凄まじい。
猫 過ぎゆく時代と群像。そういうことでいえば、大阪の久住幸治さんのロシアの侵攻に対する、〈一九六九年一月一九日の東大安田講堂の時計台〉からのアジ演説は痛快だった。ヤルタ・ポツダム体制の打破を主張し、プーチンに死を、と叫んでいる。「異議なし!」と思ったのは次の箇所だ。
「天皇とその一族」が「公民権」を獲得し、「平民」になることこそ「自由」であり、「真の国民主権実現」なのだ。「象徴天皇制」とは、ニセ天皇制であり、永続的に「戦争責任」の罪を負うことであり、これは「日本共産党」の「これまでの親ソ・親中などの、ジグザグ路線」の責任を追及されないですむ、「現状維持」路線。その「安心」こそ「ニセ国民主権」とつりあっている。(久住幸治「通信二〇二二年二月二六日」)
松 いまだに久住さんは籠城しているんだね。
(インターネット「猫々堂フレーム」(吉田恵吉主宰「高屋敷の十字路 隆明網」)2022年7月3日掲載)
猫 おまえ、まったく知識もないくせに、よく『詩歌の呼び声』(論創社)や『ことばの力 うたの心』(幻戯書房)などの編集ができるな。
松 それは吉本隆明の著作を細大漏らさず読んでいるからだよ。
猫 短歌の世界なんて無縁で、なにも知らないだろ。お花(華道)やお茶(茶道)の世界と同じで、お師匠さんが添削する結社の世界だ。野良猫同然のおまえとは隔絶している。
松 でもさ、日本の詩ということでいえば、どうしても視野に入ってくるよ。歌は万葉集、俳句は芭蕉、それじゃ済まないからね。
猫 文学なんかに関心のない人を想定すると、年代にもよるだろうが、石川啄木の《はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る》とか、俵万智の《「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日》くらいじゃないのか。短歌が届いているのは。
松 そういうことは決めつけない方がいいような気がするな。むかし暴走族の兄チャンたちが熱中してたマンガが、あだち充『みゆき』だったりしたからね。あれ一本で『少年ビッグコミック』はもっていたんだ。ヤンキーは「アウトローもの」を好むなんて思ったら、見当を外すよ。だけど、素養がないというのはつらいね。おれ、『野性時代』の巻末アンケートの「月を見て一言」という問いに、吉本さんが《月天心貧しき街を通りけり》と答えていて、本人の作と思ったからね。それで『詩歌の呼び声』の「解題」にそう書いていたけれど、土壇場になって与謝蕪村の句と判り、慌ててその部分を削除したよ。
猫 だから、柄に合わないことはやらない方がいいんだ。
松 いや、そのことを自覚していれば、慎重になる面もあるさ。よく知らないから、引用の歌を原典にあたり、確認作業を怠らないように心がけるからね。例えば「岡井隆の近業について」に横光利一の《河の石青みどろ濃く雷来る》という俳句が出てくるんだけど、『「芸術言語論」への覚書』では「河の水」になっていたけど、これは吉本さんの記憶違いで、調べたら「河の石」だった。
猫 思い入れがない分、冷静で客観的に接することもできるかもしれないな。
松 勉強にはなったね。いまさら、この齢になってという思いもあるけど、新たな開眼というのは悪くないよ。『資料集』に「吉本隆明歳時記」の初出を収録する際、図書館で長塚節の歌集を借りてきて読んだけど、結構いいじゃんと思ったからね。《明るけど障子は楮の紙うすみ透りて寒し霰ふる日は》なんて、子どもの頃、夜中に起きて、障子越しの月あかりをたよりに厠へ立ち、障子を開けると、冷気が侵入してくるんだ。そんな少年時をまざまざと思い出した。岡井隆なら《灰黄の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ》、寺山修司なら《マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや》。
猫 その調子でいけば、福島泰樹は《死ぬるなら炎上の首都さもなくば暴飲暴食暴走の果て》となるだろうな。
松 『ことばの力 うたの心』についていうと、あれは「短歌論集」となっているけれど、ほんとうは〈歌人論〉として編集したものだ。だから、「歌集『おほうなはら』について」などは対象としなかった。なぜなら、昭和天皇も黒田寛一も〈歌人〉ではないからだ。
猫 そういうなら、おまえの歌人の〈定義〉を示さないとな。
松 別に難しいことじゃないよ。要するに、歌人や詩人というのは、詩や歌(ひいては文学)に軸足をかけた存在を指すんだよ。もし「短歌論集」として編んでいたら、当然昭和天皇や黒田寛一の歌に言及したものも、「短歌命数論」なども収録しないといけない。この本の成立経緯をいえば、おれは当初、発表年代順に歌人論を並べ、歌人との対話も全部収録する計画だった。例外的に含まれていたのは、短歌の集まりの講演「詩的な喩の問題」だ。
猫 なるほど。
松 これに対して、版元の意向は社の創業者である辺見じゅんを除いて、対談は全部除外したいということだった。そこで、おれは構想を練り直した。巻頭に「三種の詩器」を新たに持ってきて、歌人論は生誕順にすることにした。長塚節から俵万智へいたるように。そして、結びに「詩的な喩の問題」を持ってくることにしたんだ。
猫 まあ、いろんなアドバイスに基づいて、考え直すことは悪いことじゃない。
松 自信のある人は別かもしれないけど、おれみたいな素人は、誰かの協力を仰がないといろいろと至らない面があるからね。そういうやりとりを経て、初校のゲラが出た。それをみると、その方が売れると判断したのか、寺山修司との対談が復活していた。おれの方も「折口の詩」は詩作品を扱ったものなので外していたけれど、やっぱり歌人論で折口信夫を落とすわけにはいかないと思い、収録するように追加提案したんだ。おれなりに力を注いだ結果があの本だ。それと帯の「ぼくは短歌に執着している、つくらないけれども、読むことに執着している。」という、寺山修司との対話の中のことばは、本の性格をよく表している。あれは版元のセンスによるものだ。
猫 事情は分かった。ところで、今年の夏も暑いよな。
松 エアコンなしでは生活できない。それでも先日、台所の椅子に坐っていたのに、目まいの感じがした。手の甲の皮膚を引っ張ると、なかなか元に戻らなかった。水分を補給し、じっとしていたら治まった。
猫 熱中症だろうな。
松 うん。安倍銃撃は驚いた。誰も巻き添えにすることなく、確実に仕留めたことは凄い。
猫 わしは手製の武器から連想し、『鬼滅の刃』を思い浮かべ、「不死川玄弥 上弦の鬼を退治す」と思ったな。「民主主義を守れ」とこぞって嘘を言っているが、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会など、一切責任を取ることなく、居直り続ける〈鬼〉の所業に対して、法も民意も届かなかった。この国にほんとうの民主主義など存在しない。小沢一郎が言ったように、これは「政治の驕りが招いたもの」だ。
松 おそらく彼には彼の事情があり、〈鬼殺〉の決意を固めたに違いない。
猫 不死川玄弥は親父が図体のでかいろくでなしで、子どもを殴り、母親はいつも子どもたちを小さな体で庇っていた。その挙句、父親は人から恨まれ刺されて死んだ。兄の実弥は「家族は俺たち二人で守ろう。親父は刺されて死んじまった」「これからは俺とお前でお袋と弟たちを守るんだ。いいな?」と玄弥にいう。ところがある夜、「母ちゃん戻ってこないね 大丈夫かな」「大丈夫だって兄ちゃんが捜しに行ってくれてるから」ときょうだいで話していたら、戸を強く叩く音がして、母親と思って開けると、瞬時に弟や妹は襲われ、玄弥は獣、野犬、いや狼とおもう。そこへ実弥が飛び込んできて、「玄弥、逃げろ」といい、その得体の知れない化け物を屋外へ担ぎ出すんだ。玄弥が医者を呼びに外に出ると、実弥がナタで母親を切り殺していた。玄弥は「母ちゃん」「何で母ちゃんを殺したんだよ」「人殺し!」と叫ぶ。兄は黙って立ち去る。後で気がつくと、家族を襲ったのは鬼になった(された)母親だった。じぶんたちを守るために鬼を退治した兄を非難した自責の念から、玄弥の凄惨な道ははじまっている。
松 伝えられている情報に拠れば、山上徹也は統一教会の被害者だ。統一教会は岸信介が日本に呼び込んでいる。独裁体制にあった南朝鮮とあまり交流のない段階に、政治的に利用できると考え、教祖の文鮮明を招いたんだ。一九六四年、日本において正式の宗教団体と認められた。そして、一九六八年四月には勝共連合を作った。笹川良一などの後押しを受けたものだ。さらに母体である統一教会は霊感商法などによって、多くの人々を食いものにしてきた。「あなたの主人の霊魂は天国に行けず、さまよっている」などとひとの心の弱さにつけこみ、財産をまきあげる手口だ。安倍晋三(岸三代目)に対しても多額の政治献金と選挙支援の見返りに、その活動の保証を得ていた。安倍の方もビデオメッセージを送り、機関誌の表紙に六回も登場しているんだ。三代にわたる密接なつながりは歴然としている。そして、この幾層にもガードされた壁によって、統一教会の被害に遭った人たちの殆どは泣き寝入りしてきたんだ。
猫 安倍晋三の数々の悪行のうち、その上位にくるのは政府の機密費を大幅に増やし、使途不明の予算を増大したことだ。これは主権在民という憲法の理念に背反するものであって、政治権力による闇の拡大といっていい。これも政治権力の暴走の要因をなすことは確実だ。そんな安倍の意向を汲んで、森友の籠池夫婦は不当にも長期にわたって拘留された。そんな政治的忖度が横行する世の中なのだ。
松 安倍晋三が海外で評判がいいのは、事あるごとに、飛行機に乗って外国へ遁走したからだ。専用機の機上は側近で固められ、どんな相談をしても、外部に漏れる心配はない。その回数は、歴代の首相では断トツだ。当然、外国を訪れるには手ぶらというわけにはいかない。つねに税金を使って「経済援助」などの手土産を持参した。露骨な武器の爆買いで潤ったトランプ元大統領の賞賛がその象徴だ。
猫 今度の選挙結果を持ち出すまでもなく、もう選挙によるこの国の改革は難しいだろう。そういう意味でいえば、オール与党化と政治家の支配力に対する、安倍銃撃は「国民をなめるな」という明確なメッセージじゃないのか。自己意志の発現でしか共同幻想に対抗することができないという状況に、わたしたちは追い込まれているんだ。それだけ政治支配と利害関係の岩盤は強固で、それに加えて、NHKを先頭に統一教会との関係を伏せて、ぼかすように世論操作している。これも政府の指示だ。
松 「国葬」「勲章授与」などの葬送イベントがつづくだろう。それが絶対的大勢を占めるだろう。おれのような考えは異端で少数派ということになるだろう。でも、おれはそうは思っていない。支配・被支配という構図に還元すれば、その否認の意志において、永続的であり、潜在的多数派なのだ。それはひとびとが日々暮らしていること自体が政治や法の規定を越えているからだ。
猫 おまえはテロ行為を肯定するのか。
松 しない。山上徹也は不可避的にそこまで追い込まれたんだ。おれはその〈不可避性〉ということを、誰がなんと言おうと尊重する。本質的にいって、殺人は自己抹殺でもある。だから、どんなに批判を持ち、くたばれと思っていても、そいつと刺し違えるつもりはない。なぜなら、そんな奴よりも、じぶんや家族がはるかに大切だからだ。
猫 それは〈人間的尊厳〉の問題だな。いずれにしても、死は類的本質への同化ということだから。巷間で言われているように、「一人殺せば殺人、千人殺せば英雄」ということでいうなら、戦争における殺戮はほぼ全面的に共同意思(幻想)に従属する。だから武勲の将軍の銅像が建立されるんだ。これが自己と共同性との〈逆立ち〉の究極的な現れといえる。これを切断し、解消することが人類の理想の方位であることは、いまさら言うまでもないことだ。
松 岸信介は戦前・戦中の大陸における阿片をめぐる暗躍でA級戦犯に指定された。占領軍の方針転換によって公職追放が解除され、日米安保条約を結ぶ際には総理大臣になっていた。「反共」という政治利害で一致した岸らが統一教会を日本に導き入れたんだ。また佐藤栄作(岸二代目)は造船疑惑で議員辞職になりそうになった時、指揮権が発動されて免罪になっている。そして、ベトナム戦争においてはアメリカ支援に力を注いだ。ベトナムの人々の惨殺に加担したんだ。アメリカ軍による絨毯爆撃は、太平洋戦争末期のB29による空襲の延長線上の戦術だ。その後押しをした佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。この時ノーベル賞なんて所詮、主催国の政治的思惑による国際的イベントのひとつにすぎないと思うようになった。沖縄返還におけるアメリカとの密約ひとつ取っても、佐藤栄作がいかに国民を欺いてきたかは歴史的事実が示す通りだ。
猫 安倍晋三が死んで、もっとも喜んでいるのはその後釜を狙っている連中じゃないのか。まだ通夜も葬儀も終わっていない段階に、衆議院の山口県選挙区の補欠選挙の日程が発表されたようにな。
松 高校時代に生徒会の役員の停学処分に反対するビラを街中で配ったりしていたんだけど、勝共連合の連中と遭遇することが何度もあったね。やっていることは同じでも、考えや立場はものすごく離れていたから、トラブルになることはなかった。勝共連合は女性が多かったね。話をしたこともあるよ。信ずればどこまでもという感じで、「共産主義は間違っている」の一点張りだった。観念的な刷り込みによる妄想に近い。足が地面についていないと思ったけど、どういう教唆に基づいているのかは知らないし、興味もなかった。おれたちは学校の制服制度に異議を唱え私服登校を決行したり、学園祭でバンドの出演の舞台を作るように学校側と粘り強く交渉したり、反戦デモに参加したりして処分された、三人の友達を守ることが目的だったからね。全く発想の基盤が違っていた。
猫 吉本隆明は世界基督教統一神霊協会の教典である『原理講論』を次のように批判している。
『原理講論』のいうところでは、「ヨハネの黙示録」の七章二〜四には、ひとりの天使が生きた神の刻印をもって、太陽の出る東の方角から上ってきて、十四万四千人に刻印が押されると記してある。イエス・キリストの再臨が東の方の国々にあることは、はっきり示されている。この東方の国というのは韓国・日本・中国の三つのことだ。日本は過去に韓国を属領化して、韓国のキリスト教を過酷に迫害した。また中国は共産主義の国になった。この二つの国はどれもサタン側の国家だ。したがってイエス・キリストが再臨する東方とは韓国のほかにはない。韓国がイエス・キリスト再臨の国になれば、韓国の民族が第三のイスラエル選民だということになる。第一の選民は旧約のアブラハムの子孫のイスラエル人だった。第二の選民はイスラエル選民から異端として追われて復活したイエス・キリストを信仰するキリスト教徒たちだ。だが第三のイスラエル選民はキリスト教から迫害され異端視された韓国の民衆だ。そしてそのためには「四十日サタン分立基台」を立てなくてはならない。この「四」の数字にあたる年数(四十年)、サタン側の国家である日本から属領にされて苦難を受けた韓国国民と国家には第三のイスラエル選民としての資格が具わっている。韓国はかくして神のもっとも寵愛する第一線であるとともに、三八度線を境にしてサタンの国と接している第一線でもあることになる。韓国にイエス・キリストが再臨することは、仏教では弥勒仏、儒教では真人、天道教では崔水雲、「鄭鑑録」では正道令があらわれるというように、宗教によってそれぞれ違う形で伝承されてきた。それらはイエス・キリストの再臨である文鮮明の出現を宗派の言葉で予言したものだといえる。そして文鮮明を教組とする統一教会は、これら韓国のたくさんの宗教はもちろんのこと、世界中の宗教をとりあつめて統一する課題をになっている。そのばあい韓国語が神に選ばれた世界共通語になる。
何という夜郎自大な馬鹿話だ。阿呆らしくて聞いていられないと誰しもおもうに違いない。それが常人の神経というものだろう。だが思い込みや信じ込みの世界にとっぷり浸ってしまえば、夜郎自大話ほど強固な内閉の壁をつくりやすい。それが、人倫の世界なのだ。つい半世紀まえまで、日本国や日本人は八紘一宇などという阿呆なスローガンに浸り込んでいた。
(吉本隆明『消費のなかの芸』)
現在の日韓の政治摩擦を持ち出すまでもなく、とうてい安倍晋三の政治信条や思惑とは相容れないものだ。なぜなら、この教義によるならば「日本はサタン側の国家」と規定されているからだ。
松 それでも政治的に利用できると判断すれば、無節操にも〈結託〉する。それが安倍晋三の本性であり、「カネと権力のため」ならなんでもやってきたことの証明だ。「韓国語が神に選ばれた世界共通語」なんていう妄言を信者以外の誰が受け容れるというんだ。死んでなお、鬼の始祖・鬼舞辻無惨のように思っているかもしれない。「しつこい」「身内が殺されたから何だと言うのか」「自分は幸運だったと思い元の生活を続ければ済むこと」「何も難しく考える必要はない」「雨が風が山の噴火が大地の揺れがどれだけ人を殺そうとも天変地異に復讐しようという者はいない」「いつまでもそんなことに拘っていないで日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」「殆どの人間がそうしている」「なぜお前たちはそうしない?」と。この驕慢がろくでもない最期を招いたのさ。
猫 そうだな。『鬼滅の刃』第一三巻の表紙は不死川玄弥だ。そこに描かれた銃が、山上徹也の使用した手製の銃と似ていたから、それで玄弥に准えたんだ。子どもの頃、手作りの銃が流行ったことがある。村の多くのガキどもが競って作った。もちろん、わしも作った。木切れや生木を台座に、それをくりぬいて、そこに傘の中棒(筒)を切断し、芯に埋め込み、銃身にした。撃鉄は釘を叩いて細工し使った。市販の紙火薬をほぐして、銃身に詰め、弾はなにを使ったか忘れてしまったけれど。紙火薬を点火に用い、引き金を引くと、輪ゴムで縛った撃鉄で紙火薬が破裂し、それで発火する仕組みだった。出来上がった物を持ち寄り、みんなで板の標的めがけて発砲していた。わしは手先が不器用で良い感じの物にならなかったが、下の家のヨシモリが作ったのがもっとも性能が良く、小鳥を撃ち落としたこともある。危ない遊びだけど、流行りというのは恐ろしいもので、たぶん学校中に広がっていたはずだ。ところがある日、学校から全校生徒に危険な遊びは止めるように通達があった。手作りの銃が暴発して指を飛ばした生徒が現れたからだ。それはとても生々しく、みんな怖ろしくなり止めた。
松 流行は過ぎてしまえば、誰も見向きもしない。この頃、将棋や花札も覚えた。山や川の猟の仕方なんか学校は教えてくれない。村の仲間による伝承から全部学んだんだ。
猫 子どもの世界は奇妙だ。独自の価値観が流通する。忍者なんて存在しないのに、リアルにそうなれると思い込むことだってあるからな。もぐらみたいに地にもぐったり、猿のように跳躍し、木から木へと飛び移ることができると。わしは世界陸上をみて思ったが、もともと競歩という競技は不自然な歩行で、あんなもの止めた方がいい。現実的にいっても、なにか身の危険が迫ったら、みんな走って逃げるんだ。それを三分間しか持たないウルトラマンや電線を引きずっているエヴァンゲリオンの世界じゃあるまいし、歩き方に制約を設けるなんてデカダンスだ。それと走り高跳びは限界競技とおもった。自身の身長プラス何十センチしか跳べないんだ。殆ど競技としての伸びしろはない。
松 でも、鮮やかな助走や跳躍、バーをクリアする姿は美しいよ。
猫 『鬼滅の刃』の時代設定は大正。主人公の竈門炭治郎は山に住み、炭焼きを生業に、母と五人のきょうだいと暮らしている。ある年の瀬、雪の積もった中、町へ炭を売りに山を下りる。炭治郎は町でも人気者で、炭売りのついでに、町の人たちの手伝いをしたりする。それで日の暮れになり、帰途に就くが途中で三郎爺さんに呼び留められ、夜になると人食い鬼が出る。危ないから泊まってゆけ、朝早く起きて帰ればいいと言われ、その通りにする。雪の道を家に帰ると、母も弟も妹も殺されていた。ただ一人生き残った妹の禰豆子は鬼にされている。これが物語の発端だ。「なんでこんなことになったんだ」という思いを胸に、炭治郎は禰豆子を人間に戻すため出立する。〈動機〉は炭治郎も玄弥も、そして山上徹也も同じだ。
松 吾峠呼世晴は白土三平『サスケ』や横山光輝『伊賀の影丸』などのマンガのおもしろさを正しく継承している。なによりも人物造形がしっかりしていて、それぞれが魅力的だ。『鬼滅の刃』の原型である、デビュー作「過狩り狩り」に登場する珠世と愈史郎はそのベースといえる。炭治郎が行動を共にする善逸や伊之助との関係とは違って、玄弥と炭治郎とはとてもいい距離の、ふつうに話が通じる友情表現になっている。炭治郎は炭焼きの子だから、火加減に精通していて、米を炊くのや、魚を焼くのが上手い。純真な真面目タイプに設定されていて、その分世間知らずの田舎者そのものだ。小学低学年に受けたことが大きい。この年代を魅了することができたら、言うことなしだ。
猫 『ガロ』の「カムイ伝」だって、最初は小学生がおもしろいと言い出したんだ。こどもが幼稚だと思ったら大間違いだ。その理解(察知)能力は本能に基づくからだ。後付けの屁理屈など上塗りのメッキにすぎないぜ。
松 まあね、なんでもリアルタイムで立ち会うのがいちばんだ。プロ野球の試合にしたって一投一打を実況で見るのと、スポーツニュースで結果を知るのとでは比較にならない。マンガだって同じさ。連載につきあっていた読者は、無惨を倒し、長い死闘に終止符が打たれたと思ったら、炭治郎が鬼になる。吃驚仰天したはずだ。前にも言ったことがあるけど、萩尾望都『マージナル』や村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』にはまっていた時、発売日に雑誌を購入してきて、読み終えると、すぐその続きが読みたくなった。あれが連載の醍醐味だ。吉本ばなな『TUGUMI』の場合をいえば、一回目「お化けのポスト」は少女たちの心の交流と背景をなす風景を描き、天才的な感じがした。けれど二回目はそれほどでもなかった。出来に波があって、ハラハラしながら読んだ。
猫 しかし、マンガをはじめ〈表現〉というのは〈普遍性〉があるからな。本になってから読んでも遜色なく、その内実をたどることができる。カフカの『変身』を読めば、当時のドイツでユダヤ人家族がどういう状況におかれていたかは如実に伝わってくる。そして、そこに醜い虫に変身したグレーゴル・ザムザがいるように感じることだってできるんだ。もっと深く入れば、グレーゴル本人の体感異常も追認できるかもしれない。そこはスポーツとは違う。結果の分かった野球の録画を見る気がしないようにな。
松 それが表現の強みだ。作者の吾峠はデビュー作のあとがきで「着物を着た吸血鬼というものはあまり見ないような気がしたので明治・大正時代あたりで和風のドラキュラを描こうとした」と言っている。つまり、珠世を描きたかったんだ。この系列の最高傑作は萩尾望都の『ポーの一族』だ。
猫 手塚治虫の『バンパイヤ』もおもしろかったような記憶があるが、子どもの頃、読んだきりだからな。
幼稚園の頃、TVアニメの『鉄腕アトム』が放映されたのは衝撃でした。同時期に『鉄人28号』も始まり、幼稚園に続き小学校ではメアトム派モとメ鉄人派モに分かれていました。特に男子にはメ鉄人派モが多かったのですが(操縦機奪われるとすぐに裏切るのにね)、私はアトムに心奪われました。メ初恋モと言ってもいいでしょう。だってアトムって、エロいと思いません?両親によると、恥ずかしくてマトモに見ていられず、柱の陰から見ていたそうです。アトムが胸のふたを開けて、「あ‥‥‥エネルギーが切れそう」と、バタッと倒れちゃうとこなんて、鼻血が出そうになりました(あれ?私だけか?)。
このエロスとタナトスは、手塚治虫特有のものだと思います。
(「ハルノ宵子への良い質問・悪い質問」『吉本隆明全集』「月報29」)
松 そうか、おれはもちろん「鉄人派」だった。あの当時の月刊『少年』でいえば、ほんとうは白土三平の「サスケ」派だった。白土三平は増刊号に発表された短編を含めて、おれの心を魅了した。貸本屋で飛び飛びに読んだ『忍者武芸帳』とともに。いま振り返ると、影丸の妹・明美の存在が『忍者武芸帳』を根底で支えている。明美の化性的性格、作者によればその時々の瞬間を本能的な感じのままに反射的に行動し変化することを指す。その生き生きした振舞いは、作者の意図を越えた作品的達成といっていい。アトムの胸のふたのことでいえば、『魔神ガロン』のガロンの胸にピックが出入りするところが〈もののあわれ〉というか、無意識に訴えてくるものがあったような気がする。
猫 心の底に遺っているもの。それが実際の体験であろうと、風景であろうと、マンガであろうと、文学作品であろうと、差異はない。
松 岸防衛大臣を筆頭に、安倍晋三の態度を踏襲し、「統一教会」の協力を得てなにが悪いと居直り始めている。目先の欲得に目がくらみ、相手がどんな考えを持ち、どんなことをやっているかなど眼中にない。風向きが変われば、プーチン(ロシア)とだって手を組むに決まっている。それが無知で無節操な、日本の政治家の実態だ。
猫 だが、どんなことをやっても、あの卑怯な「上弦の肆・半天狗」が生き返ることはない。地獄へ堕ちたのさ。
松 それなら、おれは玄弥たちに懐かしい詩を捧げよう。
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる
汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む
汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる‥‥‥
(中原中也「汚れつちまつた悲しみに‥‥‥」)
(『風のたより』26号2022年10月発行掲載)
松 少し前のことになるけど、川村寛さんと話していたら、川村さんの知り合いの人が「手塚治虫の代表作は『ブッダ』」と言ったそうだ。それに対して、川村さんは「いや、やっぱり『ブラック・ジャック』でしょう」と言われたとのことだ。そして、おれの意見を求めたんだ。おれは「手塚は断じて『火の鳥』ではなく、『鉄腕アトム』もしくは『ブラック・ジャック』だとおもう」と言った。
猫 それは最終印象ということだよな。だって、おまえ、手塚のマンガ、手元にないだろう。むかし、読んだきりで。
松 家探しすれば『白いパイロット』とか幾つかは見つかるはずだ。『COMIC BOX』の手塚追悼号などの参考資料はあるけどね。白土三平が亡くなったこともあって、あの頃のマンガについて考えることになったんだけど、ちくま文庫で林静一とかつげ忠男や楠勝平の作品集が出ている。殆ど読んでいるものだ。本はあまり買わない。なにしろ読み返すこともないものが溢れているからだ。それで捨てている。
猫 そう思っても、なかなかうまく行かないだろ。手にすると、これはちょっとなんて思い、躊躇いだしたら決断が鈍る。
松 その通りなんだけど、少しずつ捨てている、一気に片づけるんじゃなくてね。ただ小さい文庫本やコミック本は老眼で、だんだんきつくなっているんで、大判のものに買い替える場合もあるよ。
猫 それじゃ、減ってるのか、増えているのか、分からないじゃないか。
松 最近買ったのは『岡田史子作品集』や佐々木マキ『うみべのまち』や萩尾望都『レオくん』と『山へ行く』などだ。そしたら、『うみべのまち』の「あとがき」にこんなことが書いてあった。
「朝日ジャーナル」は私に自由で実験的なマンガを望んでいた。私もその期待に応えていたら、マンガの神様と呼ばれていた人の逆鱗に触れたのである。神様は綜合雑誌に一文を寄せて、私のことを「狂人である」と断じ、「朝日ジャーナルは狂人の作品を載せてはならない。ただちに連載を中止すべきである」と主張したのだった。
(佐々木マキ『うみべのまち』「あとがき」)
猫 こんなことを言われて黙っている必要はない。
松 それで、おれは川村さんの協力を得て、手塚治虫の一文を入手した。
うちの子はまだちいさいのだが、盛んに漫画らしいものを描く。幼児の絵はそれ自体漫画的な感覚のものだが、まあ大抵の場合、意味がわからないので説明を要する。説明をきいても尚更わからないこともある。
昨年の夏あたりから、朝日ジャーナルに掲載しているSという若い画家の作品が、一部マスコミで取り上げられているが、どうやら学生にちょっとした反響があるそうで、評論家の中にはそれを若い世代の心情を結びつける向きさえある。それによると一般には「わからぬ漫画」で通用しているそうで、ある新聞では、岡本太郎氏はじめ、そうそうたる文化人に、Sの漫画の解釈をしゃべらせていた。
そんなことをすること自体がまさにモマンガ的モである以上に、なんの価値もないものだが、日本のジャーナリズムや文化人たちはなんと「わからないもの」に好意的であろうかと感心する。当のSはまだプロフェッショナルというには未知数で、本人みずからなにを書こうとしたのかよくわからないといったことを述べている。それを、勝手に、意味ありげな理屈をつけて解説するのは、ジャーナリズムのお手のものかもしれないが実にナンセンスだ。
なにも「わからぬ漫画」は、Sの発明によるものではない。文春漫画賞の選考の前後には、ばたばたと自費出版の個人作品集が出る。ベテラン、無名とりまぜて、その半分以上が文字通り「わからぬ漫画」集である。
またデザイナーや純粋美術の方面から、漫画と称して発表されるものも、大半はよくわからない。それを丁寧に漫画界の重鎮たちが推薦文をつけているのもおもしろい。
「むずかしい漫画」というのは、いわゆる共産圏には存在せず、そのハシリは、アメリカのスタインベルグあたりではないかと思われる。彼の「パスポート」という作品集などは、イラストレーションのお遊びのようなものが多く、それも絵が立派だから見られるのだが、一時日本のおとなの漫画に、かれに影響されたらしい難解な作品がかなり出たことがある。
またこれらの難解漫画は、第二次大戦後の作品で、それ以前には、現在残っている漫画の中にはみあたらない。あったのかもしれないが、霧消してしまっているのだろう。
ぼくが思うのに、漫画が純粋絵画や装飾から独立してその目的をもった時点で、すでに民衆に「よびかけよう」という姿勢があったはずである。プロパガンダもしくはアッピールの目的で、大衆によびかけるには、よくわかるものを与えなければならないのは常識だ。なぜなら民衆を構成する大部分はコミュニケーションすらもたないてんでんばらばらの人間で、注釈や解説の必要なものでは途端に敬遠してしまうだろう。
もちろん「わからぬ漫画」も漫画である以上、その存在意義を認めないわけではない。ただ少数の理解者やエリート達に配られるものならば、同人誌や、自費出版の作品集で充分ではないかということだ。
それがマスコミに載り、「わからぬ漫画」がいやおうなく大衆におしつけられた時、その作品はすでに意義を失っているのである。Sの作品は同人誌的傾向の「ガロ」という雑誌に載っていればよかったのだが、それが発行部数を誇る週刊誌に掲載された時点で、その無意味さがはっきり露呈されたのだ。
(中略)NHKの「あなたのメロディ」で、アマチュアの作詞作曲の応募作品の中に、とびきり個性の強いおもしろいものがあったので、出演してもらおうと思ってNHKが通知を出したら、なんと返事が精神病院からであった。
さすがに驚いて、ではせめて出演のかわりに、作曲者の写真でもと依頼したら、ものすごい重症患者のポートレートを送ってきたので、ついに不採用になった、というのである。もしこれが知らされずに、そのままNHKで演奏されていたら、批評家は狂人の作品をほめちぎっていたかもしれないのである。
赤ん坊に絵筆を握らせて作った絵を誰が描いたか知らせずに発表したら、知らぬが仏の文化人の間で熱狂的な理解と賞賛をまきおこすかもしれない。「わからぬ漫画」へわかったような注釈をくっつけた記事を読むたびに、ぼくはふと考えるのである。
(手塚治虫「わからぬ漫画」『文藝春秋』一九七〇年三月号)
猫 ひどいな。佐々木マキは手塚の一文に盛っている箇所はあるが、彼は被害者だ。なによりも『文藝春秋』という総合雑誌で、一個の作家(マンガ家)を「S」というふうに言うこと自体が不当であり、侮辱なのだ。「マンガの神様」と自他ともに認める大家から、こんな攻撃を受ければ、誰だって、なんでこんなことを言われなければならないのかと思うだろう。そして、傷ついたに決まっている。
松 おれはもっぱら他人の悪口を書いているけど、対象とする相手の発言のもつ〈振り幅〉については、いつも配慮するよう心掛けているつもりだ。ことばは紙の上に字面として平面的に出てくるけど、その内容は現実的だ。それを捉えて、主体に引き寄せないと、野次馬的になってしまう。〈客観的〉ということと〈事実〉(=字義通り)ということは異なるはずだ。
猫 わしはかねてより、手塚治虫は大江健三郎と並んで「変な人」と思っていた。いわゆるNo.1病。そして、ともにスターリン主義の影響を受けていて、きわめて排他的だ。
松 手塚治虫がここで言っていることは、スターリン主義の文化観の丸写しで、スターリンの言語論に依拠したものだ。こんな理論は一面的なもので、多くの誤謬を含んでいることは、もはや自明のことになっている。吉本隆明は『言語にとって美とはなにか』において、その限界性を完全に止揚した。それはプロレタリア文化理論の批判的な検討を経て、なされたものだ。文学の芸術的価値と政治的価値という指導理論の間違いを指摘するとともに、文学が政治に従属するという通念を否定し、その自立性を明確にしていった。そもそも文学やマンガに「政治的価値」などない。マルクスの『資本論』がいうように〈使用価値(すなわち表現価値)〉と〈交換価値(すなわち作品価値)〉があり、それがいかなる場合も貫通する。スターリンはそれを支配政策に都合のいいように矮小化したんだ。
猫 なにが《漫画が純粋絵画や装飾から独立してその目的をもった時点で、すでに民衆に「よびかけよう」という姿勢があったはずである。プロパガンダもしくはアッピールの目的で、大衆によびかけるには、よくわかるものを与えなければならないのは常識だ》だ。文学もマンガも、政治権力の宣伝や啓蒙の具じゃない。そんなことは手塚だって無意識的に分かっていたはずだ。作品の構想を立て、ペンを握り、愛着のあるキャラクターを描き、ストーリーを展開する過程ではその世界に没頭し、自己実現を目指していたことは確実だからだ。そうでなければ、ヒゲオヤジやロック、ランプやお茶の水博士など魅力的な脇役キャラクターが生まれるはずがないのだ。この手塚の反動性をマンガだからといって免罪するつもりはない。なぜなら、マンガを差別しないからだ。
松 手塚治虫はどうして若い可能性の芽を摘もうとするのか、それが不可解だ。佐々木マキはあれだけの実験的な試みをやりながら、自己模倣の形跡は認められない。それが作品に対する真摯さを物語っている。ビートルズの歴史的登場をはじめ、アメリカのヒッピー文化の台頭など世界的な動向のなかから現れたものだ。「うみべのまち」「かなしい まっくす」「ピクルス街異聞」などの優れた作品を生み、「旅の天使」の画像で完成した姿を実現している。世代的な感性の表現であるとともに、神戸という港町の雰囲気と風景を象徴しているといえる。一作に絞れば「セブンティーン」じゃないかな。
そうでなければ、村上春樹が惹かれるはずがないし、『風の歌を聴け』はその影響をかなり受けている。それは短章を重ねあわせる方法によく表れていて、それぞれが佐々木マキのひとコマひとコマに相当するように〈構成〉されているような気もするからね。
猫 だいたい、槍玉に挙げられている『朝日ジャーナル』に載った作品は、少しも「わからぬ漫画」ではない。そのひとつ「分類学入門」は、ある人物に対して、捕獲網を持った背番号2の採取者の接近(意味付与)、別の採取者の搦めとり、巻きつく紐(解釈)をナイフで切断し逃れようとするが、集中的な採取攻撃を受け、遂には〈標本〉にされたことを描いている。分類学の、いわゆるフィールド・ワークの方法とその結果を風刺し、主体の平面への封じ込めを批判した作品だ。手塚ははじめから理解の扉を閉ざしている。
中沢新一がバリ島を訪れて、トランス状態に陥る少女の姿を見て凄いと思ったと、ある対談で語っていたけれど、わしから言わせれば、知的な観光客が誑かされているにすぎない。あの島全体は稲作を中心とした農耕社会で、島の中心部に観光客目当ての見世物小屋が作られていて、そこで常設的に興行がなされているのだろう。それを過剰に意味づけして有難がるのは勝手だが、対象的存在からすれば、滑稽な介入で失笑をかうだろう。アジア的な農村の習俗と生産様式の歴史的段階からみれば、そんなことはたやすく理解できることだ。これも人類学や分類学の陥穽のひとつだな。
松 まあ、手塚治虫の『ガロ』系に対する敵対意識は異様なところがあったからね。水木しげるが一九六五年に「テレビくん」で講談社児童漫画賞を受賞した時、手塚は『墓場鬼太郎』を指して「水木しげるは盗作をやっている」と言った。これは事実誤認のデマゴギーだ。水木は兎月書房の『妖奇伝』に「幽霊一家」などの鬼太郎シリーズを画いていたが、原稿料が支払われず、三洋社に移り「鬼太郎夜話」を描いた。ところが兎月書房は別の漫画家を使い、鬼太郎シリーズを続けたんだ。当時の貸本業界ではパクリ、模倣などは当たり前のことで、誰も問題にしなかった。すでに不動の地位を確立していた手塚からすれば、社会の底辺に蠢くなんでもありの下層の世界と映ったのかもしれない。明日の糧が得られないとなれば、死活問題で、かっぱらいでもなんでもやるしかないのだ。手塚だって一九二八年生まれで、大阪大空襲を体験し、敗戦後の疲弊した状況をくぐっているはずだ。
異数の世界へおりてゆく かれは名残り
をしげである
のこされた世界の少女と
ささいな生活の秘密をわかちあはなかつたこと
なほ欲望のひとかけらが
ゆたかなパンの香りや 他人の
へりくだつた敬礼
にかはるときの快感をしらなかつたことに
けれど
その世界と世界との袂れは
簡単だつた くらい魂が焼けただれた
首都の瓦礫のうへで支配者にむかつて
いやいやをし
ぼろぼろな戦災少年が
すばやくかれの財布をかすめとつて逃げた
そのときかれの世界もかすめとられたのである
(吉本隆明「異数の世界へおりてゆく」)
松 手塚治虫はじぶんの存在を脅かすような人が現われると、その足を引っ張ろうとしてきた。水木しげるは「福の神」で、たかが貧乏絵草紙屋でございという位置から「手塚毛虫斎」と言い、「一番病」では棺桶業界に置き代えて、手塚の所業を風刺した。
猫 こういうことは、知らないといえば済むことじゃないからな。
松 おれが実際に直面したのは、手塚の『W3(ワンダースリー)』の場合だ。これは『少年マガジン』に連載されていた。テレビアニメ化も決定していたと思う。それが突然連載中止になった。そして、しばらくして、少し内容を変えて『少年サンデー』で再開された。子ども心にどうしてだろうと思った。後年、手塚の発言や関係者の証言を知ることができた。それによると、『W3』に続いて『宇宙少年ソラン』が『少年マガジン』で始まった。これを見た手塚は「これはじぶんの作品の盗作である」と主張し、連載を中止したのだ。その理由のひとつは、『W3』は主人公が3匹の動物と組むんだけど、「ソラン」も動物を連れていた。それを盗作といったんだ。バカバカしいことさ。『魔女の宅急便』だってクロネコを伴っている。あのアニメはヤマト運輸の宣伝のために企画されたものだからね。それもパクリとなる。手塚は『鉄人28号』やその他のロボット物もみんな盗作と言ったことがある。〈継承〉ということも、〈発展〉ということも認めない、常識外れのマンガ界の専制君主だよ。
猫 聞いた話によれば、手塚作品は『鉄腕アトム』を別にすれば、そんなに人気はなく、契約期間が過ぎると、すぐ連載終了になるケースが多かったそうだ。それでまた新作というふうにやっていたと。『W3』にしても、雑誌のうしろ(巻末)の方に掲載されていた。類似作の登場でますます落ちると思い、被害妄想的な理由をつけて、中途で降りたのかもしれないな。
松 ライバル意識ということで言うと、白土三平に対しては特別だ。『COMIC BOX』六一号に「1982年のマンガ博覧会」のポスターが載っている。これは手塚が画いたものだ。このポスターにはあらゆるヒット作のマンガのキャラクターが画き込まれている。「フクちゃん」から「バカボンのパパ」まで、『月光仮面』から『ベルサイユのばら』、「つげ義春」から「さいとうたかを」まで、だけど白土三平のキャラクターだけはいない。影丸もサスケもね。
猫 そういうことでいえば、吉本隆明も『ビッグコミック』連載の『MW(ムウ)』の第9章「殺しのプレリュード」に登場した。その「芳元高生(よしもとたかお)」は、どてらを着た小柄な初老でマンションに一人住まいだ。そして、爆弾テロを容認する「危険思想」の持ち主に設定されている。姑息にも変名にしているが、知る人が見れば立ちどころに分かるものだ。手塚は松本善明をはじめ日本共産党と繋がっていたから、その情報によって、この〈虚像〉をでっち上げ、流布したのだ。ここで手塚は完全にスターリン主義の〈グロテスクな走狗〉と化している。文化全般の布置以外、なんの接点もないにも拘らず、こんな卑劣なことをやったのだ。
松 おそらく本を読んだこともなければ、詩人であることも知らないだろうね。それでも、吉本隆明は『追悼私記 完全版』をみれば分かるように手塚を評価した。じぶんの子育てにとって手塚作品はとても大きかったと、感謝のことばを綴っている。また白土三平も決して手塚を悪く言うことはなかった。同じ「代々木」支持であっても、白土はデモ隊に加わり、警官隊との衝突を経験している。それが百姓一揆の描写に投影されていて、観念的迎合の手塚とは違う。
猫 そうだな。
松 だからといって、手塚作品を全否定するつもりはないし、『COM』の意義も認める。例えば岡田史子は最初『ガロ』に投稿している。でも採用されなかった。『ガロ』は白土、水木などの貸本系統のマンガ家を主流にしていて、青春ものには冷淡だった。一方『COM』は永島慎二の存在もあり、アシスタントをやっている人たちの登竜門となった。宮谷一彦・岡田史子・青柳裕介などは『COM』が無ければ、あの時期に世に出ることはできなかっただろう。
猫 高知市内の井上書店という古本屋の店先に、一冊一〇円か二〇円くらいで『COM』が数冊積まれていて、飛びついて買ったのが最初だよな。
松 『COM』はまず永島慎二だった。「青春裁判」や「フーテン」。そして、宮谷一彦。その当時は分からなかったが、彼は革マル派のシンパだった。あの時代の断面を象徴していた。みやわき心太郎、岡田史子、青柳裕介。やっぱり地元在住ということもあり、青柳裕介はかなり読んだ。『火の鳥』をおもしろいと思ったことはない、壮大なテーマに比して、歴史認識が通俗的で空虚だったからだ。それよりも藤子不二雄や石ノ森章太郎などが良かったようにおもう。だけど、『COM』は編集方針を変更した。これは潜在的描き手(投稿者)と読者の集まりだった「ぐら・こん」への背信行為だ。あのオープンな広場の雰囲気が『COM』を支えていた。まあ、手塚が『COM』の「ガロ」化を嫌ったこともあっただろうが、あれで雑誌としてはダメになったんだ。おれは即物的なリアリストだから、ほんとうは佐々木マキの抽象性は苦手で、むしろ岡田史子の暗い内向性に近親感を覚える。
猫 ただ経営実態はまるで違っていたようだぜ。零細の青林堂は資金がないので残業はしない、すべて予算内で運営した。一方、虫プロは大手出版社と同じ編集体制を採っていて、深夜に印刷所に原稿を入れ、そのままタクシーで帰るというふうにやっていたらしい。『少年サンデー』(小学館)や『少年マガジン』(講談社)とは部数が違う。つまり動くお金の桁、規模がまるで違う。それで高利貸しに手を出したあげく、倒産したのだ。この時、大島弓子は『COM』の姉妹誌『ファニー』に「野イバラ荘園」(三一ページ)を描いている。しかし、倒産によって原稿料は出ず、「パンと水の日々」が続いたとのことだ。次の作品で原稿料が貰えた時、「な、なんとお礼を申しあげてよいやら‥‥‥」と回想していた。その後、『ガロ』も原稿料なしになったけどな。
松 佐々木マキはもっと言い返してもいいと思う。手塚治虫は「精神病院に入院しているものは人間ではない」がごとく言っている。これが〈根底的な欠陥〉だ。世の「進歩的文化人」の正体といってもいい。この差別意識こそ解体されるべきなのだ。精神病患者であろうと、身障者であろうと、その表現は〈同等〉に扱われて当然だ。こいつら、社会的弱者は保護され尊重されるべきだと言ったりするが、建前にすぎない。こういう欺瞞的態度というのは、主題主義に汚染された連中、いわゆる「社会派」の倒錯現象のひとつだ。例えば死刑になった永山則夫の稚拙な小説を持ち上げたりするだろう。そうじゃなく、ニュートラルに対するべきなのだ。誰が手掛けたものであっても、作品は作品だ。つまり、殺人者が書いたものだからダメということもないし、精神病患者が作った楽曲だから音楽でないということにもならない。逆に肩入れすることもいらない。両方とも邪道ということさ。それに「難解」ということで退けるなら、あらゆる芸術は成り立たない。絵画も音楽も詩も。
猫 しかし、そこへ到るまでには、まだまだ遠い道のりがあるような気がするな。わしは以前から、作品は自立したものだと思っている。たとえばフォレスト・カーターの『リトル・トリー』は作者が履歴を詐称していたということで袋叩きになったけど、そんなことで、あの作品を葬り去ることはできないはずだ。あれはアメリカの先住民の世界を描き、人類史のゆたかな初源性をみごとに再現した名作だ。また、吉田満の『戦艦大和ノ最期』でいえば、実際には艦長は「大和」と命運を共にしていなかったとしても、あの作品は迫真の叙事詩なのだ。その真情は朽ちることはない。
松 もっとつまらないことでいえば、寺山修司の短歌をコラージュだっていうだろう。短歌は五七五七七、俳句は五七五。この定型の字数の枠の中で詠めば、類似した部分が発生するのは当たり前のことだ。そんなことを問題にすること自体がバカバカしい。和歌の歴史や俳句の膨大な裾野を考えれば、同じような歌いぶりやそっくりそのままの句だって見つかるかもしれない。ひとつの歌や句を語彙や語句に分解し、この箇所は誰それのものに似ているなんて言ったって不毛さ。
それに吉本隆明『源実朝』が指摘しているように「本歌取り」という伝統もあるんだ。つまり『古今集』なら『古今集』をお手本に、それに倣って作歌するという。歌作りは〈模倣と反復〉を本質とすると考えられているからだ。それじゃ、そんなものは全部無意味かといえば、断じてそうはならない。実朝の歌が優れているように。さらにいえば《一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき》(寺山修司)。この一首はじゅうぶんに完結性を持っている。作者の意志が貫かれているからだ。それが作品の独立性ということだ。
猫 手塚治虫の話に戻ると、ある漫画賞選考会にふれて、手塚は〈当選作がないなら楳図かずおにでもやったらどうだ〉みたいなことを書いていた。なんで怪奇ものというだけで、見下されなければならないのか。いずれにしても、同業者の風上にもおけないものだ。そんなことをいうなら、『鉄腕アトム』だって設定は暗い。交通事故で息子を亡くした天馬博士が、その代わりにアトムを作った。しかし、ロボットだから成長しない、それで売り飛ばしたところから始まっている。逆にいえば、そこが特徴で苦悩するアトムの発するエロスが、共感と愛着の入口なのだ。それが同時期の他のヒーロー漫画との決定的な差異といえる。
手塚の功罪のうち、上位にくるのはたくさん仕事を引き受けたら偉い(売れっ子)という風潮を作ったことだ。それよりも原稿料の値上げなどに大御所として取り組むべきだった。それが漫画家の地位向上のうえでも、漫画家の創作の基盤形成のうえでも、重要なはずだ。
松 それを無いものねだりというんだ。そんなのだったら、佐々木マキに対して、あんなことを言うはずがない。手塚治虫の所業のうち、〈最大の弊害〉はテレビアニメをめぐる画策だ。当時、東映動画は林静一の『赤色エレジー』にも出てくるように労働争議中だった。そんななか、国産テレビアニメを作るために交渉していた。そこへ手塚が『鉄腕アトム』の激安アニメを持ちかけたのだ。これにテレビ局が飛びつかないはずがない。これがアニメーターの劣悪な地獄の労働条件(環境)を作ったのだ。そして、安易で粗雑なテレビアニメの氾濫にもつながった。これを克服することは難しく、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の登場まで待たなければならなかった。手塚はアニメにおけるA級戦犯なのだ。まあ、「世の中の母親と違って、わたしの母親は世界一だ」という人だからね。母から生まれなかったら、その人は存在しないはず。誰にとっても、母親はかけがえのない存在だ。それをこんなふうに言うんだから、尋常じゃないよ。
猫 そうは言ってもな、テレビのアトムには夢中だった。かなり離れたテレビのある家へみんなで行って、見せてもらっていたんだ。「空をこえて ラララ 星のかなた ゆくぞ アトム ジェットのかぎり 心やさしい ラララ 科学の子 十万馬力だ 鉄腕アトム」という、谷川俊太郎作詞の主題歌はいまでも口ずさむことができる。佐々木マキはマンガ雑誌は総て回し読みで、好きなマンガとお菓子が目の前にあって、日にやけた畳に腹這いになる時が、幸せな時間だったと述べている。じぶんの場合だったら、お菓子は買えないから、おやつは「からいも(さつまいも)」だったな。焼いたもの、蒸かしたもの、輪切りにして揚げたもの、煮て干したもの、「からいも」で育ったようなものだ。村のお宮に集まり野球をやったり、公孫樹の落ち葉をマットにプロレスごっこに熱中したり、夏の暑い日茅葺の我が家で昼寝したりした記憶が、いまでも救いになっているような気がする。手塚治虫が亡くなったのは一九八九年、佐々木マキの「あとがき」は二〇一一年。いずれにしても古い話だ。
松 そうだけど、おれは手塚治虫の振舞いは引っ掛かっていたからね。『アックス』一四四号に佐々木マキが白土三平の追悼文を書いていて、《白土さんが、『ガロ』の新人たちのことを寸評されたことがあって、私については「よくやっているが、所詮モダニズムに過ぎない。むしろ彼はタブローを描くべきだろう」》と言ったそうで、《この評には、いささかしょんぼりしました》と記していた。佐々木マキにとって、そのモダニズムこそがのびのびと息のつける世界だったからだ。そして、『カムイ伝』よりも『忍者武芸帳』と言っていた。
猫 そうだろうな。『忍者武芸帳』はいわば黒澤明の『七人の侍』、『カムイ伝』はNHKの大河ドラマみたいなものだからな。ついでにいえば、大島渚の映画『忍者武芸帳』は酷かった。原画を撮影して紙芝居みたいな作り方をしていたが、単なる原作のダイジェストでしかなく、どこにも創意は感じられなかった。
松 その点、湯浅政明のアニメ『映像研には手を出すな!』は画期的だった。大童澄瞳の原作を凌駕し、ジブリのアニメのレベルを超えた。宮崎駿が手塚アニメを超えたように。そう安西美行さんに伝えたら、次のような返事が返ってきた。
アニメ『映像研には手を出すな!』は共感より驚異で、松岡さんが言うようにジブリを超えています。
吉本さんが、数学の引退した名誉教授が地域の小学校に行って、掛け算割り算とは何であるとか、掛けるとなぜ面積が出るのかとか、足すとか引くってことはどういうことなのかという話を教えれば、算数を嫌いな子なんて一人もいなくなる、と言っていましたが、『映像研には手を出すな!』を見ながらそのことを思いだしました。
アニメーション制作のあらゆる要素をもれなく取りあげられていて、作品そのものと同時に本格的なアニメーション入門の表現にもなっていて、それはもう驚きの連続でした。
『映像研には手を出すな!』の中で、水崎ツバメの母親が娘の描いたアニメを見て、「あの走り方はツバメだ」とわかるシーンがあります。このシーンはアニメでははじめてのことだとおもいます。
絵を描く人の所作に、描いた絵はたしかに似ます。描いた顔も、描く人の顔に似ます。または強く関心を寄せる人に似ます。
はじめて手塚治虫の奥さんを見たとき、手塚治虫の描く女性にそっくりでした。楳図かずおの原稿で女性を見たとき女優の新珠三千代そっくりで、「ファンですか」と聞くと「なぜわかったの」とビックリしていました。
表現は、客観的に外化されたものでなく、水崎親子のようにマンガやアニメ表現を通して相互浸透のように人と人を結びつけるところが面白いところでもあります。
おれの感じたことを、ちゃんと言ってくれているとおもった。
猫 そうだな。おまえだって手塚治虫を「巨匠」と思っているだろう。
松 うん。『ナンバー7』あたりから『アドルフに告ぐ』くらいまでは読んでいるよ。プロダクション倒産、借金まみれになった手塚は、引退の花道として用意された『少年チャンピオン』の五回連載の予定の作品に打ち込んだ。それが『ブラック・ジャック』だ。これが起死回生につながった、二四四回もつづいたからね。その魅力の半分は、ピノコの存在に支えられている。この印象から再び手塚のマンガに取りつくことができればいいんだけど、もう余裕はないような気がする。
猫 それは仕方ねえな。手塚治虫がスターリン主義の片棒を担いだことでいえば、いまだって変わりはしない。日本共産党などが勧進元になって、安倍晋三の「国葬」に反対するデモや署名活動をやっているけれど、同じように反対の意志は持っていても、この動きに同調しない。第一に野党は森友、加計問題などを追及し、安倍内閣を退陣に追い込んだわけじゃない。その無能の〈政治責任〉を頬被りし、上野千鶴子みたいな世渡り上手なスターリン主義の末裔が音頭を執って、大衆を動員しようとしているだけだ。それよりも中国の武漢から発生したコロナ感染は拡大し、死者も感染者も連日過去最多を更新している。それなのに政府は対策を放棄するつもりだ。人々の生命を守るためにも、これに真っ先に取り組むべきなのに、じぶんたちの党利党略しか考えていない。いい加減にしろとはこのことだ。政府がこれまでやってきたことはいったい何だったのだ。そのために潰れた居酒屋や職を失った人々のことを考えれば、自らの方針を明確に打ち出し、政府の対策放棄を追及し、コロナ終息を目指せ。あくまでも政治的主題を優先するというのなら、軍備の増強、戦争体制の構築を真っ向から批判し、対峙すべきだ。それができなければ、政治組織としての存在理由はない。
松 NHKの「国際報道」なんて、NATO側の戦時下放送だからね。参戦への呼びかけみたいなものさ。もちろん、民意を無視して「国葬」を閣議決定した政府が横暴で、圧倒的に反動であることは明らかだ。
猫 この愚かさは決して他人事じゃないぜ。ひとりの人間にできることはたかがしれている。でも、その内部に入れば無尽蔵なのだ。
(インターネット「猫々堂フレーム」(吉田恵吉主宰「高屋敷の十字路 隆明網」)2022年10月3日掲載)
Y・K様
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いつもお便り、ありがとうございます。
暮れの12月30日に「街道と民家(10)」ほか、年明けの1月5日に「『吉本全集』のリコールの署名集め」のネット記事のコピー、受け取りました。
晶文社『吉本隆明全集』第30巻(第31回配本)をめぐって、こんな動きがあることは知りませんでした。
『吉本隆明全集』のリコール・正しい再刊行と編者の新構成を要求します。
発信者:吉本隆明 研究会 宛先:晶文社
先日(2022年12月)晶文社より刊行された「吉本隆明全集30 1970-1997」には重大な欠陥があります。収録している作品のタイトルを改竄しています。
このことに抗議し本書のリコールと正確なものの再刊行を求め、編者の新しい構成を求めます。
「吉本隆明全集30 1970-1997」の収録タイトルが「心的現象論」だとされ、解題ではそうしたと書かれています。
しかし、「心的現象論」は、その連載1回目から終刊までの「1965〜1997」の〈1つ〉の総体です。それを待ち望みながら、全集でそうなるのを期待していたのですが、真逆の改竄がなされています。
1965〜1969は「序説」、1970〜1997は「本論」です。
私たちが持って読んでいるのは、「心的現象論・本論」(2008年7月10日、発売:星雲社)。そして「心的現象論・本論」(「知の新書SONDEOS」2022年1月31日発売)です。
著者名で「本論」とされています。
全集であるにも関わらず、既刊本のタイトルを吉本氏死後に、勝手に変えている。
吉本隆明本人は「心的現象論」は「序説」と「本論」からなると決定され、実際に箱入り布製の書は「序説」と「本論」とから成り立ち、デザインには氏の自筆の題字が書かれています。
これは生前に出されている。明らかに、山本哲士氏の解説を待つまでもなく、全集収録箇所は「本論」であり、心的現象論は「序説+本論」です。
このほうが筋が通り、納得できます。この本論部分(1970〜1997)を「心的現象論」とするのは、明らかに全集編者の勝手な改竄です。
問題の全集
「吉本隆明全集30 1970-1997」(2022年12月 発売:晶文社)
A)
収録構成の元になっている本 発行:文化科学高等研究院出版局(EH E S C)
「心的現象論・本論」(2008年7月10日発売 発売:星雲社)
「心的現象論・本論」(2022年1月31日発売 知の新書SONDEOS)
B)
序説部と本論部の合本愛蔵版 発行:文化科学高等研究院出版局(EH E S C)
「心的現象論」箱入り上製布製(2008年8月8日発売)
この既刊刊行本A・Bの存在を無視・排除したような組み立てを、全集が意図的にしているのが読者には伝わってきます。構成は同じで何ら新しさなどないのに、書籍タイトルの改竄です。
私たちは、以下の点を心配し、抗議します。
●者本人無視の全集の制作
本人が作り、本人が刊行したものを、全集が勝手に書き換える(校閲を最優位に立てて)、前代未聞の出鱈目さは、吉本思想を歪めるものでしょう。
●刊行物の無視ないし排除
「心的現象論・本論」には、初版本の誤植を直し、パンフレットで合本愛蔵版に挟み込まれた初版未収録の「本論まえがき」を補完した「知の新書」版があります。全集の解題は、この「知の新書」版のことを全く記述せず、不正確です。しかも文化科学高等研究院出版局への悪意をチラつかせた、嫉妬叙述を「校閲」の正当性主張によって、名誉意識でなしているように感じます。そんな嫉妬と名誉欲など、はた迷惑です。「試行」原稿の記述を勝手に編者判断で修正しているようなものを、我々読者は望んでいないし、信用できない。「試行」に即した当時からの軌跡そのものを正確に知ることが偉大な書にはだいじです。E H E S C版「本論」の方がはるかに誠実で、厳格にやっています。不十分さは、皆で協力して改善すべきで、排除するなど信じがたいことをやっている。解題には、刊行されていない書をあげ、初版本に対して「加えられた」とし、刊行されている書を排除している、信用し難いものであり、かつ勝手に他のあちこちで「思われる」と余計な推論を述べている。
●本論と心的現象論の形成過程の無視
読者は、2007年4月「吉本隆明の「心的現象論」了解論」の雑誌特集によって、また読書人のインタビュー記事(2007年6月)によって、吉本氏が山本氏たちと「心的現象論」の刊行への企画と、そこへの吉本氏の意欲を知らされた。そして実際に1年後に刊行物として現れた。大変な作業がなされていたのが推察されますが、その経緯は何ら踏まえられていない安易な解題には、全集をもはや信用できないことが現れています。
●全集全体は、ただの資料集になり下がっている
全集全体は、ただ時間順に単行本と論文や小論が、ただ同じレベルで並べられ、単行本ごとが放ったあのダイナミックな著者の意志が全く剥ぎ取られたつまらないものになっており、川上春雄の禁欲的で正確な書誌解説に比して、杜撰なただ自己主張しているだけの不快な解題が、吉本思想を貶め、解体しています。こんなつまらない、しかも資料的にも不正確な全集によって、吉本思想の真髄を壊さないでもらいたい。
以上のことから、以下の点を求めます。
◎リコール、そして新たな再刊
第30巻=不良品のリコールを求め、「心的現象論・本論」として再刊行し、「解題」が正確なものの再刊を要求します。
◎編者の解任と新たな編集体制と全集の構成
全集は、序説と本論とを分離し、「心的現象論」の全体を解体している。
編者が、一人によって、明らかに吉本思想全体がぼかされ、しかも偏曲されている。吉本本人を無視し、既刊本を無視し自分だけが正しいと主張し、自分の主観を勝手に述べているようなこの編者の解任を求めます。監修者、助言者を少なくとも数人で編成し、全集が正しく厳しく制作され、意味あるものになるよう、ちゃんとした編集者数人をもって公正にきちんとなされるのを求めます。新たなしっかりした編集体制の構築によって、年代順などではないテーマ性が、著作集や全集撰のように、はっきり構成された新たな全集刊行を今後求めます。
◎『定本 心的現象論』(序説+本論)の刊行
言語美、共同幻想論、心的現象論と3つの本質がそれぞれ並び立つよう、「序説と本論」とが1つになった「心的現象論」の真っ当な定本の刊行を求めます。その際、「本論」の名称を全集のように排除するのは、思想の歪曲であって、許されるべきではない。吉本本人の残したものとして刊行すべきです。
全集の編集の間違いを変え、正しい深みのあるものにしてもらいたい。全集賛同者をただ宣伝に使うのではなく、実際、巻ごとに関与協力させるべきです。そこに、編集者は従い支えるべきです。ただの一人の編者の横暴さ次元に落下されています。つまり、歴史的な思考の波及成果が、何にも生かされていない。
我々は、アカデミズムに迎合することなく、固有の思想を開き、日本・世界・人類を深く本質から考察した吉本思想を貴重な財産だと尊敬し、多くをそこから正しい刊行書によって学んでいきたい者たちです。
我々は、真っ当な全集を求めます。バラバラにされたものなど必要としない。
出版社の都合によって、思想総体への歪みがなされるのをゆるさない。
読者は、もはや出版社産物の間違いには従っていないことを主張し、本書に限らず、読者も入れての諸々の出版がなされていくことを願いかつ追求します。
代表:町屋英ニ 竹山道夫
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賛同者からのコメント
山本 哲士
正確な認識によってのご支援ありがとうございます。全集のもとで、著者本人の意志が死後に勝手にねじ曲げられるという信じ難いことが、明らかに周到な意図をもってなされました。全集が既刊行物の書名を勝手に変更することは、表題の問題だけでなく思想自体を歪めます。今後のためにも許されてはなりません。当方、発行者としても、また個人的に吉本思想の研究者としても、正しいことへの画定に尽力させていただきます。心的現象論は「序説」と「本論」からなるとご当人は画定され、確かに「心的現象論・本論」を本人とともに私どもが刊行しました。本人ご自身で刊行書を見ておられますことも、お伝えしておきます。
文化科学高等研究院出版局代表
(賛同数の動向を除き、全文を引用。行アケ箇所は詰めた)
山本哲士たちは間違っています。
もっといえば、これが徒党左翼の〈病〉です。
『吉本隆明全集』の編集と解題に異議や批判があるなら、公然とそれを表明すればいいだけです。リコールも、そのための署名活動も成り立ちません。
この人たちは視野が狭く、怖ろしく独善的です。
晶文社の『全集』の構成については、わたしも協力しました。その構成表(企画書)は著者・吉本隆明に手渡され、承諾を得ています。その段階で「第三〇 心的現象論[1970〜1997]」となっていたのです。
山本哲士たちは著者死後、編者(間宮幹彦)が書名を勝手に「改竄」と主張していますが、無知な言い掛かりにすぎません。
愚かにも〈墓穴〉を掘っているだけです。
なぜなら、この「企画書」は吉本隆明本人がみており、これについて著書でも言及しています。
また、わたし(松岡祥男)も所持していますし、著作権継承者である吉本多子(ハルノ宵子)の手元にもあります。おそらく次女吉本真秀子(吉本ばなな)も知っているはずです。これをみれば、「吉本隆明研究会」なるものの〈邪推〉によるデマゴギーの流布は一目瞭然です。従って、この「吉本隆明研究会」のアッピールを全面否定する〈証拠〉も〈証人〉も揃っています。
2
この人たちの根本的な〈錯覚〉は、著者との交流において、じぶんたちが最優先かつ絶対的と思っているところです。そして、関与した〈作品〉はじぶんたちに帰属すると勘違いしているのではないでしょうか。そこから、すべての錯誤は発生しているようにみえます。
著者に限らず、個の〈存在様式〉は多層で多面的です。吉本隆明の他者とのつきあい方を知りたければ『追悼私記 完全版』をみればいいのです。そして、なによりも
長い書物を旅して
ゆるやかな傾斜から
ころげ落ちるくらいの
線ともうひとつの線で囲まれた
卦のあいだの路を
戻ってくる
疲れた夕暮みたい 真っ赤な眼のなかに
ひっかかった
風がひるがえすと
こわれた字画として
まぶたのうらの皮膜を傷めつける
はじめて字が読めなくなる日
それまでに
もうこの人を去らなくては
(吉本隆明「字の告白」)
と胸の中で詠じた〈詩人〉なのです。
それは物の価値についてもいえるのではないでしょうか。
『吉本隆明全集』は既に30巻、出版されています。その実績を誰も無視することはできません。
これが気に入らないというのなら、「テーマ別編集の全集」を企画し、晶文社版とは別に作るしかないのです。そんな力がこの人たちにあるでしょうか。そうでなければ、じぶんたちの利害と面子に固執した、盲目的なバカ騒ぎでしかありません。
かく言うわたしは著者歿後、年代順の『全集』とは別の本を編集してきました。それを列挙すれば、次のようになります。
▼『追悼私記 完全版』(講談社文芸文庫・2019年4月刊)
▼『ふたりの村上 村上春樹・村上龍論集成』(論創社・2019年7月刊)
▼『地獄と人間 吉本隆明拾遺講演集』(ボーダーインク・2020年4月刊)
▼『詩歌の呼び声 岡井隆論集』(論創社・2021年8月刊)
▼『憂国の文学者たちに 60年安保・全共闘論集』(講談社文芸文庫・2021年11月刊)
▼『ことばの力 うたの心 短歌論集』(幻戯書房・2022年7月刊)
それぞれのテーマの編集本があった方がいいと思ったら、作ればいいのです。
この人たちの誤謬のひとつは、大主題主義的なところです。主要な著作に重きを置き、小さなものはどうでもいいと考えています。著者は〈重層的な非決定〉を唱え、〈大衆の原像〉をその思想の核心に据えた人です。短い文章も、単なる座興ではありません。深い思索と強い意志に貫かれたものです。「わが子は何をする人ぞ」や詩集『渡月橋まで』の帯文、〈感性の固有曲線〉という分析と指摘、それら個々の文章がどれだけ力を持ち、いかにその人の人生を鼓舞したか、そういう意味では原理的かつ体系的著述に決して劣るものではないのです。
「全集全体は、ただ時間順に単行本と論文や小論が、ただ同じレベルで並べられ」などという中傷は、およそ〈全集〉とはいかなるものかを知らないド素人の見当外れの放言であり、〈文筆の本質〉を考えたこともない愚鈍な発言です。
3
間宮幹彦は全集の編成を決定するために、先行する『吉本隆明全著作集』(勁草書房)や『吉本隆明全集撰』(大和書房)はもとより、いろんな単行本を参照。『芸術的抵抗と挫折』『抒情の論理』(未来社)と『擬制の終焉』(現代思潮社)などの構成をヒントに熟考のうえ、「編年体の全集」の骨格を組み上げたのです。『吉本隆明全集撰』のように著者自撰、各巻構成と配列も著者が決定したものと違って、誰が手掛けても完璧ということはないでしょうが、これを「出鱈目」とか「つまらない」などというのは、悪意に満ちた誹謗でしかありません。それは取りも直さず、クレーマーの甚だしい不見識と品性の下劣さを物語っています。
編者の間宮幹彦は1945年北海道・室蘭生まれ。東京大学を卒業し、筑摩書房に入社。最初の仕事は筑摩綜合大学で、吉本隆明の「南島論」の講演を担当しています。そして、初めて作った本が吉本隆明対談集『どこに思想の根拠をおくか』(1972年5月刊)です。吉本隆明はその「あとがき」で《はじめはやや投げやりであったわたしの姿勢は、努力をかたむける氏をみているうちに、〈これはいかん〉と感じて、しだいに居ずまいをこそこそと正して、辻つまをあわせるまで、わたしを感化したのだから不思議である。このよき人に幸あれ。》と記しています。そして、『悲劇の解読』『宮沢賢治』『島尾敏雄』『夏目漱石を読む』などの単行本を手掛け、『源実朝』『源氏物語論』『初期歌謡論』『柳田国男論・丸山真男論』『最後の親鸞』などを文庫本化したのです。また映画雑誌の編集を経て、全集担当となり、中島敦や立原道造などの全集を作っています。おそらく、この時期にいつか「吉本隆明全集」をじぶんの手でと思い、本格的な準備を始めたのでしょう。
さらにいえば、間宮幹彦は川上春雄が亡くなった時、兼子利光とともに福島県の川上の自宅に何度もおもむき、遺品の整理を行い、吉本隆明関係の資料を日本近代文学館に寄託したのです。
その間宮幹彦に「嫉妬と名誉欲」という非難を浴びせています。思わず、笑ってしまいました。じぶんたちの姿と思惑を、言葉の鏡に投影しているだけです。
誰しも長所も短所もあるでしょう。
わたしも『全集』の「解題」に不満や異論を持っています。第30巻でいえば、間宮幹彦は『宇宙・生命・エゴーーライヒは語る』や『リトル・トリー』の引用が長いことにふれて「助走的なノートの位置にあるといえるように思われる」と言っています。これは苦しい言い回しが現しているように、一面的です。確かにそういう側面もあるでしょうが、ここに〈編集者〉と〈表現者〉の差異があるような気がしました。「引用」に対する洞察が浅いのです。例えば言葉の喧嘩(論争)の場合は相手の発言を読者(第三者)に事情が分かるようにするために「引用」し開示します。そうしないと話が通じないからです。また優れた詩(作品)に出会った時などは、それを「引用」(書き写すこと)で一字一句たどり追体験する意味もありますし、また他者(読者)に読んでほしくて呈示することもあります。要するに〈表現〉にとって「引用」は多義的です。ウィルヘルム・ライヒやフォレスト・カーターの引用を「助走的なノート」と決めつけることはできません。もちろん、商業雑誌に発表する場合は、著者はこういうやり方はしませんが、じぶんの主宰する雑誌の場合は、「引用」を多くして、対象(他者の著作)を読者と〈共有〉するということもあり得るのではないでしょうか。わたしは『吉本隆明資料集』に収録するために入力と校正の作業をやりましたので、ライヒの発言や『リトル・トリー』の表現をたどる著者の〈行為〉をある程度は追認したと思っております。そこからの実感です。
なにはともあれ、山本哲士たちが主観的な思い込みを並べ、出鱈目な要求を掲げて、事情を知らない外野の人々を煽り、多数派工作をしても通用するはずがないのです。
4
この世は大学出や知的人士だけで出来上がっているわけではありません。そんなもの、下手をすれば差別と抑圧の温床でしかないのです。「文化」「科学」「高等」「研究院」、なんとご立派な看板でしょう。夜間高校中退のわたしのようなものは近づくことさえ憚られるような気がします。
このアッピールの発起人(町屋英二・竹山道夫)がどれくらい吉本隆明の著作を読み、理解しているかは知りませんが、こと「心的現象論」だけに限定しても、山本哲士らの企画によるものしか挙げておりません。これが管見的言説なのか、それとも詐欺的猿芝居なのかは断定できないにしても。ここで、彼らのいう「心的現象論 本論」の書誌事項を掲げましょう。
▼初出 「心的現象論」 『試行』第二九号(1970年1月発行)〜『試行』第七四号(1 997年12月発行)[*これが原典であり、これにリアル・タイムで立ち会った『試行』 購読者が最初の読者である]
▼「色の重層」 『is』増刊号特集「色」所収(1982年6月発行)[*これは『試行』第 四九号の「了解の水準(1)(2)」を加筆・訂正し、再発表したもの]
▼「原了解論」(『母型論』(学習研究社・1995年11月刊収録)[*これは『試行』七三号 の「民族語の原了解(1)(2)(3)を推敲したもの]
▼連載資料「心的現象論 眼の知覚論・身体論・関係論」(『吉本隆明が語る戦後55年』(7)(三 交社・2002年2月発行)〜(12)(2003年11月発行)
▼『心的現象論 眼の知覚論・身体論』(『吉本隆明資料集56』猫々堂・2006年7月刊)
▼『心的現象論 関係論』(『吉本隆明資料集59』猫々堂・2006年10月刊)
▼『心的現象論 了解論I』(『吉本隆明資料集65』猫々堂・2007年6月刊)
▼『心的現象論』普及版・机上愛蔵版(文化科学高等研究院出版局・2007年6月刊)
▼『心的現象論 了解論II』(『吉本隆明資料集68』猫々堂・2007年9月刊)
▼『心的現象論 了解論III』(『吉本隆明資料集72』猫々堂・2008年2月刊)
▼『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局・2008年7月刊)
▼『心的現象論 序説+本論』(文化科学高等研究院出版局・2008年8月刊)
▼知の新書『心的現象論 本論』(文化科学高等研究院出版局・2022年1月刊)
以上が、客観的な書誌です。
町屋英二・竹山道夫はEHESC版が「無視・排除」されているがごとく言い募っていますが、吉本隆明の許諾のもと『吉本隆明資料集』として発行された「心的現象論」の「各論」(全5冊)をどうして無視するのか、ぜひとも答えていただきたいものです。それは間宮幹彦の「解題」も同様です。マイナーなものは排除してもいいと考えているとしたら、きわめて傲慢な権力的態度です。
5
町屋英二・竹山道夫・山本哲士らの陰謀的な画策に加担した人たちに告げておきます。よく知らないことに〈同調〉するなかれ。それは主体性の喪失であり、自滅への道です。
町屋英二・竹山道夫・山本哲士はじぶんたちの錯誤行為をただちに自己批判し、「謝罪文」を公表のうえ、速やかに編者・版元・著作権継承者に謝罪すべきです。もし、このデマゴギーを撤回しないとなれば、「名誉毀損」および「威力業務妨害」で告訴ということもあり得るでしょう。
わたしは確信をもって断言できます。吉本隆明のモチーフをほんとうに理解していれば、こんな愚劇はあり得ない!と。
この一連の策謀によって、山本哲士は対談集『教育 学校 思想』(日本エディタースクール刊)や『週刊読書人』225回連載の「戦後五〇年を語る」という画期的なインタビュー、「良寛」や「アフリカ的段階について」の翻訳の推進などの営為のいっさいを台無しにしたのです。それは思想者としての〈死〉を意味します。
その腐った思想から漂う死臭を清めるため、わたしは〈線香〉を焚くように、この「返信」を認めた次第であります。
今年もいろいろあるかもしれません。
まだまだ上がることはできないような気がしました。
本年も宜しくお願い致します。
(2023年1月12日)
追補
「ある返信 ー山本哲士たちの愚劇」は、吉田惠吉さん提供の「『吉本隆明全集』のリコール・正しい再刊行と編者の新構成を要求します。」のプリント・アウトを読んで書きました。
その後、「山本哲士ブログ」(「吉本隆明本人を否定する吉本隆明全集第30巻ってなに?」ほか全8回掲載)、晶文社「告知文」、間宮幹彦「『吉本隆明全集』第30巻(晶文社刊)に対する山本哲士の誹謗中傷を反駁する」を読みました。
それらによってじぶんの発言を変更するところはありません。ただ「心的現象論」の書誌において遺漏がありました。それを追補します。
▼「了解論」(『季刊iichiko』第94号・2007年4月発行)[*これは『試行』四六号 から五三号掲載の「了解論」8回分の再録]
(2023年1月25日)
(インターネット上の「猫々堂フレーム」(吉田恵吉主宰「高屋敷の十字路 隆明網」)2023年1月26日掲載)
1
二〇二三年三月二八日、齋藤愼爾さんが亡くなった。八三歳だった。
地元の友人や雑誌仲間を別とすれば、齋藤愼爾さんは吉本隆明さんに次いで、お世話になった人だ。まずなによりも、齋藤さんはわたしの最初の本(『意識としてのアジア』深夜叢書社)を出版してくれた。吉本さんの推奨があったとはいえ、地方の無名の著作を刊行することは暴挙なのだ。資金の乏しい弱小出版社、しかも販路は地方・小出版流通センターしかなく、とても弱い。こちらにそれなりの財力や豊富な人脈があるなら、ある程度買い取って捌くこともできたのだが、そんな力はなかった。だから、採算が採れる見込みは殆どないのだ。それでも、出してくれたのである。この恩義を忘れることはないだろう。
初めてお会いしたのは、上野の「弁慶」という鰻屋で開かれたわたしの出版記念会だった。そこから四〇年近くにわたる交際がはじまったのである。当日、駒込・吉祥寺の隣の吉本家を訪ね、迎えを待つことになっていた。この機会をとらえ、吉本さんに「わたしの本なんか出して大丈夫でしょうか?」と訊ねた。そしたら、笑いながら「あの人たちはお金がある時はあるから」と言われた。それでかなり気が楽になった。
齋藤さんは器用貧乏だった。句作にはじまり、小説、評論、評伝、そして編集と多岐に跨っていた。しかし、それらがまっとうに評価されたことはなかったような気がする。
編集でいえば、その実力は二〇二〇年九月刊行の『金子兜太の〈現在〉』(春陽堂書店)ひとつ採っても歴然としている。周到な目配りと重厚な内容は比類なきものだ。誰が手掛けても、これ以上のものは作れないだろう。それは「アベ政治を許さない」という戦中派・金子兜太の迫力ある揮毫に比しても劣るものではない。
齋藤さんは本年度の「現代俳句大賞」の受賞が決まっていた。また『ひばり伝』(講談社)で芸術選奨文部科学大臣賞、『周五郎伝』(白水社)でやまなし文学賞を受賞している。しかし、そんなものはその生の実質には届きはしない。
深夜叢書社の実務を担っていた入江巌さんとのやりとりを聞いたことがある。入江さんが「『池田満寿夫全詩集』の時はたいへんでしたね。皮をなめす作業場に行って、本格的な革装本を作りました。覚えています? 歳月とともに、色が濃くなって立派なものになっています」というと、「そうだった。でも、どうやって売っていいか、分からなかった」と応えた。これが齋藤愼爾さんなのだ。
鎌倉諄誠『センスとしての現在の根拠』『吉本隆明インタビュー集成』をはじめ、吉本隆明『全マンガ論』(小学館クリエイティブ)などは齋藤さんの計らいで実現したものだ。齋藤さんの厚意がなかったら、わたしは意識的にも立場的にもローカルな存在にとどまっていただろう。
そして二〇二一年、論創社の吉本隆明著『詩歌の呼び声』の推薦文をお願いした。
「異様なる書物の出現!」が正直な感想。あの吉本隆明が半世紀にもわたって岡井隆に関わる論考、講演、対談をされていたということに驚愕した。短歌的表現の核心を衝く著作として近現代短歌史に光芒を放つ遺産となろう。
(齋藤愼爾 帯文)
これが最後の交流となった。
齋藤さん、ほんとうにありがとうございました。
(『風のたより』第28号2023年6月発行掲載)
2
もっとも優れた齋藤愼爾論は、谷川雁の「プロレタリアの葬列の末尾」だと思います。大抵の人はあの一文は井上光晴への弔辞であって、齋藤さんは影だというでしょう。私はそうは思いません。《あるとき光晴は愼爾の窮状にとっていくらか足しになるであろうと、光晴の家での原稿整理などをたのみ、一定の時間給を払うことを約束した。愼爾はよろこんで通っていった。ところが、日ぐれどきになるときまって光晴は賭け将棋をいどみ、愼爾の取り分をまるごとまきあげてしまったという。愼爾は例のくよくよした表情ではあるが、偶然の交通事故のようにあきらめきってこの話を私にした》とあるからです。
私は上京するたびに、齋藤さんに連絡し、早稲田鶴巻町にあった深夜叢書社にお邪魔しました。最初の著書である『意識としてのアジア』を出版してもらったからです。同社の実務を担っていたのは入江巌さん率いるイフ・フォーラムです。そのスタッフの小松幹生さんや金子さんなど、みんな親切でした。齋藤さんを訪ねて、築地の朝日新聞社へ行ったこともあります。齋藤さんが『アサヒグラフ』を手伝っていたからです。もちろん、本とレコード、手紙や書類の溢れた西葛西の、一人暮らしのマンションにも行きました。
齋藤さんは多才でした。『齋藤愼爾全句集』、『ひばり伝』、吉本和子句集『七耀』の解説「彼岸の美学」。そして、『埴谷雄高・吉本隆明の世界』をはじめとする抜群の編者としての実力。場合によっては黒子に徹したケースもあります。吉本隆明関連でいえば『夏を越した映画』『読書の方法』『全南島論』などは齋藤さんの仕事なのです。『「灰とダイヤモンド」のテーマ』(一柳慧・編曲)という、自らの思想の原点を示すレコードも作っています。深夜叢書社の本で、いちばんのお気に入りはと問われたら、私は躊躇なく吉本和子『寒冷前線』を挙げます。不朽の作品集だからです。句作への勧誘から、「あとがき」の文言がきついのでもう少し柔和にという適切な助言までが、齋藤さんのリードです。
私にとって齋藤さんは確かな標だったような気がします。昨年暮れ、齋藤さんと同年代の次兄が亡くなり、七人きょうだいも自分だけになりました。末っ子は責任が無く気楽でいいと思っていたのですが、大間違いでした。家は姪が相続してくれたのですが、実家で暮らすわけではありませんので、雨戸をうち廃屋となっています。また田や畑も放置され荒れ放題です。覚悟していたとはいえ、実際そうなると、生存の基盤を喪失したような感じがしました。それでも齋藤さんの姿と温かい支援を思い起こすと、ここで屈することはできないと思いました。齋藤さんは六〇年安保闘争敗北後、大学を中退し、上京しています。故郷を離れ、東京で生活費を稼ぎながらの出版活動は、苦難の連続だったはずです。それでも初志を曲げなかったのです。
断崖に島極まりて雪霏々と 愼爾
(齋藤愼爾『深夜叢書社年代記』2024年4月刊〈栞〉掲載)
ご無沙汰しております。
その後、山本哲士たちの『吉本隆明全集』第30巻リコールというバカ騒ぎがどうなったかといいますと、彼らは破廉恥にも、じぶんたちの〈やった〉ことや〈言った〉ことの責任を一切取らず、この動きに関連するインターネット上の文章を全部消去しました。
これによって、山本哲士は名実ともに〈亡霊〉と化したのです。
そして、怨霊のように自身の「ブログ」で恨み事を綴っています。
最近も、間宮幹彦のことを罵っていました。
間宮幹彦は小関直(春秋社編集者)とともに、ずっと『試行』の校正を手伝ってきたのです。また吉本ばなな『人生のこつあれこれ2013』(新潮文庫)にも記されているように、彼の全集の編成を著者自身が評価し、喜んでいたのです。
もっといえば、山本哲士は吉本隆明の著作をめぼしいものしか読んでおらず、それに比して、間宮幹彦は初出の殆どを入手し、読み込んでいます。それに文学音痴の山本哲士に『全集』1〜3の初期の詩を理解することも、まっとうに扱うことも難しいでしょう。実力の差は歴然としています。
書名改竄という言い掛かりにはじまり、刊行物のリコール・新編集体制の要求を掲げ、署名を呼び掛けたことの自己批判は一言もないのです。
〈わたしが間違っていました。ごめんなさい〉という器量がないから、グダグダ言い訳し、誤魔化そうとするのです。これがインテリの悪癖のひとつで、きっと胸がインキン癬なのでしょう。
さらに、2007年に刊行された『心的現象論』は「偽書」であると言い出しました。仮にご乱心・山本哲士の言う通りだとしても、世間はこの弁明を納得しないでしょう。なぜなら、この計画は山本哲士が印刷所に持ち掛けたものであり、それなくして、こんな不始末は起こり得ないからです。要するに、すべての原因は山本哲士自身にあることは誰がみたってはっきりしているのです。
確たる証拠も残っています。
うちの店ではいまのところ販売予定はありませんが本日発売らしいです
〇吉本隆明著『心的現象論』 発行=文化科学高等研究院(EHESC)出版局
机上愛蔵版=ハードカバー 布製 特上箱入 B5判750頁 50000円(税込) 限定300部
普及版=ソフトカバー A5判920頁 20000円(税込)
*たいへん高価な本ですが、吉本氏本人による加筆修正および「まえがき」や「あとがき」などは無いといううわさです。現在刊行中で残り2冊ですべて揃う「猫々堂版」ですと、同内容が半額以下で読めますから、〈吉本〉本の完全コレクションを目指される方以外には無用かと思われます。それと筑摩書房が編纂中で、いつの日にかは刊行されるであろう「吉本隆明全集」に収録されることが確実ですから、そちらを購入ご予定の方はお待ちになるほうが無難かと思います。
*ご参考までに「[本]のメルマガ【vol.286】2007年5月25日発行」に掲載された、発行者のメッセージを転載しておきます。
それにしても先の「イイチコ」でもそうでしたが、なぜ「猫々堂版」を無視しているのかがやや納得できません。
(京都・三月書房「〈吉本隆明〉本 新刊のお知らせ」2007/05/31)
要するに、最初から党派的なのです。エゴと亜流思考のブレンドによる独善と排他、それが山本哲士の思想的体質といえるでしょう。
この『心的現象論』の刊行は、主要な「年譜」や「書誌」にも記載されています。早い順でいけば、
(1)吉田惠吉「吉本隆明 2007年著作リスト」(インターネット「高屋敷の十字路 隆明網」2007年6月23日記述)
(2)高橋忠義「吉本隆明年譜(7)」(『吉本隆明詩全集1』思潮社2008年6月25日刊・栞)
(3)宿沢あぐり「吉本隆明著書年表」(『現代思想』青土社2008年8月臨時増刊号「吉本隆明 肯定の思想」)
となります。
山本哲士は《アクションとは、過程です。行為です。記録に残すことが主眼ではない。そしてとても微妙でデリケートです。いろんな関係性や価値や作用が、日ごとに変わります》(「山本哲士ブログ」2023年2月1日)などと言って、なりふり構わず責任を回避しようとしていますが、吉本隆明のいったい何を読んできたというのでしょう。
吉本隆明は「前世代の詩人たち」(1955年)を皮切りに、戦争責任論を展開しました。それは壷井繁治や岡本潤といった詩人たちが戦時中、戦争に加担する作品を書き、戦意を煽ってきたのに、敗戦後は態度を翻し、じぶんは「戦争に抵抗した」などという虚偽を並べたうえ、日本共産党と結託し、他者の戦争責任を追及するという犯罪的な行動に出たのです。吉本隆明はその豹変と欺瞞性を徹底的に批判しました。
山本哲士の言うことが通用するなら、「戦争責任論」も「転向論」もはじめから成立しません。もっといえば、〈思想〉も〈文学〉もあった話ではないのです。
それは誰だって間違えることはあります。その誤りを誤魔化すことなく、認め、克服することが大切であると、吉本隆明は痛切に指摘したのです。
戦争権力がアジアの各地にもたらしたものは、「乱殺と麻薬攻勢」(東京裁判)であり、同胞の隊伍は、数おおくの拷問、凌辱、掠奪、破壊に従事した。このとき、詩人たちはあざむかれたのであろうか。断じてそうではない。同胞の隊伍がアジアの各地にもたらした残虐行為と、現代詩人が、日本の現代詩に、美辞と麗句を武器としてもたらした言葉の残虐行為とは、絶対におなじものである。その根がおなじ日本的庶民意識のなかの残忍さ、非人間さに発しているばかりでなく、残忍さの比重においてもおなじものだ。詩人たちもまた、日本の歴史を凌辱し、乱殺し、コトバの麻薬をもって痴呆状態におとしいれたのである。戦後、これらの現代詩人たちが、じぶんの傷あとを、汚辱を凝視し、そこから脱出しようとする内部の闘いによって詩意識をふかめる道をえらばず、あるいは他の戦争責任を追及することで自己の挫折をいんぺいし、あるいは一時の出来ごころのようにけろりとして、ふたたび手なれた職人的技法とオプティミズムをはんらんさせたとき、かれらは、自ら日本現代詩の汚辱の歴史をそそぐべき役割を放棄したのである。
(吉本隆明『高村光太郎』)
まったく、山本哲士たちのどこが〈吉本隆明研究会〉なのでしょう。山本哲士は《Webの特質は載せたり消したり自在》だと居直っていますが、これは吉本隆明の言語論に根本的に背反するものです。吉本思想の基礎である『言語にとって美とはなにか』は〈表現は主体を指定する〉とはっきり言い切っています。
また『ハイ・イメージ論II』の「拡張論」をちゃんと読んでいれば、ソシュールとの差異は分かるはずです。それなのに「所記(シニフィエ)」「能記(シニフィアン)」という概念を振り回して、悦に入るのは滑稽です。
いずれにしても、山本哲士は『教育の森』1981年9月号のインタビューから始まった吉本隆明との交流も、本人のいうところの「研究」著書も、Web文章と同様、みんな〈反古〉にしたのです。
以上が、その後のなりゆきであります。さすがに、ここまで無責任で、これほどブザマとは思っていませんでした。
では、また。
(インターネット「猫々堂フレーム」(吉田恵吉主宰「高屋敷の十字路」)2023年6月17日掲載)
(1)
吉本さんの書物を読んでは忘れまた読みかえしながら、吉本さんも尊重されておられた南島語研究者村山七郎の跡を追い、細々と南島語とアイヌ語と原始日本語の関わりを尋ね歩いておる小生ですが、アイヌ語に関わることで、「心的現象論」のなかに一箇所気になる点がありまして、とても馬鹿らしいほど細かな点なのですが、お聞きいただければ幸いです。この件、「試行」および『母型論』『心的現象論』(文化科学高等研究院版)にもあたり、また各種アイヌ語辞書にもあたってみました。次のような事の次第になります。
《問題の箇所》
●「試行」No.74 心的現象論 112 民族語の原了解(3)末尾に近く
「たとえば、宮城県の「気仙沼(けせんぬま)は、アイヌ語で類似音にほぐして「kes-en-nu-ma」と仮定すれば「尻がー光っているー豊漁のー峡湾」ということで、『おもろさうし』とおなじ語法とすれば、「気仙沼」は旧日本語時代には「尻がー光っているー豊漁のー峡湾」という意味で呼ばれていたことになる。また「白石」は「sir-o-us-i」で「山のー尻にーついているー所」と呼ばれていたことになる。」
とあります。
●『母型論』「原了解論」学習研究社1995・11・7 p267(上と同文)
●『心的現象論』112民族語の原了解(3)2007・6・1初版 p868(上と同文)
【▽『母型論〈新版〉』(思潮社2004年4月刊)▽『心的現象論 了解論III』(「吉本隆明資料集72」猫々堂2008年2月刊)▽『吉本隆明全集』第26巻「母型論」(晶文社2021年8月刊)▽『吉本隆明全集』第30巻「心的現象論」(晶文社2022年12月刊)。すべて(上と同文)←松岡追補】
ここでアイヌ語で問題になるのは、〈kes-en-nu-ma〉の〈en〉です。
《アイヌ語辞書》
(1)知里真志保『地名アイヌ語小辞典』(北海道出版企画センター 1956年初版 1984年復刻2004年七刷)
これには次のようにあります。
en えン 《完》とがっている;つき出ている;するどい。
〜-keとがらす。
e-en エえン 《完》するどい;先がとがっている;刃がきれる。
[e(頭)en(とがっている)]
e-en-iwa エえニワ 尖り山。イブリ国チトセ郡エニワ(恵庭)岳の原名はこれである。
[頭が・とがっている・山]
などと説明があります。
【以下、▽『知里真志保著作集別巻II(分類アイヌ語辞典人間編)』▽『北海道蝦夷 語地名解』永田方正 明治24年初版 昭和47年復刻 国書刊行会▽バチェラー『アイヌ・英・和辭典』岩波書店 第四版1938年第1刷 1995年第3刷▽『アイヌ語方言辞典』岩波書店1964年 服部四郎編からの引用による掲示がありますが、割愛しました(←松岡)】
これらの記述により〈en〉は「とがっている」という語意を持つアイヌ語詞と判断されます。
《校正の問題か》
そこでわたしが考えるに、〈en〉が、(勝手にわたしが思っているところの)「尖っている」から「光っている」となった理由は
A「尖」っている (「光」っている)
Aを筆録された場合、形状類似の両漢字「尖/光」の区別が付けにくい場合がある、ということだったのではないでしょうか。かつてアイヌ語はいっぱんには見捨てられている言語ですので誰もが筆記文字の見分けを外部から検討出来るわけではなく、結果校正を免れた、と考えます。
吉本さんは「脱音現象論」で参照文献として宝田清吉「アイヌ語と東北」(自家版)をあげておられます。知里地名辞書も参照して居ないはずはありません。前記知里地名辞書にも「尖り山」という表記がありますが、おそらく宝田氏の書には「気仙沼」があってまた「尖っている」という表記があるかも知れません。残念ながらわたしはこの書を参照出来ませんでした。この「尖り」は気仙沼の湾奥または海上から古代人が見た(古往時比較的平坦な広がりを持った)湾地の、特徴ある一端の高地を指していたかも知れません。
(「東北のEさん」の松岡祥男宛書簡2023年6月30日)
(1)への返信など
▼「心的現象論 民族語の原了解(3)」の件ですが、わたしはアイヌ語に関する知識が皆無なので、全く分かりません。
わたしの手には負えませんので、もし不都合でなければ、このことを『吉本隆明全集』の版元(晶文社)に伝えたいと思います。
不都合な場合はお知らせください。
お便りを拝読して、身が引き締まるような気がしました。
ご活躍を祈ります。(7月4日)
▼「心的現象論 民族語の原了解(3)」のことですが、わたしは『全集30』『母型論』をみて、返事を書きました。
その後『試行』を取り出し、ご指摘の箇所を確認しました。そしたら、「心的現象論 民族語の原了解(3)」は『試行』第73号(1995年5月発行)が初出でした。
ご指摘が『吉本隆明全集』の読者に伝わることを願っております。(7月6日)
わたしはその後、発信者の了解を得て、手紙をコピーして、晶文社などに送りました。そしたら、宿沢あぐりさんから宝田清吉『アイヌ語と東北(改訂版)』(1966年8月20日初版 1970年7月1日改訂版発行)の複写が届きました。それには次のようにありました。
気仙沼(ケセンヌマ)kes-en-nu-ma 尻がー尖っているー豊漁のー峡湾
コピーなので断定的なことは言えませんが、手書きもしくはガリ版印刷と思われ、「尖」と「光」の違いを見分けるのは通常の視力でも難しいような気がしました。
(2)
お世話になっております。
恐らく全集等も含めて、いまだに未収録だと思うのですが、かつて吉本隆明が北海道大学新聞に寄せた短文を添付します。「腐食しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」という標題で、昭和35年4月25日付けです。
よろしくお取り計らいください。
(京都・三月書房宛メール2023年8月1日)
(2)への返信
お申し越しの「読者からのメール」ですが、「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」は『吉本隆明全集』第6巻(2014年3月刊)に収録されております。また、宿沢あぐり「吉本隆明年譜」が詳しく記述していますので、ここに呈示します。
[1]一九六〇年三月一六日
「あいさつ」
全学連第一五回臨時大会(一六日〜一七日)
会場・東京目黒公会堂(一六日)、新宿会館(一七日)
他には黒田寛一、松田政男たちも出席。
このあいさつについて、四月一日付共産主義者同盟機関紙『戦旗』(発行所・東京都文京区元町一の七 世界労働運動研究所 編集 発行人・鏑木 潔)第一〇号では、つぎのように記している。
平和的ムードのなかで
腐蝕しない思想を! 吉本隆明氏の挨拶
第十五回全学連臨時大会に当り、学生運動が現在おかれている状況と、しかるが故に学生運動がになつている特殊に現在的な課題について、私は述べようと思う。
現象的なものではない本質的な思想闘争のない現在の状況は絶望的である。したがつて未来への希望は、本質的な思想対立とたたかいをまき起すことによつてのみつながれうるだろう。
十五・六年も現象的な平和が続いていることは、明治以降の近代のなかではあめて(ママ)のことであろう。この中で平和的にして大衆的な規模で『転向』が行われている。だからわれわれはまつたく新しい思想的な課題に直面している。学生諸君が権力からの強圧にたえうるだろうことは、うたがいない。しかし、世をおおうこの平和的なムードの中で、思想を腐蝕させないで保ちつづけることは、またきわめて困難なことであり、これから以後、諸君に課せられている、大きな問題でじだ。(ママ)
こゝから、いわば現在の社会的な情勢における必然として、学生運動が、あるときは前衛的な役割を、あるときは学生運動固有の役割を、またあるときは労働運動の役割を、負わねばならないという現在のありかたが生れてくる。
これに耐えよ。その時、未来への希望は諸君のうちにある。
これに耐えぬなら、諸君も腐り、崩壊してしまうのる。(ママ)
これは、四月二五日付『道学新共同デスク』の「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」とほぼ同一内容。
[2]一九六〇年四月二五日
「腐蝕しない思想をもて されば希望は諸君のうちにある」 『道学新共同デスク』(札幌市北八条西五丁目(北海道大学新聞会内))第三号
これは、『戦旗』第一〇号に掲載されたものとほぼ同一内容(削除箇所あり)。
(宿沢あぐり「吉本隆明年譜(3)」『吉本隆明資料集146』所収)
[2]は『吉本隆明資料集47』(2005年7月発行)にも収録しています。
その経緯をいいますと、川上春雄の遺した資料の中に指摘の新聞があり、間宮幹彦氏から提供されました。それで『資料集』に収録したのです。その後、宿沢氏の調査により、[1]が原型であることが判明しました。
(3)
松岡さんの文章において、沢清兵=内村剛介という話を吉本和子さんから聞いて、松岡さんもその説をいちおううべなっているように拝察いたしますが、二人は別人です。
私が1973年から日本読書新聞に4年間在籍していたおり、沢さんに「論壇時評」のようなものをお願いして、担当し、彼とは確か阿佐ヶ谷のガード下で、酒を飲んだこともあります。剛介氏と同じく商社マンで、太った恰幅のよい方でした。私は、沢さんの『褪色』は今でもラーゲリ文学の傑作と思っており、当時も沢さんに原稿をいただきたいと思っておりました。今は手元に資料がないので記憶でしかないのですが、沢さんには石原吉郎の本の書評も書いていただいたように記憶いたします。年賀状もいただいた記憶あります。もちろん、「沢清兵」は筆名で、本名は今や失念しました。「試行」への寄稿は、もちろん剛介氏の紹介ということでした。シベリアでは、剛介氏はエリートでレーニンだけ読んでいれば良かったんだが、俺は下っ端だったから、といった話が記憶に残っています。
(京都・三月書房宛 スガ秀実メール2023年8月24日)
(3)に関連する松岡の発言
『吉本隆明資料集』は鼎談や座談会の出席者はもとより、『試行』の復刻版を発行した際も執筆者全員に送るようにしてきた。
それで図書館などで調べたけれど、どうしても本人の所在や著作権継承者が分からない場合もあった。
たとえば「褪色」を連載した沢清兵という人は、全然分からなかった。わたしは仕方なく、『試行』の編集・発行者である吉本さんに問い合せた。そうしたら、事務を担当された吉本和子さんから「沢清兵さんは内村剛介さんのペンネームだそうです」という返事をいただいた(内村剛介本人はインタビューで別人としているらしいが‥‥‥。言うまでもなく内村剛介は「政治犯」として長い間ソビエトに拘留された。帰国後も、その方面の追跡や監視は続いていたことは想像に難くない。また、日本のその筋からも要注意人物扱いだったろう。訪ねるたびに、内村家の表札の名字が変わっていたという話もあるくらいだ)。
(松岡祥男「瀬尾育生「〈吉本隆明 1949-1969〉のための解題」批判」)
猫 そういうことを言うなら、『VAV(ばぶ)』の陶山幾朗・成田昭男との間で問題になった『試行』に「褪色」という作品を発表した沢清兵は、内村剛介のペンネームということに関連して、内村家の表札がよく変わっていたというのは脇地さんから聞いた話だ。陶山幾朗は内村剛介については、じぶんがもっとも打ち込んでいるので、誰よりもよく知っていると思い込み、「沢=内村」という意見を頭から否定し、これは「なんらかの思い違いか、誤解の類ではないかと推測する」などと言ったんだ。それが専門家がはまる陥穽のひとつだ。異説に接したら、それを検討するのがほんとうなんだ。陶山幾朗は脇地さんとも交流があったから、いろんなことを聞くことができたはずだ。そうしたら、別の角度からの人物像が得られただろう。ソビエトに抑留されたことが内村剛介の決定的な体験であることは疑いないけれど、帰国後の動きも重要なのに、陶山幾朗は抑留問題に深入りしていった。
松 浮海啓さんの大学の後輩にあたる名古屋の六〇年安保世代のHさんから直接聞いた話では、当時の学生仲間では「沢=内村」説は通り相場になっていたそうだ。どうしてかというと、内村剛介の筆名で『日本読書新聞』に発表した文章が「褪色」の文体とそっくりだったからだ。陶山幾朗はプロの編集者で、『内村剛介著作集』も編んでいるんだから、文体は人格であるという側面も考慮したら、よかったとおもう。まあ、内村さんも吉本さんも、陶山さんも亡くなった。確かめるとしたら、もし『褪色』の原稿が残っていれば筆跡鑑定でもやるしかないだろう。おれは『試行』の発行者である吉本さんの証言は信憑性が高いと思っているけど、べつに固執するわけじゃない。
(松岡祥男「コロナ状況下、脇地炯さんを追悼する」)
(3)への返信など
▼FAX、ありがとうございます。
スガ秀実さんに「ご教示、ありがとうございます」とお伝えください。
わたしはつねづね自由でオープンな姿勢に優るものはないと思っています。
それはいろんな人の意見を尊重することにもつながっています。
これも宍戸さんがお店を閉められてからも情報発信されているお陰です。(三月書房宛)
▼本日、京都・三月書房から同封のFAXが届きました。
発信者のスガ秀実氏は元「日本読書新聞」の編集者ですから、きわめて信憑性は高いと思います。「内村剛介」と「沢清兵」とは別人であるという陶山幾朗さんの説を裏付けるものです。
「日本読書新聞」の該当文章を参照すれば、スガ氏の今回の証言を確認することができるでしょう。ご活用ください。(成田昭男宛)
(『風のたより』第29号2023年10月発行掲載)
1
先日、吉本多子(ハルノ宵子)さんからお便りがあり、「吉本隆明生誕100年祭」のイベントについて、全く知らなかったとのことです。北海道の写真家中島(博美)さん(『開店休業』の写真を手掛けた人)から聞いて、事後初めて知ったとのことです。
長いつきあいなのに、三上治からは電話の一本もなかったそうです。それなのに、いろんな人を巻き込んだようで、それにも怒り、《とりあえず、味岡(←三上の本名)のヤロウのSM(ショートメール)に書き込んでおきましたが、ウンでもスンでもありません。この憤り、どこにぶつけていいのやら》と結んでありました。
それで次のような返事を出しました。
《 お手紙を読んで驚きました。
「吉本隆明生誕100年祭」の世話人代表三上治を筆頭に〈無節操にもほどがある〉と思いました。
多子さん(著作権継承者)に一言の挨拶も無しに、よくもこんなことができるものです。まあ、ある時期から徒党左翼は信用しないことにしていますけれど。しかし、決して無関心でも放置しているわけでもありません。
わたしのところへは、兵庫県のM氏からパンフレット類が送られてきました。【東京の「吉本族」の一人で、元ゼンガクレン中執、中大出のМという評論家でモノ書きが仲間に声をかけ、「吉本隆明生誕100年祭」をやりたいとあたしの友人にも言ってきた。/「手伝ってくれ」とあたしに回ってきた。「政治集会っぽいのはご免こうむる」ということでウオーキングプランを提案し、本日各所に公表した。詩の朗読と室内楽のライブを真言宗寺院でやるプランも企画したが、カネがかかるので実現しなかった。/吉本族の貴君にお知らせと思って一式を送ります】というM氏宛通信文も同封されていました。
この人は3年くらい前に突然年賀状を送ってきました。それが交信の始まりです。彼のいうところによれば、元編集者で、宮下和夫の後輩とのことです。
この資料提供によって、三上治や高橋順一らの動きを知ったのですが、「4、総合テーマ いま、吉本隆明を問う」(2024年11月23日開催)のイベントの後援には「晶文社」も連なっていますので、当然、多子さんは御存じと思ったしだいです。どうやら甘かったようです。
三上治は11月23日の集まりで、じぶんが基調講演をすると同時に、「吉本隆明生誕100年記念号」と銘打った主宰誌『流砂』第26号を会場で販売したようです。わたしはこういう徒党左翼の利用主義、便乗主義が嫌いです。
この雑誌は一般書店では入手できません。それで摸索舎に注文しました。一応見ておこうと思って。しかし、わたしにはなんの魅力もない、必要の無いものでした。それでも捨てるよりは、「吉本隆明年譜」を手掛けている山梨の宿沢(あぐり)さんにプレゼントした方が役に立つだろうと考え、ダブらないことを確認のうえ送りました。
まあ、三上治はあの東京・品川の24時間連続講演と討論のイベント(「いま、吉本隆明25時」1987年)において、主催者の一人になったのは良いとしても、吉本隆明がゲスト講演者として提案した寺田透、堤清二との交渉に当たっています。寺田透には全く相手にされず、堤清二には連絡をとることさえ難しいので、当時西武の仕事をしていた糸井重里の名を騙り、接近しようとしたのです。そんなことは知らない糸井さんはびっくりして、吉本さんに「どういうことでしょう」と問い合わせてきたと聞いています。
それで二人ともボツになり、吉本さんは任せておくことはできないと判断し、じぶんで交渉し、大原(富枝)さんと前(登志夫)さんを招いたのです。
三上治がじぶんで連れてきたのは、後にあの屑本『吉本隆明という共同幻想』を出した呉智英です。なによりも他者の名を騙るという行為が卑劣で、破廉恥です。
ネットで検索したら、だいたいの感じが分かりました。
亡くなった前川藤一(日本酒「横超」の販売者)の呼び掛けで、吉本さんの命日には旗を掲げて、墓前祭を毎年のようにやっています。特に2023年は参加者多数で三上、高橋、菅原則生、友人の金廣志などの姿もみえます。
後日、「猫屋台」にも行ったのではないでしょうか。(「前川藤一ブログ」や「吉本隆明生誕100年祭」の記事などを参照)
三上治はいまや新左翼の大物OBのうえ、やり放しが徒党左翼の属性ですから反省などしないでしょう。むしろ「集会屋」としては「ヨシモトリュウメイ」の名を称揚するためにじぶんなりに尽力したと思っているでしょう。それに対しては「馬鹿!」といえば終わりです。
それでも始末がつかない場合は徹底的に叩く(批判する)しかありません。
これとは別に、月村敏行提唱の「横超忌」の方は、神山睦美が主催者になって、小さな集まりを続けているようです。
こちらも多子さんにはなんの挨拶もないものと推察します。
わたしは基本的に岩波文庫『吉本隆明詩集』も角川文庫『国家とは何か』も、その刊行の意義を認めています。だって思潮社をはじめとするセコい、じり貧の詩壇の枠からはみだした方がいいに決まっているからです。この2冊が新しい読者との出会いの契機となれば言うことなしです。
ただ不満をいえば、吉本さんは海(を愛する)の詩人です。それは『記号の森の伝説歌』でも変わりません。蜂飼耳の編集はそんなことには全く考えが及んでいません。愛着を持っていないからです。
また先崎彰容の『共同幻想論』理解は表面的です。でも『国家とは何か』はいまでは入手不可能な『吉本隆明全著作集14』(勁草書房)の講演をベースにしていますので、古い読者でもある程度納得するのではないでしょうか。
最近、萩尾望都『一度きりの大泉の話』を読みました。お読みになっていると思いますが、竹宮惠子との邂逅と訣別を語った痛切な回想記です。
どうしても黙っていることができない時は、やっぱり萩尾さんのようにすべきでしょう。今回の場合はショートメール(警告)でじゅうぶんではないでしょうか。効き目はないとしても、一応釘を刺したということで。》
いい話もありました。《角川の若い編集さんによると、今61刷位までいった『共同幻想論』や『心的現象論序説』も、買ってくれているのは、20代、30代の人たち》とのことです。
2
高知も寒いです。7日連続、最低気温は氷点下でした。
お便り、届きました。
その後も、三上治からはひとことの詫びも言い訳もないようですね。きっと、そんなふうに平気な顔をしてやってきたのでしょう。
昔、三上治の雑誌『乾坤』の発行人になっていた黒井(彰義)さんは「味岡さんは安保ブンドを総括できる人かもしれない」と、お会いした時に言っていました。それでずっと援助してきたのではないかと思います。
雑誌の発行だって、今回のイベントだって、お金が掛かります。いろんな方面に呼び掛けてやったのでしょう。そういう意味では顔が広く、多くの人脈を持っているに違いありません。裏返すと、無責任な野合でしかないとしても、です。
『吉本隆明が語る戦後55年』というシリーズ本をみれば分かるように、三上治や高橋順一は山本哲士とつながっています。それなのに、あの愚劣な「『吉本隆明全集』リコール」騒動については、なんのコメントもないのです。
また「生誕100年祭」には叛旗派分裂・解体以来、反目していた神津陽も参加したとありました。まあ、みんな先がないのでここらで手打ちにしましょうということかもしれませんが、やれやれです。
同じ元・叛旗派の菅原則生も困った人です。昨年の暮れに宿沢さんと電話で話をしていたら、宿沢さんが菅原さんと連絡がつかない。彼の携帯の留守録に吹き込んでも、手紙を出しても返事が無いといいました。前川氏が亡くなったこともありますので気になって、わたしは伊川龍郎に菅原則生の消息を訊ねました。しばらくして伊川さんから連絡が取れたという知らせがあり、菅原さんは宿沢さんにはじぶんが連絡すると言ったそうです。
年が明けて、また宿沢さんと話をする機会があり、「菅原さんから連絡はありましたか」と聞きました。そしたら、《ありました。次の『続・最後の場所』第16号用に送った原稿を「無意味」と言われました》と宿沢さん。???です。
わたしは菅原則生に誰か書き手を紹介してほしいと乞われて、彼を推薦しました。宿沢さんは第4号(2017年5月発行)からじぶんの入手した資料を提供するとともに、それに伴う文を寄せてきました。
▼増補改訂『吉本政枝 拾遺歌集』(4・5号)
▼吉本隆明の父・順太郎が参戦した「青島戦」のことなど(6号)
▼吉本家の掛軸の句について(7号)
▼軍人・木村千代太と日中戦争のことなど年表的に(8・9号)
▼吉本隆明が宍戸恭一に宛てた書簡+吉本和子が宍戸弘子に宛てた書簡(10号)
▼吉本隆明講演年譜(11・12・13号)
▼荒井和子の小説「女の方法」に関わって(14号)
▼荒井和子の小説「雨の降る日」解題/「吉本隆明『真世界インタビュー』付記(15号)
今回は吉本隆明「アジア的ということ」の引用文に関する資料らしいですが、宿沢さんは「掲載しなくてけっこうです」と返信したとのことです。
わたしは〈またかよ〉と思いました。
菅原則生は第11号において、吉本隆明に関する著書をもつ二人の人物に原稿依頼し、寄せられた原稿をボツにしました。この一件を思い出したからです。この件ではわたしは直ぐに次のような手紙を出しました。
《 菅原さん、ダメです。
依頼した原稿は、じぶんの意に添わなくても、どんなに稚拙なものであっても、掲載しなければなりません。
それが原理・原則です。
依頼した原稿を受け取り、それが思わしくなかった場合は、もう一度推敲してください、あるいは原稿量(字数)を絞り込んでください、ということはできます。それに沿って書き直されたら、当然掲載します。
またそういう申し出をして、筆者が「できません」といい、「取り下げる」と言った場合は、それなら「最初の原稿を載せます」と言わなければなりません。
投稿の場合は、主宰者の判断で採否を決定できます。
また同人誌や仲間内の雑誌ならば、メンバー同士の相互了解のうちに採否を決めることができるでしょう。それによって仲違いになったとしても。
また、わたしのような寄稿者の時は、冗談ではなく、今回は出来が悪いのでボツにしますというのは可能ですし、具体的に指摘し書き直してくれということもできます。依頼ではないからです。
商業誌の場合でいっても、原則として依頼原稿のボツはありえません。どうしても紙(誌)面に不都合で掲載できない時は、理由を述べて謝罪のうえ、原稿料(労賃)を支払うことになっています。
この鉄則を崩し、依頼したにも拘らず、原稿の出来不出来で判断しますと、専制主義・能力主義・機能主義に堕することになります。
これは少なくともわたしの流儀には反します。
どんな場合でも、依頼した以上は掲載するしかないのです。なぜなら、その人の文章を読んだうえで、原稿を依頼しているからです。(この節、一部削除)
わたしも『吉本隆明資料集』の挿入の「猫々だより」で、原稿依頼してきました。ごく稀に、気乗りしないものもありましたし、批判や反感を持ったものもありました.。それでも、全部掲載しましたし、ある段階まで(経済的に逼迫していなかった時まで)は、同等に原稿料を出しました。
わたしは、菅原さんにどうしろと言う権利はありませんけれど、この原理・原則は大切ですので、お伝えするしだいです。》
これに対して、まっとうな応答はなく、事実上の絶交通告がありました。
こんな利用主義的な、恣意的編集が通用するはずがありません。じぶんの政治的主張(立場)を前面に出して、思うままにやりたいのなら、誰も誘うことなく、一人でやればいいのです。こういう所業を〈徒党左翼〉というのです。一般大衆よりじぶんは偉いという思い上がりから脱することができないのかもしれません。わたしたちは客観的には大衆の一人であっても、それぞれが人生の主人公なのです。
一方、月村敏行・神山睦美・脇地炯・齋藤愼爾・高橋忠義・田村雅之を発起人とする「横超忌」は、脇地さん、月村さん、齋藤さんが亡くなり、神山睦美が続けているようです。2024年度は米沢慧がなんと『隆明だもの』についてレクチャーしたようです(笑)。
ロシアのウクライナ侵攻の長期化、イスラエルのガザ大虐殺、強欲トランプ大統領復活という〈逆行の時代〉にあって、オープンな姿勢と透徹した世界認識が求められているのに、残念なことに〈なんじゃ、そりゃあ〉という振舞いが横行しているのです。
(インターネット「猫々堂フレーム」(吉田恵吉主宰「高屋敷の十字路」)2025年3月1日掲載)