齋藤愼爾さん追悼

       『追悼私記 完全版』に向けて

松岡祥男

     1

 『脈』第九七号の特集「沖縄を生きた島成郎」を読んでいると、多くの人が吉本隆明の追悼文「「将たる器」の人」に言及している。しかし、この追悼文は『沖縄タイムス』に発表されて、著者の単行本には未収録である。
 そこで、その全文をここに掲げることにした。


  初めて島成郎さんに会ったのは全学連主流派が主導した六〇年安保闘争の初期だった。島さんたち「ブント」の幹部数人がいたと思うが、竹内好さん、鶴見俊輔さんはじめ、わたしたち文化人(!?)を招いて、島さんから自分たちの闘争に理解を持って見守って 頂きたい旨の要請が語られた。竹内さんなどから二、三の質問があって、島さんが答えていたと記憶する。
  確か本郷東大の向かいの喫茶店だった。わたしが鮮やかに覚えているのは、そんなことではない。その時、島さんは戦いは自分たちが主体で、あくまでもやるから、文化人の方々は好意的に見守っていてくださればいい旨の発言をしたと記憶する。わたしは、この人は「将(指導者)たる器」があるなと感じた。
  戦いはいつもうまく運べば何も寄与しないが同伴していた文化人の手柄のように宣伝され、敗れれば学生さんの乱暴な振る舞いのせいにされる。この社会の常識はそんな風にできている。わたしは島さんがそんな常識に釘を刺しておきたかったのだと思い、同感を禁じ得なかった。
  わたしは学生さんの闘争のそばにくっついているだけだったが、心のなかでは「学生さんの戦いの前には出まい、でも学生さんのやることは何でもやろう」という原則を抱いて六〇年安保闘争に臨んだ。それでもこのわたしの原則は効力がなかったかも知れないが、わたしの方から破ったことはなかった。島さんをはじめ「ブント」の人たちの心意気にわたしも心のなかで呼応しようと思ったのだ。文字通り現場にくっついていただけで、闘争に何の寄与もしなかった。
  島さんの主導する全学連主流派の人たちは、孤立と孤独のうちに、世界に先駆けて独立左翼(ソ連派でも中共派でもない)の闘争を押し進めた。それが六〇年安保闘争の全学連主流派の戦いの世界史的意味だと、わたしは思っている。闘争は敗北と言ってよく、ブントをはじめ主流となった諸派は解体の危機を体験した。しかし、独立左翼の戦いが成り立ちうることを世界に先駆けて明示した。この意義の深さは、無化されることはない。
  安保闘争の敗北の後、わたしは島さんを深く知るようになった。彼の「将たるの器」を深く感ずるようになったからだ。わたしが旧「ブント」のメンバーの誰彼を非難したり、悪たれを言ったりすると、島さんはいつも、それは誤解ですと言って、その特質と人柄を説いて聞かせた。わたしは「将たるの器」とはこういうものかと感嘆した。わたしなど、言わんでもいい悪口を商売にしているようなもので、島さんの一貫した仲間擁護の言説を知るほどに、たくさんのことを学んだような気がする。
  わたしの子供達は豪放磊落な島成郎さんを「悪い島さん」と愛称して、よく遊んでもらったり、お風呂に入れてもらったりしていた。わたしとは別の意味で、幼い日を思い出すごとに、島さんの人なつこい人柄を思い出すに違いない。
  知っている範囲で谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは「将たるの器」を持った優れたオルガナイザーだと思ってきた。臨床精神科医としての島さんの活動については、わたしは語る資格がない。だが、この人を失ってしまった悲しみは骨身にこたえる。きっとたくさんの人がそう思っているに違いない。

                               (吉本隆明「「将たる器」の人」)

 この『脈』の特集の全体的な基底をなしているのは、齋藤愼爾「島成郎と吉本隆明」という論考である。
 齋藤愼爾はここで、吉本隆明が島成郎を公然と評価した最初は「現代学生論―精神の闇屋の特権を」であること。そして六〇年安保闘争を山形の地でくぐった体験を踏まえて(この体験が齋藤愼爾自身の思想形成の核心だ。それは一九六〇年六月一七日の「共同宣言―暴力を排し議会主義を守れ」のマス・コミの反動性に対する、〈不動〉の批判に端的に現れている)、六・一五闘争をめぐる裁判において、統一公判グループから一人分離した常木守の特別弁護人の要請を引き受けたこと。つまり、安保闘争敗北後、全学連主流派のすべてを擁護するというよりも、そこから分離・独立して闘った〈一被告人〉を支援したことの、思想的意味を明確にしている。
 これはとても重要なことだ。この段階において、既に統一公判グループ即ち北小路敏、西部邁、加藤尚武らとは、思想的に袂別していたのである。


  当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は〈もの書き〉として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャーナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にもまたできないと思い定めよ、という考え方を少しずつ形成していったとおもう。
  わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。わたしは、これに対しても激しく応戦した。

                            (吉本隆明「「SECT6」について」)


 これが吉本隆明の六〇年安保闘争敗北後の実際だったのだ。
 わたしは、「連続射殺魔」として死刑になった永山則夫のように、「全学連」なんて所詮お坊ちゃん学生の所業にすぎないなどと言うつもりはない。確かに安保ブンドは、もともとは日本共産党東大細胞である。果敢に闘ったことは凄いことだし、米・ソの両支配勢力に対して、初めて〈否〉を公然と表明した世界史的な〈突出〉だった。けれど、西部邁が典型のように、統一公判グループの面々は、最後までそのエリート根性が抜けなかったような気がする。
 常木守が裁判において、特別弁護人として申請したのは、吉本隆明と島成郎の二人である。しかし、いずれも却下された。それで吉本隆明は「思想的弁護論」を執筆、常木守は最終弁論の第二部として、法廷でこれを読み上げたのである。
 常木守は、最終意見陳述をつぎのように結んでいる。


 われわれはいま六十年当時とは全く異なる情況の下にいる。
 当時わたしは共産主義者同盟の一員であり、一員として六・一五闘争に参加した。
 いまその同盟は存在しない。
  (中略)
 裁かれる五年前のわたしと、裁きの結果をうけとる現在のわたしをこの法廷においてつなぐものがあるとすれば、それは精神の違法性――その存在自体が違法性としてあるようなわたしの精神であり、且それだけが本被告事件において公的審判にあたいしうるただひとつのものであったのだとわたしは考える。

                       (常木守「最終意見とはなにか」『試行』第一五号)


 この痛切なおもいだけが、ひとすじの意志として〈現在〉につながっている。
 六〇年安保闘争の敗北は拡散し、時代の暗渠から見上げるとき、歴史の展開は社会(産業)の発展とは裏腹に退行するばかりのように見える。それでも、わたしたちは国家の支配に抗して、戦争のない自由な世界を希求することをやめはしない。
 私的なことを記せば、吉本隆明・島成郎・葉山岳夫の鼎談「トロツキストと云われても―共産主義者同盟に訊く―」(『中央公論』一九六〇年四月号)を『吉本隆明資料集』第六集(二〇〇〇年九月発行)に再録した。出席者全員に送ることを方針としていたので、島さんにも送った。そしたら、思いがけずお礼のはがきが届いた。それには「いま、じぶんの癌の治療に専念しています」とあった。それから、間もなく島さんは亡くなった(二〇〇〇年一〇月)。
 また、常木さんともその晩年に少し交流があった。何が契機だったかは忘れてしまったけれど、吉本講演「〈戦後〉経済の思想的批判」などの収録された『資料集』を購入してくれたりした。常木さんが亡くなった時(二〇一〇年五月)、吉本さんについて書かれた手紙(A4サイズ3枚くらいもの)を、追悼の意味を籠めて「猫々だより」で公開したいとおもい、夫人に許可を得ようと、手紙をコピーして添え、打診したけれど、残念ながら許諾は得られなかった。
 お二人の私信は、偉ぶったところは微塵もなく、おおらかな息遣いが伝わってくるものだった。こんな人にオルグされたら、ひとたまりもないだろう。信頼して随いて行きますとなったことは疑いない。
 島成郎は、詩人・評論家・作家のような〈ことばの人〉ではない。〈行動の人〉だ。だから、遺された文章に〈整合〉性や〈完結〉性を求めることはできないし、そこから、その存在の〈全体性〉に到達するのは難しいような気がする。政治組織を作り闘うことも、医師として患者に真向かうことも、酒を呑むことやゴルフをやることにも同じように打ち込むことができた人だったのではないだろうか。「豪放磊落」とは、そういう意味だとおもう。

     2

 この特集で、示唆を受けたことはもうひとつある。それは吉本隆明『追悼私記』の〈決定版〉があってもいいということだ。
 『追悼私記』は、吉本隆明の執筆した追悼文を集成したものだ。
 「中上健次」から「吉本政枝」までの二七篇を収録して、JICC出版局から一九九三年三月に刊行された。一九九七年七月に「谷川雁」「埴谷雄高」など五篇が追加されて、洋泉社で「増補」版が作られ、さらに「江藤淳(原題「江藤淳記」『文學界』一九九九年九月号)」「大原富枝」を加えて、筑摩書房から文庫本として二〇〇〇年八月に出版されている。
 〈読者〉という立場からみると、『追悼私記』の原型となったのは、春秋社の『〈信〉の構造Part3 全天皇制・宗教論集成』(一九八九年一月刊)の「告別」の章と思われる。これは純然たる追悼文を集めたもので、「姉の死など」から「島尾敏雄の死」までの一二篇が収録されている。これを踏まえて、いろんな形で発表された〈追悼〉に関わる文章を補強して、『追悼私記』は成立したといえるだろう。ただ、春秋社版にあった「母の死」は割愛されている。これはおそらく著者の意向によるものとおもう。
 それ以降のものは、その殆どが著書未収録なのだ。
 ここに「ちくま文庫」版に増補されるべきものを、その書誌事項とともに列挙する。

(1) 三島由紀夫 檄のあとさき 『新潮』一九九〇年一二月号 →『余裕のない日本を考える』(コスモの本)
(2) 小野清長 『試行』第五七号「後記」一九八一年一〇月 →『吉本隆明資料集二八』
(3) 三浦つとむ 別れの言葉 一九八九年一〇月三〇日告別の日に 『胸中にあり火の柱』(明石書店)二〇〇二年八月一〇日刊 →『吉本隆明資料集一五九』
(4)  吉行淳之介 追悼にならない追悼 『新潮』一九九四年一〇月号 →『吉本隆明資料集一三〇』
(5) 奥野健男 あの頃二人は 『群像』一九九八年二月号 →『吉本隆明資料集一四五』
(6) 江藤淳氏を悼む 『山梨日日新聞』一九九九年七月二三日ほか →『吉本隆明資料集一八四」
(7) 島成郎 「将たる器」の人 『沖縄タイムス』二〇〇〇年一〇月二二日 →『吉本隆明資料集一五一』
(8) 本多秋五さんの死 『群像』二〇〇一年三月号 →『吉本隆明資料集一五四』
(9) 川上春雄さんを悼む 『ちくま』二〇〇一年一二月号 →『吉本隆明資料集一五七』
   川上春雄さんのこと 『詩の雑誌ミッドナイト・プレス』第一四号二〇〇一年一二月発行 →『吉本隆明資料集一五七』
(10) 大塚 睦 清冽な色彩と繊細な線に守られた前衛画家 『大塚睦画集』(いのは画廊)二〇〇四年八月 →『吉本隆明資料集一六二』
(11) 清岡卓行を悼む 『群像』二〇〇六年八月号 →『「芸術言語論」への覚書』(李白社)
   詩人清岡卓行について 『現代詩手帖』二〇〇八年一一月号 →『吉本隆明資料集一七三』
(12) 小川国夫さんを悼む 『群像』二〇〇八年六月号 →『「芸術言語論」への覚書』(李白社)
(13) 梶木剛追悼 梶木剛遺稿集『文学的視線の構図』(深夜叢書社)二〇一一年五月 →『吉本隆明資料集一七九』

 (1)の「檄のあとさき」の追加は、この場合少し性質が異なるかもしれないが、吉本隆明にとって三島由紀夫は同世代であり、大きな存在だった。また自著『模写と鏡』に推薦文を寄せてもらっていることを考えると、既収録の「暫定的メモ」(=「重く暗いしこり」)だけでは、その本意は尽くされていないようにおもう。そこで「檄のあとさき」を増補したらいいと考えた次第だ。『余裕のない日本を考える』に収録されているけれど、本文に組み落ち(脱落)がある。
 (4)「追悼にならない追悼」と(5)「あの頃二人は」の二つは、本来はちくま文庫の収録対象範囲にあるものだ。たぶん編集的な目配りが届いていなかったための遺漏ではないだろうか。

 もちろん、「追悼文集」について否定的な意見もある。その典型的な例が月村敏行の「思い出すままに」(『飢餓陣営』第三八号)だ。月村の一文はひどいもので、完全な言いがかりである。
 そのなかの黒田三郎の件ひとつみても、吉本隆明・鮎川信夫・北川透の鼎談で黒田を批判をしたと非難しているけれど、そもそもそんな鼎談はない。ぞんざいな月村は、鮎川・北川対談をそう勘違いしたのだ。月村敏行は、黒田三郎は「晩年にはある政党の信者同然となり、その機関紙にも意見を発表するようになった」と書いているが、こんな婉曲(曖昧)な言い方自体が欺瞞的である。ここははっきり日本共産党支持者となり、その文化政策の傘下にある「詩人会議」の会長になったと書くべきなのだ。その黒田三郎を批判することが、「死者に対する礼を失する」というのなら、この月村敏行の一文こそ呆れるような、つきあいのあったことに依拠した、偉ぶっただけの言いがかりで、死者に対して礼を失した〈卑劣なものである〉と断言して、なんの憚りがあろう。
 さらにいえば、月村は「大車輪で黒田三郎批判をやった」と書いているけれど、過度の誇張だ。吉本隆明は「連作詩篇」の「三郎が死んだあと」で、《夜になると死が勧めにくる/あの三郎が死んだあと/みんなつぶやいたものだ 晨ごとに/〈太陽はもう味方ではない〉/と//明け方の酒場をでて/露路から露路へと/曲っていった/記憶のあとに泡のような記憶がつづいて/悄然と倒れる日のために/眼の微笑ににたものが/あいつの生を無駄にした 択ばれた/詩語を駄目にした//つまり波のように/心を浴びせると 浴びせられた心が/やさしくなる その瞬間をつかまったのだ/贋金のようにきれいな思想の虹に/もう 魂のプロレタリアなどいない その色を/どう塗ったらいいか/ともかくも旗 ともかくも歌 それを/架空にかかげる 思想の/シンガー・ソング・ライターの/小娘のように》と詠っているからである。これは苦々しい思いをともなった、寂寥の追悼詩だ。だいたい、相手が亡くなっているのに、電話のやりとりを持ち出して難癖をつけるなどという芸当は、わたしなどには到底真似のできることではない。なにが追悼文集が好まれる「一般的風潮」だ、なにがそれに「合致していた」だ、そんなことは関係ないだろ。くだらないことをいうんじゃねえよ。
 こんなことは余計な寄り道に映るかもしれないが、〈表現〉とは怖ろしいもので、他者への言及が鏡像のようにおのれの〈本性〉の露呈でしかないという側面も有している。月村敏行は吉本隆明の〈影〉に位置して、その展開をいつも引き戻すようなことばかり言ってきた。それもひとつの〈悲劇〉には違いないだろうが、スターリン主義の影響を脱し切ることができなかったことの証左である。要するに思想史的には「安保ブント」以前であり、立場は違っても全学連初代委員長であった武井昭夫の〈位相〉と変わらないのだ。
 わたしは追悼文には、その真情がとてもよく現れるとおもう。その人に対する悲しみと喪失感なくして、その死を悼むことはできない。吉本隆明の場合、それがむきな批判として表出されることもあったけれど、それは儀礼的な態度を超えたものなのだ。


  まず第一に、「試行」56号からこの57号がでるまでの期間に起こったことで、ぜひ記しておきたいとおもうことがある。それは早稲田の(とわたしたちは呼んでいた)文献堂書店主人である小野清長さんが、交通事故で突然亡くなられたことである。小野さんは「試行」にたいしてはもちろん、とうてい現在の出版機構や本の配給機構や販売機構のもとでは、印刷や製本までは何とかやれても、それを配給し販売ルートにのせることができないような出版物にたいして、じつにきめのこまかい眼くばりとあたたかさを感じさせる配慮を絶えず提供してくれた。わたしたちの間では名物的存在であった。小野さんのような書店主は、もう日本に求めるとしても片方の指で数えるほどしかおらないだろう。「試行」がわずか三百部くらいで創刊し、どこを歩いてもあまりいい顔で店頭に置いてくれなかった時期から、終始淡々とした様子で取扱ってくれ、まるで小雑誌発行の経済的、精神的な困難を透視しているかのように、ぴったりした配慮をめぐらしてくれた。わたしたちは小野さんのような存在に支えられて、気力を振い起こすことが、何度あったか知れない。わたしたちがもっている現在の文化の透視図は、ほかのどんな連中や勢力とも似ていないが、その透視図のなかで文献堂書店主人小野清長さんの存在は巨きいものだった。小野さんの突然の死はおおきな衝撃であった。もしかするとひとつの文化の態様の死を象徴しているのかもしれないともおもう。その意味をよくたどって明らかにしてゆくことは「試行」の意味のひとつであるような気がする。小野さんは、いつも単車のうしろの荷台に、独特の梱包用のおおいで、雑誌を積んで立ち去っていった。そのおなじ姿で事故にあわれたときいた。その姿はもうこの号から見ることはできない。わたしたちは、その姿をいつまでも忘れることはないだろう。
                            (吉本隆明「『試行』第五七号「後記」)


     3

 わたしにとって、谷川雁はなによりも詩人だ。


 ふるさとの悪霊どもの歯ぐきから
 おれはみつけた 水仙いろした泥の都
 波のようにやさしく奇怪な発音で
 馬車を売ろう 杉を買おう 革命はこわい

 なきはらすきこりの娘は
 岩のピアノにむかい
 新しい国のうたを立ちのぼらせよ

 つまずき こみあげる鉄道のはて
 ほしよりもしずかな草刈場で
 虚無のからすを追いはらえ

 あさはこわれやすいがらすだから
 東京へゆくな ふるさとを創れ

 おれたちのしりをひやす苔の客間に
 船乗り 百姓 旋盤工 坑夫をまねけ
 かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき
 それこそ羊歯でかくされたこの世の首府

 駈けてゆくひずめの内側なのだ

                (谷川雁「東京へゆくな」)


   松永伍一の手になる「伝達」(未収録詩篇)「大地の商人」(一九五四年)「天山」(一九五六年)を合わせた『谷川雁詩集』(国文社)と、「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」という詩の断筆宣言後、ふたたび詩作を開始した時の詩集『海としての信濃』(深夜叢書社)はいまでも大切に持っている。
 わたしは覚えが悪いから暗唱することはできないけれど、「東京へゆくな」は胸に刻まれている。最初に感銘したものは、どんなことがあっても揺らぐことなく屹立しているのではないだろうか。
 いま、「東京へゆくな」を読んで、響いてくるフレーズは「あさはこわれやすいがらすだから/東京へゆくな ふるさとを創れ」ではなく、「駈けてゆくひずめの内側なのだ」である。この躍動する暗喩の一行がなかったら、巧みな比喩の心情あふれるアジテーション詩にとどまっただろう。わたしがもっとも惹かれたのは「かぞえきれぬ恥辱 ひとつの眼つき」だ。もちろん、そんなことを強調する時代は去った。
 わたしが谷川雁の詩に出会った時には、三池炭鉱闘争、大正鉱業退職者同盟の闘いはもはや伝説であり、谷川雁が重役的なポストを占めていたテックの労働争議が風評として伝わってきただけである。そんなことに少しも動かされはしなかった。じぶんが情況の真っ只中にいたからだ。
 しかし、谷川雁は、六〇年安保闘争を闘い日本共産党を離脱した部分には強い影響力を持っていたようだ。「同行衆通信」の主宰者であった鎌倉諄誠は一時、高知大学の仲間と一緒に農業コンミューンを試みたことがあって、それが挫折した時、メンバーの一人は「おれは谷川雁に会いに行く」と言って、九州へ行き、そのまま長崎に住みついたという。地方の活動家にとって、谷川雁は支柱的な存在だったのだ。
 吉本隆明は詩集『天山』の書評で、「『天山』は優れた詩人の手になる詩集である。詩を愛して詩を書く読者はこれを評価し、詩を憎んで詩を書く読者はこれを評価せぬであろう」と書いている。その意味はすぐに理解できた。それは吉本隆明の「少年期」と比較すると、直観的にわかることだ。


 くろい地下道へはいつてゆくように
 少年の日の挿話へはいつてゆくと
 語りかけるのは
 見しらぬ駄菓子屋のおかみであり
 三銭の屑せんべいに固着した
 記憶である
 幼友達は盗みをはたらき
 橋のたもとでもの思ひにふけり
 びいどろの石あてに賭けた
 明日の約束をわすれた
 世界は異常な掟てがあり 私刑があり
 仲間外れにされたものは風に吹きさらされた
 かれらはやがて
 団結し 首長をえらび 利権をまもり
 近親をいつくしむ
 仲間外れにされたものは
 そむき 愛と憎しみをおぼえ
 魂の惨劇にたえる
 みえない関係が
 みえはじめたとき
 かれらは深く訣別している

 不服従こそは少年の日の記憶を解放する
 と語りかけるとき
 ぼくは掟てにしたがつて追放されるのである

                     (吉本隆明「少年期」)


   谷川雁は『思想の科学』一九五九年九月号に「庶民・吉本隆明」を書いた。それを受けて、同じ『思想の科学』一九五九年一二月号に吉本隆明は「谷川雁論―不毛なる農本主義者―」を発表した。しかし、これは校正刷りに「手を入れたが、それは発表されなかった」と言っている。だから、著書に収録することも保留。その後『全著作集』に収められたけれど不満の残るものだったのである。
 谷川雁と吉本隆明の接触の記録は、「ゼロからの出発」、「さしあたってこれだけは」、「「情況」と「行動」その他」、「日本人の経験をめぐって」という四つの座談会に残されているだけである。
 不確かな伝聞だが、吉本隆明がテックに就職を斡旋したのは常木守と平岡正明の二人とのことだ。もうひとつの「谷川雁論」ともいえる『地獄系24』の「解説」は、著者である平岡正明の依頼を受けて書かれたものだ。吉本さんはわたしに、平岡正明は良い声をしており、それゆえこの執筆を引き受けたと言われた。
 わたしは、実際の谷川雁を知らない。ただ、NHK教育が谷川雁の追悼番組を放映した時、それを見た。番組の冒頭、井上光晴の葬儀で告別のことばを読み上げる場面があった。それは圧倒的な存在感を示していた。また炭鉱の飯場のようなところで、花札博打をやっている映像は、その魅力が存分に伝わってくるものだった。それはわたしにとって詩作品に匹敵するものだ。
 谷川雁の「庶民・吉本隆明」は、『芸術的抵抗と挫折』に対する鋭い批評であり、同世代的な吉本論となっている。ただ、「不可触賤民」などという表象は、谷川雁の思想の〈弱点〉を物語るものでしかない。一方、吉本隆明のもっともまとまった谷川論は、テック・グループ労働組合後援による、講演「谷川雁論―政治的知識人の典型」ではないだろうか。

*初出・『脈』第98号「吉本隆明さんのことQ」2018年8月発行→『吉本隆明さんの笑顔』(猫々堂・2019年12月発行所収)


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「齋藤愼爾さん追悼:『追悼私記 完全版』に向けて 松岡祥男」 ファイル作成:2023.06.02 最終更新日:2023.06.05