ロシアのウクライナ侵攻の渦中

松岡祥男

 日本の文芸史において、アンソロジーというのは重要な位置を占めているよね。
 そうだろうな。『万葉集』からしてそうだからな。
 吉本隆明さんの『思想のアンソロジー』ってあるだろう、あれはもう少し体調が良ければ違ったものになっていたような気がする。例えば、筑摩書房でやった『ナショナリズム』みたいな。
 誰にも〈わたしのアンソロジー〉はあるからな。それは詩歌や思想書に限ったものじゃない。歌謡曲だってそうだ。よく利用している郵便局の隣に、元はスナックだった店がいまはカラオケになっていて、このコロナ蔓延状況であっても平気で朝から歌っているからな。たいした度胸というか、わが身に降りかからなければどこ吹く風って塩梅だ。
 じぶんの好きな歌や流行りの歌をそれぞれの思いによって熱唱してるんだろうけど。おれはオンチだからカラオケ嫌いだし、歌うのは苦痛なんだ。だからカラオケのある店には行かない。酒を飲みながら、人と話をするのがいい。それでもカラオケのある店へ連れていかれ、仕方なしに歌う羽目になったら、岡林信康の「山谷ブルース」石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を歌うくらいだ。一度ザ・ブルーハーツの「リンダリンダ」に挑んだけれど、まるでダメだった。
 歌うのが苦手だから、じぶんで詩を書くようになったのかもしれないな。
 そんなの、あとづけにすぎないよ。思い入れの深い歌ってあるよね。ジャックスの「堕天使ロック」とか、あがた森魚の「赤色エレジー」とか。
 ジャックスの「マリアンヌ」からあがた森魚の「清怨夜曲」が生まれている。そういう継承と展開はどんなジャンルでもあるからな。
 音楽関係は著作権にはうるさい。おれ、何度か文中に歌詞を引用して、余計な出費で雑誌の発行元や出版社に迷惑をかけたことがあるよ。なかでもヤマハだね。高い値段をふっかけるらしい。吉本さんが毎日新聞の連載「現代日本の詩歌」で、松任谷由美と一緒に中島みゆきの歌詞も引用しようとしたけれど、担当者が「ヤマハは使用料がノノ」と言うので、やめている。
 ヤマハはやりすぎなんだよ。ことばは、その発生以来、話すことにおいても、書くうえにおいても、ずっと受け継がれたきたものだ。中島みゆきの歌詞だって、もともとは身のまわりに飛び交っていたものと、詩歌の伝承と、形式の踏襲のうえに成り立っている。もちろん、その表現は独自なものかもしれないけれど、すべてを超越した絶対的なものであるはずがない。ほんとうは占有権などない。利権と利害による逆立ち現象だ。この世には「差別語」などというものは存在しないようにな。それなのに朝日新聞あたりが良識ぶって率先して言語規制を行ってきたんだ。じぶんたちの首に縄をかけていることも忘れて。
 じぶんのアンソロジーということでいえば、その初めの方にくるのは、鎌倉(諄誠)さんの詩だ。

  自転車ではしる女はいいな
  はしることをおさえた少年が
  爪先で地面をつかんで歩きはじめるように
  眠りはじめた風よりももっとかるく
  過ぎさった思い出のうぶ毛よりももっとやわらかく
  髪がはしる
  車が流れる
  衣裳がはしる
  街並が流れる
  おんながはしる
  いっさんに
  燦々と風景をひるがえし
  紅潮したほおとすれちがいざまに傾いていくもののするどい角度のなかで
  自転車ではしるおんなは
  直立している
  自転車ではしる女はいいな
                      (鎌倉諄誠「自転車ではしるおんな」)

 この詩が『同行衆通信』に載った時はうれしかった。知り合いの女の人に見せたら「いいね」と言った。
 おまえの鎌倉さんへの思いはいろいろあるだろうが、当時の新左翼活動家の中では珍しく詩を大切にしていた、それが他の人たちと明らかに異なっていた。それが魅かれた最大の要因といえるんじゃないか。まあ、政治的なミス・リードは多々あったけどな。
 おれはこのごろ思うんだけど、無理して新たな知見を加えることは要らないような気がする。復習することでも理解を深めることはできるからね。鎌倉さんに言及したものは少ない。『風のたより』の追悼号と関西の『BIDS』創刊号の垣口朋久の「忌避としての大衆をめぐって」、それに富山の埴野(謙二)さんの『寄せ木細工 街頭考』だ。
 おまえは毎日のように仕事が終わってから、和文タイプで『同行衆通信』の原稿を打ち込んでいた。そういう地味な作業を疎かにしなかったよな。じぶんが能力があるとか、頭が良いと思っている奴ってのは、そういうのを厭う。すぐに指導者や参謀的な立場に立とうとするんだ。そんなことは下っ端に任せればいいと考える。この前、三島由紀夫と江藤淳をこきおろしただろう。あれのつづきでいえば、三島由紀夫ってのは、なにはともあれ、じぶんで冷徹に実践した。ところが江藤淳の『海は甦る』をはじめとする一連の戦記物・政治放談ってのは机上の空論だ、海軍参謀気どりの。
 まあね。ロシアのウクライナ侵攻によって、日本の政治家っていうのは、小プーチンさながらの安倍晋三を筆頭に、「非核三原則」の見直し、つまり核兵器の米軍との共同運用によって、防衛強化すべきなんだって言い出した。これまでさんざん北朝鮮の核開発を非難してきたくせに、北朝鮮の轍を踏むことになることすら頬かぶりだ。核兵器を所有してたって、そんなもの防衛力なんかになりはしない。国家間の力関係ってのは、要するに総合力なんだ。そもそも軍や軍事力なんてものは〈暴力装置〉のひとつにすぎない。しかもアメリカ頼みというところが笑わせる。
 江藤淳は所詮絵空事だが、安倍らの発言は実際的な弊害になりうるからな。やつらの妄言通りに、有事的事態が発生し、アメリカからの核兵器の供与で、核兵器を保有し、相手国を威嚇しても、無効だ。本格的な戦争になれば、狭いこの島国の原発がミサイル攻撃を受ければ、それだけでアウトだ。それにこいつらの言うことは国家利害と政治思惑による空想で、戦火によって逃げ迷う人々の姿など、その視野のどこにも入っていない。核兵器の所持なんかが戦争抑止力になるはずがないし、防衛の要になることもない。これを子ども騙しのバカ話というんだ。アメリカは日本をアジアにおける重要な同盟国と位置づけていても、命運を共にするつもりなどないぜ。そんなことは分かりきったことだ。安倍が首相の時、その携帯電話がアメリカに傍受されていて抗議した事実ひとつをとっても。
 プーチンはソビエト連邦崩壊以降、これまでも旧連邦内で幾多の軍事的制圧を繰り返してきたファシストだ。ウクライナにはじまったことじゃない。それを国際社会は放置してきたんだ。ヨーロッパと隣接するウクライナとなれば、放っておけないということで、全面対立の様相を呈しているけど、ドイツが参戦しないかぎり第三次世界大戦に発展することはないさ。なにが問題なのかは、はっきりしている。ロシアの侵攻によって、多くの都市が破壊され、人命が奪われていることだ。そこでいえば、くたばれプーチンとおれもおもうさ。ほんとうにアジア的な呪詛の力があるというのなら、プーチンの藁人形に釘を打ち込むだろう。
 われわれはいろんな報道によるしかないんだけど、中国開催の冬季オリンピックの終了と同時に、ロシアが侵攻することは目にみえていた。それが確定的になったのは、ベラルーシとの合同演習、つまり連合軍を形成した段階だ。本気でウクライナを守ろうとするなら、NATO(北大西洋条約機構)は軍隊を国境周辺へ集結させたはずだ。その気はEUもアメリカもなかった。プーチンがというよりも、ロシアはヨーロッパの幻影を振り切ることができないんだ。それが旧連邦内の軋轢として露出してきたような気がする。豊富な資源とミール共同体にみられるような農耕的な社会を基盤にして、独自の共同体をつくれれば、こういう苛酷な展開は回避できたはずだ。さらにいえば、ロシアもEUに加盟し、経済的な垣根を越える方途だって、ゴルバチョフやエリツィンの路線を推進していれば、その可能性だって全くなかったわけじゃない。ほんとうはヨーロッパの優位性なんて無くなっているのに、ヘーゲルの歴史哲学の指摘のように、先行するヨーロッパという神話に呪縛されている。だから、NATOというのは単なる陣取り合戦の勢力関係以上の陰影を含んでいるんだ。ロシアがこの宿命から脱することは難しい。プーチンは自国防衛のためといっているが、ウクライナを踏みつけて、あくまでもヨーロッパという〈幻〉やアメリカの〈影〉と対峙しようとしている。レーニンらのロシア革命によるソビエト連邦の形成がその切断となる可能性をもっていたけれど、スターリン以後失墜して、元の勢力図に回帰した。プーチンもそれを踏襲しているだけだ。プーチンはソビエト連邦の崩壊がトラウマになっていて、その打撃と屈辱をはねかえし、あらゆる手段を使ってロシアの復活を目指した。そんなもの壊れたって、それぞれの地域が自立すればいいと考えることができなかった。あくまでも強大な帝国に固執した。それがウクライナ侵攻の暴挙の背景だ。
 日本の支配層だって、大日本帝国の栄光を捨てかねているね。だから、半無意識的に南北朝鮮や中国よりも上位にあると錯覚している。その典型が安倍や高市早苗らだ。あの時期だけが圧倒的な中国の影響を覆したからだ。だけど、岸信介の大陸におけるアヘンをめぐる暗躍も含めて、その禍は日本総体に及び、太平洋戦争の敗戦にまでつながっている。その意味では、まさしく超A級戦犯だ。岸信介から安倍晋三に至る三代にわたる所業のせいで、どれだけの実害が生じたかを歴史家は検証したらいい。黄色い猿としての脱亜論なんて、後進意識の現れでしかないよ。そのうぬぼれをいまだに拭底できないんだ。だから、気分はいつでも高村光太郎の「根付の国」だよね。そもそも、こいつらの民族意識から狂っている。こいつらは大和朝廷の成立が日本人のルーツと錯覚し、そこから日本の伝統が形成されたと思い込んでいるんだ。冗談じゃない。この列島は未開、古代から、縄文、弥生とたどる過程で、幾重もの混血で成り立っており、その起源は不明なんだ。それは遺伝子解析である程度は判明しているとはいえ、いまだに確定的なことはいえない。アフリカに人類が発生してから、その地域性と種族性を克明に追認することはいまの段階では無理だとしても、いろんなルートからこの列島にさまざまな人々が流入し、〈列島人〉は形作られてきたことは明白だ。中国の歴史書を模倣した『古事記』や『日本書紀』を鵜呑みにするなんて、無知もいいところだ。〈国生み神話〉に独自性が認められるにせよ、それはすでに存在している島々で、初期王権の勢力範囲を物語るものでしかない。それは日本は立憲君主制などという見当外れの認識と同じさ。建国記念日のようなものだって、昭和天皇の「人間宣言」によって、自ずから否認されているんだ。それを見ぬふりをして、またぞろ旭日旗を掲げようとしたって、どだい無理というものだ。コロナ蔓延で疲弊したこの現状をみれば、こいつらの思惑通りになるはずがない。オール与党化の動きがリードし、どんどん戦争体制への誘導と傾斜が進むとしてもだ。柄谷行人が「世界共和国」なんて阿呆なことをいってるだろ、そんなことどころか、東アジア共同体の実現だって、夢のまた夢で、中国の台湾侵攻の方がはるかにリアルな問題だ。だけど、右往左往する必要はない。愚かな政党や政治家どもがなんと騒ごうと、おれたちは冷静に世界の動向を捉えて、世界史の現状を見据え、未明の構想を思い描くことができれば、さしあたってはいいと思っているよ。
 そうだな。ウクライナの立場が、プーチンがいうようにNATOの戦略によるものだとしても、ウクライナであろうが、他の地域であろうが、どういう共同体を作ろうと、どこと連携しようと、そこの住民の総意で、どこもそれを遮ることはできないし、踏みにじることは許されないことだ。古くはハンガリー、アフガニスタン、ポーランドとロシアは軍事的介入を実行してきた。それでも、今度のような総攻撃じゃなかった。だから、深刻なんだ。国内的には情報統制と弾圧によって、「戦争を内乱に」というレーニンのテーゼが通用する状況じゃない。経済制裁によって疲弊することはあっても、中国がそれに加担しないかぎり、ロシアの体制が崩壊することはないだろう。本音はともかく、国連のロシア非難決議でそれぞれの国家意志は表明された。賛成一四一(日本・韓国など)、反対五(ベラルーシ・北朝鮮など)、棄権三五(中国・インドなど)だ。
 そういう意味でいえば、べつにNATOが正しいわけじゃない。日米安保条約が決していいわけじゃないのと同じでね。アメリカはベトナムをはじめイラクやアフガニスタンを攻めて、それらの地域に対してやったことを思い起こせば、すぐに分かることだ。ものすごく話が飛躍したけど、どうしても大情況の世界情勢に引きずられるからね。どんな場合でも足が地についていないといけないんだ。軸足が宙に浮いたら、危ない。それさえしっかり踏まえていれば、たとえ判断を誤ったって修正できる。
 こんな話はだんだん虚しくなってくるな。まるでハレの日とか世界を揺るがすような出来事があるとつられて、ハイ(躁状態)になり、騒ぎ出す精神を病んだ人と同じで。まあ、このロシア認識はアンドレイ・タルコフスキーの代表作である映画『鏡』から得たものだ。元の話に戻せば、鎌倉さんの『センスとしての現在の根拠』のことをいえば、あれは深夜叢書社の齋藤愼爾さんが「松岡くん、『意識としてのアジア』につづく第二弾を出そうよ」と言ってくれたことによるものだ。それに応じて、「それなら、鎌倉さんの本を出してください」とおまえは言ったんだよな。
 うん。齋藤さんはそれを承諾してくれた。おれとしては、そこまではどうしてもやりたかった。一緒にやってきた鎌倉さんの本が出れば、一応おれの役目も区切りがつくと思っていたんだ。
 本願成就ってことだな。
 岐阜県多治見の伊藤芳博さんが現代詩人文庫の『伊藤芳博詩集』(砂子屋書房)を送ってくれた。その中からひとつ挙げる。

  「これは何の映画?」
  帰宅し部屋のふすまを開けると
  飛び込んできた映像
  航空機が高層ビルに突っ込む瞬間

  に僕はネクタイを外した
  「テロが飛行機をハイジャックしてノノ」
  妻の説明を聞きながら
  目には今日も
  僕の画面が映し出される

    僕の今日の授業は三年生にハイジャックされた
  僕を「名古屋港に沈めてやるぞ」と脅した生徒は今日は欠席だった
  僕の授業では今日はビールとつまみが売られていた
  僕の教室は今日は携帯カラオケボックスだった
  僕は今日も一人で教室掃除をした
  僕が今日も給食当番だった
  僕が僕が僕が
  と今日も今日も今日も妻に言えず
  テレビの画面をみていた

  のだから
  僕には教室に航空機が突入したように思えた
  ビールだ!
  世界戦争?
  もう一杯!
  死者何万人?
  つまみ!
  核が使われる?
  もの凄いことが起こっていることは分かっているのだが
  また航空機がビルに突っ込む瞬間の映像
  見えなくなっている僕たちの現実
  もうもうと吹き上がる噴煙
  崩れ落ちるビル
  またも航空機がビルに突っ込む

  このやろう
  どうなってるんだ
  世界は
                 (伊藤芳博「同時多発テロ」・前半)

 ロシアのウクライナ侵攻は、あのアメリカのツインタワービルをはじめとする同時襲撃に次ぐ衝撃だった。あのアルカイダの攻撃はこれが二一世紀の幕開けだと思ったが、ロシアの侵攻は二〇世紀に逆戻りしたような感じがした。
 でも、おれたちの反応というのも、即時的反撥にはじまり、さまざまな起伏を描きながら、日常性に帰着し、現状容認にいたるような気がする。それでも、この詩集の中にある伊藤芳博の父の詩のような、祈りは残る。

  南方の島々の密林の中
  今も終戦をしらない兵士がいる
  その重い鉄かぶとを
  脱がせてやってくれ給え
  戦後十余年
  なおのっかっている星章のゆがみ
  白骨の兵士の頭からはなれない影
  そのくさりきらない残酷を
  脱がせてやってくれ給え
  もう弾は飛んでこないと
  その遠い耳にささやいてやってくれ給え
  そして二つの眼窩に
  敗れた国の貧しさがみのらせた
  まっしろい米のひとにぎりを
  サラサラと流し入れてやってくれ給え
  ああ
  その日がくるまで
  終わったものは
  世界のすみずみまで終わらせることのできる
  その日がくるまで
                      (伊藤勝行「鉄かぶと」・後の5行略)

 そうだとしても、おれたちはつねに具体性のなかにいる。靖国神社に戦没者を祀って、英霊として讃えているというが、あんなもの、国に命を捧げることを至上のことのように謳いあげるものでしかない。この詩の祈りの深さに届きはしない。ほんとうの鎮魂とは、歴史的な過誤を反省し、人心を戦争の方位へ動員することをやめることだ。その意味では、靖国神社の存在は国家に殉じよというものでしかない。安倍や高市のような連中は、その政治的意向に添って参拝する。あれは戦没者の遺志を半分は踏みつけるものでしかない。明治維新の戦死者を祀った時はまっとうな哀悼を意味しただろうが、それをそのまま延長したことで、乖離は起こっている。
 伊藤芳博の詩でいえば、おれは実際に夜間高校の生徒だった時も、そしていまも、ろくでもない不良でありつづけている。間違っても、教師や学校側に立つことはないさ。
 個々の教師に恨みはないが、学校に対する反抗を解消するつもりはないからな。わたしのアンソロジーという最初の軌道に戻したい。
 心に響いた詩集ということでいえば、『中野重治詩集』だね。

  辛よ さようなら
  金よ さようなら
  君らは雨の降る品川駅から乗車する

  李よ さようなら
  も一人の李よ さようなら
  君らは君らの父母の国にかえる

  君らの国の川はさむい冬に凍る
  君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る

  海は夕ぐれのなかに海鳴りの声をたかめる
  鳩は雨にぬれて車庫の屋根からまいおりる

  君らは雨にぬれて君らを追う日本天皇を思い出す
  君らは雨にぬれて 髭 眼鏡 猫背の彼を思い出す

  ふりしぶく雨のなかに緑のシグナルはあがる
  ふりしぶく雨のなかに君らの瞳はとがる

  雨は敷石にそそぎ暗い海面におちかかる
  雨は君らの熱い頬にきえる

  君らのくろい影は改札口をよぎる
  君らの白いモスソは歩廊の闇にひるがえる
                      (中野重治「雨の降る品川駅」・前半)

 この詩集は、「荒地」「列島」などの戦後詩以前でいえば、屈指の詩集だ。
 この詩の地点からいっても、日本共産党ははるかに後退している。象徴天皇制の容認を持ち出すまでもなく、思想的な原則においても、世界認識においても、状況分析においても。こんな連中になにも期待しているわけじゃないが、インターナショナルの模索も、日本の一般大衆の現状も心情も殆ど掬いあげる方法を知らない。「前衛」という思い上がりと囲い込みの組織戦術が枷となり、党を開くことができないからだ。だから、どこまでいっても支持率3%前後止まり。
 韓国や北朝鮮、中国に対しても、独自の観点を持つべきなのに、自民党の見解と変わりはしない。「反米」という点だけが異なっているだけで。詩的創造ということにしても、中野重治を超えるような党員詩人は生まれていない。一九六〇年ごろまでは、谷川雁や黒田喜夫や関根弘などがいたけど、みんな、見限り離れた。その後、黒田三郎を呼び込んで「詩人会議」の会長に据えたくらいが関の山で、それが日教組センスの主題主義の限界さ。

  平和祭 去年もこの刻牛乳の腐敗舌もてたしかめしこと (塚本邦雄)

 まあ、「民主文学」が看板だからな、そういう意味ではとうの昔に退場している。だけど、上野千鶴子みたいなのが延命の橋渡しの役割を担い、本人も頭を撫ぜられて悦に入っているからな。
 プーチンの侵攻直前の国内向け演説のパワー・バランスじゃないけど、左翼バランス主義者ってどこにでもいるからね。マジで情況を切開する意欲がないくせに、辺りを見回して均衡を保とうとする。ほんとうは孤立することが恐いだけなんだ。おれたちはロシアも、アメリカも、中国も、そして日本もダメといいつづけるしかないさ。
 いまもウクライナでは戦闘がつづいている。わしらはこの戦争に乗ずる〈背後の鴉ども〉を、まず撃つべきなんだ。
 よくもまあ、これほどの〈嘘〉と、こじつけの〈正当化〉ができるものだという感想を禁じ得ない。〈事実〉は〈立場〉によって、どんな解釈も可能なのだ。その空疎さが悲惨な現実を映す鏡じゃないのか。それに加えて、情報通の勝手な憶測と恣意的な見解が垂れ流されている。しかし、おれたちの望んでいることははっきりしている。実現の見込みは殆ど無いとしても、即時の停戦とロシア軍の撤退だ。
                            (2022年3月15日)


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「ロシアのウクライナ侵攻の渦中 松岡祥男」 ファイル作成:2022.05.14 最終更新日:2022.05.14