怨霊・山本哲士に捧ぐ
 ー『アジア的ということ』をめぐって

松岡祥男

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 吉本隆明の生前、単行本として未刊だった「南島論」と「アジア的ということ」が刊行された。このふたつは、分離するのは不可能といえるほどに密接に繋がっている。それについて、述べておきたいとおもう。
 言うまでもなく、このふたつの論考は、『共同幻想論』の深化と展開にあたっている。
 そのひとつ「南島論」は、当初、谷川健一編『叢書わが沖縄』(全六巻別巻一・木耳社)の別巻に、「伝承の記録」と共に書き下ろしとして発表される予定だった。そして、第六巻で《吉本隆明氏の書き下ろしは、優に1冊をなす見通しとなったので、『叢書わが沖縄』の中の独立した1冊を形成することになった》と予告された(金田久璋「谷川健一にとって沖縄問題とは何か」に拠る)が、それは残念ながら実現しなかった。
 それに代わるように、筑摩総合大学公開講座の講演(「南島論」一九七〇年九月)を始めとして、一連の講演として展開されることになったのである。「南島論」及び沖縄に関連する書誌事項は、既に列挙してあるので、ここでは省くことにする。それに加えるとすれば、「宇宙の島」(初出タイトル「島 宇宙の島(第一回)」「新劇」一九七八年八月号)がある。これは確かめていないので、わたしの推測だが、この論考は孤立したようにみえるけれど、ほんとうは〈宇宙〉という入射角から「南島論」の展開を目指したものと思われる。どうしてかというと、この「新劇」の「日本風景論」というシリーズは、他の執筆者の場合、連載のうえ一冊の著書にまとめられているからだ。吉本隆明も〈島〉というテーマで、宇宙という視点から、宇宙の島である地球を捉えようとしたのが、この初回だった、そこから日本列島という島へ下降し、さらに南島の古層性を解析しようと構想した(そのひとつが「色の重層」)と推察される。しかし、続稿は掲載されなかった。わたしは著者の〈モチーフ〉からして、「南島論」と「宇宙の島」という論考は決して無縁ではないとおもう。
 一方、「アジア的ということ」は、その「南島論」の展開過程で大きく浮かびあがってきたものであり、実際には『試行』五四号(一九八〇年五月)から七回連載されて、中断している。吉本隆明は、『「反核」異論』(深夜叢書社一九八二年)の「あとがき」で、「この本と一緒にやがてでてくる『アジア的ということ』という本を読んで欲しい」と記している。また『情況へ』(宝島社一九九四年)は、産経新聞連載の「社会風景論」と『吉本隆明全著作集・続』第十巻収録後の「情況への発言」をセットにして編まれているけれど、「アジア的ということ」は除外されている。これはたぶん著者の〈意向〉によるものだ。それは予告通り「アジア的ということ」を、独立した単行本として〈構想〉していたことを意味していよう。
 それでずっと未収録のままだったが、『吉本隆明全講演ライブ集』の発行を受けて出された『ドキュメント吉本隆明(1)』『DOCUMENT(1)』(共に弓立社)という雑誌に、関連する論考や講演とともに収録され、その後「情況への発言」を集成した『「情況への発言」全集成』ならびに『完本 情況への発言』(いずれも洋泉社)にも、『試行』連載の「アジア的ということ」本論はすべて収録された。
 今回、刊行された『アジア的ということ』(筑摩書房)は、先の弓立社の雑誌に収録されたものに、「島・列島・環南太平洋への考察」というエッセイを一つ加えただけのものである。

序 「アジア的」ということ
I アジア的ということI〜IV
II 〈アジア的〉ということ(講演)、「アジア的」なもの、アジア的と西欧的(講演)、 プレ・アジ ア的ということ
III 遠野物語《別考》、おもろさうしとユーカラ、イザイホーの象徴について、島・列島・環南太平洋への考察
IV 贈与の新しい形(インタビュー)
 付(山本哲士) 解題(宮下和夫)
                     (筑摩書房『アジア的ということ』目次)

 わたしは、この本の編集にも、巻末に再録された山本哲士の「解説」にも、宮下和夫の「解題」にも、不満を持っている。編者が〈本気〉で取り組んでいれば、『アジア的ということ』は『全南島論』(作品社)を凌ぐ大著となったことは確実である。そもそも宮下和夫も山本哲士も、『試行』に掲載された「アジア的ということ」から、著者の考察が始まっていると錯覚している。これは吉本隆明の思想的営為に対する理解を著しく欠いたものだ。
 吉本隆明の「アジア的」ということをめぐる考察は、「心的現象論」の「了解論」から本格化している。殊に「了解の水準(3)」からヘーゲルの意志論を正面に据えて検討を始めているのだ。そしてニーチェやエンゲルスやマルクスなどの批判を考慮に入れながら、了解の水準や様式を問題にし、サルトルやフッサールまでたどり、ヘーゲルの歴史概念の基礎に迫ったのである(『試行』四八号(一九七七年七月)から五三号(一九七九年一二月)。ほんとうに吉本隆明の「アジア的」という主題を問題にするなら、ここから始めるべきだとわたしはおもう。
 「心的現象論」は、つねに吉本隆明の〈思索の中心〉にあったものである。なにかの用件で訪問した時でも、用向きやこちらが持ち出した話題はべつとして、問わず語りに話されるのは、「心的現象論」の考察過程で考えたことが多かったことからも、それは言えるとおもう。
 この連載期間には、ミシェル・フーコーとの対談も挟まっているのだ。あの対話の中でも、「意志論」をめぐる問題は提起されている。当時二人の対談を読んだ誰かが吉本隆明は、フーコーに合わせて〈幻想〉という語彙を〈意志〉と言い換えたと言っていたけれど、それは見当外れなのだ。
 それに並行するように、「季節について」(一九七八年一〇月)、「季節論」(一九七九年七月)、{『記』『紀』歌謡と『おもろ』歌謡」(一九七九年七月)というふうにつづき、「アジア的ということ」の連載に接続して行ったのである。
 仮に「心的現象論」の「了解論」の論考を〈前段階〉とみなしたとしても、

  世界史的な視野から〈アジア的〉な〈自然〉に言及したのはヘーゲルであった。ヘーゲルはまず〈アジア的〉な〈自然〉の概念を黒人アフリカの〈自然〉と区別してみせた。〈アジア〉では〈自然〉は人間の自然意志の否定のうえに成立っている。だから〈アジア的〉な〈自然〉の概念は絶対的な存在(あるいはその力)の概念と手易く一致してしまう。それ自体が人間の自然な意志の否定につながっていることをはっきりとさせた。「アフリカでは自然的条件は世界史に関してむしろ消極的であったが、アジアに於てはそれは積極的である。従ってまた優れた自然観察はアジア人に帰せられる。」(ヘーゲル『世界史の哲学』岡田隆平訳)
  ヘーゲルの〈アジア的〉な〈自然〉の規定はそのあとの誰よりも優れているとおもえる。
  ヘーゲルは〈アジア的〉な〈自然〉の特質を「高地」と「盆地」の両地域の全面的な対立にもとめる。黄河と揚子江の流域にできた中国「盆地」、ガンヂス河によってできたインド「盆地」は〈アジア的〉な原理のひとつを意味した。そこでは農業と諸産業が発達している。「高地」が「盆地」に向かう途中、平原と高地との境界の中部アジアことにペルシアは両方の性格を最大の自由さで対立させている。「光と闇、壮麗と純粋直観の抽象ーー我々が東洋主義と称するものーーはこの地を故郷としてゐる。」(ヘ ーゲル「前掲書」)これが第二の原理である。
  ヘーゲルの第三の原理はこれに海への通路を加えたアラビアのような「前方アジア」である。そこでは砂漠、高原の平地、自由と狂信が渦巻き、海を通路としてヨーロッパにつながっている。シリアや小アジアもこの地域に類別される。基本的な対立における「高地」が象徴するものは遊牧である。
  ヘーゲルの規定が正確だとすれば〈アジア的〉な文物と制度とは、〈自然〉規定の否定的な絶対化から自然意志の許容と肯定にいたるすべての段階からおおきな影響をうけているはずである。そしておおよそわたしたちが〈アジア的〉とかんがえている特質はそれを肯定しているようにおもわれる。
  そういう云い方をしてよいとすれば、わが列島の〈アジア的〉な〈自然〉規定は中国と、中国を経たインドの農耕的な原理を高度な哲学や宗教的な思想となった後に海を通じて受容した。それは自然意志のままに生活していたひとびとの上に〈自然〉を唯一の絶対者にまで高めた哲学と宗教と制度を強引に接ぎ木することを意味したにちがいない。島々という原理は海に囲まれた閉域という意味と農耕〈アジア的〉な文化の受容という意味をもっている。わたしたちの列島が古代に入ったというそのことが、ヘーゲルのいう〈アジア的〉の三つの原理を小規模に庭園的に併存させることにほかならなかった。中国とインドの〈アジア的〉な〈自然〉規定を制度によって受け入れる以前にはこの島々はシリアや小アジアやアフリカの原理をもっていたかもしれなかった。そして古代の末期はひとまず中国とインドの〈アジア的〉な原理がいわば膚身についた時期にあたっていた。そして端境アジア的ともいうべき融合が自然観にあらわれた。
  中国やインドから農耕〈アジア的〉な〈自然〉規定を受け入れたときに同時に制度的な〈自然〉規定をも受けとった。制度的な〈自然〉規定の〈アジア的〉な性格についてはヘーゲルを継承したマルクスが巧みに把握している。ひと口にいえばそのひとつは「国王が王国内のすべての土地の単独唯一の所有者であること」(一八五三年六月エンゲルス宛マルクス書簡)である。もうひとつのことをいえば「自然発生的な共有の形態」(『経済学批判』)をとった太古からの共同体の自足性をそれほど壊さずに「貢納」を吸いあげてその上に国王の共同体をうわ乗せしたということである。インドや中国のような大陸の大河川流域に成立した〈アジア的〉な原理を制度として移入し〈アジア的〉な自覚をもったのは、歴史の記載では大化改新以後であった。これは「公地公民」の制度と呼ばれた。それ以前は実質はともかくとして村落共同体を自治的に支配している小首長たちの下で自然意志的な制度しかなかった。いいかえれば〈アジア的〉でもなかった。ただ自然のまにまにすべてのアジア的な原理を小規模に庭園風の温和さと微温さとで島々の原理と融合してもっていた。こういうことを緻密に、既成の概念にまどわされずに丁寧にたどることはすべて今後のことに属している。

                (吉本隆明『吉本隆明歳時記』「季節について」)

 これが「アジア的ということ」の〈序〉に位置することは、誰が読んでも明瞭である。
 もちろん、その後の関連する論考、講演、対談は、今回収録されたもの以外にもかなりある。
例えば『ハイ・イメージ論』の「地図論」の大和盆地をめぐる〈世界視線〉からの分析(これは『対話 日本の原像』所収の「註記」とも連なっている)、「連結論」の自然都市をめぐる考察、「形態論」の地勢と地名の結びつきや形態認識の探究、そして、「表音転移論」の方言の分布による言語論的な接近。これらは「アジア的ということ」の原理的中核と深く関わっており、当然、主要なものを〈網羅〉するという編集方針をとるかぎり、収録対象に入ってくるものだ。
 講演でいえば、「南方的要素ー普遍概念としてのアジア」(一九七八年)や「良寛詩の思想」(一九七八年)などがあり、対談とインタビューでいえば、「歴史・国家・人間」(一九七八年)や「世界史のなかのアジア」(一九七九年)をはじめとして、いくつかのものがこの主題に関わっている。
 そして、『母型論』(学習研究社一九九五年)の後半の「贈与論」や「起源論」などが、「アジア的ということ」と「南島論」の〈到達地平〉であり、そこから『アフリカ的段階について』へ発展していったのだ。
 編者の宮下和夫は『吉本隆明〈未収録〉講演集』の「月報一二」で、「吉本さんが(ひいては僕が)、長い間追求してきた『アジア的ということ』」と書いているけれど、この本の編集は中途半端で、到底そういうものにはなっていない。また、「付」(解説)が〈再録〉というのも安易で、言ってよければ〈蛇足〉でしかない。山本哲士の要約など関係なく、それぞれの読者がじぶんで考えればいいことである。それが〈自立〉ということの中芯にあるものだ。これは明らかに編者の〈恣意的な編集行為〉であり、《著者の生前の構想に沿って編んだ》という言い分からも〈逸脱〉するものである。
 わたしからすれば、山本哲士や『全南島論』の安藤礼二の「解説」のような知識主義的な概括よりも、原理的思考は〈現実〉を貫くということが重要である。普遍的な原理の解明は、ただちに現実(土俗)へ馳せくだることができ、そこで半端な通説や流布(伝承)されている迷妄を決定的に打ち砕くところに、その本領があるからだ。
 それは客観的にも、個別的にもいえることである。ここでは主体的な方を選択する。わたしが最初に直面した社会的課題は、被差別部落をめぐる問題だった。当時、部落解放同盟と日本共産党は熾烈な対立の渦中にあり、わたしもそれに呑み込まれていった。その体験を反芻し超克することが、わたしにとっては切実であった。
 吉本隆明は「アジア的ということ」の「V」と「VI」で、アジア的共同体の構造や奈良時代の階層の差異と制度的な階層構成を徹底的に分析している。それをみると、特に近畿から九州にいたる地域に、いまだに根強く因習が残存している歴史的な所以が明示されている。これは問題の所在を明確にするとともに、現在の人権擁護運動の〈錯誤〉や民族排外主義の〈愚劣さ〉まで含めて、強烈なリアリティをもって批判的に貫通しているのだ。

 海路と「天離(あまさ)かる」(ほんとうは「海離(あまさ)かる」である)鄙を河川の筋にそって滞留したり移動したりするひとびとの習俗が、わが列島では、あたかも南中国の海辺の蛮民とおなじように南方系の海人(あまひと)の集団に発していただろうということである。それが海ジプシーになるものと陸ジプシーになるものとにわかれて、変幻自在であった。穢多非人という呼称は江戸期の圧制のもとにはじめてうまれ、特殊部落という呼称は、明治以後に流布された。
  しかしながら、これらを種族として特殊視しようとすることには、どんな根拠もないし、差別する根拠もない。また、唐のいうように先住民族の亡霊をひきずっているということにも根拠はない。かれらは南方系の海辺の民であり、漁場とともに移動する習俗をもっていたので、河川の筋にとまったり、移動したりするものも、農耕民として定着したものも、あらわれた。それをカースト的な曲部の民として固定化し、閉鎖的な共同体をつくらせるようにしてしまったのは、初期王権の政策に端を発している。犯罪者の烙印をおされて河筋に追いこまれたもの、すすんでその群れに投じたものもあったが、もっとも強力にこれを制度化したのは徳川幕府であった。もしこれが賤民ならば、これと関係の深かった初期王権の支配者も賤民だといわなければ、辻つまがあわないのである。

                       (吉本隆明「恐怖と郷愁 唐十郎」)

 吉本隆明は、なによりも〈闘う思想家〉なのだ。ここでは「差別」する側の無意識的な〈前提〉も、「被差別」の側の被虐的な〈心性〉も同時に、根底から否定されている。そして、「アジア的ということ」において問題はより厳密に掘り下げられていることは言うまでもない。
 「アジア的ということ」の「I」では、レーニンらボルシェヴィキの批判にともなって、ソルジェニーツィンの『収容所群島』が取り上げられている。それを読むと、そこを流れる情操は、わたしが生まれ育った一九五〇年代から六〇年代にかけての四国の山間の村落の情操や習俗となまなましく繋がっている。〈アジア的〉という歴史概念がいかに普遍的なものであるかが、わが身に少し引き寄せただけでも了解できるのだ。そういう意味では、わたしもアジア的村落の出自であり、屈折があるとすれば「家」の事情によるものだ。もし、わたしに〈詩〉が内在するとすれば、それが源泉なのだ。
 急な山の斜面のわが村の下を、谷間をぬうように流れるのは四国三郎・吉野川の支流、穴内川で、この一帯は中央構造線と御荷鉾構造線に挟まれた地滑り地帯である。その穴内川の源流を柳田国男は、鉄道も開かれていない時代に訪れている。柳田の民俗学は、確かな踏査によって裏打ちされているのだ。さらに、江戸時代末期、土佐藩の下級武士が、四国の秘境ともいうべき石鎚山系・本川郷寺川に赴任した際に書き遺した『寺川郷談』を「妖怪談義」で取り上げている。寺川には水田は無く、焼き畑農法であり、そこでの風習も〈プレ・アジア的〉なものである。
 吉本隆明は、そんな柳田国男の仕事をじゅうぶん尊重しながら、原理として〈抽象化〉することで、その〈総体〉を包括しようとしている。それが方法的制覇ということだ。だから、三浦つとむみたいに、柳田国男は「高級官僚」だったから駄目などと決して言わなかった。そんな皮相な拒否からはなにも生まれはしないからだ。
 世界史的な客観性からいえば、第一にレーニンの構想を本質的に対象化することによって、社会主義の原則的な理念を〈救抜〉したことだ。それはソビエト連邦の崩壊を〈予見〉したものでもあった。国家の揚棄、国軍の解体、生産手段の社会化など、その〈理念の骨格〉はこの歴史的激動によっても消滅しないことを論証したのである。それがたとえ本願成就の念仏のように映ったとしても、その理想の具体化は、政府に対する一般大衆の〈リコール権〉の獲得というような方向性にあるといっていい。それに照らせば、「社会主義国」と自称する中国や北朝鮮などは〈アジア的専制〉の変形であったとしても、〈社会主義〉とは似而非なるものであることは一目瞭然なのだ。
 こんなふうに「アジア的ということ」は、思想として多岐にわたり、さまざまな可能性へ開かれたものである。
 もし今回の刊本のように、主要なものを〈集成〉するという方法を採らないのならば、「禁制論」から「起源論」までというふうに、一定の〈抽象度〉で統一された『共同幻想論』などの原理的著作に倣って、「アジア的ということ」本論と「贈与論」のみに、わたしなら、しぼり込んだであろう。
 また、一見些細でどうでもいいことにみえるけれど、宮下和夫は「解題」で「序」(「アジア的」ということ」)の初出を『ドキュメント吉本隆明(1)』(二〇〇二年二月二五日)としている。しかし、ほんとうは『吉本隆明全講演ライブ集』第一巻(二〇〇一年九月)のテキストに発表されたものである。つまり、雑誌の「特集〈アジア的〉ということ」のために書かれたものではない。じぶんが手がけながら、どうしてこんな辻褄合わせの〈偽り〉を記すのか。不可解である。

     2

 『吉本隆明全集』の第一二巻の「月報九」の中村稔の「吉本隆明さん随感」を読んで、意外におもったことがある。それは会ったのが「宮沢賢治の価値」(一九六三年)の中村稔・鶴見俊輔・吉本隆明の鼎談の時だけだったというところだ。「ただ一回であった」とは知らなかった。どうしてかというと、わたしは吉本さんから、中村稔についての話を聞いたことがあるからだ。ほぼ同業と言っていい特許関係の仕事をしていた時期があることにはじまり、中村稔から《論争というものは、相手の逃げ道をひとつ作っておくべきものだ》という示唆を受けたとも言われた。その当時、中村稔は弁護士で、これは法廷における弁論上の技術のひとつなんだろうな、とわたしは聞いた。そんな話からある時期に交流があったものと、わたしは思っていたのである。
 きっと吉本さんは仕事にむきになって打ち込むタイプだったのではないだろうか。それは書かれた作品から、原稿用紙に向かっている姿を想像すれば、わかるような気がする。特許事務所の先輩から《君が黙って仕事をやって、さっさと帰っていくので、気味が悪かった》と言われたそうだ。それで《少し冗談を言うようになってから、安心した》とも。その日の仕事を上げて、よく公園に出かけ、ベンチで本を読んで、余りの勤務の時間を潰していたという話も聞いたことがある。吉本さんによれば、人生における〈苦楽〉は、〈苦〉が六割、〈楽〉が四割ということになる。わたしなどと違って勤勉実直の人だったのだ。もちろん、喜怒哀楽は相半ばというのがほんとうなのだろうけれど。
 わたしはつげ忠男の「狼の伝説」のサブとリュウのセリフが好きである。

 リュウ「こんな風にしかならなかったがよ」
 サブ「ほかにどうあったというのか」


 もうひとつ、あえて言えば、中村稔は自作「凧」を出して、「私には『戦後詩史論』はかなり独断的に思われた」と述べている。この指摘は当たっていないとおもう。なぜなら、〈詩史〉的な観点と、「詩人論」や詩の解読とは〈位相〉が異なるからである。個別の詩の読解はどんな深読みも許すものであり、詩人論は詩人の境涯からその作品に跨る表現のあり方までに及ぶのが普通である。しかし、〈詩史〉的な視点は、中村稔も言っているように、「巨視的で鳥瞰的な視点と柔軟な受容力を必要とする」ものだ。そこで詩人の個性も流派的な立場もいったん〈無化〉されるのである。その位相の違いが一見「独断的」にみえるのは致し方ないことのように、わたしには思える。
 それは対象となった詩人の〈実感〉とも〈実際〉とも、背反するのは当然ではないだろうか。『戦後詩史論』の「修辞的な現在」で、荒川洋治の詩を西川満の詩と並べて、どこが類似し、なにが決定的に違うのかを論じている。けれど、荒川洋治本人は西川満という詩人もその詩も全く知らなかったと言っていた。そうであっても、その詩の〈本質〉と表現の歴史的位置を確定するところが優れた〈詩史論〉の持つ力のような気がする。

*初出 『脈』90号「吉本隆明さんのこと一〇」(二〇一六年八月発行)→『吉本隆明さんの笑顔』(猫々堂・2019年12月発行)収録


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「怨霊・山本哲士に捧ぐー『アジア的ということ』をめぐって 松岡祥男」 ファイル作成:2023.05.02 最終更新日:2023.05.07