岡田幸文さんを思う

松岡祥男

 岡田幸文さんとご一緒して、いちばん印象に残っているのはいつだろう。そう思って思い返してみました。
 毎年恒例になっていた東京・谷中の墓地の、吉本家の花見に行ったことがあります。岡田さん、金廣志、伊川龍郎、わたしの四人でした。けっこうたくさんの人が集まっていて、その場の勢いで、なぜかわたしが春秋社の小関直さんの奥さんと一緒に乾杯の音頭をとり、各自が持ち寄った酒や肴で愉快なひとときをすごしました。
 岡田さんと吉本家のつながりをいえば、岡田さんは川上春雄さんのアドバイスで、吉本隆明さんに「猫の話」のインタビューを継続的に行い、『詩の新聞ミッドナイト・プレス』に連載し、『なぜ、猫とつきあうのか』として自社刊行しました。
 岡田さんは猫と暮らしたことがなく、猫の魅力や習性を知らないので、なんとなく浮かない感じをともなったインタビューでした。でも、弱点は長所でもありますから、暗黙の了解のうちに成り立った猫好き同士の話とは異なり、猫の存在に対して客観的に接近するユニークなものになっています。そのユニークさが、のちに河出文庫、講談社学術文庫に収録される要因になったといえるでしょう。でも、わたしはハルノ宵子さんの装画と山本かずこさんのおしゃれな装丁の最初の単行本が好きです。
 またこの本が機縁となり、ハルノ宵子さんの「よいこのノート」という連載が『詩の雑誌ミッドナイト・プレス』ではじまっています。ハルノさんはご両親の介護もあって、漫画家としてはしだいに開店休業状態になっていったのですが、この文とイラストによるエッセイは、その後のハルノさんの表現の方向を決定づけるものとなったのです。この連載があったからこそ、『それでも猫は出かけていく』や『猫だましい』も生まれたものとわたしは思っています。
 岡田さんは、川上春雄さんが亡くなったとき、真っ先に「追悼特集」を組み、間宮幹彦さんらとともに福島県の郡山へお墓参りに行きました。それを遠くからみていて、岡田さんは人とのつながりをとても大切にする人なんだと思いました。
 わたしは酒席におけるじぶんの振舞を思い起こすのは苦痛です。ろくでもないザマを晒していたことは確実だからです。飲んでいる時に気分が良く、楽しいなら、それでじゅうぶんです。
 岡田さんは無類のビール好きでした。岡田さんのお父さんは学者だったようで、岡田さんにもその道を歩んでほしかったのかもしれません。しかし、ビートルズとの決定的な出会いと、詩の誘惑によって、親の願望からは逸れていったのではないでしょうか。岡田さんをよく知る人は「ムイシュキン公爵」とあだ名していました。いうまでもなくドストエフスキーの『白痴』の主人公です。わたしはドストエフスキーの代表作は『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』でなく、『罪と罰』と『白痴』だと思っています(若い時読んだきりなので、中てにならないけれど)。岡田ムイシュキンは無防備で、愛すべき酔っ払いでした。そして、女性にもてたことは疑いありません。でも、その無防備さは必然的に〈受難〉を呼び寄せます。
 二度、わたしの地元である四国の高知でご一緒したことがあります。そのひとつは、岡田さんとかずこさん、高知新聞社の片岡雅文さん、わたしとわたしの妻純子の五人だったと思います。
 岡田さんは『詩学』の編集をやっていました。その関連のH氏賞選考会で、進行役を務めていたら、高知から出席した片岡文雄が何の因縁も前触れもなく突然、岡田さんに対して「お前なんか女房の尻に敷かれたままだ」と言い放ったそうです。つまり、岡田さんの詩は、つれあいである山本かずこさんの詩とは較べものにならないと言ったのです。この謂れのない唐突な攻撃に、岡田さんはとまどうとともに傷ついたのでしょう。その一件を話しました。
 バカなのは片岡文雄です。片岡文雄は高校教諭で、わたしは夜間高校で「国語」を教わっています。『開花期』という詩の同人誌を主宰し、地元では名の通った文化人の一人でした。片岡文雄は現代詩・短詩型・歌詞という〈序列〉の固定観念を持っていて、教師が勉学の出来不出来で生徒を判断するように、詩を安易に採点できると錯覚していたのです。それがこの発言の背景にあるものです。もちろん、表現者がじぶんの表現方法に自負を持つことは当然です。しかし、それがそのまま通用するかどうかは疑問です。
 岡田さんの『あなたと肩をならべて』と山本かずこさんの『渡月橋まで』、ふたつの処女詩集を比較すれば、『渡月橋まで』が優れていることは動かないでしょう。しかし、ほんとうの問題はそんなところにはありません。岡田さんの詩のなかには現代詩はもとより、洋の東西を問わず歌謡曲やロックやフォークも感性的に流れ込んでいます。詩も短歌も俳句も歌詞も、みんな〈詩〉なのです。その総合性を考慮するならば、詩の可能性ははるかに広がるのです。
 早い話が、片岡文雄の詩を知っている人がいるでしょうか。これに対して、岡田さんの愛着したジョン・レノンの「イエスタディ」や「イマジン」は多くの人が愛唱しています。流行の歌曲の歌詞がそれだけで低俗だと考えるのは偏見です。曲(メロディ)の伝播性や歌唱力を差し引いても、どちらが人々の心を魅了するかは分からないのです。たしかに言語表現の先端を切り開くのは高度な詩的表現です。しかし、それが普遍性を獲得するのはよりポピュラーな表現なのです。

 作られた詩なんて沢山だ
 女が忘れていった詩集を読みかけて
 閉じる

 ターンテーブルの上に置かれたままのレコードに針をおろせば
 センチメンタルなジャズ・ピアノのフレーズが予想されたように流れ
  ベッドの上に横になれば
 女のにおいがかすかに残っている

 先刻まで女はこのベッドのなかにいて
 歌をうたってくれたりしていたが
 朝になれば
 俺もこの部屋を出る

 男一人の引越というのに
 ダンボール箱が多すぎる
 すべては失くしてもよかったものだ

 もういいのだ
 女には帰る場所があったが
 俺にはなかった
 だけのこと

 このありふれた神話のなかで
 俺は最後の荷作りをはじめた

   (岡田幸文「最後の夜」)

 この詩と「勝手にしやがれ」(作詞・阿久悠、歌・沢田研二)を較べると、カッコつけている点では変わりませんけれど、阿久悠の作品はよりシンプルに定型のパータンを踏襲しているゆえに強い感じがします。けれど、喪失感は岡田さんの詩の方が深いといえるでしょう。「すべては失くしてもよかったものだ」という一行がそれを示しています。
 片岡文雄がどうしてそんな発言に及んだのかは測りかねるところがありますが、その場面を想像すると、他者を貶すことでおのれの権威を誇示したかっただけなのかもしれません。片岡文雄は大岡信を典型とする詩歌の通俗的な秩序化に追従していましたから、表現行為はどんなに稚拙なものであっても、その限界への〈無意識の挑戦〉であることを理解できなかったのです。そうでなければ、みずから〈創造〉する必然はないのです。それは社会制度の支配に対して、現に生きている人間の行為はその規定をはみ出しているのと同じです。世の文教族の多くは、愚かにもそんなことも分からないのです。それが分からないと、人それぞれの〈トータル性〉が見えなくなるのです。
 それ以上に卑劣なのは、「そんなことはこの集まりに関係ないだろう、俺に文句があるなら表へ出ろ」と立場的に言えないのを見越した言動だからです。これも岡田さんの〈受難〉のひとつといえるでしょう。
 わたしは岡田さんがこの話題を持ち出したとき、初対面の人もいるので、なんとなくまずいような気がして、「もう、いいじゃないですか」とさえぎり、なだめることができませんでした。それが心残りだったのです。
 まあ、せこいのは片岡文雄にとどまるものではありません。あの「現代詩作家」を標榜する荒川洋治は、岡田さんが『詩の新聞』を創刊した時、その足を引っ張るようなことを書きました。もちろん、荒川洋治の『娼婦論』や『水駅』は画期的な詩集で、現代詩の表出次元を更新するものでした。その意義とは別に、荒川洋治のこの所業は狭い詩壇の縄張り意識を露呈したものでした。
 さらにいえば、荒川洋治は「実篤のいるスタジアム」において、武者小路実篤の詩を持ち上げました。これは日本文学の総体でいえば、白樺派のエセ・ヒューマニズムを肯定するものです。一見、吉本隆明が『マス・イメージ論』の「喩法論」で、巷を飛び交うことばが詩語に拮抗する可能性を示唆したのと同じようにみえますが、その方向性は真逆です。なぜなら、取り澄ました高等文士の通俗性からは、忌野清志郎や遠藤ミチロウなどの詩的表現は、なにを言っているのか、まるで分からない、了解を絶する〈異類〉のことばのように映ることは確実だからです。荒川洋治は戦略的見地からあの邪説を唱えたのでしょうが、この感性的な〈隔絶〉と文芸の〈表現史〉を無視したところに、その反動性は如実に現れています。
 『現代詩手帖』も『詩と思想』も、思潮社も土曜美術社出版販売も紫陽社もあった話ではないのです。いまや現代詩は凋落の一途をたどり、マイナーな存在になりはてたのです。大きな書店へ行っても詩集は殆ど並んでいません。それはこれら業界関係者のなせるわざと言っても決して過言ではありません。小田久郎を筆頭とする、これら商売人はじぶんらの派閥的な利権にしがみつき、その意向に添わないものはすべて排除してきました。そのつけがまわってきたのです。あのときの荒川洋治の言説は、その先駆的な象徴だったのです。
 現状がどうであろうと、わたしは〈詩〉は人間の根源的な表現であると思っています。新生児の産声のような、あらゆる求愛のアピールのような。だから、絶対に消滅することはないのです。
 わたしは岡田さんにお世話になりっ放しです。『詩学』への寄稿にはじまり、「酔興夜話」を『詩の新聞ミッドナイト・プレス』に、「読書日録」を『詩の雑誌ミッドナイト・プレス』に連載というかたちで掲載してもらいました。そのうえ『物語の森』という本も出していただいたのです。これはあまり売れず、迷惑をおかけすることになってしまいましたが、ただひとつ救いを挙げれば、『物語の森』を出典にして大学入試問題に活用されました。つまり、誰も見向きもしなかったわけではなかったということです。
 岡田さんは、わたしの詩のなかでは「ヤスコ」がお気に入りだったようです。それをここに掲げます。

 たたかいが終れば
 あわれなむくろがみつかるだけだとおもうなら
 ひきょうものめ
 おもいだすがいい
 潮江橋のたもとが待ち合せの場所だった
 約束の時に少しおくれて
 ぼくは急いだ
 たどりつくと
 そこにはめずらしく着飾ったきみがいた
 そのとき 手にした『前進』を
 ぼくは河に投げ捨てればよかったのだ
 黙りがちのきみを怖れるように
 ぼくはあらぬことばかり口にする
 冬の日は暮れやすく
 追われるようにホテルのネオンのなかを歩きながら
 きみに語りかけることも
 きみの手をとることも
 ぼくはできない
 くたびれた商店街で ヤスコは
 わたし 何のために出掛けてきたの?
 足早やに立ち去った
 きみをうしなって
 おれはみじめな自分に出会った
 もっと傷つくがいい
 おお 時よ
 おれの敵対者よ
 争うことは愛し合うことだ

   (松岡祥男「ヤスコ」)

 岡田さん、あなたの訳した「ビートルズ詩集」を読みたかったです。

▼岡田幸文追悼文集『ただ、詩のために』ミッドナイト・プレス2021年12月刊


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「岡田幸文さんを思う 松岡祥男」 ファイル作成:2024.03.22 最終更新日:2024.03.22