岡田幸文さんと比嘉加津夫さんを悼む

松岡祥男

 沖縄の『脈』の比嘉加津夫さんとミッドナイト・プレスの岡田幸文さんの逝去はほんとうにショックでした。おふたりとも二〇一九年一二月九〜十日に亡くなりました。
 書くことに限っても、比嘉さんと岡田さんの存在なくして、わたしは持続的な執筆の機会は得られなかったのです。
 根石吉久さんによれば、岡田さんは夏の暑さがことのほか堪えたようで、体調が悪いと言われていたとのことです。一二月の初旬に倒れて、救急車で搬送され、救急治療室で手当てを受けているけれど、危ない状態との連絡がありました。その後、亡くなられたと伝えられました。
 岡田さんを知ったのは『鳩よ!』(一九八四年一〇月号)でした。「詩が誘います、旅へ。」という特集で、岡田さんは東京の目黒(品川区)の案内人として誌上に登場していたのです。ビートルズの新しいレコードが出た日は目黒の坂を駆けおりて、買いに走ったという。ビートルズはもちろん、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、音楽大好き少年だったとのことです。その店に案内するつもりで行ったけれど、店は無くなっていたのです。長髪で眼鏡をかけジャケットをはおりレコードを漁る姿と、日出女子学園の看板のある駅の通路と思しき場所に立つ写真が載っていて、わたしはカッコいいなあと思ったのでした。
 そんな岡田さんとどうして知り合ったかというと、彼は『詩学』の編集を担当していて、原稿依頼があったからです。それからつきあいがはじまったのです。
 『詩学』は投稿詩の掲載とその合評をはじめ「詩書批評」「詩誌月評」を中心に、小さいながら詩壇の公器とも称された伝統ある雑誌でした。吉本隆明さんとの会話の中でも、何度か岡田さんのことが話題にのぼりました。その最初は「折角、彼らしい誌面になりはじめたところだったのに……」というものでした。岡田さんは知り合って間もなく『詩学』を辞めました。吉本さんが言われたように、旧態然たる詩誌の閉鎖的な人脈主義に対して、少しでも新しい息吹を吹き込もうとしたのです。そこに齟齬と亀裂が生じたのでしょう。これに関連して社主(嵯峨信之)の根も葉もない中傷があったのですが、岡田さんはめげることなく『詩の新聞ミッドナイト・プレス』を創刊しました。
 わたしは岡田さんにお世話になり放しです。エピソードを語ると、わたしが『遠い朝の本たち』を読んで、須賀敦子にはまっていた時、岡田さんは「松岡さんには須賀敦子は似合わない」と言いました。わたしはそうだろうなあと思うと同時に「いいものはやっぱりいいでしょう、岡田さん」と胸のなかで呟いたのでした。
 一度わが家にやってきたことがあります。いろんな話をしているうちに、岡田さんは疲れていたのでしょう、パートナーの山本かずこさんの膝を枕に眠りました。その微笑ましい様子と、谷川俊太郎さんのマネジャー、『現代詩手帖』の編集長の道を選ばず、困難な詩の出版社を立ち上げて奮闘した心意気は、わたしのなかで不滅の光芒を放っています。

 言葉で
 城を造ろうとは思わない
 丘の斜面を歩きながら
 旅芸人の君の歌声に耳を傾ける

               (岡田幸文「見えない城」)

 書く人歌う人は、必ずしも良い読み手や聞き手ではありません。おのれに固執するからです。岡田さんは他者のなかを流れるメロディを聞くことができたのではないでしょうか。
 比嘉加津夫さんとは亡くなる一週間前に電話で話しました。その時はお元気で、声にも力がありました。ですから、あまり心配していなかったのです。でも、お体は危機的状態(幾つも病気を抱えており、酸素ボンベを使用していました)にあったことは変わりませんので、一旦体調を崩されると、危ないことは暗黙のうちに分かっていました。
 電話でのやりとりは、『脈』に関することでした。わたしは第一〇四号の原稿(「『ふたりの村上』の成立」)と、第一〇五号(特集「『吉本隆明資料集』と松岡祥男」)に関連する追加の手紙を送信しました。それに対して、比嘉さんから最初の「手紙」が手元に無いとのファクスが届きました。
 わたしは『脈』一〇三号が届いたその日に、資料集の「別冊1・2」と「手紙」を送っていました。郵便事故の可能性を考えました。ただ、ひとつ不審なことがありました。比嘉さんから電話があって、送った『脈』一〇三号が返送されてきたというのです。しかし、わたしのところには雑誌は届いていました。《届いています。返ってきたというのはどういうことでしょう》と電話で言ったのですが、不可解なままになっていました。わたしは郵便局に問い合わせ追跡調査をしました。郵便局は確かに配達しており、その記録も残っているとの回答でした。
 それを比嘉さんに伝えました。どうしたことだろうと思ったのですが、とにかく《「別冊」も届いていない》ということなので、再度送ろうと思っていた時に、比嘉さんから三度目の電話がかかってきました。「あった」ということでした。「返送された第一〇三号」と比嘉さんが思っていたものは、実はわたしが送った「別冊」だったのです。同じ郵便局のレターパックライトだったので、そう勘違いし、一〇日以上開封しないで放置していたのでした。
 これで一件落着です。このやりとりは、お互いバタバタしましたけれど、決して不愉快なものではなく、より比嘉さんと親密になったのです。そして、比嘉さんは一二月五日に第一〇五号の原稿依頼をしました。比嘉さんは最後まで意慾的でした。ほんとうに残念です。
 最終段階になって、これまでの印刷所が廃業し、『吉本隆明資料集』の発行が暗礁に乗り上げた時も、比嘉さんは心配して、『脈』の発行部数及び印刷代金を教えてくれたうえ、沖縄の印刷所を紹介しますと言ってくれました。
 また『別冊』二冊を京都・三月書房でも扱ってもらうことになり、それが三月書房のブログで紹介された時にも電話がかかってきました。「松岡さん、『脈』で出しますよ。著者贈呈二〇部で二〇〇部作ります」と言われたのです。その時には既に刷り上がっていたのですが。
 そんな比嘉さんに、『脈』の連載「吉本隆明さんのこと」を中心に作った「別冊2」を手にしてもらうことができました。それはわたしにとって救いです。

 この度、『脈』では松岡祥男さんが20年間にわたって、「吉本隆明資料集」に取り組んできた功績を 振り返るために特集を組みました。
 最後は「ニャンニャン裏通り」と「吉本隆明さんの笑顔」を購読者に送るという、気の回し用は見事 としか言いようがありませんでした。
 かなり厳しい経済環境のなかで、よくも191集まで、よくも20年間という驚きと感動が湧き出てき ます。
 上原様には高知の思い出など10枚程度でお願いできないでしょうか。

                      (比嘉加津夫「上原昭則宛原稿依頼」)

 比嘉さんは一九四四年沖縄生まれ。一九七二年に個人誌として『脈』を創刊、その後同人誌になり、一〇三号までつづきました。なかでも「写真家潮田登久子・島尾伸三」という特集は抜群で、比嘉さんでなければできなかった仕事です。『比嘉加津夫文庫』(全二〇巻)をはじめ、著書もたくさんあります。それは詩・小説・評論・絵画など多岐にわたるもので、その中核をなすのは島尾敏雄に関する論考といえるでしょう。
 比嘉さんとお会いしたことはありませんけれど、その人柄を物語るような話が綴られています。比嘉さんは中学三年生の時、担任に呼び出されて、下級生の女の子にいたずらをした疑いをかけられたのです。身に覚えない嫌疑に、抗弁もできないまま、くやしさに滂沱するのです。数日後、担任は「すまなかったな。名前が同じだったから」とこっそり言ったそうです。この理不尽な仕打ちに、傷ついたことは間違いありません。でも、比嘉さんはそれに屈服しない確かな見識を獲得するとともに、南方系のおおらさを持ちつづけたのです。
 わたしに比嘉さんが亡くなったことを伝えてくれたのは宮城正勝さんです。比嘉さんは七四歳、岡田さんは六九歳でした。岡田さんは一九五〇年京都生まれ。『あなたと肩をならべて』と『アフターダンス』の2つの詩集があります。

   *      *      *

   『ふたりの村上』の成立

     1

 わたしが吉本隆明著『ふたりの村上』を企画した〈モチーフ〉は、つぎの「帯文」の草稿につくされています。

 現代文学をリードしてきた村上龍と村上春樹。
 その魅力と本質に迫る論考群。
 〈ことば〉は世界に拮抗する、
 これが吉本文学論の基調である。


 この構想のもと、わたしは「吉本隆明の村上龍・村上春樹論」という一文を書き、『脈』一〇一号の原稿として出稿しました。しかし、その後『ふたりの村上』が公刊される見通しとなり、「解説」を担当することになったのです。わたしは重複を避けるため原稿を取り下げ、急遽「〈対話〉について」に差し換えました。
 『ふたりの村上』の成立の経緯は次の通りです。
 わたしは未収録の追悼文の増補と編集(構成)を見直した『追悼私記 完全版』が作られるべきだとおもい、その実現を目指していました。なかなかうまくゆかなかったのですが、ハルノ宵子さんのはからいにより講談社文芸文庫として刊行されることになりました。
 その編集過程で、担当編集者のT氏から「解題」の執筆依頼を受け、わたしは吉本さんが追悼文を認めた四四名の方々の生没年度、代表的著作、対談や座談会の記録など客観的な関わりを記したいと考えました。しかし、宮田勘吉さんと小野清長さんの生年月日が分かりませんでした。
 宮田さんについては、山形県の齋藤清一さんにお願いして、米沢高等工業学校の同窓会事務局に問い合わせていただきました。でも、「個人情報保護」の観点から教えることはできないと断われたとのことでした。
 困ったわたしは、旧版を編集した小川哲生さんならご存知かも知れないと思い訊ねました。生年月日は分からなかったのですが、宮田さんはある企業の重役を務めた方で、その会社の総務部に聞けば分かるでしょうという教示を得ました。わたしが問い合わせても、また「個人情報保護」の壁にぶつかる惧れがありますので、版元から事情を説明して調べてくださいと申し入れました。
 また小野清長さんについては、T氏が「文献堂書店」のあった早稲田の古書店街で調べてくれたのですが、残念ながら分かりませんでした。それで「生年不詳」としたのです。講談社の校閲部は日本で最も大きな出版社の校閲部にふさわしく優れていて、細かな疑問点も逐一指摘してくれ、ずいぶん助かりました。
 小川さんへの問い合わせの際、じぶんの構想にもとづいて、《小川さんが手掛けた吉本さんとの仕事で、途中で中断し未完結に終わった『吉本隆明全集撰』があります。未刊の第2巻には書下ろしの「村上龍・村上春樹論」が予告されていましたが、実現しませんでした。それを別の形でやられたらどうでしょうか、その気がありましたら、なんでも協力します》と伝えたのです。そして、実際に両村上論の「著作リスト」と『吉本隆明資料集』のために入力した本文データを提供しました。
 ついでにいえば、個人情報保護法とは、「保護」という名目の〈自由の制約〉であり、国家の〈情報管理〉の徹底化と、寡占的な〈情報売買〉を促進するものでしかないのです。
 小川さんの要望で「解説」を引き受けたのですが、その中で「両村上の全盛期は過ぎた」とわたしが記していたのに対して、担当編集者のFさんから「村上春樹氏はいまもダントツの売れ行きの作家です」という疑義が出されました。わたしはこれについて、小川さんとのやりとりのひとつを示すことで応答しました。

 『ねじまき鳥クロニクル』の「ハゲ」のところは、「勘定」ではなく「鑑定」ではないか。
 また、吉本さんは「ゆえん」を「所縁」と表記しているが、「所以」「由縁」にすべきではないかという問い合わせにお答えします。
 まず笠原メイのところですが、「勘定」が正しいです。メイは駅から出てくる人々の頭髪の薄くなっている度合いを松・竹・梅の3段階に分けて、カウントするのです。交通量調査みたいな、禿げの程度のチェックですね。
 余計なことですが、この描写はユーモアを超えた村上春樹の禿げに対する〈悪意〉を感じさせます。わたしは白髪系統で禿げではありませんから、これに反発することはありませんが、それを気にしている人からすれば、たぶん不愉快な表現でしょう。『1Q84』にもあります。女主人公青豆と女性警官あゆみの二人が男漁りをやるのですが、禿げた男とセックスする時、その禿げ頭を撫ぜるのが快感なんだと、二人して語り合う場面があります。
 次に「所縁」ですが、そのままがいいと思います。「意志」はすっかり「意思」に統一されてしまいましたが、わたしは「用語規制」はナンセンスと思っています。言葉は時代とともに変化しますが、その必然的推移はいいのですけれど、アホの文部科学省やバカの言語学者が集まって、「ヴ」の廃止を決定するのは愚かなことです。
 例えば夏目漱石の小説は当て字のオン・パレードです。それで漱石が表記について無関心であったかというと、そうではありません。漱石は漢学塾の二松学舎で学んでいますから、そういう知識は豊富だったのです。そのうえで、自在に当て字を使っているのです。まあ、仏典など読むと、いかに現在の用語の範囲は狭いか、すぐに分かります。「所縁」もそこからきているのかもしれません。
 担当のFさんとのやりとりで、わたしの「両村上の全盛期は過ぎた」という表現が問題になったようですが、これにはわたしなりの根拠があります。
 小川さんやFさんがどれくらい両村上の作品を読んでいるかは知りませんけれど、村上春樹でいえば、わたしは『1Q84』を読んで以降、彼の作品を読む気がしなくなりました。それを具体的にいいますと、『1Q84』は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以来の村上春樹の得意とするパラレル・ワールドとして、「青豆の章」と「天吾の章」が交互に展開されます。しかし第3巻に至って、それで作品を持ち堪えることができなくなり、新たに「牛河の章」が加えられたのです。これによって物語は著しく弛緩し、作品世界は完全に破綻しました。これはこの作品の失敗に止まらず、村上春樹の〈崩壊〉を意味するとわたしは思いました。
 それはこれだけの実力を有する作家ですから、これからもそれなりの作品を書くでしょう。でも、この破綻と崩壊を克服する可能性はないかもしれません。
 一方、村上龍は『イン ザ・ミソスープ』後、これを越える作品を書いていないような気がします。村上龍の危うさは、例えば『愛と幻想のファシズム』もそうですが、ヒットラーの自伝を下敷きにしています。その元ネタを作品として凌駕できなければ、ただの模倣作になってしまいます。
 作家はゆきづまるとみんなそうです。素材を外部に求めるのです。『ヒュウガ・ウイルス』などウイルスに関する知識と情報を仕入れて、作品を作っています。ネタ文学です。そんなものは村上龍の本領からの転落でしかありません。〈快楽〉と〈暴力〉の突出という彼の売りはどこにいったのかと思いました。
 また彼は自作の権益保護のために、知り合いの作家にも呼び掛けて電子出版に乗り出しました。それは大手出版社にこれ以上搾取されるのは嫌だと思い、コミックの世界では『ゴルゴ13』のさいとうたかをがリイド社という出版社を立ち上げ、また『子連れ狼』の原作者の小池一夫が小池書院を作ってやっていますが、そんなことに村上龍は手を染めるべきではありません、原稿料の値上げ要求なら分かりますけど。これも作家的停滞の現れのひとつとわたしは思っています。
 これが「両村上の全盛期は過ぎた」という根拠です。
 ただ、さびしいのはこの二人をトータルに越えるような新しい作家が現れないことです。
 高橋源一郎や島田雅彦も小説だけでは食えないので、大学教授になっています。そんな根性なのにNHKの教育番組に出演し、文学について講釈を垂れているのです。ほんとうはみじめなのに、そう思っていないところが、その〈堕落〉の本性です。
 両村上の限界をあえて歴史の展開に結びつければ、村上春樹は地下鉄サリン事件が〈作家〉としての命取り。村上龍の場合はアメリカ・ツインタワービル襲撃によって、彼のもつアナキーな反抗意識が〈無効化〉したということではないでしょうか。
 こんな身も蓋もないことを言っても、二人を侮るつもりは少しもありません。作家はかなり幸せな存在です。優れた作品のエロスは読めば、いつでも甦るからです。

 もう何年前になるのか。早稲田が革マルのお庭になっていた頃、水道橋駅を降りて、橋を渡ったところに「SWING」というジャズ喫茶があった。村上さんは俺より先にその店でバイトしていた早稲田の「先輩」だった。暇だったから、時給120円のバイトでも俺はよかった。お客のいないときに、勝手にコーヒーを淹れ て、古いジャズを聴いていられるなら、それでいい。
 村上さんが俺に話しかけてくれた。当時、俺は誰とも話はしたくなかった。だから、新入りのバイトのくせに、「俺に話しかけんじゃねえよ」と村上さんにガンを飛ばした。村上さんはちょっと凍った。申し訳ないことをした。その後、村上さんと話したことは、「文芸科です」「演劇科です」だけだった。店にときどきいい 女が来た。他のバイト仲間によると、あれが村上さんの女だ」ということだった。その後の奥さんと同じ人なのかどうかは知らない。背のすらりとした人だった。村上さんは、比較的チビで、太りぎみだった。
 夜11時頃店が終わると、飲み物を各自勝手に作って、黙ってもぐもぐとパンをかじった。話をしたがらないとわかると、村上さんは黙って、よくビリー・ホリデイのレコードを回して聞かせてくれた。

  (中略)
 田舎の市営住宅に引っ込んでしばらくした頃、文庫本を買って家に帰った。「新潮文庫今月の新刊」みたいなカラー印刷のやつが文庫本の中にはさまれていた。それを広げていたら、作家の写真がいくつかあるうち、この顔は知っていると思った顔があった。作家の名前が村上春樹だった。ああ、あの、水道橋の、「SWING」の村上さんだ。
        (根石吉久「『快傑ハリマオ』創刊号編集中記」)

 作家以前の村上春樹の姿が描かれています。思えば遠くまで来たものです。

     2

 『ふたりの村上』は二〇一九年七月に論創社から刊行されました。
 それにともなって、紹介記事と書評が出ました。わたしの知っているのは『東京新聞』「大波小波」(二〇一九年八月一日)、『毎日新聞』の新刊紹介(同年八月一一日)、『週刊読書人』川村湊書評(同年九月一三日号)、『図書新聞』久保隆書評(同年九月一四日号)の四つです。わたしは『毎日新聞』の紹介は的確だと思いました。曰く《今や現代日本文学を代表する2人を著者が度々論じたのは当然に思えるが、歴史的にいえばむしろ吉本が早い時期から注目したことは、彼らの世評を高めるうえで力があった》と。「大波小波」も悪くありません。いちばんひどいのは川村湊です。
 川村湊の書評には呆れました。彼は《吉本氏が『ふたりの村上』を書かなかったのは必然だ》と結論づけていますが、『吉本隆明全集撰』第2巻「文学」は一九八八年六月下旬刊行予定だったのです。もし「ふたりの村上」という論稿が書かれていたとしたら、「村上春樹『ノルウェイの森』」(一九八七年一二月)と「『ダンス・ダンス・ダンス』の魅力」(一九八九年二月)の間にくるものです。それすら分かっていないのです。
 川村湊は以前にも『歴史としての天皇制』(作品社・二〇〇五年四月刊)の「解説」の中で、雑誌『文藝』初出の吉本隆明・網野善彦・川村湊の鼎談「歴史としての天皇制」が《その後活字にならず、そのままになっていることを嘆いている》と書いていました。しかし、この鼎談は吉本隆明『〈信〉の構造 対話篇 〈非知〉へ』(春秋社・一九九三年一二月刊)に既に収録されており、おのれの怠慢と見識の欠如を衆目にさらしたのです。
 川村湊は村上春樹、村上龍の作品が《「現在」から「現実」に逃避した》といっていますが、自分を棚上げした便乗的な口説で、わたしはこんな内発性の乏しい文芸批評家をみると、作家に同情します。
 わたしも最近の両村上に批判的ですが、本の売れ行きはともかくとして、村上春樹『海辺のカフカ』より村上龍『イン ザ・ミソスープ』のほうが、同じような主題を扱ったほぼ同時期の作品として良いのではないか。『イン ザ・ミソスープ』はフランクの不気味な存在感とともに、迷子の描写はこどもの〈本性〉を鋭くとらえたものです。それに比較すると『海辺のカフカ』は〈父親殺し〉をモチーフとしていますが、主人公の少年に余計なものを被せすぎています。漱石全集の読破をはじめ作家の現況の過剰な投影が作品を冗漫にしているのです。ホラー仕立てで、時代の閉塞感を如実に描くことによって、若年層の共感を得たことは確かですが、作品の〈生命力〉からいえば、そんなに時間の風化に耐えるとは思えません。
 申すまでもなく、もっともらしいケチをつけるのが文芸批評家の仕事ではありません。作品と真摯に向かい合い、作品の本質をじぶんのなかに受けいれ、そのうえで作品を客観的に開くことではないでしょうか。それがとりもなおさず作品の〈価値〉と作家の〈宿命〉に接近することであり、批評の存在意義のひとつといえるでしょう。
 そういう意味でいえば、この書評に限らず川村湊の評論は、小林秀雄や吉本隆明や江藤淳は言うに及ばず、平野謙や奥野健男や磯田光一の批評の〈水準〉とも較べものにならない、文芸批評の〈低迷〉のつまらない実例でしかありません。
 『ふたりの村上』の特徴は、なんといっても〈同時代性〉です。それは一定の評価の定まった古典を論ずるよりもはるかに困難が伴うかもしれません。そこで決定的に重要なのは情況に対する洞察力です。そこでは作家も、文芸批評家も、わたしたちも、同じように〈格闘〉するほかないのです。その格闘する姿が、この本の最大の魅力ではないでしょうか。
              (『続・最後の場所8』2020年10月発行掲載)


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「岡田幸文さんと比嘉加津夫さんを悼む 松岡祥男」 ファイル作成:2023.03.29 最終更新日:2023.04.23