ニャンニャン裏通り(その4)

松岡祥男

     7 「反原発」は正義か? [二〇一二年七月]

▼一二月二〇日
 「快傑ハリマオ」第八号を全部読んだ。全体を見渡すと、誌名の「快傑ハリマオ」が「怪傑」と表記されている箇所が多い。なぜかというと、わたしの使っているWindows2000だと、「かいけつ」と入力し、変換すると「怪傑」となるのだ。それでいくら変換しても「快傑」とはならない。まあ、わたしも根石さんも〈怪しい存在〉かも知れないから、それでもいいとおもうのだが、ほんとうは「快傑ハリマオ」なのである。

▼一二月二一日  十一月の終わり、根石さんは病気で四日間も入院されていた。それでも、根石さんは村田晴彦さんに手伝ってもらって、「ハリマオ」を印刷すると言われた。わたしは、とんでない、いまは回復に専念すべきです。根石さんの健康に較べれば、「ハリマオ」の発行などどうでもいいことです。と言ったのだが、根石さんは「ハリマオ」第八号を作ってしまった。わたしは怒っている。
 新しい号が発行されたら、原稿に取り掛かるということになっているが、わたしが原稿を書けば、根石さんは次号のことを考えるだろう。ここは、〈実力行使〉しかないのだ。わたしは、根石さんが日常生活に殆ど支障がないくらいまで回復しないかぎり、仮に書き上げたとしても、送るつもりはない。

▼一二月二二日
 根石さんのファックスによれば、印刷は村田さんがやられたとのことだ。そして、頁が厚くなってからは、自分(たち)で製本(ホッチキス止め)することができないため、印刷屋に持ち込んでいるとのことで、そこへの搬送も村田さんがやられたらしい。製本が仕上がると、印刷屋から直接佐川急便で送ってくる。根石さんは出来上がっても、仕事の合間を見つけて取りに行っているものと思われる。だから、わたしの方が圧倒的に早く受け取ることになるのだ。
 わたしが土佐でいうところの《イラレ》のせいもあるだろうが、用事はさっさと片づけて、ぼ〜っとしていたい。だから、すぐに発送作業をやる。要するに、根っからの怠け者ということだ。だいたい、南方系の人々は働くことを〈苦役〉と感じているようなところがあると思う。南の島では、原始時代からごろごろしていて、そこら辺の果物や魚を採って暮らしていただろうから、勤勉さに欠ける気質が自然と育まれているのではないだろうか。それに高温多湿なので、食糧の保存などもあまりできなかったような気がする。寒い所だったら、そんな生活態度だったら、長い冬を越すことはできないだろう。そんなこともあって「ハリマオ」は、わたしの関係のところは早い。今回も「ひと財産」を贈与された方々には、いちはやく送った(こんななんでもないことに意味付与して、被害妄想的に喚きたてる高橋秀明は阿呆である)。あとは「資料集」に同封だ。
 狭い日本列島だって、気質や生活習俗は微妙に違っている。これはおもしろいことだ。

  枝豆を莢ごとくわえて、口でしごく場合と、莢を口元に当てて、指で豆を押して口の中に弾いて放り込む食べ方があります。ですから枝豆は、お菓子のようにお茶うけに出すことができます。それと会津では、莢からむいて実を取り出して食べる場合は、ボールで塩揉みして(色鮮やかにするため)茹で、そこに砂糖をまぶしてご飯にのせておかずにします。(安西美行・福島県会津在住)

 へえ〜そうなんだ、とおもってしまう。
 高知県の中山間地では、大豆は枝豆として青いうちからは食べなかった。じゅうぶん実が入ってから収穫し、それを豆腐や味噌の材料に使うか、煮るか、炒り豆にして食べるか、石臼で挽いて、きな粉にして食べていた。じぶんはほんとうに役立たずで、本格的に家の手伝いをやっていない。だから、ほとんど傍らから見た記憶にすぎないけれど、「砂糖にまぶしてご飯にのせておかずに」するというのは想像を絶する。

▼一二月二三日  阿賀猥さんが編集した奥村真詩集『ぬらり神』(発行・iga 発売・星雲社)を、阿賀さんが二冊。奥村節さんも贈ってくださった。『ぬらり神』には「猫々だより」という通信に寄稿してくれた、奥村真さんの文章の一部が収録されている。それと一緒に、ハルノ宵子さんのイラストも転載されていたので、一冊はハルノさんに、もう一冊は川村寛さんに。

 総員、世界の名著に漬っている
 総員の眼玉は拡がっている
 総員つつがなく妄想で着ぶくれし  総員ことごとく腹筋を鍛え
 嫌煙権を主張し
 (慶応四年、江戸はトウケイと改まり)
 『はい』、という素直な心たちがいっせいに
 『すいません』という反省の心たちがいっせいに
 『おかげさま』という謙譲の心たちがいっせいに
 『させていただく』という奉仕の心たちがいっせいに
 『ありがとう』という感謝の心たちがいっせいに
 蜂の巣穴を通声し
 日照権を主張し
 黒い、鳩を、ひなたへと飛ばしている

 (地下四米、魚の化石は動じない)
     (奥村真「小菅の『なか』」)

 刑務所や拘置所の中というものはこういうものだ。奥村さんがどれくらい獄舎にとどめ置かれたのか知らないけれど、その体験をよく描き、その屈辱と抑圧をはねかえしているとおもう。
 これに匹敵するのは、高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』だ。街頭闘争やデモで逮捕されたものを「ドジな奴」だという者がいて、全然関係のない者の言うことなら黙って聞き流すこともできるが、一緒に行動していた者の中から、そんな言葉を聞くと、思わずムッとなる。そんなことは現場の状況で決まることで、運不運は傍観者の言うことだ。共同行動の内部にあった者の言うべきことではない。そして、逮捕されたものが偉いわけでも、それを免れたものが賢いわけでもない。
 わたしは刑務所や拘置所に勾留された者には、その〈後遺症〉があると思っている。それが何に由来するかというと、権力に拘束され、幽閉されたことで、いびつな形で自己と向き合うことになるからのような気がする。そんなものは無いというなら、それでもいいけれど、精神現象としてその負荷が露出するのだ。もともとの資質といえば、そうかもしれないが、そんな場面に幾度も遭遇してきたからだ。奥村さんの詩は、そういう人の心をきっと慰撫するに違いない。
 今日は、天皇誕生日で祝日ということになっている。平成天皇は影が薄い。病気を押して、地震の被災地の慰問に行かされたりしている。遠目には痛ましいだけだ。もういい加減で「国民統合の象徴」という〈座〉から下りて、一切の〈国事行為〉から退くべきだとおもう。そうなれば、わたしにはなんの文句もない。その方が当人たち(天皇家)にとってもいいに決まっているのだ。

  (大日本帝国憲法 明治二十二年二月十一日)
     第一章 天皇
 第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
 第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
 第六条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
 第七条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
 第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
 第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス


 天皇絶対主義といってよいものだ。この憲法規定では、天皇に人格なんてものはない。〈生き神〉そのものか、もしくは国体という幽霊だ。敗戦でも、これを完全に払底することはできなかったのだ。そこにアジア的な専制権力の根強さがあるのだろう。この憲法規定によれば、天皇に〈戦争責任〉がないなどというのは詭弁にすぎないことは明瞭だ。いまだに、「君が代」が国歌であり、それへの恭順を強いる反動が勢いを増しつつある。なにが「維新」だ。北朝鮮の「将軍様の世界」と同じじゃないか。それのどこがいいと言うのだ。

  (日本国憲法 昭和二十一年十一月三日)
     第一章 天皇
 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
 第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
 第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。


 こんなもの、もう要らない。それに、良い意味でも悪い意味でも〈日本〉はもう壊れているのだ。形骸を神話主義の狐憑きや観念の打算主義者が取り巻いているだけだ。ほんとうの尊王なんてものは、もはやどこにもないし、そんなもの、誰も必要とはしていないのだ。それは産業経済的にも言えることだ。

▼一二月二五日
 安西さんが大きな段ボール箱いっぱい、マンガの本を送ってくれた。しかし、バタバタしていて、もう一月くらい手をつけずに、そのままになっていた。マンガを読む余裕もないなんて、ほんとうに情けない。寄る年波で、わたしもとうとう還暦を迎えてしまった。なにひとつ成熟せず、年齢だけが加わったという感じで、びっくりしてしまう。いや、還暦の話をしているんじゃなかった。借りたマンガの話をしているのだった。近年は目ばかり使うので、マンガの本もいきぬきという感じで見ることができないのだ。新書判サイズのコミック本がきつい。縮小された判型のうえに、セリフやネームが太字で、これが潰れて見える。妻の方が先に読みはじめていたのだが、まずNHKのテレビドラマにもなった河合克敏の『とめはねっ!』から読むことにした。第一巻目の始めの頃はそこそこ面白いのだが、すぐによれて、作者と編集の共同作業で、こんなものならそこそこウケルだろうという、業界マニュアル通りの書道の部活マンガになっている。次に、松本大洋の『竹光侍』を読みはじめた。これはおもしろい。完全にはまってしまった。安西さんは第四巻まで貸してくれていたのだが、妻が「つづきを」と言っていた理由が分かった。それで安西さんと電話で話した際、現在も続いているのですか、と聞いた。それを安西さんは続きはありますか、と勘違いしたらしい。三、四日したら、『竹光侍』の第五巻から第八巻(完結)までと、手作りの「手元茶筒」二つが送られてきた。プレゼントだということだ。すごく嬉しい。安西さんの貸してくれたマンガの中で、わたしが気に入った木村紺の『からん』(全七巻)も、『竹光侍』も、世間一般ではそんなに人気はないようだ。まあ、還暦を迎えたジジイがいいと思っても、そこいらの若衆が喜ばないのは当り前なのかもしれない。世間では『とめはねっ!』の方が売れているのだから。しかし、そうであっても、この二作が良いというじぶんの評価を引っ込めるつもりはないのだ。

▼一二月二六日
    冬の空に

  新しい年を迎えても、のどかな正月の雰囲気というのは、もう薄れてしまっています。その生活習俗の基底をかたちづくってきた農耕社会が崩れてしまったからといえるでしょう。冬は農閑期でした。秋の収穫を終えて、年の瀬はその一年の締め括りということであり、正月は春の到来を待つことを意味していたと思われます。
  けれど、社会の構造は大きく変化しました。情報、流通、医療などの第三次産業が産業の中心となり、その高度化と経済循環の速度によって、私たちの生活時間は規定されていますから、ゆったりした「お正月気分」のようなものは払底してしまったのだと言えます。
  そんな社会状況の中にあっても、私たちはそれに完全に同調できるわけではありません。それぞれの暮らしの中に、固有の時間の流れがあります。また、人間の身体と精神を統御する生命リズムのようなものも具わっているからです。ですから、うまくバランスを取ることが大切だと思います。
  年齢を加えたこともあるのでしょうが、一日は忙しくなく過ぎても、一年を振り返ると、ほとんど手応えのようなものはなくて、ただ年を重ねただけという気がします。
  一休さんは「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠んでいるそうですが、その仏教的な意味を問わないとすれば、私も、この六年の間に四人の肉親を失いました。
  母が亡くなったときは、自分が生きていることの支えを無くしたような気がしました。また働き者の姉が亡くなったときには、身内の扇の要を失ったような気がしました。
  二人の兄についても、痛切な思いがあります。長兄は、農業では日々のたつきが成り立たず、土木工事へ働きに出て、継いだ家を守りました。末っ子の私には及びもつかない、家長の自負があったように思います。
  もう一人の兄は、中学校を卒業して集団就職で関西に出ましたが、やがて高知に帰り、園芸の勉強をして、その仕事に就きました。四男ということもあったのでしょう。私のような甘えはなく、自分の道を切り開いたのでした。
  日頃から、もっと行き来していればというような後悔はいっぱいあります。こんな時代になりますと、誰もが自分のことで精一杯という感じになって、おのれの日常に押し込められてしまうからかもしれません。
  私には、ひそかな自恃みたいなものはあっても、自慢できるようなことは、何もありません。それでも、母や姉に伝えれば良かったと思うことはあります。
  そのひとつは、私が平成七年に本紙に連載した「文学という泉」が、「大学入試」の「国語」の試験問題に使われたことです。
  自分としては、そんなことはどうでもいいと思っていたのですが、母や姉は、きっと喜んでくれたでしょう。体が弱く、ひきこもりがちで、とても世間を渡ることは覚束ないと、心配ばかりかけた償いに少しはなったかも知れないからです。
  冬の晴れた空を見上げながら、そんなことを思いました。そして、こんな〈ふるさとの空〉は、誰の心にも広がっているはずだと思ったのでした。

   (『高知新聞』二〇一一年一月一四日)

 今年もあと一週間を切った。なんとか無事、年を越せそうなのがなによりなのかもしれない。今年も、次男の兄が大腸癌の手術をした。すぐ上の兄(五男)も昨年の暮れに続いて、またしても救急車で運ばれた。山の畑で畑仕事をして、目眩がし、おさまらず、山の急な坂道を這って、やっと家へたどりつき、救急車を呼んだとのことだった。運び込まれた病院が、実家の大豊町日浦よりも奥の本山町だったので遠い(作家の大原富枝が生まれたところだ)。三男の兄と一緒に駆けつけたのだが、高血圧ということだった。近年はこんなことばかりだ。

▼一二月二七日  わたしはふだんは、だいたい朝六時前後に起きる。起きてテレビ(おもにデータ放送の天気予報)を見ながら、紅茶と菓子パンの軽い朝食を取る。それから、『吉本隆明資料集』の入力作業に取り掛かる。妻が起きてくる時間までやれば、なんとかその日の目標は達成できる。
 いま、やっているのは『吉本隆明〔太宰治〕を語る』の中の「いま、なぜ太宰治なのか」というシンポジウムの記録だ。これは一九八八年に大和書房から刊行され、その後弓立社の『全講演ライブ集』にも収録されたけれど、活字化されたものは大和版だけなので、「資料集」に収録することにしたのだ。このシンポジウムで、圧倒的に冴えているのは菅谷規矩雄だ。おのれの言葉がどこに着地すべきかをきっちり捉えている感じがして、ここから進めば、菅谷はきっとのびやかな表現を実現したかもしれない。しかし、菅谷はこのあと、それほどしないうちに亡くなった。入力していて、とても残念に思った。菅谷の『詩的リズム』はいいものだ。吉本隆明の仕事をしっかり踏まえて、それを発展させる営為のひとつだからだ。また、このイベントで憎まれ役を買って出たとおぼしき鈴木貞美も決して悪くない。まっとうなことを言っている。鈴木貞美曰く、「みんなそれぞれ生きてるわけだから、どんな人だっておもしろいわけだ」。うん、そうなんだよね。このあと鈴木は「そういうレベルで文学のことを問題にしたくないんです」と言っているけれど、わたしは反対に、だからこそ、文学はおもしろいし、そこをなおさら問題にしたいと考えているよ。そんなことを思いながら、一字一句読みながら入力しているから、とても遅い。間違いなく、世間では(業務的な意味でも一般的な意味でも)通用しない。しかし、これが作業を愉しくしている第一の要素であり、持続の原動力なのだ。
 「資料集」の発行で自慢できることは、資料蒐集は自力でやり(宿沢あぐりさんなどの協力に負っている部分が多大だけど)、その他のことでも〈著者を煩わさない〉という方針を貫いていることだ。唯一の例外は、雑誌『試行』の裏表紙にある試行出版部の刊行案内に添えられた文章について問い合わせた。それだけである。そういう意味では『吉本隆明資料集』は著者と〈不関〉だし、編集も発行も〈わたし一人の責任〉でやっているものだ。もうひとつ、大事なことを忘れていた。『試行』の復刻版を作った時、わたしの持っていない第一六号から第二二号までをご提供いただいたことを。

▼一二月二八日
 今年の出来事で、悪いことは除外して、わが家にとって大きかったことを挙げる。いちばんはテレビの地上デジタル化に伴い、新しいテレビが入ったことだ。むかしTBS発行の『調査情報』という雑誌で連載したことがあるけれど、当時はあまりテレビを観ていなかった。だから、なんとなくノリが悪かった。いまは結構観ている。ニュースをはじめ、スポーツ番組からドラマまで。ドラマではこのシーズン、やっぱり『家政婦のミタ』ということになるだろう。松嶋菜々子が頑張っていた。ほとんど見るに耐えないドラマの内容を『ターミネーター』みたいな松嶋の演技によって緊きしめ、何でも出てくるドラえもんのポケットみたいなカバンや、その素性の不可解さが、視聴者を惹きつけるものとしていた。そして、話題になるにしたがって、登場人物と展開が合致していった。もっとも役立っているのはデータ放送だ。台風の時、雨雲の様相を逐一チェックすることができた。スタジオからの台風情報など役に立たないからだ。東日本大震災の津波の映像でも、人が津波に呑み込まれるところは全部消去されている。そんな悲惨な場面をテレビで放映することはできないということだろうが、報道規制の一環で〈人間の死〉はカットされているのだ。しかし、ほんとうにあの大震災で大事なことは、そこに〈人間〉がいて、〈生活〉があったということだ。それが根こそぎもって行かれたのだ。福島第一原発の潰滅もそうだ。もう東京電力も政府も居直りはじめている。
 次はといえば、かぼちゃの収穫である。去年山のすぐ上の兄がくれたかぼちゃの種を妻が取ってあって、今年、枇杷のそばに植えた。痩せた土なので、生長するのだろうかと思っていたが、これが枇杷の木に絡みつき、大きな葉をつけて、かなり繁った。夏には花も咲き、ひょっとしたら実を結ぶかもしれないと思っていたら、三個もなった。秋の終わりに収穫し、食べた。これが美味い。妻は大喜びである。

▼一二月三〇日
 野田民主党政権は消費税の段階的な引き上げの素案を決定した。これは民主党が政権奪取の時に掲げた方針に完全に反するものだ。つまり、一般大衆に対する背任である。鳩山→菅→野田と政権が移行するうちに、民主党政権の反動性は露骨さを増して、嘘と居直りに終始し、とめどなく反民衆的な政策を打ち出してきている。むろん、そんな政治状況の批判をやりだしたら、きりがないくらい言うべきことはあるが、ここでどうしても言いたいのは、消費税率を引き上げるというなら、その前に衆議院を解散して、その信を問うべきだ。政府の独断先行など許されるはずがない。それが民主主義のルールであり、〈主権在民〉ということなのだ。なにが「社会保障と税の一体改革」だ。東日本大震災と福島第一原発潰滅の深刻な影響で疲弊した社会、経済、生活、精神の現状を考えたとき、いま消費税率を上げることは、懸崖に押しつめられつつある人々の生活をその断崖から突き落とすに等しいものだ。まあ、これは夫婦二人が食うのがやっとというじぶんの生活からの実感から言っているのだが、しかし、トータルな視座から見ても、それは言えるとおもう。
 それに加えて、日本の産業構造が変換した時期を境に、完全な反動勢力に転化した労働組合と、その連合体である「連合」は、消費税率を上げることに賛同し、「連合」の古賀会長はそれを運動方針の中に含んでおり、野田政権を支持し増税を推進すると発言していた。おまけに「選挙はやる必要はない」とまでほざいたのだ。ここまでくれば、黙っているわけにはいかない。おまえらなんぞが、そんなことをいう資格と筋合がどこにあるのだ。つねに従属、つねに翼賛。なんのビジョンも持たず、潤沢なアガリ(組合費)の上にあぐらをかき、何もやらず、じぶんたちで考えることすら放棄したような、この迎合だけの思考停止の連中を見ていると、うんざりする。初期社会主義者の〈すべての権力を人民に〉というテーゼなどドブに捨てちまったのだ。さらに、テレビのニュース番組で小宮山厚生大臣の偽善的な顔と厚顔無恥な発言を見ていると、思わず灰皿を投げつけそうになる。むろん、そんなことをしても、じぶんところのテレビが壊れるだけだからやらないが、「くたばれ、このカマトト婆」という罵言を抑制することができない。
 かつての村山富市の社会党を首班とする政権が、自衛隊を合憲と宣明し、その犯罪性をこの国の歴史の上に決定的に刻印したように、この政権とその支持勢力は社会の基礎的な原則さえ無視して、何をやるか分かったものではない。労働組織や労働運動が社会的批判の抵抗勢力、つまり労働者階級(ひいては一般大衆)の解放を実現する基幹的な存在だなどというのは、もはや過去の幻影にすぎない。このことは、彼らの振舞いをみれば一目瞭然なのだ。「連合」が存在意義を発揮するのは総資本との交渉である「春闘」の場面だけだ。政治が社会を置き去りにして先行することも、組織や運動が生産段階に固定されそこにすべての基点があると錯覚することも、圧倒的な一般大衆の存在を無視することも、錯誤でしかない。もっと言えば、大きな労組の内部では、派遣や臨時雇いの者の不当解雇や差別待遇など、自己保身に汲々として議題にすら上がることはないのだ。つまり、現場の切実な課題に対してすら何ら実質的な取り組みはなされていない。そのくせ選挙の時だけ政党の下僕として走り回る。ところが、労働組合の連合組織の幹部や同伴インテリは、その現実を糊塗するために、全般的な雇用問題にも取り組んでいきたいなど、口先だけの嘘を並べているのだ。それは行政改革などといっても、実際は組織の下っ端(現業職など)のリストラ(切り捨て)で、体裁を繕っているのとパラレルだ。弱い者いじめと排除の構造は変わらないということだ。権力にしがみつき、その支配力を振るおうとするのは、政治家や官僚だけではない。マスコミも知識人も社会勢力も同様なのだ。「連合」会長の古賀の発言はその典型である。じぶんたちがこの国の政治を裏で動かしているという思い上がりでしかないのだ。わたしはじぶんを偽らずに独りの存在感を手離さないことが、それらに対抗することだと思っている。

▼一二月三一日
 今年の困ったちゃん大賞は、寿司の宅配の兄ちゃんだ。いつも頼んでいる宅配寿司があり、ここは配達のバイトがよく代わる。しかも、アドバイスが適切でないのか、よく迷って指定の時間よりも遅れることが多い。それは判っているので少々のことには驚かない。しかし、このときの兄ちゃんは凄かった。約束の時間になっても来ない。風呂あがりで、待ちきれずビールを飲みはじめた。それでも来ない。これは迷っているな、もう少し待って来なかったら、店へ電話しようと思っていたら、電話が掛かってきた。「お宅が判りません。いま○○というパン屋のそばにいるのですが‥‥‥」という。完全に通り過ぎて隣の町内だ。これは場所を説明しても無理だとおもった。そこで、そこから元の大通りへ戻り、店の方向へ引き返し、上町五丁目の電停の所まで来てください。そこに銀行があります。そこまで取りに行きますからと言った。日没の往来の激しい電車通りで待っていると、やって来た。兄ちゃんはバイクから降りると、開口一番「商品からお渡しして宜しいでしょうか」と言った。マニュアル通りである。もちろん「すみません」の一言もない。こちらは呆れて、黙って商品を受けとり、代金を渡した。顔を見ると、べつにゆるい感じでもない、ごく普通の学生という感じだ。まあ、こんな世の中になったんだね、と思うしかなかった。なにしろ喫煙者は「野蛮人」で、ケイタイを持たない者は「未開人」と言われる時世なんだから。その野蛮で未開の還暦人間からすると、何かが壊れているような気がするんだけどね。

▼一月四日  わたしは、東日本大震災(死者行方不明一万九千人以上)や福島第一原発潰滅による放射能汚染について、直接的な発言を避けてきた。どうしてかというと、実際の死者や被災の人々のことをおもうと、安逸な〈傍観者〉にすぎないからだ。もちろん、強い関心を持ち、テレビ報道を中心にいろんな情報に注意を払っていた時期があった。しかし、被害の深刻度が増すにしたがって、心身ともにそれに取り込まれるような状態になり、これは〈危ない〉という感じになった。そこで、最初の距離を保持するように心がけることになったのである。
 この基本的な姿勢は変わらない。わたしは東京から東へ行ったことはない。だから、実際に福島や宮城などを知らない。私的な関わりでいえば、かつて『同行衆通信』に寄稿していた鎌田吉一が福島県相馬の出身だった。しかし、彼とは彼が九州へ移住してから、次第に疎遠になり、いまは音信不通になっている。また「猫々だより」に連載してくれている安西美行さんは、福島県会津在住だ。彼は私的な会話では大震災について語るけれど、何も書いてはいない。現状を全身で受けとめて、日々黙って事態に対処しているように思える。あとは、映像や情報を通じて知っていることだけである。なかでも、日テレ系の『ザ!鉄腕!DASH』はわりと好きで見ていた。その中に出てくる村があって、ああ、いい所だなと思っていた。その舞台が福島県浪江町だった。その浪江町は、いまでは避難指定地域になっている。あの風景も、そこでの生活も、地震と放射能でアウトになったのだ。地震と津波という天災を別にすれば、その〈被害責任〉は、福島第一原発を運営していた〈東京電力〉と、その監督の位置にある〈政府(国家)〉であることは言うまでもない。
 ところが、東京電力も政府も時間が経つにしたがって、居直り始めた。福島のあるゴルフ場が放射能汚染で営業不可能になり、その損害賠償を東京電力に求めて訴訟を起した。その要求は営業出来ないための損害と働いている者を解雇することはできないのでその給料補償を、ということだった。まっとうな要求だと思った。それに対して、東京電力は放射能は自然の中にあるもので、それはその土地所有者に属するといい、東京電力はその責任を負わないと主張したのである。そんな馬鹿な話があってたまるか。あの原発事故がなければ、そのゴルフ場は通常に営業し、そこで働くものも普通に生活できていたのだ。よくもこんなことが言えるものだ。それに同調して裁判所は、この訴えを却ける判決を下している。除染は政府が行っているから、それに委ねるべきもので、損害賠償の対象にはならないというものだった。完全な居直りである。おまけに、政府は大震災と原発事故による負債を増税という形で、一般大衆に転嫁しようと画策している。こうなれば、口を開いてもいい、そう思ったのである。

▼一月五日
 NHKを筆頭とするテレビメディアは、こぞって「がんばろう、日本」だとか「絆」などという大合唱のもと、原発事故の実際も被害の深刻さも覆い隠そうとしている。政府とマスコミの発表することは信用できない。それに伴う暗黒部分や人心の荒廃など都合の悪いことは、隠しているからだ。被災地のATMというATMはぶち壊され、組織だった火事場泥棒が横行していることをはじめとして。
 だいたい福島第一原発の一号機から四号機までの被害状態だって、わたしたちには正確に伝えられていないのだ。原発の潰滅的な破損も、放射能の流出状況も、冷却のために注入された汚染水などがどうなっているかも、殆ど明確にはなっていない。そんな状態で情緒的に復興をうたっても、ゴマカシの世論誘導にすぎないのだ。
 わたしは原発の内部を見学したことはないので、その内部構造がどうなっているか具体的に知らない。ただ、四国電力の本川揚水発電所は、建設工事で通ったことがあり知っている。大橋ダムの水を山の上の大橋貯水池に汲み揚げ、そこから流してタービンを廻して発電するものだ。わたしの一番上の兄は、若い時から長い間トンネル工事の掘り方で全国を渡り歩いていた。兄はこの本川揚水発電所の建設のトンネル掘削の仕事に、同じ高知県内ということもあり、下見に行った。しかし、兄はこの現場を見て、ここはいつどこから水が噴出するか判らない危険な地層だと判断し、そこで働くことを断念した。わたしは地上の管理棟の仕上げ工事と地下の発電施設の清掃作業で行った。発電施設は長いトンネルを車で通って地下へ潜って行った所にあった。地下要塞のような広い空間のドームになっていて、その壁面に付着した埃を拭き取る作業だった。十人足らずのメンバーだったがそれだけで半月以上かかったと思う。なにが言いたいかといえば、あの揚水発電所が地震で壊れ、水が流入し、水没したとしたら、それを修復することなど不可能に近いということだ。揚水発電所が潰れたところで、そのまま放置しても他に害が及ぶことは少ないだろう。発電所のできた脇ノ山地区には民家は数軒しかないからだ。
 しかし、原発は違う。わたしは地震と津波の初期報道の中で、福島第一原発が補助電源を含め全ての電源を失ったと聞いた時、これはもうダメだとおもった。原発の発電施設の規模は分からないが、その壊れ方を実際に把握しているのかさえ疑わしいのだ。それをどう収束するかがリアルな問題であることは言うをまたない。
 その一方で、朝日新聞や岩波書店などは「反核運動」の時と同じように、「反原発」の音頭をとっている。それに加えて、村上春樹、大江健三郎、柄谷行人一派、坂本龍一、中沢新一、日本ペンクラブ(会長・浅田次郎)などの知識人士は、一斉に「反原発」「脱原発」を唱えている。そこに「正義」があると錯覚しているのだ。この二つの動きは表裏一体のものだ。「反核教祖」の大江はいつものことだから置くとして、村上春樹のじぶんは「九九%が作家」で「一%は市民」という発言には呆れ果てた。お前なあ、いくら偉くなったとはいえ、お前も排泄すれば、セックスだってするだろう。飯も食えば、眠りもするだろう。それらも作家活動だとでも言うのか。それで残余の一%の部分で「反原発」を実現できなかったのは、落度だったみたいなことを得々と言っている。これを〈亡霊野郎〉の戯言というのだ。これに匹敵するのは、大震災直後の石原慎太郎の発言だ。石原は「地震は我欲に凝り固まった日本人に下された天罰」だという〈唯心的〉妄言を吐いた。その後都知事選の過程で、石原はこの発言をご都合主義的に言い繕って、選挙に勝利した。しかし、石原の本音は少しも変わってはいない。他人の苦難を思い遣る心情すら、権力欲の塊のこの男にはないのだ。
 柄谷行人一派から日本共産党、新左翼残党までの言動と動きは、この地震と原発事故を〈唯物的〉好機と捉えたものだ。ほんとうに問題の所在を明確にし、その解決の方向を考えているとは思えない。こいつらのいちばんダメなところは、〈他者の影〉を負っていないところだ。こいつらの言動の、どこにも死者への痛切な思いも、被災者の心根に通じる思想の投影も見えはしない。だから、たかがデモをしたくらいで浮かれているのだ。それは地震直後の柄谷行人の発言ひとつで明白だ。無難な公式見解を並べておけばいいとしか思っていないのは、読めばすぐに判る(柄谷行人「地震と日本」『現代思想』二〇一一年五月号)。いつまでたっても、自分(たち)は頭が良く、人の上に立つ資格があり、その高みから人々を操ることができると考えているのだ。そんなもの、いまや支配者の変種にすぎないことは歴然としている。それは朝日新聞や岩波書店などの良識ぶった世論操作や方向づけも同じだ。
 また、中沢新一の『東京新聞』での「日本にも、みどりの党を」などという発言はただ言ってみただけのものだ。中沢新一に、麻原彰晃のような〈実力〉があるとは到底思えない。じぶんを頼ってくるものを丸ごと引き受け、面倒なことにつきあい、他者を漁ることなど、中沢新一に出来るはずがない。そんなことはこれまでの言動と振舞いをみていれば、分かり切ったことだ。気楽に知的に遊ぶことができるところがその〈良さ〉なのだ。そのじぶんを忘れて、本気でやる気もないくせに、つまらないことを口走らない方がいい。むろん、わたしは初めから、そんな器量も才も財もない。その非力な自覚があるから、中沢みたいな気まぐれを口が裂けても言わないだけである。

▼一月六日
 吉本隆明は『週刊新潮』(二〇一二年一月五・一二日号)のインタビューで「反原発」の動きに異論を呈している。もちろん、ここで掲げられた挑発的な表題は編集部がつけたものだろうから、そんなものはどうでもいい。ただ、この吉本隆明のリアル・タイムの重要な発言について、口を噤んで、じぶんの意見を言わないでやりすごしたら、『吉本隆明資料集』を発行していることの意味は半減するような気がする。たとえ見解が違っても(そんなことは問題ではない)、じぶんの考えを率直に言うことが大切なのだ。それが吉本隆明からわたしが学んだ最大のことだからだ。

  今から一〇〇年ほど前、人類は放射線を発見し、原子力をエネルギーに変え、電源として使えるようにしてきました。原子力をここまで発展させるのには大変な労力をかけてきたわけです。
  一方、その原子力に対して人間は異常なまでの恐怖心を抱いている。それは、核物質から出る放射線というものが、人間の体を素通りして内臓を傷付けてしまうと知っているからでしょう。防御策が完全でないから恐怖心はさらに強まる。もちろん放射能が安全だと言いません。でも、レントゲン写真なんて生まれてから死ぬまで何回も撮る。普通に暮らしていても放射線は浴びるのです。それでも、大体九十歳くらいまでは生きられるところまで人類は来ているわけです。そもそも太陽の光や熱は核融合で出来たものであって、日々の暮らしの中でもありふれたもの。この世のエネルギーの源は元をただせばすべて原子やその核の力なのに、それを異常に恐れるのはおかしい。

   (吉本隆明インタビュー「「反原発」で猿になる!」)

 わたしは科学的な知識も物理的な原理についても何も知らないに等しいけれど、ここではごくふつうのことが言われているとおもう。

  さて、セーガンの科学啓蒙家としてのウカツさではなく、その「科学」的な認識のどこかに間違いがあって、こういう見解を述べるようになったという必然があるだろうか。わたしは気になってこの本のあっちこっちをめくり返しながら、考え込んだ。
 ある、ある、ひとつだけある。それはセーガンが「科学は両刃の劍なのだ」と考えていることだ。そしてこれは「科学」を考える人士の常識みたいなものだ。「科学」が核兵器のような破壊殺戮装置を造るときは「悪」であり、さまざまな文明の利器を生みだすときは、「善」だということになっている。しかしわたしはそう考えない。「科学」は発想、考案、実驗、実証、その具体化についての必然力だというだけだ。これに善や悪の倫理を附与しているのは、人間の精神だ。科学のせいではない。そして現在までのところ、この種の混同が起こる理由の最大のものは、人間が現在のところ個人の殺戮行為は悪としながら制度や集団の殺戮は悪として考えない(むしろ善とする場合もある)という矛盾とごまかしを脱しきれないところにあると考える。そのうえ、「科学」は本質上、人間の心とは無関係だ。それは善でも悪でもなく本質がそうだというだけだ。

    (吉本隆明「消費のなかの芸」第四〇回)

 これは『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』の書評の中で述べられたことだ。これが吉本隆明の基本的な認識だといっていい。
 わたしは正月のテレビでエベレストの登頂に挑む姿を見ていて、それこそ神の棲むべき場所へ死にに行っているような感じをもった。じぶんの意志で、あるいは職業的な要請で、あの酸素の薄い、標高八千メートルを越える山の頂きを目指す。その姿を見て、人間というのは凄まじいものだと思った。航空機からだって、山頂付近の映像は得られると思うのだが、それでも重い機材を担いで、命がけで登ってゆく。それも人間の在り方のひとつなのだ。むろん、そこで遭難しようと、ますます息苦しくなる社会で、追いあげられ、鬱に陥り、電車へ飛び込むことも、〈死〉としては等価なのだ。
 ものごとは多層的だ。日本では宇宙飛行士が英雄のように持ち上げられる。確かに宇宙へ出てゆき、調査することは宇宙の実体とその原理を解明することにつながり、それは人類の夢のひとつであり、未知へ向かうことを意味している。しかし、宇宙開発は世界制覇のための〈象徴〉行為であることも、また実際的な軍事的優位の獲得であり、宇宙空間からの偵察と監視や情報収集を目的にしていることも確実なことだ。だからといって、止めろとは言えない。そして、その一部はグーグルなどの宇宙からの世界視線としてわたしたちにも〈共有〉のものとなっている。これはいいことだ。科学の発達を最も推進してきたのは、人間の知的な探究心であり、現実的には国家の軍事的要請がその発展を大きく促してきたことも否めないだろう。そんなすべての要素を考察することが必要だと思える。それは原発も同じだとおもう。

▼一月八日
 民主党の仙谷政調会長代行は徳島市で講演し、「税と社会保障の一体改革」の推進を訴えるとともに、イラン情勢が悪化すれば、原油価格は二倍になると予想されるから、停止中の原発の再稼動は必要だと言った。現在の社会産業における電力需要、その中で原発の占める役割は大きいに違いない。低コストで産出される電力量も他の発電方法よりも遥かに効率がいいと言われている。しかし、福島第一原発の潰滅で蒙った被害リスクは甚大である。電力供給に支障があるとみれば、企業はその生産拠点を海外に移している。つまり、国家の枠を越えて資本展開している。タイの水害を日本のマスコミがあれほど取り上げたのは、タイの民衆の生活を心配したからではない。そこに多くの日本企業が進出していたからだ。その経済的影響を憂慮したからだ。そうでなければ、あれほど騒ぐことはなかっただろう。さもしい日本(人)の性根を映す鏡だといっていい。しかし、経済がこの世界のすべてではないし、人間は経済動向の奴隷でもない。
 そもそも「エコ」だの「節電」だのという、政府とマスコミの「節約」キャンペーンを見ていると、ケチ臭い貧乏性の現われで、こいつらの言うことを聞いていたら、人間が生きている意義を誤解しかねない。あなた方がいなくなったら、無駄も蕩尽も、その分減るかもしれません。だから言い出しっぺから、どうぞ率先して消えてください。それが「地球環境と地球資源のため」です、と毒づくほかないのだ。国家なんか無くたって、人間は生きられる。加藤典洋みたいな「遅れてきた青年」のフリをしている者には、国家は不動の強固さを持っているがごとく映るのかもしれないが、どっこい、国家なんてものは人類が不可避的に疎外産出したもので、そんな過程の産物はやがて乗り越えてゆくものだ。だから、国家は不滅でもなんでもない。話が逸れたが、人間は物を作り、それを使い、消費することで生活している。この生産ム再生産過程を拡大することなしに、人類の存続はありえないのだ。金や品物を使用せずに貯め込んで何になる。それは〈活用〉してこそ意味があるのだ。頭だって使わないと、考えは鈍り、思考の幅は狭くなり、迷妄の虜になるのだ。それは肉体だって使わないと衰えるのと同じだ。
 「税と社会保障の一体改革」だって、政府は高齢化社会に突入したから国庫負担が増大して、国家の借金が限界値を超えているからだと詐欺的なことを言っているが、一般の労働者大衆は厚生年金などを給料からの天引きという形でずっと徴収されてきたのだ。その潤沢なアガリを歴代の政府と関係機関は先のことを考えずに、無責任にも「他人の金」と見なし流用し浪費してきたのだ。そのツケを押しつけているにすぎない。日本(国)がギリシャなどと較べものにならないくらいの赤字状態にあるのは、国家の無策と政治家の利権や私欲と官僚の放漫体質にあったことは歴然としている。それを清算主義的に棚上げして、現状の打開を優先すると言っても、誰が信用すると言うのだ。仮に野田らの思惑通りの搾取が実行されたとしても、それで国家財政の立て直しができるなんて考えられない。同じ轍を踏むに決まっているからだ。消費税の導入の時だって、所得税から消費税への移行がうたわれていたのだ。ところが、実際は所得税はそのままで、収奪の多重化だったではないか。では、どうするべきなのか、それは方向性としては簡単だ。まず最初に国家(政府)を縮小することだ。国会議員の削減、肥大した政府機関の整理、国営産業の民営化、防衛(自衛隊)予算の抑制などを実現して、そのうえで、税負担による国家財政の立て直しを言うのが筋というものだ。
 そこに福島第一原発の崩壊があり、その収束の目途すら立っていない段階で、〈国あって民なし〉の逆立ちした政治的発想のもと、原発の再稼働が必要だなどという出鱈目な発言が、それこそ喉元も過ぎないうちから飛び出してくるのだ。もちろん、民主党のやることなすこと全部が反動的だというわけではない。細野環境相の「原発稼働は四〇年」とするという見解は画期的だ。人間も含めた生き物には寿命があり、機械製品にも耐用年数がある。それはテレビや洗濯機が壊れて買い換えた経験からも分かることだ。それを明確に指定したことは、ずるずると壊れる(破滅的な事故が起こる)まで使い続けることを許さない重大な指摘だった。電力業界やその利権に群る連中は「六〇年」と言い張るだろうが、こういうことを明示していくことが、なによりも必要なことだ。

▼一月九日
  原発を捨て自然エネルギーが取って代わるべきだという議論もありますが、それこそ、文明に逆行する行為です。たとえ事故を起しても、一度獲得した原発の技術を高めてゆくことが発展のあり方です。
   (吉本隆明インタビュー「「反原発」で猿になる!」)

 吉本隆明のインタビュー発言の中で、ここだけが現段階で同意し難い箇所だ。なぜなら、わたしは原発をやみくもに忌避しないけれど、原発に固執する理由も持っていないからだ。これは自働論理だとおもう。日本人の「自然崇拝」に基づく自然エネルギー謳歌ということではなく、わたしは、吉本隆明が「情況への発言」(一九八九年二月)で言っているように、原発よりも低コストで安全性の高い高度な発電技術の開発を目指すべきだと考えると同時に、原発の設置や再稼働は住民の意志(住民の直接投票)で決定されるべきだと思っている。もちろん、その住民意志は、立地の市町村と当該の県だけに限定されない。その原発の影響圏内すべてということだ(今回の福島第一原発の事故でその影響範囲は明瞭になったと言えるだろう)。わたしは基本的にそれを尊重する。
 高知県でも、原発誘致問題が一九八〇年頃に降ってわいたように起こった。窪川町(現四万十町)の興津という海辺の漁村に、四国電力が原発を作ろうとしたのである。当時の藤戸窪川町長を筆頭に誘致運動が先行し、これに反対する住民とで、町内はもとより、県内を二分する騒ぎとなった。推進派は県や国の支援を受け、上から懐柔作戦を取り、これに対抗して反対派は町長のリコール運動を展開したのである。
 わたしは反対だった。リコール運動の最中、興津の浜で開催された二日間の「反原発」の大規模なイベントにも参加した。高知大学の元全共闘の知り合いが多く関わっていたこともあるが、なによりも町長や四国電力や政府の遣り方が信用できなかったからだ。会場には野外ステージがあり、憂歌団をはじめロックやフォークの演奏がやられ、屋台もたくさん出ていて、その中心になっていたのはわたしの酒飲み仲間達だった。わたしらもテントを持ち込み、飲んだり食ったりしながら、初対面の人と話し込んだり、突然のにわか雨でずぶ濡れになりはしゃいだりの、楽しい祭りだった。これはノン・セクトの市民運動といえるもので、保坂展人(現・世田谷区長)のグループや中山千夏と矢崎泰久のコンビなども来ていたが、雑多な集まりだった。あるフォーク・グループが春歌(遊廓を題材にしたコミック・ソング)を歌っていたら、突如フェミニズムの活動家とおぼしき女性が壇上にあがり、そのボーカルの顔に「女性差別者!」という紙札を張りつける一幕もあった。
 それ以前に、わたしは興津に小学校の建設工事で行ったことがあった。窪川町の中心は盆地であり、興津はその台地から断崖のように切り立った下にある。その崖を曲りくねった道をたどり、下りてゆくと、それなりの平地になっている。農地がひろがり、浜の砂は白く、遠浅で、海は綺麗だった。漁業も農業も逼迫している感じはなく、結構豊かな地区に見えた。町長ら推進派は原発誘致による経済効果ばかり言い募り、四国電力はそのリスクについては触れずに、電力事情と産業の発展しか宣伝しない。県当局はトップの中内知事をはじめ県勢浮揚と利権しか眼中になく、政府は電力独占資本の擁護(国営よりは遥かにましだが)と国策優先の押しつけに終始した。そして根回し工作を陰に陽に展開し、混乱は拡大する一方だった。そして、極めつけは当時の自民党桜内幹事長が原発推進総決起集会にやってきて、こう演説したのである。「私は手ぶらで来たわけではありません。国鉄の予土線は廃止せず、存続させます」。これが手土産ということだった。当時国鉄民営化に伴って、赤字ローカル線廃止(一九八〇年)が決定し、窪川と愛媛県宇和島を結ぶ予土線は、その廃止路線の対象になっていた。それを存続させるというのだ。興津地区に原発を設置することと、予土線廃止とは全く別問題である。この公然たる政府による買収策動は、原発の必要性と安全性をじゅうぶん説明することなく、欲得づくの露骨な高圧姿勢で押しきろうとするものであった。それに対する反発もあり、一九八一年三月藤戸町長をリコール(投票率九一・六六%)。だが翌月の出直し町長選で藤戸町長再選(投票率九三・三〇%)。一九八二年七月全国初の「原発町民投票条例」成立と、文字通り揺れたのである。
 そこから町と県や国と四国電力は連携をより強め、一九八四年に町議会と県議会が「調査促進決議」を採択。知事の立ち合いで四国電力と窪川町との「調査協定書」の調印と進み、ほぼ手続きは完了した。だが、一九八六年四月にチェルノブイリの事故が起り、これを契機に地元漁協との交渉は難航し、一九八八年一月ついに「原発棚上げ」を藤戸町長が表明し、十年近くに及んだ窪川原発騒動に終止符が打たれたのである。
 わたしはそれで良かったと思っている。四国電力の(愛媛県伊方町に原発が三基設置されているが、そのいずれも停止中)電力供給量は足りており、興津はいまでも高知県内では比較的活気のある地区だからだ。しかし、チェルノブイリの事故が無かったら、どうなっていたかは分からない。最終的には「住民投票」で決まっただろうが、その前に断念したということだ。
 原発に限らずリスクについては語らない。それは自然エネルギーについても同じだ。わたしの実家の斜め向かいの山の頂上に風車が三基建っている。風力発電のためである。一度落雷で壊れたけれど、保険に入っていて修復された。わたしの実家とは距離があり実害はないけれど、この風車の常時発する唸りは神経を逆なでするもので、気が変になりそうだと聞いている。そんな弊害について風力発電の推進者の発言を聴いたことはない。また太陽光発電についても、そのコストや寿命について知らないし、エネルギー吸収率だってまだまだ低いと言われている。高知県は気候は温暖で、年間の日照率も高く、太陽エネルギーの利用に適した環境にある。一時、太陽光エネルギーを使った温水器が多くの家の屋根に取りつけられた。しかし、いまではその殆どが姿を消している。どうしてかといえば、風呂のお湯に主に活用していたらしいが、その温水器内部のパイプが水苔で詰まってしまい、故障が多く、長くは持たないことが分かったからだ。設置及び維持費用を考慮すると、止めた方が賢明という結論になったのだ。だから、現在の太陽光発電の設置の推奨だって怪しいものだ。便乗商売の謗りを免れる保証はないような気がする。人類はつねに途上にある。だから、そこから考えてゆくしかないのだ。
 ここで繰り返し言っておくと、福島第一原発の潰滅と放射能の汚染の責任は、〈東京電力〉とそれを推進してきた〈政府(国家)〉にある。それはどんな個人の言説にも〈かぶせる〉ことはできないものだ。

▼一月一〇日
 もうこの原稿は五〇枚近くになっているはずだ。今回は枚数よりも三五日という執筆期間で行きたいとおもう。完全に枚数オーバーするだろう。まあ、そういっても、今日から「資料集」の発送準備に入るから、この稿から離れることになる。
 発送準備は、封筒へのゴム印押し(裏書き)から始める。通常は角5封筒で一枚六円。今回は「快傑ハリマオ8」を同封するため角3封筒(七円)を使用する。次に、宛名のコピーしたものを貼る作業。手書きではなくコピーを貼っているのを嫌う人が意外に多いけれど、じぶんの場合、手書きだと書き損ない(脱字を含む)が多く、チェックが大変だ(コピーは、原版を一度ちゃんと校正すればいい)。また肩が凝り、疲れるのだ。これは労力から言っても、容赦してもらうしかないと思っている。宛名貼りが終ると、本体をガードするために、校正に使った紙を二枚重ねて折り、封筒の内側に入れる。むかしは荷物の扱いは乱暴だったので、中身が傷んでいる場合が多かった。今はかなり改善されたけれど。

▼一月一一日
 「資料集」の乱丁・落丁のチェック。発行を始めた最初の号(第一集)を点検せずに、封入して送ったところ、その中に一〇冊くらい落丁(白紙頁)があり、お詫びと同時に再発送することになった。それ以後、全冊チェックすることにしたのである。べつに職人技というわけではないが、偶数のノンブルだけを見てゆく。これは単調な作業のわりにきつい。途中でぼーっとしてしまい、落丁(頁の脱落)に気付かず見落とすケースもある。そして、なによりも目を使う作業が多いので疲れる。そのため肩凝りから頭痛に、頭痛になると、薬を飲んで寝るしかないのだ。その対処は、集中的にやらずに分散し、適度に休むことだ。それはどんな仕事でも言えるとおもう。「発送表」を作る。これは号毎に、別の「購読者一覧表」を見ながら作っている。わたしの経理処理法は、読者からの入金時に「金銭出納帳」に記帳し、「発送表」に書き込んで、それから「一覧表」に記入するという三段階の方式にしている。これだけやれば、間違いは回避できるはずなのだが、それでもミスがある。『試行』の経理事務を担当されていた吉本和子さんはカード式でやられていた。そして、その「発送表」を見ながら、予約切れや後払い用の振替用紙を作成する。しかし、前回はこれを間違って挿入してしまったのが幾つかあって、電話がかかってきたり、振替用紙で指摘してきた人もあった。少ない事務量なのに、こんな有様だから、おまえは適性を欠いているのさ、という陰の声が‥‥‥。

▼一月一二日
 「猫々だより」を作る。いつもは川村さんのところで、コピーさせてもらうのだが、今回はスーパーマーケットでやった。それに、寄稿の掲載は無しだ。コピーしてきたものを折って、チェック済みの「資料集」に挿入する。通常はこの作業は手間がかかるのだが、B5一枚なので一回折ればいいので楽勝だった。それが終わると、封入作業。それから、クロネコメール便の連番シール貼りとつづく。

▼一月一三日
 『吉本隆明資料集』第一一二集を直接購読者に発送。ところで、猫々堂主人(タマ)はどうしているかといえば、冬場はもっぱら温かいファン・ヒーターのそばやホットカーペットで寝ているのだ。そのくせ、夜になると、これが寂しいのか、わしら下人を起そうと、やたらに鳴いたり、ドアに突撃したり、俄然頑張るから堪らない。

▼一月一七日
 前に書いたように、朝起きると「資料集」の入力。妻が起きてくると、珈琲の豆を挽き、フレンチ・トーストを作り、食事。それからの時間は、その時々で違う。校正をやる時も、版下作りをやることも、外出(主に本屋と図書館)や雑用でつぶれることもある。今はこの原稿だ。それで、つづきを書こうと思ったが、「猫々だより」の寄稿の入力を優先することにした。これまでいろんなミスがあり、その度にひどく落ち込んだ(もう依頼は止めようと思ったこともある)。それをできるだけ回避するには、時間的な余裕を持っていることだ。

▼一月一九日
 昨日、県立図書館に出かけ、「大日本帝国憲法」と「窪川原発」について確認をしようと思い、資料を借りに行った。ところが、意外にも旧憲法も高知県の年表も無いのだ。こんな基礎的な資料が簡単に見つからないとは思ってもいなかった。高知県関係の本を片っ端からめくり、やっと『戦後五〇年・高知』(高知新聞社)という写真を中心とした本におおまかな年表があった。旧憲法の方も図書館の女性司書が検索してくれ、親切に次々と本を持ってきてくれたのだが、部分的な引用はあっても全文が掲載されたものはない。それで何冊も当った結果、『読本 憲法の一〇〇年』(作品社)の第一巻にあった。う?ん、そんなものなんだ。
 それから、インターネットの閲覧。京都の三月書房のホームページをメインに、そこからリンクできる「よしもとばなな」「隆明網」などを覗く。「ばなな日記」は一二月三一日をもって終了とのことだ。裏サイトが出来ていて、匿名のひどい書き込みがなされていると聞いていた。昔は陰口や悪口など、その身内で囁かれて消えるものだった。それが今や、消えずにネット上で「陰口同好会」「悪意同盟」として氾濫しているのだ。止めた方が賢明だとおもう。腐った連中はどこにでもいるが、そんなものの餌食になることはない。自分のことだって、ネット上に出ている。その殆どがろくに調べもせずに勝手に書き込んだ情報だ。わたしはそれを正す気などない。どんな風評が流布されようと関係ない。おれはおれ以上でも以下でもないからだ。

▼一月二〇日
 福島第一原発二号機の原子炉の内部を内視鏡で撮影した映像が初めて公開された。これで、やっと廃炉への〈端緒〉についたということだ。そういう段階にあるのだ。もし、原発事故がなかったら、人々は阪神大震災の時のように、地震の被害に打ちひしがれ、肉親や友人知人を失った悲しみを抱えながらも、復興に立ち上がっただろう。しかし、東日本大震災がなかなかそうならないのは、原発事故と放射能の汚染を伴っているからだ。「フクシマ」について、語りたい奴は語ればいい。うたいたい奴は歌えばいい。コメントしたい奴はすればいい。論じたい奴はおおいに論ずればいい。そうしてきたように。わたしは違う。否応なくかぶさってくる〈負債の影〉をふりはらおうとしただけだ。

   星より遠く

 旅の峠から見た沖は
 光の海だった

 会議室にはいると
 銭の話をとって来いと
 黒板に大書してある
 何も驚くことはない
 じつに 野卑な銀行らしい
 モニターにキャッチされてたって
 狙撃室があったって
 おれはびびりはしない
 椅子やテーブルを片づけ
 おれたちは床の洗滌にとりかかる
 つかつかとカウンターへ行き
 カッターナイフでも出して
 金を出せといわないかぎり
 無事なのだ
 下品なテレビ局から
 むなしくひかるブラウン管の画像まで
 裏も表もない
 ひとつのものなのだ
 役所は忙しいふりするのに忙しく
 係から係へたらいまわしにする
 みんな無事なのさ
 金持ちが傲慢で
 貧乏人はいつも物欲しげであるなら
 おれに金をまわしてくれ
 雨上りの夜空よ
 おれの旅よ
 ダンボールひとつあれば
 どこだって寝られるさ

    (『同行衆通信』四六号一九九〇年九月掲載)

▼一月二三日
 途中でパソコンのマウスが故障して苦戦したが、なんとか三五日目にやってきた。ここらで切り上げようとおもう。大江健三郎のご託宣と異なり、「核」や「原発」で人類が滅亡の淵に立つことなどない。そんなことは〈人類史〉を少し考えれば判ることであり、カール・マルクスの〈類〉と〈個〉の弁証法(個の死は類的に超克されるという)を想起すれば足りるとおもう。また、そんなことを憂いながら誰も生きてはいない。これはいわばセンスの問題だ。それは地震についても言える。NHKのローカルニュースは「南海地震ひとくちメモ」と称して、南海地震は近いうちに必ず起こるから、それに備えよ、と毎日のように警告している。そんな啓発もある程度は必要に違いない。しかし、そんなものに日々怯え、暮さなければならない謂れなどないのだ。その時じぶんが生きているかどうかも知れないというのに。こいつらの滑稽なところは、いま台風に見舞われて、雨戸を打ち、暴風雨が過ぎるのを待っている時でも、肝腎の台風情報はろくにやりもしないで、スタジオという密室から地震対策の出来合いの情報を流している。逆立ちもいいところだ。もっと言えば、高知県香美市の山野が一昼夜燃え続けたというのに、その火事の報道はしなかった。むろん、他局は現場から中継していた。初動の取材で出遅れたから無視することにしたのだろうが、自衛隊まで出動して消火に当っていたのだ。どこがこいつらのいう「公共放送」なのだ。過剰な煽動は、〈空虚〉を産出し、逆に〈病理現象〉に転化する可能性をもっていることを忘れるべきではない。天災(地震)も怖いが、共同幻想の侵蝕はもっと恐ろしいと言えるからだ。

▼一月二四日
 最後に、奇怪なことが発覚した。なんと昨年三月一一日の東日本大震災の当日の、政府の対策会議の議事録が一切無いことが判明したというのだ。日本は、一応〈法治国家〉だ。独裁支配でも、原始的な部族国家でもない。それなのに、あの大震災の対策会議の記録が全く残されていないなんて、そんなことが許されるはずがない。完全な証拠隠滅と言っていい。こんなことが罷り通るなら、それこそ未開への逆行なのだ。たとえ空疎な公式文書であっても、その事態について、誰がどう発言し、そのやりとりの結果、どういう対策を採ることに決定したかというのは、記録されて当然である。これは国政(に限らず物事を)を執行する際の前提である(町内会でもそうしているのだ)。これは明らかな菅民主党政権のルール破りなのだ。どこも追及することなく、忘れ物の一つのように忘却されるだろうが、これはほんとうは看過されてはならない。共同性の根幹に関わるからだ。
 どうして、わたしなどがこんなことを言わなければならないのか。だんだん自棄な気分になってきた。「正論」なんかくそくらえがおれの流儀で、「読み捨て」こそふさわしいと思っているというのに‥‥‥。


     8 芹沢俊介批判、その他  [二〇一二年一一月]

▼八月七日
 暑い。暑いので『快傑ハリマオ』の原稿に取りかかる気がしない。七月一九日に第九号の発送が終わった。その段階で書きだすつもりだったのが、もう半月は放置したことになる。
 ロンドン・オリンピックの観戦に明け暮れている。柔道は駄目だと思っていたが予想通りだった。松本薫が金メダルを獲った。松本以外にやりそうな者はいなかった。だいたい、日本柔道の体質が悪い。代表を決定するのに、協会の意向が優先していて、代表選考が不透明だ。前回北京オリンピックでも、代表決定戦というべき体重別選手権で、四八キロ級では谷亮子に福見友子が勝ったのに、谷を代表にした。また松本薫も勝ったのに北京には出れなかった。こんなことをやっているから、凋落の一途をたどることになるのだ。選考会で勝った者を代表として、それでオリンピックの大会で負けようと、それは仕方のないことだ。ついでにいえば、政治的意向で武道を中学校の必修課目としたのは度し難い時代錯誤だ。柔道や相撲などを必修にする必要などどこにもない。各人の希望による任意のクラブ活動でじゅうぶんなはずだ。
 その正反対が競泳だった。その活躍は目覚ましいものがあった。選考だって透明なもので、その種目で第一位になっても、派遣標準記録に届かなければ、それで落選とした。これは一見厳しいように見えるが、それが世界レベルに対抗していく根本的な姿勢を形成したのだ。選手一人ひとりも納得のうえでチャレンジしている、開かれた方針である。その方針が開花した典型が平泳ぎの鈴木聡美だった。一〇〇メートルの決勝で端の第八コースだったので、レースの展開を知ることはできないから、自分の泳ぎに徹したとのことだ。それで三位になった。これで勢いをつけて二〇〇でも第二位にくいこんだ。
 わたしはスポーツ音痴なのだが、スポーツの観戦は好きである。そんなわたしからすれば、メダルがどうだなんて関係ない。たとえ予選落ちであっても、自己のベストを出せれば、それでいいと思っている。それは言語表現でも変わらないとおもう。

▼九月一五日
 まあ、なんと言うか、この原稿に手をつけることができず、さらに一月以上が過ぎてしまった。根石さんには、わたしの寄稿を前提とした『快傑ハリマオ』の発行は第一〇号で一区切りにしましょう、と提案した。それで、気が弛んだわけではないが、いろんなことがどっと被さってきて、追われていたのである。

▼九月一六日
 三月一六日に吉本隆明さんが逝去された。それを機に痩せたこともあるが、それよりも、四十年以上追っ掛けをやってきたのに、その死を境に、その後、出された本が読めなくなった。亡くなってから半年が経過したことになるけれど、石川九楊との『書 文字 アジア』や茂木健一郎との『「すべてを引き受ける」という思想』なども、まだ読んでいない。この状態はしばらく続くかもしれない。
 いろんな追悼特集が出た。それらを読むことが精神衛生上良くない。頭で考えるよりも胃で考えるタイプなのか、胃の腑に来るのだ。これを解消するには片っ端から叩くしかないと思ったこともある。しかし、そんなことをやっても徒労だ。死者を悼む気持ちすら喪失したような、恥知らずな連中を相手にしても仕方がないからだ。別に憧れていたわけではないけれど、若い頃は、出版界や知的世界の住人は、頭が良くて、人柄も上等で、立派な人たちの世界となんとなく思っていた。ところが、実際にその世界と接すると、じぶんらのいる俗世間よりも遥かに下品で、人格崩壊と擦れっからしが生息する、嘘つきで狡い、どうしようもない荒んだ世界だと分かってきた。インテリも文人も辣腕編集者もヘチマもない。手前味噌な、人として信頼できない奴らの横行する業界なのだ(どこでも例外的な存在はいるとしても)。それは左翼商売の連中も同じだ。政治的思い上がりと、それと比例するように他人の懐を当てにしたような、商業主義以前のゆすりとたかりの世界なのだ。おまえら俗人も五十歩百歩だろうと言われたら、そうさ、その通りさ。ただ、あなたがたのように、じぶんを〈偉い〉と思っていないだけさ、と応ずるだろう。

▼九月一七日
  大地震に関連して意義のあるのは、地球の地震に関連する事態であり、吉本隆明はこの問題の発生以来その根本意義に触れてきた。この度その人を欠くことはその大切を欠如することにおいて大損失である・語の本義におけるグローバリゼーションの欠除である。
    (大西巨人「吉本隆明の死に関連して」『文藝別冊 さよなら吉本隆明』)

 この大西巨人の発言は数少ない芯の通ったものである。この本質的な指摘を無視した、吉本隆明の「反原発」批判の発言に対する非難は無効なのだ。思想は真理を志向することによって〈本源的〉であり、時代の限界を突破しようとすることにおいて〈現在的〉なのだ。

▼九月一九日
 『快傑ハリマオ』第九号のわたしの発言を補足しておきたい。現在、政治的な表面で騒がれているのは、右の旦那衆は「領土」問題、左の旦那衆は「反原発」である。東日本大震災の被災から回復もしていないのに、また福島第一原発の壊滅事故の収束もできないこの時期に、さしあたってどうでもいい「領土」の問題で波風を立てて、なんの益があるのだろう。石原都知事の盲目的なナショナリズムと政治的パフォーマンスに引きずられて、無能な野田政府がその動向に乗せられただけである。昔、韓国の大統領が言ったように、あんな島なんか無くせばいいという発言が皮肉な響きをもって甦ってくる。つまり、島にミサイルを何発かぶち込めば、海面に顔を出した岩礁(島)は消滅してしまうだろう。そうなれば、残るのは海である。それでも、海底資源や漁業権などの問題はあるだろうが。
 一方、原発について、核問題と直結させた形で、「核兵器廃絶」はどうなるのかという人がいた。そんなことは自分で考えればいいことなのだが、アメリカとロシアが大量の核兵器を保有し、フランスや中国などがそれにつづき、北朝鮮やイランが核開発を進め、核兵器保有国となろうとして、国際問題となっている。では、どうして核兵器を必要としているのか、それを考えれば、おのずと問題の本質は見えてくるはずだ。世界に対して武装力を誇示して覇権をなすというのが、核兵器保有の国家的戦略とその根拠である。この国家利害(エゴ)と原発は明らかに位相が違う。大きなリスクが伴うとはいえ、原発は基本的にエネルギー問題なのだ。それを短絡させることはできないはずだ。
 勿論、わたしはこんな考えが現状で通じるとは思っていない、国家という宗教の支配は根強く、わたしたちを呪縛している。中国の反日デモが愚劣なら、日本政府の国有化の処置も愚劣である。原発と核兵器を短絡させることも錯誤である。しかし、それを事態の渦中に飛び込んで、説得することは不可能にちかい。それだけのリアリティを持っているからだ。
 「民族国家」の基盤が強固であるように、原発全廃絶を唱えるほど福島第一原発の被害は深刻なのだ。しかし、そんな現状のなかにあっても、大江健三郎みたいに電力なんてどうでもいいなどと言い出すと話は別である。さらに、洗濯機で便利になったことを批判する退行主義まで登場している。この観念主義者どもは、そう主張するなら、じぶんたちが率先して、電気を使わず、洗濯機に頼らず、手洗いで洗濯するがいい。誰も止めはしない。三日坊主で終わることは請け合いだとしても。こう発言したからといって、原発推進派でも、政府のエネルギー政策を支持していることにも、東京電力を擁護していることにもならない。また、領土問題なんてくだらないと言ったからといって、じぶんたちの生きている列島の風土をどうでもいいと思っていることにも、その歴史と習俗を尊重しないことにもならない。その〈差異〉こそが大切ではないのか。

▼九月二〇日
    秋に寄せて

  秋は収穫の季節です。私の幼い頃には、お月見の日、山から青いすすきを採ってきて、縁側に祀り、団子やさつまいもや黍を供えました。そのあと、食べるのです。芋はまだ若くて、ほんとうは水っぽくてそんなにおいしくないのですが、甘いものがご馳走だと思っていましたから、とても楽しみにしていました。いまでは、そんな生活の習俗も、なつかしい思い出になってしまいました。
  毎年、山梨と長野の友人が葡萄を贈ってくれます。私の育った高知県の山間地では、葡萄も林檎も、馴染のないものでした。やっぱり気候や風土の関係でしょう。そして、地元では取れないものに、ひ とは憧れるのかもしれません。秋田の友人は、憧れの果物は蜜柑だと言いました。北の方では蜜柑は穫れなかったからです。その反対で、高知県でいちばん好まれた果物は、林檎だったように思います。
  葡萄を初めて食べたのは、いつだったのか、覚えていません。野葡萄や野性の梨は自生していましたので、食べたことがあります。でも、梨は石のように固くて、これは敬遠するしかありませんでした。[たぶん洋梨だったのでしょう。食べ方をしらなかったのです。]それで、いちばん馴染の深い果物は、柿ということになりそうです。私の姉の話では、子守りの姉たちが近所の渋柿の熟したのを、持ち主に無断で取って食べていたら、その家のおじいさんに見つかって、おじいさんは「おまえらが黙って取るのなら、木を伐る」と言ったそうです。姉たちは泣きながら謝ったそうです。かく言う私も冒険心も交えて、柿泥棒をやりました。それで事が露見して叱られました。でも、そんな体験から世の中の仕組みやルールを学んだような気がします。そんな経験がいい方向へ生かされるなら、そういう悪戯も、一概に悪いとは言えないのではないでしょうか。
  私は物事を知らない人間です。つい最近まで、芭蕉とバナナは同じだと思っていました。芭蕉は、村の水の湧く場所に植えてありました。実がなったことはありません。花が咲き、実が出来始める頃には、秋になってしまい、熟れるどころか、形をなさないのだと思っていたのです。芭蕉とバナナとは、同じバショウ科の多年草ですが、どうも種類が違うようです。それにしても、どうして芭蕉を植えたのでしょうか。芭蕉の葉を何かに使っていたのかもしれないとか、また水辺に芭蕉を植える習俗があり、芭蕉の大きな葉で井泉を守護する信仰があったのかも知れない、などと思いを巡らしています。こんな推測や空想も悪くありません。狭い日本列島でも地域の気候や風土で、作物や生活の様相は異なっています。これは考えると愉快なことですし、また好奇心を誘うように思います。
  柳田国男に『明治大正史 世相篇』という著書があります。日本の古い習俗と新たな時代の開化が軋んだり交響したりする、人々の暮らしの変遷と、叡智や迷蒙、変わらない心の姿が捉えられた名著です。いまからみれば、その時代はのどかな時間の流れる世界に見えますが、当時は凄まじい変貌だったに違いありません。たぶん、現在の高度に発達した社会の急激な変容に劣らないような。
  こんな思い出がじぶんにとって救いのひとつであるように、過去(歴史)を振り返ることも、明日の示唆へつながっていると思うのです。

   (『高知新聞』二〇〇九年)

▼九月二一日
 三番目の兄が癌で入院していて、先日三度目の手術を受けた。その夜、病室に付添いで泊まった。病院は厭だ。ほとんど眠れず、病院を抜け出して、朝靄のなか国分川の河べりを歩いた。病院の敷地内は全面禁煙なので、煙草を吸いに行ったのである。こんな時間には誰もいないだろうと、思っていたら、ジョギングをしている人や東南アジア出身とおぼしき女性がケイタイで写真を撮っていた。ここは長宗我部の居城だった岡豊城址の麓だ。岡豊平野の彼方に太陽が昇りはじめていた。朝日のなか、七人きょうだいのうち、三人がすでに死んだ。二人は癌の治療を受けている。次はおれの番かもしれない‥‥‥。そんな暗い想念を振り払い、おおきく深呼吸して、病院へ戻ることにした。

▼九月二四日
 石関善治郎さんが『吉本隆明の帰郷』という本を贈ってくれた。吉本家の出自である天草を訪ね、家業の実態を掘り起こし、また、吉本隆明が徴用動員で赴き、その地で敗戦を迎えた富山県の魚津を調査し跡付けている。さらに、そこから吉本隆明にとってかけがえない編集者であった岩淵五郎について、これまで知られなかった来歴をたどったものだ。その岩淵五郎の取材過程で、思いがけず高野慎三さんが登場していた。わたしは中学の頃から『ガロ』を購読していた。高野さんはその編集者だった。高野さんのやったことはたくさんあるけれど、わたしにとっていちばん大きかったのは、つげ義春さんがつぎつぎと代表作を『ガロ』に発表したのだけれど、その担当の高野さんは『つげ義春特集』の増刊号を編集し発行した。その際、「作品リスト」も掲載したのである。人文関係に通じていれば、そんなことはなにも珍しいことではないだろうが、ただのマンガ好きにとっては画期的にみえた。つまり、つげ義春の旧作を掘り起こし、「作品リスト」を作り、やがて、それが『つげ義春初期短篇集』や『つげ義春選集』に結実していった。
 その高野さんの姿勢が、わたしの『吉本隆明資料集』の自家発行の源流となっているといえる。高野さんは決して作家の前に出ない人である。つまり、つげ義春さんならつげさんをさしおいて、じぶんが主役のように振る舞うことはない。いまでこそマンガは巨大産業となっているけれど、その頃は駄菓子同然だった。そんなものを大切に思い、漫画家を尊重し、その漫画家の過去の作品を集めて、作品集を作ることなど誰も考えもしない時代の先駆的な仕事だったのである。もちろん、マンガが売れる、儲かると見越して、新書判のコミック本が登場したこともあるし、貸本時代からの延長ともいえるだろうが、深い志を秘めていたのだ。その意義は、手塚治虫や夏目房之介や四方田犬彦からはみえないものだ。
 わたしにとって高野さんは最初に原稿依頼してくれ、その未熟な評論(?)を『夜行』というマンガ誌に掲載してくれた、かけがえのない人である。わたしは、じぶんはそういうことを大切にする以外なにも無いとおもっている。

▼九月二五日
  平重盛の次男、三位中将資盛が、若い侍を三十騎ほど従えて、蓮台野や紫野や右近馬場で、終日鷹狩りをやっての帰り、大炊御門のところで摂政藤原基房の参内に出あった。位階制のうえからは、馬から下りてひかえるべきはずなのに、資盛一統はその鼻さきをつっ切ってゆこうとして、基房の従者に馬から引下ろされて、散々に悪口雑言を浴せかけられた。
  資盛は、六波羅に帰って祖父、清盛に訴えたところ、清盛は怒って「たとえ摂政基房であっても、この清盛に遠慮があってよいはずなのに、少しも顧慮なく若い資盛たちに耻辱をあたえたことは、遺恨である。こういうことから、人にあなどられることになるのだ。これは摂政基房に思い知らせないではおさまらない。如何ようにもして恨みを晴さないではおかない」と云った。ところが、父の重盛は「これは少しも文句いうべき筋合いではない。頼政、光基のような源氏のやからから嘲けられたのならば、まことに一門の耻辱でもあろう。重盛の子どもともあろうものが、摂政殿下の御出に出あって、乗物から下りなかったことこそ、かえすがえす無態なことだ」と云った。だが、清盛はおさまらなかったのである。重盛には内証で、難波経遠や瀬尾兼康ら「片田舎の侍」を六十騎ほど呼び寄せて「来る二十一日には、摂政殿下の御出があるはずである。どこでもよいから待ち受けて、前駆随身の従者たちの髻(もとどり)を切って、資盛の耻をすすげ」と云いつけて、その通りに実行させた。重盛はそれをきいて、出向いた侍たちを皆勘当し「たとえ父の清盛入道がどんな不可解なことを下知したとしても、どうして重盛に少しも知らせなかったのだ。もともと怪しからぬのは資盛である。栴檀は二葉より香しとはこのことだ。すでに十二、三にもなろうという者が、礼儀をわきまえて振舞うべきなのに、かような無態なことを仕出かして父清盛入道の悪名をたてることになった。不孝のいわれは、お前一人のせいである。」と叱って、しばらく伊勢の国へ追いやった。
  『平家』の作者(たち)は、この出来ごとを、礼儀をわきまえない「片田舎の侍」のせいにし、平家専横のあらわれとしてしまっている。『玉葉』(巻五ー嘉応二年十月廿一日)は、摂政基房が参内の途中、大炊御門堀河辺で、「武勇者」多数が出てきて前駆たちをことごとく馬から引落したので、摂政は参内せず「御元服(高倉天皇ム註)議定」が日延べになったことを記し、「神心不覚」で、「ただ恨む五濁の世に生れたるを。悲しいかな、悲しいかな」と述べている。『愚管抄』(巻五)は、関白基房が参内の道で、武士たちに待ち伏せされ、前駆の髪を切られたことを記し、「さる不思議有しかど世に沙汰もなし」と述べ、この「不思議」が「この後の事どもの始」になった、いいかえれば、武門専断の前兆になったと述べている。
  これらの見解は、いずれにせよ貴族的な感性と立場から出されている。もともと武門が、朝敵を平らげたとしても、その勧賞はせいぜい受領に任じ、昇殿をゆるされるくらいであったのに、清盛(に象徴される)武門が、心のままに振舞うようになったのは末世の兆候で、五法が尽きたのだという観点からの事件の判断は、『平家』や『玉葉』や『愚管抄』の云い方が限度だったのである。
  しかし、清盛に象徴されるような「耻辱」をうけたときには、いかにもしてその遺恨をそそぐという仕方は、じつは、まったくあたらしい武門の倫理が記述された歴史に登場したことを意味した。清盛のかんがえ方は、武門の倫理と論理からは、ごく普通のもので、これを「不思議」とか「末世」のあらわれとみる方が、おかしかったのである。また、重盛がいうように、頼政や光基のような源氏の同族から嘲られたのなら、一門の「耻辱」として許し難いという見解もまた、新しい倫理観のあらわれであった。けっして無作法な「片田舎の侍」の倫理として片づけられるものではなかったのである。
  『平家』のこの挿話を、父清盛と子重盛との見解が対立したものとしてみれば、清盛は武門の倫理と感性の象徴であり、重盛は、貴族層の倫理と感性に同和した武門の象徴ということになろう。
  清盛からみれば重盛は、貴族かぶれした息子であり、重盛からみれば清盛は地方武門層にしか通用しない未開の感性と倫理の残滓をひきずったまま、中央に専断を押しとおしているものとおもわれたことになる。けれど、もっとつっ込んでゆけば、清盛も重盛もともに貴族的な感性に馴致した武門にすぎなかった、とも云える。これは、『平家』のなかでは、わがまま勝手を押し通す清盛が、いつも重盛に戒められてじぶんの無謀な振舞いを引っこめるところによく象徴されている。

    (吉本隆明『西行』初出)

 この「殿下乗合」の場面が、NHKの『平清盛』で放映された。ドラマでは当然設定が違っている。平家の勢力拡大と増長を心良く思っていない藤原基房はいつか思い知らせてやろうと機会を窺っていた。それが「殿下乗合」で噴出したことになっていた。この仕打ちに対して、重盛が非は資盛にあり、なんら文句を言う筋合はないとした。この対処に平家郎党はもとより、当の資盛も不満をもつ。確かに宮廷内の秩序からいえば、重盛の論理は正論である。しかし、福原に拠点を移していた清盛は郎党に下知して、隠密に基房を襲わせ報復を遂げる。これは重盛の預かり知らぬことであった。遺恨を晴らしたことで、平家一門は喜び、資盛も救われる。そして、重盛が出仕すると、宮廷の者は恐れをなし、どん引きになるというものだった。どんな情況においても、正論がいいとは限らない。これを黙認したとすれば、藤原氏は図に乗ってくるだろうし、一門内部の亀裂は深まっていくことは確実だ。たとえ蛮行であろうと、現実的な突破を必要とする場面はあるのだ。それが正論を越えた情況的根拠である。しかし、それが無法であることは間違いないし、暗黒の専横(恐怖)を生むことも否めない。それが合法と非合法の相克に横たわる問題だ。だからこそ、権力内部の勢力争いなど根底から否認されるべきなのだ。
 それにしても、天皇家なんてものも所詮、京都の近辺で、宮廷の側近を巻き込んで権力をめぐって骨肉の争いに明け暮れているだけである。そして、列島の各地でもそれに類似した勢力争いを繰り広げていたのだろう。しかし、観念的収奪と寡占的な文化の有り様が〈アジア的専制〉をなし、いまだにその優位性を誇っている。草深き人々の暮らしはその背後に埋没しているのだ。それを歴史に奪回することこそが支配の解体の方向なのだ。

▼九月二七日
 テレビのドラマはロンドン・オリンピックを見越して、力を入れたものを作っても相手にされないと判断したのか、手抜きで見るものはなかった。いま、見ているのは「つるかめ助産院」である。重い過去を背負っていたり、怪しい振舞いの人物が登場して、これが南の島という設定ではなくて、都市の片隅であったら、おそらく見るに耐えないものになっていただろう。明るい島の風景とのどかな習俗に救済されて、深刻で暗い設定が緩和されることになっている。たとえば想像妊娠を繰り返す女性がいて、その奇行に助産婦をはじめ島のひとびとが付き添う。これが都市の病院だったら、そんな病的な存在に付き合う余裕などなく、ただちに精神科へ廻すことになるだろう。単調な島の暮らしはそこではのびやかな許容の力となるのだ。社会の発展は不可避なのだが、それが果たして幸福なことなのか、あるいは不幸な事態なのかは測りがたいというべきかもしれない。

▼九月二八日
 猫々堂主人(タマ)は、だいぶ涼しくなったので、陽の当たる場所で日向ぼっこをしている。暑いときは隣の室外機の上が風が抜けるので涼しいからか、そこで寝ていることもあったが、いまは暖かい場所を求めるようになった。初夏の生まれのせいか、寒がりなのである。入力で疲れて横になり、うとうとしていると、いつの間にかすぐ傍で一緒に寝ている。結構鼾がやかましいので、目が醒めることもある。猫はいい。

▼九月二九日
 近年プロ野球に対する関心が薄れてしまった。イチローは言うに及ばず、松坂、黒田、ダルビッシュなどめぼしい選手が大リーグに抜けてしまい、なんか日本マイナーリーグという感じになってしまった。相変わらず傲慢な読売も厭だが、他球団も身を入れて応援する気がしない。子供の頃、雑音まじりのラジオ放送にかじりついていた時がもっともプロ野球中継に熱中していたとおもう。その頃は、もちろん打撃戦の方がおもしろかった。いまは投手戦だ。

▼一〇月二日
 『吉本隆明資料集一一九』発送。これで本腰を入れてこの原稿に取り組むことができると思っていたら、朝から頭が痛い。頭痛薬を飲んだが治らない。疲れが蓄積しているのだ。これは諦めて寝るしかないようだ。

▼一〇月三日
 今日も頭痛がする。このままいけば、「読捨」日録ではなく、「垂れ流し」日録になりそうだ。

▼一〇月四日
 我、実ヲ生キルコトヲモットモ尊シトス。シカレドモ、不幸ニシテ実ヲ生キルコトヨリ毀レル者アリ。ソノ者ハ虚ヲ生キザルヲ得ズ。ソノ悲劇ニ文学ノ根アリ。ソノ悲劇ハ日常性ヲ超越スル部分ヲ必ズ含ム。ソレガ不可避ノ道デアロウ。ソレニモカカワラズ、ソレハ生活ノ基層ニ絶エズ回帰スル。ソコガ価値ノ源泉ダカラダ。「蟹ノ泡」トハ長谷川博之君ノ名言ダガ、虚ト実ノ狭間、アルイハソノ振幅ニ毀レタル者ノ場所ハ存ス。北村透谷。(←嘘です)

▼一〇月五日
 わたしが初めて、吉本隆明さんを訪ねたのは、一九八四年九月九日だった。用向きは何だったかというと、吉本さんが高知市夏季大学の講師として、一九八〇年八月に来高された。その時、わたしたちは吉本さんを囲む会を開いた。その模様と講演のテープ起こしをやり、それを記録集にしようと計画した。その許可を得て、東京在住のそのときのメンバーに連絡実務を託した。ところが、その過程で暗礁にのりあげてしまったのである。ふつうなら、この段階で諦めるべきなのだが、わたしとしては、じぶん一人が手がけたものなら、断念しただろうけれど、手分けして何人かでテープを起した関係もあって、その人たちの労をおもうと、途中で放棄することができなかったのである。それでとうとう上京することにしたのだ。
 結局、どうなったかというと、囲む会の記録は松岡の文責ということで、じぶんたちが発行していた『同行衆通信』に掲載することになり、講演はじぶんたちが主催したわけでもないので、見送ることになった。

    ずっしりと重い、大切なインタビュー集の第二冊目ができあがった。通しで讀みながら、言いまわしをできるだけ易しく、繰り返しを削り、そして要旨をかえないという作業をやった。なかなかたいへんな作業で、その度に過去のじぶんの話し言葉の重さに、精神が沈められるような気がした。終了したときには思わず大きな息を吸いこんで、何か大仕事でもしたような解放感を味わった。讀者もきっとそんな言葉の体験をして下さるとおもう。もし「選択」という操作と「順序」という操作が芸術行為に入るとしたら(もちろんわたしの『言語にとって美とはなにか』ではそうなっている)このインタビュー集もまた、松岡祥男氏の芸術行為をたどっていることを意味している。そんな気分をじしんの過去の話し言葉から感得した。讀者諸氏におかれてもまた。
    (吉本隆明『思想の基準をめぐって』あとがき)

 まあ、なにも分かっていなかったということだ。誰も主観的な急き込みを免れない。夢中で書きあげたじぶんの作品を尊敬する他者に認めてほしいという思いは強烈に内在するものだ。それで厚かましくも送りつけたりする。そこまではまだいいかもしれないが、さらに、送って届いたか、届いても幾日もしないうちに、読んでくれましたか? と催促のようなことまでやってしまうのだ。他者の〈日常〉やその〈生活〉に対する考慮などありはしないのである。
 こんなことはありふれていて、べつに驚くことに属さないだろう。誰でもそういうことをやり、また煩わされているからだ。けれど、そういうことを通じて、〈他者の影〉が表現の内部に繰り込まれることは決定的な何かなのだ。そこから、徒労のような持続が始まるのではないだろうか。この自覚はわたしにとって〈貴重〉だった。それは吉本さんを囲む会をもったことが大きな飛躍の契機となったことと同じである。それまでも、鎌倉さんの主宰する雑誌の発行に力を注いでいた。でも、どこかにそれで自足するところがあったような気がする。誰だってじぶんのことはじぶんがいちばん分かっていると思っている。だが、こんどはじぶんが他者にどう映っているかとなると、確かな自己像を得ることはとても難しい。その〈空隙〉にこそ、表現という行為は位置するのではないのか。
 わたしは、吉本さんのことをそんなに知っているわけでも、まして吉本思想の良き理解者と思ったことなど一度もない。ただ読者として持続的に読んできただけである。「インタビュー集成」の編集にしても、生活的な困窮を察した深夜叢書社の齋藤愼爾さんが助け舟として計らってくれたものだ。

▼一〇月六日
 橋爪 いろんな言いかたができるわけだけど、核戦争に比べれば原発事故はずっとましだ、と言えば言えるはずです。でも聞いたことがない。なぜみんなそう考えないかと、私はある意味で思う。福島第一原発の事故はもうちょっと頭が良ければ防げた事故です。それから幸いなことに非常にローカルで、幸いなことに人口希薄地帯で、日本がそれでだめになるわけでもない。逆に良かったと思うべきではないか、と。今後は、似た事故が起こらないように、もうちょっと慎重になるからノノこういう言いかたはおかしいですか(笑)。
 瀬尾 おかしくはない。ただ非難がごうごうと押し寄せる。
 橋爪 私がそう言っているわけではないよ。そう言うひとがいるはずだと思うが、聞いたことがないと言いたいわけ。

 (橋爪大三郎・瀬尾育生・水無田気流「羊は反対側に走っていく」『現代詩手帖』二〇一二年五月号)

 この橋爪の発言は、保守派に共通した本音だ。また機能主義者である橋爪らしい言い草だとおもう。ちゃんと逃げ口上を付け加えるところも。自ら批判の矢面に立つ気などないのだ。この姿勢が、橋爪の思想を中途半端にしている。べつにわたしは被災者になりかわるつもりもないし、またそれを代弁できるはずもない。ただ「ローカル」だの「人口希薄」だの「日本」は無事だの、今後の教訓になるだのと聞くと、事態を傍観しているだけのようにみえる。そうさ、そんなことで残念ながら日本資本主義は潰れはしないし、電力会社が方向転換を図ることもない。しかし、現にそこでの生活を放棄し、避難を余儀なくされた人々はいるのだ。それがその人の生涯曲線のどこに位置するかは個別的だとしても、それぞれにとって決定的な重大事であることは疑いないはずだ。その生きた〈他者の影〉がそれこそ希薄なのだ。つまり、思考の上昇と下降という振幅が少なく、安全地帯からの見解でしかないのである。
 一方、事態を良心的に憂慮する進歩人士は、被災の現実を早々に「フクシマ」などと象徴化し、それを政治的利害や反原発イデオロギーで染め上げ、団塊の世代あたりは青春が戻ってきたがごとく浮かれている始末だ。それはめでたいことかもしれないので好きにすればいいが、マルクス主義経済学が産業経済の現状にイデオロギーを接木するように、主観的な方向づけをするから、その言説は著しく〈客観性〉を失い、倫理的様相を帯びて、殆どデマゴギーと変らないようなところまで転落している。
 野田政権は原発を近い将来ゼロにすると言いながら、一方では着手している新たな原発の建設は押し進めると言明した。言っていることも、やっていることも、矛盾だらけでその場凌ぎのご都合主義でしかない。この混迷の情況に対峙するには「非難がごうごうと押し寄せ」ようが、言いたいことははっきり言うべきなのだ。そこからしか展望は開けないことは自明だ。橋爪も瀬尾も、吉本隆明を尊重するというのなら、その態度を見倣うがいい。
 不毛な空騒ぎをよそに、セシウムの吸収率九九パーセントの技術も開発されようとしている。物理的な事態は物理科学によって克服していくしかないというのが科学的真理ではないのか。その過程には倫理意識が介入する余地などないのだ。深刻な汚染という事態を前に、これをなんとか技術的に解消しようと科学的な研究を進めるところに人類の叡知と良心があるというべきなのだ。

▼一〇月八日
 じぶんたちの雑誌の同行者を別にすると、わたしの拙い詩を最初に認めてくれたのが吉本隆明さんだった。さらに、吉本さんはわたしたちの発行している『同行衆通信』の広告を、無料で『試行』に毎号のように掲載してくれたのである。それもあって、未知の人が読者になってくれはじめた。一般に女の子がきれいになるのは他人の視線を浴びることによる面が大きいとおもう。それと同じように書くことも他者に読まれることが、その質的な向上に寄与する。それで情況論みたいなものもだんだん書けるようになっていったのである。だいたい、わたしはアジビラを作ることが目的で文章を書く破目になったのがそもそもの始まりである。それが思わぬ形で深みにはまっていったのだ。表現は持続性をその生命としている。それ以外にどんな秘訣もない。
 そんなある時、川上春雄さんから来信があって、川上さんが吉本さんのところに伺った際、同席していた某出版社の社主に、吉本さんがしきりにわたしのことを推奨していたと書かれていた。驚いたけれど、そんなことは夢のまた夢で、じぶんにとっては現実味に欠けるので、あまりピンとこなかった。
 ところが、そんな吉本さんの薦めに動かされた人がいたのである。それが『意識としてのアジア』の出版の真相なのだ。わたしはどんなことがあっても、その吉本さんの厚意を決して忘れることはないだろう。

▼一〇月九日
  原発事故によって私たちは、どんな事態をむかえているのか、その深刻さという点についてそれを適切かつ的確に説明できる言葉を見つけなければ、今起きていることのほんとうの意味はつかめそうにない。そんな焦燥感にとらえられているとき、想起したのが「絶滅の脅威」という言葉であった。この言葉を介したとき、福島第一原発の事故がもたらした不安と恐怖の実質がみえてくる。原発事故によって私たちがみまわれている状況は、絶滅の脅威という言葉が適切な、それほどおそるべき事態なのである。
  そして、絶滅の脅威という視点にたつとき、この原発事故がおよぼした脅威は、いのちの存続というテーマからして、福島という一地域の問題なのではなく、日本国内だけの問題でもなく、世界的な問題であることがみえてくる。同時にこの見方に出合って、世界に原子力発電所(や核兵器)があるという事実に対し、私が感受していた脅えがいのちの存続というレベルのものであるということにくっきりと照明があてられるように思えた。原発があるということは、絶滅の脅威という外傷体験の深刻さにおいては地域性を超えている、どこにあっても等価であるということ。これを根本から和らげる手段は、技術のレベルでは不可能である。原発の破棄へ向けての果敢な政治的な決断だけである。原発を容認しておいて、いのちへの愛を語ることは根本的な欺瞞である。

    (芹沢俊介『家族という意志』)

 まあ、なんというか、呆れるほかない。原発や核兵器があるということが、「絶滅の脅威」というならば、わたしが生まれた時には、すでにアメリカによって広島と長崎に原爆が投下されていて、核兵器が保有されていたから、わたしはその「絶滅の脅威」の下に置かれていたということになる。なにも今度の福島第一原発の潰滅事故に始まったことではない。だが、わたし自身はそんな「脅威」は日常のうちに紛れ込んでいて、殆ど意識することはない。また、そんなことに責任など持ちようもない。なぜなら、それを所有しているのは、軍事力を世界に誇る大国であり、それを使用する権限を持っているのはその国の政治支配者である。それを否認する意志はあっても、それを実現することは、〈国家止揚〉という究極の理想に到達する以外にあり得ないのだ。昔、鮎川信夫が言った名言にならえば、ナイーブとは馬鹿の謂いである。
 ところが、芹沢俊介の倫理的な倒錯は「原発を容認しておいて、いのちへの愛を語ることは根本的な欺瞞である」という正気とは思えないようなところに行き着いている。こんなファッショ的な言説を誰が許容できるというのだ。こんなことを本気で言っているのなら、芹沢は真っ先に政府や東京電力に対して突撃するがいい。そうでなければ、こんな言説は逆立ちした〈倫理的脅迫〉にすぎないのだ。それこそ真っ先に打ち砕かれるべき欺瞞的態度なのだ。
 だいたい、芹沢俊介の「いのち」という言葉は、水戸黄門の印籠みたいな表徽で、なんら内在的な〈実質〉も〈リアリティ〉も持っていない。そんなことは、少し想像力を働かせば分かることだ。たとえば、パレスチナに生まれた子供がイスラエルとの戦いで、親や兄弟を失っていたとしたら、じぶんが大きくなったら必ずイスラエルに報復してやると念じているだろう。また卑近な自分の経験でいえば、中学の時、同じ集落の年上の社会人の男にいじめられ、懸崖に追いつめられた。わたしはこの男を殺そうと鎌を持って走ったことがある。それが〈いのちのリアリティ〉だとわたしならおもう。むろん、こんなろくでもない事例に拠らずとも、初めてのデートのとき、彼女と手をつなぎたいのに、それができなくて、黙って歩いていた時の気持ちひとつとっても、いのちは輝いていたのだ。「原発を容認しておいて、いのちへの愛を語ることは根本的な欺瞞である」もへちまもない。こんな御託が通じるとしたら、大江健三郎「反核」教祖の〈病的〉界隈や『清貧の思想』の〈戯言〉の世界のほかにはないのだ。なぜなら、この日本で電気を使わずに生活している人間など一人もいないはずだからだ。
 東日本大震災の時、散らばった本の中でヤスパースの本を手にしたというのが、事実であろうと、この岩波新書のための書き割りであろうと、そんなことはどちらでも同じである。しかし、ヤスパースの言説は少しも真理でも上等でもない。ヒトラー・ドイツを断罪することはいいが、その国家的戦争行為の歴史性をなんら根底的に批判し得ていないからだ。道義的断罪にすぎないのだ。そんなものが歴史の動向と現状に通用するはずがない。芹沢がヤスパースに依拠するというのなら、太平洋戦争における天皇の戦争責任をぬきに、ヒットラー・ドイツを名目上の標的に「原発事故」と短絡することは、殆ど言説の上の詐欺である。それは朝日新聞社や岩波書店という戦後民主主義の音頭をとってきた連中の根深い〈欺瞞〉とパラレルであることは言うまでないのだ。
 さらにいえば、ヤスパースのいう「刑事的責任」「政治的罪」「道徳上の罪」「形而上の罪」がヒットラー・ドイツに被せられている。だが、この四つの戦争犯罪を免れる戦争に参戦した国があるはずがない。東京裁判がそうであったように、戦勝国が敗戦国を裁いただけのことだ。アメリカをはじめとする連合軍は広島・長崎の原爆を投下したばかりでなく、日本の主要都市の殆どを爆撃し、焼き尽くそうとした。それのどこが正義なのだ。ヤスパースの主張は、無効であっても明らかに戦争の実際に裏打ちされている。
 しかし、芹沢の言っていることは、それを踏み台にしながら、遥かに逸脱したものである。「原発」の恩恵に少しでも浴しているものはすべて連帯責任があり、その罪を被せられるのだ。これは部落解放同盟の朝田理論と同じである。朝田理論によれば、「部落民」以外はすべて「部落」を踏みつける側(つまり差別するもの)であるという、ベタで塗り潰したような暗黒の社会理論だった。それが痛切な被差別体験に根差していても、誤謬であることは自明である。
 芹沢俊介は、福島の原発事故は日本だけの問題ではなく、世界的な問題であるとし、「絶滅の脅威」は「どこにあっても等価である」と言っている。こんな芹沢の小市民的な平板な論理(倫理的一元化)が通用しないことは、つぎのように〈戯画〉すれば立ちどころに知れる。アフガニスタンのタリバンの兵士をつかまえて《貴方は「フクシマ」を知っていますか。原発があることで人類は絶滅の脅威にさらされています。イスラム原理主義など捨て、アメリカへの敵対を悔い改め、ただちに原発に立ち向うべきです》と説得してみるがいい。へたをしたら、その場で射殺されるかもしれない。
 芹沢は、吉本隆明のいったい何を読んできたというのだろう。吉本の『高村光太郎』一冊もってくれば、ここで芹沢が言っていることなど〈虚妄〉であることは歴然とする。そういうことを持ち出すまでもなく、わたしは芹沢の言説も態度も認めない。まあ、あまりむきにならず、俗っぽく言えば、要するに芹沢は、朝日新聞・岩波書店などを筆頭とする「反原発」勢力が言論界の大多数派であり、これに迎合したほうが、これからの売文渡世に有利と踏んだだけかもしれない。「編集者は置屋、自分は芸者」という芹沢の姿勢の〈狂い〉がそうさせたとも言えるだろう。たしかに「売文稼業」という点からいえば物書きは「芸者」かもしれない。しかし、それぞれの文筆のモチーフに拠るならば、編集者や版元など雑多な「脇役」以上ではないのだ。
 また、芹沢の『家族という意志』の書評を共同通信でやり、「現代の倫理書」などと持ち上げた神山睦美も、その〈愚劣さ〉において全く同列である。

▼一〇月一〇日
 昨日、吉本和子さんが逝去された。享年八五歳。
 わたしがいちばん最近、吉本家に伺ったのは、二〇一〇年一〇月一九日である。その時、和子さんは二階でやすんでおられて、お会いすることはできなかった。けれど、多子さんにお願いして、和子さんの句集『七耀』にサインをしてもらった。
 わたしは俳句の門外漢なので、その世界のことはわからないけれど、ジャンルを越えて虚心に読めば、和子さんの『寒冷前線』という句集は、よしもとばななの「ムーンライト・シャドウ」に匹敵する優れたものだ。

  おかあさんに、吉本和子という名前があることさえ、ぼくは忘れていた。なんでも受けとめて、なんでも笑い飛ばしているように見える、あのおかあさんが、こんなにおおきな海をかくしていたなんて。五七五の韻律の窓からだけなら、見てもいいわよ、ですか? (糸井重里『寒冷前線』帯文)

 ほんとうにあの病弱なお体でよく頑張られたとおもう。初めてお邪魔した時、和子さんは「松岡さんが来られるというので、とうちゃんは朝から書斎を片付けてたのよ」と苦笑されるように言われた。そして、二人して歓待してくれたのである。
 NHKが「わたしが子どもだった頃」というシリーズで、よしもとばななを取り上げ、そのエッセイを元にドラマ化したことがある。隆明さん役は平田満だった(風貌は似せていたが、セリフを発すると全然違っていた)。和子さん役が誰だったかは判らない。しかし、その人物設定はわたしには不当なものに映った。和子さんの魅力を、なにも理解していないし、その気もまるでないように見えたからだ。
 隆明さんが〈対幻想〉というとき、その影には和子さんとの暮らしのイメージが添っていたことは疑いない。〈対幻想〉という概念が、決してそこに収斂するものではないとしてもだ。

▼一〇月一一日
 わたしがもっとも芹沢俊介に注目しエールを送るような気持ちになったのは、メジャーデビューともいうべき雑誌『展望』の一九七六年二月号に登場した時である。芹沢は「情況の浮力に抗するもの」という力作を発表した。わたしは同じ号に載った川本三郎の「同時代を生きる『気分』」よりいいと思った。
 その反対は、別冊宝島の『達人の論争術』の「吉本隆明はなぜ論争が強いのか」という一文だった。鮎川・吉本論争に触れたものだが、そのハイエナのような手つきが嫌だった。言うまでもなく芹沢は、吉本主宰の『試行』の寄稿者として出発している。そして『鮎川信夫』という一著もなし、両者に面識があったにも拘らず、こんな無惨なことができる人なんだと思ったのである。それはどちらを評価するとかの問題ではなく、姿勢自体が酸鼻にみえたのである。これを境に、芹沢の著書は読まなくなった。それでも、吉本との共著、あるいは「吉本」本に添えられた解説文、藤井東との共著、そういう付随するかたちのものには目を通している。もともと芹沢は従順な真面目タイプで、下町の悪童の側面を保存している吉本隆明や、落ちこぼれのだらしないわたしなどとは、資質が異なっている。それ自体はそれぞれの固有性である。また芹沢が政治音痴であることも、それ自体として悪いことではない。
 たとえば芹沢は、吉本隆明の『悲劇の解読』の「序」を引用して、「辛うじてでも、終りをまっとうできた批評家とは、平野謙のことである。小林秀雄のことではない」(芹沢俊介「批評の悲劇」)と見得をきった。だが、ふつうに考えれば、日本における文芸批評の〈独立性〉とその〈悲劇〉をもっとも体現しているのは小林秀雄であることは明瞭である。こんなことは、芹沢の誤読とセンスの悪さを物語るだけでどうってことないといえるだろう。小林秀雄はソ連に招待され、その社会体制を称讃した時、全てを清算したのだ。
 しかし、吉本隆明が「情況への発言」で、「最近、『吉本隆明論』なる一書を物した若い男がいる。この男は、以前に〈昨晩は、吉本さんの夢をみたから、それは、職場を休んでここへ来てもいいということだ〉などという奇妙な理窟をつけて、朝から居坐って奇妙な論議を吹きかけて、わたしを無意味に疲れさせた男である。わたしが、この男に感じたのは、自己の中に他者をみることがまったくできない(これは左翼くずれに多い)ことと、薄っぺらな論理で、他者をオルグしているつもりになり、じつは他者に赦されているにすぎないことに、まったく気づかない鈍感さとであった。もっとも青春とはそういうものであるといえばいえる」という個所に言及して、芹沢はこの人物を「中村文昭」と断定し、こういうふうにやられるとたまったものではないというふうに書いていた。こうなってくると、単なる〈誤読〉では済まなくなってくるのだ。ここで、吉本隆明が〈偉そうなことを云うな〉と言い返している相手は菅孝行であることは、当時の状況と菅の『吉本隆明論』をみれば、はっきりしている。立つ瀬がないのは中村文昭である。身に覚えのないことを第三者(芹沢)からなすりつけられているからだ。このことは本人に確かめるまでもない。第一「書名」から違う。それに中村文昭は芸術青年であっても、吉本隆明の言う「左翼くずれ」でも、「他者をオルグ」するような政治主義者でないことは、中村の『吉本隆明』を読めば容易く分かる。菅孝行の『吉本隆明論』と中村文昭の『吉本隆明』との相違を判別できないことは、芹沢の洞察力の乏しさと〈読み〉の粗雑さなのだ。それがこんな出鱈目な見解の行使につながっているのだ。

▼一〇月一二日
  二〇〇七年以降、ほぼまる五年、お眼にかかっていなかったのだ。足が遠ざかったのには理由がある。吉本さんが出した『生涯現役』(二〇〇六年)という本のなかで、私(と米沢慧)を「最近はホスピス運動家みたいになってしまった」と発言しているのを読んだことである。「本人たちはどうもいいことをしていると思っているらしい」とも述べている。これには唖然とした。なにを根拠に、こんなことを言い出したのだろう、と訝った。
  だが発言は、ここで制止がかからなかった。暴走しはじめたのだ。(中略)
  もう一方で、こんな「妄想」を生むほどに視力が弱まってしまったのだと考えれば、吉本さんに直に会って、一言、直接抗議することですませられる。ただ、抗議を吉本さんがすんなり受け入れてくれるかどうかについては、吉本さんの性格からして確信がもてなかった。ののしりあいにまで発展することも考えられた。それゆえに直接抗議すべきかどうか、迷った。迷っているうちに月日が経ってしまったのだ。

   (芹沢俊介「吉本さんとの縁」『文學界』二〇一二年五月号)

   これは完全な虚偽である。
 それを言うまえに、わたしは吉本隆明が死去してからの芹沢の発言として「造悪論のこと」(『現代詩手帖』二〇一二年五月号)を最初に読んだ。まず、それから触れたい。「吉本隆明が自ら提起しておきながら、存分に議論を深めないまま放置されている問題の一つに『存在倫理』がある」という書き出しをみた瞬間、予測通りだと思った。わたしはこうなることは分かっていた。そもそも吉本隆明が加藤典洋との対談で「存在倫理」という概念を提出した際、芹沢俊介の思想的根幹をなす「イノセンス」という立論に対する異論としても言われていた。芹沢の「イノセンス」(生誕の受動性)という発想に、親鸞のいう「順次生」(類的連鎖性)を対置するかたちにもなっていたのである。おのれの構築の基礎を問われることとなった芹沢は、安田有主宰の『coto』や『還りのことば』などで自説の補強を試みていた。それはいいことだ。しかし、吉本隆明が「存在倫理」という概念を深めないで放置しているという発言は全く違う。
 吉本隆明は早い段階から「存在=倫理」という〈人倫の根拠〉について、深く執着してきている。それは吉本隆明がより実行者的相貌をもつ高村光太郎や宮沢賢治の作品や生き方に注目し、批評の対象としてきたことからも、またデカダンスの境涯を強いられた太宰治の生きることが〈倫理〉でしかないという悲劇の実質にも、愛着をもって言及していることからもわかることだ。もっといえば、吉本自身が痛切な戦争体験を契機として、存在=倫理という思想を確定することに〈固執〉してきたことは確実である。それが『固有時との対話』や『転位のための十篇』という詩集の基底をなしており、「マチウ書試論」だって、そのことを抜きには考えられないものである。言い換えれば〈類〉と〈個〉の存在構造の解明こそが吉本隆明の根底的モチーフであり、長く吉本隆明と交流してきた芹沢がそのことを知らないはずがない。芹沢の一文は、書き出しから〈意図的な曲解〉なのだ。
 芹沢の「造悪論のこと」は、一節ごとに避難口を確認しながら、姑息に論旨をずらしていく官僚の答弁書のような文体で貫かれている。引用の文章もそうだが、字面の端正さや言葉遣いの丁寧さが、その書き手の人格の良さや心根の優しさを少しも意味するものでも、それを保証するものでもない。そんな表面上の取り繕いは、わたしたちが日常的に知っているように綺麗事を並べる連中ほど、逆に嫌らしさが浮き立ち、その偽善性は倍加するのと同じである。言うまでもなく〈文体〉という概念は書き連ねられた字句と等価ではない。その表現の〈内側〉を流れるものである。そして、この一文全体は、親鸞論としても低劣で、我田引水と曲解を重ねることで、次第に通俗化してゆき、最後には中野孝次の『清貧の思想』のレベルまで退行している。
 吉本隆明の『生涯現役』における芹沢・米沢批判は、二人の共著『老いの手前にたって』(春秋社・二〇〇二年)を読めば、まっとうな批判であることは明白である。また、それなくして吉本隆明の発言はなかったのだ。自分の言説を棚上げして、不当な言い掛りであるがごとく、どうして言えるのか。こういうペテンが通用するほど読者は愚かな存在ではないのである。その〈侮り〉が、芹沢の自己倒錯をうながしているのだ。芹沢は、米沢との対談の中で「家族の三番目の位置をあたえられた施設のことです。家族が施設をそのようにかんがえることができれば、施設は家族を代替できる、外から家族に介入しているという意識を家族も施設ももつ必要がない。実際に現状はそうなってしまってます」といい、さらに「自然死と自殺のあいだに、もうひとつ安楽死という場所があるということになりますね」などと言っている。
 このホスピスの本質的な〈錯誤〉について、吉本隆明はそれよりずっと以前に、源信の『往生要集』を引用しながら、次のように批判している。

  まったく、ふざけた話で、観相によって、仏の姿や浄土の光景を想像的に描く修練が、生理的=心理的な問題に過ぎないことを、はっきりと露呈させている。臨終が近い重篤の病人は、虫の息の下で、病痛を忘れるように念仏を無我夢中で唱えながら、浄土に生れかわるのだという想念と、仏の来迎の姿を想いうかべることを強いられる。そして、その間に、しゃにむに瀕死の苦痛を超えて、死んでしまえ、と云っているのとおなじである。もっとひどいのは、瀕死の病人が、いまどんな情景を想い浮べているかを、看病人から問いかけられ、悪い情景しか想い浮べられていなければ、傍らの人間が、念仏を添えて、良い情景を病人に想い浮べるように強いる。何がなんでも、死に瀕した折に、病苦を我慢して死んでしまえば、浄土への通過とみなされるので、その際、心神が、苦痛のあまり錯乱したら、三悪道に堕ちたことにされている。天台系や真言系の観相が、心理的な修練にすぎないことを、これほどよくしめしている例はない。そうであるかぎり、極楽往生死の果証は、死にざまが安楽そうであるか、どうかによって決められることになる。死が安楽そうであれば、浄土へ往ったとされ、死が苦悶にみまわれれば、地獄へ堕ちた証拠とみなされる。これでは、善知識も修行もへちまもない。ただ、重態時の、夢遊状態の幻覚にすがりついてもよいから、安楽な死にざまを、いわば心理的=生理的に遂げる修練が、台密、東密系の浄土思想の要めをなしている。これが、ひと皮むいた極楽往生死のカラクリだとしたら、疑念が起らないはずがなかった。
    (吉本隆明『西行』初出)

 芹沢が言うように病院や介護施設の内部でなら、「安楽死」などというものが間に合わせの〈仮の場所〉を持ちうるかもしれない。しかし、人間の生死は本来的にそんなものではないのだ。それはじぶんの体験からも言えることだ。わたしの四番目の兄は胃潰瘍の手術を受けた。発見と手当が遅すぎたせいもあって、手術後も回復が思わしくなかった。一人暮らしだったので、面倒を見てくれる者はいなかった。同じ市内に住む姉が日曜日ごとに電話を入れていた。ところが、ある日いくら電話をしても出ない。心配になった姉は兄の住む団地を訪ね、管理人に言って部屋の鍵を開けてもらった。兄は死亡していた。死後二日も経っていたのだ。その姉も、膵臓癌が判明し手術した。わたしも何度も病院に付き添った。なんとか延命する方法はないかと思ったが、病状はどんどん悪化し、姉は病気に押しまくられて気持ちを立て直すこともあまりできないまま、半年としないうちに亡くなった。「安楽死」? そんな気休めにもならないことを言うな。まして「自然死と自殺のあいだに、もうひとつ安楽死という場所がある」などという考えをどうやったら受け入れることができるというのだ。
 こんな芹沢の〈死の番人〉みたいな思想は批判されて当然である。ところが、芹沢は自分の言説に〈責任〉をもつことなく、吉本の批判は「妄想」だと言っているのだ。これはどこの誰がみたって不当であることは歴然としている。芹沢の「暴走」はここにとどまらない。「直に会って、一言、直接抗議する」ことをしなかったのは、吉本の性格からして、抗議を受け入れるか確信がもてなかったといい、相手の性格の悪さに、その因があるように仕立てている。さすがにわたしも、芹沢がここまで破廉恥であるとは思っていなかった。これまで、吉本隆明と決裂した人物、たとえば埴谷雄高でも鮎川信夫でも、それぞれに自分の主張をぶつけて、批判の応酬になることを回避しなかった。これはその見解が正当であるか否かの問題ではない。思想の分岐や、人と人との〈関係の裂け目〉はそういうものだ。しかし、芹沢はそれすらやらずに、亡くなった途端、こんな卑劣で陰険なことをやったのである。

▼一〇月一三日
 遅れを取り戻そうとやっているうちに、またしても所定の枚数をオーバーしてしまった。ここで終わりにする。わたしは、根石さんにじぶんの原稿を前提とした『快傑ハリマオ』は今回でおしまいにしましょうと申し入れたけれど、それはもう止めたということではない。根石さんと〈一緒に遊びたい〉という思いは、少しも変わっていないからだ。ゆったりペースでやりましょうということだ。

 山のあなたの空遠く
 「幸」住むと人のいふ。
 噫、われひとゝ尋めゆきて、
 涙さしぐみかへりきぬ。
 山のあなたになほ遠く
 「幸」住むと人のいふ。

    (カアル・ブッセ「山のあなた」上田敏訳)

 またね。

    ▼(「ニャンニャン裏通り」おしまい)


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「ニャンニャン裏通り(その4) 松岡祥男」 ファイル作成:2024.03.02 最終更新日:2024.03.04