ニャンニャン裏通り(その3)

松岡祥男

     7 北川透徹底批判 [二〇一一年二月]

    〈1〉

 このあいだ、知らない人から手紙が来て、なんでも、その人は一九六〇年代末期から七〇年代初めの高校での紛争について調べていて、おれのことを、以前高知に住んでいた誰かに聞いたらしく、おれたちのやったことについて教えてくれって言ってきた。
 そんな四〇年も前のこと、いまさら、どうするっていうんだ。
 そうなんだけど、ただ、その人が当時の全国の高校闘争についての「年表」を同封してくれていて、それを見て、すっかり忘れていたことがあった。それについて言っておくのもいいかなと思ったんだ。その「年表」には、北海道から沖縄までの高校での闘いが網羅されている。その中に高知県関係は二つあって、

 一九六九年一〇月四日 高知県 高知女子大学で高校反戦会議結成大会を開催。高知追手前高校、高知学芸高校、土佐高校などの生徒が参加。
 一九六九年一二月一〇日 高知県 高知追手前高校 一部生徒が授業をボイコット。講堂を封鎖。

 このふたつだ。
 おまえが高知県立追手前高校定時制(夜間)に入学したのは一九六八年四月だろ。
 うん。このふたつにおれは関与していない。なにしろ、山からお城下へ出てきて、働きながら夜の学校に通っていたから、世の中の動きに疎いし、他校の生徒との交流もなかった。それでも、このふたつの出来事は地元で話題になったし、同世代的な関心も惹いたのは確かだ。同じ学校だったから覚えているけど、「一部生徒が授業をボイコット。講堂を封鎖」っていうのは違うね。あれは全日制(昼間)の連中がやったもので、授業を放棄した学生が講堂で全校集会を呼びかけ、多数の学生が集まって集会がもたれたんだ。もし「封鎖」騒ぎだったら、面白いんで見に行ったはずだからね。
 おまえがデモに初めて加わったのは一九六九年一一月二一日の「国際反戦デー」。このふたつの動きからは〈遅れた〉存在だな。
 おれたちが学校で本格的にやったのは一九七〇年からだ。もちろん狭い地域のことだから、その後、それに関わった連中とも知り合いになったけどね。夜間でおれたちが作った「高知部落解放研究会」のリーダーだったシマは、女子大での「高校反戦会議」の結成大会に参加していたはずだ。だから、彼は顔が広く目立つ存在だった。この年の東大安田講堂決戦とかの影響が強いよね。
 しかし、あの連中というのは、いわば「優等生」だったからな。みんな大学へ進学しているぜ。おまえが一緒にやったのは、このふたつの動きを引き継ぐかたちになった全日制の生徒会執行部のグループだ。
 「年表」を送ってくれた人は、いろんな資料に当たって調べたみたいだ。おれは見てないけど、その中に各高校の「○○年記念誌」や「沿革史」なんかがあって、それに拠ったらしい。先の連中の行動は、時代に鋭敏な問題意識のあらわれとして、学校にとっても名誉(?)なこととして許容できるものだったんじゃないかな。ところが、〈遅れた〉おれたちというのは、無法者(不良=落ちこぼれ)ということで、学校側はたぶん忌み嫌っていたはずだ。それに、学校側との対立は熾烈だったし、三名が無期停学処分されたが、それには従わず、自主登校をやった。また高知大学の全共闘は百人規模のデモを何回もかけるし、最後は学校を告訴している。だから、おれたちというのは、学校の伝統と品位を汚す抹消すべき存在で、そんなものには記載されてないような気がするね。
 優等生連中は立派になって、学校の同窓会なんかにも出席しているようだが、おまえらというのは、かろうじて卒業した者もいるが、ほとんどが中退だからな。それが決定的な違いだ。
 そうだね。感情的にはいまでも〈非和解〉的で、到底そんな気持ちにはなれないよ。「優等生」組は高校を〈通過点〉とみなしていたとおもう。おれたちというのは、追手前高校の隣の土佐女子高校で後年、飲酒で退学処分になり、一時裁判で争った西原理恵子と似たような面もあったし、〈その場の闘いがすべてだ〉と思っていたからね。それが、その後の人生を決定したような気がする。
 西原理恵子らの処分については、「浦戸湾を守る会」のパルプ工場の排水口を塞ぐ実力行使をした人たちと一緒に活動していた高知大学の山方さんなんかが支援していたな。
 おれ、山方さんに云われたことがあるよ。「同じように裁判で争っていても、きみたちと違って、彼女らはなんにも考えていないかもしれないけど、それでも、応援すべきなんだ」って。おれは、それは誤解だと思った。おれたちは確かに政治的だったけど、彼女らと違うなんて思ったことはなかったよ。
 西原理恵子のマンガは、最近のはつまらないな。ただのハッタリの法螺話だ。彼女のもつ抒情性や感傷的な部分がいいのに、インテリ受けを狙って遣り過ぎ。
 おれが前に働いていた印刷会社で、おれよりずっと前だけど、西原理恵子がアルバイトしてたとのことだ。たぶん東京へ出る直前だろうけど。そこで結構男どもを振り回したみたいだ。
 高知なんかで、くすぶっていても仕方ねえからな。事情が許すもんは出た方がいいぜ。
 「快傑ハリマオ」でこんな話をしたんだから、長野県のそれも挙げておくよ。

 一九六九年一〇月二二日 長野高校 校舎占拠。
 一九七〇年三月七日 須坂高校 卒業式 壇上で殴り合い。
 一九七〇年三月七日 諏訪清陵高校 卒業式 一時、壇上を占拠。
   この三つだ。「壇上で殴り合い」か、教師と殴り合ったんだろうか。


      〈2〉

 おまえ、『吉本隆明資料集』が第一〇〇集になったということで、その発行過程で最大のトラブルとなった、瀬尾育生と北川透の「抗議」と「批判」に対して、発行者としてのオトシマエをつけただろう。しかし、おまえ個人としては、まだ気がすまないだろう。
 うん、あれはきつかったからね。少し体調を崩したくらいだ。
 おまえが北川透を知ったのはいつだ。
 芳賀書店から出ていた『吉本隆明をどうとらえるか』という本に、北川透の「『共同幻想論』に対する一視点」という文章が収録されていて、それを読んだ。『共同幻想論』への初期的な言及という意味でも貴重だけど、そのモチーフが読めていない点でも、おもしろい文献だとおもうね。おれ、北川透の本、結構読んでいるよ。『北村透谷試論』全三巻も読んだ。二巻目の「内部生命の砦」がよかったように記憶している。まあ、ほとんど古本屋行きで、手元に残っているのは二冊くらいだ。だから、書名も正確じゃないし、その他のことでも、おおまかな印象で云うことになるけどね。おれが、北川透がいいと思ったのは、大江健三郎が東大学生としてだったと思うけど、「自衛隊に入隊する若者がいることは同世代として恥だ」みたいなことを、記者会見かなんかで言ったのに対して、北川透は「農家の二男や三男は職もなく、行くところがあまりない。大江の発言は特権的なものだ」というふうに批判した。これは的を射抜いていると思ったね。
 そうか。わしのすぐ上の兄は自衛隊へ行ったからな。村の「世話役」みたいなのがいて、村であぶれている若い者がいると、執拗に勧誘に来るんだ。もちろん斡旋料を稼ぐためだ。一人当たり幾ら貰っていたのかは知らないが。自衛隊へ行ったら、運転免許などの各種資格も取得できるし、当然、飯は食わしてくれるし、給料もくれる。肉体の鍛錬にもなる。だから、食いつめた者は自衛隊へ行ったんだ。その反面、ろくでもないこともいっぱい覚えこんでくる。除隊後、はぐれもの仲間がつるむことにもなる。酒やギャンブルにうつつをぬかす感じで。それが傍から見ていて、嫌だったな。わしの家の者は、中学校を卒業して、学校の紹介でみんな就職したんだけど、村の「世話役」は、貧しい親に目ぼしをつけては、仕事先を見つけて来て、そこへ口利きするんだ。それでその親に礼金を手渡し、自分も紹介料を懐に入れる、そういう人買い的な手口だ。それで、いい所を世話するのなら何の文句もないが、これが正規のルートを外れた〈もぐり〉同然だから、劣悪な仕事先のケースが多かった。そのため、すぐに離職し、郷里に帰ることもできず、見知らぬ土地で職を転々とする破目になる。そのために、その後の人生が狂った奴も少なくないぜ。まあ、中卒者は社会の底辺を這いずりまわることになることじゃ、そう事情が変わることはないっていえば、それまでだけどな。
 三島由紀夫が自衛隊に決起を呼びかけたって、そんなもの、通用するはずがない。「防衛大学」上がりや士官コースのエリート連中は別かもしれないけど。あの頃は自衛隊自体が日蔭者だったからね。下級隊員は三島由紀夫の「楯の会」なんて、金持ちのお坊ちゃんの「兵隊ごっこ」としか見ていなかったんじゃないか。おれの兄は、弟が「アカ」で学生運動みたいなことをやっているということで、しつこく色々云われたみたいだ。
 身辺調査はいつでもつきまとうからな。
 七〇年代初めの頃、北川透が発行していた『あんかるわ』は、本号よりも、その別冊の、「松下昇」や「谷川雁」の特集号の方がよく読まれたような気がする。ある時、学生の間で北川透のことが話題になったことがあった。それで傍らで聞いていた高知女子大学のおケイさんが、突然「北川透は好かん」と言った。日頃、控えめで自己主張するような人じゃなかったから、びっくりしたよ。どうしてなのかは聞きそびれたけど、おケイさんは井上光晴の「地の群れ」みたいのを好んで読んでいたから、そんな所から出たのかな、とおれはその時思った。
 当時の女子大生って、じぶんは頭がいいと思い、お高くとまっているの多かったんじゃないか。プライドが高いというか、女王様タイプがね。特に高知みたいな地方ではそうだ。いい歳になっても、その〈性癖〉が抜けないのが多い。もちろん、聡明でとても素敵な人もいるがな。ところで、おまえと北川透との〈敵対〉の発端は、若月克昌が『同行衆通信』第二八号(一九八七年二月)に「菊屋まつり」の批判を書いたことからだろう。
 若月克昌は浜松に住んでいるから、名古屋で開催された「1986菊屋まつり」に行ったんだ。それで、その感想を発表した。それに対して、北川透から「私信」のかたちで抗議(反論)文が届いたんだ。これが初手から〈不可解〉なんだ。北川透が、若月克昌の一文に文句があるのなら、若月克昌は当時『あんかるわ』の直接購読者だったから、若月本人に直接その「手紙」を出せばいい。また、若月克昌の一文を掲載した『同行衆通信』への抗議というのなら、主宰者の鎌倉諄誠のところへ送るのが〈筋〉というものだ。そりゃ、おれも『あんかるわ』の購読者だったけど、おれは『同行衆通信』の発行責任者じゃない。どうして、おれのところへ、そんなものを送り付けてくるんだ。ワケがわかんねえ。
 それは、おまえが北川透の『転位のための十篇』に関する批評に異論を呈したり、谷川雁と北川透との論争(ケンカ)に、口出ししてたからじゃないのか。その「1986菊屋まつり」というのは、瀬尾育生や成田昭男らを中心とした詩の同人誌『菊屋』が主催したイヴェントで、一〇月一九日に開催されている。「吉本隆明ドリームランド」と題され、第一部詩の朗読、第二部吉本隆明の講演、第三部がその講演をうけたかたちでの「フリートーク」だな。
 事情と内容からして当然、鎌倉さんに相談した。おれも鎌倉さんも「菊屋まつり」の実際がどんなものだったか知らない。でも、若月克昌は参加費を払って「菊屋まつり」に参加したんだから、どんな感想を述べようと自由だ。それに北川透が反論するのもまた自由だ。しかし、おれのところにきた、北川透の「手紙」の、どこにも『同行衆通信』に反論として〈掲載〉するようにとは書かれていなかった。だから、無断で載せるわけにはいかないという結論になった。それで、若月本人に転送したんだ。北川透の抗議(反論)に対して、若月克昌がどう対処するかは、彼の〈恣意〉だ。
 面倒くせえ話だな。おまえ、そんな「手紙」、受け取る謂れはないから、その場で破り捨てるべきなんだ。
 ところが、北川透は私の「重大な異議」を〈黙殺〉したといって、『あんかるわ』第七七号(一九八七年九月発行)の「遊■撃■集6」で、おれと若月克昌の批判を書いた。どうして、若月とこみで、おれが槍玉に上がるんだ。やっちゃいられねえよ。
 陰険。それにソクラテス以来、インテリというのは弁明が習い性かもしれないな。
 北川透の「手紙」が来た段階で、おれは、その「菊屋まつり」の模様が再現された雑誌「菊屋」第三四号を入手して読んだ。その印象でいえば、「菊屋まつり」っていうのは、そんなに悪く思えなかった。いろんなゲストを呼んでいて、多彩な感じがした。しかし、文字で〈再現〉されたものと〈実際〉とは違うし、また〈関心〉の置きどころによっても、評価は異なるからね。これはなんとも言えないなと思った。それで上京した時、新宿ゴールデン街のある店にたまたま行ったんだ。そしたら、そこのマスターが「菊屋まつり」に行っていたという話だ。おれは「どうでしたか?」と聞いてみた。彼は「若月さんの書いている通りですよ。わたしの印象もほぼ同じだ」と言った。おれはそうか、やっぱり、その〈場〉にいないと分らないからな、と改めて思ったね。おれは「菊屋まつり」について、何も云っちゃいない。難癖をつけられる理由はどこにもない。
 それで、おまえが言い返したら、北川透は口を噤んだってことだな。わしは「菊屋」の連中、テレビで見たことがあるぜ。なんかニュース番組みたいなやつで、地方の話題として「愉快な詩人の仲間たち」というふれこみだったと思うが、大勢で変な恰好して歌を歌っていた。別にどうってことはないが。
 そこで終わりならよかったのさ。北川透はこの一件を根に持っていて、おれが『吉本隆明資料集』の第二五集(二〇〇二年九月発行)に「『菊屋まつり』フリートーク」を収録したら、前の一件から〈経験的〉に学んだのかどうか知らないが、今度はいきなり、おれを批判する文章を各方面へ送付したんだ。おれは事前の承諾は取らなかったけど、収録した冊子は発言者全員に送っている。ふつうなら、それを見て、承服できないなら、おれのところへ抗議するのが〈順当〉というものだろ。そのうえで、こっちの対応が納得し難いものだったら、そこで初めて、公然と批判するか、あるいは、いろんな所へ批判文を送るという手段もあるということだ。その〈過程〉をすっ飛ばして、いきなりだからね。おれに対する〈悪意〉がなければ、そんなことするはずがない。北川透は自分でドブにはまりながら、それをおれのせいみたいに思っているんだ。そんなの、知るか。
 しかしなぁ、だんだん痴話喧嘩聞かされているような気分になってきたぜ。
 こんなことは、当事者と部外者との間には断層もあれば温度差もあるし、どう言ったって、他人のもめ事だからね。
 そうだな。そういう受けとめの方が、むしろ〈健全〉というべきだ。

 これがどうならうと、あれがどうならうと、
 そんなことはどうでもいいのだ。

 これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
 そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

 人には自恃があればよい!
 その余はすべてなるまヽだノノ

 自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
 ただそれだけが人の行ひを罪としない。

 平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、
 朝霧を煮釜に[土編に眞]めて、跳起きられればよい!

        (中原中也「盲目の秋」U)

 と、まあ、胸のうちで、うたっていればいいってことだ。文芸みたいなものは、もともと他人を説得することよりも、じぶんを納得させることに、初発の契機があるんだから。
 北川透がおれのところに送ると同時に、各方面へ送付した文章を、『吉本隆明資料集』に挿入している「猫々だより二五」に、縮小コピーして全文掲載し、読者に公開した。ここで引用してもいいんだけど、うるさいんで、もし、北川透の全文を読みたい人がいれば、連絡をくれればコピー・サービスすることにするよ。
 いまさら、A4用紙三枚にプリントされた、あの全文を入力するのも手間だし、あのくどくどした一文につきあうのはご免だというのはわかるぜ。
 ここからが本番だ。まず、瀬尾育生から北川透のもとへFAXが来て、それに瀬尾育生は『菊屋』からの無断転載だから何らかの対応をすべきではないかと書いていたとのことだ。
 その後、おまえのところにも瀬尾育生から「抗議文」が送られてきて、その「抗議文」を『吉本隆明資料集』に掲載するよう要求してきた。それで、おまえはその全文を第二七集に載せたな。
 まあね。瀬尾育生の抗議の一部を引用する。

  この記録の同資料集二五への転載が無断転載であり、このイヴェントの企画実行者および参加発言者がこの転載にいっさい同意していないことを読者に明示するために、この抗議文の全文を、同資料集二六に掲載してください。またこの無断転載にかかわる責任の所在を、読者に対して明らかにしてください。(瀬尾育生「二〇〇二年九月二四日付」)

 まったく、調子に乗るんじゃねえよ。なにがこの「転載」に「参加発言者」が「いっさい同意していない」だ。なにが「読者に明示するため」だ。このイヴェントで講演をした、メイン・ゲストともいえる吉本隆明の〈承諾〉をおれは得ていた。北川透を焚きつけ、麗々しく抗議し、「抗議文」として掲載しろと〈要求〉するなら、少なくとも『吉本隆明資料集』がどういうことで発行されているかくらい、事前に調べてからでも遅くはないはずさ。第一集ひとつ見れば、そんなことはわかるようになっているんだ。それもやらずに「参加発言者」が「いっさい同意していない」などと言うから〈虚偽〉になるんだ。いったい、何を焦っているんだ、そこに火事や地震が起っているみたいに。この時点で、〈十五年〉も前の「記録」であり、その再録にすぎない。すでに雑誌『菊屋』は終刊、その「記録」の掲載された第三四号(一九八七年二月発行)は品切れ状態で、一般には入手しがたくなってたんだ。だから、再録したからといって、実害(例えば経済的損失)が及ぶことはないはずだ。それに、そのときの吉本隆明の講演は、すでに『像としての都市』(一九八九年九月刊行)に収録されていた。「企画実行者」の権限が無限に有効で、他のすべてに優先するのでなければ、その立場からの「抗議」は成立しないと思ったが、そんなことは言わずに、瀬尾育生の要求を受け入れた。
 瀬尾育生は、北川透の「抗議文」のばらまきの後、その遣り過ぎに動揺したのか、稲川方人との対談で、北川透に対して距離を置くみたいな発言をやってたぜ。そのくせ、その次の稲川との対談では、今度は北川透を評価するみたいなことを言い、〈自己フォロー〉してたな。
 そんなことは黙っていても、お見通しの先刻承知之介さ。瀬尾育生が右往左往しようがしまいが、そんなことはどうでもいい。ただ、瀬尾育生が〈お仲間〉としてではなく、北川透を尊重するというのなら、またおれのところに「抗議」したんだから、北川透が谷川雁の未刊の著作を集めて、『あんかるわ』の海賊版として発行した一件や、その後の谷川雁と北川透との論争についても、お利口ぶる前に、じぶんの見解をちゃんと披瀝してみるがいい。
 谷川雁と北川透との喧嘩については、説明がいるぜ。そんなことは知らないかもしれないからな。北川透は、誰が蒐集したのかは知らないが、『谷川雁未公刊評論』を刊行した。その際、谷川雁に許諾を求めた。谷川雁はそれを認めなかった。ただ、この刊行に著者は同意していないという但し書きを入れるなら、勝手にすればいいと応答したらしい。そこまではいいんだ。ところが、後年、谷川雁の未刊著作集が出版社から刊行された際、その書評を北川透がやった。その中で「やっぱり時期が遅すぎる、いまごろ出しても何の意味もない、私のやったのがタイムリーだった」みたいな手前味噌のことを書いた。これに谷川雁が激怒した。それで『週刊読書人』紙上の応酬になったんだ。しかし、北川透は完全に居直り、醜い抗弁に終始した。
 そんなの、その節はご迷惑をおかけしましたって謝ればお終いじゃないか。北川透にはそんな度量もないのさ。「この特集は、谷川雁氏の拒絶を受けたにもかかわらず、編集人の全責任において刊行する海賊版であり、今後再びこの種の行為をしないことを、谷川雁氏に対して誓約するものであります」(北川透)と言っておきながら。おれは全く違う。瀬尾育生の要求をちゃんと受け入れたように、事前に承諾を得なかったことへの抗議があれば、謝罪するし、またそれ以上の要求があれば、その要求通りにする〈覚悟〉と〈用意〉は初めからあったよ。北川透は、おれと「資料集」をさんざん「インチキ」呼ばわりしたあげく、

  吉本隆明氏の名前を騙ってさえいれば、何をしてもいいんだという甘え、あるいは傲慢さがあります。(北川透「二〇〇二年九月二〇日付文章」。以下同じ)

 ここまで書いている。そのうえ、じぶんのやったことはぜんぶ棚上げだ。こういうのを、ほんとうの〈欺瞞〉というんだ。
 瀬尾育生は、『鳩よ!』の中東湾岸戦争の詩特集にイチャモンをつけたことがある。それで、藤井貞和と言い争いになった。しかし、「油まみれの鳥」の写真を見て詩を書こうが、戦争を主題に雑誌が特集を組もうが、そんなの各人の勝手だし、雑誌の企画としてあってもいいものだ。それに違和感をもつのもいい、こんな企画はくだらない、こんな「主題主義」は愚劣な傾向性だと、批判するのも自由だ。でも、あれをめぐる動きが、瀬尾育生が言うように〈重大〉だというなら、あの時の動きの中でいちばん悪質だったのは、中上健次の唆しで、徒党を組み、あの戦争を矮小化し、文壇政治に利用した柄谷行人一派だ。こいつらと全面対決する覚悟もないくせに、ご大層なことを言うんじゃねえよ。仮に詩壇にかぎるというのなら、たわけの進歩派の殿藤井貞和なんか通り越して、「鳩よ!」に詩を発表し、おまけに中東まで出かけて、流出した油を拭いに行き、ボランティア活動の真似事までやった佐々木幹郎に対して一言あるべきじゃないのか。わしは佐々木幹郎って、もっと骨のある奴と思っていたから、ただの「秀才」に見えて、がっくりきたのを覚えているぜ。
 瀬尾育生の言説がだめなところは、対象を具体的に指定して、ずばり直言しないことだ。そのリスクをつねに〈回避〉している。事柄を曖昧化し婉曲化することが高尚だと錯覚しているのかもしれないが。だから、瀬尾育生の書くものは《のだらん》(土佐方言)。だってよ、一九八七年の「いま、吉本隆明25時」(二四時間連続の講演と討論のイヴェント)を「贅沢で野蛮な時間の使い方」なんていうんだからね。この対象認識と言語センスに、おれみたいな俗人はあんぐりなっちゃって、とても、その場にじぶんもいたと思えないもんね。なにが「贅沢」で「野蛮」な「時間の使い方」なんだよ。
 北川透が中傷文章を各方面へ送ったことと、おまえがその北川透の文章を全面公開したことで、かなり反響があったんじゃないか。
 いっぱい、あったね。北川透に同調して、おれのところへ直接、手紙を寄越したのは札幌の高橋秀明だけだ。おれは高橋秀明なんか相手にする気はないし、その内容も北川透の〈文面〉に踊らされているだけのものだったから、「北川さんは、貴方の所にまで送っているのですね。呆れました」という主旨の返事を出しただけだ。
 おまえはこのトラブルは、じぶん〈一人〉で引き受けるもので、誰も巻き込まないという〈方針〉を貫いたよな。
 うん。大阪の久住幸治さんをはじめ電話や手紙で、おれを支持してくれた人はたくさんいたし、貴重な意見もいっぱいあった。でも、それを紹介すると、混乱は拡大するし、そんなことをすれば、多数派工作みたいになり、あげくには泥仕合になりかねないからね。それで、心配して応援の手紙をくれた人には、その旨を伝えたよ。
 騒ぎを大きくして、野次馬的注目を集め、トラブルが起こると寄ってくるマスコミや左翼デマゴギストの餌食になるのは、馬鹿らしいからな。こいつら、誰が傷つこうが、どうなろうが、お構いなしのハイエナだからな。
 それで、いまでも覚えているのは、いまは新潟に住んでいる高橋幸矢さんが、

 《頒布する》というのは、お金を取らずに、広く配布するということです。明らかに販売を意図して製作されているのだから、《希望者に頒布するだけ》などという理屈は通りません。(北川透)

 と書いていたのに対して、「『頒布』という言葉には『無料』という意味はありません。北川透の国語力を疑います」と言っていたの、おもしろかったね。おれも、これでよく大学教授が務まるもんだと思ったね。言っていることが滅茶苦茶だ。
 そんなこと言うなら、「吉本隆明氏の名前を騙ってさえいれば」と書いた中の、「騙って」という言葉を使っているのが、もっと〈重要〉だぜ。じぶんがどういうことを言っているのか、分かっているのか? 『岩波国語辞典』では、「騙り」というのは、【人をだまして金や物をまきあげること。そういうことをする人。】。また「騙る」は、【うまい事を言ってだます@だまして金品などをまき上げる。A自分がそれだと言ってだます。「他人の名を騙る」】となっているぜ。
 ここに北川透の、おれに対する〈悪意〉と「アピール」の〈本性〉が全面的に露呈しているといっていい。おれは、金だけ取って品物(「資料集」)を送らなかったことも無ければ、「吉本隆明」の「名前を騙っ」たこともない。これが〈言葉〉を生命とする詩人の書くことか。しかも国文関係とおぼしき大学教授ってんだから、絶句するしかない。ここは北川透編『独断国語辞典』の編纂をおすすめしますなんて、冗談を言っている場合ではないのだ。これは明らかに、おれと『吉本隆明資料集』を貶める、卑劣な文言、デマゴギーの〈行使〉だからだ。
 まあ、北川透はもともと含蓄の深さや叡知の輝きが乏しいからな。その例をいくらでも挙げることができるぜ。例えば、村上一郎が『無名鬼』を購読分のほかに一冊余分に送ってきたことでも、わしなら、あんなふうに書いたりはしない。大抵の人は、黙って善処するとおもう。そんなところを、おケイさんは「好かん」といったのかもしれないな。
 《へこい》(=狡猾だ)よね。

  松岡氏を含めて、この文章を誰が何処に無断転載しようと、コピーで渡そうとまったく自由です。また、気に食わない方は、反論、中傷、批判、罵倒もご自由に。わたしはすべてをここに言い尽しているので、今後、この件についての一切の発言を放棄します。問い合わせにも応じません。(北川透)

 こう書いて締め括っているが、これは体のいい〈逃げ口上〉だ。なにが「今後、この件についての一切の発言を放棄します。問い合わせにも応じません。」だ。ふざけるな! 逆恨みと偏見に基づくデマゴギーをいきなり流布しておきながら、後は知りませんと言って済むとでも思っているのか。こんな態度を北川透が取りつづけるなら、おれは、北川透の言の通り「存在をかけて」、つまり、一命を賭してもいい、と思っているぜ。
 おまえ、また、そんなことを言ってからに。沖縄の宮城正勝さんが、おまえのその暗い性格と逆上を心配して、その当時「人の命は宝なんだから」という、温かいメッセージを寄せてくれただろう。いまの発言は撤回しろ。弱小なものはすぐそれだ。卑屈に、じぶんなどどうなってもいいとおもう。自爆テロなんて敗者の発想だ。したたかに辛抱づよく、生きて闘いつづけることが肝要なんだ。この原則を忘れたら、終わりだぜ。そのために、いま話しているんじゃねえか。
 わかったよ。

 前以て転載の同意をわたしの発言部分に限って求められるなら、他の発言者が同意するという条件のもとで了解した、と思います。(北川透)

 と言っているが、「他の発言者」が「同意」するかどうかなんて関係ないはずだ。表現者というのは、この世間の全部が同意しようと〈じぶんが納得しなければ、決して同意しない〉というのが、基本的態度というものだ。北川透は、愚かにも「右へ倣います」といってるんだ。それだったら、私は松岡のやることに協力する気など毛頭ない。誰がなんと言おうと、私は拒否するといえばいい。それが〈本音〉なんだからね。この根性なしは、それをぐちゃぐちゃ〈理由〉づけして、さも正当な主張のような体裁を造り、《へごな》アピールに及んだんじゃねえか。
 言論というのは本来〈オープン〉なものだ。いったん公表された〈表現〉や〈発言〉は本人といえども、〈回収〉も〈消去〉もできない。もし、それが間違ったものだったら、その後自己訂正するか、包括的に〈克服〉してゆくしかないんだ。それが〈言論の本質〉だ。
この際、はっきり言っておくよ。『吉本隆明資料集』の「鼎談・座談会篇」全二七集に収録した鼎談・座談会は〈六五本〉。それで参加発言者は〈一四四名〉にのぼっている。その中でクレームがあったのは、この一件、この二人だけなんだ。そりゃ、事後承諾ということに、沈黙のうちに不快の念をもたれた方々はおられるとおもう。でも、六〇年反安保闘争を主導した共産主義者同盟(ブント)の書記長だった島成郎さんをはじめ、多くの方から感謝の礼状を貰ったし、さらに野間宏、岡本潤などのご遺族の方からは、贈物やカンパまでいただいた。おれはもう畏れ入って恐縮するばかりだった。これが紛れもない〈客観性〉だ。
 そこから考えても、おまえに対して〈含む〉ところがないとすれば、〈病的〉な神経症ということになるな。むかし、坂本龍一、細野晴臣らのYMOのツアーにギタリストの渡辺香津美が参加していた。そのライブ盤を発売することになった際、所属事務所が違うということで、その音の収録を拒否された。そのため、ライブ盤はギター演奏の音源を消去して発売された。この「馬鹿ども!」というしかないぜ。これはステージで実演されたものだ。それを除去するなんてどう考えたって変なことだ。また、これは音楽ファンにとっても、それぞれのミュージシャンにとっても、不幸なことだ。音楽事務所の縄張り利権や金銭的な利害が、音楽という〈芸術〉を腐蝕している図だ。現行の法律がどうであろうと、表現の固有性がその個人に〈帰属〉するということと、あらゆる言論(表現)は〈オープン〉なものである、ということが〈無矛盾〉である地平を志向するしかないのさ。もう八年も前の出来事だ。そろそろ終わりにしようぜ。
 そうだね。北川透の〈怪しい挙〉によって、おれは吉本さんに迷惑が及んだものと判断して、お詫びの手紙を出した。そしたら、吉本さんから速達で返信が来た。おれはもともとじぶんのトラブルだから、もちろん吉本さんを巻き込むことは出来ないと初めから思っていた。だから、「猫々だより」で手紙をもらったことは報告したけれど、その手紙は公開しなかった。
 第一〇〇集という区切りに、ついに決着をつけるべく公開したわけだ。

 いつも本が出ると贈るだけで、挨拶代りにして、ずぼらの御無沙汰をきめ込んでいて済みません。貴方のお手紙でびっくりして、北川さんの手紙を取り出し、讀みました。実は眼が俄か盲目にひとしくなってから新聞、など見出しだけですっとばすことがあります。北川さんが別紙に書いた挨拶は御無沙汰つづきだったので懐しく讀みました。同封の抗議と批判というのは、丁寧に讀みませんでしたので、貴方のお手紙で改めて一字一字讀みました。わたしの感想を申し述べてみます。北川透さんは貴方を誤解している。

 一、どこかといえば、貴方が吉本のとんでもない追従者だと思っているという手紙からの印象がそう感じさせました。別な言い方をすれば とんでもない追従者が吉本の名前があるものは断りなしに再録して、発言言表を主宰者に承諾を得ずに集めて、しかも販賣していると受け取ったと感じました。わたしは貴方の考え方・人柄を少しも誤解しておらず、一個の見識ある人が、吉本の忘れられた発言を資料として出していると思っています。また北川氏が会の開催準備がいかに大変かを述べておられるように資料集の貴方の【 】わたし【 】理解しているつもり【 】わたしに迷惑かけたなどということはありません。

 (二)北川透さんの発言を讀んで、北川さんも希望されたように、学会に馴染んで、勉強が進んだ証拠だと少し嬉しくなりました。わたしもある学者の文章を引用して相当長くなり、俺に無断で引用を長々していると、発行所あてに抗議されたことがあります。

 (三)ところでわたしの経験では、文芸分野では一度公表した文章や語りは、引用しようと、その上批判しようと、まったく自由で、抗議することが【   】なければ遠慮なく反論すればいいだけです。わたしはこの文芸の自由を守ってきましたし、遠慮も抗議もしないで(反論はしました)やってきました。わたしなら瀬尾さんや北川さんのような抗議や批判はしないでしょう。けれど学会では北川さんのような抗議の仕方【 】常識だと解された方がよく、またそれを肯定する必要もありません。芸能世界では、歌詞を引用すれば、掲載料を請求されますし、写真は、例えば、左側からは撮らずに、右側からだけ撮ってくれとか、肖像権料とか、取られます。

 まあ阿呆らしいといえばそれまでですが、一応その分野のしきたりに従うようにしています。文芸世界だけは何をしても自由です。違法行為で罰せられても、文芸は自由を生命とすると考えております。どうか頑張って下さい。また小生については、何をどうなされようと自由です。【 】のところは北川さんの誤解と間違いです。貴方が有料配布していることを非難するのはとんでもない間違いです。自民党の秘書給与を使い込んだかどうかという論議を聞いて、自分を棚上げした子供の論議で、ほんとうは馬鹿野郎!と言へば終りです。
 北川さんの学者らしくなったなということの悪い面だとおもいます。

 (四)もし主催者グループに北川さんが何年も経ってからも権限の所有者であると主張し、貴方が無断で商行為をしたと非難する偏見を「公開」することができるというのが妥当だと言うのなら、予め発言者それぞれの承認が必要な筈です。そして少くとも発言者の一人である吉本は、そんな期間を経たあとでの主宰者の抗議は不当であり、貴方に感謝しているのだから、抗議をやめるべきだと主張するでしょう。北川さんはそんな手続きをしませんでした。以上各項の理由と文芸界と学会とは慣例としてまったく違うという主張を加えて、公開があり次第、貴方の特別弁護人になって反論します。そんなときには直ぐお知らせを願えれば幸甚です。サド裁判やら最近の柳美里さんの場合まで、法律が違法と判定しても、一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や社会常識は時代によって変ります。文芸(一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは永続を眼指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集まりに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。

    貴方が恐縮する点は一ケ所もないと思います。北川さんの抗議文は、主催者がきちんと出版した本にしたわけでもなく、尊重(内容を)したわけでもなく、年月を経た後で、主催者権限を優先していること、貴方の一個の文筆家としての存在を故意に過小評価していること、文芸世界の慣例を理解していないこと、商業行為する意志もないのに、貴方の定価・実費にちかい有価性を非難していること、など不当性はいくらでも指摘できます。めげずに元気で頑張って下さい。

  (吉本隆明「松岡祥男宛書簡」二〇〇二年一〇月七日消印・【 】部分は判読不能個所)

 北川透は、当時のこの動きに反感をもったのか、あるいは自分の〈怪挙〉に反応がなかったからかは知らないが、トラブル発生の翌年の『現代詩手帖』二〇〇三年九月号の「詩人、吉本隆明」という特集号で、菅谷規矩雄の論考を踏み台にして、こんなことを書いている。

 彼(菅谷規矩雄ー引用者注)が苦しくなるのは、構造主義者ではない吉本隆明が、どういうわけか詩集の題名に『記号のノノ』を採用したからである。しかし、その難問を越えるために、まず、彼は自分をファンと規定せざるをえない。ファンとは単に内在性としての読者でしかない。内在性(理解・共感)が、同時に見知らぬ他者の視線としても成立しなければ、批評の言語は成立しないはずである。ファンのままで、《批評のことばになりかわ》ろうとするために、〈記号〉と〈森〉を分断するような無理な論理につきまとわれざるをえない。
  もっともわたしの当惑は、単に〈記号〉ということばから来ているわけではない。むしろ、読者に内在性を強いる詩人の方法の強度に対してではないか、と思う。その強さは、幾つもの記憶の層が、意味としての脈絡を拒み、イメージの断片として、イメージすら拒んだ音符のように記号化されたことばとして接続されているところにある。その記憶とは、幼少年期の回想、父母や祖父母などの発した声音、彼らが生きた風土や自然の光景、ことばあるいは文字の発生状態にまで遡った太古の人の経験などであるが、それらは修辞的な戯れとして、気持ちのよい拡散、ナンセンスとして歌われる。そこにいささか古めかしい抒情歌への陶酔はあるが、ことばへの批評意識は希薄である。

   (北川透「戸惑いはどこからくるか」)

 ひどいと思わないか。死んだ菅谷規矩雄の踏みつけ方といい、『記号の森の伝説歌』の〈読み〉といい、これが何十年も詩を論じ、じぶんでも詩を書いてきたものの書くことか。「ファン」もへったくれもあるものか。吉本隆明の『記号の森の伝説歌』には、『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』や『心的現象論』を踏まえた全質量がこめられている。それが詩歌として成功しているかどうかは評価が分かれるだろうが、「修辞的な戯れ」「気持ちのよい拡散」「ナンセンス」「抒情歌への陶酔」、あげくに「ことばへの批評意識は希薄である」とまで言い切っているんだ。ここには、北川透の内部に逆恨みの感情が潜在すると言わなければ、到底、了解し難いことが書き連ねられている。別の言い方をしてもいいさ。この程度の〈読み〉が通用すると思っているのなら、「『共同幻想論』に対する一視点」以下の、低級で傲慢な〈たかくくり〉というほかない。これのどこが「批評の言語」なんだ! 年来の盟友に泥をはねかけ、おのれの〈営為〉をじぶんで足蹴にしているのさ。これが北川透の貧相な実像だ。
 まあ、北川透が卑怯にも黙まりで済まそうとしても、じぶんがやったことも、じぶんが送付した文章も、抹消(無かったことに)することは、残念ながら出来はしない。これで、北川透の〈墓穴〉劇とのつきあいも終幕ということになればいいけどな。
 結局、最初から「ヤクザな言い掛かり」とみなし、取り合わなかった若月克昌が賢明だったということになるかもしれないね。


   〈3〉

 ろくでもない話はうんざりだ。もっと、いい話をしようぜ。
 そうだね。前に「近江絹糸」の間違いを指摘してくれた足助厚さんから、手紙を貰ったんだけど、根石さんの「お手紙無断掲載」(ほんとうは「無断」じゃないけど)にならって、ここで紹介したい。

 「ハリマオ」4、5号ありがとうございました。ますます充実してきましたね。
  4号の部落問題、5号の村上春樹についてのご発言、大変勉強になりました。
  部落の人たちと部落外との人たちとの婚姻率が50%を越えた時点で、部落問題はすでに解消に向かっているという以前の松岡さんの発言も記憶に強く残っています。
  松岡さんの実家も茅葺でしたか。そこで蚕を飼っておられたとのこと。僕の山村の少年期の生活にも重なって懐かしく読みました。蚕が大きくなってきて、ざわざわと音をたてて桑を食べる様子を記憶しています。学校から帰って山の畑に桑を摘みに行くのも子供の仕事でした。東京に出て長いのですが、鎌やナタを振るう感覚を覚えています。
  前回足助という苗字について触れておられました。愛知県の三河地方に足助(アスケ)町という小さな城下町があります。源氏の系統の半農の武家たちが移り住んで町が形成された様子。南朝方に付いて活躍した武家もおりました。太平洋側から信州に塩を運ぶ「塩の道」の入口にあります。ここで馬に積み替えて信州の山道に入って行きました。信州南部を北上して塩尻峠という長野県の南北を分ける分水嶺に達します。この塩尻の少し南に位置する谷間に我が村があります。中央アルプスの北端になります。どういう事情で我が一族が流れきたのか不明ですが、足助を名乗る家族が二〇世帯ほどあります。上記の塩尻にも同名の人たちが少し住んでいます。不思議なことに足助町にはすでに足助を名乗る人はおりません。ただ春の足助神社の大祭には毎年町の招待を受けて村から代参が神社を訪れます。町長の隣りに席を与えられます。今この街の紅葉の名所、香嵐渓(こうらんけい)が多くの旅行客を集めています。町は先年豊田市に合併されました。
  宍戸さん(京都・三月書房店主ム引用者注)がお話されたように、大正から昭和にかけて足助素一という著名な編集者・出版人がおりました。有島武郎の親友として彼を助けました。ただ素一は福山の人ですので、残念ながら、我が一族とは直接の関係はありません。


 いいな、気が晴れる。
 おれ、信州は松本と茅野しか行ったことないからね。松本はいいところだったね。空気が澄んでいて、水の流れがきれいだった。風光明媚なところは寒いと相場が決まっているから、寒がりのおれなんか暮らすにはきついような気がしたね。秋の紅葉なんか南と北とでは全然違うからね。吉本隆明さんが「紅葉は段違いですよ、絵具をぶちまけたようで」と言っていたけど、テレビで見てもその違いはわかるね。「塩の道」か、以前根石さんが信州は新鮮な魚なんか入ってこないし、塩の塊みたいな鮭くらいしかなかったと言っていた。
 そりゃ、そうさ。わしでも生の魚なんて食ったのは、大きくなってからだ。「うるめ」の干物や「塩鯖」や「じゃこ」くらいだったからな。宇佐の辺りの漁師のおばさんが行商で売りに来たのを買っていた。米やぜんまいなどとの物々交換の時もあったな。もういつのことか覚えていないけど、次兄が板前をやっていて、帰ってきた時に鰹を一匹丸ごと、もって来た。それを三枚におろして、藁で炙り、氷水でさっと冷やし、「鰹のたたき」を作ってくれた。わしはこんな旨いものは初めてだと思ったからな。土佐といえば、「鰹のたたき」と「よさこい祭り」ということになってるけど、わしは「よさこい」なんか踊ったことないからな。
 高知は暑いからだと思うけど、酢の消費量が圧倒的に多い気がする。酢づけにすれば、日持ちするということもあるし、食中りの予防になるからね。祭りのことでいうと、土佐藩の藩主になった山内家は、もともと掛川の方が拠点だったのが、関が原の合戦で「天下」をとった徳川家康から土佐一国を与えるといわれて、土佐へ来たんだけど、実際は豊臣方の長宗我部が治めていたから、太平洋側から夜陰に乗じて上陸したと云われている。それで、しだいに徳川の威光を背景として、長宗我部の影響下の土着勢力を騙し討ちにしたりして、駆逐し、高知城を築城した。そうやって、土佐での支配を確立したんだ。だから、地元民が大勢集まる「祭り」のようなものは御法度だった。反乱や暴動を恐れてね。坂本龍馬の時代(幕末)になっても、「上士」(山内家家臣)と「下士」(郷士)の反目が根強くあったのは、そのためといえる。だから、高知には伝統的な大きな祭りはない。戦後になって、徳島の「阿波踊り」に対抗するために、商工会議所が中心になって、「よさこい祭り」を作った。だから、郡部の者には全然関係ないものだった。ところが、形なんかにこだわらずに、なんでも有りの踊りの「祭り」ということで、若い者を中心に定着し、いまや全国に波及して、高知が本家本元であることなんか分からないくらいになったんだ。
 おふくろの味ということでいえば、なんといっても、母の作った「五目ずし」だな。ごぼうの香りといい、錦糸玉子や竹の子が入っていて、最高のご馳走だった。
 あ、そうだ、足助さんの手紙に答えておかなくちゃ、おれんちも茅葺だった。いまは廃村寸前なんで、屋根の葺き手なんかいないから、いちばん上の兄が瓦葺きにしたけど。
 でも、不思議な気がするぜ。あの貧しかった時代の方が、食は反対に豊かだった気がするからな。
 前に、せいさんの生まれた香長平野について云ったけど、今回はおれの生まれた大豊町について話すよ。大豊町は高知県の東北端四国山脈の中央に位し、愛媛県と徳島県に隣接している。昭和二十八年町村合併促進法の施行に伴い、東豊永村、西豊永村、大杉村、天坪村などが中心になって合併を進め、大豊村になった。当時、高知県ではいちばん面積として大きな村となった。おれのところは大杉村日浦で、それよりも以前は日浦村だったらしい。この合併より先、旧天坪村南部五部落は天坪村から分離して、隣接する土佐山田町と合併することを希望していた(土佐山田高校が「高校女子駅伝」で少し有名かも)。要するに、より奥地の大豊よりも開けた土佐山田につく方が賢明だと考えたんだろうね。それで合併後、住民投票の結果、圧倒的多数でもって分村が決定した。面白いのはここからだ。

  余談ではあるが、住民投票は昭和三十一年二月十日繁藤小学校で行われ、万一を配慮した警察官七十余名の警戒、新聞記者十数名もつめかけるという緊張裡に行われたが、偶々翌十一日は旧紀元節であり、これを準備中の地元父兄、学校側の状況が新聞記者にキャッチされる所となり、一躍紀元節校長溝淵忠広氏が全国に喧伝されるきっかけともなった。(『大豊町史』「大豊町の発足」)

 わしが小学校へ上がる前のことだ。すごいなあ、当時警官七十名以上動員するなんて。この「紀元節」校長は地元では有名だった。繁藤小学校だけは、その日に全員が登校し、地区・学校を挙げて祝賀式典をやっていたんだ。他の地区は静観という感じだったんじゃないかな。わしの入学した大杉小学校では、そんな動きはなかったからな。でも、大豊村の『官報』には「昭和年号」のあとには「西暦」ではなく、「皇紀」何年と記載されていたな。「戦後」はこの地に届いていないとまでは言わないが。神話鵜呑みのこの「神憑り」校長の音頭で、運動が拡大し、紀元節が復活し、いまでは「建国記念日」になってるぜ。まあ、うるさいことを言わないで、「国民の祝日」ということになり、変な祝賀式典に無理矢理駆り出されることもなく、ただの「休日」になったと思った方がいいのかもしれない。「成人の日」が「一月一五日」から一月の第二月曜日になったみたいに。
 繁藤小学校には溝淵忠広の銅像が建っているね。『大豊町史』を見ても、村の発祥や集落の形成を無雑作に神話にくっつけているからね。やめてくれと言っても、たぶん通用しないだろうな。「お上」の方も抜かりないね。昭和天皇の「植樹祭」は、繁藤の甫喜ヶ峰で挙行された。そうやって、政治的地盤のメンテナンスを怠りなくやってるんだ。
 それこそ、繁藤小学校の少し上にある穴内川ダムへ、柳田国男は調査に来ている。柳田国男の方法が全部正しいというわけではないけど、神話を〈民俗〉の根の方へ掘り崩すことは必要だと思うな。その一方で、現在的な〈感性〉の方に開いていくことだ。それが天皇制と「日本人」とは等号ではないことを実現することになるとおもうな。
 天坪(村)というくらいだから、雨の多いところだ。一九七二年七月の集中豪雨で、国道沿いの繁藤の追廻山が崩れ、民家が押し潰され、生き埋めになった。救助に消防隊員や近隣の人たちがたくさん駆けつけた。ところが、その山はさらに大崩れした。そのため、第二次災害となり六十名が亡くなった。凄まじいものだ。なにしろ、土砂は国道三二号線を越えて、国鉄の繁藤駅に停車していた列車の二両を巻き込んで、下の穴内川まで押し流し、対岸まで土砂で埋まった。たぶん、水分をたっぷり含んだ海からの雲が根曳峠や甫喜ヶ峰の山々にぶつかり、その先にある穴内川上流の土地に雨を降らすんだろうね。だから、天坪という地名になったのかもしれないね。
 日浦の我が家の、ほぼ真っ正面の遠くに杖立山があるぜ。毎日のように見ていても、そこの峠道が、土佐の北の街道だったなんて知らなかったからな。

  梶ヶ森の西南に杖立山(一一三三米)がある。この鞍部に杖立峠がある。この峠は黒石から北川に抜ける当時の土佐北の口の街道であった。
  天正二年(一五七四)長宗我部元親が四国制覇のため阿波に進攻した際も、岡豊ム新改通りム甫岐峰を越して北川に出、この峠から黒石に抜け川戸の渡しから大砂子、裾野越えに阿波下名に攻め入っていることは、戦史に明らかな所である。
  また元弘元年(一三三一)後醍醐天皇は執権北条氏討伐を企てられたが、事露顕し、天皇は隠岐に、第一皇子尊良親王は土佐の幡多に、遷された。王妃には土佐から御迎えの使いが出された。それで王妃ははるばる京都から阿波路を経てこの杖立を通り、新改の入野まで来られたとき親王はすでに京都に御帰還の由を聞き給い、この入野から再び京都への道をたどられたが、長途の疲れと衰弱のために吾橋(西祖谷山村)で薨去されるのである。この時この杖立峠で道祖神に旅行中の安全を祈願され、御手持ちの杉の御杖を峠の路傍に挿し立られた。やがてその杖から新芽が出て成長し、御杖杉の名で云い伝えられて来たが、その杉も今から数十年前心ない者に伐採されたという。

   (『大豊町史』「杖立山」)

 こんな見て来たような嘘話(伝承)を混入させ、支配者の系譜と「ありがたくも」脈絡をつけようとするから、こういう「町史」みたいなものは信憑性が著しく損なわれるんだ。朝廷を遥拝しないとおさまらないんだろうな。
 迷走する菅政権にからめていえば、尖閣諸島での中国船との「接触」問題でも、その模様を映したビデオをすみやかに一般公開して、〈主権者〉の判断に委ねればいいんだ。なにも難しいことはありはしない。さっさとそうしていれば、流出問題なんて始めから無いんだ。ところが、この連中はつねに〈隠そう〉する。〈秘匿〉と〈嘘化〉とはつながっていて、やがて「杖」から「新芽」が出たことになるのさ。これも政治権力の闇のひとつだ。
 菅直人なんて、「連合」という労働運動とその影響力の及ぶ範囲からはみだすことはない。そのつまらない限界の中にいるだけだ。誰がいまの社会の〈主役〉であるかなど、まるで分かっていない。だから、こんな政権は「伐採」以前に、立ち枯れるに決まっているぜ。


     8 北川透の頽廃 [二〇一一年六月]

   〈1〉

 行きがかり上、黙っているわけにはいかないんで、また北川透のことになるんだ。
 しょうがねえな。
 おれは、北川透が〈呆けた〉というのなら、とやかく言っても、〈無効〉だと思うんだ。でも、そうじゃないなら、これは放っておくことができないとおもう。北川透は『現代詩手帖』二〇一〇年一一月号の、北川透・藤井貞和・細見和之の「いま詩的六〇年代を問うということ」という鼎談で、一九七〇年代前半の新左翼間の殺し合いの内ゲバに関連した「革共同両派への提言」に、吉本隆明も名前を連ねたというデタラメな放言をやっている。その発言に対して、読者から雑誌編集部宛に抗議があり、その指摘を受けて、北川透は『現代詩手帖』二〇一一年一月号に「「詩的60年代」訂正と補論」という一文を発表している。ところが、これが座談会の放言の上をいく、ひどい〈嘘〉と〈すっとぼけ〉のオン・パレードだ。
 底無しの頽廃ということだな。まず、そのデタラメな放言からいこうじゃねえか。

 北川 書記長の本多延嘉が殺されるでしょう。
 藤井 以前は別名で哲学者だった。私はその人からあれを読め、これを読めと言われたりしたけど、その人が殺される。六〇年代の前半で地獄の底でいろいろめぐり合った若き哲学者たちが、ある日新聞を見たら党派争いで殺されている。七〇年代じたいが次々に内ゲバの血の海に沈んでいったのです。だから地獄の先のさらにもっとひどい状況が七〇年代前半だったんです。それは北川さんと共有しているはずです。
 北川 内ゲバ停止の、知識人の声明が出るじゃない。埴谷雄高から吉本隆明まで名前連ねて。ぼくにも誘いがあったんですよ。それを準備している人から、署名に加わってくれと電話がかかってきた。ぼくは拒否したんです。冗談じゃないよって。これだけたくさんの人間を殺しているんだから、あんたたちは党派を解体すべきなのであって、内ゲバを停止してそれで生き残ろうなんて、虫のいいことを考えるなって言ったんです。
 藤井 まったくその通りです。
 北川 そのことはちょうど、谷川俊太郎さんの詩集『定義』が出て、それについてぼくが「現代詩手帖」に書いているときだった。ぼくはその電話のことをそのまま録音のようにして埋め込んだんです。『定義』論のなかに、彼らが何をぼくに要求したかを書き留めているわけね。これはもう本当に許せないし、それに黒田喜夫から吉本隆明まで賛成しちゃうっていうのはいったいどういうことなんだろうか、とそのとき思ったわけ。

   (北川透・藤井貞和・細見和之「いま詩的六〇年代を問うということ」)

 ここで、いちばん重要なのは、いま(二〇一〇年)、こんなことを言っていることだ。
 あの時代を生きてきた者が、よくこんなデタラメが言えるな。ここまでくれば、もう病気だね。
 そうだな。
 ここで問題になっている「内ゲバ停止の、知識人の声明」は、一九七五年だとおもう。百歩ゆずって、その当時、北川透がその「声明」がどういうもので、誰が呼びかけ人になっていたかを知らなかったとしても、また、それに吉本隆明が名前を連ねていたと錯覚していたとしても、北川透はその後、角川書店刊行の『鑑賞日本現代文学』というシリーズの、『埴谷雄高・吉本隆明』(一九八二年九月刊)の巻の「吉本隆明」を担当しているんだ。ちなみに「埴谷雄高」は磯田光一の担当だ。その二つが、一冊の本として刊行されている。その際北川透は、吉本作品の鑑賞・研究とともに、「吉本隆明年譜」も手がけている。北川透が「そのとき思った」としても、この仕事の過程で当然、吉本隆明がそんなものに名前を連ねていなかったことは分かるはずだし、また、分からないというのはおかしいだろう、ごくふつうに考えて。
 おまえも親切だな。もっと、事は簡単じゃねえか。埴谷雄高が幻の大作『死霊』の第五章を長い長い中断の果てに『群像』一九七五年七月号に発表し、大きな話題になった。それを受けて、埴谷雄高と吉本隆明の対談「意識 革命 宇宙」が行われ、『文藝』一九七五年九月号に掲載されている。この対談は同年九月に単行本としても刊行された。これも注目を集め、よく読まれている。その対談のなかで、この新左翼間の内ゲバが話題になり、吉本隆明ははっきりと、あの「内ゲバ」を批判し、じぶんは発起人になることを拒否したと明言しているんだ。北川透がその当時、あの対談に目を通していないなんてことは、あり得ないことじゃないのか。北川透が二人から遠い存在で、この対談に関心を持たなかったというのなら別だが、そんなことは常識的に考えられないだろう。だってよ、吉本隆明の主宰していた『試行』の一九六〇年代の後半には、岐阜の岡田書店の広告として北川透の詩集にもスペースが割かれているんだし、埴谷雄高は北川透の主宰した『あんかるわ』の第八四号(終刊号・一九九〇年一二月発行)に寄稿しているんだ。だから、わしは『現代詩手帖』二〇一一年一一月号の北川透の発言を読んで、気が狂ったのかとおもったぜ。
 しかし、北川透の「「詩的60年代」訂正と補論」は、もっと凄まじいよ。のっけからこうだからね。

  虚を衝かれる思いがありました。
  昨年の本誌十一月号の特集は、「詩的60年代はどこにあるのか」でした。その際の鼎談で、話題になったことの一つに、新左翼諸党派の内ゲバ停止に関する知識人の声明があります。これに関して、わたしは《埴谷雄高から吉本隆明まで名前を連ねて》とか、《それに黒田喜夫から吉本隆明まで賛成しちゃうっていうのはいったいどういうことなんだろうか》と述べています。その後、これについて、読者の一人から、「北川氏の発言への疑問」という意見が、編集部に寄せられました。その主旨を言えば、吉本隆明は一度も内ゲバ停止の署名をしていないはずである。もし、北川の誤解であれば、すみやかに訂正すべきだ、というものでした。「詩的60年代」の討議に、七〇年代半ばの内ゲバの問題が出ることに、わたしはまったく備えを欠いていました。でも、本来、対談とか鼎談では、思いもよらぬ発言が出てくること自体に、この種の企画の面白味があると言えます。それに「詩的60年代」のテーマだからこそ、話題になる不可避性があったのかも知れません。ただ、編集部からの知らせに、虚を衝かれる思いがあり、いささかあわてたのは、これについて、わたしの発言の根拠が、自分の記憶の中にしかなかったからです。先に結論を述べて置けば、わたしの記憶の間違いは、多分、揺るがぬところです。多分、というのは、三十五年前にわたしが読んだかもしれない〈声明?〉のようなものを、わたしは何一つ保存してないので、調査に限界があるからです。

   (北川透「「詩的60年代」訂正と補論」)

 「虚を衝かれる思い」だって、なにを〈とぼけた〉ことを言ってるんだ。北川透は、いったい、じぶんがどんなことをやったのか、ほんとうに分かっているのか? いいか、あんたは、間違った発言で、〈他者〉の思想と軌跡を傷つけたんだ。で、読者の指摘を受けた段階で、真っ先にやるべきことは、その当時の吉本隆明(や埴谷雄高、黒田喜夫)の著作や発言に当たることだ。そうすれば、たちどころに、その間違いはわかることだ。「意識 革命 宇宙」は、北川透の文章も載録されている齊藤愼爾編『埴谷雄高・吉本隆明の世界』(朝日出版社)という本にも再録されているから、手元にあるはずだ。そして、真摯に相手に〈謝罪〉することだ。それが〈発言を訂正する〉ということだ。ところが、北川透は「わたしの発言の根拠は、自分の記憶の中にしかなかった」といい、「調査に限界がある」などと、嘘ばっかり言ってる。雑誌の〈舞台〉で、見えない読者に向けて挨拶を送り、自己弁解の〈欺瞞〉劇を演じてるだけじゃないか。
 「虚を衝かれる思いがありました」か、いいね、流行するかもしれない。何かじぶんに〈非〉があった場合は、このセリフに限るよ。
猫 さらに、北川透は書いているぜ。

  それでも自分で可能な限り調べ、また思潮社や複数の友人に依頼し、結局、それらしい〈声明〉は、一九七五年六月二十七日の日付けをもつ「革共同両派への提言」しかないな、と思うに至りました。〈埴谷雄高〉が署名者であることは、後にあげるわたしの文章からも、この「提言」のなかの事実からも間違いはありません。もう一つ、確言できるのは、思想性のレベルにおいてです。この場合、〈埴谷雄高〉の思想はいかにも発起人たりうるものです。〈吉本隆明〉については、自立思想の立ち位置を想定すれば、ありえないと考えるべきでした。また、当時の〈黒田喜夫〉の党派性は、この「提言」の党派性と相反しているので、これもあり得ないことでした。そもそも、人を中傷したり、根拠のない批判にさらしたりする怖れのある重要なことは、ただ、記憶だけに基づいて発言せず、出来るだけ客観的な資料に依拠すべきです。鼎談という場で、その用意がわたしにできていませんでした。それでも、後でその部分を削除したり、修正したりできるはずで、それをしなかったのは、そこにわたしの思い込みの強さがあったのでしょう。
  わたしは編集部に、わたしの発言が、事実に反していたことが突きとめられた段階で、簡単な訂正(発言部分の撤回)とお詫びの文章を書きましょう、と伝えました。(中略)ともかく、〈一読者〉から疑問が出なければ、わたしは間違いに気付かなかったのですから、有り難いことでした。ただ、わたしがなぜ、そのような恥ずかしい思い違いをしたのか、今の所、よく分かりません。今後も、無意識の領域も含めて、よく考えてみたい、と思います。
(北川透「「詩的60年代」訂正と補論」)

 よく、これほど破廉恥なことが言えるものだ。当時の状況を知らないものが読むと、さも良心的な態度と映るかも知れないが、その時代を必死にくぐってきた者には、この詐欺的ポーズは透けてみえるはずだ。また、かつての『あんかるわ』の読者や、それなりに古くから北川透の著作につきあってきた者は、騙せはしないさ。第一に「簡単な訂正(発言部分の撤回)とお詫びの文章を書きましょう」というのが、ふざけはてた発言だ。傲慢な大手新聞社や、かつての『噂の真相』なみの態度だ。『噂の真相』は、それこそ埴谷雄高の葬儀に吉本隆明は焼香に行かなかったと、雑誌の巻頭のグラビア頁を使って、こんな下品な(葬儀に参列しようがしまいが、そんなことは、人さまざまでいいことだ)ことを大々的に書きたてて、卑劣な人格攻撃をやった。しかし、吉本隆明は身体の不自由をおして葬儀に参列していた。松本健一がその姿を見掛け、焼香するのを手伝ったとのことだ。『噂の真相』はその後、この虚報行為の破綻をうけて、次の号の欄外に「一行の訂正」を載せた。それで終わりだ。こんな性根の腐り切った連中のデマゴギーを取り上げること自体に、おれは羞恥を覚えるが、ここでの北川透の姿勢は『噂の真相』と同列だと言っても、決して過言ではない。「簡単な訂正」、このセリフひとつとっても〈人間性〉を舐めているとしか思えないからだ。
 「恥ずかしい思い違い」、「無意識の領域も含めて、よく考えてみたい」、どこから、こんな言葉が出てくるんだろう。ここに北川透の〈頽廃〉は象徴されている。なんか精神の汚物を見せられているようで、わしはこんなもの、批判したって仕方がないような気がしてきたぜ。こんなもの、相手にするのはご免だから、やめたと言いたくなってきた。
 わかるけど、こういうデタラメなことを言ったり、デマゴギーを流布する奴というのは、すぐに態度を翻し、居直るケースが圧倒的に多いんだ。北川透が谷川雁に対して居直ったようにね。こういう事柄については、言わないのなら、一切言わない。言うなら、徹底的に仮借なく言うべきだ。甘い態度は禁物だよ。そうでないと、相手の雰囲気に染まり、その次元へ引きずり込まれかねないからね。
 おう、おまえの出した話題に乗ったんだ、言うべきことは断乎として言おう。
 先の鼎談の発言の続きを引用すると、こうなんだ。

 藤井 それは北川さんが六〇年代終わりから七〇年代にかけてそういう空気を呼吸したということであって、私から言わせれば、ノンセクト・ラディカルの論理を北川さんが承認したことになると思う。北川さんが党派のほうに行くのか、ノンセクト・ラディカルに戻ってくるのかという、岐路だったとは思う。
 北川 党派には行ってないです、一度も。

   (「いま詩的六〇年代を問うということ」)

 藤井貞和の発言を受けて、「党派には行ってないです、一度も」と応えているが、確かに六〇年代終わりからは「党派には行ってない」。しかし、「一度も」というと、北川透は党派に属したことはない、ということになるよ。
 「一度も」というと、おかしな話になるな。北川透は日本共産党への入党体験があるぜ。北川透は『伝統と現代』第四六号の月村敏行との往復書簡の中でその日本共産党体験について、「わたしの学生党員としての生活は、《革命にあらず移動なり》の実践の場、学習の場だったということです。そして、それは六十年安保闘争に逢着するまで基本的に続いたと言えます」(北川透「最も圧力のかかる場所」)と、自分で書いているんだ。
 おれはここで、履歴詐称なんて、くだらないことを言いたいわけじゃない。おれは北川透の「自立思想の立ち位置を想定すれば」などという、まるでおのれに関係のない、ただの思想風俗のように見なした、ペテン的口吻にこだわっているんだ。北川透は「六十年安保闘争に逢着するまで」と言っているように、安保闘争に主体的に関わり、体験しているはずだ。だったら、吉本隆明が六〇年反安保闘争をどう闘ったかも痛切に知っているはずだ。
 吉本隆明は全学連主流派を支持し、樺美智子が殺された一九六〇年六月一五日には国会に突入したデモ隊の中にいて、警官隊の攻撃で敗走し、逮捕されている。また、「六月行動委員会」のメンバーとして行動をともにした義兄は、警官隊の襲撃で頭部を警棒で殴打され、倒れ込んだところを踏まれ、警察病院に搬送されたが、昏睡状態で生死の境をさまよっていた。この時、北川透がどこにいたかは知らない。しかし、北川透にしても、松下昇にしても、菅谷規矩雄にしても、それを体験的に共有しうる立場にいたことは間違いないはずだ。黒澤充夫さんは、当夜の記憶は消えてしまっていて、幾度かその時の足取りを辿ったけれど、記憶を取り戻すことができないと言っている。覚えているのは、警察病院で意識がもどってからで、見舞いにきた妹の吉本和子さんをはじめとする人々の姿からだとも。
 六〇年反安保闘争は敗北し、その闘いを主導した共産主義者同盟(ブント)も崩壊した。ここからが、北川透のデタラメな放言に深刻にからんでくるといっていい。敗北後、全学連主流派の幹部の多くは、黒田寛一や本多延嘉らの革命的共産主義者同盟の批判に屈服し、革共同へ転身する者が続出した。この敗北処理こそ吉本隆明にとって、戦争体験とともに重要な思想体験だったといえる。吉本隆明は書いている。

  六〇年安保闘争の終息のあと、真向うから襲ってきたのは、政治運動の退潮と解体と変質の過程であった。この闘争を主導的に闘った共産主義者同盟は、この退潮の過程で、分裂をはじめ、分裂闘争の進行してゆくなかで、その主要な部分は、革共同に転身し吸収されていった。(中略)
  当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は〈もの書き〉として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャーナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にもまたできないと思い定めよ、という考え方を少しずつ形成していったとおもう。
  わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。わたしは、これに対しても激しく応戦した。

  (吉本隆明「「SECT6」について」)

 これが北川透が「思想性のレベルにおいて」だとか「自立思想の立ち位置を想定すれば」だとか、他人の空のように言っていることの、吉本隆明における〈内実〉なのだ。それを北川透が知らぬはずがない。なぜなら、この敗北を大きな契機として、吉本隆明は谷川雁、村上一郎とともに『試行』を創刊したのだし、北川透も浮海啓らとともに『あんかるわ』に拠ったはずだからだ。
 そうだな。その後、革命的共産主義者同盟は分裂する。立花隆の『中核vs革マル』によれば「第三次分裂」だ。この分裂で、革マル派は黒田寛一や森茂(松崎明)、中核派は本多延嘉や清水丈夫、北小路敏らの両派に分かれた。その両派が七〇年安保闘争を経て、七〇年代に殺し合いの党派闘争に突入した。この組織的にも思想的にも末期的な症状に対して、吉本隆明が〈無批判〉であるはずがない。まして、その「革共同両派への提言」に、調停役として発起人に名前を連ねるはずがないことは、明瞭だ。
 どこから考えても、吉本隆明がこの両派の延命に加担するはずがないよ。先の引用でも「絶対に許せぬ」と言っているんだ。「情況への発言」でも、そういうことを書いている。吉本隆明は、この連中と〈思想のデスマッチ〉をやってもいいと思ってきたはずだ。
 北川透は「後でその部分を削除したり、修正したりできるはずで、それをしなかったのは、そこにわたしの思い込みの強さがあったのでしょう」と書いているが、いったい、その北川透の「思い込み」とは何なんだ。そのうえ、北川透は「調査に限界がある」などと言っているが、大嘘だ。一九七〇年代のことだぜ、そんなものに「調査に限界」などあるはずがないじゃないか。埴谷雄高は『内ゲバの論理』(一九七四年一一月刊)という編著を先行するかたちで三一新書として出している。そして、「革共同両派への提言」は一九七五年六月二七日付で、発起人は埴谷雄高、秋山清、井上光晴、色川大吉、久野収など十二名だ。しかし、これは拒否されたため、七月一九日に「革共同両派への再提言」が出されている。この「提言」は、埴谷雄高の起草ということだ。いずれも『早稲田大学新聞』と『現代の眼』に掲載されたらしいな。先の埴谷・吉本の対談日は七月四日、この動きの真最中だ。
 北川透は「それでも、自分で可能な限り調べ、また思潮社や複数の友人に依頼し」なんて、書いてるけど、唖然とするよ。自宅であぐらをかいて、それらしいものはないかと思ってるだけじゃないか。「この場合、〈埴谷雄高〉の思想はいかにも発起人たりうるものです」と言っているんだから、『埴谷雄高全集』(講談社)の「年譜」にあたるとか、また、インターネットの「検索」でも、それくらいのことは出てくるかもしれない。
 まあな。ここまでのところで、六〇年反安保闘争やその後の情況について、その当時わしらはガキの洟垂れで、実際にその時代を知らないということがあるな。
 うん。そう言われる可能性はあるね。この内ゲバがおれにとって、いかに痛切だったかを言えばいいとおもう。おれが社会状況や学生運動に関心を持ちはじめたのは、一九六九年だ。それで何もわからぬまま、そういう場面に接触するようになったんだけど、当時の四国の学生運動は、高知県は中核派、愛媛県はブント、徳島県は社青同解放派、香川県は日共民青が主導権を握っていたとおもう。それで、地元が中核系ということで、当然おれもその流れの中に入っていった。のちに『同行衆』や『同行衆通信』で師事することになった鎌倉諄誠はマル労同の同盟員だったはずだ。それで、市内に「前進社」の「高知支局」を開設していて、鎌倉さんはそこに詰めていた。おれは日共と反日共の区別がやっとつくぐらいで、新左翼の党派なんて、まるで区別がつかなかった。だから、七〇年安保闘争の六月一五日の代々木公園の集会では中核系の全国部落研連合の隊列に加わった。
 鎌倉さんが日共を除名されてから、ノンセクトで活動していたのに、中核派になったことについては、どうしてなんだという人もいたな。
 おれなんか、その経緯も事情もわからないし、そういうことには無頓着だった。それでも、しだいに中核派の方針や活動に疑問を持つようになったのも確かだ。それを何度か鎌倉さんに言ったこともある。鎌倉さんはわりと擁護的だった。しかし、七〇年一一月に鎌倉さんは中核派と決別した。それもあって、高知大学をはじめとする新左翼系の学生運動は中核系とノンセクトに分かれたような気がする。それでも、デモなんかは一緒にやっていた。そうこうするうちに、連合赤軍のあさま山荘の闘いやその内部粛清が表面に出た。それと並行するように、セクト間の内ゲバもだんだんエスカレートしてきたんだ。最初は集会なんかで衝突する程度だった。高知でも、民青とのゲバルトがあり、日本共産党は地区の労働者党員を動員し、彼等は学生とは社会経験が格段に違うから、迫力(実力)が違っていた。そのときの衝突で、日共に片目を潰された者もいる。おれ(たち)はそのとき、高知県西部の宿毛湾の原油基地反対運動で現地入りしていたんで、その場にはいなかった。おれらがいたら、民コロなんかにやられはしないと言い合っていたが、実際やったら、反対にやられて、半殺しにされていたかもしれない。
 要するに、内ゲバは熾烈になり、個別テロに転換するとともに、地方にも波及してきたということだな。
 そうだ。それで本多延嘉が殺された時は、高知の活動家たちは、中核派のメンバーでない者までが「おのれ、革マル!」と憤激していたくらいだからね。おれはもう、この段階になると、〈両方ともダメ〉と思うようになっていた。
 始めの頃は、圧倒的に革マル優位だったんじゃないか。
 そんな気がする。で、書記長の本多が殺された(一九七五年三月)あたりから、中核派も死に物狂いになって反撃に出た。まあ、そんなことはジャーナリストの立花隆にまかせておけばいい。そんなこと、知ってたって、なんの価値もないさ。ただ、北川透が言っている「革共同両派への提言」の動きというのは、中核派の本格的な反攻にびびった革マル派が、埴谷雄高に縋りついたものだ。埴谷雄高は戦前日本共産党時代からの〈からみ〉と〈流れ〉から、もともと革マル支持者だったからね。黒田寛一が参議院選挙に出馬した時も、後援会会長をやっている。だから、革マルの内ゲバ「一方的停止宣言」と連動した、知識人を使った政治的懐柔策動のひとつさ。
 そんなこと、どっちにしたって、くだらねえことだ。
 そうなんだけど、ひとつだけ、どうしても、言って置いた方がいいことがある。幸いにして高知には目立った革マル派の活動家はいなかったから、実際の流血の内ゲバはなかった。高校時代、おれたちが学校側と対峙していた時、わりと近いところにいたKという男が、自分は大学に進学したいんで、きみたちとは一緒にやれないといった。それはいい。ところが、こいつが東京の大学でいっぱしの活動家(本人に言わせれば革命家)になって、中核派のオルグとして、別名を名告って(いつ姓が替ったんだ、馬鹿たれ)、おれのところに来たんだ。そいつは脅しになると思ったのだろうが、「革マルの活動家の部屋にはドストエフスキー全集が並んでいた」というんだ。要するに、革マルの活動家を殲滅に行ったことをほのめかしたんだろうが、冗談じゃねえ、おまえみたいな日和見野郎の脅しに屈するとでも思っているのか、舐めんな、おれたちはおれたちの闘いを自力でやり切ったんだ。いまさら、おまえにも、中核派にも、なんの用もない。それできっぱり、お帰り願った。
 そうとう、呪われているな。
 おれの場合、連合赤軍のリンチ粛清よりも、はるかに内ゲバの殺し合いの陰惨な影が〈心的外傷〉になっていて、いまだに払拭できない。埴谷雄高の革マル派擁護の「停止」の動きに影響を被った者もいるよ。おれの知っている埴谷雄高とつきあいのあった、ある「編集者」が、豊島区の中核派の拠点に、あの「提言」を届けたと聞いた。鉄パイプで殴られるかもしれないと覚悟して行ったらしい。その「提言の書面」を受け取るかどうかを決定するまで、戦国時代の敵方への使者みたいに留め置かれたとのことだ。
 いわゆる「千早城」だな、いまは移転してるらしいが。戦国時代なら、その「和睦」の使者というのは、殺されて晒し首になるか、あるいは、手打ちということで歓待をうけるか、どちらかの図柄になるんだろうな。
 だから、おれにとって、「六〇年代」は無縁じゃないさ。六〇年代からの新左翼と学生運動の最終的な〈末路〉が、あの内ゲバなんだ。戦争世代の小山俊一はこう言っている。

  武井健人(本多延嘉ム引用者注)が殺された(ラジオで知った)夜、酔ってねた。だれも自分に似合った死しか死ねない。(それにしても、これはなんとばかげた、むざんな死か。)今このくにで革命家たらんとする人間が死ねる死がこんな死でしかないか、そうらしい、それにしても革命を志したあげくがこんな死に行きつくとは、こんな人殺しをして一生背負いこむとは、それしかなかったとは、なんとばかげたことか、あわれな連中か、といった思いが(今さら)始末つかなくて悪く酔った。私は武井を知っている。いい青年だった。合掌、とかきたいがやめる。それはしらじらしい。思い出すこと、をかくのもやめにする。夜ねる前に安ウイスキーを少しばかり楽しんでのむ。それが三月十四日以後、のむと必ず武井(たち)のこと殺し合いのことが頭にきて気がめいって悪酔するので、当分のむのをやめた。ばかなはなしだ。
  一昨年、唐牛健太郎が森恒夫の独房での自殺について「あれはあれでいいんだ」といった(新聞記者のインタビュー)というのを知って、おどろいて感動した。森は浮ばれたなと感じた。(中略)
  ムムしかしどんな唐牛も、武井(たち)の死には「あれはあれでいいんだ」とはいうまい。武井(たち)が浮ばれるどんな言葉もあるまいと思う。

   (小山俊一『プソイド通信』)

 そして、ソビエト連邦の崩壊で、「共産党神話」も、学生運動も、根底的に霧散したといっていい。それが〈歴史の審判〉であり、〈世界史〉的現実なのだ。
 ここで、北川透にトドメを刺しておく。「擬制の終焉」や「思想的弁護論」を持ち出すまでもなく、吉本隆明が「革共同両派への提言」に連なるはずがない。従って、北川透の発言は「人を中傷し」「根拠のない批判にさらした」ものであり、その訂正文も、どこからどう考えても、「鼎談という場で」「わたしはまったく備えを欠いていました」だの「その用意がわたしにできていませんでした」だのという見苦しい言訳のまったく〈通用〉しない、信じ難いカマトトの〈嘘〉の上塗りでしかないということだ。
 北川透先生は偉くなったもので「六〇年代初頭、反安保闘争後の混沌のなかで、息急き切って詩の自由の論理を掲げた北川透。以来ぬきんでた透徹度と強靭な思想性をもって、詩の最前線で積み重ねられた批評の鋭さ深さは、今日まで半世紀をつらぬく。その質量ともに〈現代詩論〉の最も高い稜線をかたちづくる」という謳い文句のもと、「北川透〈現代詩論〉集成」(全七巻)が思潮社から刊行されるそうだ。 その中の一巻が「吉本隆明の詩と思想」だそうだ。
 そんなことは、勝手にすればいいことだけどな。わし、中学の頃、三島という数学の教師によくぶん殴られた。「マツオカ、今度はもっと離れたところから殴るからな、そうすると、もっと遠心力で勢いがつくぞ」なんて言われてな。口が切れたことも、鼻血が流れたこともある。その三島(別に三島由紀夫にひっかけているわけじゃない)って教師は、旧帝国海軍あがりで、自慢話をよくしていた。海軍の試験があって、「防衛とはなにか」という問題で、いっぱい書いたけれど、しかし、「防衛とは攻撃である」という肝心な点を正解できなかったんで、あとは完璧だったんだけど、「五〇点」しかもらえなかったと、失敗談として語って聞かせた。「ふん、戦争を回避するのがいちばんの防衛さ、三島先生」よ、と今ならなるんだけど、それよりも、あの鉄拳教育にキレずによく耐えたとおもう。そのどうでもいい先公の自慢話でいくと、北川透の「吉本隆明論」なんてものは、継続的に言及してきたというのに、この有様なんだから、もう「半分」以上は意味がねえってことだ。
 おれ、この鼎談は面白かったけどね。たとえば「ぼくは若い頃から嫌いな文学者がいて、夏目漱石と宮沢賢治と高村光太郎が大嫌いだったんですよ」なんていう、北川透の発言はおもしろかったね。
 「大嫌い」ねえノノ。これは好き嫌いの問題というよりも、ほんとうは文学(感性)と思想(認識)の根源的な〈誤差〉という気がするな。これを深読みすれば、おのずと北川透の「思い込みの強さ」とやらの〈正体〉もわかるというものだ。それはともかく、それなら、北川透はいったい誰が好きなんだろうな。北村透谷から始まるとして、いまは「谷川俊太郎さん」ってことになるのかね。
 それから、「月村敏行と会ったときに、ミシェル・フーコーというのは俺たちの理論のバックグラウンドにしていい批評家だと、それなのに柄谷行人にとられてしまった」と月村敏行が云ったなんて話、笑っちゃったよ。
 「俺たちの理論のバックグラウンド」ねえノノ。
 だけど、松下昇や菅谷規矩雄について言っていることはひどい。これについては、松下昇や菅谷規矩雄と関わりのあった人が問題にすればいいことで、おれなんかが口出すことじゃないさ。ただ、一点だけ言うと、

 彼の詩的思想の表現「六甲」や「包囲」を公にするために、今から見れば幼い小説や、中途半端な研究論文も含めて編集し、『松下昇表現集』(一九七一年一月)として刊行しました。
   (北川透「「詩的60年代」訂正と補論」)

 こう書いている。これは、おれみたいな者が見ても、おかしい気がする。「公にするために」ってどういう意味だ。松下昇の「六甲」も「包囲」も、『試行』に発表されたものだ。未発表の草稿じゃない。その初出誌は『あんかるわ』よりも、たぶんその「別冊」よりも、発行部数は多かったはずだ。《わたし(北川透)はあなた(松下昇)のために、こんなことまでやってあげました》と言い、全部、自分の功績(手柄)にしているだけじゃないか。それに言い方が〈逆〉だ。「今から見れば幼い小説」なんて、同時代を生きてきた者のいうことか。その時代、プロレタリア文学や社会主義リアリズム理論が主流を占めるなか、その限界を突破しようとして、彼なりに〈悪戦〉したっていうのが、心ある同行者というものじゃないのか。そういう意味でいえば「今から見れば」なんて、最低の言い草だ。我こそは「六〇年代」及び「六〇年代詩」を代表する存在であるがごとく『現代詩手帖』のお座敷で振舞っているが、その実、そんなものはすっかり清算してしまっていることの、これが自己暴露さ。それに松下昇も、菅谷規矩雄も、故人だ。つまり、反論することも、抗弁することもできない。そんな〈死者〉に対して、よくこんなことばかり、言えるものだ。
 そんなことをいうなら、北川透の透谷論の初めの頃なんて、未熟で粗雑な文章の典型だぜ。他人のことが言えるかよ。まあ、明治維新でいっても、坂本龍馬も高杉晋作も、志半ばで倒れた。明治政府ができて大久保利通あたりが「勝ち組」として残った。それでわが春という感じだったと思うが、結局暗殺されている。わしは、大久保利通なんかよりも、はるかに坂本龍馬や高杉晋作の方が好きだけどな。
 そこはこうさ。

 ぎ な の こ る が ふ の よ か と
 (残った奴が運のいい奴)

             (谷川雁「革命」)

 わしは〈成り上がり物語〉なんかに、なんの興味もない。その三味の音の響くところで浮かれていればいいんだ。北川透も藤井貞和も、学界や詩壇で、それなりの地位を獲得し、「偉い」のかもしれないが、図に乗るんじゃないぜ。オウム真理教が「宗教団体」であるように、革マル派も中核派もどんなに愚劣であっても、歴然たる「政治党派」だ。それを単なる「殺人集団」とみなし、切り捨てることができると思ったら、大間違いだ。そういうふうにいうなら、どの「宗教団体」も「政治組織」(民主党・自民党から共産党までの公党も含めて)も、狂気と暴力を〈内在〉させている。それには例外はない。そういうことに自分は無縁で、超越していると思うこと自体が〈傲慢〉なのだ。この思い上がりが北川透の〈頽廃〉の根だ。
 「菊屋まつり」をめぐるトラブル(一九八七年)以降、北川透の書いたもので、もっとも印象に残っているのは、出水市の岡田哲也の編集していた『Q』という雑誌に載った「わが心象の駅」だ。なかでも「Q駅異情」は、『あんかるわ』の発行の裏側もみえる良いものだった。おれは北川透の奮闘を尊重しているし、もとから対立意識をもっていたわけじゃない。だって最初から否定的だったら、『あんかるわ』を直接購読するわけがないだろう。また『白鯨』みたいな詩誌と『あんかるわ』とは、その持続性においても、労力と実績においても、比べものにならない。だけど、詩はそんなにいいとは思わない。

     〈2)

 根石さんに、そろそろ「根石吉久全詩集」もしくは「定本根石吉久詩集」みたいなのを作りましょうと、もちかけたんだけど、あまり進まないんだ。
 自分のものというのは、積極的になれないんじゃないか。おまえだって、猫々堂で自分のものを出す気なんか無いだろう。
 うん。新たに書いたものなら、ひょっとしたらあるかもしれないけど、既に発表したものをまとめて、自分で出す気は全くないね。そういうものは、〈他者の手〉を通ったほうがいいとおもう。根石さんのだって、基本的には周りのものが協力して進めればいいとおもっているよ。
 こんな話を持ち出していいのか。
 実現へもっていくためには言ったほうがいいと思ったんだ。それで「詩集」としてまとめられたものは、おれの手元にもあるんだけど、雑誌に発表されたきりになっているものは、読んでいないから。
 そうだな、昔からつきあいのある人は別だろうけど、「快傑ハリマオ」の読者の多くは、根石さんの『人形のつめ』という詩集も、『みだらターザン』も読んでいないだろうからな。
 おれ、『人形のつめ』の中の「書店で礼服のくるまれて銀色に」は力作だとおもう。これが根石さんの代表作かというと、それは違うだろうけど。

    書店で礼服にくるまれて銀色に

 レヂの横からひびが走りはじめている
 店の呼吸が静かになる
 雑誌に目をもどしたが目のすみでその人は三十センチ上下して
 ぐにゃぐにゃ上下してぐにゃぐにゃ上下して
 来て
 私の右に立つ
 すると私がぐにゃぐにゃと上下しそうだ
 すると私が差別するのだ
 右半身は黒いケロイド
 毛がはえてくるのだ

   私は詩の雑誌を開いていた  活字は黒いコロイド
 もう読めない
 隣の人の雑誌が見えた
 銀色の赤の原色の薔薇の花か極彩の星か黒い文字「SMコレクター」

   ここはどこか
 女体が見える
 縄がくいこんでくびれた女体
 私は「現代詩手帖」のペーヂを変える
 そこに開く深紅の女陰
 毛がはえてきてぼろぼろこぼれる

 奪われているんだ
 ボードレエルの兄貴よ
 「性交は民衆の抒情」であって
 しかもなお奪われているんだ
 もぬけのからなんだ
 おお美しいおもちゃ
 だから正確に「にせ絵」を買いにくるんだ
 やわらかい女体
 「幸福」がひきつるのをくいこむ縄に読みたいんだ
 馬鹿やろう
 心をぎらぎらにしてしまうんだ
 (復讐のように)

 私は雑誌を棚へもどす
 背が痛みだす
 「芸術生活」
 「大学への数学」
 「浮世絵」
 「医学部進学」

 あと三十分で友人の結婚式が始まる
 (また
  たかさごや
  また
  つるとかめ)
 行こうと思ったときびっこの人も歩き出した
 握られている雑誌もぐにゃぐにゃと上下した
 早く行きたいだろう
 ひとりになりたいだろう
 呉服店をひっくりかえしたような色彩の氾濫の中で苦痛に歪む女の顔に目をこらす
  惨めな写真のカラーでそれだけのことはやれる

 レヂを離れていちどぐにゃぐにゃと大きく沈み
 転んだ
 砂のあるコンクリートに雑誌が飛んだ
 ひるがえるひるがえる数々の女体
 転んでいた
 立ちあがろうと必死で
 コンクリートの床を転んでいた

 笑った
 私は 笑った
 助け起こしたのは私だが 口を閉じていると
 肋骨の中で何度も笑いが暴発するのだ
 ひとりの部屋に
 ペーヂをめくる独裁が
 その 私 が
 今日はみじめであるだろう
 それゆえに
 銀色に銀色に
 さらに銀色に光り出すもの

 礼服を着て町を歩いた


 「ある日の根石吉久」だね。自他ともにかなり抉っているとおもう。こういうふうに抉ることもなく、ヒューマニズムをふりまく奴ばかりが、この世間にはあふれているからね。その分、偽善的ということだ。むかし、パン屋で働いていた時、クリスマスケーキ作りの手伝いの女子大生が四人アルバイトに来た。この人たちとの交流について書いたことがあるんだけど、ある時、その中の一人が真剣な顔をして「松岡くん、わたしは人種差別は良くないと思っているけど、でも、わたしは黒人の人とは一緒になれない」と言った。おれはガキだったから、なにを言っているのか、よくわからなかった。でも、そんなことは、人それぞれでいいんじゃないですかと答えた。いまから思えば、あのニキビの多い彼女は、性問題が切実になっていて、本気でそんなことを考えたんだとおもう。当時四国の高知なんかで黒人を見かけることなんかなかったからね。実際に接触すると、これが逞しくてカッコイイなんてことになり、反対に惚れかねないとおもう。それが〈性〉というものだ。
 要するに〈バージン〉ってことだろう。
【ここまで書いてあったところへ、根石さんから電話がかかってきた。わたしは近所のスーパーマーケットに夕飯の買物に行って、帰ってきたところだった。
根石さん 松岡さんところは、津波は大丈夫ですか?
おれ えっ? ‥‥‥ウチに津波が来るとすれば、たぶん高知市街は全滅のはずです。なにかあったんですか。
根石さん 外に出てみれば‥‥‥。
おれ いま買物から帰ってきたところです。別に変った様子はなかったですけど? 津波って、どれくらいなんですか?
根石さん 一〇メートル。 おれ 一〇メートルっ! 震源はどこですか?
根石さん 茨城。
おれ わかりました。テレビを見てみます。ご連絡、ありがとうございました。
 電話がかかってきたのは、三月一一日午後四時ごろだったとおもう。わたしは、地震のことも、津波のことも、まったく知らなかった。テレビを見て仰天した。‥‥‥】


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「ニャンニャン裏通り(その3) 松岡祥男」 ファイル作成:2024.02.03 最終更新日:2024.02.11