成田昭男さんに感謝する

         
松岡祥男

 成田昭男さんから『GenGen(げんげん)』2号(2021年11月発行)が送られてきた。その中の「わたくしのなしたる文芸的非法行為もしくは『最後の手紙』への返信」に、次のようなことが書かれていた。

 むかし詩誌『菊屋』で毎年「菊屋まつり」を開催していました。その「菊屋まつり」(1986年10月19日)に吉本隆明氏をよんで、若手批評家たち(加藤典洋、竹田青嗣、橋本[ママ]大三郎)とのフリートークをしてもらおうという企画があがり、菊屋同人末席のわたしにもそこに出ろということで参加し発言しました。その全面的記録を『菊屋』34号、1987年2月で公表しました。
 それから10年以上たって、これを『吉本隆明資料集』に無断で収録することがわかり、元同人の瀬尾育生氏から、わたしの考えを問う手紙がきました。わたしは二つだけ条件をあげました。「@原文のままの収録であること。Aお金儲けにしないこと」。それが満たされるなら『吉本隆明資料集』への収録を認めていいのではないかと返事をしたように記憶します。
 『菊屋』34号が出て、そこから15年近くたち、これを読みたいとねがっても、該当号は入手できないし、『菊屋』を所蔵している図書館などどこにもないでしょうから、それを収録した資料集が非法であったとしても、読者の切実な求めに応えるものになるだろうということは理解できていました。

 これで、おれの北川透との闘いは終わったと思った。この一文でじゅうぶんだ。
 おれはこの日が来るとは思っていなかった。北川透が非を認めることはないだろうから、どちらかがくたばるまで敵対関係はつづくと思っていた。なにか余程の事がなければ、もう北川透を標的に発言することはないだろう。
 成田さんのお蔭でおれは解放されたんだ。
 客観的にいえば、「菊屋まつりフリートーク」における主催者側の発言者三人(北川・瀬尾・成田)の内の一人が収録を容認したということだ。
 これをもって、名実ともに『吉本隆明資料集』は完結をみたんだ。
 思えば、長い道のりだったな。それを示せば、次のようになる。
@事前承諾なく『菊屋』第34号掲載の「菊屋まつりフリートーク」を『吉本隆明資料集』第25集(2002年9月20日発行・『資料集』の実際の印刷出来及び発送は「奥付の日付」よりも早い。以下同じ)に収録。
A参加発言者全員に送るという原則のもと、すべての発言者に発送した(どうしても本人及び著作権継承者の所在が不明の場合は断念。例えば1960年の「技術者と哲学」における東京工業大学新聞部の二人など)。勿論、北川透、瀬尾育生、成田昭男、加藤典洋・竹田青嗣・橋爪大三郎・小浜逸郎にも送った。
B北川透より抗議文が届く。それは同時に多方面に送付されていた(私の知るところでは、吉本隆明、芹沢俊介、浮海啓、高橋秀明…など)。(2002年9月20日)
C瀬尾育生より抗議文が届き、その文章を『吉本隆明資料集』に掲載せよとの要求あり。(2002年9月24日)
D北川透の行為により、吉本隆明に迷惑が及んだものと判断し、お詫びの手紙を出す。
E吉本隆明より速達で返信(2002年10月7日消印)。
F瀬尾育生の要求に応じて、瀬尾「抗議文」を『吉本隆明資料集』第27集(2002年12月15日発行)に掲載。
G『吉本隆明資料集』第28号(2003年2月10日発行)挿入の「猫々だより」で、反論のコメントを付して北川透の「抗議文」を全文公開。
Hこの件は私の責任問題なので、誰も巻き込まないことを方針とした。従って吉本隆明からの手紙は公表しなかった。
I『吉本隆明資料集』が第100集(2010年11月25日発行)に到達したことを機に、吉本隆明の「手紙」を公開。
 おれが「事後承諾」という手段を選んだ理由は、何度か言った通りだ。当時、おれは不当なリストラにより失職し、新たな職を求めるのは年齢からして困難を極めていた。そんな中、『吉本隆明資料集』の自家発行を思い立った。それは吉本さんの単行本未収録の著作から談話までの網羅を目指したものだ。
 その最初に、『吉本隆明全著作集』(勁草書房)から除外された鼎談や座談会を対象にしようと思った。それで当然、それぞれの出席者から収録の許可を得ようと思ったけれど、参加者の中には吉本さんと対立する花田清輝から大江健三郎までが含まれていたから、収録を拒否されることも、また連絡しても、出版社でもない、誰とも知れない者からの依頼とみなされ、応答がないことも考えられた。そうなれば〈すべてを収録する〉という構想は頓挫する。これらの鼎談や座談会は既に発表されたもので、読みたいと思えば、労を惜しまず探せば読めるものだ。いわば公的なものといえる。この総合的な判断のもと、おれは叱責を受けることを覚悟のうえ、発行に踏み切ったんだ。
 それから少しして、仕事は知り合いの斡旋でなんとか見つかった。『資料集』もおまえの懸念をよそに、大きなトラブルもなく第25集まできたところで、北川透と瀬尾育生から抗議が来たんだよな。
 北川透はおれへの抗議と同時に、『吉本隆明資料集』とおれを中傷する同文章をいきなり多方面に送った。
 これはほんとうにきつかった。夜も眠れないくらいだった。そこまでやる必要がどこにあるんだと思った。
 このとき、おれはどんなことがあっても『資料集』の発行は続ける、必ず北川透を実力で粉砕する、と心に誓ったんだ。
 そして、吉本さんにお詫びの手紙を出したんだな。
 速達の吉本さんからの返信が届き、その信頼のメッセージと人間存在の本質に基づく〈根底的な弁護〉を読んだ時、これで絶対大丈夫と思った。
 そこからおまえは反撃に出た。まず反論のコメントを付して、北川透の「抗議文」の全文を「猫々だより」に掲載した。「抗議文」を秘匿することなく、読者に公開することによって、北川透の行為と思惑を相対化したんだ。
 これによって『資料集』の購読を中止したのは2名だ。一人は公的な文学館の人で、協力者として名前を挙げていたので、立場的に事前了解なしの転載を認めることはできないからだった。もう一人は大学の研究者で、学会の慣行と常識に囚われていたからだ。
 そして、おまえは『試行』16号から28号までの復刻版を作り、『文学者の戦争責任』『高村光太郎(飯塚書店版)』を皮切りに「初出・拾遺篇」を継続発行し、第100集になったところで、すべてに〈決着〉をつけるべく、吉本隆明からの手紙を公表した。
 この段階なら、もう吉本さんを直接的に巻き込む心配はないと判断したからだ。おれははじめから一人で引き受けると決めていた。
 そんなことは分かっているぜ。これによって、北川透の「抗議」は根拠を失った。なにしろメイン・ゲストが全面否定したんだからな。
 それと同時に『資料集』とおれへの非難が無効化したのさ。それで北川透は著作権にしがみつくしかなくなったんだ。それしかおのれの正当性を保証するものはないからね。
 あの「記録」の中には「わたし(北川)の重大な発言も含まれている」ってか。
 その場合も『資料集』鼎談・座談会篇全27集、収録座談会65、発言者144名という総体からいえば、容認・黙認142対否認2(瀬尾を加えて)だ。〈表現行為〉には多数決というのは全く馴染まないとおれは考えるけれど、世間ではそういうふうに遇されるだろう。
 また、北川が〈著作権〉侵害で告訴したとしても、裁判所は和解勧告を出し、おれの謝罪(「事後承諾」の非は最初から認めている)と、第25集の頒価1000円×発行部数300×印税率10%÷参加者10人(同時収載の「鼎談」の二名も計上)の支払いを命ずるだろう。つまり3000円払えば終わりだ。吉本隆明の著書とみなせば著者50%、残りを9で割れば1700円足らず。
 さらにいえば、北川は『菊屋』の発行者ではないから、〈版権〉を主張し回収を求めることはできない。それは瀬尾・成田ら「菊屋同人」全員に帰属する。「フリートーク」の録音のテープ起こしは、瀬尾夫人の荒尾信子がやったものだ。
 おれはこういう居直り方は絶対しないけれど、これが客観的な観点からみた〈事のてんまつ〉じゃないのか。頭を冷やす意味では、こういう見方も知っていて悪くないさ。
 おまえのいちばんの反撃は、『快傑ハリマオ』に発表した「北川透徹底批判」「北川透の頽廃」だ。北川透の所業と思想を、反論の余地なく叩いた。
 若月克昌とおれをめぐる北川透をいえば、若月克昌が『同行衆通信』28号に発表した「菊屋まつり」の感想に文句があるなら、じぶんの雑誌をはじめ、いろんな発言場所があるんだから、公然と批判を行使すれば良かったんだ。それを恫喝的に手紙(私信)の形でやったことが、そもそもの〈間違い〉だ。
 それが全てのはじまりだな。
 じぶんの守備範囲を少し離れるかもしれないけれど、成田さんの文章には、北川透が村上一郎宛に出した手紙を『VAV』28号に掲載したことをめぐる齟齬も記されている。北川透は「最後の手紙」と称して、「あなたは友人であることを利用して、平気でこういう犯罪的なことをする人なのです」というメールを成田さんに送ってきたとのことだ。
 ふつうに考えて、書簡の所有権は〈受信者〉にある。それを遺族が手放して、入手した古書店が売りに出し、それを購入したら、当然所有権は〈所持者〉に移る。従って、その書簡をどうしようと自由だ。仮に〈発信者〉に著作権の一部があるとしても、その所有権に介入することはできないはずだ。
 おれの経験をいうと、60年安保のブンドの幹部だった常木守さん(吉本さんが「思想的弁護論」で弁護した人です)と少しだけ交流があった。常木さんが亡くなった時、常木さんが吉本さんについて認めた手紙を追悼の意味をこめて、「猫々だより」に載せたいと思った。それで手紙のコピーを添えて夫人に打診した。けれども夫人は、主人の言いたいことがよく分からないので、気が進まない。ただ、この手紙はあなたが受け取られたものなので、自由にしてください、という返事だった。おれは夫人の気持ちを尊重し、掲載を諦めた。
 成田さんも北川透に公開の許可を求めている。それで少しの滞りを挟んで、北川透は「了解」している。それを覆すのは頭がおかしいと言うしかない。
 嫌な性格だな。
 また書簡の公開を「犯罪的」といっているけれど、完全な言いがかりだ。リトルマガジンに、じぶんの手紙が載ったからといって、どんな実害があるというんだ。バカバカしい誇大妄想にすぎない。それよりも、〈一個の文筆者〉が公表した表現に対して、おのれの意に添わないからといって、「友人」であることをよいことに、メールでクレームをつけることの方がはるかに「犯罪的」だ。
 言い換えれば、若月発言をめぐる一件を、北川透はなんら反省することなく、同じことを繰り返している。
 おれは「いま、吉本隆明25時」というイベント終了後、樋口良澄(元『現代詩手帖』編集長)に誘われて、編集者や詩人の集まりに行った。そこでいろんな人に初めて会ったんだ、小関(直)さんや間宮(幹彦)さんや佐々木幹郎などと。とても楽しいひとときだった。それが散会し、品川駅へ向かう道すがら、瀬尾夫妻と歩きながら話した。おれが坂井信夫とケンカしていた時、坂井は念願の『現代詩手帖』に登場した。その坂井の批評文を、次の号で瀬尾育生が批判した。これは坂井とおれの応酬を見据えたものだった。そういう距離のなかで見ていたんだ。「菊屋まつり」の話も出た。荒尾さんは若月の一文に怒っていた。ちゃんと見ても聞いてもいないと。
 おまえはその日、奥村(真)さんがよく出入りしていた新宿ゴールデン街の「トートーベ」へ行った。そこのマスターが「菊屋まつり」に行っていたという話になり、感想を聞いた。彼は若月さんとほぼ同じ印象だと言ったんだよな。
 うん。おれにとって、あの品川のイベントの収穫は大きかった。藤井(東)さんや宿沢(あぐり)さんと会ったのもあの会場だったし、伊川(龍郎)さんとの交流の契機にもなった。また埴谷雄高がらみの出来事もあった。北川透から「若月克昌批判の手紙」が、おれに届いたのはその後だ。
 それとは別に、成田昭男は若月克昌の事実誤認を指摘するために『菊屋』34号を若月に送っている。若月はそれに基づいて『同行衆通信』29号に「訂正文」を出した。
 この一件でも、北川透の錯誤行為がなければ、こじれることも、険悪な対立に至ることもなかったんだ。
 そうだな。要するに北川透は〈貧相〉なんだよ。それで魂の深さも肝の太いところもない。成田昭男のことでも、あなたの〈善意〉はよく分かります。身銭を切ってわたくしの書簡を入手してくれたうえ、『VAV』で紹介してもらい、若き日のじぶんに出会えてよかったです、といえばいいじゃないか。それで「100%了解」したんじゃないのか。北川透のやり口は、なにかあるとイデオロギー的に過敏に反応し、党派的に敵視する、独善的な日本共産党そっくりだ。そのくせ、おまえへのお門違いの手紙の非を認めることも、ましてや〈詫びる〉こともない。それどころか、おまえの反論を逆恨みして、「フリートーク」再録を〈仕返し〉の絶好の機会ととらえた。それが「抗議文」ばらまきの〈動機〉だ。
 『VAV』と成田さんのことで附け足すと、ある時、吉本さんと話していて、吉本さんが「松岡さん、いまもっともおもしろい同人誌は名古屋の陶山さんたちが出しているものです」と言われたことがある。その時、おれは『VAV』を知らなかった。それからかなり時が経過して、脇地炯さんや浮海啓さんなどの同誌への寄稿者から送られてくるようになった。そこに載っているバックナンバーの目次をみて、それが陶山幾朗が内村剛介にインタビューしていた頃を指していることが分かった。いや、これは違うかもしれない。その前に一度、成田さんから『VAV』を送ってもらったことがあったような気がする、その返信で、吉本さんの話を伝えたような記憶があるからね。
 吉本隆明の読書量は凄い。送られてきた本や雑誌が足の踏み場もないくらい積まれていたからな。
 『GenGen』2号に添えられたコメントによれば、成田さんはいま「老、病、孤舟有り(杜甫)」という情況とのことだ。おれはできるならば、成田さんに「陶山幾朗の仕事と人」について書いてもらいたいと思っている。それができるのは成田さんしかいないように思うからだ。もうひとつ、欲張りな願望をいえば、成田さんは中国語に通じているようだから、吉本隆明『転位のための十篇』の「火の秋の物語」の中国語訳に挑んでほしい。
 その後、北川透はどんどん孤立していっただろう。
 ああ。かつて盟友であった松下昇を「狂人」といい、菅谷規矩雄のことを「アル中」と侮蔑するような言動に及んで、心ある人々の顰蹙を買った。菅谷規矩雄が深酒に陥ったのは、吉本隆明と埴谷雄高が決裂したことを契機にしたものと思われる。60年安保世代にとって、二人は精神的支柱だったからだ。齋藤愼爾さんは『埴谷雄高・吉本隆明の世界』というムックを作ることでこれを克服したけれど、菅谷規矩雄はできなかったような気がする。この事情を汲めば、あんな冷笑的な口吻はあり得ないはずだ。
 末期症状だな。それはわしだって、悪口(あっこう)が先に立ち、仲違いした人物は数々いるさ。しかし絶交したからといって、過去に遡って、一緒に遊んだことや楽しく酒を酌み交わしたことまでを、塗りつぶすつもりはない。そんなことをしたら、じぶんがみじめなだけだ。
 北川透は序列意識が強く、磯田光一にふれて「大関」と言ったことがある。大相撲の「番付」に譬えたんだ。吉本隆明と江藤淳を「横綱」に想定していることが見てとれた。それはそれで一つの見方だが、鮎川信夫・吉本隆明・大岡信亡きあと、じぶんが最大の詩論家であると自認しているだろうから、松岡などという「序の口」以下を相手にするつもりはないと、いまだにタカをくくっているかもしれない。その侮りと驕りが、年来の友人や知人をつぎつぎと失うことにつながっているのさ。これら全て、自らの〈所業〉が招いたものだ。
 北川透が私は「中日文化賞」を受賞した文化功労者だと言い張っても、そんなもの、おれからみれば虚しい勲章にすぎない。おさらばだ。
                           (2021年12月10日)
*成田昭男(なりた・あきお)。1947年名古屋市生まれ。著書『文字 声 自然』『鮎川信夫』『革命は詩の自由に奉仕する』ほか。『菊屋』『VAV』(全31冊)などを経て、個人誌『GenGen』(470―0154愛知県愛知郡東郷町和合ヶ丘2―24―14 成田方)発行。


【参考資料】

1 吉本隆明「松岡祥男宛書簡」((2002年10月7日消印・全文)

 いつも本が出ると贈るだけで、挨拶代りにして、ずぼらの御無沙汰をきめ込んでいて済みません。貴方のお手紙でびっくりして、北川さんの手紙を取り出し、讀みました。実は眼が俄か盲目にひとしくなってから新聞、など見出しだけですっとばすことがあります。北川さんが別紙に書いた挨拶は御無沙汰つづきだったので懐しく讀みました。同封の抗議と批判というのは、丁寧に讀みませんでしたので、貴方のお手紙で改めて一字一字讀みました。わたしの感想を申し述べてみます。北川透さんは貴方を誤解している。

 一、どこかといえば、貴方が吉本のとんでもない追従者だと思っているという手紙からの印象がそう感じさせました。別な言い方をすればとんでもない追従者が吉本の名前があるものは断りなしに再録して、発言言表を主宰者に承諾を得ずに集めて、しかも販賣していると受け取ったと感じました。わたしは貴方の考え方・人柄を少しも誤解しておらず、一個の見識ある人が、吉本の忘れられた発言を資料として出していると思っています。また北川氏が会の開催準備がいかに大変かを述べておられるように資料集の貴方の【 】わたし【 】理解しているつもり【 】わたしに迷惑かけたなどということはありません。

 (二)北川透さんの発言を讀んで、北川さんも希望されたように、学会に馴染んで、勉強が進んだ証拠だと少し嬉しくなりました。わたしもある学者の文章を引用して相当長くなり、俺に無断で引用を長々していると、発行所あてに抗議されたことがあります。

 (三)ところでわたしの経験では、文芸分野では一度公表した文章や語りは、引用しようと、その上批判しようと、まったく自由で、抗議することが【  】なければ遠慮なく反論すればいいだけです。わたしはこの文芸の自由を守ってきましたし、遠慮も抗議もしないで(反論はしました)やってきました。わたしなら瀬尾さんや北川さんのような抗議や批判はしないでしょう。けれど学会では北川さんのような抗議の仕方【 】常識だと解された方がよく、またそれを肯定する必要もありません。芸能世界では、歌詞を引用すれば、掲載料を請求されますし、写真は、例えば、左側からは撮らずに、右側からだけ撮ってくれとか、肖像権料とか、取られます。

 まあ阿呆らしいといえばそれまでですが、一応その分野のしきたりに従うようにしています。文芸世界だけは何をしても自由です。違法行為で罰せられても、文芸は自由を生命とすると考えております。どうか頑張って下さい。また小生については、何をどうなされようと自由です。【 】のところは北川さんの誤解と間違いです。貴方が有料配布していることを非難するのはとんでもない間違いです。自民党の秘書給与を使い込んだかどうかという論議を聞いて、自分を棚上げした子供の論議で、ほんとうは馬鹿野郎!と言へば終りです。

 北川さんの学者らしくなったなということの悪い面だとおもいます。

 (四)もし主催者グループに北川さんが何年も経ってからも権限の所有者であると主張し、貴方が無断で商行為をしたと非難する偏見を「公開」することができるというのが妥当だと言うのなら、予め発言者それぞれの承認が必要な筈です。そして少くとも発言者の一人である吉本は、そんな期間を経たあとでの主宰者の抗議は不当であり、貴方に感謝しているのだから、抗議をやめるべきだと主張するでしょう。北川さんはそんな手続きをしませんでした。以上各項の理由と文芸界と学会とは慣例としてまったく違うという主張を加えて、公開があり次第、貴方の特別弁護人になって反論します。そんなときには直ぐお知らせを願えれば幸甚です。サド裁判やら最近の柳美里さんの場合まで、法律が違法と判定しても、一旦表現された文芸上の文章は自由だという原則は本質的な生命です。それは人間の感性や思考は本来どんな制約や世論にも患わされるべきではないという本質に基づくからです。法律や国家や社会常識は時代によって変ります。文芸(一般に芸術についての表現も変りますが、最後のものは永続を眼指すことが、余りもののように残されます。それは人間がこの現実に生まれて、生きてしまったことの本義に等しいからで、どんな理屈もこれを否認できないものです。発言のため、あの集まりに招かれた者の一人であり、貴方の御努力に感謝し、喜んで享受してきた吉本の考えです。

   貴方が恐縮する点は一ケ所もないと思います。北川さんの抗議文は、主催者がきちんと出版した本にしたわけでもなく、尊重(内容を)したわけでもなく、年月を経た後で、主催者権限を優先していること、貴方の一個の文筆家としての存在を故意に過小評価していること、文芸世界の慣例を理解していないこと、商業行為する意志もないのに、貴方の定価・実費にちかい有価性を非難していること、など不当性はいくらでも指摘できます。めげずに元気で頑張って下さい。
(【 】部分は判読不能個所・判読については藤井東・藤井ますみ両氏の協力を得た)


2 わたくしのなしたる文芸的非法行為もしくは『最後の手紙』への返信(前半)
                                    成田昭男

 高知の詩人松岡祥男氏が刊行していた『吉本隆明資料集』(猫々堂)が、191号、さらに別冊1、2をもって2019年末に完結しました。第1集を2000年3月に出したこのシリーズが、、一人の詩人(と協力者)によってここまで継続し、見事完遂させた力量に正直わたしは感嘆したのです。わたしなど(旧)三月書房から十数冊ほど購入したにすぎませんが、図書館にもないような雑誌の鼎談などをたやすく読める恩択に浴することができたのです。これは間違いなくひとつの出版偉業です。校閲の水準については少し心配は残りますが、これは誰が誠心誠意やろうといわれるものでしょう。

 むかし詩誌『菊屋』で毎年「菊屋まつり」を開催していました。その「菊屋まつり」(1986年10月19日)に吉本隆明氏をよんで、若手批評家たち(加藤典洋、竹田青嗣、橋本大三郎)とのフリートークをしてもらおうという企画があがり、菊屋同人末席のわたしにもそこに出ろということで参加し発言しました。その全面的記録を『菊屋』34号、1987年2月で公表しました。

 それから10年以上たって、これを『吉本隆明資料集』に無断で収録することがわかり、元同人の瀬尾育生氏から、わたしの考えを問う手紙がきました。わたしは二つだけ条件をあげました。「@原文のままの収録であること。Aお金儲けにしないこと」。それが満たされるなら『吉本隆明資料集』への収録を認めていいのではないかと返事をしたように記憶します。
 『菊屋』34号が出て、そこから15年近くたち、これを読みたいとねがっても、該当号は入手できないし、『菊屋』を所蔵している図書館などどこにもないでしょうから、それを収録した資料集が非法であったとしても、読者の切実な求めに応えるものになるだろうということは理解できていました。
 その後をあまり気にしていなかったわたしは、2021年になって松岡祥男『ニャンニャン裏通り』(別冊1)を読むことができ、ようやく松岡氏と北川透氏とのやりとりの経緯を知ることとなったのです。
 それによると件の「菊屋まつり」を収録した『吉本隆明資料集』(25集、2002年9月)が刊行されると、無断転載に抗議する北川透からの文章が松岡祥男に送られてくる。これは各方面にも送られていた(わたしにも確かとどいていたと思うが)。松岡は「吉本さんに迷惑が及んだものと判断して、お詫びの手紙をだした」。すると吉本から返事が速達でくる。その手紙を8年後『吉本隆明資料集』100集、2010年11月で公開したのです。わたしは盗作以外は著作権に関る問題に興味がないからでしょうか、そのことも知らなかったのです。
 吉本隆明氏は手紙(2002年10月7日消印)でこういっています(以下引用は『ニャンニャン裏通り』より)。
《わたしは貴方の考え方・人柄を少しも誤解しておらず、一個の見識ある人が、吉本の忘れられた発言を資料として出していると思っています。》(175頁)
 これはすごい。最大の信頼の言葉を松岡氏に寄せているではないか。ただわたしは松岡氏が吉本さんがこういった(如是我聞)ふうの、二人にしかわからない話を書くとき、それをどこまで信じていいのか迷うことがあります。
《貴方が恐縮する点は一ケ所もないと思います。北川さんの抗議文は、主催者がきちんと出版した本にしたわけでもなく、尊重(内容を)したわけでもなく、年月を経た後で、主催者権限を優先していること、貴方の一個の文筆家としての存在を故意に過小評価していること、文芸世界の慣例を理解していないこと、商業行為する意志もないのに、貴方の定価・実費にちかい有価性を非難していること、など不当性はいくらでも指摘できます。めげずに元気で頑張って下さい。》(177頁)
 吉本さんは北川透氏の考えを明確に否定し、松岡氏に最大の支持を与えています。こんなことがあるんだ、とうらやましいような敬嘆であります。


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「成田昭男さんに感謝する 松岡祥男」 ファイル作成:2021.12.19 最終更新日:2021.12.21